京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

クリスマス礼拝2010

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 クリスマス礼拝の日を迎えた。礼拝の後にクリスマス祝会。
 礼拝に40人、そのうちから38人の方が祝会まで参加された。感謝。

 この日に来られたある方から、教会にと一冊の聖書の寄贈を受けた。
 感謝申し上げる。

 明治17年発行の日本語の新約聖書。引証付きのものである。

(引証付きとは、聖書のある箇所について、その箇所に関連する聖書の別の箇所の位置の表記がついているということ。聖書の詳しい勉強をするためにとても便利)

 この時代にすでに引証付きのものが出版されていたとは知らなかった。
 実に早い時代から、聖書が熱心に学ばれていたことの証しである。

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 その方の母方の祖父から代々伝わっている聖書ということで、聖書本文のあちこちに書き込みが残されている。中表紙を見ると、「耶蘇降生一千八百八十四年」と記されている。つまり紀元1884年に横浜で出版されたもの。「耶蘇降生」(やそ・こうせい)…いかめしい言葉に思えるが、イエス・キリストが降誕されたということであり、つまり現在のクリスマスのことといってよいだろう。そこから1884年後に出版されたわけである。

 もちろん、単なる年号の表記の仕方といえばそれまでだが、クリスマス礼拝の日にその文字を見ると、ふだんとは違う気持ちになる。

 降生にしろ降誕にしろ、「降」という文字が使われているのは、イエスが神のもとから私たちの生きる現実の中に来てくださったという聖書的な理解の内容を、天から地へ降りてこられたという視覚的なイメージで表していることである。それは、現代人の冷めた感覚でとらえれば、「お話」の世界の中でのこととも言えてしまうが、サンタ・クロースが空をトナカイのそりで飛び回って子どもたちにプレゼントを贈る、というような意味での「お話」とは少し違うのだろう。

 天からは雨が降る。雪が降る。天には星や月や太陽が輝いている。人間の手の届かないところが天であり、天の上には神の世界があり、そこから神の意志によって何かが「降りてくる」と理解することは、ごく自然な表現であろうと思う。そしてそれは聖書において、人間のややこしく罪深い現実世界の中に、神の救いが降りてきたという、信仰的な理解につながっていく。

 イエス・キリストの歩みは、神の救いが、一人ひとりの人に届けられていく歩みであった。そのことは、この人間の現実世界の延長に起こることではなくて、神の側から、神が降りてきてくださることであったと…聖書は私たちに教えている。

 クリスマスは、罪深い私たちの世界に、神の救いが降りてきてくださったことへの、私たちの感謝のお祝いである。

 サンタさんの「お話」とイエス・キリストのお生まれの「お話」の意味がどう違うか…というのは、人それぞれに感じるところが違っているだろう。似たようなもの、とも言えるし、全く違う、とも言えるだろう。

 そうした感性の領域は、人はみな違うから、それぞれの心の持ち味で理解していけばよいことである。

 (聖書の物語は、信仰的なメッセージを伝えるための「器(うつわ)」と理解することによって、その事実性を度外視して読むこともできるし、もっと素直にそのまま内容を受け入れて読むこともできる。どのような読み方をするにあたっても、わたしたちには神から与えられた自由があり、信仰があるので、どの人もそれぞれに、ご自分が後悔しない読み方をしていただければ、十分に素晴らしいのではないだろうか)

 今日、クリスマス礼拝の日に寄贈いただいた古い聖書を見て、そこに「耶蘇降生一千八百八十四年」という文字を見たときに、イエス・キリストの降誕はある一つの「お話」ではなく、歴史の中に刻まれている、あるいは歴史に「くさび」を打ち込んできた、「指標」なのだと感じた。

 ─イエス・キリストの歩んだ道が、歴史に「くさび」を打ち込んできたことが、今日のクリスマス礼拝につながっている─

 この聖書を明治時代に実際に用いていた方(今は無くなった「同志社病院」の医師だった方で、新島襄と交友関係にあったとのこと)の生涯についての資料が残っているそうなので、それを見せていただくために、新年になってからご訪問させていただく事になった。

 イエスと共に歩んだ方の足跡を知ることで、イエス・キリストの歩んだ道が歴史の中で一人の人の歩みに打ち込んだ「くさび」の意味について知る事ができるのではないだろうか。

 そして今日のクリスマス礼拝もまた、一人一人の歩みの集積であり、イエス・キリストと共なる教会の歴史の歩みの一つである。

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 クリスマス祝会のテーブルのうえに並んだ手作りごちそう。美味。感謝。

 祝会では、出席者の何人かが司会から指名されて、即席のページェント(降誕劇=イエス・キリストのお生まれをめぐるクリスマス物語の劇)をおこなった。条件はどのセリフも「京都弁」で言うこと。みなさんそれぞれに工夫して「京都人」のヨセフやマリアや天使をつとめてくださった。

 クリスマス物語の中で出てくる話だが、イエスという名前の意味には、インマヌエル(神は我々と共におられる)という意味があると、マタイによる福音書に記されている。

 この「神は我々と共におられる」という言葉を京都弁にすると、

 「神さんは、うちらのところにおいでやす」となるそうだ。

 イエスはんがお生まれどすえ。
 イエスはんのイエスいうたら、神さんはうちらのところにおいでやす、いう意味どすえ。

 こんな感じのページェントは始めて経験。楽しかった。
 みなさんそれぞれに工夫して「京都クリスマス」を表現してくださった。
 
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 写真は、ページェントに登場する、「東の国から来た賢者」の母子。がんばってくれました。

 「大きな星が出たよ」 「なんの星だろう」 「調べてみよう」 みたいなセリフだったろうか。

 クリスマスツリーの星を見ながら言ってくれたのかな。

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 最後にみんなで手作りケーキをいただいた。感謝。美味にあふれていた。

 もうひとつ、小豆の寒天(写真に撮る前に食べてしまった)もあり、とてもおいしかった。クリスマスに小豆という「和」の味が備えられていることがうれしかった。京都弁ページェントのあとにふさわしい。

 一つひとつのことを整えて準備してくださった、たくさんの方の無数の奉仕のわざのうえに、今日のクリスマス礼拝の日があった。

 一年間のあいだに、京北教会は皆様の自主的な奉仕によって歩んできた。

 オルガンの礼拝奏楽も、毎週の礼拝のための礼拝堂の活け花も、礼拝説教題などの外掲示の毛筆書きも、その他すべてが一人ひとりの自主的な奉仕によってなされている。この場を借りてお礼を申し上げさせていただく。

 そして皆様の無数の、人の目に映らないところでの様々な奉仕が、天の父なる神様が隠れたところで見ていてくださり報いてくださることを、そう聖書に記された通りに信じている。

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 この花は、クリスマスを待つ期間であるアドベント待降節)の時期に寄贈された花。寄贈されて以来、教会に置いて水をやってきたがクリスマス礼拝まで全部がもつことはできずに多くが枯れてしまった。

 クリスマス礼拝の日まで届かなかった花の命がある。けれども、その日に至るまでの間、私たちの心にクリスマスへの思いを養ってくれた。

 生まれたものはいつか必ず消える。それが私たちの生きる世界である。
 この限界の中に生きつつ、それでも私たちは今年も、神の救いの降誕を祝うことができた。

 わたしたちの「指標」を世に示しながら。

 冬の良い一日。

 みなさまに、メリー・クリスマス。