京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2023年4月の説教

2023年4月の説教

2023年4月 2日(日)、 4月9日(日)イースター(復活日)、
4月16日(日)、4月23日(日)、4月30日(日)
 以上の各礼拝の説教です。

「救い主に罪を見出せず」
   2023年4月2日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  ヨハネによる福音書 19章 1〜16節 (新共同訳)


 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭(むち)で打たせた。

 兵士たちは茨(いばら)で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、

 そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。

 

 ピラトはまた出て来て、言った。

 「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。

  そうすれば、わたしが彼に何の罪も見出せないわけが分かるだろう。」

 

 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。

 ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。

 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、

 「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。

 

 ピラトは言った。

 「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。

  わたしはこの男に罪を見いだせない。」

 

 ユダヤ人たちは答えた。

 「わたしたちには律法があります。

  律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」

 

 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、

 「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。

 しかし、イエスは答えようとされなかった。

 

 そこで、ピラトは言った。

 「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、

  このわたしにあることを知らないのか。」

 イエスは答えられた。

 「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。

  だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」

 

 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。

 しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。

 「もし、この男を釈放するら、あなたは皇帝の友ではない。

  王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」

 

 ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、

 ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。

 それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。

 

 ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、

 彼らは叫んだ。「殺せ、殺せ、十字架につけろ。」

 

 ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、

 祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。

 

 そこで、ピラトは十字架につけるために、

 イエスを彼らに引き渡した。



  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
   改行などの文章配置を説教者が変えています。
      新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

  本日は教会の暦で「棕梠(しゅろ)の聖日」と呼ばれている日であります。教会の暦の中で「受難節」という期間があります。その最後の一週間を「受難週」と呼んでいます。それが今日から始まります。

 今日の礼拝に、この棕梠(しゅろ)の聖日という、棕梠という木の名前、植物の名前が付けられている理由は、その棕梠の葉を振って、イエス様を都エルサレムで群衆たちが迎えた、お出迎えをしたという、聖書に記されている物語に基づいています。

 イエス様が、この都エルサレムに来て下さったということを、都に住んでいる人たちは大歓迎をしたのであります。大歓迎をした理由というのは、そのイエス様を迎えて、イエス様がいよいよこの自分たちの国、ユダヤの国を立て直してもっと強い国にして下さる、そして、当時ローマ帝国の植民地とされていた、支配されていた自分たちの国、ユダヤの国をもう一度独立して強くしてくれる、そうした政治的・社会的な希望を自分たちの夢というものをイエス様に重ねて、そして、大歓迎したのです。

 

 その大歓迎の仕方というのが、棕梠(しゅろ)の葉っぱを持って着て、それを大きく手で振る。そういう歓迎の仕方でありました。そうした棕梠の葉っぱで大きく振ると、遠くから見るとたくさんの人が手を振っているように見える、という解説もあります。

 当時の大歓迎の仕方だったのでありましょう。その棕梠の葉っぱで群衆たちが喜んでイエス様を迎える中、イエス様はロバの子に乗って都に来られました。もし本当の王様、強い王であれば、足の速い馬に乗って都に入ってくるのですけれど、イエス様はあえて御自分の思いをこめられたのだと思いますが、ロバの子どもを選んでその子ロバの背中に乗って入ってこられました。

 ゆっくり歩くロバの子、荷物を載せて運ぶ、そのロバの子の背中に乗って、都に入られたときに、そのロバを選ばれたイエス様の、お気持ちはどんなものであったでしょうか。それは、人々が願っているような、強い馬に乗って颯爽と都に入場してくる王様、御自分はそうではない、ということを示そうとされていたのではないでしょうか。

 そうしたイエス様のお気持ちということは、聖書には残されていませんが、この棕梠(しゅろ)の聖日という名前で、この受難週に入る時、この日をそのように教会の暦で棕梠の聖日としたのです。これから、人々に捕らえられて十字架に架けられ、死なれ、そして復活なされるという、イエス様の最後の一週間を受難週と呼び、記念したのであります。


 来週4月9日(日)は、教会の暦でイースター(復活日)を迎えます。十字架の上で死なれたあと、三日の後によみがえられたという、福音書に記されていること、そのことを記念して来週、イースター礼拝をします。

 

 こうして毎年教会では、教会の暦を通じて、イエス・キリストの生涯ということを覚え、また聖書のメッセージということを、この私たち自身の一人ひとりの生活の中で、覚える、実感する、そういうふうな期間を教会として設けているわけであります。

 今週の中で木曜日は「洗足木曜日」と呼ばれます。足を洗う木曜日という意味です。それはヨハネによる福音書に記されたことであり、イエス様が捕らえられる前日に、イエス様が弟子たち一人ひとりの足を洗って下さったということを記念しています。

 そして、その翌日の金曜日が受難日と呼ばれています。イエス様が十字架につけられて死なれた日です。

 今週、そうした木曜日、金曜日を迎えるのです。皆さんそれぞれに今週が受難週であるということを心に受け止めて、それぞれのこの受難週の過ごし方をしていただければと思います。そのような受難週にあたって、今日の聖書の箇所は私たちに何を教えているのでありましょうか。
 

 今日はヨハネによる福音書の19章1節から16節までを選びました。新共同訳聖書では、この箇所の少し前の所に「死刑の判決を受ける」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは、新共同訳聖書が作られたときに付けられたものであり、元々の聖書にはありません。

 

 今日の箇所に書かれているのは、イエス様が捕らえられる、そして、当時ユダヤの国を治めていた、ピラトのもとにあって判決を受ける、イエス様が十字架につけられる。ローマ帝国の法律に基づいた決定を受ける、その場面が記されてあります。

 19章1節にこうあります。

「そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭(むち)で打たせた。兵士たちは茨(いばら)で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。」

 

 これは、イエス様自身がユダヤ人の王であると自称していた、自分で言っていたとして、そのことをからかうためのものでありました。実際には、イエス様ご自身が、自分がユダヤ人の王であると言っていたのではなくて、人々がそう言っていた。あるいはイエスがそう言っていた、という偽りの証言がなされていた、ということなのでありますけれども、なぜ無実のイエス様が捕らえられて、十字架刑という当時最も重い刑、それが処せられた理由というのは、自らを王と言ったということでした。

 

 当時の実際の王としては、ローマ帝国のもとで総督となったピラトであり、ローマには皇帝もいます。しかしそれらの人を差し置いて、自分が王であると言った、ということが、皇帝に対する反逆罪というふうに解釈をされ、そして十字架の刑という当時最も重い刑ですが、政治犯あるいはもっとも重い罪を犯した人、そうした者にしかなされなかった十字架の刑が、イエス様に対してなされることになったわけです。

 

 そのような偽りの罪状でイエス様が捕らえられたときに、いばらの冠をかぶせた。それは、お前にはこんな王冠がふさわしい、というあざけりであります。いばらで冠を形を作って頭にかぶせると、本当の王様の冠のような美しい、いろんな飾りではなく、いばらのトゲが飾りにも見える。そうした形で、そのいばらの冠をかぶせたのです。

 

 そして紫の服をまとわせた、というのはもこれも当時、紫というのは高貴な人が着る服の色であって、イエスにその服をまとわせた。つまり、お前は王様なんだってな。じゃあ、冠をかぶせてやるよ。紫の服も着せてやるよ。そしてユダヤ人の王、万歳と言ってやるよ、というように、イエス様をこうしてあざけっているのであります。

 

 4節にこうあります。

「ピラトはまた出て来て、言った。『見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見出せないわけが分かるだろう。』イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、『見よ、この男だ』と言った。」

 

 このときピラトはなぜそのように、兵士たちからあざけられているイエス様を引っ張り出してきたかというと、イエスというのはたかだかこんな男でしかないのだ、ということを示そうとしたのです。

 イエスユダヤ人の王だと、自分が言っていたか、あるいは人が言っていたか知らないが、結局、この程度の男だったのだと。捕らえられて何もできない。いばらの冠を着せられて、からかわれている。あざけられている。侮辱されている。

 イエスというのは、たかだかそんな男でしかなかったのだと。この男に、そんなローマ皇帝への反逆罪なんていう重い罪が犯せるはずがない。イエスは、そんな大した人物ではないのだ、とピラトは思っていたのです。

 しかし、ピラトがそうやってイエスを引き出したときに、こうあります。

 「祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、『十字架につけろ。十字架につけろ』と叫んだ。ピラトは言った。『あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。』ユダヤ人たちは答えた。『わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。』」

 ここに人々はユダヤの律法を持ってきました。自分たちユダヤ人の律法によれば、神様というのは天の神様お一人であって、地上に神がいるわけではない。しかし、イエスは神の子であると自称した。そのことがもう自分たちの律法に違反しているのだ、というのでありました。

 当時のユダヤでは、ローマ帝国の支配のもとでローマの法律が適用されると共に、ユダヤ人の律法も適用されていしまた。その二重の枠組みの中で、もしローマ帝国からは反逆罪とみなされなくても、ユダヤの律法によれば有罪にあたるということです。そして、自分たちユダヤ人の立場は、ローマ帝国の植民地支配の中に置かれているので、自分たちだけでイエスを死刑にする権限がない。だから、ピラトに十字架にイエスをつけるようにして下さい、と願ったわけであります。

 

 そのような人々の様子を見てピラトは、いま起こっているこの出来事、イエスを巡って起こっている出来事が、尋常なこと、普通の状態のことではないことを察したのです。

 

 「ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、『お前はどこから来たのか』とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。」

 イエスって一体何者なのだろう、とピラト自身が思ったのです。「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった、とあります。そこで、その答えようとされない、イエスの態度が不満だったのでしょう。ピラトは言いました。

「そこで、ピラトは言った。『わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。』」

 

 「イエスは答えられた。『神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。』」

 イエス様は大変落ち着いて答えておられます。当時、このユダヤの国において最高の権限を持っていたピラト。釈放する権利もあれは十字架に付ける権限もある。そのように言うピラトに対して、本当の権限というのは神様から与えられたもの。そのように言われるのでありました。

 

 そのような言葉を聞いてピラトは、このイエスという人物は、これはただ者ではない、と思ったのでしょう。

 

 「そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。『もし、この男を釈放するら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています』。」

 

 ずいぶん、大変なことになってきました。ピラトがもしイエスを釈放すると、今度は総督ピラトがローマ皇帝に反逆したということになってしまう、というふうに人々はピラトに詰め寄ったわけであります。こうなるとピラトの立場が悪くなってきます。

 

 「ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。」

 まあ、即席の裁判であったと言ったらいいのでしょうか。そういう所に引き出さざるを得なくなったというのです。

「ピラトがユダヤ人たちに、『見よ、あなたたちの王だ』と言うと、彼らは叫んだ。『殺せ、殺せ、十字架につけろ。』ピラトが、『あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか』と言うと、祭司長たちは、『わたしたちには、皇帝のほかに王はありません』と答えた。そこで、ピラトは十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。」

 ここで今日の箇所は終わっています。総督のピラト自身は、イエスを十字架につけたくなかった。どちらかといえば、イエスというのは大したことのない男だと。そんな反逆を企てるような人物ではない。こんな人物を放っておいても何も起きない。そのように、たかをくくっているような、そんな感じでありました。

 しかし、イエス様を捕らえて連れてきた、祭司長、長老、律法学者と呼ばれる宗教的な権力者層の人たちにとっては、ここで譲るわけにはいかなかったのです。何とかピラトの心を動かして、イエスを十字架につけるように、ローマ帝国の権限によってそうするように、とピラトに詰め寄ったのです。

 もし、そうしなければ今度は、ピラトがローマ皇帝に対する反逆罪に問われると。王を自称した者をピラトは釈放したとは何たる事だと。そのように皇帝に訴えることもできると、人々はピラトに詰め寄ったのであります。

 

 その力関係の中でピラトは、詰め寄る群衆、民衆たちの声に押される形で裁判を開き、そして、このような結果になったということでありました。

 以上が今日の箇所であります。この箇所を読まれて、皆様は何を思われたでありましょうか。

 

 時折、新聞を見ておりますと、無実の罪で服役された方が再審請求をしている、その結果がどうであったか、というようなニュースを見ることがあります。何の罪も犯していないのに捕らえられて、そして当時の状況の中で、いろんな要因はあったのでありましょうけれども、有罪とされて刑に服すことが求められる。

 それは、この世に生きている人間として、本当に耐えられない、許しがたい、苦しい、考えたくもない、いやなことであります。

 

 今日の聖書箇所には、まさにそうしたことが起こっている、といっていいでありましょう。ここには当時の宗教的な権力者層の人たちの思惑があふれています。

 その思惑に基づいて緻密に考えられた論理が展開され、最初はイエスを釈放しようと思っていた権力者のピラトが、偽りの裁判を開いて、そこで有罪の決定を下してイエスを引き渡していく。そういうプロセスが如実に記されてあります。

 このような箇所を読んで、皆さんは何を思われますでしょうか。

 こうしたプロセスがあったために、イエス様は十字架につけられた。何の罪も犯していないイエス様が、偽りの証言、偽りの論理で命を落とされた。そのイエス様の十字架の死ということ、それは後にキリスト教においては、神様に対する人間一人ひとりの罪をゆるすために、イエス・キリストが私たちの身代わりになって死んで下さった、と考えられました。

 そして、その死ということを、イエス様が自らの十字架の死を受け入れて下さったことによって、私たちの罪はゆるされた、とキリスト教では理解をし、教えています。

 

 そのような教えの中では、イエス・キリストの十字架というのは、その信仰的な考え方の中の一つのキーワード、ポイントであって、抽象化して理解することができます。

 けれども、今日の聖書箇所に記されている、イエス・キリストの十字架ということは、本当に無残なものであります。その十字架に付けられる前に、いばらの冠をかぶせられ、紫の服を着せられ、「王様、万歳」と言って兵士たちから打たれている、この無力なイエス様の姿は、本当に、見るにたえないものです。

 

 このようなイエス様の姿は見たくない。思いたくもない。そして、今日の箇所にあるような、このみにくい人間の心の満ちた、みにくい裁判、みにくい権力のあり方、こんなものは、私たちは見たくないものであります。

 

 しかし、キリスト教会というものは、このような私たちが最も見たくないものを見るために、受難節、受難週、棕梠(しゅろ)の聖日の礼拝、そうしたものを教会の暦で定めているのです。

 最も見たくないもの、イエス様の十字架の死、なぜそんなことを見なければいけないのでしょうか。それは私たちが本当は見たくないものが、一番見たくないものが何かというと、それは実は、神様の御心である、そういうことがあるのですね。

 

 私たちは、神様の本当の心、神様の御心っていうものが見たくないのです。神様の本当の御心というものを見てしまったら、私たちはそれに逆らえない。それが私たちのすべてを決めるのだという、その神様の御心を私たちは見たくないのです。

 

 たとえば、イエス・キリストの十字架の死ということも、そうなのです。それがいかに神様の御心であったとしたって、いや、それが神様の御心であればあるほど、私たちはそれを見たくない。そんなつらいことは、いやに決まっているではありませんか。

 しかし、人間が生きるにあたって、私たち一人ひとり、いつか死んでいくということは揺るぎない事実であります。そして、死に向かって生き続ける間、その間には喜びだけがるのではなくて、苦しみ、悩み、痛みがあります。誰もが幸せに生きたいと思う。しかし誰もがその人生において全てにおいて幸せになるわけではない。

 仮に自分の人生の多くに、そうした苦しみがなかったとしても、この社会全体、世界全体を見渡すときに、この世界全体はつながっていて、その中にたくさんの苦しみ、痛みが生まれています。この地球の上に生きる人間、誰も、その悩み、苦しみ、痛みの中から逃れることはできないのです。

 その中で、神様は私たちに示されます。「生きよ」と言われるのです。この世界を造られたとき、天地創造のときに神様は、「光あれ」と一番最初に言われました。旧約聖書の創世記の冒頭に記されてあります、天地創造・人間創造の物語の中で、神様は「光あれ」と言って、この世界を造り始められたのでありました。

 

 暗いドロドロとした何もないような、そんな世界の中に「光あれ」と言われて光が照らしだしたとき、そこから世界は始まったのです。そして、その世界に神様は人間というものを創造されました。

 もちろん、旧約聖書のそうした記述は神話的な記述であり、古代の人たちの世界観に基づいた物語であるといって構いません。歴史的な事実そのままであると、言わなければならない必要はどこにもありません。

 

 けれども、そうした物語を通じて、聖書は私たちに教えています。神様が、この世界を造られた。だから、この世界の中に神様によって作られた人間一人ひとりが、この世界を生きるということは、それが神様の御心なんだ、ということです。

 どんなに人生が苦しくたって、どんなに人間の生きるこの社会が、暗くて、怖くて、つらいものであったとしても、それでも「生きよ」というのが、神様の御心なのです。

 私たちは、その神様の御心を見たくないのです。こんな苦しい世界の中で、なぜ生きなきゃいけないのか。どうしてこんなに苦しい経験を私はしなければならないのか、理不尽じゃないか。

 あっちを見れば幸せそうにしている人がいる。こっちを見ても幸せそうな人がいる。しかし、私はこんなに苦しんでいるんだ。そんな思いになることもあるのです。

 その時に、どうして生きなくてはいけないのでしょうか。不公平な世界、理不尽な世界にあって、何で生きなくてはいけないのでしょうか。そんな世界にあっても「生きよ」と言われる神様の御心を私たちは見たくありません。

 けれども、その、見たくない神様の御心を見るとことによって、私たちはたくさんのことを教えられるのです。

 今日の箇所においては、イエス様が捕らえられて、理不尽な苦しみを受けられて、十字架へと突き出されていく、その本当に見たくない場面が記されています。ここには人間の罪ということが凝縮しています。人間は神を受け入れたくないのです。

 神の御心を見たくないのです。そんなものを見るのではなくて、神様の御心から目をそらして、そして自分自身を神として生きていきたいんだ。自分勝手に生きていきたいんだ。それが人間の本性であります。神様から与えられた自由を、神様のために、また人のために用いることができない人間です。

 

 しかし、そんな人間というものに対して、神様の御心が何であるか、ということを見ることを、イエス様はご自身の十字架の死を通して、示して下さっているのであります。

 イエス様は私たちが最も見たくない十字架の死をとげられ、その三日の後に復活なされました。来週はイースターです。

 

 お祈りをいたします。
 天の神様。今週一週間を、イエス様の十字架の苦しみと、そしてまた私たち自身、一人ひとりの自分自身が生きることの苦しみ、痛み、悩み、そのことを思い起こしつつ、その全てを神様におゆだねし、イエス様がご自身のいのちを神様にゆだねられたように、私たちも自分の命を神様にゆだねることができますように。そして、みんなで来週のイースター礼拝を迎えることが、出来ますようにお導き下さい。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

 

 

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「私とあなたを捜して」 
 2023年4月9日(日)京北教会
     イースター(復活日)礼拝説教

 聖 書  ヨハネによる福音書 20章 11〜18節 (新共同訳)


 マリアは墓の外に立って泣いていた。
 泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、

 イエスの遺体の置いてあった所に、

 白い衣を着た二人の天使が見えた。

 一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。

 

 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、

 マリアは言った。

 「わたしの主が取り去られました。
 どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」

 

 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。

 しかし、それがイエスだとは分からなかった。

 

 イエスは言われた。

 「婦人よ、なせ泣いているのか。だれを捜しているのか。」

 

 マリアは、園庭だと思って言った。

 「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。
  わたしが、あの方を引き取ります。」

 

 イエスが「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、
 ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。
 「先生」という意味である。

 

 イエスは言われた。

 「わたしにすがりつくのはよしなさい。
  まだ父のもとへ上(のぼ)っていないのだから。 
 
  わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。
     『わたしの父であり、あなたがたの父である方、
     また、わたしの神であり、
     あなた方の神である方のところへわたしは上(のぼ)る』と。」


 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、
 「わたしは主を見ました」と告げ、
 また、主から言われたことを伝えた。

 

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
   改行などの文章配置を説教者が変えています。
   新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 本日、イースターの日を迎えました。今までの受難節の期間、イエス・キリストの十字架の苦しみと、私たち一人ひとりの生きることの苦しみということを重ねて、祈り、黙想し、神様の御心と共に歩んできた時期を過ごして参りました。そして、教会の暦は今日がイースター、復活日であることを告げています。

 今日の聖書箇所はヨハネによる福音書20章11〜18節であります。小見出しにはこうあります。「イエスマグダラのマリアに現れる」。こうした小見出しは元々の聖書にはなく、新共同訳聖書が作られたときに読み手の便宜を図って付けられたものであります。

 

 11節から、こうあります。
「マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、『婦人よ、なぜ泣いているのか』と言うと、マリアは言った。『わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。』」

 

 このように、マリアと天使の対話というものが記されてあります。今日の箇所は、20章の1節から始まるイエス様の復活についての物語の中にあります。20章1節を見ますと、こうあります。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」

 

 ここに「週の初めの日」とあります。これが、今の私たちで言えば日曜日にあたるわけですけれども、当時においては安息日の次の日ということであります。その朝早く、また暗いうちにマグダラのマリアは一人で墓に行きました。すると、そこで墓から石が取りのけてあるのを見たとあります。

 

 そこで、このマグダラのマリアは走って行って、イエス様の弟子であるシモン・ペトロ、そしてまたもう一人の弟子、ヨハネと思われるその弟子のところへ行って、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私たちにはわかりません」と言いました。それを聞いてペトロと、もう1人の弟子が走って行きます。

 

 すると墓の中にはイエス様のなきがらがなかったというのであります。そのことが何を意味しているのか、その二人の弟子たちにはわからなかった、と記されてあります。そして、そのあと、今日の聖書箇所の場面になります。ここではもう一度、墓にやってきたマリアが墓の中に入ることができずに泣いていた、そこから始まっています。

 

 マリアにとって、本当に大切な主イエス・キリスト、そのなきがらがないということであれば、せっかく墓に来たとしても、もはや、その使者を弔うということ、追悼すること、悼むこともできない。では、一体自分は何をしに来たのか。呆然とする思いでいたのであります。

 そのとき、その墓にいた二人の天使が話しかけます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。」通常であれば、ここでこのように天使から話しかけられたら、人は動転するものでありますが、マリアは答えます。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしにはわかりません。」誰が自分に問いかけているのかもわからないままに、マリアは答えたのです。

 そして、そのあと、こうあります。14節。「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」その場に復活なされたイエス様がすでにおられた。しかし、それがイエス様だとわからなかった、というのです。

 こうしたヨハネによる福音書の記述の仕方というのは、このイエス様の復活の場面、マグダラのマリアの悲しみや驚きの場面ということを、大変不思議な形で記している、といってよいと思います。何か夢を見ているような気もします。

 

 その状況の中でイエス様はおっしゃいます。

「イエスは言われた。『婦人よ、なせ泣いているのか。だれを捜しているのか。』」

 これは天使ではなく、イエス様の声でした。しかし、マリアはそれがイエス様だとはわかりません。

 

「マリアは、園庭だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。』」その墓地の世話をしている園丁だと思ったのでしょうか。マリアはそのように言います。もし、なきがらの置き場所が変わったのなら、わたしが引き取ります、教えてください、とマリアは言うのです。

 

 それは、自分の目の前から失われた主イエス・キリスト、そのなきがらを自分が引き取るという申し出であります。いなくなってしまったイエス・キリストを、この私が引き取ります。そう言いました。

 それに対して16節。こうイエス様が言われます。
 「イエスが『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先生』という意味である。」

 

 このとき、イエス様がマリアの名前を呼ぶことによって、マリアは初めて、自分を呼んでいるのが主イエス・キリストそのものである、ということに気がついたのです。あなたの名前を呼ぶ声、確かに聞き覚えのあるその声が、イエス様の声でありました。

 そして、続けてイエス様は言われます。

 「イエスは言われた。『わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上(のぼ)っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなた方の神である方のところへわたしは上(のぼ)る』と。」

 

 ここでイエス様は弟子たちのことを、こう言っています。「わたしの兄弟たち。」今まで、そういう言い方はしてこられなかったと思います。「わたしの兄弟たち。」イエス様にとって、それまでは弟子であった人たちが、兄弟と呼ばれているのです。

 また、イエス様は、捕らえられて十字架につけられる、その前の日に弟子たちに対して、「わたしはあなたたちを友と呼ぶ」と言われていました。「友」と呼ばれていた人たちが、ここでは「兄弟」と呼ばれています。イエス様と直接つながる間柄の者たち、そういう意味であります。

 

 あなたたちにとっての父である神のところへ、わたしは上るとイエス様は言われたたのです。それを聞いたマグダラのマリアは、弟子たちのところへ行って言いました。「わたしは主を見ました。」そして、イエス様から言われた言葉を弟子たちに告げたとあります。

 

 今日の聖書箇所は以上であります。今日の箇所にはイエス様の復活ということが記されています。

 最初から見ていきますと、お墓が空っぽであり、そして、そこへ天使が登場し、話しかけ、そしてその後にイエス様が登場し、話しかけ、それでもマリアはわからないのだけれど、イエス様がマリアという名前を呼んだときに、初めてそれがイエス様だとわかった。

 

 こうした話の展開は、現代社会において聖書を読む私たちを戸惑わせるものがあります。この場面で一体何が起こっているのだろうか、なぜ、こうなっているのだろうか、と不思議に思う展開です。まるで夢の中の世界のようです。幻想的であり、これは具体的にはどういうことであったのか。

 

 他のマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書とも対照しながら、いろいろ考えることができますが、イエス様の復活の物語には、筋道を通して説明することが難しいものがあります。

 

 現実。すなわちイエス・キリストは捕らえられて、無実の罪で十字架につけられ、はりつけにされ、さらしものにされ、その中で命を落とされ、そして葬られた。イエスは死んだ。それが誰にでもわかる一つの現実、事実であります。

 

 しかし、その事実は、マグダラのマリアや、またイエス様の弟子たちにとって、受け入れられないものでありました。受け入れられないけれども、しかし現実がそうであるということも、ひしひしとマリアや弟子たちはわかっていたのです。だから、墓にやって来たのです。自分たちが今まで信じていたものが崩れて、イエスはもう死んでしまった。この墓の中にイエスのなきがらがある。

 

 自分たちのやることは弔うことでしかない。それは過去を振り返り、過去を追想し、記念することであります。しかし、その墓にやってきたときに、イエス様のなきがらがない、ということになれば、一体何のために、その墓にやってきたのでしょうか。

 お墓がお墓としての役割を果たしていない。何にもない、空っぽというものに、マリアも弟子たちも、出会うことになったわけであります。

 

 今日の説教の題は「私とあなたを捜して」と題しました。今日の箇所においては、イエス様を捜しているマリアが登場いたしますが、マリアが捜していたのは、イエス様だけではありません。空っぽの墓の前で自分で見失っていた、自分自身、というものを捜していたのです。

 

 イエス・キリストがおられるから、自分もいる。イエス・キリストとの関係の中で、自分の存在を確かめてきたマリアにとって、イエス様がいなくなることは、自分の存在をも失うことでありました。イエス様を捜しているマリアは、イエス様を捜しているのではなくて、マリア自身、自分自身を捜していたのです。

 

 このとき、もし、マグダラのマリアが、自分だけを捜していたら、イエス様に出会うことはなかったかもしれません。

 その意味は、こういうことです。イエス様は十字架で死んだのだと、もう私には希望がなくなったのだというだけでは、マリアはイエス様に出会わなかったのではないか、ということです。

 

 神様の導き、神様の御心によって、私たちが生きている世界が変えられていく、「神の国」の信仰、そういうものをイエス様から与えられていたのに、そのイエス様が死んでしまったのでは、もう神の国もやってこない、これではもう私には希望がなくなってしまった、と言っているだけでは、マリアは、イエス様に出会わなかったのではないか、ということです。

 

 自分の空っぽの心を悲しみ、そして失ってしまった自分の夢、希望、自分の生きがい、自分の生きる実感、そういうものをなくしてしまった自分を哀れんで、ただ、神様、どうしてこんなことになってしまったのでしょう、と自分を哀れんで祈っているだけであれば、マリアは復活のイエス様に出会うことはなかったのではないでしょうか。

 

 わたしっていうものがなくなったから、わたしを捜す。どこにいるのだろうか、本当のわたしは、と捜す。それだけでは、実は本当のわたしに出会うということはできないのです。

 

 ただ、自分というものを悲しんで、哀れんで、はあ、かわいそうな自分、このわたしに神様は何を与えてくれるのだろうか、そんなふうなこの空っぽのわたしを、神様がどうやって埋めてくださるか、その思いだけでは、マリアはおそらく復活のイエス様と出会うことができなかったのです。

 

 マリアが捜したのは、失った自分だけではありませんでした。失ったイエス様を捜したのです。自分のことはさておき、失われたイエス様がどこに行ったのかと。十字架で死なれたイエス様のなきがらが墓に納められた。しかし、その墓にすら、なきがらがなくなったら、もう本当にイエス様がいなくなってしまった、どこに行ったのか、と思っているマリアは、イエス様を捜すと共に、失われた自分自身というものも一緒に捜していたのです。

 

 そして、そのようなマリアに、イエス様が話しかけて下さったのです。

 「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」

 マリアは、言うまでもなくイエス様を捜しているのです。にも関わらずイエス様に言われました。「だれを捜しているのか」と。これは、どういう意味でしょうか。それは、あなたはイエスを捜さなくてもいいのに捜しているんだよ、わたしはここにいる、そういうイエス様からのメッセージです。

 

 マリア、あなたが捜すからわたしが見つかるのではない。あなたを捜しているのはわたしなのだ、と。そのようなイエス様からのメッセージを、今日の箇所から聞き取ることが許されるのではないでしょうか。

 マリアは、単に自分自身を哀れんでいたのではありません。深い悲しみの中で、しかし勇気を奮い起こして、この墓にやってきたのです。そのときに、その墓でさえ空っぽであるという、さらなる悲しみに包まれたとき、マリアはそのとき、今まで自分が悲しんできたこと、その意味は何だったのか、本当にわからなくなったと思います。

 そのマリアに、イエス様が語りかけて下さったときに、それまでマリアが悲しんでいた、その悲しみというものは、その悲しみの中心にいるはずのイエス様によって、取り払われたのです。こうしてマリアはイエス様と出会い、そして、イエス様から言われた言葉を弟子たちに伝えていきました。

 

 このヨハネによる福音書20章を見ていますと、最初のところから、マグダラのマリアが走っていた場面があります。最初にお墓にやって来たマリアが、墓から石が取りのけてあるのを見て、そこでマリアはペトロたちのところに走って行きます。それを聞いた二人の弟子たちもまた、走って行きます。イエス様が亡くなられて、本当にもうしんみりとするしかない、悲しい静かなとき、しかし、マリアも弟子たちも走り出したのです。

 なぜ走り出したのか。イエス様のなきがらがそこに無いからです。何かが起こっているからです。何事が起こったのか、大変だと走り出したのです。

 

 人の死というのは、本当に不思議なものでありますけれど、徹底して人の心を悲しませていくものであります。けれども、その悲しみの中で、人はただしんみりとしているだけではなく、不思議なことに、走り出すということもあるのですね。

 

 何かが起こっている。何が起こっているのか。そうして走り出した人たちが語る言葉によって、イエス・キリストの復活ということが、弟子たちに伝えられていく。最初はそのことを信じられなかった弟子たちも、復活のイエス様が出会って下さることによって、そのことを信じていく。

 そうして、弟子たち一人ひとりにイエス様が出会ってくださり、その40日の後に、イエス様は天に上げられたとあります。そのとき、イエス様はおっしゃいました。約束されたものを受けるまでは、ここにとどまっていなさい、と。そして、とどまっていた弟子たちには、やがて天からの聖霊、神様の聖い霊、聖霊が注がれました。

 

 聖霊、それは神様の見えざるお働きの姿であります。イエス・キリストは死んだ、はずなのでありますけれども、その後に、弟子たちには、イエス・キリストの復活の確信が与えられ、さらにはペンテコステと呼ばれる聖霊降臨日のときがやってきました。

 

 その聖霊降臨日のことを記した使徒言行録では、それはイエス様の弟子たちが世界各国の言葉を語り出して、イエス様、神様のことを証しをし始めた、そういう場面が記されています。それは、大変にぎやかな騒ぎだったので、それを周囲から見ていた人の中には、あの人たちは新しいぶどう酒によっぱらっているのだと、そのようにあざける人もいたということが、使徒言行録には記されております。

 そこで、そうではない、とペトロが人々に説教を始めるのでありますが、そのペトロは、今日のヨハネによる福音書20章においては、イエス様の復活を最初は信じられなかったという一人として、記されてあります。

 

 イエス・キリストの復活というのは、いったいどういうことなのでしょうか。今日の聖書の物語も、大変幻想的であります。現代社会に生きているわたしたちにとって、イエス・キリストの復活というのは、もはや理解を超えたことであり、具体的にそれがどういうことであったのか、筋道を通して説明することはできません。

 

 しかし、聖書全体を通して、こういうことを言うことができるのです。人の死という、どうしようもなく悲しいこと、ただしんみりとするしかない、そのイエス様の死であったはずなのに、その死から始まる出来事によって、弟子たちは走り出したのです。

 そして、集まり、祈り、そしてペンテコステがやってきたときに、彼らは周囲からにぎやかなうるさい、何だあいつらはと言われるほどに、にぎやかな、そして活発にイエス・キリストを世界に伝える教会となっていったのであります。

 復活ということは、人が死んで、それで滅びていくということではなく、その死から始まって、この人の世にあって、人の世をある意味でにぎやかにしていく、ときには騒がしくもしていく、ときには人を走らせたりもする、新しい力が生まれてくる、そういうことなのであります。

 

 イエス・キリストの復活という、わたしたちの理解を超えた、そのことによって、わたしたちが生きている人の世には、熱と光が与えられました。新しい力が与えられました。神様の聖霊がくだり、私たち一人ひとりをイエス・キリストにあって新しく生きる者として下さったのであります。

 

 その一人であるマグダラのマリアが、今日の箇所には記されてあります。マリアは、失った自分の心だけを探していたのではありません。その自分の心の先にいる、先におられる、主イエス・キリストを捜していたのです。わたしとあなたを捜していたときに、マリアはそのあなたから声をかけられ、もはや捜す必要はない、主は共にいてくださる、ということをマリアは知ったのであります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、今この世界を生きている私たち一人ひとり、いろんな不安に囲まれて、不安な状況に囲まれて生きています。しかし、その中にあって、私たちがすべての希望をなくすときにも、神様の御心を求め、イエス・キリストを求めて、神の救いを求めて生きるときに、必ずそこにイエス様の復活を確信する、その力が与えられることを思います。どうか、一人ひとりにその恵みをお与え下さい。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

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「遠く離れても天の下に」 
 2023年4月16日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  ヨハネによる福音書 20章 19〜29節 (新共同訳)


 その日、すなわち週の初めの日の夕方、

 弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。

 

 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。

 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

 

 イエスは重ねて言われた。

 「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、

  わたしもあなたがたを遣わす。」

 

 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。

 「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。

  だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 

 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、

 イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。

 

 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、

 トマスは言った。

 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、

  また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

 

 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。

 戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、

 「あなたがたに平和があるように」と言われた。

 

 それから、トマスに言われた。

 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。

  また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。

  信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 

 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

 イエスはトマスに言われた。

 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」

 

 

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、改行などの文章配置を説教者が変えています。
 新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 先週、教会の暦でイースター、復活日を迎えました。そのときから、イースターについての聖書箇所を皆様と共に礼拝で読んでいます。今日の箇所はヨハネによる福音書21章19〜29節です。

 

 ここには、「イエス、弟子たちに現れる」、そして「イエスとトマス」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは、新共同訳聖書が作られたときに、読み手の便宜を図って付けられたもので、もとの聖書にはこうした小見出しはありません。

 

 今日の聖書箇所には、何が書いてあるのでありましょうか。イエス様が、復活なされた後の弟子たちの驚きと喜び、そしてイエス様に対する不信仰と信仰、ということが語られています。

 

 19節を見ます。

 「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」

 

 ここでは「週の初めの日の夕方」と記されています。イエス様がよみがえられた日ということであります。週の初めの日、その日をこのイースターのときから、「主の日」と呼ぶようになり、そして、それが現代の日曜日になっているわけであります。

 そのイースター、イエス様が復活された日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけていたとあります。ここでユダヤ人と書かれていますけれども、当時の人たちという意味です。弟子たちもイエス様も含めてユダヤ人でありましたから、ここでユダヤ人という特定の国の人という意味でなく、当時そこにいた周囲の人たちという意味で書かれています。

 

 弟子たちは周囲の人々を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていたとあります。自分たちが信じていたイエス様が、十字架につけられて死なれたことで、自分たちは希望を失っていました。

 

 そして、イエス様の弟子である自分たちも、イエスの仲間であったということが周囲にバレたならば、イエスと同じように処罰を受けるかもしれない。そうした恐れの中で弟子たちは過ごしていました。ですから、自分たちが集まっている家の戸に鍵をかけていたのです。

 「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」

 平和は、聖書の原文ではシャロームという言葉です。「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」

 手とわき腹をお見せになった、というのは、イエス様の手には、十字架にはりつけにされたときに手のひらに打たれた釘のあとがあり、わき腹には、イエス様が十字架で命を落とされた後に、本当にイエスが死なれたかどうかを確かめるために、兵士が槍(やり)をイエス様のわき腹に刺した。

 そういうことがあったので、まさにそのようにして十字架の上で死んだ自分なのだ、ということをここでイエス様が身をもって示したという意味を持っています。そのことが、次の24節以降の話の伏線にもなっています。

 

 弟子たちは主を見て喜びました。そして21節。
「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』」

 イエス様はここで弟子たちにシャローム、平和という言葉を述べられ、そして天の父なる神様がイエス様を世に遣わしたように、今度はイエス様が弟子たち一人とりをこの世に遣わしていくということを告げられました。

 「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」

 

 ここでイエス様が、「息を吹きかけて」と書いてありますが、息という言葉は、聖霊という言葉とここでは同じ意味で使われています。旧約聖書の創世記の冒頭にもありますけれど、風という言葉、そして息という言葉は、聖書においては同じ意味で使われています。

 

 そして、その風とか息というものが、目に見えない流れ、目に見えない神様のお働きの動きという意味で、その聖霊ということを表す言葉にもなっています。ではから、イエス様はここで弟子たちに、聖霊を与えて下さった、ということです。

 

 聖霊、つまり神様の聖い霊というものは、三位一体という言葉でも表現されます。それは、天の父なる神様、そして神の独り子イエス・キリスト、そして目に見えない神様のお働きという意味での聖霊という、この三つのお働きのことを示します。

 そうした、神様・イエス様・聖霊、この三つは等しくて一つであり、お一人の神様の違った現れ方であると、伝統的なキリスト教の神学では考えて、三位一体という言葉で表現しているのであります。

 

 ですから、ここで、イエス様が「聖霊を受けなさい」と弟子たちに言われたのは、神様の力、神様の見えざる力というものを受けなさい、と言われているのです。では、その見えない神様の力を受けた弟子たちは、これからどのゆうら歩むのでしょうか。

 

 23節にこうあります。「『だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」

 

 ここにあるように、弟子たちがイエス様から世に遣わされていくのは、それは世の人間の罪を赦すためである、ということがはっきりと示されています。ここで言われている「罪」というのは、私たちが普段思うような罪、つまり、うそをついたとか、あるいはいわゆる犯罪を犯した、というような、道徳的な罪や法律上の罪を言っているのではありません。

 

  そうではなくて、神様に対する罪ということを言っています。神様に対する罪、それは一人ひとりの人間が、神様のほうを向いてまっすぐに神様につながる、そういう思いを持つのではなくて、神様から目をそらし、心をそらして自分自身を神として生きていく、そうした利己的な生き方のことを言っています。

 神様に造られた存在であるにもかかわらず、人間は神様から離れて、神様から心を離して、自分自身を神として自己中心的に生きるようになりました。そのことから様々な道徳的な罪や、法律上の罪、いろんな問題というものが生まれてきています。

 そうした問題の根本には、人間の一人ひとりが神様のほうにまっすぐにつながっていない、つまり自分という人間を造って下さった方、神様との関係から離れて歩もうとすることこそ、これが最大の罪であると聖書では理解されているのであります。

 

 その人間一人ひとりが持っている罪、自己中心的に生きようとする罪、その罪をゆるすということは、今まで積み重ねてきた様々な罪、神様に対する罪を清めてくださる、それをゆるしてくださって、新しく生きることができるようにするということです。

 

 それが、ここでイエス様が弟子たちに託した使命なのであります。それは具体的には、キリスト教の宣教という形で、今日の時代まで続いているものであります。

 

 弟子たちが世に出て行って、イエス・キリストを述べ伝え、イエス・キリストの十字架の死によって私たち一人ひとりの罪は神様からゆるされたとして、宣教しました。そして、イエス様を自らの主、自分の救いの中心にいて下さる方として、自分の主と受け入れることによって、一人ひとり自分の罪がゆるされて、新しく生きていくことができるようになるのです。

 

 それは、私たち人間と、神様との間の切れていた関係の間に、イエス様が立って下さった、その間をイエス様が取り持って下さる、とりなしてくださる、そのことによって、神様との関係が再びまっすぐになるということです。

 最初に世界が造られたときのような、神様と人間との本当の向かい合ったまっすぐな関係というものが、イエス・キリストを仲立ちとして、信じるときに、与えられる、というのが、聖書の理解であり、キリスト教信仰ということであります。

 

 そのために弟子たちが世に遣わされていくということが、この23節のところで言われています。弟子たちがイエス・キリストを述べ伝えなければ、世の人々の罪がゆるされず、罪に滅んでいくわけですから、弟子たちは一生懸命に世に出て伝道しなきゃいけないのです。

 

 そして世界にこのイエス・キリストのことが伝わることによって、世界中の人々の罪が赦され、世界が神様の造られた世界へと回復していく。そのことが癒やしであり、救いであると、そのように聖書は理解し、教会は教えているのであります。

 その次に24節に入ります。

 「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』」

 

 このトマスという弟子は、このように言ったのです。ここで言われている、その手に釘の跡を見、この指をその傷跡に入れてみなければ、という、こういう言い方は、ものすごく皮肉が込められているのですね。

 この様子を具体的に想像すると、少しグロテスクで、あまり気分がいいものではありませんけれど、あえてこういう言い方をしているのは、トマス以外の弟子たちが、イエス様は復活なさった、その復活したイエス様に私たちは出会ったのだ、と言っていることに対して、そんなことがあるはずがないだろう、という、本当にあざけ笑うような思いで、トマスはここであえて相手が嫌がる言葉使いで言っているのですね。そんなことあるもんか、と。

 

 この私の手をその傷跡に入れてみなければ、という、そんなことをトマスが本当にしたいと思っているわけがありません。しかし、そうでも言わなければ、この腹立たしい思いは伝えられないだろう、というときに、こうした嫌な言い方というものを人間はあえてするのですね。

 

 そんなこと、あるはずないだろう、と。十字架の上で死んだイエスだったら、こんな傷があるはずだ、その傷を自分の手で確かめなかったら、信じることはできない、というのです。

 その後の26節。

 「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」

 これは、約一週間前、八日前の場面と全く同じことが起こったということを言っているのです。そして27節。
「それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』」

 

 ここにはトマスが、あえて他の弟子たちに対して皮肉をこめてあざける思いで言った、このあえて人が嫌がる言い方をした、その言葉をそのまま捉えて、その通りにしたんだよ、と言って下さるイエス様の姿があります。

 

 なぜ、そこまでそんなことをイエス様は言って下さるのか。それはトマスが信じない者ではなく信じる者になる、そのためでありました。そのように実際に来て下さったイエス様と出会って、言葉をかけられて、トマスは答えます。「わたしの主、わたしの神よ」と。これはトマスの心からの叫びのような言葉であったと思います。

 本当にイエス様は復活なされたんだ、私の主、私の神よ、とトマスはそのように言ったのです。これは、信仰告白の言葉といってもいいでしょう。

 

 目の前にいる、この復活なされたイエス・キリストが私の救いの中心にいる方、わたしの神である、とトマスは答えたのです。信仰告白というものに、点数があるものではありませんけれども、あえて点数をつけるならば、100点満点の答えをトマスはしたのです。しかし、29節にあるようにイエス様は言われました。

 「トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。』」

 

 このイエス様の言葉で、今日の箇所は終わっています。信仰告白の言葉としては100点満点の答えをしたトマスに、イエス様から返ってきた言葉は、「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は幸いである。」

 

 ここには、信仰告白って何だろう、というときに、それは、あなたがわたしの神なんだと讃える言葉、信じる、告白の言葉であり、それを言えば、100点満点なのか、というと、そうでもない、ということが言われているのです。

 

 人間の目から見て、宗教の信仰ということを考えたときに、わたしはあなたを信じますといえば、この人は、この宗教を信じているのだな、信仰を持っているのだな、というふうに人間は思いますけれども、イエス様の目から見たら違うのです。

 

 自分の目で見たから信じた、自分が確信した、自分が実感した、確かめた、だから信じた、というのは、本当の意味でのイエス様が私たちに求めておられる「信じる」ということとは違っているのです。

 

 見ないのに信じる人は幸いである、と言われました。自分で確信をしたから信じるというのではない、まだ見ていないのに信じる人は幸いである。

 

 このイエス様の言葉を、皆さんはどのように聞かれるでありましょうか。

 私は、この現代の日本社会に生きている人間として、このイエス様の言葉を聞くときに、本当にドキッといたします。というのは、私自身が、このトマスのような人間であるからです。

 

 確かめなかったら信じない、という、そういう思いを私は持っています。人間の理性で把握できるようにキリスト教というものを理解して、その歴史を学び、その信じる信仰の構造、つまり何を信じているかということを学び、それを自分なりに再解釈して受け止めて、自分の中で、おそらくこういうことなんだ、というふうに受け止めていかなかったら、「イエス様を信じています」ということのできない、そういう人間であります。 

 

 その私に対して、イエス様が「私を見たから信じたのか、見ないのに信じる人は幸いである」と言われるときに、私はいつも、イエス様から何か心の一番弱い部分、自分では一番見たくない自分の姿というものを知らされているような気がいたします。「見ないのに信じる信仰、というものを私は本当に持っているのだろうか」と。

 

 信じるということは、見たものを確認するという意味ではなくて、見ていないものをそこに確かにあるというように思う、ということでありましょう。事実を確認するということであれば、それは信じるとは言わないんですね。それは確認した、確かめたと、証明します、こうなっています、という、そういうことっていうのは「信じる」ということとは違っているのです。

 

 ここでイエス様が私たちに求めているのは、事実を確認して、その事実を確証して自信を持ちなさい、ということではありません。そうではなくて、事実を「見ないのに信じる人は幸いである」という、その言葉をどう聞くか、そのことを一人ひとりに問うておられるのです。

 

 私は、今日の聖書箇所を読みながら、心のどこかに辛い思いで、今日の箇所を何度も読みました。それは、確かめなければ、自分の中で納得しなければ、イエスを信じることのできない自分、というものに対して、イエス様はこうおっしゃっている、そういう自分って一体何なのだろう、と、そういうことを考えていたのであります。

 

 その中で、聖書を開いたときに、別の箇所をこういうときに私は読むのですけれど、聖書の他の箇所をバッと開きますと、聖書のイザヤ書が出てきました。イザヤ書の33章6節のところを見ますと、「主を畏れることは宝である」と書いてありました。

 「主はあなたの時を堅く支えられる。
  知恵と知識は救いを豊かに与える。

  主を畏れることは宝である。」(イザヤ書33章6節)

 

 主を畏れることは宝である、というのは、主というのは神様ということです。恐れる、というのは、怖がるという意味での恐れ、恐怖という意味のその漢字ではなくて、神様を敬う気持ちを持つ特別な気持ちを持つものとして畏れる、という、「畏怖する」という言い方がありますけれども、その畏れという字が使われていました。

 

 なぜか、その言葉が私の心にとどまりました。「主を畏れることは宝である」と。それはなぜなんだろう、と考えても、聖書からその答えは返ってこないのですけれども、主を畏れること、そこには神様とか、あるいは神様への信仰ということを考えるときに、まず私たちが持たなくてはならないことというのは何でしょうか。

 

 それは、神様に向かってベタベタとくっついていくことではなく、神様って何だろうと確かめようとしてベタベタと触っていくことではなくて、むしろその反対に、神様から離れて、主よ、私は罪深い者です、おゆるし下さい、と言って、距離を取る。

 

 私は、神様のそばにいることなど、かなわないような薄汚れた人間なのだ。そういう自分自身の自覚というものを持って、あえて神様から距離を置き、そして、そこから一心に神様への思いを、祈りを持って献げる、そんなようなイメージを私は持ちました。

 主を畏れるという心を持つ、畏れることが宝である、そうイザヤ書33章6節には書いてありました。その姿勢を持って、聖書をもう一度読むときに、まさに聖書が宝になり、神様を信じる信仰というものが宝になっていくのではないか、と感じたのであります。

 

 本日の聖書箇所、ヨハネによる福音書に書かれている、トマスとイエス様の対話、本当にここには不信仰な現代人の一人ひとりが、このトマスという人に自分を託して考えることができるんですね。

 

 まるで、このトマスが、現代人の代表になってタイムマシンに乗ってイエス様のところに、2000年前のイエスのところに行って、そしてそこで、私はこう思うと言っているトマスに対して、イエス様がご自身の復活ということを示された、そんな気がしてくるのです。

 

 そこでトマスは実際に、この復活なさったイエス様にお会いしました。しかし、現代を生きている私たちはお会いすることはできません。では、どうするのか。見ないのに信じる人は幸いである、という、このイエス様の言葉を聞くことになるわけであります。

 一つ、今日、私が今日の聖書箇所を読みながら、一つの結論かなと思ったのは、イエス様が復活なされたということについて、その不思議な思いに関して、イエス様の復活ということは私たちがあれこれ、詮索(せんさく)しないほうがいいのかもしれない、ということであります。

 それは、聖書を読むときに、そこで何かのタブーを設けて、このことはもう考えないほうがいいとか、このことはいじらないほうがいいとか、そういうことを私は言っているのではないのです。

 

 そういうことではなくて、むしろ歴史的にどうであったのか、聖書がどんなふうに書かれたか、当時の時代がどんな状況であり、宗教としてのキリスト教がどんなふうに、いわば成長してきたか、発展してきたか、というようなことを、聖書を通じて知っていくこと、それはとても大事なことであります。

 

 けれども、どんなふうに聖書というものを現代社会に適合するように、現代的な知識を持って理性を持って読んでいったとしても、最後のところでは、私たちがあまり詮索しないようがいい部分というものが残るのではないか、ということを私は思ったのです。

 それは、知らないほうが幸せだよ、というような意味ではないのです。知ったほうがいいのです。事実は何であったか、ということを、知りうる範囲で知って、私たちの想像力や学問的な探求の力など、いろいろなことを総動員して、真実は何であったか、そのことを確かめていく、その努力は必要です。

 その一方で私たちには、畏れの心を持つということ、そのことを忘れてはいけないのです。それは私たちがどんなに現代の知識を持って聖書にぶち当たって、聖書を正しく読もうとしたところで、絶対に到達し得ないものがある、つまり、人間の知恵というものの限界にぶちあたることがあるのです。

 

 そのことをわきまえながら、私たちは聖書を読まなくてはならない。だから、ここでこれがわかった、もうこういうことなのだ、というふうに全てがわかったかのように言うことはできない。私たちがこれ以上に詮索することが出来ない領域というものがあって、実は神様は、その領域を用いて私たちに今日も語りかけて下さっているのではないか、と思うのです。

 

 人間の目から見て、今日の箇所で28節で、トマスが答えている「私の神よ」という言葉は、人間の目から見たら、これは、宗教に対する信仰告白としては100点満点ですね。「私は神を信じます」と言っているのですから、すごいじゃないですか。

 

 だけど、そのトマスに対して「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」とイエス様が言われているときには、人間の目で見て、その宗教への信仰告白が100点満点であったとしても、神様はそのことを喜ばれるのではない、ということなのですね。

 

 「私はキリスト教を信じてます、100%信じてます、全部信じてます」と、そういうふうに言えば、人間の目から見たら100点満点でしょう。でも、イエス様から見たらそうじゃないんですよ。

 じゃあ、一体どうしたらいいんですか、というふうに私たちは思うのですけれど、その「どうしたらいいんですか」という問いを、問いかけさせていただく。そして、謙虚に神様のもとに従って行きたい。そしてイエス・キリスト、イエス様を私たちの主、あるいは友、あるいはきょうだいとして受け入れて、そして、そのイエス様を中心にみんなで歩んでいくのが、キリストの教会ということなのです。

 

 復活のイエス様の恵みは、聖書の中ではやがてイエス様が天に上げられた後、ペンテコステの日に、神様の聖霊、聖い霊が降(くだ)って、弟子たち一人ひとりが、自分自身の信仰ということを人前で語れるようになる、そのときまでは隠されていたことなのであります。

 

 イエス・キリストの復活、イースターの信仰というものも、ペンテコステが来てから初めて世界中に伝えられるようになっていった。そのためには、少しの時間が必要でした。そして何よりも、神様の見えざる聖霊のお働きが必要であったのです。

 

 その聖霊の働きをいただくまで、私たちは必要以上に詮索をすることなく、自分の心の傷を神様に見ていただき、そしてすべてを神様にゆだねて、与えられた罪の赦しのもとにあって、歩んでいきたいと願うものであります。

 

 お祈りをいたします。

 神様、どこにいても人は孤独を感じ、そしてまた自分の限界を感じます。聖書に向き合っていても、本当にそこで教えられることが何であるか、わかることなく、自己中心に生きている自分を振り返り、悔い改め、反省をいたします。どこにいても天の空の下にあって神様から、見えざる聖霊の働きをいただけることを感謝し、これからもそれぞれに歩んでいくことができますように。私たちの教会に神様の聖霊が豊かに与えられ、ここに集う一人ひとりが、また、コロナ問題やいろんなことでここに来ることができなくても、つながっている一人ひとりが主によって愛され、イエス様と共に歩むことが出来ますようにお導き下さい。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

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「イエスと漁師の夢」  
 2023年4月23日(日)京北教会 礼拝説教 

 聖 書  ヨハネによる福音書 21章 1〜14節 (新共同訳)

  説教者 今井牧夫牧師


 その後、イエスはティベリアス湖畔で、
 また弟子たちに御自身を現された。

 その次第はこうである。

 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、
    ガリラヤのカナ出身のナタナエル、

    ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。

 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、

 彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。

 彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。

 しかし、その夜は何もとれなかった。

 すでに夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。

 だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。

 

 イエスが、「子たちよ、何か食べるものがあるか」と言われると、

 彼らは、「ありません」と答えた。

 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば、とれるはずだ。」

 
 そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、

 もはや網を引き上げることができなかった。

 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。

 シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、
    上着をまとって湖に飛び込んだ。

 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。

 陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。

 さて、陸に上がってみると、炭火が起こしてあった。

 その上に魚がのせてあり、パンもあった。

 

 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。

 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、

 百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。

 それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。

 

 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。

 弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。

 主であることを知っていたからである。

 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。

 魚も同じようにされた。

 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、
    これでもう三度目である。

 

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
      改行などの文章配置を説教者が変えています。
      新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 4月9日(日)イースター、復活日の礼拝を行い、それ以来、イースター、イエス様の復活に関する福音書の箇所を礼拝で続けて皆様と共に読んでいます。今日の箇所はヨハネによる福音書21章です。

 

 今日の箇所の6節以降に、次のようにあります。

「イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば、とれるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」

「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。」

 

 今日の箇所において、復活なされたイエス様が登場します。弟子たちはこのとき漁師として、湖に漁に出ていましたが、最初はイエス様に気付きません。

 けれども、そのあとで、不思議な展開になって、湖でたくさんの魚が獲れました。そのとき、そこに復活なされたイエス様がおられることに気付いたのです。

 この箇所においては、イエスの夢と漁師の夢が重なって一つになりました。漁師の夢は大漁です。イエスの夢は人々の救いです。神様の御心の中で、その二つが一つとなりました。

 

 ここで、夢ということについて考えてみます。夢とは何でしょうか。私たち一人ひとりの人生の夢は違います。ある程度、年をとると、これが私の夢です、とわざわざ言わないことが多い気がします。

 

 若い人も、自分の夢を言うのか恥ずかしいときは、言わないものです。夢というのは、年齢によっても違いますが、そう簡単には人には言えないことも多いです。

 夢というときに、たとえば神様の前で考えるような自分の夢というものもあります。誰にも言わない、自分だけの夢。そういう夢もあります。自分の考える夢の中には、人前で言える立派な夢もあれば、そうでもないこともあります。

 社会や世界に関する夢として、一般的にみんなが共感してくれる夢は言いやすいです。世界が平和になりますようにとか。それは言いやすい夢です。

 それと反対に、個人の夢はなかなか言いにくいところがあります。それは、個人が日常の中で考える夢は、ごく小さいことが多いからです。

 そして自分の願望は、自己中心的なことが多いのです。たとえば、何々を腹一杯食べてみたい、とか。これは自分だけの夢ですね。あるいは、自分の悩みが全部なくなったらいい、とか。これも自分だけの夢です。

 

 自分だけの夢というのは、適当なものです。特にしんどい思いもせず、適当な年齢ですーっと死にたい、とか。そういうことを考えるのも現実ですが、それは夢といえるのでしょうか。少し投げやりな夢にも思えます。

 

 夢について色々考えていると、こういうことを私は思いました。夢とはあまり現実感がないことではないか、と。現実感があると、それは夢ではなくなって、単なる願望とか欲望ということになります。

 

 本日の聖書箇所に出てくる、イエス様の弟子たちであるペトロたちは、漁師でした。弟子の全員ではありませんが、数人が漁師でした。湖の漁で生きている漁師にとって、大漁ということは夢ではなく、現実世界に時折起こることでした。

 その回数は少なくても、大漁ということを実際に経験したことがあるから、次を期待します。そうしたこと、つまり、一度は実際に経験したことは、もはや夢ではなくて、現実です。それは、厳密に言えば、夢とは呼ばないかもしれません。

 

 すると、夢とは何でしょうか。

 イエスが復活すること、それはまさに夢でした。実際にはありえないことですから。イエス様の復活、と言われても、ペトロたち弟子たちには、何の現実感もなかったでしょう。過去に一度も経験していないことだからです。それは夢のような話です。現実ではないから、信じることはできません。

 

 復活ということは、たとえば今日の箇所で弟子たちが経験したような、湖での魚の大漁というようなこととは全く違っています。魚がたくさんとれる大漁は、漁師なら一度は経験しています。

 けれど、イエス様の復活はそうではありません。それは夢でしかないのです。夢が仮に現実になって目の前に現れたとしても、普通は信じられません。見たとしても、これは何かの幻想だと思うでしょう。

 ところが、本日の聖書箇所において、弟子たちは、夢でしかないようなこと、信じられないこと、つまり、主イエス・キリストの復活に出会いました。そして、彼らはイエス様の復活を信じることができました。それはなぜでしょうか。

 

 それは、復活のイエス様にお会いしたときに、自分たちの夢ではない、小さな期待がかなったからです。湖での魚の大漁ということでした。この、湖での大漁という現実が起きたときに、ペトロやヨハネなどの弟子たちは、イエス様の復活ということに出会い、そのことを信じたのです。

 大漁ということは、現実の中で回数は少なくてもいつかは起こること、また、過去にあったことであり、とりたてて夢というほどのことでもなかったでしょう。

 しかし、大漁という、日常生活の中での、漁師たちの、その小さな小さな期待が本当にかなえられたとき、弟子たちは、復活ということの意味がわかったのです。

 

 自分たちにとって夢のような何かの大きなことが実現するときではなくて、湖での大漁という、生活の場の中での、わざわざ人に言うほどのことではない、つまりそんなに人に語るほどのことではない、小さな小さな夢がかなうときに、弟子たちは、自分たちにとってのイエス様の復活ということの意味を感じ、そして信じたのです。

 

 大きな夢がかなうときではなく、日常の小さな期待がかなうとき、そこにこそ、その場に主イエス様が本当におられるのです。イエス様、それは私の救いの中心に立って下さる方です。

 救い主であるイエス様が、私たち一人ひとりの生活の場にあって、それぞれが人にわざわざ言わないような、小さな小さな期待を込めて生きるとき、そしてそれがかなうとき、そこにいてくださるのが、復活なされたイエス様です。そのことを弟子たちは信じたのです。

 イエス様が私たちと共にいて下さる。これはとてもうれしいことです。そのうれしさは、ただイエスが共にいるから、ということだけではなくて、湖での大漁、つまり自分が日常の仕事をしている生活の場での期待の実現ということに、大きな関係があります。 

 イエス様が復活して私たちと共にいる、ということは、ただその復活という、私たちが理性では信じがたいことだけを切り離して考えるときには、わかりにくいことです。

 

 今日の箇所においては、弟子たちは、イエス様の復活とはどういうことだろうか、と議論している人は一人もいません。そうではなくて、自分たちが仕事して生きるための場である、湖の舟を出しています。

 

 それは、湖の上で風が吹いて嵐になれば命に関わるような、命がけの場所です。弟子たちは、その生活の場、自分の命がかかっている場所に出て行くのです。

 

 そこに行くことは、辛いことであるかもしれませんが、そこに行かなければ大漁もないのです。

 そこに行って、自分の大きな夢ではなく、小さな希望を持つとき、そこに主がおられます。

 

 漁師たち一人ひとりが持つ、自分の心の中の小さな願い。それは湖の魚がたくさん獲れること。すなわち大漁でした。でもそんな願いは、当たり前すぎて、漁師たちは口に出しません。けれども、それは漁師として一番願うことでした。

  その漁師たちの小さな願いをかなえて下さったのが、復活なされた主イエス・キリストだったのです。

   このとき、漁師である弟子たち、ペトロたちの心の中の小さな願いと、神様の御心が一致しました。イエス様の復活は、弟子たちの願いと神様の御心が一致するとき、そこに現れて、すべてを神様の御心のままに導いて下さるのです。

 

 こうして、イエス様は復活して私たちと共にいて下さいます。そのことを信じることは、復活を、無理矢理に自分の心で信じることではありません。自分の心をだまして、あるいは、やせがまんして、無理矢理に復活を信じる必要はありません。

 

 そうではなくて、私たちは、自分の心の中の小さな期待を実現させてくださる方として、復活の主イエス・キリストを信じることが、神様からゆるされているのです。そのゆるしを知ることが、神様からの大きな恵みであり、それによって私たちは救われるのです。

 

 キリスト教の信仰は、自分の強い力によって、さあこれを信じるぞ、という、自分の力で獲得した信仰ではなくて、神様の恵みによって、私たちが信じることをゆるしていただいた信仰です。私たちは、その信仰を、感謝を持って心から受け取りましょう。

 

 お祈りをいたします。

 日々の生活の中で、神様のことを忘れ、隣人、隣り人のことを忘れて生きていることが多い私たちも、イエス様によって救われて生きる幸いを聖書から教えられて感謝です。今日から始まる一週間を、新しい気持ちでイエス様と共に歩むことができますように導いてください。イースターの日に復活なされたイエス様の物語りを、聖書からよく味わって、私たちも一人ひとりそれぞれの生活の中で、湖での大漁を経験することができますように、お支えをお願いします。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

 

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「神様からの預かり物」
    2023年4月30日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  ヨハネによる福音書 21章 15〜19節 (新共同訳)


  食事が終わるとイエスはシモン・ペトロに、

 「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。

 

 ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、
 あなたがご存じです」と言うと、

 イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。

 

 二度目にイエスは言われた。

 「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」

 

 ペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、
 あなたがご存じです」と言うと、

 イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。

 

 三度目にイエスは言われた。

 「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」

 

 ペトロは、イエスが三度目も、
 「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。

 そして言った。

 「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、

  あなたはよく知っておられます。」

 

 イエスは言われた。

 「わたしの羊を飼いなさい。

  はっきり言っておく。

  あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。

  しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、

  行きたくないところへ連れて行かれる。」

 

 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、

 イエスはこう言われたのである。

 

 このように話してから、

 ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
   改行などの文章配置を説教者が変えています。
      新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 4月9日にイースターの礼拝を行いました。そのときから続けてイースター(復活日)、つまりイエス・キリストの復活を記念する、そのことを考えて毎回の礼拝の聖書箇所を選んでいます。特に今回はヨハネによる福音書を続けて読んでいます。

 

 本日の箇所はヨハネによる福音書21章15〜19節です。ここにはイエスとペトロという小見出しが付けられています。こうした小見出しは元々の聖書にはなく、新共同訳聖書が作られたときに読み手の便宜を図って付けられたものであります。

 

 今日の箇所は15節、「食事が終わると」という言葉から始まっています。どのような食事であったかというと、この21章の冒頭から始まっている、この物語から続いている中でのイエス様と、そして弟子たちとの食事の場面であり、今日の箇所はその後ということであります。

 

 十字架の上で死なれたイエス様が3日の後によみがえられた、そして、その後に、湖で漁をしていた弟子たちの所に現れて下さった、ということが、この21章には書かれています。

 

 イエス・キリストの復活ということを信じることが、最初できなかった弟子たちが、イエス様との出会いによって、その復活ということを疑うことなく事実として受け入れることができるようになった、そのことがこの21章の物語には象徴的に書き表されているといえます。

 21章の前半の所ではイエス様が弟子たちと一緒にパンと魚を食べる、その朝の食事をいただくという場面があります。それは単にお腹が減ったからご飯を食べたというのではなくて、本当にイエス様を復活なされたこと、人としての体を持って復活なされた、ということを表しているのであります。

 イエス様は本当に復活なされたということが、このヨハネによる福音書21章では強く記されているのであります。そして、そのことの後に今日の聖書の箇所があります。

 15節。

 「食事が終わるとイエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。」

 

 これはずいぶん、唐突な質問でありますし、また、ちょっとドキッとする内容だと思います。「この人たち以上に私を愛しているか」というときに、この人たちというのは、ペトロ以外にこの場にいる弟子たちのことを指していますから、他にもいた弟子たちの、さまにこの場にいてそのうちの人であるペトロが、「この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われたとあります。

 

 ペトロはイエス様が十字架に架けられて死なれる前、12人の弟子たちの中で最も早くに、弟子になった者として、リーダーでありました。筆頭の弟子であったといっていいと思うのです。

 そういうリーダーとしての自覚があったでしょうから、この自分に対してイエス様から言われた「この人たち以上に私を愛しているか」という質問っていうのは、そのペトロに対して、その弟子の中でリーダーである自覚を持っているか? というような問いかけに聞こえたであろうと思います。

 

 ここでペトロはこう言います。

 「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」

 

 ここで、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」、このように言いましたのは、もう言うまでもなくそうである、という、そういうことを言っているのです。

 その後、イエス様は言われました。

「イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた。」

 

  私の小羊、私の小さな羊を飼いなさいと言われました。

 イエス様がよく弟子たちにお話されていた話の中には、羊の出てくる話がありました。一匹の羊が、100匹の羊が迷子になってしまったら、他の99匹の羊を置いてでも、その一匹の羊を探しに行く羊飼い、それが神様の御心である、ということでイエス様は話をされたことがあります。

 

 弟子たちは、そうした羊の話を覚えていましたから、ここでわたしの小羊を飼いなさいと言われているイエス様の言葉は、イエス様を主と信じる1人ひとりの人を羊として、飼い主として導く、守る、そういうことが言われているという、そういうたとえであるということは、ペトロはすぐ分かったと思います。

 そこでペトロが「はい」と答えて終わっていれば、この対話というのはここですぐに終わっていたはずです。しかし16節にあるように、二度目にイエス様は言われました。

 「二度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロが『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい』と言われた。」

 そこでペトロがどう反応したかということは、ここに書いておらず、17節にこうあります。

 「三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。」このようにあります。

 二度目のイエス様の問いというものがありそれにペトロが「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエス様は「わたしの羊の世話をしなさい」と言われました。これは1回目と全く同じといってもいい対応でありますが、今度は三度目にもイエス様が同じ質問をされたということは、じゃあ今まで答えた一回目、二回目の答えは何だったのだろうか、とペトロは思ったのです。

 

 三回問われているのですが、聖書の中では三という数字は、完全ということを示す数字でもあります。一回二回のことではなくて、三度同じことをすということは、それが「完全に」ということを表しています。

 つまり三度も尋ねてこられたということは、イエス様がペトロを本当には信じていないのではないかと、三度も完全に問うたということは、イエス様の側で、その問いというものに対してペトロが本当に答えているとは思ってもらえていないのではないか。そういうペトロの悲しみがここで生まれました。

 そして、ペトロはこう言います。
「ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。』」

 ペトロはここでイエス様に対して、「どうして三度も同じことを聞くのですか?」というような、くってかかるというような姿勢は見せていません。そうでなくて、「主よ、あなたは何もかもご存じです」、全部分かっておられます、そういう言い方をします。

 「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」この言葉は、ペトロの気持ち、その何ともイエス様に向かって言いにくい言葉というものを飲み込んで、こうした言葉で表している、そういうペトロのこの苦しい心境というものが表れています。

 ペトロはこのとき、三度イエス様が問われたことにおいて、思い出していたはずなのです。それは、イエス様が捕らえられて十字架に架けられる、その前の夜、イエス様に対してペトロは、決してあなたから離れません、と誓いました。しかしイエス様はおっしゃいました。鶏が鳴く前にあなたは三度わたしを知らないと言うであろうと。

 ペトロにとってそれは受け入れられない言葉だったのです。わたしは死んでもイエス様について行くのだと、それぐらい信頼していたイエスを主と信じていた、イエスを救い主、自分の救いの中心に立ってくださる方だと信じていた、そのイエス様と最後まで離れない、そういう思いでいた。しかし、イエス様は言われました。あなたは鶏が鳴く前に三度わたしのことを知らないと言うだろうと。

 

 そして実際、当時の宗教的な権力者層の人たちがイエスを捕らえるため、兵士たちと一緒にやってきた時に、イエス様の12人の弟子たちはみんな逃げ去っていってしまったのでありました。ペトロもそうでした。

 そしてペトロはその自分が逃げたということに両親の呵責を覚えて、一度は逃げたもののまた戻ってきました。そしてイエス様が捕らえられている所に近づいてきました。しかし、その近くでたき火にあたっていたときに、ペトロの顔を見てあなたはイエスの弟子だ、イエスと一緒にいたと、一人の人が言ったときに、ペトロは、わたしはそんな人のことは知らないと言って、イエス様のことを知らないと言ったのです。

 三度も問われて三度言いました。わたしはそのような人を知らない、誓って知らないと、ペトロは三回、イエスを知らないと言いました。その後に鶏が鳴いたと、福音書が記している、そこには本当に、ペトロの人としての弱さ、つらさというものが表れています。

 ペトロからしたら、やむをえない答えであったのではないかと考えることもできます。イエスの知り合いだと、イエスの弟子だとバレてしまったら、自分も逮捕されてしまうからもしれない、あるいは追い出されるかもしれない、そうなるとイエスの近くにいることができなくなるのだから、とりあえずその場はウソをついてしのいで、何とかイエス様の近くに行こうとペトロは考えていたのかもしれません。

 しかし、背景にどんな事情があったとしても、どんな思いがあったとしても、わたしはイエスなどという人のことは知らない、とはっきりと口に出した、そのことは確かであります。わたしは決してあなたから離れない、と言っていたペトロが、その数時間後にはもうそう言っていた。

 イエス様はそのことを最初からご存じであった。そのことにペトロは気付いたときに、本当に耐えられないことになっていたのです。そして今日の聖書箇所においては、ここでも三という数字が出てきます。三度目も「わたしを愛しているか」とイエス様はペトロに問いました。

 

 それは捕らえられる前の晩にペトロが、わたしはあなたから離れないと言ったこと、そのことに対してイエス様が、あなたはわたしを知らないと三度言うだろうと言われた、そのことを思い起こして、その上で、あなたはわたしを愛しているかと問うているのであります。

 ペトロはそのことがよくわかりました。だから、答えることができなかったのです。どうして三度も尋ねるのか、とか、なぜわたしを疑うのですか、とか言うことは、ペトロにはもうできません。実際に裏切ったからです。

 あなたのことを知らないと三度も言った、そしてそんな自分のことをイエス様は最初からご存じであられた、ということを思い起こしたときにペトロの言う言葉は、こうなりました。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることをあなたはよく知っておられます。」

 

 ここでペトロが「わたしはあなたを愛しています」ということを言っています。それはもはや、イエス様は捕らえられる前のときのように、また、あなたを愛している、だから決して離れない、とか、決して裏切らない、とか、死んでもいい、とか、どうなってもいい、とか、そういう自分の誓い、自分が誓うということではない、愛ということをペトロは言っているのです。

 

 人間がいくら誓ったところでそれは実行できない。愛ということに関して、そうなのだと言うのです。だから、ペトロがここで「わたしはあなたを愛しています」と言っているのは、自分の力や自分の努力、自分の決意、決断によって、誓って、あなたを愛するということではありません。

 

 そうではなくて、イエス様が復活して、こうしてペトロに出会って下さっている、そのことに心から感謝している、そのことにもう言葉で言い表せない思いで一杯である、ということです。

 

 つまり、愛というものは自分の決断によって作り出して、誓って実行するものではなくて、与えられるものをただ受け取らせていただく、そのことしかできないものだということを、ペトロは心に刻んで、イエス様にこのように言っているのであります。

 「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と言う、ペトロの愛は、完全な愛でも何でもなく、本当にボロボロになった人間、イエスを裏切ったこの自分が、それでも復活なさったイエス様がこのわたしに出会って下さっているのだから、もう言葉にはできません、そういう思いがここにあるのです。

 そのペトロの言葉を聞いてイエス様は言われました。

「イエスは言われた。『わたしの羊を飼いなさい』。」

 そして言われました。
 「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。』ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、『わたしに従いなさい』と言われた。」

 

 今日の箇所はこうして締めくくられています。ペトロはこの後、どんな生涯をたどったのでしょうか。使徒言行録には、ペンテコステ(聖霊降臨日)以降、神様からの聖霊、見えない神様のお姿であのお働き、その聖霊の働きというものがペトロに与えられて、地中海沿岸の様々な所に伝道する当時の教会の伝道の働きへと、ペトロもまた用いられていったことが記されてあります。

 

 しかし、今日の箇所に書いてあるのは、若いときは自分で帯を締めて行きたい所に行っていた、しかし、と言われるときには、年を取った後には自分で帯を締めるのではなく人に帯を締められて、行きたくない所に連れていかれるという、迫害であったり、あるいは殉教、そうしたものを思わせる表現の仕方がなされています。

 実際にペトロがどのような晩年を歩んだのかということは、資料から確かに証明することはできません。伝承、言い伝えによれば、殉教したということでありますが、具体的にどうであったかということは分かりません。

 けれども、ここでイエス様が言っておられるのは、ペトロはそうした大変つらい晩年を送るということではなくて、一番最後に言っておられること、「わたしに従いなさい」ということでありました。

 これからのペトロの人生は大変なことがある。しかし、それでも、わたしに従いなさい。そのイエスに従って生きていくときに、その晩年は大変かもしれないけれども、その死に方において神の栄光を表すようになる、それがペトロの人生であるということが言われているのであります。

 こうして今日の箇所をずっと見ますと、この箇所というのは、イエス様と弟子のペトロの間の一体一の,非常に緊張感にあふれた濃密な対話というふうに言えると思います。

 この箇所を読んで皆様は何を思われたでありましょうか。私は今日の箇所を繰り返し読んでいますと、このイエス様とペトロの息詰まるような、この一体一の、何とも言えない緊張感のある対話というものが、イエス様とペトロの一体一の、何かこう密室の中でものすごい緊張感のあるやりとりのようにも思えてくるのですけれど、今日の聖書箇所の前後を見ると、そのような密室での話ではないということがわかります。

 今日の箇所というのは、ヨハネによる福音書21章の1節から始まっている、この一連の流れの中にあります。それは湖において、ペトロたち弟子たちが漁に出た、魚を獲るために漁に出た、その湖の場面から始まっています。

 21章3節にこうあります。
 「シモン・ペトロが『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは『わたしたちも一緒に行こう』と言った。」

 

 ここでペトロが、「わたしは漁に行く」と一番最初に言った。そして、それについて「わたしたちも一緒に行こう」と、ここから他の弟子たちがついて来た、そういうスタートをしています。始まりがこうである物語で、その後に今日の箇所があるのですね。

 すると、ここでイエス様がペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と言っている言葉は、単に物事のたとえとして、後の時代の教会を牧会するというような漠然とした意味ではなくて、残された弟子たちの中でペトロがリーダーとなって、リーダーシップを持って「わたしは漁に行く」と言う、すると他の弟子たちもついてくる、そういう働きをリーダーとしてのペトロが担う、ということがイメージされているのであります。

 

 しかし、ペトロが「わたしは漁に行く」と言って、そして他の弟子たちもついて来たのですが、結果はどうであったかというと、意気揚々と漁に出たのですが何も獲れなかった。散々だったのです。そして夜が明けます。夜が明けたころ、それは一般的には当時の漁は夜になされていたということなので、もう漁をする時間が終わった、ゲームオーバーの時間なのであります。

 

 そのときに、湖の岸辺にイエス様が立っていたというのです。しかし、弟子たちはそこにイエス様がいるとはわからなかったという、ちょっと不思議な展開になっていくのですが、しかしイエス様がおっしゃった通りにすると、たくさんの魚が獲れたというのです。

 

 こうした物語はすべて、後の時代の教会ということを表した物語です。ペトロがリーダーとなって弟子たちに他の弟子たちに向かって一緒に行こうと言ったら、他の人たちもついてきた、しかし何も獲れなかったけれども、もうゲームオーバーだと、もう終わりだと思ったときに、そこに復活なされたイエス様がおられた。

 そのイエス様の言葉を聞いたときに、もう網で獲りきれないほどの魚が獲れた、そのときに、復活のイエス様が本当にわたしたちと一緒にいて下さっているのだ、ということに初めて気がついた、そういう物語が、この21章には象徴的に記されているのであります。

 そしてたくさんの魚が獲れた後に、そこで食事をします。喜びの食事、本当に美味しい、うれしい食事、その食事をするときには、その場にあってイエス様に対して、あなたはどなたですか、と問いただす人は一人もいなかった。

 

 つまり、そこに復活のイエス様がおられるということを、弟子たちは本当に確信をしていた、信じることができた、信じていたからである、ということが言われているのです。

 こうした話の流れに続く今日の聖書箇所において、イエス様とペトロとが対話をしています。

 

 ペトロは弟子たちの中で本当にリーダーとしてふさわしい人物かといえば、そうではありませんでした。自分が最後までイエス様に従っていきます、と誓ったけれども、その数時間後にはあっさりと、そのイエス様を否定していったのでした。

 そこには、ペトロなりに言い訳をしようと思えばいくらでも言えたのだと思えます。しかし、どんなことを言ったとしても、わたしはイエスを知らない、そんな人は知らない、と言って三度否定した、その後に鶏が鳴いた、というときに、まさに裏切りというのはこういう形でやってしまうものなのだ、ということをペトロは知ったのです。

 自分ではこれが正しいと思っている賢いやり方、自分なりの正義感、自分なりの生き方がある。けれども結局、わたしはそんな人は知らないと言った。そんな自分は、もはやリーダーにはふさわしくない。ペトロはそのことがよく分かっていたのです。

 ペトロがこのとき、分かっていたのは、自分はリーダーにふさわしくない、弟子にもふさわしくない、ただわたしはイエス様を愛しています、どのように愛しているかは、イエス様ご自身がすべてご存じであります、ということです。そのことをペトロはここで、イエス様の前で告白をしているのであります。

 

 三度問われたときに、三度答えています。わたしはあなたを、イエス様を愛していますと。しかし、そう答えても答えても、それは自分の決断としての答えであってはダメなのです。

 そうではなくて、イエス様から与えられる大きな大きな愛に対する感謝、そしてその愛に包まれてこれから生きていく、ということ、つまり、自分の力で愛を作り出すのではなくて、神様から与えられる愛を皆と分かち合っていく、そのときにペトロは本当の意味で弟子として、リーダーとしての生き方が与えられていくのであります。

 

 こうしたペトロの歩みというものは、伝道者としての歩み、また牧会者としての歩みというものに決定づけられました。

 

 このペトロの話は、現代で言えば、どうなるのでしょうか。たとえば牧師とか伝道者とか、そうした人たちだけに当てはまる話が言われているのではありません。

 今日の箇所でペトロに対して言われていることは、全ての人に対して、イエス様が言っておられることであります。わたしの小羊を飼いなさい、ということは、狭い意味で言えば教会で教会に来る人たちを大切にする、養っていく、そういうことに受け取ることができます。しかし、そのことだけにとどまっていません。

 イエス様によって救われ、イエス様によって用いられる人はすべて、イエス様の羊を飼うという働きへと召し出されているのです。それはたとえば、家族であったり、友人であったり、仕事の関係であったり、ボランティアであったり、いろんな所であります、人との関係ということであります。

 もちろん、羊を飼う、家畜を飼う、動物を飼うということを、これを人間の世界に当てはめることは、言葉の表現として、ちょっと抵抗があることかもしれません。わたしは子どものときから教会を知っていますので、羊飼いとしてのイエス様、優しい優しいイエス様、という思いを持って聖書を読んできましたから、私自身はそんな抵抗は感じません。

 けれども、聖書をまだよく読んでおられない人にとっては、私たちは羊飼いイエス様に従っていく、とか、羊を飼うという言葉、それを教会とかあるいは人間関係に用いることは、抵抗があるかもしれません。それは決して、人間を動物扱いして自分に従わせる、自分の言うことを聞かせる、無理矢理聞かせていく、そうしたことを言っているのではないのです。

 そうではなくて、神様から預けていただいた大切な大切な羊が、一匹も失われないように導いていくのが羊飼いの役目である、どこに草があるか、どこに水があるか、狼が襲ってきたというとき、どうしたらいいか、などと羊飼いはすべてのことを考えて羊を守っていくのです。

 イエス様がおっしゃっておられる「わたしの羊を飼いなさい」という言葉は、すべての羊を守る、そのために、あなたは働くということであります。

 その人生の中には大変なこともいろいろあります。ペトロが言われているように、そうなのです。しかし、羊飼いとして生きるときに、ペトロの人生には大きな大きな喜びが与えられました。

 

 自分の力によって愛を作り出して、自分で誓って愛を実践していくのではなくて、それを実践できないこの私が神様の愛にすべてをゆだねて、その愛をすべての人と分かち合っていく、そういう新しい羊飼いへと、ペトロは変えられたのであります。

 神様からの預かり物としての羊、そして人との関係、様々な神様からの恵みというものを、わたしたちもまた、それぞれの場でいろんな違った形で与えられているのであります。大切にして参りましょう。

 お祈りいたします。

 天の神様。復活なされたイエス様に、出会った一人ひとりが本当に戸惑いながら、自分自身を振り返って後悔をしながらなど、いろんな思いを持ってイエス様の前に立っています。その一人ひとりの迷える羊としての思いに、神様が向き合って、わたしたちを愛して下さることを本当に感謝いたします。この広い世界の中にあって、本当に孤独な羊として、迷子の羊として生きていく、そのことに耐えられないわたしたち一人ひとりを、どうぞ神様、イエス様の導きによってお救いください。そして、この世界に真の平和をお与えください。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。