京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

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2023年5月の説教

2023年5月の説教

 2023年5月7日(日) 、5月14日(日)、5月21日(日)
 5月28日(日)ペンテコステ(聖霊降臨日)
 京北教会 礼拝説教

「夢の意味を知る」
    2023年5月7日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  創世記 40章 7〜15節 (新共同訳)


 ヨセフは主人の家の牢獄に自分と一緒に入れられている
 ファラオの宮廷の役人に尋ねた。
 「今日は、どうしてそんなに憂鬱な顔をしているのですか。」


 「我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない」
 と二人は答えた。


 ヨセフは、

 「解き明かしは神がなさることではありませんか。

  どうかわたしに話してみてください」と言った。


 給仕役の長はヨセフに自分の見た夢を話した。
 「わたしが夢を見ていると、

  一本のぶどうの木が目の前に現れたのです。
  そのぶどうの木には三本のつるがありました。
  それがみるみるうちに芽を出したかと思うと、すぐに花が咲き、

  ふさふさとしたぶどうが熟しました。

  ファラオの杯を手にしていたわたしは、そのぶどうを取って、

  ファラオの杯に搾(しぼ)り、その杯をファラオにささげました。」


 ヨセフは言った。

 「その解き明かしはこうです。
  三本のつるは三日です。

  三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて、

  元の職務に復帰させてくださいます。

  あなたは以前、給仕役であったときのように、

  ファラオに杯をささげる役目をするようになります。

 

  ついては、あなたがそのように幸せになられたときには、

  どうかわたしのことを思い出してください。

  わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、

  この家から出られるように計らってください。

 

  わたしはヘブライ人の国から無理やり連れてこられたのです。

  また、ここで牢屋に入れられるようなことは何もしていないのです。」

 

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
      改行などの文章配置を説教者が変えています。
      新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

…………………………………………………………………………………………………………………

 

 (以下、礼拝説教)  

 

 4月9日(日)のイースター(復活日)から、主イエス・キリストの復活を記念する福音書の物語を礼拝で続けて読んで参りました。そこから、福音書使徒パウロの手紙、旧約聖書、その3箇所から選んで毎週順番に読んでいく形に戻します。本日の箇所は旧約聖書の創世記40章であります。

 今日の箇所には、「夢を解くヨセフ」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは元々の聖書にはなく、新共同訳聖書が作られたときに読み手の便宜を図って付けられたものであります。

 今日の箇所にはヨセフという人が登場します。旧約聖書の一番最初に入っている書物である創世記、その後半はもうずっと、このヨセフを中心とした物語になっています。大変重要な人物ということであります。

 旧約聖書の中に登場する人たちの中で、有名な人といいますか、重要な人たちということであれば、まずアブラハムという名前が出てきます。そしてその息子のイサク、その息子のヤコブという、このアブラハム、イサク、ヤコブという親・子・孫は、聖書の中に登場するイスラエルの国の最も初めの時期の、その部族の長であった親・子・孫であり、この三人は特別な人物と思われています。

 そして、アブラハム、イサク、ヤコブと続いた後、ヤコブの子どもが12人、その中の一人が末っ子のヨセフであります。そういう意味で聖書の中に登場する、聖書を担った人たち、神の民と呼ばれるイスラエル、つまりユダヤの国の人たちの一番最初の時代の物語での、とても重要な登場人物が本日の箇所に出てくるヨセフということであります。

 

 ヨセフという人は少年の頃から大変な苦難の歩みをいたしました。ヤコブの12人の息子の中で非常に特別な存在でありました。その特別な存在であった理由の一つに、ヨセフは夢を見て、その夢の意味を説き明かすという力を持っていたのということがあります。

 そしてまた、ヨセフはある意味で無邪気に、その自分の見た夢ということを兄弟や親にも語っていました。どんな夢を語ったかというと、自分の周りに畑の作物の束があって、自分の束の回りに12の束があって、その束が真ん中の束に向かってお辞儀をした、そんな夢を見たというのです。

 

 末っ子のヨセフに、12人の兄弟たちがみんな頭を下げるのだろうか、と考えるといい気はしません。そんなわけでヨセフというのは特別な賢さというか、そういうものを持っていたのでありますが、上の兄たちにねたまれて、そしてかわいそうなことに、わなにかけられて売り飛ばされてしまうのです。そして売り飛ばされていったエジプトの地でも、また大変な目にあいます。

 ヨセフを引き取ってくれた家において、大変な問題が起こってヨセフは無実の罪をかぶせられて牢屋に入れられることになります。本当に、踏んだり蹴ったりの考えられないような苦しい少年時代を送るわけでありますが、今日の聖書箇所は、そのヨセフが牢屋に入れられた中で、そして、そこから人生が始まっていく話です。

 もちろん、その前からヨセフの人生は始まっているのですけれども、神様の御心というものを捜し求めていく中で、もうどん底まで突き落とされた人生が、再出発というのですか、そこから、どん底の所からはいあがっていく、新しい人生が開けていく、その出発点となる出来事が、今日の箇所には記されています。

 

 牢屋にヨセフが入れられており、そこに、それとまた別にエジプトの王様の二人の部下が、同じ牢屋に入れられてきたというのです。そこから始まっています。

 

 7節にはこうあります。 

 「ヨセフは主人の家の牢獄に自分と一緒に入れられているファラオの宮廷の役人に尋ねた。『今日は、どうしてそんなに憂鬱な顔をしているのですか。』『我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない』と二人は答えた。」

 牢屋の中で、偶然出会った者たちが、こんな会話をしていたのです。

 そして、次にこうあります。

 「ヨセフは、『解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください』と言った。給仕役の長はヨセフに自分の見た夢を話した。『わたしが夢を見ていると、一本のぶどうの木が目の前に現れたのです。そのぶどうの木には三本のつるがありました。それがみるみるうちに芽を出したかと思うと、すぐに花が咲き、ふさふさとしたぶどうが熟しました。ファラオの杯を手にしていたわたしは、そのぶどうを取って、ファラオの杯に搾(しぼ)り、その杯をファラオにささげました。』」

 

 こういう夢を見たというのであります。この頃の人たちは、夢っていうのは、これは神様からのお告げであると思っていたようであります。しかし、その見た夢の意味がさっぱりわからないので困っていた、それで憂鬱な顔をしていたというのです。その夢の話を聞いたヨセフは答えました。


 「ヨセフは言った。『その解き明かしはこうです。三本のつるは三日です。三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて、元の職務に復帰させてくださいます。あなたは以前、給仕役であったときのように、ファラオに杯をささげる役目をするようになります。』」

 ここで一人の人が言っている、自分が見て意味がわからなかった夢、それは今この聖書を読んでいる私たちもそうですけれども、ぶどうの木がどうしたこうした、花が咲いて身が成って……と言われた所で何のことやら、というふうな夢でありますが、それを聞いたヨセフはすぐに答えます。今から三日経てば、あなたはまた元の仕事に戻ることができるんだ、そういう夢であるとヨセフは教えるのですね。

 そしてその後、ヨセフはこう続けます。
 「『ついては、あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください、わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、この家から出られるように計らってください。わたしはヘブライ人の国から無理やり連れてこられたのです。また、ここで牢屋に入れられるようなことは何もしていないのです。』」

 このように言いました。この創世記のヨセフ物語は大変長い物語でありまして、この後もずっと続いていくのですが、今日の所はここまでであります。

 一人の人が見た夢、その意味がわからない夢の話を聞いてヨセフは、ただちにその意味を答えることができました。この夢を見た人の憂鬱な気持ちは、このヨセフの言葉によって解消したのでありましょうか。そのあたりの細かいことはわかりませんけれども、「三日たてば」とヨセフが言った通りに、本当にその人は牢屋を出ることができるようになったのです。

 ところが、牢屋を出たあとで、この人はヨセフのことを思い出さず忘れてしまったと23節に書いてあります。せっかく、このヨセフの夢を解き明かす力というものが発揮されたにもかかわらず、事態はヨセフにとってはうまくいかなかったというとなのですね。そしてまた、この後も話は続いていくのであります。

 ヨセフの物語というのは、一つうまくいけば次はどうなるかというと、うまくいかない。しかし、という、その繰り返しで何ともハラハラさせられる物語でありまして、とても長いために、礼拝の中で全部読み通すわけにはいかないので、皆様がそれぞれに旧約聖書の物語を読んでいただきたいと思うのであります。

 そしてまた、このヨセフの波瀾万丈な物語を通して、神様はわたしたちに何をお伝えになっておられるのか、そのどういうメッセージをここから聞き取るのか、ということをそれぞれに考えていただければ大変幸いであります。

 

 今日の説教の題は「夢の意味を知る」と題しました。今日の箇所には、まさにその「夢の意味を知る」という話が書いてあります。

 今日の話を読んでいてわたしは思ったのですけれども、この牢屋の中で会った一人の人が言った話、この夢の話、ぶどうの木があって芽が出て花が、と言われ手も、本当にこの意味がわからない夢でありまして、それを聞いたヨセフがこの三本のつるは三日ということです、というふうに言ったのは、なぜそんなふうに解釈ができるのだろうか、ということです。

 

 そんなふうな解釈というか、これはこんな意味である、ということは、こじつければ何でも解釈できるのですが、けれどもなぜヨセフがこんなふうに、その夢の意味をわかることができたのか、ということは、さっぱりわたしたちにはわからないのです。

 けれども、その時代において人々は、夢というのは神様からのお告げだと信じていました。ということは、ここでヨセフが、その夢の意味を説き明かしたということは、その夢ということについて、ヨセフがその特別な意味を知る力を持っていたという言い方もできるのですが、それ以上に、ヨセフは神様の御心を知る、特別な力があったと言っていいのではないでしょうか。

 

 それは、どういう力なのか、どこでそんなものを身につけたのか、といえば、それはわかりませんけれども、神様はこのようにして一人の人を選んで、神様の御心というものを解き明かして下さる、そしてそのことによって人々に幸福を与えて下さる、そういうことがある、ということが今日の箇所には記されていると思います。

 ただし、このヨセフ物語を続けて読んでいくと、必ずしも、夢というのは幸福だけを与えるものでもない、ということがわかります。そのあたりは、現実というのは残酷だな、ということも、このヨセフ物語は教えているのですね。

 このヨセフ物語だけではなく、旧約聖書全体が、また新約聖書も含めて聖書全体が、ある面においては大変素晴らしいことである夢というものが、実はその中で大変つらいことも起こることもあるというのです。つらい夢を見て、その夢の意味がつらいものだと知る、それはつらいことでありますが、そういうことも現実にはある、ということも、聖書には記されています。

 そういう意味で、何て言ったらいいのでしょうか、神様を信じて生きるということは、いつも何かハッピーエンドが待っているということではなくて、もうどうしようもない、自分では解決のできない巨大な苦しみというものに向き合う、そういうこともあるのですね。

 

 それは自然の災害であったり、あるいは戦争であったり、人との関係、人間関係であったり、家族関係であったり、本当に一体なぜこんなことが、と本当に神を呪わざるをえないような現実がある。しかし、その中にあって、あなたは聖書から何を読み取るのか、ということがいつも問われているのです。

 今日の聖書箇所を読んで、この夢ということについて皆様は何を思われたでありましょうか。今日の話は、まあ単純な話といえば単純な話ですし、また、今日の箇所はイエス様は登場しません。旧約聖書ですからはるかに時代が違っています。そして、福音書にあるような、わたしたちにとって興味深いいろんな物語とか、パウロの手紙にあるような人生訓的なメッセージ、そういうはっきりした何かのことが記されているわけでなく、なんだか昔話の一部分を読んだ、そんなような気がします。皆様は何を読み取られたでしょうか。

 わたしが今日の箇所を読んでいて特に心に感じたのは、7節の所にこう書いてある言葉です。「今日はどうしてそんなに憂鬱な顔をしているのですか。」このようにヨセフは尋ねています。

 「今日はどうしてそんなに憂鬱な顔をしているのですか」と問われたら、皆さんはご自身で何と答えるでしょうか。ここで問われた二人は「我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいないのだ」と答えています。

 

 まあ、現代のわたしたちはこんなことを言うことというのは、まずないか、ごく少ない事でしょう。夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいないから憂鬱だというのでしょうか。いや、本当は、この憂鬱というのは、自分たちがエジプトの王様ファラオによって牢屋に入れられてしまったことが一番憂鬱なのです。

 

 当たり前ですが、自分たちはこれからどうなるのかわからないという、やるせない思いで居たのです。そんな中で夢を見た、その夢の意味がわからないのです。わからないのでますます憂鬱になっている。夢を見たので、そこに神様からのメッセージはあったようだが、その意味がさっぱりわからない。

 

 そうした、本当に出口のない憂鬱な思いにいたそのとき、この牢屋という逃げ場のない場所で、この人たちはヨセフに出会ったのです。ヨセフは兄弟からねたまれて売り飛ばされてきた、そして無実の罪で牢屋に入れられてきたという、本当にやるせない人生、何というつらい人生を送っているのかと言わざるをえないような、そのヨセフと出会ったのです。

 牢屋に入れられた中で、自分よりも苦しい人生を送っている人にそこで出会って、そして、その人から「どうしてそんなに憂鬱な顔をしているのですか」と言われたのです。ヨセフも憂鬱な顔をしているはずだと思うのですが、ヨセフはおそらくそうではなかったのですね。

 

 ヨセフは捕らえられていたけれど、しかし憂鬱な顔はしていなかった。自分も憂鬱であれば、人に「どうしてそんなに憂鬱な顔をしているのですか」とは尋ねないでしょう。そもそも牢屋の中です。憂鬱なのが当たり前ではありませんか。ですから、なんとなくピントが外れているような気もします。

 しかし、そんな何となくチグハグな、ピントが外れたような会話をしながら、出会いをしながら、その中で、さっぱり解けなかった夢の意味がすぐに説き明かされる、そしてこの牢獄から解放されるということが告げられる。こんな、思いもよらなかった出会いというものが人生にはあるというが教えられていると思うのです。

 夢というものがカギになって自分の人生が変わっていく、開けていく、そういうことが聖書の中には、こうして教えられているのであります。

 

 では、現代の私たちにとって、夢とは何でしょうか。皆さんそれぞれに夢というものがおありでしょうか。わたしは、この箇所を読みながら、自分の夢とは何だろうと考えたときに、何だかあまり思い浮かばないような気がしていました。

 世界では戦争が終わらない。コロナ禍も収束には向かっているとはいえ、多くの被害を出したこの社会全体は一体どうなっていくのだろうと思うと、もう夢なんて語る気にもならない、自分の日常を繰り返していくだけで精一杯、そんな気がしたのです。夢とか言ったってなぁ、みたいな感じでぽんやりしてしまいました。

 しかし、先日こんなことがありました。バザールカフェという喫茶店があって、そこは日本キリスト教団の京都教区が運営に関わっている喫茶店です。元はアメリカの宣教師が住んでいた住居で、今は喫茶店をしていまが、そこでいろんな催し物をしています。地域社会にあって共に生きるためにということで、いろんな催しがあります。

 

 その中でバイブルシェアリングと言って、月に1回やっている会があって、それは聖書を1箇所読んで、その後思ったことをみんなで語り合うという、ただそれだけと言えばそれだけの集まりなのですが、そのバイブルシェアリングというときがあって、わたしは時々そこに参加しています。

 

 最近、そこに行きました。すると、いつもは人数は少ないのですが、10人以上の若い人たちがざわざわとやって来ていたのです。この子たちは何ですか? とうかがうと、同志社大学の神学部に入った学生たちがフィールドワークといって、いろんな場所に出かけてその最後に今日はバザールカフェのバイブルシェアリングに来ました、ということでした。

 

 思いもかけない出会いだったのですけれど、同志社大学神学部の何回生ですかと聞くと、一回生だと言われたのですね。それは4月のことだったのですけれど、確か神学部の合格発表は2月下旬だったのですから、合格発表があってから2ヶ月、入学してから1ヶ月も経っていない、そんな学生たちが10人ぐらいやってきていたのです。

 

 わたしも同志社大学神学部の出身でしたので、何か話したほうがいいかなと思って、実はわたしも神学部卒業生なんですというようなことを話して、まあ、そんなときに自分は何を話したらいいかわからないので、神学部に合格した日のことを思い起こして、ちょっとそういうことを学生たちに話をしました。

 すると、その話を聞いて、そのバイブルシェアリングというのは、みんなそれぞれに自由に語る場なんですけれども、何人かの学生が、自分がこの大学に入る前に思っていたことと、入ってから思っていることとか、本当に入学したばっかりの人たちが何人も、この短い時間ですが、自分の思っていることを少し話をしてくれました。

 

 わたしにとっては、もう40歳下ぐらいの後輩というのでしょうか、そういう人たちの言葉を聴いて、恥ずかしいようなうれしいような、何かそわそわするような、そんな思いでしばらく時間を過ごしました。

 そして、わたしはそのときに思い出していたのです。神学部に受かった日に自分が何を考えていたか、その日に何をしていたか、そのことを思い起こしました。そして、そのときのことを思い出して、いま思うのですけれども、あの頃わたしは何を考えていたかな、やっぱり夢を見ていたんじゃないかな、と思うのです。

 

 その夢はどんな夢だったかというと、はっきりもしない。そして、その夢はかなったのかどうかと考えたときには、うーんと、ちょっと詰まってしまう所もあるのです。けれども、それでもあの頃わたしが見ていた夢ってどんな夢だったのだろうか、と考えたときに、その中の大きな夢というのは、わたしはイエス様がおられる所に近い所で生きていきたい、という夢を持っていたなということを思い起こしたのです。

 

 18歳、19歳のときに自分が何を思っていたか、はっきりもしません。たわいのないことを一杯思っていたのでしょう。でも、その夢の中の一つは、イエス様がいらっしゃる所の近くに生きていきたい。確か、わたしが高校生で洗礼を受けたときに思っていたことは、そういうことでした。

 これからの人生がどうなっていくかわからないけれども、イエス様からどんどん離れていく人生を歩むのか、それとも、ちょっとでもイエス様に近い所にいる人生を歩むのか、二つに一つだったとしたら、イエス様に近い所を歩んでいきたいな、とそんなたわいのない、幼いといいますか、少年の思いで思ったこと、その夢、そういう夢を見たなという思いがあります。

 

 そして、その夢の解き明かしということを、それから40年間かけてわたしは、神様に導かれてやってきたんだな、そういうことを思うのです。

 現代のわたしたちが福音書を読んで、イエス様の物語を読み、イエス・キリストの十字架の死、そして復活という、わたしたちにとって受け入れられないような、信じられないような、どういう意味で、何が言われているのかと尋ねざるをえないこと、そして、わたしはこんなこと信じられないよ、と言いたくなるような、そんな話を聖書から読んでいろいろ考えるときに、やっぱりわたしたちは、夢を見ているのだと思うのですね。

 聖書を読みながら夢を見ています。イエス様と共に生きる夢を見ています。でもその夢の具体的な意味がわからないのです。つまり、聖書のメッセージが現実的にどういうことなのかがわからないのです。だから、誰かに解き明かしてほしい、でもだれも解き明かしてくれない。でも聖書の中では、ヨセフのように解き明かしてくれる人が出てきます。

 

 そして、何十年もかけて自分自身が、そのイエス様についての夢を、現実の自分の人生の中で、自分自身の歩みという形でもって解き明かしていく。それが、夢の意味を知るということではないでしょうか。

 今日の聖書箇所を通して、わたしはそのように教えられました。皆様もそれぞれの夢を見ていただき、そしてまた、その夢が解き明かされることを心から願います。

 

 お祈りをいたします。
 天の神様。わたしたちそれぞれに与えられている、夢と思っていないような夢をいつか、神様によって解き明かされ、その人生が恵みとなっていくことを信じます。どうぞ神様、一人ひとりにヨセフをつかわしてください。そしてまたわたしたち一人ひとりが隣人にとってヨセフの役割を果たすことができますように、心からお願いをいたします。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

 

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「こわがらずに祈ろうよ」
 2023年5月14日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  マルコによる福音書 11章 20〜33節 (新共同訳)


 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。

 

 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。

 「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」

 

 そこで、イエスは言われた。

 「神を信じなさい。はっきり言っておく。

  だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、

  少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。

 

  だから、言っておく。

  祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。

  そうすれば、そのとおりになる。

 

  また、立って祈るとき、
  だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。  

  そうすれば、あなたがたの天の父ももあなたがたの過ちを赦してくださる。」


 一行はまたエルサレムに来た。

 イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、
 長老たちがやって来て、言った。  

 「何の権威で、このようなことをしているのか。
        だれが、そうする権威を与えたのか。」

 

 イエスは言われた。

 「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。

  そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。

  ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。
        答えなさい。」

 

 彼らは論じ合った。

 「『天からのものだ』と言えば、
        『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。

  しかし、『人からのものだ』と言えば……。」

 彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。

 

 そこで、彼らはイエスに「分からない」と答えた。

 すると、イエスは言われた。

 「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

 

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
      改行などの文章配置を説教者が変えています。
   新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 最近の京北教会の礼拝では、福音書使徒パウロの手紙、旧約聖書、その3箇所から選んで順番に、毎週の礼拝で読んでいく形にしています。本日の礼拝で読む箇所はマルコによる福音書11章20〜33節です。

 この箇所は新共同訳聖書では二つの箇所に分かれて、それぞれに「枯れたいちじくの木の教訓」そして「権威についての問答」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは元々の聖書にはなく、新共同訳聖書が作られたときに、読み手の便宜を図ってつけられたものであります。

 今日の箇所は、イエス様が捕らえられて十字架に付けられる、そのことがだんだんと近づいていた、そうした緊張感がある箇所であります。この箇所においては、イエス様はそれまでの各地での宣教の旅を終えて、都エルサレムに入ってきた、その場面になってきています。

 20節にこうあります。

「翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。『先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。』」このように弟子のペトロはイエス様に言いました。

 今日の話はこれより前の箇所からの続きでありまして、12節の所からいちじくの木の話は続いています。12節以降の所では一本のいちじくの木があってイエス様が空腹を覚えられて、そのいちじくの木に近づいたところ、葉っぱばかりで実がなっていなかった、いちじくの季節ではなかったというのです。

 そして、そのときにイエス様がその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われたという話があって、そのあと、15節〜19節では神殿での話があって、そしてまた今日の20節に続く、そういう流れになっています。

 

 12節から読みますと、いちじくの季節ではないから実がなっていないというのは、これは当たり前のことなのですが、そのために、イエス様がこの木を呪ったという話になっているのですね。そしてそのイエス様がその木を呪うと、この木が枯れてしまったという、そこから今日の箇所に入っているわけであります。

 

 こうした箇所はおそらく、その内容の解説がなければ意味がわからないと思うのですね。お腹が減っていちじくを食べたいと思ったけど、木に実がなってなかったので、実がなる季節ではなかったから当たり前なのに、その木を呪ったら枯れたというのは、何とも身勝手な話に思えます。

 

 しかし、ここで福音書が伝えているのは、イエス様はこんな風に身勝手な人だったということではなくて、このいちじくの木というのが、その当時の大きな都であるエルサレム、そしてその都エルサレムにある大きな神殿、人々の礼拝の場所であり信仰の中心の場所であった、石造りの壮麗な大きな神殿、それをこのいちじくの木にたとえている、そういう話なのです。

 

 遠くから見たら大きく立派に見える神殿、遠くから見たら素晴らしい礼拝の場所だけれども、その中に本当の信仰があるのかと問うと、そこに本当の信仰はなかった。だからイエス様が怒った。そういうことが、このいちじくの木にたとえられているのですね。

 ですからここでは、そのいちじくの実がなっていないということに対して、イエス様が気が短いから怒ったという話ではなくて、遠くから見たら立派に見えるけれども、その神殿の中身がなかったということ。

 そして、この大きな都エルサレム、人口の多い、国の中心地、大きな所、それが外から見ていかに大きく立派に見えたとしても、神様に対する信仰というものが乏しい、それがない、そういうことにイエス様が怒っておられる、ということを示すエピソードといいますか、お話になっているわけです。

 

 そうした象徴的な物語というのが、聖書の中にはしばしば登場します。そして、そのような形で、このいちじくの木の話があった後に、イエス様が22節以降のことを言われます。

 「そこで、イエスは言われた。『神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、「立ち上がって、海に飛び込め」と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる』」。

 

 このように言われました。本当に少しも疑わずに祈ったら、その通りになるとイエス様は言われます。先ほどのいちじくの木の話もそうだ、という話の流れなのですね。もし、このいちじくの木が都エルサレムと神殿のことをたとえている、という説明がなければ、わからない話です。

 この一本のいちじくの木を枯らすということが、それを信じたらそうなるのだという、祈ったら実際にかなうという話ではありますけれども、何とも身勝手な話に思えますが、そういうことではないのです。

 そうではなくて、ここでイエス様がおっしゃっているのは、神様が本当にそのことを望まれたら、どんな大きなことでも実現するということであり、そしてそのことは、私たち人間一人ひとりがごく単純に願うように「何か良いことがあればいいなぁ」と思って、こうなってほしいと願った、その願ったことがかなう、という事だけではありません。

 そうではなくて、神様が人間の世界に対して怒りを持って、こんな町であれば滅ぼしてしまうとか、こんな中身のない神殿であれば滅ぼしてしまうと、神様が願われたならば本当にその通りになるのだ、ということをもイエス様はここで私たちに教えておられるのですね。

 

 わたしたちは、ふだん、願いがかなったとか、こうやってお祈りしたら願いがかなった、という話を聞くと、たいていは良い方向に考えると思うのです。けれども同時に、そんなことを言ったって、祈ったって、現実は変わらないよ、とちょっと冷めた目で考えてしまうのですね。

 

 それは、自分の願いということを考えて、しかも良いことを願うことばかりを考えているから、そう思うのです。ここでイエス様がおっしゃっているのは、神様が願われたならば、私たち人間にとっては「そんなことがあるものか」、と思っているような大変な事、恐ろしいことも本当に起こるのだということです。

 

 それは神様に対する信仰が空っぽであるから、しかも神殿のような礼拝の場所であれば、それは滅びても仕方がない、いや、滅びてしまうのだ、という、そういう神様の御心がある、ということなのです。

 

 そしてイエス様が、このように言われた通りに、後に都エルサレムの神殿はユダヤ戦争というローマ帝国ユダヤの国の戦争によって紀元70年に、本当にこの神殿が崩壊し、また国自体が崩壊していく、そしてユダヤの人たちはもう散り散りばらばらに世界各地で生きていくことになる、そういう本当に大きな悲劇が起こったのであります。

 今日の箇所を聖書から学ぶときの意味は、そうしたことが、このイエス様の言われていることの通りに起こった、という、何か未来を言い当てる意味での予言、その予言が当たったとか、そういうことではありません。

 そうではなくて、私たちが生きている現実の中にあって、神様を信じる信仰というのはどういうものなんだろうか、ということを深く深く考えさせるために、今日の箇所があるのです。

 

 神様ということを考えるときに、また何かに願うとか祈るとか、そういうことを言うときに私たちは何を思っているでしょうか。それは自分の願い、これがかなったらいいなと思いながら、でも無理だろうなあと思ったり、でももしよかったら、ひょっとしてと思ったり、そんな、何だかこう、あやふやな、ふわふわしたことを考えているのではないかと思います。

 

 それはそれで楽しいといいますか、たわいがないけれど、まあ夢があるともいえる、人間の現実はそういうものなのですけれども、今日の箇所を読むときに、その願うとか祈るということは、何かそうしたふわふわしたことと、ちょっと違うことが言われていると思うのですね。

 

 イエス様はおっしゃっています。

 「『はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、
       『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、

  少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。』」

 こう言われています。本当にこうなのです。じゃあ、本当に自分の願うことが本当に実現すると信じているかと問われたら、実は、そこまで信じてなくて、そうなったらいいけどな、ぐらいの、何て言いますか、ふわふわした気持ちであることが多いのですね。

 そうではなくて、本当にそれが実現するとしたら、あなたは何を願いますか、ということが、ここでは真剣に問われているのです。そして24節でこう言われます。
 「『だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。』」

 祈るものは既に得られたと信じなさい、そうすればその通りになる。なぜ、そうなるかというと、それは祈るということが人間にとって不思議な力を持っているという意味ではないのです。そうではなくて、祈ったことが紙様の御心にかなうならば、神様がそれを実行して下さるから、祈りがかなう、そういう意味なのです。

 本当に神様に届く祈りであれば、それが神様の御心にかなう正しい真っ当な祈りであれば、本当にそれはかなうのです。そこまであなたは信じて自信を持って、確信を持って、祈っていますか、ということが問われているのです。

 そして、その後25節でこう言われます。

「『また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父ももあなたがたの過ちを赦してくださる。』」

 ここでは、この祈るということ、それが実現するということが言われた後に、人に対する赦(ゆる)しということも言われています。祈ること、願うことというのは、単に何か自分の人生がこういうことがあったらいいなぁっていう、自分の自己実現を願うだけではなくて、他の人のことも考えて祈りなさい、祈ってほしい、とイエス様は願っておられるのですね。

 祈りといえば、何か自分の心の中の秘めたる願い、私の人生がこうなればいいなという、その願いばかり考えている私たちに対して、隣人のためにあなたは祈っていますか、とイエス様が問われているのです。

 

 さて、そのようにイエス様から祈りについて教えていただきました私たちは、じゃあ今日から一体何を祈るでしょうか。おそらく、私たちはまだ半信半疑だと思います。

 イエス様からそんなことを言われたって、祈っても祈らなくったって、現実は動いていくじゃないかと思うのです。また、神様だって本当にいらっしゃるかどうかわからないし、というふうに人間はいろいろなことを考えます。

 また、現代人であれば世界のいろいろな情勢を考えますね。世界にはたくさんの宗教があります。宗教は良いことも言えば、悪いことも言います。世界にはいろいろな戦争が起こっています。宗教に関係があるとも言われます。そんないろんな事を考えていくと、だんだん気持ちが冷めていきます。

 また、何かを祈るとか願うとかいうこと自体が、これは私だけかもしれませんが、自分が歳を取ってくると、何だかあまり願わなくなってくる気がするのですね。

 願うとしても、何かこうちょっと地味なことと言いますか、みんなで健康に過ごせますようにとか、落ち着いて今日も1日過ごせますようにとか、そういうことを祈るのですけれども、何か具体的にこれこれができますように、みたいなことをあんまり祈らなくなってきたな、ということ、これは私だけかもしれませんが、思うのです。

 逆に、若いときは一杯祈っていました。いろんなことを、自分の未来に関しても。もうそんなこと忘れちゃった、ということもあるのですけれど、皆さんはいかがでしょうか。

 そんなふうに、祈るということは、いろんなことを私たちの心に思わせるのですが、今日の箇所も26節までだけで読むことが終わっていたら、イエス様はこうおっしゃっているけれど、でもなぁ、という所で私たちの気持ちも終わってしまうような気もします。

 そこで、さらに続けて27節を読みます。
 「『一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、言った。『何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。』」


 祭司長や律法学者たちが、こんなふうにイエス様を批判してきたのです。この箇所を読むと、さっきまでの話とは全然違う話と思える話がここから始まっているように思えますが、実はこれは、さっきまでの話とよく関係があるのですね。

 ここでは、当時の宗教的な権力者たちがイエス様に対して、「何の権威でこのようなことをしているのか」、つまり、神殿で人々に教えたりしていることは、それは何の権威があってやっているのですか、バックに何があるのですかと尋ねたのです。

 律法学者とか祭司とか、そういう立場でもない、旅をしてやってきた人であるイエスが、なぜ神殿でそんなふうに、あたかも権威があるように人々に教えているのか、と尋ねてきたわけであります。そこには、お前に何の権威があるのだ、という、その当時の権力者の人たちのイエス様に対する批判があるわけです。

 

 それに対してイエス様は答えられました。

 「イエスは言われた。『では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。』」

 これは、イエス様が活動される少し前に、先に活動していた洗礼者ヨハネと呼ばれる一人の人物のことが取り上げられています。ヨハネという名前はよくある名前だったので、洗礼者ヨハネというふうに呼ばれていたのですけれども、ヨルダン川で人々に洗礼を授けていた人です。

 ヨルダン川に入って身を清める、それが神様の前で罪を悔い改める、洗礼ということを示す儀式だったのですが、このヨハネという人は広く社会全体に向けて、神様に対する人間の罪を悔い改めなさい、ということを強く訴えた人物でした。

 そのことによってヨハネの言葉を聞いて、実際にヨルダン川に行ってヨハネから洗礼を受けて、つまり自分の罪を悔い改める、そういうことをする人がたくさん出てきたわけですけれど、当時の権力者、王から憎まれて捕らえられてヨハネは牢屋に入れられ、首をはねられてしまった。

 

 そういうことがあったわけですが、その今はもういない洗礼者ヨハネに関して、ヨハネがやっていたヨルダン川での洗礼、それは天からのもの、つまり神様の御心によって、神様の権威によってやっていたものなのか、それとも、ヨハネが勝手に自分の思いでやっていたのか、どっちに思うか答えなさい、とイエス様は尋ねられたわけです。

 

 そのあと31節にこうあります。

「彼らは論じ合った。『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。しかし、『人からのものだ』と言えば……。』」

 

 ここで議論が分かれています。洗礼者ヨハネがしていた洗礼は、神様の御心だったといえば、当時の権力者たちは洗礼者ヨハネについていかなかったので、なぜヨハネを信じなかったのかと問われてしまうでしょう。

 しかし、じゃあヨハネがやっていたのは、あれはヨハネの思いつきなんだ、人からのものなのだ、と言えば、どうなるかというと、そのあとにこうあります。

 「彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。」

 

 こうして、宗教的な権力者である祭司長、律法学者、長老たち、そういう人たちは、この洗礼者ヨハネがやっていたことは、良かったことだ、神様の御心だった、ということは自分たちのプライドに響くので、それは言いたくないと思っていた。

  だけども、その反対に、ヨハネがやっていたことは人間の思いつきなのだというと、今度は民衆から人気があったヨハネのことをそんなふうに低く評価したということは、逆に今度は自分たちが群衆から批判を受けることになる。その群衆からの評判が下がり、自分たちが批判を受けるのが怖かったていうのです。

 

 そこで、33節。
 「そこで、彼らはイエスに『分からない』と答えた。すると、イエスは言われた。『それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。』」

 こうして自分たちのプライドとか、あるいは人からの評判ということを、天秤にかけて結局、洗礼者ヨハネのしていたことが、神様の御心だったのか、それとも人間の思いだったのかということは、わかりません、と答えたのですね。うまいというか、ずるいというか。「わからない」

と言えば、自分たちの責任も問われません、ということです。

 

 それを受けてイエス様は、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」と答えられました。

 ここには、イエス様の、この当時の権力者の人たちに対する鋭い批判があります。つまり、権力者の人たちはいろんな批判をイエス様に対して言ってきますけれども、じゃあ、あなたたち自信が何を神の御心だと思っているか、ということを問われたら、答えられないじゃないか、だったら私も答えませんよ、というふうにおっしゃっているのです。

 

 人間のずるさということを、こうやって鋭く批判しているのですね。

 では、今日の聖書箇所の後半の、この祭司長たちとの問答というのは、今日の前半の箇所、祈りについての教えと、どういう関係があるのでしょうか。一見、関係がないように思えますが、この聖書の福音書の、こうした物語の並べ方というのは、非常によく考えられて並べられています。 話の並べ方に意味があるのです。

 この今日の後半箇所で言われているのは、権威というのは、どこにあるのかということなのですね。一人の人が何か教えるときに、それは神様の御心によっているのか、それとも、単なる人の思いで言っているのか、ということは、大変に大事なことなのです。

 

 たとえば、今日、この礼拝の説教の場で、私が説教していること、これは神様の御心でしょうか、それとも牧師の人間的な思いなのでしょうか。どっちなのかと聞かれたら、何とも答えにくい感じになってくるかもしれませんね。

 この前半の箇所において、イエス様は、祈りについて教えています。少しも疑わず、自分の言う通りになると信じるならば、その通りになる。だから、言っておく。祈り求めるものは既に与えられたと信じなさい。そうすれば与えられる、とイエス様ははっきりとこうおっしゃいました。

 みなさま、この言葉を聞いてどう思われますか。この言葉を信じたいなあと思うのですけれど、しかし、そこまで信じ切れるかというと、ちょっと疑わしいというか、そこまでは信じられないなあ、という自分自身の自信のなさというものが出てきます。

 ということと同時に、私たちはこうした聖書の言葉を読むときに、またイエス様の言葉を聴くときに、実は結構、疑いながら読んだり聴いたりしているのです。

 イエスはこう言っているけれど、本当かなあ、と。これは2000年前に書かれた聖書の一部分であって、それは昔の人たちは一生懸命信じてたかもしれないけれど、現代の私たちにとってはなあ、という、ちょっと冷めた気持ちがあるのではありませんか。

 

 結局、私たちも、この今日の聖書箇所の後半に出てくる、祭司長たちと同じなのですね。イエス様に対して、あなたはどういう権威でこういうことを言っているのですか、祈りについて教えて下さっているけど、それは本当に神様の御心なのですかと。

 それがわからなかったら、本当に信じることはできませんよ、と。できたらそれを証明してください、祈ったら本当に実現するということだったら、私たちも信じましょう。…………そんなふうな、神を試したいような思いがあるのではないでしょうか。

 そんなふうな現代人の思いということを考えたときに、今日の後半の箇所に言われていることというのは、これは2000年前のことではなくて、実は今の私たちのことなのです。

 あなたは本当に神様を信じてますかと問われたときに、何と言ったらいいのだろう、「わからない」と答えるのが、おそらく私たちの正直な本当の気持ちですね。でも、そうやって私はわかりません、神様が本当にいらっしゃるかどうか、わかりません、本当に信じているかもわかりません。そういうことを言っていたならば、じゃあ、神様のほうだって、じゃあ、私も、あなたたちの祈りを聞くかどうかは、わかりません。神様はそうおっしゃるのではないでしょうか。

 

 それでいいのですか。やっぱり私たちは、本当に願うとしたら、神様がかなえてくださると心から信じて願いたいのです。それは小さな自分の何か小さな心を、願いを、かなえてほしいというのではなくて、本当に本当に、このことがかなえられてほしいと、心から願うことを祈らなかったら、意味がないのです。

 今日の箇所でいえば、イエス様はこうおっしゃっておられます。「誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすればあなたがたの天の父もあなたがたの過ちを赦してくださる。」

 ここには、私たち一人ひとりの、他の人との関係、隣人、隣り人との関係が言われています。たとえば家族、友人、いろんな関係の方々、すごく過去のことも含めて、「ごめん。あのときのこと、ゆるしてくれるかな。ゆるしてほしい」と本当に願う、もう天国に行った私の家族に、ゆるしてほしい。あのときの友人にゆるしてほしい。

 そんなふうに、本当の意味での、人との関係において自分が心から悔い改めていることについて、「この悔い改めの祈りをかなえてください、神様」と祈る、そうした願い、それが本当の願いではないでしょうか。

 だんだんと歳を取って、何か将来こんな仕事がしたいとか、こんな仕事に就きたいとか、そんなことを祈ることはなくなっていくのかもしれません。子どものようなことはもう願わないのであろうと思いますけれども、最後の最後まで、私たちは祈りたいことがあります。

 それは大切な隣人との関係、そしてそのことを祈るときにはまず神様への悔い改め、本当に「神様、私の罪を赦して下さい」と、そのことを祈り、隣人との関係について、本当の関係の回復ということを心から願っていきたいと、願うものであります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様。私たちが日々の生活の中にあって、自分の願いということが何であるかも見失うことがあります。その中で本当に願うべきことに気がついて、祈っていくことができますようにお導きください。そして、この広い世界の中にあって、戦争が終わらずコロナ禍が終わらず、たくさんの命が奪われていっている、この悲しい現実、地震が、水害が、戦争が、飢饉が、貧困が、格差社会があり、本当に私たちに生きることのつらい、この世界にあって本当に願うべきことを一人ひとりに与えて下さい。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

 

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「心配するけど神が育てる」
   2023年5月21日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  ガラテヤの信徒への手紙 4章 1〜11節 (新共同訳)


 つまり、こういうことです。

 相続人は、未成年である間は、全財産の所有ものであっても
 僕と何ら変わることがなく、

 父親が定めた時期までは後見人や管理人の監督の下(もと)にいます。

 

 同様にわたしたちも、未成年であったときは、

 世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。

 

  しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、

  しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。

 

 それは、律法の支配下にある者を贖う(あがな)い出して、

 わたしたちを神の子となさるためでした。

 

 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、

 わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。

 

 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。

 子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。

 

 ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、

 もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。

 

 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、

 なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、

 もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。

 

 あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。

 あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、

 あなたがたのことが心配です。

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
       改行などの文章配置を説教者が変えています。
       新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 毎週の礼拝で、福音書使徒パウロの手紙、旧約聖書、その三箇所を順番に読む形に戻っています。今日の箇所はガラテヤの信徒への手紙4章1〜11節までであります。

 この箇所には新共同訳聖書では、前半と後半が分かれていて、後半のほうには「キリストがあなたがたの内に形作られるまで」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは読み手の便宜を図って、新共同訳聖書が作られたときに付けられたものであり、元々の聖書にはありません。

 今日の聖書箇所には、どういうことが書いてあるのでしょうか。このガラテヤの信徒への手紙は、使徒パウロが地中海沿岸にあるガラテヤという町の教会の人たちに向けて書いた手紙であります。その教会には、パウロは何度か出向いて主イエス・キリストの福音(良き知らせ)、「神の国」の福音ということを宣べ伝えて、ガラテヤの教会の人たちはそれを喜んで受け入れた、という温かい交わりがありました。

 

 しかし、パウロがその教会を離れて他の所へ行っている間に、その教会の人たちには、別の考え方の影響があったようでありまして、イエス・キリストの福音から離れて、元々のその地域における習慣や、またいろいろな旧約聖書にある律法、そうしたものを守る、つまり自分の行いによって、宗教的な何かの決まりや律法を実行することによって救われようとする、そういう考え方の影響を受けていたようであります。

 

 そのことを聞いたパウロが、そのことを大変悲しんで、元のイエス・キリストの福音に立ち戻るようにと、教会の人たちに向けて書いています。今日の箇所の前半には、イエス・キリストの恵みがどういうものであるかということを、たとえ話の形で教えています。

 ここで言われているのは、相続に関するたとえです。相続は、それを受け取る対象の人が未成年であればまだ行われていません。しかし、ときがきたならばその相続を受け取ることができる。そういう、当時の人たちもそうですが現代の私たちでもわかっていると言いますか、知っている知識というものを元にして、ここで語っています。

 ここでパウロが言わんとしているのは、相続のこと、法律のことを言いたいわけではなくて、この神様と私たちの関係がどういう関係であるか、ということなのです。未成年である間、というように言われているのは、まだ神様を信じるに至っていないときのことを言っています。

 また、別の言い方をすれば、イエス・キリストの恵みということが、まだ分かっていない段階ということであります。その段階においては、この様々な宗教的な決まり事であるとか、旧約聖書の律法であるとか、そうしたもの、つまり自分の生活を律するための様々な決まり事というものがあって、それが人間の生活というものを律してくれる。秩序を与えてくれるわけです。ですから、その決まり事とか律法というのは、ちゃんと意味があるのです。

 しかし、人間は成長ということもしますから、もう未成年を過ぎて成年と認められるようになったならば、そうしたいろんな規則によって強制されなくても、自由に生きることができる。その自由ということの意味を本当にわかったとき、自由というものは、ただ単に人間が好き勝手に生きたらいい、ということではなく、神様から与えられたものであるとわかります。

 自由というものは、神様からの賜物であることをよくわかって、その神様の御心に沿って生きようとする、そういうときに神様の恵みをみんな、どの人もですね、与えられるということをパウロは語っているわけです。

 4節ではこのように言います。
 「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、 しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖う(あがな)い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」

 ここでパウロが御子と呼んでいるのは、主イエス・キリストのことです。イエス様がマリアから生まれたということを、女から生まれたと表現していますが、それはキリストが「人間として生まれた」ということを言っています。

 天からくだってきた天使ではなくて、人としてこの世に生まれたイエス・キリストが神の御子である。しかも、律法のもとに生まれた。それは、パウロたち人間一人ひとりの誰もと同じように、ということであります。ここでは、律法は当時の社会の決まり事という意味です。

 その律法のもとに生まれた神の子、イエス・キリストが語られた神の国の福音というものが、私たちをその律法から解放して本当に自由に生きるようにして下さった。そのことの意味がわかるまでは私たちは未成年であった。また、イエス・キリストが来られるまでの時代は、いわば未成年の時代であった。

 

 本当に神様の恵みを知って自由に生きるという所まで至らなかった。しかし、いまイエス・キリストが私たちの所に来て下さった。そして、私たちがそのイエス様の語る福音の恵みということが、その意味がわかるようになったときに、私たちは未成年の時代を終えて、一人の成年、成人として、神の恵みをいただいて自由に生きていくのだと。そういうことをパウロは言っているのであります。

 また6節では、このように言っています。

 「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」
 ここで使われている言葉の「アッバ」は、イエス様の時代に使われていたアラム語という言葉であり、その意味は「お父ちゃん」というようなものであると考えられています。

 「お父さん」でもいいのですけれど、あえて「お父ちゃん」と言いましたのは、「アッバ」という言葉は、幼児が「お父ちゃん」と呼ぶような、親しみをこめて幼児がお父さんを呼ぶような、そういう思いで使われる言葉である、ということなのですね。そのように「アッバ、父よ」と、そのように「叫ぶ御子の霊をわたしたちの心に送って下さった」とパウロはここで書いています。、

 それは、主イエス・キリストが、天の神様のことを「アッバ、父よ」と言って、神様のことを「お父ちゃん」と呼ばれていたように、イエス様を信じるパウロたちクリスチャンが、イエス様と同じように、神様のことをお父ちゃん、アッバ、と呼んでお祈りをしていたことを指しています。

 そのようにすることは、イエス・キリストの霊、御子の霊、魂というものが、神様から私たちの心に送っていただいているのだと、パウロはそのように表現をしています。

 神を信じる者一人ひとりに、キリストの魂と言ったらいいのでしょうか、聖霊と言ったほうがよいかもしれません。「聖い霊」と書く聖霊、神様の見えざる働きのお姿である聖霊というものが、一人ひとりの心に与えられています。

 それはどういうことかというと、お父ちゃん、神様、という存在を、何か天の上のほうにおられて私たちから手が届かない方という意味ではなくて、赤ちゃんや小さな子どもが「お父ちゃん」と呼ぶように神様を呼ぶ、ということです。

 そういう親しい関係として神様に祈る、そういう信仰が与えられている、このことが事実です。かつては自分たちが未成年であった、つまり神の恵みということがわからなかった時代を超えて、神の恵みというものを本当に知って、そして祈ることができるようになった。そういう立場である今のパウロたち、自分たちクリスチャンはそうなのだと、それが神の子である意味なのだ、とパウロは言っているのです。

 

 7節ではこう言っています。
 「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」

 イエス・キリストが神の子であるように、イエス・キリストを主と信じる皆さんも神の子なのですよ。神様から恵みを相続する立場にあるのですよ。パウロはそのように言っているのでした。

 奴隷、それはわけもわからず支配されて使われる存在、支配される存在であります。クリスチャンにとって神様は、そういう存在ではありません。神の奴隷ではなく、神の相続人なのだと。神の有り余る豊かな恵みを一人ひとりが相続するのだと。神の恵みというものは、それぐらいに素晴らしいものなのだと、パウロは今日の箇所で言っているのです。

 そして、ここまでの箇所を踏まえ、次の8節からパウロは自分が一番言いたいことを展開していきます。

 「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」

 

 ここでパウロは、ガラテヤの教会の人たちをしかっています。その教会の人たちは、かつては、教会というものを知らないときは、イエス・キリストの福音を知らないときには、わけもわからないままに、元々その時代、地域にあったいろいろな土俗の宗教といいますか、そうした民間の宗教と言っていいのでしょうか、そうしたものの決まり事を生きていた人たちです。

 あるいは、場合によれば旧約聖書の律法を守る生活をしていた人たち。しかし、そうした決まり事を守らなければいけない、という形で、その宗教的な決まり事に、奴隷として仕えていたとパウロはここで言います。

 わけもわからないままに支配されていたときはそうだった、と言います。しかし、主イエス・キリストの福音を聞いてから、知ってからは、神を知っている、いや、むしろ神に知られている、神様に愛されている、守られているのです。

 にもかかわらず、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊、様々な霊、目に見えない悪い働きと言ったらいいでしょうか、悪い働きのもとに逆戻りして、もう一度あらためて奴隷として仕えようとしているのですか、とパウロはガラテヤの教会の人たちをしかっています。

 10節ではこう言っています。

「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。」

 パウロはこのように言っています。今まで、かつてしていたような生活の中で、この日は何とかの日、あの日は何とかの日だと、その意味もわからずに守っていた、それはその地域独特の習俗や宗教に仕えることでありました。

 それがむしろ、自覚的に自分の信念をもってしていることであれば、それはまた違った話であります。けれど、そうではなくて、ただそういうものだと教えられ、その考え方に支配されていた、そういう非合理的な、理不尽な形で、パウロの言葉によれば、奴隷として、悪い働き、目に見えない悪い働きに仕えていた、そういう所にまた戻ってしまっている、それは一体なぜかと、そのことを本当に心配しているのです。

 11節でこう言います。
「あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。」

 この箇所は比較的長い箇所ですので、この後も続くのですが、今日は11節で切っています。

 今日の箇所を読んで、皆様はどのように思われたでありましょうか。前半では少しわかりにくいようにも思えますが、相続のことをたとえにして、神の恵みということをパウロは語っています。

 後半の所では、ガラテヤの教会の人たちに対する思いを率直に語っています。この箇所を読みながら、今日の箇所にある「未成年であったときには」というふうにパウロが3節の所で言っております。

 ここでパウロがたとえとして語っているこの言葉を読むときに、私自身、自分自身のことを思い起こして、神を信じる信仰というものを私は、自分の今までの歩みの中で、どんなふうにそれと出会い、また、どんなふうに物を考えてきたか、ということを振り返りました。

 神の恵みって何だろう。そのことを聖書を通して、また、自分自身のいろんな現実を通して考える中で、今まで歩んできたのでありますが、確かに未成年であったとき、わけもわからないときのこと、そしてそれからイエス様の恵みに出会って、歩み始めたころ、そして今。そうしたことを今日の箇所を通して、あれこれと思うのであります。

 週報にも報告しておりますけれども、先週、京都教区定期総会というものがございました。その中で私は京都教区議長として二期目を終えたのでありますが、選挙を通して、三期目選ばれました。それは、私としては想定していなかったことでしたので、大変ショックを受けました。

 その選挙結果が確定したときに、ちょっと何か自分が射貫かれたような、ゴンッと何か目に見えない力で自分の胸が押されて、うっと何も言えないような、何かそのような気持ちになりました。その後、またその総会は続いていって、私も議長として奉仕をさせていただいたのでありますけれども、いろんなことを考えました。

 その教区総会の中で、教区議長としていろいろとしゃべるというか、お話をするといいますか、説教といいますか、そういう機会があるのですけれど、「准允(じゅんいん)式」と言って、日本キリスト教団の教師試験に合格した人が、牧師になる儀式というものなのですけれども、その司式をする中で式辞を語る時間があります。

 そのときの話の中で、私は10代の頃の話を少しいたしました。そしてまた、その他にも教区議長に選ばれたときの、挨拶の話の中では、30代のときの話と、それから、この京北教会に招聘を受けたときの話を少ししました。そして、その後の私の歩みの話も少ししました。

 

 そうやって、教区の議長という立場で、教区総会の中で何度か皆さんにお話する機会があるときに、はやり自分の経験というものをちょっと踏まえて、一言二言ですけれども話すのですね。

 そういうときに、自分のことを振り返って、10代の頃はこうだった、30代はこうだった、15年前はこうだった、今はこうだ、という話の中で、そういうことをするわけですが、振り返りながら、神様と出会って今まで導かれてきた、ということ、それは、未成年であった自分が成年とさせていただき、そして、そのあとも繰り返し繰り返し、あたかも未成年であるかのように、いろんな失敗をしたり、困難に出会って希望を見失ったりしながらも、しかし、そのときそのとき、また新しくされてきたな、ということを今思い起こすのです。

 

 今日の説教の題名は、「心配するけど神が育てる」と題しました。いろんな心配をします。自分自身に関して、自分の将来に関して。だけど、だんだん歳をとってくると、あんまり心配しなくなってくることもあります。でも、自分で「もういいや」と心配しなくなったとき、実は、他の人がわたしのことを心配してくださっているのです。

 

 今日の箇所では使徒パウロが、ガラテヤの教会の人たちを心配しています。大変心配しています。おそらくガラテヤの教会の人たち自身は、自分たちがそんなに、何か間違ったことをしているとは思っていなかったのではないか、と私は思うのですね。

 「これでいいんだ」と。イエス・キリストの福音もいいけど、昔に自分がやっていたような宗教的な習慣を守ることもいいよなあ、なじんできたしなあ、という、そんなふうな思いになっていたのではないでしょうか。

 

 もちろん、現代の私たちで言えばですね、いろんなお祭りがあったり、文化・習慣といいますか、日本の伝統的ないろんな歴史的なものがあります。そういうものをみんなダメだとか、悪いとか、そんな話を今しているわけではありません。それぞれの文化的な意味ということを知って、

大切にしていくということは、人類の文化を大事にするという意味で、とても重要なことです。

 

 けれども、そうした文化・習慣とか宗教的なものということが、文化・習慣ではなく、人をしばる律法になって、一人ひとりのたとえば人権を抑圧したり、一人ひとりの生活を制限して、支配するものになっていくならば、それはやはり間違っているのですね。

 

 ですから私たちは、よくよく考えて、自分たちが生きる社会にあっての、いろんな習慣とか、あるいは宗教的な行事について、どのように考えるか、ということを自分なりに受け止めて、そして自分の信念をもって対処していく。そういうことが必要だと思うのです。

 今日の箇所において、パウロがしかっているのは、ガラテヤ教会の人たちが、そうした自覚がなく、ただおかしなことになっている、その状態を悲しんでいます。

 そして、イエス・キリストの福音、つまり信仰というものは、宗教的な行いを積むことによって、得られるものではありません。救いというのはそういうことではなくて、心の中で神様を信じる信仰、それによってこそ私たちは救われるのだと。

 別の言い方をしましたら、何か良いことをして、それを積み重ねていったら神に救ってもらえる、というような、何か良い行いを積み重ねて、成績をよくして、まあ60点以上だったら救ってもらえる、というような行い、行為、そういうものによって救われるのでは全くないのです。

 宗教的な行事を一つひとつ守って一年間過ぎたら救ってもらえる、そういうことでは全くないのだと。むしろ自分では、そんなことをは一つもできない。そればかりか、悪事ばかりしている。そういう人間であっても、その中にあって自分の心の奥底は神様の方向に向いている。

 神様、助けて下さい、こんな罪人である私を助けて下さい、と願っている、その信仰によってこそ、私たちは救われる、イエス・キリストが教えて下さった神の国の福音、ということはそういうことなのであります。

 ところが、そこから離れていこうとするガラテヤの教会の人たちを、パウロはしかっています。私はここで考えるのですが、ガラテヤの教会の人たちは、なぜイエス・キリストの福音から離れて、以前のあいまいでおかしな宗教的な習慣、そこに戻ろうとしていたのでしょうか。

 その理由は明快では有りませんけれども、私の感じる所では、そのほうがなんとなく良かったのかな、と思うのですね。何となく良かった。人間は不思議なもので、そういう所があります。

 信仰のみによって救われる、と頭でわかっていても、やっぱり何かこういう行いをしたほうが、何かいいことをしたような気分になるよな、という人間性があるのではないでしょうか。こういうことをしたから私は救われる。私は良いことをしたから救われる。そういう何かの実感というものを人間はどこかで求めているではないかと思うのですね。

 

 けれども、それは人間としての実感を求めるということは、当然だと思いますけれども、あまに、そうした行事とか行いというものに、逆に支配されて、それに対して奴隷として仕えるようになっていくときに、私たちは道を踏み外していくのです。

 権力に対して従わされていく人間になっていく。そのことに対して、使徒パウロは、警鐘を鳴らしています。私たち一人ひとり、神様との出会いというのは、それぞれの物語があると思います。人間はみんな違っています。いろんな生き方をしています。

 その中で、神様とどんなふうに出会うのか、皆さんそれぞれ違っています。でも、そんな中にあって、パウロが協力しようと言っているように、今は未成年であった、つまり神様の前では神の恵みをまだよくわからなかった、そういう時期は誰にだってあるのです。

 それはクリスチャンホームに育った人だってそうですし、聖書を読んだことは今まで一度もなかったというような人も、みんなそうなのですね。でも、どこかで聖書を読んだり、教会に行ったり、いろんな出会いをする中で、こういうことなのかなあ、と思って神の恵みを知らされたとき、そこから生活が変わっていく、変えられていくということが起こります。

 そのときに、神の恵みを知るときまでは必要だった、生活の秩序を保つためのいろんな習慣とか律法というもの、それはもはや不必要になるのです。そういうものは、もう不必要になって、自由に生きることができる。そして、自由に生きることができるようになってから、そうした過去にしていた、いろんな習慣とか、行事というものも、新しい目でとらえかえして、文化として大切にするものは、これは大事にしよう、というふうにして、新しく接していく、とらえ直していくということ、これは十分にできるのですね。

 ただ、どんなふうに文化・習慣を大切にするとしても、それらに対して奴隷として仕えることは一切しない。イエス・キリストがこの私を救って下さって、いつも共にいて下さるから、もはやそういう宗教的な行い、いろんな文化・習慣、決まり事の下には、もう私はいない。

 そこから自由になって、自由に考えて一人の人として生きていく。その恵みというものに、立ち戻る。そのことが、今日のパウロの言葉から、言われているのであります。

 人間は、いろいろなことについて心配します。自分の人生が心配だと。だから、ガラテヤの教会の人たちのようになることもあるのでしょうね。けれども「心配するけど神が育てる」のです。

 神様が私たちを育てて下さる。使徒パウロを神様がガラテヤの教会の人たちのために、たぶん遣わされたように、私たちも教会につながっているならば、神の御言葉を聞いて、そして私たちの心配を超えて、神様ご自身が、私たちの一人ひとりを育てて下さる。そのことを実感することができるのであります。

 

 お祈りをいたします。
 天の神様。一人ひとりがその人生の中で出会う、いろんな時期において、決断をしたり、また、悩んだり、いろんな人に相談をしたり、また孤独に考えたりするときがあります。そんなときに聖書を読むことをさせて下さい。また、神様に祈って「アッバ、父よ」「神様、お父ちゃん」と叫んで、祈って、そして神様の御心を示されていきますように。そのことによって、自分自身が本当の意味で自由に、あらゆるものの支配から逃れて、一人の人として、神様に救われた尊い存在として生きていくことができますようにお導き下さい。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

 

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「ふるさとの言葉で神を知る」
    2023年5月28日(日)京北教会 礼拝説教 牧師 今井牧夫

 ペンテコステ(聖霊降臨日) 


 聖 書  使徒言行録 2章1〜13節(新共同訳)

 

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、

 激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、

 ほかの国々の言葉で話し出した。

 

 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた、

 信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。

 そしてだれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、

 あっけにとられてしまった。

 

 人々は驚き怪しんで言った。

 「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

  どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

  わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、

  また、メソポタミアユダヤ、カパドキヤ、ポントス、アジア、フリギア

  パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。

  また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、

  ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、

  彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業(わざ)を語っているのを聞こうとは。」

 

 人々は皆驚き、とまどい、

 「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。

 しかし、

 「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、

 あざける者もいた。

 



  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
      改行などの文章配置を説教者が変えています。
   新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 本日はペンテコステ聖霊降臨日の礼拝の日を迎えました。ペンテコステ、それは神様からの聖霊が降(くだ)り、そのことによって世界で初めての教会が誕生した日、そういうことであります。その日の様子のことは、今日の使徒言行録2章から記されています。

 

 今日の箇所には新共同訳聖書では「聖霊が降(くだ)る」という小見出しが付けられています。このような小見出しは元々の聖書にはなく、新共同訳聖書が作られたときに読み手の便宜を図って付けられたものであります。

 

 今日の箇所には何が書いてあるのでしょうか。1節には「五旬祭」という言葉が出てきています。これは其の時代にあっての、麦の収穫を祝うお祭りでありました。当日の人たちの一年間の生活の中に重要なお祭りがいくつかありました。

 その中にある一つの、過越の祭りという祭りの日から数えて何日目がこの日である、そのようにしていました。そして、そうしたことは、元は農耕、農業にちなんで作られていた日に、聖書に基づいた信仰の事柄が結びつき、さらにその記念日としての性格が深められていたようです。

 

 この五旬祭という日も、元は麦の収穫のお祝いであり、そこに旧約聖書モーセが神様から十戒と呼ばれる十の戒めをいただいた、その記念の日とも結びついていました。そして新たに神様からの聖霊が降(くだ)った日ということも、今日の聖書箇所にあるような日として、元の記念日と結びついていったのであります。

 

 こうして聖書の時代の人たちは、一年間の中でこの日にこのことを心に覚える、という形で主イエス・キリストのクリスマスやイースター、そしてこのペンテコステ、こうしたことを自分たちの生活の中に刻み込んでいたわけであります。

 

 毎年1回必ず思い出すこととして、このペンテコステの日がありました。では、その1年に1回、どういうことを思い起こしていたのでありましょうか。今日の箇所を読んで行きます。

 

 1節。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、

ほかの国々の言葉で話し出した。」

 このように、今日の箇所においては突然そのことが起こり、そこで何が起こったかということが、細かい説明なしに一気に記されています。この場面というのは、イエス様が十字架に架けられて死なれ、三日の後によみがえられ、その後に天に上げられた、その後に残された弟子たちやイエス様に従ってきた人たちが祈って過ごしていた、そのある日起こった出来事ということで語られています。

 イエス様は天に上げられる前に、聖霊が降(くだ)ることを約束しておられました。約束したものが降(くだ)るまで都にとどまっていなさい、とおっしゃっと天に上げられていかれました。その約束の通りに聖霊、神様の見えざるお姿である聖霊が、一人ひとりに降ったのです。

 

 そのときのことは、人間の言葉でどのように表見したらいいのか、人間の言葉では言い表せないような不思議なことであったようであります。今日の箇所においても、聖霊が音、そして炎、舌、そうした単語が用いられて、それらがその神様の聖霊ということを表すイメージとして用いられています。

 それらの単語がそのまま事実というのではなくて、その単語を用いることによって、この場で言葉では表せないような何かが起きたのだとということを、私たちに伝えているものです。そしてその出来事が起こったらどうなかったか、というと4節にあるように、一同は聖霊に満たされて霊が語らせるままにほかの国々の言葉で話し始めたとあります。

 

 この箇所で「霊」という言葉の前後にコーテーションマークといって、ちょんちょんと記号が付けられていますが、これは新共同訳聖書が作られたときの表記の決まり事というか、表現の仕方なのです。単なる何かの霊ということではなくて、「神様の霊」という意味を表すときには、このマークが付けられています。つまり一般的な意味で、人間の霊とか魂という意味の霊ではなくて、神様の霊という意味です。

 神様の霊が語らせるままに、イエス様の弟子たちが、ほかの国々の言葉で話し始めたというのであります。これは、その人たち自身が何か不思議な能力を発揮して語り出したというのではなくて、神様が語らせて下さった、あるいは神様ご自身が語って下さったということなのであります。神様が語られるのであれば、どの国の言葉を語っても全く不思議ではありません。神様はすべての人と意思疎通をすることができる方であります。

 

 さて、このような出来事が起こった後、5節以降にこうあります。 

 「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そしてだれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。』」

 この時代、聖書に登場する今日のこの場面においては、地中海沿岸のいろいろな国に様々な人たちがいて、そして各地のいろんな所に行って住んでいて、そこから帰ってきたユダヤ人の人たち、またそれとは違ったいろいろな立場の人たち、そうした人たちがたくさんいたということが、今日の箇所からわかります。 

 この人たちは、自分にとっての故郷の言葉、ユダヤではない外国の各地における、その土地の言葉で育ってきた、それが故郷の言葉でありました。その人たちがユダヤに帰ってきてユダヤの言葉でしゃべる生活をしていた。ところが、かつて自分たちが住んでいた土地の言葉を、イエス様の弟子たちが語り出したということで、大変驚いたわけであります。

 9節以降に出てくるたくさんの地名は、その時代にあってのキリスト教会の中にいた人たちのそれぞれの出身地域というものが、リストのような形で挙げられていると思われます。

 

 「わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミアユダヤ、カパドキヤ、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業(わざ)を語っているのを聞こうとは。」

 

 このように、かなりたくさんの、そして広い地域からいろんな人たちが、この周辺に来て住んでいたことがわかります。それらの人たちは、このとき弟子たちがいた所の、周囲の地域にいた人たちということでありますが、その人たちにとってはなつかしい故郷の言葉をここで聞いたのです。そうした言葉をここで聞くことや語ることはないと思っていた、その言葉が人から語られているという、この出来事は一体何だろう、と周囲の人たちがみんな驚いたのです。

 

 12節にはこうあります。 

 「人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った。しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた。」

 

 新しいぶどう酒に酔っている、というのは、あの人たちは酔っ払っているというあざけりですね。このときにいろいろな国の人たちの言葉が語り出した弟子たち、みんながそれぞれ違った言葉で語り出したら、まあ何と言ったらいいのでしょうか。とても不思議な状況でしたでしょうね。

 

 ここでは、お互いにしゃべっている言葉は、ほとんどわからなかったのでしょうか。ある国の言葉は分かったとしても他の国の言葉はわからない、という状況だったとしたら、その中でみんながザワザワと語っている、しかもそれは単なるおしゃべりをしているのではなくて、神様に感謝する言葉であったり、主イエス・キリストを伝える言葉、そうした言葉を語っていたのです。

 

 その様子を見て、何だこの騒ぎは、というように思った人たちは、「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざける者もいた、ということが書いてあります。

 

 あざける者がいた、馬鹿にする者が板というのであります。その後、14節では使徒ペトロが田の弟子たちと共に立ち上がって、声を張り上げて説教を始めます。いまここで目の前で起こっている聖霊降臨の出来事は、決して人々が酔っ払って騒いでいるのではない。これは旧約聖書に記された預言が実現したことであって、まさに神様の御心がここで実現されているのだと語ります。

 

 このペンテコステの出来事というのは、当時の教会が世界全体に向かってイエス・キリストが主であるということを語り伝えていく、宣べ伝えていく、その宣教ということの出発点になったときであります。

 この箇所において世界中の言葉で、弟子たちがしゃべり始めたということは、単に何かの外国語を習得して急に話し出したということではありません。世界中どこに行っても、イエス・キリストのことを伝えることができるようになった神様がそのようにして下さったのです。その大きな出発点があったからこそ、キリスト教が世界中に広まっていった。そのことを、今日の箇所は示しているわけであります。

 さて、現代の日本社会に生きている私たちは、こうしたペンテコステの箇所を読むときに、いろいろなことを思います。最初のころのキリスト教の歴史において、世界宣教へと大きく踏み出していく時点というものがあって、それはその後のキリスト教の歴史から考えて、なるほどそうか、と思うことが出来ます。

 

 今日の箇所に記されていることが、文字通りの事実であるかどうか、ということはさておき、聖霊降臨日とは、こういう重要な意味を持っていた、ということを後の時代の人たちに伝えるために、このようにペンテコステの物語が形成されたという、そういう理解をしていかなければならないのではないか、そのように思います。

 

 そのようにペンテコステというものが、今日の聖書箇所を通して、現代の私たちに向けて教えられています。本日の説教の題は「ふるさとの言葉で神を知る」といたしました。それは、今日の箇所において、様々な人たちのそれぞれの故郷、ふるさとの言葉で、イエス様の弟子たちが語り出したことに驚きあやしんだ、という聖書の言葉から取っています。

 ふるさとの言葉、というのはどういう言葉でありましょうか。また、聞くはずのなかった自分の故郷の言葉で神様のことを聞くというような、このペンテコステに起こったような経験を、皆さんはしたことがあるでしょうか。おそらく、あまりないのではないかと思います。

 今日のペンテコステの聖書箇所は、本当に特別なことであり、想像もできないし、そのイメージを頭の中でイメージすることもできない、そういう箇所、不思議な箇所であるように思います。

 

 今日の箇所を読んでいて、私はいろいろに教えを巡らしておりました。こんな経験が私にあるかなあと考えると、わたしには無いなあと思ったのです。そして、そのことがペンテコステということを考えるときに、それを理解することが難しくなっている、その理由だと思うのです。

 

 もちろん、聖書に記されている様々な奇跡的な事柄、それは自分の実感として理解することが難しい。このペンテコステということもまさにそうなのでありましょう。

 しかし、いろんなことを考えているうちに、ふと思い出したことがあります。それは、わたしがあるときに韓国に旅行に行ったことがあり、そのときのことです。それは同志社大学の大学院に行っていたときに、同志社大学と韓国の延世(ヨンセ)大学と交流の協定があり、その活動で大学の教授と学生たちで15名ぐらいでしょうか、確か三泊四日ぐらいでしたか、忘れましたけれども、旅行に行きました。そのときのことです。

 

 その韓国旅行の中で、ソウルの街を見学に行ったとき、その中の公園を見学していたときに、わたしがその街の見学をしていて、わたしがフッと後ろを振り返ると、教師たちや学生たちみんなが一人もいない、ということがありました。わたしが気がつかないうちに、みんなバスか何かで場所を移動していたのです。

 

 そのとき、どうしてわたしだけが移動しないでいたのか、わからないのですけれど、わたしはそのとき、ソウルの街の中で、それは川べりの公園だったのですが、そこでたった一人になっていました。あとで聞くと、もう行くよと声をかけて次の見学地に移動していったそうなのですが、そのときにわたしがいないということに誰もきがつかないで、バスが出てしまったと言うことなのですね。

 

 そういうことをわたしは全く知らなかったので、さあそろそろ次の所へ行くのかな、と思ってフッと後ろを振り返ると、誰もいない、ということに本当に驚愕しました。韓国の地で、もちろん言葉は通じません。いったい私は今からどうしたらいいんだろうかと思って、とりあえずちょっと歩き出しました。

 そして、ソウルの街でお昼ごろだったのでしょうか。会社からたくさんの人たちが歩き出して、レストランに食事に入っていくような、そんな時間でしたが、私は何とか日本語がわかる人が一人でもいないかなと考えて、あるお店にぽんと飛び込んで、イルボンサラム(日本人)とか何とか言ったのですが、そこにいた人は日本語が通じない人だったので、出てって下さいと出されました。

 

 もう本当に天を見上げる思いでありました。それでわたしは迷子になってしまったのです。今から一体どうしたらいいのだろうかと思いました。そして、みんなが泊まっていたホテルの住所を書いた紙を持っていたので、タクシーをとめて、ここに行って下さいと身振り手振りで言ったのですが、運転手は笑って手を振って車は行ってしまいました。あとで聞いたのですけれど、今の韓国の人ってかなり多くの人が漢字を読めないのですね。学校で習わないそうです。それで漢字は全然通じなかったのです。

 

 そうして、暗澹たる気持ちで道に立ちすくんでいたとき、タクシーが私の前にパッと止まりました。そしてドアがガチャッと開いて、中に乗っていたのは、わたしが一緒に行っていた留学生の韓国人の学生でした。パッとわたしの顔を見て、ドアを開けて「どうぞ」と日本語で一言、言ってくれました。

 本当にもう、心から安心したことを覚えています。そしてタクシーでみんなが行っているお店に連れていってくれました。行きますと、皆さんお昼の食事で、サムゲタンという鶏をまるまる炊いた料理なのですが、それをみんなで食べていました。

 わたしは、そこに遅れて行って、思いっきりぶちまけました。一緒に旅行に来たのに、わたしがいないことにどうしてみんな気がつかなかったのですか、と言いましたが、皆さんは爆笑していました。しょうがないですね、ぼんやりしていたわたしが悪いのですから。それでも皆さんは、今井さんはどこに行ったのだろうね、と心配はしていたそうです。

 そんな旅行のときのことを思い出します。外国でたった一人、言葉が通じないという中にあって、本当にわたしのところに迎えに来てくれた、そして「どうぞ」という日本語を聞いたとき、しかもその言葉は日本人からではなく、韓国人の学生からでした。あのときに、救いようのなかったわたしが救われた、助かった、という何か強い思いがありました。

 もっと外国に行かれている方であれば、もっといろんな経験をされているでしょう。しかし何と言ったらいいのでしょうか、外国の経験ということだけではなく、日本国内の話でも、いろん地方の方言とか、いろんなところで、そこで故郷の言葉というものを聞くことによって、気持ちが変わる、救われる、そしてそこから今まで経験してなかった人生というものがスタートしていきます。

 

 今日の使徒言行録のペンテコステの物語というのは、そういうことではないかと思うのです。イエス様が天に上げられて、弟子たちの目の前からいなくなって、弟子たちは自分たちがこれからどう歩み出していったらよいか、わかりませんでした。

 しかし、イエス様から言われた約束をただ信じて、祈って待っていたのです。約束されたものが与えられるまで待っていなさい、という内容のイエス様の言葉を、忠実に守って祈っていた人たちに聖霊が与えられました。

 そして、そのことによって、それまでイエス・キリストの言葉を聞くことがなかった人たちが、世界中の言葉を通して、また弟子たちやいろんな人たちを通して、伝えられていくことになったのですね。

 

 故郷の言葉で神を知る、そのことができたときに、人々に大きな喜びがあったのです。外国の言葉を、背伸びして使っている外国の言葉ではなくて、自分が生まれ育った場所での言葉、その言葉で神様が語られているということを聞いたときに、この日に3000人もの人がイエス様を主と信じたと。そして世界で初めての教会が誕生した。そのことが今日の箇所に記されています。

 そして、その人たちは何をしたかというと、2章の43節以降にあります。

 「すべての人に恐れが生じた。」「信者たちは皆一つになって、全てのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心を持って一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」

 これがペンテコステの教会というものの姿であります。それはまるでお酒に酔っ払ったように外国語をペラペラとしゃべっている何かおかしな人たちの集団、そういうことでは全くなくて、みんなが仲良くして共にパンを裂き、皆で食事を共に神様を賛美して礼拝をし、そのことによって地域の皆さんから好意を持たれ、愛された姿です。

 そのことによってその地域にあって、イエス・キリストの伝道ということが進んで行く教会、それがペンテコステの教会のことなのであります。この教会に来られる皆さんに、それぞれの故郷の言葉、魂の故郷の言葉である、神の御言葉、聖書の御言葉を伝えていきたいと願うものであります。

 

 お祈りをいたします。
 天の神様。わたしたちが生きているそれぞれの場にあって、言葉というものに出会い、そのことによって恵みが与えられると共に、また苦しみや混乱にも出会う、そんな世界をわたしたちは生きています。その中にあって、人間の言葉ではなく、神様が下さる言葉を語って、自分も隣人も、そして世界の皆さんも共に、平和に生きていくことができますように導いて下さい。今日のペンテコステの日から始まって、わたしたちの京北教会も、伝道する教会、たくさんの人に愛されて、一人また一人と新しい人を迎え入れる教会となることができますようにお導き下さい。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。