京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

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2024年2月の説教

2024年2月の京北教会礼拝説教

2024年2月4日(日)、11日(日)、25日(日)礼拝説教

「小さな者の立場」

 2024年2月4日(日)京北教会 礼拝説教 今井牧夫

 聖書 テサロニケの信徒への手紙一 2章 1〜12節 (新共同訳)


 兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、

 わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。

 無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、
    わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、

 辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、

 激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。

 

 わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、

 ごまかしによるものでもありません。

 わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、
    このように語っています。

 人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に

 喜んでいただくためです。

 

 あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、

 口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。

 そのことについては、神が証ししてくださいます。

 また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。

 わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。

 しかし、あなたがたの間で幼な子のようになりました。
 ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、
 わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、
    神の福音を伝えるばかりでなく、
 自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。

 あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。

 きょうだいたち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。

 わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、

 神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。

 あなたがた信者に対して、わたしたちがどれほど敬虔に、
 正しく、非難されることのないようふるまったか、
 あなたがたが証しし、神も証ししてくださいます。

 あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、
 あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、
 慰め、強く勧めたのでした。
 御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。

 

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
       改行などの文章配置を説教者が変えています。
       新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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(以下、礼拝説教)

 

 毎週の礼拝で福音書使徒パウロの手紙、旧約聖書、この3箇所を順番に読んでいます。本日の箇所は使徒パウロの手紙であるテサロニケの信徒への手紙一です。

 この手紙は、地中海沿岸のテサロニケという町にある教会の信徒に向けて、当時の各地を回る巡回伝道者であったパウロが記した手紙であります。このテサロニケ教会はパウロが心を込めて伝道し、そして導いてきた教会でありました。その教会の人たちに対する、パウロの深い愛情が伝わってくるのが今日の箇所であります。

 

 このテサロニケの信徒への手紙一は、新約聖書に納められている27の文章の中で最も古い文書、最も初期に書かれた文書と考えられています。紀元後50年代と想定されています。

 

 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4つの福音書は、いずれも紀元70年代以降に完成をしていますので、福音書よりも古い時期です。イエス様が十字架にかけられて死なれたのが紀元30年頃であり、そこから20年ほど後に書かれた、最も初期の教会の有り様を伝えている大変貴重な手紙であります。

 

 この手紙には、イエス様が十字架にかけられて死なれ、そして天に挙げられたその後にクリスチャンになった、パウロの思いが記されてあります。それはつまり、パウロは生前の、復活なさる前のイエス様に一度も会うことがなかったという意味です。

 

 パウロはそれだけでなく、元々はイエス様を信じてクリスチャンになった人たちを捕らえて迫害する、そのようなことをかつてはしていたのです。なぜならばパウロは若い時から厳格な律法学者として、ユダヤの厳格な律法教育を受けて成長し学者となった人間であり、旧約聖書の律法をよく学んでいたからです。

 その当時のパウロの視点から見ると、イエス・キリストの福音(福音とは「よき知らせ」という意味であります)は、そうした律法を守らなくても、つまり、何かの決まり事を守って人間がそれを行う、実行することによって神から救われるという考え方ではなかったからです。

 そうした行いによらずにただ信仰のみによって、つまり心の中で神様を信じることによってこそ、人は救われるというイエス様の教え、それが厳格な律法学者であるパウロから見ると許せないものであったからであります。だから、パウロはクリスチャンを迫害していました。

 しかしあるとき、パウロは突然に目が見えなくなります。それが具体的にどういう病気であったということは分かりません。けれども一時的にパウロは目が見えなくなります。その暗闇の中でパウロは自分が迫害していた相手であるはずのイエス・キリストの言葉を聞きました。その時にパウロに回心ということが起こったのです。

 

 回心。それはパウロの場合には、心を改めるという漢字を書く「改心」ではなく、回る心、つまり180°回って反対の方向、逆の方向へ行く、そういう「回心」を遂げたのであります。そのときからイエス・キリストを自分の主、救い主と信じるようになったパウロは、イエス・キリストを地中海沿岸また様々な地域に伝道する者となりました。

 

 そのパウロの手紙がたくさん新役聖書に収められていますが、テサロニケの信徒への手紙一は、その中で最も古いものであります。どんなことを書いているのでしょうか。

 

 2章1節のところには、「テサロニケでのパウロの宣教」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは新共同訳聖書が作られた時に読み手の便宜を図って付けられたものであり、元々の聖書にはありませんでした。

 今日の箇所の始めには、こう書いてあります。

 「兄弟たち、あなた方自身が知っているように、私たちがそちらへ言ったことは無駄ではありませんでした。無駄ではなかったどころか、知っての通り、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、恥ずかしめられたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなた方に神の福音を語ったのでした。」

 

 ここではフィリピっていう町の名前が出てきています。新約聖書の中に、フィリピの信徒への手紙という書物があり、そこにそのときのことが書いてあります。パウロの伝道は、どこの町に行っても喜んで受け入れられたのではなく、強い迫害を受けたりすることも多々ありました。本当に困難の中でいろんな町を回って伝道していたのであります。しかし、このテサロニケの町への伝道はパウロにとって本当に感謝に満ちたものとなりました。

 3節にこうあります。

 「私たちの宣教は、迷いや不純な同機に基づくものでも、またごまかしによるものでもありません。わたしたちは神に認められ、福音を委ねられているからこそこのように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。」

 

 ここで、パウロは「わたしたち」と言ってます。パウロ一人で宣教したのではなくて、同行する人たちがいたということであり、また、この教会を訪れる伝道者はパウロだけではありませんでした。

当時の教会の教というのは、そのように各地にいる巡回伝道者が何人もいたのであります。しかし、どの人が伝道しても、その目的は一つで、人の喜びのためではなく神に喜んでいただくためでありました。

 

 もちろん、人にも喜んでいただくのでありますけれども、究極的な目的は、人間の自己満足ではなく人間を作られた神様の御心が表されるためである。パウロはそのように信じているのであります。

 

 そして5節にこうあります。

 「あなた方が知っている通り、わたしたちは相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては神が証ししてくださいます。」

 

 ここには、その背景におそらく想定されるのは、当時の社会の中にあって、教会に対する様々な誹謗中傷、攻撃というものがあったのではないかということです。そういう背景が考えられます。

 

 つまり、各地の教会にやってくるパウロのような巡回伝道者たちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりする。お金を集めようとしてかすめ取ったりする。そういうずるいやり方で生きている、というふうな誹謗中傷をする人たちもいたのでありましょう。しかし、そんなことはパウロたちは何にもしませんでしたというのであります。

 

 パウロたちは、人間の誉れを求めたのではないと。つまり、そうした伝道者は立派な人間だと言って相手に媚びさせる、へつらってお金をかすめ取る、そんなことは一切してこなかったとパウロは言っています。


 そして7節。
 「わたしたちはキリストの使徒としての権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたを愛しく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。」

 パウロは、自分のことを「使徒」と称していました。使徒という言葉は、これは当時の世界の中にあってはイエス・キリストの直接の弟子であった12人の弟子のことを指しています。イエス様の近くに寄り添ってきた弟子たち、イエス様にごく近い人たち、十字架で死なれる前の、復活前のイエス様に実際に出会って教えを聞いてきた人たち、そうした弟子たちは後にそれ以降にクリスチャンになった人たちに比べてよりイエス様に近いので、その弟子たちを使徒と呼んでいたのであります。

 

 それに対してパウロは、12弟子たちのところに行って、自分、このパウロ自身もまた神の聖霊を受けて使徒となったのだ、ということを話して、ペトロたちの了解を得て、「使徒」と名乗るようになったのでありました。

 

 ですから、パウロにとってこの使徒という言葉は特別な意味を持っいました。自分はペトロたちにちゃんと認められたイエス・キリスト使徒なのだと。特別な弟子であると。

 

 イエス様と直接つながっている、実際にはパウロはイエス様に直接会ったことはないけれども、聖霊を通して、私は出会っている。そうしたパウロの信仰というものが、この使徒という言葉に込められています。ですから、パウロは、わたしはキリストの使徒なのだ、ということによって権威を主張することもできたのです。

 

 あなたたち、イエス様と出会ったことのない、後の時代にクリスチャンになった人たちとは、自分は違う。そう言って、言わば自分は一段も二段も格が上なんだ、と言うこともできたわけであります。

 

 しかし、そんなことはしなかった。そればかりか、あなたがたの間で幼子のようになりました、と言います。

 

 言わば、わたしはあなたがたの間で小さくなった、とパウロは言うのですね。そしてそれは、ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなた方を愛しく思っていたので、というふうに書いてあります。

 

 ここでは、幼子という言葉と、母親がその子供を大事に育てるという、その二つの言い方で自分のことを表現しています。あるときには子供の立場になり、あるときには母親の立場になって、あなたたちをいつくしんできたのだというのであります。

 

 そして9節ではこうあります。

 「兄弟たち、私たちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは誰にも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら神の福音をあなたがに宣べ伝えたのでした。」


 この「負担」というのは、金銭的な負担であります。パウロたちが来ることによって教会の人たちが、各地を旅する巡回伝道者に生活費を出さなくてはいけない、生活の世話をしなくてはいけない。そうした負担をかけないために、パウロ自身が夜も昼も働きながら伝道していたというのですね。

 

 他の箇所でパウロは、自分は天幕を作る職人であったということを語っている所があります。天幕とは天の幕と書いて、それはテントと思っていただいていいです。大きなテントを動物の皮、なめし革を使ってテントを作る。それによって各地を移動することができたわけであります。そうした皮革産業に従事する労働者としてのパウロの姿がこの背景にあります。自分の生活費は自分で稼ぐよと。教会の皆さんには負担はかけませんと。

 そして10節ではこう言います。

 「あなたがた信者に対してわたしたちが、どれほど敬虔に正しく、非難されることのないように振る舞ったか、あなたがたが証しし、神も証ししてくださいます。」

 

 つまり、パウロは自分は使徒であると言って、権威を主張することもできたけれども、そんなことは一切しないで自分で働いて、教会の皆さんに負担をかけないようにした。そして、どれほど敬虔に正しく振舞ったか、人から非難されることのないように。

 

 こうした言葉の背景には、あのパウロたちはああやって人の心をそそのかしてですね、へつらってお金を稼いでいるのだというふうな、パウロに対する誹謗中傷があった。そのことに対して、わたしは全くそうではなかった、と言ってるわけです。

 

 そして11節ではこう言います。

 「あなた方が知っている通り、私たちは父親がその言葉に対するように、あなたがた一人ひとりに呼びかけて神の御心に沿って歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。ご自身の国と栄光に預からせようと神はあなた方を招いておられます。」

 

 こうして、この手紙の前半部分にあたる今日の2章前半の箇所において、パウロ自身がどんなふうにテサロニケの教会で振る舞ってきたか、自分が何をしてきたか、ということを自分で振り返って、もう一度こんな気持ちで、こんな思いで、わたしはテサロニケの皆さんと出会ってきたのですよ、ということを語っているのであります。

 そのときの気持ちというのは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人ひとりに呼びかけて、そういうふうに、そういう気持ちでやったというのですね。さっきの所には、母親がその子供を大事に育てるようにと言ってました。今度は、ここでは父親がと言ってますから、パウロは母親も父も両方とも、ここで、たとえとして出しているのですね。

 パウロは女性に対しても、男性に対しても平等であったと、こういう箇所を読むときに思うのであります。もちろん、パウロが書いた他の手紙の中で、女性差別である箇所も実際はあるのです。しかし、そうした箇所が当時の社会の空気の中で、当時の社会・文化の中にあるものをパウロがそのまま吸い込んで書いている箇所であり、パウロ自身が積極的な差別者であったとは考えにくいのではないかと私は思っています。

 今日の箇所では、パウロはたとえとして、まず母親のことを先に書き、その後で父親のことを書いています。けれども伝道者として、教会の皆様一人ひとりをこんなに大事に思ってるのだ、というときに、ときに母親のように、ときに父親のように、愛してきたのだと言っているパウロの姿は素晴らしいと思います。

 

 そしてまた、パウロ自身は独身の人間でありました。結婚していない人間でありました。そのパウロが母のように、父のように、というときには、そこにやっぱり特別な思いがあるんだろうなということを私は想像するのであります。


 今日の箇所はそのような箇所です。この箇所を読んで皆様は何を思われたでありましょうか。聖書を読んで心に残る箇所は、皆様それぞれ違っていると思います。先週一週間、何があったか、具体的なことで、どんな生活をしてきたか、それを考える時に、それぞれの経験によって心に響くことはみんな違っていて不思議ではありません。

 そんな中でわたし自身は、今日の箇所を読んで一番心に残ったのは7節の所です。わたしたちはキリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました、と書いています。幼子のようになったと。小さな子供、本当に幼児のように自分はなったんだと言ってるのですね。

 

 それはなぜかと言うと、教会の皆さんを愛しているから、神の愛を伝えるためにであって、それは、自分がキリストの首(かしら)であるというような、自分が持つ権威を言い立てるようなこととは、全く180度反対のことをしたのだ、と言っているのですね。

 もし自分が持つ権威ということを言おうと思えば、それを主張しようと思えばできたのでしょう。しかし、全くそれとは反対のことをした。そのことが、幼子のようになった、あなたがたの間で幼子のようになった、という言葉なのです。

 このすぐその後では、「ちょうど母親がその子どもを大事に育てるように」と言ってますから、この箇所は、意味を考えるとちょっと不思議な箇所ですね。まず、幼子のように私はなった、と言いながら、その次には、母親がその子供を愛するように、というときに、親にも子にもどちらにもここでパウロがなっているわけですね。

 

 たとえとして、そう言っているのですが、これはどういうことなのだろう、とちょっと考え出すと意味が取りにくくなってくるのです。親がその子を愛するように、という言い方は、これは分かりますね。親が子供を愛するように、わたしはあなたたちを大事にしたんだよと。これは経験上と言いますか、社会一般の空気の中で分かります。

 

 しかし、その前に、わたしはあなたがたの間で幼子のようになりました、と言ってるんですね。もし幼子のようになったらどうでしょう。子供のようになっちゃった。幼児のようになっちゃった。それは教会の皆さんを愛するからそうなった、というのです。それはどういうことなのでしょうか。

 

 今日の説教の題は、「小さな者の立場」と題しました。「小さな者の立場」、この言葉は今日の聖書の箇所にはありません。小さな者という言葉はここにないのです。しかし、今日の箇所には幼子という言葉があり、また、子供という言葉があります。そこで、それらの言葉を「小さな者」と解釈をしてみました。

 ここでパウロは単に、自分は子供のようになったと言ってるわけではなくて、あなた方の中で私は小さな立場の存在になったと言ってるのです。自分の立場、その持っている権利が、すぐにでも奪われてしまうような、小さな子供のような存在。それは、権威を持って人を制圧し、人を従わせようとする立場とは正反対になるということであります。

 子供というものは、大人によって支配され教育され従わせられるものだと、当時の人たちは思っていました。いや、現代のわたしたちだって、きっとそういうことを思っているはずです。子供というのは親によって教育されなくてはならない。子供は親の言うことを聞かなくてはいけない。だから、子供になりたいとは大人は言わないのです。

 

 しかしパウロが、ここでこのように言ってるときには、わたしパウロ使徒としての権利を主張するのではなく、あなたがたの間で幼子のようになった、それはあなたたちを愛するからだ、ということであり、これはパウロが教会の人たちに願っていることが、「あなたたちもまた幼子のようになってください」ということだった、ということなのですね。

 教会の人たちの一つの模範。それは幼子のようになるということであります。けれども、それは子供っぽくするとか、幼稚なことをするとか、そういうことを言ってるのでは全くありません。そうではないのです。小さな者の立場になる。それは、権威を主張する者の反対の生き方をするということであります。

 教会に行けば、そこに来る人たちがみんな、幼子のように、自分の権威を主張せずに、神様の前でただ神様に養われている。神に愛されている。神に愛されている幼子になる。そのことによって、教会というものが本当に神の恵みが満ち溢れるところになるのだと、パウロは信じているのであります。

 

 パウロはそうして、自らが幼子のようになるという形で模範を示し、同時に、母が子供を大事にするように、あるいは父親が子供を大事にするように育てたのだ、というふうにパウロは言ってるのですね。

 

 自らをみんなの模範になるようにしながら、また親として、みんなの見ていないところで縁の下の力持ちとして、みんなを支え、みんなを愛し育ててきた、パウロはそういう思いでいたのだということをここで言っているのであります。

 このようなパウロの言葉は、この現代の日本社会に生きているわたしたちにとって、どんな意味があるでしょうか。また、どんなメッセージになるでしょうか。

 

 ごくごく単純に考えてみますが、この、「あなたがたの間で幼子のようになった」というパウロの言葉を実践することはとても難しいと思います。教会のこととしてパウロはここで言っていますけけども、たとえばこの京北教会において、みんながみんな、幼子のようになる、そういうことは考えられるでしょうか。

 それは、もしかしたら精神的な理想として言えばそうかもしれませんけれども、実際にそれをやりましょうと言われたら、一体何したらいいのですか、と皆さん困惑すると思います。何か子供の真似をすることだろうか。子供のような心になればいいのだろうか。

 

 それは具体的にどんなことしたらいいのだろうかと、わたしたちは困ってしまいます。しかし決して、私たちはその子供のふりをしたり、まねをしたり、子供のようなごっこ遊びを今からしようというのではありません。

 

 わたしたちは教会に来ていても、みんなありのままです。一人の大人である人は、また、若者である人は、また、長く生きてきた人は、この世界の中で本当に大人として生きるということの意味を噛みしめて、生きて、そしてそのままでこの教会に来ておられると思います。わたしたちは決して子供に帰っていくなんていうことはできないのですね。

 

 では、今日のパウロの言葉が言っていることは何であるのでしょうか。それは、子供のようになるということではなく、本当に大人でありつつ、少しずつしか、愛するために自分の持っている権威というものを主張しない。そうした権威というものは、元は神様のものだから、神様にお返しする。そうしたキリスト教のあり方が言われてるように私には思います。

 

 イエス様は他の箇所において、「皇帝のものは皇帝に返しなさい。神のものは神に返しなさい」と言っている、その言葉があります。この世の権威というものはこの世に返したらいいのです。神様から頂いた権威は、神様に返したらいいのです。そして、一人ひとりがそうした権威を主張するのではなく、元々権威を持たなかった幼子のようになる。それは、パウロはここで教会という一つの集まりの中でのこととして言っています。

 

 人々の集まりの中にあって権威をそれぞれ返すべきところに返して、権威を元々持っていなかった者のようになる。そのことによって、その教会あるいは人の集まりというものが、神様の御心に叶うものになっていくのだとパウロは信じて語っているのです。

 

 そして、そのようになるということが同時にあたかも母が子を愛するように、あるいは父が愛するように、みんなを愛することなのだと。だから、これは決して子供に帰って子供のように振る舞おうと言ってるのではありません。

 

 元々は権威だなんで思っていなかった、子供のように小さなものの立場、そこに自分が立つ。そのことによって共に生きる教会の人たちの模範となり、お互いにその姿勢が伝わりあってその教会は良い教会になっていくのだと。そういう形で教会が本当に神の愛が満ち溢れ、お互いが助け合い祈りあう教会になっていくということをパウロは願っているのであります。

 

 このことを、この現代社会あるいはこの国際世界の中で、私たちが生きていくために何が学べるかかと私が考えてみました。それこの世界の中にあって自らの権利、あるいは権威というものを、主張しない立場でこの世界に平和を願う祈るということであります。

 

自分はこれだけのことができるだから、、これを実現するために祈るというのではなくて私には平和を実現する力がない、元々ない、それが私の原点なのだと。そこに戻って神様の働きを一心に願うあかも幼子のように願う。そのことによって、この社会や国際社会に神様の御心を伝えることができるのではないかと思うのであります。


 今の国際世界社会の中にあって、日本の国が何ができるかと考えると心もとないものであります。お金か軍事力か経済力か政治力か何を考えたって日本の国が世界に影響なんて及ぼさないよ平和をもらすなんてできないよ。

 

 そうやって自分に権威がないことを悲しみ、もっと自分に権威があれば、もっと平和のために働きができるのに、なんということを思う時もあるかもしれません。

 

 けれども、そんなふうに思っている限り、この世界の力と力の競争の中では誠の平和を招くことができないのです。それとは逆にこの社会の中にあって幼子のようになる、小さな者の立場になって祈る。その祈るということは、祈るということは神様の御心を尋ね求めるということであります。

 

 今世界に何ができるのか、自分にはこれだけの権威があると主張して、それで世界を従わせようとするのではなくて、その反対の道を行くことによって世界に誠の平和を、神様の御心によって与えていただくということはできないでしょうか。

 

 またそのような生き方が、この日本社会の中でもできないでしょうか。教会には権威がありません。力がありません。平和をもたらすことができません。だから、教会という場をもっと強くして、権威を持たせて………と考えるのではなく、いやわたしたちの教会は、この社会にあって幼子のようになりましょう。

 

 そのことによって、誰もがこの日本社会を愛し、この韓国語の世界をも愛していきたい。そのことによって、この社会全体で神様に祈る。この世界全体で神様に平和を祈る。そうした道へと歩んでいきたいと願うものであります。

お祈りをいたします。

 天の神様。私たちが日々自分の権威のなさを悲しみ、力のないことを、弱さを、悲しみ、そして心がひねくれていって、いろんなことに無関心になり、荒れはてた心になっていく時もあります。そんな私たちに今日の御言葉が与えられました。神様、どうか一人ひとりに祈る力を与えて下さい。そして、そのことがこの社会や世界に、本当の意味で神様の御心を伝えるものとなり、平和へと至る道となりますように、心よりお願いをいたします。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。

 アーメン。

 

 

「開いた道、誰が通る」
    2024年2月11日(日)京北教会 礼拝説教 今井牧夫

 聖 書  出エジプト記 14章 5〜14節 (新共同訳)


 民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、

 民に対する考えを一変して言った。

 

 「ああ、我々は何ということをしたのだろう。

  イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。」

 

 ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、えり抜きの戦車六百をはじめ、

 エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた。

 

 主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、
     王はイスラエルの人々の後を追った。

 

 イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったが、エジプト軍は彼らの後を追い、

 ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトのかたわらで、

 バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。

 

 ファラオは既に間近に迫り、イスエラルの人々が目を上げて見ると、

 エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。

 

 イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。

 「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。

  荒れ野で死なせるためですか。
        一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。

  我々はエジプトで、

   『ほうっておいてくだい。自分たちはエジプト人に仕えます。

    荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕えるほうがましです』と

  言ったではありませんか。

 

 モーセは民に答えた。

 「恐れてはならない。
        落ち着いて、今日、あなたのためにに行われる主の救いを見なさい。

  あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、
        永久に彼らを見ることがない。  

  主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
       改行などの文章配置を説教者が変えています。
       新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 毎週の礼拝で、福音書パウロの手紙、旧約聖書、この三つの部分から選んで順番に読んでいます。今日は旧約聖書出エジプト記14章です。

 今日の箇所は、エジプトの国で奴隷にされていたイスラエル人の人々がエジプトを脱出する、その決定的な場面の一部であります。この場面は、「十戒(じっかい)」という題名の大変有名な外国映画の題材にもなっています。

 この場面は、奴隷とされて苦しんでいたイスラエルの人たちが、エジプトの王ファラオによってずっと苦しめられてきた所から脱出する時に、後ろを追ってくるエジプトの軍勢、そして目の前には海があり、もう逃げることができない絶対絶命の場面です。

 そこで目の前の海を神様が二つに、左右に分けてくださり、その間をイスラエルの人たちは通ることにより脱出し、そしてその後、追ってきたエジプトの軍勢がその二つに割れた海の間の道を追ってきたときに、その二つに分かれていた海が元に戻って、エジプトの軍勢はみんな滅びてしまった。

 

 そういう非常にスケールの大きな場面であり、その十戒という題名の映画では、まさにその場面がクライマックスとして描かれていました。

 今日の聖書箇所は、その海が割れる場面の一つ手前の部分であります。イスラエルの人たちがこの絶対絶命なところに追い詰められて、自分たちはなぜこんなところに来たのだと、わたしたちはエジプトで奴隷の暮らしをしていたほうが良かったのだ、ということをリーダーのモーセに向かって言って、食ってかかっている。そういう場面なのですね。

 そのような人々の批判に対して、モーセが答えた言葉が13節にあります。

 「恐れてはならない。落ち着いて、今日あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日エジプト人を見ているが、もう二度と永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」

 モーセはこのとき、このあとに神様が何をしてくださるか、ということを知っていたのでしょうか。


 それを知っていたようには思えませんけれども、モーセはこの絶対絶命の場面にあって、神様が必ず自分たちに道を開いてくださる、ということを信じていたのであります。「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」絶対絶命の場に追い込まれたときに、モーセの言葉はこれでありました。

 自分たちの力で相手をやっつけて自分たちのために道を開くのではなく、神様があなたたちのために戦ってくださる道を開いてくださるのだから、あなたたちは静かにしていなさい、というのです。

 

 旧約聖書の中に記されたイスラエルの人たちの歴史。その中に記された、たくさんの言葉。そして神様への信仰。その中から私たちは、今日にあって意味がある本当にたくさんのことを学ぶことができるのであります。

 

 今日の箇所のこの言葉もまたそうなのですね。本当に追い詰められたとき、絶対絶命の時に自分自身の力でどう生きるか、どうしていくか、それは今を生きているわたしたち一人ひとりにとって本当に大きな課題なのであります。

 

 けれども、今日の聖書の箇所に示されている言葉は、自分自身の力で相手をやっつけることで道を開くのではなく、神を信じて静かにしている、そういうことでありました。

 
 もちろんそれは、このことを現代の人間に当てはめた時にですね、本当に苦しいとき、絶対絶命なときには、何にもしなくたっていいんだよ、という、そういうことではないのですね。

 わたしたちはやっぱり何かしなければいけない。自分が生きるためには本当にそうなのです。決して、じっとしていたら神様が全部道を開いて下さる、なんてことはないのです。

 

 では、なぜ今日の箇所でこんなふうにモーセが言うかというと、これは急に起こった場面ではなくて、長い長い歴史の積み重ねの中で起こってきたことであり、そしてイスラエルの人たちはエジプトにあって奴隷として苦しめられてきた、その苦しみの中で人々が助けてくださいと言って神様に叫びを上げた、その叫びを神様が聞いてくださった、という所から始まっている話なのですね。

 

 つまり今ここで、イスラエルの人たちがエジプト軍に追われて、後ろにはエジプト軍、前には通ることのできない海があって、その間で自分たちはもうどこに行くこともできない、このままみんな殺されてしまうのか、という、この場所に来たのは、これは人間の思いで来たのではなく、神様が人々を救うために連れてきてくれた、そういう場面であるからこそ、ここでのモーセの言葉が生きてくるのですね。

 

 今どこにも出口のない困難の中にあなたたちがいる、ということは神様はよくご存知なのだと。だから、神様を信じて静かにしていることが、今は自分たちの最もいい選択なのだ、ということをモーセは語っています。そこに歴史があり、神の導きがあると信じるからこその言葉でありました。


 今日のような箇所を読んで、皆様は何を思われるでありましょうか。


 わたしは今日の箇所を読んだときに、いま申し上げました最後の部分の、モーセの言葉が大変心に残ったのでありますが、その一つ前にある、イスラエルの人たちがモーセに言う不平不満ということも、これも何か心にぐっと残るものがありました。

 

 というのは、ここの人々はこういうふうに言っているのですね。「我々を連れ出したのはエジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体何をするためにエジプトから導き出したのですか、と言っているのですね。

 

 エジプトに墓がないという言い方は、これはエジプトは安住の地ではないという意味だと思えますけれども、自分たちはそこに、よそからやってきた外国人であったと。エジプトの地で、そこで安住の地ではないと。だから、今ここに連れてきたのかと。

 

 そして、12節にあるように我々をエジプトで放っておいてください、自分たちはエジプト人に仕えます、荒れ野よりエジプト人に仕えるほうがましです、と言ったではありませんか、と言っているのですね。これが、何かものすごく、人間の気持ちとして私は分かる気がするのです。

 その前に、この8節の所ではですね、イスラエルの人々は意気揚々と出て行ったが、と書いてあるのですね。意気揚々と出ていった。それは、ああやっとこのエジプトの国を出られるときが来たのだ、やったあ、と言って喜んで本当に晴れ晴れとした心でエジプトを出ていったのです。

ところが、後ろからぐーっとものすごいエジプトの軍隊が迫ってきたら、いやわたしたちはエジプトにいたかったのだと、奴隷のままで良かったのだと、そう言ったじゃないですか、と言ってその時その時の都合のいい言葉っていうのを人間は発するのですけれども、まさにそうですね。わたしたちは奴隷としてエジプト人に仕えていたほうが良かったのですよ。なんでこんな所に、というわけですね。

 ここにはまさに、本当に人間らしいと言っていいのかどうか分かりませんが、まさに人間とはこういう面があるよな、という、本当に何だか自分自身の心をえぐられるような思いで、わたしはこの言葉を聞くのです。

 

 人々の都合のいい言葉、その時その時の言葉というものを読んだあとに、このモーセの言葉を読むと、何か本当にモーセがいま、現代にあってこの今聖書を読んでいるわたしたちに、何か懇々と言い聞かせてくれているような気がするのですね。「恐れてはならない。落ち着いて今日あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」

 

 落ち着けということ。静かにしていること。そして、目の前にあることを見ていなさい、と言っています。これらはいま、現代の日本社会を生きているわたしたちにとっても、ぴったり当てはまることですね。

 

 もちろん、人間はいろんなことを言いたくなりますよ。それは神様に対する不満であったり、人に対する不満であったり、いろんな不満が起きてくるのです。けれどもそうしたときに、まずすべきことは落ち着くことなのですね。

 モーセは言ってます。「あなたたちは今日エジプト人を見ているがもう二度と永久に彼らを見ることはない。」それはイスラエルの人たちがこの場所を脱出して新しいところに住むようになる。すると、もう彼らを二度と見なくなるという、その脱出する先の将来のことを言っているのですね。

 今はまさにもう目の前のこととして、目の前で見ている人たちと、もう二度と出会わなくなるという、ありえないようなことが本当に起こる。それはこの旧約聖書の物語の中では、この後の場面で海が真に割れるという、本当にあり得ないようなことが起きる、そういう形で物語は進んでいくのであります。

 

 けれども、まさにそうした形であり得ないようなことが起こっていくということが、神様への信仰の物語という形で、今日の箇所には記されているのであります。

 今日のこのような箇所を皆さんはどのように思われるでしょうか。どんなことを思われたでしょうか。

 わたしは子供のときに、この聖書の箇所を読んでいろいろなことを思いましたね。一つは、この箇所は紙芝居になったり絵本に書かれていたりしています。すごくダイナミックな、ものすごい、この海が二つに割れる物語として、読んでいたということがあります。

 

 子供の時には、そういう本当にびっくりするような壮大なスケールの物語として読んでいたのですが、10代になってこういう話を読むと、もう少し何か大人っぽい意識でこの箇所を読むことになりました。

 

 というのは、ここでは、このエジプトの国の人たちが、イスラエルの人から見ると悪い王様の立場として描かれているので、最後は海で溺れてみんな軍隊の人たちは死んでしまうわけですね。

 それで、この物語はイスラエルの人たちから見ると、自分を解放してくれる神様の素晴らしい物語なのですけれども、エジプト人の人がこの物語を読んだら、どんなふうに思うのだろうか、ちょっと心が傷つくのではないかな、なんていうことをわたしは思いました。

 

 そういう疑問をわたしは思ったのですけれども、それから何十年も経つのですが、その疑問はわたしの中でいまだにきちんと解決されていないのですね。

 エジプトにもたくさんのクリスチャンの方々がいらっしゃるのですけれども、エジプトでは「コプト教」と呼ばれて、キリスト教の一つの形ということで、コプト・クリスチャンという言い方をされる、そういう方たちがたくさんおられます。

 そういう方たちはエジプトの中で少数派の方々なのですね。それで、今日の所に出てくるエジプト人というのは、これは一般のエジプト人ではなくて、ファラオという、ものすごく強大な権力の王様で、その軍隊というのは、抑圧する側です。そのエジプトの人たちが出てくるわけですね。

 そういう意味では、その人たちが海で滅ぼされる話というのは、エジプトの中にいる少数派のクリスチャンの人たちにとっては、自分たちを解放する物語として読むこともできるのではないかというふうに思うのですね。

 

 けれども、そうしたことを実際にエジプトの人たちがどんなふうに思って読んでいるのかな、という疑問は、今でもわたしは分からないことなのですね。

 そのことを調べたいと思って読んだ本には、そういうことは書いていなかったのでした。すると、ちょっとわたし、自分で思ったんですけれども、そういうことを考える問題意識を持つわたしというのは、かなり変わった人なのかな、ということをちょっと思ったのですね。

 聖書を読む人というのは、別にそんな、そこまで深く考えているのではなくて、神様が苦しんでいる人たちを救ってくださったという、それだけで何か良かった、というふうに考えることができるのかもしれませんね。でも一方で、わたしがいま言ったような問題意識というのは、実は結構大事じゃないかな、ということも、この現代の世界を見るときに思うのですね。

 

 ある国の人たちにとっては、解放の物語、救いの物語ではあっても、その物語の中で敵とされた人たちの視点から見た時には、その物語はどういう意味を持つのか。自分と敵対する人たちの物語ということになるのかと。そうなると、これは複雑なことになってくるのですね。

 

 それで、これは旧約聖書だけではなくて、あるいはですね、キリスト教だけの問題じゃなくてユダヤ教であったりイスラム教と呼ばれるイスラームであったりですね、仏教であったりと、もうありとあらゆる宗教、あるいはありとあらゆる民族の物語に関わってくることなのですね。

 ある人たちにとっては救いの話。でもそれは、そのある人たちから敵とされた人たちにとっては、敵対する側の物語になってくると。では、一体その物語をどんなふうに読んだらいいのだろうか、ということと、それからもっと根本的な疑問でいくと、では神様というのは一体どういう存在なのだろうか、という、そういう疑問が湧いてくるわけですね。

 これはもう、現代の世界にあって本当に、現在のイスラエルパレスチナあるいはハマスの戦争の、現実に起きていることです。そして、たとえばロシアとウクライナ。そうした所にも地域的な歴史的な関係など、もういろんな問題としてあるのですね。そんな中でわたしたちは、今日この箇所をどんなふうに読めばいいのかな、ということを思うのです。

 

 それで今日、この2月11日という日は、京北教会が加盟している日本基督(キリスト)教団においては、この教団の暦(こよみ)というのがあるのですけれども、「信教の自由を守る日」というふうになっています。信教の自由、それはどの宗教を信じる、どの神様を信じるか信じないか、ということも、それは一人ひとりの自由である、それが信教の自由ですね。それが脅かされないように、これを守る日と決めているわけであります。

 なぜ、2月11日が「信教の自由を守る日」になっているかというと、これは戦前、アジア太平洋戦争の前には「紀元節」と呼ばれていた日でありました。それは日本の建国神話と呼ばれる神話、日本の国がどうしてできたかという、その神話に基づいてこの日を日本の国の誕生を記念する日と決められたという経緯がありました。

 

 その日は、日本の敗戦後に廃止されたのでありますが、1960年代に建国記念の日として、また祝日となりました。

 

 そのときに、記念日の名前は変わっても、これは戦前の歴史へともう一度歴史を元に戻していこうということではないのか、という非常な危機感を持ったわけですね。

 戦前の軍国主義、そしてその中にあって信教の自由ということが脅かされる、キリスト教を信じる自由ということも脅かされる。あるいは信仰の自由、何を信じるかという宗教の自由、信教の自由はあったとしても、その物の考え方が制限されて、全てがこの日本の国のために役立つようにという形で制限されて、宗教がねじ曲げられる。そういうふうな時代というものを、かつての日本基督教団は経験してきたわけであります。

 そして、日本基督教団は単に被害者として抑圧されてきた、というだけではなくて、逆に積極的にそのような国の政治体制に日本基督教団も加担をして、そのお先棒を担いでしまったという、深い罪を犯した、そのことを悔い改めて、この2月11日を新教の自由を守る日と定めて、信教の自由について考えることを促す日としているわけであります。

 この日にあって、今日この聖書の箇所を選ばせていただいた時に思いますことは、今日の箇所から学ぶこと、本当に学ぶことは何か、ということです。そのことを皆様と一緒に考えたいのですね。

 今日の箇所を読む時に、イスラエルの人たちというのは、やっぱり特別なんだ、特別な人たちだから、神様がこうやって海を真っ二つに割って守ってくださったんだと。だから、特別な人たちなんだ、ということだけを読み取るのであれば、それはちょっと違うのではないかな、と私は思うのですね。

 今日の聖書箇所に描かれていることは何であるか。それは、ある特定の民族が他の民族よりも素晴らしいということを言っているのではなくて、奴隷として苦しめられていた人たちが神に声を上げ、神様がその苦しみを聞いて、導いて下さったときに、その歩む道は絶対絶命のように見えても必ず道が開かれていく。

 そういう一つの真理、真実、神様への信仰ということの中で現れる、一つの真実、真理というものが、今日の聖書箇所に記されていると、わたしは受け取るのですね。これは決して、ある民族が他の民族よりも優越している、という問題ではないのです。

 神様が、本当に弱く小さくされた者たち、奴隷とされて苦しんできた者たちが、強大な王様の軍隊によって抑圧されてきた、そこから脱出する。それは、小さくされた者たちが、自分たちも武器を持って、自分たちも強くなって相手をやっつけることによって脱出する、というのではなくて、神様の導きによって脱出する。

 

 そして、その中にはいろんな知恵や経略、そして言葉の働き。そういうものが意味を持ってきます。

また、勇気。そして何よりも神様への信仰。そういうものの積み重ねによって、人々は抑圧から脱出することができる。今日の箇所において、わたしたちが旧約聖書から本当の意味で学ぶことができるのは、そういうことではないかとわたしは受け取るのですね。

 今日の物語は、旧約聖書の話であって、ここにはイエス・キリストは出てきません。この、出エジプトの出来事というのは、これは実際にあったとしたら、いつ頃かということを聖書学者が研究したところでは、紀元前12世紀頃だそうです。

 王様の名前とか、いろんな歴史的な、また考古学的な研究も含めて、紀元前12世紀頃のことではないかと考えられています。すると今から3000数百年ぐらい前のことなんですね。

 それで、イエス様は今から2000年前の方でありますから、今日の聖書の物語には登場しません。しかし、イエス様の物語の中には、今日のこの物語と重なることがいっぱい出てきます。それは、たとえば、イエス様のお話を聞きに来た人たち、5,000人以上のたくさんの人たちがイエス様のお話を聞きに来たときの話です。

 だんだん夕方になってきて、食べるものが何にもないので、もうここで人々を解散させるしかないと弟子たちが考えたときに、イエス様は弟子たちに「あなたがたがこの人たちに食べ物を与えなさい」と言った、そういう話とつながってくるのですね。

 弟子たちは、そのときに5,000人分以上の食べ物なんて持っていないわけです。五つのパンと二匹の魚しかなかったのです。

 それで、どうやって5,000人以上の人たちに食事を与えることができるでしょうか。弟子たちは、そんなことはできませんとイエス様に答えたのでありますが、イエス様は静かに言われました。人々を分けて組にして座らせなさい。そして持っている五つのパンと二匹の魚を持ってきなさいと。

 

 そして、イエス様がその五つのパンと二匹の魚を、手でちぎって弟子たちに与えていきます。すると、イエス様が配るパン、それがなくなることがなかったのですね。元々、食べ物がなかったはずなのに、なぜそうなったのか、ということを福音書は全く説明していませんけれども、とにかくそうであったというのですね。

 そこには、もう絶対絶命に見えても、自分たちの力では何も道が切り開けないような場に置かれたとしても、それがもし神様の御心であるならば、そこから開けてくる道があるのだと。ありえないことが起こるのだ、ということを、そのイエス様の物語は伝えています。

 

 聖書の中に登場する、しばしば私たちがびっくりしてしまう話、というのはそういうことなのですね。

 

 そうした話は単に奇跡の話ではないのです。こんな不思議なことが起こりましたよ、というだけの話、あたかも何か手品をしたかのような、そういう話ではないのですね。

 

 そうではなくて、それが神様の御心であれば必ず道は開ける。だから、静かにしていなさい。落ち着いていなさい。「今日あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」、このモーセの言葉が生きてくるのですね。

 自分たちの能力によって相手をやっつけてとか、自分たちの何かの力で食べ物を得てとか、ということではない、その道があるのだと考えて、今日の説教の題は「開いた道、誰が通る」と題しました。

 

 開いた道、それは海が二つに割れて、通る道が現れた、そのときのことを言っています。それは、今日の聖書箇所ではなくて、その次の15節以降の場面にあるのです。開いた道、誰が通るという言葉にしたときには、この開いた道、海が二つに割れて道が開いたときに、そこを誰が通るのか、ということを考えたいと思ったのですね。

 道が開いた。そこに道が出てきたわけですから、それは、逃げてきたイスラエルの人たちが通るのでありましょう。イスラエルの人たちは、これは私たちの道だと思って通るのかもしれませんけれども、よくよく考えていただきたいのです。その道を誰が通るのか。これは神様が通る道なのですね。

 神様の道が通るために、海が真っ二つに割れていったのです。苦しんでいる者たちが、奴隷とされていた所から救い出され、脱出して新しい土地へと、神様を礼拝するための土地へと出ていく。その道を誰が通るかというと、一番先に通るのは神様なのです。

 

 そのあと人々がついていく。そして、さらにそのあと、追っかけてくる、捕らえようとする人たちは、その道に海が戻ってくることによって滅びてしまう。そうした場面は、現代の視点から読むときにはこれは物語であります、と言っていいと思うのです。このまま現実にこういうことがある、とは思えません。これは物語なのですと言っていいのです。

 

 けれども、物語というのは単に誰かが作り出した作り話ではない。ここには、神様がこの道を通られるということが示されてています。今日のこの物語を読むときに、この物語を読んでいるあなたたち一人ひとりの心を、神様が通って下さる、そういう物語なのだと、そう思って読んでいただきたいのですね。

 

 そのときにわたしたちは、イエス様のことをよく分かるようになります。そしてまた、この現代の世界を自分がどう考え、どう生きていくのか、ということもまた示されていくと私は思うのですね。

 

 今日の聖書箇所を読むときに、本当にどこにも救いがないような、絶対絶命のこのわたしたちが生きている現実世界にあって、ジタバタするのではなく、また投げやりになるのでもなく、あきらめるのでもなく。

 また、何と言うのでしょうか、わたしはこんなつもりじゃなかったのにと、奴隷として仕えていたほうが良かった、と言ったではありませんか、というふうに今日の箇所で言っている、この人たちのような気持ち、わたしはそういう人の気持ちが分かるのですけれども、そういうことでもなくて、もっと違った道があるのではないか。

 

 そのことを思うのであります。皆様はいかがでしょうか。

 お祈りをいたします。
 天の神様。わたしたちがそれぞれに置かれている現実の中にあって、今日一日を心豊かに充実して生きることができますようにお導きください。本当に苦しい目に遭っている一人ひとりの人間に、神様が救いの手を伸べてくださることを信じ、イエス様を通して心より救いを願います。この世界全体に、そして一人ひとりの心の中に真の平和を与えて下さい。イエス様がわたしたちのために十字架に架けられ、死なれた、そのことが神と人との和解であったように、わたしたちもまた、この世界の中のいろんなことにあって和解を願い、そのために働くこと、祈ることができますように、お導きください。この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。アーメン。

 

 

 

「天来の道に備えて」 
 2024年2月25日(日)京北教会 礼拝説教 今井牧夫

 聖 書  マルコによる福音書 13章 28〜37節 (新共同訳)


 「いちじくの木から教えを学びなさい。

  枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。

  それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、

  人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。

 

  はっきり言っておく。

  これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。

  天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。


  その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。

  父だけがご存じである。

 

  気をつけて、目を覚ましていなさい。

  その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。

 

  それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、

  僕(しもべ)たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、

  門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。

 

  だから、目を覚ましていなさい。

  いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、

  夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、

  あなたがたにはわからないからである。

 

  主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。

  あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。

  目を覚ましていなさい。」

 

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
       改行などの文章配置を説教者が変えています。
    新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 教会暦にある2月14日「灰の水曜日」から受難節に入りました。受難節は、主イエス・キリストの十字架の受難、その苦しみを覚え、その意味を心に刻むときであります。

 今年のイースター(復活日)は3月31日。その日まで続く、この受難節のときにあたり、毎週の礼拝においてイエス様の受難を心に覚えながら、そしてまたわたしたち一人ひとりが、自分自身の十字架とは何か、自分の受難とは何か、その意味とは何か、そうしたことを考えて歩んでいきたい。そのように思います。

 今日の聖書の箇所は、マルコによる福音書13章からであります。毎週の礼拝において、福音書使徒パウロの手紙、旧約聖書、その三箇所から順番に読んでおります。本日はマルコ福音書です。

 冒頭に「いちじくの木の教え」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは元々の聖書にはなく、新共同訳聖書が作られたときに、読み手の便宜を図って付けられたものであります。


 今日の聖書箇所には何が書いてあるのでしょうか。

 「いちじくの木から教えを学びなさい」とイエス様が言われています。「枝が柔らかくなり葉が伸びると夏の近づいたことがわかる。それと同じようにあなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」このように言われています。

 イエス様はここで何をおっしゃりたいのでありましょうか。いちじくという木を見ていると、その葉が伸びると夏の近づいたことが分かる。その時代にあって、その土地の人たちが当たり前のこととして知っている、その自然の様子のことをイエス様はお話しされます。

 

 自然の様子がそうであるように、このようになれば次に何が起こるか、そのことを植物の様子から知ることができます。それと同じようにと言われます。ときというものは、まるで自然が移り変わる、自然の食物やその気候が移り変わる、それと同じように、ときというものは移り変わっていく。

 

 そして、その時代の中で起こる出来事を見るときにも、その出来事を見るときに、次にどのようなことが起こるか、そういうことをわたしたちは察することができる、と言われるのです。ここでイエス様は、「人の子が戸口に近づいている」とおっしゃいました。

 

 これはどういう意味でありましょうか。「人の子」という、このちょっと不思議な言葉は、旧約聖書のダニエル書に出てくる言葉であります。それは「来るべき救い主」という意味であり、神様がこの地上に送って下さる救い主、その救い主が本当にこの世界にやってくる。

 そのことは聖書の教えの中で「再臨」と言われています。イエス・キリストが救い主であり、そのイエス様が十字架にかけられて死なれ、3日後によみがえられ、そして天に上げられた。そのイエス様がもう一度、このわたしたちの世界にやってこられる。それを「再臨」、再び臨む、という漢字を書いて再臨というのでありますが、そのことが今日の箇所で言われています。

 もう一度、イエス様がやってくるとき。それはどういうときであるか。それは、わたしたちが生きているこの世界というものが、かつて神様に創造されて作られたこの世界が、その役割を果たし終えるときがやってくる。すなわち、世の終わりというものがやってくるというのです。

 しかし、その世の終わりということは、ただこの世というものが滅亡していく、滅んでいくというだけのことではなくて、この世界が役割を果たし終えて、本当の「神の国」というものが、この今の世界に代わって現れるというのが、その再臨ということの意味なのですね。

 ですから、それは恐ろしいときという意味ではなく、本当の神様の恵みが満ち満ちている神の国というものが、いまわたしたちが生きている世界に代わって新しく現れるという、恵みの時であることを指しています。

 

 しかし、その神の国が到来するときには、いま生きている世界にあっても大変なことが起こるということをイエス様はおっしゃっているのです。いちじくの木が、その葉が伸びると夏の近づいたことが分かるように、その時の変化というものの中で、「時が満ちる」という表現をイエス様はされるのです。

 時が満ちると、神の国が到来する。そのことをここでおっしゃってるのであります。人の子が戸口に近づいている。再臨のときが近づいている。そうしたことを、この世界の移り変わりの様子の中で感じ取ることができるとおっしゃってるのですね。

 そして30節ではこう言われます。「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

 

 ここでおっしゃっている、これらのことというのは、今日の箇所の前の所、マルコによる福音書13章3節以降にある様々なこと、世の終わり、終末と呼ばれるときに起こる出来事のことを指しています。そこに書かれているような、様々な大変なことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない、天地は滅びるがわたしの言葉は決して滅びない、と言われます。

 

 わたしたちがいま生きている、この地上の世界というものは、いつか滅びる。しかし、イエス様の言葉、すなわち神の言葉は決して滅びない、と言われるのであります。だから、その決して滅びない神の言葉を信じ、その神の言葉にわたしたちが信頼しているならば、わたしたちはこの世界が滅びるときに一緒に滅びてしまうのではなくて、新しい神の国に迎えられていく。そうした恵みの出来事が起こる、ということが告げられているのであります。

 そして次に32節。
 「その日その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である」と言われます。その日その時、その終末というものが来るとき、それは誰も知らないと言います。神様に造られた天使も知らない。イエス様ご自身も知らない。天におられる神様だけがご存知である。そのように言われます。

 

 だから、33節にあるように「気をつけて目を覚ましていなさい。そのときがいつなのか、あなたがたには分からないからである。それはちょうど家を後に旅に出る人が、しもべたちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと言いつけておくようなものだ」と言われます。

 

 非常に具体的なたとえですね。家を後に旅に出る人が、主人がこのしもべたちに仕事を割り当てて責任を持たせ、そして門番には目を覚ましているようにと言いつけておくようなものだというのですね。その主人がいつこの家に帰ってくるか分からないというのです。だから、いつ家の主人が帰ってきてもいいように、ちゃんと仕事をして、しっかり生活をしている、そういうことが求められているというのです。

 35節。「だから目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰ってくるのか、夕方か夜中か、鶏の泣く頃か明け方か、あなたがたには分からないからである。」

 当時、いわゆる時計というものがなかった時代に人々は、鶏が鳴いたら何時ごろだとか、太陽が沈んだら何時だ、太陽が上がるのは何時だ、今の季節ならそれが何時であるか、ということを、自然の移り変わりを見ながら時を判断していたのですね。

 さっきの聖書の箇所でいちじくの木から学ぶ、枝が柔らかくなり葉が伸びる、ということが書いてあって、そこにはですね。その時代の人たちが、どうやってその時の移り変わりというものを判断していたか、ということがよく分かるように書かれています。

 そして、その時の移り変わりの中で、いつその神様の御心が現れるか、それはわたしたちには分からないのだから、いつその時が来てもいいように、日々神様を信頼して自分の生活を着実に立てていくことが言われています。

 36節。「主人が突然帰ってきて、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。」

 これは他の箇所でイエス様がたとえ話としてなさっていることでありますけれども、いつ主人が帰ってくるかわからない、そのことが分からないで眠りほうけてしまって、主人に会うことができない、お祝いの席に間に合わない、そうした人たちのことが言われているイエス様のたとえ話があります。

あなたたちもそうなってはいけないよ、ということが言われてるのですね。

 そして最後に37節。「あなたがたに言うことは全ての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」今日の箇所の話は13章の最初の所から始まっていて、13章3節ではペトロ、ヤコブヨハネ、アンデレがイエス様に尋ねて、それにお答えするという形で語られています。ですから、この話を聞いているのは四人の弟子たちだけなのです。けれども、その四人だけが知っていればいい、ということではなくて、これは全ての人に言うのだ、目を覚ましていなさい、という言葉で終わっているのですね。

 そしてイエス様がこう言われた通り、まさに「全ての人に」と今日のこの聖書の言葉で言われてから2000年後の今、この教会でわたしたちはイエス様の言葉を聞いているわけであります。

 今日の箇所の言葉を聞いて、皆様は何を思われたでありましょうか。今日の箇所は13章3節から始まっている一連の話の締めくくりになっています。今までに礼拝でこの箇所を読むときに、皆様方と共にえ学んできましたことを、ごくかいつまんで申し上げます。

 今日の箇所は、もう大変な、読んでいてドキドするような未来の予言といいますか、将来のことというのが語られている所であります。読み方によっては、本当に恐ろしいことが言われてるのですね。

未来に世の終わりがやってくる。終末がやってくる。大変なことがやってくるんだと。そういうふうに読むことができます。そうした読み方は間違いではないのです。

 けれども、読み方に気をつけなければなりません。というのは、これが単に、この世界がいつか滅びていくのだ、という不安をあおり立てるだけの読み方をするならば、それは非常に害があるということなのです。

 様々な新興宗教であったり、いわゆるオカルト的な考え方————オカルトというのは、神秘的な、とか超自然的な、という意味だそうですけれども、ちょっと悪い言い方をすれば、ちょっと非科学的な、というふうに言ってもいいと思うのですが、何ら科学に根拠を持たない所で、この世界の終わりということが恐ろしいこととして言われ、人々の不安をあおり立てることが問題なのです。

 やがて世界の終わりがやってくるのだから、何々をしなければいけません、と言って人々を脅してですね、それで人々を宗教に入らせたり、あるいは脅してお金を出させたり、あるいは世界のいろんなことを勝手に解釈をして、自分たちだけが救われるかのように言ってみたり。

 

 そんなふうな恐ろしいことをする、そういうことというものが、この世界の歴史の中で何度も何度も繰り返されてきたのですね。それは、聖書の中のヨハネの黙示録であったり、イエス様が語られる今日の箇所は、小さな黙示録という意味で「小黙示録」と呼ばれることもあるのですが、こうした聖書の言葉が、悪い意味で利用されることによって、たとえば「世紀末」というようなときにですね。

人の心を不安にする形で繰り返し用いられてきました。

 現代にあって、こうした箇所を読むときに、わたしたちはそうした単に人の不安をあおり立てるだけの読み方は害でしかない、ということを、はっきり言わなければならない。認識しなければならないと私は考えています。

 

 今日の聖書の箇所もそうでありますけれども、このマルコによる福音書13章に書かれていることというのは、まず何を元にして言われているかと言いますと、これは歴史的な研究が明らかにしたことでありますけれども、この箇所は紀元後70年に起こったユダヤ戦争という実際に起こった戦争のことを下敷きにして語られているということであります。

 それはローマ帝国イスラエル、つまりユダヤの国が真っ向からぶつかって戦争し、そしてローマ帝国の圧倒的な軍事力によってイスラエルの国が崩壊し神殿が崩壊し、そして国の民が散り散りバラバラにされていった、その悲劇的な本当に大きな戦争というものがあった、その悲惨な記憶というものを下敷きにして書かれているということなのですね。

 マルコによる福音書が、今の福音書の形で成立したのは紀元70年以降と考えられています。それは、ユダヤ戦争が起こった後に、こうした今ある福音書の形で書かれたということです。つまりこの福音書は、イエス様のお話として書かれているのだけれども、そのイエス様のお話は、まさにイエス様がおっしゃっていた通りに、ユダヤ戦争という本当に悲惨な出来事が起こったことを示しています。

 そして、この福音書を読む人に、そのユダヤ戦争の記憶を呼び起こさせつつ、そのように大変な戦争が起こって国が滅び、人々はみんなバラバラにされていった、しかし、それで世の終わりが来たのではなかった、ということを伝えているのですね。

 それほどの恐ろしい戦争、もう国が滅びて無くなるほどの、たくさんの人の命が奪われる戦争、それほどの大変なことがあった、しかし、それで世の終わりが来たわけではなかった、ということを思い起こしなさい、ということを言っているのですね。

 そして、いつか本当に神の国が現れるときには、世の終わりということがやってくる。そのときには、あのユダヤ戦争のときに起こったようなほどの、恐ろしいことが起こる可能性があると。それだけではありません。イエス様のお話の中には、天変地異である自然災害のことも言われています。

 13章7節ではこんなふうに言われています。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いてもあわててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。」

 

 地震がある、飢饉が起こる。つまり、戦争だけではないのですね。自然災害も起こる。また疫病、そうしたことを含めてもいいかもしれません。また政治的な抑圧、専制国家による抑圧、そうしたことも含めて、世界には悲惨なことが起こり得るのだとイエス様はおっしゃっているのですね。

 しかし、そうした悲惨なことが起こるから、それで世の終わりが来るのではない、ということをイエス様ははっきりおっしゃっているのです。そうしたことは世の中には繰り返し起こるからなのです。

そうしたことは世の中に繰り返し起こるだから、そのときに気をつけなさい、とおっしゃっているのですね。

 

 ここでは、繰り返し繰り返し悲惨なことを経験してきた、人類の歴史ということを思い浮かべながら、今日の所を読む必要があるのですね。何か特定の大変なことが起こったから、終末というものがやってくるわけではないのです。そうしたことは繰り返し繰り返し起こる。しかし、その中にあって神様の言葉、聖書の言葉、イエス様の言葉に信頼し、希望を持って行くときに、その次の世界があるわけなのです。

 そして、そうしたことの繰り返しの中で、いつか本当に神の国というものが、そのときには本当にこのわたしたちが生きている今のこの世界というものが役割を果たし終えて、そして恵みに満ちた神の国が到来する、そのときに、イエス様がもう一度来て下さって、全ての人間が神様の前に立ち、そしてそのときには、全てのことが神様によって裁かれる、と聖書は教えています。

 その裁きというものは、全てのことを明らかにするという意味なのですね。全ての人が経験してきた、その悲しみ、苦しみというものが明らかにされ、そして、その中で一人ひとり、神様の前で罪のゆるしということを受けることができる。もちろん、その中にあって神様の裁きというものの厳しさも現れるのです。

 しかし、それは単に恐ろしいことが起こるという、何かそういうことを言っているのではなくて、そのことを通して神様の恵みがこの世界の全てに現されていくのだと、そういうことなのですね。

 ですから、教会において今日のような聖書の箇所、イエス様のお話を聞く時には、それは恐ろしい話として聞くのではなく、世の中には恐ろしいことがいくらでも起こるけれども、それで世の中が終わるのではなく、その次の所で、神様ご自身が定めた時、その時がやってくるだから、その本当の意味での世の終わり、神様の恵みの到来の時期を待ち望んで、わたしたちは生きていく。

 その、生きることの確信というものを、わたしたちはしっかりと持っていきたい。そのように願うのであります。

 わたしは、今日の聖書箇所を読みながら、今年の1月1日のことを思い出していました。今年の1月1日に京都南部地区主催の新年合同賛美礼拝というものが同志社女子大学の中にある栄光館という会場で行われました。そこでは、毎年1月1日にその新年の礼拝というものをしています。今年はその説教者にわたしが選ばれて、礼拝説教をいたしました。

 そこでの礼拝説教をする中で、わたしはもう12年前のことですが、東日本大震災のときのことを思い起こしながら、少しエピソードを語り、また聖書のお話を語りました。

 その中にあってわたしがお話したのは、ごく短くかいつまんで言いますと、東日本大震災が起こったとき、本当に悲惨な耐えがたい苦しみの日にあって、わたしの知人の息子さんが、苦労して第一志望だった大学に合格したという、そのニュースを聞いたということです。

 そのときに、この同じ一日の中で、一方でものすごく絶望するニュースを聞きながら、一方でものすごく希望を持つニュースも聞いた、そのときにわたしは自分の心が混乱すると言いますかね、いま私どうしたらいいのだろう、何を考えたらいいのだろうか、とすごく迷ったという、そういう自分の経験をお話したのですね。

 そのときに、わたしたちが生きている、この一日という、この一日の中では、ものすごく悲しいこと、ものすごくうれしいことも同時に起こる。その一日というものを生きている。その中にあって、すごく悲しいことも、すごくうれしいことも、両方を大事にして生きる、ということが大事なんだと。そういう、もう本当に短くかいつまんで言えば、そういうお話を、聖書を通してですね、イエス様の言葉を通して、させていただいたのです。

 その新年合同賛美礼拝が2時からあって、3時過ぎに終わったのですけけれども、そのあと、わたしは京北教会に帰ってきました。その後、夕方4時頃に、教会の建物が揺れました。地震が起こったのだろうか、と思ってその後テレビを見ますと、能登半島地震が起こりました。そのときにわたし、やっぱりショックを受けたのですね。

 ついさっき、東日本大震災の話を、みんなと一緒にいる礼拝の中でお話をした、そのあと本当に、と言うと変な言い方ですけれども、本当に悲惨な大きな地震がまた起こってしまった。そのときに本当に思ったのですが、わたしが礼拝の中で、あの過去の震災の話をしたということは、どういう意味を持っていたのだろうか、と思いました。

 何かすごく自分の中で何かびっくりしてしまった、と言いますかね、そういう思いになったのです

けれども、そのときにわたしはつくづく思わされたのは、礼拝することの意味というのは、何かそれは過去にあったことを思い起こす、という、これはすごく大事なことなのですね。

 よく考えてみると、聖書を読むこともです。聖書に書かれていることは、2,000年前とか、あるいはもっと昔の旧約聖書の文章もありますね。そうした昔々の言葉というものを読みながら、かつてあったことを思い起こし、そして、その中にある神様のメッセージというものを読み取って、今これから、今日明日を生きていこう、というのが礼拝の意味なのですよね。

 

 だから本当に、わたしが礼拝の中で、過去の震災を語ったこと、それは何かこれから起こることをある意味予言していた、ということではないのです。何か予知とか予言とか、そんなことはしていない。そうではなくて、過去のことを思い起こすことによって、これからを生きていく備えをする。

 

 いつどんなことが起こっても、神様を信頼して生きていく。そのために礼拝というものがあるのではないのか、ということわたしは本当に痛感したのですね。そのことを、今日の聖書の箇所を読むときにも思うのです。

 

 イスラエルの人たちは、過去のユダヤ戦争という本当に耐えられない苦しみということを、その前に語られたイエス様の色々なお話と重ねることによって、自分の心にしっかりと受け止めました。

 この現代を生きているわたしたちもまたですね、過去のことを聖書の言葉に重ねながら、現実のことを重ねながら、しかし、これは単なる過去のことではない、今日、明日を生きていくわたしたちへのメッセージなのだと、本当に深く深く受け取っていきたいと、そのことを思うのです。

 

 今日の説教の題は「天来の道に備えて」と題しました。今日の聖書に書かれてある言葉は、将来の恐ろしい話の予言ではありません。そうではなくて神様が備えてくださる「神の国」に至る道、天の導きによって備えられている、これからの道がここで示されているのであります。

 

 その天来の道が、わたしたちの目の前に、これから続いていくのです。その道で何が起こるかは、わたしたちは分かりません。知りません。しかし、そこにイエス様がおられて、全てのことを導いてくださるということを信じることができるのです。

 お祈りをいたします。

 天の神様、わたしたち一人ひとりを守り導いてください。今日ここに集えなかった方々も、インターネットで説教を聞いている方々も、なかなか礼拝でお会いできない方々も、施設におられる方々も、遠方におられる方々も、そして、もうすでに天に召されてわたしたちを見守ってくださっている方々も、みんなつながりながら、この世界の平和を望み、そして希望を持って、この世界を神様の御心にかなうものとしていくことができますように導いてください。
 この祈りを、感謝して主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。

 アーメン。