京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2022年11月の説教

2022年11月の京北教会 礼拝説教

 11月6日(日) 11月13日(日) 11月20日(日) 11月27日(日)

「弱い者の背に」
2022年11月6日(日)京北教会 礼拝説教  今井牧夫

 聖 書  マルコによる福音書 11章 1〜11節 (新共同訳)

 

  一行がエルサレムに近づいて、

  オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、

  イエスは二人の弟子を使いに出そうとして言われた、

   「向こうの村へ行きなさい。

    村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない
               子ろばのつないであるのが見つかる。

    それをほどいて、連れて来なさい。

    もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、

    『主がお入り用なのです。すぐにここにお返しになります』と言いなさい。

 

   二人は、出かけて行くと、
   表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、

   それをほどいた。
   すると、そこに居合わせたある人々が、
    『その子ろばをほどいてどうするのか』と言った。
   二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。

   二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、
           その上に自分の服をかけると、
   イエスはそれにお乗りになった。

   多くの人が自分の服を道に敷き、また、
   ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。

    そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
   「ホサナ。
    主の名によって来られる方に、
    祝福があるように。
    我らの父ダビデの来るべき国に、
     祝福があるように。
    いと高きところにホサナ。」

 こうして、イエスエルサレムに着いて、
 神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、
 もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。




 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
  改行などの文章配置を説教者が変えています。
  新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

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 (以下、礼拝説教)

 

 最近の京北教会では、礼拝で読む聖書箇所を、マルコによる福音書使徒パウロの手紙、そして旧約聖書、その3箇所から選んで毎週順番に読んでいます。本日は、マルコによる福音書11章です。

 ここには、イエス様がそれまでの宣教の旅を経て、都エルサレムに入ってこられた場面のことが記されてあります。このあとの一週間にいろいろなことがあって、イエス様が捕らえられて十字架につけられる、その直前の時期であります。そういう意味で、今日のこの聖書箇所は、教会の暦の中では受難節と呼ばれる2月から3月、4月前半ごろの時期に読まれることが多い箇所であります。

 

 今はまだ受難節ではありません。まだ11月であります。先日、大きなショッピングモールに買い物に行きますと、少し私が驚いたことがありました。ある喫茶店の前を通りかかると、そこにはもうすでにクリスマスの飾り付けがされていました。クリスマスの音楽がBGMにかかり、赤と緑のクリスマスの飾りがあり、クリスマスツリーが出ていて、私は驚きました。

 

 まだ11月に入ったところなのに、という驚きです。12月に入ったら、あるいは12月が近づいたら、そういうものが出てくることがわかるのですが、まだ11月じゃないか、まだ秋なのに、そんな思いがしました。それは私が教会の牧師をしておりまして、教会暦というものを意識しながら生活しているからかもしれません。一般的には11月に入れば年末シーズン、もうクリスマス・シーズンなのかもしれません。

 けれども、そんな世の中の感覚とは別に、教会では毎週、聖書を読んで礼拝をしています。そして今日は受難節ではありませんけれども、クリスマスを前にした時期であったとしても、教会では、ここでイエス様が都エルサレムに入られて、これから十字架へと歩まれる、その直前の時期のことを本日の聖書箇所から教えられていくことになります。

 

 今日の箇所は、イエス様が都エルサレムに来られたときのことであります。そのときに、イエス様はご自分がただ、歩いてみんなと一緒に都に入っていくのではなくて、弟子たちに子どものろばを連れて来させて、その子ろばに乗って都に入るようにされました。そのことが今日の箇所には書いてあります。

 

 わざわざ子どものろばが、なぜ選ばれたのでしょうか。その時代のことを調べてみますと、都に入るというのは特別なときであり、たとえば王様が都に入っていく、世の支配者が都に入って行くというときには、馬に乗って入ってくるのです。力が強く、足が速い馬。それは戦争のときに大切な動物であり、その一番いい馬に乗っているのが王様である、そのように考えられていた時代でありました。

 本当の王様であれば、そのように強い馬に乗って入ってくる。そう考えられていたのです。イエス様がこのとき、馬ではなく子どものろばを選ぶ、そんなことは誰もしないことをされた、そこにはご自分は馬ではなく子どものロバに乗って、やってくる存在なのだということをイエス様自身が思っておられたということであります。

 そのころ、弟子たちはイエス様と共に都に入るということについて、おそらく、とても高揚した気持ち、高ぶった気持ちを持っていたと思われます。というのは、この当時、ローマ帝国の植民地にされていたイスラエルの人たちにとって、イエス様の存在というのは、この人が本当の王になって、いまは支配されている自分たちの国を独立させて、もう一度強い国にしてくれる、そうした救い主がこのイエス様であると弟子たちは信じていたのです。

 

 弟子たち以外にもそうした期待を持った人たちがたくさんいたようです。ガリラヤという地域で神の国の福音を宣教し、人々の信頼を集め、そして様々な人たちの病気をいやし、いろんな人たちをいやして、その宣教の旅をしてきたイエス様がついに都エルサレムに来た、それはいよいよ、この国の本当の王にイエス様が成って下さって、この国を新しくして下さる、まさにそういうときが来たのだと、弟子たちの心は大きく高ぶっていたはずであります。

 

 弟子たちの信仰というのは、そういうものでありました。神様が自分たちの見方をして下さる。弱い自分たちの見方を神様はして下さって、このイエス様を先頭に押し立てていけば、この国は強くなる。変わっていく。独立する。そして、そのときにこの十二人の弟子たちも、イエス様のそばにいる者として取り立てられていく。そんなことを夢見ていたのではないでしょうか。

 そんな弟子たち、あるいはその周囲の人たちの空気を、イエス様はよく知っておられました。本当の王様であれば、強い馬に乗って勇ましく入場していくはずです。しかしイエス様は、子どものろばを選ばれました。

 今日の箇所においては、イエス様が先に二人の弟子を遣いに出して、向こうの村に行って、そこでつながれている子ろばを連れてきなさい、そしてもし、何のためにどうするのか、と言われたら、「主がお入り用なのです」と言いなさい、と言われました。

 ここでは、イエス様がもう先のことを予想して、そのように指示をして、そして本当にその通りになったという、そういう物語の展開であります。それは現代の私たちの目から見て、何か不思議な物語にも思えますけれども、ここで一番大事なことというのは、この子ろばの乗るということは、イエス様が最初から望んでおられていたということであります。

 

 たまたま子ろばしかいなかったとか、誰かがあえてそのようにしたということではなくて、イエス様自身が最初から望んでそのようにされたということであります。

 

 そして、その子ろばは、イエス様が仰ったように連れてこられて、そしてイエス様をお乗せするこにとなったのであります。そしてイエス様は、子ろばに乗って都に入っていかれました。

 

 弟子たちは、その子ろばに自分の服をかけたと書いてあります。そして、多くの人が自分の服を道に敷き、また、人々は野原から葉がついた枝を切ってきて道にひいたとあります。これも王様が都に入場するときの式といいますか、やり方を自分たちでやっているということがわかります。

   王様であれば、馬に乗るときにかける立派な布飾りがあるのでしょうが、それがないので弟子たちは、自分の服を子ろばにかけたのです。そして、王様が馬に乗って歩く特別な道、ただの道ではなくて飾られた道を作るために、カーペットを敷くようにして、自分たちの服を敷いた、また、自分たちの服では足りないので野原から葉の付いた枝を切ってきて、道に敷いたとあります。

 まるで本当の王様を迎えたようなこととして、このときに周囲にいた人たちにとっては、イエス様が本当の王様だったのであります。王様を迎えるような、それらしい精一杯のことをしたのであります。そして、その前を行く者も後を行く者も叫んだとあります。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

 

 ホサナという言葉は、神様をたたえる言葉だと考えられます。ホサナ、ホサナと叫ぶことで神様への賛美を表しています。主の名によって来られる方、神様から遣わされてこられる救い主に祝福があるように、そして我らの父ダビデというのは、旧約聖書に登場する一番強い王様、最もイスラエルの力が強かった時代に人々の誇りであった過去の王様、ダビデが作ったこの国の未来に祝福があるように、と叫ぶのでありました。

 

 ここには、イエス様を都にお迎えして、これからこの国が変わっていくんだ、という、ものすごく高ぶった気持ちが表れています。こうしてイエス様はエルサレムに行き、神殿に入り、あたりの様子を見て回ったあと、もはや夕方になったのでベタニアへ出て行かれたとあります。こうしてイエス様が都エルサレムに足を踏み入れた、という記念すべき日があったわけであります。

 

 福音書においては、このあと一週間の間にいろいろなことが起こり、イエス様は無実の罪において捕らえられて、偽りの裁判にかけられ、十字架に架けられて、命を落とされるのであります。このときに「ホサナ、ホサナ」と叫んだ人たち、高ぶった気持ちでイエス様を迎えた群衆たちが、一週間後には十字架につけられたイエス様を見てあざ笑うのでありました。

 そうした、この歴史の転換点になるのが今日の場面であります。こうした場面を読んで皆様は何を思われるでありましょうか。

 今日の箇所を読んでみて、私の心に一番残りましたのは、子どものろばを選ばれたことであります。イエス様は、ご自分が子ろばの上に乗って都に入られるときに、小さな子どものろばを選んだのです。

 ロバは戦争のために使う生き物ではなく、荷物を運ぶ役割をさせられていたようであります。その子どもでありますから、ずいぶん小さかったでありましょう。子どものろばに乗って、ちょこちょこ歩くロバの上におられるイエス様の姿、それは実際に目で見たとき、目にどのように映ったかはわかりませんが、もしかしたら少し滑稽な様子に見えたのかもしれません。なぜ、わざわざそんなことをと思われるようなことだったかもしれないのです。

 

 しかし、イエス様ご自身が、この子ろばを選ばれたのでありますから、弟子たちや他の人たちはそれに文句を言うことなく、その子ろばに乗ったイエス様を迎えられました。弟子たちは不思議だったでしょう。どうして子どものろばなのかと。

 

 現代の私たちも、こうして聖書を読んでいても、なぜイエス様が子どものロバにお乗りになったのかということは、わかりません。聖書学者の研究を読んでみても、はっきりとはやっぱり断定できないです、こういう理由だということは。

 考えられることとしては、実際の王様であれば馬に乗ってやってくる、たとえば戦争に行って凱旋して帰ってくる、そういうときに馬に乗って大行進する、それが実際の王の入場であるので、それに対してあえて子どものろばを選ばれた、というところに、ご自分は戦争の王様ではない、力の強さを誇るのではないという、イエス様の思いが表れていると受け止めることができます。

 

 私は、この子ろばということについて、いろいろと考えてみました。まず、自分自身、この私自身がイエス様のそばにいて、この様子を見ていたら、何を思ったか、ということを想像してみました。おそらく、その場にいたら私は不満を感じたと思います。格好よく馬に乗って都に入ってほしいのに、なんでろばなのかとイライラしたかもしれません。

 なぜ、そう思うのでしょうか。自分の思った通りにイエス様が振る舞ってくれないからです。なんでわざわざ子どものろばに乗るのかと。たとえば私のような、そうした感想を持つ者だけではなく、その場にいた弟子たちもそんなことを思っていたのではないかと思います。そして、そのとき弟子たちは、自分たちはもう大人だ、と思っていたと思います。自分たちはもう大人だと。

 だから、イエス様が子ろばを選ばれたときに、それは一体何のためにと思うのです。けれども、どうでしょうか。ずっと時間が経った後に思うのは、このときにイエス様を担いでと言いますか、イエス様を先頭に押し立てて、これからこの国の本当の王様になる人だといって、都エルサレムに入ってきた人たち、ガリラヤからずっとイエス様に付き添ってきた12名の弟子たちは、興奮した様子であったと思いますが、本当に大人だったでしょうか。

 

 現実にはもう一週間後には捕らえられて十字架につけられていくイエス様。そのイエス様が捕らえられたときには、散り散りばらばらに逃げ去っていくのです。自分たちの思い通りにならなかったら、もう怖く怖くて仕方がなくなって逃げていくのです。その程度の弟子たちでありました。未熟だったのです。

 弟子たちは、自分たちは未熟でないと思っていました。しかし本当は未熟でした。このときイエス様を支えていたのは、未熟な者たちだったのです。それはあたかも、子ろばが一生懸命になってイエス様を乗せているような、そういうものでありました。イエス様の目から見て、弟子たちがそのような存在であったのではないかと思います。

 

 そして同時にイエス様は、馬ではなく子ろばを選ばれたとき、その子ろばというものが弱い存在であることを知っていました。強いものではなく弱いもの。その弱いものの背に乗る。そのときに、この子ろば、まだ一度も人を乗せたとがない、荷物を担いだこともない、子ろばの生涯の中で初めて重荷を負ったのはイエス様を乗せるということでした。そこに、この子ろばがおそらく痛みを感じていたということをイエス様は、知っておられたと思います。

 

 未熟な者、弱い者の背に乗るとき、その乗る者は、未熟な者、弱い者の痛みを知りながら、そこに乗っているのです。決して、その子ろばを痛めつけたいわけではありません。意地悪をしているわけではないのです。弱い者の背に乗ることによって、その弱い者の痛みを知りながら前に進む、それはイエス様ご自身がこのあと十字架につけられて死なれる、そうした弱い者であったからこそ、なされた判断であると私は思います。

 

 意気揚々と馬に乗って入っていくのではなく、自らがこの後に命を落とされる、イエス様がそのことを知っていながら、自らが乗られる家畜を選ばれたとき、それはご自分の痛みを知ってくれる小さな子どものろばでありました。

 そのことを思うときに、いろいろなことを考えることができます。私たちが生きている今の世の中は、弱い者にしわ寄せがいく世の中であると私は思います。社会の動きが本当に大きく世界中でいろんなことが起こっています。コロナ禍の問題が起こります。戦争が起こります。様々な災害や事故が起こります。なにが起こっても、その衝撃は最後は弱い者にしわ寄せていきます。

 生きることが苦しいと思っている、弱い存在、そこに世界の動きの荒波といいますか、そういうものが押し寄せていくのです。弱い者にしわ寄せが行くのが、人間が作り出している世の中であります。

 それに対して私たちは、神様はそれとは違う、と思っています。人間はそうやって罪深いから、弱い者にしわ寄せをしていくけれども、神様は弱い者に目を留められるはずだと思うのです。聖書を読んでいる人は、キリスト教信仰を持っている人は、そう思う、いや、そう思いたいのであります。

 

 けれども、どうでしょうか。今日の聖書箇所を読んで私は思いました。いや、神様もまた、弱い存在の犠牲の上に乗っているのではないか、と。子ろばを選んで、その上にイエス様が乗られたときに、イエス様は子どものろばという小さな弱い者を犠牲にしているのではないだろうか、と。そんなことを思いました。そして、いろいろと考えてみました。

 この世の中がどんな風に動き、どんな風に変わっていくのか。いつも弱い者にしわ寄せがされていくじゃないか。その中で、社会が良い方向に変わることも確かにあります。でも、その良い方向に変わっていくためには、弱い人たちがどれだけ犠牲にならなくてはいけないのかと思います。

 たくさんの命が失われ、生活が壊されていきます。弱い人、弱い国、弱い地域、弱い存在が苦しめられていく、その積み重ねの後に、その犠牲の上に立って何か新しい時代が始まっていくのであれば、仮にそれが神様の導きであったとしても、神様という方もまた、弱い者の存在の上に乗っているのだろうか、と思うのです。この子ろばの上にイエス様が乗られたように。そのように考えました。

 

 しかし、今日の聖書箇所を繰り返し読む中で、私は思いました。このとき、この子どものろばは、いきなり何にも知らない所に連れて行かれて、イエス様をお乗せして、大変だってかもしれない、痛みを感じたかもしれない。弱い子ろばにとって、それはいやなことだったかもしれない。しかし、イエス様はこのとき、子ろばを選んで連れて来させると共に、また「お返しします」と言われています。

 

 「主がお入り用なのです。すぐにここにお返しします」と言いなさい、とイエス様はこのように弟子たちに言いました。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐにここにお返しになります』と言いなさい。」このようにイエス様は仰いました。

 子ろばを選んでご自分を乗せるために連れて来させたこと、それは弱い者の上に乗ることであったかもしれないのです。しかし、その子ろばは、役割を終えるとすぐに元に帰されました。決して弱い者を道連れにされたのではないのです。

 弱い者が痛みを負うことが、確かにあります。しかし、その弱い者の上に乗っているのが神様であれば、神様はその弱い者のことを慈しみ、その痛みを知って下さっています。だから、その弱い者を道連れにするのではなく、元の所に帰して下さいます。そういうことでありました。

 この子ろば自身が、自分がイエス様を乗せたことをどんなふうに思っていたか、というようなことは、私たちはわかりません。動物の思うことは、私たちはわからないのです。けれども、その子ろばの様子を見ていた周囲の弟子たちは、ここで都エルサレムに入られるときに、イエス様が子ろばを選ばれたことを、その後にもよく覚えていました。

 なぜイエス様はこんなことをするのだろうか。馬に乗ればよいものを、なぜ子ろばに乗るのかと、弟子たちがその後ずっと時間が経った後に、あのときのイエス様は子ろばを選ぶことによって、私たちにたくさんのことを教えて下さっていたのだと知ったのです。

 自分たちは大人だと思っていた弟子たちが、そうじゃなかった、未熟な者だった、私たちも子ろばだったんだと。そして、その子ろばがイエス様を乗せることが、痛みを伴ったであろうことと同じように、未熟な弟子たちがイエス様を支えることも大変なことだったのだと。そして、そのことをイエス様は知って下さっていたのだと。

 イエス様は、弱い者の上に立って、弱い者を犠牲にして王になるのではなくて、弱い者の上に乗ることによって、弱い者の痛みを知り、その弱い者のために、ご自分の命を十字架の上で献げられたのであります。

 イエス様は子ろばを元の所に戻しました。そして弟子たちも、十字架につけられたイエス様が死なれた後、復活のイエス様に出会い、そしてそれぞれの本来の生きる場へと遣わされていきます。そのときの弟子たちの気持ちは、都エルサレムにイエス様が入場したときに周囲の人たちが感じていた高揚した気持ちでは全くなく、打ち砕かれた気持ちであったと思います。打ち砕かれた所から、新しい人生が始まりました。

 

 イエス様が子ろばを選ばれた、そのことを弟子たちは生涯忘れなかったと思います。弱い者の背に神様が乗ってくださる、私たちはそれを支えています。弱い者が自らの弱さを知りながら、神様をお乗せして神様に仕えていくとき、必ず新しい時代が開けていくのであります。

 

 お祈りをいたします。
 天の神様、私たちは日々、小さなろばとして歩み、担えない重荷を負っていることを思います。しかしイエス様が共にいて下さるとき、この子ろばがイエス様と共に歩んだように、私たちもイエス様と共に歩めますように。私たちもイエス様をお乗せして共に歩み、神様の御心に沿って歩むことができますようにお導きください。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

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「救いは無駄に現れない」
     2022年11月13日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  ガラテヤの信徒への手紙 3章 1〜6節 (新共同訳)

 

  ああ、ものわかりの悪いガラテヤの人たち、
  だれがあなたがたを惑わしたのか。

  目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿で
  はっきりと示されたではないか。

  あなたがたに一つだけ確かめたい。

  あなたがたが“霊”を受けたのは、
  律法を行ったからですか。

  それとも、福音を聞いて信じたからですか。

  あなたがたは、それほど物分かりが悪く、

  “霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。

  あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。

  無駄であったはずはないでしょうに……。

  あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、

  あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。

  それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。

  それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と

  言われているとおりです。

 

 

 

 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
  改行などの文章配置を説教者が変えています。
  新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

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 (以下、礼拝説教)  

 礼拝において、マルコによる福音書使徒パウロの手紙、そして旧約聖書、その3箇所から選んで毎週順番に読んでいます。今日の聖書の箇所はガラテヤの信徒への手紙3章1〜6節であります。

 今日の箇所は冒頭からきびしい言葉で始まっています。「ああ、ものわかりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか」、このような言葉で始まっています。ガラテヤというのは地中海沿岸の一つの地域の名前でありますが、そのガラテヤの地域に立てられていた教会の信徒の人たちに対して、使徒パウロがしかっているという言葉であります。

 このガラテヤの信徒への手紙の全体が、パウロからガラテヤの人たちへの愛の心のこもった手紙であります。そして、そのパウロの深い愛というものはガラテヤの人たちが間違った方向に行きかけていたことに対して、しかるという形で現れています。

 何がしかられているかというと、ガラテヤの教会の人たちは最初は、パウロたちの伝道によって、主イエス・キリストを信じることによって、旧約聖書の律法によって救われるのではなくて、ただ神様を信じる、その信仰において救われる、そういうことを信じていたのであります。最初はそうだったのです。

 しかし、その後に、旧約聖書に書いてある律法を守るということ、これも大事だよという人たちが出てきて、昔の生活スタイルに戻そうと、戻ろうとしていた、そういうことがあったのであります。それに対してパウロがしかっているのは、そのような古い考え方に戻っては絶対にいけない、ということでありました。

 なぜならば、人間は何かの行いをすることによって、神に救われるということはないからであるとパウロが堅く信じていたからであります。人間が良い行いをする、徳を積む、あるいは聖書の決まり事、律法をしっかりと守る、そのことによって神様からほめられて、そして神様に救われる、そういう考え方は間違っているということが、パウロの信仰の核心でありました。

 人間は行いによって救われるのではなく、ただ信仰のみによって救われる。人間は行いによって救われるのではなく、ただ信仰のみによって救われる。

 それは人間の行いがどんなにひどいものであったとしても、汚れたものであったとしても良くなることだったとしても、しかしその罪人である人間の心が本当に神様のほうを向いて、悔い改めて、そして神様からの和解ということしを受け入れる、そのときにその人の神様に対する罪がすべて清められ、その人は救われる。パウロはそのことを確信していました。

 ですから、ガラテヤの教会の人たちが古い考え方、旧約聖書の決まり事、律法を守ることで救われるという考え方に戻ろうとしていることが耐えられなかったのであります。

 パウロはこのように告げています。1節の後半です。
 「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示されたではないか。」

 それなのにあなたたちは何をしているのか、という、そういう言葉であります。
 そして、こう続けます。
 「あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。」

 パウロはここで、かつてガラテヤの教会を訪れたとき、そこに行ったときに教会の人たちにイエス・キリストのお話をしました。おそらく礼拝の説教だったのでしょう。そのときに、イエス・キリストが十字架につけられて死なれた、そのことが人間の罪のゆるしなのであるということをパウロは福音として説いたのであります。

 イエス・キリストの十字架の死、それは人間が神の子を拒絶するという出来事でありました。人間は神様からの一番の愛というものを拒絶して、神の子イエス・キリストを十字架につけて殺したのであります。そこに人間の罪の最も深い面が現れています。

 神様が人間を造って下さった。愛を持って人間を創造して下さったにもかかわらず、人間は神の愛を拒絶した。しかしそのような神様に対する深い深い罪ということを、神様はゆるしてくだった。イエス・キリストがその十字架の死を自ら受け入れて下さった。その罪を負って死んで下さった、そのことにおいて人間の罪がゆるされた。

 そして、イエス・キリストが三日の後によみがえられ、私たちのところに来て下さった。それはイエス・キリストを十字架につけて殺した、つまり、神の愛を拒絶したという人間の最大の罪を神様がゆるしてくださったということであります。

 そのために神様は神の子イエス・キリストを失った。その大きな犠牲を払って神様は私たちのために愛を見せて下さった。それが十字架につけられたイエス・キリストによる救いということであります。

 パウロは一生懸命にそのことを説教したのであります。おそらく、自分の個人の経験も合わせて語ったでありましょう。そのパウロの説教を聞くことによってガラテヤの教会の人たちは自分の罪を実感し、そして悔い改め、イエス・キリストが主であるということを受け入れ、復活のイエス様を自らの主として信じる新しい生活へと踏み出していったのであります。

 それは、旧約聖書の律法を守って、その行いによって救われるという生活、その考え方を捨てて、自らの罪を悔い改めて、ただ神様を信じる、そのことによって救われるという、新しい道でありました。

 しかし、ガラテヤの人たちはその道から離れようとしていたのです。そこでパウロは言っているのです。「あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。」

 ここで、「霊」という単語に、上下にコーテーションマーク、“”が付いていますが、これは新共同訳聖書の書き方で、ここで霊という言葉が単なる霊ではなくて「神様の霊」ということを示すときに“霊”と表記しています。この箇所においては神様の霊、聖い霊ということを示しています。

 ガラテヤの教会の人たちが、神様からの聖霊を受けたのは、律法を守る、つまり何かの良い行いをしたから、ごほうびとしてもらったのかというと、そうではない。福音を聞いて信じたからでしょう、とパウロはここで問い詰めているのです。

 つまり、行いによって神様から何かを得るというのは、自分の力、自分の努力で神に救われるということにしていることなのです。パウロからすれば、そうじゃないでしょうと。自分の力ではなくて神様からのプレゼントである、良き知らせ、イエス・キリストの教え、それを聞いて、ああ、これは本当のことだ、と信じることによって救われる。そうなんです。

 もともとガラテヤの教会の人たちもそうだったんです。自分の努力で神を得るのではなく、神様の愛を受け止めることによって救われる、そう信じていたのです。ところが、そこから離れてようとしているのです。

 3節でこういいます。
「あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。」

 最初は、神様によって、神様の聖霊によって、神様が私たちのところに来てくださった、というところから始めたのに、肉によって、つまり自分で自分の行いによって自分の救いを得る、そういうふうにしている、おかしいじゃないか、とパウロは言っているのです。

 そして4節でこう言います。
 「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。」

 ここでパウロは、ガラテヤの教会において自身が説教してきたこと、そしてその説教においてイエス・キリストによる罪のゆるし、十字架につけられたイエス・キリストによる罪のゆるしということをパウロは語り、それを聞いた教会の人たちはみんなそのことを自分自身のこととして体験したのであります。

 パウロが言っている話は、ただ単にパウロだけの話ではなく、私たち一人ひとりの話だと、自分たちは神様によって造られたのに、神様に反抗し、神様を認めず、神様に逆らって生きている、その罪をイエス・キリストの十字架の死によって、ゆるされる。

 そのことによって自分たちはイエス・キリストと共に新しく生きていく。そう思う経験をした、それは無駄だったのですかと、パウロは厳しく問うています。

 「無駄だったはずはないでしょうに……」、そんなことがあるわけない、と深くパウロは信じてこのように言っています。

 「あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。」

 ここでもう一度、先ほどの2節で問うたことをもう一度繰り返しています。あなたたちは自分の努力、自分の行いによって救われたのですか、それとも神様の言葉を聞いて救われたのですか、この二者択一で迫っています。そして6節では旧約聖書の言葉を引用しています。

 「それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです。」

 旧約聖書の言葉を用いて、そこに登場するアブラハムという大変重要な人物、そのアブラハムが神を信じた、それが彼の義と認められた、という聖書の言葉を引用するときに、アブラハムという人がいかに立派な人だったかということではなくて、彼が神を信じた、そのことが彼の義、彼の正しさとなった、というふうに旧約聖書の言葉を用いて、自分の主張をここで論証しているのです。

 以上が今日の聖書箇所であります。この箇所を読んで皆様はどう思われますでしょうか。今日の箇所を読みましたときに私が最初に思いましたのは、1節のところにあります、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示されてではないか、という言葉がまず心に残りました。これは何を意味しているでしょうか。

 あたかも、目の前に何か幻想、幻が浮かび上がるように、イエス様が十字架につけられている姿が示されたということであろうか、というふうにも思いました。聖書の注解書を調べてみますと、ここで言われているのは、その目の前に見せたという言葉ではあるのですが、意味としては、公に示された、はっきりと掲げられた、という意味であるということなのですね。

 こそこそと、秘密のようにして、実はこうなんです、とか、暗黙のうちに示したということではなくて、はっきりとそのことを公に示した、という言葉だそうであります。

 するとこれは、何か人々がイエス・キリストの幻を見た、何か視覚的なイメージで幻想を見たというような神秘体験を言っているのではなくて、はっきりとイエス・キリストの十字架の死が、私たち一人ひとりの罪のためであるというこどかはっきりと説教で語られて、はっきりと受け止めた、そういう意味に受け取ることが良いように思えます。

 そしてさらに、そのあと2節のところでは、あなたがたが霊を受けたのは、というところで、“霊”という言葉にコーテーションマークが付いていますけれど、神様の霊、神様そのものの目に見えない姿で、その働き、それが聖霊でありますけれど、あなたがたが聖霊を受けたのは何々ですか、と書いてあるここで、ガラテヤの教会の人たちが聖霊を受けた体験というのは、どういうことだったのだろうかと考えてみました。

 特に、4節のところではこうあります。「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。」こう強く言っています。

 すると、パウロがここで言っているのは、ガラテヤの教会の人たちが霊を受けた体験というのは「あれほどのこと」というふうにパウロはとてもとても大きなことだったようなのですね。

 すると、それは具体的にはどんなことだったのだろうか、ということを私たちは知りたくなります。けれども、聖書においてはそのことは具体的には示されていません。このガラテヤの信徒への手紙においても、こんな経験をしたんだ、という具体的なことは描写されていないのです。

  ただパウロは、ガラテヤの教会の人たちがかつて経験したこと、自分自身の悔い改めということをパウロの説教を聞くことにおいて、イエス・キリストが私の主なのだ、私の罪をゆるしてくださる主なのだ、救い主なのだ、ということをまさに知った、そう確信した、その経験のことをパウロは言っているのですあります。

 ただ、それが具体的にどのような出来事であったか、ということは今日の聖書箇所に書かれていること以上にはわからないのです。

 ここでいろいろと私たちは想像することができます。たとえば、1節にある「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示されたではないか」と書いてあるところからすると、ここに書かれた神秘体験のようなことを考えることができなくもありません。

 また、当時の時代状況の中においては、異言を語るというような神秘現象がありました。「異言」、それは異なる言葉と書くのですが、人間の言葉ではない言葉を人間が語るということです。何か不思議な声を出し、不思議な発音をして、何か不思議なことを語り出す。聖書の中ではそうした異言というものがあったことが記されています。何かそうした神秘現象が起こったのだろうか、ということを想像することができます。

 そうであれば、そのガラテヤの教会の人たちが経験した、その現象が何であったかということを、私たちは知る方法もなく、そしてまた、私たち現代人の目から見て考えるときには、そういうことに対しては、ちょっと批判的に思うこともあるはずなのです。

 つまり、何かの宗教的な行事の中で興奮して、何かのトランス状態のようになって不思議な気分になって幻想を見たのか、すると聖霊の体験とはそんなことだったのか。

 そんなふうに思って私たち現代人の目から見ると、ちょっと気持ちが冷めていくようなところもあると私は思います。しかし、そうしたいろんな想像をすることはできるのですけれども、聖書全体のなかで理解するときには、もう少し落ち着いた理解をしたいと私は思っています。

 パウロの手紙のなかで、異言、異なる言葉を語るというような、少し不思議な神秘現象のようなことが書かれていたり、また今日の箇所において、あなたたちはこれを見たではないか、とあたかも幻を見たかのような経験が語られるということは確かにあります。

 けれども、パウロはどの手紙においても、最終的には、そうした何かの不思議な経験をしたから神を信じたということではなく、ただ神様が私たちを愛してくださり、イエス・キリストをつかわして下さった、それは私たち一人ひとりの罪をゆるすためであった、ということを落ち着いて受け止め、落ち着いて信じ、そして落ち着いた教会を形成していく、ということをパウロはこの手紙を通して人々に勧めているのですね。

 そこには、パウロの伝道者としての独特の感覚があったと思います。というのは、たとえば現代の世界においても、宗教的な独特な精神的な深い経験、科学を超えたような不思議な現象が起こることも考えられなくもない、そんな何かの不思議なことに人間は心をひかれることはなくもない、ということがあり、パウロはそうした人間の心のあり方を知っているのです。

 そしてまた私自身もそうですけれども、自分という人間の精神がいつもいつも安定しているわけではなく、いろんな揺れを経験することがあります。そのなかで人間は、たとえば重い病気を患ったけれどもそれが不思議な経験においていやされた、というような経験をすることもあります。神秘的といいますか、偶然とはいえない何かを感じる経験、それは確かにあるのです。

 けれども、だからといって、そういうことがあるから、神様を信じましょう、とか、そういうことがあるから、神様は本当にいるんだ、と力説をするのではなくて、そうした現象はあるにはあるけれど、それによりかかるのではなくて、むしろ、冷静な気持ちで受け止めていくことが、もっと大事なんだとパウロは言うのです。

 聖書に記された言葉、神様のメッセージである神の愛ということを冷静に受け止め、そして人間は行いによって救われるのではなく、ただ信仰によって救われる、そのことを信じ、そしてそこから、いろいろな古い習慣、古いものの考え方から解き放たれて、そしてまた差別や貧困など、いろいろな人間の作り出す罪の結果である問題から解放されて、新しい生き方をしていく。

 そのためにキリストの教会というものを造っていく、そのことがパウロが最終的に私たちに示していることであり、そしてまたそのことは、現代の私たちにとっても確かな指針なのであります。

 聖書における“霊”ということが、どのようにあるのか、そのことを解釈するときに、私は使徒言行録2章にある言葉を大事にしています。そこにはペンテコステ聖霊降臨日)と呼ばれる、神様の聖霊が弟子たちにくだったときのことが書いてあります。イエス様が十字架で死なれ、そして復活して天に上げられた後、弟子たちに神様からの聖霊、聖い霊が与えられた、ということをペンテコステは示しています。

 そのペンテコステの物語の中の、最終的なところにおいて何が言われているかというと、次のようなことです。

 人々は皆ともに集まって神様を礼拝し、そしてそれぞれの財産を貧しい人のために分かち合って、そのことによって貧困をなくし、そして家でパンを裂き、これは今でいう聖餐式のことを指していますが、そして神殿に参って神様を礼拝し、讃美をしていた。そしてそのような集まりが地域の周囲の人たちからも好意を持たれ、そして日ごとにその群れに新しい仲間が加えられていった。

 そうしたことが使徒言行録2章の最後に記されています。神様の霊というものが与えられた、その結果がどうなったかということを示しているのは、その使徒言行録2章の最後に書かれてある通りです。

 それは言葉を代えて言えば、落ち着いた楽しい教会というものを造る、みんなで協力して造る、それが神様の聖霊を受けた人たちの教会のやるべきことであると、確かに示されています。

 そのことを元にして、このガラテヤの信徒への手紙の今日の箇所を読むときにも、ここに書かれている事の中には、何か神秘的な体験ということを想像させることも確かにあります。けれども、そうした何か不思議な経験をしたからということではなくて、神様が私たちを愛して下さっている、ということこそが大事なのです。

 人間の行いによってではなく、信仰によって救われるように、神様はイエス・キリストによって導いてくださる、ということを信じた、そのことが一番の大きな経験であって、それが4節にあるような、「あれほどのことを体験したのは無駄だったのですか、無駄であったはずではないでしょうに……」と言われている、そのことであるのです。

 今日の聖書箇所において私が思わされるのは、「あれほどのことを体験したのは無駄だったのですか、無駄であったはずではないでしょうに……」という、このパウロの厳しい言葉であります。私たち一人ひとりの人間は、それぞれの人生を歩んでいますから、それぞれみんな、その経験は違っています。教会ということに関する経験も、信仰ということの経験もみんな違っています。

 中には非常に大きな経験、何かのドラマチックな経験をして、そこで神様を信じたという経験を持っている方もおられます。またそれとは逆に、ドラマチックな経験は何一つなかったけれども、いろいろな人との出会いの中で神様を信じるようになりました、という人もいます。そしてまた、神様への信仰を告白するには至っていません、という方もいらっしゃるでしょう。人はみんな、それぞれなのです。

 けれども、どんな人であったとしても、その人生の中で、何もなかったということはないと思うのですね、私は。それは、なにかドラマチックなことだとか、あるいは人にしゃべったときに、すごい経験をしましたね、と言われるようなことではなくて、どっちかというと、人にしゃべったら、ああ、そうですか、ふーん、と言われるような、どうということはない経験、そういうものがたくさんあるのです。

 神様がわたしたちを救ってくださる、ということも、それぞれの経験の中であって、ときには病気が治ったとか、こんな経験をしたとか、神秘的な経験をしたという人もあるかもしれません。奇跡を経験した人もあるのかもしれません。しかし多くの場合はそうではないと私は思っているのです。

 そして、何か奇跡的なことを経験したから神を信じるのではなく、むしろ、様々な人との出会いを通して、いつしか私は神様に導かれていました、ということが大きな経験であり、そのことが離れていこうとするときには、「あれほどのことを体験したのは無駄だったのですか、無駄であったはずではないでしょうに……」というパウロのおしかりの言葉を聞くことになるのだと思うのですね。

 私たち一人ひとりが、どんな人生であっても、それぞれに大事にしてきた歩みを大切にしていきたいと思うのです。その中にあって、別にわざわざ人に言うことでもないけれど、あのとき神様に導かれたとき、何かを思ったという経験があるならば、それを大事にしていただきたいと思うのであります。

 救いというものは、決して無駄に現れるものではありません。

 お祈りをいたします。
 天の神様、私たちが日々いろんなことを考えて生きていることを神様は知って下さっていると思います。社会のいろいろな状況、世界の動向、そして自分自身の人生。健康のことも含めて、家族の問題や仕事の問題や、経済的なことなど、いろんなことを含めて、本当にたくさんのことを考えて、悩みが生じることもあります。その中にあって、こうして聖書の言葉に出会う機会を与えてくださり、心より感謝をいたします。イエス・キリストが私たちの全ての罪を負って死なれたこと、そのことを通して神様の罪のゆるしが現されたことを、ガラテヤの教会の人たちと同じく、私たちもこの京北教会において、神様から示されて、一人ひとりがまた歩んでいくことができますように、一人ひとりの心の中に信仰を与えてください。
 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

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「意外な収穫が待っている」
      2022年11月20日(日)京北教会
  収穫感謝礼拝  説教 
今井牧夫

 聖 書  創世記 32章 4〜13節 (新共同訳)


 ヤコブは、あらかじめ、
 セイル地方、すなわちエドムの野にいる兄エサウのもとに

 使いの者を使わすことにし、
    お前たちはわたしの主人エサウにこう言いなさいと命じた。

 「あなたの僕ヤコブはこう申しております。

  わたしはラバンのもとに滞在し今日に至りましたが、

  牛、ろば、羊、男女の奴隷を所有するようになりました。

  そこで、使いの者を御主人様のもとに送って御報告し、
  御機嫌をお伺いいたします。」


 使いの者はヤコブのところに帰ってきて、

 「兄上のエサウさまのところへ行って参りました。

  兄上様の方でも、あなたを迎えるため、

  四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます」と報告した。

 

 ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ末、

 連れている人々を、羊、牛、らくだなどと共に二組に分けた。

 エサウがやって来て、一方の組に攻撃を仕掛けても、
    残りの組は助かると思ったのである。

 

 ヤコブは祈った。
 「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、

  あなたはわたしにこう言われました。

 

  『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。

 

  わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを

  受けるに足りない者です。

  かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、

  今は二組の陣営を持つまでになりました。

 

  どうか、兄エサウの手から救ってください。

  わたしは兄が恐ろしいのです。

  兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。

 

  あなたは、かつてこう言われました。

  『私は必ずあなたに幸いを与え、

   あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。」

  

 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
   改行などの文章配置を説教者が変えています。
   新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

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 (以下、礼拝説教) 
 

 本日は教会の暦(こよみ)で、収穫感謝礼拝の日であります。秋の自然の収穫を感謝し、その収穫を下さった神様にみんなで感謝を献げる日であります。教会において、この収穫感謝礼拝、収穫感謝祭ともいいます、そうした礼拝また行事ということが、世界の教会で行われるようになったのは、特に北米、北アメリカの教会において、そのことが重要視されていたからであります。

 「1620年9月、メイフラワー号に乗ってヨーロッパから、信仰の自由を求めてアメリカ大陸に渡ってきた清教徒ピューリタンと呼ばれる人たちは、彼らにとっての新天地での新しい生活を始めました。」これはあるキリスト教主義学校のホームページに載せられていた文章の説明でありますけれども、元々アメリカの教会で収穫感謝礼拝が祝われるようになったのは、ヨーロッパからアメリカにやってきた清教徒の人たち、新天地での生活を求めてやってきた人たち、その出発点を覚える意味を持っていたのであります。

 「やってきたその人たちにとって、新しい土地での冬の生活は非常に厳しく、男性78名、女性24名の内の半数が飢えや寒さで亡くなりました。やがて春が来るとともに、人々は元々そこに住んでいた原住の人々に助けられて、土地を耕し、作物を育て、秋になって最初の収穫を得ることができたのです。そのことを感謝して、最初の収穫感謝祭が始まったとされています。」

 以上、このように共愛学園というキリスト教主義学校のホームページに書かれてありました。簡潔でわかりやすい説明でしたので、感謝してここに引用させていただきます。

 新しい土地で、新しい生活をするということがとても大変なことであり、そして、そのことをするためには、もともとそこに住んでいた人たちと出会い、その人たちと仲良くなって、その人たちに助けられて、畑を耕してその土地の作物を植えたときに、初めてわずかながらの収穫が与えられ、生き延びることができたのでした。

 そうした経験が収穫感謝ということの原体験になっているのです。そのとき与えられたわずかな食べ物、それは自然の恵みであるとともに、先住の人たち、そこに元々住んでいた人たちの助けがなければ与えられなかったものでありました。

 そうした人からの助け、そして、もちろん自分たちの努力ということもありました。そうしたもののすべて、全体が神様の導きであるということを感謝する、ということが収穫感謝礼拝の起源なのであります。共愛学園という高等学校のホームページを見ると、以上のように書いてありました。学校の生徒たちに伝えるために書かれた文章で、大変参考になります。

 そして収穫感謝ということは、日本にいる私たちにとっては、そうしたアメリカでの収穫感謝の起源というだけではなく、この日本社会の中で生きていくときに、秋というものが自然の恵みのときであり、最も自然の豊かさ、恵みというものを私たちが、食べるものということを通じて実感できるときであります。

 収穫を感謝するということは、キリスト教だけではなく世界各地、どの地域にあってもあるのはないかと思います。そこで採れた作物を感謝してお祭りをする。そこで採れた作物をみんなで祝う、感謝する、そしてお祭りをする。

   ハロウィンというものも収穫感謝に起源があるそうです。しかし、そんなお祭りで大きな事故が起こるということも、私たちは世界のニュースで聞いています。韓国で大きな事故が起こったことは本当に胸が痛み、言葉がなくなる思いがします。

 お祭りということはいろいろな形であります。お祝いというものもいろんな形があります。けれども私たちにとって必要なのは、秋のお祭りも楽しいけれども、それを一体何のためにするのか、私たちの心をどこに向けていく必要があるのか、ということを覚えることが大事であります。聖書に基づいて申し上げますと、収穫感謝のときの私たちの喜びは、神様に向けるものなのであります。

 今日の聖書箇は創世記32章です。ここしばらく京北教会では毎週、マルコによる福音書使徒パウロの手紙、旧約聖書、その3箇所から選んで毎週順番に読んでおりますが、その順序で今日の箇所になりました。

  ここには、新共同訳聖書の小見出しで「エサウとの再会の準備」と記されています。こうした小見出しは元々の聖書にはないものです。ここには、ヤコブが兄のエサウと再会する、そのために一歩を踏み出したことが書いてあります。

 創世記という書物には、旧約聖書の冒頭にあって、天地創造、人間想像、本当に古い:時代の人間の歴史ということを記しています。

 もちろんそれは、現代の私たちが考える意味でも歴史とは違っていて、言い伝えであり、古代の神話的な物語であるといつてよいと思います。そのすべてが歴史的な事実、あるいは科学的な事実、ということではなくて、様々な言い伝えというものを、神様への信仰を持って編集したものであります。

   ですから、ここに書かれているのは単なる事実、歴史ということではなくて、これが神様に向ける信仰である、ということを私たちに教える物語なのであります。

 今日の箇所に登場する、ヤコブというこの人には、双子の兄のエサウという人がいました。父イサクのもとに生まれた双子として、父の持っている財産また父の権威というものを受け継ぐには、双子の子どもがいて、本当なら兄であるエサウがそうだったはずなのを、双子の兄弟の母であるリベカの計略により、弟ヤコブに、その父の祝福が与えられることになってしまいました。

 創世記にはそうした物語が記されています。あってはならないことがあった。双子の兄弟の中がこうして裂かれることになった。分裂することになった。そして、兄エサウを恐れて弟ヤコブは逃亡の旅に出ることになります。

 その逃亡の旅は長く続きます。逃亡の地において、そこで身を寄せた人のもとで働き、そしてそこで出会った人と結婚します。子どもが生まれます。それらの生活は並大抵のことではありませんでした。労働は大変重いものであり、結婚も一筋縄にはいきませんでした。

 現代の私たちの目から見れば、本当に理不尽にしか見えないような苦しみを味わって、ヤコブは生き続けました。そして家族が与えられ、財産を作り、ひとかどの人となっていった、そのヤコブに神様からの御言葉が与えられました。

 「あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える。」

 ヤコブはその言葉を信じて、元いた所に帰ろうといたします。しかしヤコブの心は不安で満たされていました。かつて自分はしてはいけないことをした、計略を用いて父イサクをだまして、父の持つ祝福、父だけが持つ財産を奪い取る形で、兄エサウから奪い取る形で、この地を離れていったヤコブ。そのヤコブが再びエサウと本当に会うことができるのでしょうか。

 ヤコブは先に偵察のような形で使者を送ります。すると、意外な答えが返ってきます。兄のエサウも、ヤコブを迎えるために「400人の供の者を連れて、こちらへお出でになる途中でございます」というのでした。

 ヤコブは非常に恐れます。思い悩んだ末に、連れている人々と羊などを二組に分けました。エサウがやってきて一方の組に攻撃をしかけても、残りの組は助かると思ったからである、このように書かれています。

  ということは、ヤコブは兄エサウと和解できるということを信じていなかったということであります。自分は殺されるかもしれない。家族もどうなるかわからない。財産もどうなるかわからない。そんなときのために、二手に分けておこうといって、ここで計略を働かせているのであります。

 しかしそのように、エサウとの再会に不安を覚えつつも、ヤコブは神様に対して祈りました。「あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える」、この神様からの言葉を神様に告げ、そして自分が元いた所から離れて逃げてきた道のり、そしてその後の自分に与えられた恵み、そういうことを神様の前で語ります。

 そして12節でこういいます。「どうか救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めてきて、私も母も子どもも殺すかもしれません。」このように言っています。ヤコブは、兄エサウに会うときに、エサウが自分をゆるしてくれるとは思っていなかったのです。

 あれほどのひどいことをして、兄エサウがこの私をゆるしてくれるはずがない。エサウが、兄が、この私に会おうとしているのは、和解のためではない。和解のために会うといってだまして、そして私を殺すのだろう。そうした恐怖がここににじみ出ています。

 しかし一方で13節でこう言います。「あなたはかつてこう言われました。わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数え切れないほど多くする。」

 これは、ヤコブが逃亡の旅を始めたときに、夢の中で神様が語って下さった言葉であります。これからの道のりに希望を見いだせないような旅の孤独の中で、たまたま野宿したところで、神様が夢に現れてくださったのであります。

 その言葉を聞いて、ヤコブは次の日、この場が特別な場所であるということを知って、そしてその場所を礼拝のための場として特別に大事にすることになりました。この時点から、もう何十年も前の昔のことではありますが、ヤコブはそのかつての礼拝の場での神様の言葉を覚えていたのであります。

 今日の聖書箇所はここまでです。ここまでお読みになられて皆様は何を思われたでありましょうか。今日は収穫感謝礼拝の日ではありますが、この箇所には収穫という言葉は出てきていません。このあと、聖書の物語の続きがどうなるか、先のことを言えば、ヤコブエサウは無事に再会を果たすことができるのです。

 そういう意味では、この先に、そこに本当に収穫が待っている、神様が与えてくださった大きな恵みが待っている、ということは確かです。しかし、今日の箇所においては、まだその収穫が与えられていません。

 今日の箇所には、ヤコブがたくさんの財産を持っていたということも書かれています。牛や羊や男女のどれいを所有をしていたとあります。当時は奴隷を持つということが許されていた時代であります。貧しくなった人や戦争で捕らえられてきた人、いろいろな形で自分の力で生きることができなくなった人を奴隷にする、そのようなことによってその人たちの生活を保障するという意味もあったようであります。

 いろいろな意味で家畜や人間を含めて、財産を持つようになった。そこに至るには長年の本当に苦しい労働を続けたということがあり、また、理不尽な環境の中で主人との関係の中で理不尽な苦しみを強いられながらも、結婚し、家族を持っていった。その生活の帰結がそのように豊かな祝福であったということも、ここには書かれています。

 本日、この聖書箇所を読みながら、収穫感謝礼拝ということで、皆さんと共にこの聖書の箇所を読むときに、教えられることというのは、神様からたくさん収穫を与えられた人が、その収穫を元にしてなすべきことは何か、ということであります。

 たくさんの収穫が与えられた。たくさんの作物ができた。たくさんの人も雇うことができた。それらはもう立派な収穫なのでありますけれども、その与えられた収穫を「これがわたしの財産だ」と言って飲み食いし、ただ喜んでいる、ということではなく、神様が豊かに与えられたものは、その収穫を持って、和解へと踏み出していく必要があるのです。

 かつて対立していたエサウヤコブ自身にとって、父親イサクの祝福を奪い取って逃亡した、そういう許されないことをしてきた相手である兄エサウともう一度出会う、再会をする、そして和解を願う。それはヤコブにとって、おそらく一番やりたくなかったことではないかと私は思うのです。

 そんなことはもう本当に一番したくないこと、というか、和解を求める以前に私は殺されてしまうのではないか、そういう恐怖がありました。本日の箇所においても、それは切々と伝わってきます。

 「私は兄が恐ろしいのです。」
 この恐怖感は当然ですね。ヤコブ自身が、自分がやってきたことが母リベカの計略によるものだったとしても、実際にそれをしたのは自分である。そのことを考えたとき、兄エサウが自分と会うためにやってきている、というふうに聞いても、それを素直に信じることができないのです。

 「400名のお供を連れて、こちらへお出でになる途中でございます」という言葉を聞いたときも、その400名は兵士で、自分を討ち取りに来たのだと考えてもおかしくありません。

 けれども、そんなヤコブが勇気を奮い起こして、神様に祈って、「あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える」と神様が言ったから、ヤコブは帰るのです。「あなたはかつてこう言いました。『わたしはあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数え切れないほどに多くする。』」

 かつてヤコブが何の希望もないときに、たった一人で孤独に野宿して過ごしていたときに、神様がヤコブに約束して下さっていたことが、本当に実現しました。

 それは、単にそのときだけの言葉とか、ある一時期だけに実現することではなくて、この私の生涯の終わりまで守り抜いて下さる神様の言葉であり、その祝福を信じてあげるときに、きっと神様、あなたはわたしを守ってくださるばすです、とヤコブはここで神様に向かって必死で祈っているのであります。

 私たちが普段に、収穫感謝というときに、自然の恵み、食べ物、そうしたものから得られる秋の恵みということを考えます。けれども、そうした秋の恵みがいかに豊かであるか、いかに美味しいものが食べられるか、ということばかりに気を取られて、ああ良かったといって大騒ぎをするお祭りをする、ということだけでは、やはり足りないのです。

 豊かに恵まれた、これからこの食べ物を食べて生きることができる、本当にうれしい、本当に感謝だ。その思いを持って、そこから踏み出すべき道があるのです。それは、この収穫が与えられる前に自分がしてきたことを振り返り、自分の罪を悔い改め、そして自分のなしうる限りのことをする、その勇気を持つことであります。

 最初に申し上げました、アメリカでの収穫感謝礼拝の起源。それは、イギリスからメイフラワー号で渡ってきた清教徒(ピューリタン)の人たちが住み着いたときに、過酷な自然の中で、右も左もわからない中で、やって来た人たちの半数が死んでいく。そんな生活の中で助けてくれた原住民の人たちによって、わずかばかりの収穫をすることができるようになった。

 そこから生きることができるようになった、という苦難の経験が元になっているのですが、その後に、イギリスからアメリカに入ってきた人たちは、原住民の人たちに対してひどい扱いをするようになります。

 そのことは現代まで続いている問題でありますけれども、一番最初には、本当に助けてもらって感謝していた、その生活が、その後にだんだんと収穫が豊かになってくると、進んだヨーロッパの技術を持ち込んだ人たちが優位を示すようになり、そして原住の人々を支配をするようになっていった。そのことで大きく関係が変わっていくのです。

 その歴史を振り返るという、ものすごく大変なことを現代のアメリカの人たちはしています。それはいまだ、決して十分ではないのかもしれません。しかし、その歴史を覚えようという働きは確かにアメリカ、またカナダなどいろんなところで起きています。

 本当に恐ろしいことが起こってきた、その歴史に目を背けず、どうやってこれから一緒に生きていくのか、ということを考える、そうした、歴史を踏まえた新しい和解の旅というものが、そこで始まっているのです。

 そのように考えると、収穫感謝ということは、単なる神様から与えられた恵みへの感謝だけではないのです。それを元にして、そこから踏み出すことがあるのだと。それは、歴史の振り返りであったり、自分が収穫を得るために虐げてきた人たちとの関係を見直すということであったり、いろんなことなのです。

 収穫感謝、それは何のために必要なのでしょうか。それは、神様から与えられる恵みというものは、一人で独占するためのものではなく、人とわかちあうために必要なことなのであります。収穫をまだ分かち合っていない人がいるのではないか、と考えたときに、いろんな人を思い起こすことができるのであります。

 今日の聖書箇所を読みながら、私は主イエス・キリストのことを思い起こしていました。イエス様がわたしたちのために十字架につけられ、死なれた、それが私たちの罪のゆるしのためであった、私たち一人ひとりの救いのためであった、そのように聖書は教えています。そこには、神と人との和解ということが、イエス・キリストの十字架の死ということを中心にして存在している、ということが示されています。

 神様が、私たち一人ひとりの人間を、この世に創造して下さった。創り出して下さった。にもかかわらず、人間は神様から与えられた自由を、正しい目的のために使うことができず、自己中心的に使ったがために、人間は神様に対して罪を犯した。そして神様の前から離れて、新しい地へと向かうことになったのであります。

 そうして人間は罪人として生きるものとなり、同時に、罪人であるがゆえに神様を追い求めて神様を必要として生きる存在となりました。しかし、人間は神様を必要としていても、自らの罪のために神様と和解することができません。そのため神様は、御子イエス・キリストを私たちの救い主として送って下さり、神の国の福音を知らせて下さいました。

 ところが、その主イエス・キリストを私たちは、人間は拒絶をします。神の教えに対して、人間はどこまでも自己中心的なのであります。そして人間はイエス・キリストを捕らえて無実の罪で十字架につけた。そして、その命を奪ったのであります。

 そのゆるされないことをした人間の罪、それをイエス・キリストは十字架にかかられ、自らがその罪を引き受けて死なれることで、ゆるしてくださいました。そのイエス・キリストが3日の後によみがえり、天に上げられ、神様の見えざる霊、聖い霊としての聖霊という姿で、今もわたしたちと共にいてくださっています。

 新約聖書に記されたことをキリスト教の教えでは、そのように理解しています。そうしたことはいわゆる科学的な意味での事実、歴史的な意味での事実ではなくて、神様に対する信仰における解釈であります。物事の受け止め方ということであります。そのことにおいて、私たちは神様ということを信じ、自らの罪のゆるしということがイエス・キリストにおいてなされる、ということを信じてよいのです。

 今日の聖書箇所においては、イエス・キリストは出てきません。しかし、ヤコブが罪人であることを思いつつ、兄エサウと和解するために、再会するために、勇気を奮い起こした、その場面が書かれています。それは、罪人が勇気を奮い起こして、神様の導きに従って一歩を進んで行こう、という、そういう場面であります。

 収穫感謝、それは神様から与えられた恵みによって、ただお祭りをする、ただ良かったというだけではない、そこからさらに踏み出す、その勇気が与えられる、そういうときなのであります。 

 お祈りをいたします。
 天の神様、 私たち一人ひとりが、置かれている状況にあって、様々なしんどいことがあり、自分の健康の問題や家族の問題、仕事の関係や地域の関係や、また社会における様々な不安な出来事など、いろんな課題を私たちは持っています。神様は、その一人ひとりのしんどさを知って下さっています。そのことを感謝いたします。秋の豊かな祝福が与えられる今このとき、美味しいものが一杯あって、自然の恵みが一杯あるこのとき、食べ物が与えられないたくさんの人のことを思います。私たちもまた、貧しさやいろんな困難と関係がないわけではなく、むしろその隣り合わせに生きています。そのことを思い起こし、イエス・キリストによって罪ゆるされ、神様と和解する、その勇気を持って、この世界を見渡し、また、自分の足下において、自分がなすべきこと、神様の恵みを人と分かち合うこと、そのことができますように、どうぞ導いて下さい。  
 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

 

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「冬、祈りを準備する」  
 2022年11月27日(日)京北教会 礼拝説教 今井牧夫

 聖 書  ルカによる福音書 1章 1〜17節 (新共同訳)


 わたしたちの間で実現した事柄について、

 最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、

 物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。

 

 そこで、敬愛するテオフィロさま、
    わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、 

 順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。

 お受けになった教えが確実なものであることを、
   よく分かっていただきたいのであります。


 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。

 その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。

 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、
   非の打ちどころがなかった。

 

 しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、

 二人とも既に年をとっていた。

 

 さて、ザカリアは自分の組が当番で、
   神の御前で祭司の務めをしていたとき、

 祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、
   主の聖所に入って香をたくことになった。

 

 香をたいている間、大勢の民が皆外で祈っていた。

 

 すると、主の天使が現れ、講壇の右に立った。

 ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。

 

 天使は言った。

 「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。

  あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。

 

  その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。

  彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、

  既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、

  イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち返らせる。

 

  彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、

  逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」

 

 

 

 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
  改行などの文章配置を説教者が変えています。
  新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

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 (以下、礼拝説教)  

 本日から、教会の暦で待降節アドベントと呼ばれる時期に入りました。アドベントとは、元はラテン語で「現れる」という意味の言葉であります。神の救いが現れ出る、現れるときということであります。それがアドベントという言葉の意味であります。

 神様の救い、それは主イエス・キリストのお生まれという形で私たちに与えられました。イエス様のお生まれは、クリスマスのときであるにもかかわらず、それを待ち望む4週間前のときから、神の救いが現れている、そのことを信じてクリスマスを待つとき、それがこのアドベント待降節の4週間ということであります。

 つまり、神の救いというものはそれが現れて初めて救いとなるのではなく、それを待つ、というところを含めて、神様の救いというものがあるのだということを、この教会の暦は私たちに教えています。

 今日の聖書箇所はルカによる福音書1章の冒頭の部分であります。四つある福音書の中で、このように冒頭のところに前文と言いますか、前書きというか、そうした言葉がある、それはルカによる福音書だけであります。

 ここに書かれているのは、テオフィロという名前の人に対して、ルカによる福音書というものはまとめられた、書かれたということを示している言葉であります。このテオフィロという方が実際にどういう人であったかは、全くわかりません。そしてまた、聖書学者の研究によれば、こうした前書きの書き方は、当時の一つの文学の形式であったということですね。 

 つまり実際にテオフィロという人がいて、その人に献呈するために書いたというわけではなくて、そのように書かれた、ということを一番最初に書くことによって、この福音書全体に重みを持たせている、つまり、これは地位の高い人に向けて贈るために、非常に精密によく調べて書かれたものであると、そういうことを表す文学的な形式である、という考え方もあります。

 ここに書かれている言葉を見ていますと、このように書いてあります。
 「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。」

 

 ここで言われている「わたしたちの間で実現した事柄」とは、主イエス・キリストによる救いということであります。具体的にはイエス様の十字架の死、そして復活、そしてその後の教会の誕生ということです。

 

 そうしたことを、ここでは「わたしたちの間で実現した事柄」という言葉で表しています。そして、その本当に実現したことについて、「最初から目撃して御言葉のために働いた人々」たちが、これは12名の弟子など最初から共に行動していた人たちのことですが、「わたしたちに伝えた通りに、物語を書き連ねようと」していると言っています。

 ルカによる福音書が書かれたのは紀元後80年代ではないかと考えられています。マルコによる福音書よりも、少し遅れて書かれているということです。冒頭に書かれているようにルカ福音書がまとめられ、その外にも、イエス・キリストについての物語、それを伝える文書を書こうと「人々がすでに手を着けて」いた。その中の一つに、このルカによる福音書があるということになります。

 そのように、いろいろな人たちがイエス・キリストについて教えている中で、このルカによる福音書は、いわば決定版として、いろんな資料をまとめて精密に調べて編集して作った、そういうものであるということが、ここに書かれています。

 「そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。」

 ここではすでにキリスト教の伝道というものがされていて、このテオフィロという人も、それをすでに聞いている、そのすでに聞いていることを再確認するために書いた、ということであり、イエス・キリストのことを何も知らない人にいきなりこれを読ませるためではなく、すでに教会の働きがあって、その教会の語る福音というものを受け入れている、あるいはそれに親しみを感じているであろう、そうした人を対象にこれは書かれている、ということが言われているのであります。

 それは、このルカ福音書の書かれた時代が紀元80年頃であると考えられている、つまりイエス様が十字架に掛けられて死なれた時から50年以上ほど経っているということであります。新約聖書の中の書物で一番古いものは使徒パウロの手紙であり、テサロニケの信徒への手紙1です。紀元後50年代に書かれたと言われています。この福音書よりも早くに書かれています。

 パウロや様々な人たちの伝道によって、教会が地中海沿岸また各地にできていきました。そこで最初は口頭で伝えられていたイエス・キリストについての教えというものが、イエス様の時代から段々と隔たっていくときに、これを文章に残して置かなかったら、伝わらなくなってしまう、そうした事情から福音書というものがまとめられていった。そのように考えられています。

  もちろん、イエス様が天に上げられて以降、50年経って初めて執筆されたということではなくて、おそらくもっと早い時期にいろんな人がいろんな文章を書き残していたのだと思います。しかしそれを、ひとつのまとめて「福音書」という形で、一番最初から最後まで、きちんとイエス・キリストに対する信仰をまとめて伝える、という形で書かれるようになったのは、ずいぶん後のことであります。

 おそらく、いろいろな人がいろいろなことを言っていたのです。イエス・キリストとはこういう方であると、いろいろな物語が流布していたのでしょう。その中にはあまり感心しない話、つまりイエス様とあまり関係ないような作り話などがまぎれこんできたのでありましょう。

 そうしたものを取捨選択して、本当の意味でイエス様のことを伝えるものとして福音書が書かれた、その決定番がルカによる福音書である、とルカによる福音書の冒頭の言葉は告げているのであります。

 そして、ルカによる福音書には第2部がありまして、それは「使徒言行録」と言います。ルカによる福音書を第1部として、使徒言行録を第2部とする形で、この二つの書物は書かれています。そういう形で、イエス・キリストの福音ということが、後の時代の教会というものに、どのように定められていったか、ということを、このルカによる福音書使徒言行録を通して、そのことを記してているのであります。

 実際には、ルカによる福音書が書かれた時代と使徒言行録が書かれた時代は、これまた何十年か隔たっていると聖書学者は考えています。ですから、この福音書にしても、使徒言行録にしても、大変複雑な流れで作られていって、最終的に今私たちが読んでいる形にまとめられていったのですけれど、そこには多くの人たちの祈りに基づいた、この福音書を書く、あるいは使徒言行録を書く、という非常に大きな仕事がなされていたわけであります。

 本日、このアドベント待降節の最初の日曜日にあたって、今日の箇所を選ばせていただいたのは、キリストの福音の始めということに私たちの思いを向けるということが、私たちにとって大切だと考えたからであります。

 今日の箇所の最初の部分では、これから記すことが、イエス・キリストのことを伝える決定番であるということ、その時代の中にあって、多くの人たちがイエス・キリストに関心を持って、文章を書こうとしている中にあって、この私も決定版を書こうとしている、ということが言われているのであります。

 この冒頭の文章を読むことによって、いま聖書のルカによる福音書を読んでいる私たちも、また、私たちはテオフィロという名前ではありませんけれども、私に向かって、この福音書の著者が「あなたにこれを伝えよう」という、そういう思いで書いてくれたんだ、そういう思いになることはできるのですね。

 神様からのメッセージ、聖書全体が、すべてそういうことなのです。あなたに読んでほしいから、書いたのだ、という、聖書全体がそういうことなのですね。このルカによる福音書を読むときも、そのことを覚えたいと思います。

 では、そのような前書きを先に読んで、その後から本編が始まるのであります。5節のところから始まっています。ここでは新共同訳聖書で「洗礼者ヨハネの誕生を予告される」とあります。こうした小見出しは元々の聖書にはなかったのであります。新共同訳聖書が作られるときに小見出しが入れられました。

 前に登場して活動した洗礼者ヨハネに関わる話がまず出てきています。5節以降に書かれているのは、ザカリアとエリサベートという高齢の夫妻に関することであります。


 「ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。

 さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、講壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。」

 このように話は続いています。はるか昔のことでありますけれども、ユダヤの王ヘロデの時代に、このザカリア、エリサベトという高齢の夫妻がいました。二人とも、神様を礼拝するための祭司の仕事をしていました。主の聖所、礼拝する場所に入って香をたくことになった。当日のならわしであったようです。

 そのとき、主の天使が現れ、講壇の右に立った。大変不思議なことが起こったのであります。いったいなぜ、ここで、神様の使いが、主の天使がここに立つのでしょう。このときザカリアはたった一人で主の聖所に入って香をたいていた。たった一人のときに、こうして天使が現れたことに対して、ザカリアはまず恐怖を持ちます。

 それに対して天使が言います。

 「天使は言った。『恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。』」

 このように、天使は驚くべきことを伝えました。もう高齢の夫妻です。なのに、なぜこのようなことが言われるのか。その名前まで神様からこうして天使から告げられています。驚くしかありません。

 さらにこう続きます。

「『その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち返らせる。』」

 

 このように言います。それは、単にザカリアとエリサベートの間に、子どもが与えられるというだけではなく、その子は喜びとなり楽しみとなる、多くの人もその誕生を喜ぶという形で、この社会全体に意味あることになるというのです。

 そして、その彼は「偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて」と書かれてあるところには、後の時代の洗礼者ヨハネの様子が、ここですでにお母さんのお腹の中にいるときから、将来はそうなるのだということが言われているのです。

 洗礼者ヨハネは人里離れた荒れ野に暮らし、その荒れ野にいるイナゴを食べるような生活をしていました。イナゴや野の蜂蜜を食べて生きる、そうした、街中で普通に人間らしい生活をするのではなく、荒れ野でただ一人修行をするように生きた人でありました。そのようなヨハネの様子が、生まれる前からそう告げられていた、とここで言われているのであります。

 そして17節でこう言います。「『彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。』」

 

 これが洗礼者ヨハネの役割でありました。旧約聖書のマラキ書からここで引用されているのですけれども、ここに出てくるエリヤという人は、旧約聖書に登場する最も偉大な預言者と考えられていた人です。なぜならば、エリヤは地上で死なないで、天に上げられていったと書かれているので、エリヤは死なずに天に、神様のもとに戻った、ということで、最も偉大な預言者と考えられていたのであります。

 その最も偉大な預言者の霊と力を持ってヨハネが、「主に先立って行き」ということは、イエス様の公の活動の前に先立って行き、そして人々に罪の悔い改めを説いて、そしてヨルダン川で洗礼を授けたことを表しています。

 この洗礼者ヨハネの洗礼というのは、川の水にじゃぶんとつかって、罪を清める、そして新たに生き直す、そういう罪の悔い改めの洗礼ということでありました。その洗礼を多くの人に授けた、そのことによって、神様の心を人に向け、また人の心を神様に向ける、そうして神様と人の間を取り持つ、そのための備えをしたということであります。

 

 「父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」それは、イエス・キリストの福音宣教、神の国の福音宣教ということを、イエス様が活動する前にヨハネが現れて、人々にまず罪の悔い改めを先に求め、そのことによって、心の準備をして、そしてイエス様をお迎えする、その準備のできた民を用意する、それが洗礼者ヨハネの役割であるということが、ここで言われているのです。

 このような天使の言葉は、ザカリアにとって、本当に驚くべきことであり、また、信じることができないことでありました。ザカリアは、このような天使の言葉を聞いて、こう言います。「何によってそれを知ることができるのでしょうか。私は老人ですし、妻も歳をとっています。」

 そんなことを信じるにはどうしたらいいのですか、そんなことを信じることができる理由がありません。ザカリアは率直に言います。しかしここでザカリアが天使の言葉を信じなかったので、天使は言いました。「あなたは口がきけなくなり、そのことが起こるまで話すことができなくなる。」このように言われました。天使の言葉を信じなかったので、そのことが実現するまで口がきけなくなるというのでありました。

 

 今日の聖書箇所はそのような箇所であります。大変不思議なことが書かれています。今日の箇所はどういう意味を持っているでしょうか。皆様は何を思われたでありましょうか。

 聖書学者の研究によりますと、こうして書かれている、このザカリアとエリサベトの話、高齢の夫妻に子どもが与えられる、そして洗礼者ヨハネが生まれるということは、その次にあるイエス様の誕生ということに向けたことです。マリアがイエス様をみごもって、そしてイエス様が生まれる、そのことに先立って物語として、このザカリアの話があるということなのですね。

 神様のなさることは不思議です。おとめマリアがまだ結婚していないのに、みごもったということは、大変不思議なことどあり、それが神様の聖霊によるもの、聖い神様の聖霊によるもの、という信仰がありましたけれども、それは一般にはなかなか受け入れられないことだったと思うのです。

 しかし、そのようなこと、普通の人間であれば考えにくいことですが、ザカリアとエリサベトという高齢の夫妻に先にそのようなことがあった、ということによって、そのあとにあるおとめマリアがみごもる、ということも神様の導きがあれば、当然起こることなのだ、ということを私たちに示しているのですね。そういう意味でねこのザカリアとエリサベトの話が先に書かれているのです。

 そして洗礼者ヨハネは、イエス様が公の活動をされる前に、先に現れて罪の悔い改めを説き、そして人々の心を変えていく、イエス様を迎える準備をされていく、そういう役割を果たした人でありますが、そのヨハネがイエス様に先立って生まれる、そしてヨハネとイエス様は親戚の関係にあるということを示しています。

 そういうことをここで記すことによって、この歴史というものは、バラバラにあるのではなくて、実はつながっているのだと、そしてその、一見信じられないような話であっても、その歴史の順番をちゃんと順々にたどっていけば、必ずわかってもらえると、そのように考えて、このルカによる福音書は記されているのであります。

 一方で歴史的な事実はどうであったかということを考えるときには、受け取り方は少し違ってきます。洗礼者ヨハネとイエス様の関係が親戚関係だったということは、他の三つの福音書には書かれていません。そして、洗礼者ヨハネとイエス様の関係は、独特なものでありました。その関係は近いとも思えるし、また遠いとも思える、独特の書き方がなされています。どちらにしても、二人が生まれたときから近しい関係だったというようには思えないのです。

 そういう意味では、このルカによる福音書の冒頭にある、ザカリアとエリサベトの話というものは、この冒頭の1節にある、この「テオフィロ様」というふうにある言葉、文章と同じように、文学的な技法であり、このイエス・キリストの誕生ということが歴史的なことであるということを伝えるために、編集されたもの、文学的な技巧として書かれたものと考えることができます。

 歴史的な究明ということでは、そのように考えることが妥当なことだろうと私も思います。一方でルカによる福音書は、歴史というものは、突然に現れる事ではなくて、順々に現れることだと、そして、歴史というものはバラバラに理解するものではなくて、一つにつながっていることだと理解することで、一見信じることができないことでも、信じることができるようになるのだ、ということです。

 ルカによる福音書を記した著者、おそらく一人ではなく複数の人たちがいろんな資料をもとにして、こうして福音書を書いたのだと思いますけれども、その書くとき、編集するときにこめられた思いというものは、そういうものでありました。

 

 歴史というものをバラバラに見るのではなくて、順々につながっているものだと見るときに、神様の御心というものが、そこに見えてくる。私たちはそれを見失ってはいけない。そういう考え方がここにあるのですね。その考え方を私たちに伝えるために、文学的な技巧というものが、福音書において使われているのではないかと私は考えています。

 

 待降節の始めの日にあたって、私たちはこのルカによる福音書を通して、神様からのメッセージを聖書を通して聞くことになりました。この現代に生きている私たちにとって、イエス・キリストの救いというものは、どういうものでありましょうか。

 世界で戦争が終わりません。コロナ禍も終わりません。日本社会においても物価がすごく上がっています。社会の不安、世界の不安、そういうものが高まっている中で、私たちは聖書というものを、どのように読むのでしょうか。

 いま起こっていること、大変なこと、そうしたことが、ある日突然に起こったこと、唐突に起こったことと考えるのではなく、一つひとつ、人間の罪深さのために、いろんな形で現れていた人間の罪深さが今つながって、こうして現れているのだと理解することができます。

 同時に、そのような罪深い世界から救われるために、神様が私たちに何を備えて下さっていたか、ということも私たちは、歴史を通して知ることができます。そして、その歴史というものは、大きな歴史から小さな歴史まで、もう無数にあるわけですが、皆さんはお一人ひとり、それぞれに自分自身の歴史というものを持っておられます。

 それは、この世界や社会の動きとも関係しながら、しかし、この自分、私一人だけの歴史、神様との関係において存在する歴史というものを持っています。それは、あたかもバラバラなように見えても、しかし神様の導きが実はずっとあったのだと考えるときに、いろんなことがつながってきます。

 今までのご自分の歩みの中には、いろんなこと、苦しかったこと、いやだったこと、そうしたことももちろんあるし、人生の全体を肯定することはできなかったとしても、そこに救いの光が一筋ありました。そのことを知るときに、私たちはいまの自分自身のあり方をも受け入れることができます。

 そして、これからやってくる様々な苦難、大変なことがあるかもしれない、そういう不安もいつもありますけれども、しかし神様から与えられた人生を、神様につながって生きる、そしてそのためには、イエス様が教えて下さったこと、自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ、そのことに尽きていくのですね。

 神様から与えられた恵みを大切にする者は、必ず、その恵みを他者と分かち合う。そのときに、他者というものがものすごく大切なものになってくるのです。そのときに、まことの平和というものが本当に小さな形であるけれど与えられる。

 イエス様こそが、神様によって私たちに与えられた最大の贈り物であり、イエス・キリストを分かち合うことによって、私たちの中に小さな平和が与えられます。今日から4週間、歴史の流れということを見つめながら、そして何よりも自分自身、この私にとって、神様の関係の歴史ということを思い起こしつつ、イエス・キリストのお生まれということを待ち望みたい。

 冬、寒くなっていくときに、その祈りというものを始めたいと願っています。

 お祈りをいたします。

 天の神様、 どうか、この場に集うお一人ひとりに、神様の恵みを豊かにお与えください。そして、今日ここに来ることのできなかった方々に、その場で神様の恵みを豊かにお与えくださいますように。みんなでイエス・キリストのお生まれを待ち望み、そしてまことの平和を待ち望むことができますように。
 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

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