京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2020年4月12日(日)イースター(主の復活日)以降、復活節説教集

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 2020年4月12日(日)イースター(主の復活日)礼拝説教

 

 「空っぽを越える」牧師 今井牧夫

 聖 書 ヨハネによる福音書 20章 11〜18節(新共同訳)

 

 (以下、聖書箇所)

 マリアは墓の外に立って泣いていた。
 泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、

 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。

 一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。

 

 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、

 マリアは言った。

 「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、

 わたしには分かりません。」

 

 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。

 しかし、それがイエスだとは分からなかった。

 

 イエスは言われた。

 「婦人よ、なせ泣いているのか。だれを捜しているのか。」

 

 マリアは、園庭だと思って言った。

 「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。

  わたしが、あの方を引き取ります。」

 

 イエスが「マリア」と言われると、

 彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。

 「先生」という意味である。

 

 イエスは言われた。

 「わたしにすがりつくのはよしなさい。

  まだ父のもとへ上(のぼ)っていないのだから。 
     わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。
      『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、

   あなた方の神である方のところへわたしは上(のぼ)る』と。」


 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、

 「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。


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(以下、礼拝説教)

 本日、イースター礼拝の日を迎えました。主イエス・キリストの復活を記念する礼拝です。教会の暦では2月から受難節に入り、主イエス・キリストの十字架の死を思うときを過ごしました。この受難節の時期は一人ひとりが自分自身の受難、すなわち生きることと死ぬことの苦しみを思うときでもありました。

 

 今年の受難節はまさに文字通り本当の受難節だと思える時期でした。それは新型コロナウイルス感染症が世界的に拡大し、日本において京都においても、私たちはいま不安や恐怖のなかに置かれているからです。世界中がいまウイルスの問題で苦しんでいるなかで、イースターの日が来たことは何を意味しているでしょうか。

 

 毎年毎年、イースターの日が来るときに、わたしの心のなかに浮かぶ思いがあります。それは、イースターの出来事がわたしには受け入れられない、という思いです。十字架に架けられて死んだイエス様がよみがえられた、という聖書の物語は、理性を持った現代人であれば、そう簡単には受け入れられません。多くの人はそうではないかと思います。ここに書かれていることの正しさ、というものを私たちは受け入れられないのです。イースターの出来事だけではありません。この、受け入れられない、という言葉は、聖書のあちこちの箇所を読むとき、人間の心中に、ふつふつとわいてくる実感です。

 この、受け入れられない、という感覚は、私たちの心が空っぽであることを意味しています。イースターの物語、主イエス・キリストのご復活の箇所を読んでも、心が空っぽのままで、心に何も入ってこない、という状態です。

 

 この、私たちは受け入れられない、という、心が空っぽである状態こそが、私たちの出発点です。受け入れられなければ、どうするか。ここを出発点に、ここから、……突然ですが、旅に出たいと思います。旅に出ましょう。自分にとって受け入れられないことがあるとき、旅に出てみると、気分が変わって、受け入れることができるようになることがあります。それは、旅というものが、異なる世界に出会うことであり、何か新しいことを発見することであり、そして自分自身の内面と向き合うことが人から邪魔されないことだからです。

 

 旅に出るといっても、急に旅行に行くわけにはいきません。何より今は不要不急の外出を控えるべき社会情勢です。どこにも行くわけにはいきません。ではどうしますか。聖書のなかにおいて旅をしてみます。本日のヨハネ福音書から少し離れて、旧約聖書の創世記1章に旅をしてみます。そこには天地創造の物語が記されています。

 

 少しだけ読んでみます。1章1節から4節まで読みます。お聴きください。
 「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてを動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。」

 

 この箇所には、暗闇しかなかった世界に神様が「光あれ」と言われて、その神様の言葉によって光が照らしだした、それがこの世界の始まりであったことが記されています。もちろんこれは科学的な意味での歴史ではなく、信仰を表す物語です。聖書は実は旧約聖書の最初の1ページから、科学的な歴史を記すのではなくて、科学的な歴史を人間はどう解釈するのか、という解釈の問題を問うているということがわかりました。こうして、聖書の中を少し旅するだけで、本日のヨハネによる福音書の箇所を読み解く力が与えられました。

 

 もう少し、創世記の物語から学んでみます。暗闇のなかで光あれ、と神様が言われて世界が始まった、そのときの世界には、どんな感情が生まれたでしょうか。感情と言ったって、まだこのときには人間はいませんでした。神様だけがおられました。そして神様は、このときどんな感情を持たれたのでしょうか。創世記1章4節を見ると、「神は光を見て、良しとされた」とあります。良しとされた、良しとした、という言葉は、感情として言えば、どんな感情でしょうか。良しとする、ということが人間でいえばどんな感情になるかといえば、これは表現しにくいですね。

 

 しかし、あえてい言いますと、良しとした、ということは、肯定した、ということです。それでいい、と自らが納得し、そこにある世界の存在を認めた、ということです。それは、人間の感情でいえば、うれしい、とか、楽しい、とかいう感情とは違うものです。それは、なんというか、もっと心の深いところにある安定した感情です。それは、自分のしたことを自分で否定しない、という感情です。自分のしたことを自分として納得し、そのままに肯定するということです。

 

 さて、創世記への旅を終えて、本日のヨハネによる福音書に戻ってきます。この20章11〜18節には、イエス様に付き従った弟子たちの一行とともに行動していたマグダラのマリアが、十字架に架けられて死なれたイエス様の墓にきたときの話です。墓の外でマリアは泣いていました。そのあと、マリアはイエスのなきがらに出会うことができません。天使がいるだけです。マリアは、イエスのなきがらはどこに置かれているのか、と問います。天使なんか見たってしょうがないのです。イエスがいなくなったのに、天使なんかいたって意味がないのです。そうしてイエスを探し続けるマリアの問いに答えて、マリアに捜されているはずのイエス様ご自身が、マリアに尋ねてこられます。「なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」と尋ねてこられました。これは、イエスの存在を問う人間は、逆にイエスから問われていることを示す物語です。

 

 イエスを問う者が、逆にイエスから問われる者になります。このとき、何が起こったでしょうか。本日の聖書箇所には、言葉では書かれていませんが、確実にここで起こった一つのことがあります。それは、墓に来たときには泣いていたマリアが、この空っぽの墓の外で、泣くことをやめたということです。イエスを問う者が、イエスから問われる者になったときに、イエスを失ったと思っていたマリアは、泣くことをやめたのです。そしてマリアはほかの弟子たちのところに行って、伝えました。「わたしは、主を見ました。」

 

 この「わたしは、主を見ました」という言葉は、主イエス・キリストの復活を示す言葉として決定的な言葉です。ここでマグダラのマリアは、イエスがなぜ、どのように復活したか、というような復活の証拠は何一つ語っていません。それはマリア自身にとって、イエスの復活が、理屈としては、受け入れられないことだったからです。マリアが言えることは、イエスの復活を理屈で説明し、証明する言葉ではありませんでした。そうではなくて、「わたしは、主を見ました」という、端的な短い言葉でした。

 

 この言葉には大きな意味があります。それは、この言葉によって、マグダラのマリアは、主イエス・キリストと共に生きる人間になったということです。このときの「見ました」という言葉は、単に目撃したという意味ではありません。そうではなくて、わたしは、主を信じました、ということによって、これからわたしは生きていく、という意味です。これは、イエスがいなくなって空っぽになったあと、突然に開けた新しい世界に、主イエス・キリストの導きによって踏み出していく、一人の女性の言葉です。

 

 「わたしは、主を見ました。」そのように人に対して自分が語る、ということの責任は、主イエス・キリストが必ずとってくださると確信したとき、マリアはこの言葉が言えたのです。もはや、私はイエスを問う側の人間ではない。私はイエス様から問われて、泣くことをやめた。私はイエス様から問われたことに答えて生きていくのだ、というマリアの気持ちが表されています。

 

 人間は、思いがけないことに出会ったとき、受け入れられない、と誰しもが思います。しかし、そのことが出発点になって、わたしたちは新しい世界に出会います。それは、思いがけないことというのは、たった一つの思いがけないことで終わるのではなくて、さらに思いがけないことが続くことによって、最初に出会った思いがけないことと自分の関係が変わっていくためです。

 本日の箇所では、イエスの復活という、受け入れられないことが起きたあと、さらにそのイエスから自分が問われる、という思いがけないことがおきます。そうして、最初は問う側だった者が今度は問われる者になる、という逆転が起こります。そして、そのことが新しい世界をその人にもたらします。「わたしは、主を見ました」という言葉は、決定的な言葉です。それは「誰かが、主を見ました」という伝聞の報告ではなく、このわたしが主を見た、このわたしが主を信じた、という自己肯定の言葉です。イエスを失った者が、イエスに問われて、新しい世界に生き始める、そのことを自ら「良しとする」、肯定する力が与えられます。

 

 本日の説教では、さきほど旧約聖書の創世記1章の言葉を引用しました。神様が天地創造された最初の言葉は「光あれ」でした。そして、その言葉によって初めて照らし出した光を見て、神様は「良しとされた」と創世記にあることをご紹介しました。自ら発した言葉によって光が生じる。そして、その光を良しとする。それは、敬虔な思いをこめて申し上げますが、それは神様が天地創造にあたって、神様ご自身によって、ご自身がなされたことを肯定しておられる、ということです。

 

 本日の箇所において、マリアが「わたしは主を見ました」という言葉は、マリアにとって大きなチャレンジとしての自己肯定であります。マグダラのマリアが実際にどんな人であったのか、わたしたちは知るよしがありません。しかし、このことは確実に言うことができます。マグダラのマリアは、イースターの出来事の日から、自分の言葉によって、自分自身を肯定して生きたのだ、ということです。わたしたちも、そのように生きることができるのではないでしょうか。空っぽを越えて。

 

 お祈りします。
 神様、どうか、不安のなかで生きる私たち一人ひとりを守ってください。この世界の苦しみのなかで働く、すべての人、一人ひとりに安心と励ましと支えがありますように。そのために小さなことでも励まし合って、いけますように。十字架の死から三日の後に復活なされた主イエス・キリストの復活の力にあずかって私たちが生きることができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名を通してお献げいたします。

 アーメン。

 

 

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2020年4月19日(日)京北教会 聖日礼拝説教
「信じて与えられた手」牧師 今井牧夫

 
聖 書 ヨハネによる福音書 20章 19〜31節 (新共同訳)  

 

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、

自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。

 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、

「あなたがたに平和があるように」と言われた。 

 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。

 弟子たちは、主を見て喜んだ。

 イエスは重ねて言われた。

 「あなたがたに平和があるように。

  父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。

 「聖霊を受けなさい。

  だれの罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪はゆるされる。

  だれの罪でも、あなたがたがゆるさなければ、ゆるされないまま残る。」

 

 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、

 彼らと一緒にいなかった。

 

 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、


 トマスは言った。

 「あの方の手に釘の後を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、

  この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。

 戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、

 「あなたがたに平和があるように」と言われた。

 それから、トマスに言われた。

 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。

  また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。

  信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 トマスは答えて、

 「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

 イエスはトマスに言われた。

 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 

 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、

 それはこの書物に書かれていない。

 

 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、

 イエスは神の子メシアであると信じるためであり、

 また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 

 

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(以下、礼拝説教)

 本日、先週のイースター(復活日)の礼拝に続き、教会の暦で復活節の2回目の礼拝の日を迎えました。本日の聖書箇所には、主イエス・キリストが復活なされたあとの物語が記されています。この物語の前半は、イエス様が十字架に架けられて死なれた後、三日経った以降に、人目を避けて隠れていた弟子たちのところに、突然その場にイエス様が現れてくださった話です。

 ここでイエス様はその弟子たちに対して、22、23節にあるように、聖霊を受けなさい、という言葉を与え、そして、罪のゆるしの権威を与えてくださいました。この罪のゆるしについてのイエス様の言葉は、こののちの時代にイエス様の弟子たちが、罪のゆるしの権威を持ったキリスト教の教会を立てていった、そうした後の時代の教会の歴史を示しています。

 

 そして後半の物語では、イエス様が弟子たちに現れたときにそこに居合わせなかった、トマスという名の弟子が、自分はイエス様の復活を絶対信じない、と主張したことに対して、そのあとに、イエス様がトマスにも御自分を現してくださり、そしてご自身の十字架上での手の傷を示して、トマスに復活の意味を教えてくださったことが記してあります。


 今日の聖書箇所の流れを見ると、前半には聖霊による罪のゆるしという教会の権威の話があり、後半ではトマスとイエス様の重要な対話があり、この前半と後半は対(つい)になっていて、どちらも大切な話ですが、本日の説教の力点は、後半のほうに置きます。すなわち、復活を信じないトマスに対して、復活なされたイエス様がお語りくださった、復活の意味を皆様と共に受けとめていきます。

 復活の意味、それは何でしょうか。今日の箇所の最後にある「見ないのに信じる人は幸いである。」ということです。すなわち、主イエス・キリストの復活は、目に見えることに意味があるのではなくて、目に見えないことを信じる、という信仰において意味がある、これが福音書が今日の私たちに伝える復活の恵みです。

 

 とはいえ、この、「見ないのに信じる」ということは、本当にできることでしょうか。私は高校生のころ、教会学校に行っていましたが、10代のころに聖書を読んでも、そこにしるされたイエスの「復活」という出来事を、「見ないのに信じる」、つまり確かめもせずに信じる、ということはできないと思ったことがあります。同時に、そのことを信じることができたら、自分はクリスチャンの信仰を持って自信を持って生きることができるのかな、と考えて、神様に、どうか信じることができるようにしてください、と祈った10代のころの日々を少し思い起こします。そのころ、私にとって、イエス様の復活について考えることは、少し苦行のようなことだったな、と思い起こします。苦行、それは何なのでしょう。

 

 そんな思いを持ちながら、本日のイエス様の言葉を皆様と共に味わって参ります。まず、「見ないのに信じる人は幸いである」という言葉をイエス様から与えられた、トマスという人は、どんな人だったのかを考えてみます。トマスにつけられたディディモという呼び名は「双子」という意味ですが、このことは、特別な意味を持っていないようです。トマスという名前は当時よくある名前だったので、区別のために何々のトマス、という言い方がされていました。そして、このトマスはイエス様の12人の弟子の一人で、ヨハネによる福音書に4回登場します。

 

 その一つ、ヨハネによる福音書11章では、イエス様にとって近しい存在だったラザロという人の死のあとで、イエス様から、私はこれから都エルサレムに行く、という言葉を聴いたときに、「わたしたちも一緒に行って死のうではないか」と、死んでもイエス様に最後まで付き従うかのような、悲壮な決意をトマスは言葉にしました。しかし、実はこれは前後の文脈で見ると少し見当違いな言葉でした。また、ヨハネによる福音書14章では、イエス様がこれからご自身が十字架への道を歩まれることを予期してお話されたときに、トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちにはわかりません。どうして、その道を知ることができるのでしょう」とイエス様に大変率直に疑問をぶつけています。こうした場面を見ていくと、このトマスという人は、イエス様の弟子として、まっすぐな気持ちを持った正義感で、イエス様に対して大変率直にぶつかっていく人だった、と思えます。

 

 今日の箇所では、そのようなトマスの気持ちをよく表す言葉が記されています。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 このように言うことで、自分は決してイエス様の復活ということを信じない、と主張するトマスは、理性と常識を持った一人の人間として、大変正直な人であったと私は思います。

 

 ここで、このように「わたしは決して信じない」と断言する、トマスの気持ちを考えましょう。「この指を釘跡に入れてみなければ、わたしは決して信じない」という言葉は、とても生々しい、イエス様の手の傷跡を想像させる言葉です。イエス様は十字架に磔(はりつけ)にされて手のひらにくぎを打ち付けられました。だから、もしイエス様が本当に復活されたのなら、手のひらにその傷が残っているはずだと言うのです。また、十字架上でイエス様は死なれたあとに、槍(やり)でわき腹を刺されました。それは、十字架に架けられた犯罪人が、十字架の上に放置された後に、本当に死んだかどうかを確かめるためです。その刺されたわき腹の傷の跡がイエス様に残っているはずだ、とトマスはいうのです。こうしたトマスの言葉は、大変残酷な、いやな言い方です。

 

 しかし、トマスがこのように言ったのは、イエス様が復活されたということが、どうしても受け入れられなかったからです。トマスがイエス様の復活を信じようとしなかったのは、トマスに信仰がなかったからではありません。その反対に、イエス様のことを心底、大切にしていたからこそ、イエス様の復活を信じることができなかったのです。トマスが、イエス様が十字架上で死なれた、という事実に打ちのめされて生きていたときに、イエス様が復活された、と他の弟子たちが言っているのを聞くと、トマスにとっては、それは非常に愚かな幻想、無邪気で幼稚な言葉に思えたでありましょう。もしイエスが復活したというなら、ではイエスが十字架の上で無残に死なれた、あの悲惨な死の意味は何だったのか、とトマスは思うのです。

 

 しかし、そのトマスに対し、復活なされたイエス様ご自身が27節で仰いました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 

 このようにしてイエス様はトマスに対して、そんなにわたしの手の傷を確かめたいのなら、実際に確かめたらいいよ、と伝えられたのです。そして、イエス様のその言葉を聴いて、イエス様の復活を初めて現実のこととして受けとめたトマスは「私の主、私の神よ」と言います。復活されたイエス様の目に見える確かな存在を見たときに、トマスはそう言いました。トマスが信念を持って言っていた言葉、「その手を見て、その釘跡に指を入れてみなければ」という言葉の通りです。イエス様が、そのトマスの言葉を聞いてくださり、そして本当にその傷跡がある手をトマスに差し出されたのです。そのときトマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と感激して言いました。しかし、そのトマスにイエス様が言われたのは、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」との言葉でした。

 

 「見ないのに信じる人は幸いである。」このイエス様の言葉は、信仰の本質です。それは、見たから信じる、というトマスの態度は信仰ではないということを示しています。見たから信じる、ということは事実確認のやり方です。けれども、信仰とは事実の確認ではありません。では何を確認するのでしょうか。それは、神様に対する信頼ということです。「見ないで信じる人は、幸いである。」このイエス様の言葉は、神様への信頼を確認する、ということが信仰であり、人間にとっての大きな幸いであることを示しています。


 このイエス様の言葉を、私なりに言い換えますと次のように言うことができます。「トマス、お前はこれからはもう、わたしの姿を追いかけなくてもいいんだよ。」

 

 目に見える姿を求めること、それは、その人の姿を追いかけることです。復活なされたイエス様の目に見える姿、あるいはその確かな存在、実感。そうしたものを追いかけているトマスに対して、イエス様は今日の箇所において「見ないで信じる」という信仰のあり方をゆるしてくださいました。そのことに神様からの大きな恵みがあります。それはトマスだけではなく、この現代において聖書を読んでいる私たち一人ひとりに対して、大きな恵みとなります。

 「見ないのに信じる」ということは、自分の努力や能力など何か特別な力を働かせることで「見ないのに信じる」ということではありません。そうではなくて、主イエス・キリストが私たちに対して、「見ないのに信じる」という信仰でいいよ、とゆるしてくださるということです。そのおゆるしがあるから、私たちは安心して「見ないのに信じる」という幸せのなかに自分を置くことができるのです。

 

 いまこの礼拝のなかで聖書を読んでいる私たちは、見ないのに信じる、そのことによって、事実の追求という苦行から解放されます。もう、事実だけを追いかける必要はありません。事実だけを追いかけていくと人間、なぜか残酷な心になるのです。「この指を釘跡に入れてみなければ、決して信じない」というトマスのように。人間は、事実だけを追い求めるときに、なぜか残酷になります。いじわるになります。それがなぜかはわかりません。

 

 けれども、イエス様が来てくださったので、そのような残酷な現実が終わります。事実だけを追い求めて苦しくなり、残酷になり、人の話に耳を傾けなくなる、そんなつらい苦行は終わりです。見るものしか信じてはいけない、すべて見て確かめなくてはいけない、という生活は実は苦行です。そこから私たちは救い出され、イエス様の言葉によって、その苦行から解放されます。「見ないのに信じる」ことで、主イエス様からの救いの手が、信じる者に必ず与えられます。私たちはそのイエス様の手に傷跡があるかどうかを、もはや確かめる必要がありません。

 

 お祈りいたします。

 「見ないで信じる人は、幸いである」というイエス様のお優しい言葉に感謝します。どうか、その言葉を信じて、その言葉にいやされて生きることができますように、復活の主イエス・キリストが、一人ひとりを守り導いてくださいますように、心よりお願いいたします。新型コロナウイルスの問題は、なかなか終わりません。その終わりを誰もまだ見ていません。しかし、その終わりが来ることを、見ないで信じる者としてください。この祈りを主イエス・キリストの名を通してお献げいたします。

 アーメン。

 

                                          

2020年4月26日(日)京北教会礼拝説教
「恵みと共に網にかかって」
説教 今井牧夫

 

 

 聖 書 ヨハネによる福音書 21章 1〜15節(新共同訳)

 
 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。

 

 その次第はこうである。

 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、

ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。

 

 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、

彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。

 

 彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。

 

 しかし、その夜は何もとれなかった。
 すでに夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。

 だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。

 

 イエスが、「子たちよ、何か食べるものがあるか」と言われると、

彼らは、「ありません」と答えた。

 

 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば、とれるはずだ。」

 そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、

もはや網を引き上げることができなかった。

 

 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。

 シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、

 上着をまとって湖に飛び込んだ。

 

 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。

 陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。

 さて、陸に上がってみると、炭火が起こしてあった。

 その上に魚がのせてあり、パンもあった。

 

 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。

 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、

 百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。

 それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。

 

 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。

 弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。

 主であることを知っていたからである。

 

 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。

 魚も同じようにされた。

 

 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、

 これでもう三度目である。

 

 

 

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(以下、礼拝説教)

 

 本日は教会の暦で復活節に入ってから3回目の礼拝です。本日の聖書箇所は、ヨハネによる福音書の復活の記事です。ここには、イエス様の12人の弟子たちのなかの7人が登場します。そして場所は、ガリラヤ湖という湖です。この湖は、本日の聖書箇所ではティベリアス湖というローマ帝国の側から付けられた名前で出て来ます。

 

 この湖の岸辺は、イエス様が宣教の旅に出る前に、その最初の準備としてイエス様が漁師たち数人に声をかけて、1番最初の弟子にしてくださった場所です。その一番最初のときからの弟子たちが、イエス様の十字架の死の後に、自分たちの生活をやり直すために、故郷のガリラヤ湖の岸辺に戻って、もういちど漁をしていたのではないかと考えられます。今日の箇所は、その弟子たちが、ある夜に漁に出て、その夜明けの朝、湖の岸辺において、十字架の死の後に復活なされたイエス様に出会うという物語です。

 

 湖の岸辺、とか、そこで暮らす漁師たち、というのは、その地域にあって平凡な存在といえます。その地の住人というだけです。ことさらに何か宗教的な特徴とか重要性を持っているようには思えません。けれども逆に、その平凡な生活の場と、その地での生活者・労働者である湖の漁師たちを、イエス様は大切にしておられました。そこが宗教的に大事な場所、つまり聖所、聖なる場所だから大事ということではなくて、ふだんの生活の場が大事ということです。

 

 そのふだんの生活の場に戻ったときにこそ、復活の主イエス様との出会いがある、ということが、この湖の岸辺で弟子たちが経験したことでありました。では、今日の聖書箇所において、ガリラヤの漁師たちであった人々を含む7人のイエス様の弟子たちは、この湖でどのようにイエス様に再会をしたのでしょうか。順番に見ていきます。

 

 3節にこうあります。シモン・ペトロが「わたしは漁に行く」と言うと、他の弟子たちも、わたしたちも一緒に、と出発しました。これは、イエス様がいなくなったあとに、ペトロがリーダーとして、言わばイエス様の代わりとして振る舞っていたことを表しています。そうして彼らは漁に出ましたが、夜通し漁をしても一匹も魚は獲れませんでした。

 

 当時の湖の漁は夜に舟を出して、湖の魚が夜に特定の場所に集まるとき、そこに網をかけて入ってくる魚を獲っていたのです。しかし、漁というものは、いつも同じように魚が獲れることはありません。元々漁師だったペトロたちにとっても、このときの漁は、夜通しやっても魚が一匹もとれないありさまでした。そのような何も成果がない状態で、一番気持ちが沈んでいたのはペトロだったはずです。というのは、元々ペトロが「わたしは漁に行く」と言ったから他の6人も着いてきたからです。ところが魚一匹すら獲れませんでした。これは、ペトロが、イエス様がおられなくなったあとの弟子たちの中のリーダーとしての役割を果たせなかったことを意味しています。

 

 また、ペトロだけではなく、7人の弟子たちにとって、この一晩の漁は成果が出ない徒労であっただけではなくて、これからの自分たちの生きる道筋に不安を覚えるようなことではなかったかと思います。湖で魚一匹とれない7人の弟子たち、その彼らの気持ちは、まるで、現在の新型コロナウイルスの問題のなかで、将来に展望を見出しにくい、今の私たちの気持ちと、もしかしたら少し似ていたかもしれません。

 

 その、魚が一匹も獲れない漁が終わろうとしていた、夜明けのころに、湖の岸辺に1人の方がおられました。そして言われます。「子たちよ、何か食べるものがあるか。」この言葉は、ただ食べ物を尋ねられたのではなく、あなたたちは魚が獲れているか? 自分たちが食べる魚が獲れているか? と尋ねる意味があったと思えます。そして、ここでの「子たちよ」という言葉は、舟の上で腹を空かせて漁を一晩してきた弟子たちを、「子」「子ども」という言い方で、愛して、慈しんで言われている言葉です。

 

 このイエス様のお尋ねに対して、弟子たちは正直に、食べ物は、「ありません」と答えまた。それを聞いたイエス様は言われました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば獲れるはずだ。」その言葉を受けてペトロたちがその通り、舟の右側に網を打ちました。すると、あまりに多くの魚が獲れて網を引き上げられないほどだったとあります。

 

 この湖で一晩漁をしても一匹も魚が獲れない、どんよりした弟子たちの気分、その空気のなかに、突然、主イエス様の言葉が響き、私たちが思ってもいなかった贈り物が湖のなかから与えられました。153匹の魚、どこにこんなに魚がいたのか、さっきまで一匹もいなかったのに、と驚くほどにたくさんの魚が、湖のなかに隠されていました。それが、イエス様のひとことで、わたしたちは、隠されていた宝としての魚に出会ったのです。恵みは天から降ってくるのではなくて、隠されているところから与えられます。

 そのとき、ヨハネという1人の弟子が「主だ」と言葉を発します。この弟子は、ヨハネ福音書ではイエスが愛しておられた弟子と書かれていて、直接には名前が記されていませんが、この弟子とは、おそらく、このヨハネによる福音書を記した著者のヨハネ自身のことと考えられます。著者は自分の文章のなかに自分の名前をあえて書かないということです。

 

 このヨハネの「主だ」という言葉を聞いて、今度はペトロが動きます。ペトロは思わず湖に飛び込んで岸に向かって泳いでいきます。そのときまでペトロは裸同然で漁をしていたので、これからお会いするイエス様に対して失礼がないようにと、服を着て飛び込み、泳いでいきます。他の弟子たちは魚を入れた網を引っ張りながら舟を岸辺に近づけます。

 

 それからペトロたちが陸に上がると、炭火が起こしてあり、すでに魚が載せてあり、パンもあったとあります。これは、イエス様が先になさってくださっていたことと思えます。イエス様御自身が、弟子たちのために朝食を先に用意してくださっていたのです。

 

 ここでイエス様が弟子たちに言われます。「さあ、来て朝の食事をしなさい。」そしてペトロやヨハネなどの弟子たちは、イエス様とともに朝の食事をしました。もはや誰もイエス様に、あなたはどなたですか、と問うことはありませんでした。それは、イエス様が復活なされたということが、イエス様ご自身によって確かに示されたからです。イエス様はパンをわかち、魚も同じように弟子たちに分け与えられました。

 このようにして復活のイエス様が弟子たちに出会ってくださったのはもう三度目である、と今日の箇所の締めくくりに記されています。3、という数字は完全ということを表しているので、これでもう十分、イエス様の復活について、もうこれ以上の説明は必要ありません、という意味です。そして今日の聖書箇所のあとに続く次の箇所には、のちの教会の歴史に関わる、シモン・ペトロやヨハネについての話が短く続いたあとに、ヨハネ福音書が終わります。この流れを見ますと、本日の聖書箇所はヨハネによる福音書のクライマックスであり、同時に、福音書のあとから始まるキリスト教会の歴史へと続いていく、その歴史の中心に、復活のイエス様の確かな存在がある、ということを今日の箇所は示しているのです。

 

 ここで、今日の聖書箇所のなかで不思議に感じる一つの箇所について考えてみます。7人の弟子たちは、夜通し漁をしても1匹も獲れなかったのに、なぜ、イエス様の言葉を聞いたあとにすぐたくさんの魚が獲れたのでしょう。それは、こういうことだと考えることができます。イエス様の言葉を聞く前の弟子たちの漁は、自分たちの力で、網に魚を入れようとする漁でした。それでは1匹も魚が獲れませんでした。しかし、イエス様が「舟の右側に網を打ちなさい」と言われた意味は、それは、イエス様の言葉をいただくことによって、漁をすることを示しています。

 

 このことは、私たちにとって、考え方の大きな転換を意味しています。すなちわ、魚を網のなかに入れることが一番大切なのではなくて、自分自身がイエス様の言葉の中に入ることが一番大切だということです。ペトロたち、弟子たちがイエス様の言葉のなかに入る、つまりイエス様の呼びかけの言葉に応えて、そのイエス様の言葉のなかに自ら飛び込んで漁をしたとき、初めて、たくさんの魚が網にかかったのです。

 このような湖の魚の漁の話、これは間違いなく伝道の話です。この話を伝道の話として理解するときに、わたしたちは勘違いしないでおきたいと思います。それは、網でたくさんの魚をとるように伝道するということは、私たちの才能や能力や努力や手腕といった自分の力に頼ることではないということです。そうではなくて、伝道を志す者たちが、弟子たちが、そしてわたしたち自身が、イエス様の招きに応え、イエス様の恵みの湖のなかに飛び込んで、そこで私たちが神様の網にかかって、私たち自身が神様の恵みとならせていただくときに、一緒にその網にたくさんの人たちがかかって、伝道となるということです。

 今日の箇所において、シモン・ペトロは、ヨハネが言った「主だ」という言葉を聞いて、すぐに湖に飛び込み、イエス様がおられる岸辺へと泳ぎ出しました。こうして、ペトロ自身が、イエス様の言葉のなかに飛び込んでいったのです。魚をとる漁師だったペトロが、逆に今度は自分が魚のように、イエス様の言葉のなかに自ら飛び込んで、そのことによって伝道者として神様に用いられる人間となったのでした。神様からの恵みは、それを自分の手のなかに入れようとしている間は、手に入りません。その反対に、自分自身が神様の示される場所へと、自分自身を投じていくときに、自分が、神様からの恵みといっしょに神様の網にかかるのです。これは大きな恵みです。

 

 そして、それだけではありません。わたしは今日の箇所を読んで、次のように思いました。この箇所での、湖の岸辺でのイエス様と弟子たちのパンと魚での食事は、これは言わば、長い旅の打ち上げの食事、お祝いの食事だと思いました。いままで苦労してきた弟子たちにイエス様が、網一杯の取れたての魚と、パンを用意してくださった。これは、イエス様から弟子たちへの、今までの苦労に報いる、打ち上げのお祝いの食事です。言わば、この食事は、「ご苦労さん!」あるいは「おつかれさん!」の食事ということです。

 

 そしてさらに、こうも思いました。これは、イエス様とその弟子たちだけの食事ではないのだと。それはどういうことかといいますと、これは、実は、今までこのヨハネによる福音書をここまでずーっと読み続けてきた読者に対して、その一人ひとりへの、お疲れさん! ご苦労さん! という意味で、言わば打ち上げのお祝いの食事を、イエス様が、いまここにいる私たち一人ひとりに、食事を振る舞ってくださっているのだと。そのように私は思いました。どうしてかというと、このヨハネ福音書をずーっと読んでくることは、結構大変なこと、ときには疲れることでもあったと思うからです。聖書を読むということ、神様の御言葉として真剣に読むということは、ときに疲れを伴うことでもあります。聖書を読むだけではなくて、教会の毎週の礼拝に出てヨハネ福音書の説教を聞くのも大変なことでしょう。その大変なことをしてきた皆様に、イエス様が、獲れたての魚、焼きたての魚とパンで、打ち上げのお祝いとして、美味しい食事をふるまってくださいます。

 

 今、わたしたちが直面している問題は、新型コロナウイルスの問題です。この世界のなかにあって、自分の命と、家族の命と、人の命を守るために、緊張するとともに、人の目を気にしたり、社会の動向に不安を覚えたり、様々なことに気を使いながら私たちは過ごしています。そしてやっと本日の聖書の箇所にたどり着いた私たちに、イエス様から、ご苦労さん! お疲れさん! というメッセージが与えられています。

 

 お祈りいたします。

 主なる神様、かつてなかった時代を生きている私たちが、この時代のなかで、神の恵みを人に伝える器となしてください。そしてそのねぎらいの食事に誰もがあずかることができますようにお導きください。私たちの京北教会を、2020年度も豊かに導いてください。この祈りを主イエス・キリストの名を通してお献げいたします。

 アーメン。

 

                                        

 2020年5月3日(日)京北教会礼拝説教

「未来を羊にたとえたイエス様」牧師 今井牧夫

 

 聖 書 ヨハネによる福音書 21章 15〜25節(新共同訳)

 
 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、

ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。

 ペトロが、

 「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、

  あなたがご存じです」と言うと、

 イエスは、

 「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。

 

 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」

 ペトロが、

 「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、

  あなたがご存じです」と言うと、

 イエスは、

 「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。

 

 三度目にイエスは言われた。

 「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」

 

 ペトロは、イエスが三度目も、

 「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。 
  そして言った。

 「主よ、あなたは何もかもご存じです。

  わたしがあなたを愛している事を、あなたはよく知っておられます。」

 

 イエスは言われた。

 「わたしの羊を飼いなさい。

  はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、

  行きたいところへ行っていた。

  しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、

  行きたくないところへ連れて行かれる。」

 

 ペトロがどのような死に方で神の栄光を現すようになるかを示そうとして、

 イエスはこう言われたのである。


 このように話してから、ペトロに「わたしに従いなさい」と言われた。

 

 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。

 この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、

「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。

 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。

 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」

 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。

 しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。

 ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、

 あなたに何の関係があるか」と言われたのである。

 これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。

 わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。

 

 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。

 わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

 

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 (以下、礼拝説教)

 本日は教会の暦で復活節に入ってから4回目の礼拝です。本日の聖書箇所は、ヨハネによる福音書の一番最後にある締めくくりの部分です。ここには、イエス様の12人の弟子のなかで特に重要な2人の弟子が登場します。1人はペトロです。そしてもう1人はヨハネです。

 ペトロは12人のなかの一番弟子、筆頭の弟子でした。さらには後に、初代のキリスト教会のリーダーとなりました。ペトロは、四つの福音書の中で12人の弟子の代表として、繰り返し登場しますし、また、イエス様が天に挙げられた後の、聖霊降臨日、ペンテコステ以降の初代の教会の働きを記した使徒言行録にも、繰り返し登場する重要人物です。

 

 もう1人はヨハネです。このヨハネは、本日の箇所に直接に名前が記されておらず、「イエスの愛しておられた弟子」と表現された人物は、このヨハネ福音書の著者のヨハネです。ヨハネという名前は当時よくある名前で、たとえばペトロの父もヨハネという名でした。また、新約聖書の中のヨハネの手紙やヨハネの黙示録ヨハネの名前で書かれています。

 こうしたペトロとヨハネという、重要な2人の弟子のことがヨハネ福音書の最後の箇所に記されてます。このことには意味があります。それは、ヨハネ福音書の内容がこの場面で完結するのではなくて、このあとの時代の一番最初の時期のキリスト教会につながっていることを示しています。本日は、そのなかで前半の箇所にあるペトロを中心に読んでいきます。

 ペトロは、イエス様がローマ帝国の兵士たちにとらえられる前に、いわゆる最後の晩餐のときに、イエス様に対して言いました。「あなたのためなら命を捨てます」と。それはペトロにとって自分の偽りのない気持ちでした。ペトロは心からイエス様のことを尊敬し、愛して従っていました。しかし、「あなたのためなら命を捨てます」と言った数時間後に、深夜にローマの兵隊たちがイエス様を捕らえに来たときには、イエス様から離れて逃げ去ってしまいました。そしてそのあとすぐに戻って来て、とらえられたイエス様の近くに行こうと忍び込んできたのですが、そこでイエス様がとらえられている屋敷の前でたき火にあたっているとき、その場にいた人が、あなたはイエスの仲間だと言ったときに、自分はそのような人は知らないと3回言って、自分とイエス様との関係を隠して偽ったのです。

 そのとき、鶏が鳴いて、ペトロはイエス様が数時間前に言われた言葉を思い起こします。あなたは鶏が鳴く前に三度私を知らないというであろう、というイエス様の言葉を思い起こしたときに、ペトロは自らがイエス様を裏切ったことを自覚したのでした。ルカによる福音書では、このときペトロは外に出て激しく泣いた、とあります。その裏切り者のペトロに、復活なされた主イエス・キリストが再び出会ってくださった物語の一つが本日の箇所です。

 

 今日の箇所を読んで皆様は何を思われたでしょうか。人それぞれだと思いますが、わたしがこの箇所を読んだときに胸に迫る思いがするのは、前半のペトロとイエス様の対話です。

 イエス様を裏切ったペトロに「あなたはわたしを愛しているか」とイエス様は3回尋ねられました。わたしたちは日常生活のなかで、人に対してそのように一つの問いを何度も何度も発することはなく、またその逆に、何度も何度も尋ねられることも、あまりないでしょう。というのは、問いというのは、あまりに何度も繰り返すとしつこくなり、いやな感じがするからです。繰り返し同じことを尋ねるのは、疑っていることになります。それは相手を信じていないと相手から思われることです。実際、ここでペトロは三度も尋ねられて悲しくなったと記されています。ではイエス様はなぜ、本日の箇所で三度も同じ問いをされたのでしょうか? ここで3回も繰り返し、ペトロに尋ねたイエス様の思い、それはどんな思いだったでしょうか。

 

 もしかしたら、イエス様はここで三度もペトロを責めた、責めて苦しめた、ということでしょうか。そうではありません。その逆に、ここでイエス様は、ペトロに対して3回「わたしはあなたを愛しています」と直接に伝える機会を与えてくださっていると考えることができます。そのことによって、ペトロは辛かったと思いますけれど、この三度の対話を経て、ペトロはもう一度イエス様としっかりとつながり直すことができたのでした。3というのは完全という意味があります。3回問うて、3回ペトロが答える。このことにおいてイエス様は、この「あなたはわたしを愛しているか」という問いが、ペトロにとって永遠の問いとなり、その問いに応えることにおいて、ペトロは生涯をイエス様と共に歩みました。こうしてその後のペトロの伝道者としての歩みが、ここで象徴的に現されたのです。

 

 今日の箇所もそうですが、ヨハネによる福音書の特徴として、全体に少し演劇的な形に編集されているということがいえます。今日の箇所でもペトロとイエス様の対話は一体一の緊張感がある、ドラマの一場面のように記されています。ヨハネによる福音書に記されていることは、現代の私たちの目から見て必ずしもすべてが事実であるとは見えないところがあります。特に他の三つの福音書との違いが大きいことや、内容にあるたくさんの対話や独白、また演劇でいえばナレーションのような言葉がヨハネによる福音書には多いのです。これらは、事実そのものであるというよりも、主イエス・キリストを信じる信仰についての、確かな力強いメッセージを伝えようとする目的で、このようにドラマチックに記されています。

 

 では、この箇所から発せられている、現代の私たちに対する確かな力強いメッセージとは何でしょうか? わたしは本日の箇所から、次のことを示されました。それは、イエス様が「羊」という言葉を出して、この羊にたとえることによって、これからのキリスト教会のことが示されているということです。イエス様は、ペトロに対して、ほぼ同じ内容の三度の問答において、いつもその最後には、「わたしの羊を飼いなさい」と仰いました。ここでの羊とは、文字通りの動物の羊のことではなくて、人間のことです。ルカによる福音書でイエス様が言われている、99匹の羊と1匹の羊のたとえにもあるように、イエス様は神様によって徹底的に探されている人間の存在の意味を羊にたとえてお話されています。その羊たちを守るのは羊飼いです。羊飼いはイエス様の姿のたとえです。こうして羊と羊飼いというたとえによって、これからのキリスト教会のことが示されています。

 

 本日の説教題を「未来を羊にたとえたイエス様」とさせていただきました。それは今日の箇所でイエス様が「わたしの羊を飼いなさい」と言われたとき、それは単に人間を羊にたとえてペトロに羊飼いの役割をするようにと言ったというだけでなくて、このときにイエス様が「羊」と言われたその言葉には、「未来の羊たち」という意味がこめられているからです。

 

 イエス様は、ここで単に人間を、誰かに飼われている家畜と同じようなものだ、と低めていう意味で羊にたとえていることではないことにご注意願います。そうではなくて、未来の羊たち、すなわちこれからキリスト教会にやってくるたくさんの未来の人たちを、教会が羊飼いの役割を果たして、しっかりとその未来の人たちを守り抜いていくべきことを伝えておられるのです。そのために、ここでイエス様は羊という言葉を出して、教会を羊にたとえてペトロにお話をされたのです。

 

 では、イエス様がたとえられた、羊という動物はどんな動物でしょうか。ある方は、羊をこう表現しました。臆病で好奇心が強い動物だと。それはまさに人間存在を表しています。臆病なわりには好奇心が強い。それゆえに迷子になる。だから羊には群れを作らせて、羊飼いが飼っていないといけないのです。草や水があるところを探して、羊飼いが羊を連れていきます。その日常のなかで迷子になる羊が出てきます。その羊をたった一匹であっても見つけるまで探し続ける羊飼い、他の99匹を野に残してでもその迷子の一匹を捜しに行く、それが本当の羊飼いだとイエス様は仰っています。

 

 羊というものがそういう動物であり、羊飼いが必要であるとすれば、今日の箇所に登場するペトロは、果たしてイエス様が仰るような羊飼いになれるでしょうか。おそらく、周囲の人間の目から見れば疑問があっただろうと思います。そしてペトロ自身も、一度イエス様を裏切って逃げた自分のことを思い起こすときに、自分が良き羊飼い、つまり教会のリーダーになることに自信はなかったでありましょう。自分と他の人を比較したり、他の人のことが気になることがあったようです。

 たとえば、今日の箇所の後半にはもう1人の弟子ヨハネが登場します。12弟子のリーダーであるペトロにとっても、このヨハネの存在は気になるところでした。そこでペトロはヨハネに関してイエス様に、「主よ、この人はどうなるのですか」と質問したのです。それに対するイエス様の答えは、ここに書いてある通りで、ヨハネがこれからいつまで生きていようがどうだろうが、それが「あなたに何の関係があるか」というものでした。つまり、ヨハネにはヨハネの人生があるのだから、ペトロ、あなたはあなたの道を歩めばいいんだよ、ということであります。こうしたイエス様の言葉に示されていることがあります。それは、イエス様からペトロに対する、明確な罪のゆるしということです。

 

 ペトロに対して、あなたの過去の罪はすべてわたしがゆるした、だからもう他人と自分を比較したりせず、自分自身の人生をしっかり生きなさい、というメッセージです。

 

 今日の箇所を読んでいて、このペトロの姿から、私はひとつのことを教えられました。それは、天の神様に罪のゆるしということを願うときには、一心に神様の方向に自分の心を向けるべきだということです。一方では、自分はイエス様を愛しているといいつつ、その一方では、もう1人の弟子ヨハネの存在が気になっている、このペトロには、実に人間らしいものがあります。罪のゆるし、とか、神への愛、とか言いながら、実は、自分と他者を比べて、自分がどれぐらいの位置にいて、イエス様からどのように思われているか、人と自分を比べて気になっているペトロの姿には、まさに人間らしい弱さと愚かさ、そして愛らしさを私は感じます。この弱く愚かで愛らしい人間、ペトロに対してイエス様は「わたしの羊を飼いなさい」すなわち、未来の教会を形造りなさい、伝道者となりなさい、他人のことは気にせず、と愛をもって示してくださいました。

  
 イエス様が今日の箇所でペトロに対して、「羊」という言葉で呼んで語っておられるのは、キリスト教会の未来のことです。ペトロはイエス様をかつて裏切りました。そしてその後もペトロはやはり人間的な人物でした。そのペトロが教会のリーダーになるとき、それは、人間として素晴らしい人が教会を形造るのではなく、罪ゆるされた人間が教会を形作る、ということです。人の上に立つ人を作るために教会があるのではなく、人の下に立って人に仕えて、そこから主イエス・キリストによる罪のゆるしを証しして生きる人間、すなわち神様によって新しく生まれた人間が教会を形造るのです。

 イエス様は、ペトロに対して「わたしの羊を飼いなさい」と言われるときに、これから何度でも迷子になるたくさんの羊たちを、何度でも探しに行く羊飼いになることを求めています。そこには単にペトロという1人の人間に対する言葉だけでなく、これからの教会というものに対する復活の主イエス・キリストからの、このヨハネ福音書のなかでの一番最後のメッセージがこめられています。これから教会にやってくる、未来の羊たちを、教会が本当に大切にして、教会全体が、羊飼いの役割を果たして、世の狼(おおかみ)から、羊を徹底して守り抜いていかなくてはならないということを意味しています。今日のわたしたちの京北教会もまた、この京北教会で、主イエス・キリストによって大切な羊として愛されて、守られてきました。感謝にたえません。

 

 お祈りいたします。主なる神様、かつてなかった時代を生きている私たちが、この苦しい時代のなかでも、羊飼いとして羊を守る役割を果たすことができますように、神様の恵みを人に伝える教会とならせてください。そのために、この京北教会につながる一人ひとりの方々を、神様が守り、豊かに導いてください。心よりお願いいたします。この祈りを、主イエス・キリストの名を通してお献げいたします。アーメン。

 

 

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2020年5月10日(日)京北教会説教
「主イエスが友となられる教会」
牧師 今井牧夫

 

 本日の聖書 ヨハネによる福音書 15章 11〜17節(新共同訳)

 
 これらのことを話したのは、

 わたしの喜びがあなたがたの内にあり、

 あなたがたの喜びが満たされるためである。

 

 わたしがあなた方を愛したように、

 互いに愛し合いなさい。

 これがわたしの掟(おきて)である。

 

 友のために自分の命を捨てること、

 これ以上に大きな愛はない。

 

 わたしの命じることを行うならば、

 あなたがたはわたしの友である。

 

 もはや、

 わたしはあなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。

 僕は主人が何をしているか知らないからである。

 

 わたしはあなたがたを友と呼ぶ。

 父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

 

 あなたがたがわたしを選んだのではない。

 わたしがあなたがたを選んだ。

 

 あなたがたが出かけて行って実を結び、

 その実が残るようにと、

 また、

 わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、

 わたしがあなたがを任命したのである。

 

 互いに愛し合いなさい。

 これがわたしの命令である。

 

 

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 (以下、礼拝説教)

 さる4月26日の定期教会総会で決定した2020年度の京北教会の標語は「主イエスが私たちの友となられる教会」というものです。これは、同じく教会総会で決定した2020年度の主題聖句であるヨハネによる福音書15章15節の言葉「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」に基づいています。この箇所は、ヨハネによる福音書のなかにあって、イエス様がそのあとに捕らえられる、その直前の最後の晩餐のときに、イエス様が弟子たちに向けて語られた説教の一部です。

 

  本日の聖書箇所の終わりのほうには、こうあります。イエス様が一人ひとりの人間を選んだ理由は、「あなたがたが出かけていって実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」ここには、イエスから友と呼ばれることの恵みが記されています。わたしたちが主イエス・キリストの名によって願い、私たちが出かけて行って実を結ぶ道へと私たちは招かれています。その招きの呼びかけの言葉が、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」というイエス様の言葉です。本日は、この「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」というイエス様の言葉を共に味わいます。そして、この言葉を2020年度の主題聖句とした京北教会の、これからの1年間の歩みを確かにしていきましょう。

 

 まず、今日の箇所でイエス様が、なぜ、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われたかを考えてみます。イエス様には12人の弟子がおり、その他にもイエス様に従って歩んだ人たちがたくさんおられました。その人たちや弟子たちにとってイエス様は先生であり、また、主と呼ぶ存在でした。主とは、救いの主、救いの中心という意味であり、端的に言えば「主人」という意味です。

 

 しかし、今日の箇所では、イエス様は自分が弟子たちの上に立つ主人であるとは仰られずに、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われました。それは、僕(しもべ)というものは言わば家来としてし主人に仕えているだけで、主人の実際の心の内を知らないが、イエス様は弟子たちに、御自分のしていることの意味をすべて伝えて、御自分の心を弟子たちに与えてくださったので、これからは、もう僕(しもべ)ではなく、わたしはあなたがたを友と呼ぶ、というのがイエス様がそう言われた理由です。そして「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と仰られました。イエスによって友と呼ばれることは、互いに愛し合うこと、すなわち互いにゆるしあい、互いに助け合い、祈り合う関係が願われていることでもあります。

 

 そしてイエス様は、ここで「あなたがたを友と呼ぶ」というとき、単なる友達という意味ではなく、神様の御心を知って、その御心によって共に働く人たちという意味で、友という言葉を言われています。本日の箇所でイエス様が仰います。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」そして最後に「あなたがたを任命したのである」というイエス様の言葉があります。任命という言葉を使っておられるのですから、ここで言われている「友」という言葉は単なる友達ではありません。神様の御心を共に持って働く人のことです。

 

 ここで、友ということの本質について考えてみます。わたしたちは社会の中で生活をしていて、友とは何であるか、ということに、ふと悩むときもあります。

 

 私自身は、友とは何であるか、という難しい問いについては、あまり考えないほうがいいかもしれない、と思っています。どうしてかというと、友とは何か、ということを考えることで、かえって自分自身の心が傷ついていくことがあるからです。もちろん、友といっても様々な場合がありますから、一律に誰にでも同じことがいえるわけではありません。しかし、友達というのは、どんなに親しくてもお互い違うことを考えているものだ、ということは、ひとつの真実であるように私は思っています。人はどんなに親しくても、お互い違う存在なのです。


 しかし、お互い違う人間同士が、お互いが友達であることを続けることができるのは、なぜでしょうか。それは、お互いがお互いに対する「合わせ方」を知っているからです。そして、この友達への「合わせ方」にその人のその人らしさが現れてきます。互いに違う人間であるけれども、互いに「合わせる」ためには、工夫や努力も必要です。ただ単純に一緒にいるだけでは、友達にはなれません。何かで、その人らしい方法で、相手に合わせることが必要になってきます。

 

 私たちはその、相手に合わせる、ということについて、皆様お一人おひとりが、今までの人生のなかで何らかの苦労をしてきたのではないかと思います。友達に自分を合わせること、それは大げさに言えば、人生のハードルでもあります。人間はそのハードルをすべて越えることはできません。それは、すべての人と同じように友達になることはできないからです。自分として超えられるハードルなら超えて、その人と友達になれる。けれども、自分が超えられないハードルがある人とは友達になれない。そのハードルとは、その人に対する合わせ方ということです。どうしても合わせられない、その力がないときには、友達にはなれません。

 

 そこで、本日の聖書箇所においてイエス様が「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と仰られた意味を考えます。イエス様は、私たちを友と呼んでくださることで、とても高いハードルを越えてくださいました。それは、イエス様がわたしたち一人ひとりに御自分を合わせてくださったからです。そして、それはイエス・キリストがご自分の存在を私たちのために無にしてくださったということです。主イエス・キリストは十字架に架けられて死なれた、命を落とされた、そのことにおいてイエスは御自分を無とされて、私たち一人ひとりを友と呼んでくださるのであります。

 

 その言葉は、イエス様が教会において私たちの友達となってくださるという意味ですが、そのときの友達というのは、なんとなく横にいる友達ということではありません。そうではなくて、イエス様が十字架で死なれたように、自らを無にすることにおいて友となられるということです。

 

 この、自らを無にすることで友になる、ということについて考えてみます。まず、そんなことは普通の人間であれば、できないように思います。そして次に、こうも思います。友達になる、ということは、そんなに、自らを無にするような大変なことをしなければできないものなのか、とも思います。友達って、もっと簡単に、たとえば座った席が隣だったから、とか、同じ趣味を持っているから、とか、そんな自然な、単純なことがきっかけになるのではないのなかあ、とも思います。

 

 すると、キリスト教において、主イエス・キリストが自らの命を十字架の上で失うほどのことをなされたことで、私たちの友となってくださった、というのは、いったい、どういうことなのかと思います。そこでイエス様が仰られた「友」とは、いったいどういう意味があるのでしょうか。

 

 イエス様が言われた言葉、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」という言葉は、イエス様が単に友達になってくださる、という意味ではなくて、イエス様が、わたしは、あなたがたにとって特別な、かけがえのない、たった一人の友達になるよ、と宣言してくださっている、ということです。イエス様が、仰っていることの意味、それは、わたしは、あなたがたにとって特別な、かけがえのない、たった一人の友達になるよ、と宣言してくださっている、ということです。それは、イエス様が私たちを友と呼んでくださるとき、そこには、私たちそれぞれの他の友だちとは違う、友としての意味があるということです。

 

 イエス様は、ここで12人の弟子たちを「友」と呼ばれました。しかし、それは単にこの12人の弟子たちだけを友と呼ぶという意味ではなくて、いまここで聖書を呼んでいる私たち1人ひとりにも、同じくイエス様は「友」と呼びかけてくださっています。それは、イエス様の福音宣教の呼びかけは、すべての人に向けられているからです。本日の聖書箇所を読んで、このイエス様の言葉に応えようとする人はみな、イエス様から友と呼んでいただける存在です。

 

 私たちは本日の箇所を読むときに、「友」という言葉の意味に戸惑い、考え込みます。それは自分自身が今までつきあってきた友人、出会ってきた様々な人間のことを思い出すからです。そして、それぞれの人間に対する「友」としての評価をどこかでしています。実はそこに、人間の冷たさがあります。友が大事だ、と言いながら私たちは、どこかで人間を値踏みしているからです。

 

 そのことがそもそも、人間の罪深さです。友達は大切なのに、やっぱりその友達の価値を値踏みしている。友達に値段を付けるように人間の価値を判断しています。そんな自分の罪深さに気が付かないことが、まさに罪なのです。自分にとって友という言葉が持っている意味に値段を付けて、自分に都合のよい解釈をしようとしている私たちに対して、主イエス・キリストは、十字架のうえで死なれて、自分の存在を無とされることを通して、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われました。そこには、私たちの日常を変える、イエス様からの強いメッセージがあります。

 

 あなたに他にどんなお友達がいようとも、いなくとも、それと関係なしに、主イエス・キリストは、あなたにとってたった一人しかいない、特別な友達になってくださるのです。自らが無になられることによって、私たちを助け、支え、ゆるし、救い、導く、「友」。そんな「友」は、皆さんの人生のなかで、実際には一人もいなかったはずです。そんなたった一人のかけがえのない友に、主イエス・キリストがなってくださる、これが聖書の、キリスト教の、力強いメッセージです。

 

 では、そうして私たちの友となられたイエス様は、友となられた後に、友である私たちに何を願われるのでしょうか。

 

 本日の箇所のなかに次のように記されています。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」このようにイエス様が言われるとき、それは、私たちが到底、実行できないことが言われています。このイエス様の言葉は私たちをつまづかせます。というのは、イエス様が言われるように、友のために自分の命を捨てることは、私たちはおそらくできないからです。というのは、それは、自分ではない人の命のために、自分の命を献げるという事だからです。

 

 そんなことはできない、友のために自分の命を捨てるなどできない、と思う私たちです。しかし、そんな私たちにも、できることがあります。それは何かというと、自分の命に関わることをすべて神様にお委ねすることです。つまり、神を信じ、神に自分の命を委ねる、ということです。

 イエス様が、本日の聖書箇所を通じて、私たちに問うておられることは、自分と他人と、どちらの命が大事かという問題ではありません。そうではなくて、自分の命を神様の御心にお委ねすることこそが大切です。そして、そのことにおいて私たちは恵みにあずかります。というのは、命の意味を神様に委ねるとによって、私たちは、命というものが元来持っているエゴイズム、利己主義から解放されるからです。私たちは、神様に創られた命は、どの人の命も等しく大切であることを知っています。その一方で、人間の命が生み出す力には、時としてエゴイズム、利己主義もあることを私たちは、この現代社会のなかで起こる様々な出来事によって知っています。

 

 実は、友とは何か、ということを考えるときの、本質的な難しさがそこにあります。というのは、誰もがみんな、友だちを大事にしようとは言うが、友という存在も結局は自分の打算や欲望の結果という面があるからです。友人を選ぶことすらも、無意識に利己的な思いで選んでいることがあるのです。そのような人間関係が多い人間社会のなかで、主イエス・キリストが「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と宣言されます。このときイエス様から、単なる人間の命から生じる、私利私欲に基づいた利己的な友人関係ではなく、己を無にすることで、十字架の死において私たち一人ひとりを愛してくださったイエス様から私たちへのメッセージが示されています。

 

 主イエス・キリストが私たちの友となられる教会、それは、人間がお互いの命を大切にしあいながら、お互いに神様の前で謙虚である教会ということです。言い方を変えて言いますと、神様の前で、お互いの命の価値を互いに譲り合って共に生きようとする教会です。人間が自分の命を大切にしようとするときに、ときに自分中心の利己主義、エゴイズムも生まれます。そうした自分中心主義ではなく、お互いに大切な、お互いの命の価値というものを、神様の前でお互いに譲り合っていくこと、すなわちお互いの思いを、主イエス・キリストの前で互いに譲り合っていくことによって、互いの気持ちを一つにしていく、そのような教会でありたいと願います。

 お祈りいたします。

 主なる神様、かつてなかった時代を生きている私たちが、互いに祈り合い、支え合って生きることができますように。いま、様々な不安にとらわれている一人ひとりに、平安をお与えください。この祈りを、主イエス・キリストの名を通してお献げいたします。 

 アーメン。

 

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 2020年5月17日(日)京北教会 礼拝説教

「誰にでも惜しみなく祈ろう」牧師 今井牧夫

 

 聖 書 ヤコブの手紙 1章 2〜15節(新共同訳) 

 
 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。

 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。

 

 あくまでも忍耐しなさい。

 そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。

 

 あなた方の中で知恵に欠けている人がいれば、

 だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。

 そうすれば、与えられます。

 

 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。

 疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。

 

 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。

 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。

 

 貧しい兄弟は、自分が高められる事を誇りに思いなさい。

 また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。

 富んでいる者は草花のように滅び去るからです。

 

 日が昇り熱風が吹き付けると、草は枯れ、花は散り、

 その美しさは失せてしまいます。

 同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消え失せるのです。

 

 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。

 その人は適格者と認められ、

 神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。

 

 誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。

 神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、

 御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。

 

 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆(そそのか)されて、

 誘惑に陥るのです。

 そして、欲望ははらんで罪を生み、罪に熟して死を生みます。

 

 

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 (以下、礼拝説教)

 本日の聖書箇所はヤコブの手紙です。今までヨハネによる福音書を、ずっと続けて毎週の礼拝で読んできましたが、それを終えて、今後しばらくはヤコブの手紙を読んでいきます。すべてを続けて読むと長すぎるので、ダイジェストの形で毎週、飛び飛びに読んでいく予定です。ヤコブの手紙は、手紙という名前が付けられていますが、実際には、手紙ではなくて、一つの「説教」であると考えられています。この説教は、そのころの地中海沿岸の各地の教会で、礼拝のときなどに繰り返し読まれていたと考えられています。これを書いた人は、ヤコブという名前が伝えられていますが、ヤコブという名前はそのころよくある名前でしたので、どんな人だったかはわかりません。イエス様の弟子のヤコブではなく、イエス様よりもずっと後の時代の人です。

 

 この、ヤコブの手紙は、新約聖書の他の文書と比べて違っている特徴があります。それは、「行いのない信仰はない」というように、行い、行動することの大切さを説いていることです。新約聖書の文書の主流は、主イエス・キリストの福音を記した福音書と、使徒パウロが記したパウロの手紙です。そのパウロの手紙には、人間は行いによらず信仰によって救われる、という大変大切な教えが記されています。それに対して、このヤコブの手紙では「行いのない信仰はない」と言って、「行い」、行動の大切さを説いています。

 

 それゆえに、実は、このヤコブの手紙の価値を低く見る人もいます。たとえば、宗教改革で有名なマルチン・ルターは、ヤコブの手紙を「わらの手紙」と呼びました。それは、麦わらが役に立たないように、ヤコブの手紙は麦わらのように価値の低い文書だということです。なぜ、そう考えたかというと、人は行いによってではなく信仰によって救われる、ということをルターは非常に重視していたからです。人はただ信仰のみによって救われるのに、ヤコブの手紙では信仰だけではだめで行いが必要だ、と言っているので、それがおかしいと考えたのです。

 

 しかし、現代の私たちは、宗教改革の時代に生きているわけではないので、ヤコブの手紙の価値をルターが言うように低める必要はありません。それどころか、現代の教会においてヤコブの手紙はとても大切です。その理由は、「行いのない信仰はない」ということは本当のことだからです。それは、主イエス・キリストの十字架と復活の生涯を見るときにわかります。神様の御心は、この社会の中に生きる人間の様々な生活のなかにあって、十字架のような苦しみと、復活のような喜びの両方のなかで表されます。生きることの喜びとや悲しみは、単に心のなかにあるのではなくて、現実の人間の行い、行動の結果として生まれます。そうであれば、信仰は行いと一つのものであり、行いのない信仰というものはありえない、そのことはまさに本当のことです。

 

 本日の聖書箇所を読んで、皆様それぞれの心にとまった箇所はどこでしょうか。それは人それぞれだと思いますが、私は今日の箇所を読んで、5節の言葉が心にとまりました。ここです。「あなた方の中で知恵に欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」なぜ、この箇所が心にとまったかといえば、まずはごく単純に、自分に知恵がほしいなあ、と思ったからです。コロナウイルス問題で悩む時代のなかで生きるために、自分に知恵が欲しいなあと思ったのです。

 

 そして、ここに記されている言葉、「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神」という言葉が好きになったからです。神様は私たちに知恵を与えてくださるとき、惜しまず、とがめだてもしないのです。とがめだてるとは、叱るということです。神様は惜しむことも叱ることもしないというのです。この言葉に私は心ひかれました。

 

 では、神様から惜しみなく知恵が与えられるためには、まず私たちは何をすればいいかというと、次の通り記されています。「いささかも疑わず、信仰を持って願いなさい」。そしてこうも言われます。「疑う者は風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です」と言われます。これは厳しい言葉です。こんなふうに、疑わずに信じることは、普通の人間にとって、とても難しいことです。疑わずに信じる、という、そんな信仰を持つにはどうしたらいいのでしょうか。

 

 今日の箇所には、そのような「疑わずに信じる」信仰を持つ道が記されています。今日の聖書箇所の最初の部分には、こうあります。「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」その次には、こうあります。「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」

 

 こうして、忍耐ということの持つ意味が強調されています。ここでヤコブの手紙は、試練に対して忍耐するということ、疑わずに信じる信仰、ということが強い関連があることを示しています。それは、信仰というのは、何もないところに単純に生じるのではなくて、何かを忍耐し、試練に耐えて何かを生み出そうとするとき、神様から贈り物として与えられることを示しています。

 

 信仰というものは、ふわふわと宙に浮かんでいるようなものではなく、人が地に足をつけてしっかりと生きていくために重しの役割を果たします。もちろん、重しだけではなくて、人の心を浮かび上がらせ、上に向ける力もあります。「心を高く上げよ!」という歌詞の讃美歌の通りで、信仰には、人の心を高く上げさせる力があります。それと同時に、信仰は、重しの役割を果たします。それは試練に耐えて忍耐する力です。その重しがあるから逆に現実の重みに絶えることができる、それが信仰です。その信仰に、人を生きさせる力があるのです。

 

 現在、世界中がコロナ問題のために苦しんでいます。いまは、世界中が試練のなかで忍耐し、そこから「重しのような信仰」を神様からいただいている時代と言えます。本日のヤコブの手紙の言葉は、まさにいまの日本社会を生きるための勇気の言葉です。試練に対して忍耐することで、私たちはこの時代を生き抜く力を、信仰によって身に着けていきます。そこから、どのように生きるかを考えることができます。

 

 本日の聖書箇所には、たとえば貧富の差のなかでどう生きるか、とか、誘惑に対処するにはどうしたらいいか、というような、社会の現実の問題に対する生き方が記されています。

 

 そうした、本日の聖書箇所のなかで、私にとって一番心に残る、御言葉は、やはり最初に申し上げましたように、「誰にでも惜しみなくとがめだてもせずにお与えになる神」という言葉です。

 

 ここで私たちは、この御言葉の恵みによって、神様から知恵を与えられることを願うとともに、その次のことを考えてみたいと思います。それは、神様は私たちに惜しみなくとがめだてもせずに知恵をお与えになってくださるのですが、では、その神様からの知恵を与えられた私たちは、何をするのか、ということです。私たちが神様に対して、知恵をくださいというだけで、そして神様からいただいた知恵を自分のためだけに用いるとしたら、それは、それこそ知恵が無いことです。神様から恵みをいただいても結局自分が満足するだけなら、それは恵みにはなりません。ではどうしたらよいのでしょうか?

 

 本日の説教題は「誰にでも惜しみなく祈ろう」と題しました。これは、今日の箇所で神様が惜しみなく私たちに知恵を与えてくださるのだから、私たちは神様のその愛に応えて、今度は私たちが他者に対して、誰にでも、惜しみなく祈りを差し上げたいと思ったからです。それは、誰に対しても、その人の人生が良くなりますように、と神様にその人への祝福を祈ることです。あるいは、あの人たちにありがとう、と神様を通じてその人たちへの感謝を祈ることです。

 

 いまの世界、社会において一番大きな問題は新型コロナウイルスの問題です。そのことによって経済が成り立たなくなってきています。誰もが、どうしたらいいかわからないなか、お金がまわらなくなっているのです。このような時代において、わたしたちは世の中をまわしていくために、お金を使うことはできませんが、誰にでも祈りを惜しまないことによって、祈りを世の中にまわしていくことはできるのです。それは、人間の力によってではなく、神様の見えざるお力によって、私たちの祈りを神様がつないでくださるからです。

 

 最近、コロナ問題で大変な現場で働く医療従事者の方々に感謝を伝えよう、という動きが社会にあります。医療崩壊の瀬戸際にいる医療従事者の方々の大変な労苦に感謝し、社会のみんなで支えたいと私たちも思います。そのことに関連して、最近の新聞にこんな記事がありました。スーパーや薬局などで働いている人たちに対して、買物に来た客からマスクがないのか、何々がないのか、何をやっている、と言われて暴言を浴びせられることがあり、それがしんどいという悲痛な訴えの記事でした。その記事で、スーパーのある店員がこう言われていました。「医療従事者に感謝しようという運動はあるけれど、スーパーで働いている私たちには誰も感謝しない」と。この記事を読んだとき、本当にそうだな、と思いました。そしてスーパーや薬局で働いている方もそんなふうに社会のなかで苦しんでいるのだから、その人たちのために祈りたいと思いました。

 

 ここで、私たちは主イエス・キリストのことを考えてみたいと思います。イエス様は、病に苦しむ人たちをいやし、罪人の罪をゆるしました。神の国の福音を宣べ伝えて各地で宣教しました。そのことにより、多くの人がイエス様に救われました。しかし同時に、イエス様を憎む人もたくさん現れました。人を救う働きに対して、それを憎むのはまさに人間の罪そのものであります。

 

 その、当時の社会のなかで、イエス様はやがて捕らえられて、十字架に架けられて命を失われることになりました。その主イエス・キリストの十字架の生涯を思うとき、私は考えるのですが、現在のコロナウイルス問題のなかで苦闘している、たくさんの医療従事者を始め、たくさんの方々が、いろんな形で、社会のひずみを負って十字架に架けられているのではないか、と思います。

 医療従事者だけではありません。先ほどお話したような、スーパーマーケットや薬局で働いていて罵声を浴びせられ、暴言に悩まされている、一人ひとりの人間。最近はマスクは売られているそうですが、それだけではない問題があるはずです。あるいは、現在の状況のなかで不安のなかで過ごしている私たち一人ひとりが、実は、この社会のなかで、十字架に架けられているのではないかと思います。それは、社会のなかでの苛立ちや焦り、不安、そういった人間の心を、自分のなかで治めることができずに、自らが苦しんでいる、そして他者をもどこかで苦しめていること、それは、この世の中にあって人間が生きていくこと、それ自体の苦しみに他なりません。

 そのような社会のなかにあって私たちは、どうすればいいのでしょうか。

 誰にでも惜しみなく祈ろうと思います。

 この世の中に、感謝と祝福の祈りを惜しみなく注いでいくことが、
 いまとても大切です。

 

 本日の説教のはじめのところで、このヤコブの手紙の特徴をお話しました。それは「行いのない信仰はない」ということが強調されていることです。そこで言われている「行いのない信仰はない」ということは、単に何か目に見える行動をしなさいということではありません。目に見える善行、善い行いをする、たとえば慈善活動やボランティアをしたり、社会正義のために活動する、といったことだけが信仰の行いではありません。私たちが生きて活動することのすべてが、信仰の行いです。その行いにおいて大切なのは、人間の目から見た価値観ではなく、神様の目から見られるときの価値観です。つまり、その行いが神様の御心にかなっているかが大切なのです。

 

 私たちは、神様から力を与えられて、この世の中に向けて、あるいは大切な隣人に対して、誰に対しても惜しみなく祈っていきましょう。その人の幸せを願って、神様の祝福を心から、誰に対しても惜しみなく祈りを差し上げること、そのことが「行いのない信仰はない」というときの、まさに、行いのある信仰、そのものであります。誰に対しても、惜しみなく祈りましょう。

 

 お祈りいたします。
 主なる神様、かつてなかった時代を生きている私たちが、互いに祈り合い、支え合って生きることができますように。いま、様々な不安にとらわれている一人ひとりに、平安をお与えください。この祈りを、主イエス・キリストの名を通してお献げいたします。
  アーメン。

 

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 2020年5月24日(日)京北教会 礼拝説教

「信仰も、命の役に立たねば!」牧師 今井牧夫

 

 聖 書 ヤコブの手紙 2 章 14〜26節(新共同訳)

 
 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、

 行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。

 そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。

 

 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、

 あなたがたのだれかが、彼らに、
 「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、

 体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。

 

 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と

 言う人がいるかもしれません。

 

 行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。

 そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。

 

 あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。

 悪霊どももそう信じて、おののいています。

 

 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、

 ということを知りたいのか。

 

 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、

 息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。

 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、

 これで分かるでしょう。

 

 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」

 

 という聖書の言葉が実現し、

 彼は神の友と呼ばれたのです。

 

 これであなたがたも分かるように、

 人は行いによって義とされるのであって、

 信仰だけによるのではありません。

 

 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、

 別の道から送り出してやるという行いによって、

 義とされたではありませんか。

 

 魂のない肉体が死んだものであるように、

 行いを伴わない信仰は死んだものです。

 

 

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 (以下、礼拝説教)

 

 本日の聖書箇所は、先週の礼拝のときから新たに読み始めた、ヤコブの手紙です。ヤコブの手紙は、手紙という名前が付けられていますが、実際には、手紙ではなくて、一つの「説教」であると考えられています。この説教を記したヤコブという人は、イエス様の弟子のヤコブではなく、イエス様よりもずっと後の時代の人です。この、ヤコブの手紙は、新約聖書の他の文書と比べて違っている特徴があります。それは、「行いのない信仰はない」というように、行い、ということ、行動することの大切さを説いていることです。

 

 本日の聖書箇所を読んでも、そのことが繰り返し言われています。非常に具体的に言われています。前半では教会での具体的な場面の話です。後半では旧約聖書の物語を二つ短く引用しています。今日の箇所で皆様それぞれの心にとまった箇所はどこでしょうか。それは人それぞれだと思いますが、私は今日の箇所を読んで、次の言葉が心にとまりました。ちょうど真ん中あたりになります。「ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。」この言葉です。

 

 ここには、「行いの伴わない信仰が役に立たない」という、とてもストレートな言葉があります。信仰ということをめぐって「役に立つ・立たない」という言い方を私たちはふだんすることはほとんどないのではないでしょうか。それは、信仰というものは、役に立つ・立たないというようなまるで道具のようなことではなく、心の奥深くにあるもので、気高いもの、清いもの、何か特別な神秘的なもの、というように考えているからではないかと思います。

 

 しかし、ヤコブの手紙では、ここではっきりと「行いの伴わない信仰が役に立たない」と言われています。また、「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」と言われ、今日の箇所の最後には「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。」とも言われています。ここには、集中的に、信仰と行いの関係が示されています。すなわち、信仰と行いは切り離すことができない一つのものであるということです。

 

 本日の聖書箇所において、非常に具体的に当時の教会での場面のことが記されています。最初のほうにありますが、「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。」と記されています。もし、励ましの言葉が言葉だけで終わり、相手に対して役に立つものを何も提供しないのであれば、まさに役に立たないということを示しています。そして、そのあとにこう言われます。「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」

 

 この「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」という言葉は、大変厳しい言葉です。「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」という、この厳しい言葉が示すものは、信仰というものは、生きたり死んだりするものだということです。信仰があるからそれでいい、ということではなく、信仰が生きているか死んでいるかが問われているのです。

 この箇所を読んで思わされるのは、まさにその通りだな、ということです。言葉だけで具体的なことが伴っていない信仰、それは役に立たない、そのことは私たちに共感を生みます。言葉だけの信仰は偽善だと思えます。口先だけの信仰と言っていいでしょう。そのような偽善に対して腹を立て、具体的に人間を救う働きに私たちは共感します。その意味で今日の箇所は、私たちの心にストレートに響く内容、多くの人の共感を得る言葉であると思います。

 

 ここでは「神は唯一だ」と主張している人たちのことが言われています。それは、自分たちの信仰が一番正しいと信じている人たちの主張です。その主張は正しいとしても、ただ「神は唯一だ」と主張しているだけなら、それはいったい何の役に立つのか、と問うているのです。

 こうした、信仰の主張に対して、現実にどのような意味があるのか、と問う問いは厳しいものであり、またそれはどこかで私たちの心を打つものがあります。それは、行いのない、口先だけの信仰、というものに私たちは失望と落胆を覚えるからです。偽善のような信仰に対して、私たちはそれが一体何の役に立つのか、と問いただしたくなるのです。

 

 ただ、ここで私たちが考えなくてはいけないことがあります。それは、教会において一番大切な信仰の教えは「人間は行いによらず信仰によって、神様から救われる」ということだからです。これは新約聖書における使徒パウロの手紙で記されていることであり、キリスト教信仰の本質です。人間は善行を積むことによって救われるのではなくて、神様からの一方的な恵みによって救われる、ということはキリスト教の本質です。それに対して、このヤコブの手紙は「行いのない信仰はない」と言って、「行い」、行動の大切さを説いています。このことをどう考えたらよいでしょうか。

 

 このヤコブの手紙が、信仰だけでなく行動を強調しているために、その価値を低く見る人もいます。たとえば、宗教改革で有名なマルチン・ルターは、ヤコブの手紙を「わらの手紙」と呼びました。それは、麦わらが役に立たないように、ヤコブの手紙は麦わらのように価値の低い文書だということです。なぜ、そう考えたかというと、人は行いによってではなく信仰によって救われる、ということをルターは非常に重視していたからです。人はただ信仰のみによって救われるのに、ヤコブの手紙では信仰だけではだめで行いが必要だ、と言っているので、それがおかしいと考えたのです。

 

 こうして考えてみると、ヤコブの手紙の主張をどのように受けとめたらいよいか、迷ってしまいます。今日の箇所を読むときに、非常にわかりやすい教えとして共感して受けとめることができるのですが、一方で私たちにはとまどいも生まれるのは、信仰ということを具体的に行動に現すにはどうしたらいいかが、私たちははっきりとわからないからです。何をしたら、生きた信仰になるのか、ということがわからないのです。そして不安にもなります。教会に来ていると何か行動しなきゃいけないのかな、何をしたらいいのかな、と落ち着かなくなります。そのように、わたしたちは時として教会、あるいはキリスト教というものに、何か不安を感じる、落ち着かないものを感じることがあります。自分はどうしたらいいのだろうか、という気持ちです。

 

 ヤコブの手紙は、ここで私たちの信仰を、とてもストレートに問うことによって、共感と共に不安をも与えます。こうして、結局私たちはどうしたらいいのだろう? という、途方に暮れるような気持ちもやってきます。

 

 ここで、今日の箇所のことを考えるために、主イエス・キリストのことを思い起こしてみます。

ヨハネによる福音書6章27節にはこうあります。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」ここには、食べ物という言葉を用いて、それを朽ちる食べ物と、永遠の命に至る食べ物という二つに分けて表現しています。

 

 ここに、今日のヤコブの手紙を読むときのひとつの大きな助けが与えられています。それは、信仰にとって、行い、行動というものは切り離すことができないことなのですが、そのときの行い、行動というものは、永遠の命に至るためのものでなければならない、ということです。

 

 ヨハネによる福音書で主イエス・キリストが言われている、永遠の命とは、人間が死んだあとの天国での命というだけの意味ではなく、いま生きているうちの命も含めて、むなしく滅びることがない、神様に守られて永遠に価値を持ち続ける命ということです。それは死んだあとの天国の話ではありません。いま生きているなかにおいて、確かに自分は永遠の価値のなかを生きていると思える命のことです。

 

 そのことを踏まえて、本日の箇所のこととしていえば、食べ物がない人に食べ物を与える、ということだけに信仰の意味があるのではなくて、そのことによって、永遠の命を指し示しているか、ということが問われているのです。それは、今日の箇所を読むときに、言葉だけで食べ物を与えないことが偽善である、ていう指摘が痛快なものであるとともに、では食べ物を与えたらそれが信仰になるのか、というと、そうではない、むしろ、それもまた偽善を生むことになる、という世の中の真実があるからです。

 

 徹底して人間は罪人であります。そのことを踏まえなければ、今日の箇所を読んだことにならないでしょう。行動がありさえすればよい、という受け止め方をするならば、それは表面的なヒューマニズムで終わってしまいます。そして新たな偽善をまたひとつ生み出すだけに終わるかもしれません。そうではなくて、人間は誰しもが罪人である、という否定できない現実に心を向けて、そこから主イエス・キリストによる罪の赦し、ということを聖書から知らされ、そこからもう一度、自分自身のことを考えていきたいものです。

 

 本日の説教題を「信仰も、命の役に立たねば!」としました。これは本日の聖書箇所にある言葉、「行いの伴わない信仰が役に立たない」ということがとても印象に残ったからです。それと同時に、その「役に立たない」ということは、何に対して「役に立たない」のか、ということをはっきりさせなければ、今日の箇所を本当に理解したことにならないとも思ったのです。何の役に立たなければいけないのか、それは命のためにです。

 ヨハネによる福音書6章で主イエス・キリストが仰られた「永遠の命」、それに至るための食べ物、すなわち生きるために役に立つ食べ物、それが信仰というものでしょう。信仰というものは、永遠の命に至るための、私たちの大切な食べ物なのです。その信仰というものが行いを伴っていなければ、それは死んだ食べ物になってしまうのです。

 では、具体的にはそれはどんな行いであれば、それが、永遠の命のために役に立つ行いだと言えるのでしょうか。今日の箇所には、旧約聖書から二つの物語が引用されています。創世記のアブラハムとイサクの親子の物語と、ヨシュア記にある娼婦ラハブの物語です。どちらも、忠実に神を信じる信仰、そしてすべてを神様に委ねて神様を信頼した信仰の物語です。

 しかし、どちらも旧約聖書の時代の話です。現代の日本社会において、具体的にこういう行動をしたら、それが永遠の命に至ることになる、ということは誰にも言えないのだと思います。もしそれがわかれば、みんながそうしたいと願い、そうするでしょう。けれども、それでは、私たちの人生に意味がなくなってしまうのです。

 私たちの人生が、どのようにして永遠の命に至るのか、その道はいつも隠されていることです。その、隠された道を尋ね求めることが私たち一人ひとりの人生です。たとえば、神はどこにいるのか。それは誰にもわかりません。あるいは、どうしたら私たちは救われるのか。それも誰にもわかりません。けれども、わからないなかで手がかりが与えられています。今日の旧約聖書の二つの物語のように、聖書の言葉が与えられています。その言葉を受けとめるときに、それまでは気づかなかったことに気づきます。

 

 いま、わたしたちは世界中が苦しめられている、新型コロナウイルス問題のなかに生きています。この時代のなかで、命を守るために信仰はどんなふうに役に立つのか、わかりません。けれども、信仰は、永遠の命に至るための私たちの大切な食べ物です。それは、自分一人で食べるものではなく、教会においてみんなでわかちあって食べるものです。いま、コロナ問題のために礼拝に集まることができなくなり、食事もみんなでできなくなっています。信仰という食べ物をみんなで集まってわかちあうということができなくなっています。この危機のなかで、私たちはどうしたらよいのでしょうか。

 

 最後に信頼するのは、一人ひとりの信仰だと思います。離れていても、集まれなくても、一人ひとりのこころのなかに神様が、信仰という食べ物をくださると信じます。そのことを信じて、その食べ物がなくならないように祈り、また具体的な手立てをみんなでお互いに考えましょう。

 

 お祈りいたします。
 主なる神様、かつてなかった時代を生きている私たちが、互いに祈り合い、支え合って生きることができますように。いま、様々な不安にとらわれている一人ひとりに、平安をお与えください。この祈りを、主イエス・キリストの名を通してお献げいたします。

 アーメン。

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