京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2023年10月の説教

2023年10月の説教

 2023年 10月1日(日)、10月8日(日)、10月15日(日)
  10月22日(日) 10月29日(日) 

     以上の、各礼拝説教を掲載しています。  

「キリストを無駄にせず」
 2023年10月1日(日)
 京北教会「世界聖餐日」礼拝説教

 聖 書  マタイによる福音書 26章 6〜13節 (新共同訳)


 さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、

 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、

 食事の席についておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。

 

 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。

 「なぜ、こんな無駄使いをするのか。

  高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」

 

 イエスはこれを知って言われた。

 「なぜ、この人を困らせるのか。

  わたしに良いことをしてくれたのだ。

 

  貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、

  わたしはいつも一緒にいるわけではない。

 

  この人はわたしの体に香油を注いで、

  わたしを葬る準備をしてくれた。

 

  はっきり言っておく。

  世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、

  この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう。」

 

 

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
      改行などの文章配置を説教者が変えています。
    新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 今日、教会の暦で世界聖餐日を迎えました。この日は世界中の教会が共通してこの日に聖餐式を行おうという呼びかけをしている日であります。

 

 この日の発端は1930年代のアメリカの教会の呼びかけにさかのぼるということであります。第2次世界大戦が起こる前の1930年代の時期に、世界が不穏な空気に満たされていく中にあって、神様から平和を与えられたいと願い、そのために世界中の教会がこの日に一緒に聖餐式を行うことによって、神様の元で世界は一つ、そして協力をしてみんなで歩んでいく。戦争を起こさない平和な世界。ということを願って始められたということであります。

 

 しかし、その願いはかなわず、第2次世界大戦が起こりました。そして多くの命が失われ、多くの生活が破壊されて、取り返しのつかない傷跡が世界に残りました。その戦後に、もう1度この世界聖餐日の礼拝が世界の教会に呼びかけられました。もう2度とあのような戦争を起こしてはいけない、そうした平和への願いということを含めてこの世界聖餐日が行われるようになりました。

 

 私たちの教会の礼拝もまた、そのような平和への祈りということのもとに今、礼拝を行っているのであります。

 

 この日にあたり、聖書の箇所はマタイによる福音書26章の6節から13節を選ばせていただきました。ここには「ベタニアで香油を注がれる」という小見出しがつけられています。こうした小見出しは新共同訳聖書が作られた時に読み手の便宜を図ってつけられたものであり、元々の聖書の本文にはないものであります。今日の聖書箇所には何が書いてあるのでしょうか。

 

 「さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられた時一人の女が極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席についておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた」とあります。

 

 ここで聖書に書かれている「らい病」という言葉は今の新しい版の聖書では、重い皮膚病という言葉に置き換えられています。それは、「らい病」という言葉を使うことが聖書の翻訳として正確ではないという理由であり、そしてまた様々な偏見が染みついた、この言葉ではなく、当時にあった病気を表すにふさわしい言葉として元々の原文ではツァラアトという言葉であるそうですが、それにふさわしい言葉として「重い皮膚病」という言葉を用いています。そのように言葉を置き換えることになったきっかけは、全国にありますハンセン氏病の療養所で元ハンセン氏病の患者の方々が、病気としては特効薬のプロミンによってすでに全快された方々が暮らしている療養所にある、キリスト教会の人たちから、この言葉を置き換えてほしいという願いが出され、そのことを検討した結果として、言葉が変わることになったのであります。毎週の礼拝で読まれる大切な神の言葉である聖書の言葉を、礼拝にふさわしい正確な言葉にしていただきたいという願いに答えたのであります。聖書の言葉ひとつでも、そのような重い背景があるということも覚えます。そのようなこともあり今日の聖書の言葉になっております。

 

 そのような病を持った人シモンの家におられたとき、一人の女性がやってきました。極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席についておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた、とあります。この時代において男性たちが食事している、しかもお客様を迎えて食事している場に女性が入ってくるということは、極めて失礼なことと思われていたようであります。そして、なおかつ、このように石膏の壺を割って高価な香油を注ぎかける。突然に一体なぜ、このような不作法なことをしたのでありましょうか。

 

 弟子たちはこれを見て憤慨した、とあります。なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って貧しい人々に施すことができたのに、と弟子たちは言いました。弟子たちから見て、この女性がやってきて無言でしたことというのは許せないことでありました。まず失礼であります。そして意味が分かりません。そしてこの香油はとてもいい香りがしたのでこの香油が高価なものであると、特別なものであると。そもそも香油というもの自体が貴重品であったのでありますが、なぜそれをこう一気に頭にかけて流してしまう、なぜそんなことをしたのか。

 それがイエス様に対する敬愛の表現であったとしても、それはもう一時のことでしかありません。そんなことするよりも高く売って貧しい人々に施すことができたのに、とその方がイエス様の心にかなってるんではないのか、と弟子たちはそうやって憤慨したのでありました。

 

 それに対してイエス様はおっしゃいます。「イエスはこれを知って言われた。なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。この人は私の体に香油を注いで私を葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでもこの福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」このようにイエス様は言われました。

 

 イエス様はこうしてこの一人の女性の、失礼なそして意味不明なそして無駄遣いな行いをかばってくださったのです。そして、この一人の女性を守ってくださったのです。

 それだけではありません。この女性がしたことは世界中どこでも、この福音が伝えられるところ、つまりイエス・キリストの「神の国の福音」が伝えられるところでは、この女性がしたことも記念としてどこでも世界中で語り伝えられるだろう、と言われました。

 もうそれぐらいこの女性のしたことは重要なことだったんだと。それは福音、神の国の福音、神様の恵みが満ち満ちている神の国というものが、私たちの生きている世界の中に入ってきて、イエス様の言葉を通して世界中に広がっていく。その働きと同時に、この女性のしたことも語り伝えられるというのですから、これはものすごいことですね。

 もう、この女性のしたこの1つの行動もまた、キリストの福音、良い知らせという福音の一部なのだ、と言われているのであります。弟子たちの目から見たら、なんだこんなつまらないことをして、という腹立たしいようなことが、実は神様の御心の一部であり、世界中どこでも述べ伝えられるというのですから、これは驚きです。

 

 今日の私たちの礼拝もまた、イエス様の言葉通り、この女性のしたことを語り伝えているのであります。本日は世界聖餐日であります。今日の聖書箇所には聖餐のこと、つまりパンとぶどう酒の話は出てきていません。聖書の中でどこに出てくるかというと、今日の箇所、このページの直後のところを見ていただくと、左側のページに「主の晩餐」という小見出しがつけられていますけども、そこにいわゆる聖餐式の元となった、イエス様がなされたこと、パンとぶどう酒を分かち合ってくださったことが書かれています。

 

 これはイエス様が捕らえられて十字架に付けられる、その前の日に弟子たちと最後の晩餐を過ごしているときのことでありました。イエス様ご自身の記念として、パンとぶどう酒を取り、パンをちぎってそしてぶどう酒を回しのみをして、弟子たちに分けてくださった、そのことが書いてあります。そして今日の聖書の箇所は、直接その聖餐の場面ではありませんけれども、「この福音が述べ伝えられるところではどこでも、この人のしたことも記念として語り伝えられる」とイエス様がおっしゃるのですから、このイエス様のことを伝えるための聖餐のときに、この女性のしたことも一緒にセットで語り伝えることが大事ではないかと、わたしは考えたのであります。

 この1人の女性がしたことは一体何だったのでありましょうか。まずイエス様の頭に香油を注ぎかけるという行いの意味でありますが、この頭に香油を注ぎかけるというのは、旧約聖書の時代において、古代のイスラエルの王様がこの王の資格を得るときに、たとえばヨーロッパでは戴冠式で冠を授かる、そういう王になる儀式がありますが、それが古代のイスラエルにおいては頭に香油を注ぎかけるという行いでありました。

 

 ということは、この1人の女性はイエス様を自分にとっての本当の王様、本当に信じる人として、そして敬愛の心を持ってこの行いをしたのであります。この女性の信仰告白と言ってもよいと思うのです。私はあなたを主と信じます、という無言の行いでありました。

 そのために、おそらく自分の持っているもので最も貴重なもの、最も高価なもの、その香油を注ぎかけたのでありました。しかし、それは近くで見ている弟子たちにとっては意味不明でした。これはただの食事の場面です。いくら敬愛の思いを表すと言ったって、他のやり方があったでしょう。いきなり入ってきて、こんな失礼なことをする。何事かと怒ったのです。

 

 しかし、その頭に香油を注ぎかけるという行いは、イエスを王として信じるという意味があるということは、弟子たちも分かったでしょうから、そのこと自体に文句を言うことはちょっと躊躇したのでありましょう。ですから「なぜこんな無駄遣いをするのか」というお金の話に変えて弟たちは言ったのですね。こんな無駄遣いをしておかしいじゃないかと。貧しい人たちに施すべきだと。そういう風に怒ったのでありました。

 しかしイエス様は、そうした弟子たちの心の中にあるものを見抜いていたと思うのです。弟子たちの心の中には貧しい人々の姿があって、そのためにということで怒ったということではない。単に自分たちにとって理解できない行いを突然したこと、一人の女性のそうした無作法あるいは身勝手、わがままで自己中心な思いの表し方に対して、弟子たちは憤慨をしたのです。

 

 しかしイエス様にとっては違いました。「なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない」と言われました。

 この時イエス様は、ご自身が捕らえられて十字にかけられ死なれることを、ご自身は知っていましたが、他の弟子たちは知っていませんでした。というか、弟子たちは考えもしなかったのです。自分たちが主と信じている、救い主だと信じている、イエス様が捕らえられて十字架にかけられるとは。十字架というのは当時の最も重い刑罰です。それはローマ皇帝への反逆者とか政治的な重罪人にしか与えられない、そうした刑でありました。

 

 イエス様がそんな十字架で死なれるはずがないと思っていた弟子たちにとっては、この女性がしたことは意味不明でした。しかしイエス様にとっては、この女性のしたことというのは、もう私は皆さんとお別れして神様のもとに行く。その前に、私の体に香油を注いで私を葬る準備をしてくれた、というのであります。

 

 これは一つのユーモアと言ってもいいでしょう。この女性が、どんな思いでこのようにしたか、それは聖書には書かれていません。しかし、この女性のしたことは結果として私の葬りの準備になったのだ、というのでした。だから、いいじゃないか、というのです。無駄遣いであるように見えたとしても、たった一回、今この時しかないチャンスに、これから死んでいく人の準備を今してくれたのだ、ということをイエス様は言われたのです。

 

 弟子たちは、いよいよ驚いたでありましょう。イエス様が言われている言葉の意味が分からないからです。さらに、イエス様は言われました。「はっきり言っておく。世界中どこでもこの福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」というのです。

 この女性の、一瞬の身勝手なわがままな、無駄遣いの行いに見えることが、実は世界中の教会で2000年にも渡って宣べ伝えられる神様の御心の一部となったのでありました。私たちがパンとぶどう酒という形で、イエス様の御心にかなって聖餐というものを分け合う時に、それはイエス様という方そのもの、イエス様ご自身をわたしたちが分け合うという意味を持っています。

 それは文字通りに、パンとぶどう酒が人間の体と血に変わるという文字通りの意味ではなくて、それがイエス様を象徴するという意味、イエス様の象徴に変わる、そういう意味だと私は受け止めております。

 教会においてはぶどう酒は、お酒ではなくてジュースを使うことが多いのでありますけれども、パンとぶどうの果汁を使うのでありますが、それは単に物質としての食べ物飲み物ということだけではなくて、神様の御心そのものを私たちは食べ物としていただく、そのことによってそれを栄養としてだけではなくて、私が神様の御心と一つになって、これから私は生きていきます、という、そのことがこの式によって表されるわけであります。

 

 では、聖餐を受けた人はどんな風に生きていくのか。それは、この女性がしたように生きていくのだ、ということ、そのことを今日の箇所から学びたいと思います。今日の箇所においては、この女性のしたことは無駄遣いだと叱られています。弟子たちからは。しかしイエス様からは、そうではないと言われてるのです。

 これは無駄遣いではない。たった1回きり、この時しかチャンスのない時に、自分の持ってる最高のものを捧げて自らの信じることを行った。そのことは死にゆく者の葬りの準備となりました。そしてそのイエス様の十字架の死によって、イエス様は私たち1人1人のために、私たちの罪の許しのために命を投げ出してくださった。そのことによって世界中の全ての人が救われたと伝えるのがキリスト教の信仰です。この女性がしたことは、イエス様の十字架につながる行いだったのです。

 目先のことだけを考えて、この香油がいくらするのか、この貴重なものを売り払えば貧しい人々に施しができる、というような目先の損得勘定ではなくて、あくまで神様のまなざしから見た時にこそ、そのことの意味が分かる、そういう行いを私たちはしていけばいいのだということであります。

 

 目先の損得勘定で、これが貧しい人たちのためになるかどうかということを考えてする、ということではなくて、私が今どうしてもしたい、本当に心からしたい、信仰のこととしての行いをする。それが聖餐を受ける者の生き方であり、それは人の目から見たら無駄遣いをしているように見えるかもしれないけれども、神様の目から見た時にはちっとも無駄遣いではない。それどころか福音を宣べ伝える、そのことの一部なのだ、ということを今日の箇所は教えているのであります。

 

 今日の説教題は「キリストを無駄にせず」と題しました。イエス・キリストのパンとぶどう酒をいただくこと、このことを私たちは無駄にしてはいけません。そして、イエス・キリストを中心にして教会があること、世界中の教会があること、そして教会というものは常に平和を祈り、そのために行動する場所であり、そのことを忘れたならば私たちはイエス・キリストを無駄にしてしまうのです。

 

 もし今日の箇所において、この女性が香油をこのように注がなかったとしたら、そして貧しい人たちのために香油を売ってお金に変えて施したとしたら、それはそれで良いことであったかもしれません。しかし、それは香油を無駄にすることではなかったかもしれないけども、イエス・キリストを無駄にしてしまったのだと思うのです。

 イエス・キリストが今、目の前におられる、その食事の部屋に勝手に入っていくことは失礼とされることであるけれども、今でなかったらお会いできない、今でなかったら信仰を表すことができない、その時に自分の信仰を表さないということは、イエス・キリストを無駄にするということなのですね。決してそうであってはならない。決してそうであってはならないのです。

 

 そして、イエス・キリストを無駄にしない、その行いをすることによって、この女性の存在そのものが無駄にならず、2000年経っても世界中の教会で宣べ伝えられる、そのようになりました。この一人の女性のしたことが、単なるわがままだと叱られてどこかに消えていく、そんな風なことではなくて、この一人の無名の女性のしたこと、そのことは世界中の人のためのことととなったのであります。あるいは、イエス様がそのようにしてくださった、ということであります。

 

 私たちは日々どんな風に生きているでありましょうか。目先の損得で無駄がないように、無駄がないように、と考えています。もちろんそれは大事ですけれども、そのことによってイエス・キリストを無駄にしていませんか。そのことは自分自身を問うてみたいと思うのです。そして、イエス・キリストを無駄にしてしまうことによって、自分自身、この私という存在も無駄にしていませんか。そのことも考えてみたいと思うのです。

 イエス様を信じて、本当にしたいことをしていく時に、私たち一人ひとりの自分自身の存在だっって、決して無駄にはならないんですね。もちろん人の目から見たら、叱られることはありますよ。あまりにも、それはどうかな、と人から思われることをしたら「あ、間違えてました。すいません。次から考えます」、そんな風に言わなきゃいけない、そういう失敗をすることもたくさんあるのでしょうね。人間ですから、そうなんだと思います。

 でも一方で、私たちは人からそう言われることを恐れて何もしないのではなくて、イエス・キリストを無駄にしないために、どんな行いができるか考えてみたいと思うのであります。教会が分かち合う聖餐、パンとぶどう酒ということもそういう意味があるのですね。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様。ちっとも平和にならないこの世界にあって、ちっとも戦争が終わらないこの世界にあって、私たちは世界聖餐日を守っています。何度失敗しても、何度ダメだったとしても、私たちはもう一度イエス様の聖餐を神様からいただいて、平和を祈り、平和を作り出す、その歩みへと向かっていきます。どうぞ神様一人ひとりを守り導いてください。そして、まだ聖餐にあずかるに至っていない方々、一人ひとりを神様が心豊かに愛してくださり、共に聖餐にあずかれる日へと導いてくださいますように、心より願います。
 この祈りを、感謝して主イエスキリストの御名を通して御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

 

 

「神様への本当の気持ち」 

2023年 10月8日(日)礼拝説教

聖書 マルコによる福音書 12章 38〜44節 (新共同訳)

 

エスは教えの中でこう言われた。

 「律法学者に気をつけなさい。

  彼らは、長い衣(ころも)をまとって歩き回ることや、

  広場で挨拶されること、

  会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、

  また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。

  このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」 

 イエスは賽銭箱(さいせんばこ)の向かいに座って、

 群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。

 大勢の金持ちがたくさん入れていた。

 

 ところが、一人の貧しいやもめが来て、

 レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。

 

 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。

 

 「はっきり言っておく。

  この貧しいやもめは、

  賽銭箱に入れている人の中で、

  だれよりもたくさん入れた。

  皆は有り余る中から入れたが、

  この人は、

  乏しい中から自分の持っている物をすべて、

  生活費を全部入れたからである。」

 

 (以上の聖書抜粋は、新共同訳聖書をもとに、
     改行など文字配置の表記を、説教者の責任で変えています)

 

 

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 毎週の礼拝で、福音書使徒パウロの手紙、旧約聖書、その三箇所を順番に読む形にしています。本日の聖書箇所は、マルコによる福音書の12章38〜44節であります。

 新共同訳聖書では、この箇所は2つの箇所に分けられていて、それぞれに「律法学者を非難する」そして「やもめの献金」という小見出しがつけられています。こうした聖書本文の区分けの仕方や、また小見出しは元々の聖書にはありません。新共同訳聖書が作られた時に、読み手の便宜を図とこのようにされたものであります。

 今日の箇所には何が書いてあるのでしょうか。38節にこうあります。 
「イエスは教えの中でこう言われた。律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとと歩き回ることや、挨拶されること会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、またやもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

 このように大変辛辣なイエス様の言葉が書かれています。律法学者と言とも色々な人たちがいたでありましょう。しかし、ここでイエス様は律法学者という人たちが、どんな風に普段振る舞といるか、その特徴的なことをここで取り上げて語っておられるのであります。

 このような箇所を読む時に、現代の日本社会に生きている私たちは何を思うでありましょうか。いわゆる宗教家と呼ばれている人たち、様々な宗教の教職者、何かの役や立場を持っている人たちの振る舞いや服装、その持っている雰囲気、それらを思い浮かべます。そして、イエス様の時代の頃にもそんな人たちがいたのかという風に思うのではないでしょうか。

 そして今、私は宗教家という言葉を言いましたけれども、教会で今日のこの聖書の言葉を考えるとすれば、牧師はどうなんだろうか、ということも私は思うのですね。律法学者に気をつけなさいとイエス様は言われていますが、牧師に気をつけなさい、と言われいたら、ちょっとこれはドキッとする言葉になりますね。

 長い衣をまとって歩き回る、広場で挨拶される、そんなことを牧師が求めているかどうか、それは分かりませんけれども、しかし、考えてみたら牧師というものも、いつの間にかそんな風に振舞っているのかもしれません。そんなことを考えて私はドキっといたしました。このような者たちは人一倍、厳しい裁きを受けることになるとあります。

 そして、次にこう続きます。41節。
 「イエスは賽銭箱の向こう側に座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた」とあります。ここに賽銭箱(さいせんばこ)という言葉が出てきます。これは神殿に置かれていた、人々がそこで献金をするための賽銭箱ということであります。

 当時のイスラエルの国にあった大きな都であるエルサレムには、非常に大きな石作りの神殿がありました。それは最初に立てられた神殿が戦争で崩壊した後に立てられた2代目の神殿であり、人々が集まる中心となる信仰のための場所でありました。その神殿に行って神様に礼拝を献げるということが、自分の人生にとって1番大きなことであり、そして自分たちの民族あるいはその国にとって最も大事な場所でありました。

 その神殿には、地方から来る人も含めてたくさんの民衆が来ていました。そこで律法に従って礼拝を献げ、犠牲の品、それは様々な動物の肉を焼いて献げて礼拝をする、そういう儀式があったのですが、そういうことをして、また献金を献げていました。そのために賽銭箱があったわけであります。その賽銭箱の向うに座って神殿での礼拝のためにやってきた人たち、群衆がお金を入れる様子を見ておられたとあります。

 「大勢の金持ちがたくさん入れていた」とあります。それは、大勢の金持ちはこうたくさんの群衆を見ている前で高額の献金をする、それは人に見せるために、そういう要素があったと思うのです。その頃のこのイスラエルにおいて、ユダヤの地域においては、たくさんお金を持っている人がそれを喜んで献げる。「喜捨」という言葉がありますけども、そうやって神様にたくさん献げるということが、たくさんの財産を持っている者の1つの責務であり、それを果たしているのです。そしてまた、そういうことをすることによって、自分が豊かであることを示しているわけですね。

 当時の人たちにとって、お金持ちになるということは神様からの恵みであるという風に考えられていました。それは、神様が恵みをくださるのでなければお金持ちになることはできない、という考え方であります。だから、お金持ちが貧しい人々からたくさん吸い上げて、私腹をこやしているというような考え方じゃなくて、あの豊かな生活をしている金持ちの人たちは神様から恵みをいただいたんだと考えていました。そしてその金持ちの人は、神殿の礼拝でもたくさん献金を献げていて、ああなるほど素晴らしいことだ、という風に人々は考えていたわけですね。

 ところが42節にあるように、「一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた」とあります。レプトン銅貨というのは、お金の単位なのでありますが、これがいくらぐらいであったかと言うと、そうですね、まあ100円ぐらいであったという言っていいでしょうか。1デナリオンというのが当時の季節労働者、ぶどう園に行って1日だけ働いて賃金をもらう、ぶどうを摘むことで賃金をもらう、その労働者の賃金が1デナリオンであったということです。

 

 そしてレプトンは1デナリオンの128分の1だったと、新共同訳聖書の末尾にある解説にはそう書いてあります。現代の日雇い労働者の1日の賃金が1万円だとすれば、1レプトンは100円ぐらい、それが2枚で200円ぐらい、そこまで正確な割り出しはできないんですけれども100円ぐらいの硬貨を2枚入れたということであります。

 それを見ていたイエス様はこう言われました。

 「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。はっきり言っておく。この貧しいやもめは賽銭箱に入れている人の中で誰よりもたくさん入れた。皆はあり余る中から入れたが、この人は乏しい中から自分の持っているものを全て、生活費を全て入れたからである。」

 

 このようにイエス様は言われました。お金持ちが自分の持っている財産の中からたくさん献げています。群衆の目はそこに注がれていたわけであります。そのような群衆が見ていなかった所で、1人の貧しいやもめが来て、やもめとは単身者という意味でありますけれども、1人で暮らしていたその1人のやめもがやって来て、200円を献げた。

 

 その様子を見てイエス様もおっしゃったんです。この人は誰よりもたくさん入れたと。あのお金持ちがたくさんの献金をしていることよりも、たくさん入れたというのです。皆はあり余る中から入れたが、この人は乏しい中から、自分の持っているものを全て、生活費を全部入れたからである」と言われました。このやもめである人が、日常的にどんな生活をしていたか、どんな職業についていたか、あるいは病気をしていたのかどうか、なぜ単身者だったのかとか、そんなことはここには何にも書いてありません。

 

 ここでイエス様が仰りたかったことは、何だったのでありましょうか。この人は、自分の持っているものを全部入れた、ということであります。それは、お金持ちがたくさん持っているものの中から、ほんのわずかなものを人前で自分の名誉をかけて献げたことよりも、ずっとずっと多く入れたことなんだと、神様に献げたものというのは、この貧しい1人のやもめの方が多いのだ、ということを言われたのであります。

 さて、今日のこの箇所を読んで皆様は何を思われるでありましょうか。今日の箇所は、私は小学生の頃から知っていました。教会学校に行ったり、家族が両親がクリスチャンでありましたから、家に置いてある聖書をパラパラと読んだりして、この話を知っておりました。この貧しい1人のやめが、どうしてこんなことしたのか分かりませんでした。けれども、貧しい人が自分の持っているものを全部献げる、ということは、お金持ちがほんのちょびっと献げるよりも、ずっとずっと神様の目から見たら大きなことなんだ、ということは子供心にも分かりました。

 

 けれども一方で思ったのです。この人が「生活費を全部入れた」と書いてあります。じゃあ、この人はこの後、どうやって生活したのだろう、ということを心に思ったんです。全部入れてしまったら、もう生活できないではありませんか。食べるものに事欠くじゃないですか。どうするんですか。この場面、この物語それ自体はいい話だとしても、その後、この人はどう生きたんだろうか、生きられないじゃないか、という疑問が残るのですね。そのことについて、イエス様も何にも言っておられません。

 そしてまた、この箇所を読んで、貧しくても自分の持っているものを献げることの方が大事なんだと、豊かな人がちょびっと献げるよりも大事なんだ、という言葉を聞いて、じゃあ私は何をしたらいいんだろうか、とも思うのですね。私も同じようにしようか。自分の持っているお金を全部献げたら、その後どうする。何もできなくなるじゃないですか。そんなことは到底できないのです。

 

 こうして、この箇所を読みながら、この箇所で言われてることは、もう分かった分かった、という気になるんですね。イエス様のおっしゃりたいことは分かりますよ。聖書のメッセージの意味は分かりますよ。献金を献げることは、何て言いますかね、額じゃないんだと。精神的なものなんだと。そして、自分の生き方をかけて、自分の持っているもの全て献げる、こういう生き方が大事なのだという風に解釈することで、何となく自分の心の中を落ち着かせていくわけであります。

 けれども、今日のこの話は何だか、ずっと長時間見続けるのが難しい箇所だと私は思うのですね。とてもこんな風に生きられないと思うし、大体こんな風に全部献げた人は、その後どうなったのか、と思うとやっぱり不安になってくる箇所なのです。

 今日の礼拝で読む聖書の箇所は、41節以降だけではなくて38節のところから続けて読みました。聖書は元々これらは2つの箇所に分れているのではなくて、続いているのです。ですから、この2箇所を続けて読むと今日の箇所の意味がよく分かってくるように思います。それは、38節で「律法学者に気をつけなさい」と言われて、彼らがどんな風に偽善者として振舞っているか、ということが書かれているのですね。このような者たちは人一倍厳しい裁きを受けることになる、と言われています。

 宗教家たちは偽善者である。外から見えることばかり気にして、自分の名誉、自分が人からどう思われるか、そしてやもめの家を食い物にしている、という言葉が出てきています。こうした話の後に、やもめの献金の話が出てくるわけです。宗教家たちが貧しいやもめを食い物にしているのだと言われた後に、この賽銭箱に生活費を全部入れるやもめの話が出てきているのです。すると、この話はセットの話なのですね。

 

 そして、貧しいやもめが、ここまでして自分の全てを献げているのは一体なぜかと考えます。それは、そこに願いがあったからなのです。神様に自分の願いを託してレプトン銅貨2枚を献げたのです。自分の全ての生活費、それは自分というものの全てを献げる思いがあった、と言ってもいいでしょう。なぜそんなことをしたのか。それは、神様しか頼る相手がいないからです。神様しか頼る相手がないのです。もう家族も頼れない。他の人の誰も頼れない。そこにどんな事情があったのかは分かりません。しかし、神様しか頼るものがない。頼る相手がいないこの人は、全てを献げました。

 

 その貧しいやもめの祈りを、食い物にしているのが律法学者だ、と言われる時にそれは単に律法学者という仕事、その立場に立っている1人1人の人間のことをあげつらっているのではないのです。この巨大な神殿というものがあって、その神殿にたくさんの人たちがやってきて、みんな自分の願いを込めて献金をしており、お金持ちも貧しい者も皆やって来て礼拝をしている。そして、お金持ちはたくさん献げている。しかしそうした当時の宗教のあり方、それ自体、その全体が、それはどういうことなのだと、問うておられるのです。それ自体、その全体がおかしいんじゃないのかと、イエス様は私たちに向かって伝えようとしておられるのではないか、と私には思えるのです。

 それは今日の聖書箇所の後の、13章1節以降には、神殿の崩壊ということが記されており、また、終末のしるし、世の終わりのことが書かれているからです。大きな神殿があって、みんなでそこに集まって礼拝して、たくさん献げ物をするということが、一見素晴らしい信仰の姿、素晴らしい宗教の姿に見えるけれども、実はそんな風にたくさんみんなで願いを献げていても、何十年か経った後には戦争が起こって神殿は全部崩壊していくわけです。

 

 みんなで願ったけれど、みんなで祈ったけれど、神殿はすべて崩壊してしまい、国が崩壊してみんな散り散りバラバラに散らされていくのです。国すらもなくなってしまう。それが当時のユダヤ人、イスラエルの人たちの状況になったわけであります。そのことを考えた時に、神を信じる信仰とは一体何なのだろう、ということが今日の箇所で問われていると思うのですね。

 現代の話として申し上げますと、現代の新興宗教の問題として、非常に問題になっている問題は、多額の献金が行われることで献金する人の生活が食い潰されていく、そうしたした宗教の問題があります。そうした多額の献金は、その宗教の側から求めているのではなく、一人ひとりが自由に判断して献げたという言い方もなされています。それが事実であるかどうかは、本当に微妙な問題であります。それがどういうものであるかということを言うことはできません。

 

 しかしそうした問題の中で、本当に自らが持っている生活費を全部と言ってもいいぐらい、それで自分や家族の生活が崩壊していくほどに献げる、しかもそれを自分の意思として献げる、という時に、そこにある人間の心、人間の願いとは何なんだろうか、といいうことを思うのです。

 それは立派なことかもしれない。神に願いを込めて敬虔な思いを持って献金を献げる、そのことは悪いことではないかもしれない。しかし社会全体の状況の中で、そしてその人たち一人ひとりの状況の中で、家族が崩壊し、家族の生活が成り立たなくなって、学校にも行けなくなる、そんな風なことになる時、そこに何が起きているのだろうか、と思うのです。

 

 本当はそんなに自分の生活費を全部献げなければいけないほどに、孤独な、あるいはしんどい、あるいはその宗教に頼る他ないような生活を、本当はその人はしたかったのだろうかと思うのです。いや、本当は、そんなことをしなくてもいい生活がしたかったのではないか、そう私は思います。

 

 もちろん、今日の聖書の箇所に出てくる、この一人の貧しいやめが生活費の全部を入れたということも、それは、この人の信仰が立派だったから献げたという、そういう理解ももちろんいいのです。信仰というのは自分自身の全体を献げることなのだと、それぐらい真剣なものなのだと、そういう信仰の考え方もいいのです。

 

 けれども、その一方で、そんなことをしなければいけないほどに、孤独に追い詰められ、経済的にも追い詰められていたのではないのか。そして、そんな人たちの願いを、当時の神殿の宗教というものは、食い物にしていたのではないのか。律法学者たちのあの偽善者としての振る舞いというのは、まさにそこにそこから現れてるのではないのか。このように、今日の箇所から私たちはメッセージを読み取っていくこともできるのであります。

 もちろん、聖書の読み方というのは自由であります。いろんな読み方ができます。私が今申し上げてることは、もしかしたら随分ひねくれた聖書の読み方かもしれませんね。けれども私は、今日の箇所を読みながら、今日の箇所は単に素晴らしい信仰の話を言っているのではなく、当時の宗教のあり方、神殿のあり方というもの、そこにある問題、そしてその社会というもののあり方を、イエス様はとても深く深く考えておられたおられたのだ、と私は受け止めるのであります。

 今日の箇所は「律法学者に気をつけなさい」と38節に書いてあります。現代では、たとえば教会で言えばどうなるでしょうか。「牧師に気をつけなさい」と言われたら、私自身がドキッとします。牧師も貧しい人たちを食い物にしているのでしょうか。そんなこと考えると、ちょっと私自身ドキドキしてくるのですね。そんなことを考えながら、一体今日の箇所からどんなメッセージを聞いたらいいのだろうか、と思いつつ色々と考えていました。

 

 最近、私は京都教区や日本キリスト教団の活動で、いくつかのことに参加をいたしました。一つは、京都教区の活動で自然災害のボランティアに行きました。京都府の北部、福知山の近くにある教会の教会員のお宅の裏山が8月の台風7号で崩れて、床下に土砂がいっぱい入って、行政のボランティアもそれを取ることができなかった、その中でその方々の生活をどう支えるかということで連絡があり、京都教区でボランティアを呼びかけて行ってまいりました。私も先日、もう4回目になりますけども行ってまいりました。

 

 一番最初に現地に行った時は、もう絶望的に思えていたのです。泥の海のようになった床下、その中に入り込んでですね、人間がちょこちょこちょこちょこスコップで泥を取りながらやっても、中々進まないのです。これは絶望的だなと思いながらやっていました。しかし、いろんな方々が各地からボランティアに協力してくださり、そして最終日に行った時には綺麗に土砂がほぼ全て排出されていました。毎日毎日ちょっとずつ通った方もいますし、あるときには10人ぐらいのグループでガバっと来た人たちもいます。いろんな形で、最初は到底できないと思っていたことができました。そういう活動をしながら、こうドロンコになりながらみんなと一緒に活動することができたことを、良かったなという風に思ったのですね。

 

 それとは別の話で、もう1つ、今度はこれは教団の活動なのですけれども、日本キリスト教団が主催する「日本キリスト教団第15回部落解放全国会議」というものが先日ありました。これは2年に1回、各教区を回ってしているもので、部落差別の問題に取り組む方々が集まって、会議と言いますか、実際には交流会みたいなものなのですが、今回は京都で行われて京都教会で全国から90人ぐらいの人が集まりました。その中での研修、フィールドワークとして、京都の中での東九条とか東七条といった地域における、昔はスラムと呼ばれていたりもした、そしてまたいわゆる被差別部落、同和地区という場を現地の方に案内していただきました。

 何十年前も前から、そこで色々な運動があり、また行政の働きがあり、そして最近では京都市立芸術大学が移転してきた、そういう本当に時代が大きく変わっていく地域の様子というものを、実際に歩いていろんな学びをしました。そうした学びをする中で、また、会が終わったあとにわたしが思い出していたのは、今からもう50年以上前でありますけども、その当時の地域の中に住み込んで地域のための活動をしていた一人の方、小笠原亮一さんとおっしゃいますけど、もう亡くなられましたけども、高校教師をしながら地域に住んで子どもの学習活動や地域の解放運動に関わったキリスト者の方であります。その方は後に牧師になりました。

 その方の書いた本をわたしは今、読み返しています。そこに書かれている活動、それをしていた小笠原さんの文章と、今日の聖書の箇所というものを考え合わせると、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする、そうした律法学者あるいは宗教家の姿とは正反対に、地域の中に入って住み、そこで出会う人々と共に歩む姿、学校教師として地域のボランティアとして、そしてまた地域の解放運動に携わるものとして生きた、一人のキリスト者の働きを思う時に私は色々なことを思わされます。

 わたしは昔、東九条の地域に学生時代住んでいまして、東七条の地域の方からお話を聞く機会があったのですけれども、こんなことを言われていたのですね。地域で様々な運動が進んで、行政の施策も進んで、たくさんの団地の住宅ができたり、いろんな施策が進んで町は綺麗になったのだけど、でも昔の方が面白かった気がする、ということをおっしゃていたのですね。貧しかったけども、その貧しさからどうやって自分たちが運動をしていくかとか、どうやって今の社会を新しくしていくかを考える、そういう中でバタバタしながら、みんなが頑張っていた時代、その時代の方が楽しかったという思いがあると言われていました。つまり、その時代は生活は苦しかったけれど夢があった、夢を持っていたということなんですね。

 

 わたしが先ほど教区のボランティアの話をしました。ドロドロの泥がいっぱいたまっている床下に入ると、これは絶望的だなと思いながらも、ちょこちょこちょこちょことスコップで掘りましたけども、何日もかけてやっていくと最終日には全部取れていた。なぜそれができたかというと、みんなでそれをやろうという夢を持っていたからなのですね。そうなんです。夢を持つならば働くことが楽しくなる。そして神様を信じて働くことが楽しくなっていくのです。

 

 今日の聖書箇所に出てくる律法学者の姿は一体何でありましょうか。夢をなくして、ただ宗教だけをやっている人たちの姿であります。一人の貧しいやもめは、持っている生活費を全部献げました。なぜ、それができたのか。夢を持っていたからです。今の生活から抜け出したいんだと。でも神様しか頼る相手がいないんだと。そうやって、わずかなレプトン銅貨を二枚、賽銭箱に投げたのであります。それはわずかなものでありました。そのわずかなものさえ、宗教というものは食い物にしていく。それが宗教の現実であったのです。

 

 そんな現実の中で、あとに何が最後に残っていくのかというと、お金ではなく、そのお金に託した夢、希望というものだけが残っていくのですね。わずかなことでも、コツコツとボランティアをすれば、いつか泥は取れていく。希望が見えないような世界にあっても、その中でみんなと一緒に苦労を共にして生きていけば、いつか時代が動いて大きな変化が起きてくる。それは、夢があったから、希望があったから、実現していくことがあるわけですね。

 宗教というものも、夢を無くしていくならば、本当に偽善者になっていきます。そして貧しい人を食い物にしていくことになります。けれどもイエス様が語っておられることは、そうした宗教のあり方とは正反対の道だと思うのであります。

 お祈りをいたします。

 神様、どうか一人ひとり、今日から始まる新しい一週間を生きていく中にあって、イエス様が共にいてください。そして、私たち一人ひとり、それぞれが生きている場にあって、本当の意味で楽しい生活ができますようにと願います。ただ形だけのことをしていく偽善的な生活ではなく、本当に神様の前で心を開いて自分の思いをイエス様に述べ、私たちの悲しみや苦しみ痛みも全て知っていただき、そして心からの願いを全て神様に献げて生きていくことができますように、どうぞ導いてください。
 この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
    アーメン。 

 

2023年10月15日(日)永眠者記念礼拝説教

「隣人になってくれる家族」

聖 書 ルカによる福音書 10章 25〜37節 (新共同訳)


 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。

 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

 

 イエスが、

 「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、

 彼は答えた。

 「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、

   あなたの神である主を愛しなさい。

   また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

 

 イエスは言われた。

 「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

 

 しかし、彼は自分を正当化しようとして、

 「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。

 

 イエスはお答えになった。

 「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。

  追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。

  ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、

  道の向こう側を通って行った。  

  同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、

  道の向こう側を通って行った。

 

  ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、

  その人を見て憐れに思い、

  近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、

  宿屋に連れて行って介抱した。

  そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、

  宿屋の主人に渡して言った。

  『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』

 

 さて、あなたはこの三人の中で、

 だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」

 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」

 そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
      改行などの文章配置を説教者が変えています。
   新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

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 (以下、礼拝説教)

 

 「隣人になってくれる家族」という題で永眠者記念礼拝の説教をいたします。本日は、一年に一回の京北教会の永眠者記念礼拝に、このように多くの皆様が集って下さり心から感謝を申し上げます。

 私たちは、皆それぞれに、この教会にどこかでつながっています。家族を通じて、また自分自身で、また関係者の方を通じて、いろんなことによってこの京北教会というものを知りました。今こうしてみんなでつながっていること、すでに召された先達の方々を追悼できること、天国に行ったそれぞれご家族また先輩方関係者を覚えて礼拝できる幸いを、心より感謝をいたします。

 

 この礼拝にあたりまして、聖書の箇所はルカによる福音章10章25〜37節を選ばせていただきました。これは新約聖書の中にある、イエス・キリストが語ったたとえ話として、聖書の話の中では比較的よく知られている話であります。順々に読んでいきます。

 「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』」

 律法の専門家というのは、旧約聖書の中に記されたたくさんの律法、それは当時の宗教上の掟(おきて)であり、同時に生活上の掟でした。当時の法律であったわけです。それが律法というものでありました。その律法をよく研究してる人たちが、律法学者、専門家としてたくさんいました。

 

 その人たちは、この時イエスを試そうとしていました。「永遠の命」という言葉が、ここに出てきています。「永遠の命」というものは、いつまでも長生きをする、そういう不死ということを言っているわけではありません。

 地上での人生がいつか終わるということは、みんな知っていること、当然のことであります。しかし、その地上の死によって、自分の生きてきた人生というものが全て滅んでしまって無に帰していくのではなく、神様のみもとに迎え入れられて、そこで永遠に存在をすることができる、そういうものとして「永遠の命」ということを、当時の人たちは考えていました。

 

 何をしたらそれを受け継ぐことができるでしょうか、とここでイエスに尋ねてきたのであります。こうしたことを尋ねる背景としては、このように難しい質問をすることによって、イエスがそれにどう答えるかを見て、もしイエスがうまく答えられないならばイエスを訴える口実にする、そういう背景があったかもしれないのです。それほどに、当時のイエス様を巡る状況というものは緊張していました。

 

 それまでの人々の社会の中にあった、様々な生活の仕方や考え方、それは旧約聖者の律法というものを守れば神によって救われる、しかし、守らなければ神に救われない、という、この律法の掟(おきて)ということを中心に、人の救いというものが決められる社会でありました。その中にあって、律法、それは当時の法律と言ってもいいのですが、それを守れないような人たちは救われないと思われていました。

 

 それは、貧しい人であったり、外国人であったり、心身に障害を持つ人であったり、子どもであったり、そしてまた女性ということを含めて、律法において規定されていることを全て守ることができない人たち、その人たちが社会の中で差別を受けている。そういう世界でありました。その中にあって、今日のこの聖書の物語が書かれているのであります。

 

 イエス様は言われました。「イエスが『律法には何と書いてあるか、あなたはそれをどう読んでいるか』と言われると、彼は答えた。『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

 このように旧約聖書の一部分を取り出して、この律法の専門家は答えました。自分という人間の存在の全てを尽くして神を愛しなさい、そしてまた、隣人を自分のように愛しなさいと。そこでイエス様は言われました。「『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。』」

 

 ここで終わっていれば、この律法学者が正しい答えをした、ということ、それだけで終わる話でありますけれども、この後には続きがあります。こんな簡単な答えで終わると困るのですね。律法の専門家としては、神を愛しなさいとか、隣人を自分のように愛しなさいとか、なるほど二つとも良いことです。神を信じる信仰の究極の姿はこれだ、と言われたら、なるほどそうだと言わざるを得ません。けれども、それで終わってしまったら面白くないのです。一体誰が私の隣人だというのかと、イエス様を問い詰めたのです。

 

 そこでイエス様は言われました。

 「『ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いはぎに襲われた。追いはぎは、その人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司が、たまたまその道を下ってきたが、その人を見ると道の向こう側を通っていった。同じようにレビ人も、その場所にやってきたが、その人を見ると道の向こう側を通っていった。』」

 

 この時代に、このような追いはぎというのは、よくあったことのようです。エルサレムからエリコへというのは、都のエルサレムから地方の町であるエリコへ下っていくことで、その旅の理由は分かりません。仕事のためだったのか、家に帰るためだったのか分かりませんが、その途中で追いはぎに襲われた。そしてその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。というのであります。

 

 その人の持っているもの、財産を全て奪い取って、命も奪う寸前まで行って、そして追いはぎは去っていったのであります。そのようにして道端に捨てられていた、この人の所に一人の祭祀がたまたまやってきましたが、その人を見ると道の向こう側を通っていった。その後、レビ人が来たがやはり同じように道の向こう側を通っていった。

 道の向こう側というのは、一本の道の反対側ということで、その道の中で倒れている人から一番遠い所、道の端っこを通っていったということであります。なぜそのようにしたかという理由は、ここには書いてありませんが、推測できることとしては、祭司というのは、礼拝の儀式をする人です。そしてレビ人というのも、その一族が代々に祭司をする人たちだったのですね。神様に礼拝を献げるための仕事をする部族がレビ人だったわけです。

 

 ですから、この祭司もレビ人も、この半殺しにされて倒れてる人を助けようとして触れたならば、その人に触れてしまうと、律法の掟によって自分たちは汚れた者となってしまうのです。すると、自分たちの仕事である、神に礼拝を献げるという仕事、それは神殿でそういう仕事があるのですけども、その儀式ができなくなってしまう。

 

 だから、ここでこの倒れてる人を避けて、最も距離を置いてその道を通り過ぎていった、と考えることが妥当のようであります。その後に三人目の人として、一人のサマリア人がやってきました。サマリア人というのは、当時の世界の中ではユダヤの人たちから軽蔑されていた人たちでした。

 

 住むところが違っている。それから宗教の形が違っているということがありました。同じ聖書を使っていてもサマリア人旧約聖書の中でその一部しか使っておらず、またその信仰の形も違っていたということであります。民族が違う。宗教が違う。地域が違う。そういう理由でユダヤ人から軽蔑をされ、差別をされていたサマリア人です。

 

 「サマリア人が旅をしていて、この人がそばにやってくると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぷどう酒を注ぎ、包帯をして自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら帰りがけに払います。』」

 

 デナリオン銀貨というのは、デナリオンはお金の単位なのでありますが、当時の季節労働者、ぶどう園ぶどうを積む、その季節だけの日雇い労働者の賃金が1デナリオンでありました。ですから、2日分の労賃と考えていいと思います。まず自分が一緒に泊まり、そしてその翌日に二日分の労賃を宿屋の主人に渡して、この人を介抱してください、というのであります。そして、費用がもっとかかったら帰りがけに払います。このように言ったというのでありました。

 

 「さて、あなたはこの三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」とイエス様は問われました。律法の専門家は言いました。

 「『その人を助けた人です。』そこでイエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」この律法の専門家が「では私の隣人とは誰ですか」と最初に問うたときに、それはイエスを困らせようとしていたのだろうと思います。というのは、この律法の専門家がどんな人であるか、イエスは知らないからです。「私の隣人とは誰ですか」「どんな人を私は助けたらいいのですか」と、一体誰を隣人だと認識しているのか、そういう問いですね。この問に答えることはなかなか難しいことであります。

 

 イエス様はその問に対して、たとえ話をすることによって、それはあなたが考えるべきことだということを示したのです。そして、あなたが考えるべきその隣人というのは誰か、この話の中で、だれがその襲われた人の隣人になったと思うか、と言われたら、この話の行きがかり上、まあ誰だってそうでしょうけれども、この助けた人だと思うんですね。

 

 この話の流れで行けば、こうでしょうと。そういう意味で、簡単なたとえ話なのです。もしかしたら、この律法の専門家はこうやって問われた時に、だれが隣人になったか、と問われたときに、「ああ、この話の意味がわたしは分かるよ」と思ってパッと反射的に答えたのかもしれません。というか、この人しか近づいた人がいなかったのですから、隣人と言えばこの人しかいないでしょうと答えたわけでありましょう。

 

 しかし、そうして反射的に答えたときには、たとえ話の中の単なる一登場人物であって、つまり想像上のだれかであったその人、その想像上のだれかが、あなたの隣人であるとイエス様は言ったのです。そして「行ってあなたも同じようにしなさい」と言われた所には、その想像上のあなたの隣人というものを、あなたが自分で見つけてきなさい、と言っているのでありました。

 このたとえ話を読んで、色々なことをここから受け取ることができます。当時の宗教というものが批判されているということもよくわかります。神に仕えるために、神殿に仕えるために、礼拝のために、その仕事をしている人たちが、このように一人の半殺しにされた人を見捨てていった。まさにここに当時の宗教の問題があるわけです。

 

 聖書の律法の規定に従えば、この二人は正しいことをしたのでしょう。しかし、それは一人の人の命を蔑(ないがし)ろにすることでありました。そんな宗教、そんな聖書理解、そんなものであっていいのか、ということが問われています。

 そしてまた、この話全体を通して言えることですが、この律法の専門家は「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と最初に問うています。「永遠の命」ということがいわゆる不死、もう永遠に死なないという意味ではなくて、死んだ後に、今の私たちの言葉で言えば天国に行って、ずっとそこで幸せにいられると考えて、どうしたらそうなれるのでしょうか、と尋ねてきた、そういう話として読むことができます。

 私たちは本日、永眠者記念礼拝の名のもとに、ここに集まっています。それぞれのご遺族にとって大切なご家族であった、その一人ひとりがいま天におられること、神のみもとにあって安らかに憩うておられる、そのことを信じたい、そのように皆様は願われるのではないでしょうか。

 一方で自分自身、私自身が、自分に関してそうしたことを願うかというと、私自身は別にどうなってもいいけど、というようなことも思うのではないかと思うのですね。でも、私はどうあれ、やっぱり私の家族ということを思うときには、天国に行って幸せになってほしいなと、やっぱり多くの方は願っておられるのではないでしょうか。

 それはもちろん、科学的な意味でそうであるとか、聖書の文字通りにそうだとか、キリスト教の教えに基づいてそうなのだ、という風なことではなくて、もう少し漠然とした形ですけども、そんな風なものであってくれたら、いかにうれしいか、という風な、自分の心の中で思い、家族を思う気持ちとして、そうではないかと思うのですね。

 

 一方で、この聖書の時代において、そうしたことを漠然とした思いではなくて、どういうことをしたら永遠の命を受け継ぐことができるのでしょうか、と聞いてる時には、どうやったら天国に行けるのですかという問いであり、それを家族のこととして言えばですね、その家族が天国に行ってくれるにはどうしたら良かったんだろうか、ということになってくるわけですね。

 

 そんなことも重ねて、今日の聖書箇所を読むときに、じゃあイエス様自身はその問いかけにどう答えておられるかというと、イエス様がまずおっしゃられたのは、聖書に書いてあることですね。

 「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」と尋ねられました。まず聖書を読んでいますかと、律法の専門家なら読んでますよね、そこに何と書いていますかと。そして、あなたはそれをどう読んでいるか、というときには、単に聖書のどの箇所をどれだけ読んだか、ということではなくて、あなたは聖書をどんな風に解釈していますか、という意味が込められています。

 そして、単に理論的にどう解釈しているか、というだけではなくて、どう読んで、どうそれを実践しているか、どう生きているか、ということも含められているのです。それは、今日の箇所において、イエス様が話されたたとえ話、そして、その最後に「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われていることからわかります。

 では、私たちはどのように聖書を読み、それを実践して、どのように生きているでありましょうか。そのように問われても、おそらく皆さんは困惑されると思います。戸惑うと思います。というのは、そんなに聖書を読んでませんから。そんな毎週教会に行ったりしてませんから。そもそもクリスチャンじゃないですから。いや教会に行くのも1年に1回、今日だけですから、そういう方々も多いと思います。

 

 私はいま、そういう皆さんを困らせようと思って、この問いをするつもりはありません。そしてイエス様ご自身が、今日のこの物語を読むわたしたちに対して、わたしたちを困らせようと思って言っておられるのではない、ということも知っていただきたいのであります。

 今日、この礼拝という、短いこのひとときにおいて、私たちはこのイエス様の言葉に出会って、何を考えるか、そのことだけを考え、そしてそれぞれに考えていただいたことを、神様にお献げいただいたら、もうそれで十分だと思うのです。

 

 では、私自身が今日の箇所を読んで、何を思ったかということを少しお話をさせていただきます。今日、この永眠者記念礼拝という場にあって、わたしは自分の家族を思い起こしました。そして、今日のイエス様の物語を、一般的な物語ではなく、家族の話として読むことに決めました。

 律法の専門家は言っています。「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と言います。私はこんな問いはしません。どうやったら自分が天国に行けるでしょうか、そんなこと、わたしはあまり問いたくないのです。死んだらその時のことなのです。死んだ後のことなんてだれだって分からないんですよ。そんなことは。私はそう思ってるのです。

 

 じゃあ、わたしは何を問うでしょうか。私は問いたいのです。「先生、何をしたら私たちはいい家族になれるでしょうか」、あるいは「わたしは、どうしたら家族の幸せを得ることができるでしょうか。」そのようにわたしは、読み替えてイエス様に問うてみたいのです。

 

 そんな、聖書の読み替えが許されるのか、と皆さんが思われるかもしれませんが、考えてみてください。「永遠の命を受け継ぐ」というのは、死んだ後に天国に行って自分の一番の幸せを味わう、ということが言われてるのですね。一番幸せになるには、どうしたらいいでしょうか、とこの律法の専門家は聞いてるわけなのです。そのことを、わたしが今日の日に考えるとしたら、家族ということについて幸せになるためには、わたしは何をしたらいいのでしょうか、という問いに読み直しても、私は許されると思います。

 どうしたら、私の家族の中で、私は幸せになれるのでしょうか。イエス様はおっしゃいました。「律法には何と書いてあるか、あなたはそれをどう読んでいるか。」そう言われたら、聖書に書いてあること、それは律法のことだけではなくて、旧約聖書新約聖書も全部合わせて、その中で大事なことは何でしょうか。

 

 それは、イエス様が今日おっしゃっておられるように、まず神様を愛すること、そして隣人を自分のように愛することだと、それがキリスト教の中で一番大事だということはもう知っています。だから、そのことを答えます。すると、イエス様が言われます。正しい答えだ、それを実行しなさい。そうすればあなたは、家族ととに幸せになると。

 しかし、私は自分を正当化しようとしています。では、私の隣人とは誰ですかと。それに対してイエス様が今日のたとえ話を答えられたのであります。それは、家族の話とは到底思えない話であり、しかも、かなり荒っぽいというか残虐な話ですね。これはリアルに考えたら嫌な話です。思い浮かべたくもない話です。

 

 血まみれになって道端に倒れている人、しかも道を通る人から見捨てられている人が道端に倒れています。皆さんどうしますか。そして自分自身には行くべき場所があるのです。おそらく、旅をしてるといっても風来坊のような気楽な旅ではなく、仕事をしていたのではないでしょうか。帰らなきゃいけないところがある。

 しかも、その倒れている人はだれか。自分を差別しているユダヤ人ではないか。ユダヤ人の地域であったのでありましょう。しかしユダヤ人ではなかったかもしれない。服がはぎとられて、その人がだれであるかも分からない。そういう状況であったら、こんなときに何をしたらいいのか分かりませんけれども、この一人のサマリア人はこうして、今日の箇所に書いてあるようなことをしてくれました。

 

 しかも、この人に十分な手当てをして、ロバにのせて宿屋に連れて行って介抱し、そして翌日になると、と書いてありますから一緒に一泊してるんですね。1つの家に行き1つの部屋で一緒に泊まったのです。見も知らない人と。

 

 そして翌日になると、二日分の労賃を与えて宿屋の主人に、私の代わりにこの人を助けてくださいと言った。そうやった後に、自分が行くべき目的地に出かけていったわけであります。しかし、この人はもう一度ここに帰ってくるのです。そこに帰ってきたときに、何か余計にお金がかかったらわたしが払いますからと、そこまで保証するのでありました。

 

 この話を、家族の話として読むことができるでしょうか。なかなか難しいと思いますね。家族の中でこんなことは起きませんから。しかし、そう思いながらいろいろ考えていると、私は様々に思い当たることがありました。私は私の家族に対して、この一人のサマリア人のようなことをしてきただろうか、と思ったのであります。

 

 子どものときのこと、10代のときのこと、20代のこと、30代、色々と自分のことを思い起こすと、いろんな場面が出てきます。子どもの時に思いっきり迷惑かけたこと、10代の頃にたくさん心配をかけたこと、20代30代と通して親と疎遠になっていったこと、そしてまた親が病気になったり、いろんなことがあってまた出会うようになったこと、そんないろんなことを私は思い起こします。

 

 そんな中でいろんなエピソードを自分でも思い出すのでありますけども、具体的なことは申し上げませんが、ひとつ言えることは、わたしは子どものときに、自分が家族からずっと守られていた存在でありつつ、しかし自分が家族を守らなくてはいけない、ということは何も思っていなかったな、ということであります。親がだんだんと弱くなっていく中にあって、自分が親を守る存在になっていくということは自然と感じ取っていくのでありますが、若いときにはそのような思いはなかったかもしれません。いや、なかったのです。

 そんな自分が子どものときや若者のときには、この「サマリア人のたとえ」という、聖書の中にある話を教会で聞いても、聖書を読んで考えても、私の頭の中で考えることは、社会の中で自分がどう生きるかということでありました。この社会の中で差別されている人と、どう歩むか、自分自身がどう生きていくか、「この社会の中にあって」ということが、聖書から与えられた大きなテーマでありました。聖書から、そのことをたくさん考えてきたと思います。

 

 しかし、今日の聖書箇所のことを、家族のこととして考えることはしてきませんでした。むしろ、そのことを避けてきたと思うのであります。家族というのは、なかなか重たいものです。助けなきゃいけない、家族から離れられない自分以外にその役割を代わってくれる人がいない、という中にあって、家族の世話をしなきゃいけないというのは、なかなか辛い時もあります。

 

 けれども、いま改めて、いろんなことを経験してきた中で、この聖書の箇所を読むときに、私たちがそれぞれにいい家族になるためには、どうしたらいいんでしょうか、と神様に問うてみたときに、帰ってくる答えが、こういう物語であったとしたら、私たちはどうするでありましょうか。

 今日の聖書箇所の話は単に、困ってる人がいたら助けてあげなさい、という、何か良いことをしてあげましょう、というだけの話ではないのです。聖書の物語というのは、一見そんな単純な話に見えますが、いろいろと掘っていくと面白いのです。

 その中で、当時の社会のこと、聖書のこと、そして宗教って一体何だ、そもそも宗教って本当に意味があるのか、という風な問い直しすら、この現代においては、私たちはしていくときもあるのですね。

 

 そういうことを考えるときに、家族というものも、これは一体何だろうかと問うたときに、いろいろと自分だけでは考えられないことがあります。家族って何だろうか。ということを、自分だけでは理解することができないことが、たくさん出てくるのです。

 

 そんなときに聖書は、私たちにたくさんのメッセージを与えてくれるのです。今日の説教題は、「隣人になってくれる家族」と題しました。もはや、先に天に送った私たちそれぞれの家族のことを思う時に、もう隣人になることができないんだな、ということに寂しさも覚えるのでありますが、いや、今からでも天に送った家族の隣人になれるんじゃないかな、とわたしは思うのです。

 

 今日の聖書箇所において、律法の専門家が立ち上がり、「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問います。それと同じように、「先生、何をしたらわたしたちは、天に召された私の家族たちの隣人に今からなれるでしょうか。どうしたらそうなれるのでしょうか。」そんな思いを持って、イエス様に尋ねてみたいと思うのです。イエス様は何と答えてくださるでありましょうか。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様。日々与えられているたくさんの恵みに感謝をいたします。それとともに、その恵みに気がつくことの少ない私たちをどうぞお許しください。どうか、今日から始まる1週間、また今日から始まる全ての日において神様が共にいてくださり、天に召された家族たちやいろんな先達の方々の眼差しによって守られ支えられ、そして残されれた一人ひとりが自分自身の人生を歩むことができますように、どうぞお導きください。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。アーメン。

 

 

「神様の前で自分を見つける」今井牧夫

 聖 書 ガラテヤの信徒への手紙 5章 16〜25節(新共同訳)

 

    わたしが言いたいのは、こういうことです。

 

 霊の導きに従って歩みなさい。
 

 そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

 

 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。

 肉と霊が対立しあっているので、
 
    あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

 

 しかし、霊に導かれているなら、

 あなたがたは律法の下にはいません。



 

 肉の業(わざ)は明らかです。

 それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、

 争い、そねみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。 

 

 以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、

 このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 


 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、

 喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。

 これらを禁じる掟はありません。

 

 キリスト・イエスのものとなった人たちは、

 肉を情欲や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。

 

 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、

 霊の導きに従ってまた前進しましょう。

 

 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、

 ねたみあったりするのはやめましょう。

 

…………………………………………………………………………………………………………………… 

 

(以下、説教)

 毎週の礼拝で、福音書使徒パウロの手紙、旧約聖書、その三箇所から選んで順番に毎週読むという形にしています。今日は、使徒パウロが記した手紙であるガラテヤの信徒への手紙5章であります。この手紙全体が6章までなので、だいぶ終わりに近づいてきました

 手紙が終わりに近づくときに著者は、それまで自分が言ってきたことを大まかにまとめながら、最終的に相手に伝えたいメッセージを整えていくものであります。今日の箇所においても、パウロがここまでのところで書いてきたことを踏まえながら、割とストレートに、ガラテヤの教会の人たちに向けて言いたいことを伝えています。

 

 どのようなことが書いてあるでしょうか。順番に読んでいきます。

 16節「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊が対立しあっているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」

 

 ここで肉と霊という二つの言葉が出てきています。肉というのは、人間の身体、生きた人間の体、実際の人間の存在というふうに理解していただいたら良いと思います。そして、霊というのはその肉の中において、現実の人間の中において、目に見えない存在である自分の心、魂、また精神、そうしたものが、ここで霊と言われていると考えていいのです。

 

 自分という一人の人間の存在の中で、現実の体を持った人間としてのわたしというもの。それと、自分の心の中でいろんなことを思うわたし。心の奥深いところでも思う、霊的な存在である自分。それと、肉的な存在である自分。それらが対立し合っているので、あなた方は自分がしたいと思うことができないのです、というふうにパウロは言っています。

 

 ここに書いてあることは、人間というもの、その存在を、肉と霊というふうに二つに分ける考え方であります。

 

 もちろん現実の人間というのは、どういう存在かということを考えると、「肉と霊」という風に ポンと二つに切り分けるようなこと、これはできないんですね。肉も霊も両方合わさって人間です。

 パウロもそのことはよく分かっているのですけれども、物の考え方と言いますか、考え事をするときに一旦そうやって二つに分けてみることによって、課題が分かりやすくなってくることは確かにあります。そういう意味でパウロ自身も、ここで「肉と霊」という言葉で、人間の状態を表しているのです。

 

 現実の身体を持った自分と、自分の心の中の自分が対立し合っていることがあります。つまり、肉の自分がしたいと思うことと、霊の自分がしたいと思うことが対立し合っている、違っているということであります。パウロはここで、こういう言い方をすることで何を言いたいのでしょうか

18節ではこう言います「しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の業(わざ)は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」

 

 ここには、これでもか、これでもか、と言わんばかりに、人間の世界の中にある悪いことが並べられています。聖書学者の研究によると、悪と思われていた事柄を並べた表のような書き方は、悪徳表とか、その反対は徳目表とか言うそうで、つまりリストアップということですね。

 

 こういうふうにリストアップした、こういう悪を避けましょう、ということを言っています。そういう当時の人たちのそのままの言葉遣いを、パウロはここで使っているわけです。人間の肉のわざ、生きている人間のそのままの身体というものに沿って、そこから生まれてくるわざというのはこういうものだ、ということでありました。

 

 その次に22節はこう言います。
 「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を情欲や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」

 ここでは肉のわざに対して、霊の実りということが書いてあり、それはまず愛であるということ、そして喜び、平和、寛容というふうに言葉が続きます。素晴らしいものがリストアップされているわけです。先ほどの悪徳表の反対が、こうした徳目表というのでしょうか。そういうリストアップがなされているわけであります。

 ここでパウロは、ガラテヤという地中海沿岸にあった町にある教会の人たちに向けて、この手紙を書いているのですけども、悪いことはこういうことだ、その反対に良いことはこういうことだ、そういう言い方で非常に分かりやすくまとめています。

 

  そして、キリスト・イエスのものとなった人たちは、「肉を欲情や欲望もろともに十字架につけてしまったのです」というのでした。キリスト・イエスのものとなった人たち、それはキリスト・イエスによって捕らえられてクリスチャンとなった人、あるいはキリスト・イエスを主と信じてクリスチャンとなった人、そういう人たちです。

 

 ガラテヤの町の教会に来ていたクリスチャンの人たちは、自分が人間としてもともと持っていた様々な問題をすべて、イエス・キリストが十字架で死なれるときに、その十字架に一緒につけてしまったと考えていたでしょう。そういう形で、自分の持っている問題が神様の力によって滅ぼされたと、解釈をするのです。

 もちろんそれは、自分の力でそうしたのではなくて、神様がそうしてくださったことを信じる、というのがクリスチャンなのでありますが、そうであるということを言ってるのです。

 

 そして25節でこう言います。

「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみあったりするのはやめましょう。」

 

 霊の導きという言葉がここにあります。この霊という言葉も、いろんな意味がありますけれども、 今日の箇所において言えば、二つの意味が少し重なって使われているように思います。

 最初の17節のところで「肉と霊とが対立し合っている」というときには、現実の自分の身体と、それから精神、というふうな対立軸が考えられていますけれども、「霊の導きに従って前進しましょう」と言われるときには、それは神様から与えられる聖霊ということが意味されているのだと思えます。

 

 だからパウロはここで、霊という言葉に二つの意味を重ねているのではないか、と思われます。人間の精神というものもですね、神様と関係なく存在する自分の精神という意味ではなく、神様の聖霊が自分のところに来てくださって、それに導かれている自分の精神。そういう意味での霊という言葉には、神様の導きということと、自分の心というものの二つが重なって語られているのではないかと思います。

 

 以上が、今日の聖書箇所の概要であります。この箇所を読まれて皆様はどのようなことを思われたでありましょうか。

 

 この箇所では、いわゆる人間世界にある悪いもの、そして人間世界にある良いもの、そういう二つが対称化されて、悪いものをやめて良い方に行きましょう、と言われてるような気がします。ごく単純化して言えば、ここはそういう箇所ですね。

 

 すると読む私たちも何となく、この箇所で言ってることは大体分かりました、という気持ちになるのですね。悪事を捨てて良いことをしましょう、と言われたら、それはそうでしょうね、と思います。なるほど、キリスト教の教えはそうでしたか、という感じで話が終わってしまう気もします。

 

 けれども、パウロが書いたこの箇所を読むときに、パウロの言いたいことというのはそんな単純なことではないのですね。このガラテヤの信徒への手紙が全体として言っていることというものがまずあって、そして最終的にまとめのところに入るときに、今日の箇所のような言い方で分かりやすく説いているということであって、パウロが元来言いたかったことというのは、聖書のこの前の箇所に長い文章で書いてあります。そこにあるわけです

 

 ではそこで、何がパウロの言いたいことであったかというと、ひと言で言うと「律法主義からの解放」ということです。これがパウロが一番、ガラテヤの教会の人たちに伝えたかったことです。これは何となく書き送った手紙というのではなくて、はっきりした目的を持って書かれた手紙です。

 

 ガラテヤの町の教会の人たちは、イエス・キリストの福音を信じてクリスチャンになった人たちですが、それは旧約聖書に記されたたくさんの律法を守ることによって神に救われる、という律法主義の信仰から解き放たれて、イエス・キリストが自分の救いであると信じることで、律法からも解放されることでした。

 

 つまり、律法というのは行いのことなのですが、人間が何をどう行うか、どういう行動をするか、その行動によって神様に救われる、という考え方から解放されて、信仰によって救われるということが、イエス・キリストの福音でした。

 

 つまり自分が過去どんな行動をしてきたとしても、それと関係なく神様の愛によって、その愛に対する信仰のみによって、その神の愛を信じる信仰が心の中に生まれたときに、その人はもう救われているのだということです。そういう、イエス・キリストの福音を信じるようになったのがクリスチャンだったわけです。

 

 ところがガラテヤの教会の人たちは、そうやって一度イエス・キリストの福音によって、律法主義から一度解放されたにも関わらず、ある人たちがガラテヤの教会に影響を持ち出して、やはり旧約聖書の律法もちゃんと守らないといけない、と教えていたようです。

 

 イエス・キリストの福音から離れて、昔やっていたような律法を固く守り、その行いによって救われるという考え方に引き戻されつつあったガラテヤの教会の人たちに対して、パウロが、いや、そうであってはいけないんだ、あなたたちは自由の身になったんだ、と言うのです。

 

 旧約聖書の律法から解き放たれたっていうことは、言葉を変えていえば、当時の宗教のおきてに縛られることから解放されることでもあり、あるいは自分がどんな良い行いをしたかによって救われるか救われないかが決まる、そうした行動主義、行いというものを第一に見る考え方、そこから解放されることでもあります。

 

 なぜならば、神様は人間をそうやって自由なものとして創ってくださったから、自由な存在である一人ひとりの人間のあり方に戻っていくのです。そうして自由に生きて、神様を愛し、神様を称え、感謝して生きていく。隣人と共に生きていく。そうした、イエス・キリストが示して下さった福音によって生きていく、ということをパウロは、ガラテヤの教会の人たちに勧めているわけであります。

 

 律法主義からの解放ということがまずあって、そしてこの手紙を書いてきて、その最後のほうにパウロが今日の箇所の言葉を書いているということなんですね。

 

 すると、今日の箇所が持っている意味は、どういうことなのでありましょうか。もしも、この手紙全体の意味を知らなかったら、今日の箇所というのは、悪事をすることから離れて良いことをしましょう、というふうな、すごく単純な話、何かこう道徳的なことが言われてるように思いますが、単にそうではないとしたら、では何が言われているのでありましょうか。

 

  それはですね、パウロがガラテヤの教会の人たちに対して持っていた、いろんな思いがあったと思いますけれども、ここでパウロが言おうとしてるのは、このガラテヤの教会の人たちが置かれていた社会の状況の中にあって、その中からどうやって救われるか、ということをパウロがすごく考えていたっていうことを意味していると思うのですね。

 

 パウロが今日の箇所で19節以降に書いている、「肉のわざ」といって、ここでリストアップしているいくつもの悪いこと、これを一つひとつ解説、解釈していくとも大変なのでしません。

 

 けれども、どの言葉を見ても、何だかちょっとおどろおどろしいような、何か怖い感じのことが書かれています。これらが悪のわざということなのでありますけども、パウロはなぜこんな風に、悪というものをリストアップしてわざわざ書いているのでありましょうか。

 

 ガラテヤの教会の人たちが、ここに書いていることを一つひとつしていたのかいうと、ちょっとそれは考えにくいですね。というのは、クリスチャンになった人たちが、こんな悪いことを全部やっていたのかというと、ちょっとそれは違うんじゃないかと思えるのです。

 

 すると一体なぜ、パウロはこんな風に、これらの悪というものをリストアップして書いているのかというと、これはガラテヤの教会の中にあることではなくて、ガラテヤの町というもの全体、あるいは、その社会、人間の生きている社会全体の中に、こうしたものがあって、そのま真っ只中にあなたたちは生きている、という、その社会の現実というものをパウロはここで語っているのです。

 

 それはガラテヤという街が地中海沿岸の町であり、そして当時パウロは他にもコリントとかいろんな町に行っていますけれども、その当時に教会が新しくできていったところは、貿易が盛んでいろんな地中海沿岸地域との交易があり、世界のいろんな地域からの様々な文化が流れ込み、そしてその中で経済的にも比較的豊かで、いろんな文化や宗教が流れ込んでくる、その中にあったわけですね。

 

 そうしたものの中で、人間の欲望を満たすような様々な事柄もあったので、そういうものに心が奪われていく。そういう危険がガラテヤの町には一杯あったのだと思います。ガラテヤの町だけではなく、地中海沿岸の当時の栄えた港町、栄えた世界にあって、そうであったのです。

 

 そうした中で人間の罪というものを深く考えていたパウロは、そうした人間の罪というものによって、そうした悪というものに引っかかって、巻き込まれて、飲み込まれて、自分の人生を失っていく多くの人たちを見ていたのではないでしょうか。

 

 そういうものから離れなくてはならない。そういうパウロの一生懸命な気持ちが、今日の箇所から伝わってくるのです。これは単に、教会の中の何かを言ってるのではなく、社会全体の問題を語ってるのですね。その中でどうやって生きていったらいいのかという時に、それは、イエス・キリストの福音を信じることである、とパウロは語っているのです。

 

 その中にあって、ガラテヤの町に教会が建てられました。神様の御心によって。そしてパウロはそこで説教者として用いられた。そして、パウロの語るイエス・キリストの福音を信じる人たちがたくさん生まれたのです。

 

 その人たちがどうやって生きてくか、というと22節以降にある通りです。
 「霊の結ぶ実りは愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」

 

 ここで掟(おきて)という言葉が出てきます。これは律法という意味なのですね。こうした、愛とか喜びとか平和ということは、律法によって禁じられていない。むしろ、こういうことをどんどん行いましょう、とパウロは言っているのです。

 

 パウロは、律法主義からの解放ということは、非常に強く訴えましたけども、律法そのものをおとしめたり排除したり、無意味なものであると言うようなことは一切ありませんでした。

 

 パウロにとって律法というものは大切なものだったのです。それは、神様から人に与えられて人が人らしく生きるための秩序であり、人と人との関係、社会における人間の様々な関係、そして神様との関係。そうしたいろんな関係がある中で、まず神様との関係っていうものを一番大事なものとして置くことです。

 

 その次に「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」という掟を二番目に置いて、神を愛することと、あなたの隣人を愛するということは、一つつながりのことである、というふうにイエス様はおっしゃっておられます。その通りのことをパウロは宣べ伝えたのであります。

 

 そうすることによってパウロは、ガラテヤの教会の人たちが、その町にあふれていた様々な、世界中の国から入ってくる悪しき文化、悪しき宗教、悪しき様々なこと、それらの中にはお金を用いての様々な悪が行われていた。そういう文化の中にあって、そこから人々が救われることをパウロは願っていた、そういうことが分かるのであります。

 

 ガラテヤの教会の人たちは、一度はイエス・キリストの福音によって律法主義から解放されたにも関わらず、なぜか、その後にまた律法主義へと戻ろうとしていました。そのことをパウロは知っていて、この手紙を書いているのですが、なぜガラテヤの教会の人たちはそんなふうに元の律法主義に戻ろうとしていたのでしょうか。

 そのことは聖書の中になかなか明快には書かれていないのですね。しかし、聖書を読んでいくときにいろいろと考えていくと、ふと思い当たることがあるのです。

 それは、私が思い当たることなのでありますけれども、イエス・キリストの福音によって自由とされ、律法主義から解放された、それはつまり律法を守ることによって救われるのではなくて、信仰によって救われるということになれば、律法、つまり行いということの価値が軽くなったと考えてしまうかもしれないということです。

 何でも自由にできてしまう、自由に生きることができてしまう、するとまた世の中の悪しき文化、悪しき宗教、悪しき習慣、そういうものが混じり合っていく、その生活にまた戻っていってしまう。

 

 すると、せっかくクリスチャンになったのに、それは逆戻りではないですか。そんなことはいやだと考えたときに、どうしたらいいかと考えると、それはやっぱり、昔には守っていた律法が必要なんだ、大事なんだ、といってまた律法主義に戻っていったのではないか。わたしはそんなふうに考えたのですね。

 

 というのは、人間というのは、本当の意味で自由に生きることが非常に難しいんですね。何をしてもいいんだよ、と言われた時に、では何をしたらいいのだろうかというときに、何か人間は深く考えずに悪いことをしてしまう。そしてまた、ずるずると昔やっていた悪いことに戻ってしまう。

 

 そんなときにどうやって自分を止めたらいいのでしょうか。これはやっぱり律法に頼るしかないと考えるのでしょう。聖書に書いてある律法をしっかり守る。それを守れば救われる、守らなかったら救われない、ということで、ある意味、自分に恐怖心というものを植え付けるようにしていく。こうした決まり事、掟によって自分を律していく。そういうことは人間に確かにあります。

 

 人間とは何か、ということを考えると、これは非常に難しいのですけれども、人間にはそうした決まり事というの必要だというふうに、これは私も思います。そしてパウロも思ってるのです。というか、だれでも思っているでありましょう。

 

 けれども、やっぱり掟とか決まり事というのは大事なのだ、と思ったときに、じゃあ、やっぱりその律法を守ることによって救われる、というところに帰っていこうとするときに、ちょっと待て、と言っているのがパウロなのですね。

 

 ちょっと待て。確かに律法は大事だ。それは大事だ。決して軽く見るべきではない。けれども、律法によって救われるとは、決して思ってはならない。そういうのです

 

 なぜならばパウロ自身が、クリスチャンになった経験の中で、これは聖書の中で使徒言行録やパウロの手紙の中でパウロ自身が言っていますけども、パウロは目が見えなくなりました。突然に目が見えなくなりました。そのことによって真っ暗闇の世界の中にパウロは入り、そして地面に倒れ、もう自分がどうして生きていったらいいか分からなくなった。その中でイエス・キリストの声を聞いたのであります。

 

 目が見えなくなったパウロは、もはや律法を守ることができません。律法主義の信仰で言えばもはやパウロは救われることがない。そのパウロが、目が見えなくなった暗闇の中で、イエス様の言葉を聞いて救われたのです。

 

 だからパウロにとって律法というのは、生活のスタイルを神様の前で整えるにあたって大切なものでありました。しかし、律法主義になってしまうと、今度は律法を守ることができない人たちを 差別して排除する考え方になっていくのですね。

 

 障がい者はダメだ。子どもはダメだ。女性はダメだ。病人はダメだ。外国人はダメだ。あの人はダメだ。そうやって、いろんな人を切っていく。排除していく。さげすんでいく。そうした差別によって、救われる人と救われない人を分ける構造を作る。人間のピラミッドを作るようにして、その中で律法を守ることで、その頂点に達することによって自分は神に救われていく、そういうエリート 主義でこの世界を作っていく。そうした悪しき律法主義に決して戻ってはいけない。

 

 それは、人を排除する考え方であり、人を愛さない考え方であるから、パウロは、それはダメだと言っているのであります。律法は必要なのです。でも律法主義はダメなのです。そういう思いを持ってパウロが今日の箇所を書いてるのですね。

 

 それは、イエスキリストを信じて自由に生きることがまず一番大事、だからといって世の中のいろんな悪い習慣、悪い文化、悪い宗教、世界各地からやってくるいろんな考え方の中で、特にお金を持ってる者が持ってない者を支配して奴隷にしたりする、そうした悪しき文化というもの、そこから離れなくてはいけないのだと。

 そのことを今日の箇所で、パウロはすごく言っているのですね。そしてそれに対して、霊の結ぶ実は、本当に神様が導かれるときには、律法を大事にしながらも、だけど律法によって縛られる生活ではなくて、「愛や喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、これらを禁じる掟はありません」という生活であるとパウロは言っているのですね。

 

 律法ではこれらのことは禁じられていません つまりどんどんやっていいんですよ、本当の人間が生きる喜びや楽しみはここにあるんだと、律法が禁じていない、愛や喜びや平和、寛容、そういうことによって私たちは生きていくんだよと。

 そして、それらを妨げようとする人間の様々な欲望というものは、イエス・キリストの十字架と共に、その十字架につけられてしまったのだとパウロは言っているんですね。

 

 これは、キリスト教の固有の考え方なのでありますけれども、イエス・キリストが十字架の上で 死なれるときに、わたしたち一人ひとりの人間の罪も、一緒にイエス様が負って死んでくださったと。だからわたしたちは、イエス・キリストを自分の主と信じることによって、自分自身の神様に対する罪を全て滅ぼすことができます。

 

 それは、人間の力によってできるという意味ではなくて、神様がそうしてくださる、人間はそれを信じることによって、それにあずかる。これがキリスト教の考え方であります。

 

 パウロはそのようにして、今日のわたしたちに対して、律法主義からの解放ということとと同時 に、律法を大切にする生き方、そして律法を大切にするけれども、律法によって救われるのではなくて、あくまで神様に対する信仰によって生き、そしてそこから生まれる愛、喜び、平和そうしたものによって人生を喜んで、楽しんで生きていく。そうした歩みをしようと、パウロはここでわたしたちに伝えているのであります。

 

 神様の前でわたしたちは、自分の人間としてのあり方に悩むことがあります。肉と霊が対立し合っている。実際の自分、現実のわたしと、精神的な自分の魂におけるわたしが違っている。そういうときにわたしたちは、自分が何をしたらいいか分からなくなる。そうした悲しい思いを味わうときもあります。けれども、イエス様の前に立つ時にはそんな自分がゆるされるのです。

 

 そして、その対立の中にあって、イエス・キリストが私たちの罪を背負ってくださることによって、わたしたちは、その肉と霊の対立からも解放されるのです。そのときに わたしたちは、自分で悩んでいる自分、という自分だけではなくて、神様の前にいる自分、というものを新しく発見するのですね。

 

 それは、様々な律法や掟ということを大切にしながらも、それによって救われるのではなく、神様が与えてくださる愛によって生きていく、そういう生活であります。そこに、神様の前での本当の自分というものがあるのです。

 

 お祈りをいたします。
 天の神様。使徒パウロが語った言葉から、たくさんのことを教えられました。現代を生きる私たちもまた、戦争と平和の間にあって引き裂かれて生きています。何をしたらいいかわからない、自分を見失って歩まざるを得ないようなときもあります。そんな中にあって、聖書の言葉を通してもう一度自分を取り戻し、イエス様と共に、神様と共に歩むことができますように、どうぞお導きください。
 この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

「今、行きなさい」 
    2023年10月29日(日)京北教会 礼拝説教 今井牧夫

 聖 書  出エジプト記 3章 7〜15節 (新共同訳)


 主は言われた。

 「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降(くだ)って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。

 

 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスエラルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

 

 モーセは神に言った。

 「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」

 

 神は言われた。

「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」

 

 モーセは神に尋ねた。

 「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うに違いありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

 

 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。

 

 「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。

 これこそ、とこしえにわたしの名

 これこそ、代々にわたしの呼び名。」 

 

 

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
   改行などの文章配置を説教者が変えています。
      新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 毎週の礼拝で聖書の、福音書パウロの手紙、旧約聖書、その三箇所から順番に毎週読む、という形にしております。本日の聖書箇所は旧約聖書出エジプト記3章7節からであります。

 

 今まで礼拝で旧約聖書の箇所としては、創世期を抜粋しながら順々に読んでまいりました。そして今日から出エジプト記に入ります。

 

 創世紀におきましては、その後半は、大変長い、ヨセフ物語と呼ばれるヨセフの物語を読んでまいりました。そのヨセフの時代に、イスラエルの人たちは飢饉によって食べるものがなくなり、そしてエジプトに移住した、そういうところで創世記は終わっております。

 

 そしてそこからまた長い年が経って、エジプトという国においてイスラエルの人たちは、だんだんと人口が増えてきたので、そのことにエジプトの王様であるファラオは危険を感じて、イスラエルの人たちを抑圧するようになりました。具体的には、非常に重い労働を課してレンガ作りの労働を課して、人々を苦しめるようになったのです。

 

 その苦しみの中で神様が、その民の苦しみの声を聞いて、そして救い出してくださる。そのことを神様が心に決めてくださった。そして、その神様の御心に沿って、モーセという1人の人が選ばれた、というのが今日の場面であります。

 

 モーセという人は決して立派な人ではありませんでした。むしろ、問題を起こしてイスラエルの人たちから離れて、逃げるようにして離れて生活をしていた、そういう問題のある人でありました。

 

 そのモーセに神様が現れてくださって、そしてモーセを、これからイスラエルの人たちがエジプトから脱出するときのためのリーダーに召してくださったのであります。

 

 そのことが受け入れられないモーセは、神様に対して、私はそのような任務に耐えない、ということを言うのでありますが、神様はご自身の言葉をもってモーセを導く、そのことを約束してくださいました。そのことが今日の箇所に書かれています。

 

 今日、私たちはこの礼拝において旧約聖書を読んでいます。そして、この箇所を読む時に、普段はあまり考えることがないような、このエジプトであるとかイスラエルであるとか、そうしたカタカナの名前がたくさん出てくる今日の箇所を読んでいます。

 

 この箇所を読むときに、私たちは心に何を思い浮かべるでありましょうか。旧約聖書福音書パウロの手紙、その三箇所から選んで、毎週順番に読んでいく、という形を礼拝でずっと、ここしばらく続けておりますけども、そういう意味で、その形をしているので3回に2回は旧約聖書が回ってくるわけであります。

 それで順々に読んできて、今日の箇所がやってまいりました。何も不思議なことはないのでありますけども、私は今日の箇所を選ばせていただいて、ここを読んだときに、心に少し痛みを感じるものがありました。

 

 それはなぜかと言うと、今日の箇所に出てくるイスラエルという言葉を始め、この中近東と呼ばれる地域、パレスチナと呼ばれる地域の名前を見た時に、今現在起こっているイスラエルハマスの軍事衝突あるいは戦争、そのことがやはり心をよぎるのでありました。

 

 そうしたことがなかったら、もっと何て言いますか、ある意味純粋な気持ちで聖書に向いあえていたかもしれない。だけども今、世界で起こっていることがリアルに思い起こされるときに、今日の所を読むにも、この箇所を一体どう読んだらいいのだろうか、ということに少しつまづきを覚えるような気持ちを感じました。

 

 しかし、その思いと同時に、考えたのです。今日の箇所はあまり読みたくないな、という思いが、ふと心をよぎるときに、いや、しかし、こんな時代だから、こんな世界だからこそ、神様は聖書のこの箇所を読むように私たちを導いているではないか、という思いにもなったのです。

 

 旧約聖書を読む時の一つの心構えと言いますか、今日の箇所もそうなのでありますけども、大事なこととして私が思っていますのは、聖書に出てくることを、もうストレートにそのまんま現代のことに重ねて、何かを解釈する、というのは大変危険なことであり、それはしてはいけないことである、ということであります。

 

 なぜならば、そうすることによって、自分の引っ張ってきた結論にですね、聖書を重ねて考えていく、そういう危険があるからなのです。

 

 では、どんな風に旧約聖書を読んだらいいのか、というと、旧約聖書の中に記されているイスラエルとか中近東、パレスティナの情勢というものが、ストレートに現在の情勢と重なってるわけではない、という大前提の上で、聖書の中で教えられている事柄というものがまずあり、私たちはそれを深く読むべきであるということです。 

 

 それと同時に、現在の世界に起こってることがどういうものであるか、ということも、これもあまり単純に考えすぎずに現実から深く学んでいくということ。その二つの学びがあり、そしてさらに、その聖書の学びと現実の学び、この二つの学びがお互いに対話するようにして、ものを考えていく、ということ。

 

 これは、大変難しいことでもありますけれども、簡単に結論を出さずに、聖書のメッセージと現実に起こってることがどんなふうに対話できるのか、という、そのことを自分の中で時間をかけて考えていくということです。

 

 そのときに、神様の導きをひたすにひたすらに願って聖書を読んでいく、その中で私たちは単純な一つの結論を最初から持つのではなく、神様がいま現在進行形で私たちに示してくださるメッセージ、というものがある、そのことを聖書から聞き取っていきたい、と私は願うわけであります。

 

 それで今日の聖書箇所を読む時も、そんな風なことを考えてですね、この本当に胸を痛める現代の世界の問題があると同時に、しかし一方で私たちは、今日の箇所から学ぶことが必ずある、と信じて読んでいきたいのであります。

 

 そんなことを考えて読む時に、今日の箇所から何が導き出されるでありましょうか。

 

 今日の箇所、7節から読みました。こう書いてあります。

 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降(くだ)って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。」

 

 「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスエラルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

 

 ここに書いてある神様のメッセージ、それは、神様は苦しんでいるものの声を聞いてくださるということであります。抑圧する者の故に叫ぶ、彼らの叫び声を聞き、とあります。神様はその叫び声を聞き、痛みを知ってくださる方であります。

 

 そして神様は自ら下ってきて、その苦しむ民を救い、新しい世界へと導き出してくださるのであります。その新しい世界には、様々な国、様々な民族の人たちが住んでいる。そこに新しく進み出していく。そこにおいて、神様への信仰を持って、あなたたちは生きていくのだ、とそのことが語られています。

 その道というものが、どういうものであるか、今日の箇所には具体的には書いてありません。歴史を通して、私たちは何を学ぶのか。そのことは、私たちにもまた問われていることなのですね。 

 

 しかし、どういう解釈をするにしても、まず神様とはどういう方であるか、ということを聖書から知る必要があります。苦しんでいる者の苦しみを聞いてくださる、そして神様自らが来てくださり、救い出してくださる、ということであります。

 

 その神様のメッセージを聞いてモーセは言いました。

 「モーセは神に言った。『わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。』神は言われた。『わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。』」

 

 なぜ、という問いに対して、神様の答えというのは、私があなたと共にいるから、ということでありました。モーセがどういう人物だからリーダーに向いてる、とか、力があるから、とか、そういうことではなくて、神様が、モーセ、あなたと共にいることを決めたからだ、というのであります。

 

 神様が成してくださる、とそれを聞いてモーセはさらに言います。11節。

 「モーセは神に言った。私は何者でしょう。どうしてファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」

 

 先ほど申しましたように、モーセは大きな問題を起こして、イスラエルの人たちを避けて、そこから離れて住んでいた、もう逃げ出していた人であります。なぜ、そのモーセがもう一度イスラエルの人たちのもとに、戻らなくてはいけないのか。そのことで、神様はおっしゃいます。「私は必ずあなたと共にいる。このことこそ私があなたを使わすしるしである。」

 

 こうしてモーセは、神様の言葉を聞いて遣わされるままに、イスラエルの人々のところへ行くことを決めたのですが、その時に神様にどうしても聞きたかったのは、あなたのお名前は何ですか、ということでありました

 

 モーセは神に尋ねた。

 「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うに違いありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

 

 イスラエルの人たちに、神様のことを、どう説明したらいいのか。その名前を聞きたがるに違いない。単なる漠然とした「神様」ということではダメなのです。説得力がないのです。そんなモーセの気持ちが伝わってきます

 

 それに対して神様は言われました。
「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」

 この神様の名前の意味をめぐって、その意味が何であるか、聖書学者のいろんな人たちが長い年月、考えてきました。今でも、その結論は出ていません。ちなみに、最近出た新しい聖書の翻訳である聖書協会共同訳においては、「私はある」ではなくて、「私はいる」という言葉に翻訳されているということであります。

 

 その理由というのは、この聖書箇所の12節のところで、神様がおっしゃってる「わたしは必ずあなたと共にいる」という言葉が使われてることにあります。この言葉が、その後にも意味が連続しているとしたら、「私はある」ではなく「私はいる」という言葉がふさわしいのではないか、という翻訳の判断があるわけです。

 

 「わたしはある」、「わたしはいる」、どちらがいいでしょうか。言葉の好きずきということであれば、ご意見がいろいろあるかもしれませんが、私はある、ということを今日の箇所から学ぶ時に、その中には「私はあなたと共にいる」というその意味が含まれているということも知っていただきたいのであります。

 

 そして神様は15節でこう言われました。

イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。

 これこそ、とこしえにわたしの名

 これこそ、代々にわたしの呼び名。」 

 

 今日の聖書箇所では、神様の名前ということが2つ言われてるんですね。一つは、「わたしはある」という、この言葉です。そして、もう一つは、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という、この言葉であります。

 アブラハム、イサク、ヤコブ。これは人の名前であり、親・子・孫ですね。イスラエルの最初の部族の長であった、アブラハムその子どものイサク、その子どものヤコブということであります。その子孫というものが、イスラエルという人たちになっていく。ユダヤ人になっていく、ということであります。

 そうした聖書の物語というものを、私たちは本日読みました。この箇所を読んで皆様、何を思われるでありましょうか。今日の箇所には、大変重要な、歴史的に重要なことが記されてあります。聖書の言葉を担ったイスラエルの人たちの、そのスタートと言える出来事である、出エジプト記の発端となる、そのことが記されているわけであります。

 

 大変興味深い箇所であります。同時に、そうしたこの箇所が、いかに大事な話であるか、という説明を聞きながら、一方で皆様は、今日の箇所から何を思われるでありましょうか。

 

 聖書にとって大事なこと、イスラエルの人にとって大事なことを、キリスト教の神学にとって大事なことが書かれているのでありますけども、皆様お一人ひとりにとってはどうでしょうか。

 

 読んでいて、今日の箇所に書いてあることは、すごくスケールの大きいことなのだろう、すごいな、と思われる方もおられるでしょう。しかし一方で、今日の箇所というものが、このわたし、自分自身にとってはどんな意味を持つのだろうか、というところで、今読んでもあまりピンと来ない、という方もおられるかもしれませんね。

 

 わたしも、今日の箇所を読みながら、今日の箇所というのが、神様がモーセを選んだ、ということ、そして、今、行きなさい、と言われている、その言葉がすごく大事だと思うことと同時にですね、一方で、でもそんな神様のメッセージが、あまりにも大きすぎて、あるいは重すぎて、あるいは、歴史ということを考えたときに、何だか少し心が重たくなる、ということもあってですね、何となく素直に聞けないな、というふうな、何かそんな感じもすることも確かなのです。

 

 そんなわたしが、今日の箇所をどんなふうに感じたか、というと、ちょっと一つお話をいたします。

 

 最近のわたしは、朝、なるべく早起きして、散歩するように心がけているのですけども、朝起きて、できれば6時台、遅くても7時台にですね、教会から出て鴨川まで歩いて帰ってくる、というだけ、ただそれだけなのですけども、毎日でもないのですが、なるべく毎日そういう散歩をしているのです。

 

 それで、歩いていてこんなことがありました。道を歩いていたときに、目の前にはっと思ったのは、歩道の真ん中に一羽のスズメがぽとりと落ちていたのです。死んでいるのですね ああ、かわいそうだな、と思いました。でも、死んだスズメを見て、それで自分がどうするわけにもいきませんから、その横を通りすぎようとしたときに、何か、はっと思ったのですね。わたし、このスズメを放って行っていいのだろうか、とちょっと思ったのです。

 

 どうしてか、というと、わたしは「良きサマリア人のたとえ」を思い起こしたのですね。道に落ちて死んでいるスズメを見て、わたしは何もしないで、その横を通り過ぎて行っていいのだろうか、と、ちょっと思ったのですね。

 

 でもまあ、人間とスズメは違いますから、と思って、横をすすっと通り過ぎたのですけども、そこを通り過ぎてから鴨川に行って、鴨川見てからこうUターンして帰ってくるのですが、そこから鴨川を見に行ってUターンして帰ってくるところまで、ずっとわたしはそのスズメのことを考えていたのですね。わたし、一体どうしたらいいのだろうか、と思ったのです。

 

それで、自分の心を考えてみたらですね、なぜ、わたし、あのスズメを放ったままで、歩いてきたんだろう、と考えた時に、やっぱり死んだスズメに触りたくない、というのがあったんですね。それは何かやっぱり不潔なことだろう、何かするとすれば手間がかかることだろう、と思ったときに、あの「良きサマリア人のたとえ」で、祭司とかレビ人とかが横を通り過ぎていった気持ちが、わたしは分かった、と思ったのです。

 

あの「良きサマリア人のたとえ」、普通に読んだら、祭司もレビ人も、倒れている人の横を通り過ぎてね、何か人情のない人というか、何か冷たい宗教家だ、みたいな感じに普通に思ってしまうのですけれども、いや、その気持ち分かるわ、とわたしは思ったのです。だって、半殺しにされた人が道ばたで倒れていたわけでしょう。もし、死んだ人だったら、死んでいる人だったら、どうなるんですか。死んだ人に触れたら汚れると反射的に思うのではないですか。

 

 やっぱり、触れたくないわ。だから、倒れている人は、ちょっともう、そこの近くに住んでいる人とか、そういう人が助けを起こしてくれたらいいことであって、わたしはやっぱり触れたくない。不潔だから。……と、そんなことを思ったときに、あの「良きサマリア人のたとえ」、これは「良き」という言葉を付けなくてもよいそうですが、あの話を読むときの考えについて、何かちょっと、新しい視野が開けたな、と思ったのですね。

 

 そうだ、それは触りたくないわ。それは別に、宗教的に特別に穢れるから、ということでなくて、何か不潔な気がするから、関わることに手間がかかる気がするから、だから横を通り過ぎた、そうなんだと思ったときに、何か聖書の世界と自分がすごく近くなったことを感じたのですね。聖書のお話は、わたしの感性にとって他人事ではない、ということです。

 

そして結局、鴨川まで歩いて行って、帰ってくる間にそんなこと考えながら、またその道端に落ちているスズメのところに来て、わたしが何をしたか、と言いますと、「ごめんね」と心のなかで言って、わたしの足でそのスズメを軽く蹴ってですね、道端の土のあるところに寄せたのです。

 

何でかと言うと、歩道の真ん中に倒れている、落ちているのは、あまりにもかわいそうだし、自転車で踏まれたりしたら、もっとかわいそうだと。でも、土の所に置けば、そこで自然に土に帰っていくかもしれないし、そこはお店の前でしたから、お店の人があとは何とかしてくれるかもしれないし、と思って、そうして帰ってきたわけであります。

 

 そうして、たかだか、道にスズメが落ちているぐらいで、聖書の話を思い出して、悶々と悩んでいるわたし、というのは、なかなか変わった人なのかもしれませんけれども、いや、いま私、何が言いたいか、といいますとね、そんなふうに、聖書の言葉というのは、わたしたち一人ひとりの日常の中にちゃんと入ってきてくれて、一生懸命に考える力を与えてくださっている、ということなのです。

 

 そして、神様がわたしと共にいてくださる、というのは、そういうことなのだよ、ということなのですね。実に、小さなことですよ。今日の聖書の箇所に書いてあるモーセの、ものすごくダイナミックな、何だかすごいこと、歴史の中でこんなことが起こった、という、そういう話では全然ないでしょう。

 

 でも、神様が共におられる、というのは、神様の御言葉、聖書の言葉とか、また、今まで、たとえば教会というところに行きながら、いろんなことを考えてきたこと、そんな中での積み重ねの中で一生懸命に考える、このわたしがいる、そして、人生の中の本当に小さい、ほんの小さな決断をしている、そこに神様がいらっしゃる、そういうことではないか、と思うのです。  

 

 モーセだけではありません。このわたしもまた、「今、行きなさい」、そして何かをしなさい、神様が命じられるままに。しかもそれは、神様の命じることによって、神様にロボットのように言われるままに動くのではなくて、このわたし自身が、一生懸命考えて自分のできることをする。そういう形でする、そういう道がある。

 

 そこにこそ、神様がまさに「わたしはある」「わたしはいる」と言ってくださる、その現実があるのではないか、と考えたのですね。

 

それで、もう一つお話をします。最近こんなことがありました。教会に電話がかかってまいりました。「あ、今井先生ですか」と言われて「はい、どなたでしょう」と、ちょっと初めて聞くような声でしたけども、ある方からお電話がありました。

 話をして、この方は誰だろう、と思って話をしていたらですね、分かったのですけれども、わたしが愛媛県にいて、愛媛の教会で牧師をしていて、幼稚園の園長をしていたのですが、そこで7年間いたのですけれども、その幼稚園の園長をしていた時代の、幼稚園の園児の人だったのですね。

 

園児の人というのは、おかしな言い方ですけども、かつて園児だった子が、もうあれから20数年経っているのですけれども、わたしにお電話をくださったのですね。そして、関西に用事があって行くので、今井先生のところに行ってもいいですか、と言われて、ああもちろんいいですよ、とか言いながら、すごく焦るというか驚きました。

 

ええっと驚く感じでしたが、思い出すならば、実は愛媛にいたときに、その方のご家族が、まあ家族ぐるみで、当時その幼稚園がある教会で牧師していたわたしに、心をかけてくださったご家族だったのですね。

 

そのご家族の子どもである、その園児だった方から、お電話をいただいて、いや、もうちょっと20数年、わたしが愛媛を離れてから一度も会ったこともないし、やり取りしたこともなかったのですけれども、訪ねてきてくださいました。そして、わたしは何だか、あたふたしながらですけど、いろんな話を一生懸命思い出しながらして、とっても楽しい再会の時を過ごしたのであります。

 それで、もう昔のことですから、私もやっぱり覚えていないことがたくさんあるのですけれど、その頃の写真とか、もうほとんどないと思っていたのですが、箱に詰めてる写真を出してきて、ちょっとそれを一緒に見てましたらですね、偶然といえば偶然なのですけども、その方が卒園した時の卒園式の写真がドッと出てきたんですよね。

 それで、それを見ながら、うわあ懐かしいね、と言いながら、もういろんなお話をしました。そのご家族の話もし、また教会の話もし、教会学校にも来てくれていたから、その時代の話をしました。最後に、もう帰る時間になられたので、「一言お祈りしていいですか」とわたしが言って、短くお祈りをして、そして送り出しました。そんなことが、つい最近ありました。

 

 そんなことがあるとは、思ってなかったのです。ある日突然やってきた、幸せな時間でありました。かつて出会っていたのは、もうはるか昔のことですよ。本当に忘れていっていることがいっぱいある。だけど、話せば思い出すこともいっぱいある。そんな経験でありました。

 

 今日の聖書箇所を読むときに、神様とはどういう存在か、ということを、今日の箇所から読み取るのでありますけれども、神様はわたしたちの苦しんでいる声を聞く方であり、そしてまた、歴史というものの中に、自ら現れてくださる方なのですね。

 

 その歴史というものは、どんなものであるか。イスラエルはどうであるか、パレスチナはどうであるか、そういうふうな現実の歴史に、もちろん聖書の言葉、事柄は関係もしますよ。

 

だけど歴史というときに、それは、ある一部の閉じられた、何か小さな世界だけのことを歴史と言っているのではなくて、このわたしがこの世界の中で生きている、このちっぽけなわたしが生きていて、そのわたしの小さな歴史、ということと、わたし以外の人の小さな歴史というものが、神様の導きによってあるとき、出会っていた、そういうところに、わたしにとっての歴史があるのです。

 

そして、その時間というものは、かけがえのない時間であった。楽しい時間であった。あの教会の小さな幼稚園で子どもたちと集まって、みんなで礼拝をして、わたしも1週間に1回の礼拝でお話をさせていただいていました。

 

 そして、みんなと遊んでいた遠足も行った。いろんなことをした。一緒に焼き芋をした。畑でお芋を掘って、みんなで焼き芋作って食べた。そんな一つひとつが、わたしにとっての歴史なのであり、神様というのはその歴史の中にいてくださる方なのであります。

 

 皆様にとっても、神様という方は「わたしはある」と、皆様一人ひとりの歴史の中で語りかけてくださる、そういうお方なのであります。イエス・キリストの導きの中で、私たちもまた、その神様につながっていきたい。そして現実の中で悩みながら、つまづきながら、神様からの導きを与えられていきたい、と切に願うものであります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様。私たち一人ひとりに向けて、今、行きなさいと促してくださる神様。感謝をいたします。私たちは、他のどこに行くのでもなく、ただ神様の導かれる今日という日へ、そしてまた明日という日へと歩み出していきます。いろいろな決断が求められている人は、神様の導きのもとで正しい判断ができますように。そして、聖書の言葉を聞いても、なかなかそれが心に入ってこないと思ったりもする私たちもまた、神様に捉えられ、神様によってしっかりと握りしめられて、神様によって大事にされていることを思い、感謝をいたします。どうか、一人ひとりがイエス様を通して、神様の導きを受けることができますように。そして、まことの平和が世界に与えられますように、心より願います。

この祈りを、感謝して主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。

アーメン。