京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

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2023年11月の説教

2023年11月の説教

 2023年11月5日(日) 11月12日(日) 11月19日(日)

  11月26日(日) 礼拝説教

「実は、話すのは誰か」

 2023年11月5日(日)京北教会 礼拝説教 今井牧夫

 聖 書  マルコによる福音書 13章 1〜13節 (新共同訳)


 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。

 「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」

 イエスは言われた。

「これらの大きな建物を見ているのか。

一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

 

 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、

ペトロ、ヤコブヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。

「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。

また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴(しるし)があるのですか。」

 イエスは話し始められた。

「人に惑わされないように気をつけなさい。

わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、

多くの人を惑わすだろう。

 

戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。

そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。

 

民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。

これらは産みの苦しみの始まりである。

 

あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。

あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。

また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。

 

しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。

 

引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。

そのときには、教えられることを話せばよい。

実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。

 

兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。

また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。

しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
       改行などの文章配置を説教者が変えています。
       新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 毎週、聖書から、福音書パウロの手紙、旧約聖書、その三箇所から選んで順番に読んでいます。今日は、マルコによる福音書13章であります。

 

 そして、教会の暦(こよみ)では、今週からえ「契約節」という時期に入っています。この契約説という言い方は、最近あまりというか、ほとんどされなくなった呼び方なのであります。

 

教会暦(きょうかいれき)では一年間の中を、この時期は待降節降誕節というふうに、時期を区切って名前をつけているのですけども、今の時期、この11月の時期というのは、一般的には「降誕前 第4聖日」というふうな言い方で、つまりクリスマスの時から逆算して何日前であるか、という表し方をすることが多いのであります。

 それに対して、この契約節という言葉は、クリスマスを迎える前が待降節といって、主イエス・キリストの降誕日であるクリスマスを迎える4週間前から、待降節が始まるのですが、その待降節が始まる前に、旧約聖書においてなされていた神様からの約束、その契約ということの意味を覚える、というのがこの契約説という言葉の意味なのですね。

 

ですから、クリスマスを待つ待降節という時期が来る前に、旧約聖書の約束を心に覚えよう、ということで今回、週報にはその契約節という言葉で、この11月の期間を表記させていただいています。

 クリスマスがあと2ヶ月後に近づいてきています。イエス様がわたしたちのためにお生まれになってくださったこと。それは神様が、わたしたち一人ひとりのために、この世界全体の救いのために救い主イエスキリストを贈ってくださった、ということであります。そのイエス様の誕生日が来ることを覚えてえ過ごす時が、待降節、そしてその前の、今の時期、契約節であると覚えていただけたら感謝であります。

 

 この時期にあたって、神様の約束というのは、どういうことであろうかといいますと、旧約聖書の中に記されている言葉を通してですね、いつか救い主が来てくださる、ということをイスラエルの人たちは、信じて待っていた、ということなのですね。

 

 救い主、それはこの世界を救ってくださる主、全てのことの中心という意味が、その「主」という言葉に込められています。

 この苦しんでいる世界が救われる。神様によって救われる。その時に、神様が1人の御方をこの世界に遣わしてくださる。その方が、救い主であると。その方がこの世界の本当の王様になって、この世界を本当に救って治めてくださる。

 

 そういう信仰が旧約聖書には書かれているのであります。その救い主がどなたであるか、それは主イエス・キリストである。それが新約聖書の信仰であります。

 今日の聖書箇所においては、そのイエス様が語っておられる言葉が記されてあります。ここにも、神様からわたしたちへの約束の言葉が記されています。聖書という、この分厚い書物全体が神様から私たちへの約束、ということを伝えている書物なのですね。

 では、今日の箇所で、どのような約束が伝えられているのか、ということを皆様と共に読んでいきます。1節から。

 

「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。『先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。』」

 これは都エルサレムにあった、大きな神殿の話です。その神殿というものは、イスラエルの人たちにとって、礼拝のためのお参りをする場所でした。そこに行って神様に礼拝を捧げること、そこで祈ること、それが最も素晴らしいことでありました。

 自分たちの信仰にとって、また民族にとって、自分たちの歴史にとって、ここが一番大事なところなのだと。なぜならばここは、神様をみんなで礼拝するための場所だから。人々はそういう思いを持っていたのです。

 

 そして、人々のその思いを表すための、この素晴らしい石作りの大きな神殿があったのです。しかし、そこで弟子の一人が言いました。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」

 この、大きな神殿に、うっとりしているような弟子の言葉に対して、イエス様はおっしゃいました。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

 そのようなことが言われました。その言葉を聞いて、弟子たちは本当に驚きます。神様を礼拝する場所である神殿ということは、そこに神様がいらっしゃる、というふうに、それと同じ意味だと考えていたのであります。その場所が崩される、ということはありえないこと、自分たちの信仰の場が崩壊するとき、そんなことがあるのだろうか、と弟子たちは驚いたのです。

 そして3節に続きます。「イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた」とあります。この3人はですねイエス様が弟子たちを集める時に1番最初に集めたその湖の岸辺で出会った漁師たち1番最初の時点からの弟でありますが密かに訪れて、尋ねました。

 

 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴(しるし)があるのですか。」このとき、何かものすごく大変なことが起こる、ということを弟子たちは予感をしていたのです。


 「イエスは話し始められた。『人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがそれだ」と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。

 

 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。』」

 

 このように、イエス様はお話をされました。ここに書いてあること、イエス様がお話されたことは、弟子たちにとって大変驚くことでありました。あり得ないような、将来の恐ろしいことであります。一体これは何のことなのだろうか、と弟子たちは戸惑い、どう反応したらいいかわからない、そんな気持ちであったのではないでしょうか。

 

 そして実は、現代の日本社会の中で、今日の聖書の箇所を読んでいるわたしたちもまた、ペトロやヤコブヨハネやアンデレと共に、こういうイエス様のお話を聞いて、わたしたちはどうしたらいいのだろうか、と困惑する、戸惑うのだと思います。

 これは、一体どういうことでありましょうか。今日のこの聖書箇所は、たとえば、キリスト教がその信仰の中に持っている、終末ということを示しています。この私たちが生きている世界、というものが、いつかその役割を果たし終えていく、それが終末ということであります。

 

 ただそのことを考えるときに、気をつけなくてはいけないのは、その終末というのは、何か恐ろしいことが起こって人類がみんな滅亡してしまって、それで全部終わる、という、そういう悲しい終末ということではなくて、その大変苦しい時というのを経て、神様が新しい世界を現してくださる、ということ、聖書においては終末とは喜びのときへと向かうメッセージなのであります。

 

 ですから今日の箇所も大変苦しいことが記され、この世界の将来の恐ろしいようなことが言われているけれども、それを通して、私たちは神様が用意してくださる新しい世界へと進んでいく、そうした喜びのメッセージの一部が終末である、というたふうに、理性的に今日のイエス様のお話を聞いていきたいものであります。

 

 そして10節で、イエス様はこう言われています。

 「しかし、まず福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。」

 

 これは、将来的に戦争の話が起こったり、飢饉が起こったりして、人々が対立し、地震など自然災害も起こる、そういう大変な時がやってきて、その中にあってクリスチャンが迫害を受けるときもやってくる。そして総督や王様の前に立たされて、証しをすることになる、と言われます。

 

 証し、それは何でしょうか。証し、それは、自分が今までどう生きてきたか、という話をすることではなくて、神様がこの私に何をしてくださったか、ということを話する。それが証しをする、ということの意味なのですね。

 今のわたしたちの教会でも、福音を証しする、とか、人から証しの話を聞くことはいいことだ、とか、そんな言い方をすることもあります。そのときの証し、というのは、自分が今までどんなふうに生きてきたか、という身の上話をするような意味ではなくて、神様がこのわたしに何をしてくださったか、ということを、人に伝えるのが証しということなのですね。

 今日の箇所に書かれている、この「まず福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」と書いてあることも、福音というのは良き知らせ、神様からの良き知らせ、ということですけども、どんなことが将来起こったとしても、まず神様はこのわたしにどんな良いことをしてくださったか、ということが、まず先に述べ伝えられねばならない、しかも、あらゆる民に、と書いていますから、これは世界中の人たちに向かって、という意味なのですね。

 どんな苦しい時代が来ても、クリスチャンがすること、というのは、まず、神様がわたしにどんな素晴らしいことをしてくださったか、を人に伝えることである、ということをイエス様は言っておられるのです。

 そして、その後、11節でこう言われます。
「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」

 

 本当に困ったとき、一体、自分は何を話したらいいのだろうか、と、本当に、これは迫害を受けて引っ張っていかれて、王様の前で、お前はなぜそんなことを信じてるのだ、と、お前はなぜイエス・キリストを信じているのだ、と問い詰められたときに、語るのは誰か。

 それは、この生身のわたしが答えるのではなくて、神様の聖霊、神様の聖い霊が、このわたしの中に働いて、わたしを語らせてくださる、ということです。今日の聖書の言葉で言えば、「教えられることを話せばよい」と書かれている通りです。

 神様の見えないお働きである聖霊が、何を語ったらよいかを、このわたしの中で教えてくださる。だから、その通りに話せばいいのだ、だから心配しなくていい、と言っているのです。「何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない」と、イエス様ははっきりおっしゃっています。

 これは、将来ということを考えたときに、いろんなことで不安になり、怖がっているわたしたちに対する、とても力強いメッセージです。取り越し苦労をしてはならない。何を言おうかと取り越し苦労してはならない。本当に語るべきことは、そのとき、聖霊が教えてくださる、とイエス様をおっしゃっています。

 

 そして、12節にこうあります。
「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

 今日の箇所は、以上のように書かれています

「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」、これが神様がわたしたちに対して約束してくださっていることなのですね。

 さて、今日の箇所を読んで、皆様はどのようなことを思われたでありましょうか。今日の箇所は、終末ということを言われている箇所、とてもドキッとする、怖い、ちょっとおどろおどろしいような、何かそういう感じのするところですね。

 

 せっかく、このよく晴れた日曜日に教会に行って、どんないい話が聞けるのかな、と思って来たら、何だか、未来の人類はみんな滅亡、みたいな話だったら、ちょっとこう、何かやりきれない感じがしますね。

 

 しかし、先ほど申し上げましたように、これはそんな恐ろしい、やりきれない話ではないのです。将来への不安、というものが人間には必ずあるけれども、それを通り越していったところに、神様が備えてくださっている全く新し新しい世界があるのだ、という、このメッセージなのですね。

 

 だから、取り越し苦労をしてはいけない、ということなのです。そして、聖書学者の研究に従って、この箇所がどういう箇所であるのか、ということを、これは理性的に説明をさせていただきます。

 

 今日の箇所に書かれていることの元になっていること、というのは、もちろんイエス様の言葉であるわけなのですけれども、歴史的には紀元70年にあったユダヤ戦争という非常に悲惨な戦争、それはローマ帝国イスラエルの国がぶつかって、そして徹底的にローマ帝国の軍事力によって、イスラエルの国が崩壊し、人々が散り散りバラバラになっていく。そして、神殿が本当に崩壊していった。そういう、ものすごく大きな悲劇があった。そのことを元にしているのですね。

 

 そのことがあったので、この神殿が崩された、という話があり、そしてここに書いてあるような戦争の騒ぎや戦争の噂、そして民が互いに敵対する様子、そうしたものというのが、まさに実際にあった、そういう大きな戦争、そしてそこに至るまでの不穏な時代の混乱、というものが実際にあって、実はイエス様は先にそのことを知っておられ、ここで語っておられたのだ、という形で福音書の中に記されている、ということなのですね。

 

 そして、その大きな戦争が起こった時には、ユダヤの国の中にいる人々の中で、大きな対立が起こったということなのであります。それは、大きな軍事力によって支配される、その危険が迫る中にあって、その中で多くの命が失われていく、その中で、自分はどっちに立つのか、向こうの側に立つのか、こっちの側に立つのか。

 徹底的に抗戦するのか、いや、どこかで引き返すのか、どこかで相手の側につくのか、そんなところで人々の中が大きく割れていき、しかも家族の中でさえ意見が割れて激しく対立していった、そうした本当にもう、家族も民族もみんな引き裂かれていくような悲惨なことがあったのです。

 その最後に本当に、戦争によって国自体が崩壊していった、そんな恐ろしい戦争が実際に、紀元70年の時にユダヤ戦争と呼ばれる戦争があったということです。

 

 だから、そういう実際にあったことを踏まえて、今日の箇所は書かれているのですですね。その歴史の中では、兄弟が互いに争い、父と子が互いに争い、殺し合うというふうな、本当にあり得ないような、あってはならないようなことが、本当にあったのだと。

 自分が生き残るためには、自分が家族を裏切らなかったら生きていけない、そんな究極の恐ろしいことが本当に起こっていたわけであります。

 そうしたことは、その時代だけに一時あったことではなく、実は、人類の歴史の中で繰り返し繰り返し起こってきたことなのですね。大きな戦いが起こる時にどうするのか。その答えは単純ではないのです。自分はどこにつくのか。誰につくのか。そのことによって、お互い信じられなくなっていく。

 そんな風にして、社会が引き裂かれ、そして大変なことになっていく。そうしたことを踏まえたときに、そうしたことが過去あった、ということを踏まえたときに、これから皆さんはどう生きるのですか、という、その問いかけがあり、そういうことはもちろん起こってほしくないのですが、実際に起こり得るとすれば、その中でどう生きていくか、ということを考える。

 

 そのときに、今日のイエス様の、このメッセージが私たちの心に届いてくるのですね。それは、この世界の中にあっては、あらゆることが起こる可能性があるからです。

 

 過去に起こったことは、もう二度と起こらない、ということではなく、むしろ聖書に書いてあるように、かつてあったことはまた起こる。いま起こっていることは、いま初めて起こっているのではなく、過去にもあったのだ、というはこと。

 本当にこれは悲しいことでありますけれども、人間の社会が持っている罪というものは、繰り返し繰り返し、人間の社会を蝕み、人の心を蝕んで、争い事を起こしていくのであります。では、その中で一体、どう生きていったらいいのか。

 イエス様の答えは明確であります。「まず福音があらゆる民に伝えられねばならない。」

 世界でどんなことが起こったとしても、まず、あなたたちが語るのは、神様があなたの人生にどんな良いことをしてくださったか、ということであります。そして、自分は、この危機の中で何を言おうか、と取り越し苦労をしてはならないのです。

 「そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」本当に、あなたの生死が問われるときに、責任を取ってくださるのは神様なのだ、と。目には見えない、神様の聖い霊が、あなた方がそのときに語る言葉を教えてくださる、というのです。

 だから今から、自分は何を言おうか、どうしようかと、政治的にどう振る舞おうかと、どこにつこうか、どんなふうにと、そういうふうに取り越し苦労しなくていい、とイエス様はおっしゃってくださっているのです。

 

 大変なことが、これからあるのでしょう。しかし、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」こうしたイエス様の言葉を、たとえば世間の中によくある、未来の人類滅亡の予言だとか、ハルマゲドンだとか、何か恐ろしい予言の書として、興味本意に、あるいは人の心を騒ぎ立てるようにする形で読むのではなくて、あくまで理性的に、この聖書の言葉はわたしたちに何を言おうとしているのか、という理性的な研究というものを踏まえて、わたしたちは読んでいきたいと思うのであります。

 皆さんはいかが思われるでありましょうか。今日の箇所を読む時に皆さんいろんなことを思うと思います。

 

 最近、わたしは、この秋の天気がいい日に、ちょこちょこと外へ出かけているのでありますけれども、昨日と一昨日と、あちこち出かけてまいりました。いくつかの教会のバザーがこの秋、再開されているのですね。コロナ禍も、もう4年目で4年ぶりのバザー再開として、いくつかの教会のバザーが再開されています。

 わたしは、そうしたバザーなどの案内をいただいて行事に行ってきました。まだコロナ禍は続いておりますので、全く昔の通りに戻ったというわけではなくて、規模が縮小されていましたけれども、いろんな工夫をした形でバザーの品物が並べられ、手作りの食べ物も出ていました。

 それぞれ皆さんマスクをしたり、手の消毒をしたり、いろんな気を使いながらも、しかし喜んで楽しんでおられました。販売をし、そして子どもたちも集まり、笑顔での集まりが戻っている。4年ぶりに、そうした教会のバザーが行われている、そういうバザーを見に行くことができました。二つほどの教会を回らせていただいて、どちらも楽しい思いをしました。

 

 また、そういうときは久しぶりの方に会う場でもあるのですね。こんにちは、こんにちは、と言って、話しかけて来られます。「今井先生、ずいぶん、やせられたのではないですか」と、結構うれしいことも言ってもらうこともありました。「別に、病気になったわけではないのですよ」というようなことをお話しします。「最近のわたしは、生活を朝型に変えてますから、晩御飯を減らして、毎朝歩いているのです」とか、そんな近況の話をしながらも、楽しい時を過ごしました。

 

 そして、教会のバザーだけではありません。地域の祭りと言いますか、行事なのですが、「東九条マダン」という行事があるのですけれども、それは京都の東九条で在日韓国・朝鮮人の方々が多く住んでおられる地域にあって、最初は小さな集まりとして始まったそうですが、そのお祭りがだんだんこの地域全体のお祭りになってきて、最近では障がい者の方々や、高齢の方々など、いろんな施設、いろんな団体、学校などが協力して、在日韓国・朝鮮人の方たちだけのことではない、いろんな文化といいますか、それを楽しむお祭りが行われています。

 そこにわたしも、自転車に乗って行ってきました。ここから東九条まで結構時間がかかるのですけども、そこに行って一日楽しんで帰ってまいりました。最近、この気候のいい時にそうやって、あちこち出かけると本当に楽しいな、ということ、そういう思いを満喫したのであります。

 そして、今日の礼拝においては、聖書の箇所として、今日のこの箇所を読んでいます。皆さん、わたしの話を聞いていて、聖書の終末の話を聞くのと、バザーに行って楽しかった、という話を聞くのと、どちらが皆さんの聞きたい話だったでしょうか。

 何となく、気分として言えば、いやあ、バザーの話の方がずっといいですわ、というふうな気持ちになるのではないか、と思うのですね。けれども、教会というところは非常に面白いところなのです。聖書もとても面白いのです。それはですね、ものすごく楽しいこと、楽しい生活ということと同時に、ものすごく、何と言いますか、しんみりするような、悲しい話とか辛い話、そういうものが聖書の中には両方あるのですね。

 

 実は、私たちが日々暮らしている生活というものも、実はそうなのです。どんな楽しい生活であったとしても、船で言えば船底一枚下は地獄、海があって、そこに落ちたらみんな死んでしまうように、わたしたちの生活というものは、そのギリギリで死と隣り合わせて成り立っているわけですよね。

 しかし、その中にあって、何とか生きていこう、と工夫していくときにいろいろなこと、人類のやることとしての、それぞれの生活を作っていく働き、というものがあって、その中に平和を創り出す、という大切な使命があるわけなのですね。

 

 教会がバザーをしたり、地域でお祭りをしたりする、ということ。それもまた、平和を創り出す一つの大きな働きなのですね。それがあることによって、わたしたちは、この平和というものがいかに尊いものであるか、ということを実感し、そして、そこで奉仕したり、ご飯を食べたり、遊んだり、久しぶりの人と再会したりする。

 そんなことをする中にあって、何か人間らしい楽しみ、ということを、この社会の中にあって一人ぼっちではなくて、みんなで作っていく。そういうことがあるわけなのです。そして、今日の聖書箇所でイエス様がおっしゃっておられることも、実は将来に向けた、このちょっと何か恐ろしい話、

ということではありません。

 

 どんな生活をするときにあっても、わたしたちには不安というものが必ずあるのだ、ということです。その不安は、繰り返し繰り返しやってくるのだ、ということです。その不安には、戦争の噂もある。飢饉の噂もある。民と民が対立する。自然災害もやってくる。もう、怖いことばかりなのですよ。けれども、その中にあってですね、今日、イエス様は人に惑わされないように気をつけなさいと言って下さっています。

 

「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って多くの人を惑わすだろう」と言われていますね。これは何を言っているかというと、世界が滅びますよ、大変だよ、大変だよ、と言って人々の心を惑わして、そのことで利益を得ようとする、誤った人たちが出てくるというのですね。実際、世界の歴史を振り返ると、そういうことは多々あったわけであります。

 そういう不安、人々の不安というものを、作り出すことによって何か利益を得ようとする、そのような人たちからは本当に離れて、理性的に、冷静にこの世界を見ていくこと。そして、どんなに不安な社会になっていったとしても、「まず福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。」

 そのときにあって、クリスチャンはどんなに苦しくても、そこで働くことがある、やるべき使命があるのですね。それは、自分がどんなに立派に生きてきたか、ということではなくて、神様はこんなわたしを救ってくださいましたよ、だから、この世界もいま苦しいけれども、その先がありますよ、と言えるのです。

 未来なんて見えないような世界の中にあって、それでも未来が待っていますよ、そのことをクリスチャンはイエス様と一緒に語る。そのことができるのですね。そのとき、話すのはどなたなのでありましょうか。「実は、話すのはあなた方ではなく聖霊なのだ。」

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、わたしたち一人ひとりが、平和を創り出す者となることができますように、どうぞ導いてください。

 この祈りを、感謝して主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

 

 

「善の重さを担って」今井牧夫

 2023年11月12日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  ガラテヤの信徒への手紙 6章 1〜10節 (新共同訳)


 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、

“霊”に導かれて生きているあなたがたは、

そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。

 

あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけていなさい。

互いに重荷を担いなさい。

 

そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。

 

実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、

その人は自分自身を欺いています。

 

各自で、自分の行いを吟味しなさい。

そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、

他人に対しては誇ることができないでしょう。

 

めいめいが、自分の重荷を担うべきです。

御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。

思い違いをしてはいけません。

 

神は、人から侮られることはありません。

人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。

 

自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、

霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。

 

たゆまず善を行いましょう。

飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。

 

ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、

特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
   改行などの文章配置を説教者が変えています。
      新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)



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 (以下、礼拝説教)

 

 毎週の礼拝で、福音書パウロの手紙・旧約聖書、その三箇所から選んで順番に読んでいます。今日はパウロの手紙であるガラテヤの信徒への手紙6章です。

 

 ここには「信仰に基づいた助け合い」という小見出しがつけられています。こうした小見出しは新共同訳聖書が作られたときに、読者の便宜を図って付けられたもので、元々の聖書にはこうした小見出しはありません。

 

 今日の箇所には何が書いてあるのでしょうか。今日の箇所は、このガラテヤの信徒への手紙の終わり近くになっている所であります。このガラテヤの信徒への手紙は、使徒パウロが書きました。

 イエス様のことを伝道した最初の教会の人たちの中で、イエス様から直接教えを受けた12人の弟子たちを使徒と呼んでいますが、この手紙を書いたパウロという人は、イエス様に直接会ったことは ないのですが、やはり使徒と呼ばれていた人であります。

 

 それぐらい、このパウロという人は、重要な伝道者でありました。パウロは、最初はクリスチャンではなくて、逆にクリスチャンを迫害する立場の人でありました。イエス・キリストの教えていることは間違っている、だから、その教えを信じているクリスチャンたちも間違っている、と信じてクリスチャンたちを迫害していたのでありました。

 

 なぜパウロがそのようにクリスチャンを迫害していたかというと、パウロは子どものときから熱心に聖書を勉強し、当時で言えば今の旧約聖書にあたる部分ですが、旧約聖書を熱心に勉強し、その中に書いてある律法と呼ばれている、様々な決まり事、掟(おきて)というものを、しっかり守る生き方を貫いてきた人でありました。

 

 その律法というのは、その当時にあっては、社会の中で生きるための法律でもありましたし、また、神様を信仰する礼拝の仕方であるとか、人間の生き方ということが書いてあるものでした。

 

 そういう、神様の前での法律と言いますか、それを守って生きることが、人間として正しい道だ、そういうふうに信じていたのでありました。しかし、その律法、聖書に記された律法というものは、大変大切なものでありますけれども、それを完璧に守れる人というのは一人もいない、と言ってもいいのです。

 生身の人間である限り、いろんな矛盾が出てきて、それはできなくなってしまう。たとえば、貧しい人であれば律法に決められてる通りの生活ができない。その通りの礼拝ができない。また、障害を持っている人、目が見えない人、耳が聞こえない人、体の不自由な人、そうした人たちは律法を守ることができません。

 また、女性、そして子どもたち、歳を取って自分の身の回りのことができなくなってきた人たち、そうして人たちも、律法を守ることのできない人たちになっていくのですね。

 では、そうした人たちはどうなるのか。律法によってこそ救われる、と信じていた人たちから、差別されて、社会の中で底辺に追いやられる。そのような、現代のわたしたちの目から見れば、不自然な社会というものがあったわけであります。

 

 パウロという人は、その不自然な社会の中で、若いときから律法を勉強して、律法学者として生きてきました。律法を守ることによってこそ、人は神から救われるのだと。だから、イエス様が現れて、律法を守れなくても神様を信じる信仰によって救われるのだと、そのことをご自身の生き方をもって示された。

 そして、それを信じるクリスチャンがたくさん出てきた。生まれてきた。しかし、そういう人たちは律法を完全に守ろうとしないがゆえに、間違っているとパウロは考えていたのであります。

 

 しかし、ある日、パウロに回心のときが来ました。パウロは突然目が見えなくなったのです。クリスチャンたちを迫害する、その旅の途中で一生懸命にパウロが目的地に向かおうとしていた、その途中でパウロは目が見えなくなり地面に倒れました。

 

 その真っ暗闇の世界の中にパウロ自身が入ったとき、その中でパウロは絶望したのです。目が見えなくなった自分は、もはや律法を守ることができない。

 

 すると、今まで自分が、あの人たちは律法が守れないからダメだ、と言っていた自分が、差別をしていた相手の人たちの中に、今度はこの自分も入るのだ、という、その衝撃、絶望の中にあって、パウロイエス・キリストの声を、その暗闇の中で聞いたのでありました。

 

 パウロはその時から会心をいたします。そして、しばらくの年月を経て、パウロイエス・キリストを宣べ伝える伝道者となったのでありました。

 

 そのパウロの伝道によって、地中海沿岸当時の世界各地に教会というものが作られていきます。それは、いまの私たちのような教会の建物を新しく建てる、そういう教会が建てられた、という意味ではなくて、色々な人の家を回って、そのなかで比較的広い家を使って、そこで礼拝をする、そういう教会が各地にできていったのですね。

 

 そしてそのパウロが、熱心に伝道していった、その中でできた教会の一つが、今日の聖書箇所にあるガラテヤの町、これは地中海沿岸の一つの町の名前であります。そのガラテヤの町にできた教会の人たちに向けて送った手紙が、今日のこの手紙です。

 そして、この手紙全体の目的は、ガラテアの教会の人たちを叱ること、それが大きな目的なのですね。叱る、というとちょっと語弊があるかもしれませんけども、パウロは深い悲しみを持ってガラテアの人たちを叱って、そして正しい方向に引き戻そうとしている。導こうとしている。というのがこの手紙全体の目的なのです。

 

 そのころのガラテヤの教会の人たちが向かっていた、間違った方向というのは何かというと、昔やっていたように、旧約聖書の律法を一つひとつ全部守ることによって、救われようとする、という考え方、それを律法主義というのですが、そういう考え方に戻ろうとしていたのですね。

 

 なぜ、そのように律法主義という考え方、つまり、人間の生活というものを宗教の律法によって縛っていく、そのことで神様に救われる、という考え方は、窮屈な考え方のはずなのですけども、なぜ人々がその方向に戻ろうとしていたのでしょうか。

 

 おそらく、これは推測でありますけれども、ガラテヤという町は、ほかのパウロの手紙に出てくる町もそうなのですが、地中海沿岸にあって、いろんな国の文化とか、いろんな習慣、いろんな宗教というものが、世界各地から入り込んでくる、貿易の盛んな町でした。

 

 地中海沿岸の栄えた町は、おおむねそうでしたけども、そういう中にあって、いろんな国の人が出入りする中で、乱れた生活の仕方、感心しない習慣など、いろんなものが入り込んできていました。

 

 そのことに対して、そういう良くない生活に染まるのではなくて、自分たちの生活を守っていきたい、と考えたときに、やっぱり旧約聖書の律法を守ること、これがいいのだ、というふうに戻りかけていた。そういうことではないかな、と推測することができるのですね。

 そしてまた、そうした古い考え方に戻る、ということで、自分たちが結束して、グループの結束を堅くしていく、そういうこともありました。これは一つの人間的な考え方ですけども、そういうこともあったと思われるのです。

 それに対してパウロがこの手紙を書いているのは、そういう昔やっていたような、カチカチの頭の堅い考え方で人を縛るのではなくて、人は一人ひとり自由なのだということです。

 

 そして人間の罪ということ、これは神様に対する罪という意味ですが、それはイエス・キリストが十字架にかけられて死なれた、そのときに、わたしたち一人ひとりの罪も一緒に、その十字架の死によって滅ぼされた。

 だから、そのイエス様こそが、わたしたちの救い主、わたしたちの救いの中心に立って、全てを導いてくださると信じることによって、あらゆる罪から解放され、そして、あらゆる律法からも解放される。

 

 そういうイエス・キリストへの信仰を、パウロはガラテヤの人たちに、もう一度この手紙を通して伝えているのであります。

 

 そして、この手紙の中では、そのことを伝えるときに、かなり厳しい言い方もしているのですね。厳しい伝え方をして、手紙の中でそういうことを書いてきた。その流れが手紙の中で一段落したあと、もう今日の箇所では手紙の終わりが近づいています。

 

 パウロはこの手紙を締めくくるにあたって、ここまでに書いてきた厳しい言葉ではなくて、温かい言葉というものを使って、これからガラテヤの教会の人たちが、どんな風に生きていったらいいか、ということを具体的に示している、というのが今日の箇所なのであります。

 

 今日の箇所はどんなことが書いてあるでしょうか。順番に読んでいきます。
 「兄弟たち毎日誰かが不注意にも何かの罪 に陥ったなら霊に導かれて生きているあなた方はそういう人を柔和な心で正しい道 に立ち回らせなさい」と言われます。

 

 誰かが不注意にも何かの罪に陥る何かの悪事に引き込まれるわけであります。そういうときに、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい、とパウロは言っています。

 

 これは先ほど申しました、聖書の律法によってその人を裁くのではなくて、その人に優しい心で語りかけて正しい方向に導くのだ、ということを言っているのですね。イエス・キリストによって導かれるならば、つまり神様の霊によって導かれるならば、その人を裁くのではなくて、優しい言葉で導くことができる、と言っているのです。

 

 そしてその次にこう言います。
 「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」

 そうなのです。悪に気をつけろ、と言っている人間、あるいは自分こそが、その誘惑に弱いという面があります。

 

 そして2節ではこう言います。

 「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」

 

 ここでは、先ほど言いました旧約聖書の律法というのとは違う意味で、「キリストの律法」という言葉が使われています。

 キリストの律法、それは旧約聖書の律法では救われない、それを守ろうとしても守れない、その矛盾が出てくる、その人間が、ただキリストを信じることによって、つまり神の愛を信じることによってですね、自分の行いとは関係なく救われる、その愛によって救われるということ、そのためにどうしたらいいか、それは互に重を担いなさい、ということなのですね。

 それは何のためかというと、悪事に引き込まれそうな人や、問題を抱えてる人や、罪を犯している人がいたらですね、その人の抱えてる重荷をみんなで担い合いなさい、その人だけにその悪の責任を負わせずに、みんなで重荷を担いなさい、そうすることによって、イエス・キリストの愛の教え、それをここでキリストの律法と呼んでいるのですが、それを全うすることになる、と言います。

 

 そして3節では、こう言います。
 「実際には何者でもないのに自分をひとかどのものだと思う人がいるなら、その人は自分自身をあざむいています。各自で自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば自分に対してだけは誇れるとしても他人に対しては誇ることができないでしょう。」

 

 ここで言われてるのは、自分は人のものだと思っている人、その人は人の重荷を一緒に担おとしないで、ただ何て言いますか、自分は偉いのだ、と言っている、ちょっと漫画的に言えばそういう感じですね。

 その人は、私は正しい生き方をしてるから、ちゃんと律法を守っているから救われるのだと。他の人は何をやっているのだ、というふうな、そういう自分だけが救われると思っている、それが自分がひとかどの者だと思っている、そういう人のことなのですね。その人は、自分自身をあざむいています、とパウロは言っています。

 

 そして5節でこう言います。

 「めいめいが自分の重荷を担うべきです。御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物を全て分かち合いなさい。」

 

 先ほどは「互いに重荷を担いなさい」と言われ、今度は「めいめいが自分の重荷を担うべきです」と言います。互いに重荷を担うためには、まず自分自身の負うべき重荷を担う必要があると。それは自分の行いを吟味する、ということなのですね。

 自分がひとかどの人間だと思っていると、もういろんなことをやってきた人間だ、と思って自信を持っている、そこで終わるのではなくて、自分自身の重荷を担うときの、その自分の重荷とは何か、というところですね。

 実は、その自分が担うべき重荷の中には、他者が担ってる重荷を、自分も重荷として担うことによって、他者の重荷を少しでも軽くしてあげる。そういうことも、また自分の重荷を担う、ということなのですね。

 

 そして6節ではこう言います。

 「み言葉を教えてもらう人は教えてくれる人と持ち物を全て分かち合いなさい。」

 これは、教会において、イエス様の御言葉、聖書の言葉を教える教師と、それを教えられる信徒の人々が、持ち物を全て分かち合いなさい、というふうに言っているのですね。これは、ちょっと読んでいて、あれ? と思うところかもしれませんね。たとえば、現代のわたしたちが、こういうことを できるでしょうか。持ち物を全て分かちあう。そういうことは実際には不可能ですね。

 

 しかし使徒言行録の箇所を読むと分かるのですけども、これは自分が持ってる財産を全部放棄して出し合いなさい、というふうなことではなくて、それぞれが持っているものは持っているものとしながら、しかし、必要に応じて持ち物を出し合って分かち合いなさい、ということなのですね。

 

 それは、御言葉を教えることに専念する人が、あまりにも貧しくならないように、そして、その人が御言葉を教える仕事に専念することができるように、ということなのであります。それは、単に何か出し合って一人の教師を支えてあげる、というだけではありません。

 

 「全て分かち合いなさい」と書いていますから、教師、教える側の人も、その教えを聞く信徒たちに、自分の持ってるものを捧げて分かち合う必要があるわけですね。最初の時代の教会というのは、こういう形で教会を成り立たせていたのであります。

 

 そして、次に7節に行きます。

 「思い違いをしてはいけません。神は人から侮られることはありません。人は自分の蒔(ま)いたものをまた刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔くものは、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔くものは霊から永遠の命を刈り取ります。」

 

 肉という言葉は、自分自身の身体、元々の自分に存在している体、ということを指しています。ここではおおむね、自分の持って生まれた自分の本能であったり、欲望であったり、自分のいろいろな悩み事も含めて、自分の実際の存在、ということですね。

 

 自分の身体、自分の実際の存在というものに種を蒔いて、そこから成果を得ようとする者は肉から滅びを刈り取りとる、つまり失敗をするというのですね。

 

 それに対して、霊に蒔く者、それは霊という、目に見えるものではない、神様の導きの場に、種を蒔く者は、その種が育って、永遠の命を刈り取る。つまり、自分の人生が豊かに祝福される、とパウロは言っています。

 

 そして、さらにこう言います。

 「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいればときが来て、実りを刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、全ての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して善を行いましょう。」

 

 「たゆまず善を行いましょう」と言われています。善というのは何でしょうか。それは考え出すと なかなか難しいですね。何が善であるか。

 

 しかしパウロは、ここで言っているのは、抽象的な意味での善ということではなくて、教会という場にあって、みんなでイエス様の言葉を聞いて、みんなで礼拝して、みんなでお祈りして、そして共に生きていく、その中にあってですね、その教会というものを良いものにしていく力。そして、お互いの重荷を互いに担い合っていく、そういう働き。そういうことが、善というふうに言われているのですね。

 

 今日の箇所は、全体としてそのような箇所であります。この箇所を読んで、皆様は何を思われたでありましょうか。ガラテヤの信徒への手紙の全体が終わりに近づいています。今までの手紙の中では、割と厳しい言葉を用いて叱りつける、そういうふうな面もありました。

 

 しかし、今日の箇所においては、そうした言いたいことを、もう一旦言った後は、温かい言葉でこの手紙を締めくくろうとしている、そういうパウロの気持ちが伝わってきます。

 

 温かく締める、というのは、とっても大事なことだと思います。今日、わたしたちの教会の礼拝堂に、久しぶりに暖房を入れました。昨日の晩からでしょうか、昨日からでしょうか、とても寒くなりました。割とつい最近まで、今年は猛暑ですね、ということを言い、夏が過ぎてもまだ暑いですね、変わらないですね、というようなことを世間話の中で、時候の挨拶の中でしてきた、と思うのですけれども、そうして暑い暑いと言っていた、つい最近までそうだったのが、急に寒くなりました。

 

 私も昨夜、ちょっと自転車で外に出る時に、いつもの格好で外に出ようとして、あ、これは大丈夫かな、と思って、冬用のジャンパーを上に羽織りました。冬用の帽子もかぶって、手袋もして、それで自転車に乗ってちょうどいいぐらいでした。

 

 そのとき思ったのです。本当に寒くなったな、と。秋が深まるというのはこういうことだなと思いますし、11月も半ばになれば冬が近づいています。これから寒くなっていくのだな、というこの時期に何を求めるかというと、温かいもの、温かい心というものを求めたいと思うのですね。

 

 今日の聖書箇所においても、パウロはガラテヤの人たちに向けた手紙の全体を通しては、少し厳しいことも言ってきましたけども、それを締めくくる時には、温かい言葉で締めくくろうとしてい ます。

 

 そこから学びたいのです。パウロは、今日の箇所で何を言おうとしてるでしょうか。今日の箇所の言葉には、いろいろなことが言われていますので、皆さんの心にとまる箇所はそれぞれあるかと思いますが、私はこの今日の箇所の中では、この「互いに重荷を担いなさい」という言葉と、それから「めいめいが自分の重荷を担うべきです」という、この二つの言葉が心に残りました。

 

 お互いに、重荷を担う。自分の重荷を、人と担い合って生きる。自分自身がなすべきこと、というものがあるのだと。そして、そのことに基づいて他者と共に歩むときには、その他者の重荷を、自分が代わって担うこともある。重荷の担い方というのは、そういうことなのだと。
 

 そして、自分には担う重荷がないのに、他の人だけが重荷を担っている、ということは、あってはならないのであります。「自分は救われている」という自信を持っているだけで、人の重荷に指一本貸そうとしない、そういうことであってはいけない、とイエス様が教えてくださっています。

 

 今日の箇所は、一般的な意味で、お互いに助け合いましょう、と言うだけではなくて、先ほど申し上げました、律法主義ということに基づいて人を裁くことをしないで、むしろ、その人の抱えている重荷というものを、その人自身が負えるように、そしてまた、お互いに助け合っていこう、それが教会なのだと、そういう意味が込められている、と私は感じるのですね。

 

 教会という場所が、あるいは、キリスト教を信じて生きるということが、お互いに裁き合う場になってしまうと、どうなるか。すると、その裁きというものを十分に行うことができる人、というのは、正しいことをしている人ですね。その正しいことをしている人が中心になって、正しいことをしていない人を裁く、それが律法主義なわけであります。

 

 イエス様が教えてくださったのは、そうした律法主義によって、社会の中に差別を作り出し、人が人を支配する、そして一部の人だけが救われていくような、そうした誤った宗教的な考え方から解放されて、一人ひとりが神様によって愛されている、その生活へと立ち戻っていく、ということでありました。そのために、パウロは今日の箇所を書いているのであります。

 

 最近、今日の聖書箇所と関係して、心に浮かぶことが一つありました。それはですね、わたしは今、京都教区で総会議長という役割の仕事に就いているのでありますけれども、毎年、日本キリスト教団の教師、いわゆる牧師に、これからなっていくための教団の教師検定試験というものがあって、その試験を受けるためには教区からその人を推薦をする必要があるのですね。

 

 その推薦をするために京都教区では協議会という形をとっています。いわゆる面接ということなのですけれども、単なる面接と言わないで協議会と言っているのは、これは一方的に教区が志願者を面接するのではなくて、一緒になって、教師になるとはどういう意味があることかを考えよう、そういう意味で協議会と呼んでいるのですけれども、そういう場を持っているのです。

 

 そしてわたしは、教区議長としていつもその場で、大体年2回あるのですけれども、新しく牧師になろうとしている、なりたいと願っている、また、神様からそのように招かれている、と信じている、そういう人たちに向けて、ちょっと話をする時間があるのですね。

 

 短い20分程度の時間でありますけども、そして、その20分の間にですね、牧師の心構えがどうであるか、というような話よりも、教団の教師制度というのはどういう問題を持っているか、とか、そんな話です。

 あるいは最近は、教会でのハラスメントの問題というのがあり、セクシュアル・ハラスメントであったり、パワー・ハラスメントであったり、そうした、牧師が牧師の権威を用いることによって人を圧迫する、抑圧する、そういうハラスメント、そういうことがあってはならない、というような話をする、そんなこともしているわけであります。

 

 そんな話をまた、今年もその機会が今度あるのですけども、一体私はどんな話をその時にしようか、ということでいつも悩むのですね。

 

 色々こう思い起こしていくと結局、わたし自身が、牧師になろうと思ったのはいつ頃のことだったか、10代の頃だったのでありますけれども、最初は、本当にそんなことは、何と言いますか、わたしには遠いことだと思っていたのでありますが、神様の導きというのがありました。

 

 そして紆余曲折の中で、20代のときに牧師になる道を歩み始めたのであります。そんな中でわたしも今58歳になりましたけども、これから新しく牧師になっていこうとする方、それは大変若い、20代の方もおられますし、社会人として献身して、お年を召した方もいらっしゃいます。

 

 そういう方たちに一体何を語ったらいいだろうか、と思うときに、この今日の箇所を読んでいますと、ここに書かれている、3節の言葉が心に響きます。「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。」

 

 わたし自身では、何か大変な人生を生きてきて、いろんな紆余曲折があって、その中で神様によって導かれて、ここまで来た。そういう自己理解といいますか、自分の理解というものがあるのです。けれども、それは決して、自分がひとかどの者ということではないのだと。

 

 そうではなくて、わたしたちがすべきこと、というのは、自分の重荷を担うべきである、ということなのだと。そして自分の重荷を担う、ということの意味は、牧師として教会に来られる方々の、一人ひとりの重荷を一緒に担っていく、ということだな、ということを今、改めて思わされています。

 

 もちろん、人間としての、一人の人間としてのわたしに、そんなことは到底できません。そんな能力はないのです。しかし、イエス様が一緒にいてくださるならば、必要なことは全てイエス様が導いてくださる。その信仰を、わたしは神様から与えられています。

 

 それは、たとえば、今日の聖書箇所にあって、「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物を全て分かち合いなさい」という言葉を見てもですね、これを文字通りに受け取って、もう全部持ち物を共有する、そんなことはできないわけであります。それは現実離れしてるのですね。 

 

 聖書がわたしたちに伝えていること、というのは、文字通りの言葉で現実離れしたことを教えるのではなくて、その言葉を発する時に、そこで伝えようとしているメッセージがあるわけです。そのことを、わたしたちは受け取っていく必要があります。

 教師として信徒と共に、教師は皆さんとともに、その一人ひとりの重荷を担っていく。それは、自分がスーパーマンのようになって、ものすごい力で、どんな人の悩みをも解決する、そんな形で担うのではありません。

 

 そうではなくて、わたしは何にもできません、何にもできません。そのことを、心から本当に信じた、そこから出発する、ということです。わたしは何にもできません。だから神様にすがります。神 様に依り頼みます。神様、どうかわたしにできることをなさせてください。わたしはそのことに全力を尽くします。

 

 そういう思いが、神様から与えられるのですね。そのときに、こんな私でも、わずかであっても、できることががある。そして、それは神様の目から見た時には、決して小さなことではない。この世界の中にあって、救いを、神様の救いを伝えることであるからです。

 

 そして今日の箇所では、パウロがガラテヤの教会の人たちに、心を込めて書き送っている、温かい言葉であります。これは牧師たちだけに言っているのではありません。むしろ、世界の全ての人に向けてパウロは言っているのです。

 

 人を裁くのではなく、神の愛によって立ち返らせ、みんなで共に生きていく、そういう世界を作っていきましょう。パウロはそのことをここで、熱く、強く、温かく語っているのであります。

 

 お祈りをいたします。

 神様、わたしたちがそれぞれの場にあって、神様の御心にかなって生きようとするときに、いろいろな課題があり、できないことがあり、また悪の誘惑や自分の弱さや、いろんな問題にぶつかる中で、自分の力も奪われていくような、気力も奪われていくような、そんな気がするときもあります。しかし、その中にあってイエス様がおられることを信じ、その導きのもとで、わたしたちもまた、善を行うことの、その重さを担って、互いに担っていくことができますように導いてください。 

 この、戦争の終わらない世界にあって、毎日毎日ニュースを見るたびに自分の心がえぐられていくような、この時代にあって、それでも戦争の中を生きておられる一人ひとりが、神様から与えられた命を持って生きているのと同じく、わたしたちもまた、神様から与えられた命を持って、今ここに生きています。どうか、その命を自分だけでなく、他者のために、神様の御心にかなって用いることができますように。どうぞ全てのことを導いてください。 

 この祈りを、感謝して主イエスキリストの御名を通して御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

 

「礼拝する民への救い」今井牧夫  
 2023年11月19日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  出エジプト記 5章 1〜9節、6章1節 (新共同訳)


 その後、モーセとアロンはファラオのもとに出かけて行き、言った。

 「イスラエルの神、主がこう言われました。

  『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と。」

 

 ファラオは、

 「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、

  イスラエルを去らせねばならないのか。

  わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」と答えた。

 

 二人は言った。

 「ヘブライ人の神がわたしたちに出現されました。
      どうか、三日の道のりを荒れ野に行かせて、

  わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。

  そうしないと、神はきっと疫病か剣でわたしたちを滅ぼされるでしょう。」

 

 エジプト王は彼らに命じた。

 「モーセとアロン、お前たちはなぜ彼らを仕事から引き離そうとするのだ。

  お前たちも自分の労働に戻るがよい。」

 ファラオは更に、言った。

 「この国にいる者の数が増えているのに、
       お前たちは労働をやめさせようとするのか。」

 

 ファラオはその日、民を追い使う者と下役の者に命じた。

 「これからは、今までのように、彼らにれんがを作るためのわらを与えるな。

  わらは自分たちで集めさせよ。

  しかも、今まで彼らが作ってきた同じれんがの数量を課し、減らしてはならない。

  彼らは怠け者なのだ。

  だから、自分たちの神に犠牲をささげに行かせてくれなどと叫ぶのだ。

  この者たちは、仕事をきつくすれば、
  偽りの言葉に心を寄せることはなくなるだろう。」

 

 主はモーセに言われた。

 「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。

  わたしの強い手によって、ファラオはついに彼を去らせる。

  わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。」

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
      改行などの文章配置を説教者が変えています。
    新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 毎週の礼拝で、福音書パウロの手紙・旧約聖書、その三箇所を順番に読む形にしています。今日は旧約聖書出エジプト記5章1節よりであります。

 

 ここには「ファラオとの交渉」という小見出しがつけられています。こうした小見出しは、新共同訳聖書が作られたときに、読み手の便宜を図ってつけられたものであり、元々の聖書にはありません。

 

 今日の聖書の箇所には何が書いてあるのでしょうか。出エジプト記というものは、旧約聖書では一番最初にある創世紀の次に収められている文書であります。創世紀の後半、3分の1は「ヨセフ物語」と呼ばれる、ヨセフという人が主人公になっている大変長い物語です。

 

 そのヨセフの時代に、ヨセフの家族はイスラエルという国の発端となる、アブラハムという人がいて、その子のイサク、さらにその子のヤコブ、そのヤコブの子がヨセフなのであります。

 

 その、アブラハム・イサク・ヤコブという、その家系である最初の時代のイスラエルの人たちが、ヨセフの時代になって飢饉で食べるものがなくなって、エジプトに移住した、そういう物語の流れになっています。

 そして出エジプト記においては、そうやってエジプトに移り住んだ後に、イスラエルの人たちの人口がどんどん増えていったために、その国の中で王様から目をつけられたというか、警戒をされ、そして重い労働を課されるようになった。抑圧されるようになった。

 

 そのことの苦しみの中で、イスラエルの人たちが叫びをあげた。その叫びを天の神様が聞いてくださって、そして神様がイスラエルの人たちを、奴隷とされていたエジプトの国から救い出して導き出してくださる。

 

 そして、新しい土地へと移り住んでいく。そのときにエジプトを出ていくという、非常に大きなことがあり、その中でモーセ十戒と呼ばれる、旧約聖書の律法と言われる、いろんな決まり事、掟(おきて)、イスラエルの人たちにとって神様から与えられた法律である律法、そのもとになるモーセ十戒がその時に与えられた。

 

 そういう、イスラエルの歴史にとって非常に大きな出来事が、この出エジプト記に記されているわけであります。

 

 そして今日の箇所においては、そのエジプトから脱出する道筋において、人々のリーダーとして立てられたモーセという人、また、そのモーセと共に働いたアロンという人が、エジプトの王様であるファラオのもとに出かけていった、そういう所から1節が始まっています。

 

 これは、モーセとアロンがこのファラオに対して、この自分たちをエジプトから出ていかせてほしい、と頼みに行った、その最初の場面なのです。

 

 では1節から順番に読んでいきます。

「その後、モーセとアロンはファラオの元に出かけて行き言った。『イスラエルの神、主がこう言われました。私の民を去らせて荒れ野で私のために祭りを行わせなさい』と。」 

 

 ここで言われている「祭り」というのは、今の私たちが連想するようなお祭りということではなくて、神様に対する礼拝ということを指しています。

 

 その言葉を聞いて、エジプトの王であるファラオは言いました。「『主とは一体何者なのか どうしてその言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。私は主など知らないし、イスラエルを去らせはしない』と答えた。」

 

 ここでは、イスラエルの人たち全体が、「イスラエル」という全体の名前で呼ばれています。こうしてモーセは、ファラオにお願いをしたのであります。

 神様の言葉を伝えて、自分たちが礼拝をするために、このエジプトを出て荒れ野に去らせてほしい、と言ったのです。しかし、全く受け入れられませんでした。主とは一体何者なのか、どうしてそのことをわたしが聞いて、そんなことをしなければいけないのか。

 それは、ファラオの本音と言いますか、実感というか、本当に文字通りにそうだったのだろうと思うのですね。自分が聞いたこともないような神様のことを言われて、自分たちのことを言われても、それは私には何の関係もない、そんな思いであったでしょうか。
 

 続けて3節にはこうあります。
 「二人は言った。ヘブライ人の神が私たちに出現されました。どうか三日の道のりを荒れ野に行かせて、私たちの神、主に犠牲をささげさせてください。そうしないと神は、きっと疫病か剣で私たちを滅ぼされるでしょう。』」

 

 ここで言われているのは、犠牲をささげること、これもまた礼拝を意味しています。自分たちの飼っている家畜の中で一番いいものを、焼いて献げて、神様にお献げする。古代の時代にはそれが礼拝だったのです。それをしないと、わたしたちが神様から滅ぼされる、というのでした。

 

 それに対して、ファラオは言いました。
 「『エジプト王は彼らに命じた。モーセとアロン、お前たちはなぜ、彼らを仕事から引き離そうとするのだ。お前たちも自分の労働に戻るがよい。』」

 

 ファラオはさらに言いました。

 「『この国にいる者の数が増えているのに、お前たちは彼らに労働をやめさせようとするのか。』」

 これはまさに、このイスラエルの人たちが、なぜエジプトの国の中で抑圧されていたか、という理由が言われています。人口がどんどん増えている。そのため、このイスラエルの人たちはエジプトの中にあって目立つ存在になってきていたようであります。

 外国から、最初は飢饉で食べる物がないといってやってきた人たちが、いつのに間にか、どんどん人が増えてきている。その人たちが、エジプトの国で大きな力を持つのではないか、ということを警戒したので、あえてファラオは人々に重い労働を与えたのです。

 

 そして6節。
 「ファラオはその日、民を追い使う者と下役の者に命じた。『これからは、今までのように彼らにレンガを作るための、わらを与えるな。わらは自分たちで集めさせよ。しかも、今まで彼らが作ってきた同じレンガの数量を課し、減らしてはならない。彼らは怠け者なのだ。だから、自分たちの神に犠牲をささげに行かせてくれなどと叫ぶのだ。この者たちは仕事をきつくすれば偽りの言葉に心を寄せることはなくなるだろう。』」

 このようにエジプトの王ファラオは言いました。エジプトの中で苦しめられている人々、奴隷とされて苦しめられている人々が、脱出しようとして神様を信じ、神様に頼り、神様への礼拝のためにこの国を去らせてください、出かけさせてください、と言ったのですが、その結果は全く反対のこととなり、かえって労働が増えたのです。

 

 そして、自分たちの礼拝に行きたいというその願いは、「彼らは怠け者なのだ」、そういう言い方ではっきりと否定されるのでありました。礼拝することもできない。それが許されない。そして労働だけが増やされていく。

 

 そうしたことが、モーセとアロンが一番最初にファラオのところにお願いに行った、その結果としてこんなことになったのです。

 

 そのあと、本日の礼拝で朗読するには、ちょっと長いので10節以降は朗読しませんでしたが、そこにはファラオがそうして人々を苦しめたことが書いてあります。そして、そのように人々が以前よりも苦しめられたので、モーセとアロンに対して、イスラエルの人たちが抗議をしたことも書いてあります。

 

 あなたたちのおかげで、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった、というのですね。モーセさん、あなたのために、あなたがそんなことをしたがために、もっと労働が増やされて苦しめられてるのですよ、と訴えたのでありました。

 

 それを聞いてモーセは、神様に対して、一体なぜこんなことになってるのですか、神様はどうして救ってくださらないのですか、そういうことを神様に訴えるのでありました。

 

 そのあとに、6章1節の言葉があります。

 「『主はモーセに言われた 今やあなたは、わがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によってファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。』」

 

 これが神様の約束でありました。今日の聖書の箇所は以上であります。皆様はどのようなことを思われたでありましょうか。今日の箇所において、読んでいて心にとまる箇所は皆様それぞれに違っているのだろうと思います。

 わたし自身は、今日の箇所を読んで最初に心にとまった言葉は、8節の言葉です。「彼らは怠け者なのだ。だから、自分たちの神に犠牲をささげに行かせてくれなどと叫ぶのだ。」この、「彼らは怠け者なのだ」という言葉がとても印象に残りました。

 

 それはなぜでしょう。いま私たちは日曜日の午前中、今日、この京北教会で礼拝をしています。礼拝に出席して参加をしています。いま私たちがしていることは何なのでしょうか。わたしたちは怠け者なのです。ファラオから見れば。本当に。

 

 そして、そんな怠け者に対して、怠けることをさせないためには、仕事をきつくするというのが王様のやり方でありました。この者たちは、仕事をきつくすれば偽りの言葉に心を寄せることはなくなるだろうと。

 それは、礼拝をするな、ということではなくて、仕事をきつくすれば、おのずと、もう礼拝することなんかなくなるだろう、偽りの言葉に心寄せることはなくなるだろう。そのように言うのでありました。

 

 権力者というのは、こういう考え方をするのだな、ということがよく分かります。礼拝をする、ということは、現代においては信教の自由ということがありますけれども、それぞれの信仰をすることの自由というのがあります。

 しかし、古代の時代にはそういうことはなかったのだと思います。その国の権力のもとに信仰ということも縛られていました。

 その中にあって、信仰するな、という言い方ではなくて、仕事をきつくすれば偽りの言葉に心を寄せることはなくなるだろう、というときには、現実が厳しくなれば信仰というものはなくなっていくだろう、と権力者は考えるのですね。

 

 本当に厳しい目に会うならば、人々は信仰などというものは捨てるだろう、と権力者は考えるのです。そして労働を厳しくするだけではなく、様々な迫害を行う。実力行使によって人々を苦しめていく。そうしたやり方によって信仰というものがなくなっていくだろうと、ここで抑圧する側の権力者は考えているのであります。

 

 このことは現代の世界、この地球上全体を見渡す時に、同じように当てはまる現実ではないか、と思うのですね。苦しめられることによって、それまで信じてきたことを捨てざるを得ない。捨てさせられていく。

 そんな悲しみ苦しみ、無念さ、というものが世界には満ちています。そうした人々の悲しみ、痛み、苦しみということが、今日の箇所からも伝わってくるのです。

 では、なぜ、こうして抑圧する権力者は礼拝するということを、怠け者のすることだ、というのでありましょうか。

 

 それは、礼拝することの本当の意味を知らないからであります。抑圧する者、抑圧する権力者は、神様を礼拝することの本当の意味を知らないのです。それは辛い仕事から逃げ出して、そして何か自分たちだけで自分たちの傷を舐め合って、自分たちの傷を癒して、何かそこで、どう言うのでしょうか、現実逃避をする。それが礼拝だというふうに、抑圧する側の人たちは思っているのです。

 礼拝などというのはつまらないことだ、と。みんなで集まって何か、むにゃむにゃ言ってる。歌も歌ったり、お話も聞いたりなんかしているよ。でも、それは全部ごまかしなんだと。

 現実が苦しい中で人はそんな夢を見るんだと。だから、礼拝したい、なんて言い出すのだと。そんな怠け者に対しては、もっと労働を厳しくしたら、重荷を重くしたら、そんな礼拝なんてしなくなるのだ、と権力者は思っているのであります

 

 それに対して、わたしたちは一体何を言ったらいいでありましょうか。礼拝の本当の意味を知らない権力者に対して、わたしたちが言うべきことは、次のことです。

 

 礼拝するということは、神の声を聞く、ということなのであります。それは、私たちが集まってお互いに慰め合おうとか、現実が厳しいから、現実を抜け出して、みんなで一緒に抜け出して、ここで慰め合おうと、そうすることが礼拝なのではありません。

 

 神様を信じたら救われるよ、よかったね、幸せだね、と言って、現実逃避の中で、お互い慰め合おう、というのが礼拝ではありません。そうではなくて礼拝というのは、まず神様の声を聞くために行うのです。神様の前に立って神の声を聞く。そこから全てのことが始まる。それが、礼拝する者の信仰であります。

 

 そして、神様の声を聞く、神様の言葉を聞く、その礼拝において、その言葉によって、癒しが起こります。

 それは、新約聖書で言えば、主イエス・キリストが礼拝の中で、体の弱っている人、障がいのある人、病のある人を、礼拝の場において、その人を人々の真ん中に立たせて癒された、そうした神様の力による癒し、ということが礼拝の中で起こります。それは、最も苦しんでいる者が、その礼拝の中にあって神の言葉を聞く、その中で起こるのです。 

 

 そのような礼拝の場というものを、わたしたちはどのようにしたらいいでしょうか。この礼拝というものを守るためには、わたしたちは闘いをしなくてはならないのです。

  それは、礼拝することというのは怠け者のすることだ、と思っている、抑圧する側の人たちに対して、そうではない、礼拝というのは、まず神の声を聞くことである。わたしたちにはそれが一番なのだ、ということを言うことであります。

 

 それは、権力者にとっては驚くべきことでありましょう。世界をも支配するかもしれないエジプトの王、エジプトを支配していたファラオにとっては、自分の言葉こそが、世界を支配する言葉でありました。

 

 それに対して、いや、まずわたしたちは神の声を聞くのだ、と言うならば、それは権力者を脅かす言葉になるので 権力者はそれを許すことがありません。それでも、礼拝する、ということを諦めるのではなく、礼拝することを求め続ける。そのときに神様ご自身が、礼拝する民を救ってくださるのです。

 

 今日の説教の題は「礼拝する民への救い」と題しました。出エジプトの出来事において、礼拝する民を神様は救ってくださいます。そして、それだけではありません。現代という、この時代において生きている今の私たちも、この日本社会の真っ只中で生活をしている、このわたしたち、礼拝する民へ神様が救いを与えてくださるのであります。

 

 今日の聖書の箇所を読みながら、何度か「イスラエル」という言葉が出てきています。それは元々はどこから来てどこに消えていくかも分からないような、小さな人数の部族の人たちでありました。

 

 アブラハムの時代はそうだったのです。その時代に神様が約束をしてくださいました。あなたたちはやがて海辺の砂のように増えていくのだと。その約束をしてくださったのです。

 そして、アブラハム、イサク、ヤコブ、という親・子・孫、そしてヨセフと続いていく、その家において様々な困難を乗り越えて、吹けば飛ぶような小さな、滅びゆくような存在であった人たちがだんだんと人数が増えてきたのです。

 

 その、イスラエルの人たちが担った神様への信仰、それを聖書、旧約聖書が記しております。そしてイエス・キリストが神様から救い主として、旧約聖書の予言の通りに与えられ、そして新約聖書が記され、旧約・新約を合わせて一冊の聖書として、キリスト教会はこの聖書を「神の言葉」として読んでいます。

 

 そのように非常に重要なイスラエルという存在が、いま、毎日のニュースの中で非常に悲しい思いを私たちに与える言葉として出てきています。この世界情勢の中で、今日の聖書の箇所を読む時にも、どこかわたしたちの心に何か影を落としていく。
 

 聖書に書かれていることと、現代の世界のことはどんな風に関連があるのだろうか。それは、何か悲しいことなのだろうか、と思うときに心に影が射すのですね。

 

 しかし出エジプト記の出来事が実際にあったのは、どれぐらいの時期かというと、聖書学者の研究によれば紀元前12世紀頃であったのではないか、という推測があります。

 エジプトの王様の名前とかそういうことを研究してですね、一つの推測でありますけれども、紀元前12世紀頃だったのだろうかと、そういうことを考えると今から3,000年以上前のことになります。

 

 そして、聖書に記されたイスラエルの人たちの本当に大変な歴史というものが、イコールとして現代世界の中にあるイスラエルの国と直接結びついているというわけではありません。もちろん、様々に解釈をすることはできるのでありますけども、聖書の信仰に立つならば、聖書に記されていることを現実の世界の中に、無造作に当てはめて解釈する、ということは大変危険なことであり、それはしてはならないことであります。

 私たちがなすべきことというのは、聖書に記されている言葉の中にある、神様からのメッセージというものを頂いて、そこから世界を見ていく、ということであります。

 

 すると、今日の箇所を読む時に わたしたちはどういう神様からのメッセージをいただくことができるのでありましょうか。今日の箇所には、苦しめられている民が礼拝をする、そのことを願ったときにどんなことが起こったか、ということが記されてあります。礼拝すること、つまり、そのことによって国を脱出する、ということを願って交渉したときに、その結果は、もっと苦しい労働が課せられるということでありました。

 

 そして、そのことをファラオに直談判したモーセは、人々から責められるのです。なんてことをしてくれたのか、と、モーセはやるせなかったでありましょう。どうして、こんなことになるのですか、礼拝しようしたのに。神様のために、わたしたちのために礼拝をしようとしたのに。

 

 それに対して、神様から帰ってきた答えはこういうことでした。

 「今やあなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。」

 

 この出エジプト記の中で、このあとも続いていく物語の中では、イスラエルの人たちをファラオは追い出していくのであります。しかし、それは神様がなされることであった、ということがここで言われているのであります。

 

 ファラオの力によって、ファラオの判断によって、エジプトを脱出するのではなく、神様が働かれることによってファラオがそうするのだと。それは、この厳しい現実の背後に神様がいらっしゃって、人間の目から見ればファラオがしたことのように見えるが、実は神様がなさってくださったことであった、そのように理解をすることができる、そうした現実が、いつかやってくるのだと、その約束であります。

 

 そこには、目の前に見えることというのは重大なことであるのですが、それよりももっと大きなこととして、目に見えないことというのが歴史にはある、ということが言われているのです。

 

 それは言葉の言い方を変えれば、こういうふうに言うことができます。小さな問いではなく、大きな問いを担うこと。それが神様を信仰するものには与えられている、ことなのだということです。

 

 これはどういうことかといいますと、小さな問い、というのは、たとえば現代世界において二つつの地域や国が対立しているときに、「あなたはそのどちらにつきますか」「どちらの味方をしますか」そういう問いがあります。世界の情勢の中で、あなたはどちらの国につきますか。それは、ものすごく苦しい問題ですね。わたしは一体どうしたらいいのか、と分からなくなる問いです。

 

 その問いは、重大な問いなのでありますが、しかし、それは小さな問いなのです。大きな問いというのは、対立している二つのどちらにつくか、ということではなくて、その状況全体がなぜ生まれてきているのか、ということ、その全体を見据えて、私はどう生きるか、今日どう生きるか、ということが、より大きな問いなのであります。

 

 この、大きな問いというものを担うときに、それは、神様が共に担ってくださる問いです。そして、イエス・キリストが共に担ってくださる問いになるのですね。それは、人間の罪、あるいは人類の罪、ということを、あなたはどう担いますか、という問なのですね。

 

 その、最も大きな問いに比べるならば、この世界の中で起こっている、対立している両者のどちらにあなたはつきますか、という問いは、重大な問いであるけれども、しかし、最も大きな問いに比べるならば、それは、より小さな問いであるのです。

 聖書がわたしたちに示してくださっている問い、それは、小さな問を担うことではなく、より大きな問いを担うことであります。

 

 今日の聖書箇所においては、礼拝する民への救い、ということが言われています。イスラエルの人たちは本当にこの出エジプト記の出来事において苦しみを与えられています。そして、現代社会世界の中においては、イスラエルの人たちにも、パレスチナの人たちにも、そして、その取り巻く諸国あるいは世界全体が、そしてまたウクライナでは、ロシアでは、大きな苦しみがあります。

 

 そうした世界の広がりの中で、この日本社会に生きているわたしたちもまた、世界の人たちと共に大きな問いを担っているのです。

 

 その大きな問いは、わたしたち一人ひとりが、たった一人、自分で孤独に背負う問いではなく、世界の皆様と共に背負う問いであり、そして神様と共に担う問であり、イエス様ご自身がわたしたちと共に担ってくださるがゆえに、わたしたちが担っていける問いなのであります。

 その問を担っていくことにおいて、わたしたちは世界に参加します。創世記に記されたような、この世界を神様が作ってくださった、という、その創造の秩序があります。神様がこの世界を作って下さり、そして人間を創造して下さった、それゆえに、この世界は本当は素晴らしいものなのです。神様のもとにあって、みんなが共に生きていくことができる世界、それが神様が作ってくださった世界なのです。

 その世界への憧れを持って今のこの罪に満ちた世界にあっても、神様から与えられた大きな問いを担っていきたいと願うものであります。

 共に礼拝をする民でありましょう。

 

 お祈りをいたします

 天の神様。わたしたちが、本当には担えない重荷を与えられ、レンガを作るような労働を与えられて、苦しめられているこの世界にあって、わたしたちは心から叫び声をあげます。世界中の人間が叫び声をあげます。それを聞いてくださる神様、感謝をいたします。どうかわたしたち一人ひとりを導いて、今日一日、そして今日から始まる新しい一週間を、平和を創り出す者として、イエス様と共に歩ませてください。

 この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。

 アーメン。

 



「共に草を食む」今井牧夫

 2023年11月26日(日)京北教会 収穫感謝礼拝 説教

 聖 書  イザヤ書 11章 1〜10節 (新共同訳)


 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで

 その根からひとつの若枝が育ち

 その上に主の霊がとどまる。

 知恵と識別の礼拝

 思慮と勇気の霊

 主を知り、畏れ敬う霊。

 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。

 目に見えるところによって裁きを行わず

 耳にするところによって弁護することはない。

 弱い人のために正当な裁きを行い

 この地の貧しい人を公平に弁護する。

 その口の鞭を持って地を打ち

 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。

 正義をその腰の帯とし

 真実をその身に帯びる。

 

 狼は小羊と共に宿り

 豹は子山羊とと共に伏す。

 子牛は若獅子と共に育ち

 小さい子供がそれらを導く。

 牛も熊も共に草を食み

 その子らは共に伏し

 獅子も牛も等しく干し草を食らう。

 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ

 幼子は蝮の巣に手を入れる。

 わたしの聖なる山においては

 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。

 水が海を覆っているように

 大地は主を知る知識で満たされる。

 その日が来れば

 エッサイの根は

 すべての民の旗印として立てられ

 国々はそれを求めて集う。

 そのとどまるところは栄光に輝く。

 

 

…………………………………………………………………………………………………………………

 

 (以下、礼拝説教)  

 

 本日、教会の暦で収穫感謝礼拝の日を迎えました。 
 「収穫感謝」という言葉を聞いて、皆様は何を思われるでありましょうか。わたしは収穫感謝という言葉を聞きますと、まず思い起こすのは、わたしが愛媛県で教会の牧師と幼稚園の園長をしていた時代、その教会の幼稚園で園児たちが畑に植えた、サツマイモを収穫し、それ教会の裏庭でたき火をたいて、焼き芋をしていたときのことを思い起こします。

 

 教会の日曜日の午前中の礼拝の間にたき火で焼いて、そして礼拝のわったあと、みんなで行って焼き芋を食べるのでありました。そのときに、本当に秋の恵み、収穫感謝の喜び、ということをみんなで共に味わいました。自然の中にある教会、幼稚園のある教会、そしてサツマイモの畑を貸してくださる農家の方、そうしたいろんな方の協力によってなしていたことでありました。

 

 収穫感謝、ということについては、色々なイメージがあると思います。

 もともと、教会の暦の中に、収穫感謝というものが入ったのは、アメリカの教会において始められたからということであります。その歴史とたどると、アメリカ大陸において新しく入植した人たちと、そして先住民、ネイティブ・アメリカンの人たちが共に収穫の感謝を祝った、そのことにおいて秋の収穫感謝、それは神様からの恵みである、ということをアメリカの教会の人たちが思って礼拝をした。

 

 そういうところから、教会の暦には収穫感謝礼拝というものがある、ということであります。もちろんアメリカでのそうした歴史だけではなく、世界中に収穫感謝という行事があります。日本においても、秋というのは収穫の秋で、たくさんの穀物が取れ、また野菜や果物、色々なその収穫を祝う。

 

 そうした収穫感謝は世界中にある行事、その習わしのお祭りです。収穫感謝のお祭り、日本においてもそうでありました。そういう意味で、教会で収穫感謝を祝う礼拝をしていることは、世界中で行われている、それぞれの地域に根ざした形での、収穫感謝のお祝いの礼拝である、ということが言えるでありましょう。

 

 では私たちにとって、この日本社会の中を生きているわたしたちにとっての、収穫感謝礼拝というのは、どういうものでありましょうか

 

 普段から、家の庭でサツマイモを作っているとか、畑で何かを作っているとか……。そういう風にはっきりと何かの実感をできる形で、自然の恵みというものを感じておられる方もいるかもしれません。その一方で、都会においては、いや、そういう経験はなくってね、という方も多いのでありましょう。

 

 以前、ある教会で収穫感謝の礼拝をするときに、家から野菜を持ち寄って礼拝堂に供えて、感謝の礼拝をするということしていた教会があったのですが、そのときに、昔は土のついたままの野菜を持ってきて供えていたのが、最近はみんなお店で買ってくる、というふうなことを言っている方がいらっしゃいました。

 

 時代の変化というものは大きく、確かに昔は土のついた野菜を並べて、本当に自然の恵みということを実感して感謝していたのでありますが、今はもう、スーパーに行ってパックに入れられた野菜ばかりを買っている、そういうこともあろうかと思います。

 

 そんな中にあって、「収穫感謝」という言葉を見ても、特に何も考えなかったり、何か実感を得ることが特にない、そんな人も多いのではないでしょうか。

 

 その中にあって、今日の聖書箇所は、旧約聖書イザヤ書11章を選ばせていただきました。ここには「平和の王」という小見出しがつけられています。こうした小見出しは、新共同訳聖書が作られたときに、読み手の便宜を図ってつけられたもので、もともとの聖書本文にはこうした小見出しはありません。

 

 今日の箇所には、何が書いてあるのでしょうか。最初に「エッサイ」という言葉が出てきています。これは人の名前です。イスラエルの昔の時代のとても強い王様であったダビデの父親であります。

 

 ですからエッサイの名前は、ダビデを生み出す家系ということを意味していて、イスラエルにおいては、ダビデの家系が大変重要な家系とされていました。

 

 その家系の中から、神様から使わされる救い主がこのように現れる、エッサイの子孫、つまりダビデの子孫から未来に救い主が生まれる、ということを人々は信じていたのであります。

 

 そうした信仰のもとになっている箇所が今日のところであります。1節から読んでいきます。

 「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。」

 

 ここには、文学的な表現、象徴的な表現がされていますけれども、エッサイまたダビデの家系から、一人の人が現れ、その人に主の霊がとどまる、ということが言われているのです。

 

 こうした箇所は、旧約聖書全体の中にある「預言」という言い方で呼ばれるのですが、来たるべき時代に救い主が到来する、そのことが言われているのであり、具体的には主イエス・キリストのお生まれということが、ここで言われていると解釈をすることができます。

 

 このイザヤ書というものは、イザヤという名前の預言者の言葉です。イザヤという人は預言者だったのですが、これを漢字で書く時に、現代では「予言」、つまり将来のことを予想する予想の「予」の字で予言者と書きますが、聖書の預言者は、予想の予という字ではなくて、神様から言葉を預かるという意味で、預金の「預」という字を使い、そういう意味で預言者と表現しています。

 

 つまり、予言者といっても現代で言うような、将来のことを予想する、予知する人、という意味ではなくて、神様から言葉を預かって、その神様から預かった言葉を人々に伝える、そういう存在が聖書の「預言者」という存在なのですね。

 

 ここで、このエッサイという人の名前を出して、イザヤが伝えていることも、神様から預かった言葉を人々に伝えている、ということなのであります。それは、将来に来たるべき救い主が現れる、ということの預言です。

 そして2節以降では、こう言われます。

 「知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。/彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。/目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。/弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。/その口の鞭を持って地を打ち/ 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。/正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。」

 

 ここで描写されているのは、来るべき救い主、この世界を救ってくださる主、というその存在が、どういう人であるか、ということがここで言われているのであります。イスラエルの人たちが長らく待ち望んでいる「救い主」が、どういう人であるか、ということが書かれているのであります。

 それは、神様の霊が留まり、神様の霊に満たされて、そして3節以降にあるように公平な裁きをする人なのです。貧しい人を公平に弁護して助けてくれる。そして、その言葉を持ってこの世界を正しくしていく。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる、そのようにして、この社会の悪というものを正していく。

 

 そうして、世界を神様の御心にかなったものにしていく。そういう人が、この世の救い主、自分たちを救ってくださる主、として、ここで描かれているのであります。

 

 そしてそのあと6節以降には、こうあります。

 「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊とと共に伏す。/子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。/牛も熊も共に草を食み/その子らは共に伏し/獅子も牛も等しく干し草を食らう。/ 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮(まむし)の巣に手を入れる。/わたしの聖なる山においては/ 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。/水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。/その日が来ればエッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。/そのとどまるところは栄光に輝く。」

 

 このように言われています。10節で「その日が来れば」というふうに言われています。それはいつの日のことでしょうか。それは分かりませんけれども、その日が来れば、エッサイの根、この言葉は神様の力ということを象徴していると思われますが、そこから救い主が生まれると言われます。

 

 それが全ての民の旗印として立てられ、とありますから、これはイスラエルの人たちだけではなく、世界の全ての人の旗印となる、そのように言われているのであります。それがいつかは分からないけれども、いつか、神様が導いてくださって、そのもとで世界の全ての民が平和に歩むことができる日が来る。そのことが言われているのです。

 

 そして、今日の箇所の6節以降に書かれている言葉は、大変不思議な言葉です。「狼は小羊と共に宿り、豹(ひょう)は子山羊と共に伏す」、このように書いてある言葉を、皆さんどのように思われるでありましょうか。

 

 狼は、小羊を食べる生き物です。豹は、子山羊を食べる生き物です。それらが共に宿り、共に伏す、とはどういうことでしょうか。「子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」ということは、動物を食べて生きる動物たちと、それに食べられる動物たちが共にいて、小さい子どもがそれらを導く、ということです。

 

 力のない、小さな子供、大人ではない者が、弱い者が、動物たちを導いていく。そこでは、強い動物が弱い動物を支配するのでなく、という、そのような情況が描かれています。

 

 そして7節では、「牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し、獅子も牛も等しく干し草を食らう」と書いてあります。草なんて食べないような動物、少なくとも主食にはしないであろう、その動物たちが、草を共にはみ、共に食べ、その子が共に伏し、獅子も牛も等しく干し草を食らう、そんなことがあるのでしょうか。

 

 「乳飲み子は、毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮(まむし)の巣に手を入れる」、これは最も弱いものが最も恐ろしいもののところに行っても大丈夫である、何の危害も受けない、ということを言っています。

 

 9節ではこう言います。「わたしの聖なる山においては/何者も害を加えず、滅ぼすこともない/水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。」

 

 主、というのは神様のことであります。この世界全体が、神様を知る知識で満たされる。それは水が海を覆っているように、というように、今日の箇所は、大変に文学的な、象徴的な表現によって、とても不思議なことが語られています。

 

 イザヤという預言者が、はるか昔に古代に語った、神様から預かった言葉。これらは何を意味しているのでありましょうか。

 

 聖書学者の研究によりますと、こうした言葉は、イスラエルという国が他の大きな国から侵略され、滅ぼされ、あるいは分裂をし、あるいは虐げられて支配され、そうしたことの続いた時代において、将来に必ず神様が救ってくださる、そうした希望を託した言葉が、今日の聖書箇所である、ということなのであります。

 

 「狼は小羊と共に宿り」という、これは現実にはあり得ないことを言っているのです。こうした言葉は、未来のいつかやってくる。「その日」のこととして言われているのです。

 私たちはこうした言葉を、この現代の日本社会に生きる者として、どんな風に自分の心に受け止めていけば良いのでありましょうか。

 今日は、教会の収穫感謝礼拝の日であります。その中にあって、収穫感謝ということの意味を考えるため、この聖書箇所を選ばせていただきました。

 

この箇所においては、「牛も熊も共に草をはみ」という言葉が出てきています。また、「獅子も牛も等しく干し草を食らう」、これは共に食べるものを一緒にしているということです。

 

 対立している者たち、あるいは、強い者と弱い者、一緒にいることができないはずの者たちが、一緒にいて、共に一緒に食事をしている。美味しい、美味しいと言って、一緒に自分の栄養になるものを一緒に食べている。

 

 これは、ありえないこと、動物の世界ではありえないことです。現実の世界でありえないことが、こうして表現されているところに、収穫の感謝という意味があるのではないか、と私は思うのです。

 

 みんなで作った焼き芋を食べる、そうした楽しい収穫感謝があります。それは現実にあることです。 

しかし一方で、今日の聖書箇所にある、「牛も熊も共に草をはみ」、こんなことは現実にはありえないことです。現実にありえないことが、なぜ聖書で言われているのか。それは、直面している現実があまりにひどく、むごく、残酷で、悲しすぎるからであります。

 

 現実の生活の中にあって、みんなで焼き芋を食べる。みんなでお芋を収穫して食べる。そんな楽しい収穫感謝が世界中にあったのでありますが、戦争が起こるならば、それらは全てできなくなってしまいます。食べ物を奪われ、田畑が荒らされ、人間は殺され、その中で「収穫感謝」ということは現実にはできないことになっていくのです。

 

 その現実の中にあって、必ず神様が、収穫の感謝を私たちにさせてくださる。その恵みを与えてくださる。そのメッセージを語るときに、今日の聖書の言葉のような表現になってくるのですね。

 

 現実にはこんなことあり得ない、と人は思うでしょうけれども、本当にこんな世界が来るのですよ————と言われるときに、わたしたちは、実際に直面している世界の現実がいかにむごいものであったとしても、そこから一旦、目を離し、心を離すことができます。

 

 そうして、神様がくださるこのような様子、聖書に描かれているこのような様子、というものに心を向け、その中に招き入れられ、わたしたちもその世界にあって共に、「平和」という収穫を感謝したいと思うのであります。

 

 収穫とは何でありましょうか。それはいろんな言い方があるんですけれども、今日の聖書箇所から言うならば、それは「平和」ということであります。または「解放」と言ってもいいかもしれません。

 あらゆる危害から解放されて、最も弱い者が何の心配もなく生きていくことができる世界があるのだと、神様は、その世界を用意してくださっているのだと。そのことが、今日の箇所にはメッセージとして示されているのであります。

 

 そして今日は、収穫感謝礼拝の日であるとともに、来週から教会の暦が「待降節」と言って、クリスマスまでの4週間の時期に入る、その1週間手前の時期なのであります。来週から、イエス様のお生まれを待ち望む待降節に入ります。その1週間前に、わたしたちは今日の聖書箇所を読んでいます。

 

 ここにあるのは、「エッサイの株から一つの芽が萌え出」と言われてる、つまりこれは、「ダビデの家系から将来の救い主が生まれる、という古代のイスラエルの人たちの信仰が記されています。いつか自分たちのために、救い主が来てくださる、という信仰を、今日の聖書箇所を読みながら人々は祈り続けてきたのであります。

 

 その祈りを、今日、現代の日本社会に生きているわたしたちもまた、共にしたい、そのように思います。なぜならば、本当に平和を願うこと、本当に救いの主が、この私たちたちが生きている世界に来てくださる、そのことを願っているのは、古代のイスラエルの人たちだけではなく、今の世界中の人たちがそうだからであります。
 

 いま世界の中で起こっていることは、ウクライナで起こっていることも、イスラエルパレスチナで起こっていることも、シリアで起っていることも、またそうした戦争という形は取らなくても、人が人を搾取し、弾圧し、抑圧し、人の命を奪い、生活を奪っていく、その現実が世界に満ちあふれていることです。

 

 日本社会の中に生きている私たちもまた、それと全く関係なしに生きているわけではなく、まさにつながって、その悲しみの中につながって生きています。その悲しみの中で、生きているわたしたちが、教会に行って聖書を読むときに、一体どんなメッセージが与えられるのでありましょうか。

 それは、今日の聖書箇所にある、こういうメッセージなのですね。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。」こんなこと、ありえないじゃないかと、これは童話の世界か何かの、そういう作り話の世界ではないか、とわたしたちが思うことが、聖書の中では、至極まじめに、あたかも本当のことのように語られています。

 

 そして、こうして書いてあることというのは、本当のこととして語らなかったら意味がないのですね。これは作り話なのですよ、などと言う解説をしながら聖書を読むならば、今日の箇所というのは意味がなくなるでしょう。本当にこうなのですよ、神様が導いてくださる世界というものは……。そこにメッセージがあるわけです。

 

 では、狼が小羊と共に宿るんだったら、狼は何を食べて生きるのですか、と聞きたくなります。それに対する答えは、一緒に草をはむのです。そういう、今日の箇所に書いてある答えになってきます。

 

 狼が草を食べるのですか、そんなことありえないではないですか、と思いますけども、今日の箇所を通して、平和というのはこんなふうに、わたしたちが想像もできない仕方でやってくるのだよ、という、そういうメッセージなのですね。

 

 こうやって、平和ということをみんなで収穫する日がやってくるのですよ。それは、人間が想像して作り出す世界ではなく、人間の想像を超えて神様から与えられる世界なのだと。だから、そのためにわたしたちはそのことを信じ、自分の持ち場で働き、祈り、世界の人たちとつながっていく。それが本当に大切なことなんですね。

 

 本日の収穫感謝礼拝において、いま私たちの目の前には、収穫してきたばかりのサツマイモが並んでいるわけではなく、礼拝の後にみんなで焼き芋を食べるというわけでもないけれども、わたしたちはいま、心の中に真の平和というものを、神様から与えられました。心の中で、その平和を収穫として感謝し、その祈りを持って、世界の皆さんと共に歩んでいきたいと願うものであります。

 

 お祈りをいたします。

 神様、今わたしたちが置かれている、この世界の中での状況を思います。何もできないような、わたしたちでありますが、神様から与えられる収穫に、心から感謝することはできます。美味しい食べ物をいただき、生きるための糧をいただき、家族や友人や教会の方や、いろんな方とその恵みを分かち合うことができる幸いを心から感謝をいたします。その恵みが奪われている、世界のあらゆる人々と共に連帯し、わたしたちを平和を創り出す者と成らせてください。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。

 アーメン。