京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2020年8月2日(日)平和聖日礼拝以降──聖霊降臨節の説教集2

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 2020年8月2日(日)平和聖日礼拝説教

 「彼らは漁師、平和のために」 牧師 今井牧夫

 聖 書 マルコによる福音書  1章 16〜28節(新共同訳)

  

 イエスは、

 ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、

 シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。

 彼らは漁師だった。       

 

 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

 二人はすぐに網を捨てて従った。

 

 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、

 舟の中で網の手入れをしているのをご覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。

 この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、

 イエスの後について行った。

 

 一行はカファルナウムに着いた。

 イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。

 人々はその教えに非常に驚いた。

 律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

 

 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。

 「ナザレのイエス

  かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。

  正体は分かっている。神の聖者だ。」

 イエスが、

 「黙れ。この人から出ていけ」とお叱りになると、

 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声を上げて出ていった。

 

 人々は皆驚いて、論じ合った。

 「これはいったいどういうことなのだ。
  権威ある新しい教えだ。

  この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」

 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。


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 (以下、礼拝説教) 

 

 本日、日本基督教団の暦で「平和聖日」の日を迎えました。

 平和聖日は、毎年8月の第1聖日です。これは8月6日に広島で、8月9日に長崎での原爆投下があり、そして8月15日には、日本の敗戦記念日あるいは終戦記念日を迎えるという、特別な月だから、平和聖日という日を8月に設けているのです。

 

 この平和聖日において、私たちの京北教会では、いつもと変わらずマルコによる福音書を読みます。毎週の礼拝において、マルコによる福音書を読み始めて本日で3回目となります。本日の聖書箇所は、マルコ福音書の最初を過ぎて、主イエス様が初めて登場した、そのあとのことです。

 

 そこでは、イエス様が公の活動を開始した直後に、湖の岸辺で出会った4人の漁師をイエス様が弟子に招かれたことが記されています。そして、そのあとにイエス様と弟子たちの一行が行かれた町において、その町にある礼拝のための会堂において、そこにいた、悪霊に取りつかれた、ある一人の人からイエス様が悪霊を追い出して、人々が驚いたという奇跡の話が記されています。

 こうした本日の箇所において、まず私たちの関心をひくのは、イエス様が4人の漁師を弟子にしたときのことです。ここでどのような出会いがあったのか、というような具体的なことはほとんど書かれていません。また、ここでイエス様がなぜ、湖の岸辺で出会った、この4人の漁師を弟子にしたか、という、イエス様がこの4人を選んだ理由は何も書いてありません。また、そのときのイエス様ご自身の心境の話もありません。

 

 そして、このときから弟子となった4人の漁師が何をそのとき考えたか、という1人ひとりの心境など、そうした人間の心の内面に何があったか、ということも、本日の箇所に全く書いてありません。

 

 なぜそうなっているのかというと、マルコによる福音書においては、イエスがどんな人物であったか、とか、弟子たちはどんな人物であったか、というような「人物像」に重きが置かれていないからです。

 

 それがなぜかというと、マルコによる福音書では、そうした人物像や人間の内面の問題を描くことではなく、神の言葉がどのようにイエスに現れたか、そしてそのイエスに現れた神の言葉が、どのように人間の救いのために働いたか、ということ、一言で言えば、神の言葉の働き、ということに関心が集中しているからです。

 今日、本日の箇所を読む私たちも、イエス様や弟子たちの人物像ではなく、神様の言葉の働き、ということに重点を置いて、この箇所を読みましょう。そして、神様の言葉の働きから生まれる、大きな恵みをみんなで味わっていきましょう。

 

 本日の箇所では、17節で主イエス・キリストの言葉が示されています。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」この言葉にまず注目します。この言葉はどういう意味でありましょうか。

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」この言葉を聞いて、まず思うのは、「人間をとる漁師」という言葉の意味がわからないことです。漁師とは魚をとる仕事です。それが人間をとるならば、漁師とは呼びませんし、そもそも人間をとるというのはおかしな表現です。人間を魚と同じように扱うことが、人間の存在を軽く見ることであれば、よくないことです。

 

 では、ここでイエス様は何を仰りたかったのでありましょうか。その真相は、いまもわからないことであります。けれども、ひとつはっきりしていることは、このイエス様の言葉を聞いて、4人の漁師たちは、ただちに網を捨て、舟を置き、親を置いて、イエス様の弟子になったということです。この言葉には、それだけの力がありました。これは、単に何かを説明する言葉ではなくて、1人ひとりの漁師たちに対するはっきりとした招きの言葉であり、しかも、その言葉と同時に相手がその通り行動するほどの、力強い言葉でありました。

                                                                   

 なぜ、そこまで、この言葉に力があったのか、4人の漁師たちがこのとき何を考えたのか、それは全くわかりません。けれども、ここではただ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」、という、この言葉が、まさに神の言葉として働き、4人の漁師たちに新しい人生を与えたということ、そのことのみがここで強調されている、ということこそが非常に大事なことなのです。

 

 それは、神の言葉の働きは、それを聞く人間の内面によって左右されるのではなく、神の言葉というものは、それが語られると同時に、そのことが実際に実現するということです。 

 

 ここで、本日の箇所の意味を理解するために、この箇所から少し離れた別の話をします。皆様は、次の言葉を聞いて、何を思われるでしょうか。

 

 「これから、砂場で魚釣りをする。」このように聞くと不思議に思われるでしょう。「これから、砂場で魚釣りをする。」しかし、これは子ども達の遊びの場面の言葉として聞くと、すぐに意味がわかります。砂場を海に見立てて、子どもたちが、おもちゃをならべて釣りのように遊ぶのです。砂場に池を作っておもちゃを浮かべることもできるでしょう。

 

 また、たとえば、「これから、草むらでスキーをする」と聞けば、実際には草むらでスキーをすることなんてできませんが、しかし、実際にはこれは子どもの遊びで、草むらの斜面に段ボール紙をおしりにしいて座って、草むらの斜面をスキーのように滑る遊びです。こうしたことは、ごく小さな子どもたちの遊びの世界のことであります。

 

 そのように、一見、場違いな、ふさわしくない言葉使いがなされるときには、そこに、いわゆる普通の生活のなかで経験していることとは違う、特別な世界が示されていることがあります。

 

 そこには、普段の生活のなかで使わない言葉使いだからこそ、そこで一瞬にして見えてくる、新しい世界があります。そこに、わくわくするような新しいことが起きる世界、たとえば、「これから、砂場で魚釣りをする」というときには、子どもたちが、砂場にホースで水をまいて、どろんこになって、そのなかで自分自身が主人公になって楽しむことができる世界、があるのです。

 

 イエス様が「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたときに、漁師たちが何を思ったかはここに何一つ書かれていません。しかし、ここで4人の漁師たちは、ふだん見ているのとは違う世界が、このときに一瞬にして見えたのです。

 

 さきほどの「砂場で魚釣りをする」という言葉も「草むらでスキーをする」という言葉も、小さな子どもたちにとっては、一瞬にして、そこで、自分が今いる現実世界から離れて、海に行くのではなく、雪山に行くのでもないけれど、自分がそこで主人公になって、自分が楽しいことに熱中できる世界、というものがあり、そのなかに招き入れてくれる役割を果たす言葉であります。

 

 本日の聖書箇所を読みながら、私は思ったことがあります。それは、イエス様がここで「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたとき、それは、イエス様が漁師たちに対して、「これから、とても楽しいことがこれから起こるよ!」というお気持ちを持って、その気持ちを茶目っ気を持って言われたのではないだろうか、ということです。

 

 これから、あなたたちが漁師として生きてきた人生が、これからは、漁師としてさらに楽しい人生になるよ! これからは、人間に伝道することを通して、わくわくするような世界にあなたたちは出会うよ!

 
 そのように、イエス様は彼らに伝えたかったのではないか、そう考えます。

 ここでイエス様は、「人間をとる漁師」という言葉を使われました。それは、漁師たちに対して、漁師をやめて私に付いてきなさい、という意味ではありませんでした。漁師の仕事よりも伝道の仕事のほうが大切だから付いて来なさい、という意味ではなく、これからは、漁師の仕事の本質はそのままで、漁師として生きる場所と対象が変わることを示してくださっています。

 

 それは、漁師として今までは、湖において自分の網のなかに魚が入ることを願ってきたけれども、これからは、この世界全体において神様の救いの網のなかに人間が入ることを願うようになる、これからは、この四人の漁師は、神様の網を持って人間をとる漁師になるのです。

 

 本日の聖書箇所においては、このあと、イエス様と4人の弟子たちの一行は、カファルナウムという名前の町へ行き、その町の会堂において、悪霊にとりつかれた1人の人から、その悪霊を追い出します。これもまた、イエス様の言葉の働きであり神の言葉の働きとして記されています。ここで、神の言葉というものは、あるときには弟子たちを招き出して新しい人生を与える力ともなりますし、また別のあるときには、悪霊を追い出す力ともなることがわかります。

 

 ここから考えると、さきほど申し上げました、17節のイエス様の言葉、「人間をとる漁師」という言葉は、「人間をとりかえす漁師」という意味に考えることができます。

 

 イエス様はここで、「人間をとる漁師」になる、ということは、悪霊に取り憑かれた人を、その悪霊から取り返す、という意味で、神様の前から失われている存在をとりかえす、そういう意味で、人間をとる漁師にしよう、と言われたのではないかと思えるのです。

 

 そして、そのことは、まるで魚釣りをすることのように、とても楽しいことなんだ、とイエス様は「人間をとる漁師」という言葉にこめておられるように私は思います。人を救うこと、それは悲壮な決意で取り組むことではなく、漁師が魚をとるように、楽しく、うれしく、おもしろい、素晴らしいことなんだ、とイエス様は温かいお気持ちで言われていると私は思います。

 

 このように、聖書の言葉の解釈は、その物語の流れのなかで、様々に解釈することができます。そして、そうした言葉の意味を発見する、ということもまた、湖の奥深くに隠れている宝である魚を発見することと同じく、私たちが人生の意味をかける値打ちがあることなのです。神の言葉の意味を発見する漁師になれ、そのようにイエス様から語りかけられているように私は思います。

 

 そして、そのようにするならば、それは必ず、この世界の平和のために役立つことであります。なぜなら、主イエス・キリストが説いておられることは、世界の平和を作り出すことだからであります。もちろん、イエス様の立場は、この世の政治的立場ではなく、「神の国の福音」という立場に立っておられます。

 

 ですから、この世の何かの政治的立場につながることがキリスト教の役割ではありません。そうではなく、この世の政治的あり方から退いたところから見える、神の国の福音の立場から、この世の全体を見直していく、ということに、教会の意味があります。


 本日の説教題は「彼らは漁師、平和のために」と題しました。漁師という言葉と、平和という言葉は、あまり結びつかないのではないかと思います。どちらかというと、互いに場違いな言葉にも思えるでしょう。けれども、本当にそうでしょうか。

 

 イエス様は、本日の箇所において言われました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」このとき、人間をとる漁師、という普段の生活では使わない言葉が使われ、場違いな言葉、すなわち、人間、そして、とる、そして、漁師、という、一見、つながらないはずの言葉をつなげることで、このイエス様の言葉のなかに、普段の生活とは全く違う新しい生活が、一瞬にして目の前に生まれたのです。

 

 それは、漁師という仕事を否定して新しい生活をするのではなく、漁師は漁師の本質を持ったままで、その生きる場と、向かう対象が変わる、ということです。

 

 これからは、失われた人間を見つけ出し、救い出すために、漁師という自分たちの仕事が用いられていくのだ、という、全く新しい生き方へ導く力が、イエス様の言葉にはありました。その働きにおいて、漁師たちもまた、神様の平和のために働く、平和を作り出す者へと、主イエス・キリストの言葉によって導かれています。

 

 こうして、漁師という言葉と平和という言葉は、場違いのように見えても、つながるのです。同じように、私たち京北教会に集う一人ひとりも、平和という言葉と自分自身の関係が互いに場違いのように見えたとしても、実はつながっています。

 

 今日、世界において、平和という言葉は、最も大切なもの、誰もが憧れる存在であると共に、もっとも嘘くさいもの、建前ばかりの偽善的なもの、平和ボケと言われるほどに、人間の心を怠惰にし、ごまかし、人をだます言い訳でさえあるかのように思われています。

 

 いま、私たちが生きる世界では、平和、という言葉の真の意味は失われつつあります。これを取り返す漁師の働き、失われている存在を神様のもとに連れ戻して、神様に献げるものとすることが大切です。平和という言葉の意味を、それぞれ各人の場において取り返して、感謝を神様に献げていきましょう。

 

 お祈りいたします。

 主なる神様、世界の国々や地域・民族が互いに対立し、相手を実力でねじふせ、屈服させようとする動きが強まっています。また、特定の人たちを差別・抑圧することで、鬱憤を晴らし自己満足を得るヘイトスピーチや、インターネット上の人格攻撃などが盛んに行われています。そのなかで、神様の導きに寄り頼むしかない、弱く小さな者たちをお守りください。世界のすべての対立に和解が与えられ、戦争が終わり、差別がなくなりますように。そして世界中の教会が、主イエス・キリストの神の国の福音、良き知らせを世に伝える伝道を続けることができますように。この祈りを、主イエス・キリストの名を通してお献げいたします。

 アーメン。

 

 

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 (7月26日、特大の虹が教会から見えました)

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2020年8月9日(日)京北教会礼拝説教

「旅する、いやしと人生へ」牧師 今井牧夫

 

 聖 書 マルコによる福音書  1章 29〜45節(新共同訳)


 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。

 ヤコブヨハネも一緒であった。

 

 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、

 人々は早速、彼女のことをイエスに話した。

 

 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、

 熱は去り、彼女は一同をもてなした。

 

 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、

 イエスのもとに連れてきた。町中の人が、戸口に集まった。

 

 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、

 多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。

 悪霊はイエスを知っていたからである。

 

 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、

 人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。

 

 シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、

 「みんなが捜しています」と言った。

 

 イエスは言われた。

 「近くのほかの町や村へ行こう。

  そこでも、わたしは宣教する。

  そのためにわたしは出て来たのである。」

 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。


 さて、重い皮膚病をわずらっている人が、

 イエスのところに来てひざまずいて願い、

 「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。

 

 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、

 「よろしい。清くなれ」と言われると、

 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。

 

 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。

 「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、

  モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」

 

 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。

 

 それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、

 町の外の人のいない所におられた。

 

 それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

 

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 (以下、礼拝説教) 

 

 先週の日曜日は、日本基督教団の暦で「平和聖日」の日でした。そのあとの一週間の間に、私達は8月6日の広島と8月9日の長崎での原爆投下を覚える日を経験しました。そして来たる8月15日には、日本の敗戦の日である終戦記念日を迎えます。毎年、とても暑いさなかに、私たちは過去の歴史の一部分である戦争の悲惨さと向き合い、平和の意味を考えることになります。本日の礼拝もまた、そうした現実のなかで、神様の御言葉を聴いていくことであります。

 

 本日の聖書箇所は、大きく分けて三つの話が並んでいます。これらの箇所は、現代の日本社会に生きている私たちに対して、何を語っているでしょうか。この箇所全体に記されたイエス様と弟子たちの歩みを読んだときに、まず思うことは、この箇所のキーワードは「いやし」ということです。この「いやし」ということは、いまの時代を生きる私たちにとっても深い関わりがあるテーマです。それは単に病気が治ればいい、という単純な気持ちだけではありません。病気の問題の根本にあるのは、命についての問題です。いやし、ということの意味は、命ということの意味とつながっています。

 

 ごく最近のことですが、ALSという、とても重い病気に苦しむ方が、御自分の命についてどのような判断をされたか、ということが最近のある事件において問題となっています。その事件の詳細についてはここで触れることはありませんが、人間の命の持つ意味は何であるか、ということは大変重い問題であり、絶対的に正しい答えはどこにもなく、人間は悩みながら命というものに関する問いに向き合うことになります。

 

 本日の箇所においては、いやし、ということが繰り返し記されています。いやしということが、病気を治すということだけであればそれは良いことでありますが、本日の箇所を読むと、いやしというのは、実際にはそう単純なことでもないとわかります。イエス様は確かに病気をいやしてくださいますが、そのあとに、その一つの町を離れて、ほかの町や村へ行かれます。つまり、弟子たちとともに各地への旅をされることになります。

 

 そして、ある町においてイエス様は、重い病気を治した相手に、この病気のいやしのことは誰にも言わず、ただ当時の律法に基づいた社会復帰の手順をするだけにするように言われましたが、いやされたその人はその通りにはせずに、イエスが自分の病気をいやしてくださったことを言い広めてしまったので、イエス様のうわさが各地に広まり、ついにイエス様は人前から離れていかなければならなくなります。なぜ、そのようなことになるのでしょうか。いやし、ということは病気を治す良いことなのに、その良いことのために、イエス様が町のなかに普通に滞在することができなくなってしまつたのです。

 

 この箇所を読んでいて気づかされるのは、いやし、ということは誰もが求めることではあるけれど、そのいやしに対する人々の反応は様々であるということです。その結果として、いやしを行ったイエス様が、町のなかに暮らすことができなくなってしまう、という矛盾が起きています。

 

 それは、いやしということが、単に病気が治る、という事実だけではなく、人間と人間の関係を変えることであり、社会のなかにおける人間の立場も変えていくということを示しています。すると、次のように言うこともできると思います。いやし、というのは一つの事件でもあるのだと。すると、その、いやし、という事件は、最後に何を生み出すのでしょうか。

 

 本日の箇所を、もういちど振り返りながら、この箇所の意味を知っていきましょう。まずイエス様はペトロの家に行きます。ペトロは湖で魚をとる漁師であり、その家に家族と共に住んでいました。その家にイエス様が行かれたということは、ペトロとの親しい関係をイエス様が作ってくださったことを示しています。そして、このときに熱を出して寝ていたペトロのしゅうとめの病気をイエス様がいやしてくださいます。これは、ペトロにとって大切な家族であるしゅうとめの病をいやしたことによって、イエス様の宣教は、ペトロ個人だけではなくその家族にも伝えられたことを意味しています。

 

 そのあと、その話を聞いた町中の人たちがペトロの家にやってきました。すると、今まで単に自分と家族の家だったペトロの家が、まるで教会のような役割を果たすようになります。こうして、最初に弟子となったペトロとイエス様だけの個人的な関係は、そこから家族との関係へ、町の人との関係へと広がり、町のなかにおけるペトロの家の役割はまるで教会のような役割に変わりました。こうして、イエス様がもたらされた人間関係が個人から家族へ、そして町中へと、広がっていきます。

 

 そのときには、ペトロも町の人々も、イエス様がずっとその町にいて下さると思っていたようです。しかし、イエス様はほかの町や村へも行こう、そのために私は出て来たのである、と言われます。それは周囲の人たちの思惑とは違っていました。ある限られた範囲で神の国の福音が広がることで終わるのではなく、さらにほかの町や村にも、神の国の福音は広がるのです。

 

 その道筋のなかで、意外なことが起こります。それは、病気をいやされた人がその話を人々に言い広めることによって、多くの人たちがイエス様のところに押し寄せて来たので、ついにイエス様は、町のなかに普通に滞在することができなくなってしまいます。

 

 元々は、イエス様は、神の国の福音を人々に伝えるために各地を旅されたのが、結果として、イエス様は人目を避けることになりました。そうして人々はイエス様になかなか会えなくなったゆえに、さらに、イエス様についてのうわさが各地に広がることになったのです。これはとても興味深いことですが、イエス様が人々となかなか会えなくなったがゆえに、かえってイエス様の福音宣教の話が人々のなかにうわさとして広がったということです。

 

 それは、イエス様の話が、話術がたくみだったからとか、イエス様が魅力的な人物だったから、という理由でイエス様のうわさが広がったわけではなくて、イエス様による福音宣教、その中には病気のいやしももちろん含まれていますが、そのイエス様の教えそのものが、様々な人々の口を通して各地に伝えられたことを示しています。こうした、福音書に記された、福音宣教の広がり方というものには、後の時代のキリスト教の広がり方が示されているのかもしれません。

 

 こうして本日の箇所を見てみますと、ここにあるのは、とても短い記事ですが、主イエス・キリストの福音というものが、どんなふうにして、あっという間に広がりを見せたのか、ということが凝縮して記されていることがわかります。それはまず弟子のペトロとの個人的な関係が、ペトロのしゅうとめとの出会いによる、家族との関係、そして町中の人たちとの関係、ほかの町や村の人たちとの関係へと、あっという間に、神の国の福音はとても広い人間関係へと広がっていくことがわかります。福音とは、小さな個人的な人間関係のなかで終わらないのです。

 

 本日の説教題は「旅する、いやしと人生へ」と題しました。本日の箇所でイエス様は旅に出発しておられます。それは、神の国の福音宣教のためでありました。その宣教においてイエス様は多くの人々をいやされました。そのいやしは、単にいやしのためのいやしではありませんでした。神の国の福音の宣教と結びついていました。それは、本当のいやしというものは、単に身体や命の状態の問題ではなく、一人ひとりの人間の人生そのものと結びついているということです。本日の箇所のイエス様の旅は、まさに、世界中の人々のいやしと人生のためでありました。

 

 イエス様の宣教の中心は、マルコによる福音書1章15節にある言葉です。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」そう言われました。そうした、イエス様の力強い福音の宣言は、この現実世界のなかで人々を苦しめてきた様々な存在を、イエス様が語る神の言葉が打ち負かしていく力を持っていました。それは、悪霊を追い出す力でもあり、また、病気や障がいによる苦しみから人々を解放する力にもなりました。


 今日、私たちの社会では、コロナウイルス問題を始めとして、病気ということが最大の問題といっても言い過ぎではありません。また、コロナ問題でなくても、皆様お一人おひとりの日常生活のなかで、病気の問題は最も大きな問題でありましょう。そして最近起こったALSの患者の命をめぐる問題など、病気をめぐる課題は私たちの社会で尽きることがありません。

 

 そのなかで、本日の箇所を読むときに、教えられることがあります。それは、イエス様は、病のいやしということを、単に限られた範囲において、人の病気を治すことで完結することとは思っておられなかったということです。イエス様にとって、一人の人のいやしということは、世界中にいる一人ひとりの人間の人生と強く結びついていました。いやされなくてはならないのは、一人ひとりの病気だけではありません。その一人ひとりの人生を神様の御心に沿うように変えていただき、そして、そのことによって世界全体が変わる必要があるのです。

 

 私たちは先週、広島と長崎の原爆記念日を経験しました。核兵器の問題は、戦争の問題であり、命の問題であり、私たちの日常に本当は直結している話です。しかしなかなか日常生活のなかで核兵器の問題を考えることはしんどいことです。あまりにも重い問題というのは、核兵器の問題もそうですし、ALSの患者の命の問題もそうですが、あまりにも重いがゆえに、何かすごく遠い世界のことのような気が、どうしてもしてしまいます。遠くに感じる、というのは、自分から遠ざけたい、という無意識の思いも関係していると思います。

 そのような私たちに、本日のイエス様の言葉が響きます。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」みんなが捜しているイエス様、病気をいやしてくださるイエス様は、ある一つの町だけで人をいやして終わることはされませんでした。町や村を巡り歩いて旅をされました。その旅において出会う人たち、イエスの言葉を聞こうとする人たちの病をいやして旅をされました。

 

 イエス様の旅は、単に人の病気をいやす旅ではなく、人の人生をいやす旅でした。病気をいやすだけではなく、病気で苦しむ人生そのものを、イエス様の福音宣教は変えてくださる力を持っていました。そのことにおいて、イエス様は、病気のいやしだけにとどまらない活動を各地でなされました。それは、今日の私たちの教会にとってもとても大切なことを示していると思います。

 

 それは、教会というものは、人の痛み苦しみをいやすだけではなく、神様の前での悔い改めによる神様とのまっすぐな関係の回復による罪のゆるしと新しい人生を、人に伝えるということです。もしも、病気のいやし、ということだけを求めるならば、それは、イエス様に対して「みんなが捜しています」と言った弟子たちと同じです。自分たちが生きる範囲のなかにのみ、神の子イエス・キリストがいてくださるはずだ、という素朴な思いは、実は自己中心的な自己満足の信仰でした。自分と自分の家族と自分が生きる町の人たちだけが、病気がいやされたらそれでいい、という人間の思いを、主イエス・キリストは打ち砕いてくださいます。

 

 神の国の福音の宣教は、個人や家族、町といった小さな単位を打ち破って、広まっていくのです。しかも、決して人に話すなとイエス様が仰られてもそれでも広まるほどに、広まっていくのです。そうした広がりの始まりには、主イエス・キリストが私たちのために旅をしてくださった、という事実があります。一人ひとりの人間のいやしと人生のための旅です。そのような旅をすることを、実はわたしたち一人ひとりも、イエス様から導かれているのだと思います。

 

 コロナ問題のためにどこにも行けないような世界であったとしても、イエス・キリストとともに旅に出る人生、というものは誰にだって味わうことができる、素晴らしい経験です。イエスと共に祈り、イエスによって天の神様につながって、神様の救いのみわざのなかに入れていただくことが、誰だってできるのです。その福音の広がりのなかを、どの方も、病気と人生をイエス様によっていやされながら、今週一週間をそれぞれに歩んで参りましょう。

 

 お祈りいたします。
 主なる神様、病気に苦しむ、弱く小さな者たちをお守りください。どうぞ一人ひとりの人間の病気と人生をいやしてください。そして、世界中の教会が、主イエス・キリストの神の国の福音、良き知らせを世に伝える伝道を続けることができますように。この祈りを、主イエス・キリストの名を通してお献げいたします。
 アーメン。

 

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 2020年8月16日(日)京北教会礼拝説教

「組み、ゆるされる」牧師 今井牧夫

 

 聖 書 マルコによる福音書  2章 1〜12節(新共同訳)


 数日後、

 イエスが再びカファルナウムに来られると、

 家におられることが知れ渡り、

 大勢の人が集まったので、

 戸口の辺りまですきまもないほどになった。

                                                      

 イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。

 

 しかし、群衆に阻まれて、

 イエスのもとに連れて行くことができなかったので、

 イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、

 病人の寝ている床をつり降ろした。

 

 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、

 「子よ、あなたの罪はゆるされる」と言われた。

 

 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。

 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。

  神おひとりのほかに、いったいだれが、罪をゆるすことができるだろうか。」

 

 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、

 御自分の霊の力ですぐに知って言われた。

 

 「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。

  中風の人に『あなたの罪はゆるされる』と言うのと、

  『起きて、床をかついで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

  人の子が地上で罪をゆるす権威を持っていることを知らせよう。」

 

 そして、中風の人に言われた。

 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」

 

 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、

 皆の見ている前を出て行った。

 人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、

 神を賛美した。

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 (以下、礼拝説教) 

 

 本日の聖書箇所は、4人の人たちが1人の中風の人をイエス様のところに連れてきた話です。そのときにイエス様がおられる家の中には、先にたくさんの人がいたので、後から来たその5人の彼らは家に入ってイエス様に出会う事ができませんでした。そこで彼らは、2階に上って屋根をはいで、そこから中風の人を床ごとつり降ろしたことが記されています。この、2階から屋根をはいで病人を1階に天井の穴からつり降ろす、という方法は、大変意表を突くことであり、そのためにこの話全体がとても印象深いものになっています。もし、こうして屋根をはいで病人をつりおろす、という場面がこの話になければ、あまり印象に残らない話になっていたでしょう。この屋根をはいで病人をつり降ろす、という大胆不適な、そして乱暴な話があるからこそ、私たちの心はこの話に引きつけられるのです。そして、この話から、マルコによる福音書は、主イエス様の宣教活動の本論へと入っていくのです。

 

 本日の箇所は、マルコによる福音書が始まって、主イエス様の公の宣教活動が始められた、そのごく最初の時期の奇跡物語として記されています。本日の箇所は、いわば、このあとに続くたくさんのイエス様の奇跡・いやしの話において、その奇跡やいやしが世の人々の対立を生み出した話において、1番最初の話、トップバッターとも言えるでしょう。もちろん、本日の箇所の前にも、イエス様が様々な病人をいやされた話がすでに記されていますが、それらの箇所には、本日の箇所にあるような律法学者との対立ということは記されていません。イエス様が単に人の病気を治してくださったというだけではなく、人の病気のいやしにおいて、世の中を支配する律法主義と闘ってくださった、最初の話が本日の箇所です。

 

 そのような意味を持つ本日の箇所を皆様と共に具体的に読んでいきましょう。私は、子どものときにこの話を聖書物語の絵本か紙芝居か何かで読んで、心に残った記憶があります。それは、この、屋根をはいでそこから人を床ごとつり降ろす、ということが子供心にものすごく印象に残ることだったからです。家の天井に穴をあけるなんてことをすれば、それはもう家を壊すことですから、絶対にゆるされないようなこと、そんなことはだれもしないだろう、ということを、4人の大人たちがした、ということが、子ども時代に聖書物語として本日の箇所を絵によって見た私の心にとまりました。

 

 今から思うと、それは、単にその話に驚いたというだけでなく、それを実際やってみたら、どんな気持ちかなあ、という子ども心があったと思います。もっと言えば、それは、やってはいけないことだろうけれども、やったら面白そうだなあ、という気持ちがあったと思います。

 

 実際、これを現実に行うのは大変です。へたをすると、床をつり降ろす4人のバランスが崩れると、床から病人が落ちて大変なことになるでしょう。これは実は非常に危険が伴う行為です。でも、そんな危険だから、やってみたいと思うところも子どもにはあるのです。そして、それがもしうまくいって、うまく病人をつり降ろすことができて、そのうえでイエス様から病気をいやしてもらえたら、上手くいって良かった! と心から思えるのだと子ども心に想像したのです。

 

 やってはいけないことであるけれど、やってみたらできるかもしれないことです。やってみたらおもしろいんじゃないか。失敗したら大変だけど、何とかうまくいけばいいのに、と子ども心に思うような、ハラハラドキドキのこととして、この病人を屋根からつり降ろす話を、子どものときの私は受けとめました。そして、そのような大人たちの行動に対して、イエス様は、どうされたかというと、イエス様は、この4人の大人のしたことに対して、その人たちの信仰を見て、「あなたの罪はゆるされる」と仰いました。

 

 このイエス様の言葉、「あなたの罪はゆるされる」とはどういう意味でしょうか。本日の箇所全体を通して考えると、このイエス様の言葉は、この1人の中風の人の中風という病気をいやす言葉です。当時の人たちは病気はその人が神様に対して犯した罪の結果として、神様が罰としてその病気を与えたのだと考えていましたので、ですから、それをイエス様が、その人の罪をゆるすことで、いやして下さったという解釈ができるでしょう。

 

 けれども、私は今回あらためてこの箇所を読んだときに、イエス様が「あなたの罪はゆるされる」と言われたのは、本当にそうした、神様に対する罪のゆるし、という意味だったのだろうか、とふと考えました。それは、あなたの罪はゆるされた、とイエス様が言われたときの、罪とは何のことだろうか、という問いです。確かに、当時の常識においていえば、中風という病気は、神様がその人の罪に対して下した罰ということでした。当時の人たちは、病気は悪霊のしわざであり、神様に罪を犯した人への神様からの罰として病気になったと考えられていました。けれども、それは現代の私たちの目から見ると、明らかに偏見です。すると、ここでイエス様が、あなたの罪はゆるされた、と言われているときの罪ということは、果たして、そのような、この中風の人が神様に対して犯してきた罪のゆるし、というようなことだったのかなと疑問に思うのです。

 

 そこで、この箇所をもっと単純に考えて、この箇所をありのままに、難しい解釈を加えないで読んでみると、次のような読み方もできます。イエス様が、ここで、あなたの罪はゆるされる、と言われた意味は、神様に対する罪のことではなくて、この4人の人たちが、屋根をはいで床ごと病人をつり降ろしてきた、という、この乱暴で失礼な行動、それはしてはいけないこと、その行動が他の人々の目には罪と思われるだろうけれども、イエス様は罪とは思われないので、「あなたの罪はゆるされる」と言われたのではないか、と私は考えてみました。

 

 この4人の人たちが屋根をはいで病人を床ごとつり降ろしてきた、という、この非常に乱暴なやり方は、普通はあってはいけないこと、実に乱暴な行いです。まさに罪とされることです。けれども、このときには、1人の中風の人をいやしてほしいという一心で、4人の男たちがそのように乱暴なやり方をしたのでした。そうであれば、その屋根をはぐというやり方は罪ではあるけれども、その行動のなかにこめられた願い、つまり、そうまでしてもこの1人の中風の人をイエス様にいやしていただきたい、という切なる願いがこめられていた行動であるがゆえに、その罪は神様がゆるしてくださる、という意味で「あなたの罪はゆるされる」とイエス様は言われたのではないかなあ、と考えることができます。

 

 もちろん、それは私の一つの想像でしかありません。けれども、この「あなたの罪はゆるされる」というイエス様の言葉は、当時の人々にとっても、現代に生きる私たちにとっても、その言葉の意味の解釈が様々にわかれるものがあった、ということは確かです。というのは、本日の箇所の後半には、まさにその「あなたの罪はゆるされる」という言葉の意味を巡って対立が生まれているからです。

 本日の箇所において、その場に居合わせた律法学者たちは、イエス様が中風の人に言われた言葉、「あなたの罪はゆるされた」という、まさにこの言葉に反発を感じています。その理由は、人の罪を許すということができるのは、神様だけだからです。神様しか罪のゆるしはできないはずなのに、神様ではないイエスが、あなたの罪はゆるされる、なんて言うことは、おかしい、神様の権威を冒頭している、というように彼らは心の中で考えたのです。そして、その律法学者たちの心中を見抜いたイエス様は、心の中ではなくてはっきりと口に出して言われます。「なぜ、そんなことを心に抱くのか」と。

 

 イエス様にとって、この罪のゆるしの宣言は、神を冒涜するものではなく、その反対に、神様の御心を人々に対してまず宣言することでありました。このあとに、イエス様はこの寝たきりの中風の人をいやしてくださるのですが、それに先だってまず宣言されたのが、罪のゆるしということでありました。まず罪のゆるしの宣言があり、そのあとに実際の病気のいやしが実現するこということです。

 

 イエス様は、このあとに律法学者たちに質問をされます。「あなたの罪はゆるされる」と言うことと、「床をかついで歩きなさい」と言うことと、どちらが易しいか、と。これは神学的に考えるとどちらも難しい問いです。どちらも、人間には実現が難しいことです。けれども、ここでイエス様は、そのどちらのことをも、ここで言葉にして、そのどちらもが実現します。

 

 イエス様にとっては、この二つのどちらが易しいか、という問いは意味がありません。この二つは一つながりのことだからです。イエス様は、ここで罪とは何か、罪のゆるしとは何か、という神学的な解釈を問題にしているのではなくて、端的に人間の解放を問題にしておられます。苦しみから解放されたいと願う人間たちの行動に出会って、それを「信仰」として理解し、その実現を行われるところに、神の子としてのお働きをしておられます。

 

 さて、そのようなイエス様のお姿から、現代のことを考えてみます。8月の第1日曜日は、日本基督教団の暦で「平和聖日」の日です。今年はも私たちは8月にあたり、第一日曜日には平和聖日礼拝を行い、8月6日の広島と8月9日の長崎での原爆投下を覚える日を経験し、そして昨日の8月15日には、日本の敗戦の日である終戦記念日を迎えました。毎年、とても暑いさなかに、私たちは過去の歴史の一部分である戦争の悲惨さと向き合い、平和の意味を考えています。本日の礼拝もまた、そうした現実のなかで、神様の御言葉を聴いていくことであります。

 

 本日の聖書箇所は、平和ということについて、どのようなことを私たちに伝えているでしょうか。もちろん、聖書には、21世紀の国際社会に対する直接的なメッセージが記されているわけではありません。こうしたらいい、ああしたらいい、というような、それですぐに世界が平和になるような直接のメッセージがここにあるわけではありません。しかし、聖書はいつも平和につながるメッセージを発しています。

 

 本日の箇所でいえば、次のようなことです。1人の中風の人がイエス様にいやしていただきたいと願って、4人の人たちはとても荒っぽいことをしました。屋根をはいで病人をつり降ろすという、一歩間違えると大惨事になることを、4人の人はみごとなチームワークでなしとげました。このとき、イエス様の前に届けられたのは、もっとも弱い人である中風の人の願いだけではなく、その人がいやされることを心から願っていた4人の人の願いであもありました。

 

 ここで、もっとも弱い人と、そうではない人たちの気持ちが一致していました。このときに、屋根をはいで病人をつり降ろすという、普通はできないことができたのです。このとき彼らはイエス様に対して突きつけたのは、刃物や武器によって自分たちの願いを実現することではありません。そうではなくて、もっとも弱い人とそうではない人たちが同じ願いを共有し、同じ方向を向いて、同じバランスをとって、自分たちの願いをこの中風の人に託して、イエス様のところに届けるということでした。平和のわざとは、あらっぽくても良いから、もっとも弱い人とそうでない人が同じ願いをもって、一つの方向に取り組んで、現実に穴を空けていくことであります。

 

 そしてこのとき、イエス様は、屋根がやぶられて1人の病人が目の前につり降ろされてきたとき、この5人の人たちの信仰をその場に見出しました。5人の人たちは、ここで祈りのために力を合わせて、パートナーを組み、細心の注意をもって、祈るだけではなくて祈りを現実に実行しました。そのとき、「あなたの罪はゆるされる」とイエス様は、いやしに先だって罪のゆるしを宣言されました。すなわち、実際のいやしに先だって、神の国がこの5人の人たちのところにやってきたことが宣言されたのです。これは、人間を捕らわれから解放する宣言です。「あなたの罪はゆるされる」というイエス様の言葉は、現実に穴を空けて、現実に苦しんでいる人を神のもとに届けようとする祈りを行う人たちに対して、あなたはとらわれの身から解放されるのだ、と力強く励ましてくださる、まさに神様の言葉であります。

 

 お祈りいたします。平和を求める私たち1人ひとりの祈りを、神様、どうぞ聞いてください。私たちが平和をあきらめていこうとするとき、私たちに聖書の言葉の意味を明らかにしてください。平和への祈りを新たに行うことができますように、私たちの心にともし火をともしてください。戦争や武力弾圧に苦しむ世界を憐れんでください。差別・抑圧の絶えないこの世界を憐れんでください。災害や飢饉によって苦しむ世界を憐れんでください。そして、私たちの日常生活の場において、一人ひとりが平和のために力を組むことができますように導いてください。この祈りを、主イエス・キリストの名を通してお献げいたします。アーメン。

 

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「親しい声、君を呼ぶ」2020年8月23日(日)京北教会礼拝説教 今井牧夫

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 本日の聖書 マルコによる福音書 2章13〜17節(新共同訳)


 イエスは、

 再び湖のほとりに出て行かれた。
 群衆が皆そばに集まって来たので、

 イエスは教えられた。                            

 そして通りがかりに、

 アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、

 「わたしに従いなさい」と言われた。

 彼は立ち上がってイエスに従った。


 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。

 多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。

 

 実に大勢の人がいて、

 イエスに従っていたのである。

 ファリサイ派の律法学者は、

 イエスが罪人や徴税人と

 一緒に食事をされるのを見て、

 弟子たちに、

 「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。

 イエスはこれを聞いて言われた。

 「医者を必要とするのは、

  丈夫な人ではなく病人である。
 

  わたしが来たのは、

  正しい人を招くためではなく、

  罪人を招くためである。」

 

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(以下、礼拝説教) 

 

 教会の礼拝で、7月からマルコによる福音書を読み続けています。そのなかで主イエス・キリストが公の宣教を始められたあと、急テンポで物語が進んでいきます。

 

 本日の箇所においては、とても短い物語のなかに、イエス様とレビという名の徴税人の出会いが記されています。徴税人という職業はローマ帝国への税金を取り立てる職業の人たちでした。当時のユダヤの国を植民地として支配していたのはローマ帝国でした。その帝国の手先になって、人々から税金を集めるのです。そのことは、経済的に重い負担であることは言うまでありませんが、単に経済的なことだけでなく、イスラエルの国、ユダヤ人の人たちにとっては、自分たちを力で支配し抑圧しているローマ帝国の皇帝に税金を献げることは屈辱的なことでした。そしてさらに、その税金を集める徴税人たちは、実際の税金よりも高い金額を人々から取り立てて、その分で自分たちの私腹を肥やしていると思われており、人々から軽蔑され嫌われていました。

 

 そのような徴税人の一人である、レビという名前の人が、道ばたで税金の徴収のために座っていました。これは、その道を通るだけでローマ帝国に納めなくはならなかった通行税を集める仕事をしていたのです。そのレビのところを通りかかったイエス様は、その道でレビに声を掛けます。するとレビはすぐにイエス様に従っていきました。そしてイエス様を自分の家に招き、他の徴税人や罪人と呼ばれていた人たちも共に、イエス様が一緒に食事をします。

 

 すると、そのようにイエス様が罪人たちと食事をしたことが、律法学者たちに知られることになり、強い批判を受けることになりました。なぜかというと、当時の宗教的な社会のなかで嫌われていた徴税人や罪人と呼ばれる人たちと食事をしたということは、その人たちの仲間になったことを示すからです。だから、律法学者たちは、イエス様を、神様に対して汚れている罪人の仲間になったと考えて批判したのでした。

 

 そのような批判を受けてイエス様は次のことを言われました。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」この前半で言われている「医者を必要としているのは、丈夫な人ではなく病人である」という部分は、言わば当たり前のことです。現代のように丈夫な人でも病気の予防のために医者にかかる、ということはなくて、病気にかかったからこそ医者にかかるのです。イエス様は、その当たり前の事実をまず語ったあとに、本当に言いたいことを言われます。

 

 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」この言葉はとても強い印象を人に与えたと思います。というのは、当時のイスラエルの宗教的な社会の中では、神様に救われるのは律法を守って生活をしている正しい人だと考えられていましたから、そうした人たちこそ神様に救われる人だと考える価値観が、宗教家たちにはあったはずです。律法学者であったり、祭司であったり、当時の宗教的な社会のなかでの権力を持つ人たちは、自分たちが律法、つまり宗教的な決まり事を守って正しい生活をしているから救われると考えていました。

 

 ところが、そうした正しい生活をしている人たちのためではなく、罪人のために私は来たとイエス様が言われます。イエス様は、社会で嫌われていた徴税人や罪人と呼ばれていた人たちを招き、その人たちの家に行って一緒に食事をして、そこで神の国の福音を宣べ伝えました。福音とは良き知らせという意味であり、イエス様が人々に宣べ伝えていたのは、神の国がこの現実世界の中に近づいたから、そのことを信じて生きるということ、それが福音でした。その福音を伝えた相手の中に、当時の社会のなかで嫌われていた徴税人や罪人と呼ばれた人たちが多くいました。

 

 その罪人たちの一人として、本日の箇所に登場するのが、レビという名前の一人の徴税人でした。レビは嫌われ者でした。ローマ帝国の手先となって人々から税金を集める仕事につき、お金をちょろまかしていたからです。そのレビが道ばたで税をとりたてる仕事をしていた最中に、イエス様から声を掛けられて、すぐにイエス様についていきました。それは一体なぜでしょうか。

 

 レビがイエス様にすぐついていった理由は、この箇所には一つも書いてありません。ただわかることは、イエス様にすぐついていったことは、レビがイエス様の声を聞いたからということです。そして、そのことはレビだけではなく他の徴税人、そして罪人と呼ばれた人たちにも共通していました。なぜ、レビたちはイエス様の呼びかけに応えて従ったのでしょうか。

 

 その疑問について考えるヒントを、聖書の他の箇所から捜してみます。まず、マルコによる福音書で本日の箇所の少し前、1章16節以降にある場面を見てみます。ここは、イエス様が公の宣教を始められた直後に、湖の岸辺に行かれて、そこで湖で働く漁師たちと出会ったときに、イエス様が彼らに対して「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と仰られた場面です。漁師たちにそのように言われた言葉を、本日の箇所に照らして考えてみます。

 

 漁師たちに対して「人間をとる漁師にしよう」と言われたのであれば、道ばたの徴税人レビに出会ったときにイエス様は何と言われたのでしょう。それは実際にはわかりませんが、たとえば、次のように考えることができます。イエス様は、「わたしについて来なさい。これからはお金を集めるのではなくて、人間を集める徴税人にしよう」。そんなふうに言われてもおかしくないと思います。もちろん、これはもちろん私の想像に過ぎません。けれども、徴税人に対してイエス様がそう言ってもちっともおかしくないはずです。

 

 今まではレビはお金を集めてきました。ローマ帝国の手先になって税金を集め、それだけではなくて、その税金を多めに集めて、その分を自分の私腹に入れてきた人生でした。けれども、これからは、ローマ帝国の手先ではなく、神の国の一員になって、神の国の福音のために、お金ではなく人間を集める人になる、それが主イエス・キリストに出会ったレビの新しい人生でした。もうお金をちょろまかすことはしなくても済みます。お金をちょろまかす人は心寂しいからであることをレビは自ら知っていたでしょう。もうそんな生活をしなくていいのです。そのように、レビの心中を想像することもできます。

 

 ここで、レビの気持ちをさらに考えてみるために、聖書の他の箇所を見てみましょう。次は、ルカによる福音書19章にあるザアカイという名前の人の話です。この人もレビと同じく徴税人でした。そしてある日イエス様に出会います。ザアカイの場合は、レビとは違って、イエス様の評判を聞いてイエス様を一目見ようとしてやってきましたが、イエス様のまわりに大勢の人がいて近寄ることができなかったので、木の上に登って見ていたところ、イエス様から「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と言われて、ザアカイは喜んで自分の家にイエス様を迎えました。そしてザアカイはイエス様に言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」

 

 このようにして、ザアカイは主イエス・キリストとの出会いによって、生き方を変えました。ここでザアカイは、徴税人という仕事をやめるのではなく、徴税人の仕事をしながら、自分が今までしてきた生き方を変えて、自分よりも貧しい人々や自分が今までお金を奪ってきた人々との関係をまっすぐに変えていく、という生き方を選びました。イエス様に出会って新しく生きる、ということは、今までしてきた職業を変えることではなく、生き方を変えることでした。

 

 もう1箇所、別の福音書の話を見てみます、今度は、ヨハネによる福音書10章の話です。イエス様が、羊飼いと羊のたとえをお話されているところの途中から読みます。「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」ここには、羊飼いと羊にたとえて、神様の救いを知らせる声と、それを聞き分けてついていく人間ということが、イエス様からお話されています。この箇所において、羊飼いの声を羊は知っていて、羊は羊飼いの声を聞き分けて着いていく、ということに注目します。これは、まさに本日の箇所において、徴税人レビがイエス様から「わたしに従いなさい」と言われたときに、その声がレビのことを知ってくださっている声、羊飼いの声であることを気づいたということに通じると思います。

 

 実際には、このときレビはイエス様に初対面だったと思われます。それがどうして、イエス様から一声掛けられただけで、イエス様についていくことができたのか、それはわかりません。けれども、人間は不思議なもので、その声を聞いたときに、その声が自分のことを本当に考えてくださっている方の声だと気づく、ということもあるのです。それは、それがなぜだかはわかりませんが、その声がとても、自分にとって親しい声であった、という思いになる経験です。

 

 本日の説教では、本日の聖書箇所だけではなく、いくつもの福音書の箇所を引用させていただきました。こうして様々な箇所を並べて読みますと、はっきりしてくるものがあります。それは、イエス様は、今こうして聖書を読んでいる私たち一人ひとりを、今日もまた招いてくださっているということです。「わたしについてきなさい」というイエス様の招きは、一人ひとりが今している職業や立場を捨てることではなく、その立場に留まりつつ、生き方を神様の方向に向けて変えていくということです。そのことが、その人に新しい命を与える福音、良き知らせです。

 

 イエス様は仰いました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 

 このイエス様の言葉は、神の救いは、それを必要としている人にこそ届けられることを示しています。もう充分にこの世で救われているならば、神様の救いを必要とはしないでしょう。神様の救いを必要としていないのに、神様、神様ということは偽善なのです。偽善として神様を求めるのではなく、罪人の立場に立って、誰もが神様の前で罪人であることを自覚して、そこから神様に救いを求めることが大切です。

 

 本日の箇所を読むときに、何度読んでも不思議なことは、やはりレビはなぜここでイエス様にすぐに従うことができたのか、ということです。このとき、レビの耳に聞こえてきたイエス様の言葉は、レビにとってとても親しい声、レビのことを良く知ってくださっている声、これからのレビの人生を導いてくださる声に聞こえたに違いありません。

 それが具体的にどんな声であったかは、私たちは知ることができません。また、もっと具体的にレビがどんな人で、イエス様とレビがここでどんな会話をしたのか、ということも、私たちはわかりません。けれども、聖書を読んでいくときに、レビがイエス様の声を聞いて、それに従ったように、今日の私たちもまた、イエス様から親しい声を掛けていただいて、それに従っていく、ということは、自分自身の体験として持つことができるのです。

 

 本日の箇所において、イエス様が大勢の罪人や徴税人と一緒に食事をしていたことが、律法学者たちから批判されたことが記されています。そのことが当時の社会そして宗教の枠組みを壊すことだったからでした。神に救われるためには、一切の汚れから身を清めなくてはならない、という徹底した宗教的考え方によらず、イエス様は、罪人たちに親しい声をかけて共に食事されました。それは単に悪人たちと一緒に飯を食った、ということではなく、罪人たちに親しい声を掛け、罪人たちは、そのイエス様の声に、希望を見出したということであります。

 

 本日のレビとイエス様の話は、今日の現代日本社会に生きている私たちにとって、どういう意味があるでしょうか。それは、平凡な言い方になりますが、人間の生き方というものは、いつも何かの明確な理屈で動いてるわけではない、ということです。本日のレビの話にあるように、罪人である自分のことをわかったうえで親しい声をかけて下さる、主イエス・キリストの言葉を、ある日、道で聞いたという、たったそれだけのことで、自分の人生を前へと動かしていいのです。その声が自分にとってとても親しい声であり、自分の事を本当に知って下さっている声であることが、その声を聞いたときにわかった。そういう理由で新しい人生を生き始めてよいのです。

 

 お祈りいたします。

 新型コロナウイルス問題により、社会のあり方が変わってしまい、その中でどう生きたらよいのかと悩むすべての人に、神様が「わたしについてきなさい」と親しい声を掛けてくださいますように、救ってくださいますように、支えてくださいますように、心からお願い申し上げます。この祈りを、主イエス・キリストの名を通してお献げいたします。

 アーメン。

 

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2020年8月30日(日)京北教会礼拝説教

「生きるを新しく」 牧師 今井牧夫

聖 書 マルコによる福音書  2章 18〜22節(新共同訳)


  ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、

  断食していた。

  そこで、人々はイエスのところに来て言った。
  「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、

   なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」

 

  イエスは言われた。
  「花婿が一緒にいるのに、

   婚礼の客は断食できるのだろうか。

   花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。


   しかし、花婿が奪い取られる時が来る。

   その日には、彼らは断食することになる。


   だれも、
   織りたての布から布ぎれを取って、

   古い服に継ぎを当てたりはしない。

 

   そんなことをすれば、

   新しい布ぎれが古い服を引き裂き、

   破れはいっそうひどくなる。

 

   また、だれも、
   新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。

   そんなことをすれば、

   ぶどう酒は革袋を破り、

   ぶどう酒も革袋もだめになる。

 

   新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

 

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(以下、礼拝説教) 

 

 本日の聖書箇所には、有名なことわざである「新しい酒は新しい革袋に」という言葉の元になっている聖書の言葉が記されています。これは主イエス・キリストの言葉です。これは、新しい中身は、新しい入れ物に入れるべきである、という意味です。その新しさということを、イエス様はここで、あふれ出るような発酵の力を持つ新鮮なぶどう酒の、発酵のエネルギーにたとえています。また、布のツギを当てることにもたとえておられます。新しい布が古い布よりも伸びるので、継ぎを当てることでかえって引き裂いてしまう、そうした意図せざる引き裂きを作り出すもの、気づかぬうちに古い時代を引き裂いていくものとしての新しい力、として言われています。

 

 この箇所を単純に読むと、新しい時代には古い時代のことは合わないので、古い時代のことは捨てていこう、という意味、すなわち新しい時代の新しいことが、古い時代のことよりもずっと良いことだ、という意味に解釈することもできます。

 

 しかし、それは本当に正しいことでしょうか。たとえば、私たちにとって、新型コロナウイルス問題は、どうでしょうか。コロナ問題は、私たちにとって新しい問題です。人類がいまだかつて直面したことのない新しい問題です。このコロナ問題が持っている新しさ、ということには何かの喜びがあるでしょうか。一つもありません。いくら新しい生活様式とかニューノーマルとか、新しい言葉をたくさん聞いても、そこには喜びはひとつもありません。賢くはなるかもしれませんが、喜びはありません。この問題に関しては、新しい、ということに関しての喜びは感じられません。その反対に、新しいということが私たちのため息になっていきます。

 

 イエス様が本日の聖書箇所において、新しい酒は新しい革袋に、と言われたとき、それは単に新しいことはいいことだ、と言われたのではありません。そうではなく、新しい時代の考え方は古い時代の生き方に閉じ込めることができないことを、知っておきなさい、という意味です。

 

 本日の箇所では、断食、という当時の一つの宗教的な儀式を、古い生き方として表しています。古いことが良いか悪いかという問題ではなく、イエス様の新しい考え方は、その古い生き方に閉じ込めることができないことを示しています。この箇所でイエス様と律法学者との間で直接議論されているのは「断食」についてのことです。この断食という行いは、文字通り食べ物を絶つことですが、単に食事をしないというだけのことではなく、食べものを絶って神様に祈る、という宗教的な特別な意味がありました。自らの楽しみや栄養をとることをやめて、神様の前でからっぼになって祈る、そのことでその祈りの真剣さを断食という節制の形で表す行動です。

 

 そのような断食ということを、当時の洗礼者ヨハネの弟子たちやファリサイ派の律法学者たちは実行していました。自らを節制して神様に祈る、という真剣な信仰です。しかしイエス様の弟子たちは、なぜか断食をしていませんでした。その理由ははっきりとは書かれていませんが、おそらく、イエス様ご自身がそれをしなくていいといったのではないかと思われます。

 

 そして、それ以前にイエス様ご自身が断食をしていなかったのではないかと思われます。福音書では、イエス様が公の宣教活動に入る前に40日間荒れ野で過ごされたとある場面が唯一、イエス様が断食をされたと思われる場面です。それ以外にはイエス様が断食をされた場面は出て来ません。その反対に、様々な人たちと共に食事をされた場面が何度もあります。

 

 本日の箇所にも、そうしたイエス様の楽しい食事の場面を思わせる言葉があります。イエス様が律法学者の問いに対して、結婚式のお祝いの婚礼の食事の場面の話をしておられるところです。楽しい婚礼のときに、花婿がその場にいる、そういう幸せな場面の言わば主人公であるある花婿が一緒にいるときには、誰も断食しないと言われます。これはとてもユーモアを含んだ説明の仕方です。いかに断食ということが宗教的に大切だと主張する人がいたとしても、まさか結婚式の婚礼のときに「私は今から断食をいたします」といってご馳走に手を着けない人がいたら、ずいぶん滑稽なことです。それと同じように、イエス様弟子たちが断食しないのは、主イエス・キリストが一緒におられるから、つまり神様の救いの喜びの主人公が一緒におられるからということを意味しています。

 そして、さらにそのことに付け加えてイエス様が言われたのは、花婿が奪い去られるときが来る、そのときには断食する、ということでした。これは、のちにイエス様がとらえられて十字架の上で死なれることここで先取りして語っておられることでした。ここからわかることは、イエス様は、断食という事それ自体を否定しておられるのではないということです。断食という行い自体の真剣な意味を否定するのではなく、「ことさらに断食しなくてもいいのに、ことさらに断食することで何か立派な人間であろうとする、あるいは自分が立派な人間であることを人に見せびらかそうとして断食する」ことを、イエス様はここではっきりと拒否しておられるのです。

 

 苦行などの宗教的行いによって救われるのではなく、信仰によって救われる。その新しい教えを入れるには新しい器が必要でした。人間は、断食とか律法を守るとか、そういう行動によって救われるのではなく、神様からの恵みによって救われるということです。

 

 このことについて、一つの例として、現代における新型コロナウイルス問題のなかでの課題を考えてみます。聖書の教えに立つところから考えますと、新型コロナウイルス問題への一番の対策は、マスクでも手洗いでもなく、神を愛する信仰ということであります。もちろん、それはキリスト教を信仰していればコロナウイルスに感染しないとか、何か狂信的なこととして信仰が大切だということではありません。そうではなくて、人間が神に救われることの本質は、人間の行いによるのではなく信仰による、ということです。

 

 そのことがよくわかる聖書の箇所をここで読みます。マルコによる福音書12章28節以降です。これは、イエス様がお話されている場面です。ここでは、律法学者たちから、旧約聖書の律法のなかでどれが第一ですか、と聞かれた事に対して答えておられます。イエス様がここで言われたのは、旧約聖書の律法の中で最も大切な掟として言われたのは、二つのことでした。

 

 第一の掟は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、そして、第二の掟は、「隣人を自分のように愛しなさい」、この二つをイエス様は仰いました。コロナ問題のなかで私たちは、マスクの着用や手洗い、消毒や換気、外出の仕方や遠出についてなど、様々な気を使って行うことが社会的に求められています。しかし、それらのコロナ対策をするときに、一番大切なことは、マスクでも手洗いでもなく、神を愛する信仰です。そして隣人を自分のように愛することです。イエス様はこの二つを切り離すことのできない一つのこととして教えておられます。神への愛と隣人への愛は一つながりのことです。

 

 そうした神への愛に根ざした隣人への愛、というものがなければ、コロナ問題への対応は、人を裁くものになってしまいます。もちろん感染対策のためには、マスクが必要です。しかし、もし何らかの理由でマスクを付けない人がおられたときに、その理由も知らずにそのマスクを付けない人を、周囲の人間が裁いて攻撃するとしたら、私たちの社会はおかしくなっていきます。それは、人を愛することよりもマスクを付けるという行いを上に置く社会になっているからです。

 

 本日の聖書箇所において、イエス様が「新しいブドウ酒は新しい革袋に」と言われたとき、行いではなく信仰によって救われる、という神の国の到来による信仰義認の良き知らせ、ということが言われています。そのことは、単に何もしなくても神様を信じたらそれで救われる、というだけのことではありません。そうではなくて、イエス様がここで言われているのは、人間が外側の行いだけによってとがめられ、裁かれ、批判され、差別され、排除される、そのようにギスギスした、言わば「行い中心主義」の社会を古い革袋にたとえて、イエス様の福音は新しいブドウ酒として新しい革袋に入れる、すなわち新しい生活スタイルを生み出すことを意味しています。 

 

 一番大切なことは神を愛すること、そして神への愛に根ざして隣人を自分のように愛すること。このイエス様の教えは、コロナ問題のなかでも全く変わりません。本日の説教題は「生きるを新しく」と題しました。生活の一部を新しくするのではなくて、生活の全体を神様と隣人への愛のために変えていくことが、本当の意味で新しくされることです。人間の外側を新しくするのではなく、人間の内側の信仰と愛において、人間は神様から新しくしていただけます。そのとき、自然と自分の生活は新しい器を必要として、人間の外側を含めて生活全体が新しくされていきます。そのことを信じて、今日から始まる新しい一週間を歩み出しましょう。

 

 お祈りいたします。
 新型コロナウイルス問題により、社会のあり方が変わってしまい、その中でどう生きたらよいのかと悩むすべての人に、「新しいぶどう酒は新しい革袋に」というイエス様の言葉を届けてください。教会がそのために伝道できますように、神様がどうぞ導いてください。この祈りを、主イエス・キリストの名を通してお献げいたします。
 アーメン。

 

 

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2020年9月6日(日)京北教会礼拝説教

「安心の真ん中におられる方」 牧師 今井牧夫

聖 書 マルコによる福音書  2章23節〜3章6節(新共同訳)


 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、

 弟子たちは歩きながら麦の穂を積み始めた。

 

 ファリサイ派の人々がイエスに、

 「ご覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。

 イエスは言われた。

 「ダビデが、自分も供の者たちも、

  食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。

  アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、

  祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、

  一緒にいた者たちにも与えたではないか。」

 

 そしてさらに言われた。

 「安息日は、人のために定められた。

  人が安息日のためにあるのではない。

  だから、人の子は安息日の主である。」

 

 イエスはまた会堂にお入りになった。

 そこに片手のなえた人がいた。

 人々はイエスを訴えようと思って、

 安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。

 

 イエスは手のなえた人に、

 「真ん中に立ちなさい」と言われた。

 そして人々にこう言われた。

 「安息日に律法で許されているのは、

  善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」

 彼らは黙っていた。

 

 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、

 その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元通りになった。

 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、

 どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

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(以下、礼拝説教) 

 

 本日の箇所は、マルコによる福音書2章です。全体で16章なので、主イエス・キリストの公の宣教活動のまだまだ始めのころの物語です。それまでの時期に少しずつ、主イエス・キリストと、当時の宗教的な権力者たちの間には、徐々に対立が始まっていました。それが本日のところではその対立が一気に進み、権力者たちはイエス様を殺すための計画を考え始めることになった、という場面です。まだマルコによる福音書の2章ですから、ずいぶん早い段階から、イエス様をめぐる情勢は緊張していたことがわかります。そうした本日の箇所が、今日の現代日本社会に生きる私たちにどのような意味があるのかを考えて、神様のメッセージを聴きとっていきましょう。

 

 まず、本日の聖書箇所のキーワードは、安息日ということです。安息日、これは何かというと、当日の一週間、7日間の最後の日に、すべての仕事を休んで神様に礼拝を献げるための日です。今の私たちにとって日曜日が安息日ですが、旧約聖書の時代の安息日はいまの土曜日にあたります。というのは、現在の日曜日に安息日の役割を与えたのはキリスト教の考え方で、昔のユダヤ教安息日の、その次の日に主イエス・キリストが復活なされたので、そこから当時の安息日の次の日を「主の日」と呼んで礼拝するようになったからです。そうした歴史の流れがあるにせよ、安息日という日は、一週間の中で1日を、神様への礼拝のためにすべての仕事を休む日です。

 

 本日の聖書箇所では、安息日の解釈をめぐってイエス様は、熱心な律法学者など、当日の宗教的な権力者たちと闘うことになります。その結果として、権力者たちはイエスを殺す計画を建てるようになります。それは、イエス様が当時の宗教的な社会のあり方をくつがえすことを恐れたからです。こうして主イエス・キリストの十字架の死へと至る受難の道のりが、ここからすでに始まっているのでした。

 

 本日の箇所は、大きく分けて二つの場面です。ひとつは前半部分で、イエス様と弟子たちが麦畑のわきの道を歩いている場面です。そこで弟子たちは麦の穂を手で摘んで食べています。これは安息日のことでした。もしも、その麦の穂を摘んで食べるということが労働にあたるならば、安息日の規定に違反するとになります。そのことが問題となり、イエス様が律法学者たちと議論することになります。そのあとの後半の部分では、神様を礼拝するための会堂が舞台になっています。礼拝堂の中にいた一人の人、この人は片手が不自由な障がい者の方でした。この人の萎えた片手をイエス様はいやしてくださいます。以上の二つの場面は内容的に連続しており、どちらも安息日の解釈を巡る問題です。

 

 こうして今日の箇所の概要を見てみますと、本日の箇所の中心は「安息日」の解釈だとわかります。しかし、本日の聖書箇所を皆様とともに読むにあたり、あえて申し上げますのは、本日の聖書箇所の一番のポイントは、安息日の解釈ではないということです。単に安息日の解釈が問題だとすると、それは旧約聖書の解釈の問題で、専門家にしかわからないような話になるからです。本日の箇所は、そのような専門家にしかわからない箇所ではありません。すると、本日の箇所では、何が一番のポイントであるかというと、それは、いやし、ということです。

 

 イエス様は、本日の箇所で、安息日に人々をいやしているにもかかわらず、宗教的な権力者層の人たちは、そのいやしということの意味を認めなかった、ということが一番の問題なのです。

 

 安息日の意味は、本質的には「いやし」というテーマです。なぜかというと、聖書における安息ということは、まさにいやしそのものだからです。神様の前で本当の安息をいただくということが、安息日の本来の意味です。その安息日というものは、神様によって私たち人間がいやされるための日なのです。ですから、本日の箇所のキーワードは安息日ということですが、本当のポイントは、いやしの意味ということになります。いやしということにどんな意味を見出すかが、本日の聖書箇所において問われています。

 

 それでは本日の箇所を具体的に見ていきます。麦の穂は、まだ青いときには、生のまま手で摘んで食べることができます。弟子たちはお腹が減っていたのでしょう。しかし、そのことが律法学者たちからとがめられることになります。それに対してイエス様は、旧約聖書のサムエル記で、アビアタルという名前の祭司のがいた時代に、そのころの王様であったダビデが神殿で神様に供えられていたパンを食べた、という物語を引用して話しておられます。このダビデの話は、本当は神殿に備えられたパンは祭司以外は食べてはいけないけれど、緊急のときにはダビデはその供え物のパンを食べた、そういうこともゆるされる、とイエス様はお話をされます。

 

 このような、麦畑での穂を摘んで食べた弟子たち、それをとがめる律法学者、それに反論するイエス様、というようなこの場面を読んでみて、皆様はどう思われるでしょうか? 私は思いますが、おそらく、このような安息日の問題は、当時のユダヤ人にとっては重大な問題だったとしても、現代日本社会に生きる私たちにとってはあまり意味を感じないのではないかと思います。

 

 つまり、イエス様がこうして安息日の解釈について、律法学者たちと闘ってくださった、ということそれ自体は、人間の自由と解放のために素晴らしいことだろうけれども、現代の私たちは安息日の守り方で人から批判されたり悩んだりすること自体がないわけですから、本日の箇所も、歴史的なこととして知るという以上の意味を感じられないのです。

 

 すると、イエス様が本日の箇所の前半の締めくくりに言われている、言葉の意味も私たちにはあまり深くは伝わってこないようでしょう。この言葉です。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主である。」イエス様のこの言葉にはどんな意味があるのでしょうか。その次の後半の部分を読みながら考えることにいたします。

 

 後半の部分を読みます。イエスはまた会堂にお入りになったとあります。これも安息日のことです。ここに出てくる会堂とは、旧約聖書に記された神様を礼拝するためのシナゴーグと呼ばれるユダヤ教の礼拝堂でした。その中には、安息日に礼拝に来た町の人たちがたくさんいました。

その中に片手がなえた人、障がいを持った方が一人おられました。その障がいを持った人が会堂にいるときに、イエス様が入ってこられました。すると、まわりの人々の好奇心が高まりました。

 

 それは、イエス様があちこちで病気の人や障がいを持った人をいやしていることがすでに人々に知られていたので、この安息日の礼拝堂においても、イエスがこの障がい者をいやすかどうか、ということに人々は注目したのです。

 

 もし、イエス様がその障がい者をいやしたならば、イエス安息日にしてはならない労働をしたということで律法学者たちはイエス様を批判する口実を得ることになります。逆に、イエス様がもしいやしを行わなかったならば、なぜイエスはいやしの力を持っているのにこの障がい者をいやさなかったのか、と陰口をたたかれることになります。果たしてイエスはどちらの道を選ぶのだろうか……そのような好奇心を周囲の人々は持っていました。

 

 そのような周囲の状況のなかでイエス様は、その片手が萎えた人に対して「真ん中に立ちなさい」と言われます。そしてイエス様は会堂に集まっている人たちに対して問いかけます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」

 

 律法学者たちは、このイエス様の問いかけに対して黙っていたとあります。もちろん、安息日に行うことが律法で許されているのは、善を行うこと、命を救うことであることを、律法学者たちは知っていました。しかし、ここでそのような答えをすると、イエスがこの一人の障がい者をいやすことを正当化することになりますから、彼らは黙っていたのです。彼らは、イエスが人をいやすことが善であるか悪であるか、とか、命を救うことか殺すことか、ということではなく、イエスのいやしが安息日に禁じられている労働にあたるかあたらないか、ということばかりを問題にしていました。すなわち聖書解釈を一番の課題とすることで、現実の人間の存在をそれ以下としていたのです。それゆえに、彼らは、イエス様の問いに対して黙っていました。答えると自分たちが不利になるからです。

 

 そのような彼らの沈黙に対して、イエス様は怒りを感じられました。それは、彼らが自分たちの立場を保身したそのずるさに対してだけではなく、もっと根本的なものがありました。それは、安息日についての律法の解釈がどうか、つまり聖書の言葉の解釈がどうか、という問題ではなく、一人の障がい者の人が神様にいやされることを、ここで律法学者たちが望んでいなかった、ということへの怒りだったと思います。このとき、イエス様は、単にここにいる彼らに対して怒っていたのではなく、社会への怒りを持っていたと思います。それは、人間のいやしや救いよりも聖書解釈を上に置く、当時の宗教、そして社会のあり方に対する根本的な怒りを、イエス様が持っておられたと私は考えています。

 

 こう記されています。「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元通りになった。」こうして、安息日にイエス様は人をいやしました。これに対して、この場では何も言わずに黙っていた律法学者たちの行動が、その後すぐに起こります。次の通り記されています。「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」

 

 この箇所から始まって、イエス様を殺す計画が進められ、最終的にローマ帝国への反逆者の汚名をイエス様に着せることで十字架の刑を与えることになりました。その意味で本日の箇所は大変重い意味を持っています。それと同時に、イエス様は御自分の命をかけて、人をいやしてくださったのだということがよくわかる、という意味でとても大切な箇所です。

 

 このとき、神様への礼拝の場で、最初に真ん中に立った人は、この障がい者の方でした。その次に、その人の立っているところに、イエス様が共に立ってくださいました。イエス様は、その人に「真ん中に立ちなさい」と言っただけでなく、そこで一緒に真ん中に立ってくださいました。社会の影に隠れてそこで密かに癒すのではなく、神様への礼拝を献げるこの礼拝堂のど真ん中に立って、そこで神様のいやしがこの人に現されるのでした。 

 

 安息日において、本当の安息とは、いやしのことです。そのいやしとは、神様の創られたこの世界の中にあって、苦しんできた人間が真ん中に立って、そこにイエス様が共に立ってくださることでした。社会の影や隅っこではなく、真ん中に立ちなさいとイエス様は言われます。そこにイエス様が共に立ってくださいます。そこで起こるいやしは、労働ということとは違うのです。

 聖書における、いやしとは、その人の存在が神様によって良しとされることです。その働きはいわゆる労働とは違うことです。それは神様ご自身が人間を照らし、その人を苦しめてきたことを取り払い、社会の中にあってその人に確かな居場所を与えることです。その居場所とは、神様がその人と共にいてくださる場所ということです。このとき、そのいやされた人は安心の真っ直中にいます。安息日におけるいやし、それは人間の労働ではありません。神様の恵みです。安息日の本当の意味は、いやしの日ということであり、そのいやしは安心を生み出します。

 

 本日の箇所の前半にあるイエス様の言葉をもういちど読みます。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主である。」人の子という言葉は、イエス様が救い主としてのご自身のことを言われるときに使われる言葉であるとともに、単純に人間という意味も含んでいます。ここでイエス様は、安息日の意味を、宗教的な戒律の日とするのではなく、人間がいやされることが主となる日としておられます。神様の前に出て、その真ん中に立って、救い主イエス・キリストとともに、安息日の安心のどまんなかに立って、そこで人間が神様にいやしていただくこと、これが安息日の意味であり、まことのいやしであります。

  

 

 お祈りいたします。
 私たちの日々の生活のなかに本当のいやしを与えて下さい。また、私たちそれぞれが、自分のためだけではなく、この社会の中で苦しんで生きている他者のために、自分の賜物を発揮することができますように、導いてください。いま新型コロナウイルス問題によって苦しんでいる世界全体にいやしをお与えください。導いてください。この祈りを主イエス・キリストのお名前を通してお献げいたします。
 アーメン。

 

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2020年9月13日(日)京北教会礼拝説教

「悩みつぶされない」 牧師 今井牧夫

 

 聖 書 マルコによる福音書  3章 7〜19節(新共同訳)


 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。

 ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。

 また、ユダヤエルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、

 ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、

 イエスのしておられることを残らず聞いて、

 そばに集まって来た。

 

 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。

 群衆に押しつぶされないためである。


 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、

 イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。

 

 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。

 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。

 イエスが山に登って、

 これと思う人々を呼び寄せられると、

 彼らはそばに集まって来た。

 そこで、十二人を任命し、

 使徒と名付けられた。

 彼らを自分のそばに置くため、

 また派遣して宣教させ、

 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。

 

 こうして十二人を任命された。

 シモンにはペトロという名を付けられた。

 ゼベダイの子ヤコブヤコブの兄弟ヨハネ

 この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。

 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、

 アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン

 それにイスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。

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(以下、礼拝説教) 

 

 本日の箇所は、マルコによる福音書の3章です。ここには、病のいやしを行うイエス様のところにたくさんの人たちがやってきたことが記されています。

 

 人がたくさんやってきた、ということは、それが単純に人気があったからということであれば、普通はそれを良いことだと思います。けれども、もしそれが、単純に人気があって人がたくさんやって来る、ということではなくて、人間の願望がたくさん押し寄せてきて、それが何かをおしつぶすようにやってくることだとすると、それは単純に良いこととは思えなくなります。

 

 この箇所では、イエス様が弟子たちに小舟を出すように伝えたのは、「押しつぶされないためである」と記されています。イエス様を押しつぶすほどに人々が押し寄せてきたのは、人々がイエス様にいやしを求めてきたからです。自分の病気がいやされることを求める、ということは人として当然のことでしょう。けれども、ここで考えたいのは、人がいやしを求めるのは、自分を大切にし、命を大切にするという意味では当然ですが、それは人間としての欲、ということでもあることを私たちは知っておく必要があります。

 

 その人間の欲、というものがイエス様にところに押し寄せてきて、イエス様を押しつぶそうとしていたのです。そのために、イエス様は群衆が来る場所から離れるために、湖に小舟を出すことを弟子たちに求めました。そして岸辺の人々から少し離れた湖の小舟の上から、イエス様は人々に説教したのです。

 

 こうした湖の岸辺のできごとのあと、イエス様は今度は人里離れた山に登ります。そのころの人々の考え方は、山は天に近いので神様に近い場所と思われていました。その山の上に登り、これと思う人々にイエス様は声を掛けたとあります。事前に声を掛けていた人々をここで山の上に集めたという意味だと思われます。イエス様が活動を始められたあとに、一番最初に弟子にしたのは、ガリラヤ湖という湖の岸辺をイエス様が歩いていたときに出会った、4人の漁師たちでした。その1人シモンは、のちにイエス様からペトロという名前を与えられて、シモン・ペトロという名前になります。そのほか、11人の弟子たちの名前がここに記されています。その中には、後にイエス様を裏切ったユダの名前も最後に記されています。

 

 イエス様は、ここで12人の弟子たちを「使徒」という立場に任命します。使徒とは何でしょうか。今日の箇所には、使徒の意味について次のように記されています。「彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」そのように、イエス様イエス様は12人の使徒を群衆のなかへと遣わすのです。

 

 以上の流れをまとめてみますと、本日の箇所は、前半と後半に分かれています。前半が、大勢の人々がイエス様のところに押し寄せてきた話で、後半は、イエス様が12人の弟子たちを集めて使徒に任命したという話です。この箇所をつなげて読むと、イエス様が12弟子をここで任命したのは、病気のいやしを求めてイエス様のところに押し寄せてきた大勢の人たち、群衆たちに対応するためであったことがわかります。

 こうした一連の流れから、私たちは、何を学べばよいでしょうか。何を神様からのメッセージとして受け取ればよいでしょうか。それは聖書を読む人それぞれに違うものですが、本日私は、次のことに注目をします。それは、いやされたいと思う人間の欲望あるいは願望というものに、私たちはどのように対応すべきかということです。

 

 いやされたいと思う人間の欲望あるいは願望というものに、私たちはどのように対応すべきでしょうか。それに対する一つの答えは、組織化ということです。本日の箇所でイエス様が12名の弟子たちを使徒に任命されたように、いやしのために働く人たちを呼び寄せて、そのための働く立場を与えるという形で組織化するという方法があります。

 福音書のなかでは他にも、五つのパンと2匹の魚をイエス様が大勢の群衆に分かち与えた話のなかで、群衆を組みにして野原に座らせた場面があります。組みにして座らせる、そこで弟子たちがパンと魚を配っていく、そうした組織化の場面があります。また、使徒言行録においては次のような話があります。キリスト教会が生まれた最初の時代に、初代のキリスト教会のなかで、食べ物の分配を巡って対立が起こり、その解決のために、教会の中の人たちの生活のお世話をする人たちを使徒たちは別に、人柄の良い人たちを選んで食べものの分配などのお世話をさせたという話があります。

 

 そうした教会のなかの働きの組織化、ということは、現代のキリスト教会においても意味があります。教会のどんな働きも、何事も1人だけで取り組むのではなく、組織化して役割分担して、そのことで効率よく活動を行っていくことは大切です。そのことを考えるとき、本日の聖書箇所は、そのように、教会の組織化の必要性を示す物語として読むことができます。

 

 しかし、私はここであえて申し上げたいことがあります。それは、今お話したこととは矛盾することですが、そのような教会の組織化ということは本当に必要なことだろうか、ということであります。教会を組織化すれば、効率はよくなるかもしれませんが、それは果たして本当に良いことなのだろうか、という思いが私にはあります。その理由は、教会というものは、そもそもそのように、効率とか組織化ということを求める場所なのだろうか、という、教会の本質を考えるところから生まれる疑問です。人々の欲求に応えるために教会の組織化をする、ということが本日の箇所のメッセージとは思えません。さらに深くこの箇所をこれから読んでいきましょう。

 

 本日の聖書箇所において、前半の部分には、病気のいやしを求めて、イエス様のところに大勢の人たちが集まってきて、イエス様を押しつぶすほどだったので、湖に小舟を出してほしいとイエス様が望まれました。そうしてイエス様は、押し寄せてくる人たちから距離を置きました。そして湖で小舟に乗られることで、人々が直接イエス様に触れることで病気をいやしてもらいたいと思う人たちの願望に対して、あえて離れていかれました。それはなぜだったのでしょうか? 

 

 イエス様の目的が、より多くの人々の病気をいやすことであったとすれば、イエス様はその人たちにどんどん手を置いて病気をいやせばよかったはずです。しかし、あえてイエス様はここで人々から離れて小舟に乗り込まれました。その意味を考えてみます。

 

 人間は誰でも、自分の病気からいやされたいと思っています。健康になりたいと思っています。それは健康でなければ自由に生きることができませんから、自由になりたいという思いでもあります。また、健康であることによってこそ手に入れられることがたくさんあります。日々の仕事、食べ物、人間関係、家族との信頼関係、そして自分自身の何かの希望、そうしたものが人々にはあったはずです。1人の人間のなかにもそうした様々な希望があります。それが大勢の群衆になれば、そこにあるそれぞれの人の希望というものは、本当に無数の膨大なものでありました。

 

 本日の聖書箇所において、イエス様を押しつぶそうとしていたのは、人間の無数の膨大な願望でありました。人々は自分は病気をいやしてほしいと思って、一人1人自分で考えてイエス様のところに来ていたでしょう。しかし、イエス様がご覧になられたとき、押し寄せてきた群衆全体の姿は、無数の膨大な人間の願望の固まりでした。イエス様は、その人々の願望に押しつぶされないために、小さな舟を湖の上に出して、そこに逃れられたのです。

 

 この箇所を読む私たちは、ここで群衆から離れて小舟に逃れられたイエス様のお気持ちを考えましょう。このことにこそ、私たちがこの聖書箇所から受けとめたい、神様から私たちへの大切なメッセージがこめられています。イエス様を押しつぶすほどに押し寄せてきた群衆たちの姿は、神の子、救い主を押しつぶすほどの、人々の巨大な悩みの固まりでした。そこには、自分が病気からいやされたい、神に救われたい、というまっとうな願いと共に、自分がこの世で満足して生きることができない、無数の悩み苦しみがありました。

 その悩み苦しみが、神の子イエス様を押しつぶそうとするのです。そして、そこで押しつぶされることから逃れるために、イエス様が湖の上に出すことを弟子たちに求められた小舟、この小舟こそが、現代の私たちにとっては、主イエス・キリストの教会の役割なのです。本日の聖書箇所において、最も大切なメッセージは、イエス様がここで群衆たちから離れて、湖の上に小舟を出され、そこに弟子たちと共に乗り込まれた、その小舟の役割というものが、現代の私たちにとっての教会である、ということです。

 

 この箇所で、イエス様が湖の小舟に乗って、群衆から離れて、そこからさらに山に登られて、12人の弟子たちを使徒に任命された、ということは、現代の私たちにとっては、私たちが日毎の普段の生活の場から離れて、教会に行き、神様を礼拝することによって、自らが新しい使命を与えられて、また生活の場へと戻っていく、ということを意味しています。

 

 本日の箇所は、決して、単なる2000年前の出来事ではなくて、今日の私たちの生活へとつながっています。現代において、新型コロナウイルス問題は私たちの心を悩みで押しつぶしています。コロナ問題によって、様々な人間の悩みと悩みが重なり合って、雪だるま式に社会の不安がふくれあがるとき、1人ひとりの個人の心が、その社会全体の大きな悩みによって押しつぶされそうになります。そのときには、あえてその悩みから離れ、距離をとることも必要です。それは現実の問題から目をそらすことではありません。自らの魂を守り、自らの使命に集中するためのことです。

 

 マルコによる福音書の始まりにおいては、イエス様は最初は人々の病気のいやしから宣教を始められましたが、徐々にその宣教活動は、1人ひとりの人の病気のいやしという、個人的な一対一の関わりによる働きを超えて、さらに多くの人々に対して説教をすることによって、神の国の福音を伝える、ということが中心になっていきました。現代の私たちもそのイエス様の福音宣教の恵みを、いまこうして、この京北教会の礼拝において受け取っています。

 

 本日の箇所でイエス様は、群衆たちから離れて山に登り、そこで12人の弟子たちを使徒に任命されます。ヨハネによる福音書15章15節では、この使徒たちがイエス様から「わたしはあなたたちを友と呼ぶ」と言われています。2020年度の京北教会の標語は、「イエス様が友となられる教会」です。これは、まさにヨハネによる福音書15章の言葉を元にした標語です。

 

 現実の問題に悩みつぶされそうになるとき、そこから教会という小舟に逃れてください。主イエス・キリストがあなたの友になってくださいます。そこから、悩みにつぶされずに新しい出発をすることができます。もちろん、課題は山積みであり、現実はすぐには代わりません。けれども、私たちは、この世の問題のなかで、押しつぶされてはいけないのです。そこから救い出してくださる神様の御手にひっぱっていただいて、生きることができますようにと願います。

 

 お祈りいたします。
 この世界のなかで、一人ひとりの人間が、社会全体の悩みにつぶされないように、大勢の群衆の思いによって個人の心がつぶされることがないように、小舟によって助け出してください。この祈りを主イエス・キリストのお名前を通してお献げいたします。
 アーメン。

 

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 2020年9月20日(日)京北教会礼拝説教 

「誰かと一緒に重荷を降ろそう」牧師 今井牧夫

 

 聖 書 マルコによる福音書 3章 20〜35節(新共同訳)

 

 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、
 一同は食事をするひまもないほどであった。

 

 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。

 「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。

 

 エルサレムからくだってきた律法学者たちも、

 「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、

 また、「悪霊の頭(かしら)の力で悪霊を追い出している」と言っていた。

 

 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。

 「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。

  国が内輪で争えば、その国は成り立たない。

  同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。

  また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、

  その人の家に押し入って、家財道具を奪い去ることはできない。

  まず縛ってから、その家を略奪するものだ。

 

  はっきり言っておく。

  人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべてゆるされる。

  しかし、聖霊を冒涜する者は永遠にゆるされず、永遠に罪の責めを負う。」

 イエスがこう言われたのは、
 「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

 

 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。

 大勢の人が、イエスのまわりに座っていた。

 「ご覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」

 と知らされると、

 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、

 まわりに座っている人々を見回して言われた。

 「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。

  神の御心を行う人こそ、

  わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」


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(以下、礼拝説教) 

 

 7月から毎週の礼拝でマルコによる福音書を続けて読んでいます。本日の箇所は3章20節から35節です。今日の聖書箇所の一番大きなテーマは、家族ということです。家族とは何でしょうか。本日の箇所には、イエス様の家族の話が記されています。イエス様の家族は、イエス様のことを理解していませんでした。世間の人たちがイエス様のことを「あの男は気が変になっている」と言っているのを聞いて、それは大変だと心配して、イエス様のいるところに行って、みんなでイエス様を取り押さえて家に連れ帰るために、イエス様の家族は大挙してやってきたのです。

 

 その家族たちの心配、というものがどのようなものであったか、ということを示すために、本日の箇所の半ばの部分で、そのころにイエス様に対する律法学者たちの誹謗中傷が記されています。それは、この説明をしなければ、なぜ家族がイエス様を取り押さえに来たかが、この箇所を読む人には理解できないからです。家族はただ単にイエス様を心配してやって来たわけでありません。イエス様の世間での評判が悪いことが家族として耐えられないので、やってきたのです。

 

 では、本日の箇所を具体的に見ていきます。まず、本日の箇所の真ん中の部分、律法学者からイエス様への誹謗中傷と、それに対するイエス様の反論の部分を見てみます。この部分に出てくる「ベルゼブル」という聞き慣れない言葉の意味は、現在でも正確にはわからず詳しいことは不明ですが、悪霊のことを示す名前のようです。ここで律法学者たちが主張していたこととは、イエス様が人々の病気をいやし、悪霊を追い出していたことは、神様の聖い力によるのではなくて、実はイエス自身の中に悪霊がいて、その悪霊の力によって、それよりも弱い悪霊をイエスは追い出している、つまりイエスは悪霊の親玉の力で人をいやしている、という誹謗中傷でした。

 

 こうした誹謗中傷には、イエス様が神の子、救い主として多くの人々から信頼されていたことに対して、その信頼関係を崩したいという意図がありました。そうした誹謗中傷に対して、イエス様は次の様にお話されました。もしも国の中や家の中で、その中の内輪同士の人々が争い合うなら、その国や家は立ちゆかない。同じように、もしイエスが悪霊の親玉で、それが他の悪霊を追い出しているのなから、悪霊同士で立ちゆかなくなる。だから、悪の力で悪を追い出す、ということはできないのだと言われます。これは、わかりやすい説明です。

 

 本当は、悪霊を追い出すには、神様の聖い霊、聖霊の力によらなくてはなりません。だから、イエス様の力は神様の聖霊から来ています。なのに、それを誹謗中傷する律法学者たちは、イエス様を冒涜している以上に、神様の聖い霊、聖霊の働きを冒涜しているのです。ここでイエス様は、「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべてゆるされる。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠にゆるされず、永遠に罪の責めを負う。」と言われました。

 

 ここで言われている「人の子」という言葉は、ここでは人間という意味です。ここでイエス様は、人間が行うことに対して、その人間を批判することは自由だけれども、その人間の行うことの背後におられる、神様のお働きを、あれは悪霊の働きだ、と言ってはならない、と示されます。

 なぜなら、その人間の背後におられるのが神様であるか悪霊であるか、ということは、人間にはわからないからです。実際にはわからない背後関係を想像して人を誹謗中傷することは、目に見えないところで働いてくださる神様の働きを冒涜することなので、それはしてはならない、という意味です。

 

 こうしたイエス様の言葉には、このときのイエス様をめぐる状況が反映しています。それは、イエス様がたくさんの人々の病気をいやし、悪霊を追い出し、神の国の福音を宣べ伝えておられた、その素晴らしい宣教の働きが多くの人々の耳に広まるにつれて、イエス様に対する世間の中での誹謗中傷もまた広がっていっていたという状況です。

 

 そのような状況のなかで、大きな出来事が起こります。それは、イエス様の母親マリアや、イエス様の兄弟姉妹たちが、みんなでイエス様を取り押さえにきた、という出来事です。ここからが本日の箇所の一番の中心部分になります。

 

 イエス様の母親や兄弟姉妹の家族がイエス様を取り押さえに来たとき、イエス様は家の中におられました。このとき、イエス様の話を聞きに来た人々や、病気のいやしを願ってやってきた人たちで、家の中は一杯でした。そのために、イエス様の家族は家の中に入ることができなかったので、家の外から中に人をやって、イエスに対して家の外に出てくるようにと伝えさせました。

 

 ところが、イエス様は家族が自分に会いに来て外に立っている、というその知らせを受けたとき、なんと仰ったでしょうか? 「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と言われたのです。そして、家の外に来ている家族たちに会おうともせずに、家の中にいて、そしてその家の中でイエス様のお話を聴いていた人たちを指して、こう仰いました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 

 このイエス様の言葉でぷっつりと本日の箇所は終わっています。そのあとに何が起こったかわかりません。イエス様の家族が怒って帰っていったのか、それとも残ってイエス様にくってかかったのか、というようなことは一切わかりません。ここでこの物語はぷっつりと終わります。

 

 他の福音書を見ますと、のちにイエス様の母マリアが、イエス様の弟子たちと行動を共にする場面もありますし、またイエス様が十字架の死と復活ののちに天に上げられたのちのこととして、使徒言行録に記されたなかには、残された弟子たちの一行のなかにはイエス様の母マリアがいたこと、また、イエス様の弟であり「主の兄弟ヤコブ」と呼ばれたヤコブという人が、初代のキリスト教会の中で重要な役割を果たしたことが使徒言行録には記されています。つまり、イエス様の血のつながった家族たちが、その後のイエス様の活動に加わっていったのです。すると、イエス様と家族の関係は、本日の箇所でぷっつりと切れた、断絶した、ということではなく、どこかでもういちど結びついていったと考えることができます。それが、どのようにそうなったかということは、全くわかりません。

 

 そうした後日のことはさておき、本日の箇所が今日の私たちに語っているメッセージが何であるかを考えたいと思います。本日のイエス様の言葉は、読みようによってはとても冷たい言葉です。血のつながった家族ではなく、神様への信仰に基づいた人間関係を家族と呼んでいるからです。こんなことは普通ゆるされません。血のつながった家族を崩壊させ、家族の価値を否定するひどい言葉とも言えるでしょう。普通は、こんな言葉はゆるされないと思うのです。

 

 しかし、一方では、イエス様は旧約聖書の律法をよくご存じであられたはずです。たとえば、旧約聖書モーセ十戒の第5番目の言葉「あなたの父母を敬え」という言葉があります。旧約聖書出エジプト記20章にはこうあります。「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」これが律法の掟ですから、イエス様も当然それに従って生きておられたはずです。しかし、それでもイエス様はあえて、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と言われたのです。それはなぜでしょうか。

 

 イエス様もまた旧約聖書の律法を大切にしておられました。しかし、イエス様は律法は大切にされましたが、律法を機械的に守るのではなく、律法の根本にある神様の御心を尋ね求められました。神様の御心、それは何でしょうか。それは、このときのイエス様にとっては、神の国の福音の宣教のために生きる、ということでした。このときイエス様は、家族との関係が対立する中で、これから本当に神の国の宣教のために生きる、という神様の御心に沿った生き方が、できるかできないか、という瀬戸際に立っておられたのです。

 

 というのは、先ほど読みましたモーセ十戒の「あなたの父母を敬え」という言葉は、神様の律法として、掟として絶対でしたから、親兄弟が来たら本当は従う必要があったのです。イエス様が律法に従うとすれば、ここでイエス様は母親や兄弟姉妹たちと一緒に、故郷のナザレの村に帰るべきだったのです。しかし、もしここでイエス様が家族と共に故郷に戻ったら、イエス様は神の国の福音の宣教ができなくなります。

 

 イエス様は言われました。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 

 ここで、イエス様が私たちに伝えてくださっているメッセージ、それは、家族というものは、最初から決まり切った存在ではなくて、「家族とは誰か」と尋ね求める対象だということです。親も子もきょうだいも、お互いに「家族とは誰か」と尋ね合うときに、新しい関係が生まれる、ということです。

 

 ここでイエス様の言葉によって、血のつながった家族たちは驚いたでしょう。けれども、そこで驚くことによって、今度は、家族たちの側が考えたはずです。それは、「このイエスという人は自分にとっていったい誰であるのか」ということです。「このイエスという人は自分にとっていったい誰であるのか」ということを、ここで家族たちは真剣に考えたはずです。

 また、このとき家の中でイエス様から、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われた人たちも、また同じように、「このイエスという人はいったい自分にとって誰であるのか」ということを真剣に考えたはずです。

 

 さきほど、イエス様の母親や兄弟は、後日にイエス様と行動を共にするようになったことが、他の福音書使徒言行録に記されていることを申し上げました。どのように家族がそうして再会するようになったのか、それはわかりませんが、そこには、イエス様が問われた「家族とは誰か」という問いが、血のつながった家族たちとの関係を新しくしたと考えることができます。

 

 そうして、家族というものは最初からわかりきった関係ではなく、「家族とは誰か」と問われることによって、本当の家族になっていく、ということが、本日の聖書箇所から示されています。ここに神様から私たちへのメッセージがあります。私たちは普段の生活では、「私の家族とは誰か」と問うことは普通はありません。家族とは誰かということは、もうわかりきったことだからです。

 

 しかし、イエス様があえて「私の家族とは誰か」と問われたとき、「家族」というものは実はそれが「誰であるか」ということを問うてよい存在なのだ、ということが、私たちに示されたのです。「家族とは誰であるか」、そのことは最初からわかりきったことではなく、それをあなたたちは問うことができるし、問うことによって新しく生きていくことができると示しておられます。

 

 そして「家族とは誰か」という問いを考えるためには、必ず、自分一人だけではなく、誰かと共に考えることが必要です。私たちは、この「家族とは誰か」という問いを、一人で考えるのではなく、イエス様といっしょに考えていきましょう。そして、できれば、血のつながった家族とも、一緒に考えていきましょう。また、血がつながっていない人たち、自分の隣人や様々な関係の方々とも一緒に考えていきましょう。そうして、血がつながっているか、いないか、ということと関係なく、「家族とは誰か」ということを、一人ではなく、誰かと一緒に考えるときに、私たちは、家族という重荷を降ろすことができます。

 

 本日の説教題は「誰かと一緒に重荷を降ろそう」といたしました。家族ということを考えるとき、そこには何かの重荷がつきものです。その重荷を降ろすことは、わたしたちは1人ではできません。誰かと一緒でなければ、それを降ろすことは難しいのです。家族、という重荷を負うためには、「家族とは誰か」、何か、ということを共に考えてくれる他者が必要です。それが、血のつながった家族であるか、そうでない家族であるかは、問いません。神様の御心のなかで出会う、一人ひとりの隣人を、神様に与えられた誰かとして、「家族とは誰か」という問いを共に考える仲間として、共に生きていくことができますように、そのことを願います。

 

 お祈りいたします。
 この世界のなかで、私たちがそれぞれ自分が担いでいる重荷を降ろすことができますように導いてください。今日から始まる新しい一週間、皆様がイエス様によって重荷を降ろして生きることができますように。この祈りを主イエス・キリストのお名前を通してお献げいたします。
 アーメン。

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 2020年9月27日(日)京北教会礼拝説教

「痛みを超え、救いを聴く」 牧師 今井牧夫

 

 聖 書 マルコによる福音書  4章 1〜20節 (新共同訳)


エスは、再び湖のほとりで教え始められた。

おびただしい群衆が、そばに集まって来た。

そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、

群衆は皆、湖畔にいた。

 

エスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。

「よく聞きなさい。

 種をまく人が種まきに出ていった。

 まいている間に、ある種は道ばたに落ち、鳥が来て食べてしまった。

 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、

 そこは土が浅いのですぐ芽を出した。

 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

 ほかの種はいばらの中に落ちた。
 するといばらが伸びておおいふさいだので、実を結ばなかった。 

 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽ばえ、育って実を結び、

 あるものは三十倍、

 あるものは六十倍、

 あるものは百倍にもなった。」

 そして「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

 

 イエスがひとりになられたとき、

 十二人と一緒にイエスのまわりにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。

 そこで、イエスは言われた。

 「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、

  外の人々には、すべてがたとえで示される。

  それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、

  こうして、立ち帰ってゆるされることがない』ようになるためである。

 

 また、イエスは言われた。

 「このたとえが分からないのか。
 では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。

 種をまく人は、神の言葉をまくのである。

 道ばたのものとは、こういう人たちである。

 そこに御言葉がまかれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、

 彼らにまかれた御言葉を奪い去る。

 石だらけの所にまかれるものとは、こういう人たちである。

 御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、

 しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難(かんなん)や迫害が起こると、

 すぐにつまずいてしまう。

 また、ほかの人たちはいばらの中にまかれるものである。

 この人たちは御言葉を聞くが、この世の思いわずらいや冨の誘惑、

 その他いろいろな欲望が心に入りこみ、御言葉をおおいふさいで実らない。

 良い土地にまかれたものとは、
 御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、
 ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」 


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(以下、礼拝説教) 

 

 7月から毎週の礼拝でマルコによる福音書を続けて読んでいます。今日の箇所は、大きく三つに分かれています。前半は、最初にイエス様が語られたたとえ話です。その次に真ん中に、なぜたとえを用いて語るのかという理由です。そして最後に、最初に語られたたとえ話の意味が説明されます。

 

 本日の箇所を一読しますと、イエス様が語られているたとえ話の部分は、特に何か難しい事が語られているようには思えません。種まきのたとえ話は、まかれた種が落ちた場所によって、芽が出て成長するか、そうならないかが分かれるという話です。これはいわば当たり前の話でありましょう。その当時の畑に種をまくやり方のなかで、まいた種がどこか違うところに飛んで行って、結局その種が芽を出さない、無事に成長しない、ということは確かにあったでしょう。その当たり前のことをたとえ話にしているように思えます。

 

 それに対して、むしろ難しいと思うのは、本日の真ん中あたりの箇所です。本日の箇所は全体で三つに分かれており、真ん中の部分には、イエス様がなぜたとえ話をされるか、という理由が説明されています。ここには旧約聖書イザヤ書の言葉が引用されています。話を聞いた人たちが、聞いても理解できないために、たとえ話で語るのだとイエス様は説明しておられます。

 

 普通、人に話するときは、理解をしてもらうために話すものです。たとえ話をするのも、それが相手にとってわかりやすいと思うから、たとえで話すのが普通です。それなのに、ここに記されている旧約聖書イザヤ書の言葉のように、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰ってゆるされることがない』ようになるためである──ということ、つまり、相手に理解されないためにたとえ話をするのだと言われると、それはいったい何のためだろうか、と私たちは不思議に思います。

 

 さらに、そうして一般の人たちにたとえ話で語るけれども、イエス様の弟子たちにはたとえによらずにすべてを説明されたとあります。本日の箇所の後半には、前半でイエス様が語られたたとえ話の意味がすべて説明されています。こうして、本日の箇所は、イエス様がたとえ話の意味をすべて説明してくださっているので、それでこの箇所の意味がわかった、というように読者である私たちは思います。

 

 けれども、本日の箇所がそんなふうに、イエス様が解説してくださったから、それで意味がすべてわかって良かった、というものではないと私は思います。私たちは、ふだんの生活のなかで、わからないことがあれば、何かで調べます。人に尋ねるということもありますし、本で調べるということもあります。最近ではスマートフォンやパソコンを使う人であれば、インターネットで検索することが、調べ物をするときに一番早いやり方です。そして、そうした何かの手段で調べると、すぐに答えがわかると、もうそれで私たちは満足してしまいます。

 

 本日の聖書箇所が私たちに対して、語りかけているメッセージ、すなわち、主イエス・キリストからのメッセージというものは、実は、そのような、すぐに調べて、すぐに答えがわかって、ああわかった、ああ良かった、と思いたがる私たちに対して、それではいけないのですよ、と示していることだと私は思います。何事も、少し説明を聞いてすぐにわかったと思いたがる人たちに対して、イエス様は、「見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰ってゆるされることがない」、つまり本当にはわかっていない、と示しておられるのだと私は思います。

 

 そのように私が考える理由を次に述べます。私は本日の箇所を、後半のイエス様の説明の部分を読まずに、前半のたとえ話の部分だけをまず読んで、そして、後半の部分は読まないことにしました。つまり、たとえ話の意味の解説、答えの部分を知らないでたとえ話だけを読んだら、自分は何を思うだろうか、ということを考えてみたのです。

 

 すると、自分の中で一つの発見がありました。それは何かというと、前半のイエス様のたとえ話の部分だけを聞いたと考えた場合に、私はこのイエス様のたとえ話は、自分の何かの人生の成功に関するたとえ話だと感じたのです。ここでまかれる種というのは、たとえて言えば、何かのビジネスチャンスと考えます。自分が作ったビジネスチャンスを世の中にまいたときに、どれが芽を出すか、出さないか、と考え、芽を出したのはそのビジネスチャンスとぴったり条件があう環境のなかに、そのチャンスをまいたときに自分の人生は成功する、そのようなイメージを私はいだきました。ビジネスだけではありません。たとえばもし自分が政治に興味がある人間だとしたら、ここでまく種というのは、いわば自分の政治主張、演説です。自分が世の中に向けて発信する政治主張が、どのような人に受け入れられるか、それはやはりその政治主張を受け入れる環境が整った人でありましょう。

 

 そのように、本日の箇所の前半部分、イエス様が語られた最初のたとえ話の部分だけを読むと、私は、この話は、人間が成功するためにはどうしたらいいか、という知恵の話のたとえ話だと受けとめたのです。なぜそのように思ったかというと、たとえ話の一番最後の言葉の影響が大きいのです。「あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」このように、まかれた種が、最後には30倍とか60倍とか100倍とか、ものすごく増えた、という言葉でたとえ話しが終わっています。すると、これは何かの形での自分の人生の成功、ということが頭の中に浮かぶのです。人生の成功に結び付けてこのイエス様のたとえ話を聞くと、これは何かのビジネスチャンスの話だ、つまり30倍60倍100倍に増えるのは、お金のことだと想像するのです。あるいは、たとえば自分の政治的な主張や社会的な主張、それをどうやって世の中で広げることができるか、というような、自分の影響力の広がりの話としても聞くことができるのです。

 

 私は今まで、本日の箇所を、そのようにして前半のたとえ話の部分だけを聞いて、その意味を考えるということを、今までに一度もしてきませんでした。今までずっと、後半のイエス様の説明を同時に頭に入れて前半を読んでいましたから、この種まきの話は、実に単純なわかりやすい話だと思っていました。それはそうです。説明がすぐあとの箇所にあるからです。

 そうした思いが私にありますから、本日の箇所の半ばにあります、旧約聖書イザヤ書の言葉、たとえで話をする理由は、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰ってゆるされることがない』ためだと仰るイエス様の言葉は、理解できないことでした。どうして、そんないじわるなことを言うのだろうか、と思っていました。

 

 しかし、今回、本日の説教の準備をするなかで、前半だけを聞いて、イエス様のたとえ話の意味を考えたならば、イエス様が本当に人に伝えようとしていることとは、違うことを自分はこのたとえ話から受け取っていたのだろう、ということに、初めて気がつきました。

 

 そこで、わかったのです。イエス様のたとえ話を聞く人たちは、自分でたとえの意味をいろいろに考えて、そうだわかったぞ、と思っているけれども、実際にはわかっていないのだと。実際にはわかっていないのに、わかっているかのように思う、ということが、まさに、見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰ってゆるされることがない、と言われる状態なのだと思います。

 

 それは、言葉を代えて言いますと、自分たちは神様の御心をわかっているぞ、聖書の言葉の意味をよくわかっているぞ、という人は、実はうぬぼれているだけで、神様の前で本当に謙虚ではない、それがゆえに、神様の裁きを受けるということではないか、と私は思います。ここで問われているのは、たとえ話を解釈するための頭の良さとか、聖書を理解するための様々な知識とか、そういうことが問題にされているのではありません。そうではなくて、徹底して神様の前に謙虚になって、神様の御心を尋ね求める、その姿勢が必要とされているということです。

 

 イエス様は、本日の箇所の後半で、このたとえ話の意味を一つひとつ丁寧に説明してくださいました。それにより、ここで言われている種とは、神の言葉のことであり、決して、人生の成功を約束するようなビジネスチャンスのことではなく、また、政治的・社会的主張、ということでもない、ということがわかります。神の言葉をまく人、それは伝道を行う人です。これは職業的な意味で牧師とか伝道者という仕事につく人たちだけのことではなく、すべての人にとってあてはまることが言われています。神の言葉、それは聖書の言葉といってよいですし、また、神様を人に伝えようとするすべての言葉は、そこに神様の聖霊、聖い霊の働きが伴えば、すべて神の言葉として働きます。その神の言葉を人に伝えようとするとき、実にたくさんの妨げが世の中はあるのだ、という厳しい現実を、イエス様はここで語っておられます。この現実は、まさに私たちが経験することであり、大きな痛みです。

 

 しかし、イエス様は、ここで、ただ現実が厳しいと言うだけではなく、神の言葉が本当にぴったりと人の心の中に落ちて、それがしっかりと芽を出して育っていくならば、最初は小さな種一つだったのが、やがて30倍、60倍、100倍の実りを生み出していくと宣言されています。伝道ということの、この驚くべき奇跡は、実は神様がお造りになられたこの自然の世界のなかにある、小さな種が土に落ちて芽を出して育ち、やがて実を結ぶという、そのように本当に自然のメカニズムと同じように、神の国は世界に広がっていくことを、イエス様はここで宣言しておられます。

 

 ここに、私たちが現実の痛みを超えて、神様から聞くべき救いの言葉があります。このような主イエス・キリストのメッセージを、皆様はどのように受けとめられますでしょうか。もしも、本日の箇所を読んで、ああ、私はこの石だらけのところにまかれた種だなあ、だから信仰が成長しなかったんだなあ、などと自分を卑屈に思うなら、その読み方はよくないと私は思います。自分がどのような人間であったとしても、いま神の言葉を聖書から聴いている皆様は、イエス様が最後に言われている、30倍、60倍、100倍に増えた種の、その一つが自分自身である、ということを信じていただきたいのです。芽が出なかった種とか、枯れてしまった芽とか、そんなところに自分を重ねて卑屈になるのではなく、最後に30倍、60倍、100倍に神様が増やしてくださった種、その種のひとつが、いまここで礼拝説教のメッセージを聴いてくださっている、お一人お一人であると私は信じています。

 

 さきほど、本日の箇所を、後半の解説を読まずに、前半のたとえ話だけを読んだとして、自分は何を思うか、ということを申し上げました。先に私が申し上げましたように、この話を、自分の人生の成功の秘訣の話として受けとめることもできます。それは、このたとえ話を、自分の人生の成功の法則を示す話として受けとめ、その法則を用いて自分の人生を成功させようとする考え方です。それも悪くはないかもしれません。けれども、そのような考え方をするときに、決定的に欠けているのは、このたとえ話を語っておられるのはどなたであるか、と自覚です。

 

 このたとえ話を語っておられるのは、人生の成功の法則を語る賢者ではありません。信仰者の人生の成功を語る宗教家でもありません。そうではなく、主イエス・キリストです。主イエス様は、神様の前で人間が本当に小さな存在であり、本当に孤独であることを知っておられました。だからこそ、すべての人は神様に救われるべき存在であることを、神の国の福音、良き知らせとしてお話してくださったのです。

 

 たとえ話の意味を考えるときに、単に人間の知恵で考えてはなりません。そのたとえ話を語られたのはどなたであるのか、ということを考えなくてはなりません。そこに神様の御心があり、神様から語られていると信じるときに、たとえ話の意味は、この世の成功ではなく、神の国の福音の話となります。そのことに私たちは気づいていく必要があります。自らが考える人生の成功にうぬぼれるのではなく、神様の前に徹底的に謙虚になることが大切です。そして、皆様が今日から始まる新しい一週間を、聖書の御言葉によって心砕かれて、そして救われて日々歩むことができますように、神様にお願いを申し上げます。

 

 お祈りいたします。
 神様、私たちが自らの経験や知恵、知識、そうしたものに頼って人生を切り開こうとして、かえって失敗していくことを思います。どうか神様の前に謙虚な人間になって、神様の御心を尋ね求める思いをしっかりと持って、聖書の御言葉の恵みを与えられて生きることができますように。そしてお一人おひとりの人生に本当の成功を神様が与えてくださいますように、心よりお願いいたします。この祈りを主イエス・キリストのお名前を通してお献げいたします。
 アーメン。

 

 

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 2020年10月4日(日)京北教会礼拝説教 

「その人は知らず、神の国 牧師 今井牧夫

 

 聖 書 マルコによる福音書  4章 21〜29節(新共同訳)


また、イエスは言われた。

 「ともし火を持って来るのは、

  升(ます)の下や寝台の下に置くためだろうか。

  燭台の上に置くためではないか。

  隠れているもので、公にならないものはない。

  聞く耳のある者は聞きなさい。」

また、彼らに言われた。

 「何を聞いているかに注意しなさい。

  あなたがたは自分の量るはかりで量り与えられ、

  さらにたくさん与えられる。

 

  持っている人はさらに与えられ、

  持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

 

また、イエスは言われた。

 「神の国は次のようなものである。

  人が土に種をまいて、

  夜昼、寝起きしているうちに、

  種は芽を出して成長するが、

  どうしてそうなるのか、

  その人は知らない。

  土はひとりでに実を結ばせるのであり、

  まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。

  実が熟すと、早速、鎌を入れる。

  収穫の時が来たからである。」

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(以下、礼拝説教) 

 

 7月から毎週の礼拝でマルコによる福音書を続けて読んでいます。本日の聖書箇所では、イエス様がお話された、短いいくつかの話が並んでいます。どの話も、短くてすぐに読めますが、どの話も、何か意味深な、深い意味が隠されているような話です。言葉としては短くてわかりやすそうでも、そこで言われている内容を理解することは、なかなか難しい感じがします。本日の箇所では、何が言われているのでしょうか。

 

 本日の箇所は内容が大きく三つに分かれています。一つ目は、ともし火のたとえ。二つ目は、聞く耳のたとえ。三つ目は種のたとえです。ともし火、聞く耳、種。この三つは、それらだけを単語として並べると何の関係もないように思えます。バラバラなものです。ともし火、聞く耳、種、というこれらのバラバラな三つの単語は、ひとつの大きなテーマを説明するために、イエス様が選ばれた素材です。ともし火、聞く耳、種。これらはどれもそのころの日常生活のなかにある平凡な素材です。その平凡な素材が、イエス様によって、日常の中での意味とは違う、大きな意味をここで発揮しています。

 まず、ともし火です。これは、何のために使うかというと、燭台の上に置いて部屋を照らすために使います。どこかの片隅に灯りをさえぎる形で隠してしまったおくためのものではありません。イエス様は、その当たり前のことを言われたうえで、こう言われました。「隠れているもので公にならないものはない。」これは、どういう意味でしょうか。これは、人間が物事を隠そうとすることには意味がない、と言われているのではないかと思います。人間がどんなに隠そうとしても、その物事自体の意味というものが自ずから姿を現します。ともし火をわざわざベッドの下や机の下に置く人はいません。それは、灯りというものが自ずから持っている意味を無くさせてしまうからです。イエス様が伝える神の国の福音、良き知らせというものも同じように、隠すのではなく、公にすることによって、福音の光が自ずから世を照らしていくことが言われています。

 次に、聞く耳のことが言われます。聞く耳、というのは少し不思議な言葉です。ふつう、耳というものは、聞くためにあります。しかし、ここであえて聞く耳と言われているのは、耳というものはふだんの生活の中では、聞くというよりも、聞こえている、というほうが実際の感覚に近いからではないかと考えられます。耳というものは自分でふさぐわけにはいきませんから、病気や障害がない方であれば、耳というものは、放っておいても勝手に何かが聞こえてくる、という器官です。その、聞こえている、ということと、聞く、ということは違うとイエス様は言われているのではないでしょうか。ただ聞こえているだけではなく、聞く、というのは、ばくぜんと人の話を、聞こえるままに聞くのではなく、自らが神の国を探し求める気持ちで、神の言葉を聞こうとする、そういう態度ではないかと思えます。

 

 そして、だれでも自分のはかりによって量り与えられ、持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものすらとりあげられる、と言われます。これは、なかなか厳しい言葉ですが、ここには、誰もが聞く耳を持ってほしいというイエス様の心があります。

 

 最後に、種のたとえ話が言われています。ここでは、神の国というものがが、自然界にごく当たり前にある、種が芽を出して成長して実りを生む、ということにたとえられている話です。神の国というものが、なぜ成長するか、ということを誰も知らないけれど、イエス様がお話されている神の国とは、自然のサイクルのなかで種が芽を出して成長し、最後には実を結ぶということと同じだ、と言われています。なぜそうなるか誰も知らないけれど、だれも知らないところで神の国というものは、自ずから成長していくものだ、ということです。イエス様が言われる神の国とは、人間が死んだ後に行く場所としての天国という意味だけではなく、私たちが今生きている世界のなかに、神様から与えられた恵みが新しく広がっていく、その広がりのことを意味しています。本日の箇所の大きなテーマは、その神の国ということであり、その説明のために、以上の三つの短い話がここに並んでいます。

 これらの箇所から皆様は何を、神様から教えられているでしょうか。皆様がそれぞれに思われることは違うと思います。その前提の上で、次に私が考えたことをお話します。本日の説教題は「その人は知らず、神の国」と題しました。これは本日の箇所の三つ目の、種のたとえ話をもとにした題です。神の国は、最初は一粒の種のようなものであり、それが土に落ちて一晩の内に芽を出して成長していくのですが、人はそのことがなぜそのようになるかを知らない、ということです。つまり、人間の何かの思惑によって種が芽を出すわけではない、ということです。

 

 この種の成長は、神の国の広がりを指しています。つまり、世にイエス様の教えが広がるのは人間の思惑ではなく、人間が知らないところで神様がものごとをはかって導いてくださるからだ、ということです。人間の思惑ではないところで、神の国はこの世のなかで確かに広がっていく、そういうことを示しておられます。もし本当にそうであるならば、素晴らしいことだと思えます。人間が何も考えなくても、人間が何もしなくても、自然の種が土に落ちて芽を出して成長するように、神の国がこの世の中に広がっていけば、そのことでこの世が平和になり、誰もが神様に感謝して助け合って生きるようになれば、それは実にありがたいことだと思えます。けれども、そんなに物事はうまくいくものでしょうか。実際には、そんな簡単に世の中は動いていくはずがないだろう、ということも私たちは知っています。いや、イエス様だって、そんな簡単に世の中が動くはずがない、ということをよく知っておられたはずです。

 

 ここで言われているのは、ほっておいてもキリスト教は世の中に広まっていくとか、ほっておいても神様の御心が働いていつかこの世界は平和な世界になる、というような楽観的なことではありません。ここでイエス様が言われているのは、神の国の広がりは、それがなぜそうなるかということが人間にはわからない、ということです。ここには、人間というものは、神様の御心をすべて知るなどということはとうていできないのだ、というイエス様の思いが表されています。言葉を代えていえば、たとえば今日の私たちの教会が伝道をするのは、神様の御心がすべてわかったから伝道するのではなくて、私たちが神様の御心をすべて知ることができない、ということを前提にしてこそ、伝道するのだということです。

 

 すなわち、教会が伝道するということは、自然の種が芽を出して成長することのように、ごく自然なことであって、なぜそうなるかと問う以前に、最初からそのようなものとして世に存在している、ということであります。ここに、イエス様が私たちに教えてくださっている、発想の転換があります。それは、こういうことです。神様の御心というものは、私たちがそれはなぜですか、と神様に問うて初めてわかる、というものではなく、私たちが神様に問う前に、神様の側からすでに自然における理屈として示されている、ということです。

 

 そしてこの箇所の最後には、次の言葉が記されています。「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」ここにあるのは、まさに自然の姿であると共に、それを畑として自ら育てて最後に収穫する人間の姿でもあります。人間は、自然のメカニズムがどうなっているかをしっているから収穫するのではなく、自然となる実りということに信頼して、自然の実りに期待して、畑で作物を育てて、最後に鎌を入れて収穫します。それが、畑の実りを前にした人間が最後に行う働きです。おそらく、イエス様は、この最後の収穫を行うのは、人間ではなくて、この世界を造られた天の神様である、という意味をここで込めておられると私は思います。神様は神様の目的を持って、自然の作物を実らせてくださる、そしてそれを刈り取ることも神様の目的なのだと示しておられます。

 

 神の国というものが、このように自然に成長し、広がっていくものであり、最後に神様がすべて収穫してくださるのであれば、人間には何の心配もいらないような気がします。しかし、そのことは私たちの生活実感とは大きく違います。というのは、私たち人間が何にもしなくても神様が自然にすべてを育てて導いてくださる、なんてことは実際にはなくて、人間は生きるために様々な働きをしなければならない、ということを私たちは経験で知っているからです。では、イエス様はここで何を私たちに伝えたかったのでしょうか。

 

 ここで、本日の箇所の最初のたとえ話に戻ります。こう書いてあります。「ともし火を持って来るのは、升(ます)の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、公にならないものはない。」ここで言われていることは、神の国の福音、良き知らせ、つまり主イエス・キリストが宣べ伝えられた神の国の知らせというものは、世にあって一部の人たちの間だけに隠されているべきものではなくて、広く世の中全体にあって人々に告げ知らせるべきもの、ともし火として世に輝かせるものであることが言われています。こんなことが私たちにできるでしょうか。

 主イエス・キリストの福音を、世のともし火として掲げる、そんなことは到底できませんね。誰もがおじけづいてしまうでしょう。けれども、思い切って、やってみる必要があります。というのは、主イエス様の言葉を世のともし火として掲げる、ということは、何も特別なことではなくて、ともし火はテーブルの下に置くのでなくて、燭台の上に置くものだ、ということと同じぐらい、ごくごく当たり前のことだからです。では、その当たり前のことをしたら、何が起こるのでしょうか? そのあとのことは、人間は心配しなくてよいのです。なぜなら、種が芽を出すということはなぜそうなるかを人間が知らないことだからです。私たちがすべきことは、ともし火の灯りを隠さずに世に掲げる、ということです。

 そして、そのあと、何が起こるか、ということは、神様にお任せすれば良いことなのです。それ以降は、神様がなしてくださる自然の働きというものが、この世に起こります。私たちの教会が現代日本社会の中にあって志すことは、主イエス・キリストの福音を、人間が生きるための大切なともし火として、隠さずに世に掲げることです。そのことをするときに、世の中に変化が起こります。その変化の先を見通すことは人間にはできません。大切なことは、先を見通すことではなくて、教会が教会として為すべきことが何であるかを、常に神様に祈り求めていくことです。そのときに、必要なものが、本日の聖書箇所にある「聞く耳」ということです。

 

 本日の箇所の半ばにはこう記されています。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量るはかりで量り与えられ、さらにたくさん与えられる。持っている人はさらに与えられ、 持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

 ここに書かれてイエス様の言葉は謎めいていると思えます。何が示されているのか、明快にはわかりません。しかし、いくつかのことがわかります。それは、聞くということは、ものごとの意味を量るはかりであるということです。単に声や音が聞こえている、というだけでなく、自らが耳をすませて聞く、というときに、耳は、ただ聞くだけの器官ではなく、物事の意味を量るはかりになっています。その量りによって、人間は与えられる量が違うのだ、と言われています。

 聞くことによって豊かになった人はさらに与えられ、聞くことによって豊かにならなかった人は、持っていると思っているものまでも取り上げられる、ということです。これは、聞きようによっては、とても残酷な冷たい言葉にも聞こえます。聞く耳のはかりによって、人生に与えられるものが多かったり少なかったり、とりあげられたりするというのでは、人間の平等に反するように思います。

 

 しかし、イエス様はここで、人間一人ひとりの聴く能力に差をつけて言っておられるのではありません。イエス様が言われる、聞くということは、文字通りに耳に聞こえる音を聞くという意味ではなく、神様の前に謙虚になって、目に見えない神様の言葉に耳を傾けようとする、その姿勢を意味しています。人間の生まれつきの能力とか、才能とか知識とか努力とか経験とか、そうしたものに頼るのではなく、ただ神の国の到来を信じ、神の言葉を聖書を通じて聴き取り、そのことを隠さずに、私たちが生きる普遍的な人間社会にとっての、ともし火として世に掲げていくこと、そしてその結果を神様にお任せして、神様を信頼して生きていくということが大切です。

 

 このことは、人間の能力や努力によるものではありません。神様の前で心砕かれた謙虚な心で、神様の言葉を聴くということです。そのときに、わたしたちの神様に対するはかりは最大に大きくなります。神様の恵みを過小評価せずに、最大のはかりで聴くとき、本当にその通りの恵みが与えられます。私たちはその恵みを、机の下に置くのではなく、燭台の上に置き、その恵みに照らされて歩んで参りましょう。

 

 お祈りいたします。
 神様、日々、コロナウイルスの問題に苦しめられているこの世界においても、神の国の良き知らせは、人が気づかないところで芽を出していると信じます。私たち一人ひとりの生活のなかにも、神様からの恵みの種を芽を出して、私たちと世の中を照らしてくださいますように、心よりお願いいたします。この祈りを主イエス・キリストのお名前を通してお献げいたします。
 アーメン。

 

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2020年10月11日(日)京北教会礼拝説教  

「夢は、どこまで信じていい?」牧師 今井牧夫

 

 聖 書 マルコによる福音書  4章  30〜41節  (新共同訳)

 さらに、イエスは言われた。
 「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。

  それは、からし種のようなものである。

  土にまくときには、地上のどんな種よりも小さいが、

  まくと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、

  葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

 

 イエスは、人々の聞く力に応じて、

 このように多くのたとえで御言葉を語られた。

 たとえを用いずに語ることはなかったが、

 ご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

 

 その日の夕方になって、

 イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。

 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、

 イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。

 

 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、

 水浸しになるほどであった。

 しかし、イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられた。

 

 弟子たちはイエスを起こして、

 「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。

 

 イエスは起き上がって、

 風をしかり、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。

 すると、風はやみ、すっかり凪(なぎ)になった。

 

 イエスは言われた。

 「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

 

 弟子たちは非常に恐れて、

 「いったい、この方はどなたなのだろう。

  風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

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(以下、礼拝説教) 

 

 7月から毎週の礼拝でマルコによる福音書を続けて読んでいます。本日の聖書箇所はその4章で、この箇所は二つの場面に分かれています。前半が、主イエス・キリストが群衆に向かってお話をされた場面。それから後半が、湖に小舟を出して弟子たちとともにイエス様が湖の上におられたときの場面。この二つの場面が続いているところです。

 

 前半の場面では「神の国」のたとえが語られています。イエス様が言われる神の国とは、人間が死んだあとに行く天国という意味だけではなく、いま私たちが生きているこの世界の真っ直中に、神様の恵みが広がり、深まっていく世界のことを指しています。「神の国」とは、目に見える世界ではありませんが、聖書の言葉を通して、イエス・キリストの言葉を通して、必ずこの世界のただ中に確かに広がっていく、その動きのある広がり、そして心の深みのことを指しています。

 

 その「神の国」ということについて、イエス様がたとえで次のようにお話しておられます。「それは、からし種のようなものである。土にまくときには、地上のどんな種よりも小さいが、まくと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」からし種、とはとてもとても小さな種ですが、成長するととても大きくなる植物の種のことです。神の国とはそのようなものだと言われています。それは、神の国とは、地面にまかれるときはとても小さい、取るに足らないような小さなものだけれども、いったん芽を出すと、とても大きくなり、そこに宿ることができるようになるほどに成長する、ということです。

 

 このイエス様によるからし種のたとえ話は、神の国がどんな世界であるか、というその世界の具体的なことは何一つ言わず、ただイメージだけが語られているものですが、何か私たちの心に響くものがあると思います。それは、からし種が、最初はとても小さい、しかし成長して大きくなる、ということを通じて、自然の作物がそうであるように、主イエス・キリストの福音、良き知らせ、ということも、最初は小さなことから始まるけれど、成長したときにその実りは大きい、というところに、何か小さな願いがいつか大きくふくらんでいく、そういう夢を感じるからです。

 

 聖書の言葉はこうして私たちに夢を与えます。自分も何かできそうな気がします。こうして、聖書の言葉というものは、どこかで私たちに夢や希望を与えるものです。

 

 次に、本日の箇所の後半を見てみます。場面は変わって、湖に舟を出してイエス様と弟子たちが湖を渡るところです。そのときに湖の上で激しい突風が舟を襲います。波が荒れて小舟が沈みそうになるときに、イエス様は舟の艫(とも)のほう、これは舟の後部、うしろの部分という意味ですが、そこで寝ておられました。突風で舟が沈みそうになったので、弟子たちは寝ておられるイエス様にくってかかります。「わたしたちがおぼれても構わないのですか」と言いました。それを聞かれたイエス様は起き上がって、湖や風に対して「黙れ、静まれ」と言われます。すると風も波もやんだと記されています。そのような奇跡が起きたとき、弟子たちは、イエス様のことをこう言いました。「この方はいったいどなただろう。風や湖さえも従うではないか」と。


 こうして、本日の箇所は、内容が違う二つの場面の話を続けて読む形となります。これら二つの話は内容的に直接の関係があるようには思えません。場面が違い、内容も違います。けれども、マルコによる福音書の著者がこうしてこの二つの話を並べて編集したことには、深い意味があると私は思います。というのは、前半のからし種のたとえでは、神の国はものすごく小さいものから始まってとても大きく成長する、という、夢があるたとえ話なのに対して、後半の湖の上での話では、弟子たちは湖の上で嵐に遭って沈みそうになり、イエス様にくってかかっている、つまり現実は自分たちが思ったようになっていない、とイエス様を批判する弟子たちの姿、つまり現実の話があるからです。

 

 すると本日の箇所は、前半では夢がある話ですが、後半では、現実の話になって、イエス様を信じられない、と弟子たちがぶつぶつ言う話になっているのです。そのぶつぶつ言う弟子たちに対して、イエス様がなされたことは、そのぶつぶつ言う弟子たちを守ることでした。湖の上でイエス様は嵐に向かって言われます。「黙れ、静まれ」。すると嵐が静まります。そのあと、イエス様は弟子たちをいさめました。そして弟子たちはイエス様を「この方はいったいどなただろう」と言い出すのでした。

 

 本日の箇所全体を続けて読むと、ここには、神様への信仰ということについて、一方では夢を抱きながら、一方では現実の中で苦しみ、不満をつぶやいている、という弟子たちの姿が現れてきます。その姿は、この現代社会の中で聖書を読んでいる私たちの姿でもあります。というのは、私たちもまた、聖書の言葉に夢を感じることがあったとしても、実際は現実の中でぶつぶつ言っているからです。

 

 本日の説教題は「夢は、どこまで信じていい?」とさせていただきました。これは聖書を読むときの私たちの一つの課題といっても良いと思います。聖書の言葉から夢を与えられる、それはいいことだけども、でも、それをどこまで信じていいのか、と迷うのです。現代に生きる人間は、神様への信仰、ということについて、どこまで神を信じていいのか、と迷います。それは私たちがそれぞれの日常生活のなかで、現実がどういうものであるか、知っているからです。どの人にとっても現実というものは高いハードルです。夢を追ってばかりでは生きていけません。だから思うのです。「夢は、どこまで信じていい?」と。聖書が私たちに与えてくれる夢、イエス様が私たちに与えてくれる夢は、どこまで信じていい?と迷うのです。

 

 その問いに対する答えは、イエス様から与えられます。福音書のなかで舟が出てくるとき、それはしばしば、教会ということを意味しています。そのころの教会は海を航海する舟にたとえられました。いつも揺れています。いつも危険と隣り合わせです。自然の波風に左右されます。頼りないところがあります。でもその舟に乗っているみんなで助け合って、みんなで海や湖の上を旅していく、それが教会の姿を表しています。そのように解釈すると、イエス様が湖の上で、風や波に対して「黙れ、静まれ」と言われたのは、どういう意味があるのでしょうか。

 湖の上で舟を襲った嵐というものは、この社会の中にある教会を遅う波風のことです。具体的には世の人々からの批判や、権力からの迫害、そうした外から教会に対してかけられる、批判の力に対して、イエス様が「黙れ、静まれ」と大声を出して、その力を沈めてくださった、私たちのために、世の力に打ち勝ってくださった、それが本日の箇所の話であると理解できます。

 

 この湖の上でのできごとの前に、弟子たちはイエス様から、神の国からし種のようだ、というたとえ話を聞いていました。そのときには夢を感じていたはずです。しかし、その直後、弟子たちは湖の上でイエス様にくってかかります。すると結局、弟子たちはからし種のたとえを本当には信じていなかったのではないでしょうか。からし種の話を聞いて伝道に夢を持ったけれども、湖の上で嵐に合うと、もうてきめんにイエス様を批判する、それは、弟子たちはイエス様が語る夢を本当には信じていなかったのだと思います。だから、イエス様はが風や波を叱って沈めてくださったあとに、「この人はいったいどなただろう」と弟子たちはお互いに言ったのです。

 

 ここには、弟子たちが主イエス様のことを本当には理解していなかった、ということがわかります。だから、湖の上の小舟で嵐にあったとき、波や風を恐れたのです。イエスが一緒にいるのに、神様が助けてくれないのは、イエスが悪いからだ、という理屈です。その理屈は、神を信じたいけれども、信じ切れない、人間のありのままの姿です。それは弟子たちの側からすれば、やむをえなかったことでしょう。というのは、弟子たちが、イエス様が自分たちにとってどのような存在であるか、ということを本当に理解したのは、イエス様の十字架の死と復活の後だからです。そのときになって、神様の聖霊、聖い霊の力が働いたときに、始めて、自分たちにとってイエス様がどなたであるか、それはまことの救い主である、ということを理解したのでした。そのときになって始めて、主イエス・キリストを信じて生きる、ということの意味がわかったのです。

 

 そうした弟子たちの姿から、今日の私たちが学ぶことがあります。それは、神様から与えられる夢を、どこまで信じていいのか、ということについてのことです。神様から与えられる夢を、どこまで信じることができるか、それは神様から与えられる時間のなかで、その信じることができる境界線が変わってくる、ということです。この境界線というのは、自分が信じることができることと、信じることができないこと、その境界線です。もちろん、神様を信じる信仰ということにおいては、ここまでが信じられて、ここからは信じられない、というような単純な線引きは本当はできないものです。しかし、あえてわかりやすくいえば、人間は、そうした線引きを、自分の心のなかで、どこかでしているものだと私は思います。その、信じられるか、信じられないか、という境界線は、スパッと明確に引くことはできないものであり、それはその人の人生の時間のなかで、時に応じて変わっていくものです。

 

 本日の聖書箇所において、イエス様は、湖の上の小舟が沈みかけて、気持ちがおぼれそうになっている弟子たちのために、風と波に向かって「黙れ、静まれ」と言われました。すると嵐が収まりました。イエス様は、弟子たちがおぼれてしまえばよいなどと思っておられません。だいいち、弟子たちがおぼれてしまうときは、ご自分もおぼれてしまうときであります。そんなことをイエス様が望んでおられるわけがありません。

 

 ここでイエス様は、弟子たちと一緒に、同じひとつの小舟に乗っておられることにおいて、弟子たちとご自分の命を一つにしておられるのです。だから、この小舟は沈むはずがないのです。必ず助かるのです。ところが弟子たちは、この湖の上の嵐の中で、自分たちの命のことばかり心配しています。イエス様のことを心配していません。そのような弟子たちの利己的な姿には、からし種のように神の国がやがて大きく成長していくような、夢というものが何一つありません。かけらほどもありません。そのような弟子たちの夢のない姿に対して、イエス様は仰いました。

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と。

 

 私は、本日の聖書箇所をこうして読んで来て、始めて気づくことがひとつありました。それは、イエス様が湖の上で起こった波風に対して「黙れ。静まれ」と言ってくださったときの、その「黙れ。静まれ」という言葉は、実は、イエス様が、弟子たち一人ひとりに対しても言ってくださった言葉である、ということです。イエス様は、弟子たち一人ひとりの心の中に、神様に対する不信感がふくらみ、イエス様に対する不信感がふくらみ、そうして何の夢も持てなくなっている、その状態にある弟子たちに対して、その不信の心に対して、「黙れ、静まれ」と語りかけてくださっているのだと、私は思いました。

 

 そのように私が思ったのは、現在、新型コロナウイルス問題によって世界中が苦しめられ、誰もが大きな不安の中に置かれる時代に、私たちが現在生きているからです。この時代の中で、誰もが不安によって苦しめられる中で、神様に対する信頼、信仰というものを、どこまで信じていいのか、という疑いに、私たちは苦しめられます。いくら神様を信じていたって、たくさんの人の命がウイルスによって奪われています。そしてキリスト教の教会もまた、集まって礼拝することすら自粛せざるをえないほどの打撃を受けています。これから教会の未来はどうなるのか、と不安になることもあるはずです。そのような私たちに対して、主イエス・キリストが仰います。「黙れ、静まれ」と。

 

 イエス様は、この教会という名前の小舟に自ら乗り込まれ、この教会に集う私たちと命を一つにしてくださっています。命を一つにして難局を乗り切ってくださいます。それなのに、そのことを信じることができない私たちの心の中に、次から次へとわき起こる不安と不満の心に対して、「黙れ、静まれ」と言ってくださる、イエス様が私たちにはいます。そのイエス様の言葉を聞くときに、私たちの心の中の境界線が無くなります。信じることができることと、そうでないことの境界線がなくなり、その時その時にイエス様の声を聞いていくことに信仰を見出すことができます。そのことがわかるまでには、いくらかの時間が必要です。私たちが、イエス様の十字架の死と復活を知り、そのことにおいてイエス様が私たちを身をもって生かしてくださる、そのことを知るために必要な、人生の時間を、祈りつつ過ごしていきましょう。

 

 お祈りいたします。
 神様、今の時代を生きる不安のなかで、神様から信仰を与えられますように、心よりお願いいたします。お一人おひとりを、この世における嵐、波風から守ってください。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げいたします。
 アーメン。

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