京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2023年3月の説教

2023年3月の説教

 2023年 3月5日(日) 3月12日(日)  3月19日(日)
       3月26日(日)  礼拝説教

(上写真は教会庭で収穫した夏みかんで、3月4日に教会有志が作成したマーマレード)

(ブログ冒頭と上下写真は1月26日撮影。この夏みかんが上記マーマレードになりました)

 

「一粒の麦と夕方の光」 
  2023年3月5日(日) 礼拝説教 牧師 今井牧夫

 聖 書  ヨハネによる福音書 12章 23〜36節 (新共同訳)

 

 イエスはこうお答えになった。

 「人の子が栄光を受ける時が来た。

  はっきり言っておく。

  一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、

  一粒のままである。

 

  だが、死ねば多くの実を結ぶ。

  自分の命を愛する者は、それを失うが、

  この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

 

  わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。

  そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。

  わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

 

 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。

  『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。

  しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。

  父よ、御名の栄光を現してください。」

 すると、天から声が聞こえた。

  「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」

 

 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、

 ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。

 

 イエスは答えて言われた。

 「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。

  今こそ、この世が裁かれる時。

  今、この世の支配者が追放される。

  わたしは地上から上げられるとき、

  すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

 

 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

 

 すると、群衆は言葉を返した。
 「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。

  それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。

  その『人の子』とはだれのことですか。」

 

 イエスは言われた。

 「光は、今しばらく、あなたがたの間にある。
  暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。

  暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。

  光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

 

 

 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
   改行などの文章配置を説教者が変えています。
   新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 先週から教会の暦が「受難節」に入りました。今日から、この受難節の間、ヨハネによる福音書から続けて皆様と共に、聖書の言葉を味わっていきたいと考えています。

 今日の箇所はヨハネによる福音書12章です。今日読みました箇所は、新共同訳聖書には「ギリシア人、イエスに会いに来る」、そしてもう一箇所は「人の子は上げられる」と小見出しが付けられています。こうした小見出しは元々の聖書にはなく、新共同訳聖書が造られたときに読む人の便宜を図って付けられたものです。この箇所は続けて一つの箇所として読んでいたただいて結構です。

 

 24節にこうあります。
 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」

 

 この言葉はイエス様の言葉であり、ここにある一粒の麦というのは、一つのたとえとして言われています。一粒の麦というものが、どこかに取り置かれているならば、それはただ麦の粒のままです。しかし、それが土にまかれたときには、その種が芽を出して元々の種の形はなくなっていく、つまり死んでいくのでありますが、そこから新しい命が生まれ、たくさんの実がまたなる。麦というのはそういうものでありますが、そのことをたとえにして、イエス様はお話をされているのです。

 私はこの箇所を読むときに、いつも心にひっかかりがあるのです。というのは、「地に落ちて死ななければ」とか「死ねば」とか、「死」という言葉がここにあるのですけれど、麦の粒が落ちたときに、そこで芽を出すというのは、麦が死ぬのではなくて生きているから芽を出すわけですね。
だから、ここで「死」という言葉をどうして使うのだろうか、ということがいつも心の中で少しひっかかるように感じます。

 しかし、ここで言われているのは、植物としての麦がどうであるかということではなくて、イエス様ご自身が捕らえられて十字架につけられて命を落とされる、まさに死なれる、そのことを重ねてここで語っておられるのです。土にまかれるということは目の前から麦の粒がなくなることであります。どこに行ったかわからない。それは土にまかれてしまった。それが芽を出し、その元々の形はなくなっていく。そのことを「死」というのです。

 

 イエス様という存在も、一人の人としてこの世におられた姿から、この世というものの中に投げまれて、そこで死なれたご自身の姿はもう私たちの目の前から消えた。しかし、そのことによってたくさんの実りをこの世に与えて下さった。イエス様の存在というのは、そういうことであるということが、このたとえでよく表されてるのであります。

 25節にはこう書いてあります。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。ここも読んでいて心にひっかかりを覚える所です。「自分の命を愛する者はそれを失う」、それは一体どういうことでしょうか。

 また、「この世で自分の命を憎む人」とありますが、自分の命を憎む人とはどういうことでしょうか。「自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」というのです。

 私たちは、現代の日本社会に生きていて、自分の命とか、自分ということを考えるときに、いろんなことを考えます。やはり自分というものは愛したいものだと、多くの人は考えるのではないでしょうか。

 また、テレビとかを見ていますと、もっと自分を愛していいんだよ、とか、もっと自分を愛してほしい、というメッセージを聴くこともあります。それは本当に、社会の中で生きることの苦しさの中で、自らの命をどうしたらいいのかと迷い、悩み、本当に苦しむ人間社会に対してのメッセージであり、あなたたち一人ひとりは大切なんだよ、もっと自分を愛していいんだよ、そのメッセージはとても大切だと思います。

 しかし、今日の聖書箇所においては、「自分の命を愛する人はそれを失う」とあります。逆に、「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」とあります。ここでなぜ「憎む
」と言われているのか、解釈はそれぞれにあると思いますけれど、イエス様はここで一粒の麦の話をしておられるところを見ますと、自分の命ということを絶対化しない、そういうことがあるのかと思います。

 逆に、自分の命を愛するということは、この箇所においては、自分の命を絶対化して、自分の命は不可侵なこととする考え方を遠ざけて、自分という存在も神様の前にあっては、いつか死んでいく存在、消えていく存在としてとらえています。それを神様の御心のために仕える、そのような生き方が言われているように思えます。

 26節にはこうあります。「わたしに仕えようとする者はわたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

 

 ここにはイエス様が十字架の死ということを前にして、弟子たちや人々に言った言葉が、ここにこうして記されているのです。イエス様はこの後に十字架につけられて死なれます。しかし、その後、三日の後によみがえり、私たちの所に来て下さいました。そして、その後に天に上げられて神様の右に座しておられる、そのように福音書は表現をしています。

 

 そうした聖書の表現の仕方は、宗教的な表現の仕方であり、神話的な表現と言ってもいいでしょうか。独特のものであります。それは現代の日本社会にいながら聖書を読む私たちにとっては、ずいぶん遠い世界のことに思えるかもしれません。

 けれども、聖書はこのような言い方によって、イエス様は今も私たちと共におられる。そして、すべてのことを導いて下さる。そのイエス様に仕える。そのイエス様の導きによって、イエス様のために、イエス様と一緒に働くものとなる。

 そうしたことがこの26節では言われているのであります。そのことは、現代の私たちに置き換えてみれば、教会という場において、皆さんと一緒に歩むこと。また、社会にあって一人ひとり、神様から与えられた場でクリスチャンとして奉仕する、働く、そうしたことが仕えるということになってくると思います。

 するとイエス様がおっしゃっておられる、一粒の麦として死ぬ、ということは、何か空しく、寂しく、一粒の種がどこかに消えていくということではなくて、自分の存在というものを絶対とはしないで、神様の御心によって一粒の麦が地に落ちていくように、土の中にまかれていくことです。

 

 そのように、私たちの一人ひとりの存在が、この世の中というものに向かって投げ込まれ、土にまかれるようにまかれて、その中で消えていき、いつか私たち一人ひとりの命も終わっていく。

 しかし、その限りある命を神様の御心のために、この世に向かって献げるとき、自分自身の存在が消えてなくなっても、そのことを通じて本当にたくさんの実りが与えられる。それは、この世に生きる自分以外の人のために、自分が用いられる、一人ひとりの存在が用いられる、まさにイエス様の十字架の死とはそういうことであった。そのことがここで言われているのであります。

 

 そして次の27節では、イエス様がこう言われます。
 「いま、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を表して下さい。」

 この箇所を、いま、教会の暦で受難節の中で読むとき、この箇所を読んで、「こういうイエス様の言葉を、ほかにどこかで読んだことがあるなあ」、と思った方もおられるのではないでしょうか。

 マタイ、マルコ、ルカの福音書では、イエス様が捕らえられる直前のときに、ゲツセマネの園でイエス様が祈られた、そのときの言葉に近い言葉です。

 そこでは「御心ならば、この杯を取りのけてください」とイエス様は祈られました。イエス様は、意気揚々と十字架につけられていったのではありません。この杯をわたしから取りのけれて下さいと、自分に向かってやってくるもの、運命的なもの、それを取りのけて下さい、神様の御心によってそうなさって下さい、と祈られました。

 この箇所ではイエス様は、「『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を表して下さい。」と言われています。

 このときイエス様は、ご自身の十字架の死が近いということを知りながら、「このときのためにわたしは来た」と言われています。一粒の麦が死ぬとき、自分の命がこの世の中に投げ込まれる時、土の中に消えていくようにして、麦がまかれていくとき、それをご自分の十字架の死のときと重ねているのです。

 そのようなイエス様の言葉を聞いて、28節の後半の言葉があります。
 「すると、天から声が聞こえた。わたしはすでに栄光を現した。再び栄光を現そう。」

 天から神様の声が聞こえます。すると29節。
 「そばにいた群衆は、これを聞いて、『雷が鳴った』と言い、他の人は、『天使がこの人に話しかけたのだ』と言った。」
 

 一緒にいた人たちには聞こえなかった。何か大きな音が聞こえた、何か大きな声が聞こえた。そんなものだったのでしょうか。それはイエス様だけに聞こえる声でした。

 そして30節ではこう言われます。「イエスは答えて言われた。この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられる時、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

 

 これは、ご自分が十字架で死なれる時、特別な時がやってくる、ということをおっしゃっているのです。人間の目から見れば、この世の支配者というのは、この世の王です。しかし、神様の時が来るときには、そのような地上の権威を持った王は退けられます。そのときには、神様がすべてを支配して下さいます。

 そして、すべての人を神様のもとへと引き寄せて下さるのです。それは、イエス・キリストの十字架の死が、すべての人のためであった。神様の御心はそこにあり、すべての人はその御心のもとへと招かれている。そういうことが言われているのです。

 

 イエス様はこのように言われると、群衆たちは言いました。34節。
 「すると群衆は言葉を返した。『わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それでは、『人の子は上げられなくてはならない』とどうして言われるのですか。その「人の子」とはだれのことですか。』」と群衆たちは尋ねます。

 「人の子」という言葉は、イエス様が使われる特別な言葉です。二つの意味があると考えていただいて結構です。一つ目の意味は、人の子、それは人間という単純な意味です。人が生まれた子であるから人間という意味です。

 それと同時に、旧約聖書のサムエル記に記されている、「来たるべき救い主」という意味も持っています。今日の箇所では、イエス様が言われる「人の子」とは、「来たるべき救い主」のことであり、それは主イエス・キリストご自身のことでありました。

 

 イエス様はご自身のことを言われるときに、ここで「わたしは」と言わないで「人の子は」と言われました。つまり、ご自分がそうしたいからする、というのではなくて、神様の御心がそうであるからする、というときに、この「人の子」という言葉を使われるのであります。

 そして、その「人の子」がイエス様であることを前提にして言われます。
 「光は、今しばらくあなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこに行くかわからない。光の子となるために、光のあるうちに光を信じなさい。」

 今日の箇所はこのように締めくくられています。ここにあるイエス様と、そこにいる群衆たちの対話はかみあっていないような気がします。それもそうでしょう。群衆たちには、神の声は聞こえていません。自分たちの素朴な疑問を語っているのです。

 それに対してイエス様が答えておられるのは、群衆たちの質問に答えるためではなく、すべての人に向けて神様の御心を伝えるということでありました。人間的な質問に対して答えるために、神様がおられるのではありません。神様の御心を伝えるために、神様がおられ、そして、神の子イエス・キリストがおられるのです。

 イエス様は今日の箇所の最後の所で言っておられます。「光は今しばらくあなたがたの間にある。」それは、捕らえられるまでのしばらくの間、わたしは皆さんと共にいるよ、ということです。

 「暗闇に追いつかれないように、光があるうちに歩きなさい。」

 もうすぐイエス様は捕らえられて、救い主がいない時代がやってくる。暗闇のときがやってくる、その時代に追いつかれないように、「光のあるうちに歩きなさい」と言われるのです。

 イエス様がおられるときに、イエス様を信じて、イエス様と共に歩み出しなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこに行くかわからない。神様の救いのない世界を歩く者は、自分がどこに行くかわからないのです。そんな暗闇の中にあって、「光の子となるために、光のあるうちに光を信じなさい」と言われます。

 イエス様は、「人の子」、ご自身のことをそのように言われると共に、ここでは人々に「光の子」と言われました。神様の導きというものを示す光、その子となりなさい。それは、神様から生まれた者となりなさい、ということであります。

 それは私たちがもう一度この世の中にあって、もう一度生まれ直す、という文字通りの意味ではなくて、いま私たちが生きているありのままの自分自身のままで、神の子とされることです。神様の目から見たときに、神様から見出された、神の光として生きる者となる。そういう意味であります。

 今はまだイエス様が捕らえられていないとき、まだ光のあるうちに、そうなりなさい、とイエス様はおっしゃっています。

 

 こうして、今日の箇所全体を通して、十字架につけられる前のイエス様が弟子たち、また群衆たちに向けて語ったメッセージというものが、こうして今日の箇所には記されているわけであります。

 このような今日の箇所を読んで、皆様は何を思われたでありましょうか。

 今日の箇所を読むときに、まず「一粒の麦」という言葉が私たちの心に入ってきます。「一粒の麦」、それは土にまかれるとき、姿、形をなくしていきます。イエス様はそのことを「死」と呼んでいます。しかし、それは人の目から見た死であって、神様の目から見たときには、それは命へと変えられていく死なのであります。

 ここでは科学的な意味で植物のことが言われているのではなく、あくまでたとえとして、イエス様はこのように言われています。私たちは、教会の暦で受難節、イエス様の十字架の苦しみを覚えるときを歩いています。このときに、ただ、イエス様の十字架の死ということだけを考えるのではなくて、一人ひとり自分自身の生きる苦しみ、生きることの受難、自分自身の十字架と言ってもいいでしょう。そのことをイエス様の歩みに重ねて考えたいと思うのです。

 

 この社会の中を自分として生きていく。その中にあって、いろんな悩み苦しみ、痛み、いろんな思いが私たちの心にわいてきます。その中にあって、自分の存在というものを絶対化せずに、それを神様の御心にかなって人のために与えて、それによって自分自身が消えていく、そんな生き方ができるのでしょうか。それは中々難しいことに思えます。

 

 今日読みました聖書の箇所を読みながら、イエス様はこうやって、ご自身が一粒の麦になって、ご自身の命を与えられたけれども、そのようなイエス様が与えて下さった命を、2000年経って私たちはどんなふうに受け継いでいるのか、どんなふうにいただいているのか、ということを思いました。

 到底、イエス様のように生きているわけではない私たちが、これからどんなふうに歩んだらいいのか、ということを考えたのです。そのことを考えることは、結構、心に負担がかかることなのですね。「自分の命を憎む」という言葉がありますけれど、これは私個人が考えたときに、できるかなあ、と思うのです。何か違うような気がするなあ、という思いがあるのです。

 自分で自分が好きか、といえば、自分は好きではありません。けれども、憎むかと言われたら、う〜ん、という気もします。やっぱり、自分が自分のことをちょっと好きな所があるのですね。何よりも、私の存在というものは、今ここにしかない、この自分の存在を憎んでどうするのだろか。

 神様のことも好きですけれど、イエス様のことも好きですけれど、私は自分のことも好きなのです。そんな私が、今日の箇所をどう読んだらいいのだろうか、と考えてみました。

 そして、考えてもわからないときは、気分転換をしたらよいのですけれども、私は先日、気分転換にある美術館に行って参りました。ちょっと遠い所にある美術館なのですけれども、そこでやっている展覧会をどうしても見たくて、行ってきました。20世紀の美術の特集がされている美術展でありました。

 そこに行きますと、たくさんの人たちが来ていました。なんとなく、美術館というのは人がたくさん行く所ではないように思っていたのですけれど、大賑わいでした。そして、絵を見ているときにですね、その美術館にある絵を見ながら、いろんな人たちがポケットからスマートフォンをスッと出して、バシャッ、バシャッと写真を撮っているのですね。

 私はそれが、何だかすごく気になったのです。私は、どっちかといえば、静かに絵を見たいほうなのですけれど、バシャッ、バシャッと撮られていると、何か邪魔されている気がしますし、大体、美術館で写真を撮るというのは、一番やってはいけないことではないのか、と思ったので、「あのー、それ、許可取ったんですか」と言おうかと思ったのですが、言わなかったのですが、まあトラブルになるのもいややなあ、と思って言わなかったのです。でも、そのあと、気がつくと、何人もの人がバシャッ、バシャッと撮っているのですけれど、部屋の中に係員の方もいらっしゃるのですが、何も言わないのですね。

 私はそのときハッとしたのですけれど、もしかしたら写真を撮るっていうことは、許可されているのだろうか、と思って、後で美術館のホームページを見て確認するとですね。むしろ「写真を撮ってSNSで拡散して下さい」と書いてあったので、あっ、これか、と思いました。それでみんな写真を撮るんですよ。

 

 そのとき、私は、つくづく思ったんです。私って、古い時代の人間なんだなあ、て、本当に思いましたね。もう、何て言うかな、私からしたら、耐えられないのですよ、そんな、美術館で写真を撮るなんていうのは、どういうこっちゃねん。著作権の問題とかのそんなんもありますけれど。でも、時代が変わったんですよ。そうやって写真一杯撮って。

 

 そんな写真とる暇があるんやったら、静かにその絵と向き合ってほしいんですけど、そんなことしないで、しゃべりながら写真撮っては、また次の絵に行っては、また次に行く。そんな写真撮ってどうするんかなと思うのですけれども、そうやってSNSというのでしょうか、そのインターネットで拡散するから、たくさんのお客さんが来ていたわけですね。

 いま、私たちはそんな時代を生きている、ということを痛感させられた経験だったのですけれども、そんなことを思いながら、今日の聖書の箇所をもう一度読むとですね。今日の箇所で言われていること、一粒の麦のこと、正直、ちょっと重いたとえです。このたとえだけでなく、イエス様の十字架の死ということ自体が重たいことです。

 その死の三日の後にイエス様はよみがえられたと福音書は記していますが、2000年前にあったこと、十字架の死、そして復活、そこから生まれた教会、そしてペンテコステ聖霊降臨の出来事、弟子たちの様々な伝道、世界中に広がっていく教会の姿、そして使徒パウロの書いた手紙、そうした聖書に記されているたくさんのこと、また旧約聖書の何千年も昔からの物語も含めて、そうした物語というのは、本当に何千年もの時間が経って、いま私たちの目の前にあります。

 

 それらの物語が持つ、元々のメッセージがどういうものであったのか、ということは、本当にわかりにくくなっている。はるか彼方にあるようなこと。けれども、それを現代に伝えようとする、いろんな努力があります。

 私たちが今読んでいる、ヨハネによる福音書というもの自体が、そうです。四つの福音書の中で、最初に記されたのは、マルコ福音書、次にマタイとルカ。そして最後にヨハネによる福音書が記されましたと、聖書学者は分析をしています。その時代によって、必然性があって別の書き方、まとめられ方がされています。ヨハネによる福音書は、他の三つと違って、哲学的といいますか、内面的に深く深く考えていく、そうした言葉で書かれています。

 それは、もしかしたら、歴史的な意味でいえば、イエス様の言葉そのままではなく、後の時代になってよくよく練り込まれた言葉、教会の中で語り伝えられる中で、より深く言葉が吟味されて、そして今日の私たちが読んでいる、こういう言葉になった、ということができます。

 

 すなわち、ここには、昔は美術館で写真を撮ってはいけなかったけれど、今は写真を撮って拡散したほうがいいんだ、というような工夫がある。その時代についていけない所もちょっとあるのですけれど、でも、そういうことをすることによって伝わっていく何かがあることを信じて、やっているわけなのですね。聖書というもの、そのものが、そういうものとして私たちの目の前にあるのです。

 

 そして、今日の箇所で言われています。「光の子となるために、光のあるうちに光を信じなさい。」

今日の説教題は「一粒の麦と夕方の光」としました。「夕方の光」、それはもう少ししたら消えていく、この一日が終わるというときの光であります。「光のあるうちに光を信じなさい」と言われているときに、それは夕方の光といってもいいのではないでしょうか。

 名残惜しく日が沈んでいきます。一日が終わっていく。それは普段のときには、何かこう、一日の終わりの幸せなイメージでもありますけれど、イエス様がここで語られたときには、受難の言葉です。もうすぐわたしは捕らえられる。そして十字架で死ぬ。まさに一粒の麦として消えていく。それまでの時間の間に、わたしと共に歩む者となってほしい、そのイエス様の御心がここにはっきりと記されています。

 

 時代は変わっていきます。そして、イエス様が言おうとしていたメッセージが、本当に私たちに伝わっているのだろうか、とも思いますけれども、それは形を変えて、きっと伝わっているのです。何かのそんなに重たいことばかり考えるということではなくて、いま、私たちにとって必要なメッセージが、今日の箇所にあるのです。

 自分が利己的に生きるのではなくて、自分を世の中に、土の中に種をまくように、世の中に投げ込んでいく。そこに神様の御心が現されるのです。

 

 お祈りをいたします。
 天の神様。この受難節の間、私たちの生きることの苦しみ、苦難、その中にあって、イエス様が一人ひとりと共にいて下さい。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

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「友の足を洗うイエス
    2023年3月12日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  ヨハネによる福音書 13章 1〜17節 (新共同訳)

 

 さて、過越祭の前のことである。

 イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、

 世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

 

 夕食のときであった。

 既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、
 イエスを裏切る考えを抱かせていた。

 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、

 御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、

 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、
 腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

 

 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、

 「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。

 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、

 後で、分かるようになる」と言われた。

 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、

 イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、

 あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。

 

 そこで、シモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」

 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。

 あなたがたは清いのだが、皆が清いのではない。」

 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。

 それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、
 上着を着て、再び席に着いて言われた。

 「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。
 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。

 そのように言うのは正しい。わたしはそうである。

 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、

 あなたがたも互いに足を洗わなければならない。

 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、
 模範を示したのである。

 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、
 遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。

 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。

 

 

 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
  改行などの文章配置を説教者が変えています。
 新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 教会の暦が「受難節」に入っています。今日は、受難節に入ってから3回目の日曜日です。

 受難節は、主イエス・キリストの十字架の苦しみ、受難を覚える。そして、そのことに私たち一人ひとりの生きることの受難、苦しみを重ねて、生きることの意味をイエス様を通して、聖書を通して考える期間であります。それが終わるのは、4月9日(日)イースター(復活日)の前日であります。

 

 この受難節の期間、京北教会ではヨハネによる福音書から続けて皆様と共に、読んでいくことにしております。今日の箇所はヨハネによる福音書13章1〜17節です。

 新共同訳聖書では、ここに「弟子の足を洗う」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは、新共同訳聖書が作られたときに、読む人の便宜を図って付けられたものであり、元々の聖書には、こうした小見出しはありません。

 今日の箇所は、イエス様が捕らえられて十字架につけられる、その前日のこととして記されていあります。1節には「さて、過越祭の前のことである」と書いてあります。

 そのころのユダヤの人たちにとって大切なお祭りで、旧約聖書に記された出エジプトの出来事を記念し、祝う、宗教的なお祭りの時期、その前のことであるのです。

 そのときには歴史の出来事を記念して、みんなで食事をする、大切な食事をする、そういうことをしていました。その前のときのこととして記されています。

 

 その次にこうあります。
 「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」

 イエス様がとらえられ、十字架につけられ、死なれる。そうした形でイエス様が、死を味わわれる。そして三日の後に復活され、天へと上げられている、神様のもとへと帰って行かれる。そうしたときが来た。そのことをイエス様ご自身が悟って、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と書いてあります。

 「この上なく愛し抜かれた」という表現は、他の所には出てきていません。大変特別な言い方です。今日の13章が始まるときに、まず「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と言う、そのことを先に言って、そこから物語が始まるという形になっています。

 つまり、この物語は他の物語とは違う、特別な物語だというのであります。それは、イエス様が十字架の死、そして復活、そのときを前にして、弟子たちを深く深く愛し抜かれた。そういうことがあった、ということをまず言って、この物語は始まっているのであります。特別なとき、ということなのです。では、どういうことがあったのでしょうか。

 

 こうあります。
「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」

 ユダがイエス様を裏切って、当時の宗教的な権力者である祭司や律法学者、長老たちの人たちと、裏で示し合わせてイエス様を捕らえることができるようにする、その考えをすでにユダは抱いていた。ここでは、悪魔がその考えをユダに抱かせていたと書かれています。そうした緊張した時期でした。

 

 次にこうあります。「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」

 

 もう何も言わずに、いきなりこういうことを始めたというのですね。弟子たちは驚きました。というのは、足を洗うというのは、その当時では身分の高い人に対して奴隷がする仕事であったからであります。なぜ、という驚きが弟子たち全員にあったと思うのです。

 

 そして続きます。
「シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、『主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか』と言った。イエスは答えて、『わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる』と言われた。」

 「ペトロが、『わたしの足など、決して洗わないでください』と言うと、イエスは、『もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる』と答えられた。そこで、シモン・ペトロが言った。『主よ、足だけでなく、手も頭も。』」

 「イエスは言われた。『既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。』イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。」

 

 こうして、この箇所には、イエス様とシモン・ペトロの対話があり、そしてまたユダのこともここに暗に示されている、そういう対話があることになります。

 ここでイエス様は、なぜ、何のためにこのことをするのか、ということを言ってから弟子たちの足を洗ったのではなく、何も言わずにまず洗い始められた、ということであります。その意味は「今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われました。

 

 続きます。
「さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。『わたしがあなたがたにしたことがわかるか。あなたがたは、わたしを「先生」とか「主」とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。」

 「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。』」

 このようにして、ここでイエス様がこうなされたのは、イエス様がこの弟子たちにとって、先生とか、主である、つまり自分たちよりも上にいて教える立場、そして中心である、そう弟子たちが呼んでいる、それは正しいことです。

 そして、そのイエス様が自ら、弟子たちの足を洗ったのだから、これからは、あなたがたも互いにそのイエス様にならって、お互いに足を洗い合わなければならない、その模範を示したと言われるのです。

 そして続いて16節でこう言われます。
 「『はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。』」

 今日、礼拝で朗読する箇所は、ここで締めくくらせていただきました。

 「そのとおりに実行するなら、幸いである」とイエス様はおっしゃっています。マタイによる福音書では、「心の貧しい人々は幸いである」と言われ、ルカによる福音書では「貧しい人は幸いである」という言葉がここに出てきているのです。互いに足を洗う、洗い合う者は幸いである、とイエス様はここでおっしゃっているのです。

 

 イエス様の十字架の死、そして復活を前にしたとき、そして、ユダがもう裏切ろうとしているとき、この大変緊張したとき、そして弟子たちはイエス様がこれから捕らえられることを、ユダ以外の弟子は分かっていなかった。

 そして、イエス様だけが本当のことを知っておられた、これから何が起こるかを知っておられた、そうした緊張したときに、このようにイエス様は弟子たちの足を洗ったのであります。

 さて、このように今日の聖書箇所にはあります。皆さんは、何を思われたでありましょうか。


 今日の箇所にある、イエス様が弟子たちの足を洗って下さった、という意味を解釈してみます。これは、たった一つの解釈があるのではなくて、いろんな解釈をすることができます。皆さんにもそれぞれに解釈をしていただきたいのですが、私はこれからいくつかの解釈を紹介します。

 ここでイエス様が弟子たちの足を洗われたということは、弟子たちに対して互いに愛し合う、ということを教えられたというとであります。イエス様は、今日の箇所の後のところで言われます。「互いに愛し合いなさい。これが私が与える新しい掟(おきて)である」と。

 

 その掟を守るときに、イエス様が共にいる、神様が共にいるのだと。そして互いに愛し合うことによって、あなたたちの中に本当に神様がおられる、イエス様が共におられるのだ、ということを世の人が知るのだ、という愛の教えとしてイエス様が語っておられる通りに、今日の箇所においても、弟子たちが互いに愛し合うことを、お互いに足を洗い合うことによって愛し合う、そのことを教えているのであります。

 

 それは、イエス様がもうすぐ捕らえられる、そして十字架で死なれる、そうした形でイエス様がいなくなる、ということを前提にしています。今はまだイエス様が一緒におられるから。しかし、イエス様がおられなくなった後、弟子たちは一体どうしたらいいのか。

 何の目標もなく、何の目的もなくなってしまう弟子たち。そんなふうに弟子たちを放り出すのではなく、イエス様はこうして、イエス様を信じて生きる者の目的や、実際に歩むことがどういうことであるかを、御自分が身をもって示して下さったのであります。

 そして、そのことはイエス様が十字架の死の三日の後に、よみがえられ、天に上られたあとも、弟子たちはずっと、そのことによって、イエス様の愛ということを証しし続けるということであります。お互いに足を洗う、それは、互いに愛し合う、ということを意味しています。

 

 そして、それだけではありません。ここで、足を洗うということがなされていることは、特別なことなのですね。ペトロは、どうせ洗うのだったら、手も頭も、とお願いします。どうせ洗うのだったら、私の汚い足だけではなくて、もう全部洗って下さい、そうお願いするのですが、いや、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」とイエス様は言われています。

 

 足だけが汚れている。他の所は自分できれいにしている。だから、人間の一番汚い足を洗う。そして足というのはこの地上に接している部分であります。その足を洗うということは、こういう言い方が出来ます。世のけがれから脱していくこと。世のけがれ、あるいは世のよごれ。世の様々な苦しみ悩みと言ってもいいでしょう。

 人間にとって、生きることは苦しみであります。土の上を歩きながら、足か汚れ、足が痛んでいく。最も痛んでいく所である足。そこに汚れがつきます。それを洗うということは、この世に生きることによって足に付いてきた、いろんな汚れ、また苦しみ、大変だったことをきれいに洗って落としていく、それはこの世に縛られ生活から脱していく、ということであります。

 

 それはすなわち、「神の国」に生きる、ということなのですね。「神の国」というのは、私たちが死んだあとに行く天国というだけの意味ではありません。

 神様の恵みが満ち満ちている、神様の恵みが全体を支配している、神様の恵みがすべてにおいて勝っている。そうした、目に見えない「神の国」というものがあって、それは単に死後の天国のことではなく、神様によってもたらされ、私たちが今生きている真っ只中に、目に見えない形で広がっていく、それが「神の国」ということです。

 互いに足を洗い合うということは、弟子たちがお互いに世の汚れから離れて、「神の国」に生きる生活に入っていく。そういうことであります。あらゆる世の悩み苦しみを、お互いに足を洗い合うことで落とし合う。そういうことを意味しています。

 この解釈について、私はちょっと思い出すことがあります。ある牧師が、こうした、足を洗い合うということの説教を聞いたあとに、ある方がですね。今日の説教を聞いて目が開けました、というようなことを言っていました。

 というのはですね。この、イエス様が弟子たちの足を洗うという箇所での説教を聞くときには、お互いに助け合いましょう、愛し合いましょう、という話が言われる。だけど、お互いに助け合いましょう、愛し合いましょう、ということは結構、難しいことなのですね。

 人間はお互いにいろいろありますから、だから、何となくヒューマニズムのように、人間はみな兄弟だから、という形で、イエス様が足を洗う話を今まで聞いてきたのだけど、それだけではないということがわかった、というのですね。

 この人間世界のドロドロしたものから、お互いにそこを脱していく、この教会というものも、つまりお互いにただ助け合いましょう、という、何かベタベタした場ではなくて、あなたがこの世の苦しみから脱することができるように、私はあなたの足を洗ってあげるよ、とお互いに言う、教会というのはそういう場所である。そういうことがわかって、ホッとした。そういうことを言われる方がいらっしゃったのですね。

 

 同じ聖書の箇所を読んでも、そこで気付くことや感じることは、人それぞれに違っています。そういうふうに、足を洗い合うということも、単に足を洗い合うだけではなくて、この世のいろんなよごれから離れて「神の国」に脱していく。そういうふうに解釈することもできます。

 そしてまた、それだけではありません。これは、私自身が聖書を読んでいて感じたことでありますけれど、なぜ、イエス様はこのときに弟子たちの足を洗ったのだろうか、ということをいろいろ考えていたときに、ハッと気付いたことなのです。

 今まで、弟子たちはイエス様と共にずーっと歩いてきました。本当に長い距離をガリラヤから旅を、この都エルサレムへと、歩いて旅をしてきました。しかも、まっすぐに来たのではなく、あちことの町や村を巡り歩いてから来たのです。もうどれぐらい歩いたか覚えていないぐらい、歩いて疲れていたはずです。そして足は汚れていたはずです。

 このとき、イエス様が弟子たちの足を洗うということは、私と一緒に歩いてくれて、ありがとう。その足を私も洗うよ、そういう労をねぎらっていることではないか、と思ったのです。

 私と一緒に歩いてくれて、ありがとう。みんなの足に感謝。そんなふうな思いではなかったでしょうか。みんなで歩いて、共に生きてくれた、そのことの労苦をねぎらう思いが、このときイエス様が持たれていたのではないか、と私は想像いたしました。そのように、労をねぎらうという解釈をすることもできます。

 さらに、それだけではありません。イエス様は今日の箇所の所には書いていない言葉でありますけれども、「あなたがたを友と呼ぶ」と後の箇所で言われています。それは、イエス様は弟子たちにとって先生であったり、主、救い主、メシアでありました。それは確かに、今日の箇所でイエス様がおっしゃっておられる通り、そうなのですけれども、しかしイエス様はこれから、「あなたがたを友と呼ぶ」と言われました。

 

 それは、父の神様から私に伝えていただいたことは、みんなも、あなたたちに伝えたからである、と言われるのです。つまり、イエス様はもう弟子たちに対して、先生だから何かを弟子たちに隠していること、隠し事というと変ですが、これはお前たちにはまだ早い、などといって言わなかったことは何もない。

 私が父なる神様、天の神様から伝えてもらったことは、みんなあなたたちに伝えたよ、だから、私とあなたたちは、もう同じ立場になるんだ、だから友、あなたたちのことを友と呼ぶ、とイエス様はおっしゃって下さったのであります。

 

 もちろん、神の子、救い主のイエス様と、弟子たちが全く同じになる、全てにわたってその存在が等しくなるわけではありません。けれども、私たちにとってなれるはずがない、救い主、神の子、神の独り子イエス様が私たちを友と呼ぶ、と言って下さったとき、それは救い主であるイエス様が、私たち人間の所に来て、横に立って下さったことでした。

 

 私とあなたは対等なんだよ、友なんだよ、これから相談しながら、一緒に歩いていこう。そうしてイエス様が私たちの所に来て下さった。そのことが、この、今日の箇所の足を洗うという場面にも現されているのです。

 

 友となる、相手の足を洗うということ、相手よりも下に自分を置くことによって、イエス様は、わたしはあなたがたの友となる、ということを示しておられるのです。言葉ではなく態度で。それは御自分がいなくなられた後、弟子たちがお互いを友として、足を洗い合うことを示して居ます。足を洗うことによってお互いに友となる。そうした関係が、ここで言われています。

 


 そしてさらに、まだそれだけではありません。イエス様がいなくなった後に、弟子たちはどうしたでありましょうか。イエス様が復活なされて天に昇られた後、弟子たちはしばらくの間、ひたすら祈り続ける日々を送りました。それはイエス様が弟子たちに、約束されたものを天から受けるまではとどまっていなさい、と言われたからであります。

 そしてイエス様が天に上げられた以降に、ペンテコステ(聖霊降臨日)がやって参りました。神様から目に見えない聖霊、聖い霊が降りてきて、弟子たちに、また、イエス様を信じる1人ひとりの所にやってきて、ペンテコステ聖霊降臨日がやってきて、そこから世界最初の教会が生まれたのです。

 

 そして、その教会というものは、世界に伝道し、あちこちに教会が建てられるようになっていきました。そしてどこに行っても、この、イエス様が弟子たちの足を洗ったという話が伝えられていきます。

 そして、文字通りの意味で互いの足を洗い合うという、そういう儀式のようなことをしていたかどうかはわかりませんけれども、お互いに私たちは足を洗う存在なんだ、ということを説教で聞き、それを何らかの形で実践するときに、そこでイエスを思い起こしていたのであります。

 足を洗うということは、単なる行動ではなく、足をきれいにして良かったねというだけではない。それだけではなくて、そのことの続きに、そのことを一番最小にして下さったのは、イエス様だった、という、イエス様を思い起こす、そのために足を洗うということがいえるのです。

 この、イエス様を思い描こうとすることは、大変重要なことであり、これは他の福音書との比較でわかってくることなのですが、マタイ・マルコ・ルカの三つの福音書においては、イエス様が十字架につけられる前、捕らえられる前に、最後の晩餐を行い、パンとぶどう酒を弟子たちと共に分け合った、分かち合った、そういう場面が記されていますが、ヨハネによる福音書には、その聖餐式の場面がありません。

 その代わりに、という言い方はおかしいのですけれど、聖餐式はないが、この、弟子たちの足を洗う、そして互いに洗い合いなさい、というイエス様の言葉があるのです。

 これは一体どういうことなのでありましょうか。ヨハネによる福音書が、聖餐式を重んじていなかったということなのか、それとも、聖餐式の代わりに、この足を洗う儀式をしていたのか、そうしたことは、今となっては全くわかりません。

 けれども、ヨハネによる福音書においては、十字架につけられる前の日に、イエス様がこのようにされた、ということを、言わば聖餐式に等しい、それと同じような意味があることとして理解していたのではないか、と思うのです。

 

 聖餐式では、パンとぶどう酒をいただくときに、これがイエス様の体と血潮である、それを食べる、飲むことによって、そこにイエス様がおられるということを実感する、その記念の式です。それと同じように、この足を洗うということによって、イエス様を思い起こす、そういう重要な意味があるのですね。

 

 そしてまた、イエス様のことを思い起こすというときに、このいろんなことを合わせて思い起こすのですが、弟子たちが互いに足を洗い合うというときに、たらいに水を汲んで弟子たちの足をイエス様は洗いました。

 

 水ということが登場します。水というのは、聖書の中でいろんな形で登場しますけれども、最初にイエス様がヨルダン側で洗礼を受けられたとき、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた、そこから、イエス様の公の宣教活動の第一歩であったこと、それが福音書には記されてあります。

 今日の箇所においては、イエス様が水で足を洗って下さいます。それは、言わば今日の教会から見たとき、次のように解釈することができます。

 教会で教会員になるには、洗礼を受けることが必要です。みんなが洗礼を受けている教会、その教会で、しかしもう一度、教会生活の中で足を洗う、イエス様によって足を洗っていただいたように。それは洗礼というのは一生に1回のことですけれど、足を洗っていただくということは、それは一生繰り返していくこと。イエス様によって清められること。

 

 ただ1回の洗礼式だけではなく、繰り返し繰り返し、受難節がやってくるとき、イエス様の十字架を思い起こすときに、足を洗う。それはある意味、洗礼の水を思い起こさせるものであったのではないか、とも想像することができます。

 

 そのように、今日のこの、足を洗うという箇所を読むときに、様々なことを私たちは考えることができます。

 そして、今日の聖書の箇所の最後には、このように書いてあります。

「『はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。』」

 「心の貧しい人々は幸いである」(マタイ)、「貧しい人々は幸いである」(ルカ)、と言われたイエス様は、ここで、足を洗うことを、お互いに足を洗うということを、その通りに実行するなら幸いであると言われています。ここに私たちの、幸福の秘訣ということがあるのですね。

 

 こうした箇所を私たちは、受難節の中で読んでいます。3月11日は東日本大震災が起きた日でありました。テレビや新聞で様々な報道がなされています。あれからもう12年も経ったけど、今もつらいことであります。

 先ほどの讃美歌を歌いましたときに、311番を歌ったときにも、311番って3.11なんだなあっと思いました。それは偶然なのですが、そんなたわいのない偶然にも何かの意味を感じてしまう、そんな不思議があります。

 

 今日の箇所においてイエス様は、「遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」と言われています。それは東日本大震災だけではなく、世界の戦争や自然災害、またそこまで大規模なことではなくても、1人ひとりが今生きていることの苦しさ、しんどさ、辛さ、受難ということを考えるときに、私って何ができるのだろうと思います。

 

 そして、本当に絶望する思い、この自分の存在の小ささを思って、私は何にもできないよ、と思う、そんな苦しさの中で今日の聖書箇所を読むときに、「遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」という、この言葉を読むことが救いになると思うのです。

 

 これは、イエス様の言葉です。「イエス・キリストって何したん」と人から聞かれたら、皆さんは何と答えますか。「世界の人の罪を救ったんだよ」、そう言うこともできます。しかし一方で、今日の聖書箇所から知ることは、イエス様がしたことというのは、弟子たちの足を洗ったという、実に実に、小さなことであります。

 これだけのことしかしてないじゃないか、イエス様って。弟子たちの汚れた足を洗った。それだけのことだったら、誰でもできるじゃないか。やろうと思えば。でも、イエス様は、誰でもできるじゃないか、その程度のこと、と言われるようなことをここでなされています。

 そして「遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」と言われるときに、あなたたちも私と同じように、実際にできることは、こんな小さなことなんだよ。せいぜい隣人の足を洗うことぐらいしかできないんだよ、と言われているのです。

 でも、それでいいんだ。それ以上のこと、私がそうした以上のことが、あなたたちはできなくてもいいんだ。でも、1人ひとりが本当に隣人の足を洗っていくならば、きっとそこには「神の国」が広がり、互いに助け合い、そしてこの世の汚れからお互いに脱していく。

 

 そんなふうな、いろんな解釈が今日の箇所からできますけれど、イエス様が教えて下さったいろんなことが、そこから始まっていくのです。

 東日本大震災が起こって12年経っても終わらない苦しみがあって、そこにどうやって取り組んでいくかといえば、隣人の汚れた足を洗うことからしかできない。そこからしか始まらない。そして、それでいいんだ。そこから私たちはお互いの救われていくのです。そのことに幸いがあると、イエス様はおっしゃっているのであります。


 お祈りをいたします。
 天の神様。イエス様が十字架を前にして、なしてくださったことから、私たちはたくさんのことを教えられました。どうか1人ひとり、イエス様と共に歩んで行くことができますように導いて下さい。そして、震災の現場にあって、また戦争の現場にあって、また私たち一人ひとり、本当に生きることのつらい現場にあって、イエス様が共にいて下さい。そして、私たちが他者の足を洗うことができますように。そして自分の足も隣人から洗っていただくことができますように、心より願います。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

 

 

 

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「歴史の樹から教会へ」今井牧夫 牧師
  2023年3月19日(日)京北教会                              創立114周年記念礼拝 説教

 聖 書  ヨハネによる福音書 15章 5〜17節 (新共同訳)

 

 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。

 人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、

 その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、
    あなたがたは何もできないからである。

 

 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。

 そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。

 

 あなたがたがわたしにつながっており、
    わたしの言葉があなたがの内にいつもあるならば、

 望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、

 それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

 

 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。

 わたしの愛にとどまりなさい。

 わたしが父の掟(おきて)を守り、その愛にとどまっているように、

 あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、

 あなたがたの喜びが満たされるためである。

 

 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。

 これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

 

 私の命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。

 僕は主人が何をしているか知らないからである。

 

 わたしはあなたがたを友と呼ぶ。

 父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。

 

 あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、

 わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、

 わたしがあなたがたを任命したのである。

 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。

 

 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、改行などの文章配置を説教者が変えています。
 新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 本日、私たちの京北教会は創立114周年記念礼拝の日を迎えました。これから115年目に入っていくのであります。

 京北教会の歴史を書いた本というものがあります。一般の書店でも手に入るものでありますが、『各個教会史をどう書くか〜資料収集から叙述まで』と題した、この書物は土肥昭夫さんが書かれた本であります。

 同志社大学神学部の教授であり、牧師であられた土肥昭夫さんが書かれました。この本の中に収録されているのが、京北教会とその前身である京南教会の歴史を記した『京のある教会の歩み〜京南・京北教会史』という本がまるごと収められています。

 

 キリスト教の歴史神学の専門家であった土肥昭夫さんが、ご自身がメンバーであった京北教会の創立75周年を記念して教会の歴史を記念誌として作ることになった、そのときに土肥昭夫さんご自身の著書でもある形でこの記念誌は作られました。

 その内容をもういちど、一般の書物の形で作り、その最初のほうに教会の教会史の作り方というものの学問的な文章を書いて、その後に、そのようにして書いた実例として、この京北教会・京南の75周年史というものが、そのままの形で収められているという、非常に珍しい形の書物であります。

 こうした一般の書店でも手に入れることができる形で、私たちの京北教会の歴史というものが、記録されていることは大変光栄なことだと思います。 

 

 この本の中に収録されている、京北教会史の冒頭の序文で、京北教会のことをこのように表現しています。少しここを読みます。

 「私たちの教会は、京都市の中心部近くにあった日本メソジスト京南教会時代と、市北東部に移転建築した日本基督教団京北教会という二つの名称のもとでの歴史を持っている。現在は下鴨という閑静な住宅街にあって、現住陪餐会員81名、礼拝出席40名前後として、イエス・キリストの宣教のわざを担いつつ歩んでいる。特に目立った所のない、言わば日本の教会の平均的な姿を示している。」こう書いてあります。

 

 この言葉は、序文を書かれた当時の京北教会牧師、山下慶親さんの言葉であります。大変短い言葉でありますが、京北教会の歴史というものが凝縮した形で語られています。ここでは、「特に目立った所のない、言わば日本の教会の平均的な姿を示している」と書かれています。教会を表現する言葉はいろいろあります。これも一つの言葉として紹介いたします。

 

 私たちの京北教会の源流をたどっていきますと、イギリスで始まってメソジスト教会運動というものに源流をたぐっていくことができます。そのメソジスト運動はイギリスからアメリカに渡り、そこから日本へと渡ってきました。

 日本に来たときは、神戸であります。そして神戸から西のほうにも東のほうにも伝道が延びて、西のほうでは愛媛県など、東のほうでは京都。そうした形で広がっていくのが当時の日本メソジスト教会の伝道でありました。

 

 そして京都では、当時は京都中央教会という名前だった、現在の京都御幸町教会、そこから三つの開拓伝道が行われたました。その一つが後の京北教会となるメソジスト五条講義所でありました。その最初に行われた礼拝の記録も残っています。その当時、伝道は大変なことであり、借家を転々とする形で伝道が続けられ、やがて京南教会となります。

 そして最初の礼拝堂を烏丸五条近くに建て、そこでは幼稚園も行うようになります。そこから、今の下鴨に移ってきたのが1941年のことでありました。その3月に今のこの京北教会の建物が新築されています。

 

 当時残っている写真を見ますと、3月下旬に献堂式が行われたときにたくさんの人が集まっています。その写真が残っています。京北教会の創立記念日とされている3月25日は、元は講義所であった所に専任の牧師が決まった、その日が京北教会の発祥の日だと考えられているのであります。

 しかし、後に1941年3月下旬に、京北教会の礼拝堂と牧師住居がここで建てられています。そうして、3月の終わりの時期は、この京北教会が新しく出発していく時期として、今まで記念されてきたのであります。

 

 では、今日、私たちはこの京北教会に集まって、何を記念するのでありましょうか。114周年という、その歳月を考えると、それを何か実感することというのは難しい気がします。一人ひとりそれぞれに自分の人生を生きていますが、114歳の方はちょっと見当たらない気がします。

 自分が生きてきた年数というものの短さを思うときに、この114年、どんなふうなものだったのだろうかと、あまりにも長い歴史というものを、私たちの想像力ではとらえることのできない、広いこの教会の歴史ということを思います。

 

 この教会の114周年を迎えるにあたって、私が皆様と共に記念したいことは、主イエス・キリストということであります。

 114年だけではない、その年月をはるかに超えて2000年前、イエス・キリストの出来事が聖書に記されたこと、イエス・キリストの十字架の死、そして三日の後の復活。聖書、その中で福音書に記された、本当に不思議なこと。

 聖書の中でしか出会えない、イエス・キリストの出来事というものを、今日、皆様と共に記念したいと思います。そのことが京北教会が創立されたことを祝う、最も大切な目的であると私には思えるのであります。

 今日の聖書箇所はヨハネによる福音書です。

 15章の冒頭には「イエスはまことのぶどうの木」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは元々の聖書にはなく、新共同訳聖書が作られたときに、読み手の便宜を図って付けられたものであります。

 

 今日の箇所においては、5節から読ませていただきました。
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

 この言葉は、イエス様が捕らえられて十字架につけられる、その前の日に、弟子たちに向けておっしゃった長い説教の一部分であります。

 イエス様はここで、ご自身の父である天の神様を農夫にたとえています。15章1節ではそう言われています。そして、この5節では「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われます。

 

 天の神様と、わたしイエス・キリスト、そしてイエス・キリストを信じる一人ひとり。その関係が、農夫、ぶどうの木、枝という関係でたとえられています。その枝に実りがある。そのことをイエス様はここでわたしたちに教えているのであります。あなたたちには必ず実りがある。その実りを結ぶために、わたしにつながっていなさい、とイエス様はおっしゃるのであります。

 

 そして、6節以降でこう言われています。

 「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」

 

 そしてさらにこう続きます。

「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」

 

 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟(おきて)を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」

 

 ここでイエス様は、6節で「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」と言われました。これは、ずいぶん厳しい言葉です。わたしたちはイエス様につながっていなかったら、捨てられて焼かれてしまう。それはいやだなあ、と思います。

 

 しかし一方で、こうも思うのです。じゃあ、私たちがイエス様とつながっている、というのは一体どういうことなのだろう。どうしたらそうなるのだろうか。そして、なぜそうしなければいけないのだろうか、ということも思うのです。

 イエス様の言葉は、大変恵み深い言葉でありますけれども、これを普通の人間の言葉、一般的な言葉として聞いてみたらどうでしょうか。「わたしにつながっていなさい」と言われて、つながっていなければ外に投げ捨てられて枯れる、火に投げ入れられて焼かれる、と言われたら、どんな気持ちがするでしょうか。

 

 つながっていなかったら捨てられる、焼かれる。それはお恐ろしいことです。そんなふうな恐怖心を持ってイエス様につながらなくてはいけないのでしょうか。一体なぜそんなことを。

 もし普通の人の言葉として言われるのであれ、私たちはその言葉に反発をすることができます。なぜ、そんなことをしなければらならないのか。イエス様の言葉は、ときとして、傲慢な言葉として私たちに聞こえてくることもあります。

 私は以前、聖書の話をしていた人から、こういうことを言われたことがあります。「私たちは羊なんですか?」と聞かれたのですね。そこには、羊、家畜であるもの、飼われているものである、聖書はそういうふうに言っているのですか、私たちはそうなのですか? という疑問の言葉でありました。

 私は子どものときから教会につながっていましたので、自分が羊であるということが、イエス様の言葉であり、そこに神様の深い愛があるということをいろんな形で知っていました。

 しかし、そうした背景のない方に対して、聖書にある羊のたとえ話をするときに、「えっ、私は羊なのか、家畜なのか、飼われているのか、そういうことに違和感あるいは抵抗感を感じる、そういう人の気持ちというものがある、そのことをそのとき初めて私は知ったように思います。

 

 今日の聖書箇所を読むときにも、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という言葉を、温かい神様の言葉として聞くときには、その通りに聞くことができても、そうでなければ、一体なぜ、そんなふうにイエスにつながらなくてはいけないのか、ということに疑問を感じても、ちっともおかしくはありません。

 そして、その疑問というのは、今日、私たちが聖書という書物の前に立つときに、そしてまた、キリスト教という一つの宗教の前に立つときに、自分の中でいろんなことを思う、その自分の中での葛藤とか逡巡とか、違和感とか、抵抗とか、そういうものとすごく結びついているのであります。

 なぜ私たちは、イエス様につながっていなければいけないのだろうか。イエス様につながっていなければ何もできないのだろうか。それはおかしいのではないか。それは宗教というものに対する疑問ということであります。

 

 今日、統一教会の問題が本当に大きな問題となり、宗教2世と呼ばれる方々が本当につらい人生の問題が報道されるときに、私たちの時代は、本当に「信仰って何だろう」という疑問を持つ時代になっています。その時代の中にあって私たちは、京北教会の創立114周年の礼拝の日を迎えました。

 今日の箇所において、イエス様は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」

と言われました。神様とイエス様と私たちの、つながりのことを言っています。その言葉は傲慢な言葉なのでありましょうか。

 いろいろ考えながら、今日の箇所を私も繰り返し読んでみました。ここでイエス様がこのように言っておられるとき、それはイエス様が私たちを愛して言って下さっている言葉である、ということに気がつきました。

 11節以降の所でこのように書いてあります。
 「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」

 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」

 「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」

 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 

 これらのイエス様の言葉からわかることは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とおっしゃっている、その言葉を、イエス様が私たちに向けて語りかけて下さっているということが、イエス様の愛であるということであります。

 一般的な人間の言葉でいえば、「わたしにつながっていなさい」という言葉は傲慢な言葉だと思います。しかしイエス様はこのとき、この後に捕らえられて翌日に十字架の上で死なれることをわかっていて、このようにおっしゃいました。

 これは、生きている人間が自分をさして「あなたがつながっていなさい」と言っているのではなくて、十字架の上で消えていく自分、神様の御心を現してこの世から消えていく、この私につながっていなさい、ということであります。

 その姿は見えなくなります。人間としてこの世に姿、形はなくなるのです。復活されたイエス様は、天に上げられて、そのことを今日も語りかけておられます。

 「わたしにつながっていないさい」というとき、それは、もはや目の前にいなくなった、その人とつながることであり、そして「つながっていなさい」と言うことが何よりにも増して、イエス様の一番大きな愛ということなのであります。

 それは私たちがイエス様につながっている、そのとき、わたしもあなたにつながっている。その、つながっているということが一番大きな愛であって、それを語りかけることが、最も大きな愛であり、そして、その語りかけられた愛を、今度は教会に集うあなたたちがお互いに、そのことを実践しあいなさいと、イエス様はおっしゃるのであります。

 イエス様ご自身は、天に上げられて私たちの目の前から消えていく。ペンテコステを前にしたとき、イエス様はそうやって天に上げられたことが使徒言行録には記されています。

 私たちは、この現代社会の中で生きていく中で、日曜日に教会にやってきて、聖書の言葉を読み、日々考えるときに、とても不思議な気持ちになることがあります。それは、この世の中にあっては、どこに行ったって、言ってくれないようなことが教会では言われるからであります。

 

 イエス様の十字架の死、そして復活。そして天に上げられて、今も聖霊、神様の聖い霊という姿で、私たち一人ひとりの所に来て下さる。そのことを、この聖書のどこで聞くことができるのでしょうか。それは、教会だけでしか聞くことができないメッセージであります。

 

 目の前からいなくなっていく、一人の人。神の子イエス・キリストに、つながり続けること。そのことが神様から私たちに与えられた、最も大きな愛の中に生きる、ということなのであります。

 

 皆さんはそのことを、信じて歩んでいかれるでありましょうか。

 私は、人間って何だろうかと考えるときに、いろんなことを思います。人間っていう存在がなぜ、この世界にあるのか。なぜ地球というものがあるのか。なぜ、私ってここにいるのだろうか。

 考えていくと、わからないことが一杯あります。まあ、科学的といっていいのでしょうか、私がなぜここに存在しているのか、という理由、その原因というものを証明することは、できるのでしょうか。

 

 私は、私がいくら考えたって、私がここに存在しているということは、偶然でしかないように思えるのです。この地球というものがあって、そこに生じてきた生き物、その中の一つである私が生まれた。そして生きている。それは、どこまで行っても、何らかの偶然の積み重ねの上にあるのではないかとも考えます。

 

 しかし、そうやって偶然に生まれて、ここにいる私というものは、この一生を生きています。人生を生きています。その中にあって、私の一生は偶然の積み重ねなんだ、ということに満足をして、納得をして生きていけるか、というと、そうではなかったのです。これはたまたま生きているんだ、そしてまたいつか、たまたま死んでいくんだ、そういう考え方を私はできなかったのです。

 それが、なぜだかはわかりません。寂しかったのかもしれません。辛かったのかもしれません。もっと楽しいことを求めていたのかもしれません。10代、20代のことを振り返ります。いろんなことがありました。

 私が生きていることというのは、偶然の結果だったのでしょうか。そうなのかもしれない。だけども、最初はそうであったとしても、しかし、私は自分が単なる偶然に生きている存在であるということに、耐えられなかったのでありました。

 そして、聖書と出会い、聖書の御言葉を聞き、イエス・キリストと出会って、そして、今日を迎えました。この京北教会で出会うお一人おひとりも、また神様によって引き合わせていただいたお一人おひとりであります。

 一人ひとりの人生の意義が何であるか、最終的にはそれは偶然の結果てある、そんなふうに結論をするのかもしれません。しかし、そうであったとしても、その途中においていろんなことを考えながら生きている私たちは、その人生の中で何かを求めています。何を求めているのでしょう。それは、つながりということだと思うのです。

 過去があって今がある、そして将来に向かっても、何かにつながっていく。そのときに、あなたは何につながりたいですか。聖書はそのように問うています。

 その中において「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」そのようにイエス様は語られました。私たちの目の前にはいない、十字架で死なれたイエス様が、今日もまた私たち一人ひとりに、聖書の言葉を通して語りかけて下さっています。

 いま、世界を見渡すときに、戦争があり、病気があり、自然災害があり、経済格差があり、様々な問題の中にあって、私たちはいつも不安にさらされています。

 しかし、その中にあって、京北教会創立114周年記念礼拝の日を迎えました。今までこの教会に集うことによって、神の御言葉に出会い、いろんなことを考えながら歩んできた、たくさんの人たち、その群れの中に私たちもいます。

 

 この京北教会につながっていることが、「わたしにつながっていなさい」と言われたイエス様につながっていることなのです。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」

 

 お祈りをいたします。
 天の神様。今日ここに集った一人ひとり、そしてここに集えなかった一人ひとりも、神様によって愛されて守られて、今日から始まる一週間を新しい気持ちで歩み出すことができますように、お導きください。自分ではどうにもできない困難に直面している、一人ひとりを神様が愛し、つながっていて下さい。そのことによって、目前にある様座な困難を乗り越えていく、突破していく、克服していく、その道が神様から示されますように、心より願います。そして、私たちの京北教会もまた、新しい時代を迎えて、みんなで歩んでいくことができますように導いて下さい。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

 

 

 

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「主の十字架から希望へ」

 2023年3月26日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  ヨハネによる福音書 16章 16〜24節 (新共同訳)


 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、

  またしばらくすると、わたしを見るようになる。」

 

 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。

 「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、

   わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、

   何のことだろう。」

 

 また、言った。

 「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。

   何を話しておられるのか分からない。」

 

 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。

 「しばらくすると、あなたがたは、わたしを見なくなるが、

  またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、

  わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。

 

 はっきり言っておく。

 あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。

 あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。

 

 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。

 しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、

 もはやその苦痛を思い出さない。

 

 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。

 しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。

 その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。

 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。

 

 はっきり言っておく。

 あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。

 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。

 願いなさい。そうれすば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」


  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
   改行などの文章配置を説教者が変えています。
   新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 いま教会は、教会暦で受難節の中を歩んでいます。主イエス・キリストの十字架の苦しみ、その受難を思い、そして、そのことに重ねて私たち一人ひとりが、自分自身の生きることの受難というものを考えるときであります。この受難節の終わりは、4月9日イースターの前日であります。

 受難節に沿った聖書箇所を、今年はヨハネによる福音書から選んで読んでいます。今日は16章です。ここには悲しみが喜びに変わるという小見出しが付いています。こうした小見出しは新共同訳聖書が作られたときに、読み手の便宜を図って付けられたもので、元々の聖書にはこうした小見出しはありません。

 今日の箇所には何が書いてあるのでしょうか。今日の箇所はイエス様が弟子たちとの最後の晩餐、そして最後のときを過ごしているときの、イエス様の長い説教、また弟子たちの対話、その一部分であります。

 イエス様はこのとき、御自分が翌日に捕らえられて十字架につけられ、死なれることを知っておられました。そのことを前提として、弟子たちに対して様々なことを語られました。しかし、弟子たちはそのことをわかっていませんでした。

 ですから、イエス様がこのときに語られた特別な言葉、その意味を理解することができずに、なぜイエス様はこんなことを言うのだろうか、という不審な思いでイエス様の言葉を聞いていたのであります。そうした弟子たちの困惑が16〜18節に書いてあります。

 

 イエス様は言われました。

 「しばらくすると、あなたがたは、わたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」

 

 これは、イエス様が翌日には捕らえられ、十字架につけられ、そして死なれ、3日の後に復活なされる、そうしたことを踏まえて語っておられるのですが、弟子たちにとっては考えられないことなのでありました。

 自分たちのリーダー、また自分たちの先生、自分たちが慕っている救い主、メシア、主であるイエス様が捕らえられる、十字架で死なれる、などということは、考えることができないことでありました。そうした弟子たちの空気を知って、19節にあるようにイエス様は言われます。

 「『しばらくすると、あなたがたは、わたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」

 

 イエス様はこのように言われました。これから、イエス様がいなくなるとき、それは大きな悲しみのときなのでありますが、その悲しみは喜びに変わる、と言われます。

 

 そして21節でこう言われます。

 「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」

 

 ここで一人の人が誕生する、ということを巡って、そのことによってイエス様がこれから起こる出来事の悲しみ、辛さ、喜びということを表しておられます。

 そして22節でこう言われます。

 「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」

 

 ここには、その大きな悲しみのときを過ぎたならば、大きな喜びのときがやってきて、しかもその喜びを奪い去る者はいないと、イエス様はここで断言をされています。

 

 ここで言われている、そのとき、これからやってくるときとは、いつのことなのでありましょうか。ヨハネによる福音書の流れで言いますと、それはイエス様が復活なされて弟子たちに再び出会ってくださるときであり、そしてもう一つは、復活の後に天に上げられたイエス様が、再臨というのですが、再びこの世に来られる、そのときのことも含めておられると思われます。

 

 もう一度、イエス様が私たちに出会ってくださるとき、そのときに、その喜びをあなた方から奪い去る者はいない、というのです。今から経験する大きな大きな悲しみ、苦しみ、その辛いとき、その向こうに神様の恵みが豊かに現されると、イエス様はここで断言をしておられるのであります。

 

 そして23節でこう言われます。

 「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。」

 もう、聞くことが何もないという意味ですね。これは、この最後の晩のときに弟子たちがイエス様に対していろんなことを疑問を感じて尋ねている、また弟子たち同士で困惑しながら話合っている、その様子を見ながら言われたことであります。

 このときには弟子たちは、何もわかっていなかった、だから、いろんな尋ねたいことが一杯ある、しかし、そのときが来たならば、もはや尋ねることはない、というのです。

 

 すべてが完成され、すべてが満ち満ちたとき、神の恵みが満ち満ちたとき、もうあなたたちは何も尋ねる必要がなくなると言われるのです。

 そして最後に、こう言われます。

 「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうれすば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

 ここでイエス様は、おそらく弟子たちにとっては意外に思えることを言っているのだと思います。というのは、弟子たちは、これから何が起こるのだろうか、という何とも言えない不思議な気持ちと言いますか、イエス様の言っていることがわからなくて、これから何が起こるかわからないと思っていた、そのときにイエス様が答えられた言葉の最後は、「願いなさい」ということだったのです。

 これから何が起こるとか、あなたたちはどういう態度でいるべきか、という、これからイエス様が捕らえられて十字架につけられる、という、考えてもいなかったような恐ろしいことが起こる、そのことを前にしてイエス様が言われたのは「願いなさい」ということでした。

 

 悲しみ、苦しみ、痛みがある、この大きなときがやってくる。そのときを前にして、イエス様は弟子たちに対して「願いなさい」と言っているのであります。大きな悲しみがやってくる、にも関わらずイエス様は「願いなさい」と弟子たちに言われました。

 「願いなさい。そうれすば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

 それは単に自分の願望、自分の欲望、欲求というものを神に願うという、そういう意味ではありません。24節にあるように、「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった」とあります。今までは、イエス様の名を通して願っていたのではなく、自分の願いを願っていた。しかしこれからは、自分の願いを願うのではなくて、私を通して、つまり主イエス・キリストを通して願う。

 それは主イエス・キリストに自分の願いを託すということであり、主イエス・キリストに願いを託すにふさわしいことを願う、というのであります。単に自分の欲求を満たすための願いではなく、イエス・キリストとこの私というものが重なるところで願う。そのときに、必ずその願いはかなえられる。願ったものが与えられ、喜びで満たされるというのであります。

 ここでイエス様がこのように言われているときに、それは単にイエス・キリストという名前を、一つのおまじないのように使って、それで祈ったらいいと言っているのではありません。

 

 次の日には十字架につけられて殺されていく、無残にそこで死なれる、その弱く小さな存在、人となられた神の子であり、この世の中にあって死なれた方、その方が三日の後によみがえられる、そのイエス様を通して願う、ということであります。

 

 それは、絶望が希望へと変えられていく、その神様の御心がある。絶望から希望へと変わりゆく、そのことが神様の御心であって、そのイエス様の名を通して願う、ということであります。

 

 それは、どんなに大きな絶望の前であったとしたって、その絶望は神様によって希望へと変えられる。そのことを信じてイエスの名を通して願う、ということであります。

 以上が今日の箇所の大枠であります。皆様は、この箇所を読んで何を思われたでありましょうか。それは人それぞれにみんな違うと思いますけれど、私は今日の箇所を読む中でひとつの言葉に目が止まりました。それは20節の言葉です。

 「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。」この言葉が私の心にとまりました。なぜかと言いますと、ここには「世は喜ぶ」という言葉があります。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、「世は喜ぶ」、これはどういうことでしょうか。

 

 イエス様が捕らえられて十字架につけられて死なれた、殺されたという、本当にもう泣いて泣いて悲嘆に暮れるしかないのに、「世は喜ぶ」というのはどういうことでしょうか。

 

 私が最初に読んだときには、このイエス様の弟子たちは悲しいけれども、イエス様を十字架につけた人たちは喜ぶ、つまり世というのは人間のドロドロした欲望、神を否定し、自らを神として生きている人間たちの集まりである世の中というものが、喜ぶ、そういう意味であるかと最初は思ったのです。

 イエス様の弟子たち、近くにいた人たちはみんな悲しむけれど、世間一般の人たちは、ああイエスは十字架にかけられて死んだんだ、神の子だと言っていたのに結局ただの人間だったじゃないか、とあざ笑って喜ぶ、そんなイメージを最初は抱いたのです。

 

 しかし、今日の箇所でイエス様の言葉を読んでいくと、そうではないということにすぐに気がつきます。というのは、今日の箇所においては、悲しみが喜びに変わる、という20節後半に書いてある、そのことがテーマであるということなのですね。ということは、ここで「世は喜ぶ」と言われていることは、弟子たちとは違う一般の世間の冷たい人たちが喜ぶ、という意味ではないのです。

 

 ではどういう意味かといいますと、これはヨハネによる福音書の特徴なのですが、「世」と言う言葉が一つのキーワードなのです。世(よ)。世間の世、また世界の世というように、世という言葉はいろんな意味で使います。

 一般的に言えば、たとえば「あの世とこの世」という言い方があります。あるいは「世間とはこういうものだよ」というときには、現実ということを指しています。いろんな使われ方があるのですけれど、ヨハネによる福音書で「世」という言葉が出てくるときに、それは「神様が愛されたこの世界」という意味を持っています。

 ヨハネによる福音書の3章16節には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉があります。神の独り子、主イエス・キリストを神様は世に与えられたほどに、世を愛された、というのであります。

 

 世というのは、一般の世間の冷たい人たちがいる、神を知らない、神に逆らう、そういう人間の集合体としての世ということを言っているのではなくて、もちろん、みんな罪人なんだけれども、その罪人が寄って集まってできている世というものを、神様は愛された。どんなにそこに問題があったとしても、そこには神様が作ってくださった、創造なされた人間が生きている世というものがある。

 

 その、世というものが喜ぶ、ということを20節は言っているのです。ということは、この20節の言葉は、こういうふうに言うことができます。イエス様が捕らえられ、そして十字架につけられて死なれることによって、弟子たちは泣いて悲嘆に暮れる。しかし、神様が愛されているこの世、世界全体は喜ぶ。そういうことになります。

 

 すると、それはどういうことでしょうか。それは、目の前のこととしては、イエス様の十字架の死ということは、弟子たちにとって本当に耐えられない、自分の死と同様に苦しい、本当に耐えられないことである。しかし、その死を通して、人間の生きているこの世界全体は、神様によって希望へと変えられていく、ということであります。

 

 弟子たちは悲しみ、苦しむ。しかし、その悲しみ、苦しみを通して、その向こうに神様の大きな恵みが現されるので、世界全体、人間の世の全体は喜ぶのです。

 このことは、いま私たちが日曜日にこうして京北教会に集まって礼拝していますけれど、そのことの意味も表しているように思います。私たちがいま礼拝で聖書の言葉を読み、イエス・キリストの受難を聖書から教えられ、いろんなことを考えます。それは世の中にあって、本当に小さな小さな場であるとは思います。

 

 そして私たちは、この教会でイエス様の苦しみを思い、また人間が生きることの苦しみを思います。そこには、辛さがあります。しかし、その辛さということを経験することによって、教会は世界全体に対して神様の御心というものを確かに伝えているのですね。そのことによって、まことの平和というものをこの世界に私たちは伝えているのです。

 

 この広い世界の中にあって、教会というものは本当に小さな場に見えると思います。しかし、この教会というものがあって、そこで祈りが献げられるときに、それは世の全体の喜びのために、私たちは、今日ここに集まっているのだ、そういうことも言えるのです。

 

 もちろん、そのように意識することは少ないと思います。「世界のすべての人のために教会に行こう」と思って礼拝に来たわけではない、という方が多いと思います。けれども、聖書の言葉によれば、弟子たちは「泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ」と言われるときに、それは、私たちがしている小さな小さな世界の事柄というものが、世界全体の喜びにつながっていっている。

 今、主イエス・キリストの十字架のことを知り、そして自分自身の苦しみを思いつつ、また、コロナ問題であったり、ウクライナの戦争であったり、世界中のあらゆる本当に悲しい出来事を思い起こし、そして人間の罪を思って悔い改めている私たちの姿、それは、悲しみの中にある姿であると共に、そのことによって世界全体にまことの平和を告げ知らせている、そういう存在であるのです。

 

 今日の箇所を読むときに私たちは、イエス・キリストの十字架の苦しみというものが、世界の希望へとつながっていくということを思います。けれども、なぜ、イエス・キリストの十字架が世界の希望へとつながっていくのか、ということを理屈で説明することは中々難しいですね。

 そんな悲しいこと、そして2000年前に世界の片隅で起こったこと、一人の人の死、それがなぜ世界の希望になっていくのか。そのことを論理的に説明しなさい、と言われたら、私も牧師をやっていますけれども、はっきりとはうまくいう自信とは何もないのですね。

 

 けれども、聖書を読んでいるといろんなことを教えられます。それは何かというと、「世というのは、そんな一筋縄には行きませんよ」ということです。こんな素晴らしい考え方がありますよ、これを実行したらみんな幸せになりますよ、そう言われるとき、それは本当なのでしょうか。

 

 科学の進歩であったり、あるいは宗教の教えであったり、あるいは国と国との取り決めであったり、あるいは文化や芸術のことであったり、この方向に行ったらきっと良いことがあるよ、みんな平和になるよ、と言われることもありますけれど、しかし実際の世界は、そんな一筋縄には行きません。

 紆余曲折し、失敗し、後退し、立ち止まり、一体何をしたらいいかわからなくなっていく、それがこの世というものの現実なのですね。そんな現実の中で、一体どこに私たちの本当の灯し火があるのだろうか、と迷う私たちに対して、神様は聖書をくださいました。そして福音書をくださり、そして今日の聖書の言葉を下さっているのであります。そして、その言葉を通して、私たちは神様の御心に出会うのです。

 イエス・キリストが十字架の死を前にして、私たちにおっしゃいました。「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると見るようになる。」

 それは、神の御心との出会いと別れ、ということを示しています。私たちは自分の人生を考えるときに、はっきりとした希望が持てないときがあります。そのような中で神様は御心を示してくださいます。けれども、その示された御心の通りに生きることができない、というところで私たちは迷います。そしていつしか神様の御心を見失ってしまうことがあるのです。

 

 けれども、そんな私たちがまた神様の御心に出会う。そんなことがあります。神様から与えられている一人ひとりの人生というものは、その中に出会いと別れ、そしてもう一度再開する、そうしたことを繰り返し、導いてくださる。そういうものなのです。

 それは、なぜそうなっているのか、と言われたら、私は説明のしようがありません。ただ、経験として、そういうものであると知っています。そういうものであると感じています。そうとしか言えません。

 聖書の言葉っていうのも、そういう性質があるのですね。論理的に、これがなぜこうなるのか、ということが誰にでもスカッとわかるような形で示す、というのではないのです。決して一筋縄では行かない、この人間の世にあって、それでも神様はイエス・キリストを私たちにくださった、そのイエス・キリストの名によって願いなさい。そうすれば与えられ、喜びで満たされるとイエス様はおっしゃいました。

 

 私たちの希望というものは、イエス様が十字架につけられて死なれたように、あっという間に朽ちていく、そういう弱いものでもありました。それは人間という存在が本当に小さく弱いものであるからです。

 

 何を願ったって、何を祈ったって、ダメだったじゃないか。やっぱり戦争は終わらないし、止まらないし、コロナは流行るし、私の健康だってどうなるかわからない。いろんなことを考えるのです。けれどもそんな中にあって、イエス様は「わたしの名によって願いなさい」と教えられています。

 

 それは、こういうふうに言うことができます。「私があなたたちの、あなたの、代理人になるから、わたしの名によって願っていいのだよ」と。イエス様は私たちと神様の間に立って、とりなして下さる方です。神様の前から離れてしまって、罪人として神様から目をそむけて、神様との関係がまっすぐではなくなった私たちが、間にイエス様が入ってくださることによって、もう一度神様との関係がまっすぐになる。

 そのことによって、本当の自分というものを取り戻していく。それが聖書のメッセージであり、イエス・キリストの福音のメッセージなのであります。

 けれども、そのときにただ神様との関係がまっすぐに戻るというだけではなくて、その私たちを神様にもう一度引き戻して下さったイエス様が、私たちの代理になって、この世にあって、私たちを導いてくださる。いろんなことをなしてくださる、ということを語っておられるのであります。

 

 そうしたイエス様の言葉を聞いて、何を願ったらいいのでしょうか。それは、単に自分の要求、自分の思いを神様にぶつけるだけではなくて、イエス様と一緒に願う、イエス様と一緒に何かをなしていく、そのことにふさわしい自分の願いというものを持ちたい、そう願うものであります。


 お祈りをいたします。
 天の神様。年度の最後の日曜日を迎えました。この1年間を振り返るときに、いろいろなことがあり、不安なこともありました。その中で今日の日を迎えていることを心より感謝します。来週の4月から新しい年度に入り、また新しい気持ちで歩んでいきます。いま、この世にあっては、桜が咲いています。本当に新しい時が来る、春を迎えていろんな人生の出発をしていく、その中では、悲しみもありますが、また怒り、苦しみもありますが、しかし、その中にあっても「願いなさい」と言われたイエス様の言葉を信じて、歩んでいくことができますように、お願いをいたします。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。