2023年12月の説教
2023年12月3日(日) 12月10日(日) 12月17日(日)
12月24日(日)クリスマス 礼拝説教
「初めに言があった」今井牧夫
2023年12月3日(日)京北教会 礼拝説教
初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は、始めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、
言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、
すべての人が彼によって信じるようになるためである。
彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
その光は、まことの光で、世に来てすべとの人を照らすのである。
言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
言は、自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった。
しかし、言は、自分を受け入れた人、
その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、
人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
(上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
改行などの文章配置を説教者が変えています。
新共同訳聖書の著作権は日本聖書協会にあります)
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(以下、礼拝説教)
教会の暦が、アドベントと呼ばれる待降節の時期に入りました。これはクリスマスまでの4週間の時期であります。アドベントというのはラテン語で「現れ出(いず)る」という意味があります。神の恵みが現れ出る、イエス・キリストという姿を通して現れ出る。そういう思いを込めてアドベントと呼ばれています。
待降節の時期は、まだイエス様は、お生まれになられてはいないけれども、その前のときからすでに神の恵みが現れようとしている時期である、待降節というものは、そのような時期であります。
今日、礼拝堂にはクリスマスのもみの木のクランツを飾り、ローソクを4本立てて、そのうちの1本に明かりを灯しました。毎週1本ずつこの灯し火を増やしていきます。そのことによってイエス・キリストのお生まれが近づいている、そのことをわたしたちは、この目でローソクの明かりを見る時に実感し、心に覚えるのであります。
この待降節の最初の日曜日である、今日の礼拝の聖書箇所は、ヨハネによる福音書の1章1節以降を選ばせていただきました。クリスマスを4週間後に控えた今のわたしたちは、このヨハネ福音書の一番最初の言葉から、待降節の恵みを心に受け止めていきたいと願います。
1節からこうあります。
「初めに言(ことば)があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉は初めに神と共にあった。万物は言葉によって成った。成ったもので言葉によらずに成ったものは何一つなかった。言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
この箇所は、旧約聖書の創世記1章1節以降の部分と重ねて読むもの、そのような意味合いで書かれています。旧約聖書の創世紀の1章の冒頭、それは、もともと何もなかった混沌とした暗闇の世界に、神様が「光あれ」という言葉を発せられて、そこで光というものが生まれた、そこから世界というものが始まった、という壮大な世界観が記されてあります。
その箇所の言葉を意識して、その言葉に重ねるようにして書かれているのが、このヨハネによる福音書の冒頭の言葉であります。それは、この世界が始まる前に神様はおられた。そして神様の「光あれ」という言葉から世界が始まった。そういう世界観があるのです。
神様の口から発せられた「光あれ」という言葉、それがヨハネ福音書1章1節からの「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」、こうした言葉に重なっているのであります。
言(ことば)というものが神様の口から発せられます。それは、神様から出たものであり、そして神様の働きを実行するものであり、神様の御心を実際に現実化するものでありました。その「光あれ」という言によって、本当に光が生まれました。そこから、わたしたちが今生きているこの世界が始まったのであります。
そして3節にあるように、万物は言によって成った、とあります。旧約聖書の創世紀1章には、神様の言によって、この世界のあらゆるものが創られたことが書かれています。自然というものが作られ、そして、その中で最後に人間が創造された、ということが書かれています。
そして4節はこう言われます。「言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。」
ここには、言(ことば)というものが、単に神様の口から出た、いわゆる言葉の発音というだけの意味ではなくて、その言自体の中に命が宿っており、そしてその命が人間を照らす、という表現によって、「ことば」ということの新しい意味が語られています。
そして、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と言われています。
ここでは、光の性質ということが言われています。もともとは何もなかった、ただ混沌とした暗闇の世界に、神様が「光あれ」と言われて、その光が輝いた。それは暗闇の中で、最も目立つものであり、それまでに先にあった暗闇とは全く違うものとして、光が神様にって創られた、ということが示されています。
それと共に、「暗闇は光を理解しなかった」とあります。神様が創造してくださった、光というもの、それを暗闇は理解しなかった。このように言われることによって、ここからは現実の人間の世界のことが語られます。それが6節以降のところにある言葉です。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。」
このヨハネは、「洗礼者ヨハネ」という呼び方で呼ばれる一人の人、歴史の中に実際にいた一人の人間のことであります。ヨハネというのは当時ありふれた名前でしたので、「洗礼者ヨハネ」という呼び方をして特定しています。
「洗礼者」となぜ言うかといえば、このヨハネは、イエス様が公の宣教活動を始められる前の時期に活動を始め、世間の人たち全般に対して、神様の前での罪の悔い改めということを宣べ伝え、人々に川で洗礼を授けた説教者だったわけなのです。
このヨハネは人々に向かって、罪の悔い改めを行うようにという厳しい説教をし、一人ひとりの人間に神様への罪の悔い改めを説きました。その言葉を聞いて心を打たれた人たちは、ヨハネのところにやってきました。そしてヨハネは、ヨルダン川という川に行って、その川の水にその人と共につかって、その人の罪を清めるという儀式、ヨハネの洗礼というものをしていたのでありました。
その洗礼者ヨハネは、結局は王様に捕らえられて命を落として悲しい最後を遂げるのであります。しかし、この洗礼者ヨハネはイエス様が登場される前に、イエス様が来られる道備えをした方、準備をした方であったと考えられています。このヨハネという人は、自分の後に来られるイエス様のことを証しして、そして死んでいった人なのであります。
そうして神様の御心にそって働いた洗礼者ヨハネが殺されていった。その事実が、今日の聖書箇所にある「暗闇は光を理解しなかった」という5節の言葉に反映しています。また、ここにはイエス様ご自身が世の人々から十字架にかけられて死なれた、その歴史的な事実をも反映しているのであります。
そして、ヨハネのことはこのように言われています。7節。
「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、全ての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光はまことの光で、世に来て全ての人を照らすのである。」
こうして、ここではイエス様という名前は言われていませんが、ヨハネのあとから来た救い主が、まことの光である、それがイエス様である、ということが示されているのです。
そして、さらにこう言われます。10節。
「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」
これは、イエス様という存在を人々は最初は喜んで受け入れたけれども、最終的には十字架にかけてその命を奪った。これはまさに「暗闇は光を理解しなかった」ということです。それはわたしたちが生きている、この人間の世というものがまさに暗闇であるということを示しています。
しかし、その次の12節には、こう続いています。
「しかし、言(ことば)は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」
つまり、言を受け入れた人というのは、イエス様を主として信じた人、そういう意味であります。主として信じる、ということの意味は、自分自身の救いについての意味です。神様によって自分が救われる、その救いということの中心に立って下さる方が、イエス様である、ということを信じた人、それがクリスチャンなのでありますが、そのことが「その名を信じる人々」とここで言われています。
クリスチャンという存在は、人間の血筋によって生まれたのではなく、「神によって生まれた」と、ここで言われています。
以上が、今日の聖書箇所であります。皆様はどのようなことを思われたでありましょうか。
今日の箇所には、言(ことば)という、漢字ひと文字の言葉が出てきています。言と書いて、その後に葉っぱの葉と書く、つまり「言葉」という書き方をここでしないで、漢字ひと文字の「言」という書き方をしている意味は、言というものが、人間の口から出て散らばっていく葉っぱのようなものではなく、言葉の働きの中心にあるもの、そういう意味が込められていると思います。
この「言(ことば)」という単語が、聖書においてどのような意味があるかと言いますと、ギリシャ語の聖書では「ロゴス」という言葉が使われています。このロゴスという言葉は、「言葉」と翻訳することもできますし、「知恵」と翻訳することもできます。そのほかにも、いろんな翻訳をすることができるのですが、言、あるいは知恵、あるいは何と言ったらいいのでしょうかと、それこそ言葉に迷う単語が、このロゴスというギリシャ語の言葉なのであります。
けれども、なぜ、ここで「言」というものが出てきて、しかも、「言は神と共にあった」という言い方がされているのか、ということについては、旧約聖書の中にある、ものの考え方があるのです。
それは、旧約聖書においては「詩編」とか「箴言」とか、あるいは以前は「伝道の書」と呼ばれていた「コヘレトの言葉」とか、様々な形で「知恵文学」と呼ばれる文書があり、そこにある考え方です。
知恵文学の文書は、たとえば創世紀、出エジプト記、民数記、申命記など、歴史を記した書物とは性格が違っています。現代のわたしたちの感覚で言えば、様々な「人生訓」のようなことをまとめたものが「知恵文学」です。そこには、人生をどうやって生きたらいいか、というような、人生訓のような短い言葉がたくさん納められています。特に箴言はそうなのです。
その知恵文学の中では、「知恵」というものが非常に称賛されています。知恵というものは素晴らしいものなのだと。それは、神様からやってきて、わたしたちの生活を導いてくれるのだと。その知恵文学の中では、知恵というものが、単にちょっと賢いこととか、生活の知恵とか、そんな小さな意味ではなくて、知恵というものがまるで、あたかも一人の人間でもあるかのように描写されています。
知恵というものが、まるで愛する一人の女性であるかのように書かれている箇所もあります。それは知恵に性別があるということではなく、知恵というものが一人ひとりの人間を導く大事なものであるということが言われているのです。
わたしたちにとって、知恵を愛することが、人生の最も大切な知識なのだと、そんな言われ方までしています。そこには、知恵の言葉というものが、単にその人の口から出た言葉というだけではなくて、その言葉自体が、目に見えないけど生きている存在、そしてその言葉の中に命があり、そこから光が照らされている、そういうふうな考え方をするようになっていったのです。
そうした考え方は、旧約聖書の中の一つのものの考え方、理解の仕方であるわけなのです。そのことが、今日の聖書箇所、ヨハネの福音書の冒頭の「初めに言があった」という、その「言(ことば)」ということの理解の背景にあるわけです。
つまり、旧約聖書の創世期において神様が「光あれ」という言葉を発することによって、世界が創られていきますが、そこで神様が発せられた「言」というものが、世界の一番最初から、神様と共にあったということを示しています。
その「言」は、人間の目には見えないけれども、神様と同じ存在であり、目に見えない神様と同じ存在である、その「言」がわたしたちの、この現実の世に本当に来てくださった。しかも人間の姿をとって。そのことが主イエス・キリストのお生まれなのだ、ということを今日の聖書箇所はわたしたちに伝えているわけなのです。
ですから、今日の聖書箇所は、旧約聖書にある創世期の考え方と、それから箴言など知恵文学にある考え方、その二つの考え方を土台として書かれている、といえます。そうした背景の中で書かれている「言」、神のことばがわたしたちのところにやってきた。それがイエス様である、という考え方、そのことが示されています。
そして、そのイエス様が登場する前に、イエス様が来る道備えをしたのが洗礼者ヨハネという人でありました。そのことが、6節から言われています。すると本日の1節から5節までのところでは、この世界の始まりからのことを記している、壮大な神様のご計画ということをまず記した上で、6節からは、急に現実の人間のことに入るのですね。
実際にいたヨハネという人の話に入っていきます。しかし、そのヨハネは世から受け入れられなかったということ、人間の罪深い世界というのは神様のメッセージというものを拒否する、まさに本当に罪深い世界が、この人間の世界なのだ、それは本当に暗闇なのだと。
しかし、その暗闇の中に輝く光としてイエス様が来てくださった。そのことを信じる人は、人間の血筋によって生まれたのではなく神によって生まれた、ということが言われています。
今日の聖書箇所に書かれていることは、これはいわゆる科学的な事実を言っているわけではありません。たとえば、宇宙の始まりということとについて、タイムマシンというものがもしあったとして、それに乗って宇宙の始まりというものを見に行ったら、旧約聖書の創世紀のようなことがあるのかと言えば、科学的に言えばそうではない、というふうに言えるでありましょう。
本日の聖書箇所に書かれているのは、そうした科学や歴史に関する事実のことを言っているのではないのです。では何を言っているかというと、わたしたちに神様がくださる救いというのはどういうものであるか、ということが神学的に書かれている、ということなのです。
それは、もうちょっと砕いて言いますならば、次のようなことです。わたしたちは、世界の始まりがどうであったか、というようなことを確かめることはできませんし、また、神様がどういう方であるか、ということを科学的に確かめることもできません。
では、何ができるのか、というと、それは主イエス・キリストの言葉を通じて、その言葉を通して、本当の神様、わたしにとっての本当の神様がおられる、ということを知ることができるのです。
それがわたしたちにとって、一番大切な真実なのです。そのことを伝えるために、聖書が書かれ、今日のヨハネによる福音書が書かれているわけであります。まず神様の御心というものがあり、その神様の御心にそった言(ことば)が本当にわたしたちのとろに来てくださった。
それが、イエス・キリストのお生まれであり、クリスマスの出来事ということであります。そのイエス様を信じて生きるときに、わたしたちは、単に何かのある一つの宗教であるキリスト教を信じています、というだけの意味ではなくて、この世界の始まりにあった神様の御心と、そして今ここに生きている自分というものが、イエス様という方を通じてつながっている、ということを信じることができるのです。
わたしたちが一人ひとり、いま生きている。これは単に偶然に生きているのではありません。神様の御心があります。それは、世界の一番始まりのときからある、その御心つながってわたしたちはいま生きています。
そのわたしたちは、どんな世界を生きているかというと、人間の罪の世界に生きています。暗闇の中を生きているのです。世界を見てください。どの国で戦争が起こっているか、どの国で迫害が起こといるか。どの国で政治的な、社会的な弾圧がなされているか。日本社会ではどうであるか。経済格差がどうであるか。
わたしたちは、自分自身の人生を通していろんなことを知っていきます。そして、この世の中、現実の中には、もちろん明るいこと、楽しいこと、やりがいを感じることもまた、いっぱいあります。しかし同時に、この自分自身を取りまいているものが何であるか、この世界がどうであるか、と考えたときには、やはりこの世界全体は罪深い世界であり、暗闇であると言ってよいのではないでしょうか。
しかし、その暗闇の世の中に生きている、わたしたち一人ひとりの人間は、人間自体が暗闇の一部なのではありません。神様が「光あれ」という言を言われたときに、ドロドロして何もないだけの暗闇、ただドロドロと混沌としているだけの世界に、神様の光が照らし出しました。
その混沌というものが、どういうものであるかが見えるようになり、そのあとに神様が創造される世界というものが創られていくわけですね。
旧約聖書の創世紀に書かれている天地創造の物語は、もちろん科学的な事実ではありません。しかし、この世界というものを神様が創造して下さった、という意味は、この世界というものは、ただわけの分からないもの、ドロドロした何かというだけではなくて、神様が秩序を与えて下さった世界なのだ、ということを知ることができるのです。
ところがその神様がくださった秩序ある世界を、人間は自らの罪にってめちゃめちゃにしてしまいました。具体的には、戦争によって、またいろんな問題を起こすことによって、人間を搾取することによって、神様のくださった秩序ある世界を、人間はドロドロした欲望の世界、そして悲惨な混沌の世界へと戻していくかのような、そのような罪深いことを人間はしてきたのであります。
その世界に、もう一度「光あれ」と神様が言って下さるのです。それが、イエス様のお生まれであるクリスマスである、ということを今日の箇所は告げているのであります。
今日の箇所を読まれて、皆様は何を思われるでありましょうか。
わたしは今日の箇所を読みながら、いろいろなことを思いました。「初めに言(ことば)があった」という、この不思議な言葉に向き合いました。「初めに言があった」、これは一体どういう意味だろう、といろんなことを思います。
これは、もちろん科学の事実ではありません。神学的な言葉であります。でも、この言葉をいま生きてるわたしたちは、どんな風に受け止めたらいいのだろうか、と考えたときにわたしは、ふと思いました。
わたしたち人間は一人ひとり、現在、か細い人生をそれぞれに生きています。弱くて小さな人間、か細い人間が生きています。いつか自分の人生が終わっていくことも考えます。それまでの間、どんなふうに生きていったらいいのでしょうか。
このことを、寂しく考えようと思ったら、いくらでも寂しく考えることはできます。また、楽しく考えようと思えば、楽しく考えることもできます。どちらでもできる中で、いろんな空想したり、想像したり、また現実のことを考えたり、いろんなことを思いながら毎日を生きているわけであります。
しかし、この「初めに言があった」という、その言葉を見て、そして、そこに命があり、光があり、そこからこのわたしたちの世界も創られてきて、今のわたしたちの命もあるのだ、ということを、素直に「ああ、そうなんだ」というふうに考えました。
そのときにですね、わたしはこう思いました。「言(ことば)からわたしたちは生まれてきた、そうなのであれば、じゃあ、わたしたちが死んだあとはどうなるのだろう。わたしたちが死んだあと、わたしたちは、もとともあったように、その「言」に戻っていくのではないかな、と考えたのであります。
神様の「光あれ」という言で、この世界が始まった。そして、わたしたち人間も生まれた。そして、いま生きている。いろんな悩みを抱えながら生きている。その人生が終わったときに、わたしたちはそれぞれ、どんなふうになるか、実際にどうなるか、それは知りませんけれども、もし天国というものがあって、そこに招かれて、そこに横になって寝そべって、はあ、と息をついている自分、そういうものがいるのかもしれません。
そうした想像をするときの各人のイメージは自由です。ですから、いろんなふうに考えていただいていいのであります。けれども、わたしは今日の聖書箇所を読むときに、そうした天国ということもいいのですけれども、天国に行くということは、要は神様の「言」、そこに戻っていくのかな、というふうに思ったのです。
このわたしという存在もまた、神様の最初の御心というものの中に戻っていく。そう思ったのです。そのときに、何か自分自身の人生の中で、何と言いましょうか、不満があったりですね、何かなあ、あのことはできなかったかな、とちょっと後悔していること、あれはまずかったかな、とか、いろんなことを思う、この自分の、ちょっとブツブツ言っている人生、そんなものが最終的には神様の「言」というものの中に、また帰っていく。
そのことによって、わたしたちは救われていくのかな、ということを思ったのですね。それはもちろん科学的なことを言っているわけではありませんけれども、聖書がわたしたちに伝えていること、というのは、やはり、今を生きていく力であると思うのですね。
今を生きていくために、どんな力を聖書の中から与えられるか。そのことは、あなたがた、皆さまご自身が、聖書をどう読むか、というところで問われていることなのですね。
わたしは今日の聖書箇所から、わたしの人生はいつかまた、神様の「言(ことば)」へと戻っていく、目に見えないところへ戻っていく、そのことを素直に喜びたいな、というふうに思ったのです。
そして、それまでの間に残されている人生、与えられた人生をどう生きていくのか、それは洗礼者ヨハネが一生懸命活動したけれども、最後は捕らえられて命を落とした。そんな悲しい最後を迎えることも現実にはあります。
世界の現実を見たときに、戦争で一体、何人の人がが死んでいるのか、イスラエルの人は、パレスチナの人は、ウクライナの人は、ロシアの人は、と考えていくときに、本当に寂しくなっていく中にあって、いや、最終的には人間は神の「言」へと戻っていく、そうであるならば、最後の最後まで自分らしく、そして神様に祈って生きていきたいものだと思います。
そして、そのように思う気持ちがどこから与えられるかというと、洗礼者ヨハネが指し示した、イエス・キリスト、まことの光、そこに現れた神の「言」、神の救いというものを信じて生きていきたい。そのように改めて思ったのであります。皆様はいかがでしょうか。
お祈りをいたします。
天の神様。待降節が始まりました。これからの4週間、わたしたちはそれぞれの、自分の場での歩みをしていきます。みんなそれぞれに違ったことを考え、いろんな思いを持ちながら、それぞれの場で歩みます。そしてまた次の日曜日、可能であればこの礼拝堂に集い、またインターネットで説教を聞いてくださったり、いろんな場にあっても、祈りをもってみんなでつながりながら、この世の中で平和を創り出すことをしながら、イエス様に導かれて歩んでいくことができますように、お一人ひとりを守り導いてください。
この祈りを、感謝して主イエスキリストの御名を通して御前にお献げいたします。
アーメン。
「幸いの歌を歌えますか」
2023年12月10日(日)京北教会 礼拝説教
聖 書 ルカによる福音書 1章 46〜56節 (新共同訳)
そこでマリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも
目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も
わたしを幸いな者と言うでしょう。
力ある方が、
わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、
主を畏(おそ)れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕(しもべ)イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。
(上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
改行などの文章配置を説教者が変えています。
新共同訳聖書の著作権は日本聖書協会にあります)
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(以下、礼拝説教)
教会の暦で待降節のとき期になりました。アドベントと呼ばれる時期であります。クリスマスまでの4週間、教会では礼拝堂に今4本のローソクを立てて、そのうちの2本に明かりを灯しましたこうして毎週1本ずつ明りを増やしていくことによって、わたしたちはクリスマスが近づいていることを実感いたします。
この時期にあたり、今日の礼拝で選ばせていただいた聖書箇所は、ルカによる福音書1章にある、マリアの歌の場面です。今日の箇所には新共同訳聖書では「マリアの賛歌」って小見出しがつけられています。こうした小見出しは元々の聖書の本文にはなく、新共同訳聖書が作られたときに読み手の便宜を図ってつけられたものであります。
今日の箇所には何が書いてあるのでしょうか。マリアが歌った歌がここに書かれています。この場面は、ルカによる福音書の冒頭から始まっている、クリスマスの物語の一つであります。
その前の26節には、天使がマリアの所に神様から遣わされて、おとめマリアが身ごもった、ということを天使が告げる、という場面があります。マリア自身にとっては、それがどういう意味なのか分からずに考え込んでしまうことでありましたが、そこで天使は、マリアは身ごもって救い主イエス・キリストを生む、という驚くべきメッセージをマリアに伝えます。
そのことを最初、受け入れがたく思っていたマリアは、天使の言葉を聞く中で「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と答えます。そしてそのあとで「マリアの賛歌」と呼ばれる歌の言葉が、46節から書かれています。
この箇所の前には、エリザベトという女性、この人は後に洗礼者ヨハネを生むことになる、その女性と出会い、そしてそのエリザベトとの会話のあとで、マリアは歌を歌ったのであります。
こうした聖書の箇所を読むときに、これはひとつの美しい物語の流れの中にある箇所だということが分かります。ここでマリアが歌っている歌、それはメロディーをつけて歌う歌というよりも、ひとつの詩と言った方が良いでしょう。
その詩を歌った。この歌の言葉の元の形は、旧約聖書のサムエル記上に記された「ハンナの祈り」と呼ばれる祈りの言葉、これもひとつの歌ですが、ハンナという女性が神様に感謝して祈った言葉、その祈りが、このマリアの賛歌の言葉の土台になっています。そこから言葉を借りて、その言葉を踏まえて、このマリアの歌というものが書かれています。
すなわち、ここでマリアが歌った歌というのは、ここで喜びに満たされて即興で何か自分の思いを歌った、ということではなくて、旧約聖書の伝統に乗っ取って、その伝統の中にある信仰ということを言葉にした、そういう場面として描かれています。
わたしたちがもし、タイムマシンというものを持っていて、それに乗って2000年前のとき代に行ったとしても、マリアがここで感極まってこんな風な歌を歌った、というような場面に出会うことができるかといえば、それは難しいのではないか、とわたしは思います。
もちろん、マリアがそんなふうに心を込めて、その場で即興で歌ったのかもしれませんけれども、福音書は様々な人々の言い伝え、伝承というものを集めて、それを編集して書かれています。その作業の中にあって旧約聖書に記されていたハンナの祈りの言葉を元にして、マリアの思いというものをここで表現した。そのように考えることが妥当だとわたしには思えます。
では、そのときのこのマリアの気持ちこの旧約聖書のサレの言葉を、元にしている。とは言ってもただ単にそれを、もう1度繰り返している。だけではなくマリア自身のその喜びの気持ちってものがこの歌にはえ重ねられいるはずですから今日の箇所で読むことによってそのマリアの気持ちを、知っていきたいと思うのです。
今日の聖書箇所を、最初から順々に読んでいきます。
「そこでマリアは言った。『わたしの魂は主をあがめ/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。』」
最初にまず、マリアが歌い始めるときに、この歌で何をしようとしているか、ということを言っています。神様に感謝すること、神様を賛美すること、そこからまず始まるのです。そしてこう続きます。「身分の低いこの主のはしためにも、目をとめてくださったからです。」
ここでマリアがこのように歌っているのは、この自分という存在が、この世界の中にあって高貴な存在とされている人々、たとえば王様の家族であったり、貴族の一人だったり、何かそうした社会的に名誉がある人、高貴な人たちと呼ばれているような、そういう中の一人ではない、とをいうことを表しています。そのような自分にも、神様は目を止めてくださった。そのことを感謝しています。
そしてこう続きます。
「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者というでしょう/力ある方がわたしに偉大なことをなさいましたから。」
このことは、神様がこのおとめマリアを選んで、イエス・キリストの母親になるという、その使命を与えて下さったからであります。そのことは、今からのち、いつの世の人も、マリア、あなたは幸いな者だ、と言ってくれる。そういうことなのです。
そして、さらにこう続きます。
「その御名は尊く/その憐れみは代々に限りなく/主を畏(おそ)れる者に及びます。」
この言葉は、代々に限りなくいつまでも、ということであり、それは主を畏れる者に及ぶとあります。ですので、今ここで礼拝をしている、わたしたちにも及んでいることだと思います。
ここでは、神様の名前が「その御名は尊く」と言われています。神様の名前とは何でしょうか。旧約聖書に記されている神様の名前は、「ヤハウェ」と読むと聖書学者は考えています。その他にも主という意味で「エロヒーム」って呼び方もあります。
しかし、今日の箇所を読むときには、そうしたヘブライ語の原典によって、神の名前が何であるか、ということが大事なのではなくて、神様を表す言葉、それは尊い、そのように理解していいと思うのです。
いま、現代の日本社会に生きているわたしたちにとっては、神様の名前とは何だろう、と考えるときには、「神様の名前は『神様』って言うんだよ」、そう考えて良いとわたしは思っています。
もちろん、旧約聖書のヘブライ語の言葉、特定の固有名詞、そういう理解ができます。けれども、わたしたちにとっては聖書に記された神様、という、その言葉がまさに神様の名前であり、それが尊い、それが代々を超えて、神様を畏(おそ)れる者に及ぶのだと、そのメッセージを今日の箇所から聞き取りたいと思うのです。
そしてさらにこう続きます。51節。
「主は、その腕で力を振るい/思い上がる者を打ち散らし/権力ある者をその座から引き下ろし/身分の低い者を高く上げ/飢えた人を良いもので満たし/富める者を空腹のまま追い返されます。」
ここに書かれてある言葉は、旧約聖書のサムエル記上に記されている『ハンナの祈り』という、その祈りの言葉に重なるよう記されています。それは、弱い者、小さな者、虐げられた者が神様によって力を与えられて、世の中における力関係を逆転する、そういうことが起こるのだということです。
神様の導きによって、この世界の中で弱い者を虐げている者たちが、逆にその弱い者の力によって覆されていく。そうしたことが書かれています。
そして54節ではこう言います。
「そのしもべイスラエルを受け入れて/憐れみをお忘れになりません。/わたしたちの先祖におっしゃった通り/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
聖書、旧約聖書というものを担った人たちは、イスラエルの民であります。聖書の民と呼ばれるイスラエルの人たち、それはかつては吹けば飛ぶような、小さな群れでした。どこから来て、どこに消えていくかもわからない、さすらいの人たちと呼ばれていたイスラエル。
そのイスラエルの人たちを、神様は受け入れて憐れみを忘れなかった。そして、あなたたちの子孫を、星の数のように、浜辺の砂のように増やす、とおっしゃいました。
それは単に、あるひとつの民族を神様が祝福する、という意味ではなくて、虐げられていた弱い者、小さな者、つまり強い者としての伝統を持たない者が、ただ神様の憐れみによって救われ、用いられて、強くされていく。そうしたことであります。
さらに55節ではこう言います。
「わたしたちの先祖におっしゃった通り/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
旧約聖書に記された、イスラエルの部族の最初の一人であるアブラハム、その子のイサク、その子のヤコブ、その子のヨセフ、そうして続いていく人たち、その一番最初のアブラハムという人に対して神様が約束して下さった旧約聖書の言葉通り、イスラエルの人たちは神様から憐れみを受けて守られている。そのことへの感謝がマリアの口から語られています。
そして56節。
「マリアは3か月ほど、エリザベトの所に滞在してから自分の家に帰った。」
こうしてクリスマスの物語は、次はイエス様の誕生へと進んでいくのであります。
今日は、この「マリアの賛歌」と小見出しがつけられたこの箇所をみんなで読みました。この箇所を読んで皆様は何を思われたでありましょうか。今日の箇所を読むときに、色々なことを心に思い浮かべることができます。皆さん一人ひとりが、それぞれのお気持ちによって、今日の聖書箇所を読んで心に止まる箇所はそれぞれに違っているのだろうと思います。
わたし自身は、今日の箇所全体を読んだときに、次の48節の言葉が心に止まりました
「身分の低い、この主のはしためにも目を止めてくださったからです。/今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者というでしょう。」
この言葉が、わたしの心に止まりました。ここには「幸いな者」という言葉があります。幸せな者、幸せな人。わたしは幸いな人なんだという、このマリアの言葉がわたしの心に止まりました。
一体、何が、マリアにとって幸せだったのでありましょうか。神様の御心によって、救い主イエス様を身ごもり、その母となる幸せを与えられた、ということでありましょうか。いろんなことを考えることができますが、なぜマリアは自分を「幸いな者」、そう言えたのでしょうか。
今日のこの聖書の箇所を読んで、マリアが幸いなものである、ということを思いながら、今日の説教題は「幸いの歌を歌えますか」と題しました。これは、幸いの歌を歌えますか、という、ひとつの疑問の形であります。今日の聖書歌書を読むわたしたち一人ひとりに問いかけてみたいと思ったのです。「幸いの歌を歌えますか」と。
それは、わたしたち一人ひとりが、神様の前で、このマリアのように、わたしは幸いです、といって幸いの歌を歌う、そういうことができるだろうか、という問いなのです。
わたしは幸いだ、そのように皆さんは言えますか。そんな幸せの歌、そういう歌があるのかどうか知りませんが、そういう歌を歌えますか。あるいは、今日の聖書箇所にあるマリアの言葉を、わたしのこと、自分自身のこととして朗読したりすることはできますか。
もし、そのように言われたら、皆様はちょっと戸惑うのではないか、と思うのですね。わたし自身今日の箇所を読むときに、自分が幸いだ、という歌が歌えるか、というと言葉に詰まってしまうような、ちょっと言葉が出にくくなってしまう。
その理由のひとつは、この自分が幸いだ、という風なこということ自体が、何かピント外れのような、というか、自分に関してわたしは幸いだ、と言えるような材料がそんなに無い、ということがあります。
しかし、そうしたこと以上に、今日の箇所を読むときに最後に出てくる、「そのしもべイスラエルを受け入れて、哀れみをお忘れになりません。」この言葉を読むときに、わたしはどうしても現在起こっているイスラエルとハマスの戦争、いま世界で現実に起こっている本当に悲しい出来事を思うのです。
聖書の中では、イスラエルの民は、弱く、小さな人たちです。それが神様の憐れみによって救われ、神様の御心のために用いられる聖書の民のことであります。
しかし、現代の世界におけるイスラエルは、聖書のイスラエルと全く同じということは言えません。歴史はそのようには続いていないとわたしは思っています。一方で、いや続いているのだと解釈する方もいます。神様の御心はどうなのでしょうか。わたしはそのことに結論を、自分で出すことはできません。
しかし、そうしたことに関わる聖書の解釈とか、歴史の解釈とかがどういう内容であったとしても、いま現実に起こっている戦争の現実は本当に悲しい。この悲しみの中で、一体どうやって幸いの歌をわたしたちが歌えるのだろうか、と思うのです。
マリアにとっては、今日の箇所にあること、救い主イエス・キリストをみごもって産む、ということは幸いなことだったのでしょう。
でも、今のわたしたちにとっては、このマリアの歌はどうですか、と問うときに、「いや、わたしはマリアのようには、幸いの歌を歌えないな。」そんな気持ちになることはありませんか。とはいえ、その反対に「では、悲しみの歌を歌いますか」と言われたら、それも嫌だなと思うのですね。
わたしたちは一人ひとり、この現代の世界の中にあって幸いな者か、と問われたら、いやそんなに幸いでもないですよ、まあ、ぼちぼちです、そんなぐらいの気持ちかもしれませんね。
でも、どうでしょうか。わたしたちは「幸い」というときにどんなこと思いますか。それは人前で言ったときに、わたしはこんなふうに幸いです、と言って、それで、みんなからワッと拍手してもらえるような、そんなことを言わなければ、自分は幸いだ、と言ってはいけないようなそんな誤解をしてはいないでしょうか。
マリアはここで神様に祈って、この歌を歌っています。それは、世間の人に向かって、わたしは今こんなに幸せなんだよ、と自慢しているのではなくて、神様に感謝を献げているのです。
「今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者というでしょう。」
このマリアの言葉には、自分の幸いということについて、世の人たちから「あなたは幸いだ」と言ってもらえる、そういうことも、もちろん含んでいるのでありましょう。
けれども、それ以前に、わたしたちに与えられた神様の御心、というものは、わたしだけではなくて、世界のどの人にとってもうれしいことです。そのうれしいことが、主イエス・キリストをみごもって産む、という形で、このわたしに起きる、ということがとてもうれしいのです。マリアはそう思っているのではないでしょうか。
幸いの歌を歌えますか、ともし問われたならば、わたしたちは、ウッと言葉に詰まってしまって、「そんな人に言うほど、わたしは幸せではないですよ」というときには、やっぱり人目を気にしていますね。
そして、ちょっと心の中で、幸せという言葉に対して、何か、後ろめたい思い、きまり悪い思い、そういものもあるのですね。
とはいえ、実は、わたしは今、本当は幸せなのです。三食の食事を食べることができて、住む所があって、生活費もあって、友だちもいてて、楽しいこともあって、いや実は本当は幸せなのですよ。
けれども、自分が「幸せだ、幸せだ」と言っていたら、世の中のたくさんの人たち、いろんな形で大変な目に合っている人がたくさん、世にはおられますから、その人たちの前で、わたしは幸せだと言うのは、とても言いにくいことではないか、そのように思うのです。
だから、マリアのように「わたしは幸せだ」とは、ちょっと言えないのです。わたしはそんなふうに、自分の心の中では思っています。
しかし、マリアは違いました。そんなふうに、人と比べてどうとか、そんなことを言っているのではないのですよ。このわたしにやってきた幸せは、わたしだけのものでなくて、世界のみんなの人の幸せなんですよ。だからこそ、わたしは幸せ者なのですよ、とマリアは言っているのですね。
「幸せ」「幸い」、そういう言葉が持つ意味が、今日の聖書箇所を読むことで大きく変わるのです。ここに、神様から与えられるメッセージがあるとわたしは思うのですね。
今日の箇所を読むときに、いろんなことを皆さんは思うことができると思います。今日の箇所を読むときにわたしは、マリアの賛歌の後半にある言葉を読むときに、思い返すことがあります。それは、「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし……」と書いてある、こうした後半の部分なのです。
これは旧約聖書のサムエル記上にある「ハンナの祈り」の言葉を元にしているということは、先ほど申し上げた通りです。その「ハンナの祈り」もそうなのですが、今日のこの「マリアの賛歌」も、世の中の力関係がひっくり返るということを言っているのです。
そこで、ある聖書学者はこの聖書箇所についてこう言いました。「これはマリアの革命歌である」と。世の中の秩序がひっくり返るのだと、虐げられている者が力を持って、それまでの世の中で力を持ってきた者たちを打ち倒すのだと。これは革命の歌だ、という表現をしました。
その表現は、わたしは正しいと思っています。けれども、このマリアの賛歌、この歌の全体を読むときに、今日の歌は「マリアの革命歌」なんだ、と思ってこの箇所を読もう、というふうには、わたし自身はあんまり思わないんです。
もちろん世界全体のことを考えたときに、政治的・社会的に抑圧されている人たちが、神様の導きによって立ち上がって、社会が本当に良い方に変わっていく、ということを、わたし自身もすごく願っています。
けれども一方で、そんなふうに世の中を良くしようとして、人間が立ち上がっていく運動、あるいは世界の動きが、本当に世界を良くしてきたのだろうか、という絶望をもわたしは一方で持つっているのですね。
この歌は、確かに「マリアの革命歌」かもしれないけれども、この歌を、世の中の革命歌として読むのではなくて、これはやはり神様がしてくださる革命の歌ではないだろうか、と思うのであります。
それはマリアの立場から言えば、ローマ帝国の植民地とされていたイスラエルの人たち、踏みにじられてきた自分たちの立場からの言葉になります。
現実の中にあって弱い女性、そして少女であったマリア。そのマリアの思いからすれば、これから生まれてくる救い主は、人間が生きていくことがしんどいこの世界を、本当に平和な世界へと変えてくださる救い主なんだ、という、そのことを信じてマリアはここで歌っているのですね。
そのように、この世界を救ってくださる救い主が、このわたしの所に来てくれた。だから、わたしがこれからお母さんになることは、わたしだけの幸せじゃない、世界のみんなにとっての幸せなのだと。だから、マリアは感謝して、こうして歌っているのであります。
この現代の世界を見たときには、ロシアとウクライナの戦いが終わらない世界、イスラエルとハマスの戦いが終わらない世界、各地で不安があり争いがあり政治的抑圧やいろんな問題があり、自然災害があり病気がある世界です。
そして一人ひとりが、自分自身の人生の中で家族のことや自分のことや健康のこと、そうした小さいことから大きなことまで、言い出したらキリがない問題を抱えている中にあって、このわたしの所にやってきた救いというのは、わたしのためだけの救いじゃないのです。
わたしの所にやってきた神様による救いの働き、これは、わたしだけではなくて、世界の全ての人のための救いのためなんだ、と信じることができたならば、わたしたちは本当に、「今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう」と、マリアと同じように言うことができるのではないでしょうか。
お祈りをいたします。
天の神様。今日から始まる新しい一週間を、新しい思いで生きていくことができますように。クリスマスまでの一日一日を、平和を創り出す者として祈り、考え、行動し、そして自分に与えられている持ち場を、しっかりと守っていくことができますように、どうぞ守り導いてください。世界にまことの平和を祈ります。
この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。
アーメン。
「光を指し示そうよ」今井牧夫
2023年12月17日(日)京北教会 礼拝説教
聖 書 ヨハネによる福音書 1章 14〜18節 (新共同訳)
言は肉となって、
わたしたちの間に宿られた。
わたしたちはその栄光を見た。
それは父の独り子としての栄光であって、
恵みと真理とに満ちていた。
ヨハネは、
この方について証しをし、
声を張り上げて言った。
「『わたしの後から来られる方は、
わたしより優れている。
わたしよりも先におられたからである』
とわたしが言ったのは、
この方のことである。」
わたしたちは皆、
この方の満ちあふれる豊かさの中から、
恵みの上に、
更に恵みを受けた。
律法はモーセを通して与えられたが、
恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
いまだかつて、
神を見た者はいない。
父のふところにいる独り子である神、
この方が神を示されたのである。
(上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
改行などの文章配置を説教者が変えています)
……………………………………………………………………………………………………………………
(以下、礼拝説教)
いま、教会の暦でアドベントと呼ばれる「待降節」の時期に入っています。これは、主イエス・キリストのお生まれを待ち望む4週間であります。その中で今日、礼拝堂には4本のローソクのうち3本に火を灯しました。
来週にクリスマス礼拝の日がやってきます。わたしたちはいま、世界に神様の救いが到来することを待ち望んでいます。
いま、このときに読む聖書の箇所は、ヨハネによる福音書1章14節以降を選ばせていただきました。ここには、次のようにあります。
「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見たそれは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
ここで言われている「言(ことば)」ってものは、主イエス・キリストのことを示しています。言は肉となった、それは、神様のもとにあった神のことば、神様から生まれたもので、神様と等しい働きをする存在であることば、それが肉となった、人間となった、ってことを意味しています。
そして、このヨハネによる福音章の冒頭にある、この1章の最初の部分、全体の序文であるこの中において、イエス・キリストがわたしたちのところに来て下さることは神様の御心であり、そしてそれは、この世界が創られたとき、創造されたとき、その以前のときから、神様の御心であった、ということが、このヨハネによる福音書1章の冒頭の部分で言われているのであります。
そして、15節ではこう言われます。
「ヨハネはこの方について証しをし、声を張り上げていった。『わたしの後から来られる方はわたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
ここでは、洗礼者ヨハネと呼ばれていた1人の人物のことが言われています。この洗礼者ヨハネという人は、イエス様が公けの宣教活動をされる前に現れて、世の人に向けて、神様に対する罪の悔い改めということを説いた人でありました。
そして、その罪からの悔い改めを、神様の前で表すためにヨルダン川という川に行って、その川の水につかって清める、そうした洗礼、清める式というものをしていたのが、この洗礼者ヨハネであります。
その洗礼者ヨハネに対して、人々は、あなたが神様から遣わされてきた救い主なのですか、と尋ねました。それに対して洗礼者ヨハネは、いや、わたしはそうではない、わたしの後から来られる方がそうだと、そのように言いました。
その洗礼者ヨハネのことは、このあとの19節以降に詳しく書かれています。そして、洗礼者ヨハネという人は、イエス様が来られる、そのことの道を備えた人であると考えられています。
その洗礼者ヨハネのことを記したあとに、16節からこう続きます。
「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」
ここにはイエス・キリストという存在が、このヨハネによる福音書を書いた人たちにとって、本当に大きな恵みであったということが言われています。
それは聖書全体の恵み、すなわち神様がこの世界を創造して下さり、その中で人間はみんな生きているという、その大きな恵みを受けている中にあって、さらにイエス・キリストが神様と人間の間を取り持って下さる、和解をさせて下さる方として来られたので、そのことによってさらに恵みを受けた、ということを言っているのであります。
そして、18節でこう言います。
「いまだかつて神を見たものはいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
この言葉が、ヨハネによる福音書の序文を締めくくっている言葉でありました。そして、このあとから、新共同訳聖書では、「洗礼者ヨハネの証し」という小見出しがつけられており、洗礼者ヨハネの具体的な話が始まっていきます。こうしてこの福音書の物語が続いていくわけであります。
聖書の中に福音書というものは四つあります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネとそれぞれの著者の名前が付けられています。その四番目が、ヨハネによる福音書であります。
このヨハネによる福音書を書いたヨハネという人は、洗礼者ヨハネとは違うヨハネであります。イエス様の弟子の一人のヨハネが著者と考える人もありますし、また教会のもっと様々な人が関わって書かれたと考える人もいます。
ヨハネという名前自体はありふれた名前でしたので、どのヨハネであったかは定かではありません。しかし、誰が書いたとしても、こうした福音書というものは、誰か一人の人が最初から最後まで筆を取って全部書いた、というものではなく、その福音書を生み出した教会の人たちがいて、その教会の中でいろんな人たちの共同作業によって書かれていたとも考えられています。
ヨハネによる福音書が書かれたのは、四つの福音書の中で一番最後であると考えられています。一番最初に書かれたのがマルコ福音書。その次がマタイ。そしてルカ、最後にヨハネ。
福音書が書かれた順番としてはそのように考えられています。このような時代の流れを考えるとき、今わたしたちは待降節、すなわちクリスマスを待ち望む期間を過ごしていますが、このクリスマスということも、この四つの福音書の関係から学ぶことがあります。
それはどういうことかといいますと、四つの福音書の中で、クリスマスにまつわる物語というものが書かれているのは、この四つの福音書の中で二つだけであるということです。マタイとルカの福音書には、それぞれにイエス様の誕生物語、クリスマス物語というものが、違った形で記されてあります。
しかし、最も古くに書かれたと考えられているマルコによる福音書には、クリスマスの物語は一つもありません。マルコによる福音書は、何の話から始まっているかというと、洗礼者ヨハネの登場から始まっているのです。イエス様が公の活動を始められる前に、登場した洗礼者ヨハネ、その洗礼者ヨハネからイエス様は洗礼を受けられました。そこから、イエス様の活動が始まっていくのであります。
最も古いと考えられるマルコによる福音書は、そのように始まっているのであります。それは、現代のわたしたちにとって何を意味しているか、と考えるならば、こういうことが言えます。イエス・キリストの福音は(福音とは、良き知らせ、良きニュースという意味)、クリスマスの物語がなくても成立するものである、ということです。
つまり、クリスマスの物語というもの、それが全部事実である、と信じなければクリスチャンになれないのかというと、そんなことはない、ということであります。マルコの福音書には、クリスマスの物語は一つもありませんでした。そのことがまずわかります。
その上で、マルコ福音書の次に書かれたと考えられている、マタイ福音書とルカ福音書にはクリスマスの物語が書かれています。しかも違った内容で書かれています。それは何を意味してるのでありましょうか。
それは、最初はクリスマスの物語がなくても、イエス・キリストの福音を伝えることはできていたのでありますが、だんだんと時代が経っていくにつれて、イエス様を信じた人たちが、イエス様がお生まれになったときはどういうことがあったのだろうか、ということを知りたくなった、ということであります。
そして、様々な言い伝えを探し、そして、これが自分たちにとっての真実だと信じる、イエス・キリストのお生まれに関する物語を集めて編集したのであります。それが、マタイとルカの福音書のそれぞれに載せられている、違った形でのクリスマスの物語であります。
天使が現れておとめマリアのところに来て、マリアがイエス様を身ごもったことを告げたこと、そして、馬小屋でイエス様がお生まれになられたこと、そこに羊飼いたちがお祝いにやってきたこと、そうしたクリスマスの物語というものが、マタイやルカの福音書には違った形で記されてあります。
そして、さらに時代が下って、ヨハネによる福音書が書かれました。ヨハネによる福音書では何が書かれたでしょうか。ヨハネによる福音書には、クリスマスの物語は1つも書かれていません。その代わりに、今日読んでいるこの箇所を含めた、ヨハネによる福音書の序文、最初の部分においては、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった」、こういう言葉で始まっています。
この初めの部分は、旧約聖書の創世紀の冒頭の部分に重なるように、言葉が書かれているのであります。それは、世界の最初におられた神様の御心、その御心と共にイエス様がおられて、そこからイエス様がわたしたちの所に来て下さったのだと示します。
これは、具体的な歴史の物語ではなくて、神様に対する信仰の中において、イエス・キリストの存在とはこのようなものであるという、そういう理解を書くようになったということであります。
これは抽象的な言葉であり、また神学的な言葉です。神様のことを考えるための学問が、神学であります。神学の言葉が、ヨハネによる福音書では記されるようになったのであります。
こうして四つの福音書に、クリスマス物語がどのように扱われているか、ということを見ていくと大変興味深いことが分かります。それは、キリスト教会の一番最初の時代には、クリスマス物語はなくても良かったということです。それがなくても福音を伝えることができました。
しかし、その福音が広まっていくと、イエス様の誕生のときのことを知りたい、それをお祝いしたい、と考える人が出てきて、そして言い伝えを様々に集めて、クリスマスの物語が編集されました。
ところが、さらにときが経つとですね、そうしたクリスマスの物語をそのまま書くのではなくて、そのクリスマスの物語が持っている意味はどういうことであるか、という解釈が、神学的な言葉で書かれるようになっていった。そういう流れがあるのです。
クリスマスということ一つをとっても、この四つの福音書にある違いということから、そのように学ぶことができるのですね。このことは、まさに現代のわたしたちにとって大きな意味を持っています。それは、クリスマスということをわたしたちが語るときに、まずクリスマスの物語がなくてもイエス・キリストの福音は成立する、ということです。
そのことを前提にしながら、さらに、その福音によってわたしたちを救って下さるイエス様のことを知りたい、お祝いしたい、というわたしたちの願い、祈りに答えて、マタイとルカの福音書ではクリスマス物語が示されのです。
しかし、その物語は単に昔の時代には、これこれこんなことがありました、という物語だけではなくて、その物語に込められた深い意味があるのでした。クリスマスは何のためにあるのか。それは人間一人ひとりを神様が救って下さる、そのためにクリスマスがあるのだ、という、本日の聖書箇所にある、その深い意味を知るのです。
これらのことをわたしたちが知るために、四つの福音書のそれぞれが、クリスマスということについて意味を持っているということを、皆さんに知っていただきたいのであります。
では、そのようなクリスマスのことについて、今日の聖書箇所は何を語っているでありましょうか。今日の箇所において14節ではこう言われています。「言(ことば)は肉となってわたしたちの間に宿られた。」
これは、神様と共にあった神の言、旧約聖書の創世記にある、神様が「光あれ」という言葉をおっしゃることによって、それまでは暗闇の中でただドロドロとした何も分からない世界、混沌(カオス)でしかなかった世界に「光あれ」と神様が言うことで光が照らし出し、そこからこの世界に秩序が与えられていくという、天地創造の物語から続いていることなのです。
もちろん、旧約聖書の天地創造などの物語は、科学的、歴史的なことを言ってるのではなくて、信仰による世界観と言いますか、世界を理解する方法ということを言ってるのであります。
そのとき、神様が発せられた言葉、「光あれ」という言葉、その言葉というものは、神様と共にあったのです。そして、その神様の「光あれ」という言葉が「肉となった」、それは人間となったということです。
神様が下さる光が、まさに一人の人となった。それが主イエス・キリストである。ということをここで言っているのであります。
この言葉を読まれて、皆様は何を思われるでありましょうか。人それぞれに、いろんな感想、思いがあると思います。わたしはこの言葉を読むために、いつも何か少しドキッとするものがあります。それは何かと言うと、肉という言葉なのです。
「言は肉となって」という、このような言い方をするのは聖書だけ、教会だけと言ってもいいでありましょう。肉というのは、ここでは人間ということを表しているのでありますけれども、その肉という言葉を使うときに、何か生々しい、ちょっと怖いような、少しちょっと気持ち悪いような気もしないではない、そうした言葉遣いの不思議さというものをわたしは感じるのですね。
正直、子どものとき、この言葉を聞いたときに、えっ、どういう意味だろう? と何か不思議な気持ちになりましたし、何か自分にとってピンと来ないというか、どうしてこんな変わった言い方をするのだろうと思いました。
何か生々しい、ちょっと怖いような、それゆえに迫力がある言葉なのであります。けれども、そういう違和感をわたしはこの肉という表現に対して、かつて持っていました。今も、その違和感を感じることがあります。
しかし、この「言は肉となって」という、この言葉を読むときに、もう一つ思い出すことがあるのです。それは、ある牧師が説教の中で言っていたことであり、わたしはそれを文字、文章で読んだのでありますけれども、こういうこと言っておられました。
第二次世界大戦、太平洋戦争の中で、教会は迫害を受けました。日本の話であります。その時代の中で、本当は従いたくないことに従わせられる、そういう生活をしていた、自分の心を偽って、信仰を偽って、その戦争の体制に協力をした、そのことを振り返ったときに、その戦時中を過ごした一人の人がこう言っていたのです。「もし自分に肉というものがなかったら、わたしは最後まで抵抗していただろう」、そのように言っていたというのです。
ときの社会の体制に対して、戦争へと向かっていく体制に対して、わたしは最後まで闘っただろう、わたしに肉というものがなければ。それは、肉、このわたしの体、身体、痛みを感じる、この自分の体というものがなければ、わたしは自分の信じる神様のために体制に闘っただろう、平和のために、悪に対して闘っただろうという、その思いが、その「肉」という言葉に凝縮されているのです。
もし、わたしに肉がなかったら、肉の体がなかったら、わたしは最後まで闘っていただろう。そうした主旨のことを言っておられた、そのことを受けて、その牧師の説教の中では、こう言われていました。そのように肉というものは、人間の弱さを表すものでありますが、しかし、神の言葉が肉となってくださった、そのことを心から喜びたい、心から祝いたい。それがクリスマスの意味であると、とその説教では言われていました。
その説教を読んだときに、わたしは、その「言(ことば)は肉となって」という言葉が、それまで自分にとって違和感のある言葉だったのですけれども、初めて、その言葉に深いものを感じたのであります。
人間がもし、肉というものがなければ、つまり純粋に精神的な存在であれば何でもできるのです。自分の理想、あるいは信仰によって、徹底して自分はこう生きた。そんな生き方をすることができるはずです。けれども、そのように生きることは本当はできないのです。
人間は弱い体があるから、この肉があるから、痛みがあるから、苦しいから、だから人間は強い力の前で負けてしまうのです。理想の生活なんてできません。徹底して平和のために闘うなんていうことはできないのです。そこに人間の限界があり、弱さがある。人間は肉でしかないのです。
しかし、聖書の語ってることは何でしょうか。そのような弱い肉を持った存在に、神の言、神の子、神の独り子が、その肉となってくださった。
そのことが本当に、神様からわたしたちへのプレゼントであると、つまり、神様はわたしたち一人ひとりの人間の弱さを自ら知るものとなってくださった。そのことがクリスマスの喜びである、ということを、わたしはその説教を通して知らされたのであります。
今日の聖書箇所の中には、16節以降にこう書いてあります。
「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、
恵みの上にさらに恵みを受けた。」
恵みの上にさらに恵みを受けたとはどういうことでしょうか。
次の17節にこう書いてあります。
「律法はモーセを通して与えられたが、
恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」
ここには旧約聖書から続く神様への信仰が書かれてあります。律法、それは神様からの大切な戒めであります。しかし、その戒めでは救われない、罪深い人間を救って下さるのがイエス・キリストの福音ということであります。
神様は、全ての人に対して、この世界を創造され、そして自然を造られて食べ物を与えて下さり、たくさんの恵みを与えて下さいました。そうした恵みが、すでに世界の中にあります。しかし神様の恵みはそれだけではありませんでした。その恵みの上に、さらに恵みを与えてくださった。それがイエス・キリストの救いということであります。
もともとのこの世界には恵みが何ひとつなくて、そのあとにイエス様を通して初めて恵みが来た、ということではありません。もともと神様は、愛の御心をもって、この世界を造ってくださいました。
しかし、それだけでは人間は救われませんでした。神様がくださる、もともとの恵みの中に生きていながらも、人間自身の罪深さのゆえに、戦争を起こし、互いに戦い合い、互いに殺し合って、自らが自らを神として、自らを世界の中心として生きようとしてきました。
そのように、神なきものとして生きる人間、神を信じていても神なきものとして生きていこうとする、その罪深い人間に対して、神様は神の言(ことば)を肉として下さったのであります。神の言葉が肉となって下さって、イエス・キリストという一人の人として、わたしたちのところに与えられたのであります。
それは、もともと神様が造られた世界は、恵みで満ちていたけれども、人間がその世界を恵みではないものにしてしまった、その人間に対して、神様は人間を滅ぼすのではなくて、大きな贈り物を下さることによって、わたしたちを救おうとしておられるのだ、と言っているのであります。
それがイエス・キリストの到来であり、クリスマスであるということです。人間が神様に対して罪を犯したことによって、神様と人間の間には大きな溝ができ、人間の側からは超えられなくなってしまいました。その中で人間は、互いに戦い合い、殺し合って滅んでいくだけの存在へと落ちていきます。
しかし、そのようなわたしたちの世界にイエス・キリストが、肉として与えられた。すなわち、痛みを知る者として、人間として来てくださった。その神の子イエス様によって、わたしたち一人ひとりの人間の罪が許され救われることを福音書は告げています。それがイエス・キリストの福音ということなのであります。イエス・キリストが神様からのプレゼントであるということであります。
そして、18節はこのように締めくくられています。
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
ここには、神様という存在は目に見えない存在である、ということが言われています。神様の存在は目に見えない。それはたとえば彫刻を作ってそれを拝む、というような形でもそれはできないのですね。目に見えるものではない。
しかし、その神様は、神の存在を一人の人、イエス・キリストに現してくださった。このイエス・キリストの福音ということを通して、わたしたちは救われるのであります。
それは、天の高いところからわたしたちを眺めて、愚かな人間たちを上からただ眺めている神様ではなくて、わたしたちが生きている世界の真っ只中に来て下さり、弱い人間となって下さる神の言、それによって神様はわたしたちを救って下さるということであります。
そのイエス様が、神の光であり、わたしたちはその光を指し示して生きていきます。そのときに不思議なことが起こります。それは何かというと、神様の光を指し示すその一人ひとりであるわたしたち自身が、神様からのプレゼントとして、この世に遣わされていく、ということであります。
わたしたちは自分自身の存在を卑下していてはいけないのです。どんな人であっても、イエス・キリストによって罪を許されて、主イエス・キリストのことを、クリスマスのことを、人に伝える者とされます。それは、わたしたち一人ひとりが神様から、この世界に対するプレゼントにしていただける、ということなのでであります。
わたしたちはそれぞれ、来週にクリスマスを迎えます。わたしたち自身が光を指し示すプレゼントとなって、この世に出ていきたい。そして、クリスマスの礼拝に、みんなで集っていきたいと願うものであります。
お祈りをいたします。
天の神様。わたしたち一人ひとりが、弱く小さな存在としてこの世の中にあって、ときに痛めつけられ、ときに苦しめられ、ときに命を奪われ、そして消えていくような存在であります。この世界を見るときに、わたしたちの存在はまさに肉の存在であります。その肉になってくださった神の独り子イエス・キリスト、その恵みに心から感謝して、わたしたちもまた、どんなに小さな存在であっても、光を指し示して、わたしたち自身が神様からのプレゼントとして、この世を歩んでいくことができますようにお導きください。
この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。
アーメン。
「野宿から星の旅へ」
2023年12月24日(日)京北教会 クリスマス礼拝説教
聖 書 ルカによる福音書 2章 8〜21節 (新共同訳)
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
天使は言った。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。
この方こそ主メシアである。
あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を
見つけるであろう。
これがあなたがたへのしるしである。」
すると、突然、この天使に天の大群が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適(かな)う人にあれ。」
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、
「さあ、ベツレヘムへ行こう。
主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
そして急いで行って、マリアとヨセフ、
また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
その光景を見て、羊飼いたちは、
この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、
神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。
これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
(上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
改行などの文章配置を説教者が変えています。
新共同訳聖書の著作権は日本聖書協会にあります)
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(以下、礼拝説教)
クリスマス礼拝の日が来ました。本日の聖書箇所はルカによる福音書2章8〜21節です。
この箇所の前にある2章1〜7節には、イエス様が産まれた場所が馬小屋であったこと、それは両親ヨセフとマリアが強いられた長い旅の途中であったこと、そして生まれると飼い葉桶に寝かせられたことが記されています。
そのさらに一つ前の箇所には、イエス様の家族や親族たちの話、また、マリアに天使が現れてイエス様を身ごもることになることを告げる場面、そうした物語が記されています。
こうした一連のクリスマス物語のなかで、今日の聖書箇所は、そのクライマックスを迎えました。
このとき、羊飼いたちは夜に羊と共に野宿していたとあります。羊飼いは、雇い人に雇われて羊を連れて移動し、羊に対して責任を負っています。この羊飼いという仕事は、畑を耕したり物を作ったりする仕事に比べると、社会的に低い立場と見られていたと考えられます。
町の人々が寝静まっているときに、草原で羊たちと共に野宿していた、そうした姿が職業としては社会の下の職業だと思われていたのでしょうか。
その彼らのところに神様から遣われされた天使がやってきました。聖書の中には、こうして天使とか御使いと呼ばれる存在が時折登場します。そんなにしょっちゅう出てくるわけではありませんが、旧約聖書の時代にも新約聖書の時代にも、天使は不思議な形で登場します。
聖書に出てくる天使とは、神様が人間たちの世界に対して働きかけるときに、登場します。神様の側からの物語を進めていくために、神様が遣わされるのが天使です。それは、わたしたちの社会の構成員ではなくて、あくまで神様の側から現れて、そして役割を終えると消えていく存在です。
天使が現れて、そして消えたあとに残るのは、ただ言葉だけです。神様から預かった言葉を天使はわたしたちに告げて、そして影も形もなく消えていきます。
現代の日本社会に生きているわたしたちは、天使なんていうものが現実には存在しないことを知っています。といいますか、それが現実だと信じることをゆるされていません。科学的な考え方をする現代社会には、天使の居場所がないのです。
そんなわたしたちにも、神様からの言葉は聖書の言葉を通してやってきます。そして、その聖書の言葉はいったい誰がこのわたしに持ってきてくれたのだろうか、と考えるときに、そこに、目には見えない天使がいることをわたしたちは信じることができます。
天使の存在は、必ず神様の言葉と結びついています。別の言い方をすれば、神の言葉は、天使のようにわたしたち一人ひとりの心の中にやってくるのです。
羊飼いたちのところにも、神様の言葉がやってきました。10節。天使は言った。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。
この方こそ主メシアである。
あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を
見つけるであろう。
これがあなたがたへのしるしである。」
すると、突然、この天使に天の大群が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適(かな)う人にあれ。」
こうして、言葉がやってきました。羊飼いたちにとっては、唐突な知らせでした。
何の前触れもなく、そして自分たちにこのような言葉がやってくるのがなぜか、ということは全くわかりません。本当に突然に、神の言葉がやってきたのです。
このあと、羊飼いたちはどうしたでしょうか。ただ驚いて、びっくりして、何もできなかったようです。彼らは、その場にいて、自分では何もせず、何もできず、ただ天使たちの言葉を聞いてじっとしていただけでした。
彼らがどんなふうにあわてたか、困ったか、というような描写はここにはありません。どちらかといえば、ただポカンと天使たちの言葉を聞いていただけかもしれません。
このようなとき、皆さまはもし自分自身がこの羊飼いたちの立場に置かれたら、何を考え、何をしたでしょうか。これはなかなか想像しにくいことですね。というのは、これに似た経験というのをわたしたちはふだんの生活の中ですることがないからです。天使が現れてわたしたちに何かを語る、なんていう経験は、まずありえないと思います。
ですから、この羊飼いたちの気持ちなんていうものは、自分たちにはわからないと考えるのが普通かと思います。というか、そもそもこんな羊飼いたちのような経験は、実際にはありえない、これは聖書の中だけの物語なのだ、と考えたほうが現実的な態度かもしれませんね。
しかし、あえて申し上げますが、実はわたしたちは、この羊飼いたちと全く同じ経験ではありませんが、少し似た経験というものは、わたしたちが望みさえすれば経験することができるのです。それは何かといいますと、毎週の日曜日の教会での礼拝ということです。
先ほど、天使というものは,神様から人間に働きかけて、神様の側での物語を進めるために現れて、そして役割を終えると消えていくものだと申し上げました。そして、あとに残されるのはただ神の言葉だけであると。礼拝ということもまた、そのような天使の働きと同じ働きを持っています。
礼拝の中では聖書の言葉が朗読され、祈りの言葉が言われ、そして聖書の内容の解き明かしである説教がなされます。またみんなで神様を讃える讃美歌を歌います。礼拝の中には、たくさんの言葉があり、その言葉の一つひとつは、神様の側からの物語をこの現実の社会の中で進めていくために用いられる言葉です。
毎週の教会の礼拝はそんなに長い時間ではありません。1時間ほどです。その時間が終われば、またわたしたちは日常に帰っていきます。その日常の中には、天使はいません。
そして礼拝の讃美歌も祈りも聖書の言葉も、わたしたちの日常生活の中には、そうそう出てきません。わたしたちが神様の言葉に出会うのは、やはり礼拝です。礼拝をするならば、その中で必ず神様の言葉が語られ、それはわたしたちの心の中に、残って、どこかでわたしたちを守ってくれています。まるで、お守りのように。
今日の聖書箇所に登場する羊飼いたちが、野宿をしている夜中に、突然に天の光が輝いて、天使たちが現れて、主イエス・キリストのお生まれを告げ知らせた、その様子は、これは実は、礼拝の様子なのです。神様の側から与えられた、礼拝の様子です。
羊飼いたちの側が願っていたわけではありません。神様の側から突然与えられた礼拝の場でした。その礼拝において、天使の声が響きます。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。
この方こそ主メシアである。
あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を
見つけるであろう。
これがあなたがたへのしるしである。」
すると、突然、この天使に天の大群が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適(かな)う人にあれ。」
こうして羊飼いたちは神の言葉を聞き、そして讃美歌まで聴くことになりました。
これは実は、礼拝の場面です。
突然に与えられた礼拝を、羊飼いたちはしているのです。
そして、そのごく短い礼拝が終わりました。
驚くべき知らせを告げる神の言葉を聞いて、礼拝が終わりました。
では羊飼いたちはどうしたでしょうか。
15節。
「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」
羊飼いたちは、突然に与えられた短い礼拝の場を通して、自分たちが今なすべきことが何かを理解したのです。それは、このように特別なことがあったのだから、自分たちは神の言葉に従って今から行動しよう、ということでありました。
その行動とは何か。救い主、イエス・キリストのお生まれを見つけるということでした。そのために彼らは旅立ちます。羊たちを置いていくわけにはいきませんから、羊も連れていったのか、あるいは羊の番をして残る人とイエス様を探しにいく人の二手に分かれたのか、そうした細かいことは聖書には何にも書いていません。
ただここで必要とされたことは、礼拝というものは、礼拝として行うことだけに意味があるのではなく、その礼拝の中で与えられた神様の言葉を受け止めて、自らの行動を判断する、ということでした。
そして羊飼いたちは出発し、マリアとヨセフ、そしてイエス様の三人家族がいる旅先の馬小屋を見つけ出します。どうやってその場所がわかったのか、そのことは書いてありません。
マタイによる福音書によれば、誕生されたイエス様の所に行く道は星が導いたとあるので、このルカによる福音書の物語でもそうであったと考えていいでしょう。星が旅の目的地へと確かに導いてくれました。そして、羊飼いたちは、救い主イエス・キリストにお会いできたのです。
そのあと20節。
「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」
こうして、ルカによる福音書のクリスマス物語はここですべて終了します。一番最後の所で羊飼いたちは元々いた場所、すなわち野宿をしていた場所に帰っていきます。それ以降、羊飼いはもはや聖書の中に登場しません。
野宿の場から天使に導かれて旅をして、そして、生まれたばかりのイエス様と両親ヨセフとマリア、その三人家族を、自分たちが天使から聞いた言葉を持って祝福したあとは、消えていくのです。
この羊飼いたちは、まるで天使のような役割を果たしています。野宿していて、天使に出会った羊飼いたちが、次に自分たちも新しい天使として神様に用いられたのです。
そのことにおそらく羊飼いたち自身は気がついていなかったでしょう。彼らはただ喜んで、うれしくなって、自分たちがなすべき旅をしたのです。そして、神の独り子イエス様と、その両親マリアとヨセフを祝福したのです。この三人家族に、最初の隣人として羊飼いたちはやってきました。星に導かれて。
このとき、なぜ羊飼いたちは、こうしてこの三人家族を祝福したのでしょうか。それは、来るべき未来において、この赤ちゃんが大きくなったときには、きっと今よりも良い世界になっていると信じることができたからです。
そのように信じることができたのは、天使たちが現れた礼拝の場において、神様の言葉が自分たちにそう語りかけてくれたからであります。
そして、ここでこのとき羊飼いたちに起きた出来事は、実は、現代の日本社会に生きているわたしたちにとっても、全く同じく起こることなのです。
いま、わたしたちのいるこの礼拝堂には、天使の姿はありません。しかし、神の言葉は確かにいま皆さま一人ひとりに到来しています。この赤ちゃんのイエス様が大きくなったときには、きっと今よりも良い世界になっていると、信じるに足る確かな神の言葉が今日、いや毎週の教会の礼拝において読まれ、語られ、讃美されているのです。クリスマスの出来事は、実はわたしたちが暮らす現実の中で起こっているのです。
いまわたしは「現実」という言葉を申し上げました。
皆さまはいまの時代に「現実」という言葉を聞いて、何を思い浮かべられますでしょうか。「現実」、それは様々なことをわたしたちに思い出させる言葉です。とても重い響きがあります。ときには、それは、わたしたちの心から信仰ということを、ひきはがし、ひきずりだして、追い払ってしまう力がある存在です。
パレスチナにおけるイスラエルとハマスの戦争を見てください。ロシアとウクライナの戦争を見てください。緊張する東アジアの各国の情勢を見てください。もはや武器を手に取らなくては平和や独立や人権を守ることができない、そのような恐れを深く深く感じる時代です。
この時代に生きることは、絶望と隣り合わせのことかもしれません。それぐらいに現実は重いのです。
「現実」、この言葉を一言つぶやくだけで、どんな夢も覚めてしまうような気が、わたしはするのです。みなさまは、いかがでしょうか。
そんなわたしに、最近こんなことがありました。高校3年生のときの一クラスの同窓会がありました。9月には学年全体の大きな同窓会があったのですが、そのあと、今度はクラスでも同窓会をしようという話になったらしく、3年1組の担任だった英語の先生がご自宅を会場に提供してくださって、同窓会をすることになりました。わたしは同窓会に行くこと自体が少ない人間ですが、3年1組の同窓会に久しぶりに行くことにしました。
担任の先生にお会いするのは40年ぶりです。大きな同窓会ではなく、お家で15名ほどの人数で開かせていただきました。わたしは皆さんと会うこと自体が40年ぶりでドキドキしました。
それは、わたしは教会の牧師という珍しい職業の道に行きましたから、他の皆さんがわたしをどんなふうに思うかな、とか、40年ぶりのクラス会の場に行って、他の人と話が合わなかったらどうしよう、とか心配したからです。それで最初は、12時集合してもう2時ぐらいには帰るつもりです、と言っておきました。雰囲気が合わなかったらそそくさと帰ろうと思っていたのです。
もう駅の待ち合わせの場所のときからドキドキしていたのですが、一人また一人と同窓生がやってきました。40年も経つとさすがに外見が皆さん変わっています。だれ? と思いながら話をしてやっとわかる人もいました。
しかし、みんなでしゃべっていると段々と思い出して、お互い打ち解けてきます。わたしに話しかけてくれる人も何にもいました。そして40年ぶりに懐かしい担任の先生にお会いしました。思わずマスクを取って「今井牧夫です。お久しぶりです」と言ったわたしに、先生の第一声は「うん、覚えてるよ」でした。
先生のお宅で、お昼ご飯の準備を何人かの同窓生がしてくれて、昼食の鍋物の用意ができました。さあ、食べようか、というときに、一人の同窓生がこう言いました。「そうや、今井君は牧師やから、お祈りしてもらおうや」。それを聞いてわたしは、こんなときになんちゅうこと言うねん、やめてくれ〜と一瞬思ったのですが、なんと他の人たちも「そうやそうや、してもらおう」と言い出したのです。
公立高校でしたから、キリスト教なんて高校時代にはクラスのみんなにとっては、何の関係もなかったことです。ですから、なんでやねん、とちょっと困ってしまって、どうしよう、と戸惑ったわたしなのですが、もう鍋が出来ているので時間を置いてはいけないと思って、こう言いました。
「はい、そしたらお祈りします。目を閉じて手を合わせて下さい」と。そしたら、手の合わせ方はこれでいいのか、と聞かれたので、それでいいです、と答えて、それから短い食前のお祈りをしました。本当に、そんなところでお祈りするつもりは全くなかったので、何をどう言ったらいいのか、自分でもわからないままに口を開いて短くお祈りしました。
すると、お祈りを終えたあとに、皆さんがこう言ってくれたのです。めっちゃ良かった。ありがとう、牧夫。男子も女子も、そう言ってくれました。わたしはびっくりしました。みんなクリスチャンでもないのに、なぜそう言ってくれるのだろう、と。
それでもう、お祈りのことは終わりかと思っていると、今度は時間に遅れてやってきた同窓生が一人いて、その人がテーブルについたときに、あ、もう一度牧夫、お祈りしてくれ、さっきこいつおらんかったから、と言われました。え〜、さっきやったやん、と言いましたが、いや、お前のお祈りはむっちゃくちゃ良かった。せやから、ぜひやってくれ、とのことだったので、またお祈りしました。すると、こう言われました。「いま、この場にいない人にも」とお祈りしてくれたとき、心に来るものがあったわ」。
そんな経験をわたしは最近しました。本当に意外な経験でした。そのときにお祈りを、あとで思い出して紙に書いておきましたので、ちょっと読ませていただきます。
天の神様、今日、こうしてここにみんなと共に集まれたことを感謝します。
ここで今日集まったわたしたち一人ひとりに、また、今日来られなかった人たちにも、神様の恵みが豊かにありますようにお願いします。
井上勇一先生にお会いできたことを感謝します。
井上先生がこれからもお元気で、したいことができますようにお守りください。
また、わたしたち一人ひとりが、それぞれに自分のしたいことができますように。
神様からいただく恵みを感謝いたします。
この祈りを主イエス・キリストの御名を通してお献げいたします。アーメン。
そんな高校3年1組の同窓会が、最近ありました。結局、夜の最後まで残って楽しい時間を過ごして帰ってきました。
本日はクリスマス礼拝です。わたしたちの救い主イエス・キリストのお生まれを、記念し、祝い、世界の平和を心から祈る日であります。しかし、その一方で、わたしたちの心には現実というものが重くのしかかっています。
この現実の世界を変えることは並大抵のことではありません。というか、もうわたしたち一人ひとりの人間が何をしたってムダだ、そういう気持ちがわいてくるのです。
しかし、そんなわたしたちにもクリスマスの日がやってきます。この日に神様のことを思うとしたら、それは何のためなのでしょう。
それは、サンタクロースからどんなプレゼントがもらえるかと考える……のでもいいのですけれど、サンタクロースのことはサンタクロースにまかせて、教会はやはり神様を礼拝したいと思うのです。この重苦しい現実の中にあって。
なぜなら、この現実の中にあってわたしたちが礼拝することは、今日の聖書箇所にある羊飼いたちの話と全く同じ恵みにあずかることだからです。
野宿をしてした羊飼い、世の人たちが寝静まっている中で起きていなくてはならない、世の人たちから忘れられたような場にあって生きている人たちに、突然、降ってわいたように神様への礼拝の場が備えられるのです。わたしにとってのあの同窓会の食前のお祈りの場のように。
礼拝、というものは、同窓会の一場面で突然お祈りをさせていただくような、そんな突然の形でもやってくるのです。自分たちが求めたときにやってくるのではない、神様の側からやってくる礼拝、その礼拝の場にあって、そこにいる人もいない人も、神を信じる人も信じない人も、神の言葉によって祝福されるのです。
クリスマスの日に野宿していた羊使いたちの所に、突然、礼拝がやってきます。天使の声が空から響きました。そして、神の言葉が宣言されます。
羊飼いたちが生きているこの世界は、一人の赤ん坊が大きくなったときには、今よりも良い世界になっている、神様の救いのわざが世界中に宣べ伝えられる、そんな時代が必ず来ると神の言葉が宣言されるのです。
そしてそのあとに高らかな讃美歌の声が響きます。一人二人ではありません。聖書には天の大群と書かれています。たくさんの天使たちの讃美歌が夜空に響きました。
その一方で、世界にはたくさんの悲しみが満ちています。ここが戦場であったらどうすればいいでしょうか。戦場、それは野宿をせざるをえない場所です。そこは、礼拝なんてする場所ではないとわたしたちは思います。今は礼拝なんてする時間ではない、ここは、礼拝などする集まりではない、とも思います。礼拝なんてお上品に見えるものからは縁遠いように見える世界が、現実の中にあります。
ガレキの町の姿がニュースで伝えられるとき、そこは礼拝の場所ではないはずです。そこはせいぜい、野宿しかできないような場所です。しかし、実は、そのような場所にも神の言葉が響きます。いや、そこでこそ、人間は神様を仰ぎ、神様の言葉を聞く者になるのです。そして、その礼拝の場にあって、人々は何かに強いられてではなく、自らの希望によって、神様が導くところへと、星に導かれて行動する者になります。この羊飼いたちのように。
「さあ、ベツレヘムへ行こう。
主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」
お祈りをいたします。
神様、わたしたちにクリスマスをくださり、感謝いたします。主イエス・キリストの御降誕を心から祝って祈ります。それぞれに自分が心にかけている、あの人、この人、あの地域、あの国、あの出来事、あの世界に、戦いをやめて和解を作り出す、その勇気と優しさをお与えください。わたしたち一人ひとりがそれぞれに思うこと、言葉にならない平和への思いに、神様の言葉と祝福をお与えてください。
この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
アーメン。
「忘れられていない天使」
2023年12月31日(日)京北教会 礼拝説教
聖 書 マタイによる福音書 1章 18〜25節 (新共同訳)
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。
母マリアはヨセフと婚約していたが、
二人が一緒になる前に、
聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
夫ヨセフは正しい人であったので、
マリアのことを表ざたにするのを望まず、
ひそかに縁を切ろうと決心した。
このように考えていると、
主の天使が夢に現れて言った。
「ダビデの子ヨセフ、
恐れず妻マリアを迎え入れなさい。
マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
マリアは男の子を産む。
その子をイエスと名付けなさい。
この子は自分の民を罪から救うからである。」
このすべてのことが起こったのは、
主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、
妻を迎え入れ、男の子が生まれる前までマリアと関係することはなかった。
そして、その子をイエスと名付けた。
(上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
改行などの文章配置を説教者が変えています。
新共同訳聖書の著作権は日本聖書協会にあります)
…………………………………………………………………………………………………………………
(以下、礼拝説教)
本日2023年の最後の日を迎えました。この日が同時に今年最後の礼拝の日であります。この日にあたりクリスマスの聖書の箇所を選ばせていただきました。教会暦で言えば今日は、12月25日クリスマスの日を迎えたあとの降誕節第1日曜日です。
新共同訳聖書では、今日の聖書箇所の冒頭に「イエス・キリストの誕生」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは元々の聖書にはなく,新共同訳聖書が作られたときに読み手の便宜を図って付けられたものであります。
今日の箇所には何が書いてあるのでしょう。
18節にはこうあります。
「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、密かに縁を切ろうと決心した。」
このように書いてあります。世界の救い主であるイエス・キリストの、誕生の次第はどのようであったかと、初代の教会の人たちの中で問われたことに対する答えとして、語り継がれていた物語が今日の箇所であります。
「母マリアはヨセフと婚約していた」、この言葉から始まります。マリアがヨセフと一緒になる前に聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。結婚する前にこのようになることは,聖書の律法によれば罪であり、当時の社会の中にあって大きな問題であり、認められないことでありました。
「そこで夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、密かに縁を切ろうと決心した。」そのようにあります。この世界を救ってくださる救い主イエスキリストの誕生物語の最初は、このように不穏なことで始まっているのであります。
世界を救ってくださる救い主の誕生、それはめでたいことであり、お祝いすべきことであり、大きなことのはずです。しかし、そのことを物語るときにマタイによる福音書では、随分そっけない言葉、短い言葉で不穏なことを記しています。
その次にこう続きます。
「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」
こうして、ここで天使の言葉によって生まれてくる子どもがイエスと名付けられ、そのイエスが自分の民を罪から救うということ、つまりイエス様がこの世界の救い主である、ということが宣言されます。
その次にこうあります。
「この全てのことが起こったのは、主が予言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は「神は我々と共におられる」という意味である。』」
ここでは旧約聖書のイザヤ書7章14節の言葉が引用されています。一人の若い女性が、男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれるとあります。インマヌエルという言葉は、「神は我々と共におられる」という意味です。
そして、イエスという名前は「神はわが救い」という意味の言葉です。神はわが救い、それは、神は我々と共におられるという意味であることが、ここで解説されているのであります。
こうして、マリアとヨセフの婚約、そして不穏な流れ、そのあとに天使の宣言という形で、イエス・キリストの誕生物語は、まさに神様がわたしたちを救ってくださるという、旧約聖書に記された神様の御言葉の実現である、ということが、堂々とした文章でここで語られているのであります。
こうしてマタイによる福音書の最初にあるクリスマスの物語は、クリスマスの物語らしくなったと言ってよいでありましょう。
ルカによる福音書では、もっと詳しくいろんな形でイエス様の誕生の歴史を記すという形で、ザカリア、エリザベト、ヨセフ、マリアそして天使が登場する長い物語が記されてあります。
そのルカの福音書に比べて、マタイによる福音書は短い文章です。イエス・キリストの誕生ということが、こういう形で記されているのであります。そして24節。
「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じた通り妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」とあります。
こうしてクリスマスの物語は一気に進んでいき、やがてイエス様がお生まれになられました。
そしてマタイによる福音書の2章へと続き、3章では洗礼者ヨハネの登場となり、ここからあとはマルコによる福音書と基本的に同じ流れの物語が続いていきます。
福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つがありますけれども、それぞれに違った記され方がされています。マタイによる福音書では、クリスマスのイエス様の誕生それ自体の物語はごく短い言葉で記されてあります。
そのことから分かることは、クリスマスの物語というのは、これぐらい短くても成り立つのだ、ということであります。マルコの福音書では、そもそもクリスマス物語が記されてありません。それでも福音は成り立つのだということであります。クリスマスの物語、それはキリスト教にとって、主イエス・キリストの福音にとって、絶対になくてはならないものではありません。
しかし、キリスト教を信じる人たち、主イエス・キリストを信じる人たちが、クリスマスの物語を必要としたのであります。わたしたちが信じる救い主イエス・キリストのお生まれを知りたい。世の人々のその願いに応えて、福音書を記した人たちは当時の伝承、言い伝えを集めて編集して今日の福音書の中にある形に記しました。
しかし、そのクリスマスの物語がなければ福音、主イエス・キリストの良き知らせは、成り立たないということではなく、イエス・キリストのお生まれの物語は、これだけあれば十分です、とでもいよう形で、ごく短く記されているのであります。
では、今日の聖書箇所にある、この短いマタイ福音書の物語からわたしたちは何を神様からのメッセージとして与えられるのでありましょう。
皆様は、この箇所を読んで何を思われたでありましょうか。
今日の礼拝説教の題は「忘れられていない天使」と題しました。この、忘れられていない天使というのは、どの天使のことかと言えば、今日の聖書箇所に登場する「主の天使」のことであります。マリアと縁を切ろうとする、重大な決断をしたヨセフの所に夢の中で現れた天使であります。
その天使の言葉を聞いて、ヨセフはそこで告げられた神様の御言葉に従って行動し、そしてイエス様がお生まれになられて以来、ヨセフは父親としての役割を果たすことになりました。
ヨセフはその生涯にあってでこの天使のことを忘れることはなかったでありましょう。自分があのとき、なぜ、あのような大きな決断ができたのか。それは天使がそのように示してくれたからです。そのことをヨセフは忘れることがありませんでした。
ですからこうして、そのことが物語として残され、伝承として言い伝えられ、マタイによる福音書の冒頭にこうした言葉が残されているのであります。もしヨセフが、天使のことを、夢でこんなことを見たなと思っただけで忘れてしまっていたら、歴史は変わっていたのです。
マタイによる福音書は書かれなかったかもしれません。イエス様の存在ということも、どうなっていたか。それぐらい歴史が変わることになっていたのかもしれません。しかしヨセフは、この夢の中で見た天使のことを忘れることがありませんでした。
ひるがえって、この現代の社会の中を生きているわたしたちはどうでしょう。自分が夢で見たことをちゃんと覚えているでありましょうか。たとえば、わたし自身は夢ということは最近あんまり見ないのであります。
けれども、寝ながら考え事をしてるということはあります。そして、朝起きてまだ、うつらうつらしているようなときにも、何かぼんやりと考え事をしていて、そうだ、このことは忘れないように残しておこう、と思ったことがあれば、それを起きてからペンで紙に書く、ということが時々あります。
忘れないようにしようと思っているのであります。けれども、これは実はわたしにとっては中々難しいことなのです。というのは、半分寝ているような頭の中であれこと思い出して、これは残しておこうと思っても、布団を出て立ち上がった瞬間をそれを忘れている、ということが多々あるのです。
それがなぜか分かりませんけれども、不思議なことに、そういうまどろみの中で考えたことというのは、あとまで残っていかないのです。ですから夢にしても、夢を見ていて、ハッと目が覚めたとき、面白い夢を見たな、これをあとで書いておこう、と思ったとしても、あっという間に夢を忘れていきます。
皆さんはいかがでしょうか。夢を書き残すこと、うつらうつらしている中で、思っていることを書き残すことは、結構難しいのではないでしょうか。それに比べると、このヨセフは本当に立派だったと思います。天使から伝えられたことを本当に覚えていて、忘れることなくその通り実行し、しかもそのことを言葉で語り伝えていたのであります。
こうして、この天使の存在がヨセフに忘れられていなかったから、今のわたしたちのキリスト教会がある。あるいは今の人類の歴史がある。といっても、それは大げさに聞こえるかもしれませんけども、そんなに大げさではないとわたしは思うのです。
天使のことを忘れなかったヨセフ。その、忘れなかった、ということによって、神の御心というものが世界に実現しているのであります。
しかしながら、現代の日本社会に生きているわたしたちにとっては、天使という存在が、そもそも夢の中のような存在です。それは物語の中にだけ出てくるものであって、実際にはそれは存在しないということをわたしたちは知っています。
もちろん、心に思い描くことはできます。しかし実際には、天使はいません。そういう形で、わたしたちは「実際にはいません」という言い方で、天使の存在を忘れてしまっています。
そのようなわたしたちに対して、神様は聖書というものを与えてくださいました。現実には天使というものはいないのでありましょう。しかし、聖書を開くときに、そこに天使がいて下さいます。神の言葉を通して、天使はわたしたちの所に今日も来て下さるのです。
もし、わたしたちが天使の存在を忘れてしまったとしても、聖書の御言葉を通して天使が来てくださいます。そのときにわたしたちは、このヨセフと同じような、人生の大きな重要な決断をすることができるのです。
わたしたちそれぞれにとって、人生の重要な決断とはどんなものでありましょうか。今日の聖書の箇所でヨセフが経験したような、こういう経験をした方がおられるでありましょうか。全く同じ経験をした人っていうのはありません。
しかし、これに似たような経験、あるいは、どう言ったらいいのでしょうか、人生において本当にもうこれはやめようと思っていた、しかし、やはりこれはやるべきだと思い直した、そんな経験はおありかもしれません。
あるいは、世間一般の正しさ、社会における正しさ、または、その宗教の信仰における正しさ、というものと現実がぶつかるときに、自分がどういう決断を下すか、という、この非常に難しい決断、その中にあって、ある一つの決断をした。そういうふうに、過去にそういう決断をした、ということが皆さんはおありでしょうか。
特に、そんなに難しいことはなかった、という方もおられるでしょう。いや、実際ありましたよ、たくさんありましたよ、という方もおられるかもしれません。人生の決断というものは、そのときにはものすごい決断だと思っていても、もう10年もしたら、その決断をしたこと自体を忘れている、なんていうこともあります。
そのときそのときで、その決断の重さとか意味というものは変わってきます。あるときには良かったと思っていても、10年経ったら後悔している、ということもあります。人間の決断というは、どうにもあやふやなものなのでありましょう。
しかし今日の箇所において、このヨセフがした決断というものは、そんなあやふやなものではなかったのであります。それは、自分だけの人生の決断ではなくて、この世界全体に関わる決断だったからであります。ヨセフは一体なぜ、こんな決断をすることができたのでしょう。
そもそも、ヨセフにこのように説得力のある言葉を語ってくれた天使というのは、どういう存在だったのでしょう。わたしは様々に考えてみました。この天使というものは、どういう存在だったのか。
今日の聖書箇所を読みながら、いろいろに考えていると、ふと想像することがありました。それは、もしかしたら、この天使というのは、実はイエス様だったのかもしれない、という想像であります。これはわたしの空想です。
生まれてくるイエス様ご自身が、天使の姿をとって、ヨセフに働きかけてくれたのだと。大丈夫なんだよ、ヨセフとマリアは一緒になっていいんだよ、そしてマリアはイエス様を産んでいいんだよ。ヨセフ、あなたが父親になっていいんだよ。
そんなふうに、生まれてくるイエス様が天使の姿をとって、ヨセフに夢の中で言ってくれたのだろうか、とふと空想しました。そんなことは聖書の中には一つも書いてありません。けれども、天使の言葉というのは、神様のお告げです。
その神様はどういう方かと言えば、「三位一体」の神様という神学の定義で言えば、イエス様もまた神様でありますから、イエス様ご自身がヨセフにここで「神の言葉」を言ってくれたのだ、と考えることも、あながち全く間違ってるとは言えない気がします。そんな空想をすることもできます。
そうやって空想をしていましたら、何でも言えてしまうわけですね。何でも言えてしまうこと、というのは、あやふやなことなので、そんな確かなことではありません。とはいえ、今日の箇所を読みながら、わたしはさらに考えてみました。
こんなふうに、ヨセフに対して説得力を持って語りかけてくれた天使、というのは一体何だったのか。それは、もしかしたら、このヨセフの心の中にあるヨセフ自身だったのではないか。ということも想像してみました。
ヨセフはこのとき、本当はマリアと一緒になりたかったのです。マリアのことが大好きだったのです。一緒になりたかったのです。しかし、思いがけないことが起こったので、これは社会の中にあって認められない、律法にあって認められない、この宗教の社会の中で認められないことだとヨセフは考えました。
こんな中で、このまま二人が不幸になって良いわけがないので、ヨセフはマリアと密かに縁を切ろうと決心しました。でもその一方で、ヨセフの心の中にはもう一人の自分がいました。
わたしは、わたしは……、とマリアのことを考え続けるもう一人の自分がいました。そして、そのヨセフ自身の心の中に隠れている、ヨセフの本当の思い、その言葉を神様は、天使を遣わすという形で引っ張り出してくださいました。
そして、主の天使が告げたことは、ヨセフに対しては、ヨセフ自身の思いということではなくて、神様の御心ということでありました。この世界全体を救うために、あなたはマリアと一緒になりなさい、そしてその子をイエスと名付けなさい、ということでした。
生まれた子どもに名前を付けるということは、当時の親の特権でありましたから、その名前をイエスと名付ける、それは神様がその親となるということでありました。だから、ヨセフが本当の意味での親になるわけではなく、生まれてくるイエス様は神様の子です。
しかし、その神の子イエス様を守るために、あなたが父親になりなさい、と神様がヨセフに対して、父親になるという使命を与えてくださったのであります。そしてヨセフは、その天使の言葉を聞いて「そうか」と思って行動したのであります。
それは、ヨセフ自身も気がついていない、自分自身の中に隠れているもう一つの自分の心であったのではないか、とわたしは考えてみました。これは、わたしの空想であります。聖書の中には、こんなことは一言も書いてありません。
主の天使という存在が、どういう存在であるのか。それはお生まれになられるイエス様自身であったのか。それとも、ヨセフの心の中の、もう一人の自分自身の声であったのか。そんなことは分かりませんね。聖書の言葉に従って言えば、それはまさに「主の天使」の言葉でありました。
今日、この現代の日本社会を生きているわたしたちは、天使という存在に会うことがあるでしょうか。そんなことはありえないと、現代の科学的な世界観、歴史認識を持っているわたしたちはそのように思うのであります。
その一方で、聖書を開く時は、そうしたこの社会の中でみんなが考えている考え方、それを少し……、何と言ったらいいのでしょうか、少しゆるめてみる。
少し肩の力を抜くようにして、そうした考え方を緩めてみる。そのことにおいて、その天使というものがどういう存在であったのか、ということを、自分の中であれこれと考えることが許されていくと、わたしは思うのであります。
神様のメッセージを受け取るとき、わたしたちの心の中にはいろんな思いがあふれます。そのあふれる思いの中から、わたしたちは神様を探している。そして、神様を探そうとしている自分が、実は神様から探されている自分だということに気がつきます。
ヨセフの物語を通して、天使の物語を通して、これはわたしに何を言おうとしてるんだろう、と一生懸命探しているわたしは、実は神様から探されているわたしであり、神様がわたしを探してくださっている手を、しっかりとつかむことによって救われていくのであります。
聖書を共に読む旅、ということを皆様と共にこの2023年の間、ずっとしてまいりました。明日から2024年が始まっていきます。また新しい旅をこの京北教会において、皆様と共にしていきたいと願っております。お一人一人がそのおられる場にあって、聖書を通して、神様と出会う旅をしていただきますように。
天の神様、そのことを心から願います。
この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
アーメン。