京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2020年5月31日(日)ペンテコステ(聖霊降臨日)以降の聖霊降臨節の説教集1

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2020年5月31日(日)京北教会
ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝説教
  

                                

「祈りを風のように伝えた」 牧師 今井牧夫


 聖 書 使徒言行録2章32〜42節(新共同訳)


 神はこのイエスを復活させられたのです。

 わたしたちは皆そのことの証人です。

 

 それで、イエスは神の右に上げられ、

 約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。 

 あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。

 

 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。
 「主は、わたしの主にお告げになった。

  『わたしの右の座に着け。/わたしがあなたの敵を/

   あなたの足台とするときまで。』」

 

 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。

 あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、

 神は主とし、またメシアとなさったのです。」

 

 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、

「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。

 

 すると、ペトロは彼らに言った。

 「悔い改めなさい。

  めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、

  罪を赦していただきなさい。

  そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

  

  この約束は、あなたがたにも、

  あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも、

  つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、

  与えられているものなのです。」

 

 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、

 「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。

 

 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、

 その日に三千人ほどが仲間に加わった。

 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、

 パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

 

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 (以下、礼拝説教)

 本日は、教会の暦でペンテコステ聖霊降臨日の礼拝です。この日は、新約聖書のなかの使徒言行録という文書に記されている、世界で一番最初にできた教会の物語に端を発しています。

 

 主イエス・キリストが十字架に架けられて死なれて3日ののち、神様によって甦らせられ、弟子たちと再びイエス様は出会ってくださいました。それから40日後に、イエス様は神様によって天に挙げられ、人々の目には見えなくなります。その前にイエス様は、ご自身は弟子たちの目の前からいなくなるが、このあとに神様が目に見えない聖霊を天から与えてくださるので、そのときを待つようにと伝えておられました。その、目に見えない聖霊が天から本当にくだったという出来事が、使徒言行録の2章に記されています。

 

 本日、礼拝で読みました聖書の箇所は、その2章の最後近くの部分にあたります。ここにはイエス様によって残された弟子たちのなかでリーダーだった、ペトロが人々に向かって、主イエス・キリストの十字架と復活の意味を宣べ伝えて説教し、それを聞いた人たちが心を動かされて悔い改め、3000人もの人たちが洗礼を受けたことが記されています。

 

 このときにできた教会が、世界で一番最初にできた教会と考えられています。この教会には名前がありません。牧師も役員もいません。ただ、天から注がれた神様の聖霊、人間の目に見えない神様の聖霊のお働きによって、人々は集まり、神様の恵みをみなでわけあって教会を作ったのです。これが、ペンテコステ、すなわち聖霊降臨日のできごとです。

 

 ちみなに、ペンテコステというのは、ギリシャ語で「50」という意味で、元々は大麦の刈り入れの日から50日という意味の日で、次に小麦の収穫に入る日という、農耕に関わるお祭りの日として「五旬祭」と呼ばれていました。それは、その年の初めての収穫、初穂を祝うという意味があったようです。この日に、神様の初穂としてのキリスト教会が、初めて世界に誕生したお祝いの日、という解釈が重ね合わせられたと考えられます。

 

 このペンテコステの日に起こった具体的なことは、使徒言行録の2章の始めから記されています。イエス様がいなくなったあとに弟子たちが集まっているところに、突然、風が吹いてくるような音がします。そして、弟子たち一人ひとりの頭のうえに、人間の舌のような形をした炎のようなものが現れます。すると、弟子たちは、急にそれぞれが、世界の様々な国の言葉を使って話し出したとあります。それまでしゃべることができなかった外国の言葉を使って、弟子たちが、主イエス・キリスト神の国の福音を宣べ伝え始めた、という驚くべきことが起こったのです。

 その様子に接した、クリスチャンではない周囲の人たちは、これは一体何事かと驚きました。そして、なかには、この人たちは新しい酒に酔っているのだといって、あざ笑う人たちもいたと記されています。

 それに対して、勇気を持って立ち上がり、人々に向かって説教をしたのが一番弟子のペトロでした。ペトロがここで弟子たちを代表して、力強く説教をして、これは神様の見えない力、聖霊が弟子たちのうえにくだったのだ、これは実は旧約聖書のなかですでに預言されていたことの実現なのだ、と力強く語りました。

 

 その説教のなかで、主イエス・キリストの十字架の死と復活がはっきりと語られます。神の国の福音を宣べ伝えたイエス様が、人々に憎まれて十字架に架けられて死なれた。しかし神様はそのイエス様を甦らせて私たちの救い主とされたと力強くペトロは語るのでした。

 

 本日のペンテコステ聖霊降臨日の礼拝にあたって、このペンテコステの日についての説明は、だいたい以上のようなことです。そして、今日の聖書箇所に記されているのは、そのペトロの説教の最後の部分と人々の反応ということです。こうした世界で最初の教会が生まれた、ということです。その最初の教会では、3000人以上の人たちが主イエス・キリストを救い主と信じて、お互いに助け合って協力して、神様を礼拝し、互いの生活を支え合って生活をしました。そのことによって、世界最初の教会のひとたちは地域の人たちから尊敬され、愛されて、日々新しい仲間が加えられて、教会はますます成長したということです。

 

 現在、この京北教会の礼拝堂で礼拝をしているわたしたちも、このペンテコステの出来事の流れのなかにいます。世界最初の教会を生み出した、神様の見えざる働き、聖霊の働きがいまここにいるわたしたちの京北教会を、支えています。この聖霊の恵みなしには教会の働きはありえないのです。

 

 では、聖霊とは何でしょうか。聖書の使徒言行録2章では、聖霊の働きとは、まず風のような音がする、とあり、そして炎のような人間の舌のような形をしており、人間の上にくだって、そして、その人は外国の言葉をしゃべることができるようになる、というものです。こうして見ると、聖霊というのは不思議な神秘現象のようにも思えます。

 

 けれども、聖霊の働きというときに、一番大切なことは、そうした神秘現象のようなことではありません。そうではなくて、聖霊の働きで一番大切なことは、イエス・キリストがこの世界にとって救い主である、ということを人に伝える力である、ということです。聖霊を受けた弟子たちが世界の様々な言葉で語り出した、というのは、後の時代にキリスト教が地中海沿岸など世界各地に広がっていくことを象徴したできごとです。これから起こることを前もって、神秘的な形で先取りして神様が示された、ということです。

 

 それだけではありません。神の聖霊、というものは、キリスト教の神学においては、三位一体という言葉があるように、天の父なる神様と、主イエス・キリストと、聖霊、この三つはお1人の神様が三つの現れ方をしてくださったと理解します。神と主イエス様と聖霊、この三つは同じことである、お一人の神様のことである、と伝統的なキリスト教神学では理解します。

 

 それは、聖霊というのは目に見えませんが、神様の確かな働きとして、神様を信じる人間のなかに直接働きかけて、人間を救ってくださる力であるからです。そのような聖霊の働きは、神様の働きの一部分ではなくて、神様の存在そのものであると、キリスト教神学では考えています。

 

 さて、本日の箇所で、皆様の心に残った箇所はどこでしょうか。人それぞれだと思いますが、わたしは今日の箇所の最後のほうにある、次の言葉が心にとまりました。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」この約束、と言われているのは、天の神様から、神様の見えざる力である聖霊、きよい霊を与えられる、ということの約束です。それが、神様から招いてくださる者なら誰にでも与えられると、ペトロは言っています。

 

 この「誰にでも」という言葉に、私の心は動きます。何か特別な人だけではなく、誰にでも、聖霊は与えられるのです。そして洗礼を受けて罪ゆるされて新しい人生へと踏み出すことへ、神様は私たちを導いていてくださいます。その、神様からの約束が今日の箇所で語られています。

 

 そうした聖霊ということについて、本日の礼拝の準備をしているなかで思いを巡らしていると、ふと心に感じたことがありました。それは、いつもでしたらこの日にしている聖餐式が、本日はないということです。聖餐式とは、パンとワインを聖餐、聖なる晩餐、として、その聖餐によって主イエス・キリストを現して、すでに洗礼を受けている方が、それをいただくという式です。これは神様の救いの約束を信じる人間が、その約束のなかを生きているということを現す、大変恵み深い式です。しかし、いまは新型コロナウイルス問題のために、感染対策の一環として、聖餐式を取り止めています。それはやむをえないことですが、寂しいことでもあります。

 

 聖餐式がなくたって、礼拝は礼拝です。また、洗礼を受けてない方にとっては、聖餐は与えられないので、御自分にはあまり関係がないと思われるかもしれません。けれども、聖餐式があるとないとでは、やはり何かが違う気がします。それは、聖餐式というのは、パンとワインを用いますが、パンとワインというものは、どこまでいっても単なる食べ物・飲み物でしかないのですが、礼拝のなかで聖餐式という形をとると、なぜか特別な神の恵みを伝えるものになるからです。

 

 パンとワインは、ただの物質に過ぎません。けれども、そこに祈りが加わると、主イエス・キリストを現すものになります。パンとワインというもの、物質が素晴らしいのではなくて、その物質にそっと添えられた目に見えない祈りの力、そこに聖餐式の意味があります。

 

 目に見えない祈りの力、それは、どうしても人に伝えたいけれど伝えられない、その何かを伝えてくれる不思議な力です。神の恵みというものは、人に伝えたくても、なかなか伝えられないものです。神の恵みを伝えるときには、そこに目に見えない力、祈りの力がなければなりません。

聖霊の働きというのは、そのように、目に見えないけれども、神様の側から私たちのところに、伝えにくいことを伝える不思議な力として、風のように届けられるものです。

 

 聖霊とは何か、ということを聖書の記事から考えてみますと、それは神秘的な現れをしますし、また、主イエス・キリストを証しする言葉の力ということもできます。それによって、別の言い方をすれば、聖霊とは、伝道を行う力ということもできるでしょう。

 

 使徒言行録は、初代のキリスト教会の人々の、まさに伝道の記録です。そこには神様の聖霊の働きが確かに現れています。そのように、聖霊とは、実に様々な働きであり、様々な表現がなされる神様の力、神様の存在のことを示しています。

 

 そうして、様々な言い方ができるうえに、私から、また新たな表現を付け加えさせていただくと、聖霊というものは、神様から私たちのところに届けられる、神様の祈りであると表現させていただいてもいいのではないかと私は思います。それは、聖霊とは、神様の言葉そのものであるからです。その神様の言葉は、私たちを救う力であり、神様の御心は私たち一人ひとりの人間の救いに向けられているならば、聖霊とは、神の言葉であり、力であるがゆえに、私たち一人ひとりに対する、神様の側からの祈りであると申し上げてもよいのではと私は思います。

 

 私たちにとって、祈りというものは、実際に声に出すか出さないかは別として、何らかの形で言葉として現れるものです。ペンテコステ聖霊降臨の出来事では、使徒言行録においては、弟子たちが世界の様々な国の言葉で話し出した、という不思議なことが記されています。それは、世界の様々な国の言葉で、祈ることができるようになったということでもありますが、それは単に外国語が上手になったというような表面的な意味ではなく、神様への感謝や讃美、そして神様への信仰の証しを、世界中の国の言葉として発することができるようになったということです。

 

 キリスト教の信仰は、聖書を神の言葉と信じる信仰です。神様の言葉は、私たちには直接聞こえません。しかし、聖霊の働きによって、世界の様々な国の言葉になって、私たちに聞こえる言葉となりました。ペンテコステの出来事は、神様の言葉が私たちに届くという出来事です。そこから今度は私たちが、世界全体に神様の言葉を伝えていくように導かれます。そこに、神様の見えざる力が働き、それによって人間は神様に救われていきます。

 

 聖霊、それは、神様が私たちに届けてくださる、神の言葉による、祈りであるといえます。その祈りに神様の存在そのものが満ちているのです。神の言葉の祈りは、神の一部分ではなく、神様の存在そのものです。その聖霊が私たち一人ひとりのなかに満ちるとき、この京北教会は聖霊に満たされた教会になり、神の言葉による祈りが満ちた教会になります。それは、人に伝えたいけれども伝えられない、神の恵みを、祈りにおいて、人に伝える教会です。主イエス・キリストが十字架と復活の生涯において私たちに伝えてくださった、その福音を聖霊の働きに導かれて、人に伝える教会となりましょう。

 

 お祈りいたします。主なる神様、かつてなかった時代を生きている私たちが、互いに祈り合い、支え合って生きることができますように。いま、様々な不安にとらわれている一人ひとりに、平安をお与えください。この祈りを、主イエス・キリストの名を通してお献げいたします。アーメン。

 

 

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2020年6月7日(日)京北教会礼拝説教

「神の言葉、私の救いとなる」 牧師 今井牧夫

 

 聖 書 ヤコブの手紙  1章  19〜27節(新共同訳)

 

 わたしの愛する兄弟たち、

 よくわきまえていなさい。

 だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、

 また怒るのに遅いようにしなさい。

 人の怒りは神の義を実現しないからです。

 

 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、

 心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。

 

 この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。

 

 御言葉を行う人になりなさい。

 

 自分をあざむいて、

 聞くだけで終わる者になってはいけません。

 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、

 その人は生まれつきの顔を鏡に映してながめる人に似ています。

 鏡に映った自分の姿をながめても、立ち去ると、

 それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。

 

 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、

 これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。

 このような人は、その行いによって、幸せになります。

 

 自分は信心深い者だと思っていても、

 舌を制することができず、

 自分の心をあざむくならば、

 そのような人の信心は無意味です。

 

 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、

 世の汚れに染まらないように自分を守ること、

 これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。

 

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 (以下、礼拝説教)

 本日の聖書箇所は、最近の礼拝で続けて読んでいるヤコブの手紙です。ヤコブの手紙は、手紙という名前が付けられていますが、実際には、手紙ではなくて、一つの「説教」であると考えられています。この説教を記したヤコブという人は、イエス様の弟子のヤコブではなく、イエス様よりもずっと後の時代の人です。この、ヤコブの手紙は、新約聖書の他の文書と比べて違っている特徴があります。それは、「行いのない信仰はない」というように、行い、ということ、行動することの大切さを説いていることです。

 

 本日の聖書箇所においても「御言葉を行う人になりなさい」という言葉があるように、ただ聖書の言葉を聞くだけではなくて、聞いた聖書の言葉を実際におこなって生きることを、ヤコブの手紙は求めています。

 

 この今日の聖書箇所で、皆様それぞれの心にとまった箇所はどこでしょうか。それは人それぞれだと思いますが、私は今日の箇所を読んで、次の言葉が心にとまりました。一番最後の言葉です。「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。」聖書の言葉を、ただ聞くだけではなくて、実際に聖書の言葉を行う、という行動とは、こういうことであるとはっきり示されています。

 

 もちろん、こうした活動、すなわち「みなしごややもめが困っているときに世話をし」とあるような慈善活動や、世の汚れに染まらないように自分を守ること、とあるような潔癖な生活実践、そうしたことばかりが教会の活動ではありません。そして、そうした慈善活動や潔癖な行動こそが信仰だと考えると、それもおかしな考えになってしまって、信仰がどこかに行ってしまって、ただ慈善活動や潔癖な行動ばかりに熱心になるというのも、教会らしくないことです。

 

 教会の教会らしさというのは、長い目で見て、やはり、人間を救うという働きとして現れます。ただし、それは目に見えて、すぐに人間が困窮から救われる、というような出来事が起こるという意味ではなくて、長い時間をかけて、目に見えないところで神様が人間を救ってくださる、必ず神様が私たちの世界に働きかけて人間一人ひとりを救ってくださる、という意味です。

 

 では、どうしたら、そのように、神様が人間を救ってくださる、というその神様の働きにつながって、御言葉を行う人になれるのでしょうか。

 

 今日の箇所を順番に見ていきます。最初のところを見ますと、次のようにあります。「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。」ここにあるのは、何も特別なことではありません。聞くに早く、というのは聞いて理解することが早い、という意味です。話すのに遅く、というのは、言葉を選んで話すということです。怒るのに遅く、というのは、何事もよく確かめてから怒る、ということです。

 

 これらのことは日常生活のなかのことであって、ごく普通に誰でもが、自分の心の中で心がけることではないでしょうか。なぜなら、人間関係を壊すのはしばしば、こうしたことができていないからです。人の話を聞いても理解が遅く、自分勝手にべらべらしゃべり、人の話をちゃんと確かめないままで怒り出す、ということでは、人付き合いができない人になってしまいます。そういう意味で、ここに書いてある言葉は、生活における戒めとしては、なるほど、と思いますし、聖書の言葉はこんなふうに正しいことを言っています、と受けとめることができます。

 

 また、次の箇所も印象に残る言葉です。本日の箇所のなかばにありますが、自分の姿を鏡に映している人のことがたとえとして語られています。鏡を見ている間は自分がどんな人間かを見ていますが、鏡の前を離れると、自分がどんな人間であるかを忘れてしまう。これは、自分で自分のことをきちんと知って、自分で自分を見つめ続けることができない、人間の弱さ、愚かさを示しています。そのような自分であるからこそ、神の言葉である聖書の言葉によって、自分の存在を見つめ直し、自分の生き方を変えていく必要があるのです。これも、その通りのことです。

 

 しかし、ここで私たちは考えてみなければならないことがあります。それは、主イエス・キリストのことです。今日の聖書箇所には主イエス・キリストという言葉が一つも出て来ません。そして、「御言葉を行う」ということが強調されていて、そのなかでは聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅くありなさい、というような人間関係を造るための秘訣のような事が書かれています。また、人間は鏡の前を離れると自分の本当の姿をすぐに忘れてしまう、というような人間の弱さが記されています。しかし、ここには、主イエス・キリストの十字架と復活の御生涯のことや、人の病気や障がいをいやし、人が生きるうえでの悩みから救い出す主イエス・キリストのことは一つも出てきていません。

 

 これは、単に、今日の箇所にイエス様のことが直接出てこないことが問題だということではありません。そうではなくて、聖書の御言葉、というものと、主イエス・キリストという存在をきちんと結びつける必要があるということです。そうでなければ、今日の箇所で言われる「御言葉を行う人になりなさい」という言葉が、単に日常生活でうまく過ごしていくための人間関係の秘訣のようなことになってしまうからです。

 

 16世紀のヨーロッパにおける「宗教改革」で有名な、マルチン・ルターという人は、このヤコブの手紙を「わらの手紙」と呼んで、価値の低い文書だと表現したことがあります。それは、このヤコブの手紙が主張する、「御言葉を行う人になりなさい」ということが、単に自分たちの生活を良くするとか、人間関係をよくするとか、そうしたことで、いわゆる善行を積む、ということで人間が救われるというように間違った考えをしてしまう危険性を考えて、あえてそのようにルターが言ったのかもしれないと思われます。今日の聖書箇所は、そうしたマルチン・ルターの指摘を受けとめて言うならば、今日の聖書の言葉は単に人生訓とか日常生活の人間関係のコツ、秘訣、というような意味で読むのではなくて、主イエス・キリストの十字架と復活の御生涯と関係付けて、理解する必要があります。

 

 では、今日の聖書箇所は、主イエス・キリストのどんな言葉や行動と結びつくのでしょうか。 イエス様のすべての言葉や行動と結びつけて考えることができるのですが、本日は、ひとつの箇所だけを選びます。ヨハネによる福音書13章で、イエス様が弟子たちの足を洗う場面です。

 

 この箇所、ヨハネによる福音書13章を少し読んでみます。
 「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」

 

 ここには、イエス様がとらえられて十字架にかけられる日の前の晩に、イエス様が最後の晩餐の席で立ち上がって、弟子たち一人ひとりの足を洗っていかれたことが記されています。このとき、弟子のペトロは、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言いましたが、イエスは、「もし、わたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられたとあります。

 

 イエスはこのとき、弟子たちの足を洗うということが、弟子たちと自分との間に、かかわりがある、ということを示す行動であることを教えられました。すなわち、このときのイエス様の行動は、イエス様から弟子たちへの単なるサービスなどではなくて、イエス様と弟子たちのかかわり、関係、というものを示しています。

 

 このとき、イエス様が弟子たちの足を洗っておられるとき、イエス様は何を考えておられたでしょうか? そのことは聖書には記されていません。しかし、私は思います。おそらくイエス様はこのとき、足を洗っている弟子たち一人ひとりのことを思い、その一人ひとりのためにお祈りをしておられたのではないでしょうか。私にはそのように思えてなりません。

 

 本日の聖書箇所である、ヤコブの手紙においては、「御言葉を行う人になりなさい」と記されています。御言葉を行う、ということは、聖書の言葉を実践するということですが、その言葉だけを聞くと、これはとても難しいことに思えます。けれども、大切なことは、何かとても難しい行動、普通の人ならできないような何か難しい行動にチャレンジするということではなくて、イエス様が弟子たちの足を洗ったように、行動それ自体はすごく単純で簡単なことだけでも、その行動によって、一番大切なものを表す、ということです。

 

 人の足を洗うという行動は、行動としてはとても単純です。しかし、イエス様がそれをなされたときには、イエス様が先生であるにも関わらず、弟子の足を洗ってくださる、という、関係の逆転がありました。イエス様は、神様がおられるところでは、通常の人間関係が逆転することを、弟子たちの足を洗うという行いによって示されました。このことは、今日のヤコブの手紙の箇所を理解するにあたっても大切です。

 

 つまり、御言葉を行うことは、自分と神様との関わりにおいて生きることです。それは、その行動がどれだけ立派か、とか、どれだけ完全か、ということではなくて、ごく単純に、その行動が、自分と神様との関わりのなかにあることが大切なのです。

 

 わたしたちは、神の言葉である、聖書の言葉を通じて、神様に救われます。そのとき、自分と神様との間に関係ができます。私を救ってくださる神様と、神様によって救われる私、という関係です。この関係を誰も邪魔することはできません。これは神様によって守られ、保証された、救いの関係です。その関係をもたらすのが、神の言葉である聖書の言葉です。

 

 本日の説教の題は「神の言葉、私の救いとなる」といたしました。これは、本日のヤコブの手紙にあるように、「御言葉を行う」ということが、「私の救い」一人ひとりの人間の救いとなることを示しています。そして、なぜ、神の言葉が私の救いとなるかというと、神の言葉を行うことによって、神様と私の関係が確かになるからです。

 

 本日の箇所の終わり部分には、次のようにあります。「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。」ここには、社会福祉や慈善活動、あるいは人権活動といった、この社会における弱者を救うための活動が、「神の御前に清く汚れのない信心」と記されています。その通りです。

 けれども、わたしたちはここで勘違いしてはなりません。そうした活動が良い行いだから、その行いを積むことによって私たちが神様に救われるのではありません。そうではなくて、そうした活動において、私たちが神様と関係を持つということ、すなわち、神様に祈り、神様の御心を尋ね求め、神様を愛し、自らも神様に愛されることを願う、そのような神様との生きた日常的な祈りの関係を持つことによって、私たちは神様の救いのなかに生きることができるのです。

 

 そのように「神の言葉、私の救いとなる」という生き方は、何も社会福祉や慈善活動、人権活動をしなければ実行できないことではありません。イエス様が弟子たちの足を洗ったように、行動としては実に単純な、簡単なことなのです。大切なことは、そこに、神様とその人の関係、というものを心から願い、祈って行動する、ということです。そのときに、まさに「御言葉を行う人」に私たちは、ならせていただけるのです。そして、「神の言葉、私の救いとなる」のです。

 

 

 お祈りいたします。
 主なる神様、かつてなかった時代を生きている私たちが、互いに祈り合い、支え合って生きることができますように。いま、様々な不安にとらわれている一人ひとりに、平安をお与えください。この祈りを、主イエス・キリストの名を通してお献げいたします。
 アーメン。

 

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2020年6月14日(日)京北教会礼拝説教

「神は人を分けがたく愛する」牧師 今井牧夫

 

 聖 書 ヤコブの手紙 2章1〜10節(新共同訳)

 
 わたしの兄弟たち、
 栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、

 人を分け隔てしてはなりません。

 

 あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、

 また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。

 その立派な身なりの人に特別に目を留めて、

 「あなたは、こちらの席におかけください」と言い、

 貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、

 わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、

 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、

 誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。

 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。

 
 神は世の貧しい人たちをあえて選んで、

 信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を、

 受け継ぐ者となさったではありませんか。

 

 だが、あなたがたは、貧しい人をはずかしめた。

 

 富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目にあわせ、

 裁判所へ引っ張って行くではありませんか。

 また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、

 冒涜しているではありませんか。

 

 もしあなたがたが、聖書に従って「隣人を自分のように愛しなさい」という

 最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。


 しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、

 律法によって違反者と断定されます。

 

 律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、

 すべての点において有罪となるからです。 

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 (以下、礼拝説教)

 本日の聖書箇所は、5月から続けて礼拝で読み続けているヤコブの手紙の2章です。ここには、人を分け隔てしてはならないことが記されています。これは単に教会のなかだけや、あるいはクリスチャン同士で分け隔てしてはならないということではなくて、人間が人間を分け隔てしてはならないと教えている箇所です。

 

 このヤコブの手紙を書いた人は、どのような人であったか、ほとんどわかりません。ヤコブとは当時によくある名前でした。ヤコブの手紙が書かれた時代は、イエス様がおられた時代よりずっと後の時代と考えられています。イエス様の弟子にもヤコブという人がいましたが関係ありません。また、このヤコブの手紙は手紙という名がつけられていますが、実際には手紙というよりも説教として記されています。この文章が、一つの説教として、当時の各地の教会で回覧されて、礼拝のときに朗読する形で読まれていたのではないかと考えられます。

 

 ヤコブの手紙は、当時の教会の人たちにとって、おそらく耳が痛いと思われることを説教しています。それは、当時の教会の人たちに対して、批判的な視点から書いているからです。たとえば、教会において重要視された使徒パウロの考え方は、人は信仰によって救われるという考え方でしたが、ヤコブの手紙では信仰は行いと一つであるとされて行い、行動することの大切さが主張されています。こうした主張は、教会の人たちのなかに主イエス・キリストの福音は、心の中だけのことだと勘違いした人たちがいたので、その考え方を変えるために言われています。

 

 本日の聖書箇所においても、人間の行動に関して言われています。「人を分け隔てしてはなりません」と記されています。これは人間の心の内面のことではなくて、実際の行動に関する教えです。当時の教会の人たちが、実際の行動において、人を分け隔てしていたことに対する批判です。ここでは一つの具体的な例として、富んだ人と貧しい人が教会に来たときの、教会の人たちの態度の違いを表現することで、そんな分け隔てがあって良いはずがない、と、さとしているのです。

 

 ここで、私たちは教会がどのような場所であるかを考えてみたいと思います。教会、それはどのような場所でありましょうか。それは、人によって、信仰によって様々な違った表現をすることができることだと思います。たとえば、私が考える教会という場所は、神様によって建てられ、神様によってすべての人が招かれ、神様によってすべての人が救われる場所であります。そして教会の中心は礼拝です。礼拝において聖書の御言葉が解き明かされ、集う人々が神様の救いに招き入れられ、救われ、新しい力が日々与えられる生活へと導かれるのです。

 

 教会という場所がそのような場所であると表現することは、私の表現でありますが、そのように表現して間違っているとは思いません。けれども、教会という場所がそのような場所であると考えるとすれば、その次の思うことがあります。それは「では現実の教会はどうだろうか」ということです。

 

 教会がどのような場所であるかを、誰でもが、自分なりの思いをこめて言葉にすることができても、では現実の教会はどうか、と考えたとき、ふと沈黙をすることはないでしょうか。それは、心のなかで、あるいは頭のなかで、教会とはこういう場所だ、と自分が思っていることと、実際の教会が、何か違っていると感じてしまう経験を、私たちはどこかでしているからです。

 

 本日のヤコブの手紙は、まさにそのような、自分の心の中で思う教会の姿と、実際の教会の姿が違っていることに気づいて、深く悲しんでいる人の気持ちをストレートに表している内容です。人間の貧富の差をめぐって具体的な分け隔てが、教会の中にある、ということを指摘して、そうであってはならない、とヤコブの手紙は指摘しています。

 

 では、ヤコブの手紙が書かれた時代の教会のなかには、いったいなぜ、そのような分け隔てが、あったのでしょうか。それはヤコブの手紙を読んでもなかなかわからないことです。しかし、ヒントがあります。それは、本日の聖書箇所のなかにある次の箇所です。「もしあなたがたが、聖書に従って「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。」この箇所には、当時の教会の人たちが、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という主イエス・キリストの言葉、あるいは、そのもとになっている旧約聖書の言葉を信じて、実行していたことが示されています。

 

 人々はイエス様の隣人愛の言葉を知っており、信じて実行しようとしていたのだと考えられます。すると、そのような、隣人愛というキリスト教の1番大切な教えに沿って生きていた人たちが、なぜ、貧富の差によって人を分け隔てをしていたのでしょうか? 

 

 それは、おそらく、教会の人たちが、主イエス様の教えを受け入れて信じていたけれども、主イエス様の教えを聞いて、悔い改めるということをしていなかったからではないだろうか、そのように私は考えました。それは、キリスト教の隣人愛の教えの素晴らしさを頭ではわかっていたけれども、主イエス様の前で自らの罪を悔い改めることをしないならば、自分で自分の罪に気づくということができない、ということがあるからです。

 

 聖書が私たちに教える、人間の罪とは、いわゆる道徳的な罪とか、犯罪としての罪ではなくて、人間と神様との関係がまっすぐでないことを罪と呼んでいます。ですから、罪の悔い改めということは、自分の過去の悪行をわびるということではなくて、神様の前で、自分と神様の一対一の関係において、自分が神様の方向を向いて生きていない、すなわち、自分で自分を神として、自分を世界の中心として生きている、ということに気が付いて、それを悔い改めるということです。

 

 主イエス・キリストの前で、罪の悔い改めをするときに、人間は方向転換をすることになります。自分が自分を世界の中心において生きるのではなくて、神様が自分が生きる世界の中心に立ってくださいます。主イエス・キリストが、この私の救いの中心に立っていてくださいます。そのことによって、私たちは救われます。ですから、キリスト教における人間の救いとは、人間一人ひとりの悔い改めということと結びついています。

 

 みなさまは、そのように、主イエス・キリストと一対一で向き合って、悔い改めることをされたことがあるでしょうか。それは人それぞれだと思います。悔い改めるということは、人にわざわざ言うことではありませんし、何か、人に見せるための悔い改めのポーズをあるわけではなく、何かの形式があるわけでもありません。悔い改めとは、心の奥深くで静かに静かに、人に気づかれないようにすることでもあります。それは、悔い改め、ということは、自分と神様の一対一の、関係のなかで行うことだからです。そうして、人に見せるのではなく、人に気づかれないところで、自らを悔い改めるところに、人間の密やかな新しい出発が生まれます。

 

 しかしながら、そのような悔い改めをすることは、なかなか難しいものともいえます。それは、人間は、何度悔い改めても、やっぱり罪を犯してしまう弱い存在だからです。また、悔い改めるということに対して、偽善的なもの、偽りの善、嘘っぽいものを感じる人もおられるでしょう。口先だけの悔い改め、嘘、そうしたものが世間にはあふれているように思えるときがあります。人間はみんな嘘つきだ、悔い改めなんて信じられないと思われるときがあってもおかしくありません。その背後には人間のどうしようもない弱さというものがあります。人間は強くない。自分のなかの罪に負けてしまう。何度悔い改めても、やっぱり同じ失敗をしてしまう。その弱さこそが人間です。私たちは人間の努力や知恵によって、自らの罪をあがなうことはできないのです。

 

 そのような私たちに、語りかけているのが、本日のヤコブの手紙の箇所です。次のように記されています。「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、

信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」

 

 これは、いったい、どういう意味でありましょうか。私たちが理解できないことが書かれています。神は世の貧しい人たちを選んで、信仰に富ませた、なんていうことが本当にあるのでしょうか。この箇所を読むときに私たちは、まず思うのは、そのような実例があったのだろうか、ということです。みなさんはそのような実例が世の中に実際にあったと思いますか。

 

 「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、ご自身を愛するものたちに約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」この言葉を読むときに、私たちが思うのは、ヤコブの手紙にこう書いてあるのだから、ヤコブの手紙が書かれた時代においては、何か貧しい人たちで、何か立派な信仰を持つ人たちがいた、という実例があったのだろうと思います。けれども、いま聖書を読んでいる私たちにとって、この言葉はどんなふうに響いてくるでしょうか。

 

 ヤコブの手紙の時代にはそういうことはあったのかもしれないが、現代の日本社会に生きている私たちにとって、そのように「神は世の貧しい人たちをあえて選んで」「信仰に富ませ」「約束された国を受け継ぐ者となさった」という、この、貧しい人たちこそを良しとする言葉を真実だと感じられるような、何かの人間の実例を思い浮かべることは、なんだか難しいように思います。というのは、そんなふうに、ああ、あの人は貧しい人だけど立派なクリスチャンだったなあ、といえる実例を探す、というのは、それ自体が何だかとても失礼なことだと思えるからです。

 

 そしてまた、これは一般論として言いますが、人間は、決して、貧しい人だから心が清く正しいわけではなく、富める人も貧しき人も、同じように人間としての欲を持って、弱い人間として生きていることを、私たちは知っています。すると、いま聖書を読んでいる私たちにとって、本日の聖書箇所はどういう意味を持つのでしょうか。

 さきほど、私は申し上げました。悔い改めとは、神様との前で、自分が神様と一対一で静かに行うことであると。そこから言いますが、今日の箇所で言われていること、すなわち「神は世の貧しい人たちをあえて選んで」「信仰に富ませ」「約束された国を受け継ぐ者となさった」、この言葉もまた、神様の前で、自分が神様と一対一の関係において、静かに読むべきです。

 

 そのとき、私たちは気づくのです。自分は、まだ、出会っていないと気づくのです。このヤコブの手紙の箇所にあるような、「神は世の貧しい人たちをあえて選んで」「信仰に富ませ」「約束された国を受け継ぐ者となさった」という、神様の側の論理に、まだ出会っていない、ということに気づくのです。その、神様の論理とは、世の貧しい人たちをあえて選ばれるという論理です。それは、人間がうらやましがるようなところに神の救いがあるのではなくて、人間がああはなりたくないと思うようなところに、神の救いが確かにある、という逆転の論理です。

 

 そして、そのような神様の、逆転の論理に気づいてこなかった、自分の生活こそが、罪に満ちたものであったことに気づくのです。自分がうらやましいと思う人間に憧れていたために、人を分け隔てをしていたと気づくのです。「隣人を自分のように愛しなさい」という主イエス・キリストの言葉を信じながら、実際は、自分がうらやましいと思う、豊かな人ばかりを自分の隣人として愛していたのではありませんか。そのことに気づかせてくれるのが、本日の聖書箇所です。

 

 そういうことですので、本日の箇所に書かれているような、「世の貧しい人たち」が具体的にどのような人であるか、あるいは、富んでいる者たちが具体的にどのような人たちであるか、ということは、特に詮索しなくてよいことです。そのような詮索は、2000年前でも現代でも一緒のことで、結局は、人間の好奇心を満たすだけのことだからです。そんな詮索をするのではなく、あなたがまだ出会っていない、神様の論理、神様の逆転の論理に、聖書を通じて出会ってください。

 

 今日の箇所は、神様は貧しい人を愛して、お金持ちは愛さない、ということではありません。今日の箇所では富んでいる人たちのひどい面が強調されていますが、お金持ちも貧しい人も、ともに神様の前で悔い改めなければならないことは同じです。その点でもまさに、神様の前では分け隔てはありません。神は人を分けがたく愛しておられます。わたしたちはそのことに自ら気が付き、自らを悔い改めなくてはなりません。悔い改めましょう。

 

 お祈りいたします。主なる神様、かつてなかった時代を生きている私たちが、互いに祈り合い、支え合って生きることができますように。いま、様々な不安にとらわれている一人ひとりに、平安をお与えください。この祈りを、主イエス・キリストの名を通してお献げいたします。アーメン。

 

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 2020年6月21日(日)京北教会礼拝説教

「言葉少なくても実り多く」牧師 今井牧夫

 

 聖 書 ヤコブの手紙  3章 5〜18節(新共同訳)

 
 ご覧なさい。

 どんな小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。

 舌は火です。

 舌は「不義の世界」です。

 わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、

 移り変わる人生を焼き尽くし、

 自らも地獄の火によって燃やされます。

 

 あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、

 人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。

 しかし、舌を制御できる人は一人もいません。

 舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。

 わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、

 舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。

 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。

 

 わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。

 泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。

 わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、

 ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。

 塩水が甘い水を作ることもできません。

 

 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。

 その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。

 しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、

 自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。 

 そのような知恵は、上から出たものではなく、

 地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。

 ねたみや利己心のあるところには、

 混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。

 

 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、
 さらに、温和で、優しく、従順なものです。

 憐れみと良い実に満ちています。

 偏見はなく、偽善的でもありません。

 

 義の実は、平和を実現する人たちによって、

 平和のうちにまかれるのです。

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 (以下、礼拝説教) 

 本日の聖書箇所は、5月から続けて礼拝で読み続けているヤコブの手紙の3章です。このヤコブの手紙を書いた人は、どのような人であったか、ほとんどわかりません。ヤコブとは当時によくある名前でした。ヤコブの手紙が書かれた時代は、イエス様がおられた時代よりずっと後の時代と考えられています。イエス様の弟子にもヤコブという人がいましたが関係ありません。また、このヤコブの手紙は手紙という名がつけられていますが、実際には手紙というよりも説教として記されています。この文章が、一つの説教として、当時の各地の教会で回覧されて、礼拝のときに朗読する形で読まれていたのではないかと考えられます。

 

 今日の箇所には、最初に人間の「舌」のことが言われていますが、これは「舌」という言葉を通じて、人間の「言葉」の働きの問題が記されています。また、そのことを通じて、人間の知恵と上から出た知恵の違い、すなわち人間の言葉と神の言葉の違い、ということが記されています。これは単に教会のなかだけのことではありません。人間が生きる世界全体のなかでのことです。この世界のなかで、人間の知恵や言葉というものには限界、弱さ、過ち、ということがある、神の知恵や言葉は、それとは違う、と教えている箇所です。 

 

 では、最初から見ていきましょう。最初に「ご覧なさい」と言われ、「どんなに小さい火でも大きい森を燃やしてしまう」と、まずたとえが言われたあとに、「舌は火です」と言われて、人間の「舌」、これは人間が「言葉」をしゃべる、話す、ということを象徴していますが、その「舌」の働きを、大きな森でも焼き尽くす「火」にたとえています。これ以降、人間の舌ということを一つの象徴にして、人間のしゃべる力、言葉の力というものを厳しく批判しています。

 

 まず「舌を制御できる人は一人もいません。」と言われます。次に「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」と言われます。この「舌は、疲れを知らない悪」という言葉は非常に鋭い表現の仕方だと思います。「舌は、疲れを知らない悪」……。このような表現をほかで聞いたことはありませんが、聖書のこの表現は、まさにあたっているなあ、と感じることがあります。ふだんはあまり口数が多くない人でも、人への悪口、批判を口にするときは、次から次へと言葉が出て来る、ということがあります。

 もちろん、人を批判するということのすべてが一概に悪いということではなく、人を正当な形で批判することは、人間関係や社会のなかにおいて必要なこと、大切なことです。しかし、そこで人に対して発する言葉が、単に人を傷つける内容であるならば、考え直す必要があるでしょう。

ここで、人間の「舌」を「疲れを知らない悪」と表現したヤコブの手紙は、人間の罪深さを的確に表現しています。人間の舌は、人の悪口を言い始めると、まさに疲れを知らない悪になります。

 

 では、この人間の「舌」というよりも、人間の「言葉」というものの問題を考えましょう。舌という器官が悪いのではなく、人間の心が悪いから、人間の発する言葉は悪いのです。この問題を、キリスト教ではどう考えたらよいでしょうか?

 

 ここで、本日の参考として、別の聖書箇所を読ませていただきます。それは、使徒言行録の2章です。ここには、本日の箇所と同じく、「舌」という単語が出て来ますが、それはこのヤコブの手紙のような悪の存在ではなくて、神様の素晴らしい働きを表すものと表現されています。

 

 その使徒言行録2章の始めを少し読みます。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような「舌」が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」

 

 これは、教会ではペンテコステ、すなわち聖霊降臨日の出来事として知られている使徒言行録の箇所です。イエス様が十字架で死なれ、3日の後に神によって復活なされ、天に上げられた後に、残された弟子たちに神様の見えざるお姿としての聖霊、聖い霊である聖霊が、天から注がれたというときの話です。このペンテコステの出来事のときから、弟子たちは主イエス・キリストが救いの主であるという信仰を、広く社会全体に対して証しすることができるようになり、そこから世界で一番最初のキリスト教会が誕生した、という、教会というものの誕生日としても知られている日のことです。

 

 そのペンテコステのときに、天から注がれた神様の聖霊、神様の見えざるお働きとしての聖い霊、聖霊が一人ひとりの弟子たちに注がれたときのことを、使徒言行録2章では「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまった」と記しています。そしてそのあとには、こうあります。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」ここには、このあとに弟子たちによって地中海沿岸一帯や遠く様々な地域、外国において、主イエス・キリストの福音が、それぞれの国・地域の言葉で伝えられていく、そのことが神様の聖霊の働きであると示します。そのなかで、聖霊の働きが、人間の「舌」が、「炎のような舌」という表現で、神の言葉が人間に働くときの象徴に用いられています。つまり、ここでは「舌」は神の言葉、主イエス・キリストの福音を宣教する重要な力として表現されています。

 

 さて、ここで本日の聖書箇所であるヤコブの手紙の話に戻りますが、ヤコブの手紙では、人間の「舌」というものが、「疲れを知らない悪」と厳しく批判されていると先ほど申し上げました。それに対して、同じ新約聖書のなかの使徒言行録では、「舌」は主イエス・キリストの福音を世界中に伝える大切な言葉の働き、神様の聖霊の象徴として表現されています。

 

 この両者は、同じく「舌」という言葉を用いながらも、正反対の意味で使っています。ということは、人間の「舌」という器官そのものが善であったり悪であったりするのではなく、その「舌
」によって語る人間の心、というものが本当の問題であるとわかります。そのことが示されているのが、本日の箇所の後半の部分です。ここには、今度は「知恵」という言葉がキーワードになって、「上からの知恵」と表現された、神様の知恵と、人間の利己的な知恵との違いが記され、神の知恵と人間の利己的な知恵は違う、ということがハッキリと言われています。

 

 「知恵」も、それから人間の「舌」も、それ自体が悪いのではなく、それをどのような心で使うか、神様の御心によるのか、それとも人間の利己的な心で使うかが問われています。

 

 今日の箇所の最後には、次の言葉があります。「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちにまかれるのです。」ここには、「平和を実現する人たち」という言葉があり、これはマタイによる福音書5章のイエス様の言葉を思わせます。こうして今日の箇所を読んでいきますと、このヤコブの手紙は、イエス様の時代よりもだいぶあとに書かれた文書であり、その時代の教会の人たちに対して、教会が主イエス・キリストの福音に立って歩んでいるかどうか、ということを厳しく問いかけているのだとわかります。

 このことをもう少し踏み込んで言いますと、ペンテコステ聖霊降臨日以来の教会の歩みは、神様の聖霊によって導かれた歩みであったけれど、そのなかで、人間の利己的な思いが教会をダメにしている現実があったために、このヤコブの手紙が記されたのではないかと思える、ということです。

 

 教会においても、社会においても、言葉というものはとても大切です。人間は、言葉によって礼拝し、言葉によって伝道し、言葉によって奉仕をします。聖霊降臨日、ペンテコステの出来事にあるように、神様の聖霊が私たちに注がれるとき、私たちは勇気をもって言葉を発し、主イエス・キリストが自分と教会の救い主であることを、世界に向けて証しする事ができます。その意味で言葉というものはとても大切です。けれども、一方で、言葉は人間を一瞬でダメにします。小さい火が大きい森を焼き尽くすように、人間の言葉はこの世界を一瞬でダメにするほどの恐ろしい働きを持っています。

 

 教会もまた同じです。教会は神の言葉で立てられていますが、人間の利己的な言葉によってダメになります。これは、現代日本社会に生きる私たちの教会、また社会一般における日常生活のなかでも、全く同じことです。では、どうしたらいいのでしょうか。そのことを考えるために、同じヤコブの手紙の別の箇所を見てみます。

 

 先週読みましたヤコブの手紙の2章では、次のような言葉がありました。「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席におかけください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。」

 

 ここには、まさに「言葉」というものが、教会をダメにし、人間をダメにしている様子がはっきりと記されています。言葉によって人間を分け隔てする、そのことで教会をダメにしているのです。単に言葉使いの問題ではなく、言葉を発する人間自身が悔い改める必要があるのです。

 

 さきほど、聖霊降臨日、ペンテコステ使徒言行録の箇所を読みました。そこには聖霊の働きとして伝道の働きがあることを申し上げました。神様の聖霊は、人間に力を与え、言葉の力を与えます。けれども、そのことを考えるときに、私は次の様に思います。ヤコブの手紙が書かれた時代の教会の人たちは、聖霊の働きによる言葉の力というものを、もしかしたら、過信していたのではないか。そのように思います。当時の教会の人たちは、神の聖霊が働くときの、言葉の力の素晴らしさを知っていたがゆえに、その見えざる神様のお働きを信じるあまりに、現実の人間の言葉を過信していたのではないか、と私は思います。そして、このことは、当日の教会だけの問題ではなく、現代日本社会を生きる私たちにも同じくあてはまるのではないかと考えます。

 そのように思う理由は、教会が発する言葉、キリスト者が発する言葉、そうした言葉が、何でも素晴らしいとは思えないからです。教会で発せられる言葉は、それが神様の御心を伝える言葉であれば、たとえ言葉が少なくても、実りは多いのです。しかし、ヤコブの手紙にあるように、教会で発せられる言葉のなかには、人と人を分け隔てするものもあります。もちろん、言葉というものそれ自体はよくも悪くもないものです。その言葉を使う人間の心によって、言葉は、神の御心を伝えるものにもなりえるし、また利己的な人間の思いを表すものにもなります。では、どうしたらいいのでしょうか。

 

 それは、言葉の力を決して過信しないということです。聖霊を信じる信仰は、ただ語るだけではなく、言葉を反省し、沈黙し、そして自らを悔い改めることを必要としています。ヤコブの手紙が書かれた時代の教会の人たちは、聖霊の働きを人間の「舌」の働きにたとえる信仰を持ちつつ、その自らの「舌」の働き、すなわち言葉の働きを過信していたと思われます。そのときに、自らの考え方を過信する利己的な考えに陥っていました。人間は、そうした、自らの言葉への過信、ということからも救われなくてはならないのです。神様によって罪から救われる、というときに、その救いのなかには、自分の言葉を過信する、という罪から救われることもあります。

 

 ここで、十字架で死なれた主イエス・キリストのことを思い起こしましょう。イエス様を十字架の死においやったのは、人間の裏切りの言葉です。偽りの裁判、偽りの証言、そうした偽りの言葉によって苦しめられてイエス様は十字架で死なれました。そのイエス様は、人間の言葉ではなく神様の御心、神様の言葉の力によって復活なされました。それは、人間の罪深い偽りの言葉に対して、神の言葉が打ち勝ってくださったことを示しています。そしてまた、自分の言葉を過信して罪深く生きている、この私たちの一人ひとりを主イエス・キリストが、ゆるしてくださったことを示しています。その罪の赦しによって支えられて、どなたも自らの言葉と行動を悔い改め、今週一週間を主イエス・キリストとともに歩めますよう、皆様のためにお祈り申しあげます。

 

 お祈りいたします。
 主なる神様、かつてなかった時代を生きている私たちが、互いに祈り合い、支え合って生きることができますように。いま、様々な不安にとらわれている一人ひとりに、平安をお与えください。この祈りを、主イエス・キリストの名を通してお献げいたします。
 アーメン。

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2020年6月28日(日)京北教会礼拝説教

「沈黙から願い直して」 牧師 今井牧夫

 

 聖 書 ヤコブの手紙  4章 1〜10節(新共同訳)

 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。

 あなたがた自身の内部で争い合う欲望が原因ではありませんか。

 あなたがたは欲しても得られず、人を殺します。

 また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。

 

 得られないのは、願い求めないからで、

 願い求めても、与えられないのは、

 自分の楽しみのために使おうと、

 間違った動機で願い求めるからです。

 

 神に背いた者たち、世の友となることが、

 神の敵となることだとは知らないのか。

 世の友となりたいと願う人はだれでも、

 神の敵になるのです。

 

 それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。

 「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、

  もっと豊かな恵みをくださる。」

 それで、こう書かれています。
 「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」

 

 だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。

 そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。

 

 神に近づきなさい。

 そうすれば、神は近づいてくださいます。

 

 罪人たち、手を清めなさい。

 心の定まらない者たち、心を清めなさい。

 悲しみ、嘆き、泣きなさい。

 笑いを悲しみに変え、喜びを愁(うれ)いに変えなさい。

 主の前にへりくだりなさい。

 

 そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。  

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 (以下、礼拝説教) 

 本日の聖書箇所は、5月から続けて礼拝で読み続けているヤコブの手紙の4章です。今日の箇所を皆様が読まれて、心に残った箇所はどこでありましょうか。それは一人ひとり違うことだと思いますが、私は全体の中ごろにあります、次の言葉が心に残りました。「神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友となりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。」ここでは、「世の友」とは、神に背いた者のことだと言われています。

 

 こうした聖書の言葉はきびしいと思いませんか。というのは、私たちは、この日本社会のなかに生きていて、世間一般がどんなものであるか、ということを知らなかったら生きていけませんから、この社会で生きる限りは、なるべく世の中を知っておいて、それなりに世の中のあれこれと負担にならない範囲でつきあっていく、すなわち「世の友」になることが、この社会において求められているように、私は思います。そうであれば、むしろ、人間誰もが、自ら生きるために、自ら進んで「世の友」になるべきではないか、とさえ思えます。

 

 ところが、そのような形で「世の友」になることに対して、ヤコブの手紙でははっきりと批判が言われています。「世の友となりたいと願う人はだれでも、神の敵になる」この言葉は今日の聖書箇所を読んでいて、とても心に刺さる箇所です。もし、これが本当ならば、私たちはみんな神の敵になってしまうか、それとも、聖書の言葉を信じてクリスチャンになることは誰もできないか、どちらかのように思えます。しかし、もちろん、そういうことではありません。

 

 ここで、このヤコブの手紙を少し離れて、まず聖書全体のなかで、「世」という言葉が、どのように使われているかを考えてみます。まず、ヤコブの手紙ではなく、新約聖書の他の手紙類の著者である使徒パウロの言葉から考えてみます。パウロは「世」というものと自分の信仰の兼ね合いについて、コリントの信徒への手紙1の7章31節において、次の様に記しています。「世のことに関わっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有り様は過ぎ去るからです。」そのように言って、世間一般の様子というものは、過ぎ去るものだから、かかわりのないようにすべきだと言っています。

 

 また、同じくパウロの言葉が、コリントの信徒への手紙2章6節以下にこうあります。「わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもありません。」ここには、「この世の滅び行く支配者」という言葉があり、そうした世の支配者の知恵と、主イエス・キリストの福音は違うのだ、ということを示しています。

 

 さらに、同じ、コリントの信徒への手紙2章8節ではパウロはこう言っています。「この世の支配者たちは誰ひとり、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」ここでは、世というものは支配者がいるものであり、その支配者は主イエス・キリストの福音を理解せずに、十字架につけたのだと言われています。ここでは、主イエス様の福音を理解せず、否定するものとして、「世」という言葉が使われています。

 

 以上のようにして、コリントの信徒への手紙でパウロが言う「世」とは、単なる世間一般のことではありません。そうではなくて、「世」というのは、自らが知恵を持っている存在です。そして「世」とは、その「世」自らを支配する者を持っている存在です。すると、聖書で「世」というときに、それは、単なる世間一般の価値観、とか、様々な人間が生きている世間の場所、というような広い意味、一般的な意味ではないのです。

 

 そうではなくて、「世」というものは、ある意味で擬人化された存在、あたかも一人の人間のことであるかのようにたとえられている、独特の存在であるといえます。聖書で表現されている「世」というものは、自らの独自の知恵と、そして、自らを支配する独自の支配者をもっている、大きな何かの存在です。その「世」という名前の存在が持つ知恵は、たとえば一般的に「世間の知恵」と言われるような、良い意味での賢さではなく、世間のなかで多くの人間を支配している賢さ、その賢さによって多くの人々を支配している大きな力、ということが言われています。

 

 次に、聖書のなかで、今度はパウロの手紙とは別の意味で、「世」という言葉が出てくる箇所を見てみます。福音書を見てみましょう。ヨハネによる福音書3章16節には次のようにあります。「神は、その独り子をお与えになったほど、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないでとこしえの命を得るためである。」

 

 ここに出てくる「世」という言葉は、神様が、私たち人間のために、神様の独り子を送り出してくださり、そこでその神様の独り子が働かれる場所ということです。ここには、「世」というものが、人間の目から見てどんな存在であるか、ということではなくて、神様の目で見て、神様から愛されている場所、また、神様から愛されている相手、として記されています。すなわち、このヨハネによる福音書3章16節においては、「世」というものが、人間の目から見て、良い存在か悪い存在かということではなくて、神様が独り子である主イエス・キリストをお与えになった、大切な場所、大切な相手、つまり神様の愛と主イエス・キリストの恵みが働く場所として、大変素晴らしいものとして記されています。

 

 こうして、いくつかの聖書の箇所を見ていきますと、同じ「世」という言葉でも、その意味は、良い意味にも、悪い意味にもなる、ということがわかります。そのうえで、本日のヤコブの手紙に戻って、考えてみます。本日の箇所においては、「世」という言葉は、はっきりと神様に敵対する相手として言われています。それは、ばくぜんとした世の中の全般という意味ではなく、また、神様が愛してくださっている相手、という意味でもなく、自らの賢さ、自らの知恵を持って、神様に対立して、人間を支配する存在、として「世」というものが言われています。

 

 さらに、本日の箇所を読み進めてみましょう。次のように記されています。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。」

 

 ここには、人間と人間の間に対立があり、戦いがあり、お互いに相争っている様子があります。ここにあるような互いの争いとは何だったのか、ヤコブの手紙には具体的なことが全く記されておらず、わかりませんが、ヤコブの手紙は、現実の教会の問題を少し極端な形で描写することで、人々に悔い改めを促しています。この箇所もそうです。

 

 この箇所を読んでいて、考えさせられるのは、今日の箇所の終わりのほうに出てくる、人々への戒めの言葉です。次のように記されています。「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁(うれ)いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。」

 

 なぜ、このように言われているのでしょうか。ふつうであれば、聖書の言葉は、私たちを励ます言葉が書かれているように思います。たとえば、テサロニケの信徒への手紙にあるように、「絶えず喜んでいなさい」といった言葉のようにです。しかし、本日の箇所には、その逆です。「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁(うれ)いに変えなさい。」とあります。こうした言葉は、厳しいけれども、ヤコブの手紙が書かれた時代の教会の人たちに対する、率直な戒めの言葉だったと思われます。

 

 本日のヤコブの手紙に出てくる、人と人の争いというのは、社会のなかにあって、「世の友」となることに基づいています。その争いは、主イエス・キリストへの信仰のためではなく、世の友となるための争いでした。そして、今日の箇所の前半には、次の様に記されています。「得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」ここで言われているのは、祈るときの心の姿勢のことです。神様に対して、一対一でまっすぐに向き合って、神様の御心を尋ね求める姿勢を持たないで、自分のために祈っていることが批判されています。

 

 そうして、祈り、ということを、また、教会というものを、自分たちの楽しみのために使おうとしている限り、人間は、教会で得られるものは何もありません。そのようなときに、人間は神様のまなざしから逃げているからです。教会を自分の楽しみのために使おうとするとき、私たちは神様のまなざしから自らの目をそらして、神様から逃げて、自分の希望を、神様よりも優先しようとしているのです。そのようなときに、人間は、神様から願いがかなえられることがありません。そんな自らの惨めな状態に気づくとき、まさに人間は、自らが悲しみ、嘆き、泣く存在になります。笑いを悲しみに変え、喜びを愁(うれ)いに変えることによって、悔い改めるのです。

 本日の箇所で、最初に注目しました言葉、「世の友」となる、ということは、単に世間一般の価値観において人と友だちになる、というような、生易しい意味ではありません。そうではなくて、神様のまなざしから隠れて、自分中心に生きようとすることにおいて、私たちは、まさに「神の敵」になる、ということが批判されています。

 

 以上の聖書の言葉に基づいて、これから私たちは、どうしたらよいでしょうか。本日のヤコブの手紙は、厳しい言葉が並んでいます。その言葉に私たちは耐えられないような気がいたします。その厳しさを思いながら、本日の聖書の言葉の前で様々に考えたとき、ここで神様から私たちに求められていること、それは、神様の前で沈黙する、ということではないか、と私は考えました。

 人間は、弱いものです。静かにして、一人で、一対一になるつもりで神様に向き合ったときにも、そもそも神様に何をお祈りしたらよいのか、ということすら、わからないこともあるのです。そんな私たち、神様の前で、何も言葉が出てこないということがあっても、私たちは、そのままでよいのです。神様の前で言葉が出てこないという悲しみ、嘆きのなかで、そのまま沈黙し続けるときに、きっと、そこから、私たちの心に、神様への本当の願いがわいてきます。そうして、沈黙することを通じて、もういちど神様の前に立つ、と言う形で、新たな思いで、神様の前でお祈りをすることができるのではないでしょうか。

 

 そのようなお祈りをする人間にとって、救いとなる言葉が、今日の箇所の半ば以降に、次のように記されています。「聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」

 

 ここでは旧約聖書の言葉を引用する形で、神様の御心が何であるかが示されています。神様の御心、それは何であるかといいますと、神様は、人間が「世」というものに支配され、「世の友」にさせられることから、救い出してくださるために、神様の側から私たちに近づいてくださる、そのために神様はわたしたちの霊、これは魂のことですが、それをねたむほどに愛してくださる、他の何者からも支配されることをねたむほどに、神様ご自身が私たちを大切に愛してくださる、ということです。

 このことを知るときに、先ほど申し上げましたヨハネによる福音書3章16節の言葉が、もういちど私たちに響いてきます。「神は、その独り子をお与えになったほど、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないでとこしえの命を得るためである。」こうして私たちは、「世の友」となって世から愛されるのではなくて、神様が使わしてくださった主イエス・キリストを信じることにおいて、神様から愛される「世」の一員となっていきたいと願います。そうして、どなたもが、今週一週間を主イエス・キリストとともに歩めますよう、皆様のためにお祈り申し上げます。

 

 お祈りいたします。
 主なる神様、かつてなかった時代を生きている私たちが、互いに祈り合い、支え合って生きることができますように。いま、様々な不安にとらわれている一人ひとりに、平安をお与えください。この祈りを、主イエス・キリストの名を通してお献げいたします。
 アーメン。

 

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 2020年7月5日(日)京北教会礼拝説教

「明日の一日が与えられたら」 牧師 今井牧夫

 

 聖 書(2箇所)

 ヤコブの手紙 4章 13〜17節(新共同訳)

 よく聞きなさい。

 「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、

  商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、

 あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことはわからないのです。

 あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。

 

 むしろ、あなたがたは、

 「主の御心であれば、生き永らえて、

  あのことやこのことをしよう」と言うべきです。

 

 ところが、実際は、誇り高ぶっています。

 そのような誇りはすべて、悪いことです。

 人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、

 その人にとって罪です。

 

ヤコブの手紙 5章 7〜11節(新共同訳) 

 兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。

 農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、

 大地の尊い実りを待つのです。

 

 あなたがたも忍耐しなさい。

 心を固く保ちなさい。

 主が来られる時が迫っているからです。

 

 兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、

 互いに不平を言わぬことです。

 裁く方が戸口に立っておられます。

 

 兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、

 辛抱と忍耐の模範としなさい。

 忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。

 

 あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、

 主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。

 主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。 


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 (以下、礼拝説教) 

 本日の聖書箇所は、5月から続けて礼拝で読み続けている、ヤコブの手紙の4章から5章にかけてです。この、ヤコブの手紙を読むことも終わりに近づいています。

 

 本日の箇所には、人間にとって、明日(あす)、ということはどういう意味を持っているかが示されています。前半には、まず、ひとつの例が示されています。それは、これから一年間、ある町に行って商売する計画を立てているという、一人の人のことです。

 

 こうあります。「『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことはわからないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。」

 

 このように記されています。ここには、人間が自分の将来に対して、計画を立ててそれを実行しようとすることに対して注意してます。それは、人間は自分の命が明日どうなるかわからないのですよ、ということです。人間というものは、わずかの間現れて、やがて消えていく霧にすぎないのですよ、ということを教えています。

 

 皆様は、このような聖書の言葉を、どのように受け取られるでしょうか? 私は10代の頃、この聖書箇所を読んで、正直、ここで言われていることの意味がわかりませんでした。といいますのは、ここに書いてあることは人間としてごく普通のことだからです。これから仕事をする、あの町に行って一年間滞在して仕事する、そうした計画を立てることは、ごく当たり前のことではありませんか。これは、ごく普通の人間の心のことです。

 

 もちろん、人間は明日のことがわからずに生きています。将来に何があるかわからない、ということはその通りでしょう。とはいえ、人間は、自分の将来に何の計画も立てないというわけにはいきません。そんなことであれば、私たちは将来に向けた何の活動もできないでしょう。そう考えると、今日の聖書箇所は私たちにいったい何を伝えたいのか、本当にわかりません。

 

 この箇所を読み解くカギは、このヤコブの手紙全体の主旨にあります。ヤコブの手紙は、当時の教会の人たちに対して、自分たちが信仰と思っているものが、実は自分中心の身勝手な考え方であるとして、悔い改めを求めていることにあります。すると、本日の箇所も、同様に、自分が信仰だと思っている考え方について、悔い改めが求められているのでしょう。すると、では一体、何について信仰の悔い改めをする必要があるのでしょうか。

 

 それは、「明日」ということについての、考え方であると思われます。私たちにとって、明日、というものがあるのは当たり前のことではない、と私たちは知る必要があります。というのは、明日、というものは、それを、神様が私たちに与えてくださって初めて存在するものです。

 

 つまり、放っておいても「明日」がやってくるのではない、神様がおられなければ「明日」というものは来ないのだ、ということです。それに対して、本日の聖書箇所では、今日か明日、これこれの町へ行って、一年間滞在して、という考え方は、明日というものが当たり前にやってくることを前提に自分の計画を立てていることが批判されているのです。ですから、ここで私たちは頭を切り換えて、自分には「明日」というものがあるかどうかわからないけれども、もし、神様が私たちに「明日」というものを、与えてくださったなら、そのときに自分は何をするか、という考え方が求められているのだろうと想像することができます。

 

 しかし、ここで私たちは考えてみたいのですが、私たち普通の人間が、明日ということを考えるときに、果たしてそこまで、神様の存在ということを考えてなくてはならないか、という問題があります。というのは、経験上わかることですが、神様を信じていてもいなくても、明日というものはやってきます。必ず次の日がやってきます。日が昇り、日が沈み、また日が昇る。誰に対しても同じように自然というものは、明日の一日を連れて来てくれます。神への信仰がなくなったから明日が来ない、なんていうことはありません。

 

 すると、今日の聖書箇所のことを、どんなふうに受けとめたらいいのでしょうか。私は10代のときに、この箇所を読んで、非常に不思議に思ったのは、聖書というのは、人間にとってごく当たり前のことすら否定するのだろうか、それでは一体どんなふうな考えで人生を生きたらよいのだろうか、という戸惑う思いです。私は10代のころ、まさにこれからの人生を生きようとするときに、自分の将来に何の計画も立ててはいけないのだろうか、と思うと、本当に不思議だったことを思い起こします。これでは生きていけないではありませんか。

 

 聖書を読むときには、そうした戸惑いが必ず起こります。そして、内心で、ちょっと思うことがあるのです。それは、聖書って、もしかしたら、ちょっと大げさかもしれない。聖書は、もしかしたら、ちょっとわけがわからないかもしれない。聖書は、もしかしたら、ちょっと極端かもしれない。そんなふうに感じると、自分と聖書の言葉の間に、遠い距離が生まれてくるような気もしてきます。そうして、聖書の言葉が自分から遠いと感じられることがあります。

 

 そんな思いを持ちつつ、今日のヤコブの手紙をもう少し読み進めてみます。本日の前半の部分の後半に次のように記されています。「むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、 あのことやこのことをしよう」と言うべきです。ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」

 

 以上の部分のなかの、1番最後の言葉に私たちは注目したいと思います。この言葉です。「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」この言葉に注目して考えてみます。もしかしたら、今日のヤコブの手紙の箇所が一番私たちに言いたいこと、というのは、このことではないのでしょうか。

 

 つまり、少し前の箇所に書かれているような、どこかのこれこれの町へ行って、これから1年間の商売をする、というような計画を立てる、というような、将来の計画を立てるということ自体が悪いと言いたいのではなくて、そうした計画を立てる前に、あなたがなすべき善があって、あなたはその自分がなすべき善があることを知っているけれども、あえて、それをしないで、それ以外の自分のしたいことを先に計画している、ということが問題だと伝えたいのです。

 

 では、私たちにとって、明日の計画を立てる以前に、自分がすべきこと、なすべき善とは、何でしょうか? この問いは、一人ひとりにとって違った意味を持っています。自分自身がなすべき善、それは他人とは違うものがあるはずです。それは、神様とその人との間で、一対一の関係のなかで、その人自身が深く考えるべきものです。明日の計画を立てる前に、自分がなすべき善、それは何でしょうか? これは、なかなか難しい問いであると思えます。

 

 そのことを考えるために、今日の聖書箇所の後半に目を向けます。ここには、忍耐ということが言われています。「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。」ここには農業に従事する人たちの生活スタイルと心の持ちようが語られています。

 

 その次にはこう言われています。「あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。」ここには、キリスト教の神学でいう「主の再臨」のことが言われています。「主の再臨」というのは、主イエス・キリストが十字架の死の三日の後に復活され、その後に天に上げられた、そのイエス様が、この世の終末のときに、もう一度、この世に天から降りてきて、すべてのことを裁いてくださる、という信仰です。

 

 ただし、この「主の再臨」という考え方は、この科学が発達した現代において聖書を読んでいる現代の私たちにとっては、文字通りに信じるということは、現代人の理性からすれば難しいことです。聖書の時代に考えられていた「主の再臨」の意味を、現代において全く同じように理解することは難しいと私は思っています。しかし、本日の箇所をさらに読んでみますと、ここでヤコブの手紙の著者は、単に「主の再臨」を主張しているわけではないことがわかります。次のようにあります。「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。」

 

 ここでは、「主の再臨」を待ち望んだ過去の人たちの例として、旧約聖書にたくさん登場する預言者のことが言われています。それに加えて、ヨブという人の名前が出て来ます。これは旧約聖書ヨブ記に登場する一人の人物です。ヨブは、生涯を苦しんで忍耐して生きましたが、その苦しみを超えて神様に愛され、恵みを与えられて生涯を終わりました。ヨブの生き方は単に苦労して生きたということではなくて、神様に愛されて忍耐の生涯を生きたということであります。

 

 こうして本日の箇所の後半を読んできてわかることは、今日の箇所の前半に記されていた、私たち一人ひとりが「なすべき善」というものは、実は、過去の人たち、たとえば旧約聖書預言者たちやヨブが忍耐して生きて、そのことを通して神様から愛された、そのことに関係があるということです。

 なすべき善、という言葉を聴いて、皆様は何を思い浮かべるでしょうか。何かの善行、良い働き、慈善活動や道徳的なことを思うこともできますし、また、教会のために働くとか、キリスト教のために働くといった考え方もできるでしょう。しかし、本日の箇所が私たちに伝えることは、そうしたことに限定されていません。そうではなくて、忍耐を必要とすること、忍耐を必要とする、何かのなすべき善、それを自らが神様から与えられて発見する必要があるのです。

 

 ここで言われていることは、今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、……というように計画を立てること自体を悪いと言うのではありません。そうではなくて、本当は自分が忍耐してなすべきことがあるのに、そこから逃げて、将来の計画を立てる、ということが間違っているのです。なすべき善のための忍耐を避けて、自分の自分の求めることのためにだけ、自分の将来の計画を立てているならば、わたしたちはいつか、失敗をします。それは、計画の立て方が悪いから失敗するのではなく、神様を忘れてしまっているがゆえに失敗をするのです。

 本日の説教題は「明日の一日が与えられたら」と題しました。それは、明日というものが、もし自分に与えられたら、そこで自分のためだけの計画を立てるのではなくて、まず、いま忍耐が必要なことを明日も続けよう、という思いが必要ではないかと考えたのです。もちろん、放って置いても明日というものやってきます。神様を信じても信じなくても、明日はやってきます。マタイによる福音書でイエス様はこう言われました。「父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」。この通り、誰にでも「明日」はやってきます。

 

 けれども、そのことは、神様からの恵みであるので、私たちは、明日という日を、神様と一緒に用いることが必要なのです。そのことを神様と共にできる明日でありたいと願います。そうして、どなたもが、今週一週間を主イエス・キリストとともに歩めますよう、お祈りします。

 

 お祈りいたします。
 主なる神様、明日、自分がどうなるかわからない私たちが、互いに祈り合い、支え合って生きています。明日の一日が与えられるなら、そこで自分が忍耐して担う、なすべき善を行うことができますように、導いてください。一人ひとりに深い平安と明日への導きをお与えください。この祈りを、主イエス・キリストの名を通してお献げいたします。
 アーメン。

 

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 2020年7月12日(日)京北教会礼拝説教

「帰ろう、ここへ、主のもとへ」牧師 今井牧夫

 

 聖 書 ヤコブの手紙  5章 13〜20節(新共同訳)

 あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。

 喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。


 あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、

 主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。

 

 信仰に基づく祈りは、病人を救い、

 主がその人を起き上がらせてくださいます。

 

 その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。

 

 だから、主にいやしていただくために、

 罪を告白し合い、

 互いのために祈りなさい。


 正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。

 

 エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、

 雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、

 三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。

 

 しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、

 地は実をみのらせました。

 

 わたしの兄弟たち、

 あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、

 だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、

 

 罪人を迷いの道から連れ戻す人は、

 その罪人の魂を死から救い出し、

 多くの罪を覆(おお)うことになると、

 知るべきです。

 

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(以下、礼拝説教) 

 本日の聖書箇所は、5月から続けて礼拝で読み続けている、ヤコブの手紙の5章の終わりの部分です。このヤコブの手紙を礼拝で読むことは、本日で終わりです。

 

 ヤコブの手紙は、手紙という名が付けられていますが、実際には、これは手紙というよりも、ひとつの説教と考えられています。当日の地中海沿岸などの各地の教会において、礼拝のときに、こうした説教がみんなの前で読み上げられていたと考えることができます。そういう意味で、特定の誰かに対する手紙ではなく、幅広く、どこの教会に人に対しても通用するような内容の、説教として書かれ、それが手紙のように、各地の教会に届けられ、礼拝で朗読されていたと思われます。そして、このヤコブという名前は当時によくある、ありふれた人の名前でしたので、どのようなヤコブであったかはわかりません。イエス様がおられた時代の人ではなく、かなり後の時代の人物と考えられています。

 

 そのようなヤコブの手紙における説教の、締めくくりの部分が本日の箇所です。締めくくりにしては、少し終わり方が唐突で、プツッと切れているような感じもしますが、これは普通の手紙ではなく説教だとすれば、この箇所を朗読する役割の人が、この最後まで読み上げたあとに、一言お祈りをして説教を終わっていたのかもしれませんね。説教であれば、そうおかしくない最後だともいえます。

 

 本日の箇所では、比較的わかりやすいことが言われています。苦しんでいる人は祈りなさい。喜んでいる人は賛美の歌を歌いなさい。病気の人は治療したうえで長老に祈ってもらいなさい。そういうことが言われています。また、罪を告白しあい、赦し合うことの大切さが言われています。そして後半では旧約聖書の登場人物であるエリヤを例に出して、祈りの大切さが言われます。これは旧約聖書の列王記上17章の物語のことで、エリヤという人が神様の御心に忠実な祈りをしていたことから、例に出しているということです。そして最後には、真理から離れていく人、迷いの道にある人を連れ戻す、ということが、いかに重要なことであるか、ということが言われています。

 

 以上のように、本日の箇所の全体を読みますと、この箇所全体に共通していることは、教会に集う人たちに対して、その教会の交わりのなかで、どのように生活すべきか、何を心がけるべきか、ということが言われています。このヤコブの手紙全体が、読む人に問いかけている大きなテーマは、「教会とは何か」ということです。そして今日の箇所はそのテーマをしめくくるものとして、教会のなかでどのように生活し、何を心がけるか、ということが言われています。

 

 では、現代の日本社会に生きている私たちが、本日の箇所を読むときに、この箇所は、私たちに、どのような教会生活をすることを呼びかけているのでしょうか。そのことを考えるときに、ヒントになることを、申し上げます。

 

 それは、このヤコブの手紙全体が持っているひとつの特徴です。それは、このヤコブの手紙には、イエス・キリストという言葉は、1章の最初の挨拶の言葉を除くと、2章のところに1回だけしか出てこないということです。つまり、イエス・キリストという言葉は、ヤコブの手紙では、本文の中では1回しか出てない、つまりほとんど出て来ないということです。その1箇所以外、イエス様のことは出て来ない、という、このことが何を意味するかです。

 

 ある学者は、このヤコブの手紙は、本文の中で1回だけイエス・キリストという言葉が出てくることを除けば、これはユダヤ教の書物と別に変わりはないと言いました。つまり、このヤコブの手紙は新約聖書の一部ではあるければも、その内容は、キリスト教だけに通用するのではなくて、ユダヤ教にも通用するということです。

 というのは、ヤコブの手紙の内容は、キリスト教の教えの特徴である、主イエス・キリストの福音とか、イエスの十字架の死の意味が罪のゆるしであるとか、イエスが復活して今も私たちと共におられるとか、そうしたキリスト教独特の教えが直接出てこないからです。そうしたキリスト教固有の教えを説くのではなく、神様を信じる共同体の中にある矛盾や問題、すなわち共同体の中での差別や偽善を問題にすることが、ヤコブの手紙の特徴です。だから、ヤコブの手紙はキリスト教でなくてもユダヤ教でも通用する内容です。

 

 すると、その考え方でいけば、次のように言うことも可能だろうと私は思っています。それは、旧約聖書があちこちで引用されていることを除けば、ヤコブの手紙の内容は、キリスト教ユダヤ教以外の宗教にも、おそらく通用するだろう、ということです。どうしてかというと、ヤコブの手紙に書かれていることというのは、特定の宗教の教えを説いているというよりも、どの宗教を信じていたとしても直面する、その宗教の共同体の内部に起こる問題を、鋭く突いているということです。そこに、ヤコブの手紙の大きな特徴があります。

 

 もちろん、ヤコブの手紙は確かに新約聖書の中の文章のひとつですから、これがキリスト教の文章であることは間違いがありませんし、そこに記された共同体、すなわち神様を信じる共同体とはキリスト教会であることは当然です。けれども、ヤコブの手紙の特徴は、そうしたキリスト教会というのものを、他の宗教に比べて特別なものとして扱っていないのです。

 

 そればかりか、キリスト教が当時実際に直面していた問題が、その共同体の中における差別と偽善、矛盾であったことを、赤裸々に示すことによって、キリスト教の問題が何であるか、ということを鋭く突いています。そういう意味で、ヤコブの手紙は、新約聖書の他の手紙、たとえば使徒パウロが書いたいくつもの手紙とは違った個性を発揮しています。

 

 ヤコブの手紙2章3節には次のように記されています。「立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席におかけください』と言い、貧しい人には『あなたは、そこに立っているか、わたしの足元に座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは自分たちの中で差別をし、誤った考え方に基づいて判断を下したことになるのではありませんか。」

 このように、ヤコブの手紙は、教会のなかで貧富の差をもとに起こる差別を批判しています。また2章24節には、次の言葉があります。「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」こうした言葉は、信仰は行いと一つであることを示しています。

 そのよう言葉が記されているゆえに、ヤコブの手紙は、たとえば宗教改革で有名なマルチン・ルターのような神学者からは、強く批判されています。ヤコブの手紙は「わらの手紙」だというのです。わらの手紙とは、麦わらのように、価値が低いものという意味です。

 

 それはなぜかというと、人は行いによってではなく信仰によってこそ、神に救われるという、ローマの信徒への手紙にあるような、いわゆる信仰義認の教えがキリスト教の最も大切な主張であるにもかかわらず、ヤコブの手紙は、信仰と行いはひとつだとして、行いの大切さを主張しているからです。

 

 しかし現代の私たちは、宗教改革の時代とは違いますから、マルチン・ルターと同じ考え方をすることはできません。むしろ、信仰と行いはひとつだ、というヤコブの手紙の主張を正しく受け取りたいと思います。そうしなければ、キリスト教の信仰は、精神的な喜びに終わってしまって、現実の人生を生きる喜びから離れてしまうからです。

 そして、ヤコブの手紙が主張している、信仰と行いは一つのことである、ということは、信仰の名において私たちが何か特別なことをしなくてはいけない、という意味ではなくて、実に平凡な行いを、信仰を持って行う、ということです。何かの慈善活動とか、社会奉仕とかの行いをキリスト者の行いと言うのではなく、日々の生活のなかでの平凡な行いを、信仰をもって行うということです。

 ですから、その行いというのは、キリスト教特有の何かの行いというのではなくて、社会のなかで誰でもできることです。それは、宗教の違いや民族・国籍・出身地の違い、また、性別や心身の障がいのあるなしなどに関わりなく、どの人間であっても同じく神様から求められている行いがある、という意味で、信仰を持って行うべきことをヤコブの手紙は主張しています。

 

 では、ヤコブの手紙のメッセージを、現代の日本社会の中に生きる私たちが正しく受けとめていくとしたら、どうしたらいいのでしょうか。再び、今日の聖書箇所に戻って考えてみます。今日の箇所には、教会のあるべき姿が記されています。この姿に私たちの今日の教会、そして私たちの京北教会の歩むべき姿が記されています。

 

 ここに書かれていることをごく短くまとめていうと、次のように五つの言葉にまとめることができます。祈り、うた、いやし、罪の赦し、つながりの回復。この五つです。この五つの言葉を、本日の週報の中の「聖書と宣教のことば」欄にも書かせていただきました。この五つを大切にすることが本日の聖書のメッセージであり、神様から私たちへの呼びかけです。

 祈りとは祈りです。うたとは讃美歌や音楽、また言葉で神様に感謝を献げることです。この祈りとうたということは礼拝ということでもあります。そして、いやしは病のいやしです。これは具体的な病気に限らず、人間を苦しめるものすべてからのいやしです。そして罪の赦しとは、イエス様によってすべての罪が神様の前でゆるしていただけるということです。そして最後の、つながりの回復、という言葉は、本日の箇所で直接言われていない言葉ですが、迷い出た人を連れ帰るとということの意味を考えて、それはつながりの回復という意味だと私は考えました。

 

 そうした本日の聖書箇所を踏まえて、本日の説教題は「帰ろう、ここへ、主のもとへ」と題しました。これは、コロナ問題のために礼拝に集まることができなくなってしまった、今の時代のなかで、もういちど主のもとに帰ろう、共に礼拝しよう、ということを意味しています。どこか別のところに帰るのではなくて、ここへ、この京北教会に帰ってこよう、ここに主のもとで礼拝する場所がある、という意味です。

 

 もちろん、週報に書きましたように、これからも京北教会では、新型コロナウイルス問題への対策を継続しますので、礼拝堂の礼拝への出席は、どなたに対しても呼びかけません。命を守る意味で、個人での礼拝をお勧めします。しかし、一方で、私たちには帰るところがある、連れ戻される場所がある、それが、ここだ、この教会だ、という思いを、どこの場所で礼拝するとしても、皆様お一人おひとりに持っていただきたいのです。

 本日、ヤコブの手紙をちょうど終わります。ここで今までの礼拝にひと区切りを付けることになります。コロナ問題が始まって以来、それまで想像もしなかったような日々のなかで、私たちは感染対策をしながら礼拝を続けてきました。これからも礼拝を続けます。そのなかで、教会にとって大切なことを、みなさんと共に大事にしていきたいと思います。

 

 本日のヤコブの手紙で言われている五つの大切なこと。それは、祈り、うた、いやし、罪の赦し、つながりの回復です。この五つのことは、どれも、キリスト教だけの教えではありません。どの宗教だって似たようなことをどこかで言っているだろうなと私は思います。そういう意味で、平凡なことです。けれども、その平凡なことを、イエス様といっしょに心をこめて行うことが、まさにキリスト教、まさに教会ではないかと私は思います。祈り、うた、いやし、罪の赦し、つながりの回復。この五つをこれからも、主イエス・キリストとともに、この京北教会で、またそれぞれの日常の場で、皆様がそれぞれのやり方で実行してくださることを、心から願います。

 

 そうして、どなたもが、
 今週一週間を、主イエス・キリストとともに歩まれることを期待します。

 

 お祈りいたします。
 主なる神様、私たち一人ひとりに、深い平安と明日への導きをお与えください。コロナ問題を協力して乗り越える力を、世界で生きるすべての人にお与えてください。私たちの教会に、祈り、うた、いやし、罪の赦し、つながりの回復、この五つのことを豊かにお与えください。この祈りを、主イエス・キリストの名を通してお献げいたします。
 アーメン。

 

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 2020年7月19日(日)京北教会礼拝説教

「再度、人間の光を求めて」 牧師 今井牧夫

 

 聖 書 マルコによる福音書  1章 1〜8節(新共同訳)

 神の子イエス・キリストの福音の初め。

 預言者イザヤの書にこう書いてある。


 「見よ、わたしはあなたより先に使者をつかわし、
  あなたの道を準備させよう。

  荒れ野で叫ぶ者の声がする。

  『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

 そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、
 罪のゆるしを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、
 ヨハネのもとに来て、

 罪を告白し、
 ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

 ヨハネはらくだの毛衣(けごろも)を着、
 腰に革の帯を締め、

 いなごと野蜜を食べていた。

 彼はこう宣べ伝えた。

 「わたしよりも優れた方が、

  後から来られる。


    わたしは、かがんでその方の履き物のひもを解く値打ちもない。

    わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、
    その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 

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(以下、礼拝説教) 

 本日の礼拝から、皆様と共に、マルコによる福音書を読んでいきます。マルコによる福音書は、4つある福音書の中で最も古くに書かれた福音書だと考えられています。最も古いがゆえに、他の3つの福音書に比べると、素朴で短く簡潔に書かれているという印象があります。しかし、そのことは、マルコによる福音書が他の福音書に比べて単純であるとか、内容がよく練られていない、というようなことを意味するのではなくて、逆に、マルコによる福音書が、そのあとに書かれた他の福音書にとって、出発点、土台になっているということができます。その意味で、マルコによる福音書は、今日の私たちにとって、主イエス・キリストの福音、良き知らせというものの意味を知るための、土台であるといえます。

 

 本日の箇所は、マルコ福音書の最初の部分です。最初の言葉は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という単純な言葉です。それは、このあとに記される洗礼者ヨハネの働きが、イエス・キリストのお働きに先だって行われた、そのことがもうすでに、主イエス様の福音の初めだったということを示しています。つまり、福音書が言う福音、これは「良い知らせ」、グッドニュースという意味ですが、それは主イエス・キリストが語った言葉だけでなく、イエス様が来られる前の、いわば予告編のところから、すでにその福音、良き知らせが始まっていた、ということを意味しています。

 

 本日の箇所には、旧約聖書イザヤ書の言葉が引用されています。ここで「わたし」とあるのは神様のことで、「あなた」というのはイエス様のことです。つまり、神様がイエス様に、あなたが活動する前に、一人の人を先に遣わそうと語った、という意味で、旧約聖書イザヤ書の言葉が解釈されています。ここには、このあとに出てくる洗礼者ヨハネの登場が、実は旧約聖書に預言されていたことだった、と解釈することで、ヨハネの活動が神様の御心であったことを示しています。こうした旧約聖書の預言の実現、ということは、その当時の人たちにとって大きな意味を持っていました。それは、はるか昔に、この天地を創造された神様の御心が、歴史の中でずーっと続いて一貫しており、その神様の御心によって新しい時代が始まったのだ、という意味で、このマルコによる福音書の始まりにおいて、これから始まる主イエス・キリストの福音は、はるか昔から神様によって用意されていた、神様のご計画、神様の御心の実現だということが示されています。

 

 具体的には、次のよう記されています。「見よ、わたしはあなたより先に使者をつかわし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」ここで、印象的な言葉が言われています。荒れ野で叫ぶ者の声、これがあとで出てくる洗礼者ヨハネの声です。その声は、こう言います。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」これから来られる主、救いの主がやってこられるための、道を整え、その道筋をまっすぐにせよ、そのように宣言されています。こうして、旧約聖書の言葉を引用して、ヨハネの役割が明らかにされます。それは、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と人々に伝えることでした。

 そして、次にこう記されています。「そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪のゆるしを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」

 

 ここで洗礼者ヨハネという人が、初めて登場します。罪のゆるしを得させるための悔い改めの洗礼を宣べ伝え、それに答えて多くの人たちが、ヨルダン川で洗礼を受けたのでした。このときの洗礼は、ヨルダン川という大きな川の水の中に、じゃぶんとつかって、悔い改めのお祈りをして、水の中に全身を沈め、そしてその川の水から上がってくることで、罪を清めて新しく生き直していく、そういう儀式だったと考えることができます。

 

 これは、その後の時代における教会、たとえば私たちの京北教会でしている洗礼式とは、違いがあります。というのは、キリスト教会での洗礼は、単に罪の悔い改めだけではなく、イエス・キリストを主と信じて新しく生きていく、という意味がありますが、洗礼者ヨハネの洗礼は、罪の悔い改めということにとどまっていました。そこに違いがありますが、教会での洗礼もまた、その土台は川の水で自らの罪を清めるということにあった、ということを覚えておきましょう。

 

 ヨハネは、人里離れた荒れ野に住み、いなごと野蜜を食べて暮らしていたと書かれています。それは、人間が住む町を離れ、人間の様々な欲望から離れて、神様の御心に生きようとしていたことを示しています。

 

 さて、そのような洗礼者ヨハネの言葉が人々のところに届いて、多くの人がヨルダン川ヨハネから洗礼を受けました。その人たちのなかには、このヨハネこそが、自分たちが待ち望んでいた救い主ではないかと考える人たちもいました。ヨハネに様々な期待をかけたようです。というのは、その時代においては、イスラエルの国はローマ帝国の植民地であり、軍事的・経済的・社会的に、大きな抑圧のもとにあったからです。

 

 なかでも一番の問題は、イスラエルの人たちが信じている旧約聖書に記された神様への信仰をつらぬくことが難しく、神への信仰よりもローマ皇帝への忠誠を、信仰の形で誓わせられることもあったようです。信仰の自由が保障されない植民地生活のなかで、抑圧された民衆は、いつか自分たちのために神様が救い主を送ってくださる、と信じていました。その救い主が、この洗礼者ヨハネではないか、と人々は期待をかけたようです。

 

 しかし、洗礼者ヨハネは、自分はそうではない、とはっきりと示しました。次のようにヨハネは語っています。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履き物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」こうして、ヨハネは、自分のあとに来られる主イエス・キリストこそが、本当の救い主であって、イエス様こそが聖霊、神様の聖い霊によって新しい命を与えてくださる、ということを語っています。


 以上のようにして、本日の聖書箇所は終わっています。この次のところから、主イエス・キリストが登場し、いよいよ主イエス様の福音、神の国の良き知らせ、ということが宣教されることになります。そのため、本日の箇所は、その本題が始まる前の、言わば呼び水あるいは前座といっても構いません。

 

 けれども、本日の箇所を、ただ単に本題の呼び水、あるいは前座とだけとるのであれば、もったいないと思います。というのは、本日の箇所は、今日の現代日本社会において聖書を読む人、キリスト教に触れる人に対して、大きな意味をもっていると思うからです。その理由は、本日の聖書箇所は、主イエス様が公の宣教活動を始める直前までの状況説明をしているのですが、それにもかかわらず、ここには、ひとつとして、クリスマスの出来事が記されていない、ということです。クリスマスの出来事というとわかりにくいので、別の言い方をしますと、イエスがどこでどんなふうにこの世に生まれたか、ということがひとつも書かれていないということです。それだけでなく、イエスが、どんな家系の一族から生まれたか、とか、どんな親でどんな家族でどんな地域で育ったか、どんな子どもでどんな若者に育ってどんな仕事についたか、といった、イエスがどういう人であるか、というイエスの人物像がひとつも書かれていない、ということです。

 

 他の福音書を見ますと、マタイによる福音書ルカによる福音書では、いわゆるクリスマスの出来事、イエスのお生まれに関する様々な物語が記されています。またヨハネによる福音書では、イエスのお生まれの意味が神の言葉がこの世に来たことであるとして、クリスマスの意味が語られています。そうした他の福音書にはあるクリスマスの意味を語る文章が、マルコによる福音書にはひとつもありません。ここに大きな特徴があるとともに、私は思います。これは、とても大きな神様の恵みだと。それは、もっとも古くに書かれた福音書には、クリスマスの物語はなかった、ということは、主イエス・キリストの福音は、もともと、クリスマスの物語を必要としていなかったということです。

 

 いま、私はここで、この「クリスマス」という言葉に、特別な意味をこめて使っています。それは、私たちが教会に来るときに感じる、キリスト教的な特別なイメージを代表するもののひとつが、クリスマスだからです。クリスマスツリーやサンタクロース、クリスマスの様々な音楽、クリスマスのプレゼント。そして様々な人と人との出会い。その1つ1つが、教会にとって大切です。マルコによる福音書の最初の部分に、クリスマスの出来事がない、ということは、クリスマスなんてお祝いしなくていいとか、クリスマスなんてなくていい、ということを意味しているのではありません。そうではなくて、クリスマスというものは、最初はなかったのだということです。そして、だれがクリスマスを必要としたかというと、それは、神様ではなくて、私たち教会に集う人間がクリスマスを必要とした、ということです。

 

 最初に書かれたマルコによる福音書には、クリスマスの記事はありませんでした。しかし、その後に記された3つの福音書には、何らかの形でクリスマスの物語かその意味の解釈が記されています。なぜマルコによる福音書にないものが、他の福音書にはあるのでしょう。それは、聖書を読む人々がそれを必要としたからです。なぜかというと、人間は、信仰に夢を求めるからです。
 私は思いますが、おそらく人間は、信仰というだけでは生きられないのではないかと思います。信仰というだけではなくて、そこにほんの小さなことであってもいいから、夢がほしいのです。それを必要としているのは、神様の側ではなくて、人間の側です。単なる信仰だけではなくて、何かひとつ、小さなことであっても夢が見たい、幸せを実感したい、そうした人間の思いが物語を必要とします。その必要に応じて、日々の糧をくださるのと同じく、神様が私たちにくださったのが、マタイ、ルカ、ヨハネの3つの福音書にあるクリスマス、あるいはクリスマスの意味を示す物語です。そこにあるクリスマスの夢、人間を幸せにするメッセージは、これからも教会において大切にしていくべきであります。

 

 けれども、マルコによる福音書は、イエスをこの世に登場させるにあたって、クリスマスを必要としませんでした。そして、クリスマスの物語の代わりにといってもいいですが、その代わりに、洗礼者ヨハネが宣べ伝えた、悔い改めの洗礼の話から福音書が始まります。このことは、キリスト教の信仰の本質は、クリスマスから始まるのではなくて、自分自身の悔い改めから始まる、ということを指しています。キリスト教信仰の本質は、夢の物語ではなく、現実の自分自身の悔い改めと、現実に起こる救いの物語です。

 この悔い改めとは、単に自分が悪い人間でしたということを言うというのではなく、今まで自分は神様との関係がまっすぐではなかったと、ということを一番の罪として、神様の前で悔い、そして改めることです。単なる道徳的な反省ではありません。これからは、神様の方向を向いて生きることを、自分の救いとして生きていきます、という生き方の方向性の転換を表します。

 

 その悔い改めは、悔い改めだけで終わるものではありません。悔い改めのあとにやってくる、本当の救いを待ち望みます。悔い改めだけならば、そこには反省と自己の責任追及はあっても、救いはありません。悔い改めのあとにやってくる、まことの主の救いのみわざがなければ、人の心は暗いままです。私たちは、悔い改めるときには、そのあとに必ず、主イエス・キリストに救われなければなりません。

 

 本日の説教題は「再度、人間の光を求めて」と題しました。もういちど、人間にとっての本当の光を追い求めたい、そういう願いをこめています。キリスト教を信じている人間は、理屈でいえば、すでに救われた人間のはずです。しかし、現実の人間はそんなふうに、すでに救われて、もう何もかも大丈夫とはなりません。繰り返し繰り返し、この社会のなかで、世界のなかで、様々な不安に襲われながら、孤独のなかで生きていきます。その道のりにおいて、もういちど、神と呼ばれる何かの大きな存在に向き合ってみたい、そこに、主イエス・キリストの福音があるのなら、そこでその福音に出会って、もういちど、人間にとっての光を見出したい、そのように思います。そうして、どなたもが、今週一週間を主イエス・キリストとともに歩まれることを期待します。

 

 お祈りいたします。
 主なる神様、私たち一人ひとりに、出会ってください。困難に襲われているすべての人に、主イエス様のともしびによって照らされる、人間の救いのための光をお与えてください。この祈りを、主イエス・キリストの名を通してお献げいたします。
 アーメン。

 

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 2020年7月26日(日)京北教会礼拝説教

「イエス様を信じる夢、教会」 牧師 今井牧夫

 

 聖 書 マルコによる福音書  1章 9〜15節(新共同訳)

 そのころ、イエスガリラヤのナザレから来て、

 ヨルダン川ヨハネから洗礼を受けられた。


 水の中から上がるとすぐ、

 天が裂けて“霊”が鳩のように御自分にくだってくるのをご覧になった。

 

 すると、

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という声が、

 天から聞こえた。

 

 それから、

 “霊”はイエスを荒れ野に送り出した。

 

 イエスは四十日間そこにとどまり、

 サタンから誘惑を受けられた。

 その間、

 野獣と一緒におられたが、

 天使たちが仕えていた。

 ヨハネが捕らえられた後、

 イエスガリラヤへ行き、

 神の福音を宣べ伝えて、

 

 「時は満ち、

  神の国は近づいた。

  悔い改めて福音を信じなさい」

 と言われた。

 

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(以下、礼拝説教) 

 先週の礼拝から、皆様と共に、マルコによる福音書を読んでいます。本日の箇所は、マルコ福音書の最初を過ぎて、イエスが初めて登場する部分です。他の福音書に比べると、マルコによる福音書では、福音書の始まりから、イエスが公の活動を始めるまでの間が、本当にあっという間です。著者は、イエスが公の活動を始めるまでの間、どんな生まれでどんな成長をして、どんな人物であったかということに、ほとんど関心がないかのように、それらをすっ飛ばして、本論へと入っていきます。つまり、マルコによる福音書においては、イエスの人物像ではなく、イエスにおいて現された「神の言葉の働き」がどのようなものであったか、ということに、重点が置かれているのです。

 

 神の言葉は、イエスの生涯において、どのように働いたか、ということが、この福音書の最初のイエスの登場の場面で、すでに示されています。9節にこうあります。「そのころ、イエスガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川ヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、

 天が裂けて“霊”が鳩のように御自分にくだってくるのをご覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者』という声が、天から聞こえた。」ここで、この福音書において、初めて、神様の言葉が登場しています。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という言葉です。この神の言葉が、この福音書において、イエス自身の言葉が記されるよりも先に記されています。

 

 マルコによる福音書の始まりである、1章2節には旧約聖書イザヤ書の言葉が記されています。その次には洗礼者ヨハネの言葉が記されています。そしてさらに、神様ご自身の言葉が本日の箇所に記されています。こうして、イエスの公の活動の前に、イエスの活動の意味を証しする言葉が、聖書の預言者、洗礼者ヨハネ、そして神様ご自身、という3つの形で、マルコによる福音書の冒頭には記されていることがわかります。こうした流れには、イエスの公の活動は、神の言葉の働きによって、その意味が証しされ、神の言葉によって、イエスが世に出た、ということを示しています。

 

 他の3つの福音書では、イエスがどのように、この世に生まれたか、という、いわばクリスマスの出来事が最初に記されています。それに対して、マルコによる福音書では、イエスがどのようにこの世に生まれたか、ということではなくて、イエスがどのように世に出たか、ということに関心があるのです。どう生まれたか、ということではなく、どう世に出たのか、ということが、マルコによる福音書では重要なのです。

 

 そのことについて、本日の箇所にあるように、イエスが世に出たのは、神の言葉の働きによるものである、ということがはっきりとここで語られています。旧約聖書に記されたように、洗礼者ヨハネが現れました。その洗礼者ヨハネが語ったように、まことの救い主イエスが現れました。そして、イエスヨハネから洗礼を受けました。そしてその洗礼を受けたときに、天から神様の言葉が聞こえました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」。

 

 こうした流れの中で現されていることがあります。それは、歴史のなかで、神の言葉の働きが、こうしてバトンタッチされる形で、イエス様のところに現れた、ということです。まず旧約聖書の言葉、そして洗礼者ヨハネの言葉、さらに神様からの直接の天からの言葉、こうして3つの言葉が記されるとき、そこには、神の言葉の働きが、聖書、預言者、そして直接の神様の言葉という形で、次々に、いわばバトンタッチが行われています。

 そしてその言葉の働きが、そのあとにある、本日の箇所の15節にある、イエス様ご自身の言葉へと続いています。いわば、こうして神の言葉は、旧約聖書からイエス様ご自身の言葉へと、バトンタッチしながら紡がれていった、ということが、このマルコによる福音書の最初の1頁のなかで、簡潔に、そして力強く、語られています。それはまさにこの福音書の一章一節にある言葉、「神の子イエス・キリストの福音の初め」というものは、歴史をつらぬいて現れる、神様からの言葉のバトンタッチである、ということを示しています。

 

 そのようなことを心にとめながら、本日の箇所をより具体的に見ていきます。9節にはイエスヨハネからヨルダン川で洗礼を受けたことが記されています。この洗礼とは、一人ひとりの人間が、神様の前で罪を悔い改めることを示す儀式です。ヨルダン川の水に全身でつかって、そこから上がってくることで、自らの今までの人生を悔い改め、清められて、新しく生き直すことを態度で示す、ということが、このときの洗礼者ヨハネによる洗礼でした。

 これは、その後の時代におけるキリスト教会における洗礼とは、意味に違いがあります。教会での洗礼は、罪の悔い改めだけではなく、イエス・キリストを自らの救いの主として受け入れて信じ、イエス・キリストと共に新しく生きる、そのときに神様の聖い霊、聖霊を与えられる、という大きな意味があります。それに対して洗礼者ヨハネが施していた洗礼は、罪の悔い改めのみを行う儀式でした。

 

 ですから、そこに違いがありますが、後の時代のキリスト教会の洗礼も、もとは洗礼者ヨハネの洗礼が土台であったことは確かです。そして、イエス様ご自身が、公の活動に先立ってまずヨハネから洗礼を受けられた、ということの意味は、神を信じる者の公の生き方は、まず洗礼を受けることから始まる、ということをイエス様ご自身が身をもって示してくださったことである、と後の時代の人々は理解しました。

 

 本日の箇所において、イエスがなぜ洗礼を受けたか、その理由は何も書いてありません。また、イエス様ご自身の心境など、心の内面に何があったか、ということも何も書いてありません。マルコによる福音書では、イエスがどんな人物であったかという人物像に関心があるではなく、神の言葉がどのようにイエスに現れたか、ということ、つまり、神の言葉の働きに関心があります。

エス様がヨハネから洗礼を受ける場面において、10節で次の通り記されています。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分にくだってくるのをご覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という声が、天から聞こえた。」

 

 この場面で、いきなり天からの神様の言葉が記されています。このことには大きな意味があります。それは、普通であれば、川の水に全身つかって、そこから上がってきたイエス様に言葉をかけるのは、その場にいる洗礼者ヨハネのはずです。ところが、ヨハネではなくて、神様ご自身の言葉がここで天から響いてきます。それは、この洗礼が、ヨハネという人間が行った儀式ではなく、神の言葉によって導かれた出来事である、ということをはっきりと示しています。ここで洗礼を受けて川から上がってこられたイエス様を迎えるのは、ヨハネではなく、天が裂けて、そこから鳩のようにくだってくる、神様の霊でありました。

 

 ここで、この霊という言葉に、コーテーションマーク、小さなチョンチョンとした記号が付けられています。これは、この聖書が新共同訳として新たに翻訳されたときの編集方針の1つですが、霊という言葉には様々な意味があり、たとえば、単に目に見えない何かの力というようにも理解されます。ですから、そういう単に目に見えない何かの力という意味ではなくて、神様ご自身、ということを現す意味で、霊という言葉が使われている場合は、このようなコーテーションマークを付けるというのが、新共同訳聖書の決まりです。

 

 ここで、洗礼を受けて川の水から上がってこられたイエス様を迎えたのは、天から降(くだ)ってきた神様ご自身の霊でした。そしてその霊は、天が裂けて鳩のようにくだってきた、と記されています。後の時代に、神様の聖い霊、聖霊を象徴する姿として、鳩がイメージされるようになります。その発端はここにあります。そして、鳩というのは、旧約聖書のなかでは、神様との平和、とか神様との和解、ということを意味しています。それは、旧約聖書の創世記のノアの箱舟の物語のなかで、40日間やまない雨によって世界がすべて洪水で流されてしまったあとに、その水がひくことを人間に初めて伝えたのが、鳩だったという物語から来ています。

 

 本日の箇所においては、その鳩というものが、神様からの大きな祝福を伝える姿として、描かれています。こうして神様からの平和、神様からの和解、という大きな力が、洗礼を受けられたイエス様のところに祝福としてやってきます。そしてここで神様の言葉が天から響きます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者。」

 この場面のあと、12節には、神様の霊が、イエス様を荒れ野へと導いた事が記されています。ここでも霊という言葉にコーテーションマークが付けられていて、この霊というものが神様ご自身の働きであることが示されています。そして、その荒れ野に40日間イエス様がとどまったときに、サタンから誘惑を受けられたと記されています。この誘惑とは、ルカによる福音書によれば、イエスが神の子として持っている力を、人間的な願望のために使うことへの誘惑でありました。マルコによる福音書ではそのような詳しいことは一切書かれていませんが、イエス様まわりに荒れ野の野獣たちがいたように、様々な危険がイエス様の周りにあったということが示されています。しかし、天使たちが仕えていたので、イエス様は守られていました。ここでの天使たちとは、神様の力を現しています。神様の具体的な力が荒れ野でイエス様を守っていました。

 

 そして、そのあとに、今度はイエス様に洗礼を授けた洗礼者ヨハネが、当時の王様によって捕らえられます。そのあとから、主イエス・キリストの福音宣教が始まります。ここでは次のように記されています。「ヨハネが捕らえられた後、イエスガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」


 以上のようにして、本日の聖書箇所は終わっています。ここでの「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉が、マルコ福音書の中で初めて語られたイエス様の言葉です。ここで言われる「時は満ち」とは、ついにその時が来た、という意味です。「神の国は近づいた」とは、神様の恵みが一杯に満ちている世界というものが、この現実の世界のただなかに、今から本当に現れようとしている、という意味です。この言葉は、単に人間としてのイエスの言葉ではなく、いま、この時代において、私たちの生きる世界に飛び込んできた、神様の言葉であり、その言葉を伝えたがゆえに、主イエス・キリストは神の子と信じられているのです。

 

 神の子、という言葉は、福音書において特別な意味を持っています。それは、イエス・キリストは、人間であると同時に神の子である、ということを示しており、つまり、イエス様は人間だけど、同時に、神様にとって特別な存在である、ということを示しています。この場合の、神の子、という言葉は、たとえばギリシア神話にあるように、父親になる神様がいて、母親になる神様がいて、その間に生まれた神の子、というように神話の世界で語られる神の子という言葉とは意味が違っています。聖書の福音書においては、神の子、イエス・キリストは、そうした神話的な世界観のなかで表現される神の子ではなく、本日のマルコによる福音書にあるように、神様から特別な存在として愛された一人の人、という意味で神の子と呼ばれています。それが、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という、天からの言葉として表現されています。 

 

 この、天から神様から語ってくださった言葉を、本日、私たちはこの礼拝において、みんなで味わっていきたいと思います。ここには、イエス・キリストが私たちのために神の言葉を伝えてくださるようになった、一番最初の出来事のなかには、神様がまずイエス・キリストを我が子として、愛された、という、夢のような出来事があったということを信じるためです。

 

 本日の説教題は「イエス様を信じる夢、教会」と題しました。私たちがいるこの京北教会は、本日の聖書箇所に現されているように、神様から我が子として愛されたイエス様を、私たちもまた愛して、信じていく、そのためにあります。それは、この現実世界のなかで生きる人間にとっては夢のようなことに思えます。しかし、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という言葉は、神様がイエス様を愛して、福音宣教に押し出される言葉でありました。それと同じく、今日の私たちもまた、一人ひとりが、神様から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と呼ばれて愛されています。それは夢です。しかし、教会はその夢を信じています。そうして、どなたもが、今週一週間を主イエス・キリストとともに歩まれることを期待します。

 

 お祈りいたします。
 主なる神様、この困難な世界を生きる人間一人ひとりに、神の言葉による救いをお与え下さい。この祈りを、主イエス・キリストの名を通してお献げいたします。
 アーメン。

 

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