京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2023年6月の説教

2023年6月4日(日)、6月11日(日) 、6月18日(日)、
 6月25日(日)  礼拝説教

「無学で大胆な救い」

 2023年6月4日(日)京北教会 礼拝説教 牧師 今井牧夫

 聖 書  使徒言行録 4章 5〜20節 (新共同訳)


 次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。

 大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。

 そして、使徒たちを真ん中に立たせて、

 「お前たちは何の権威によって、
  だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。

 

 そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。

 「民の議員、また長老の方々。

  今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、

  その人が何によっていやされたかということについてであるならば、

  あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。

  この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、
       あなたがたが十字架につけて殺し、

  神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、

  イエス・キリストの名によるものです。
 この方こそ、
 『あなたがたが家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。
 ほかのだれによっても、救いは得られません。

 わたしたちが救われるべき名は、
 天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 

 

 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、

 しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、
 また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。

 しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、

 ひと言も言い返せなかった。

 そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、言った。

 「あの者たちをどうしたらよいだろうか。彼らが行った目覚ましいしるしは、

  エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。

  しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、
  今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」

 そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、
 教えたりしないようにと命令した。

 しかし、ペトロとヨハネは答えた。
 「神に従わないであなたがたに従うことが、
       神の前に正しいかどうか、考えてください。
  わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられなのです。」

 

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
      改行などの文章配置を説教者が変えています。
    新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 先週、教会の暦でペンテコステ聖霊降臨日の礼拝を行いました。イエス様が復活なされたあと、弟子たちとしばらくの時間を過ごされたのち、天に上げられました。イエス様が天に上げられて目の前からいなくなった弟子たちは、みな不安がありました。しかし、その弟子たちに対してイエス様は、いずれ天から聖霊が与えられるということを約束して下さっていました。

 聖霊、聖い霊、それは神様の見えざる働きのお姿であります。その聖霊が、イエス様が天に上げられた後に、イエス様を主と信じる弟子たちや、イエス様と共に行動してきた人たち、そうした群れに聖霊が与えられた、天から聖霊が降(くだ)った、ということが使徒言行録に記されてあります。

 

 そして、その日に聖霊によって力付けられた使徒ペトロたちは、新しい力、イエス様のことを世界中に向かって証しをする、その言葉を語る、そのために外国の言葉も語ることができる、そのような勇気と力を与えられて、ペトロたちは宣教する者となりました。

 その日に3000人もの人たちが、そのペトロたちの群れに加えられた、と使徒言行録は記しています。それがペンテコステ聖霊降臨日の出来事でありました。そこから始まって一番最初の教会の人たちがどのように世界に向かって伝道していったかということが記されてあるのが、今日の使徒言行録の箇所であります。

 

 今日の箇所はその中の4章で、この箇所は今日のこの部分だけではなくて、その前の3章1節からずっと続いているかなり長い話の一部分です。その3章の話の前には、2章の所に、いま申し上げましたペンテコステの出来事というものがあって、そこから最初の教会がスタートしたという話があり、そのすぐ後に3章1節からの話が始まるのです。

 その3章では使徒ペトロが、生まれつき足の不自由な男をいやしたという場面があり、その人と出会ったときにペトロは言いました。「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさい。」

 すると、その足の不自由な男の足がいやされて、たちまち立ち上がり、躍り上がって歩き出した。そして歩き回ったり踊ったりして神を賛美した、そういうことが3章に書いてあります。

 それは長らくこの男がいやされないままに足が不自由でいた、そのことを知っている人たちにとって本当に驚くべきことでありました。しかし、そのようないやしのわざが行われたことを聞いた人たちの中には、不安を感じる人たちもいました。特に宗教的な権力者層の人たちは、そのようないやしのわざが行われ、いやしのわざをなしたペトロたちが、人々に向かってイエス・キリストの話をして、そのことによって世の中に影響を与えだしたことに、何か危険なものを感じました。

 そういう宗教的な権力者層の人たちがいたのです。祭司、長老、律法学者、そういう人たちです。その人たちは、このペトロとヨハネたちを捕らえて尋問をすることにしました。それが今日の聖書箇所です。

 今日の箇所において、祭司や長老、律法学者たちから見たときに、ペトロやヨハネの弟子たちは、人をいやすことやイエス・キリストを伝えることによって、社会の人たちを扇動しているというか、世間の人たちに影響を与えて何かをしようとしている、それが世の中の秩序をくつがえそうとしている、そのような疑いをかけられていた中にあって、ペトロが勇敢に答えている、それが今日の箇所であります。

 

 今日の箇所の4章8節には次のようにあります。
 「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか。」


 それに対してペトロは聖霊に満たされてこう答えます。
 「民の議員、また長老の方々。今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがたが家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 

 

 このようにペトロは言いました。勇気を持って、イエス・キリストこそが私たちの救い主であるということを、ここで旧約聖書の言葉を引用しながら証しをしたのであります。

 

 するとどうなったかが13節にあります。
 「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。」

 ペトロもヨハネも元は漁師でありました。律法学者のように聖書をいっぱい勉強しているわけではありませんでした。そんな人が、「わたしたちが救われるべき名はイエス・キリストしかない」と言って、勇敢に証しをしている、そのことがとても驚きでありました。

 しかし、その二人の横に、足をいやしていただいた人が立っている、そこでまさに奇跡が起こったということを証言する人がいたので、ひと言も言い返せなかった、というのですね。

 その事実というものがそこにはっきりと、ある一人の人のいやしを通じて、そこに神の力が働いたという事実がはっきりしている、その自室があるので、このペトロやヨハネによる福音書のような、無学な人たち、普通の人たちが言っている言葉であっても、それは違うとかおかしいとか、言うことができなかったわけです。

 

 そして15節に入ります。
 「そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、言った。『あの者たちをどうしたらよいだろうか。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。』」

 

 彼らは、そういうふうに決めました。そして、ペトロとヨハネを脅しておくことにしたのです。しかし、19節にありますように、ペトロとヨハネは言いました。

 「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」

 このペトロの言葉で、今日の聖書箇所は切らせていただきました。ここでペトロは相手に対して威嚇したり、逆上して怒るというのではなくて、「それが正しいことかどうか考えてください」と言っています。それは、あなたたち祭司長や律法学者の人たちも、よく考えてくださったらきっとわかってくださるばすですという意味です。

 そして、自分たちはイエス・キリストのことを知ったのだから、皆さんに話さざるを得ない、伝えずにはいられない、それを止めることが神様の御心ですか、よく考えてください、とペトロはここで相手の心に訴えかけているのですね。

 

 こうして読むと、このペトロという人は、こうやって情熱的に一生懸命、イエス・キリストのことを伝えているんだな、ということがわかります。だけども、この聖書箇所だけではなくて、福音書使徒言行録の全体を含めて考えると、ペトロがこうやって勇敢に、そして言葉を整えて一生懸命に語っているということは、福音書に出てくるペトロの姿からすると、ずいぶん変わったなあ、と思える姿なのですね。

 

 ペトロは一生懸命な人でした。正義感があり、12人の弟子の中でリーダーでありました。熱血漢のようなところがありました。けれども、しばしばイエスからしかられていました。イエス様のおっしゃることの意味を理解しないままに、自分の思いばかりが先走っていたペトロは、イエスからしばしばしかられていました。

 そして最後には、イエス様が捕らえられていったときに、ペトロはその場から逃げ出してしまったのです。何があってもあなたから離れませんと、その数時間前にはイエス様の前で誓っていたペトロは、自分の身の回りに本当に危険が迫ってきたときに、一目散に逃げ出したのです。

 

 そして、そのことを悔いてペトロは泣いた、そんなことが福音書には記されてあります。そんなペトロが今日のこの箇所においては、このように勇敢に説教し、しかも単なる熱血漢の人というのではない、懸命な働き、賢明な伝道者としてペトロの姿が今日の箇所には記されています。

 このようにペトロが変わったのはなぜでしょうか。それは、ペンテコステ聖霊降臨の出来事があったからです。ペンテコステがあっかからこそ、使徒ペトロはこんなふうに伝道者として勇気を持って新しく出発をしたのだと、そのことを今日の聖書箇所は伝えているのであります。

 今日の箇所は3章から始まっており、それはペンテコステの出来事を記した2章が終わってすぐの3章からに書かれているということであり、その意味は、ペンテコステというものから始まって、弟子たちが具体的にどんなふうに変わったか、どんな伝道を始めたか、ということを現代の私たちに伝えているので、今日の箇所は大変貴重な記録だというふうに言うことができます。

 

 さて、このような今日の聖書箇所を読まれて、皆様は何を思われたでありましょうか。いろいろなことを考えることができます。今日の箇所において、このペトロが言っている12節の言葉、「ほかのだれによっても救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は天下に、この名のほかには与えられていないのです。」イエス・キリストこそが救いである、これ以外の救いはない、ということが言われています。この言葉を皆様はどう受け止められるでありましょうか。

 この言葉を聞いた当時の人たちはどうであったか。13節にあるように、ペトロとヨハネのこのときの態度が大胆であったこと、そして二人が無学な普通の人であるということを知って驚いた、とあるように、このときペトロとヨハネは何か一生懸命に勉強した結果として、学者のように語っているのではなくて、無学な普通の人であると、そういうことがわかる様子だったのです。

 無学の普通の人なのに、どうしてこんなに自信を持って勇敢に、イエス・キリストこそが救いだと、もうこれしかない、この方の名前しか救いはない、と言い切れるのだろうかと、当時の人たち、長老や祭司、また律法学者の人たち、そして民衆、そうした人たちは思ったのでありましょう。

 では、現代の私たちはどのように思うでしょうか。ペトロがこのように言ったように、私たちもまた、同じように言うことができるでしょうか。そのことを考えると、現代のわたしたちが同じことを言えるかというと、ちょっと難しいというか、ちょっと心の中で躊躇するものを覚えるのではないか、と私は思うのです。

 というのは、ここでのペトロの言葉というものは、なかなか現代の私たちがどう受け止めたらいいのか、ということはちょっと迷う所があるのですね。

 というのは、「わたしたちが救われるべき名は天下にこの名のほかには、人間に与えられていないのです」とペトロは言っていますが、そうであるならば、他の宗教を信じている人たちはどうなるのだろうか、ということを現代に生きている私たちは考えることができるのですね。

 世界の各地にいろんな宗教があり、いろんな考え方があり、いろんな国があります。それぞれの宗教が、自分たちの所のことが一番だと言っています。宗教でなくても、いろいろな信念、社会的なものの考え方ということも含めて、また無神論ということもあれば、科学的な考え方というものも含めて、いろんな考え方が世界中にあります。

 その中にあって、この「イエス・キリストの名だけが救い」だということが、言い切れるのでしょうか。もしそう言い切るならば、それはキリスト教絶対主義であると批判されたりします。

 あるいは、「今の世界をよく見なさい、キリスト教イスラム教が対立して大変ですよ、9.11のあのことをどう思うのですか」、そんなふうなことを人から言われたら、私たちはちょっとドキッとしますね。何となく口ごもって何とも言えない、みたいな感じになってくる。いま私たちが生きている現代というのは、そういう時代ではないかな、とわたしは今、個人的にはそう思っているのです。

 その思いを持って今日の聖書箇所を読み直したときにですね、ここの13節に書かれている、この二人が「無学な普通の人」であることを人々が知って驚き……という、この箇所がわたしは気になるというか、ひきつけられるのですね。

 

 というのは、このとき、ペトロとヨハネが、「イエス様こそが救いなんだ」とのことを言ったときに、それは、律法学者たちから見ると、このペトロやヨハネはなんと無学な人なのだろうかとその目に映ったと思うのですね。

 旧約聖書の律法には、こんなにたくさんことが書かれている、神様についてのことが書かれていますが、しかし、それに対して、ペトロもヨハネも自分の経験したことだけを頼りにして、「イエス・キリストの名にしか救いがない」なんて、よくそんなことが言えるなあ、と思い、ペトロもヨハネももっと勉強してから発言したらどうですか、と律法学者や祭司たちであれば思ったのではないかと思うのですね。

 しかし、このときにはペトロとヨハネの隣りに、足をいやしていただいた人が立ってますから、そこにある事実を否定するのは難しいと考えたので、その場ではちょっと何も言えなかった。だから、二人をまず、ここから出して、その後に内々で脅しておこうとなったのです。もうこれ以上、イエスがどうのこうの、と言わないようにちょっと脅しておこう、そういう話になりました。

 ところが、そうやって二人を呼び戻して、これ以上、イエスの名によってあれこれ言うのをやめろと言うと、いや、それはできませんとペトロたちは言いました。わたしたちは見たこと聞いたことを話さずにはいられません、そのうに答えたのであります。

 

 こうしたやりとりを読んでいると、わたしは、ここにあるやりとりは、2000年前のやりとりではなくて、実は現代の真っ只中の、この日本社会で起きている出来事のような気がするのですね。それはつまり、ペトロが主イエス・キリストについて、こう言っている言葉のことです。

 「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

 この言葉を聞いて、たとえばわたしのような人間、ちょっとものの考え方がリベラルで、世界の動向にいつも関心があってですね、世界の宗教がどんな状況であるかと、戦争がどうであるかとか、そうしたことをいつも考えている、わたしのような人間からしたら、このペトロの言葉は、ちょっと違うのではないかと思うのです。

 それは、世界にはいろんな宗教があるということです。これが救いだと世界で信じられているのは、イエス・キリストの名前だけではないのですよね。そしてペトロさんは、自分が経験したことしか知らないから、こんなことを言ってはるんやな、と思うのです。

 

 まさに、ペトロやヨハネは無学だから、普通の人だから、こんなことを言っているのだ、というふうに、いま聖書を読んでいるわたし自身が思っているわけですね。それは、期せずして、イエス様の時代の祭司長や律法学者の人たちが思っていたことと、同じことを、このわたしが思っている、ということにわたしは気がつくのです。

 そして、そのこと自身、自分で気がつくと、ちょっと驚くことなのですが、そのようなわたしに対して、ペトロが、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前で正しいかどうか考えてください。わたしたちは見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」という、このペトロの言葉が、わたしの心にグサッと刺さるのです。

 そうなんです。信仰って何だと思いますか。それは、世界の様子を科学的に分析して、普遍的な原理原則を見つけ出してですね、これが真実なんですよ、と語ること、科学で言えば、万有引力の法則とかあるじゃないですか。そういうことを語ることとは違うんですよ。

 信仰を語るということは、信仰を語るということは、このわたしが経験して、そして皆さんにお伝えせずにはいられないことを語る、それが信仰なのです。今日の箇所から、ペトロやヨハネたたちを通じて教えられるのは、そのことなのです。

 わたしは、今日のこの聖書箇所によって説教するということを考えている中で、ある一つの経験をしました。というか、こういうことがあったのです。

 

 わたしの同志社大学神学部時代の同級生で、わたしと同じく牧師になった友人がいるのですけれど、その彼が病気で死んだという知らせを、知り合いから話があって突然聞きました。彼とは最近ずっとお会いしてしなかったのですが、何年か前に1度電話で話をしたことがあり、また会いたいなと思っていたのです。

 ちょっと遠方に住んでいる友人で、わたしと同じ歳でした。以前から体はあまり強くなかったようですが、大きな病気をしていたわけでもないとのことですが、肺炎による突然の死と聞きました。あいつが、そうなったと聞いたとき、本当に驚きました。

 

 そして、その彼のことを考えたときに、学生のころ、わたしはしばしば彼とよく議論をしていたことを思い出しました。神学部の学生でしたし、また同じ寮に住んでいたのですが、食事などで一緒に行動することもよくありました。また、彼が出席していた教会に、わたしも一緒にお邪魔していたというか、出席させていただいていたこともありました。

 彼とわたしは、よく議論をしていました。神学について、イエス・キリストについて、これからの教会について。もう今から38年ぐらい前になるのかな、本当に昔のことでありますけれども、よく議論しました。

 そして、彼は読書家でしたし、わたしよりも神学の知識は多かったので、よく言いくるめられていたというか、いくら議論しても平行線と言いますか、交わらなかったこともあったと思うのですけれども、一生懸命にあのころ議論したことを思い出すのです。

 

 そして、あるときこんなことがありました。お互い牧師になって、もういい歳をした40代になってからだったと思いますが、あるときまた再会していろいろしゃべっていたときに、その彼が言ったのです。俺は後悔していることが一つあってなあ、と言うので、何でや、何や、と聞いたら、俺は神学の本はいっぱい買って持っていたけれどな、あの神学の本は、実はあんまり読んでなかったんだ、ということを彼は言ったのですね。

 

 わたしは彼の部屋に遊びに行ったときに、本棚にいっぱい神学の本が並んでいるのを見て、こんなに勉強しているのか、すごいなあと思っていたのですけれども、実はほとんど読んでいなかったという話を聞いて、何だったんだと思ったのです。そんな彼のことを思い出しました。

 

 すると、今日の聖書箇所にある「無学な普通の人」という言葉が、何だか私の心に響いてくるのですね。

 わたしの友人、彼はもう死んでしまいましたから、彼はもうこれ以上、勉強するということはできません。それは当たり前のことですが、わたしの思い出の中では、彼は、あのとき以上に勉強することはなく、その時代の中でとどまり続けています。すると、今から10年、20年、30年経ったときに、彼が生きている間に考えていたことは、はるか昔のことになってしまい、もう意味が無くなっていくのでしょうか。

 そうではないと思います。人間の考えることというのは、どれだけ本を読んできたか、どれだけ勉強してきたか、ということに意味があるのではなくて、その人が経験してきたことの中で、これは人に伝えずにはいられないことを伝える、そのことをしてきた、そのことが一番大事なのです。

 

 わたしは彼のことを、これからも覚え続けます。彼は無学な普通の人でありました。しかし、自分が人に伝えたいことを一生懸命になって伝えてくれました。そのことを思出すときに、わたしは思うのです。

 信仰とは何であるか。信仰とは、世界のすべてのことを勉強して、普遍的な原理原則を見出して、それを伝えることではなく、信仰、それはわたしが経験したことで人に伝えずにはいられないことを、そのまま伝えるということなのです。それを聞いた人がどう考えるかは、その人が考えたらいいのです。

 そうやって、世界の中にキリスト教は波紋を広げていきます。今日の聖書箇所において、ペトロやヨハネが世の中に波紋を広げているように。しかし、それは単に人間的な思いの波紋ではなく、ペンテコステ聖霊ということによって引き起こされていく波紋です。

 その波紋の行く末がどうなるか、わたしたちはその最後まで見届けることはできませんけれども、イエス・キリストということ、そこに与えられている神様の御心、そこから始まる、その波紋の中をわたしたちは生きています。

 

 一人ひとり、自分自身が人に本当に伝えたいことを伝えずにはいられないことを伝えてまいりましょう。

 お祈りをいたします。
 天の神様。わたしたち一人ひとり、自分の生活の場にあって、その人生の中にあって、与えられるたくさんの恵みがあることを感謝します。その恵みに応えて一人ひとり、自分の言葉で隣人に向けて、そしてまたこの社会の中にあって、イエス・キリストを証しし、神様の御心を伝え、聖書の御言葉を共に分かち合って、この世のまことの平和を、神様からいただいていくことができますように、わたしたちを用いてください。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

「お金でなく人の手で」

 2023年6月11日(日)京北教会 礼拝説教 牧師 今井牧夫

 聖 書  使徒言行録 8章 9〜24節(新共同訳)


 ところで、この町に以前からシモンという人がいて、

 魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。

 

 それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、

 「この人こそ偉大なものと言われる神の力だ」と言って注目していた。

 人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。

 

 しかし、フィリポが神の国イエス・キリストの名について

 福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。

 シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、

 すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。

 エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、

 ペトロとヨハネをそこへ行かせた。

 

 二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。

 人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、

 聖霊はまだだれの上にも降(くだ)っていなかったからである。

 

 ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

 シモンは、使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見、
 金を持って来て、言った。
 「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、
  わたしにもその力を授けてください。」

 すると、ペトロは言った。

 「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。

  神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。

  お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。

  お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。

  そのような心の思いでも、赦(ゆる)していただけるかもしれないからだ。

  お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、
  わたしには分かっている。」

 

 シモンは答えた。

 「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、
  主に祈ってください。」
 

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
   改行などの文章配置を説教者が変えています。
   新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

  先々週に教会の暦でペンテコステ聖霊降臨日の礼拝を行いました。その日から続けて新約聖書使徒言行録を順々に、毎週の礼拝で読んでいます。今日は使徒言行録8章9〜24節です。

 聖霊降臨日の出来事というのは、イエス・キリストが十字架にかけられて死なれ、その三日後に復活なされ、そしてしばらくの間、40日間、弟子たちと共に過ごされた後に神様によって天に挙げられました。

 

 そのときにイエス様は、弟子たちの目の前からいなくなるだけではなく、やがて弟子たちの所に目に見えない聖霊、神様の聖い霊という形で、神様の力が臨むので、それを待ちなさいと言われました。

 

 そのイエス様の約束の通り、聖霊、それは目に見えない神様のお姿ですが、それがイエス様を主と信じる一人ひとりに降(くだ)ってきました。するとイエス様の弟子たちは、それまでとは打って変わってイエス様のことを世界中に宣べ伝えることができる、その勇気、知恵、力が与えられました。そのことが使徒言行録には記されています。

 そして、そのペンテコステの日から始まった教会、その日には三千人もの人たちがその教会の群れに加わったと記されています。そして、そこから始まった世界中に向けての伝道の様子が、この使徒言行録には記されてあります。

 

 イエス様の弟子であるペトロやヨハネという人たちを中心にして始まった伝道は、地中海沿岸、また世界各地へと広がっていきます。今日のこの8章の箇所は、そうした最初のころの教会の伝道が世界中に広がっていくときの、その中の一つの出来事を記しています。

 

 9節以降にはこう書いてあります。

 「ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、『この人こそ偉大なものと言われる神の力だ』と言って注目していた。人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。」

 

 このように書いてあります。その当時においては、魔術というのは、この一般的によくあったようなのですね。現代の私たちから見ると、そんなことってあるものか、と思うようなことでありますが、しかし、その魔術を使うことによって人々を驚かせて、人々の気持ちをひきつけていった、そうしたことをする、シモンという人物がいたことが記されています。

 

 続けて12節以降にこうあります。
 「しかし、フィリポが神の国イエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。」

 

 フィリポという人が、当時のペンテコステ聖霊降臨日以来の教会の、世界各地への伝道の一つをを担っていたのです。そして、そのフィリポの働きによって、サマリアの地域の多くの人たちがイエス・キリストを主と信じるようになりました。

 その中で、魔術を使って人々を驚かせていたシモンという人もまた、イエス・キリストを主と信じて洗礼を受けました。そしてこのフィリポという伝道者に従っていたのでありました。

 続いて14節にはこうりあります。
 「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。」

 聖書のほかの箇所にもありますように、イエス様の12弟子の一人だったペトロとヨハネは、当日の最初の時代の教会の中心人物でありました。そして、サマリアというのは都エルサレムから遠く離れた地域であり、福音書の中ではこのサマリアという地域は、ユダヤ人たちの都エルサレムの人たちから見ると異教の地、外国の地だと考えられて、ふだんの付き合いをしていなかったのです。それは地理的だけでなく民族的、宗教的な理由がありました。

 「良きサマリア人のたとえ」と呼ばれる話が福音書にありますが、ユダヤの人たちはふだんサマリアの人たちと交流をしていなかったということが記されています。その人たちの中でイエス・キリストの福音を受け入れた人たちがいる、ということを都エルサレムにいた人たち、それはイエス様の12弟子を中心とした人たちでありますが、その弟子たちがそれを聞いて、それは大変素晴らしいことだと感謝をして、当時の弟子たちの中心人物であったペトロがヨハネサマリアに地に送った、ということがここに書いてあります。

 

 そして15節。
「二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降(くだ)っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」

 

 

 ここで聖霊という言葉が出てきています。聖霊、それは目に見えない神様のお姿であります。「三位一体(さんみ・いったい)」という言葉があり、キリスト教の神学の言葉でありますが、聖書に記されている神様は、この世界を造られた天の神様、そして主イエス・キリスト、一人の人であり神の子であるイエス・キリスト、そして目に見えない聖霊。この、神様、イエス様、聖霊、この三つのお姿はどれも一つの神様の三つの現れである、というふうにキリスト教の神学では理解をしています。

 その神様ご自身の、目に見えない働きの姿である聖霊、それはまだこのサマリアの人たちには来ていなかったので、ペトロやヨハネが人々の上に手を置くと彼らは聖霊を受けたとあります。それは、このペトロとヨハネたち12弟子がイエス様から直接教えを受けていた、そのことを通して、この聖霊のお働きも、ペトロやヨハネが伝える言葉を通してということだったのでありましょうか。そういう形で、この聖霊が降(くだ)ったということが書いてあります。

 使徒言行録の記述によると、聖霊が降ることによって、人々はイエス・キリストのことを世界中に向かって証しをして伝道する人になります。それから、伝道するときにあたって、病をいやす力も与えられます。

 それは、人の痛みや苦しみをいやす力と言い換えてもよいと思いますが、そうした、この世界にあって生きる人々の悲しみや痛み苦しみ、そうしたものをいやす力が、聖霊によって与えられていたのであります。

 

 そして、18節に続きます。

 「シモンは、使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見、金を持って来て、言った。『わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。』」

 ここで、この18節の「霊」という単語には、コーテーションマークといって記号が前後にチョンチョンとつけられていますが、これは新共同訳聖書が作られたときの決まり事で、一般的な意味での「霊」ではなくて、「神様の霊」ということを意味するときに、この記号が付けられています。つまりこれは聖霊ということを意味しています。霊というと、悪霊とか人間の霊、魂とか、そういう意味でもありますが、そうではなくて神の霊ということを言っているわけです。

 

 その聖霊が、ペトロやヨハネが手を置いた人々に与えられるのを見て、シモンは、「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」と願ったのですね。すると、どうなったでしょうか。

 

 「すると、ペトロは言った。『この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦(ゆる)していただけるかもしれないからだ。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。』」

 

 このようにペトロは厳しい言葉を語りました。神様の聖霊というのは、お金を持ってきたら手に入れられるようなものではないのだと言ったのであります。

 それを聞いたシモンは答えます。

「シモンは答えた。『おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。』」

 

 今日の聖書箇所はここで区切らせていただきました。こうして今日の箇所では、サマリアの人たちの所にペトロやヨハネが行って、イエス・キリストの福音を宣べ伝え、そこに聖霊が降り、こうした力強い働きがなされたことが書かれています。

 そのようになるには、このフィリポという人がいて、サマリアに伝道したということが記されています。イエス様の12弟子だけではない、いろんな人たちがこうして、この最初の時代の教会において伝道し、それまでは伝わらないと思われていた所にもどんどん伝わっていった、その伝道の広がりということが伝わってくる箇所でもあります。

 さて、今日のこのような箇所を読まれて、皆様は何を思われたでありましょうか。今日の箇所を読むとき、冒頭に「魔術」という言葉が出てきます。この言葉を見ただけで何となく、わたしたちは気持ちが引くといいますか、これは現代の話ではなくて2000年前のパレスチナ、中近東のお話、何かの昔話といいますか、民話の世界というか、古代の迷信深い世界の話という気がするのですね。

 

 とても、この現代の日本社会に生きているわたしたちと同じ世界とは思えない、そんな世界に思えます。そんな世界の中で、魔術師のような人が出てきて、どうしたこうしたということで、自分にも聖霊の力がほしいと願ったけれど断られたとか、そんな話を読むと、これは現代の話ではなく、科学とかの発達していなかった古代の世界のお話というふうな気がしてきます。

 

 そういう意味で今日の聖書箇所は、読んでもそれほど何か心を動かされるものがないような気がするのではないでしょうか。わたしはこの箇所を一読したとき、そんな感じがしておりました。使徒言行録の中にいろいろと出てくるエピソードの一つでしかないような気がしていたのです。

 しかし、この箇所を読みながらいろいろ考えておりますと、ふとわたしの心の中に思い当たることがありました。といいますのは、この魔術を使う人ということについてです。いま、現代の日本社会の中で、私は魔術を使います、という人はちょっとあまりいないかな、聞いたことがないと思うのですけれども、しかし、現代においても「怪しげなことを言う人」というのは、結構たくさんいるのではないかと思ったのです。

 もちろん、それは魔術とは言いません。ここで魔術と言われているのは、いわゆるマジック、手品のようなことを言っているのではありません。そうした出し物、エンターテイメント(娯楽)としての手品のようなことを言っているのではなくて、こういう言葉を唱えたら病気が治るとか、お金持ちになるとか、あなたの人生が変わるとか、そういうたぐいですね。

 

 現代の日本でも、魔術とは言いませんが、そうしたことを言う人はたくさんいるのではないかと思うのですね。それはたとえば、何かよくわからない占いのようなことであったり、あるいは新興宗教と呼ばれるような何かの宗教的なことであったりします。

 

 また、宗教とは言わないけれども、中にたとえば自己啓発セミナーとか、あるいは何かの新しい考え方だと言って、新しい生活スタイルを宣べ伝える、そのことによって人の生活が変わるような、病気も治るとか、家族関係がうまくいくよと言って、人々の心をひきつけて、そしてお金を集める、そうした事柄というのは、結構、現代の日本にもたくさんあるのではないか、と思うのです。

 そしてまた、そうした、いかがわしいと思えるようなことだけではなくて、たとえば商品の販売で、「これは何にでも効きますよ」というようなおかしな宣伝の仕方がありますよね。

 また、政治の世界でも、何だかよくわからないのだけれど、この人の所についていったら日本の未来が明るくなるよ、そんな形で与野党ともにと言っていいかもしれませんが、これは少し失礼かもしれませんが、政治の主張がいろいろ出てくる中では、ちょっと首をかしげるようなものも出てきて、よくわからないけれど、でも人をひきつける魅力がある、そうしたものがあると思うのですね。

 そのようなとき、それを魔術という言葉で表すことはしませんが、何か怪しげなこと、科学では説明できるわけではないけれど、しかし、この人は立派だとか、この人の考え方を学べばあなたの人生が変わると言われて、それについて行ってしまう人たちもそれなりにおられる。そういうときに、残念ですが、そのことでお金を集めたりグループを大きくしたりする、そういうことは、確かに現代の日本でもありますね。

 そうしたことが、2000年前のこのサマリアの地域にもあったのです。それは今日の聖書箇所で言えば、シモンという一人の人のことでありました。「魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで小さな者から大きな者に至るまで皆、この人こそ偉大な者と言われる神の力だと言って注目していた」とあります。

 

 人々が彼に注目していたのは「長い間、その魔術に心を奪われていたからである」とあります。シモンという人が、どういうやり方をしていたのかはわかりませんけれども、何か人の心をひきつける力や言葉があったのです。イエス・キリストの福音がこの地域に宣べ伝えられるまでは、シモンはそうして何らかの形で人の気持ちをひきつけていました。

 しかし、フィリポという人がイエス様のことを伝道し、神の国の福音を伝えたとき、人々はシモンではなくイエス・キリストの福音を選んだのです。多くの人がそれを信じ、イエス様を信じて男も女も洗礼を受けた。そして、何とシモン自身もイエス様を信じて洗礼を受けたというのですから驚きであります。

 

 それまでシモンは、このサマリアの地域でおそらく威張っていたのでしょう。ところが人々がシモンの話ではなく、イエス・キリストに乗り換えていくのを見て、乗り遅れてはいけないと思ったのでしょうか。シモンもまたイエス様を信じて洗礼を受けたというのです。

 そして、シモンはこのフィリポという伝道者に従って、素晴らしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていたとあります。ということは、シモンもクリスチャンになって、伝道者のフィリポに従ったのですね。

 こうしてシモンという人が当時有力な人物であったとしたら、その人がイエス・キリストを信じてフィリポに従ったということは、フィリポがしていた伝道活動にもおそらく大きなプラスになっていたのだろうと想像することができます。

 そして、その伝道がサマリアの地域で大きな成功を収めたので、都エルサレムにいた12弟子の中でペトロとヨハネがこのサマリアにやってきたわけです。そして、神様の聖霊、目に見えない聖霊が降るようにと人々のために祈った、そのことによってペトロやヨハネを通して、人々は聖霊の働きによって病気をいやす力、あるいは人の痛み、苦しみ、悩み、そういうものをいやす力を、聖霊という形で与えられたわけであります。

 

 このとき、このシモンという人も、そのようにペトロとヨハネがしたことによって、人々に聖霊が与えられていく様子を見て、自分もその力がほしいと思ったのです。そこで、シモンはお金を持ってきて、自分が手を置けば誰でも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてくださいと願いました。そうすればシモンは自分もペトロやヨハネのようになれると思ったのです。

 お金を持ってきてそれを願った、という所に、シモンがどういう人であったか、ということが表されています。それまで、シモンが魔術を使って人々を驚かせ、人々の気持ちをひきつけていたときに、それはお金というものを必要としていた働きでありました。

 お金を持ってきたら、魔術をしてあげよう、ということで、お金があれば魔術で人を救える、シモンはそうした人だったのです。それと同じようにペトロやヨハネたちに対しても、お金を持ってきて、わたしにもその力を下さいと言ったのでありました。

 

 このような箇所を見ると、シモンにとって、イエス・キリストを信じるということは、自分がかつて魔術をしていたということと、同じレベルで考えられていたということがわかります。

 シモンが、そのように言いますと、ペトロは言いました。
 「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだお前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。。」

 

 こうしてペトロはシモンを叱ったのでありました。そして、悔い改めということを命令します。

「この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦(ゆる)していただけるかもしれないからだ。」

 ずいぶんきびしい言葉でありますが、シモンは答えました。

「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」

 滅びてしまえと言われることに対して、それをそうならないようにとシモンは、このとき悔い改めて願ったのでありました。こうして読みますと、このシモンという人は実に、なんて言いますか、現金な人と言うのでしょうか、都合のいい人だと思うのですね。

 

 かつては魔術をして人の心をたぶらかしていたのです。ところが、それが通じなくなって、イエス・キリストの福音のほうが人々の心をとらえると、すぐにそっちに乗り換えたのです。そして、乗り換えて今度はお金を持ってきて、自分も伝道者になるから頼む、と言ってもダメで、ダメだと言われたら、すいませんとばかりに謝るのです。

 

 正直、調子のいい人だと思いますし、愚かな人だなあとも思います。けれども、どうでしょうか。わたしはこの箇所を読んでつくづくいろいろと考えました。現代の日本社会でもそうでありますから、怪しげなこと、いかがわしいことで人の心をひきつける、そうした何らかの働きがある、なぜそういうものがあるのでしょうか。

 これはいろんな考え方があり、分析とかいろんなことが言えると思うのですけれども、わたしの心の中ではですね、社会的に恵まれない立場、お金を持たない人、つまり貧しさ、つまり何と言ったらいいのでしょうか、貧しさの中にあって真っ当な努力によってお金を得ることができない人ではないかと思うのです。

 何らかの形で本当にこの社会の中で真っ当に働いて、真っ当な努力によってお金を得ることができない人、何らかの形で本当にこの社会の中で真っ当に働いて、真っ当に生きていくということの難しさに直面した中にあって、やってはいけないことだとはわかっているけれども、そうしたことに1度手を染めてしまって抜けられなくなって、いまもやっている、そういう人たちのことをわたしは思ったのです。

 悪いとはわかっている、詐欺まがいであるとはわかっている。詐欺ではなくても詐欺まがいである。しかし、やってしまうと、詐欺まがいの言葉や方法によって引っかかってくる人たちがたくさん出てきます。

 その人たちに対して責任を果たさなきゃいけない、その詐欺まがいのことを繰り返していく、そんなことから抜けられない働き、というものがあるのではないかと私は思っているのです。

 

 この社会の中で真っ当に努力して、真っ当に生きられたら、それがいいですよ。でも、家庭の環境であったり、社会の環境であったり、いろんな問題の中にいて、そうできなかった人間が、いつしかそうした詐欺まがいの方法、そのことに手を染めてしまっている、その中でしか生きられない人たちというものを、わたしたちの社会が生み出しているのではないでしょうか。

 

 そう考えたときに、今日の箇所に出てくる、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせて、偉大な人物だと自称していたシモンという人も、もしかしたら、そうした人々の一人であったかもしれないのです。

 このシモンは、元は人のいい人なのです。人柄がいいのです。結構単純な所があるのです。だから、自分の魔術に人々が振り向かなくなって、みんなイエス・キリストのほうに乗り換えていったら「私も」とシモンもイエス・キリストに乗り換えて、伝道者のフィリポにいつも付き添って従い、と書いてありますから、フィリポの近くにいて一緒に熱心に働く人になったわけですね。

 

 そしてさらに、病のいやしや、人々の悩み苦しみ、痛みをいやす力を、聖霊という形でペトロやヨハネから与えられるのを見たときに、あっ、これは素晴らしいと思って、これをわたしもやりたい、と思って、わたしもこれをやらせてください、と言ってきた、このシモンという人は、ちょっと考えが浅いかもしれないけれど、しかし何とも人のいい人だったのではないかと思うのですね。

 

 お金を持ってきたら、きっとこれができるのだと信じていたシモン。彼の人生にとって、お金が一番だったのです。だから当然、お金を持ってきたけれども、そのときにペトロから厳しく叱られました。

 「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦(ゆる)していただけるかもしれないからだ。」

 いかにシモンが、フィリポという伝道者に従って一緒になって伝道して、いい働きをしていたのでありましょうけれども、だからといって、お金を持ってきたら、聖霊を人に授ける力がもらえるわけではない、それはお前の心が神の前に正しくないからだ、というのです。

 そしてこう言います。23節。

「お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」

 ここにはペトロが、このシモンという人がどんな人であるかを見通していた、ということが示されています。悪の組織の一人だったのです。魔術と称して詐欺あるいは詐欺まがいのことをして、人をたぶらかし、そのことによって、この人は偉大な人物だと自称していたのです。「この人こそ偉大な者と言われる神の力」とまで言われて、人をひきつけていたのです。

 

 シモンはそういう詐欺、あるいは詐欺まがいのことをしてきた腹黒い人間でありました。しかし、そのシモンがこのとき、まず最初にフィリポという伝道者に出会います。そしてこうしてイエス様の12弟子であるペトロやヨハネに出会って、ペトロからしかられます。

 

 そして、シモンは答えました。

 「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」

 ここでシモンは心から悔い改めたのです。悪人がイエス・キリストの福音に出会ってしかられることによって、シモンは悔い改めたのです。

 わたしは、この箇所を読んで思い出したのですが、1980年代のころに大阪で学生たちの現場研修というものがあって参加したことがあります。大阪の地域で、日雇い労働者の町だった釜ヶ崎、そして在日韓国・朝鮮人の方たちの多い町でした。大きな下町が広がっていて、様々な社会的な課題がある、その中には貧困もあれぱ家庭の事情の問題であったり、教育の問題であったり、そうした社会的な課題を学びました。

 そうした研修活動の中で、ある一人の人がこんな主旨のことを文章に書いておられました。いまの若い人たちは、放っておくといわゆる反社会的な勢力に取られてしまう。そうした誘惑があるのだということでした。

 それに対して学童保育とか地域活動とか、そうした活動をする側が取るか、そうした悪い方向に取られていくのか、そういう現場にあるのだと、そんな主旨のことを、その現場で働いているクリスチャンの方が、文章を書かれていたことを思い出すのです。

 この社会の中にあって、人の目が向けられないようなこの苦しみ、詐欺まがいの働き、そんな働きに取り込まれていく若い人たちがいる、そのなかでキリスト教は何を語るのか。そして、罪の悔い改めを語っていく、聖霊の働きということを語っていく、まさにそうした働きが必要とされているのだと思います。

 今日の聖書箇所にも、そうしたことが言われているのです。これは2000年前の時代に、魔術を信じていた迷信深い人たちの物語ではありません。現代社会の中にあって生きながら苦しんでいる多くの人たちを救う、主イエス・きリストの救いの物語であります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様。わたしたちが暮らしているこの社会の中にあって、常に救いを必要としている人がいます。そして、その救いは今ここにいる、私たち一人ひとりも必要としている救いであります。この社会の中にあって何かに飲み込まれ、何かにからめ取られていく、そして結局は自分の生きたい生き方ができなくなっていく、そんなふうなこの世界の中にあって、神様、どうか一人ひとりの人間を救い出して下さい。そして、そのために教会を用い、また、様々な社会の福祉や様々な国や社会の制度を用いてください。そしてそのために私たちの教会も祈り、またペンテコステ聖霊の働きによってイエス・キリストを宣べ伝え、罪を悔い改め、この社会にあって苦しむ、人間一人ひとりが共に生きていく、そのことにわたしたちの教会も働くことができますようにお導きください。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

「今、彼は祈っている」
    2023年6月18日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  使徒言行録 9章 1〜16節 (新共同訳)


 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、

 大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。

 それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、

 エルサレムに連行するためであった。

 

 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、

 突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、

 「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。

 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。

 「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。

  そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」

 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、
   ものも言えず立っていた。 

 サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。

 人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。

 サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。


 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。

 幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、

 アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。

 

 すると、主は言われた。

 「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、
    ユダの家にいるサウロという名の、

 タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。

 アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、

 元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」

 

 しかし、アナニアは答えた。

 「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、

  あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。

  ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、
  祭司長たちから権限を受けています。」

 

 すると、主は言われた。

 「行け。あの者は、異邦人や王たち、
  またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、

  わたしが選んだ器である。

  わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、
  わたしは彼に示そう。」

 



  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
   改行などの文章配置を説教者が変えています。
   新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教) 

 

 5月28日にペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝を行いました。それから教会の暦は、聖霊降臨節と言う時期に入っています。この時期に入り、使徒言行録の箇所を抜粋しながら、続けて礼拝で読んでいます。今日は9章の冒頭からであります。

 ここには「サウロの回心」という小見出しが、新共同訳聖書ではつけられています。こうした小見出しは、新共同訳聖書が作られた時に読み手の便宜を図ってつけられたものであり、元々の聖書にはないものであります。

 今日の箇所に出てくる、サウロと言う人の名前は、後にパウロと呼ばれる人と同一人物の名前であります。サウロとはヘブライ語の表現で、これが後にはパウロと呼ばれていくのでありますが、今日の箇所では回心する前のこととして、サウロという名前で呼ばれています。

 1節から読んでいきます。「さてサウロはなおもでした状況博士意気込んで大祭司のところに行きダマスクの社会党宛のそれは出したら男女問わず縛り上げエルサレムに転向するためであった」とあります。

 サウロという人は律法学者としての教育をずっと受けてきた人であり、当時のユダヤの国の中にあって宗教的なエリートであったといってよいと思います。宗教的なエリートであるサウロにとっては、クリスチャンの人たちは目の敵でありました。

 なぜならば、イスラエルの人たちが大切に受け継いできた聖書、今日の私たちで言えば旧約聖書に当たります、この聖書の中に記されているたくさんの律法、神様から与えられたモーセ十戒を始めたくさんの決まり事が律法です。

 

 生活と信仰における決まり事、それを律法と呼びますが、その律法を正しく守ることによってこそ、人は神に救われると信じていたサウロにとって、クリスチャンとは、律法によらず人は救われる、イエス・キリストの福音によって救われる、と信じる人たちでした。

 だから、それは今まで人々が信じてきた律法への信仰、そこから離れたもの、それを妨害するもの、伝統的な信仰を妨げるものだと考えていたサウロは、クリスチャンの人たちを憎んでいたのであります。

 サウロ自身は、それまでイエス・キリストに出会った事はありませんでした。ですから、サウロが知っていたイエス・キリストのイメージとは、すべて人から聞いたものでありました。

 

 たとえば、サウロがクリスチャンの人たちを迫害したときに、自分が迫害した相手のクリスチャンから聞いたイエス・キリストの姿、イエス・キリストの言葉、そうしたものがサウロにとってのイエス・キリストのイメージでありました。

 律法を守ることによって救われるのではなく、ただ神を信じる信仰において救われる。そうした形でクリスチャンが宣べ伝えていた、イエス・キリストの福音、良き知らせと言うものは、サウロにとっては敵でしかありませんでした。

 その敵側のクリスチャンたちを迫害するのが、自分の使命と信じていたサウロ、そのことが神の御心であると信じていたサウロは、さらに主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで進もうとしていたのであります。

 

 ところが3節以降を見ますとこうあります。
 「ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。」

 

 突然こんなことが起こったのでありました。そして後にこう続きます。
 「『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』」

 

 このようにして突然に、光がサウロの周りを照らして、その中でサウロは目が見えなくなり、さらにそこでサウロに呼びかける声がありました。それはあろうことか、自分が今まで迫害してきたクリスチャンたちが信じていた、イエス・キリストであったのです。

 そのようなイエス様の言葉は、この時サウルに同行していた人たちには、声は聞こえても姿も見えなかったとあります。つまり、一体何が起こったのかわからなかったようです。そして、サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

 その後にサウロは地面から起き上がって目を開けたが何も見えなかった、人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った、とあります。このときにサウロはもとは、クリスチャンを迫害するためにダマスコに行こうとしていたのでありました。しかし、その目的とは全く違ったことになりました。

 そこで場面は変わり10節に入ります。

「ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、『アナニア』と呼びかけると、アナニアは、『主よ、ここにおります』と言った。すると、主は言われた。『立って、「直線通り」と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。』」

 「しかし、アナニアは答えた。『主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。』」

 

 「すると、主は言われた。『行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。』」

 この、最後のイエス様の言葉の所で、今日の礼拝で朗読する聖書を区切らせていただきました。このあと、18節以降にあるように、アナニアはサウロの所に行き、イエス様の言葉を伝えて、あなたが元通り目が見えるようになり、また聖霊に満たされるようにと私をお遣わしになったのです、とアナニアはここでサウロに向かって語ります。

 すると、18節にあるように、たちまち目からうろこのようなものが落ちて、元通りに見えるようになった。そこで身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した、とあります。

 こうして、サウルの人生というものは一変をしたのでありました。このときに起こった出来事は、実際にはどういうことであったか、ということは、私たちはタイムマシンがないので確かめようがありません。

 しかし、今日のこの箇所に書いてあることを、サウロつまり後のパウロは、各地の教会に送った手紙の中で何度か記されて、何度も同じことが言われています。今日の箇所に書かれているような事が起こったと言うのでありました。そして、この使徒言行録の中にも、今日の箇所のようにサウロの回心が記されてあります。

 これらのことは、今日の箇所の出来事が、サウロの人生にとって大きな転換点であったとともに、キリスト教の歴史においても大きな転換点であったと思います。

 イエス・キリストを直接に知るペテロやヨハネなど12人の弟子たち、またそれ以外にもイエスに実際に従った人たち、そうした人たちの中でイエス・キリストが伝えられ、そこからペンテコステ聖霊降臨日の出来事が起こりました。そのあと、弟子たちが世界各地に勇敢に宣教をして、イスラエルの地において都エルサレムから宣教が伸びていきました。

 その後に、イエス様と直接出会ったことのない、このサウロ、かつては熱心な律法学者でクリスチャンを迫害する立場にあった者が、イエス・キリストと出会って回心した。この回心は、当時の初代キリスト教の姿の1つのモデルと言ったらよいでしょうか、それを示しているのですね。

 

 これは、たとえば2000年経って現代に生きる私たちもそうですが、私たちはイエス・キリストに直接出会ったことなどありません。直接会ったことなどないのですしかし私たちはイエス・キリストの言葉に出会い、また、教会と出会ってクリスチャンになります。そういうことが許されています。

 もし、使徒ペトロのような形で実際にイエスに従った人その人のことを言葉を聞かなければクリスチャンになれないと言うことになればキリスト教と言うものはイエス様を直接する人人の弟子たちの弟子たちといった本当に狭い範囲の人たちの中で存在していたと思うのですね。

 しかしパウロがこのようにして、イエスキリストがに会ったことがないという人、しかもイエスキリストを迫害する立場だった人が、こうしてクリスチャンになったことによって、クリスチャンと言うのは誰でも、ある日突然になることができる、ということを身をもって示してくれたのであります。

 

 それは当時の、それまでの宗教というものに対する考え方を、ひっくり返すあり方でした。宗教とは何か。それはいろんな考え方がありますけれども、その宗教の中心にいる人がいて、その人から学んだ人が次の人に伝えていく、そんな一子相伝のような形で、順々に権威というものが次の権威を生んでいく。そのためには権威の構造が必要になってくるのですね。

 一番上の権威の下に弟子たちがいて、その次に続くお弟子さんたちがあって、というように、三角形の階層の構造、ヒエラルキーというものがあって、そこで宗教というものが形作られていく。宗教というものは、そういう面があると思います。

 

 それに対して、今日の箇所にある使徒パウロの回心は、そんな階層のような構造から、全く離れた所で、ある日突然に起こったことなのですね。そして、パウロはこの出来事のあと、すぐにではありませんけれども、しばらくの時間をおいたあとにキリスト教の伝道者となって、再出発といいますか、出発をしたのであります。

 

 そして、そのあとにペトロたち、つまりイエス様のことを直接知っている弟子たちから話を聞き、教えを受けて、イエス・キリストについての考え方を共有し、そしてペトロたちは主に、イスラエルつまりユダヤの人たちに福音を伝え、パウロは主に、地中海沿岸の新しい地域にイエス・キリストのことを伝えていく、つまり異邦人伝道という形で、両者は共に伝道したのであります。

 そして、お互いに棲み分けをする形で、ペトロたちの教会も、パウロたちの教会も、両方が進んでいく。そうした道をたどったわけであります。そのあと、世界史的にはどのように展開したかというと、パウロの側の異邦人伝道による教会の方が、世界の歴史の中で残って続きました。地中海沿岸、そしてアジア・アフリカ・ヨーロッパ、いろいろな所へとキリスト教は広がっていったのであります。

 

 それに対して、都エルサレムで始まったペトロたちの教会は、その後にユダヤの国とローマ帝国ユダヤ戦争、そうした様々な大変な出来事の中にあって、歴史の中で、神様しか知らない形で消えていった、そう言ってよいかと思います。

 消えていったといっても、それは意味がなかったとか、知らない間にどこかに行ってしまった、というのではなく、異邦人伝道によるパウロたちの教会の歴史の中にも、ペトロたちの教会の影響というものが残されていたわけであります。けれども、当初の形では残らなかったといえます。

 すると今日の箇所にあるパウロの回心の出来事は、単にパウロという一人の人の人生の転換だけではなく、キリスト教の歴史の出発点における最初の大きな転換点であり、そのときから世界に出て発展していくキリスト教の第一歩であったのです。

 

 このような今日の聖書箇所を読んで、皆様は何を思われるでありましょうか。これは2000年前の昔の不思議な出来事のように見えるかも知れません。

 けれども、考えてみてください。皆様はお一人お一人、どこかの教会に出会って、聖書と出会って、イエス・キリストと出会いました。そうして、神様と出会った、あるいは神様を信じる友人に出会った、イエス・キリストを信じる人たちに出会った。そうした何らかの形の出会いというものを、私たちはそれぞれの人生の中で思い出として持っています。

 

 そして、その経験を今度は別の人たちに伝えるために、私たちはどんなものの言い方をしているでありましょうか。実際にあったことを、思いつくままに、あんなことがあって、こんなことがあった、と話す仕方もあります。また、そうではなくて、何か1つのことだけを取り上げて人に伝えるという時もあるでしょう。

 また、ときには、自分の過去の経験と言うものを人にしっかりと伝えるために、少し物語の形にして、たとえば起承転結のような形で整えたりすることもあります。また、そうした経験を人に伝えるために、他の人はどんなふうに言ってるのだろう、と思って他の人の書いた文章を見て、神様への信仰というものはこんなふうに書き記すことができるのか、と思って人から学んだ言葉とか書き方を活用する、ということもあります。

 そんなふうにいろんな形で、私たちは自分の思いを人に言葉で伝えるために、苦心惨憺して言葉を整えます。今日の箇所にあります、使徒パウロの回心の物語は、サウロがのちにパウロという名の熱心な伝道者となっていったときに、繰り返し繰り返し人前で語ってきた、ある意味で十八番(おはこ)のような物語だと思うのですね。

 

 というのは、パウロはどうしてクリスチャンになったのか、元はクリスチャンを迫害する立場だったのに、ということをみんな聞きたくなるわけです。

 そのように、どうして、と聞きたくなることに対して、こういうことがあったんですよ、と答えるためにパウロは繰り返し繰り返し、こうした物語を通して一人一人に伝えていく形をとりました。そして、こういう物語の形をとれば、自分の信仰が人に伝わるとパウロが確信した、そうした物語の形をとっているのであります。

 今日の箇所をよく読んでみますと、この物語の中でパウロがイエス様と出会ったのは、パウロが真っ暗闇の中で目が見えなくなった後に、声だけが聞こえてきたとあり、他の人はイエス様に出会っていません。すると、これはパウロの内面の出来事なのですね。

 そして、自分に何が起こったかということを、自分でもよくわからないまま、ただ地面に倒れて目が見えなくなった。その中で、イエス様の声が聞こえた。その声によって自分の新しい使命が示されて、その後に目が見えるようになった。

 こうした経験は、パウロ自身が目の病にかかり、そのために絶望した中で、パウロ自身が迫害してきたクリスチャンから聞いてきたイエス・キリストの言葉が、パウロにとって全く新しく聞こえてきた、そうした経験ではないかと私は考えます。

 イエス・キリストと出会う経験、それを皆さんは、どんなふうに人に話すでしょうか。今日の箇所にあるパウロの話のように、本当にイエス様が私に向かって語りかけてくださったんだ、という言い方をすることもできるのです。

 なぜならば、他の人が横でそのことを見ていたわけではないので、私にとってそう聞こえたんだ、と考えれば、それは自分の内面のこととしてそう語る。そういう文学的表現というものは許されているのです。

 そうして、聖書の物語というものは、客観的な事実を書いているのではなく、その人の内面に起こったことの中で、最も大切なことを伝えるために力を持つ物語、という形をとっています。

 今日の私たちもまた、パウロのようにドラマチックで劇的な経験をしなかったとしても、自分の心の中に何が起こったか、ということを自分の生活、自分の内面、ときには自分の体の調子、それは今日の箇所ではパウロが目が見えなくなって三日間食べも飲みもできなくなったこと、そうしたことと結びつけて、これが私が信じている主イエス・キリスト、神様を人に伝えるための最も良い形なのだと信じる、その形で物語を語る、という事が私たちは許されているのですね。

 パウロがこのように自分の信仰を言い表し、それが文章になって残されています。そのことによって、神様への信仰というものはいろんなスタイルがあるということがわかります。

 それはペトロやヨハネのように、イエス様に直接に出会って、直接に従って歩んだ人たちの経験とは少し違っています。イエス・キリストに直接出会った人の権威というものがなくたって、全く離れたところにいる者であっても、ある日突然神様の声を聞くことによって、私は今日からクリスチャンです、私は今日から新しく生きるんです、と言うことが許されているわけです。

 そしてパウロのように、私しか知らない私の物語、それを皆さんに伝えます、という形で、自分の信仰を語っていくということができるのであります。パウロはこのとき、イエス様によって救われて新しい人生を与えられました。そのパウロの新しい人生においては、新しい表現をする力が与えられていたのであります。

 

 ペンテコステ、それは神様の聖霊が弟子たちに降(くだ)った日のことでありますが、そのことによって弟子たちは、世界各地の言葉を語ることができるようになり、またイエス・キリストのことを世界中に向けて勇敢に証しをすることができるようになりました。

 

 それらのことのなかで弟子たちは、人の病い、また人の痛み苦しみをいやす、その力も与えられました。そしてペンテコステの日から集ったたくさんの人たちは、毎週の礼拝を欠かすことなく礼拝に集い、共に食事をし、共に助け合って生きている、そうした新しい生活スタイルと言うものを作っていったのであります。

 それは決して、キリスト教の権威による階層、ヒエラルキーというものがあって、そこの一番上に立っている人間から順々に下に広がっていく、というような宗教の形ではなく、人がどこにいても、その人に神様の聖霊が降(くだ)ることによって、その人は、私は今日からクリスチャン、私は今日から新しく生きていく、そう宣言していくことができるようになった、ということなのであります。

 

 今日の聖書箇所において、私が注目した言葉は11節の言葉です。「今、彼は祈っている」とイエス様はパウロのことを表しました。

 

 このとき、目が見えなくなって周囲の人に手を引かれて三行き、三日間、目が見えず食べも飲みもしなかったサウロは、今までは律法学者だったけれども、そのように目が見えなくなったら律法を厳格に守ることが、もはやできなくなった自分は神様から最も遠い罪人になってしまった、という絶望の中でパウロは祈り続けていました。

 何にもできなくなったと思っていたパウロは、ただイエスキリストに暗闇の中で出会って、その声を聞いたことだけを頼りに祈り続けていました。「今、彼は祈っている。」それはそれまで信じていた自分の力で、この人生を生きていく力がなくなってしまった、何もできなくなってしまった、しかし彼は今祈っているということです。

 

 そして、そのあとに、パウロは何もできないどころか、キリスト教の出発、そして時代の大きな転換点を自らの人生を通して人に示すことになりました。

 そしてそこから2000年経った現代の私たちもまた、一人一人、神様の言葉を聞き、聖書の言葉に触れて、私はこんなふうに神様を信じました、私はこんなふうにイエス様と出会いました、ということを自分の言葉で語る、表現する、その力を与えられて、一人一人個性を持って生きていくことが許されているのであります。

 

 お祈りをいたします。
 天の神様。今、私たちは祈っています。今、一人ひとりの私たちに神様からの聖霊が降(くだ)りますように。そして、私たちがどこにいても、今日から新しく生きていくことができますように。人間が作り出した宗教の形ではなく、イエス・キリスト聖霊によって自由に解放されて生き、そして隣人と共に愛を持って生きていくことができますように、力付けてください。
 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。アーメン

 

「救う神には何の差別もない」

 2023年6月25日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  使徒言行録 15章 6〜11節 (新共同訳)


 そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。

 議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。

 「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、

  神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。

  それは、異邦人が、
  わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。

 

  人の心をお見通しになる神は、

  わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、

  彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。

 

  また、彼らの心を信仰によって清め、

  わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。

 

  それなのに、なぜ今あなたがたは、

  先祖もわたしたちも負いきれなかった軛(くびき)を、

  あの弟子たちの首にかけて、神を試みようとするのですか。

 

  わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、

  これは、彼ら異邦人も同じことです。」

 

 

 

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
      改行などの文章配置を説教者が変えています。
      新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 5月28日(日)にペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝を行いました。そのとき以来、毎週の礼拝で使徒言行録を続けて抜粋して皆様と共に読んでいます。本日の箇所は使徒言行録の15章です。

 

 先週の箇所では、サウロ、後の時代のパウロのことですが、サウロが回心をした場面を皆様と共に読みしまた。クリスチャンを迫害する側の人間だったパウロが あるときに神様の導きによって回心し、そしてキリスト教の伝道者となった。その決定的な場面を私たちは知りました。

そしてそのうちパウロは地中海沿岸に幅広く伝道し、そしてまた都エルサレムにおいて使徒ペトロたちの、イエス様の12人の弟子たちの教会の人たちとも、話をし、そして多様な活動の中において使徒としての働きをパウロしていたわけであります。

 

 先週の聖書箇所から今日の箇所の間には、そうしたことが記されており、その間には、イエス様の12人の弟子の1人であった、ヤコブが迫害によって殺害されたという悲しい話もあり、またバルナバという非常に熱心な伝道者が立てられた、といううれしい出来事もあり、また、ギリシャなど各地をパウロたちが伝道の旅をしていく中において、波瀾万丈のことが起こっていきますことが使徒言行録には記されています。

 

 ギリシャ文化、またローマの文化、そういったものが大きな影響を持っていた世界にあって、ユダヤの都エルサレムから始まった、ペトロやパウロたちがイエス・キリストの福音を伝える旅というもの、それは様々な困難に出会いながらも、イエス・キリストを主と信じる人が確実に増えていく、そうした伝道が各地に繰り広げられていく中に今日の箇所があります。

 

 今日の箇所には、新共同訳聖書では「エルサレム使徒会議」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは、新共同訳聖書が作られたときに、読み手の便宜を図って付けられたものであり、元々の聖書本文にはありません。

 今日の箇所の少し前の、15章の1節から見ていきます。このようにあります。
 「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた」とあります。

 これは、以前、旧約聖書の律法を守ることによってこそ神に救われる、と信じていた、その立場の人たちでありました。その人たちは、イエス・キリストを信じるようになってからも、律法については同じように考えていたわけであります。

 「それで、パウロバルナバとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。」

 そうした流れによって、使徒たちの会議が開かれたわけです。そして、6節の所からが今日の箇所であります。使徒パウロの言葉であります。

 「そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。『兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。』」

 これはペトロの言葉であります。そして、こう続きます。
 「『人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。』」

 さらにこう言います。
 「『また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛(くびき)を、あの弟子たちの首にかけて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。』」

 今日の礼拝で朗読する聖書箇所は、ここで区切らせていただきました。このペトロの落ち着いた、そしてはっきりと断言する言葉、自信を持ってペトロが語った言葉を聞いた、会議の人たちはこのペトロの言葉を受け入れて、そして律法を守らなければ救われないという考え方ではなくて、律法を守らなくても主イエス・キリストの福音によって救われるという、その考え方において一致を見たのでありました。

 

 これが、今日の聖書箇所の中心なのであります。皆さんは、この箇所を読んで何を思われたでありましょうか。聖書の時代から2000年経った、現代の中で聖書を読む私たちは、旧約聖書の律法を守らなければ神に救われないのか、それとも守らなくても救われるのか、というようなことは、なかなかピンと来ない問題ではあると思います。

 

 宗教に対する考え方、社会のあり方、いろいろなことにおいてて、聖書の時代と私たちの時代は、本当に違っていると思います。けれども、本当に時代は違っているのですけれども、9節の所にこうあります。「また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいませんでした。」

 ここに差別という言葉が出てきています。「何の差別もなさいませんでした」という、この言葉の主語は「神」ということであります。「わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいませんでした。」
と語られています。この差別という言葉に目をとめたときに私たちは、今日の聖書箇所が、2000年前の何か不思議な宗教的な人たちの会議の話というのでなく、現代日本社会に生きている私たちにとっても、大きな意味を持っているということに気づくのであります。

 今日、この現代社会において差別の問題として大きく取り上げられているのは、何の問題でありましょうか。LBGTと呼ばれる方々の人権を巡って、法律の問題がいろいろな形で報道されてきました。以前から扱われている課題であります。皆さんはどのようにお考えでしょうか。

 差別の問題はそれだけではありません。それ以外にも、たとえば出入国管理難民認定法の問題があります。難民申請をしてくる人を難民と認めるかどうか、それは正しいのかどうかと、いろんなことが議論されました。外国の人と今日本社会に生きている人との関係をどう考えるかという問題であります。

 

 他にもいろいろな形で差別の問題が社会で論じられます。いや、これは差別の問題ではなく区別の問題である、と言われるかもしれません。差別の問題であるか、区別の問題であるか、ということもわからないのです、そういう意見もあるでしょう。

 

 そして、声高に論じられるほど、うとましく感じるようになって、そんなあれこれ言わんでもいいのに、というふうな気持ちになることもあるかもしれません。

 差別の問題、また人権の問題というのは、人の心の奥深いところにつながっていて、何かとてもデリケートなことだと思います。そういう意味で、この聖書に書いてある言葉を読むときにも、聖書のここにこう書いてあるから、これこれの差別はだめなのですよ、と言われても、そうは言われても実際には、というようなことを人間は考えてみたくなるのであります。

 

 そんなことを考えていると、なかなか難しいですね。そのように難しい問題だ、ということを考えながら、もう一度今日の箇所を読むと、ここに書かれている事は、当時の人たちにとって、とっても難しいことを議論していたのだな、ということを少し想像することができるのですね。

 旧約聖書に記された律法には、たくさんの規定があります。安息日を守ることというのがあります。モーセ十戒です。父母をうやまえ、とか、そうしたモーセ十戒のような大きなことだけでなく、細かな生活の規定がいろいろあります。

 そうしたものを守ることによってこそ、神様の御心にかなった人生を送ることができ、そのことによって救われるのだ、と信じている人たちがいた。

 

 それに対して、イエス・キリストの福音というものは、そうした律法を守るということによる、つまり、行いによってではなく、信仰によってのみ人は救われると、神の国の福音において伝えたのであります。

 

 それは、たとえば、貧しさであったり、あるいは体に障がいや病気があり、またいろいろな理由により外国人であったり、教育を受けていなかったり、そうしたことによって律法を守ることができない人たちが、当時は罪人として遠ざけられていましたけれども、イエス・キリスト神の国の福音は、その人たちを遠ざけるのではなく、むしろ、その人たちを招き、共に祝い、祝会を開いて共に食事をして、楽しくみんなで生きていこうと、神の招きはそういうものであると、イエス様が何度も何度も、罪人との祝宴を開いたのとは、そういう意味がありました。

 

 律法を守る人たちによる閉ざされた救いの世界ではなく、その枠を離れて、あらゆる人が神様に招かれている、あらゆる人が神様に愛されている、その神の招きにおいて、それを共に喜び、共に生きていくときに、そこに神の国はもうすでに来ている。これが、イエス・キリスト神の国の福音でありますが、これはその当時において、新鮮なものでありました。

 

 そして、実は、現代に生きている私たちにとっても、とても新鮮なことなのであります。なぜならば、私たちが生きる社会において、どうしても人間というものは、自分たちが共に生きる相手というものを選び、ある限られた集団の中だけで生きることによって、自分の人生を守ろうとするからです。

 そこにはいろいろな理由が付いてきます。これが伝統だから、これが文化だから、といろいろな言い方ができますね。けれども、それが本当に正しいのだろうか、ということが、閉ざされた集団、それが多数派であっても少数派であっても、自分たちの権利を持ち、それを守るためにハードルを作るときに、そのハードルは本当に正しいのか、という疑問の声が現れます。

 今日の聖書箇所において、旧約聖書の律法を守るか守らないか、ということ、これは本当に大きな問題でありました。しかも、イエス・キリストの福音を信じた人たちの中にも、やはり律法は守るべきだ、という人たちがたくさんいた、ということが今日の箇所からわかります。

 それは、ちょっと今日の私たちの目から見たら不思議に思うことかもしれません。せっかくイエス様を信じたのに、どうして古い律法にこだわるのだろうか、と。

 しかし、そこは人間理解の問題なのですけれども、人間というのは、いかに新しい素晴らしい教えを聞いたからといって、そこで新しく生きていこうと思っていも、今まで生きてきた人生そのものを消したり否定したりすることはできないのですね。

 今まで歩んできた道があるからこそ、今の自分があるのではないか、そう思ったときに、律法を守る生活というものは、捨てることができないと考える人たちもいたのであります。

 

 現代の私たちも、この自分自身に重ねて今日の聖書箇所に書かれていることを考えてみると、人間という一般的な言い方ではなくて、この私というものは、なかなか一筋縄ではいかないなあ、というふうに思うことがあります。


 いかに、「それが差別だよ」と言われても、言っていることはわかる、でも実際にこういう場面になって、こんなことを言われたらどうしよう、と思ったときに、ハッとして「いざとなったら、私はどう言うかわからないなあ」「私も差別する側に立つのかなあ」「いや、これは差別ではないよな」とかなんとか、考えることがありますね。

 

 現実の社会の問題は、社会全体で議論していくということが大事ですし、また試行錯誤をしながら、いろいろな経験をすることによって、ちょっとずつ、社会が変わっていく中でお互いに成長していくことが必要なのではないか、というふうに私は感じています。

 そして、今日の聖書の箇所において、そのことを考えるならば、この箇所を読んでいて私は一つ気がついたのでありますけれど、ここでペトロはこう言っています。「私たちと彼らとの間に何の差別もなさいませんでした。」

 この、何の差別もなさいませんでした、というのは、これは神様が何の差別もなさいませんでした、というのです。そして、なぜそう言うかというと、律法を知らずに育った異邦人、外国人も、同じように神様からの聖霊、聖い霊を受けて、イエス・キリストのことを信じ、イエス・キリストを主と信じて、新しく生きるようになった、実際にそうなんだ、ということを経験した。そこからペトロは語っているのですね。

 それは目の前に何の事実もなくて、ただ物の考え方として「差別はいけません」という理屈を語っているのではなくて、実際にこの教会一緒に食事して一緒に伝道してきた中において、私にもあの人にも同じようにイエス・キリストが臨んでくださっている。

 あの人にも、この人にも、私にも、イエス・キリストがいて下さる、そのことを本当に実感していたからこそ、ペトロは自信を持ってこう言えたのですね。

 

 それは、神様との間の関係において、一人ひとりの人は救われていく、ということを、ここでペトロは信じ、そしてその一人ひとりが救われる、ということが一番大事なのであって、そのことに何の差別もない、ということをペトロはここで断言をしている訳であります。

 

 そこには、神様が、その人をその人としてくださる、という深い信頼があります。人間の目で見たとき、外から見たいろんな条件、その人が何人でどういう国籍で、どういう経歴で歩んできたか、性別は何であるか、職業は何であるか、そうした属性と呼ばれますが、その人にくっついているいろいろなことによって、その人が救われるか・救われないかということを決めるのではなく、ただ神様がその人を救ってくださる、どんな人間の属性とも関係なく、救ってくださる。

 そのことをペトロは確信して、「何の差別もなさいませんでした」と言うのでした。そして、ペトロがこのように言うことができた背景には、使徒パウロが熱心に異邦人伝道をして、ユダヤ人ではない、そしてユダヤ人の律法を知らない人がたくさん、イエス・キリストを信じているという事実を、パウロがみんなに知らせていたから、ペトロはこういうことを自信を持って言うことができたのでありました。

 世の中の差別の問題を考えるときにおいて、私たちは、一つひとつの事柄の性質と言いますか、それぞれの問題に関する歴史や現実であったり、いろんなことを考えます。けれども、聖書を読むときに一番大事なことは、神様が一人ひとりの人間を愛してくださっている、ということです。神様は何の差別もされない、ということです。

 そして、そのことを神様は、この世界の現実を通して、私たちに示して下さっている、ということを知りたいと思うのです。

 

 それは、たとえば、今日の箇所においては、神を信じる者においては、何の差別もないということなのですが、では、「聖書の神を信じる者と信じない者との間ではどうなのか」と言われると、これは宗教上の問題として考えると、なかなかデリケートなことになってくるのかもしれません。

 このことについてはキリスト教の中でも、いろいろな考え方があるということを私は率直に申し上げます。けれども、私自身が京北教会の牧師として何を考えているか、ということもはっきりと申し上げます。

 ある宗教を信じたから救われ、ある宗教を信じなかったから救われない、ということはないと私は思っています。だれが救われるか、救われないかということは、神様が決められることであって、人間がどうのこうの言うことではありません。では、私たち人間ができることというのは何でしょうか。それは祈るということなのですね。

 

 たとえば、私は世界のすべての人が神様に救われることを祈っています。そして信じています。どんな宗教を信じている人であっても、信じていなくても、神を信じていても、いなくても、神様は一人ひとりの人を愛して、その生涯を導き、この地上での人生を終えたあとには、天において救われているのだと私は信じます。

 

 ただ、そうしたことについての事実はわかりませんから、そのことを願うということになります。神様、そうなさってください、と願うのです。なぜ、そう願うのか、と言われたら、それはなぜでしょうね。私は、自分の人生を通してそう思うようになった、ということなのであります。

 こうしたことについて、一人ひとり考え方は違っていていいのです。だから、私は自分の考え方を人に押し付ける事はありません。

 

 もしかしたら、こう言う方があるかもしれません。神様を信じなくても救われるんだったら、どうして日曜日の礼拝をやってるんですか。じゃあ、私は何を答えたら良いのでしょうか。もしそうした質問がなされたならば、私はその質問をされる方が、私に対して何を聞こうとしているのかな、そしてその人は何を願っているのかな、ということを逆に聞いてみたい気がいたします。

 そして、その人の答えによって、私がその人に何を答えるかという、その答え方が変わってくると思うのですね。

 

 それは、こうした私たち人間が最終的に知り得ないこと、つまり、神様はだれを救われ、誰を救われないか、とか、あるいは、全ての人を救うのか、救わないのか、ということは、事実としてわかることはできません。

 

 しかし、そのことを願うというときには、なぜ、あなたはそう願うのか、逆に、なぜ、そう願わないのか、という話をするときに、それはその人がどう生きてきたか、何を経験し、何を心に蓄積してきたか、ということが現れると思うのですね。

 

 私自身は、そうした一人ひとりの心の中に蓄積されてきた思い、その人なりの気持ち、思うこと、それがとても大事だと思っているのです。

 

 今日の聖書箇所においては、都エルサレムでペトロやパウロやいろんな人たちが集まって会議をしたということが書いてあります。これが、とても重要なことだったからです。聖書のここにこう書いてあるからこうです、と単純に言うことができない。むしろ、聖書を読むだけでは決められないことがあったわけですね。

 今日の箇所、使徒言行録において言われている内容というのは、当時の人たちにとって聖書とは、今の私たちでいう旧約聖書のことですね。新約聖書というものはなかったのです。すると、聖書に書かれていることをどう解釈するか、ということを、聖書に書かれていないことを通して考えるということになります。

 それは、聖霊によるキリストの導き、そういう経験をこの人たちはしたのです。それは大変なことだったのですね。

 しかし、最終的にここに集まった皆さんが一致した。それは、過去の律法の意義をすべて否定するというのではなくて、イエス様ご自身が、律法を廃止するためではなくて、律法を成就するために、完成するために、来られたのです。

 

 つまり、律法に現れている神の愛ということを完成するために、イエス・キリストによる罪の許し、律法ということの意味を新しく受け止め直していった、ということが今日の箇所に書かれていることなのであります。

 

 そこにあるのは、聖書にこう書いているからこうだ、という、自分たちの集団の中で、一体どうしたらいいのだろうか、ということを本当に虚心坦懐に話合うことによって、その中において本当に確信を持ってくることを私は語ります、それはパウロが一生懸命に伝道してきたことの反映でありますが、この時、その他今日の私たちにとっても、とても大きな意味を持っていると思うのです。

 

 聖書全体のメッセージが何であるか、聖書に書かれてあるいろいろな事柄、人間理解、差別の問題、福音の理解、いろんなことがあります。そういことを考えるために、キリスト教の神学というものがあります。

 けれども、でも、神学だけでもわからない、解決できない、いろんなことがいっぱいあります。その中で私たちはどうしたらいいのでしょうか。それは、今日の箇所にあるように、聖霊の導きというものを願って、そしてお互いに話合っていくということ、そのことによつて、今までできなかったことを考えていくのです。

 

 教会もまた、人権やいろんな差別の問題に、簡単な答えはないかもしれませんが、イエス・キリストの導きによって、学び合っていこう、ということにおいて、今日の箇所においてペトロにように語ることが、私たちにはゆるされているのであります。

 

 お祈りします。

 天の神様、この現代社会に生きるときにおいて、いろんな難しい問題にぶちあたります。その中にあって、一人ひとり自分の個性を持ち、そして自分自身に与えられた人生というものを大事にし、そしていろんな経験を大事にしながら、人と語り合って、そして教会という場にあって、何が一番神様にあって一緒にやっていくことなのか、いろんなことを尋ね求めていくことができますようにと導いて下さい。そして社会全体、世界全体を通して、差別によってと人の生活が奪われ、人の命が奪われ、人間としての尊厳が奪われていくときに、神様の導き、神様が下さる平和への取り組みが世界中に満ちあふれますように、心からお願いいたします。
 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。