京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2024年4月の説教

2024年4月7日(日)、4月14日(日)、4月21日(日)
 京北教会 礼拝説教

 

「救われながらの出発」

 2024年4月7日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  ルカによる福音書 24章 28〜35節 (新共同訳)

 

 一行は目指す村に近づいたが、

 イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 

 

 二人が、
  「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、

  もう日も傾いていますから」


  と言って、無理に引き止めたので、

 イエスは共に泊まるため家に入られた。

 

  一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、

  賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 

  すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 

 二人は、
  「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、

 わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

  そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、
  十一人とその仲間が集まって、 

 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 

 二人も、道で起こったことや、
 パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、

   改行などの文章配置を説教者が変えています)

 

…………………………………………………………………………………………………………………

 

 (以下、礼拝説教)  

 

 先週の日曜日にイースター、復活日の礼拝を迎えました。

 

 イエス様が復活なされたという、福音書に記されている、またパウロの手紙などに記されている、またそのほかの新約聖書の文書に書かれている、その本当に不思議なことをめぐって、わたしたちは神様に招かれ、共に礼拝し、聖書の御言葉を聞きました。

 

 イエス様が、わたしたちのためによみがえってくださった。そして、わたしたちのもとに来てくださった。聖書に書かれている、その本当に不思議なことについて、わたしたちははそのことに半信半疑で、あるいは疑いながら、あるいはもう何とも言えない気持ちで、受け取るときもあるかもしれません。

 

 しかし、わたしたちの思いがどうであれ、聖書には復活が書いてあります。そして、そのメッセージが、常に教会では語られています。その前でわたしたち一人ひとりが、どんなふうにそのイエス様からの招きに答えていくのかは、それぞれに考えていきたいと思います。

 

 今日は、イースターの次の日曜日の礼拝として、イエス様の復活に関わる箇所を選ばせていただきました。朗読しました箇所は28節以降でありますが、その前の13節のところからずっと続いている、少し長い話であります。前半の13節以降のところを簡単に見ていきます。

 

 イエス様が十字架にかけられて死なれ、そして、その三日後に復活なされた、その日のこととして書かれています。

 

 二人の弟子が、都エルサレムから遠く離れたエマオという村へ向かって歩きながら、イエス様が十字架にかけられ、そしてそのあと、イエス様が復活されたという話を聞いたという、そうしたこの一連の出来事について、話し合って論じ合いながら歩いているときです。

 

 そこに、イエス様ご自身が近づいてきて一緒に歩き始められた、という本当に不思議なことが書かれています。しかし、「二人の目はさえぎられていてイエスだとは分からなかった」とありますから、これまた不思議なことです。

 一体どのようなことが起こっていたのか、わたしたちには想像がつきかねますが、とにかく、ここで歩いていた二人の所に一人の人がやってきて一緒に歩いてくれた、しかし、その人が誰であるかが分からなかったというのですね。

 「そしてイエスは『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。そして、その弟子の一人のクレオパという人が言います。「エルサレムに滞在していながら、この数日、そこで起ったことをあなただけはご存知なかったのですか。」

 イエスが「どんなことですか」と言われると二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は神と民全体の前で行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのにわたしたちの祭司長たちや議員たちは死刑にするため引き渡して十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。

 

 しかも、そのことがあってからもう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが遺体を見つけずに戻ってきました。そして天使たちが現れ、イエスは生きておられると告げたというのです。何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言った通りで、あの方は見当たりませんでした。」

 

 ここまでにあるこの弟子たちの言葉、ここには、この二人の弟子がイエス様という方をどんなふうに思っていたか、ということがよく表されています。

 

 イエス様という方は、「神と民全体の前で行いにも言葉にも力のある預言者でした」と彼らは言います。預言者というのは、預かる言葉の者と書く言葉です。これは、神様の言葉を預かって人に伝える人、という意味です。

 

 現代のわたしたちが、その言葉を耳で聞いて想像するような、将来のことを予知する人、そういう予言者という意味ではなく、神様の言葉を預かって語る、そういう意味の預言者です。

 

 そのようにイエス様というのは、そういう力がある預言者だと自分たちは思っていたのに、当時の宗教的な権力者たちが、イエス様を死刑にするためにローマ帝国に引き渡して十字架につけたと言います。

 

 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると、当時ローマ帝国の植民地にされていた自分たちのこの祖国、愛する自分の、わたしたちの国を解放してくださると望みをかけていました、しかし、そのイエス様は十字架にかけられて死んでしまったというのです。

 さらに、そのことがあってから、もう今日で三日目になるのですが、その仲間の女性たちがわたしたちを驚かせたのは、朝早く墓に行ったが遺体を見つけずに戻ってきた。そして、天使たちがイエスは生きておられると告げたとのことで、仲間が墓に行ったら、なきがらがなかったと、そういうことをそのままに弟子たちは語るのでありました。

 

 こんなことがあったのですよ、と弟子たちは彼らの知っている限りでの、事実関係、事実というものを語ってるわけです。これこれ、これこれ、こういうことでしたと、あなたはそんなことも知らなかったのですか、というふうに、この二人の弟子は、このときに自分たちに寄り添って歩いてきた、それが誰だか分からない一人の人に対して、知っている事実を説明したのでありました。

 

それに対してイエス様は答えられます。

 「ああ、物分かりが悪く心が鈍く、預言者たちの言ったこと全てを信じられないものたちメシアはこういう苦しみを受けて栄光に入るはずだったのではないか。」

 メシアというのは、救い主という意味の言葉です。救い主、それはこのわたしたちが生きている世界全体を救ってくださる主です。救いの中心と言ったらいいでしょうか。この世界全体の救いの中心、あるいは、その全体をその救ってくださる主と言っていいと思います。

 

 救い主はこういう苦しみを受けて、つまり死の苦しみを受けて栄光に入るはずだったのではないかと言われます。そして、モーセと全ての預言者から初めて聖書全体に渡りご自分について書かれていることを説明された。そこまでが、今日の礼拝で朗読した聖書箇所に入る前のところであります。

 

 こうしてイエス様ご自身に対して、「イエスがどんな方であるか」という、そのことについて弟子たちが知っている事実関係を、ずっと説明したその相手から、イエスとは本当はどういう方であるか、ということを、イエス様ご本人から弟子たちが聞いた。いうそういう場面ですね。

 

 そして、その後28節からが今日の箇所です。

 「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

 

 一緒に席についたとき、イエスはパンを取り賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」とあります。

 

 ここでまた本当に不思議なことが起こりました。この二人の弟子は、こうして自分たちに近づいてきた、ある一人の人が、とてもよくいろんなことを教えてくれたので、一緒にお泊まりくださいと言いました。

 

 そして無理に引き止めて、一緒に食事をしたときに、パンを取り、祈りを唱えて、パンを裂いてお渡しになったというときに、それは弟子たちにとって、イエス様が十字架にかけられる前、つまり捕らえられる前に、今のわたしたちで言えば聖餐式にあたる、パン裂きをしてくださった、その様子を見て、「あ、この人はイエス様だ」と分かったと言うのですね。

 それまで、いくらイエス様の言葉を聞いてお話を聞いても、その人がイエス様とは分からなかったのに、パンを裂くときに、そのときに、「あ、この人はイエス様だ」と分かった。

 言葉では分からなかったこと、理屈では分からなかったことが、パン裂きによって分かった、ということです。ここにイエス様がおられると分かった瞬間、二人の目が開き、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなったとあります。

 

 「目が開けた」と書いているのに、その姿は見えなくなったとありますから、不思議です。普通、目が開けたらはっきり見えるようになって、そこにイエス様がいるのが分かったという、そういうことではないのでしょうか。

 しかし、そうではなかった。それは、一瞬分かって、そしてイエス様の姿が見えなくなった。そういうことでありましょうか。

 

 そのあとにこうあります。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

 イエス様がいなくなって初めて、自分たちが、この二人の弟子が、イエス様と一緒に歩く道の中で、お互いがどんなふうに思っていたか、ということを語り合えたのですね。イエス様がいなくなって初めて、「わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

 そうなのです。弟子たちはイエス様の言葉を聞いているときに、もうすでに励まされ、力づけられ、心は燃えていたのです。旧約聖書の言葉をイエス様が引用しながら、救い主はこういう苦しみを受けて栄光に入るのだった、という話を聞いたときに、弟子たちの心は燃やされていたのです。

 

 しかし、イエス様は十字架で死んだ、というそのことを強く心に思っていたがために、自分たちは心が燃えているということを、語り合うことができなかったのです。イエス様がいなくなって初めて、実はわたしはこう思っていたのだ、いや、俺もなんだ、と言って弟たちは語り合った。

 「ときを経ず出発してエルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活してシモンに現れたと言っていた。二人も道で起ったことやパンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」

 

 こうして今日の箇所は終わります。今日の箇所を読んで皆様は何を思われますでしょうか。

 

 物語としては本当に不思議です。一体なぜこんなふうに話が進行していくのでしょうか。イエス様が近づいてきたけれども、イエス様とは分からなかったとか、目が開けたけれど、もうそれでイエス様が見えなくなったとか、何かこのおかしな感じ、事実とは思えない妙な感じというのでしょうか。

 

 不思議な展開。これは一体どういうことだろうかと思います。今日の箇所全体を読んで、わたし自身が思うこととしましては、これは聖餐式ということの大切さを語っているのではないか、ということですね。

 

 言葉で、理屈で、聖書を通していくら語られたって、そこにイエス様がいることは分からなかった。しかし、心は燃えていた。心は燃えていた。しかし、その心が燃えているということを、自分の口に出すことはできなかった。

 

 その二人の弟子たちに対して、パンが裂かれて渡された。それは、イエス様が「わたしを記念しなさい」と言ってパンを裂いて弟子たちに渡された、そのことと同じでした。そうして聖餐式のパンを渡されたときに、「あ、ここに本当にイエス様がおられる」と分かった。そのときに、目の前にイエス様がもういる必要がなくなった、ということを、ここで言っているのではないでしょうか。

 

 イエス様は復活なされて40日後に天に上げられました。つまり、目の前からイエス様が消えました。それは現代のわたしたちにとってもそうなのです。つまり目の前にイエス様はいません。目に見える形で、イエス様が復活なされた証拠なんて一つもありません。

 

 けれども、それでいいのです。目の前にパンとぶどう酒があるから、「わたしを記念しなさい」と言って、これがわたしの体、これがわたしの血潮、と言って渡してくださったパンとぶどう酒。

 この京北教会ではぶどう酒でなくてぶどうの果汁を使っていますが、それを渡されたときに、そこにイエス様がおられる、それでいいのだと。そして、そのパンを食べて、ぶどう酒を飲んだときに二人は、あのときイエス様の言葉を聞いたときに、「わたしたちの心は燃えていたではないか」と自分の口に出すことができるようになったのですね。

 ですから、イエス様の言葉を聞くだけでは表せなかった、自分の思い、自分の信仰、それも復活の信仰ということを、この聖餐式を通して、口に出すことができるようになった、ということを示している、そういう物語であろうかとわたしは考えてみました。

 

 皆様はいかがでしょうか。そして、わたしがこの話を読みながら思いましたのは、そうした聖餐ということの大切さというだけではありません。いや実は、この聖餐の大事さを言っている、という解釈というのは、これはある意味で牧師的な解釈なんですね。

 

 それは、どういうことかと言いますと、聖書に書いてあることが、いかに教会の行事と深い関係があって、教会でやっている聖餐式はこんなに大事なのですよ、と説明するのが牧師の仕事だということです。

 

 ですから、こうした聖書箇所を読むときにも、これは聖餐式の意味を語っています、というふうに言うのが、やっぱり牧師であるわたしの立場だろうと思って、こういうことを申し上げるわけであります。

 

 それは嘘ではありません。しかし一方で、それと同時にですね、牧師であると同時に一人の人として、わたしとして聖書を読むときに、もちろんそれは自分が牧師であるということと一体のことなのですけれども、単にその教会の聖餐式は大事だよ、という話としてだけでは読めません。

 

 それよりも、と言っていいのかどうか分かりませんけれども、わたし自身の心に響くのは今日の話というのは、敗北した人間の話であるっていうことなんですね。

 ここで二人の弟子たちは言っています。イエスは、「神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者で、わたしたちはあの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」と言うのですね。

 

 それは、弟子たちの思い込みであったわけですけれども、ローマに支配されて抑圧されている自分たちのこの国を、イエス様が先頭に立たれるときに、イエス様が本当の王様になってくださってローマ帝国を打ちまかして独立するのだと、弟子たちはその願いをイエス様に対して持っていました。

 

 しかし、突然イエス様は捕らえられて、十字架に架けられて死なれた。そして、その十字架の死の直前に、人々は、もしかしたら神様がイエス様を助けに来るのではないか、そしてイエス様が十字架から降りてくるのではないかと、もしイエスが本当に神の子だったら、そんな奇跡が起こるのではないかと興味津々で見守っていたというのであります。

 

 ひどい話ですね。自分たちが希望をかけていたイエスならば、きっとわたしたちの国を大きく強くしてくれるはずと信じていた。ところが捕らえられてしまった。

 

 そんなはずがないだろう、イエス様は神の子なのだから、絶対に奇跡が起こるはずだ、と待っていた。しかし、奇跡は起こらなかった。イエス様は十字架の上で死なれました。

 

 奇跡は起こらなかったのです。そして墓に葬られたのでありました。そして、自分たちが信じていた希望というものが本当に終わってしまい、全く無くなってしまった弟子たちの本当の姿が現れました。それは単に失望というような言葉では表せない、大変な出来事だったと思います。

 

 ですから、今日の箇所において二人の弟子たちが語り合いながら、このエマオという村へ向かっているときに、それは何と言ったらいいのでしょうか。自分たちが願っていたことが全然実現しなくて、現実はその正反対だった、ということについて、つまり自分たちは敗北した、ということについて語り合ってきたわけであります。負け戦の帰り道です。惨めなものです。何のためにその敗北の道を彼らは歩いているのでしょうか。

 

 その道すがらに、よく分からない一人の人が近づいてきて「何があったのですか」と聞いてきます。この都であったこと、イエスの十字架の死の出来事も知らないという、何という世間知らずかとあきれながら、二人の弟子たちは自分たちの思いを告白していきます。

 

 その告白をする中に、自分たちが告白している言葉そのものが、自分たちはイエスを本当には理解していなかった、つまり、神様から遣わされた救い主だとは信じていなかった、という自分たちの思い違いが、彼ら自身の言葉で明らかにされていきます。

 

 その不信仰な弟子たちの言葉を聞いて、イエス様から改めて聖書のお話があります。そしてイエス様は自ら、聖餐式、現代のわたしたちで言えば聖餐式にあたる、パン裂きをしてくださいました。理屈じゃなくて、このわたし自身を、パンとぶどう酒としてあなたたちに与える、ということをイエス様がしてくださったときに初めて、弟子たちは目が開けたのです。

 

 そのときにこそ、イエス様の復活というのはこういうことだ、ということを実感できたのでありました。イエス様の復活ということは、何かに対して勝利した人に起こることではなくて、大きな敗北を喫してどうしようもなくなってしまった人たちに起こった出来事なのです。

 

 一生懸命に頑張って、努力して、努力して、神様にほめていただいて、神様から「お前はよくやった。だからお前に復活を与えよう」と言われて、復活が与えられるのではありません。

 自分が思っている、神への信仰すら打ち砕かれてしまった。イエスの十字架の死という形で、神への信仰すら打ち砕かれてしまった者たちに、イエスの復活ということが与えられるのです。そして、そのときから新しく生き直すことができるのですね。これは、すごいことではありませんか。

 わたしたちはこの現代の21世紀の世界の中に生きていますので、いろんな情報があります。世界の問題があります。宗教について、歴史について、政治について、いろんなことがわたしたちの頭の中に入ってきます。

 その中でどうでしょうか。イエス・キリストの復活は、どんな意味を持っていますか。どう受け止めますか。その問いの前で、わたしたちはやはり困惑し、悩み、だんだんと口ごもっていくのかもしれません。世界で何が起こっているか、宗教があるからこんな戦争が起こっているのだ、と言われたら何も言えなくて、下を向いてしまうかもしれません。復活なんて……。そんなふうな気持ちになるかもしれません。

 けれども、今日の聖書箇所を読むときにはっきりと分かります。そうやって、もうダメだと言って敗北していく人間の所にイエス様がやってきて、復活を確かに示してくださるのです。復活というのはそういうことなのです。イエス様の復活によって、この二人の弟子は、救われながら新しい出発をしたのです。

 その出発というのは、最初の目的地だったエマオの村に向かうことではなくて、元いたところに帰るということだったのです。そして元の仲間ともう一度出会う、ということだったのです。敗北した人間が、そこから逃れるために行こうとしていた道から、その反対の方向に帰っていく。イエス様の復活というのは、そうして一人ひとりを呼び戻していく力なのであります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、わたしたち一人ひとりを、どうぞ愛して守り導いてください。本当に弱い人間一人ひとりが、神様によって愛されてこの世界を生きている、その事実に心から感謝をいたします。世界中に起きている問題は、わたしたち人間の手に負えません。解決をしたくても解決をしようとする者同士でケンカをして何もできないような、本当に罪深い世界の現実があります。その中にあってわたしたちは神様に助けを請い願います。そして、わたしたちは一人ひとり、あなたから与えられた使命を持って与えられた人生を歩み、その中で隣人を愛し、神様を愛し、いろんな人とつながって、楽しく喜んで平和を作り出して生きることができますように、どうぞお導きください。一人ひとりに復活のイエス様が共にいてください。

 この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前におささげいたします。

 アーメン。

 

 

 

「あなたが我々を励ます」

 2024年4月14日(日)京北教会 礼拝説教

 聖書  テサロニケの信徒への手紙一 3章 6〜13節 (新共同訳)


 ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、

 あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。

 

 また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えていてくれること、

 更に、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、

 あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。 

 

 それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、

 あなたがたの信仰によって励まされました。

 

 あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、

 今、わたしたちは生きていると言えるからです。

 

 わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。

 この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。

 顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、

 夜も昼も切に祈っています。

 どうか、わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエスとが、
 わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように。 

 

 どうか、主があなたがたを、お互いの愛と全ての人への愛とで、

 豊かに満ちあふれさせてくださいますように、

 わたしたちがあなたがを愛しているように。

 

 そして、わたしたちの主イエスが、

 御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、

 あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、

 聖なる非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。

 

 

    (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
  改行などの文章配置を説教者が変えています。
     新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

…………………………………………………………………………………………………………………

 

 (以下、礼拝説教)  

 

 3月の31日に教会はイースター復活日の礼拝を行いました。主イエス・キリストが十字架の死の後に3日の後によみがえられ、天に上げられ、そして今イエス様を主と信じる一人ひとりの所に来て下さっている。そのイエス・キリストの復活を記念することが、イースター礼拝の意味であります。

 

 そしてイースターと4月7日の2回にかけて、イエス様の復活についての聖書の箇所を皆様と共に読みました。そして今日からは、それ以前からの礼拝での聖書の読み方に戻していきます。つまり、福音書、そして使徒パウロの手紙、そして旧約聖書、その三箇所を順番に毎週読んでいく形であります。

 

 今日の聖書の箇所はパウロの手紙であります。テサロニケの信徒への手紙一の13章6節からです。テサロニケとは当時の地中海沿岸にあった一つの町の名前で、その町にはパウロや様々な伝道者がイエス・キリストの福音、良き知らせを宣べ伝えて教会が建てられていました。

 

 そのテサロニケという町に立てられた教会の人たちに向けて、使徒であるパウロが手紙を書きました。その手紙の一部分であります。パウロにとってこのテサロニケの教会の人たというのは大変親しい関係でありました。

 

 パウロ自身が各地を旅する中でこのテサロニケの町においてとまってこの町の人たちにイエス・キリストのことを述べ伝えその言葉を聞いてイエス様を自分の救い主自分を救ってくださる主自分の救いの中心に立ってくださる方として受け入れた信じたそういう人たちがこのテサロニケの教会に集っていたからであります。

 

 そしてパウロはこのテサロニケの教会に行こうと行きたいと思っておりましたが、様々な事情で阻まれてなかなか行けなかったそういう困難な時があったということが今の箇所の前のところに書いてあります。

 

 そこでパウロ自身がそのテサロニケの教会に行くことができないので自分たちの仲間であるテモテという人を使わしたそしてそのテモテという人がこのテサロニケの教会にやってきてみんながどんな風にしているかっていう様子をえ帰ってきてパウロに伝えてくれた。

 

 すると、その知らせは大変うれしいものであって、パウロがなかなか行くことはできないけどもその教会の皆さんがえみんなパウロのことを覚えていてイエス・キリストへの信仰を持って毎日を充実して生きているそしてみんなで教会をしっかり守って礼拝をしいるそういう様子を聞いたそういう嬉しい知らせを聞いたっていうことをパウロはとても喜んでいるのです。そのことを書いているのが今日の箇所なのです。

 

 順番に見ていきます。

 6節「ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。また、あなた方がいつも好意を持ってわたしたちを覚えていてくれること、更に、わたしたちがあなた方にぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。」

 

 いま申し上げましたように、なかなか会えない関係である、このパウロとテサロニケ教会の人たちの間には深いきずながもうできていたのです。会えないけれども会いたい、そのときを待っている。そういう思いでパウロも教会の人たちも、両方が思っているということがよく分かったのです。

 

 そして7節でパウロはこう言います。

 「それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらもあなた方の信仰によって励まされました。あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今わたしたちは生きていると言えるからです。わたしたちは、神の御前で、あなた方のことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神に献げたらよいでしょうか。顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。」

 

 ここに書いてあるパウロの言葉は、テサロニケの教会の人たちに対する、もう絶賛の言葉ですね。「あなたたちは素晴らしい!」ということを、本当にもう感極まったような感じで、パウロが手紙に書いているわけであります。ものすごく大きな喜びを持ってるのですね。それぐらいにパウロは、このテサロニケ教会の人たちのことが、とても好きだったのです。

 

 会いたい、会いたい。そして、その教会の人たちに何か必要なものがあれば、それを補いたいと夜も昼も切に祈っていますといいます。24時間いつも思っていますということを言っているわけです。

 

そして次に11節ではこう言います。

 「どうか、わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエスとが、わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように。どうか、主があなたがたを、お互いの愛と全ての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがを愛しているように。そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。」
 このように祈りの言葉で締めくくっています。

 

 ここに書いているのは、パウロはこのテサロニケの町に行きたいけれども、行くことができないという何らかの事情がある。そこで神様に願って何とかその道が開かれますように、道を開いてくださいと祈っているわけです。

 

 このときにパウロにどのような事情があったのかということは、具体的にはこの手紙の中には書かれていません。パウロに対する当時の迫害があったということがまず考えられます。

 当時、クリスチャンというのは圧倒的な少数派でありました。それまでのもの考え方に対して違うことを言っていたからであります。どういうことを言っていたかというと、それまでの宗教的な考え方、旧約聖書に基づいた宗教的な考え方で言いますと、その旧約聖書に記された律法、様々な決まり事、それは神様から与えられた戒めであり、その律法を完全に守ることによってこそ、人は神に救われるというのが当時の聖書宗教の考え方だったのです。

 

 聖書に書かれている、いろんな戒めを100%守ることによって、人間は神様から認められて救われる。逆にその戒めを守ることができないならば罪人として、神様に裁かれて滅んでいくと。そういう二者択一というものが、聖書の律法によって決まっていると信じられていました。

 

 そのために、その律法をどうやって厳格に守るかということを一生懸命追求していたのが律法学者の人たちでありました。それで実は、パウロも昔は本当に律法学者だったのです。しかも、誰よりも自分は熱心な律法学者であるとパウロ自身が考えていたのです。

 

 しかし、あるときにパウロは、突然に目が見えなくなりました。そのときにパウロは、もはや目が見えなくなった自分は、聖書に書いてある律法、決まりごと、戒めを100%守ることはできないということに気がついたのです。

 

 これでは、もはや自分は神の前で罪人として滅んでいくしかないのか、そう思ったパウロの所に、目が見えなくなった暗闇の中でパウロに聞こえてきた声は、パウロがそれまで迫害してきたたくさんのクリスチャンたちを通じて聞いていた、イエス様の言葉でありました。そのときにパウロは回心を経験したのであります。

 

 そしてパウロは、人間の行い、つまり旧約聖書の律法を、どうやって人間が努力して守るか、どうやって正しく生きるか、という人間の努力によって律法を完全に守ることによって救われる、ということではなくて、律法を守ることができない人間を、神様が愛によってその罪をゆるして救ってくださる、という新しい教えを宣べ伝えることになったのです。

 

 その教えはパウロが自分で作り出したのではなく、主イエス・キリストから与えられた教えということであります。それが福音と呼ばれています。福音とは「良き知らせ」という意味の言葉であります。

 

 それまでは言われてこなかった「良き知らせ」。

 それは、聖書に書かれた律法の決まりを守れなくても、神様にゆるされることでその人は救われるということです。パウロはそう信じていました。

 

 そして、イエス・キリストを信じるときに、イエス・キリストを自分の主、救い主、わたしの救いの中心に立ってくださる方として受け入れるときに、その人はどんな罪人であっても救われる、ということをパウロは教えたのであります。そのパウロの教えは、当時の宗教、聖書に基づいた宗教を信じている人たちにとっては許せないことでありました。

 

 聖書の律法に違反しても罪のゆるしによって救われるというならば、一体何のために自分の身を厳しく律して、厳しい律法を守ってきたのかと。何のために聖書を学んできたのかと。

 

 そのようにして、それまでの宗教の考え方をひっくり返すような、パウロの新しい教えに対して厳しい迫害が加えられたのであります。そのためにパウロもこのとき、テサロニケ教会に行くことができなかったのではないか、と考えることができます。

 

 パウロを妨げていたのは、そうした聖書に関する宗教の考え方だけではありません。パウロアテネを始めギリシアなど、地中海各地を訪問してイエス・キリストのことを宣べ伝えていました。その中で、ユダヤ人だけではない様々な国の人たちに出会うわけでありますが、そのどこに言ってもその地域の宗教がありいろんな考え方があります。

 

 そうした様々な考え方、またローマ帝国の支配、ローマ帝国の強大な軍隊によって支配されている世界の考え方とも、イエス・キリストの福音が対立をするという場合には、パウロはやはり迫害を受けることになったのです。

 パウロの苦難はそれだけではありません。パウロには何らかの病気があったと考えられています。目が悪かったのではないか、あるいは何かの病気があったのではないかと、パウロの手紙に書かれているパウロ自身の言葉からいくつか推測されますが、はっきりしたことは分かりません。

 

 けれども何らかの理由でパウロが、このときテサロニケという町の教会にに行きたかったけれども、行けなかった何らかの事情があったことは確かであります。その中でパウロは一生懸命神様に祈っているわけです。何とかテサロニケ教会の人たちに会いたいと。

 

 そして最後に13節では、「わたしたちの主イエスが、ご自身に属する全ての聖なる者たちと共に来られる時」と書いてあります。

 これは、現代のわたしたちから見るとちょっと不思議に思うかもことかもしれませんが、このパウロの時代においては、いつかイエス・キリストがもう一度、このわたしたちが生きてるこの世界に来てくださる、ということを信じていたのです。それは神学の言葉で「再臨」という言い方をします。

 

 「再び臨む」という意味で臨時のりんという漢字を使うのですけれども、わたしたちが生きているこの世界が、いつか役割を果たし終えて消えていくときに、全く新しい「神の国」が現れる。そういうことがいつか将来やってくるということです。

 そのときには、イエス・キリストがもう一度この世界に来てくださって、この世界の意味を一新してくださる。新しくしてくださる。そういう「再臨」という信仰をパウロは宣べ伝えていたのであります。

 

 言わば、今のこの世が終わって、本当の新しい「神の国」が来るとき、そのときに、このテサロニケ教会の人たちがみんな神に救われて、非の打ち所のない者となりますように、神様に愛される存在となるようにと祈っているわけであります。テサロニケの教会の人たちにパウロは、このように熱烈な手紙を書いているわけです。

 

 それで、このテサロニケの身体の手紙の1つの特徴でありますけれども、それは新約聖書に収められている27の文章の中で、最も早くに、つまり最も古くに書かれた文書であるということです。紀元後50年代というふうに聖書学者は推測しています。

 

 それは四つの福音書、イエス・キリストのことを記した四つの福音書が書かれたのが大体、紀元70年から80〜90年代という時代であると考えられていて、それ以前に書かれたのが、このパウロのテサロニケの信徒への手紙一であるということです。

 その時代には、イエス様がもう一度この世界に来てくださるという、再臨の信仰が非常に活き活きとしていて、そのことがとても熱い思いを持って信じられていたのです。そのことがこの箇所にも反映しているわけなのですね。

 これは、現代のわたしたちから見ると、そのことはなかなかちょっと想像しがたいというか、実感として感じにくいことなのですけれども、もうすぐイエス様がまたわたしたちの所に来てくださる。だから、喜びを持って生きようということを言っていたわけなのですね。

 それでそのあと、その時代から2000年経ってわたしたちはいま聖書を読んでいます。パウロの時代から2000年経っても、イエス様はもう一度来てくださるということは起きていません。では、聖書の信仰とはどういうことだったのでしょうか。

 

 イエス様がもう一度この世界に来られる、この世界に本当の「神の国」が現れる。そうした再臨の信仰について、最初の時代の教会の人たちはいろんなことを考えました。

 

 もう今すぐにでも来る、近くやってくると思っていた、新しい「神の国」がやってこない。そうした経験を続ける中で、教会の人たちの考え方は徐々に変わっていきました。それは、イエス様がすぐにやってこられるのではなくてもいいから、いつかやってこられるのだから、わたしたちは普段の生活において自分の身を慎んで、いつも神様に心を向けて喜んで生きていこう、という、そういう生活の姿勢に関する考え方に変わっていったのです。

 

 だから、イエス様がもう一度この世界に来られるのが、千年後、二千年後でも構わない。一万年後でも構わない。それはそれでいいのだと。いつイエス様が来られるのか、ということではなくて、いつかやって来られるのだから、そのことを期待して生きるということです。

 そして人間の一生というのは時間が限られていますから、その短い人生の中において、いつかわたしたちのこの世界は役割を終えて、新しい世界になることに期待を持ち、喜びを持って日々を充実して喜んで生きていこう。そういう生活の心構えというものへ、受け止め方が変わっていったというか、そうなっていったわけですね。

 そうしたことも含めて、そういう意味でこのテサロニケの信徒への手紙一は、現代のわたしたちに対していろんなことを教えている手紙なんです。

 

 今日の聖書箇所というのは、ざっくり説明させていただきますと、以上のようなことなのであります。皆様はどのようなことを思われたでありましょうか。

 わたしは、この春を迎えて道を歩きながら、最近でありますが、桜が咲いている様子をたくさん見ました。皆様もたくさん見たのではないでしょうか。それでも、3月は寒い日が続きました。春を迎えた3月のはずなのに、寒い、寒い、寒いと言いながら日々を過ごしていて、ようやく桜が咲いたいうときに、わたしの心はとてもうれしくなりました。しかし、まだ寒い気候が続いていたのですね。

 それで、ある日、わたしは桜を見ながらこんなふうなことを思いました。いっぱいに咲いた桜があって、その桜の花が散っていく、風に吹かれて花びらが飛んでいく様子を見て「雪みたいだな」とわたしは思ったのですね。

 桜の花を見て「雪みたいだな」と思うことなんて、今までわたしは一回もありませんでした。なぜ、今年になって初めて、そんなことを思ったのか、さっぱり分かりませんけれども、何か、何となく、肌寒い気候が3月にずっと続いたことが、そういう影響を与えたのかもしれません。

 

 しかし、どんなに寒くても桜はまた咲くのだと。そして、雪のように見えるこの美しい桜の花が散っていくときに、どんなに、それまでと時期が変わっていないように思えていても、実は時期がもう変わっているのだと。

 

 さらに、そうして時期が変わったときには、毎年毎年見ている同じような光景も、実はその年々によってまた違って見えるのだ、ということをわたしは実感いたしました。

 

 この春、この桜の時期というのは、わたしたちに対していろんなことを何か思わせる、そういう時期です。学校では入学式があったり、会社では入社式があったり、この年度の始まりにいろんなことが起こっていくということがあります。

 それと同時に、古い年度が終わったという、過去のことも思わされます。卒業式であったり転任であったり、いろいろな事柄があります。この3月、4月というのは、そういうことを考える時期でもあります。

 

 そんな時期にあって、この今日の聖書の箇所を読む時に、ここでパウロが、会いたい、会いたい、テサロニケの教会の人たちに、会いたい、会いたい、と思っている、何かその思いというものが、今のこの春という時期に重なって、わたしの心に伝わってきました。

 

 皆さんと会いたいのだと。会いたいけれど、会えないのだと。何らかの事情によって会えない。けれども会いたい、と心から願っているパウロとは、どんな人だと皆さん思っておられるでしょうか。

 

 新約聖書の中に収められている、たくさんのパウロの手紙、たとえばローマの信徒への手紙を読みますと、これは神学論文と言ってもいいような、ものすごく、何と言いますか難しいことと言うのでしょうか、理屈っぽいと言うのでしょうか。

 パッと読んだだけでは意味が分からない、その難しい言葉を書く人がパウロだと思っておられるかもしれません。または、何か熱血のような雰囲気のある、すごく情熱的な伝道者、そんな印象を持つ方もおられるかもしれません。

 

 パウロという人に対して、いろんな印象がわたしもあるのですけれども、今日の箇所を読みますと、そうした、今まで思っていたパウロとは何か違うような気がするんですね。ここにあるのはその教会の人たちが大好きでもう会いたい会いたいと願っているもう無邪気なほどにそう願っているパウロの姿というものが今日の箇所にあります。

 

 そして、今日の聖書の箇所の中で、本当の意味で一番わたしの心にとまったのは、7節、8節の言葉なのですが、こういうことが書いてあります。

 

 「それで兄弟たち、わたしたちはあらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。あなたがたが、主にしっかりと結ばれているなら、今わたしたちは生きていると言えるからです。」

 

 ここに記された「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今わたしたちは生きていると言えるからです」という言葉、これは一体どういうことでありましょうか。

 

 これは、パウロがイエス・キリストの福音というものを宣べ伝えて、その伝えた相手であるテサロニケ教会の人たちが、今も信仰によってイエス様にしっかりと結びついているならば、福音を伝えたパウロたちもまた、わたしたちは生きていると言えるからです、と言っているのです。

 

 それは、このテサロニケ教会の人たちとパウロたち伝道者の人たちは、信仰において、ひとつながりなのだと言っているのです。

 

 あなたたちが生きているから、あなたたちが神様にしっかり結ばれているから、わたしたちは生きている、というときには、単に自分の命ということを言っているだけではなくて、自分たちの信仰が生きている、神様に対する信仰が生きている、ということを言っています。

 ここでは、神様に対する信仰が生きているということと、人間が命を持って生きているということを区別しないで、パウロはそのことを重ねて、わたしたちは生きていると言っているのですね。

 これは一体どういうことでしょうか。あなたがたが今、しっかりと神様を信じているから、わたしたちも生きているのだと、それほどまでに、テサロニケ教会の人たちがいま神を信じているということが、わたしたちはうれしいのだと。そういうパウロの思いが伝わってきます。

 

 ただ、今日の、今のこの聖書の言葉を、理屈として考え出すとなかなか難しいんですね。あなたたちがしっかり生きているから、わたしたちも生きていると言える。そんな言い方になるのですけれども、一体なぜ、そんなふうになるのでしょうか。

 わたしが生きているのは、わたしが生きているからですよね。別に、あなたが生きているから、わたしが生きているというわけではない。普通に考えたら、単純にそうなのです。別の人間、別の命ですから、別のはずなんです。

 

 でもパウロは、あなたたちが生きているから、わたしたちも生きている。そういう意味のことを言ってます。これは一体、どういうことを言っているのでしょうか。

 

 このことを分かるためにあのイエス様の言葉を読みます。ヨハネによる福音書の14章19節を読みます。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」このようにあります。

 「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」これは、イエス様が捕らえられて十字架にかけられる、その前日の夜に弟子たちに向けて語った言葉の一部分です。

 「わたしが生きているので、あなたも生きることになる。」このイエス様の言葉が、今日のパウロの言葉の中に生きていると、わたしには思えるのです。

 

 イエス様の言葉も不思議です。イエス様が生きてるからあなたたちも生きる。これは一体、どういうことでしょうか。イエス様の命とわたしたちの命は関係がないはずです。つながっているはずがありません。別の存在のはずです。けれどもこのようにイエスもおっしゃるんです。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」

 

 そして、この箇所についてある牧師は次のように教えてくれました。

 あるテレビドラマの話でした。1人の女性がいて交通事故で大きな怪我を追います。大きな障害を体に負うことになります。その中で絶望します。そしてその女性は父親に向かというのです。どうしてわたしはこんな体になって生きていかなきゃいけないの、なぜどうして、と絶望の中でと言います。

 その女性に対して父親は言いました。

 「わたしが生きるから、お前も生きるんだ。」

 そのテレビドラマが何というドラマで、誰が出ていて、いつの何だったのかという話は、全然わたしは覚えていません。そして、テレビドラマというのは、これはいろんな見方があると思いますが、通俗的って言いますか、まあ、俗なものです。

 

 人の感動をねらって作られているのだ。そんなふうな冷めた言い方もできるでありましょうけれども、その通俗的な話かもしれない、そんなテレビドラマを引用しながら、この聖書箇所の意味を教えてくれた牧師に、わたしは今も感謝をしています。それは、人はなぜ生きるのか、ということは理屈ではない、ということを教えてくれたからであります。

 

 人はなぜ何のために生きるのでしょうか。聖書にはどんなふうに書いてるでしょうか。皆さんそれをどう説明しますか。考えていくとだんだん分からなくなってくるのですね。人間は何のために、何のために。特に、自分が苦しい思いをするときには本当に思うのです。

 

 個人的な小さな苦しみだけではありません。世界では戦争が起こってます。地震が起こります。災害が起こり、経済的な破綻があり、その中で人間の生活が失われ、命が失われていきます。一体、何のために生きていくのでしょうか。

 どんな綺麗事を言われても、ついていけなくなる。そんな弱さを誰もが持っています。そのようなわたしたちに対して、神様が語ってくださいます。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」

 

 なぜ生きるか、ということの客観的な説明はしていません。ただ、わたしが生きているから、あなたも生きるのだ、というその力強い言葉を聞くことはできるのです。

 

パウロも今日の手紙において語っています。「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今わたしたちは生きていると言えるからです。」ここでは、人間が生きることの意味というものについて、何かの合理的な説明をしているわけではないのですね。そ

 うではなくて、わたしたちがなぜ生きてるかというと、こういう力強い言葉を聞くから生きているのだ、そういうことなんです。わたしたちはそういう経験をしながら生きている存在です。何か理屈によって説明されて生きているのではありません。

 

 パウロは言っています。あなたが我らを励ますのだと。あなたがいま喜んで生きていることがわたしたちが生きていることなのだと。わたしたちがまた励まされているのだと、パウロは言っているのであります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様。今、この春の時期にあって、出会いや別れ、また新しい生活への出発など、いろんなことを思いながらわたしたちは歩んでいます。今、この春の気候のいい時期を与えられたことを感謝し、このときにあって、わたしたちの教会もまた新しい一歩を踏み出そうとしています。新しい年度にあたり、いろんな思いを持ちながら、みんなで祈って、共に、そしてまたそれぞれに、道を歩んでいくことができますように。イエス様が一人ひとりの人と共にいてください。

 この祈りを、感謝して主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。

 アーメン。

 

「燃える怒りをやめて」

 2024年4月21日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  出エジプト記 32章 7〜14節 (新共同訳)


 主はモーセに仰せになった。

 「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、 

  早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、

  それにひれ伏し、いけにえをささげて、

   『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』

  と叫んでいる。」 

 

 主は更に、モーセに言われた。

 「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。 

  今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。

  わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」

 

 モーセは主なる神をなだめて言った。

 「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。

  あなたが大いなる御力と強い御手をもって

  エジプトの国から導き出された民ではありませんか。 

 

  どうしてエジプト人に、

   『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、

    地上から滅ぼし尽くすために導き出した』

  と言わせてよいでしょうか。

 

  どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。 

  どうか、あなたの僕である

  アブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。

 

  あなたは彼らに自ら誓って、

   『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、

    わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、

    永久にそれを継がせる』

  と言われたではありませんか。」 

 

  主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。 

 

 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
  改行などの文章配置を説教者が変えています。
 新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

…………………………………………………………………………………………………………………

 

 (以下、礼拝説教)  

 

 毎週の礼拝で福音書首都パウロの手紙旧約聖書その3箇所を順番に読む形にしています。今日の箇所は、旧約聖書出エジプト記32章7節から14節です。ここには「金の子牛」という小見出しがつけられています。こうした小見出しは元々の聖書にはなく、新共同訳聖書が作られた時に読み手の便宜を図ってつけられたものであります。

 

 今日の箇所には、何が書いてあるのでしょうか。今日の箇所はこの出エジプト期の中でずっと続いているとても長い物語の一部分であります。この少し前の箇所ではモーセという人がいて、その人が神様から「十戒」(じっかい)と呼ばれる十の戒め、これは今のわたしたちで言えば法律にあたる戒めです。十の戒め、十の決まり事というものを神様から与えられた、その後の場面ということであります。

 

 出エジプト記においては、イスラエルの人たちはエジプトの国において奴隷とされていました。そこに至るまでには、旧約聖書の創世紀にある長い物語でありますが、神様が天地創造をされて以来の人類の歴史、そして、その中でのアブラハムから始まるイスラエルの歴史というものがあり、そして、ある時に飢饉にあって食べるものがなくなって、食べるものを求めて移住をした歴史があります。

 

 その時にも神様の不思議なはからいというものがあって、アブラハムの子孫であるヨセフという人が少年時代に奴隷に売払われた先のエジプトで、いろんな奇跡が起こってヨセフが政府高官に取り立てられて、やがてエジプトの首相になった。

 そこに、あとからヨセフの家族がエジプトに迎えられる、という不思議な形でイスラエルの民はエジプトに移住した。その後、その人たちがだんだんと人口が増えて、エジプトの国の中で警戒をされてしまい、エジプトの王様であるファラオから、奴隷にされて非常に重い労働を課せられて苦しんでいました。

 

 そうして苦しんでいる民の叫び声を、天から神様が聞いて下さって、人々をエジプトから脱出させて下さった。そういうことが、出エジプト記の物語の大まかな流れであります。

 今日の聖書の箇所は、エジプトを脱出することが非常に長い時間をかけてようやくできたあとに、自分たちが新しく住む土地へ向かって歩む途中で、神様から十戒という戒めを与えられた場面です。

 エジプトを脱出したイスラエルの人たちが、これからはこの神様の戒めに従って生きる。そのことを命じられたという、非常に重要な場面です。十戒およびそれに基づく律法のことが、ずっと説明されたあとに今日の箇所があります。


 今日の箇所は長いですので、礼拝での朗読は7節から読みましたけれども、1節から見ますと、こうあります。

 「モーセが山からなかなか降りてこないのを見て民がアロンの元に集まってきてさあ我々に先立って進む神々を作って下さい エジプトの国から我々を導きのった人あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです。」

 もういきなり、こういうもうものすごい発言ですね。モーセイスラエルの人たちの代表として山にえ登っていったわけでありますが、なかなか降りてこないと民から言われています。モーセはこのとき、神様から十戒を与えられている、その大切な時間にですね、人々は不安になってきたのですね。

 

 自分たちをエジプトから脱出させてくれたリーダーである、モーセがなかなか帰ってこないということで不安になって、そこでアロンというこの人は、モーセの親戚ですが、モーセを補佐する人でしたが、そのアロンに対して、我々に先立って進む神々を作って下さい、と言ったのです。

 

 ここで神々という言葉で、複数形になっています。ということは、お一人の神様という信仰ではなく、自分たちを導いてくれる色々な神様を作ってほしい、そういう思いが込められているわけです。

 「それを聞くとアロンは彼らに言った。あなたたちの妻、息子、娘らがつけている金の耳輪を外し、わたしに持ってきなさい。」こう言って、金の耳輪を集めて、それを使って若い雄牛の鋳像(ちゅうぞう)を作ったとあります。

 

 すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った、あなたの神々だ。」と言ったとあります。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、明日、主の祭りを行うと宣言した。彼らは次の朝早く起き、焼きつくす捧げ物を捧げ、若い雄牛の像に捧げ物を備えた。民は座って飲み食いし、立って戯れたとあります。この場面は、いきなりすごい展開になっているのですね。

 

 モーセが山に登って十戒を神様から頂いている、その厳粛なときに山のふもとで民は何をしていたかというと、こういうことをしていたわけであります。イスラエルの民はエジプトから脱出するところまでは、神様の御心に従ったけれども、脱出してリーダーのモーセがいなくなったら、こんなふうになりました。

 自己中心的な、自分たちのための神々の像を作って、そして宴会を開いていた、もう自分たちの天下だということです。エジプトはもう脱出した。もう自分たちを抑圧する権力者はいない。その喜びの中で、彼らはモーセがいないところで自分たちの神々を作り、パーティーを開いていたのでありました。

 

 32章の前半に若い雄牛という言葉が出てきます。若い牡牛の中三その図を作ったとなぜ牛の像なのかって言うとその牛っていうのは非常に大きな家畜ですね。最も大きな家畜であり、豊かさのシンボルなのです。それを最も重要な金属である、金で作った。そこに、自分たちの持っている力の最大限の姿があるわけです。

 

 考古学の研究、聖書に関する考古学研究によると、その牛の像とはどういう意味で作られたかというと、牛そのものを拝むのではなくて、牛の像を作ると、その牛の像の上に目に見えない神様が乗っておられる、という意味で牛の像を作っていたらしいのですね。

 

 ということは、今日の箇所に出てくる、この雄牛を作ったということも、その牛を拝もうということではなく、その牛を作れば、その上に自分たちの神様、目に見えない神様が乗って下さると、そういうことであったのかもしれません。

 しかし、牛を拝むのであろうと、その牛の像に上に乗っている、目に見えない神を拝むのであろうと、そこには自分たちのために作った神々という考え方があるわけです。そのように、とんでもない場面ががもういきなりこの32章で繰り広げられています。


 ちなみに、今日の箇所は新共同訳聖書では「金の子牛」という小見出しがついていますけれども、子牛という言葉は今日の箇所にはありません。若い雄牛と書いてあるのですね。新共同訳聖書の小見出しは時々、あまり正確ではないと言われることがありますが、今日の箇所はまさにそういうことかと思います。若い雄牛というのを子牛と解釈すれば、これでもいいのでしょうけれども、そういうことなのですね。

 そのあとに、今日読みました聖書箇所、7節からに入ります。

 「主はモーセに仰せになった。『直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ」と叫んでいる。』主は更に、モーセに言われた。『わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。』」

 

 神様の怒りが燃え上がってるのですね。当然だと思います。奴隷とされていたエジプトから導き出して下さった神様を忘れて、自分たちの神を作ってパーティーを開いているのですから。

 ここで神様は、「わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする」と言っています。エジプトから導き出したイスラエルの民は背信のためにここで滅ぼし尽くしたあと、神様はモーセは救い出してその子孫を大いなる民とする、そういう意味かとを思われます。

 

 モーセだけが神様のもとに、こうして目の前に来ていたからでしょうか。しかし、モーセは自分だりが助かると言われてもちっともうれしくありませんでした。

 11節以降にこうあります。

 「モーセは主なる神をなだめて言った。『主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうしてエジプト人に、「あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した」と言わせてよいでしょうか。

 

 どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、「わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる」と言われたではありませんか。』 主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。」

 

 今日の礼拝での朗読箇所はここまでにしています。このあと、どうなったかということが気になるかと思いますが、それは、どうぞ皆様それぞれに、このあとの聖書箇所を読んで下さい。このあと、モーセの怒りも爆発しているのですね。そうした神様の怒り、そしてモーセの怒りが爆発する、本当にすごい場面がこの32章には記されてあります。

 

 今日の説教題は「燃える怒りをやめて」とつけさせていただきました。これは、今日の聖書箇所にある言葉から取っています。神様が燃える怒りをやめて、という、その言葉を取っているのであります。今日の箇所を読んで、皆様は何を思われたでありましょうか。

 

 今日の箇所を読んだときにわたしが思いましたのは、このようにして神様は心を変えられる方なのだ、ということでした。神様というのは一度は怒っても、何とか怒りをやめて下さいと言われたら、じゃあやめましょう、と言ってやめるのだと。

 

 つまり神様という方は、御心を変えるのだ、ということをわたしは感じたのです。旧約聖書のほかの箇所にも、そうして神様が御心を変えられる場面が出てきます。

 ですので、わたしはあるとき、牧師同士で勉強会をしていたときに、「神様は御心を変える御方ですよね」と言った時に、別の牧師はこう言いました。「いや、神様の御心は変わらない。」そう言われたのです。

 そこでわたしは、「いや、旧約聖書に書いてある通り、神様は御心を変えられる方だと思います」と言ったのですが、「いや、神様の御心は変わらない」と先輩牧師は言われました。そのときのことをわたしは思い出しました。

 皆さんは、どう思われますか。今日の箇所を読んで見ると、この物語の流れから言って、これは神様が御心を変えている話ですよね。あるときに神様が怒っていることを、モーセに言われて変えています。ほら、神様は御心を変えているじゃないか、と言うことができるのです。

 けれども一方で、聖書全体を通して、旧約聖書新約聖書も全部通して考えるときには、そして、その聖書全体のメッセージをわたしたち一人ひとりが、自分の人生というものにおいて受け取るときには、どうでしょうか。

 聖書全体を通して、神様はどういう御方か、ということを考えるときには、神様は御心を変えられる方である、というふうに考えるのか、それとも、いや神様は御心を変えない方であると考えるのか。仮に、どちらを選ぶかと言われるならば、今のわたしは「神様は御心を変えない御方だ」と、そのことを強く思うようになりました。

 それでは、今日の聖書箇所の内容と矛盾しているのではないか、と言われたら、どう答えるかというと、神様はもともとイスラエルの人たちを愛して下さっていたので、奴隷とされていたエジプトを脱出したイスラエルの人たちを愛し抜かれた。その最初の御心を変えようとされなかった。その意味で、神様は御心を変えられなかった、と思うのであります。

 では、今日の聖書箇所において、神様が怒りを燃やしておられるその姿を、一体どうであるのかと考えるとちょっと不思議になってきますね。もう最初から一切変わらないはずの神様、わたしたちを変わらず愛して下さってるはずの神様が、なぜこんなふうに「この民を滅ぼし尽くす」などと言われるのでありましょうか。

 そこには、わたしたちにとって不思議だなと思わせるものがあります。そして、聖書という書物は、実はそうやって、わたしたちに不思議だなと思わせることによって、物事を深く考えさせるものである、そういうメッセージを含んでいると思うのであります。

 わたしは今日の箇所を読みながら、神様という御方は御心を変える方なのか、変えられない方なのか、ということを色々考えている中で、一つのことに気づきました。

 大きな発見をしたような気持ちなのですけれども、今日の箇所においてモーセが果たしている役割というのは、とっても大事な役割であり、実はこのモーセの役割を、本当に実現して下さったのが、主イエス・キリストであるということなのですね。

 和解の僕(しもべ)ということです。それはどういうことかと言いますと、今日の聖書箇所において、モーセがどういう役割を果たしているかというと、本当の神様から離れて偶像崇拝をしてしまっている、このひどい人たちに対して、神様の怒りが燃えたときに、モーセは、いやちょっと待って下さい、あの民を滅ぼさないで下さい、と言って神様とその民の間に入っています。

 

 そしてモーセは、ここでこんなふうに言ってます。「この民はあなたが愛して下さった民ではありませんか。あなたが愛して、あなたの強い御腕で、エジプトで奴隷とされていたところから導き出した民ではありませんか」と言って、モーセが神様に、神様の御心というものを伝えているわけです。

 

 そしてまた12節では、どうしてエジプト人に、あの神は悪意を持ってあの民を滅ぼすためにエジプトから脱出させたのだ、というふうに言わせてよいでしょうかと言うのですね。

 

 ここで神様がもし民を滅ぼしたら、エジプトの人たちはあなたの悪口を言いますよ、というわけです。そして、どうかあなたの僕である、アブラハム、イサク、イスラエルを思い起こして下さい、と言います。

 ここでイスラエルと言っているのは、これはヤコブという人の別名です。アブラハム、イサク、ヤコブとは、親・子・孫であり、イスラエルの部族の最初の族長たちです。親・子・孫と続く、その一番最初の時代の人たちのことを思い起こすということです。

 つまり、イスラエルの人たちが、もともとはどこから来てどこへ行くかも分からないような、さすらいの民と言われていた人たちであり、吹けば飛ぶような本当に小さな部族、滅びゆく人たちだったのを神様は愛されて導いて下さった。

 

 そのことを思い起こして下さい。滅んでいってもおかしくない人たちに、あなたたちの子孫を天の星のように増やし、この土地をことごとく授け、永久にそれを継がせると、神様自身がおっしゃったじゃないですかと、モーセがここで神様に懇々と説得をしている場面なのですね。それを聞いて神様は災いを思い直されたというのです。

 

 この場面を読んでいると、ちょっと不思議な思いになってくるのは、この場面が、頭がカーっとして怒っている神様に、モーセが冷静になるように懇々と諭しているような場面だからです。

 

 怒っておられる神様よりも、神様を説得しているモーセの方が冷静で賢いようにも見えるかもしれません。そのモーセの言葉を聞いて、神様は災いを思い直された、というのでありますから、何だか不思議な神様という気がしてきます。

 ここでモーセは、あの手この手で神様の怒れを沈めようとしているのですね。こんなこともありますよ、あんなこともありますよ、これはどうですかと説得しながら、神様あなたご自身のもともとの御心を思い出して下さい、と説得しています。

 

 それを聞いて神様は、怒りの御心を変えて下さったのでありました。ここには、本当に不思議な神様のご様子が記されています。人間の言うことを聞いて心を変えていかれるわけですから。何だか不思議な神様ですね。けれども、この箇所を読みながら、これは単に古代イスラエルの人たちの伝説というか、宗教的な物語だというだけではない、とわたしは思いました。

 

 ここには、神様というのはどういう方であるか、ということについての、非常に深い教えが記されてあるのです。神様という方は、わたしたち人間と全く関係ないところで、天の上の方にいてじっとわたしたちを見ていて、自分の好きなことをしている、そういう絶対者ではありません。

 そうではなくて、この地上に降りてきて、わたしたち人間と出会い、わたしたち人間と対話し、わたしたち人間の祈りを聴いて、そして御心を定めて下さる、そういう方であるということが、本日の聖書箇所には記されてあります。

 

 そして、そのように神様と出会い、神様に願う役割を、本日の箇所ではモーセが果たしているのでありますけれども、それは今、現代のキリスト教会にいるわたしたちにとっては、それは主イエス・キリストがなして下さっている役目なのですね。

 人間と神様との関係が断絶している。その断絶の中で間に立って下さるのが、主イエス・キリストであり、そのイエス・キリストの言葉によって、神様が怒りの御心を変えて下さるのです。神様とわたしたちの関係、その間に、主イエス様がおられなければ、わたしたちは神様とつながることができません。

 そのために自分自身を神とし、あるいは自分が神としたいものを神として、今日の箇所にあるように、若い雄牛の像を金で造り、自分たちの最大限の力によって豊かさというものを作り出すのです。

 

 そして、その豊かさそのものを拝むのか、あるいはその豊かさの上に座っている目に見えない神を拝むのか、もうそれはどちらでもいいと思いますが、要は、自分たちがこうあって欲しい神というものを自分たちで拝み、パーティーをする。そうしたことによって本当の神様から離れて、罪深く生きていくのです。

 そして、そのことによって最後は滅んでしまう。そうした人間の罪深さというもの、それは神様の怒りが燃え上がるときに、滅ぼされていくものでありますけれども、しかし、もともと神様は人間を愛して下さっていたのですから、その愛の御心にどうぞ立ち戻って下さい、と願うのです。

 それは、この頭がカーッとなって、もう何かわけがわからなくなって怒っている神様、ということではなくて、もともと深い愛を持って人間を愛して下さっている、神様の御心というものが、本当に人間に対して表されるためには、こうして神と人間との間に立って下さる方が必要なのです。

 その方と神様との対話の中において、まことの神の愛ということが示されるのです。そのことを今日の聖書箇所は、わたしたちに教えているのです。

 そして、そのことは古代の旧約聖書に出てくる不思議な話、というだけではなくて、実は主イエス・キリストが果たして下さってる役割というものが、今日の箇所には示されているのですね。わたしは、今日の箇所を学んでいて、そのことに気づきました。

 これは決して、単なる古代の伝説というだけの意味ではない。それだけではないものが示されているのであります。今日の箇所において示されていることを、現代の世界に置き換えて考えてみたときに、どんなことを考えることができるでしょうか。

 わたしはいろいろなことを考えてみました。いま世界中にいろんな戦争が起きています。本当に悲惨なことが起きています。その中で皆さんは、どんなことを祈られるでありましょうか。あの憎い敵を神様がやっつけて下さいますように、と祈るでありましょうか。

 もし、わたしたちが生きてるこの国が攻撃されたら何を祈るでしょうか。あの憎い人たちを、神様が滅ぼして下さいと祈るのではありませんか。それが、どんなに罪深いこと、恐ろしいことであったとしても、もし自分に危害が加えられるならば、それは許せない、そのようにわたしたちは怒りを燃やす。そういうことも考えられるのではないでしょうか。

 いや、世界中でいま起きている、いろいろな争いの中にあって、まさにそうした憎しみということが、いろいろな人たちの祈りの中に重なってるのではないでしょうか。

 そんないまの時代にあって、このわたしは考えてみました。いま世界に起こっている、いろいろな悲しい出来事、これは神様の御心なのだろうか。わたしたち一人ひとりの人間を苦しめるのが、神様の御心なのだろうか。

 

 今まで、そんなふうに考えたことはなかったのですけれども、ふと、今日の聖書箇所を読みながら考えてみたときに、そんなことを思いました。

 そして、いまの世界で起こっている戦争が、神様の御心だとは思いたくないですけれども、いま起こっている世界の現状は、まさに人間の罪の現れであって、それによってわたしたちが苦しんでる中で、わたしたちは何を祈ったらいいかということを考えてみました。

 

 わたしたちは、誰かを滅ぼし尽くして下さいと神様に祈るのではなくて、もしいまの世界の現状が神様の御心であったとしても、その御心を止めて下さい、あなた御自身が御自身のために、災いを思い直して下さい、というのが本当の祈りではないかと、今日の箇所からわたしは教えられたのであります。


 あの憎い敵を神様が滅ぼし尽くしてほしい、そうすれば平和が戻ってくるのだからと、そのように祈りたい気持ちもありますが、あえてそうではなくて、神様、そうして滅ぼし尽くすことをやめて下さい、と祈りたいのです。

 なぜなら神様は、もともとあの人たちを愛しておられたではありませんか、そしてわたしたちをも愛しておられたではありませんか。だから、いま世界に起こっている出来事が、もし神様の御心であったとしても、それをやめて下さい。そのようにわたしたちは祈ることができるのではないかと考えました。

 

 そして、もしそのように祈るならば、わたしたちに必要なものは何でありましょうか。この罪深い世界というものを作ってしまった、人間一人ひとりが、わたし自身の罪を悔い改めますと、神様の前で本当に悔い改めたい、と思うのです。


 わたしたちも、そして、わたしたちにとって敵であるかもしれない人たちも、共に神様の前で悔い改めなくてはなりません。そして、そのときに、神様がご自分のために下そうとしていた災いを、どうぞ思い直して下さい、一人ひとりの人間を愛して下さる、神様の御心に立ち戻って下さい、と神様に祈りましょう。

 

 そのときに、わたしたちは単に自分の願望としてそれを祈っているのではなく、イエス様がして下さった役割、本日の聖書箇所でのモーセが果たしている役割に自分を重ねて、このわたしたちもまた、神と人との間に立って和解のための取りなしを祈る、そうそのことによって平和を作り出す者とされる、その使命を帯びているのであります。

 お祈りをいたします。

 天の神様、どうぞわたしたち一人ひとりに、平和を作り出す者としての使命をお与え下さい。この罪に満ちた世界にあって、和解に仕える僕として用いて下さい。そして、世界にまことの平和をお与え下さい。この祈りを、感謝して主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。

 アーメン。