2023年 9月3日(日)、9月10日(日)、
9月17日(日)、9月24日(日) 礼拝説教
「祈る者は生きる」
2023年9月3日(日)京北教会 礼拝説教
聖 書 マルコによる福音書 12章 18〜27節 (新共同訳)
復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。
「先生、モーセはわたしたちのために書いています。
『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、
その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎを設けねばならない』と。
ところで、七人の兄弟がいました。
長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。
次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。
こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。
最後にその女も死にました。
復活の時、彼らが復活すると、
その女はだれの妻になるのでしょうか。
七人ともその女を妻にしたのです。」
イエスは言われた。
「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、
そんな思い違いをしているのではないか。
死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、
天使のようになるのだ。
死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、
神がモーセに言われたことを読んだことがないのか。
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』
とあるではないか。
神は死んだ者の神ではなく、
生きている者の神なのだ。
あなたたちは大変な思い違いをしている。」
(上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
改行などの文章配置を説教者が変えています。
新共同訳聖書の著作権は日本聖書協会にあります)
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(以下、礼拝説教)
8月には第1日曜日に平和聖日の礼拝に始まって、毎週、ルカによる福音書17章、18章を通して平和ということを、聖書から教えられてまいりました。9月に入りまして、礼拝の聖書箇所を以前の形に戻します。マルコによる福音書、使徒パウロの手紙、旧約聖書、その3箇所から毎週順番に読んでいく形に戻します。
本日はマルコによる福音書12章18〜27節であります。ここには「復活についての問答」という小見出しが付けられています。このような小見出しは元々の聖書にはなく、新共同訳聖書が作られたときに読み手の便宜を図って付けられたものであります。今日の箇所には何が書かれているのでありましょうか。順々に読んでいきます。
18節。「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。」
ここにはサドカイ派というグループの名前が出てきます。その当時、旧約聖書に記された律法を研究する律法学者という人たちがいました。サドカイ派というのは、その律法学者の人たちの中にいろいろあったグループの一つであります。
福音書の中では他にファリサイ派という人たちが多いのでありますけれども、ファリサイ派の人たちは旧約聖書の律法のほかに、律法の解釈のために作られた後の時代の文書も大事にしていました。それに対してサドカイ派の人たちは旧約聖書の律法の言葉のみによって解釈をするという、より保守的な解釈をしていたということであります。
そうした保守的な解釈をする人たちがイエス様の所にやってきて、尋ねました。
「『先生、モーセはわたしたちのために書いています。「ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎを設けねばならない」と。」
ここで言われているのは、旧約聖書の申命記の25章の一部分であります。今日の聖書箇所に書かれている通り、一人の夫が死んだ場合、その弟が兄嫁と結婚する、そのような決まりが旧約聖書の律法にありました。申命記25章を見るとわかりますが、その理由は「イスラエルの名を絶やしてはいけない」とそこには書かれています。
国あるいは民族というものを背負って、それを絶やさないためにはこうしなければらならないという律法の規定でありました。
そして20節に続きます。
「ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。』」
このような質問を、サドカイ派の人たちがイエス様に対してしてきたのであります。なぜ、このような質問をしてきたかといいますと、サドカイ派の人たちは、人間が死んだあとに復活するということはないと考えていたので、それを証明するために旧約聖書に書いてある掟を持ってきたのです。
ここに書いている質問のようなことがあった場合に、それを実行した場合には、もし人が死んだあとに復活するのであれば矛盾が起きてしまうのですね。夫婦は一体であるはずなのに、七人の男性と一人の女性が夫婦関係を持つことはありえない。旧約聖書の創世記にある男女の一対一の結婚という考え方でいけばそうなるわけですね。
だから、聖書の言葉を解釈していくと、復活ということ、人間が死んだあとによみがえるということがあると矛盾が起きてしまう。だから復活はない、とサドカイ派の人たちは考えていたのです。そして、そのことをイエス様に対して尋ねて、どう答えるかということを見ようと考えていたのです。
福音書の中にしばしば出てきますが、律法学者の人たちがやってきて、何かの難しい質問をするときというのは、答えにくい質問をしているわけです。そして、その質問に対するイエス様の答えが何かにひっかかる問題がある答え方をした場合には、だからイエスの言っていることはおかしいとか、イエスを捕らえろとか、イエス様を捕らえるための言いがかりをつけるために、こうした難しい質問をしていたわけであります。
今日の聖書箇所にはそうした背景は書いてありませんけれど、そのような背景があったと思われます。サドカイ派の人たちが自分たちの中で、聖書をこのように解釈すれば、復活ということはないと証明できると考えていたわけであります。こうした議論というのは何と言うのでしょうか。神学議論というのか、わかりませんけれども、こうした質問をしてきたわけであります。
それに対してイエス様はおっしゃいました。
「イエスは言われた。『あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。』」
サドカイ派の人たちは、これを聖書解釈の問題として、自分たちのグループでよくよく勉強して議論した結果としてこの質問をしたのですが、イエス様は「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」と言われました。
ものすごく聖書を勉強している人たちに対して、このように言うことはとてもきついことですね。イエス様は、どのようにして、このきついことを言われるのでしょうか。
「『死者が復活することについては、モーセの書の「柴」の箇所で、神がモーセに言われたことを読んだことがないのか。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあるではないか。』」
ここで言われる「柴」の箇所とは、旧約聖書の出エジプト記の冒頭部分のことです。柴が燃えていて、その柴が燃え尽きることのない火で燃えているという不思議な場面があります。その不思議な火を見たモーセが、火の近くに寄っていくと神様が語りかけた、という場面です。
その場面で神様がモーセを召し出して、そとのきにエジプトの国の中で奴隷とされていたイスラエルの人々をエジプトから脱出させるリーダーとして、神様がモーセをリーダーに選んだのですが、そのときにモーセが、あなたの名前は何と言うのですかと尋ねたとき、神様の答えは「負ブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という答えだったのですね。
この言葉とも、もう一つの答えは「わたしはある。わたしはあるというものだ」とも神様は答えておられるのですが、神とは何であるか、という問いに対する神様ご自身からの答えがここにあるわけです。
ここに書いてあることは、「わたしはある」という、神様は本当に存在する、言葉でそのことを証明して下さるということです。そして、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言葉です。このアブラハム、イサク、ヤコブというのは、父・子・孫という関係です。そしてモーセが生きていた時代には三人とも死んで世にいなかったわけです。
しかし、神様はモーセにとっても神であるし、その死んだ人たちにとっての神でもある、ということは、アブラハムもイサクもヤコブも死んでそれで終わりではなくて、神様によってよみがえる、生きた命を持つ者としてよみがえるのだということを示していると、イエス様はここでおっしゃっているのです。
そして最後にこう言われます。
「『神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。』」
このように締めくくられています。
今日の箇所を読んで皆様は何を思われるでありましょうか。ここでは、読んでいて何となく難しい、聖書の解釈を巡る議論がなされていることがわかります。ここでサドカイ派の人たちが言っていることが正しいのか、イエス様が言っていることが正しいのか、ということは旧約聖書の知識があってもなくても、この場所を読んでも、よくわからない、というのが正直な所ではないでしょうか。
しかし、ここでわたしたちが考えるべきことというのは、ここで言われている神学議論がどうであるとか、イエス様の説明の仕方が正しいかどうか、とかいうようなことではありません。そうではなくて、今日この箇所を読んでわたしたちが聖書から何を考えるか、神様から何を教えられるか、ということを考えてみたいのです。
理屈の話としていえば、ここでイエス様が人間の復活ということはあるんだ、と聖書を解釈して説明しておられること、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言葉があるから、復活ということはあるんだ、という説明の仕方が、だれでも納得できる説明なのかというと、わたしはちょっとそうは思えないのです。
これはイエス様に対して申し訳ないのですけれど、わたし自身はそういう気がするのですね。死んだ人にとっても生きている人にとっても、神は神である、ということはそうだろうと思います。しかし、復活ということを考えるときには、それは死んだ人と天国でまた会えますよ、という話ではなくて、この世の中で、いま生きているわたしたちの世界の中でよみがえるということです。
ですから、ここでイエス様がおっしゃっておられる解釈が、果たしてその証明になるのかといえば、はっきりとわたし自身がそこに強い説得力を感じる者ではないのであります。こうした神学議論ということにおいて、どれだけ説得力があるかということを考えていくと、なかなか難しいのですね。
100%だれでも納得する理屈というものがあれば、もう世界中の人がそのことを信じて、みんながクリスチャンになって幸せになって生きているのかなあ、と思いますけれど、実際にはそんなことはありません。
信じるということは、何かの理屈というものを考えて、その理屈が絶対的に正しいから信じるということではありません。むしろ、理屈で信じられるかどうかはわからない、しかし、わたしはわたしの考えを持って神様を信じていこう、ということが信仰ではないかとわたしは思うのですね。
ここでイエス様がおっしゃっている言葉も、これはサドカイ派の人たちに対して言っている言葉なのですね。聖書を理屈っぼく解釈する人たちに対しては、この言葉が証明になるのです。決して、2000年経った現代のわたしたちに対して、復活を証明しようとしておられるわけではないのですね。
そして、今日の箇所も、復活ということが本当にある、ということを証明することが一番の目的でこういう話をされているのかというと、そうではないと思うのですね。
そもそも、サドカイ派の人たちがこんな質問をしてきたのも、復活はないということを証明するためではなくて、イエス様に対して難しい質問をすることで、イエス様の答えたことに言いがかりをつけて、それでイエス様をとらえる口実を得るために、こうした質問をしてきたわけであります。
ですから、そもそも復活があるかないか、という神学的な議論以前のことで、人間の意図というものがあったわけですね。そこにはサドカイ派の人たちのたくらみがあったわけです。そうした人間の心というのは、いやなものだなあ、というふうに正直思うのです。
しかし、聖書の時代から2000年経った現代の日本社会において、聖書を読んでいるわたしたちも、「じゃあ、自分自身はどんな思いで聖書を読んでいるのだろうか」と考えるときには、ふと思うことがあるのではないでしょうか。
聖書を読むときに、自分にとって良いことがあってほしい、自分にとって学べることがあってほしいと思って聖書を読むときがあります。そういうときに、本当に神様を信じて神様からお言葉をいただこうと思って読んでいるのだろうか、と自問自答するときがあるのですね。
たとえばわたしは牧師という仕事をしています。牧師という仕事をしていると、聖書を読むことが仕事ですね。礼拝で説教するのも仕事です。すると、だんだんと仕事をするために聖書を読むというふうになってくる、そういうことを感じるときがあるのです。
本当に神様に教えられたいと思って聖書を読んでいるのだろうか。単に仕事をするために読んでいるのではないか、と自分で自分を反省することがあります。
聖書を読むときに、あるいは「神様」と呼びかけて祈るとき、わたしたちの心の中はどんなものでありましょうか。実は結構、人間的なドロドロした欲望が渦巻いていたり、何か適当に習慣でとか、仕事でとか、人とのつきあいでとか、家族のつきあいでとか、案外そうしたいい加減な思いで聖書を読んでいる、そんなことに気がつくこともあるのではないでしょうか。
今日、わたしたちは9月の最初の日曜日を迎えました。昔のその教会の暦というものを見ていますと、「振起日」(しんきび)」という礼拝の日がありました。気持ちを奮い起こすという意味かと思いますが、それが9月の第1日曜日であったりします。暑い夏を過ぎて、学校でいえば新学期に入る、その第1の日曜日に気持ちを奮い起こして、またしっかりやりましょう、というのが「振起日」ということであります。
わたしは振り返ったときに、その日の記憶はないのですが、10代で行っていた教会にはそんな日があったかもしれない、とかすかに思う程度で、いま聞くことはほとんどないかと思いますが、この9月の第1日曜日、また新たな気持ちで聖書を読んでいきたいのですね。
今日の聖書箇所には「復活をめぐる問答」という小見出しがついていますけれど、こうした小見出しは元々の聖書にはありません。今日の箇所には何が言われているのでしょうか。復活があるのかないのかという証明ということ、表面的にはそうしたことが言われているのですが、本質はそういうところにはないのですね。
24節「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。」
この言葉は、聖書の解釈を一生懸命やっている律法学者たちに対して、あなたたちは何にも知らないじゃないか、というニュアンスですね。何にも知らないから、聖書も神様の力も何にも知らないから、そんな思い違いをしているのではないか、と。
神学的な議論に夢中になって、いろんな理屈を考えて、神様は本当にいるんだとか、この箇所の解釈はとか、そんなことばかり議論している人たちの思い違いということに対して、イエス様はビシッとお叱りになっているのです。
今日の箇所において、復活ということに関して言えば、イエス様は25節でこうおっしゃっています。「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」
ここには、復活ということが、死んだ人間がまたムクムクとよみがえる、映画でいえば気持ち悪い話ですが、ゾンビなんていうものが出てくるのでありますけれども、何か怖い映画のようなそんなことを「復活」と言っているのではありません。
「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」とイエス様はおっしゃっています。復活、それは聖なることなのですね。
それはわたしたちの想像の中で作り出すことではなくて、神様の側でなされることであって、人間が聖なるものとして、もう一度、命を与えられる。そのときには、だれと結婚していたかとか、だれと別れたとか、そんなことが問題になるのではなく、天使のようになるのだ、と言われます。
人間として持っていたあらゆるくびきというものから解放されて、そこから離れて、神様からそのいろんなかせを離していただいて、一人の人として天使のようなるのだと、イエス様はおっしゃっています。
そのことの証明がどこにあるのか、というようなことは、ここでイエス様はおっしゃっていません。聖書の中を読んでいけば、この箇所でこう言える、というようなことを言えるのかもしれませんけれども、イエス様はここでそのように聖書の言葉でそのことを証明するというのではなくて、そういうものなのだ、という言い方でここで言っておられます。
そして27節でこう言われています。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」今日の聖書箇所において、わたしの心に一番残るものはこの箇所です。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
この言葉を少しわたしなりに変えさせていただきますと、「神は死んでまつられる者のためにいるのではなく、いまを生きているわたしたちのためにいてくださるのだ」ということです。
死んでまつられる者のために、あるいは死んだ者をまつるということのために神がいるのではなく、今生きているわたしたちがどう生きるのか、そのために神様がいてくださるということであります。
サドカイ派の人たちが今日の箇所において話しているたとえ話というのは、空想的なたとえ話であります。ある規定が律法にあって、その規定にあてはめると矛盾が起きることを証明するためのたとえ話です。
七人兄弟がいて、全員がある女性と結婚するという話です。長男が死ぬと次男が兄嫁と結婚する。その次男が死ぬとまた、という同じことが繰り返し繰り返し起こる。最後に全員死んで、というとを話しているときに、これは仮の話、たとえ話、仮定の話であることがわかります。
そうしたことが実際にあったらどうなるか、ということを相手にイメージさせて、この死んだ人たちが全員復活してきたら、その一人の女性はだれの妻になったらいいかわからない、そんなことは神様の御心に反するから、そのようなことは起こらない、というのです。
なるほど、これは手の込んだ形での、「復活はない」ということの証明になっているのかもしれません。しかし、こんな話をするときに、サドカイ派の人たちはこれを仮の話として、話をしているのでありますけれども、実際にこういうことがあったら、どうでありましょうか。
聖書がわたしたちに問うているのは、そういうことなのですね。ある理屈が正しいかどうかを、空想的なたとえで考えるのではなくて、実際にこんなことがあったらどうなるのかということです。それは、どういうことでしょうか。
七人の兄弟が次々死んでいく、そんなことがあるのでしょうか。そんなことはないと思いますけれど、もしあるとしたら、男性だけが次々と死んでいく、この状況は何でありましょうか。
戦争ではありませんか。次々と兵士にとられていくのです。死んだあとに、死んだ兄のために次の弟が残された兄嫁を妻に迎えるのです。しかし、その次男もまた兵隊に出て行かなくはならない。七人の兄弟が次々と兵隊にとられていく、そうでもしなければ戦争に負けてしまう。
そんな、ものすごく恐ろしい状況を、わたしたちは思い浮かべることができるのではないでしょうか。それはもちろん空想であります。けれども、現実に起こるとしたらそんなことではないのかと。男性だけがこうやってとられて殺されていく。跡継ぎを残すために女性は次々と兄弟と結婚しなければならない。これはものすごい悲劇なことなのですね。こんな悲劇、それは七人の兄弟にとっても悲劇でありますが、この一人の女性にとって本当に苦しいことなのです。
次々と、何でこんな結婚をしなければならないのかと、好きではない人たちと結婚しなければならない。やむを得ない事情で、国のために、家のために、戦争のためにでしょうか。いや、神のために、と言われるわけですよね、今日の箇所でいえば。
旧約聖書の律法に従って、こういう結婚をするわけですから、神のためにこの女性はこんな生活をして、最後は死にました。死んだあと、どうなるのでしょうか。
それに対してイエス様は、おそらくここで怒りをこめておっしゃっておられるのではないでしょうか。「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と。
そんな悲しい目にあった、この一人の女性は、復活するときに天使のようなって幸せになるのだと。もし、この律法が神様から与えられたものであり、こんな悲しい結婚が神のためであるとしたならば、この女性は復活したときにすべての幸せを神様から与えられるのだと。そういうものなのだと、イエス様は教えて下さっているのです。
それは、聖書のどこかの箇所を引っ張ってきて、ここにこう書いてあるからこうなんですよ、と説明するのではなく、そういうものなのだ、神に対する信仰というものは、と示されるのです。
神様は、そんなふうにして、この非業の死を遂げていく七人兄弟や、この一人の女性を神様はすくい上げてくださるのだと、イエス様はここで語っておられるのであります。
そして、そのような神を信じるということが、信仰なのであって、死んだ者たちをどうまつるか、どうまつり上げるか、死んだ者たちがこんなふうな理屈で死んだから良かったのだといって、まつるために神があるのではないのです。
死んだ者は復活する。もし苦しい生活をして死んだならば、その人たちは復活して神の恵みにあずかる。その信仰を持って今を生きていく。それが本当の信仰。死んだ者のために、死んだ者をまつるために持ち出されてくる、その理屈の矛盾を埋めるために、便利な道具として取り出してこられる神ではないのです。
生きている人間がこんなひどい目にあっている。そのひどさということに心を震わせて、いつまでそんな神学議論をしているのかと、現実にこんな悲しいことが起こっている世の中にあって、あなたたちは何を語っているのかということを、怒りを覚えて語ってくださるのが、イエス様なのであります。
今日の説教題は「祈る者は生きる」と題しました。祈る者は、死ぬために祈っているのではなく、生きるために祈るのであります。死んだ者にも復活がある。そのときには、その人は天使のようなるのだと。どんな苦しい生き方をした者もそうなのだと。
神様という方がもし本当におられるならば、その神様という方は、そういう方であると堅く信じてよいのであります。イエス様の言葉通りです。
お祈りをいたします。
9月の第1日曜日、秋に入り新しい時期を迎えています。今日から始まってこれから段々と涼しくなることを期待し、また、秋のいろんな行事も以前はコロナ禍でできなかったようなことも、ちょっとずつ社会の中でできるようになっていくかもしれません。一方でいろんな生活の心配もあります。それぞれの健康のことも気になります。しかし、その中にあって神様から希望を与えられて、一人ひとり与えられた人生を全うして喜んで生きていくことができますように。そして、一人ひとりの人間の痛みを想像し、そのことをわかちあい、みんなで共に生きていく社会を形成できますように導いて下さい。
この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
アーメン。
「心渇く者に水を、自由を」
2023年9月10日(日)京北教会 礼拝説教
聖 書 ガラテヤの信徒への手紙 5章 1〜6節 (新共同訳)
この自由を得させるために、
キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。
だから、しっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません。
ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。
もし割礼を受けるなら、
あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。
割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。
そういう人は律法全体を行う義務があるのです。
律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、
キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、
“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。
キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、
愛の実践を伴う信仰こそ大切です。
(上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
改行などの文章配置を説教者が変えています。
新共同訳聖書の著作権は日本聖書協会にあります)
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(以下、礼拝説教)
毎週の礼拝で、福音書、使徒パウロの手紙、旧約聖書、その3箇所を順番に読む形にしております。今日は使徒パウロの手紙であるガラテヤの信徒への手紙5章の最初の所であります。
1節にはこう書いてあります。
「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません。」
その次の所には、「キリスト者の自由」という小見出しが付けられています。このような小見出しは元々の聖書にはなく、新共同訳聖書が作られたときに読み手の便宜を図って付けられたものであります。
今日の箇所には何が書いてあるのでしょうか。今日の箇所には「自由」という言葉が出てきます。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」とあります。
わたしたち1人ひとりの人間に、この自由というものを与えて下さるために、イエス・キリストがわたしたちのために十字架に架かって死なれ、そして復活なされた。そして天に上げられ、今もイエス・キリストを主と信じる者と共にいて下さっている。
それが福音書の信仰、聖書の信仰でありますが、それはわたしたち一人ひとりを自由の身にして下さるためであった、ということが、使徒パウロの言葉でここに書かれているのであります。
神の独り子イエス・キリストの十字架の死という、取り返しのつかない大きな出来事、その悲しみの出来事、一人の人の命を失うこと、神様からわたしたちに与えられた救い主の命を、わたしたち人間が十字架につけてその命を奪ってしまった、そのような、取り返しのつかない大変なことをした。
しかし、その死を通じてイエス・キリストはすべての人間の罪を受け入れて自分の実に負うて下さり、そしてご自分が死なれることによって、人間一人ひとりの罪をご自分の死と共に滅ぼして下さった。それゆえに人間一人ひとりの神様に対する罪がゆるされている。
それゆえにわたしたちは、一人ひとりが、自分の罪というものから解き放たれて自由になっている、というのが、福音書の信仰であります。
伝道ということは、そのイエス・キリストの福音、罪のゆるしの福音、そして罪ゆるされた者は「神の国」の広がりの中を生きていく。新しく生きていく。新しい命をいただいて生きていく。
そうしたことが伝道、そのことを人々に伝えていくこと、みんなで信じていく、ということが伝道ということであります。
今日の箇所の1節にあります言葉の、背景にあることをお話ししますと以上のようなことであります。イエス・キリストがわたしたちのために十字架に架けられ死なれ、そのことによって罪をゆるして下さった。だから、「しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません」と言っているのであります。
ここで、奴隷のくびきという言葉が出てきています。これは一体何のことでありましょうか。
これは、律法という旧約聖書の中に記されたたくさんの決まり事、神様を信じる信仰の生活における決まり事ということでありますが、その掟(おきて)を守ることによって救われる、という考え方、つまり、人間は何かの行いをすることによって、救われるか救われないかが決まる、という、行いに対する信仰というものが、「奴隷のくびき」であると、パウロは考えているのであります。
ある行いを守るならば救われる、守らないなら滅びる。そうした考え方ではなくて、どのような人間が、どのような行いをしてきたものであったとしても、神様を信じる信仰によってわたしたちは救われる、自由にされる、というのがイエス・キリストの福音であります。
すると、旧約聖書に記された律法ということ、決まり事、そのものが奴隷のくびきであろうか、というふうにわたしたちは考えてしまいます。しかし、そうではありません。律法ということ、決まり事、これ自体は神様からわたしたちに与えられた大切な戒めなのですね。
それがあることによって、わたしたちは人間らしくお互いの秩序を保って生きることができるのです。一週間に一回安息日に礼拝すること。などなど、モーセの十戒と呼ばれる十の戒めを始めとして、様々な決まり事、それは神様を信じる者が持つべき、生き方として非常に大切であり、それをわたしたちが生きる指針なのです。
しかし人間は、そうした生きるための指針ということを誤解してしまうのですね。生きるということが大事であって、そのために生きる指針として律法が与えられるのですが、いつしか人間はそのことを逆にして生きる指針というものがあって、それに合わせるために人間の人生があるのだ、というように錯覚をしてしまったのです。
すると、神様から与えられた律法というものは、これは恵みではなくて、人間を裁くものになってしまいました。
イエス・キリストのことが記された福音書が書かれた時代においては、そうした旧約聖書の律法というものが非常に重要視されていましたけれども、その律法を守れるならば救われる、守れないならば救われない、という考え方が強かったのです。
すると、律法を守ることのできない人たちは、みんな地獄に落ちてしまう、滅んでしまう人だと思われて差別をされていました。貧しい者、体に障がいや病気を持っている者、外国人、何らかの理由で罪を犯した人、何らかの形で律法を守ることができない人たち。
その中にはたとえば律法のことを理解できない子どもであるとか、障がい者であるとか、そうした存在も含まれていました。要は、弱い立場の人たちといったらいいのでしょうか。そういう人たちは律法を守れない人たちとして、律法を守れる人たちに対して低い位置に考えられていました。
そのような社会の中にあって、つまりそれは、神を信じるときの恵みであるはずの律法というものが逆に人を縛る掟(おきて)になる、そのことによって差別を生み出し、人間を救われない者としていた、そうした時代にイエス・キリストは神の福音を宣べ伝えたのであります。
行いによって救われるという信仰ではなくて、心の中で神様を信じることによって救われる。信仰によってのみ人は救われる。行いによるのではないという、その考え方。そのことがイエス・キリストの福音として、わたしたちにも伝えられているのであります。
では、そうした考えを背景として書かれた、今日のこの箇所から、ガラテヤの信徒への手紙5章では、どのようなことが言われているのでありましょうか。
2節から読みます。
「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。」
このように言われています。割礼というのは、男性の下半身の皮の一部を切除するという宗教的な儀式です。ユダヤ人にとって重要な律法に定められた一つの儀式でありました。それをすることによってユダヤ人の男性として認められる。そうした習慣があったのです。
パウロの時代においては、このキリスト教の伝道というのはユダヤ人だけでなく地中海沿岸、また様々な地域に広がっていました。ユダヤ人だけではない、たくさんのユダヤ人からすれば異邦人と思われていた、外国人、異民族の人たちのたくさんの人たちにキリスト教が伝えられていました。
そういう人たちは、ユダヤ人と同じようになる、つまり割礼を受けるという必然性、その義務は何もなかったのでありますが、しかし、教会の人々の中には、イエス・キリストを信じるなら、クリスチャンになるならば割礼を受けなければならない、それはユダヤ人と同じく律法をやはり守らなくてはならないから、という考え方の人たちが出ていたのであります。
そうした考え方は間違った考え方であるとして、パウロはこのガラテヤの信徒への手紙の中で、このガラテヤという町にある教会の人たちをしかっているのですね。律法を守らなければ救われないという考え方に、ガラテヤの教会の人たちが戻ろうとしている。そうであってはならないと。
ユダヤ人と同じように律法を守るべきだと主張する人がいるならば、その人たちは律法の全体を行わなければならない。ししかし、それは人間にとって不可能なことです。だから、その義務を強いることはおかしいとパウロは言っているのです。
「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。」
ここでパウロは「“霊”により」と言い、また「信仰に基づいて」という言葉を使っています。「霊」という言葉を使うときに、この字の上下にチョンチョンと付けた記号、コーテーションマークという記号が付いていますが、これは新共同訳聖書が作られたときの一つの決まりですが、「霊」という言葉を使うときに、単なる霊ではなくて神様の霊、「聖霊」という意味のときに、この記号を付けています。
霊というのは、人間の精神とか魂とかも表す言葉なので、それと区別して、人間の霊という意味ではなくて、神様の霊、聖なる霊、聖霊による信仰に基づいて、その姿勢で待ち望んでいるということを示しています。
これは、人間の考え方ではなくて、神様の霊によって聖霊によって、わたしたちは神様の恵み、キリストの恵みを待ち望んでいるのだと言っているのですね。
そして6節ではこう続きます。
「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」
キリスト・イエスに結ばれていること、つまり、イエス・キリストがわたしの救い主であると信じること、イエス様を主、自らの「主(しゅ)」、「主(ぬし)」と信じるということが1番大切なのですね。それがあれば、自分が何人であるか、自分が律法を守っているかどうか、ということは、それはもう二の次のことであるとパウロは言っているのです。
パウロ自身がユダヤ人であります。割礼を受けています。ユダヤ人として律法を熱心に守る律法学者をしていました。しかしあるときに、突然にパウロは目が見えなくなります。目が見えなくなり、もんどり打って地面に倒れ落ち、その中て、その真っ暗闇の中でパウロは、イエス・キリストの言葉を聞きました。
パウロ自身はイエス様が十字架に架けられて死なれる、その以前にイエス様に出会うということがなかった人であります。パウロはいわゆる生前のイエス様と出会ったことがない。イエス様の言葉を知らなかったといっていいでしょう。パウロにとってイエス・キリストというのは、後から人からの評判で聞いただけのことでありました。
そして、そのイエス・キリストが言っていることはおかしいと。律法を守らなくても神様を信じる信仰だけで救われる、という考え方はおかしいとパウロは信じてクリスチャンたちを迫害していたのであります。
しかし、そのパウロがあるとき、目が見えなくなって倒れ伏したときにパウロは知ったのです。自分は目が見えなくなった、障がい者になった。すると、もうこの旧約聖書に定められたたくさんの掟(おきて)を守ることができない。
そのときに、自分が律法を守れなくなったときに、行いによる信仰、律法を守ることによって救われる、という信仰のそのものがパウロ自身を裁いて、パウロ自身を救われない者としてしまう、ということにパウロは気がついたのであります。
その後にパウロはまた目が見えるようになったのでありますけれども、それ以降、パウロは旧約聖書の律法の伝道者ではなく、イエス・キリストの福音の伝道者となったのでありました。
そのパウロの思いが今日の箇所には満ちています。もし律法によって救われるというのなら、一つ二つの律法ではなくて、その全てを守らなくてはいけないと。そして、そんなことは人間には無理なのだと。そのようなことを考えるならば、仮にそれができるという人がいたって、それはごくわずかの人数でしかありません。
世の中に生きる普通の人はそんなことはできないのです。多くの障がい者や病人、子ども、貧しい人、外国人、みんな神様の救いから排除されることになってしまう。もし律法によって人が救われると言うならば。そうであってはならないのだとパウロは信じて、そのことを自らの体験を通して確信し、そしてここで語っているのです。
一方でガラテヤの教会の人たちの中には、やっぱり律法を守ったほうがいいんじゃないか、という人が増えていたようなのですね。いったいなぜなのでしょうか。せっかくイエス様を信じて、自由にしていただいた。掟を守って生きなきゃいけない、という窮屈な生活から解放されて、外国人もユダヤ人も障がいを持っている人も子どもも、みんな救われていく、そのほうが絶対楽しいと私は思うのですけれど、なぜその道から離れて、やっぱり律法を守らなくては、というふうな人たちが出てきたのでしょうか。
その、はっきりした理由はパウロの手紙には書いてありません。しかし、このことは現代のわたしたちにとっても、いろいろ考えていくと何となくわかるのではないかと思います。
つまり、自由ということがすごく難しいのです。自由に生きる、ということが。だれでも、自由に生きるということができたら良いと思います。うれしいと思います。でも、じゃあ、具体的にどう生きたらいいのでしょうか。そうやって考えると、実はよくわからないのですね。
すると、どんなことが起こったか。コリントの信徒への手紙には、その自由という名のものとに、たくさん食べたり飲んだりして、酩酊しているような人たちのことが出てきます。
しかも、イエス・キリストの恵みを、パンとぶどう酒という形で分かち合う、つまり「聖餐(せいさん)ということを大事にしていたはずの教会で、いつの間にか、早く来た人たちがたくさん食べてたくさん飲んで酔っ払っている。後から来た貧しい人たちは食べるものがない。そんな、何とも大変な、滅茶苦茶な様子が記されてあります。
そこには、自由に生きるということの意味が誤解されてしまった現実が現れているのですね。自由といいながら、放埒(ほうらつ)な生き方をする。倫理に反するといいますか、人間としてその人を大切にする、その生き方から離れて、自分の欲望に忠実に生きる。力ある者が力ない者を支配して生きる。
そんな生活になっていくのであれば、それは、まだ律法を守って生きていたほうが、まだましだったのではないのか、と考える人たちが出てくるわけですね。昔は確かに律法が厳しかった。差別もあった。けれどもその頃のほうが、まだ秩序が保たれていた。そう思っている人にとってはですね、昔に戻っていこうと考えるのです。
イエス様のことも信じるのだけれども、自由の福音も大事なのだけれど、でも、日常の生活はやっぱり律法で縛っていこうと。そのためには、ちゃんと旧約聖書の律法を守って、これこれこうしなきゃ、というふうに主張する人たちが出てきていたわけですね。
この現代に生きている私たちも、何となく、そのことがわかるのではないかと思うのです。つまり、自由という言葉はみんな好きなのです。でも、本当に自由に生きるってどういうことなのかが、よくわからない。だから他人が自由に生きているのを見ると腹が立ってくるのですね。
「あの人、あんなことをしているよ、おかしいじゃないか」と思うのです。その割に、自分が人から批判されると嫌がるのです。「これはわたしの自由です」と。こうして、何かおかしくなってくるのですね。共同体の中にいる人々の心がお互いに対立して、バラバラになっていく。そんなことがあります。現代でもこれは大きな問題なわけですね。
では、わたしたちは現代においてどんなふうに生きたらいいのでしょうか。このことについて、はっきりとした答えはないのですけれど、わたしが最近経験したことをお話します。
8月に台風7号という大きな台風が来まして、京都府でも福知山などに大きな被害が出ました。その中にあって福知山市にある、京都教区の教会の一人の信徒の方のお家の裏山が崩れて土砂崩れがありました。命に別状なく、家も幸い守られて無事だったわけでありますけれども、そのときの土砂が床下にたくさん入り込んだそうなのであります。
福知山市ではボランティアセンターが作られて、たくさんのボランティアの方々が来ていろんな所で作業をしておられたそうであります。ところが、その床下に泥がまだたくさん入っているのですけれど、ちょっとした連絡の行き違いがあったようで、その作業をする前に、もうボランティアセンターを閉じてしまった、ということなのですね。
経験の浅いボランティアの人たちの報告がちょっと間違っていたらしいのですけれども、先にボランティアセンターを閉じて、ボランティアがみんな帰ってしまった。その後に、残った床下の土砂をどうするのかということになって、それで京都教区で何かボランティアをしてもらえないかという要請が現地から来て、そして行くことになりました。
その案内を集会室にも貼っておりますけれども、かなりの人数が集まってきているとは聞いています。そうしたボランティアのことを、いろいろ計画を決める前にですね、まず現地を訪問しようということで、わたしも京都教区議長という立場にあるので、行くことにいたしました。
9月4日(月)に行ってきたのでありますけれども、そうしましたらですね、以前から、その被害を受けられたという話は聞いていたのですけれども、でも現地で対処しますから大丈夫です、と聞いていたのですが、やはり現地に行くと、目の前に土砂崩れの様子とか、その土砂をある程度片付けた跡などがあるのですが、やはり自然の災害というものはひどいものだなあ、すごいものだなあ、というこを本当に改めて実感をしました。
そして、そこで本当に半日の短い時間でありますけれども、わたしもちょっとだけ、その泥を排出したりする作業をさせていただいて、その場で集まったいろんな方々、現地の牧師や教区の関係者と相談をして、ボランティアの計画を立てて、教区の中で発信をした、ということがありました。
そのボランティアをしながら、大体わたしはスコップを持って泥をかき出す、そんなことをすること自体がすごく久しぶりだったのです。けれども、何と言いますか、必要なことをしたなあ、という、何となくそういう、すべきことをした、できて良かったな、という気持ちがありました。
そうして、そのときに、暑い中で仕事をしますから、やはりのどが渇きます。とても渇きます。行く前に水分と塩分をちゃんと取るように言われていましたので、ちゃんととりました。そうやってのどを潤しながら作業をしていると、本当に「渇く」という大変な現地の状況を考えました。
被災地の現実の中で人の心が渇いていくので、どうしたらいいのだろうかと困っている人たちがいるのですね。その困っている人たちに寄り添って、自分の心も渇く、どうしたらいいのだろうかと思いながら、一人では到底対処できないことをみんなでやっていく。そういう中にあって、心の渇きというものが徐々に収まっていくことを感じました。
水分塩分をとることでのどの渇きが収まり、体が回復するように、みんなで話合い、ボランティアを計画することによって、心の渇きが収まっていく、そういう経験をいたしました。
今日の聖書箇所を読みながら、そのことを思い返していました。今日の箇所には「自由」という言葉が出てきています。「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません」と書いてあります。
この「自由」ということは、一体どういうことなのでありましょうか。何かをしない自由というものがあります。何かをする自由というものもあります。そして、その何かをする自由というときに、自分が楽しむための自由ということもありますし、また、人のための自由ということもあります。
「何が自由であるか」ということを考えることが、そもそも自由なことでありまして、これは人から決められることではありません。だれからも強制されることではないのですね。しかし、わたしはそのボランティアのことをしながら、また考えておりました。
わたしたちにとって、本当に大切な自由というものは、何と言いますか、自分が楽しむための自由も大事なのですけれども、人と共に生きていくために、そのために、その用いさせていただく自分の自由、自分の持っているささやかな力であるけれども、そのことを誰かに強いられてではなく、強制されてではなく、自分の心から湧き上がる思いに従って、その自由というものを用いていきたい、そういう気がしたのであります。
今日の箇所には、「信仰に基づいて」という言葉があります。また、「“霊”により」、聖霊により、という言葉があります。それはまさに自分の心から湧き上がる、本当にわたしはこのことをしたい、そのことによってわたしは人と共に生きている、生きていきたいという思い、それが実は本当の自由ということなんではないかな、ということを思うのですね。
律法によって決められているから、こう行動する、というときに、それは自由ではないのですね。ボランティアをしなくてはならない、みんなこれに協力しなければならない、と言われるときに、強制というものが出てきます。ボランティアではなくなるわけです。そうではなくて、やつてもいいし、やらなくてもいいし、その中にあってあなたはどうしますか、というときに、自分の心の中に湧き上がっていくる思い、というものがあるのですね。
湧き上がってくる思い。それが何であるかとか、何のためであるかとか、聞かれたらうまく言えませんよ。正義のためとか、愛のためとか、何か言えば言うほど、ウソっぽくなっていくのですね。そんなことを言えば言うほど、ウソっぽくなるので言葉にはしません。
まあ何とか言葉にするとしたら、「自由」ということなのですね。何でそんなことをするのですか。それはわたしの自由だからです。自由という言葉は時に傲慢な響きを持つときもありますし、正直、身勝手だなあと思うこともあります。ですから、いつもいつも自由というのは良い言葉ではないと私は思っています。けれども、自由という言葉を出すときには、そこには、うまく言えないけれども、自分の心の中から湧き上がってくる何か、というものが、その自由という言葉の裏側に隠れているような気がするのですね。
だから、その自由という言葉、しかもそれは自分が主張する自由ではなくて、イエス様が私たちのために十字架で死んで下さり、そのことによってわたしたちの罪をゆるして下さったという、その大きな出来事があって初めて与えられた自由です。
その自由を、わたしたちはそれぞれの場で、人に強いられてではなく発揮していく。そのときに、心が渇いている者ののどが渇いている、その渇きが収まっていくのではないかと思うのです。
「心渇く者に水と自由を」と今日の礼拝説教の題を出しました。心が渇いている。さらにこの夏の暑さに渇いているだけではありません。自分が生きていることの意味について、心の渇きを感じることがたくさんあるのです。そんな思いに対して、具体的な水、そして具体的な自由というものを神様から与えられて生きたいと願う者であります。
お祈りをいたします。
天の神様、いつも守って下さっていてありがとうございます。イエス・キリストが一人ひとりと共にいて下さるときに、私たちは自分自身の判断をすることができます。神様から与えられた自由を本当に用いていくことができますように。そして実際に何かをすることができる人、実際には働くことができない人などいろんな人がいる中で、どの人も自由の心を持って祈ることできますようにお祈りします。そしてそのことによって、心渇く者、現実の中の苦悩にある者、そのお一人おひとりに私たちが寄り添い、御心にかなった生き方をしていくことができますように。
この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
アーメン。
「善へと導かれた生涯」
2023年9月17日(日)京北教会
「敬老と助け合いの日」礼拝説教 今井牧夫
聖 書 創世記 50章 15〜24節 (新共同訳)
ヨセフの兄弟たちは、
父が死んでしまったので、
ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、
昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。
そこで、人を介してヨセフに言った。
「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。
『お前たちはヨセフにこう言いなさい。
確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、
どうか兄たちの咎(とが)と罪を赦(ゆる)してやってほしい。』
お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕(しもべ)たちの咎を赦してください。」
これを聞いてヨセフは涙を流した。
やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して、
「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言うと、ヨセフは兄たちに言った。
「恐れることはありません。
わたしが神に代わることができましょうか。
あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、
神はそれを善に変え、
多くの民の命を救うために、
今日のようにしてくださったのです。
どうか恐れないでください。
このわたしが、
あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」
ヨセフは、このように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。
(上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、改行などの文章配置を説教者が変えています。
新共同訳聖書の著作権は日本聖書協会にあります)
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(以下、礼拝説教)
毎週の礼拝で、マルコによる福音書、使徒パウロの手紙、旧約聖書の3箇所を順番に読む形にしています。本日の箇所は旧約聖書の創世記の50章であります。
今日の箇所は、創世記全体の一番最後にあたる部分であります。そしてまた、今まで礼拝で続けて読んで参りました創世記の後半にある「ヨセフ物語」と呼ばれる、ヨセフという人を中心にした大変長い物語の最後の部分であります。
ヨセフ物語、それはイスラエルの民族にとって一番最初の部族の長であったアブラハムから生まれたイサク、イサクから生まれたヤコブという、アプラハム、イサク、ヤコブという、親・子・孫の三代にわたる歴史、そしてそのヤコブから生まれたヨセフの時代の歴史。そうした、非常に長いイスラエルの歴史、その民族の一番最初の時代の歴史を記していることであります。
その中にあって、今日のこの箇所、ヨセフ物語の一番最後の所であり、父親のヤコブが死んだ後のことを記しています。父ヤコブの生涯は大変なものでありました。12人の子どもたちがいたのでありますけれども、その中のヨセフが少年時代に、兄弟たちの中に異変が生じ、特別な能力を持っていたヨセフは兄たちからねたまれ、憎まれて、奴隷商人に売られてしまいます。
そこでヤコブは、ヨセフが死んでしまったと思って、悲しみの生涯を後半生で送ります。しかし少年のヨセフは死んでいませんでした。奴隷として売り飛ばされた所にあって、神様から与えられた特別な能力を発揮しました。それは夢の意味を説き明かすということでありました。
ヨセフ自身も夢を見る人でありました。その不思議な能力によってヨセフは難しい問題を解決し、その売り飛ばされた所で、段々と出世をしていき、ついにはエジプトの王様に取り立てられて、エジプトの王に次ぐ地位に、今で言えば首相のような地位に、政治的なトップに立つという、そのような立場になりました。
そして、ヨセフがそのような立場に立ったときに、かつてヨセフを売り飛ばしたヨセフの兄たちがエジプトにやって来たのです。それは飢饉が起こり食べる物がなくなったので助けてほしいと嘆願しにやってきたのです。そのとき、エジプトで政治の長であったヨセフは自分たちのところにやってきた兄たち、かつて自分を売り飛ばした憎い兄たちに復讐をします。
しかし、その復讐の途中でヨセフは自分の涙をこらえることができなくなり、自分の正体を明かします。そして兄弟たちと大変驚きの再会をしたのでありました。そのときからヨセフは兄たちを、そして父ヤコブを呼び寄せて再会をし、和解をして新たに共に生きていく、そのような道を選んだのでありました。
そして、その後に父ヤコブが死にました。その後のことが今日の箇所に書いてあります。
15節。
「ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、
昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。」
今までは父のヤコブが重しになっていたから、ヨセフは兄たちへの仕返しをしなかったが、父が死んだら、もうヨセフが一番の実権を持つ者、偉い人となって兄たちにまた復讐をするのではないか、と思う。そのことをヨセフの兄たちは恐れたのであります。
「そこで、人を介してヨセフに言った。『お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。「お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎(とが)と罪を赦(ゆる)してやってほしい。」お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕(しもべ)たちの咎を赦してください。』」
こうして兄たちは平身低頭しているのであります。お父さんがこう言っていたのだから、今まで自分たちを守ってくれていた父ヤコブが死んだ後、自分たちを守って支えてくれる父がいなくなった兄弟たちは、今この弟ヨセフの前で平身低頭しているのです。
この兄たちの言葉を聞いて、ヨセフは涙を流しました。
「これを聞いてヨセフは涙を流した。やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して、『このとおり、私どもはあなたの僕です』と言うと、ヨセフは兄たちに言った。『恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。』」
「『あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。』ヨセフは、このように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。」
こうして今日の箇所は終わっています。兄たちの心配は杞憂でありました。けれども兄たちは、父ヤコブが亡くなるまで、また亡くなった後まで、実はヨセフからの仕返しを恐れていたということが今日の箇所からわかります。
ヨセフ自身は兄たちに自分の素性を明かし、そして兄たちが自分にした、もう許せないはずのこと、自分の命を奪うほどのひどいこと、そのことをすべて許す、そしてその許しに生きるということを、ヨセフは兄たちに伝えていたのでありますが、兄たちは心の中でそれを本当には、はやり信じ切れないものがあったのですね。
ああは言っても、やっぱり恨んでいるのではないのか。お父さんのヤコブが生きているから、あんな風に良いかっこうをしてああいうことを言うけれども、父ヤコブは兄たちがヨセフを売り払ったことを知らなかった、つまり加担していませんでしたから、あのようにお父さんの言うことを聞くけれども、そのお父さんがいなくなったら、もうヨセフは兄たちに恨みの仕返しをするのではないかと恐れていた、ということがわかります。
この箇所を読むときに、わたしはいろいろなことを思います。家族、きょうだい、親戚、いろいろな関係があり、また家族だけでなく、親しい人間関係、師弟関係であったり、いろんな友人との関係であったり、親しい人間関係というものはいろいろあります。
実はそうした人間関係の中には、今日の箇所にあるように、心の底では信じ切れていない、あるいは、心の底から恐れというものを取り除くことができない、そういうものが人間の心の中にはあるのではないか、ということを今日の箇所から改めて思わされるのですね。
兄たちはここで言うのです。お父さんがこう言っていましたよ、と。お父さんが本当にそう言っていたのかどうか。もしかしたら、これは兄たちがヨセフを説得するために、兄たちが父の名前を出しているということからもしれません。
このヨセフ物語をずっと読んでいると、そんな風にちょっと人間の計略といいますか、ずるさというものが何となく伝わってくるので、そう思うのです。けれども、この兄たちの言葉を聞いたヨセフは涙を流したというのですね。
そうか、まだお兄さんたちはわたしのことを信じていないのか。まだわたしのことを怖がっているのか。その悲しみに涙を流したのですね。そして、兄たちがやってきてヨセフの前にひれ伏して、「この通り、わたしたちはあなたの僕です」というとき、これはイスラエルの律法から言えばおかしいのですね。
長男に一番の権利があって、弟たちはみんなその下にいるはずなのに、その順番をひっくり返して兄たちが末っ子ヨセフの前で頭を下げている。そして、わたしたちはみんなあなたの僕ですと言う。徹底しています。もう自分たちは兄弟たちじゃないんだ、もうあなたの家来になるから、と言って命乞いをしているのですね。
この姿を見てヨセフは言ったのです。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができるでしょうか」と言うのですね。
ここには、本当にその兄たちの悪を裁くとしたら、それは神様しかできませんよ、ということを言っているのですね。わたしが神様に代わってあなたたちの悪を裁くなんてことが、できましょうか、できません、と言うのです。
ここでヨセフは神様への信仰ということを語ることによって、自分は神に代わってあなたたちを成敗することをしない、そのことを言うのです。
人間ができることは何でしょうか。神に代わって悪を裁くことではなく、神様の御心によって人をゆるすこと、罪をゆるすことである、ということを語るのであります。
そして、こう言います。「あなた方はわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために今日のようにして下さったのです。」
兄たちがしたことは確かに悪であった。罪である。そのことはハッキリしているのです。悪や罪をごまかすことはしません。しかし、それを神様は全体として、この長い時間をかけて善へと変えて下さった。多くの民の命を救うように導いて下さったというのです。
それは、ヨセフが売り飛ばされることによって、本当に大変な流浪の人生を送ったのですが、そのことによってエジプトの国で出世して取り立てられて、エジプトの首相のような地位にまで就き、そのことによってエジプトの国の人たちを助け、それどころか飢饉で干ばつで食べる物がなくなって逃げてきたたくさんの人たちの命を救った。
そのために、兄たちがした本当に許せない悪い計略も、最終的にはそれがあったから今のみんなの幸せにつながったんだ、ということをヨセフ自身が語っているのですね。そして、「どうか恐れないでください。このわたしがあなたたちとあなたたちの子どもを養いましょう」と言うのです。
最も苦しめられた者が、みんなの命だけではなく、その子孫まで、その次の世代まで養いましょう、と言うのです。このような結論、結末が待っていることを兄たちは予想しませんでした。ただただ恐れていたのです。自分の犯した罪ということを。
しかし神様のなされたことというのは、人間の思いをはるかに超えていました。なぜヨセフはこんな言葉を言えたのでしょうか。なぜ、こんなことができたのでしょうか。それは、ヨセフ物語の最初の頃の話に出てくる、ヨセフが神様から与えられた特別な力にあると思います。
それは、ヨセフは夢を見る力を持っていたということです。夢を見ることによって、神様の御心を知る。そして、人の見た夢の意味を説き明かすことができた。それは、神様の御心というものを解き明かして人に伝えることができた、ということです。
それは、旧約聖書の話、古代の人たちの物語でありますから、神話的な物語でありますけれども、このヨセフが自分の腕力とか自分の知恵とか、闘う能力とか、何かでものすごく賢いとか、そういうことではなく、この、夢を解き明かす力という、このことによって、この日に至ったのだということは、聖書の大きなメッセージだと思うのですね。
自分が努力して努力して、こんなふうに道を開きましたとか、あるいは、こんな素晴らしい力を持っていて、とかいうのではなくて、夢を見るということは、どういうことでありましょうか。
夢を見る、それは寝ているときです。そして自分が何もできなくなっているときなのですね。自分という人間がもう何にもできなくなって、自分の意識すらもなくなってしまって、ただ横になっている。自分の意識すらない。
そのようなときに、神様から示される夢というものがある。そして、その夢というものの意味を説き明かすことができる。それは自分の知恵とか学びによるのではなくて、ただ神様から与えられた能力でしかありませんでした。こうして、ヨセフの生涯というものは、人間の幸せというものは究極的には、神様から与えられることによって実現するのだと示します。
神様の恵みというものは、人間の行い、努力によらず、ただ神様からの一方的な恵みとして、プレゼントとして与えられる、そのようなこととして今日の箇所に示されているのであります。
このことは何に似ているでありましょうか。このことは新約聖書に記された、主イエス・キリストの罪のゆるしの福音と似ている、あるいは、同じことであるといってもいいかもしれません。
人の行いによって、つまり何か善行を積むことによって、あるいは、聖書に書かれた律法を守ることによって、いろんな掟を守る、決まり事をしっかり守る、そのことによって、神様に救われるのではなくて、ただ神様からの贈り物を感謝して心からいただき、受け止めていく。心の中で神様に感謝して信じる信仰、それのみで人は救われるという、そのイエス・キリストの福音というものと同じものがここにあるのです。
自分の力で何かするのではなく、自分が何もできなくなったときにこそ、そのときにしか与えられない恵みがある。それが神の愛であり、神の与える、何と言ったらいいのでしょうか、導き、それが人間にとって最大の幸せなのであります。
神様の御心が示される、その意味を知る、そのことが人間にとって最大の幸せなのであります。その幸せを得るために必要なのは、人間の努力ではありません。信仰です。信じるということなのです。
信仰ということすらも、何か人間の努力に置き換えて、わたしの信仰はまだまだです、という風な言い方をするときも、まあ人間ですからあるのですけれども、しかし、信仰というのは、鍛えていけばいくほど何か強くなっていく、という何かの人間の力で積み重ねるものではなく、ただ神様から与えられる大きな恵み、人間はそれを受け取るのみ。
人間はそれを受け取って、その恵みの中に、ひたされると言いましょうか、その恵みの中にどっぷりとつかる。まあこれは人間的な言い方でありますけれど、その神様の恵みの中に入らせていただいて、それを喜んで生きていくということが、人間にとって最大の幸せなのであります。
今日の箇所においてヨセフ自身が、その経験をしておりました。自分は兄たちから、ねたまれて理不尽な苦しみを受けさせられ、そして奴隷として売り飛ばされました。命が失われても仕方がなかった、本当に理不尽な悲しみ、苦しみ、辛い人生。
しかし、その売り飛ばされていった後で、いろんなことがあって、導かれていった最終的な結論としては、これは神様がなさって下さったことで、「あなたたちの悪を善に変え、多くの民の命を救うために今日のようにしてくださった」と言うのです。
このように、ありえないことが起こっているということを、わたしたちは聖書から知らされます。しかし、聖書がこうした物語をわたしたちに語るときに、「これは昔の人たちの物語ですね、実際には無いのですよ」ということではなくて、「こういうことは、聖書を読むわたしたち一人ひとりに本当に起こるのですよ」というのが聖書の信仰、聖書のメッセージなのですね。
イエス・キリストが十字架に架かってわたしたちの罪をすべてゆるして下さり、3日の後に復活してよみがえられ、天に上げられ、そして今もわたしたちと共にいて下さっている、ということは、昔の人たちの作った物語ではなくて、今日のわたしたちの教会において、あるいはこの世界の中において、生きている本当の物語であります。
イエス・キリストの生涯、その十字架と復活。そして、それをそのイエス様を信じる信仰という所に、神様の恵みが100%表されているのであります。
本日の礼拝は「敬老と助け合いの日」礼拝であります。元々は「敬老の日」ということにちなんで、敬老礼拝の日ということでありました。そこに敬老と「助け合い」という言葉を入れさせていただいたのは、わたしからお願いしてのことなのであります。
今から10年以上前から東日本大震災がありました。大変な被害が起こりました。そのときにたくさんのボランティアが現地に行きました。わたしも行きたかったのですが、自分の健康状態や体力のことを考えてボランティアは断念しました。
しかし、その半年後、震災から半年を記念した礼拝、震災の被害を思い起こす礼拝が現地で行われると聞いて、わたしはそれに出席をして参りました。そのとき、被災地の様相を見てきました。そしていろんな方たちのお話を聞いてきました。
そして帰ってきたとき、わたしは、この「敬老の日」ということを、単なる敬老の日、高齢の方を敬う日だけではなく、いろんな世代の人たちが互いに助け合う日としていってはどうか、と考えて、お願いをしたのであります。
そのときから、「敬老と助け合いの日」という名前にさせていただいています。あまりスマートな名前ではありませんけれども、このようにさせていただいている所には、いろんな思いがあります。それは、人間の社会の中にあって、高齢者、そして若い世代、赤ちゃんから子どもたち、そしてまた、いわゆる、何て言いましょうか、働き盛りというような言い方もありますが、子育て世代という言い方をするときもありますし、人間のいろいろなライフスタイルがありますから、子育てだけではない、働き盛りだけではない、いろんな世代があります。
10代、20代、30代、40代、50代、60代、70代、80代、90代、100歳以上、どの世代の人たちも被災地において、みんなで助けあって生きていました。その中で高齢の方たちをみんなで助け、つまり体の弱くなった人たち、自分で自分のことが全てはできない人たちのことを助けながら。
しかし、高齢の方たちによって若い人たちが助けられることもたくさんあるのです。それが人間の現実の世界なのですね。そのことを覚えて、様々な世代がお互いに助け合うことによって、高齢の方たちが結果として支えられ、みんなで楽しく生きていこうとする。人の命を大切にする社会ができていく。そういうことを覚えたいと思うのであります。
先日、わたしは京都教区のボランティアで福知山市の大江町に行って参りました。物部教会の信徒のご夫妻のお宅の床下に、8月の台風7号で土砂崩れが裏山で起こり、床下に土砂がたくさん流れ込んでしまった、その土砂の排出をするためでありました。
京都教区で募集をして16名ほどのボランティアが参加し、現地の教会の方々、また被災された方々、そうしたいろんな方たちの世代、若い学生たちもいますし、70代、80代の方たちもいます。 みんなで助け合いながらボランティアをしました。
わたしも床下に入らせていただいて、床下にどっぷりたまった泥をスコップでかきだして、入れ物に入れて、建物の外から入れ物にロープをつけて船のように引っ張って、泥を引っ張り出して捨てる、という作業をずっと繰り返しました。
いま、暑い時期でありますから、作業は10時から3時20分まで。15分働いては小休止。30分働いて休み。それを繰り返す。お昼に1時間昼食休憩。こうした形なので実働は4時間程度で、しかも休みを必ず15分ごとに入れる。そういう本当に手厚いボランティアに対する配慮がなされた形で行いました。
その中で被災者の方々、そして現地の教会の方々、みんなでできたことが本当に良かったと思うのであります。物部教会では、礼拝は朝の8時半からしておられます。なぜ朝の8時半からか。周辺がみんな農家の方たちなので、その時間帯が良いということだそうなのですね。
朝8時半からの礼拝と、午後4時からの夕拝があります。そして教会学校は朝10時。他の教会とはちょっと違った、そういう時間帯で礼拝をしておられるという、そういう農村地帯の教会なのですね。
そういう所に行きまして、いろんなお話を聞き、また、みんなで支えられてボランティアしたときに、高齢の方々が作ってくださった美味しいおにぎりを食べ、出して下さるお水を飲み、高齢の方々も一緒に一輪車を押して、「もう、わたしたちがやりますよ」と言っても「いえいえ」と言われながら、そんな中でわたしたちは助け合いということを学びました。
今日の「敬老と助け合いの日」において読みました聖書の箇所、それはこの長い長い生涯の中に、いろんなことがあることを示します。このヨセフが経験したような、許せないような憎しみ、苦しみを味わってきたことも、皆さんの中にはあるかもしれません。
たとえば、その生涯において戦争の苦しみ、痛み、様々な経済的な問題、家族の中での問題、いろんな問題があった、許せないようなこともあったかもしれません。
しかし、そんな問題を全部踏み越えてきて、いま最後に何を言うのか。今までの歩みをすべて神様が導いて下さったのだと。自分が直面してきた多くの悪もまた、神は善に変えて下さった、だから、今がある。そんな風に語ること、ヨセフのように語ること、これはヨセフだけのことではないのです。
わたしたち一人ひとりが神様から与えられた人生の中で、そのように語り合うことができる。なぜ、そのようにできるのか。それは、このヨセフと兄たちが、お互いに助け合って生きることを選んだからです。ヨセフ自身がそのことを選んだ、そしてそのように歩んできた、だから、このように言えるということなのであります。
旧約聖書に記された、たくさんの様々な人物の生涯。わたしたちにとって、本当にあまりにも時代が隔たっていて、あまりにもすごすぎて、全然違うかのように見える、一人ひとりの人生。しかし、その中で神様から与えられた、神様の一方的な恵み、神様からの豊かな贈り物ということに気がつくときに、このヨセフのようにわたしたちもまた、語ることができるのであります。
長く生きてきた父ヤコブの人生が報われ、ヨセフが兄たちの子どもたちも養いましょうと言ってくれました。そのような、世代を超えた助け合いというものが、この聖書の物語の中から生まれています。わたしたちもまた、その中にあって、善へと導かれている生涯を送りたいものです。
お祈りをいたします。
天の神様、一人ひとりに、善へと導かれて向かう、その道筋が与えられていることを感謝します。イエス・キリストがわたしたちのために命を捨てて下さったこと、そのことが最も大きな神様からの恵みであり、そのことによって、わたしたち一人ひとりの罪がゆるされ、今を生きる力になっていることを、心より感謝をいたします。
どうかわたしたちもまた、他者の罪をゆるし、神様の御心によって、自分に与えられた人生の意味を深く考え、この世界の中にある悪や罪ということを、人間の思いによって神様に代わって裁くのでなく、神様にお委ねし、神様によってこの世界を変えていただくことをお願いします。その中にあって神様から与えられる恵みによって、わたしたち一人ひとり、生きていくことができますように願います。
高齢者の方々が無数のご苦労をされてきた、その人生がねぎらわれ、若い人たちからの尊敬とねぎらいを受けて、感謝を受けて、残された人生を全うすることができまように願います。そして、高齢の方々に導かれ、教えられ、知恵を与えられて、様々な世代が共に生きることができますように。子どもたち、若者たちを守ってください。
この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
アーメン。
「イエス様と聖書を読みながら」
2023年9月24日(日)京北教会 礼拝説教
聖 書 マルコによる福音書 12章 28〜34節 (新共同訳)
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、
イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。
「あらゆる掟(おきて)のうちで、どれが第一でしょうか。」
イエスはお答えになった。
「第一の掟はこれである。
『イスエラルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、
あなたの神である主を愛しなさい。』
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』
この二つにまさる掟はほかにない。」
律法学者はイエスに言った。
「先生、おっしゃる通りです。
『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
そして『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、
また隣人を自分のように愛する』ということは、
どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、
「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。
もはや、あえて質問する者はなかった。
(上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
改行などの文章配置を説教者が変えています。
新共同訳聖書の著作権は日本聖書協会にあります)
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(以下、礼拝説教)
毎週の礼拝で、福音書、使徒パウロの手紙、旧約聖書、その三箇所から順番に読む形にいしています。本日の箇所はマルコによる福音書12章28節以降であります。
ここには「最も重要な掟(おきて)」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは元々の聖書にはなかったもので、新共同訳聖書が作られたときに、読み手の便宜を図って付けられたものであります。
今日の聖書箇所には何が書いてあるのでしょうか。順番に読んでいきます。
「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた」とあります。
ここでは「彼らの議論」とありまして、今日の箇所の前までの所では、律法学者たちとのいくつかの議論をイエス様がしておられます。
ローマ皇帝に税金を納めるべきか、そうでないか。あるいは、復活ということは本当にあるか、ないか。そうしたことが聖書の解釈の問題として律法学者たちからイエス様に対して問いかけられました。そうした問いはどれも答えることが難しい問いでした。
それらの問いは単に、律法学者たちが聖書解釈のこととして尋ねてきたのではなくて、難しい質問をして、それにイエス様がどう答えるかによって、イエス様の言葉尻をとらえてイエス様を訴える機会を得ようとたくらんでいた、そういう背景があっての質問でありました。
それらの難しい質問に対してイエス様はたくみに答えられました。それは、人が聞いていて感心する答え方だったのであります。ここでそうした律法学者たちとのイエス様の、この対話、対論というものを聞いていた一人の律法学者が進み出て、さらに尋ねたのですね。それはこういうことでした。「あらゆる掟(おきて)のうちでどれが第一でしょうか。」
この「掟」とは、旧約聖書に記されたたくさんの律法と呼ばれる掟のことです。当時の人たちにとっての宗教上の決まり事、そして生活における決まり事、それが律法というものでありました。
旧約聖書に記されていて、その一番の中心は出エジプト記にあるモーセの十戒であります。それを中心にたくさんの決まり事が、礼拝の仕方とか生活の仕方とか、いろんなことが決められていました。それらの数はある学者によれば600ぐらいということであります。
それぐらいの数があり、さらにその聖書に記された律法だけでなく、それらの律法の解釈をするための言葉、これは新しく作られた律法のようなものと言っていいと思いますが、そうしたものがこれまたたくさんあったということなのですね。
どんどん、そうやって、元々の律法と、それを解釈するための律法というものが作られていって、それらを学ぶことが大変になってきたのですが、結局その中でどれが一番大事なのだろうか、という問いも生まれてきたのです。
それに対して、そうした律法はみんな神様の言葉なので、どれが一番というふうな順番は決められない、という解釈をする人もいましたし、いや、その中で優先順位があると考える人もいたということで、そうしたことは当時の律法学者の人たちの中で議論をされていたようなのであります。
そうした中で「あらゆる掟の中でどれが第一でしょうか」と一人の律法学者がイエス様に尋ねてきたのです。これは珍しい質問だったようです。というのは、律法の中で大まかに、これよりはこっちのほうが大事だろうと、ゆるやかな形で考える人が多かったことに対して、「どれが一番大事でしょうか」と、一番のものを尋ねるというのは、当時にあっては珍しい問いであったということなのであります。
旧約聖書にたくさん書かれている律法、その中でどれが第一なのでしょうか。イエス様はおお答えになりました。
「イエスはお答えになった。『第一の掟はこれである。「イスエラルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」
神が唯一である。その神を愛しなさい。あなたの神である主を愛しなさい。これが第一の戒め、掟であるというのでした。続けてイエス様はこう言われます。
「『第二の掟は、これである。「隣人を自分のように愛しなさい。」この二つにまさる掟はほかにない。』」
ここでイエス様は、この律法学者が訪ねてきたことに対して、答えておられるのですが、律法学者の問いにぴったりあった答えではなく、律法学者の問いをさらに一つ超えた答えをしておられます。
第一の掟は何ですか、と聞かれたときに、第一の掟はこれである、そして第二の掟はこれであると言って、この二つに勝る掟は他にないとおっしゃっています。すると、この第一と第二という順番が付けられていますが、この第一と第二の二つが律法全体の中で、第一なのだ、一番なのだ、ということをおっしゃっているわけであります。
それを聞いて律法学者は答えました。
「律法学者はイエスに言った。『先生、おっしゃる通りです。「神は唯一である。ほかに神はない」とおっしゃったのは、本当です。そして「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する」ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。』」
この律法学者の答えも、イエス様の問いに対して、少しずれているというか、ピッタリしていない気がします。言葉にズレがあるように感じます。イエス様が言われていることは、元々、第一のことは申命記6章の言葉であり、第二のことはレビ記19章にあるのですが、それぞれ聖書の本文というものがあって、そこからイエス様が要約して抜粋する形でおっしゃっています。それに対して律法学者も抜粋して語っていて、ちょっとお互いの言葉にずれがあります。
どちらにしても、こうした対話というものは、聖書をよく読んでいる者同士でなければ成り立たない、そういう対話をしたのですね。そして、イエス様が答えられたことに対して、律法学者は本当にその通りであると言ったのです。
そして、この律法学者は、イエス様が言われる第一と第二の大事なことは、焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れていると言います。旧約聖書の律法の中には、礼拝の仕方が規則正しく決められています。その中で重要なのは献げ物をすることです。家畜や鳥、鳩であったり、そういうものです。羊とか牛、そうした肉を焼く。それが礼拝において重要なことでありました。
なぜ礼拝で肉を焼くかというとですね、これは古代の人たちの考え方にさかのぼるのですけれど、この美味しい肉を焼いて、その肉を焼く煙が天に上っていく。その煙を雲の上にいる神様がにおいを嗅いで、いい匂いだということで、その怒りを鎮(しず)めてくださるという、そういう発想から来ているのですね。
このような話を聞くと、現代のわたしたちは、古代の人たちの素朴な世界観といいますか、そういうものを感じるのですけれど、神様というのは美味しい焼き肉の良い香りをかぐと、怒りが鎮まるのですね。ものすごく単純な神様だなあという気もするのですけれど、これは世界中どこへ行ってもですね、神様への信仰ということを、時代をさかのぼって考え方をたどっていくと、こうした素朴な考え方と向き合うことになるのですよね。
それは、神様という存在が、擬人化されているのですけれども、神様というものが人間と同じような存在で、天国におられると。そこでわたしたちと同じように、いろんな感情を持っているわけです。美味しい肉の香りをかぐとですね、これは素晴らしい、と言っている神様だとしたら、神様もお腹を空かせているのでしょうか?
そういうことに関して、聖書の中にある神への理解はどうのこうの、と言い出すと、矛盾を追及したり、ユーモアなんですと言ってみたり、そういうこともできるのですが、そういうことを言うのはちょっとヤボなことでありまして。
聖書の中には、古代世界は源氏時代から、ずっと伝わっている。この人類の知恵、あるいは文化、何と言ったらいいかわたしもわかりませんが、こういうふうにしたら神様に願いを届けることができるとか、こうしたら神様に感謝を伝えることができるとか、あるいは、神様の怒りを鎮めてもらえるとか。
そういうことについてではですね、もう理屈を超えたところで受け継いでいる。この感覚、考えというものを大事にていくことを通じて、現代のわたしたちもそこに、自分自身の思いをそこに、何て言いますか、添えていくと言いますか、そういうことができるわけですね。
旧約聖書の律法の中には、そうした礼拝の仕方、という、古代の人たちの礼拝の仕方、考え方が記されてあります。その中では、さっきも言いましたように、家畜とか鳥の肉を焼くということが大事なことなのです。
しかし、そんなふうに献げる物とか、献金するお金とか、そういうものを、どんな良いお肉だとか、どれだけ多額のお金だとか、そういうよりもまさって、神を愛することと隣人を愛すること、この二つが何よりも大事です、ということを、この律法学者はイエス様に向かって言ったのですね。それをイエス様は聞いて、おっしゃいました。
「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。」
今日の箇所においては、この律法学者の問いは、イエス様を陥れようとして、言葉尻をとらえるために難しい質問をしているというよりも、いろいろな問いを聞いて答えて下さるイエス様を見て、この人だったら本当のことを言ってくれるのではないかと思ったのではないでしょうか。
本当に純真な気持ちで、この律法学者が尋ねたことに対して、イエス様もまた本当に心を開いて「こういうことなんですよ」と答えて下さった。そうした何かとても純粋な対話、聖書の解釈を読むにあたって、本当にお互いに心を開いて語り合っている、そうした姿が今日の箇所からは伝わってくるのであります。
さて、今日の箇所を読んで皆様は何を思われたでありましょうか。
今日の箇所についての注解書を読みますと、この箇所は聖書全体の中で大変重要な箇所であるということがわかります。それは、この聖書という書物の中で、本当にたくさんの言葉があるのですけれども、その中で結局は何が大事なのですか、という問いに対するイエス様からの決定的な答えなのですね。
聖書っていろいろ書いてありますけれど、何が一番大事なのですか、それはつまり別の言葉で言えば、キリスト教って何が一番大事なのですか、という問いなのですね。聖書では、キリスト教では、何が一番大事なのですか。
それに対する答えは、神を愛すること、そして隣人を自分のように愛すること。この二つだと、究極的にはこの二つなんだと。この二つそろって、これが一番大事な掟となる。ということであります。
そして今日の箇所について、聖書学者の注解書を見ますと、こういう風に書いてありました。旧約聖書においては、神様を愛するということがしばしば記されています。新約聖書においては、隣人を自分のように愛しなさいということがしばしば記されています。しかし、この二つのことを結びつけて語っているのは、聖書の中ではイエス様だけです。
この二つのことは二つとも大事なのですが、ここで第一の掟と言われていることが旧約聖書では強調されている。第二の掟と言われていることが新約聖書では強調されている。しかし、この二つを一つに結びつけて、一つのこととして言われているのはイエス様だけなのですね。
それは、当時の律法学者たちの考え方とは、全然違っていたわけであります。たくさんの何百という律法を並べて、どれが優先順位が高いかと並べて議論していた、そういう人たちの考えとは違っています。
最も単純なこと、神の愛というものによってわたしたちは生かされ、その神の愛によって生きている人間たちがお互いに、隣人を自分のように愛するということ、そこにもう尽きるというのであります。
もう、礼拝の仕方とか、何をどんな風に礼拝で献げるかとか、どんな風な生活をするか、細かいこと、そういうものは全部吹っ飛んでいって、一番大事なことはこれだと。キリスト教で一番大事なことはこれだと、イエス様ご自身が言って下さっている。
それは、旧約聖書の他の箇所とか、新約聖書のパウロの手紙とかにはない形で、決定的なことが今日、聖書から語られているということです。
神を愛することと、隣人を自分のように愛するということは、ひとつながりのことであるのです。あえて順番をつけるなら、第一、第二という順番をイエス様は付けられました。どっちが先かといえば、神を愛するほうが先なのです。
でもそれは、神を愛していれば、隣人を愛さなくてもいいということじゃなくて、神を愛しているならば、必ずあなたは隣人を自分のように愛することができる。そうした生活というものが、神様によって保証されている、ということが今日言われているのであります。
こうした箇所を読んで皆様は何を思われたでありましょうか。わたしは今日の箇所読みながらいろんなことを考えました。
昨日、わたしは高校の同窓会が奈良県の大和郡山市であり、行ってきました。10年ぶりぐらいだったかと思います。土曜日であり、わたしはいろんな仕事のこともありますので、同窓会では午後の時間の行事があって、夜には懇親会があるのですが懇親会には出ないで、昼間の行事だけ出席してきました。
その昼間の行事というのは、懐かしい高校の校舎に行って、そこに行ってわたしたちが高校時代に教えて下さっていた先生方が来て下さって、模擬授業をして下さるということでありました。あの頃、今から40年前になりますけれども、教えて下さっていた先生方が模擬授業をして下さるのです。これは同窓会の実行委員会の人たちはよく考えたものだなあと思いますけれど、行ってました。
行きますと、習っていた三人の先生方がもう70代、80代になっておられるのでありますが、社会科や物理の先生方が順番にお話をして下さいました。模擬授業といっても、授業ではなくてご自分の最近思っていることとかをずっと話す方もいましたし、それとは別に本当にわたしたちが本当に高校生のときに実際に授業でやっていたことを本当に再現してやって下さる先生もおられました。また、近況を少しだけ語って終わる方もいました。
そんなわけで、とても懐かしい思いがいたしました。そうした楽しい模擬授業をしたあとに、学校の中を散策をして、そしてそこから懇親会に行かれる方はバスに乗っていくのですが、わたしはそこでお別れをして帰ってきました。
帰る前に、短い時間でしたけれど、高校生のときに過ごした懐かしい建物の中に本当に久しぶりに40年ぶりでしょうか、入りました。いまも生徒たちがクラブ活動などで登校していますから、あまりウロウロしてはいけないのですが、特別な計らいで中をちょっと見せていただきました。
校舎の中を歩いたときに、階段の踊り場のところに大きな鏡がありました。そこにわたしは自分の姿を映してみました。そこにはスーツを着てネクタイをしめた私がいました。
何でスーツを着てネクタイをしていたかというと、わたしは同窓会というと皆どんな恰好をして来るのか、わからなかったのですね。そして、まあ模擬授業をするというのですから、きちんとした恰好がいいのかなあと思って、ちゃんとネクタイしめてスーツ着て行ったのですが、行ってみたら150人ぐらい来てイル人たちの中でネクタイを締めていたのは私一人だったのですね。皆フランクな恰好をして来ていたのですが、わたし一人が緊張していたようです。
そんな、ネクタイを締めて、神は白髪が増えて、そんな風になったわたしの姿を、校舎の中の踊り場にある大きな全身が映る鏡の前に立ちました。そこにそういう自分がいました。40年前にその鏡の中に立っていたとき、わたしはもっと違った姿をしていたのだと思います。そして、40年前のわたし、その頃わたしは高校二年生のとき、16歳のイースターのときに洗礼を受けました。
そのころ通っていた教会、そして学校生活のこととか、もう忘れたことのほうが多いのでありますが、いろんなこを思い出していました。そして、あの頃わたし、今日のこの聖書の箇所、こういう言葉を読んでいたなあと思うのです。そのときには新共同訳聖書ではなく、その一つ前の口語訳聖書でありましたけれど、同じような言葉であったと思います。
一番大切なことは何であるか。神を愛すること、そして隣人を自分のように愛すること。その言葉をわたしは高校生のときから知っていました。そして洗礼を受けました。それから40年経って学校で鏡の前に立ったときに40年前と大きく違った自分がいました。
その鏡を見ながら、まるで鏡の向こう側に40年前の自分がいるような気がしました。40年前の自分に何て声をかけてあげたらいいのか、と思ったのですね。あの頃思っていたような自分に、わたしは成れたかというと、成っていないのだと思います。
しかし、40年経ってわたしは無事にもういちどここに立つことができたよ、来ることができたよ、ということは、40年前の自分に教えてあげたい気がいたしました。
わたしは神を愛することができただろうか。隣人を自分のように愛することができただろうか。
できたのか、できなかったのか、ということでいえば、できなかったのだと思います。けれども、わたしは、その高校の同窓会の模擬授業で先生方が話してくださることに、とても感謝しながら聞いていました。
あのころと同じような口ぶりで話し、黒板に書いたり消したりするその動作も同じ。もちろん全部覚えているわけではありませんが、そういえばこんな感じだったな、と思うときに、思うことがありました。
あのときにはさっぱりわからなかった授業、退屈だと思って生徒たちはバカにしていましたけれども、今もう一度同じような授業を受けたときに、あのときにされた物理の授業がわかったとかわからなったとか、テストができたとかできなかったとか、もうだれもそんなことは言わないのです。そんなことではなく、ただただ感謝と、楽しみ、喜びが満ちている。まあ、同窓会というのはそういう場でありますけれども、そういう思いをわたしはいたしました。
そして、その鏡に40年前とはすっかり違った自分の姿を映した、その自分の様子をちょっとカメラに撮影をしました。何のためにということは自分でもわからないのですけれども、あのころの時代からは変わった自分がいまここにいるんだな、そういう思いを持つだけで、わたしは神様の前で幸せでありました。
今日の聖書の箇所を読むときに、やはりいろんなことを思います。神を愛する、そして隣人を自分のように愛する。皆さん、このことができますか、できていますか? と言われたら、この聖書の箇所を読む皆さんは、「わたしにはちょっと、できません」「できませんでした」というようなこともたくさん思われるのではないでしょうか。
でも、だれもそんなことは問わないのです。そうではなくて……そうですね、40年前には今日の箇所を読むときに、わたしは、これができるだろうか、できないだろうか、という基準で読んでいたと思います。これから始まるわたしの人生、こう生きられるだろうか、生きられないだろうか。生きるとしたら、どうしたらいいのだろうか、ということを思って読んでいました。
いや、40年経った今も、もちろん、そういうことは思うのですけれど、昔と違った思いで読むのは、昔はわたしはイエス様と向き合って、イエス様の言葉にどう答えるか、ということをすごく緊張しながら考えていたということです。
しかし、今はわたしはこの聖書の言葉を読むときに、自分の横にイエス様がいて下さって、イエス様と一緒にこの聖書箇所を読んでいるのだなあ、と思えるようになったのですね。「イエス様は、このことについてどう思われますか、ご自身はこれができたのですか?」というようなことは言いませんよ。それは失礼ですから。
それはさすがに言いませんが、しかし、「イエス様のこの言葉をわたしは実践できなかったのですけど、どう思われますか? ゆるしてくださいますか? これから、ちょっとでもこの言葉によって生きるとしたら、どんなふうに、今から何をして生きたらいいですか?」そんなことをわたしは、横にいて下さるイエス様に尋ねたいと思うのです。
イエス様と聖書を読みながら、これからも歩んでいきたいと願うものであります。
お祈りをいたします。
天の神様、わたしたちに神様が日々与えて下さっている、たくさんの恵みに心から感謝をいたします。その恵みに気づかずに生きているわたし自身の不甲斐なさを反省し、悔い改めます。どうか、今日から始まる新しい日々、これからの一週間をイエス様が共にいて下さい。一人ひとりの方と共にいて下さい。
この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
アーメン。