京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

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2023年2月の説教

2023年2月の説教

 2023年2月 12日(日) 2月19日(日) 2月26日(日)  説教

「夢は何もできない時、見る」 
 2023年2月12日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  創世記 37章 1〜11節 (新共同訳)

 

 ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいた。

 ヤコブの家族の由来は次のとおりである。
 ヨセフは十七歳のとき、兄たちと羊の群れを飼っていた。
 まだ若く、父の側女(そばめ)ビルハやジルバの子供たちと一緒にいた。
 ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した。

 イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、
 彼には裾(すそ)の長い晴れ着を作ってやった。

 兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、
 ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。

 ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、
 彼らはますます憎むようになった。

 ヨセフは言った。
 「聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。
  畑でわたしたちが束を結(ゆ)わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、
  まっすぐに立ったのです。
  すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」

 兄たちはヨセフに言った。
 「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか。」
 兄たちは夢とその言葉のために、ヨセフをますます憎んだ。

 ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄たちに話した。
 「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」

 今度は兄たちだけでなく、父にも話した。

 父はヨセフを叱って言った。
 「一体どういうことだ、お前が見たその夢は。
  わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、
  地面にひれ伏すというのか。」


 兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。

   

 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
  改行などの文章配置を説教者が変えています。
  新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 毎週の礼拝において、福音書使徒パウロの手紙、旧約聖書、その3箇所から選んで順番に読んでいます。今日の箇所は、旧約聖書の創世記37章1〜11節であります。

 ここには「ヨセフの夢」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは元々の聖書にはないものであります。新共同訳聖書が作られるとき、読み手の便宜のために付けられたものです。

 今日の箇所には、ヨセフが夢を見るという話があります。今日の箇所を皆様と共に先ほど読みました。今日の聖書箇所の中で、何か感動的な言葉というものがあったでしょうか。

 ふだん、礼拝で読む聖書箇所を選ぶときに、いろんな箇所を選んでいるのですけれど、その中に何か心に残る言葉、感動的な言葉、あるいは「聖句」、聖書の句ということでよく知られている言葉、そうした言葉が入っている箇所を、なるべく選びたいと考えています。しかし、今日の箇所を読まれて、何か、この言葉が感動する、心に残るという言葉があったでしょうか。

 それは人それぞれなのでありますが、私は、今日の箇所を選ぶときにちょっと迷ったのは、ここには読んで感動するところが一つもないなあ、ということでした。この言葉が良いよ、と人に言える箇所が私には特にない箇所です。

 では、なぜ、この箇所を選んだかというと、この箇所は旧約聖書の創世記にあって、ヨセフという登場人物、その人が中心になって展開する「ヨセフ物語」と言われていますが、その物語の発端になる場面だからです。

 旧約聖書の中に登場する人物で、重要な人物の名前は、まずアブラハム、イサク、ヤコブ、この親・子・孫の三代の人たちであります。この3人がイスラエルという民族、国の一番発端となった最初の部族の族長の血筋である、ということで創世記において非常に重要であります。

 そして、その時代からとても時間が経ってイエス様の時代になっても、このアブラハム、イサク、ヤコブという人たちの名前は非常に重要なものとして語られています。そして、今日の箇所に登場するヨセフとは、さらにヤコブの子どもであるので、とても重要な人物です。

 そしてこのヨセフは波瀾万丈な生涯を送ります。創世記37章に始まって50章まで、ヨセフを中心とした物語が続いていきます。ですから、創世記の後半の3分の1は、ヨセフの物語なのですね。今日、皆様と共に読みました箇所というのは、そのヨセフ物語の発端の箇所なのです。ここの中には、特に何かの名言というか、素晴らしい言葉が何かあるわけではありません。

 けれども、ここからヨセフの物語がずーっと続いていくという意味で、とても大事な箇所なのです。ですから、今日の箇所を読まれたら、私が皆さんにお勧めするのは、今日の箇所だけではなくて、今日の箇所から始まるヨセフ物語がどんな物語であるか、ということを皆様はそれぞれにご自分で読んでいただけたら幸いに思います。

 ヨセフの物語というのは、波瀾万丈の物語であります。けれども、聖書としてヨセフの物語を読むときには、単に物語りとして波瀾万丈であるとか、おもしろいということと同時に、神様はこのヨセフ物語を通して、聖書を読む私たちに何を伝えようとしているのか、ということも考えていただけたら幸いです。

 ヨセフの物語を通して何が言われているか、それはまさに1人ひとり受け取り方があると思います。

 今日の箇所は、その物語に入っていく一番発端の所です。ヤコブの家族の物語があります。3節の所にイスラエルという言葉が突然出てきていますが、イスラエルというのはヤコブという人の別名なのです。ヤコブは、もう一つの名前としてイスラエルという名を持っていた。それが今のイスラエルという民族、国の名前につながっているのですが、ここではヤコブという人の別名です。

 

 そしてヤコブは、末っ子であるヨセフを、ここではヨセフが「年寄り子であったので」かわいがりと書かれています。かわいかったわけです。そうした家族の関係のことがあり、そのなかでヨセフと兄たち、家族たちとの関係ということが言われているのです。

 その関係というものが、変わっていく、崩れていくのです。それはなぜかというと、ヨセフが夢を見たからです。今日の箇所で「ヨセフは夢を見て、それを兄に語ったので、彼らはますます憎むようになった」とあります。
 
 「ヨセフは言った。『聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結(ゆ)わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。』」

 ヨセフは正直な少年だったのだと思います。自分が見た夢を率直に語っています。それがどんな夢だったかというと、こんな夢でしたと言うのです。「畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」

 

 ヨセフはおそらく、自分が見た夢の通りに語っているのでしょうけれど、このような言葉を聴いて何を思うかというと、ヨセフの束の前で兄弟たちの束がみんなひれ伏しているというのは、実はヨセフが兄弟の中で一番秀でているというか、上に立っているということを示していることに聞こえます。

 兄たちは怒りました。「兄たちはヨセフに言った。『なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか。』兄たちは夢とその言葉のために、ヨセフをますます憎んだ」とあります。その夢の以前から、他の兄弟とヨセフの間には確執のようなものがあったということが、書かれています。しかし、ヨセフがこうした言葉を言うことで、「ますます憎んだ」とあります。

 

 さらにこう続きます。「ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄たちに話した。『わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。』今度は兄たちだけでなく、父にも話した。父はヨセフを叱って言った。『一体どういうことだ、お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか。』兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。」

 ヨセフの見た夢では、この太陽と月というのが、父と母。十一の星というのが兄弟たち。兄弟たちだけでなく父と母も。そのように聞こえますね、普通に考えれば。しかし、ヨセフ自身はそんな思いがあったのかどうか。今日の箇所を読む限り、ヨセフが何を思っていたかということはわかりませんけれど、実際この通り見たのでありましょう。

 

 今度は兄弟だけでなく父にも話した、とありますから、ヨセフは何を考えていたのかと思います。一回目の夢を見たときに、それを話したら兄たちが怒った、そのことを意に介さないように、見た夢をまた正直に語った。

 最後にはこうあります。「兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。」兄たちはヨセフの言葉に腹を立てていましたが、父はちょっと違った思いでいたようです。ヨセフの見たこの夢はどういう意味なのだろうか、と。

 今日の聖書箇所はここまでです。ここに何かの感動的な物語があるということではありません。逆に、兄弟が弟を憎む、父も母も怒るという、家族の険悪な関係がこのヨセフの夢から生まれてくるということで、読んでいて何かよろしくないといいますか、不穏な空気が生まれてくる箇所であります。

 ここで、夢とは一体何であるか、ということを少し考えてみたいと思います。新約聖書では夢とはどんなところで出てくるでしょうか。ヨセフという名前でいきますと、ヨセフといいなずけのマリアがいて、結婚するはずだったのですが、聖霊によって身ごもっていることがわかったので、ヨセフは正しい人だったので、密かに縁を切ることにした、ということがマタイによる福音書の冒頭に書いてあります。

 そのとき、天使が夢に現れて言いました。「ヨセフよ、恐れずにマリアを迎えなさい。」そして、その夢の中で示された言葉によって、ヨセフはマリアと一緒にいることになります。そして、イエス様が誕生なさった。このときに夢を見るということがなければ、ヨセフはマリアと離れていたのでありましょう。すると、マリアとイエス様はどうなっていたのか。想像がつきません。

 夢を見ることによって救われた、神様のメッセージを聞くことができた。そういう話がそこにあります。今日の創世記の箇所ではどうでしょうか。このヨセフの見た二つの夢が、神様から与えられたメッセージであるとしたならば、ヨセフはこうして正直に全部語ったということは、神様のメッセージをみんなに伝えたわけですから、預言をした、神様の言葉を預かって語るという意味での預言をしたといってよいはずなのであります。

 しかし、良いことのはずなのに、人を怒らせ、関係を崩していきます。結果、何が起こるかというと、新共同訳聖書の小見出しでは、「ヨセフ、エジプトに売られる」と書いてあって、大変なことになってきます。こんなことが起こるとすれば、夢というのは本当に恐ろしいもの、人の人生を変えてしまうものであります。

 ヨセフは、こんな夢を見ても、それを人に語らなかったら良かったんじゃないのか。そんな気もします。夢というものは……どういうものでありましょうか。

 現代に生きている私たちは、夢という言葉を使うときは、いろいろな意味で使います。寝ていて見る夢というものもありますが、それとは別に「私の夢は何々です」と語るときに使う、私の希望とか、ビジョン、見通しとか、そういう希望ですね。そうして夢という言葉を語ることもあります。

 一方で、「ああ、それは夢だったね」とか、「夢が終わったわ」というふうに、ガッカリした感じで語るときもあります。そういうときは何と言うか、幻というのでしょうか。実現するかもしれないと思っていたけれど、ちっともそうじゃなかった、という、ある種の空しい、はかないもの、そうした人間の何かのやるせなさというものを、ちょっとユーモアを含んで伝える言葉。夢、というのはそういう言葉でもあります。

 おそらく、皆さん一人ひとりに夢を見た経験があり、夢という言葉をいろんな形で使ってきたことがあるのではないでしょうか。今日の箇所を読みながら、私は自分自身が見た夢というものを思い出して来ました。私はどんな夢を見たかな、ということを思い出しますと、怖かった夢というものをいくつか覚えています。

 意味不明なのですけれど、屋根の上に私が寝転んでいるのです。斜めになっている屋根なのですが、ゴロゴロと転がって落ちそうになるのですけれど、落ちそうになると、なぜか逆に屋根の上のほうにゴロゴロと転がって戻るのです。それで、ああ助かった、と思うと、またそこから下にゴロゴロと転がっていく。それを何度か繰り返したあとに、今度はもう下に転がり落ちていって止まらなかったので、もう下に落ちてしまう、という所で「あーっ」と思った所で目が覚める、ということがありました。

 起きたときには、もう怖くて汗をかいていたと思うのですけれど、なんでこんな夢を見たのだろう、と思うのです。今日の箇所でヨセフが見たような、何かの意味がある夢ではなくて、ただ私が苦しむ夢、そんな夢をなんで見たのかと思います。

 

 そんな夢もあれば、またこんな夢も見ました。これも怖い夢ですけれど、大学の単位がとれなくて留年するという夢なのです。しかも体育の単位だと思いますけれど、もうだめです、留年です、と言われて、ものすごく気が動転しているのです。

 しかし、その中で自分は今どこにいるのか、と考えたのです。教会の牧師館に住んでいる、ということは私は今牧師をしている、ということは私はもう大学は出たはずだ、と自分の頭の中で事実関係をたぐって、ああこれは夢だった、というふうに、自分の中で論理的にこれは夢だったということが説明できたときに初めて、やっと安心したことがありました。

 そんな夢を20代や30代のころに見ました。40代になると、さすがにそんな夢は見なくなりましたけれども、何かそこには、自分が経験した恐怖感みたいなものが再現されているのかなあ、という気もいたしました。

 そうした夢というのは怖い夢なのですけれども、ちょっといい夢かな? と自分で思う夢を見たこともあります。それはどんな夢かというと、ごく単純な夢なのですけれども、以前に私がいた教会で一人医者の方がいらっしゃって、その方が夢に出てくるのです。そして私にはこう言ったのです。「今井さんは、医者にはなれないけれど、医者みたいな人になるよ」と言ったのです。

 ただそれだけの夢なのですけれども、その夢を見たときに、私は非常に自分の将来というか、自分の今後の行く先に関してすごく悩んでいた時期だったのですね。ですから、そのときに見た夢、本当に単純な夢なのですけれども、医者の方が出てきて、そう言った言葉、何かその言葉が、朝起きたときに、何でこんな夢を見たんやろう、と思いながら、何か少し心が温かくなるような、そんな思いをしたことを覚えています。たまに、その夢を見たということを思い起こすときがあります。

 さて、いろいろな夢の話をしました。夢というのは、いろんな形で出てきます。気をつけなければいけないのは、自然災害とか、大きな事件や事故、悲しいことが起きたときにフラッシュバックとしてよみがえってくる、そういう非常に厳しい、きつい経験というものがありますね。いま私が語っているのは、そうしたことではなくて、もっと一般的な夢ということであることをお断りしておきます。

 夢というのは一体何のために見ているのか、というと、それはわからないものですね。医学的には、夢というのは寝付きが浅いから見ているだけということのようです。夢を見たから何かあるということではなくて、よく眠れない、眠りが浅いから夢を見る。熟睡しているときは夢を見ないそうで、要は、悩みごとがあったり、いろんな健康事情の問題があって、眠りが浅いときに、夢を見てしまう、という程度のことなのかなあ、というふうに私は思っています。

 けれども、聖書の中で、この夢という言葉が出てくるときに、そうした、医学的にどうとかという話ではなくて、夢っていうのは、その人が自分が持っていることを語るのではなくて、その人の中にあるけれど、その人自らがまだ気がついていないもの、その人自身が知らない何かを教えてくれるものとして、この夢というものが登場します。

 マタイによる福音書にある、ヨセフとマリアの話の中で、ヨセフが見た夢の話でいえば、ヨセフは最初、マリアと縁を切ろうと思っていました。正しい人だから、正義感、倫理感によって、また信仰的に正しい判断をしようとしていたのです。その信仰的に正しい判断について、夢の中で天使から聞いた言葉によって、自分の判断を変えることになります。

 

 それは、ヨセフがそれまで信じていた正しい考え方、倫理観、聖書に基づいた信仰的な考え方、律法に基づいた信仰的な考え方、それによって当然こうだ、と思っている結論ではない結論がある、ということを夢によって知らされたのです。

 そのとき、ヨセフは「変な夢を見たなあ」といって終わるのではなくて、夢で見たことを元にして自分の判断をいたしました。それはヨセフにとっても大変なことだったと思うのです。けれども、ヨセフは単に夢でそんなふうに天使の言葉を聞いたから、じゃあそうしましょう、とロボットのように判断したのではなくて、思い悩みながら、しかし、そうした決断をしたのではないかと私は思います。

 それは、その天使の言葉を聞いたときに、ヨセフは自分の中で迷うものがすごくあったけれど、実はヨセフ自身が、こんなふうにマリアと縁を切っていいのだろうか、と思っていたはずなのですね。こんなふうにマリアと縁を切っていいのだろうか、という思いが、自分の心の陰にあったからこそ、天使の言葉を聞いたときに、そうか、じゃあ、そうしよう、とヨセフは決意することができたのです。

 

 そういう意味で夢というのは、その人の心の中にある、陰に伏せている部分、そこに光を当てる力があるようです。では、今日の創世記の箇所では、どうでしょうか。ヨセフの心の中に、自分はお兄さんたちの上に立つ、またお父さんやお母さんよりも上に立つ、そんな支配欲があったのでしょうか。そうは考えにくいです。ヨセフは聖書の中では、そういう人物としては書かれていません。

 しかしヨセフはなぜ、ここでこんな夢を見たのでしょう。そして、正直といいますか、見たことをすべて語ったのでしょうか。そこには、聖書的な言い方をすれば、神様の御計画があった。そういうふうに言えると思います。

 ヨセフがもう少し気が利く人であれば、そんな夢を見ても、これは私の心の中にしまっておこうと考えることもできたでしょう。けれど、ヨセフは言葉にしました。夢で見たことは、きっと何かあるんだ、神様からのメッセージだ、と思ったのです。

 そのメッセージを、他の兄弟たちが好意的に受け止めてくれたら良かったのですね。そうか、末っ子のヨセフ、お前が俺たちの上に立つのか、わかったよ。俺たちみんなでお前を盛り立てて行こう。そんなことを言ってくれる兄弟たちだったら良かった。けれどそんなふうにはなりませんでした。当然ですね。一番末っ子が一番上に立つなんて、いい加減にしろ。兄たちの怒りももっともです。

 そのあとヨセフは、また2回目の夢で、今度はお父さんにも夢の話をします。父も母も自分にひれ伏す。こんなことを言うのはヨセフが1回目の夢でのことを学習していないようですが、ヨセフは語ります。神様からのメッセージというのは、こうした気が利くとか、学習するとか、分別がつくとか、そうした人間の抑制的な、抑える心というものをひっくり返して、外に出てくるものですね。

 そして、そのことによって、ヨセフと兄たちの関係は崩れていくのです。そして、ヨセフ自身も本当に自分の命を失うかもしれないほどの、大変な苦労をしていくことになります。けれども、そうしたこともまた、神様の御計画であったということを、聖書は私たちに語っているのであります。

 今日の説教題は「夢は何もできない時に、見る」と題しました。私たちが夢を見ているときは、本当に何もできない時であります。しかし、そういう時に神様からのメッセージがやってくる。それは、とても大きなことを私たちに教えてれています。というのは、私自身が自分の力を持って、私はこうしたい、こうやりたいんだ、と力が満ちているときには、自分の頭の中にはいろんなことが浮かんできて、やるぞやるぞ、と燃えているとき、そうしたときには夢は見ないのです。

 

 そういうときに見ている夢は夢なのでしょうか。願望であったり希望であったり、そういうものは、もちろん大切であります。けれども、そうした人間の思いが打ち砕かれたときに、「ああ、あれは夢だったな」と思うときに、やるせなくため息をつきながら言う、それもまた夢なのです。

 聖書が教えている夢とは、そうした人間の作り出す夢とか、あるいはそのあとに壊れてしまった夢ということではなくて、神様から与えられることを指しています。そして、その夢が与えられたら、それを実行することにします。そのことによって波紋が起き、 最終的にはそれは神様の御計画の中にあったことなんだ、と思える、その人生をヨセフはこのあとずーっと、長い年月をかけながら、歩んでいくのですね。

 

 私たちが聖書から学んでいることも、同じではないでしょうか。この世界には戦争があり、自然災害があります。どこにも希望がないような、私たちがもう本当に何もできないよ、という気持ちになることがあります。

 政治的な抑圧、本当に専制国家と呼ばれる国の中で、国民がみんな見張り合っている社会の中で、いったいどこに希望を持ったらいいのか、そんな、どこにも希望がないような世界の中にあっても、しかし、人が夢を見るということを止めることは、どんな権力者でもできないことです。そこには、神様がなされる領域、神様が愛される領域というものが確かにあります。一人ひとりの人間の中にあります。

 何にもできないときにだけ、夢を見ることができます。本当の神様のメッセージをそこで聞くときに、私たちは、ためらっていてはいけないのです。

 

 お祈りをいたします。
 天の神様、今日集まった一人ひとり、そして今日ここに来ることのできなかったたくさんの方々を覚えて、神様の恵みをお祈り染ます。私たち一人ひとりの力は小さく、本当についえていくような思いのときに、まことの夢を見させてください。神様自身が私たち一人ひとりに語ってください。私たちがその言葉を、心を開いて聞くことができますように、お祈りします。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

 

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「祈る私の家、教会」 
    2023年2月19日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  マルコによる福音書 11章 12〜19節 (新共同訳)

 

 翌日、一行がベタニアを出るとき、

 イエスは空腹を覚えられた。

 

 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、

 実がなってはいないかと近寄られたが、

 葉のほかは何もなかった。

 いちじくの季節ではなかったからである。

 

 イエスはその木に向かって、

 「今から後いつまでも、

  お前から実を食べる者がないように」と言われた。

 弟子たちはこれを聞いていた。

 

 それから、一行はエルサレムに来た。

 イエスは神殿の境内に入り、

 そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、

 両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。

 

 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。

 そして、人々に教えて言われた。


 「こう書いてあるではないか。
  『わたしの家は、すべての国の人の
   祈りの家と呼ばれるべきである。』
  ところが、あなたたちは
       それを強盗の巣にしてしまった。」


 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、

 イエスをどのようにして殺そうかと謀(はか)った。


 群衆が皆その教えに打たれていたので、

 彼らはイエスを恐れたからである。

 

 夕方になると、

 イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。 




 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
  改行などの文章配置を説教者が変えています。
  新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 毎週の礼拝において、福音書使徒パウロの手紙、旧約聖書、その3箇所から選んで順番に読んでいます。今日の箇所は、マルコによる福音書 11章であります。

 今日の箇所は新共同訳聖書では二つのかたまりに別れています。一つ目に「いちじくの木を呪う」、そして二つ目に「神殿から商人を追い出す」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは元々の聖書にはなく、新共同訳聖書が作られるとき、読み手の便宜のために付けられたものです。

 

 最初の「いちじくの木を呪う」とある所は、今日の箇所のあとの20節、そこには「枯れたいちじくの教訓」という小見出しが付いていますが、そこにつながっています。つまり、いちじくの木の話というものがあって、それを二つに割って、その二つの間に、この「神殿から商人を追い出す」という話がはさみこまれる形になっています。

  

 こういう形で、いちじくの木があって、それが後で枯れたという時間の経過が表現されているわけです。こうした形をとるときに、いちじくの木の話と神殿での話は、全く無関係な話ではなくて、この二つがこういう形で関係付けられているということを、私たちはまず念頭に置きたいと思います。

 

 今日の箇所にどういうことが書いてあるか、見て行きます。
 「翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた」とあります。翌日、というのは、前日にイエス様の一行が都エルサレムに入ってこられた、そのときのことです。

 イエス様が都エルサレムに入ってこられたとき、それは人々がイエス様を都に迎えて、そして人々がイエス様に大きな期待をしたときでありました。ガリラヤという広い辺境の地、それはユダヤの中心地から見れば辺境と思われていた地域、そこから旅をして、そして各地を回り、国の中心地である都エルサレムにやってきたのです。

 ということは、ここからイエス様の福音が新しく、イエス様を中心として、イエス様を本当のリーダーとして、今はローマ帝国の植民地とされている自分たちの国が解放される、新しい時代を迎える、そうしたことを当時の人たちはイエス様に対して期待をしていたのであります。

 

 もちろん、そのような人々の期待というものは、とても人間的な期待であって、それは実際のイエス様の姿、様子とは異なっていました。

 イエス様が述べ伝えられたのは「神の国の福音」であって、決して人間的な計算、政治や経済や軍事を含めた社会全体の変革、そのためにイエス様が立ち上がるということではなく、「神の国の福音」というものを告げ知らせるということによって、イエス様はこの時代を新しくされたのであります。

 そうしたイエス様と当時の人たちの期待は、食い違っていたのでありますが、その食い違ったままに現実は進んでいきます。イエス様が都エルサレムに入って来られたときに、イエス様は小さな子ロバに乗って来られました。子どものロバであります。本当の王様であれば強い馬に乗って来られるところを、イエス様はご自身で子どものろばを選ばれました。

 

 それは、イエス様ご自身が、馬に乗ってやってくる強い王様、軍隊を従えた王様ではなく、むしろ人の重荷を背負う、荷物を背負うロバ、その子どものロバの上に乗ることによって、イエス様はご自身がどういう方であるかということを示しておられたのであります。

 こうした箇所を読むときに、私たちはイエス様の十字架の苦しみということを思います。この都に入場したときから一週間の間に、状況は変わり、イエス様はとらえられて十字架につけられます。教会の暦では今週水曜日が「灰の水曜日」と言われる水曜日であり、その日から「受難節」に入っていきます。

 そのときにあたり、今日私たちはこの聖書箇所を読みます。イエス様が都エルサレムに入場された、その翌日というところから今日の箇所が始まっています。

 

 「翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、『今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように』と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。」

 この箇所を見ると、イエス様はお腹が減った。そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、いちじくの実がないかと見た。しかし、何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである、ということで、今の季節には実がなっていないというのは当たり前のことでありました。

 

 そうであるのに、イエス様はその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われたとあります。一体これはなぜでしょうか。その季節ではないので、実がなっていないのは当たり前です。なのに、ご自身がお腹が減っていて、食べたいけどそこになっていなかった、といって、もうこの木から誰も実を食べることがないようにと言われた。

 この話は、そのあとの20節以降でまた出てきて、このいちじくの木はあとで根元から枯れている、その様子を見た、ということが書いてあります。そして、どんどん話は続いていくのですが、この箇所を読むときに、私はこのいちじくの木の箇所を読んだときに、ものすごく理不尽な、といいますか、「何で?」と思ったことを思い返します。

 

 いちじくの実がなる季節なのに実がついていない、ということであれば、いちじくの木に向かって怒る、というイエス様の気持ちもわからなくはありません。

 けれども、その季節でなければいちじくの実がついていないのは当たり前なのに、怒られるというか、呪われるというか、そして枯れてしまうのですから、なんだかこのいちじくの木が可愛そうになっていく気がします。意味不明な箇所です。実際、いま読んでも意味不明だな、と思ってしまいます。

 しかし、こうした箇所は、マルコによる福音書の著者が、いちじくの木の話と神殿での話を組み合わせている、というところに注目したいと思うのです。

 つまり、このいちじくの木の話は、単にイエス様が身勝手でわがままだということを言っているわけではなく、ここに示されていることというのが、より中心的な事柄に結びつくときに、全く違う意味が現れてくる、その意味が現れてくる、ということなのです。

 では、今日の箇所の中心とは何でしょうか。15節から見ていきます。

 「それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」

 

 そして、その後どうなったかということが18節から書いてあります。

「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀(はか)った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。」

 

 神殿というのは、非常に大きなものであり、イスラエルの国中の人たちがやってきます。また、イスラエルの国の人たちだけではなくて、異邦人と呼ばれていた外国人の人たちもやってくる、そういう場でありました。神様を礼拝するために、ということであります。

 その大切な神殿、国にとって、宗教の信仰にとって最も大切な場所、そこにあってイエス様が、このようにして、そこで商売をしていた人たちの両替の台や椅子をひっくり返された。そのように神殿の秩序をひっくり返された。

 そしてイエス様が怒ったのです。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」これは、旧約聖書イザヤ書56章7節の言葉であります。神殿はすべての人の祈りの家であると、神様は言われています。

 「ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」とあります。強盗という言葉はずいぶんと厳しい言葉でありますが、ここでは、商売をする者、お金をもうける者のことが言われています。イエス様がこのようにして神殿で振る舞ったことは、大変なことでありました。

 それは、神聖な神殿の秩序をひっくり返すことでありました。しかし、イエス様はこのようにされること、また言われることを見聞きして群衆は、その教えに打たれていたとあります。なぜでしょうか。

 

 それは、神殿に対して人々の不満があったのだと思われます。それゆえ、律法学者たちはイエス様を問題だと思ったけれども、彼らはイエス様をそこで罰することができなかった。群衆たち、人々はイエス様を支持したということであります。

 ですので、律法学者や祭司たち、すなわち当時の宗教的な権力者たちは、いったんそこから離れて、どうやってイエスを殺そうか、この神殿の秩序をひっくり返す、つまり宗教の秩序を壊し、社会の秩序を壊す、そうした者を生かしておくわけにはいかない、そういう判断に至ったのであります。

 しかし、町の人たちが、そこにいる人たちがイエス様を支持している状態の中では、イエス様をどうすることもできない。そうした緊張関係が、ここでハッキリと生まれていたのであります。それ以前からあった緊張関係が、ここでハッキリとイエス様を捕らえて殺す、という本当に恐ろしいことへと向かっていったのであります。

 

 このように大変なことになっていく神殿の出来事でありましたけれども、では、なぜ、イエス様は、このようなことをなされたのでありましょうか。

 当時、神殿にはこうした商売をしている人たちがいました。それは、神殿に来られる人たちが献げ物をするからです。鳩、小さな鳥、羊や牛などの動物の肉、そうしたものの中で自分が献げるために一番良いものを献げる。

 

 お金のない人もいましたから、小さな鳥を買って献げる人もあれば、お金のある人は大きな動物の肉を買って献げることもありますそれが当時の礼拝の仕方でありました。

 現代の私たちの目から見たら、すごく素朴なことにも思えるかもしれませんけれども、旧約聖書を見ますと、自分たちの飼っている動物の中で一番良い肉を焼いて神様に献げる、すると、その焼いた肉の香りが天にのぼっていって、その香りをかいだ神様の怒りをなだめることができる、そのように考えていたのであります。

 

 そのために、自分たちの飼っている動物の中で一番良いものを献げる。そして祈りを献げる。それが当時の礼拝でした。神殿とは、そのような礼拝の場だったのです。

 

 ですから、神殿において鳩などの鳥や動物の肉を売る人たちは、必要な人たちでした。また、全国からたくさんの人が旅をして都にやってきますから、その人たちが神殿で礼拝をするための献げ物を買うときに両替をすることが必要でした。

 

 そうした意味で、このとき神殿でされていたのは、お金をもうけるための商売というよりも、やってくる人たちの必要に応じてなされていたことではないかとも思うのです。

 そのような犠牲の肉などの売り買いは、神殿の中で当時「異邦人の庭」と呼ばれていた場所で行われていました。この神殿の構造というものは、聖書の注解書を見ますと、ユダヤ人だけが入ることができる神殿の中心部と、その前の所にある「異邦人の庭」、そこまでは異邦人、外国人も入ることができる場所に、別れていたようであります。

 そして、両替とか犠牲の動物の肉を買うというような経済行為をするのは、「異邦人の庭」で行われていたようです。そこでは、異邦人、外国人とユダヤ人は礼拝する場所が違うという考え方があって、外国人が礼拝するための場所で商売がなされていたということです。

 そうした状況があってイエス様が怒られた、ということには、神殿というのは「すべての国の祈りの家」と呼ばれるような場所なのに、このときの神殿では商売がなされていて、神殿というものが、お金もうけの場になっている。しかも、それは神殿の中心部には入ることのできない異邦人、外国人の人たちの礼拝の場であるにもかかわらず、その場所でお金もうけをしていた。

 

 そうした神殿のあり方に対して、イエス様の怒りが現されていったと考えることができます。
ここで、イエス様がこのようにお怒りになられて、実力行使で人々の商売の台をひっくり返して、やっている商売をやめさせた。そういう行動がどういう意味であったか、という解釈はいろいろに考えることができます。

 当時の神殿にも、神殿を警備している神殿警察がいたので、こういうことをしたらイエス様はすぐに捕まったのではないだろうか、と考える人もいます。ですので、この神殿の中でこの通りにイエス様がされたのではなくて、ごく小さな範囲でこういうことをしたのではないかと考える人もいます。

 事実がどうであったのかということは、いまの時代の私たちは知るよしもなく、確かめることもできないのであります。今日の箇所を読むときに私が思うのは、イエス様はこうした神殿というものは礼拝する場所であるにもかかわらず、このように商売がなされていたということに怒ったということであります。

 じゃあ、そうした商売をやめていたら良かったのか、というと、そうではないだろう、と思います。「異邦人の庭」と呼ばれていた場所は異邦人の礼拝の場所だったから、そこの外で商売したら、イエス様から怒られることはなかっただろう、と言えるかというと、そういうことではないと思うのです。

 というのは、イエス様がこのようにされたときに、「群衆はみなその教えに打たれていた」と18節に書いてあるのです。そこには、単に神殿での物事の配置を、ちょっと変えたら良かったんだ、というような単純なことが言われているのではなくて、神殿というのは一体何なんだ、礼拝というのは一体何なんだ、というイエス様の、すごく大きな問いかけがあると思うのです。

 

 みんなで礼拝する場所なのに、いつの間にか、商売の場所になってしまっている。もちろん、それは必要に応じて、しかも礼拝に来る人たちの必要に応じて、そうなってきたのです。

 
 けれども、この神殿で商売をするということが生活の一部となり、社会の一部となり、当然の秩序隣っていく中で、本当に神殿ではちゃんと礼拝していたのだろうか、心から礼拝していたのだろうか。そして、礼拝する場であった神殿というものを、本当に人々にとって良い働きをしていたのだろうか。

 そういう、当時の宗教というもの、そのものに対するイエス様の、何て言いますか、怒りというものを私は感じるのですね。何か一部分をちょっといじったら、それでよくなるということではなくて、信仰って何だ、宗教って何だ、神殿って何だ、そういうイエス様の強い問いかけを感じるのです。

 当時の神殿には、そうして、ユダヤ人と異邦人を妨げる壁というものがありました。異邦人で神殿にやってくる人というのは、ユダヤ人ではないけれども、聖書を読んで、聖書の信仰を持った人たちであります。そうした人たちが神殿に来ても、一番中心の所には入ることができない。

 そうして異邦人たちを差別するものがあった。そのような神殿のあり方が問われています。そこで商売をしている、それが当たり前になっいる。そうしたことが問われています。

 

 神殿に対するイエス様の批判ということを念頭に置いて、もう一度、いちじくの木の話に戻りますと、このいちじくの実を食べようと思って来たけれども、季節が違っていて、いちじくの季節ではなかったから、そこに実がなっていなかったので、イエス様が呪うといちじくの木が枯れてしまったという、理不尽というか、何だか恐ろしい気もしますが、その意味が少しわかってくるような気がいたします。

 

 それは、実が食べたいと思ったけれど、その季節ではなかったからしょうがない、と人間は考えるのですね。「しょうがないんですよ、イエス様。こんなものですよ。季節じゃないんですから。」けれども、イエス様にとっては、それではダメだった、ということなのです。

 

 それは、別にいちじくの木が悪いわけではなくて、これはたとえなのですね。つまり、遠くから見たら一杯の葉が茂っていて、じゃあ実がなっているかと思って近づいて見ると、何にもなかった。

 それは、神殿というものが、遠くから見ると素晴らしいものだった。何十年もかけて建てて、みんなで献金をして建てた素晴らしい神殿、でもそこに近づいて、そこで実を与えられたいと思って、実りを得たいと思っていたのに実はなかった。葉ばかりだった。

 そこには大きな神殿というものがあって、素晴らしい神殿で、たくさんの人たちがやってくるけれども、そこには実がなかった。実りがなかった。そういうことを言っているのですね。そこで実りがないというときに、「あっ、今はその時期じゃないんですよ」と言ってもダメだ、ということなのですね。

 イエス様は福音書の他の箇所で仰っておられます。神様はいつ来られるかわからない。神様の裁きというのは、いつ来るかわからない。だから「目を覚ましていなさい」と他の箇所で言っておられます。(マルコによる福音書13章37節など)

 人間的な事情を言ったって無駄なのですね。「まだ、その時期じゃないですから。だから、しょうがないんです」と言ったって、それは神様に対する言い訳にはならないのです。

 この都エルサレムの人たちの信仰というものを、単に神殿のあり方というだけではなくて、人々の信仰というものそのものが、遠くから見たら素晴らしいものに見える、でも近寄っていったら、そこには何もなかった。空っぽだった。

 ものすごく厳しい批判なのです。それが、ここにあるわけなのです。そして、そのときに、あなたたちは空っぽだ、と言われたときに、「今は、まだ実がつく時じゃないんです。」と言ったって、それは言い訳にはならないのですね。

 それは、もちろん、人間の側からしたら、あるいは、いちじくの木の側からしたら、本当に理不尽ですよ。「その時じゃないんですから、待って下さい」というしかないじゃないですか。

 けれども、神様の裁きというのは恐ろしいのです。「待って下さい。今はその時期じゃないんです」なんていうことは、神様の目から見たら何の関係もない。神様というのは、それぐらい厳しい方なのですよ、ということがここで言われているのです。

 

 すると、聖書を読んでいる私たちは困りますね。神様は愛の方だと思っていたのに、何でもゆるして下さる、聞いて下さると思っていたのに、「何、その理不尽な厳しさは」と思うのです。そういうとき、私たちは神様から問われています。

 この神殿から商人を追い出す話の中で、問われているのは、異邦人、外国人に対する差別であったり、あるいは、お金を持っている人と持っていない人の違いによって、礼拝というものが左右されるような状況がありました。

 そして、神殿においてお金もうけがなされている、それがどんなに必要とされているといっても、そこでなされている信仰というものが、遠くから見たら立派であるかもしれないけれど、近づいていったら、そこに実りというものがなかった、といわれるようなとき、そこには、神殿というものが人々のお金を吸い上げるものになっていたのではないか、と私は思うのです。

 

 国中の人たちがやってくる神殿、そこで皆さんはなけなしの献金をしていきます。宗教はどんどん大きくなっていきます。でも、その大きな宗教に近づいていったら、私にとっては何の実りもない、というときに、私は怒るよ、とここでイエス様は言っておられると思うのです。

 

 他の人たちには、この大きな神殿は何て素晴らしいのだろう、さあ、礼拝しよう、と言うかもしれないけれど、みんなにとってはそうかもしれないけれど、私にとっては、この大きな宗教は空っぽなんだ、というときに、イエス様はお叱りになられたのです。

「私の家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」、(イザヤ書56章7節の)この神様の言葉を届けるときには、それはまだ言う時期じゃないとか、それはそれなりに理由があってとか、人間はいくらでも言い訳を言えるのだけれど、神様にはそれは通じない。

 本当にここで、イエス様の怒りというものがあるのですね。それは大きな神殿が人々のお金を吸い上げていくシステムになっていて、その中で貧しい者や外国人たちは良い扱いを受けていなかったのではないか。

 それは神殿だけのことではありません。国というものが、社会というものが、そうなっていたのではないか。そこにイエス様の根本的な提起、と言ったらいいのでしょうか、いや、提起ではない、怒りというものです。それを私は感じます。

 そのことを、現代に生きている私たちもまた、聖書から教えられるのです。そのようなイエス様の言葉を受け止めて、私たちも教会で祈っていきたいと願うものです。

 

 お祈りをいたします。
 天の神様、私たちが1人ひとり、神様と共に歩むときに、自分自身が心の中に持ついろんな思い、その中には喜びもあれば、怒りもあります。この社会の中で生きるときに、いろんな思いを持って生きる私たち一人ひとりを神様がどうぞ受け止めて下さい。そして、イエス様が怒られたように、本当に神様の御心に立って私たちが正義ということを考え、また、この社会というものを見渡して、一体どうやったらみんなで一緒に生きていくことができるのか、そして、その中で宗教というものが、あるいは神への信仰というものが、どんな役割を果たすことができるのか、考えていくことができますように、どうぞ導いて下さい。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

 

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「罪から自由になる約束」
   2023年2月26日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  ガラテヤの信徒への手紙 3章 21〜29節 (新共同訳)

 

 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。

 決してそうではない。

 

 万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、

 確かに人は律法によって義とされたでしょう。

 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。

 

 それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、

 信じる人々に与えられるようになるためでした。

 

 信仰が現れる前には、

 わたしたちは律法の下で監視され、

 この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。

 

 こうして律法は、

 わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。

 わたしたちが信仰によって義とされるためです。

 

 しかし、信仰が現れたので、

 もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。

  あなたがたは皆、信仰により、

 キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。

 

 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、

 キリストを着ているからです。

 

 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、

 奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。

 あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

 

 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、

 とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、

 約束による相続人です。

 

 

 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
  改行などの文章配置を説教者が変えています。
  新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 毎週の礼拝において、福音書使徒パウロの手紙、旧約聖書、その3箇所から選んで順番に読んでいます。今日の箇所は、使徒パウロの手紙であるガラテヤの信徒への手紙3章であります。

 使徒パウロが、地中海沿岸にあるガラテヤという町に建てられた教会、その教会の信徒たちに向けて書き送った手紙の一部であります。

 そして、今日は教会暦、教会の暦では「受難節」という期間に入る日であります。4月9日(日)イースター(復活日)の前日まで、受難節が続きます。これは、主イエス・キリストの十字架の苦しみ、受難ということを覚えて歩む時期です。

 そして、イエス様の十字架の意味を考えるときに、その十字架の死は、私たち一人ひとりの罪のゆるしのためであった、という聖書の教えを心に刻んで、そのことにおいて私たち一人ひとりが自分自身の生きることの受難、苦しみということを、イエス様の十字架に重ねて思うときであります。

 

 4月のイースター、復活日の礼拝を迎えるまで、私たちはこの受難節のときを、それぞれに祈りつつ歩んでいきたいと思います。

 今日から受難節に入ると共に、今日の朝には雪が降っていました。今年は雪が降る日が多いなあ、という気がしましたし、この時期になっても、つまり2月の終わりになってもまだ雪が降るのか、と私は驚きました。もう冬が終わるころなのに、という思いがあるのです。

 時期が変わるときというのは、いろいろなことを思います。季節の変化、状態の変化、そして自分の心の変化。いろんなことを思います。そんな中で、今日の聖書の箇所を読んで参りましょう。今日の箇所には、使徒パウロがガラテヤという町にある教会に向けて書いた言葉が記されてあります。

 このガラテヤの信徒への手紙全体が、どういう目的を持って書かれたかというと、それはガラテヤの教会の人たちに対して少し厳しいことを言うためでありました。

 それは、なぜかというと、ガラテヤの教会の人たちは、最初はイエス・キリストの福音、良き知らせの話を聞いて、イエス・キリストを主と信じて生きていたわけでありますけれども、その後になって、別の考え方をする人たちの影響というものが現れてきたというのです。それは、次のようなことです。

 イエス・キリストの福音を信じるということは、それまでの旧約聖書に記された律法、すなわち宗教的な決まり事、それを守ることによって人は救われる、という「律法主義」の考え方というものから、解放された、というのが、イエス・キリストの福音なのですね。

 そのように、律法によって、つまり行いによってではなくて、ただ信仰のみによって救われる、イエス・キリストがそのそようにしてくださった、ということを信じるのがイエス・キリストへの信仰でありました。

 けれども、ガラテヤの教会の人たちは、最初は、旧約聖書の律法に縛られる生活から解放されたのですけれども、だんだんとまたその律法を守ることも必要だということで、だんだんと古い生活へと戻っていく、そういう考え方が出てきていたようなのであります。

 それに対して使徒パウロは、このガラテヤの信徒への手紙を書くことによって、古い考え方に戻ってはいけない、一度、イエス様の福音によって自由にしていただいたあなたたちが、古い考え方に戻ってはいけない、ということをパウロが訴えているのが、ガラテヤの信徒への手紙の全体の性格なのですね。

 

 その中にあってパウロは順々と、旧約聖書の律法の意味と、イエス・キリストの福音の意味を、ずっとつないで書いているのであります。そして、今日の箇所では何が書いてあるかというと、旧約聖書に記された律法ということは、ある時代までは確かに意味を持っていた。しかし、その律法を守ることによってだけでは救われない。

 

 人間というのはもっともっと罪深い存在であって、律法を守るだけでは救われない。そのために神様は、私たちにイエス・キリスト、神の独り子としてのイエス・キリストを与えて下さり、その十字架の死によって私たち人間の罪をゆるしてくださった、そういうことが今日の箇所では書かれているのであります。

 今日の箇所を順々に読んでいきます。
 21節「それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。」こういう言葉から始まっています。

 この箇所の前の所で、パウロは律法とは何かと説明しているのですが、律法によっては人は救われないということをここでは言っています。すると、律法というのは、神様が与えられたけれども、結局、それは神様の約束に違反するものなのだろうか、という矛盾に対する疑問です。それに対して、決してそうではないと言います。

 次に22節でこう言います。「しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。」

 ここには、神様の御計画として、イエス・キリストが現れるまでは、人間は罪の支配のもとにいた。そして、律法は大切なものだけど、律法だけでは救われないという状態に置かれていた。そのことが、イエス・キリストが登場する前までの時代のこととして言われています。

 

 そして23節でこう言われます。「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。」

 ここで「律法の下で監視され」「閉じ込められていました」という言葉があります。この言葉はユダヤ人としてのパウロの実感だと思いますけれども、ユダヤ人の律法学者として成長してきたパウロにとって、律法というものが自分を監視するもの、自分だけではなく、人間全体を監視するものとして、宗教の決まり事というものがあったのだと言うのです。

 

 そして24節「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。」

 

 今までは、律法を守る、宗教の決まり事を守るということが、ここでは「養育係」という言葉で表現されていますけれども、子どもが成長するときに必要な係と同じように、律法というものも、あるところまでは確かに役割を果たしてきたのだと。しかし、信仰というものが現れたら、「もはや、私たちはそのような養育係の下にはいません」と言っています。

 

 それは、あたかも、子どものときには大人から教えられるいろんな決まり事が必要だけれども、成長する過程で、10代、20代となっていくときには、自分自身の考え方というもの、それが成長していきます。

 すると、小さな子どものときには大人から与えられる決まり事が確かに必要だったけれども、ある時点からはそうした決まり事ではなくて、その人自身の意思、その人自身の思い、というものが大きくなってくる。

 そこに、信仰という、神への信仰というものが与えられるときに、その人はあたかも子どものときのように決まり事を守る生活を離れて、自分で物事を判断する生活へと成長していくわけですね。

 こうしてパウロは、人間の成長過程になぞらえることで、信仰というものも同じ面があるのだと言っているのです。

 

 26節「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」

 そして「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」このようにパウロは言葉を展開しています。

 

 過去においては、律法という宗教の決まり事によって、パウロの言葉によれば監視されてきた、閉じ込めらてきた、そういう状態に置かれてきた。しかし、イエス・キリストへの信仰というものが現れたときから、もはや私たちはそこから解放されているのだ。

 そして、そうやって律法から解放されたなら、みんな、誰でもがキリスト・イエスに結ばれて神の子なのです、とパウロは言っています。

 これは、イエス・キリストを信じること、神様を信じることが、単に律法から解放されて、宗教の決まり事から解放されるというだけではなくて、みんなが神様の子になって、自由になって解放される、そういう新しい生き方ができるようになるのですよ、ということを、パウロはここで言っているのです。

 「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」とパウロは言っています。キリストを着るというのはちょっと不思議な表現に思えます。服を着るのと同じように、キリストを着ると言うのですね。この言葉を見ると、何だかその、自分がオーバーか何かを羽織っているような、そういう姿をイメージします。

 みんなキリストを着ている。服を着るように。これはパウロならではのユーモアに満ちた言葉です。自分自身がキリストと同じように生きることなんて、到底できない。キリストは神の子なのだから。けれども、キリストを、服を着ることなら、誰だってできるでしょう? とパウロはここで言っているのですね。

 自分自身が苦労して苦労して、キリストのような人間になって生涯を歩む。そんなことは到底できないでしょう。けれども、服を着るようにイエス・キリストを着る。そして新しい人間になる。それは、誰だってできるでしょう? ということをパウロはここでユーモアをこめて言っているのです。

 

 そして、イエス・キリストを着たらどうなるのでしょう。「ユダヤ人もギリシア人もなく」と言っている所では、人種や民族はもう関係がないと言っているのです。「奴隷も自由な身分の者もなく」というときには、社会的にその人が生まれた立場も関係ないと言っているのです。

 また、血統とか生まれとか、血筋とか、あるいは、今まで社会でどういう経歴を経てきたか、ということも関係ないというのです。

 そして、「男も女もありません」といいます。性別の違いも根本的に人としての違いではないということをパウロは言っています。「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」と言います。

 

 そして最後の29節にあるのは、「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」

 この言葉は、アブラハムの子孫という言い方には、イスラエルの一人という意味であり、そして旧約聖書に記された、神様が人間を創って下さった、天地創造・人間創造の歴史の中において、神様の恵みというものを受け継いだ一人になるのだと言っているのです。

 旧約聖書の律法というものは、もはや役割を終えたけれども、旧約聖書に記されている、神様の恵みを受け継ぐ相続人となるのだと、パウロはここで最後に言っているのです。それは旧約聖書の時代のものは、もういらなくなったということではなくて、イエス・キリストの福音が旧約聖書の中に描かれた神様の恵みというものを完成するものであるというのです。

 

 イエス・キリストの福音を信じることによって、律法の縛りから解放されるということは、律法を捨てるということではなくて、律法を完成することである、そうして律法から解放されて生きていくのだ、パウロはそのように言っています。

 

 さて、以上のような今日の箇所を読んで、皆様は何を思われたでありましょうか。パウロの言葉は、この長いガラテヤの信徒への手紙の中の一部、今日の箇所を切り出す形では、なかなかスッと心に入ってこないという方もおられるかもしれません。

 しかし、言われていることは、いま申し上げましたように、神様の律法の役割、旧約聖書の役割は、ある時代まではあった、ある状態までは確かにあった、しかし、その律法を守るというだけでは、決してその人は救われない。なぜなら人間は罪人だからであります。

 その人間の罪ということを本当に救って下さるのは、イエス・キリストの十字架の罪にゆるし、そしてイエス様の復活の恵みにあずかることであると、パウロはここで自分自身の経験、体験をもとにして、このように語っているのであります。

 

 今日の箇所を読んで、私いろいろなことを思わされました。最初は、前半部分に書いてある律法と人間の罪、そこからの解放という、パウロが繰り返し手紙の中で触れているそのことに関して、いろいろと考えさせられました。

 しかし、そのあと、だんだんと後半のほう、26節以降のほうに私の心は向いていきました。ここには、あなたがたは皆、信仰によりキリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」と言われています。人間はみな平等である。神様の前で平等である、ということが言われています。

 「あなたたちは皆、キリストを着ている」と言われます。大変不思議な表現でありますけれども、服を着るようにキリストを着ているというのです。だから、もはや人種民族とか社会的な違いによる差別、そうしたことはないというのです。 

 パウロがこの短い箇所の中で、こうしたことを述べているのは、なぜか、と私は考えました。その中で考えたのは、おそらく、ガラテヤの教会の人たちの中には、古い考え方に戻っていこうとする人たちがいて、その古い考え方の人たちというのは、人種や民族の区別あるいは差別とか、また奴隷と自由な身分の者の違い、そうした区別や差別、男と女の区別や差別、そういうことを意識していたのではないかと。

 そして、古い時代に昔やっていたようなことに戻っていきたかった、むしろそのようなことによって、神様に救われる、つまり律法によって救われる道、決まり事を守ることによって救われるという道に戻っていきたい、という人たちがいたと思うのです。

 なぜ、そんな古い時代のことに、現代の私たちから言えば、封建主義社会に戻るような身分差別とかがあるような社会に戻るような、そこまで極端に行かなくても、昔のほうが良かった、というように戻っていく気持ちというものは、人間の中にどこかあるのでしょうね。

 昔のようにしていたほうが良かった。そのほうが社会が安定するとか、気持ちが落ち着くとか、いろんなことが考えられます。決まり事を守る生活。そして人に決まり事を守らせる生活。その中で身分差別とか、封建主義というのでしょうか。そうした古い時代のいろんなものが残されていたのですが、その中で生きたほうが生きやすかった。そういうふうな思いが、人間の中には出てくるのです。

 

 そういう人たちに向けて、パウロは今日の箇所において言っているのですね。そういうことであってはいけないのですよ、と。神様はあなたたちを、人間の罪というものから解放して下さいました。そして宗教の決まり事からも解放して下さいました。

 本当にいろんなことから解き放たれて自由になったならば、もはや人種や民族や性別の違い、社会的な違いはないのですよ。みんな神の子なのですよ。そのことをパウロはここで訴えていると思います。

 

 そして、そのことを言いたいがために、この律法とはどういう役割であって、人間の罪が何であってということを、現代の私たちが読むとわかりにくいことでもありますが、ここでパウロがずっと書いていることというのは、本当は一人ひとりと自由なのですよ、ということです。

 

 神様は私たち一人ひとりを自由にされたのですよ、だから人を縛り付ける考え方に戻ってはいけませんよという、そのことを言いたいがために、パウロは今日のこの箇所を書いているのではないだろうか、と私は思いました。

 パウロ自身が律法学者として生きてきた現実が、ここには反映しています。かつては熱心な律法学者でした。福音によって救われるイエス・キリストによって罪から解放されると信じていたクリスチャンは、腹立たしい存在でしたから、クリスチャンを捕まえて牢屋に放りこむような、迫害をする生活をパウロはしていたのです。

 

 そのパウロが突然目が見えなくなったとき、絶望のなかでパウロイエス・キリストの言葉を聞きました。目が見えなくなった状態において、もはや律法を守ることはできない。すると、自分自身が今まで信じていた律法によって裁かれ、滅んでいく矛盾に気がつき、暗闇に突き落とされたような中にいたパウロに、イエス・キリストの言葉が響いてきたのです。

 

 聖書の使徒言行録やパウロの手紙に記されたパウロの回想によれば、パウロはそういう経験をしたのでありました。律法それ自体は大切なものです。けれども、律法によって救われるのではないのです。律法によって救われるとするならば、律法を守れない人間の絶望だけが浮かび上がってきて、人間はその中で律法の中で滅んでいくのです。

 決してそうであってはならない。律法を守ることができない人間は、何によって救われるのか。神の愛によって救われるのです。際限のない神の愛によって救われるのです。律法というものは基準を示しています。基準、物差し。この物差しの中であればいい、この物差しから外れた者はダメだとするのが律法です。

 それは、ある程度、人間が成長するにあたって、物を考える基準を提供するために役割を果たします。けれども、私たちは物差しによって救われるということはできないのです。物差しによってではなく、物差しから外れた所にある人をも救ってくださる神様の際限のない愛、物差しをはるかに超えた所にある神様の愛によって救われるのです。

 パウロイエス・キリストの言葉を通して、そのことを経験し、今日の聖書箇所を通じて、私たちに伝えているのです。

 

 イエス・キリストは言われました。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。」(マルコによる福音書12章31節など、口語訳) そこでは、自分も隣り人も同じく神様の前で一人の人間だということが言われているのです。自分が自分を愛するのと同じように、あなたの隣り人を愛しなさい。自分も隣り人も同じ存在なのだと、神様によって。だから愛するのだと。神様の愛とは、そのように人の心に訴えかけてくるのです。そして、そのイエス・キリストの福音を聞くときに、「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」そのように言われているのです。

 

 私たちは、そのように生きることができるのでしょうか。イエス・キリストのように生きる、なんてことは、できそうにありません。パウロのように生きることも、できそうにありません。けれども、私たちは毎日、服を着ています。この服を着ようと思って今日、着ています。それと同じように、イエス・キリストを着ることができる、とパウロは大胆に言っているのです。

 「できない、できない」と思っている人も、服を着ることぐらいできるでしょう。イエス・キリストを着る、そのことは誰にだってできることです。そうすれば、みんなが神の子になっていくのです。そして平等であり、誰もが自由に解放される。そのようにパウロはここで、私たちが罪から自由になる約束というものを語ってくれているのであります。 


 お祈りをいたします。
 天の神様、私たち一人ひとり、それぞれの自分の生活の中でいろんなことを思います。ちっとも自由になっていないときもあるし、また、思いかけず、他者を傷つけてしまって悩むことともあります。心はいろいろと動きますけれども、その中で神様の恵みが変わらない重しとなって、私たちをしっかりとつなぎ止めて、神様の恵みのもとに私たちをつなぎ止めて下さいますように、そのことを心からお願いします。そして、誰もが、解放され、みんなで生きていく世界となりますように。コロナ禍が終わらず、戦争が終わらない世界にあって、神様から与えられる本当の自由を、一人ひとりの人間がいただくことができる世界となりますように。そのために私たちを祈らせて下さい。そして用いて下さい。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。