京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2023年7月の説教

2023年7月の説教  

 7月2日(日)、7月9日(日) 、7月16日(日)、
    7月23日(日)、7月30日(日)  礼拝説教

「かつての夢と今の兄弟」

 2023年7月2日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  創世記 42章 1〜13節 (新共同訳)


  ヤコブは、エジプトに穀物があると知って、

  息子たちに、『どうしてお前たちは顔を見合わせてばかりいるのだ』と言い、

  更に、『聞くところでは、エジプトには穀物があるというではないか。

  エジプトへ下って行って穀物を買ってきなさい。

  そうすれば、我々は死なずに生き延びることができるのではないか』と言った。

  そこでヨセフの十人の兄たちは、エジプトから穀物を買うために下って行った。

  ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄たちに同行させなかった。

  何か不幸なことが彼の身に起こるといけないと思ったからであった。

  イスラエルの息子たちは、他の人々に混じって穀物を買いに出かけた。

  カナン地方にも飢饉(ききん)が襲っていたからである。

  ところで、ヨセフはエジプトの司政者として、

  国民に穀物を販売する監督をしていた。

  ヨセフの兄たちは来て、地面にひれ伏し、ヨセフを拝した。

 

  ヨセフは一目で兄たちと気づいたが、そしらぬ振りをして厳しい口調で、

  「お前たちは、どこからやって来たのか」と問いかけた。 
  彼らは答えた。「食糧を買うために、カナン地方からやって参りました。」

  

  ヨセフは兄たちだと気づいていたが、兄たちはヨセフとは気づかなかった。

  ヨセフは、そのとき、かつて兄たちについて見た夢を思い起こした。

 ヨセフは彼らに言った。
 「お前たちは回し者だ。この国の手薄な所を探りに来たに違いない。」


 彼らは答えた。
 「いいえ、御主人様。僕どもは食糧を買いに来ただけでございます。

  わたしどもは皆、ある男の息子で、正直な人間でございます。

  僕どもは決して回し者などではありません。」


 しかしヨセフが、

 「いや、お前たちはこの国の手薄な所を探りに来たに違いない」と言うと、

 彼らは答えた。
 「僕どもは、本当に十二人兄弟で、

  カナン地方に住むある男の息子たちでございます。

  末の弟は、今、父のもとにおりますが、もう一人は失いました。」

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、

  改行などの文章配置を説教者が変えています。
 新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 5月28日のペンテコステ聖霊降臨日の礼拝のときから続けて、新約聖書使徒言行録を抜粋して読んできました。その以前は、福音書、次に使徒パウロの手紙、そして旧約聖書、この三箇所を順番に毎週読む形でした。今日から、その形に戻してまいります。

 そのことにより、今日は久しぶりに旧約聖書です。創世記42章です。今日の箇所には「エジプトへ下る」と言う小見出しがつけられています。こうした小見出しはもともとの聖書にはなく、新共同訳聖書が作られた時に読み手の便宜を図ってつけられたものであります。今日の箇所は、創世記の後半に長く続いている「ヨセフ物語」と呼ばれている物語の一部であります。

 

 この「ヨセフ物語」は、大変長い物語であって、今日の箇所はその途中のほんの一部分を切り出して読む形になりました。

 創世記の中には様々な物語が納められています。最も有名なのは、天地創造・人間創造の物語であります。旧約聖書というもの自体が、そこから始まっています。そしてその天地創造・人間創造から始まって、最初の世界というものが神様によって造られ、そこに人間というものがこの世に生きるようになっていったのです。

 しかし、アダムとエバの話にあるように、人間は神様に対して罪を犯して、神様から与えられた自由というものを活かすことができず、神様の言葉に背いて罪を犯して神様の前から追放された。そのため、この世界にあって人間は苦労して生きることになった。そのようなことが、創世記の冒頭に神話の物語の形で記されてあります。

 そうした物語は古くから語り伝えられた物語であって、現実に起きた事実、また科学的な意味での事実とは違います。聖書の物語はそういう事実や科学と一体ではありません。聖書は、事実や科学を人に伝えるために書かれたのではなく、信仰を伝えるために書かれたものであります。

 そして、その天地創造・人間創造の物語から始まって以降、バベルの塔の物語があり、ノアの方舟の物語があり、そこで一度出来ていた世界というものが、ほぼ滅亡します。そしてその後にもう一度、ノアの一族が元になって人類と言うものが世界に広がっていくようになっていきます。

 創世記の物語は、そのように非常に壮大な形で人類の始まりということを示しています。そしてその人類の中に、吹けば飛ぶような小さな部族がありました。それはアブラハムという人の部族でした。どこから来てどこへ行くかもわからない、旅人のような小さな部族。それがアブラハムの部族でありました。神様は、その吹けば飛ぶような小さな弱い人たちである、アブラハムの部族を選んで神様の言葉を担う人たちとされました。

 

 そのアブラハムという人の息子がイサク、そのまた息子がヤコブ、という形で物語が続いていきます。このアブラハム、イサク、ヤコブというこ3代は、非常に重要な人たちとして旧約聖書に記されています。

 そのヤコブの息子が12人いて、そのうちの1人がヨセフであります。この12人の息子たちの関係というのは大変な問題がありまして、ヨセフという末っ子が他の兄弟たちよりも、何と言いますか、まあ神様に選ばれた賢い人であったと言ってよいでしょうか。そのことが、ヨセフが子どもの時から示されていたので、兄たちがヨセフに対して腹を立てて、ヨセフを外国に売り飛ばしてしまった、という大変な出来事が起こります。

 その後ヨセフは売り飛ばされた先にあって、神様の計らいによって助かり、そして奴隷とされていた中で、夢を解き明かす力というものを神様から与えられて、その力を発揮することによって徐々に国の中で立てられて王に仕える者となりました。王の次にいる立場、今で言えば首相のような立場ということでありますから大出世であります。

 そのようにヨセフがなっていたときに、あろうことに、このヨセフを売り飛ばした兄弟たちが、お父さんのヤコブから遣わされてエジプトにやってきたのです。それは、故郷において飢饉が起こり食べるものがなくなったというのです。

 こうして、エジプトで大出世をしていたヨセフのところに、それをヨセフとは気づかないで食料のことをお願いするために、かつての兄弟たちがやってきた、というのが今日の場面なのであります。

 こうして創世記の物語は、最初の天地創造・人間創造の物語などの、神話的な物語から始まって、だんだんと神話というよりも伝承、伝説、物語、何といいますか、だんだんと歴史に近い話になってくるわけです。

 もちろん歴史に近づくといっても、書かれている通りのことが本当に起こったというのではなく、信仰というものを伝えるために書かれているのですが、今日の箇所もそのようなところであります。

 では、今日の聖書箇所には、何が書かれているのでしょうか。1節から見ていきます。

 「ヤコブは、エジプトに穀物があると知って、息子たちに、『どうしてお前たちは顔を見合わせてばかりいるのだ』と言い、更に、『聞くところでは、エジプトには穀物があるというではないか。 エジプトへ下って行って穀物を買ってきなさい。そうすれば、我々は死なずに生き延びることができるのではないか』と言った。

 

 そこでヨセフの十人の兄たちは、エジプトから穀物を買うために下って行った。ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄たちに同行させなかった。何か不幸なことが彼の身に起こるといけないと思ったからであった。」

 

 このヤコブという人が、お父さんです。そしてその息子たち、10人の兄たちは、エジプトから食物を買うために行ったとあります。

 

 それから、もう1人、ヨセフの弟であるベニヤミンでありますが、このベニヤミンは父ヤコブから非常に愛されていました。ヨセフが兄たちに売り飛ばされていなくなってしまったために、このベニヤミンを父ヤコブは溺愛するようになっていたのです。そのためにヤコブは、ベニヤミンを兄たちに同行させなかった、というのであります。

 こうしてみると、このヤコブの息子たち、この家族の関係というのは大変微妙なものがあったということがわかります。ヨセフを売り飛ばした兄たちは、そのことを父ヤコブに言っていません。そしてヨセフの弟ベニヤミンは父ヤコブに溺愛されています。

 

 そしてヨセフの兄たちはエジプトに下ってきました。

 「イスラエル(父ヤコブの別名)の息子たちは、他の人々に混じって穀物を買いに出かけた。カナン地方にも飢饉(ききん)が襲っていたからである。ところで、ヨセフはエジプトの司政者として、国民に穀物を販売する監督をしていた。

 

 ヨセフの兄たちは来て、地面にひれ伏し、ヨセフを拝した。ヨセフは一目で兄たちと気づいたが、そしらぬ振りをして厳しい口調で、『お前たちは、どこからやって来たのか』と問いかけた。彼らは答えた。『食糧を買うために、カナン地方からやって参りました。』ヨセフは兄たちだと気づいていたが、兄たちはヨセフとは気づかなかった。」

 

 このときヨセフは、自分のところにやってきた10人の兄弟を、一目で見て兄たちだと気づいたとあります。自分を商人に売り渡した兄たちだ、と言うことに気づいたのであります。しかしヨセフは兄たちに対してそ知らぬふりをしています。

 

 「ヨセフは、そのとき、かつて兄たちについて見た夢を思い起こした。」

 ヨセフは兄たちに気づいていましたが、兄たちはヨセフに気づかなかったのです。そして、ヨセフはそのとき、「かつて兄たちについて見た夢を思い起こした」と書いてあります。この、ヨセフがかつて見た夢というのは、創世記37章にあります。まだ、ヨセフも兄たちもみんな子どもだったころの話です。

 ヨセフが言いました。「聞いてください。私が畑で束を言われていると、いきなり私の束が立ち上がったのです。すると兄さんたちの束が周りに集まってきて、私の束にひれ伏しました。兄たちはヨセフに、何、お前が我々の王になるのか。お前が我々を支配するのか」と、兄たちは夢の言葉のためにヨセフをますます憎むようになった、とあります。こんなことがあったのですね。

 そしてまた、ヨセフはこんな夢も見ました。「私はまた夢を見ました。太陽と月と十一の星が私にひれ伏したのです。今度は兄たちだけではなく父ヤコブも怒って言いました。一体どういうことか、私も母さんお兄さんたちもお前の前にひれ伏すとは。

 こうした出来事があって、無邪気にヨセフは自分が見た夢を語ったところ、それが家族を本当に怒らせたわけですね。こういうところがあるヨセフというのは、許せない、こんな人間はダメだ、こんなヨセフはダメだ、と考えて兄弟たちはヨセフをわなにかけて落とし穴に入れて、そして奴隷商人に売り渡したのであります。

 このとき、ヨセフの命を奪うスレスレのところまで行っていました。その兄弟たちと、こんな形で再会するとは思っていなかったでありましょう。それはヨセフの兄弟たちもまた思っていなかったでありましょう。

 こんな、ありえない事が本当に起こった、というときにヨセフはすぐに自分が気がついたということを、その場では全く言いませんでした。そしてヨセフは言いました。

 

「ヨセフは彼らに言った。『お前たちは回し者だ。この国の手薄な所を探りに来たに違いない。』彼らは答えた。『いいえ、御主人様。僕どもは食糧を買いに来ただけでございます。わたしどもは皆、ある男の息子で、正直な人間でございます。僕どもは決して回し者などではありません。』」

 

 ここで兄弟たちは、とても低姿勢でヨセフと話をします。それはそうです。自分たちは食物がないのです。ここで自分たちが敵の回し者だと思われたら困ります。とにかく、自分たちは正直な人間でございます、と言います。

 しかしヨセフは、いや、お前たちはこの国の手薄なところを探りに来たに違いない、と言います。このように繰り返し述べているヨセフは、このとき、兄弟たちに対して、厳しくといいますか、何と言いますか、正直、とても意地悪なことを言っていると考えてよいと思うのです。

 この10人の兄弟たちが言うことを、素直に聞いて、そうか、食べるものがないのか、じゃぁ分けてあげましょう、というのではなく、そう簡単にお前たちに与えないぞ。そういうふうな思いが、ここにあると思うのですね。


 「しかしヨセフが、『いや、お前たちはこの国の手薄な所を探りに来たに違いない』と言うと、彼らは答えた。『僕(しもべ)どもは、本当に十二人兄弟で、カナン地方に住むある男の息子たちでございます。末の弟は、今、父のもとにおりますが、もう一人は失いました。』」

 兄弟たちは、ここでヨセフに対してこのように答えたのでありました。今日の礼拝で今日の礼拝で読む聖書の箇所はここで限らせていただきました。この後も物語は続いていきます。皆さんはそれぞれに読んでいただきたいと思うのですが、この兄弟たちの最後の言葉は、ヨセフにとってものすごく響いたと思います。

 

 自分たちは本当に12人兄弟なんだと。そして家に住む父ヤコブの息子で兄弟の末っ子の、ヨセフの弟ベニヤミンは父のもとにおりますが、「もう1人は失いました」と言うとき、まさにこの兄弟たちは正直に語っています。

 

 自分たちは本当は12人の兄弟だったのだと。だが、もう1人を失いましたと。その失った1人というのが今、兄弟たちの目の前にいるヨセフであります。このときに、本当にヨセフがどう思ったのか、という事は聖書には書かれていません。

 これは聖書を読むときに面白く感じることでもありますが、このときにこの人が何を思ったかっていう事が書かれていないこどか多いのです。そうした心理描写というもの、現代の私たちが小説を読むときであれば気になる、心理描写というものがここには何一つ書かれていないのであります。それは読む人が自分の中で想像して、あるいは感情移入して、自分で考えることであります。

 

 皆さんであれば、こういうセリフを目の前で言われたならば、どういうことを思うでしょうか。「1人は失いました」と言ったときに、ヨセフはこの兄弟たちに対して何を思うでしょうか。

 「それはお前たちがやったことでは無いのか!」と叫びたくなるかもしれません。あるいは、よくそんなこと言えたものだ、と怒ることもできます。また、ヨセフが兄弟の中から失われたことなんて、兄弟たちはそのことを隠そうと思えばいくらでも隠せるのに、この場で正直に言っているのは、ちょっと感心したりすることもできるかもしれません。それはいろいろでありましょう。

 今日の聖書箇所はここで区切らせていただきました。今日の箇所を、私たちは礼拝の中で読んでいます。この礼拝の中で聖書を読んでいる皆様は、この聖書の言葉を通して神様からどのようなメッセージを受け止められるでありましょうか。

 ここにはイエスキリストは出てきていません。時代がはるかに隔たっているからです。イエス・キリストは出てきていません。代わりに、ヨセフやヨセフの兄弟たちが出てきています。

 ここから何を読み取ったら良いのでしょうか。この兄弟たちの話、そこにある人間関係の面白さや辛さ、そんなことを思うこともできます。いろいろに考えることもできます。今日の箇所からいろんなことを学ぶことができるのであります。

 けれども私自身が、今日の箇所を読んで心にとまったのは9節です。ここでヨセフは、その時兄たちについて見た夢のことを思い起こした、とあります。少年の時に見た夢、その夢がきっかけとなって兄たちから憎まれて自分が売り払われてしまうことになった。あのとき無邪気に、子どもの時の自分が見た夢、そのことを家族に言ったことが結果として皆を怒らせた。

 

 それが辛く苦しい思い出でありますけれども、あの夢を見たとき、自分の見た夢と言うのは自分の周りに兄弟たちが来て、ひれ伏すという夢だった。それはヨセフが兄弟やほかの姉妹たちよりも偉くなる、という意味ではなく、子どものときのあの夢が今目の前で本当に実現してるじゃないか、と思うのです。

 

 それは、兄弟たちは、「私たちは正直なもので回し者ではありません」と言って平身低頭して頭を下げて、ヨセフの前にやってきたのです。まさに、本当にあの夢の通りになったのです。

 すると子どものときにヨセフが見た夢と言うのは、ヨセフのほうが他の兄弟よりも偉いんだ、と言うような何か傲慢な思い上がった気持ち、そういうことを表している夢ではなくて、まさに時代がずっと経っていったのちに、お兄さんたちの方からお願いをしてきて、ヨセフに対して助けてください、と願うようになった、まさにそういうことを示している夢だと言うことができる。

 

 このとき初めてヨセフにはわかったのです。夢というものは、こういうものだと。

 このことが今日の箇所から学べることなのです。私たち一人一人は、日本社会の中に生きていて、また、この世界の中に生きていてどんな夢を持っているでしょうか。あるいはかつてどんな夢を見たでしょうか。

 

 それは寝ていて見たというような、本当の夢、本当のと言っても何が本当の夢かは分かりませんが、自分にとっての希望として、「こうありたい」というような自分自身の思いを描くような夢、そういういろんなことがありますけれども、皆さんはかつて見た夢というものは、どんなものだったでしょうか。

 夢というものが、人生の中で果たす役割はどんなものがあったでしょうか。おそらく、多くの人は夢なんて「忘れてしまいました」と言うのではないかと思います。私自身がそうだからです。夢なんて、そんなことありましたっけ? 本当に忘れてしまっています。

 

 また、夢というのは、ちょっと照れることもありますね。この年になって夢なんてなぁ、と思うのです。しかしどうだったんでしょう。私たちが教会に来ていて、昔思っていた夢ってあるんじゃないでしょうか。

 教会ってどんなところなんだろうか。聖書って何が書いてあるんだろうか。イエス・キリストってどんな方なんだろうか。神様を信じるって、どんなことなんだろうか。そんなことを思ったことがありませんか。それはもしかしたら、夢という言葉で表現するものではなくて、たとえば「疑問」とか何とか言ったら良いのでしょうか。あるいは、「もそもそした思い」とか何か、そういうものかもしれません。


  皆さんは、心のどこかで、神様って何だろう。それって、こういうことなのかな、神様を信じるってこういうことなのかな、と思って、もしそうなんだったら、私も信じてみよう、とか、信じたいとか私も将来こんな風に生きていきたいなぁ、とかそんなことを、聖書を読みながら教会でいろんな人の話を聞きながら思う、そういう経験は無いでしょうか。

 そんな経験、それ自体を忘れているという人も多いかもしれません。忘れているのは、かつて見た夢、それを恥ずかしく思うからです。あんな夢を見ていたけど恥ずかしいなぁと思うからです。

 子どものときの夢ってのは恥ずかしいものですけれども、何十年も経った後に、ハッと思い出すときに、ハッと教えられると言いますか、現実の中で自分がかつて見た夢は子供っぽいものだと思っていたけども、しかし何十年も経った時には、いや、あのとき思っていたことは、今の自分のことじゃないのか。あのときはわからなかった神様のメッセージを、いま私は聖書の言葉を通して改めて新しく聞いてるのじゃないか。そういうことがほんとにあるんですね。

 

 今日の聖書の箇所は、まさにそういう箇所、そういうことを私たちに教えている箇所だと思うのです。今日の箇所は、かつて兄弟たちに売り飛ばされたヨセフが、王の次の立場の首相になり、そのヨセフのところにかつてヨセフを売り飛ばした兄弟たちが、平身低頭してやってきた。

 このときに弱い者の立場からすれば、ここでヨセフが兄たちを怒れば、溜飲を下げるようなそういう場面でもあります。けれども、私は何かそういう人間的な思いだけで、この物語を読まなくてよいと思います。

 

 私たちにここで聖書が示そうとしていることは、本当に命を奪われるかもしれない、ギリギリのような辛い経験、忘れてしまいたい辛い経験というものと重なる、かつて見た夢というものが、いつか生きる、ということです。そのことにおいて私たちは新しく生かされていく、ということを聖書から知ることができるのですね。

 

 そして今日の箇所のあとで、ヨセフと兄弟たちは、これからどうなるのかという事は、皆さんに読んでいただきたいですし、また礼拝の時にご一緒に読むことになります。今日の箇所のあとにおいて、兄たちとヨセフはまた出会うことになります。

 

 それは、はるか古代の人たちの物語のことではありません。それは現代の私たちが、神様と再び出会うこと、そして自分の罪と言うことを知らされて、悔い改めて神様と和解する。そういう現代の私たちの物語とつながっていくと思うのです。

 兄たちは、かつて自分たちがしたことの意味というものの意味を分かりません。しかし、そのことの意味を心から知って、本当に悔い改める時がやってきます。それは、ヨセフが偉かったからではありません。神様がそのように導いてくださったからであります。

 

 今日の私たちも夢というものがあり、そして人との和解というものがあり、神様との和解と言うものがあるのです。そのことを知って、今日から始まる1週間を、新しい思いで歩んでまいりましょう。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様。いつも日々導いてくださりありがとうございます。聖書の言葉に支えられて一人ひとりが健やかに楽しく心豊かに、そしていろんな人たちと一緒に生きていくことができますように。誰もが自分の生きる場において、神様の導きのもとで進んでいくことができますように、助けてください。この祈りを感謝して、主イエス・キリストの御名を通して御前におささげいたします。アーメン。

 

 

 

「捨て石は神のわざ」
    2023年7月9日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  マルコによる福音書 12章 1〜12節 (新共同訳)


 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。
 「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、

  見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。

 

  収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、

  僕を農夫たちのところへ送った。

 

  だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋叩きにし、何も持たせないで帰した。

  そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。

  更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。

  そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。

 

  まだ一人、愛する息子がいた。

  『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。

 

  農夫たちは話し合った。

  『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。
           そうすれば、相続財産は我々のものになる。』

  そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。

 

  さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。

  戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない。

 

  聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。
 『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。

  これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」

 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、
 イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。
 それで、イエスをその場に残して立ち去った。

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
  改行などの文章配置を説教者が変えています。
     新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 「捨て石は神のわざ」と題して礼拝説教をいたします。

 現在、毎週の礼拝で福音書使徒パウロの手紙、旧約聖書、その3カ所を順番に読む形に戻しています。本日の聖書箇所はマルコによる福音書の12章です ここには「ぶどう園と農夫のたとえ」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは、新共同訳聖書が作られた時に読み手の便宜を図って付けられたものであり、元々の聖書にはこうした小見出しはありません。

 今日の箇所には何が書いてあるのでしょうか。イエス様のたとえ話がまず言われています。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを建て、これを農夫たちに貸して旅に出た。」

 ある地主の人の話として始まります。搾り場を掘り、と書いてありますから、これはぶどうを育てて最終的にはぶどう酒を造る、そのためのぶどう園であったことが分かります。そこで、外からやってきてぶどうを盗もうとする人を防ぐための、見張りのやぐらを建てていました。また他の土地との境界線を巡って垣も巡らしていた。このようにぶどう園を作って、これを農夫たちに貸して旅に出た、とあります。

 そして収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るためにしもべを送ったとあります。なぜ自分で来なかったのか、というような理由は一つも書いてありません。しかし、このようなことができるのであれば、この地主という人は裕福な人だったろうと思いますし、自分は何一つ労働もしないで旅に出ていたというのですから、ずいぶん気楽なものだ、気楽なお金持ちだというふうに、皮肉な言い方もできるでありましょう。

 

 収穫の時になったので、その収穫を受け取るために、これはぶどう酒を作って売ったお金を受け取る、という意味であったかもしれません。そのためにしもべを送った。しかし、農夫たちはこのしもべを捕まえて袋叩きにして、何も持たせないで返したとあります。「そこでまたもう一人のしもべを送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。さらにもう一人を送ったが、今度は殺した。またある者は殴られ、ある者は殺された」とあります。ずいぶんと大変な話になってきています。

 

  「まだ一人、愛する息子がいた。『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ殺してしまおう。そうすれば相続財産は我々のものになる。』 そして息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外に放り出してしまった。さて、このぶどう園の主人はどうするんだろうか。」

  ここで「どうするだろうか」とイエス様から尋ねられたあとで、今日の聖書箇所では、そのすぐあとに答えがあるのですが、もし、この「どうするだろうか」と尋ねるところで、今日の箇所が区切られていたら、皆さんは何を思われたでありましょうか。

  こんなぶどう園、こんな恐ろしいぶどう園、こんなことになってしまって、ここに出てくるぶどう園の主人は「どうするだろうか」と聞かれたときに、私たちは正直、戸惑うと思うのです。というのは、聖書に書いてある話というのは、心優しい神様のお話でありますから、その神様のことを表しているはずのたとえ話で、こんな恐ろしいことが聞かれた時には、何と答えたらいいのだろうかと、私たちは一瞬戸惑い、困ると思うのですね。

 

  え、もしかしたら、この農夫たちを「許す」とでも言うのだろうか。とはいえ……というようなことを、ちょっと本当に考え込んでしまうのではないかと思います。しかし、今日の箇所においては、イエス様はご自身がすぐに答えを言われます。

 

 「さて、このぶどう園の主人はどうするだろうか。戻ってきて農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるに違いない。」これがイエス様の答えです。この答えを聞いて、また私たちはドキッとします。そんなものなのか、と。もう、これは何と言いますか、怒りが爆発した人の復讐そのままの気持ちでありましょう。

 この大変な話を、ここで私たちは読んでしまったわけです。その後、イエス様がこう言われます。「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか 家を建てるもの捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える。」

 

  これは 旧約聖書詩篇 118編にある言葉の引用であります。家を建てる者の捨てた石、それはこれは役に立たないといって捨てられた石が、実は、隅の親石となった。これは、ちょっと不思議な表現であると思いますけども、これはいらないだろう、中心の石ではないだろう、と思って放った石が、実は隅っこの親石となって家を支えている。「これは、主がなさったことで 私たちの目には不思議に見える。」私たちの目から見るとなぜそうなるのか、わからないけれども神様がそうなさった、という、そういう言葉ですね。

 

 そして、その次に、このイエス様のお話を聞いた人々は、どうしたかが書いてあります

 「彼らはイエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスをとらえようとしたが群衆を恐れた。それでイエスをその場に残して立ち去った。」

  ここでイエス様が話かけていた人たちは、ここで「彼ら」と書いてありますけども、この人たちは、その後の13節以降を見ると、この人たちは当時の宗教的な権力者層の人たちである長老、律法学者、祭司長、そうした人たちであったと考えられます。

 

 そうした人たちに対して、当てつけとしてイエス様はこの話をされました。権力者の人たちは、その当てつけに気がついたので、イエス様を捕らえようと考えましたが、群衆がイエス様の話を喜んで聞いていたので、群衆を恐れた、そこでイエスをその場に残して立ち去った、とあります。

  こうした事柄が、後に人々がイエス様をとらえて十字架につけ、偽りの裁判によって、偽りの 有罪として、イエス様の命を奪うということにつながっていくのでありますが、今日の話もそこに至る道筋の一つです。今日のこのような箇所を読まれて、皆さんは何を思われるでありましょうか。

 

 ここでイエス様がおっしゃってるお話は、神様の御心ということであります。そして、ここで言われているのは、イエス様ご自身が、人々から捨てられて命を奪われる、つまり十字架で死ぬ、しかし、その十字架で死なれたイエス・キリストが、隅の親石となる。この世界にあって、人からは捨てられた石として、しかし、それが隅っこにあって全体を支える親石となる。

 

 イエス様というのは、そういう方であった。そういう方であるイエス様の、十字架と復活の生涯ということが、神様の御心、まさに親石であるのだと。その神様の御心が、世界の隅っこから全体を支えているのだと。そのことを、イエス様はここで、この話を通して私たちに教えてくださっているのであります。

 旧約聖書詩編に記された言葉が、本当にイエスキリストの十字架の死、そして復活、そして 神の御心による救い、そういうことによって実現していくのだ、ということであります。

 そして、そのことを私たちに伝えるために、前半のぶどう園のたとえ話があります。このぶどう園の話はひどい話です。けれども、これはあくまでたとえとしてイエス様はおっしゃっています。とてもひどい話ですが、これはたとえです。

 

 この「ぶどう畑」とは何を意味しているのでしょうか。それは神様が造って下さった、この世界です。この世界というのは、私たち人間が生きるために、いろいろなものが整えられています。たとえば自然というものがそうです。この自然の中で働いて、自らの食べ物を得て、みんなで生きていく。そのための世界を神様が作ってくださった。

 

  しかしこの世界で作られた収穫、その恵みというものを、人間たちはこれは神様から頂いたものだと考えるのではなくて、自分たちのものだと考えるようになってしまったのです。そのために、神様が人間たちに対して使いを送ってきた時に、しもべを送ってきた時に、人間たちはそのしもべの語る言葉の意味を理解せずに、そのしもべを侮辱して、袋叩きにして、何も持たせないで返した。また、他のしもべを送ったが、今度はその頭を殴り、侮辱した。

 

 読んでいて何だか気持ちが悪くなるような、血生臭い話ですが、それは今でも歴史の中でたくさんの預言者と呼ばれる人たちが、神様から遣わされてきたけども、その預言者たちの語る言葉を人々は聞かないで、追い返したり殺したり、迫害したり命を奪ったりしてきた、ということを、たとえとしておっしゃってるのであります。

 

  ここで出てくる預言者の預言とは、漢字で書くと預金の預という字、「預ける」という漢字で書きます。これは、将来のことを言い当てるという意味での「予言」、つまり未来の予知能力というような意味ではなくて、神様の御心を「預かって」語る人というのが、この預言者ということの意味です。

  神様が創造された人間たちの世界が、結果として罪深い世界となり、人間が人間を殺し、人間が人間を支配していく、本当にひどい世界になっていく、まさに罪に満ちた世界になっていくことを神様は悲しまれて、その時代ごとに預言者を遣わしてくださいました。

 

 しかし、その預言者の言葉を聞かないで人間たちは、この世界は俺たちのものだ、自分たちのものだと言って、自分たちが神の代わりとなって世界を治めようとしてきた。その人間の罪深さ というものが、このぶどう園の話にたとえられているのです。

 ここで神様は、ついに自分の愛する息子を送ります。それは、さすがに自分の息子だったらきっと敬ってくれるだろう、と思って最後まで農夫たちを信頼して、息子を遣わしたのです。

 しかし、農夫たちはどうしたか。息子を見て、これは跡取り息子だから、これを殺したら、この農地全体が自分のものになる、と言って殺してしまった。そして、ぶどう園の外に放り出したのです。これでは、もはや、この葡萄園の持ち主はここに入ってくることができないはずだと、農夫たちは思ったのでしょう。

 こんな農夫たちをぶどう園の主人はどうするでしょうか。いま、この物語の言葉は聖書の言葉だと思って読んでる私たちは、ここで一体何と言ったらよいのか、何を考えたらよいのか、と思って困惑し、言葉が出てこないような気になるかもしれませんが、イエス様の答えは明確です。

 「戻ってきて農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるに違いない」とあります。信頼して預けていた農夫たちに、お前たちはもうだめだ、このぶどう園は別の人たちに与えると。このように大変恐ろしいことが起こります。

 これは、あくまでたとえ話である、といってもこうしたたとえ話の背景には、実際にこういうことがあったから、このたとえは意味を持つのでしょう。つまり、このイエス様の話を聞いていた当時の人たちは、ああ、こういうことが実際にあったよな、と思ってるからこそ、この話を聞くのです。

  私は、この話を読みながら思い出したのですけれども、現代の話ですが、これはあるビジネスマンが書いた本を読んでいた時のことです。外国であるテレビ番組の関係の仕事をしていて、日本のテレビ番組の技術を使って番組を作ってその国で放映する、その仕事を始めた時に、途中まではうまくいったんだけども、途中で現地の人たちと契約がうまくできなくなって、結局その人たちが、この番組を作ったのは自分たちだから、権利は自分たちにある、と言って対立をするようになってしまって、結局その外国に作った会社がダメになってしまった、そういうエピソードを私は読んだことがあるのです。

 

  もちろん、そうしたことが起こる時には、その国にはその国のやり方があって、とか、その当事者には当事者の言い分があって、ということがあるので、必ずしもどちらがいいとか悪いとかは第三者は言いにくいものでありますけれども、しかし私がその本を読んだ時には、これはひどい話だなと思ったのです。

 

 ひどい話だな、と思いながら、しかし一方では、そこで働いていた現地の人たちにとっては、これを作ったのは自分たちなんだから、これは自分たちのものだ、というところには何か正直な思いがあるのかもしれないとも思います。しかし、だからといって法律的なものやビジネスの方法を無視して、そんな理屈を振りかざすのは、やっぱりおかしいんじゃないか。そんなことをいろいろ思ったことを思い起こします。

 今日の箇所の、このぶどう園の話も、現代にもこんなことがあるんだと思った時には、何かすごく複雑な思いになってきます。この箇所では、資本と労働者の関係がどうであるかという風な労働問題として語っているのではなくて ごくごく単純に、どういう経緯があったとしても、元々は自分たちのものではないものを、自分たちのものであると錯覚をして、自分たちが主人だと言って我が物顔に振る舞っていく時に、最後はどうなるのか、ということについての非常に恐ろしい結末を言ってる話なのですね。

 

  そして、これは世の中のどこかに、こんな悪い人たちがいるよ、だから気をつけましょう、というような話ではなくて、神様と人間の関係のたとえ話として言われてることなのですね。

 

 神様は私たちに、生きるための方法を与えてくださいます。ぶどう園を作り、搾り場を作り、垣を巡らし、見張りのやぐらまで立てて下さいます。神様が皆さんに与える、この世界をしっかり守りなさい、そして、この中でしっかり働いて収穫をしてください、そうしたら必ずあなたたちにもたくさんの幸せが与えられますと示してくださいました。

 

 しかし、神様は信頼して農夫たちに任せたのに、こんなぶどう畑のようになってしまった。それは、まさにこの世界に生きてる私たち人間が、神様からいただいたこの世界を、これは預かってるものだということを考えないで、自分たちのものだと錯覚をしたところから、こんなおかしなことになっていく。その最後は、みんな神様によって滅ぼされるんだよと。そして、あなたたちじゃない人に、この地球を渡すんだよと、そんなふうに受け取ってもいいですね。

  あなたたち人間は、自分たちがこの世界を支配する唯一の存在だと思ってる。でも、それは誤解なんだ。錯覚なんだ。そう神様は私たちに伝えているのです。では、人間がみんな滅びたらどうなるんでしょうか。動物たちがいるじゃないですか。動物が、植物がいるじゃないですか。人間がみんな滅んだ後に、そうした神様に造られた動物や植物、魚や鳥、いろんな生き物がこの世界を満たしたら、それが一番御心にかなっていることかもしれません。もちろんこれは極端な言い方ですけれども。

 

 私たち人間は、この世界にあって決して、自分たちが支配する主人であると錯覚をしてはならないのです。神様が私たちに対して遣わしてくださる預言者、そして神様の独り子である救い主イエス・キリストを、私たちが受け止めて、自分たちの罪を悔い改めていく。そこにこそ、本当の未来があるのです。

  でも、そのようには思わない、思えなかった私たち人間は、繰り返し繰り返し神様の恵みを否定してきました。家を建てる者が捨てた石が、隅の親石となった、そのことが、この世界の真実なんだよ、とイエス様はここで私たちに教えているのであります。

  ここでの言葉は、イエス様から、宗教的な権力者層の人たちに向かって語られています。その人たちは、イエス様の言葉を聞いて非常に怒って、後にイエス様を捕らえて十字架につけました。

 まさに、イエス様がおっしゃった言葉が、そうして実現していくのです。そんな形で、この人間の世界の難しさというものが現れてきます。では、その現実の中にあって、結局私たちはどうしたらいいんだろうか、ということを、私たちは神様に尋ね求めていきたいと思うのです。

 

  今日の聖書箇所の中に引用されている、旧約聖書詩編の言葉、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで私たちの目には不思議に見える。」

 この言葉は、詩篇 118編22〜24節であります。この詩篇  118編22、23節の後に、次の24節があります。全体をもう一度読みます。

 

「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった これは主の御業、私たちの目には驚くべきこと。 今日こそ主の御業の日、今日を喜び祝い、喜び踊ろう。」

 こういう言葉があるのです。「今日こそ主の御業の日、今日を喜び祝い、喜び踊ろう」という、この言葉が現実の中で、どういう時に語られて、どう書かれたのか、どういう事実を背景としているのか、ということは現在の私たちには分かりません。

 

  ただ、はっきりしてるのは「今日を喜び祝おう、今日を喜び踊ろう」と書いていることです。 人々が捨てたと思っていた石が、なぜかこの世界を救う、隅の親石となった。そのことによって私たちは救われた。そういう大きな喜びがここで歌われているのですね。

 

 つまり、私たちは気がつかないで大切な石を捨ててしまっていたが、その石が私たちの気がつかないところで、隅っこの親石となって、この石が私たちの家を守ってくれた。洪水が来てもこの家は、この親石のために流されなかった、という表現ですけども、何かものすごく嬉しいことがあったんですね。

 それはもしかしたら、戦争から救われたとか、ものすごい対立から救われたとか、災害が起きた地域で救われたとか、何があったか分かりませんけれども 何か大変なことがあって自分たちはもうだめだと思ったけれども、自分たちが捨てたと思っていた何かによって、私たちは救われた。だから、今日、この日を喜び踊ろう、祝おうと。

  私は最初、今日の聖書箇所を読んだときに、これは暗い話だなあ、と正直思ったのです。何か血なまぐさい話、何か嫌な感じがする話です。現実の社会において、こういうこともあったのでしょう。そして、この話はたとえ話であって、ここで神の御心とイエス様の十字架の死っていうことをたとえとして言ってるのだな、なるほど、とも思うのですけれど、今日の箇所の、この何とも言えない怖い感じ、暗い感じというものは、今日の聖書箇所を読んでいると、どうしても拭えない重いものを感じます。

 しかし、ここに引用されてる詩編118編の言葉を読んだ時に、どんなに現実が暗かったとしても、「今日を喜び祝おう」という、この言葉が全てのことを帳消しにしてくれる、と私は感じたのです。

  先日、私は東京にちょっと出張に行ってまいりました 日本キリスト教団の常議員会というのがあって、私は京都教区議長として陪席をしてきました。その翌日、ちょっとプライベートな用事のために1日多く東京に滞在させていただきました。

 

 それは、つい先日に亡くなった、私の同志社大学神学部での同級生の足跡をたどるためでありました。私の同級生であったその友人は、日本キリスト教団ではない、別の教派の牧師となって長く牧師をしておりましたが、色々な事情があってその教派から離れて、今度は日本キリスト教団の教師として牧師をしたい、という希望を持っていました。そして、農村伝道神学校という、教団に六つある神学校の一つですが、その神学校に、50代後半の年齢でありましたが、入学をしていたのです。しかし入学から1年と少し経った後、病気のために急逝しました。

  私にとって非常に大切な友人であり、その死はショックでありました。そして先日に東京に行く機会が与えられ、その予定を1日延ばして私は、彼が通っていた神学校に初めて行きました。そして、その学校の教師や関係者の人たちと少しお会いして、彼が亡くなる前の様子であるとか、彼の学校生活であるとかを聞きました。また学校の中を案内してもらえました。

 農村伝道神学校というのは、戦後、第二次世界大戦後に作られた神学校で、とても広い土地があるのですね。農村の教会に赴任する牧師を養成するという、多分、世界的にも珍しいんじゃないかと思いますが そうした目的を持って建てられた神学校であります。

 規模は小さくて、いま学生は何人ですかと聞いたら、8人ですと言われました。4年の歳月で学ぶ8人の人たちがいま学生をしている。その神学校で、私はいろんなことを教えてもらいました。農業実習してること、勉強のこと、いろんなことを聞きました。そんな話を聞きながら私は、亡くなった友人のことを思い起こしながら、しばらくの時間を過ごしました。

 

 そして、彼が奉仕をしていた教会も訪ねました。彼が、どんな奉仕をしていたかを聞きました。そうして、京都に帰ってまいりました。彼が死んだことは、悲しいことです。暗いことです。辛いことです。しかし、そのことがなかったら、私は、その農村伝道神学校というところに行くことは一生なかったかもしれません また、彼の死を通して、初めてお会いした学校や教会の方々と、今回様々な話をすることができました。

 一人の人が生き、死んでいく。それはときに辛く悲しいことです。しかし、人の目から見たら、失われたように見える石、それが隅の親石となって、世界の隅っこで支えてくれている。それは、イエス様の十字架の死と復活が、その意味を持っているのと同じように、クリスチャンはそうやって用いられるのだと私は信じます。

  そして、どんな日であったとしたって、そのことが分かったとき、つまり、人の捨てた石が隅の親石となった、そのことによって救われたのだから、私たちの努力とか、私たちの工夫とか実践によって私たちが救われるんじゃなくて、私たちはちっとも救われない人間なんだけど、なぜか神様の御心によって救っていただいたと気づいたとき。

 

 私たちが捨てたイエス様が、隅の親石となって、私たちは救われた、そう知ったとき、分かったときに、「今日の日を喜び祝おう、喜び踊ろう」、 他にどんな悲しみがあったとしたって、その日を喜んでいいのだよ、と言ってくれている、この聖書の言葉、神の言葉というものが、本当にありがたいと、私は心からそう感じたのであります

 

 お祈りをいたします。

 天の神様。私たちが日々生きている中にあって、この世界の重さ、辛さ、苦しさが迫ってくることがあります。戦争が終わらない世界、問題の終わらない世界にあって、私たちは何を思って生きたらいいのでしょうか。そんなふうに思い悩む私たちに、神様は、今日の日を喜び祝うということを教えてくださいます。どんなことがあっても、私たちの捨てた石が親石となって私たちを救ってくださる、という神様の不思議があって私たちは守られています。そのことに心から感謝し、今日の日を喜び祝い、喜び踊ります。そしてみんなで生きていきます。神様、どうぞ一人一人を守り導いてください。この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

「心にキリストの平和を」

 2023年7月16日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  ガラテヤの信徒への手紙 4章 12〜20節 (新共同訳)


 わたしもあなたがたのようになったのですから、

 あなたがたもわたしのようになってください。

 兄弟たち、お願いします。

 あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。

 知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、

 あなたがたに福音を告げ知らせました。

 そして、私の身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、

 さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、

 わたしを神の使いであるかのように、受け入れてくれました。

 

 あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。

 あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、

 できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。

 

 すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。

 あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。

 かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、
   あなたがたを引き離したいのです。

 

 わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、
 いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。

 わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、

 わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。

 できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。
 あなたがたのことで途方にくれているからです。 

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
      改行などの文章配置を説教者が変えています。
      新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

  2023年7月16日 京北 協会礼拝 宣教 聖書 ガラテヤの神経の手紙4章の12節から20節より

 

 毎週の礼拝で、福音書使徒パウロの手紙、旧約聖書、これらの3か所を順番に読んでいます。今日は使徒パウロの手紙である、ガラテヤの信徒への手紙4章12節からです。

 このガラテヤの信徒への手紙は、ガラテヤという地中海沿岸の町にある教会の人たちに向けて 使徒パウロが書いた手紙です。このとき、この教会の人たちの中には、一つの問題が起こっていました。それは、信仰の考え方についてのことでした。

 ガラテヤ教会の人たちは、主イエス・キリストを信じていました。そして、イエス様の教えの通りに考えて、人間は旧約聖書の律法を守って行うことによって救われるのではなく、ただ「イエス・キリストを主と信じる」信仰によってのみ救われる、と考えていました。

 つまり、人間の行い、人間が何を実行するかということによって、その人の救いが決まるのではなく、人間の心の中の信仰ということによって救いが与えられるという、その考え方、それがイエス・キリストの福音の中心でありますけれども、そのことをガラテヤの町の教会の人たちは最初信じていたのです。

 しかし、その後に、それとは違った考え方が、このガラテアの教会の人たちに影響を及ぼしていました。それは昔の時代のように、旧約聖書に記された律法、そこには礼拝の仕方や普段の生活の仕方など、いろんなことが決まり事として決められていましたが、その決まり事をやはり守るべきだという考え方です。

 教会の人々が、イエス・キリストを主と信じた後でも、そうした律法の決まりごとをしっかり守るべきだと言う人たちがいて、律法を守らなかったら神様に救われない、という考え方が、後になってガラテヤ教会の人たちに影響を及ぼしていたようです。

 

 そして、ガラテヤ教会の人たちが、古い時代の考え方に戻ろうとしていた、そうした問題が起こっていたのであります それは単に旧約聖書の律法を守る律法主義というだけではなくて、もしかしたら 様々なこの民間の土俗の習慣、民間の宗教と呼ばれるような、元々その地域にあった いろんな宗教的な習慣、そういうことであったかもしれません。

  イエス様によって救われる前に信じていた、様々な宗教的な決まり事というもの、それを守らなくてもいいんだと、そうしたのは今で言う迷信、古い考え方であって、もうそれに縛られなくてもいいんだ、ということがわかったにもかかわらず、やっぱり、その昔やってたと同じような行動をする、決まり事を守る、そのように戻っていこうとしていたのです。

 そういう信仰の揺らぎと言いますか、イエス・キリストこそが主であって、人間の行いによって救われるのではなくイエス・キリストの福音によって救われる、という考え方からガラテヤ教会の人々が離れていこうとしていた時に、パウロはこの手紙を書いているのです。

 4章8節以降にはこう書いてあります。
 「ところであなたがたは、かつて神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として使えていました しかし今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊のもとに逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなた方のために苦労したのは無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。」

 

 使徒パウロは、このように書いています。こうした箇所を読むと、聖書が書かれた時代から2000年経っている、現代日本の社会に生きている私たちにも、ここに書いてある言葉が、この自分にもどこかで関係あることかな、とふと思うところがあります

 

 それは、迷信と言っていいのかどうか分かりませんけども、いろんな言い伝え、決まりごと、その土地の習慣、いろんな宗教の考え方などが、この日本社会の中には、混じり合うような形であって、こういう時にはこうすべき、こういうことをしたら罰(ばち)が当たるとか、こういうことしたら悪いことが起こるとか、そういう考え方を私たちは無意識にすることがあります。

 

 あの人があんな目に会っているのは、このことのためだ、とか、いくつかの事実を見て、何かそこに法則性のようなもの、人生の法則のようなものを想像して、その法則に合っていたら人間は幸せになるけど、その法則から外れたら不幸せになる、というような形で、いろんな考え方が私たちの社会にはあって、それらに縛られて生きているということが、この日本社会の中でもあると思うのですね。

 

 それはもちろん、日本でも昔の時代に比べたらずっと減っている、ということも言えるのですけれども、現代は現代でまた、何か昔のような形で迷信を信じ込んでいるというのとは、またちょっと違った意味で、私たちはどこかで人の視線を気にしている、あるいは、社会のあり方の中で自分の取っている行動が、人から良いと思われるか思われないか、というところで、どこかやっぱり縛られていることがあるかもしれません。

 

 そして、その縛りから離れると、自分は不幸になるんじゃないか、というふうな、どこか恐怖心のようなもの、そういうものに自分が動かされてるときというのは、あるのですね。

 

 そういうことを考えたときに、今日の聖書箇所でパウロが書いていることも、これは2000年前のことではなく、今の私たちのことかな、という気がしてくるのです。

 

 そしてパウロは、今日の箇所でこのように書いています。12節です。

 「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。」

 

 パウロは、かつては熱心な律法学者として、律法を一生懸命守る生活をしていました。旧約聖書に記された律法、決まり事を一生懸命に守って、そのことによって救われると信じていたパウロが、あるとき、目が見えなくなり、そしてその暗闇の中でイエス・キリストの声を聞いて、イエス・キリストの福音によって、新しく生きるように変えられた。変わっていきました。

 パウロは、律法というものに縛られず、律法というものから解放される生活になりました。それは、すなわち、元々のユダヤ人のように律法を信じていなかった、ガラテヤの教会の人たちと同じように、律法から解放された生き方をパウロがするようになった、ということです。

 

 そして、パウロがそうであるのだから、今度はガラテヤの人たちに対して、あなた方もわたしのようになってください、つまり、律法から解放されて自由の身になったこのパウロと同じように、ガラテヤの教会の人たちも、もう一度、イエス・キリストにあって律法から解放されて自由であることの意味を、ちゃんと受け取り直してほしい、そして、パウロが自由に生きているように、あなたたちも自由に生きてほしい、そのように言っているのであります。

 

 そしてパウロはこう続けます。
「兄弟たち、お願いします。あなた方はわたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。知っての通り、この前、私は体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、私の身にはあなた方にとって試練ともなるようなことがあったのに、蔑んだり忌み嫌ったりせず、かえって私を神の使いであるかのように、またキリスト・イエスででもあるかのように受け入れてくれました。」

 

  ここでパウロは、自分自身の身に起きていた具体的なことについては書いていません。何らかの病気だったのか、障害であったのか、また、そうした病気や障害が自分の外見に現れていることだったのか、あるいはまた別の何かの試練を与えることだったのか、そして現代の私たちで言えば医学的にどうだったか、というようなことは、ここには書いてありません。

 パウロは、何らかの理由で体が弱くなったことがきっかけで、ガラテヤの人たちに福音を宣べ伝えた。その時のパウロは、人から見て試練となるもの、何か受け入れがたいものがその身体にあったけれど、このガラテヤ教会の人たちは、暖かくパウロを受け入れてくれたのですね。

 

  そしてその後にこう言います。
 「あなたがたが味わっていた幸福は、一体どこへ行ってしまったのか。」

 かつての幸せな時間というものが過ぎてしまって、いま、状況が変わってしまったことを言っています。

 

 「あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら自分の目をえぐり出しても私に与えようとしたのです。」

 ここではこの強烈な表現をパウロはしています。この言葉の意味、自分の目をえぐり出しても私に与えようとしたのです、という言葉の意味は、まさに文字通り、パウロが目に病気があってそれで字が見えなかったとか、あるいは外見に何かが現れていた、そのことがパウロの周りの人たちにとって、試練となっていたということでしょうか。

 そういうパウロの目のことに関して、ある人たちが、もう自分の目をえぐり出して、このパウロに目をあげたいと思う、そのぐらいにガラテヤ教会の人たちは、パウロのことを伝道者として一生懸命に受け入れて、一緒に歩もうとしていたのです。パウロのために、もう自分自身の体の一部を投げ出してもいい、というぐらいに深く思っていたというのですね

 

 これが、文字通りの意味でパウロの目の病気、あるいは障がいのことを言っていたのか、それとも一つのたとえとして、自分にとってすごく大事なものであるこの目を失ってもいいから、パウロのために何かしたかった、という気持ちのことを言ってるのか、その違いは分かりません。

 けれども、それぐらいの真剣な思いでガラテヤ教会の人たちが、パウロのことを大事にしていたことは確かなのです。

 

 そのことをここで語った上で、さらにパウロはこう言います。16節です。
 「すると、わたしは真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。」
 ここで真理というのは、イエス・キリストの福音のことですね。律法によらずに、つまり律法を行わなくても、イエス・キリストを信じることだけで、あなたたちは救われる、という真理をパウロはガラテヤ教会の人たちに対して語っていたのです。

 その真理を語ったために、今度は、ガラテヤの教会の人たちは、かつてはイエス・キリストの福音を信じていたけれども、いまはそこから離れて、やっぱり行いも大事だとして、律法を守らなきゃ、いろんな決まり事を守らなきゃ、というふうになっていくことによって、パウロはガラテヤ教会の人たちの敵となってしまったのかと言うのです。

 

 パウロが本当のこと、真理、イエス・キリストの福音を語ったがために、ガラテヤの教会の人たちは、パウロを敵とするようになったのですか、という問いかけをしているのですね。

 

 そして17節でこう言います。
 「あの者たちがあなた方に対して熱心になるのは善意からではありません。かえって自分たちに対して熱心にならせようとして、あなた方を引き離したいのです。」

 ここで「あの者たち」と言われている人たちは、ガラテヤの教会の人たちに何らかの影響を及ぼしている人たちなのですね。この人たちはガラテヤ教会の外から来た人たちでしょうか。どういう人たちであるかはわからないのです。具体的なことは書いてありません。

 

 しかし、律法主義者と呼ばれるような人たちであったということは想像できます。ガラテヤ教会の人たちが、イエス・キリストを主と信じる信仰に立っていることに対して、それを妨げようとする考え方の人たちでした。

 

 イエス・キリストも良いのだけれども、今までの考え方も良いのだよ、と言って、何かの決まり事を守らせようとする、そういう人たちです。その人たちは、善意からではなくて、自分たちに対して熱心にならせようとしている、つまり、自分たちのグループにガラテヤ教会の人たちを引き込もうとして、熱心なのだということ言っています。

 

 こうして ガラテヤ教会の人たちは、その教会の中で外部から来た人たちの何かの影響を受けることによって、問題が生じていたのです。そのことをパウロは知って、こうした手紙を書いているということがわかってくるのです。

 

 ここでパウロはさらにこう言います。

 「私があなた方のもとにいる場合だけに限らず、いつでも全員から熱心に慕われるのは良いことです。」
 パウロは、ガラテヤ教会の人たちが、私を慕ってくれるのは良いことだと言ってます。

 「私の子供たち、キリストがあなたがたのうちに形作られるまで、わたしはもう一度あなた方を産もうと苦しんでいます。」

 

  ここでパウロは、自分が親の立場に立って苦しんでいるのだ、ということを言っています。そして、男性であるパウロが、「もう一度あなた方を産もうと苦しんでいる」という、母親としてのたとえを語っているのですね。これは、非常にユニークなことだと思います。

 パウロはこうして、自分がまるで母親であるかのような言葉使いをしているのですね。あなたたちは、わたしの子供なのだと。子供と同じぐらい、あなたたちのことが心配で心配でしょうがないのだからと。

 わたしの子供たちである、あなたがたのうちに、キリストが形作られるまで、というのは、イエス・キリストが本当に、ガラテヤ教会の人たちの心の中で、しっかりといてくださって、イエス・キリストが皆さんの一人一人の生活を守って導いてくださる、そうなるまでイエス・キリストのことが皆さんの心の中で、しっかりと受け止められるようにしたいと言うのです。

 

 パウロはそのことを願って、わたしはもう一度あなたがたを産もうと苦しんでいると、まるで自分が母親のようなたとえを使って言ってるわけです。

 そして最後にこう言います。
 「できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせて、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方にくれているからです。」

 この手紙に書いているような優しい言葉使いではなくて、もっと厳しい言葉で、もうビシッと 叱りつけたい、それぐらいの気持ちでいることを言っています。

 以上が 今日の聖書箇所であります 皆さんはどのように思われたでしょうか。

 今日の場所を読んで、私がまず最初に心にとまった箇所というのは、「あなたがたは自分の目をえぐり出しても私に与えようとしたのです」という言葉です。

 パウロが実際に、どういう病気あるいは障害を持っていたかということは、わからないことなのです。しかし、この15節で言ってる言葉が、やはりパウロの目の病のことではないかという推測を裏付ける一つの根拠なのですね

 これは強烈な言葉であります。これぐらいにパウロのことを大事にしていた、ガラテヤ教会の人たちが、なぜそのパウロの教えから離れて、別の考え方、あるいは古い考え方に戻って行こうとしていたのか、という理由ははっきりしません。

 ただ、パウロがいなくなったことによって、そのように語ってくれる人というのが、身近にいなくなってしまったのだろうか、ということは想像がつくのです。ごく身近に、自分に対してイエス様のことを語ってくださる方がいなくなってしまった、その後に、別の考え方をする人たちがパウロの考え方よりも、もっといい考え方があるといって、入ってきたときに、ガラテヤ教会の人たちはそれによって影響を受けてしまったのです。

 そのことに対して、パウロはものすごく悲しい思いを持って、ここでものすごくきつい表現をしているのですね。「あなたがたは、自分の目をえぐりだしても私に与えようとしたのです。」 それぐらいにガラテヤ教会の人々が、パウロを大事にしていた時期というのがあったのです。

 その時期は、パウロにとっても、ガラテヤ教会の人たちと一緒にいる時間というのが、とても素晴らしい時間であったということを意味しています。

 ここに書いてあるパウロの言葉。
「わたしの身には、あなたたちにとって試練となるものがあったのに、蔑んだり忌み嫌ったりせず、かえって私を神の使いであるかのように、またキリスト・イエスででもあるかのように受け入れてくれました。」

 この言葉は、現代の私たちであれば、どんな風に受け止めたらいいのでしょうか。
 私はこの箇所を読んで、新型コロナウイルスの問題が出てきた時に、社会の中にすごく緊張感が走った最初の頃に、コロナ問題に関わる医療従事者、看護師や医者、またいろんな現場の労働者の方々が、そのコロナがうつるんじゃないか、伝染するのではないかと言われて、心ない差別を受けたり、嫌がらせを受けたりすることを、ニュースで見ていた時のことを思い出しました。

 本当はその人たちは、社会にとってかけがえのない、なくてはならない大切な働きをしている人たちであるにも関わらず、あの人たちからコロナがうつるのではないか、というふうにこの偏見が広がったときに、その大事な人たちを遠ざけてしまう、苦しめてしまう、ということが私たちのこの日本社会の中で実際にありました。

 

 それはもちろん無知のためであり、また、パンデミック(感染爆発)と言われるような異常な社会状況の中で、人々の心が恐怖感に満たされていくときに起こってしまったことではあるのですけれども、そうしたことは、ある特別なときだけではなくて、歴史の中で繰り返し繰り返し起こっているのではないかと思うのです。

 

  そして そのような人間の偏見が起こり、人を蔑み、遠ざけ、忌み嫌う、そういうことが起こるときに、いやそれは偏見なのだよ、それは間違ってるのだよ、と言って正しい知識に立って人間を正しく受け止め、受け入れていく、そうした人の存在がどれだけ、この私たちの社会にとって大切であったか、ということを思うのです。

 

  パウロはここで、自らの病気または障害というものが、人から忌み嫌われる可能性があったにもかかわらず、ガラテヤ教会の人たちはパウロを全面的に受け止め、大切にした、そして自分の目をえぐり出してでもパウロに与えようとしたと言います。

 

 それぐらいに、パウロの身になって、パウロが自分自身であるかのように受け止めました。パウロのことを、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれた、というこのパウロの言葉は嘘ではないと思うのです。

 

 今日の聖書の箇所に書いてあるのは、そうしたこと、ガラテヤ教会の人たちとパウロの間にあった、何て言ったらいいのでしょうか、愛ということが言われているのです。

 

 そして同時に、その愛というものが、社会の中のいろんな変化の中で失われようとしている、その危機にガラテヤ教会の人たちが立っている、そこでパウロが、この手紙を書いて、もう一度その愛がガラテヤ教会の人たちの心、一人ひとりの心の中に形作られるように願って、パウロが手紙を書き送っている、ということが今日の聖書箇所には現れているのであります。

 

 今日の箇所から何が学べるでしょうか。いろんなことを学ぶことができます。
 
 今日の箇所には、パウロが19節のところで言ってる言葉「わたしは、もう一度あなた方を産もうと苦しんでいます」という言葉があります。この言葉にも私は心がとまりました。

 

 パウロは男性であります。そしてパウロが書いた様々な手紙の中には、女性を低めているような言葉、女性を男性より低いものと受け止めて書いている、そういう箇所も確かにあるのですね。それは、当時の時代の考え方というものをパウロが受け止めて、それにならって書いているということなのでありますが、現代の私たちの目から見れば、パウロが書いた文章の中には女性差別があるということは確かなことなのです。

 

 しかし一方で、今日の箇所にあるように、「私はもう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」と言って、パウロ自身は男性であるにもかかわらず、自分が母親である、女性であるという風にたとえて言ってるときに、パウロの中にはいわゆる女性差別ということではなくて、男性であるとか女性であるとかという、そういう性の違いを超えて、パウロは伝道者の立場で、信仰というものは人を産む力がある、ということを信じて語っていることがわかるのです。

 

 人を産む、ということは、男性・女性といった性によって行われます。現実にはそうであるとと同時に、しかし、もっと本質的には、何かが何かを生むということは、これは神様がなさることであって、そういう意味でパウロはここで、ガラテヤの教会の人たちの信仰というものを、自分が母親になってまでして生み出す、自分がお母さんになって、もう一度、あなたがたガラテヤ教会の人たちを新しく産んでいくというのです。あなたがたを、イエス・キリストによって本当に自由な人間として、新しく創造していく、そういう思いをここでパウロは語っているのです。

 

 ここにあるのはパウロの、ガラテヤ教会の人たちに対する愛ということなのですね。もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいる。もちろん、女性であったとしても、もう一度あなたを産む、なんてことはできないわけですね。ここで言われているのは、信仰的な表現なのです。

  産む、ということは、神様が人を産むように、本質的には神様がなさることです。それと同じことを、パウロは自分の信仰に基づいて、ガラテヤ教会の人たちが、もう一度イエス・キリストを信じる人として、新しく生まれていく、そのことを願っているのです

 

 今日の箇所を読みながら、私たちはこのパウロという人に対して、いろんな関心を持つことができます。パウロの目の病気は、実際はどんな病気だったんだろうか、と考えます。また、ガラテヤ教会の人たちは、どんな状況に直面していたのだろうか、と様々に想像はしますけれども、現実には聖書に書いてあること以上にはわからないわけです。

 

 そこで、わたしたちはちょっと物足りない気持ちがするかもしれません。そして、この今日の聖書箇所を読んで、現代のこの日本社会で生きている私たちは、今日の言葉をどんなふうに、この自分の生活に活かしていったらいいのだろうか、と考えるときにも、なかなか、ぴったりした答えは出てこないかもしれません。

 

 聖書を読んでいても、このことがわからない、あのことがわからない、といろんなことをいっぱい思うのです。けれども、今日の聖書箇所から教えられることは、聖書を読んでいてわからないことは確かにあるのだけれども、聖書を読んでいてやっぱり一番大事な事っていうのは、愛ということではないかと思います。そのことを今日の聖書箇所から教えられると思うのです。

 

 もっと知りたいこと、聖書の中での事実関係がどういうことであったのか、知りたいとは思うけれども、それは書いていない。聖書に書いていないことは何で補うのかというと、愛を持って 補うのですね。

 

 パウロがガラテヤ教会の人たちに対して、もう一度あなた方を産むと苦しんでるっていうときに、パウロは愛を持って苦しんでいるわけです。あなたがたをどうやって元の道に引き戻したらいいかわからない、途方にくれているのだと。でも、どうしたらいいかわからないけれども、あなたたちを愛によって引き戻したいんだ、という、そのパウロの気持ちはすごく伝わってくるのです。

 

 現実が苦しい中にあって、どうしたらいいかわからないでいる、それはこの現代の私たちだけではなくて、パウロ自身がそうなったのですね。自分ではどうしたらいいかわからないことは、愛を持って補うのです。そうするときに、わたしたちも、自分たちのわからない部分っていうのは、愛を持って補って読んだら良いのです。

 

 そして私たちが今日から始まる1週間を新しく生きていくときに、今日の聖書箇所を心の支えとして歩んでいく時に、もちろん、現実の問題に出会ったらどうしたらいいかというのは、わからないことがいっぱいありますが、そういうときに私たちは、愛を持って補っていくのです。

 

 愛を持って、足りないところを埋めていく。そういう形で私たちは、神様の御心へと戻って行きいきたいのです。神様の御心に帰っていくのです。今日の箇所で、ガラテヤ教会の人たちが神様の御心に帰っていく、ということがパウロから願われていたように、私たちもまた神様の御心に帰っていく。そのことによってまことの平和を創り出し、大切な隣人の方々と共に、この世界にまことの平和を望んで生きていきたいと願うものであります。

 

 お祈りをいたします

 天の神様。私たちが自分の力でできないことがいっぱいあり、本当に悔しい思いをしたり、悲しい思いをしたり、自分の限界を感じたりすることが多々あります。けれども、聖書の言葉に励まされて、神様の愛がたくさん溢れている、神の国ということを、イエス様から教えられ、そのことを心に留めて、私たちもまたその神の国を人に伝えて、この世界に広げて生きていくことができますように導いてください。私たちの心の中に、イエス・キリストがいっぱいに満ちてくださいますように心より願います。
  この祈りを、主イエスキリストの御名を通して御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

 

「救うために先に生きる」
     2023年7月23日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  創世記 45章 1〜11節 (新共同訳)


 ヨセフは、そばで仕えている者の前で、

 もはや平静を装っていることができなくなり、

 「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。

 

 だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。

 ヨセフは声を上げて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、
    ファラオの宮廷にも伝わった。


 ヨセフは、兄弟たちに言った。
 「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」

 

 兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。


 ヨセフは兄弟たちに言った。

 「どうか、もっと近寄ってください。」


 兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。
 「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。

  しかし、今はわたしをここへ売ったことを悔やんだり、

  責め合ったりする必要はありません。

 

  命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。

  この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、

  耕すこともなく、収穫もないでしょう。

 

  神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、

  この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生きながらえさせて、

  大いなる救いに至らせるためです。

 

  わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。

  神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、

  エジプト全国を治める者としてくださったのです。


  急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。

   『息子のヨセフがこう言っています。

    神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。

    ためらわずに、わたしのところへおいでください。

    そして、ゴシェンの地域に住んでください。

 

    そうれすばあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、

    そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます。

    そこでのお世話は、わたしがお引き受けいたします。

    まだ五年間は飢饉が続くのですから、父上も家族も、

    そのほかすべてのものも、困ることのないようになさらなければいけません。』

 

  さあ、お兄さんたちも、弟のベニヤミンも、自分の目で見てください。

  ほかならぬわたしがあなたたちに言っているのです。

  エジプトでわたしが受けているすべての栄誉と、

  あなたたちが見たすべてのことを父上に話してください。

  そして、急いで父上をここへ連れて来てください。」

 

 ヨセフは、弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。

 ベニヤミンもヨセフの首を抱いて泣いた。

 ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。

 その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、

  改行などの文章配置を説教者が変えています。
    新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 毎週の礼拝で、福音書使徒パウロの手紙、旧約聖書、この3箇所を順番に読んでいます。本日は旧約聖書の創世記45章1〜11節です。ここには「ヨセフ、身を明かす」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは元々の聖書にはなく、新共同訳聖書が作られたときに、読み手の便宜を図って付けられたものです。

 

 今日の箇所には何が書いてあるのでしょうか。

 「ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、『みんな、ここから出て行ってくれ』と叫んだ。」

 

 今日の箇所は、長いヨセフ物語の中のクライマックスの場面です。それまで続いてきた物語が、ここで大きく流れが変わります。今まで自分の正体を隠していたヨセフが、隠し続けることができなくなって叫び出した場面です。

 

 ここで、今日のこの聖書箇所に至るまでの、ヨセフ物語の流れを振り返ってみます。旧約聖書にはたくさんの物語が納められていますが、その一番始めは創世記です。創世記の冒頭には、神様が「光あれ」と言われてこの天地を創造された話があります。天地創造そして人間創造の物語から聖書は始まっています。

 その天地創造・人間創造の話から始まって、最初の人間であるアダムとエバの話、エデンの園でのアダムとエバが神様の命じたことに逆らって、食べてはいけないとされた果物を食べて、神様に対して罪を犯してエデンの園から追放されます。その後、人間は、それまでの神様が保証してくださる生活から追放されて、自分たちの食べものも住まいも自分たちで努力して働いて得なければならない生活になります。

 

 その後、バベルの塔の話があって、人間は世界中に散っていきます。そして世界中に広がった人類は神様に対して罪を犯して生きていたので、神様の怒りを買って洪水によって滅ぼされます。これがノアの箱舟の物語です。そのあと、ノアの一族から始まって人類はまた世界に広がっていきます。

  その後の歴史の中で、神様はアブラハムという一人の人を選んで、その人の小さな部族が神様の御心を世界に伝える使命を担うように導かれます。これがイスラエル民族、ユダヤ人の始まりです。

 アブラハムの子供のイサク、そのイサクの息子のヤコブという三代の家系が続き、このアブラハム、イサク、ヤコブという三代は、旧約聖書において最も大切な名前になります。この家系から後のイスラエルの民族が始まったからです。

  そして、その中のヤコブの子供が12人いて、その最後から2番目が、今日のヨセフ物語の主人公であるヨセフです。ヨセフの下にはベニヤミンという弟がおり、今日の話にも登場します。

 

 さて、以上のように、旧約聖書の最初の書物である創世記の物語を駆け足でざっとご説明しました。この創世記の中で、後半の3分の1は、実はこのヨセフ物語なので、ヨセフ物語はとても長く、また聖書の中でとても重要な物語だと言えます。

 

 そして、ヨセフ物語とは、ヨセフという人とその家族の、波瀾万丈な物語です。ヤコブの息子であるヨセフは、神様から特別に愛されて、特別な能力を持っていました。それは神様から示される夢を見ることができるという能力でした。

  しかし、その能力のために、兄弟たちからねたまれて奴隷商人に売り飛ばされ、生死もわからないようになっていたのですが、売り飛ばされた先でヨセフは、その夢を見て、夢の意味を説き明かすという特別な能力を使って、窮地を脱します。

   そして、様々に困難なことが続いていったあとに、エジプトの王様に取り立てられて、エジプトの王の次に偉い高官、今でいえば首相といってもいいでしょうか、そうした立場に着くのです。

 

 一方で、その当時、ひどい飢饉が各地を襲い、ヨセフの父や兄弟たちの住んでいた地域も、飢饉のために食べるものがなくなり、食べるものを求めてヨセフの兄弟たちはエジプトに救いを求めます。そのとき、エジプトの首相となっていたヨセフと兄弟たちはそこで再会するのですが、ヨセフはそのことに気づきますが、兄弟たちは全く気づきません。

 その状態から、ヨセフは、食べ物を与える立場であることを利用して、兄弟たちを様々に計略にかけて苦しめます。そこには、かつて自分を奴隷商人に売り渡した兄弟たちへの強い怒り、復讐心があったことは間違いありません。

 

 しかし、あるとき、そのようなヨセフが、それまでに憎しみに凝り固まっていた、冷酷な権力者であったヨセフが、ついに自分の心の中で何かが決壊するときがやってきました。それが今日の聖書箇所の場面です。

 「『だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。ヨセフは声を上げて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。ヨセフは、兄弟たちに言った。『わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。』兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。」

 

 ここでヨセフは、初めて自分の正体を兄弟たちの前で明かします。

 

 「ヨセフは兄弟たちに言った。『どうか、もっと近寄ってください。』兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。『わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今はわたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。』」

 

 ヨセフはこのように言いました。ヨセフは、本当に賢い人です。このとき、兄弟たちが何を恐れているかを読み取っていたのです。兄弟たちは、自分たちがかつてヨセフをわなにかけて奴隷商人に売り飛ばしたことの復讐が自分たちになされることを恐れていました。だから、そのようなことはしないので、かつてのことを悔やんだり責め合ったりする必要はない、とまず最初に伝えているのです。

 

 そして、ヨセフはここで兄弟たちに対する恨みや怒りを語るのではなくて、驚くことに、神様への信仰を語ります。その信仰とは、神様ははっきりとした目的を持って、ヨセフを今まで導いてこられたのであって、その目的は、家族みんなの命を救うためであったというのです。

 次のように言います。
 「『命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生きながらえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。』」

 

 こうして、ヨセフは自分がいまエジプトで首相として王様から取り立てられていることは、自分の努力や能力によるのではなくて、神様の御心であることを告白します。ヨセフに起こってきたことは、ヨセフの出世の物語ではなく、神様の救いの歴史の一部分であるというのです。

 

 そしてこう言います。

 「『急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、わたしのところへおいでください。そして、ゴシェンの地域に住んでください。そうれすばあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます。そこでのお世話は、わたしがお引き受けいたします。まだ五年間は飢饉が続くのですから、父上も家族も、そのほかすべてのものも、困ることのないようになさらなければいけません。』」

 

 ヨセフは、ここでこの飢饉はまだ5年間は続くこと、そのために父ヤコブが早くこのエジプトに避難して、家族も家畜も連れてエジプトに移住するように促します。そして、家族も家畜もすべてこのヨセフがお世話をするという、兄弟や父親にすれば夢のような話を本当のこととして伝えるのです。

 

 さらに続けます。

 「『さあ、お兄さんたちも、弟のベニヤミンも、自分の目で見てください。ほかならぬわたしがあなたたちに言っているのです。エジプトでわたしが受けているすべての栄誉と、あなたたちが見たすべてのことを父上に話してください。そして、急いで父上をここへ連れて来てください。』」

 
 ヨセフは、ここで今、兄弟たちの前で語っているのは、本物のヨセフであることを示します。そして、自分の言葉がウソで無いことを強調し、そしていまエジプトでヨセフが得ている権力者の立場、経済的な成功も含めてそれが本当であることを、自分の父親であるヤコブに伝えてほしいと兄弟たちに願うのです。ここには、ヨセフの父に対する思いがあふれています。

 

 そして最後はこのように締めくくられます。

 「『ヨセフは、弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンもヨセフの首を抱いて泣いた。ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。』」

 

 こうして、ヨセフが語る言葉が、兄弟たちの心に通じて、彼らはみな互いに抱き合って涙を流して再会を喜んだのでした。

 

 以上が、本日の聖書箇所です。皆様はどのように思われたでしょうか。本日の箇所には、イエス・キリストは出てきません。当たり前ですが、時代が違うからです。イエス・キリストは出てきません。しかし、イエス・キリストを信じる信仰ということが、このヨセフという人から伝わってきます。それはどういうことでしょうか。今日の箇所を読んでいきます。

 

 わたしはヨセフは別に好きでも嫌いでもありません。単に聖書に出てくる登場人物というだけです。賢さには少し憧れますし、波瀾万丈の人生でも、命を奪われることなく最後は幸福に生きることができるようになるのであれば、それは素晴らしい。うらやましい。でも、結局はお話の中の登場人物でしかない。とはいえ、ここにある物語を読んで、こうしてヨセフを動かしていく力が、この話の作り手によるのではなくて、天の神様だというならば、そしてその神様が今の私たちもまたヨセフと全く同じように導いてくださるのだとしたら、わたしはこの物語のようにヨセフのように生きてみたい。

 

 ヨセフの何が素晴らしいのでしょうか。ヨセフは兄弟たちから奴隷商人に売り飛ばされ、外国へと売られ、命を失ってもおかしくない境遇に追いやられた被害者です。それと同時に、ヨセフはその境遇から脱出して、その特異な能力によって社会で成功し、王様に取り立てられる形で権力者の立場へとつきました。逆境からはい上がる力を持った卓越した権力者です。そして、その立場になって力をふるえるようになったときに、思いもかけない復讐の機会が訪れました。

 

 その場で、自分を売り飛ばした兄弟たちへの底知れぬ怒りがわいてきます。ヨセフは権力者として何でもできる立場で、策略を持って兄弟たちをいじめぬきます。苦しんでいる兄弟たちの様子を見ることが、ヨセフの冷たい喜びになるのです。しかし、ヨセフのその冷たい心に限界が来ました。ヨセフの心の中にある、年下の弟ベニヤミンへの思いや、何よりも父への思いが、ヨセフの心を変えました。苦しんでいる兄弟たちの様子を見るときに、その苦しみがヨセフにとっての自分自身の苦しみに感じられたとき、ヨセフはもはや黙っていることが出来ませんでした。

 

 そのようにヨセフの心を導いたのは、神様でした。神様の御心というものは、人に何かを強制するのではなくて、その人の心の中に思いを膨らませ、あふれさせ、そのことによって、本当の自分とは何かをその人自身に気づかせていくものです。そして、ヨセフ自身が、その神様の御心に気づいたときに、ヨセフは正直に神様の御心に応えて、言葉と行動に表しました。こうして、神様の御心に応えたヨセフは、素晴らしい人です。

 このときのヨセフの告白は、自分を少年時代から導いてくださった神様の導きへの感謝をこめた信仰の告白です。それと同時に、この告白をすることが、自分の兄弟たちと父を救い、この地で家族みんなで新しく生きていくための告白となりました。

 信仰の告白とは、単に私は神様を信じています、というだけではなく、これからわたしは隣人と共に新しくここで生きていきます、という、未来の生活に向けた神様への生き方の告白でもあるのです。これは、決定的な告白です。こうした神様への信仰の告白は、自分の人生の意味を表す告白であり、これからの人生を隣人と共に生きる決意でもあります。

 この場面で、ヨセフはなぜそのような告白をすることができたのでしょうか。この場面までは、ヨセフは兄弟たちに悪意を持って、計略を立てて苦しめてきた意地悪な悪しき権力者でした。このまま兄弟たちを苦しめ続けることもできたのです。しかし、ヨセフはそのようにすることが、神様に対する罪であることが、このときわかったのです。自らの罪に耐えられなくなったヨセフは、自分の中にある感情がこみ上げて、自分もまた兄弟たちと同じく神様の前で罪を犯して生き続けている一人の人間であることを自覚し、真実を告白したのです。

 

 こうしたヨセフの物語は、決して、古代の人々の単なる作り話や、ただの伝説ではありません。これは、人と人がお互いに和解することが、どれほど大変なことかを知っている人たちが書いた信仰の物語です。そこには、現実を生きる人間が実際に経験してきた痛みと苦しみが反映している、真実の物語です。この物語は、神様への信仰がなければ書くことができない物語です。わたしたちもヨセフのように、一人ひとり、神様から与えられた恵みに従って、神様と和解することで本当の自分自身の人生を歩むことができますように祈ります。

 

 ヨセフの姿には、イエス・キリストの恵みが現れています。イエス様によって、人間は神様と和解して新しい人生を送るという恵みが与えられました。ヨセフが兄弟たちと和解して新しく生きたことはは、イエス・キリストの恵みを表していることです。私たちもその恵みにあずかりましょう。

 

 お祈りをいたします。
 天の神様、今日も皆さんと共に礼拝できた幸いを感謝します。ヨセフが自分の心が崩れることで兄弟たちと和解したように、わたしたちも神様の前で自分の心を崩し、自分の罪を心から悔い改め、神様との間でまことの平和をいただくことができますようにお願いをいたします。コロナ禍が終わらず、ウクライナでの戦争を始め争いごとが終わらないこの世界にあって、神様から与えられた知恵と力によって生き抜くことができますように、病気や障がいや様々な困難が満ちている世界にあって、一人ひとりの人間が神様につながって、新しく生きていくことができますように、心よりお願いをいたします。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

「天に返すべきものとは」牧師 今井牧夫 
 2023年7月30日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  マルコによる福音書 12章 13〜17節 (新共同訳)


 さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、

 ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。

 

 彼らは来て、イエスに言った。

 「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、

  だれをもはばからない方であることを知っています。

 

  人々を分け隔てせず、

  真理に基づいて神の道を教えておられるからです。

 

  ところで、皇帝に税金を納めるのは、

  律法に適(かな)っているでしょうか、適っていないでしょうか。

  納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」

 

 イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。

 「なぜ、わたしを試そうとするのか。

  デナリオン銀貨を持ってきて見せなさい。」

 

 彼らがそれを持って来ると、

 イエスは、「これは、だれの肖像と銘(めい)か」と言われた。

 

 彼らが「皇帝のものです」と言うと、

 イエスは言われた。

  「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

 

 彼らは、イエスの答えに驚き入った。

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、改行などの文章配置を説教者が変えています。
 新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

  毎週の礼拝で、福音書使徒パウロの手紙、旧約聖書、この3箇所を順番に読んでいます。本日はマルコによる福音書12章13〜17節です。ここには「皇帝への税金」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは、新共同訳聖書が作られたときに、読み手の便宜を図って付けられたもので、元々の聖書にはありません。

 

 今日の聖書には何が書いてあるのでしょうか。順番に読んでいきます。

「さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣(つか)わした。」

 

 マルコによる福音書は全体で16章まであります。その中で今日の箇所は12章です。だんだんと福音書の終わりに近くなってまいりました。

 当時の宗教的な権力者層の人たちは、イエス様が語る「神の国」の福音というものが人々の心をとらえていた様子を見たときに、そのイエス様が語っている言葉が、当時の宗教的な世間の秩序をくつがえそうとしているというように誤解をいたしました。そして人々は、イエス様を捕らえるための口実を見つけようとしていました。

 

 そうした宗教的な権力者層の人たちの思惑によって、今日の箇所にありますように、イエス様の所にはファリサイ派やヘロデ派の人たちが数人、遣(つか)わされたというのであります。

 ファリサイ派というのは、旧約聖書に記されたたくさんの律法、宗教的な決まり事、それを厳格に守ることを主張していた人たちでありました。そして、ヘロデ派の人たちとは、当日ローマ帝国の植民地であったイスラエルユダヤの国を治めていた総督のヘロデの側に立つ人たちでありました。

 

 ということは、この当時のイスラエルの人たちの中で、違った考え方をしている人たちが、ここに遣わされてきた、ということを意味しています。

 そして彼らは、イエスの所にやってきて、こう言いました。14節。

「彼らは来て、イエスに言った。『先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。』」

 

 ここの言葉を見ると、イエス様のことをとてもほめている、絶賛しているように聞こえます。言葉としてはそうなのです。ところが、この言葉にはその後の質問をするための伏線がこめられているわけです。

 イエス様、あなたは正しい人ですね、だれも分け隔てをしないで、真理に基づいて誰にも忖度(そんたく)することなく、神様の道を教えてくださる方だと最初にまず言うわけです。これはただイエス様をほめている、たたえているという単純なことではありません。

 このあとに彼らが尋ねる質問に対して、包み隠さず、すべて本当のことを言ってくれますよね、という意味がこめられているのですね。つまり、この後に尋ねる質問に対して、言葉をまるめたり、何かの言い逃れをするということは、あなたは当然、しませんよね、という形でまず最初にクギを刺しているのです。

 

 そして、その後に本当に尋ねたい質問をします。

 「『ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適(かな)っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。』」

 

 当時、イスラエルの国はローマ帝国の植民地でありました。ローマ帝国の強大な軍隊の力によって支配され、政治的、軍事的、社会的にローマ皇帝が一番偉い人でありました。その皇帝の権威のもとでイスラエルの人たちは皇帝に税金を納めていました。

 

 そのことは、イスラエルの人たちが大切にしている聖書、そこに記されている律法、それに皇帝に税金を納めていることは違反しているか、していないか。納めるべきか、納めないべきか。ということを尋ねたわけであります。

 

 これは大変答えにくい質問でありました。というのは、信仰という点が言いますと、旧約聖書の律法にはローマ皇帝あるいは外国の王様というものが出てきません。

 

 自分たちの国で自分たちの信仰に則って税金、献げ物というものは神様への献げ物としてするべきであって、自分たちの国を軍事力で治めている他の国の皇帝に、税金を納めるなんということは律法に従えば考えにくいことであります。

 

 少なくても、律法には載っていないわけです。ですから、かなっていない、ということが信仰的に言えば正しいのではないでしょうか。しかし、当時のイスラエルの国において律法学者たちの判断は分かれていた用です。神の権威のもとで地上の世界を治める者としての皇帝に、税金を納めるということに賛成をしていた人たちもいたようです。

 

 実はファリサイ派の人たちは賛成をしていたようなのであります。そしてまた、ヘロデ派の人たちというのは、この世にあって権力者であるヘロデ側の人たちは、税金を納めることは良いことであると主張していたわけであります。

 

 その一方で、イスラエルの人たちの中には、そんなことをしているから正しい信仰をつらぬくことができないのだと、これはおかしいんだ、と主張する人たちもいたようです。そういう意味で解釈は分かれていたようです。

 解釈が分かれている中で、イエス様にこの質問をしてきたのは、この答えにくい質問に対してイエス様が「税金を納めるべきだ」というのであれば、信仰の面から見てどうなのか、という言いがかりを付けることができますし、一方でね税金を納めることがかなわないと言うならば、じゃあ、現実にこの世界の中で税金を納めなかったらどうなるのか、とこれもまた言いがかりをつけることができます。

 

 イエス様がどっちの答えをした所で、それらのどちらに対しても反論して批判できるように、ファリサイ派の人とヘロデ派の人とを呼んで、両方の人たちがここに来ていたというのです。

 

 そして15節。

 「イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。『なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持ってきて見せなさい。』彼らがそれを持って来ると、イエスは、『これは、だれの肖像と銘(めい)か』と言われた。彼らが『皇帝のものです』と言うと、イエスは言われた。『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』彼らは、イエスの答えに驚き入った。」

 

 デナリオン銀貨というのは、当日の人たちにとって重要な、高額な銀貨であったということがいえます。1デナリオンというのが大体、いまの私たちの社会ではどれぐらいになるかというと、はっきりとはわからないのですけれど、労働者の1日の賃金、1日生活できる賃金と考えられていたということなので、現代でいえば1万円程度といってもよいかと思います。

 聖書の時代のぶどう園のぶどう収穫のために雇われた季節労働者の1日の賃金が1デナリオンであったということなので、現代でいえば1万円ぐらいでしょうか。その銀貨を持って来なさい、とイエス様は言われました。

 

 持ってくると、そこには皇帝の肖像が刻まれていたわけです。そしてまた、皇帝の名前と、皇帝をたたえる言葉が刻まれていたのです。ここで、デナリオン銀貨を持ってきなさい、とイエス様が人々に言ったのは、ファリサイ派の人たちやヘロデ派の人たちが、もしかしたら、このデナリオン銀貨を持っていなかったかもしれない、そのことを想定していたのではないかと、想像する聖書学者もいます。

 それはなぜかというと、このデナリオン銀貨には皇帝の肖像と名前が刻まれているということについて抵抗を感じていた人が多かったとも考えられるのですね。

 自分たちを支配している皇帝、自分たちの信仰にはそぐわない形で自分たちを支配している皇帝の、肖像と名前が刻まれた銀貨を持ち歩く、ということに何らかの屈辱的な思いを持っていた人たちがいました。

 それは、熱心な信仰者、あるいは、何と言いますか、愛国的な人と言ってよいのでしょうか、愛国者、自分たちの国がいまローマ帝国に支配されていることをよしとしていない人たちにとっては、デナリオン銀貨を持ち歩くということは、できないことだったのかもしれません。

 そういう意味で、デナリオン銀貨を持っていない状態、また、イエス様や弟子たちも持っていなかった中にあって、銀貨を持ってきて見せなさい、というときに誰かが持ってきて、それを見せました。そして、これは誰の肖像と銘か、と問うて、彼らが皇帝のものですと言うと、イエス様は言われました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

 

 この短い答えがイエス様の答えでした。
 彼らは、このイエスの答えに驚き入ったとあります。

 

 イエス様がこのとき、税金を納めるべきだと言えば、なぜそう言うのか。納めないべきだと言うと、なぜそう言うのか。どちらの答えを言っても言いがかりを付け、そしてイエス様を訴える口実にすることができたわけであります。

 

 しかし、イエス様はそのどちらのこともおっしゃいませんでした。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」この前半だけで解釈すれば、銀貨には皇帝の肖像と銘が刻まれているわけですから、これは皇帝の持ち物なのです。お金というものは、硬貨というものは、皇帝のものなのだから、皇帝にお返ししなさい。それはつまり、税金は納めるべきであれば納めなさい、ということであります。

 そして後半ではイエス様は、神のものは神に返しなさい、と言われました。信仰の世界においては、神のものは神に返しなさい、と言われるのでありました。ここでイエス様は、その「神のもの」が何であるかは言われていません。それは、この言葉を聞く人たちが自分で解釈したらよいことなのであります。そこに、信仰者としての義務を全うする道があると。

 だから、皇帝に支配されている植民地の民衆として、市民として、果たすべき責任は一方で皇帝に対して果たすと共に、信仰者として、信仰を持つ者として、神に対して果たすべき責務はまた別に果たすのだ、そういう形で、この税金ということを巡る解釈というものを切り分けることによって、イエス様はこのとき、お答えになられたのでありました。

 

 このように答えることによって、問うた人たちに対しての、その人たちを黙らせることができたわけであります。そして、聞いていた人たちは、イエスの答えに驚き入ったとあります。

 

 この現実の世界を、賢く、したたかに生きていくと共に、信仰者としてあなたがどう生きるか、神様に対して何をお返しするか、という所では、一人ひとりに自由な生き方がゆだねられている、そういう形でイエス様はここで教えてくださったのであります。

 

 このような箇所を読んで、皆様は何を思われるでありましょうか。

 

 このように、税金を納めるか納めないか、また、ローマ皇帝に対して税金を納めることは信仰としてどうなのか、というようなことは、現代の日本社会に生きている私たちには、全くといっていいほどピンとこない話、自分がこういう目にあうようなことは想像できないのですから、ピンと来ない話だと思います。

 

 2000年前の古代のイスラエルの話、そしてイエス様は賢い方だったのだなあ、ぐらいのことは思いますが、それ以上には何も思わないかもしれません。

 

 しかし私は、この箇所を読みながら、ごくごく最近に自分自身にあったことを思い出していました。それは、ある買い物をしに行ったときに、この品物を買う時に、品物の保証というものを、通常はメーカーの保証は1年なのですけれど、それ以上の長期保証をするのだったら、このカードに加入して下さったらできますよ、と言われて、あれこれと考えた結果、加入することにしたのです。

 

 ところが、加入します、と言ったらそれで終わりかと思っていたのですが、加入する際にいろんなことに答えなければいけないのですね。収入は、家族構成は、家は、どんな仕事をしているのか、といろいろ尋ねられて、何となくこうしなければならないのかな、と思って答えると、全部パソコンに入力されて、最後に自分のサインをするのですね。タブレットの画面にサインして、私が申し込んだという証明になるわけです。

 

 何となく、めんどくさいなあと思いながら最後までしたのですけれど、家に帰ってから思いました。私はあんなことをしなければいけなかったのだろうか、とふと思ったのです。私のいろんな生活上のデータがそこに入力されていったのですね。そこまでしなければいけなかったのでしょうか。

 

 もちろん、この社会の中で自分が判断したことです。保証が延びるから良いことなのです。でも、なぜそこまで私のプライバシーを知られなければいけないのだろうか。そんなことまでして、私はカードを作らなくてはいけないのでしょうか。もちろん、商売として考えたときには、そうしたほうがいいのでしょう、そのことはよくわかっているのですけれども、ふと思うのです。

 この現代社会の中で生きるというときに、皇帝の名前が刻まれた銀貨を納めるか納めないか、ということでは何も悩まないかもしれません。税金はみんな納めているのだから、これが社会のため、福祉のためにも使われるのだから、義務だから、良いじゃないか、と考えていたら、さほどのことは考えません。

 けれども現状の社会の中で、私たちが、これでいいのだろうかと思いながら、出さなくてはいけないもの、それは税金だけではなく、そんなふうな個人のデータであったり、いろんな所でちょっとずつ、ちょっとずつ、手数料として払っているいろんなお金、そんなことも含めて、私たちはいろんなものを出さなくてはいけなくなっているのですね。それは出さなくてはいけないのでしょうか。

 そんなことを思うのです。そんなところでお金を出すべきなのでしょうか。出さないべきなのでしょうか。それは、たとえば神様の御心にかなっているのでしょうか。かなっていないのでしょうか。

 

 ということを考えたときに、ちょっと私はわからなくなるのですね。いやあ、それは自分で考えたらいいことなんですよ、と言われたら、全くその通りなのですが、本当は必要はないことまで提供しているのではないのかな、そんなことも私は一方で思うのです。

 

 どこまで、この社会の中にあって、自分に対して求められることに、どこまで協力すべきなのか、そうでないのか。そのことを考えたとき、ふと、立ち止まってもいいのではないでしょうか。

 

 今日の聖書箇所において、イエス様はこのように答えられました。
 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

 

 外国の皇帝に支配されている国です。外国の王様と言ってもいいでしょうか。外国の皇帝、王様に支配されている。軍事力によって支配されている。そして皇帝に対しての礼拝まで強要されていた。本当は、私たちが本当の神様と信じる神様を礼拝したいのに、軍事力によって支配してくる皇帝への礼拝すら強制されていた、その時代にあって屈辱に耐えながら、お金まで取られていく。

 やっぱり私たちは、自分の信じていないものによって支配されているのではないでしょうか。イエス様は言われました。その持ち物が皇帝の物であれば、皇帝に返してあげたらいいのだと。それは、私たちがこの世界の中にあって、まったく自由自在に生きることはできない、そういう理解であると思うのです。

 この世界は、誰のものであるのか。権力を持っている者の物なのです。強い力を持っている者が、この世界を治めているのです。この現実認識から離れてしまってはいけないのです。この現実認識から離れて、自分が自由に何でもできるかのように思ってしまうと、私たちは大きな失敗をしていくのでしょう。

 現実を離れて、夢のような自由な世界に没入していくときに、現実から浮き足立って、足が地面から離れて、おかしな空想の世界に迷いこむことによって、かえって自分が持っているものが全部巻き上げられていってしまう、その危険のことをイエス様は知っておられたのだと思います。

 だから、現実はあくまで現実、という形でしっかりとその現実を見つめて、現実に支配している者が所有している物は所有している者に返してあげたらいいのだ、というのです。

 では、現実の中で私たちは一体どうしたらいいのでしょうか。

 

 このことを考えるときに、私はある牧師がこの聖書箇所を通して語っていた説教を思い起こします。それは、どんな説教だったかというと一部分しか覚えていないのですが、次のような説教でした。

 デナリオン銀貨には皇帝の肖像と名前が刻まれています。では、私という名前の硬貨には、何が刻んであるのでしょうか。私の顔が刻んであるのでしょうか。いや、そうではありません。私という名前の硬貨には、神様の像が刻まれているのです。だから、だから、私という名前のこの硬貨は、神様にお返しするのです。

 

 そのように、ある牧師がこの聖書箇所の説教で語っていました。たまたま遊びに行った教会で、どんな説教をしているのか知りたいから、説教のテープを貸してよといって貸してもらった、ただそれだけのこと、ほとんど遊び心のようなもので聞かせてもらった説教だったのですが、その説教の中でそう語っていたことに、私は大変驚き、また心が打たれました。

 

 ああ、そんなふうに解釈をすることができるのか。私という硬貨には、私の顔じゃなくて、神様の像が刻まれているんだ。それは何を意味しているかというと、旧約聖書の創世記にある、人間とは何かという理解のことを言っているのですね。

 

 神様は人間を、神の姿に似せて創られた。神様に似せて創造されたという話なのです。では、その硬貨というものが目に見える硬貨としてあったとしたら、そこに神様の像というものが、どんなふうに刻まれているかというと、それは分からないのです。誰も神様の姿を見たことはないからです。

 けれども、その硬貨には私の顔じゃなくて、神様の顔が刻んである。私という名前の硬貨は、神様の持ち物なのですよ。そのことを私の心の中で反芻していくときに、その解釈はとても素晴らしいなあ、と思うのです。

 

 というのは、私自身がお金、硬貨というたとえは、ちょっと変な感じもするのですが、何か心にぐっと来るものがあるのは、私が子どものときに、お金、硬貨というものは大事なもので、絶対に無くしてはいけないものとして、手の中にぎゅっと握りしめていた、そんなことを思い起こすのですね。

 

 もらったお小遣い、これをなくしてはいけない。財布の中に入れるのですが、絶対なくしてはいけないもの。もらったお金というものは、かけがえのないものとして思っていました。お金というものは単なる物体、物品ではなくて、その硬貨が、お金があるかないかで、それがなかったら人生が180度変わるかもしれないものです。

 それがなかったら、命が失われるかもしれない、そんな瀬戸際のときに価値を発揮する、それぐらい大事なものであるならば、お金というものは、人間にとって自分自身でもある、自分の一部でもある、あるいは自分の生き写しでもあるぐらいに、大事なものであるのです。

 これは、建前ではなくて、人間の本音としてそう思うのですね。その大事な大事なお金に、何が刻んであるか。そこには神様の像が刻んであるんだ。だから、このお金は最終的には神様のお返しするんだ。つまり、自分の持ち物であるお金、それは最後まで持っていく、大事にするのだけれども、しかし一方で、これは神様にお返しするものなのだと。これを握りしめたままで死んでいくことはできない。

 このお金をどんな形で神様にお返しするか、ということは、一人ひとりが自分の人生をどう歩むかということで考えたらよいのですね。


 目に見える所でのお金は、皇帝に返しますよ。現実はそうなのだから、その現実から離れた所で空想的な人生を送るわけにはいきません。でも一方で、この私という名前の硬貨は、ちゃんと神様にお返ししますよ。

 そういうときに、このお金というものは、たとえで言うならば、私は自分自身がこの親からお小遣いにもらったお金をぎゅっと握りしめていたように、神様が、この私をぎゅーっと握りしめていてほしい。そのことは本当に思うのですね。

 神様からぎゅっと握りしめてくださっている私、であるからこそ、この私は神様に、そのままお返しします。私の人生のすべてを神様にお返しします。自分の手の中に何かを残しておくのではなくて、すべてを神様にお返しします。

 

 お金の話というのは、どこか話しにくい所もありますし、現実に関すること、言いにくいことはいろいろあります。けれどもここでイエス様がおっしゃっているのは、その言いにくい話であるお金のこととか、あるいは政治的にですね、この世の権力に対してどうふるまうのか、信仰者として信仰と現実に矛盾が起こったときにどうするのか、という、ものすごく難しい問題を含んでいます。

 

 それと同時に、イエス様がおっしゃっているのは、この難しい世界の中で、こんなふうに答えたら切り抜けられるのだよ、という、機転を利かしての答えはこうだ、ということ以上にですね、イエス様の言葉を聞いている一人ひとりは、大事な大事なお金として握りしめられている、そういう存在です。

 その大事な存在を、いつか私たちは神様のもとに返していく。感謝して感謝して、この自分を返していきたい。そのことを心から願うものであります。

 

 お祈りをいたします。
 天の神様、私たちが日頃、生活している中にあって、自分が何のための存在であるのか、わからないことが多々あります。そういうことを思うことがあります。でも、そんな中にあって、聖書の言葉を思い起こし、そして大切な隣人と一緒に、この社会の中をどんなふうに生きていくか、知恵を使って工夫をこらして、自分の良心の痛みとも向き合いながら生きていく中にあって、どうぞ神様がその時その時にふさわしい答えを与えてください。そして、私たちの生きる人生の生涯全体が、神様のもとへと最終的に帰っていく存在であることを覚えて、歩むことができますように導いてください。暑い日が続きますけれども、その中で神様のことを忘れずに歩むことができますように、どうぞ導いてください。

 この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。