京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2022年12月の説教

 2022年12月の京北教会 礼拝説教
 

 京北教会 礼拝説教
 2022年 12月4日(日) 12月11日(日) 12月18日(日)
       12月25日(日)

「天使に問いかけ」
    2022年12月4日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  ルカによる福音書 1章 26〜38節 (新共同訳)


 六か月目に、天使ガブリエルは、
 ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。

 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけである
 おとめのところに遣わされたのである。

 そのおとめの名はマリアといった。

 

 天使は、彼女のところに来て言った。

 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

 

 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

 

 すると、天使は言った。

 「マリア、恐れることはない。

  あなたは神から恵みをいただいた。

  あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。

  その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。

  神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。

  彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

 

 マリアは天使に言った。

 「どうして、そのようなことがありえましょうか。

  わたしは男の人を知りませんのに。」

 

 天使は答えた。

 「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。

  だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。

  

  あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子をみごもっている。

  不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。

  神にできないことは何一つない。」

 

 マリアは言った。

 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」

 そこで、天使は去って行った。  

  

 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
   改行などの文章配置を説教者が変えています。
   新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

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 (以下、礼拝説教)  

 教会の暦で待降節の時期に入り、2週目となりました。礼拝堂に飾りましたクリスマスのクランツのローソク4本の内の2本に本日は火が灯されています。クリスマスまであと3週間となりしまた。こうして毎週1本ずつローソクを増やしていくときに、私たちはクリスマスが近づいているということを思います。

 クリスマスの日の側から私たちに近づいていると共に、私たちの側からもクリスマスに近づいています。クリスマスにたどり着きたい、その思いを持ってこの待降節の時期を過ごしたいものであります。

 本日の聖書箇所は、新共同訳聖書では「イエスの誕生が予告される」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは元々の聖書にはなく、新共同訳聖書が作られたときに読み手の便宜を図って付けられたものであります。では、今日の箇所に記されていることはどういう内容でありましょうか。順々に読んで参ります。

 「六か月目に、天使ガブリエルは、
        ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。」

 このようにあります。その前の物語の流れから六ヶ月目ということです。その前の物語とは、ザカリアとエリサベトという高齢の二人がおられて、神様に仕える神殿で礼拝する儀式に携わっていましたが、その高齢の夫妻に神様から子どもが授けられたという、その不思議な預言を天使ガブリエルが伝えてたのでありますが、その天使と同じ天使であるガブリエルが、今日の箇所にも登場しています。

 

 聖書に登場する天使で名前が付いているのは、このガブリエルともう一人、ミカエルという天使だけです。なぜ名前が付けられているかというと、そのザカリアとエリサベトの所に現れたのと同じ天使が、ここでマリアの所に現れたということを示すために、名前が付けられているのです。

 神様から天使が遣わされました。

 「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけである
       おとめのところに遣わされたのである。」

 ここでダビデという古代の王様の名前が出ているのは、人々が最も誇りとしている自分たちの古代の時代の王様がダビデなのでありますが、そのダビデの血統から、来るべき救い主、自分たちの国を救ってくれる救世主が現れると、人々は聖書の言葉を通して、そう信じていたということが背景にあります。そのダビデの血統であるヨセフという人のいいなずけである、まだ結婚していない一人の娘の所に、天使が遣わされたのであります。

 

 「そのおとめの名はマリアといった。」
 そして、こう続けます。「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』」

 これが天使からマリアへの挨拶でありました。いきなり天使が現れて、こんな言葉を言ったら、もし皆さんはご自分にこんなことが起こったら、どのようなことを思われるでしょうか。最初の言葉が「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」、このように言われるとき、自分がおめでとうと言われる何かの理由があれば、それはすぐ意味がわかると思うのです。

 しかし、このときマリアには何にもそんなことはありませんでした。何にもないのに、なぜおめでとうと言われるのだろうか、とマリアは大変驚き、「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」と、そのように考え込んだとあります。

 一体、何が「おめでとう」なんだろう?

 

 「すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。』」

 

 ここで出てくるダビデというのは古代の王様の名前であり、そしてヤコブというのは、旧約聖書の中でアブラハム、イサク、ヤコブと続く三代の族長の名前であり、ヤコブという名前の別名がイスラエルという名であり、それが国の名前、民族の名前となっていった、そういう人物です。そのように、聖書というものを語り伝えた民の伝統に則って生まれた救い主が、全てを治めてくださると天使が告げるのでありました。

 ここで天使が言っていることは、当時のイスラエルの人たちが心から願っていたことでありました。ローマ帝国の植民地とされて、軍事力、経済力によって抑圧され支配されていた人たちが、いつか自分たちの信仰に立って、この国をもう一度力を回復する、独立する、もう一度強い国になる、そうした人々の願望というものがあったのです。まさにそれに応える天使の言葉でありました。

 

 しかしそのような天使の、非常に大きな内容の言葉を聞いてマリアはどうしたでしょうか。

 「マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。』」このように言いました。

 そして、「天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子をみごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。』マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』そこで、天使は去って行った。」  

 

 皆様は、今日の聖書箇所を読んで何を思われるでしょうか。クリスマスが近づいた時期に、毎年毎年読んでいる箇所であります。もう何度も読んで来たという方もおられるでしょう。

 

 しかし、私は思うのですが、もう何度も何度も読んできたにもかかわらず、今日のこの箇所を読むときに、読みながら何か心が釘付けにされるような、と言いますか、あるいは、なんとなく歩いていたが急に足を止めて立ち止まる、ハッと思って立ち止まる、この聖書の言葉の前で、ちょっともうこれ以上先に歩けなくなる、そんなような思いが私はするのです。

 

 この箇所に書かれていることは、イエス様の誕生ということを示している箇所なのでありますけれども、おとめマリアにこのようなメッセージが与えられたときに、マリアが「どうして」と言ったのと同じように、今この聖書の言葉を読む現代人である私たち一人ひとりも「どうして」と思うのだと思います。どうして、そのようなことがありえましょうか?

 ここでマリアは単に、自分自身の疑問を投げかけているのではなく、この聖書を読む人が神様に対して投げかけたい、神様に問いかけたい言葉というものを、ここでマリアが代表して、言ってくれているような気がするのです。これは決してマリアだけの問いではなく、いま聖書を読む私たち一人ひとりが、「どうして、そのようなことがありえましょうか?」と言いたくなるのです。

 もちろん、マリアにはマリアにとっての、そう言いたい理由があったでしょう。それと共に、マリアではない私たちも、自分の性別を問わず、やはり「どうしてそのようなことがありえましょうか?」と問いたくなるのであります。

 

 そのことを考える前に、ここで天使ガブリエルがイエス様のお誕生ということを告げたときに、マリアが「どうしてそのようなことがありえましょうか」と言った、その言葉と、それから当時の時代背景というものを少し考えてみます。

 その当時、ローマ帝国の植民地とされていたユダヤの人たちにとって、この天使が告げた言葉というのは、大変に大きなことなのですね。支配されているあなたたちの所に救世主が与えられる。一人の赤ん坊として生まれ、その子が大きくなったら、この世界を変えてくれる、この国をもう一度強くしてくれる、そのように人々は願っていたのであります。

 まさにそのことが起こるのだと、天使は言いました。もし、この天使の言葉をマリアではない人が聞いたときに、どう思ったでしょうか。「ああ、そういう時代が来るんだ」、「私たちの国が解放されるんだ」と、ものすごく喜んだのではないでしょうか。

 天使がやってきて、こんなメッセージをくれた。だから、いま支配されている私たちの国が解放されるのだ。そのように思う人々の願いというものが、当時の時代にありました。これはもしかしたら、男性的な感覚かもしれません。

 力で支配されているものが、力で支配するものに対して、神の力でそれをくつがえしてやる。いつか今の世界が逆転する。そうした社会変革あるいは世界の変革というもの、そういう思いに力が入る。そういう解放の時代が来るんだ。そのような思いを人々が持っていてもおかしくない時代でした。

 しかし、マリアは言いました。「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」ここでマリアが天使に問いかけていることというのは、政治的な情勢がどうだとか、世界的にどうだとか、いま自分たちがローマに支配されていて、そこからどうやって解放されるかとか、そういう問題意識とは違うところで言葉を発しています。

 もしマリアでなかったら、この天使の言葉を聞いたら、それは自分たちの国が解放される、そういう解放の宣言、政治的・社会的あるいは軍事的な、なんといいますか、エネルギー、自分たちが変わっていく、そういう知らせとして聞いたでありましょうけれど、マリアにとっては違いました。それは自分自身の身に起こることだったからであります。

 

 この自分が身ごもる。まだ結婚していないこの私が身ごもる。私の中に命が与えられる。それを私はどう受け止めたらいいのだろう。そんなことがどうしてありえましょうか、と天使に問いかけをしているのであります。

 このとき、その時代背景がどうであったとしても、マリアはマリアとしての、自分の疑問というものをいだいて、そして、それをまさに自分自身の心身に関わること、まさに自分の心と体に関わることとして、天使に問いかけているのです。「どうして、そのようなことがありえましょうか。」

 それに対して天使は告げます。「聖霊があなたに降(くだ)り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なるもの、神の子と呼ばれる。」

 ここで天使は、「どうして」という問いに対して、具体的に何が起こるかということは答えていません。また、どういう理由でマリアが選ばれたという根拠というものがここで示されているわけではありません。ただ神様はそのようになさる。神様があなたを包んでくださるというばかりであります。

 

 あなた自身に何が起こるのか、その根拠とか、あるいは具体的なことは何も語らない。ただ神があなたを包んでくださる。あなたのこれから生きる一挙手一投足のすべてを、神様の聖霊、見えざる神様のお働きがあなたを包んで下さる。そのことだけを天使は言うのです。

 そして続いて「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子をみごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」と言われます。

 そこには、もうマリアはたった一人で孤独な使命を負うのではなくて、あなたの親戚のエリサベトがあなたより先に、あなたに近い立場で、あなたと同じような経験をしているのだと。あなたは一人ではない。あなたと共に生きる人がいる。そして、最後に「神にできないことは何一つない」と言って、天使の言葉は締めくくられています。

 天使の言葉は、マリアに対して、なぜそうなるのかという根拠とか、あるいは、具体的な経緯というものは何も言っていません。ただ、神様があなたを包んで下さる。そして、あなたと同じようにあなたと別の一人の人も、あなたと違った立場で、あなたと同じ経験をしている。そうして先に歩んでいる人がいると言われます。これが天使の答えでした。

 

 その言葉を聞いてマリアは言います。「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように。」自分が主に仕える一人の人であるということを言い表し、そしてそのお言葉通り、この身になりますように、そのことを言います。

 神様の御心がこの身になりますように。この私において実現しますように。ということを願うのでありました。その事柄の具体的な意味、具体的なことがどういう出来事であるか、ということは別として、神様の言葉がこの身になりますように、というのでした。

 それは単に、ここで天使が言っている言葉というものが、文字通り、自分に実現しますように、というだけではなくて、神様の言葉というものは、神様の愛であって、その神様の愛がこの私に臨み、そして私は神の子を身ごもり、命を与えられ、その子と共に生きていく。そうした神の愛というものと共に生きていく。そのことを受け入れる、その表明が、このマリアの最後の言葉なのであります。その言葉を聞いて「そこで天使は去って行った。」そういって今日の聖書箇所は終わっています。

 私たちが今生きている時代は大変な時代です。といっても、どんな時代だって大変な時代だと思うのです。しかし、戦争の恐怖、そして病の恐怖。コロナ禍であったりウクライナでの戦争であったり、また、アジアにおける様々な緊張の高まり。いろんなことを考えていくときに、本当に今、大変な時代ではないかと思います。物価が上がっている。様々な問題が生じている。リアルにそういう様々な問題を考える時代が来ました。

 この時代に、救いとか、解放とか、自由になるとは、どういうことでありましょうか。いつか誰かが現れて、素晴らしい政治家が現れて、素晴らしいリーダーが現れて、この世界を変えてくれる、変えてくれたらいいな、とそんなことを願うときもあるかもしれません。

  時代が暗くなればなるほど、誰かが救ってくれる、そのことに期待を寄せる、そういうことが出てくることは不思議なことではありません。

 それは聖書の時代もそうでありました。そして、その中にあって、天使のお告げがやってくるのです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と。一体なぜ、私に対して「おめでとう」なのか理解できない、祝福の言葉がやってきます。

 天使が言います。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子はこの国を救う子になる」と言うのです。それは、この時代の混乱、大変な時代ということを思うときに、その時代から救い出して下さる神様の御心である、ということであれば、それは大変うれしいことのはずです。

 けれどもマリアは天使に言いました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。」天使の言葉を聞いて、素直にうれしいとか、すごいとか素晴らしいとか、そんな言葉は出てこないのです。マリアの口からは。

 それは単にマリアがまだ結婚していないから、というそれだけが理由ではなかったと思います。どうして私がそんなことをしなければいけないのですか。どうして私がそんな立場になるというのですか。なぜですか。マリアは本当にここで全身全霊で天使に問いかけをしています。「どうして。」

 一般論から言えば、自分の身に起こることは素晴らしいこと、なのかもしれない、ということはマリアもわかっていたはずです。救い主が与えられる。この自分に与えられる。それは人から見たときには、名誉なことだったかもしれません。けれども自分自身にとっては、ちっともそうではないのです。

 マリアにとっては、この社会がどうであるとか、この国がどうであるとか、時代がどうであるとか、そういうことよりも、この私と神様との関係において、何が起ころうとしているのか、そのことにマリアは集中して、ここで天使に問いかけをしているのであります。

 

 この社会が、全体が救われるために、救世主を生むために、この私が用いられる、それは社会にとっていいことだとか、国にとっていいことだとか、あるいは宗教にとっていいことであるとか、そういうことを人は言うでしょう。けれども、私はちょっと違うのです。私と神様の関係の中で、なぜ私はその使命を神様から与えられるのですか? と、実現できそうもなく、ありそうもない、そのことを「なぜ」と問うているのです。

 

 そして、このマリアの問いは、マリアだけの問いではなくて、この現代において聖書を読む私たち一人ひとりの問いと重なってくるのです。マリアはたった一人でこれを問うているのではなく、むしろ世界のすべての人の代表として天使に問いかけているのです。なぜそのようなことを。それは神様の御心が一人ひとりに現れるときに、誰しもが同じように思うことなのであります。

 新しい命を与えられるという経験。それはまさにマリアだけの経験でした。それと全く同じ経験を私たちがするわけではありません。けれども、神様の御心というのは、このときお一人おひとりにとって神様から与えられる使命という形で必ず与えられます。そしてそれはいつも受け入れがたいものなのであります。

 「なぜそんなことを」、そう言いたくなる、神様から与えられる働き、役割、この世で生きることにおいて、神様から与えられる使命というものが一人ひとりにあるのです。それは第三者から見てどうか、この社会から見てどうか、ということと関係なく、この私と神様の間の関係において生じる使命であります。

 

 そのことを「どうして私が」と問うときに、天使は、聖書に書かれているように答えています。その答えは、私たちの疑問にぴったりと即して、一つひとつ、たとえば手品の種明かしのような形でやってくるわけではありません。こうなっているんですよ。これが根拠なんですよ。こういうプロセスを経てあなたはこうなるのですよ、そのような説明は天使からはやってきません。

 天使からやってくる言葉というのは、神様があなたを包んでいるから大丈夫、そういう大きな約束であります。そして、あなただけじゃない、あなたよりも先に生きている人にも、あなたと同じように神様から使命を与えられて、恵みを一杯受けて生きてるんだ。

 

 天使が言う答えはこの二つでありました。それは、現代世界を生きる私たちにとっても同じことなのです。神様、どうして、なぜ、と本当にときに悲しみにくれながら絶望に打ちひしがれながら私たちは神様に問うのです。なぜ、どうして、ありえないじゃないですか、これって……。

 そのように言うときに帰ってくる答えは、大丈夫、神様はあなたを包んでくださる。あなたは一人だけじゃない。あなたよりも先に、あなたと同じように生き、そしてたくさん恵みを受けて生きている人がいるよ。神様は、このように私たちに告げているのであります。

 そこには、人間の理屈ではっきりした答えというものがなくても、自分の持つ疑問、ここでマリアがいだいたような疑問というものを持ちながらも、しかし、その疑問というものを神様に問いかけ、神様に預け、そして神と共に生きていく、そういう生き方というものがそこにあるのですね。

 私たちはこうして聖書を読んでいても、いろんな疑問を持ちます。そしてまた、人間のどす黒い欲望であったり、人間のいろんな思いというものを持ちながら、聖書を読んでいます。しかし、そのような私たちのどす黒い思いというものが、聖書を読む中で、いつしか変えられていっていることも確かなのです。そのとき、私たちには信仰が与えられるのです。

 雪の結晶というものが、どうしてあんな美しい形をしているのか、誰もわからないそうです。雪が結晶ができるときに、そのもとになっているのは、小さな塵で、そこに水滴がつき、そしてあのような形になっていく。どれひとつ同じ結晶はできない。なせ、こんなに複雑で美しい形ができるのか、だれかもわからないそうであります。

 信仰というものも、それに似ています。私たちの持つ疑問、どす黒い人間としての思い、こんなこと信じられるか、というような、神を受け入れない私たちの不信仰というものすら、小さな塵のようなものであり、そのまわりに美しい結晶ができていくときに、雪というものができていく。それは、なぜそうなるのか説明することはできませんけれども、神様が私たちに与えて下さっている、大きなプレゼントなのであります。

 

 お祈りをいたします。
 天の神様、 今週一週間、また新しく生きていきます。どうか一人ひとりに、共にいてください。私たちそれぞれを包んでください。そして、自分一人でなく、先に生きている人たちの話を聞き、そして、喜んでみんなで一緒に生きていくことができますように。この世界にまことの平和をお与えください。私たちもそのために神様によって用いられますように、心より願います。
  この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。



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「光れ、世の初めの言」 
 2022年12月11日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  ヨハネによる福音書 1章 1〜13節 (新共同訳)


 初めに言があった。

 言は神と共にあった。

 

 言は神であった。

 この言は、始めに神と共にあった。

 

 万物は言によって成った。

 成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

 

 言の内に命があった。

 命は人間を照らす光であった。

 

 光は暗闇の中で輝いている。

 暗闇は光を理解しなかった。

 

 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。

 彼は証しをするために来た。

 

 光について証しをするため、また、

 すべての人が彼によって信じるようになるためである。

 

 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

 その光は、まことの光で、世に来てすべとの人を照らすのである。

 

 言は世にあった。

 世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。

 

 言は、自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった。

 しかし、言は、自分を受け入れた人、

 その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

 

 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、

 人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

 

 

 

 

 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
  改行などの文章配置を説教者が変えています。
 新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

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 (以下、礼拝説教)  

  教会の暦で待降節アドベントと呼ばれるこの時期に入っています。今日は3週目となりました。礼拝堂に飾っているクリスマスのクランツ、そのローソクを今日は3本目を灯しています。こうして1週1週、私たちは主イエス・キリストの御降誕であるクリスマス、そのお祝いのときへと招かれています。

 今日の聖書の箇所はヨハネによる福音書の1章の初めのところであります。ここには、イエス・キリストということを伝える、ヨハネ福音書にあって1番最初の言葉、「初めに言葉があった」という、この言葉が記されてあります。

 「言」と書くときに、「言の葉」「言葉」と漢字2文字で書く言葉ではなく、一文字の「言」という字を使っているときには、これは通常の意味での「言葉」ではない、という意味がこめられています。言葉の本質といったらよいのでしょうか。その、初めにあった「言」。それは神と共にあったものであり、その言は神であった、そうした言葉がこのあとに続いていきます。

 何の知識もなく、この聖書箇所の言葉だけを読むならば、この箇所は一体何を意味しているのだろうか、と疑問を感じざるを得ません。このヨハネによる福音書の冒頭の言葉は、旧約聖書の最初にある創世記の冒頭にある言葉を土台として書かれています。

 世の初めに、神様が、この世界というものを創造されたときのことを記している、創世記の1章の冒頭の言葉。それを土台にして、この「初めに言葉があった」という福音書の言葉が記されているのであります。

 「初めに神は天と地とを創造された。」この創世記の言葉があって、そのうえで「初めに言があった。言は神であった。言は神と共にあった。」といっているとき、それは、神様が世界を造られたとき、そこには言というものが神と共にあったということを言っているのであります。

 そして、その「言」というものが、私たち人間の世界に来て下さった。それが、イエス・キリストのお生まれである、ということを言おうとしているのであります。

 創世記1章の言葉によれば、私たちがいま生きている世界は、神様によって造られたもの、創造されたものであります。この世界を造られるときに神様は、言を発せられました。「光あれ」と言われたのです。「すると、光があった。」そこから世界というものが始まっていきます。

 

 もちろん、そうした表現は神話的な表現です。古代の世界にあって、世界というものはどういうものであるか、信仰に基づいて書くときに、それを書いた人たちは、そうした言葉使いを選びました。それは現代の私たちが言う科学的な表現ではありません。歴史の事実を書いているということでもなく、世界はこのようなものである、と私たちは受け止める、そういう理解を記しているのであります。

 「初めに、神は天地を創造された。」
 そして、ヨハネによる福音書は、その創世記の言葉をもとにして、イエス・キリストのことを書き記すときに選んだのは、「初めに、言があった。」この表現でありました。

 それは、信仰というものの一番最初に、イエス・キリストの言葉があった、ということを意味しています。イエス・キリストの福音の言葉。福音というのは「良き知らせ」という意味であります。

 神の国が私たちの所にやってきた。近づいてきた。それがイエス様が伝えた「良き知らせ」であります。そのことを信じて生きていこう、という、そのイエス様の福音。その福音の言葉が初めにあって、そこから私たちはイエス様を主と信じ、神様を信じて生きるようになったのだ、という、ヨハネによる福音書を書き記した人たちの信仰が、この言葉に表れています。

 世界というものは、神様が「光あれ」と言われたところから始まった、それが世界の始まりです。そしてその時から、ずっとはるかに離れた時代を生きている自分たちのところに、今度はイエス様が来て下さった、そのイエス様の言葉、というものは、まさに神様そのものであったのです。

 「言の内に命があった。
  命は人間を照らす光であった。
  光は暗闇の中で輝いている。」

 世界の初めに神様の言があり、光があったように、今を生きている私たち人間の世界に、イエス様の言葉が来て下さった。その言が輝いている。その中に命があった、というのです。

 そして1章5節後半にこう言われています。

 「暗闇は光を理解しなかった。」

 この短い言葉には、神様から与えられた光、命、言葉であるイエス・キリストを私たち人間は理解しなかった、ということを言っているのであります。

 そして、人間は、罪深く、神様から与えられた神の独り子である、イエス・キリストという、本当に大切な存在を受け入れずに、イエス様を無実の罪で十字架にかけて、その命を奪った。それは、神様の御心に対して、徹底的に逆らう人間の罪ということを表しています。まさに「暗闇は光を理解しなかった」のであります。

 

 そのような暗闇に対して、神様が何を思っておられるか、何を示しておられるか、ということを、このヨハネによる福音書全体が記しているのであります。神様は、私たち人間の生きる世界が暗闇であるということをよくご存じであられます。そのことがわかっていて、独り子イエス様を私たちの所にお遣わしになってくださいました。

 人間はイエス・キリストを受け入れず、十字架に架けて命を奪いました。しかし、神様はそのイエス様を3日の後によみがえらせてくださいました。そして今日、今もなお、イエス様を信じる一人ひとりに、神様の聖霊という目に見えないお姿で、確かに臨んで下さるのであります。聖書はそのことを私たちに教えています。

 そして6節にはこのような言葉があります。

 「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。」

 こうしてこの1章1節から5節までは、旧約聖書の創世記1章の冒頭をもとにした、大変に壮大な、神様の御心というものを神学的な表現で書かれている、そのすぐあとにヨハネという一人の人間の名前が出てきています。

 このヨハネという人は、洗礼者ヨハネと呼ばれている人のことです。ヨハネという名前自体は当時に大変ありふれた名前でしたので、何かの称号を付けていたのでありますが、洗礼者ヨハネと呼ばれたこの人は、イエス様の活動に先立って現れて、そして罪の悔い改めということを世の人に向かって求めた、主張した、その人であります。

 神様と切れてしまっている関係を元に戻すために、一人ひとり神様に対する罪を悔い改めよう、そのことをヨハネは説き、それに応じた人たちにヨルダン川で水につかって、その人を清める、そうした洗礼の式を行っていました。

 その洗礼者ヨハネのことが6節に出ています。そして、こう続きます。
 「彼は証しをするために来た。
  光について証しをするため、また、
  すべての人が彼によって信じるようになるためである。」

 

 その洗礼者ヨハネは、光について証しをし、そしてその証しが本当であるとすべての人が信じるために来たというのです。洗礼者ヨハネもまた神様が遣わされた人でありました。しかし、このヨハネ自身が光であったのではありません。

「彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」

 ヨハネが証しをした光。それはヨハネ自身の光、明かりではなくて、イエス・キリストという光でありました。イエス・キリストという光がすべての人を照らすのであります。洗礼者ヨハネは、そのために来たというのでありました。そして次の10節からまた、ヨハネではなくイエス様の話に入ります。

 

 「言は世にあった。
  世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
  言は、自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった。」

 ここでは、人間がイエス・キリストを受け入れなかった。そして十字架につけてその命を奪った。そのことをもう一度言っているのです。しかし、それによって、イエス様がこの世に生まれたということの意味がなくなったのではありません。

 12節にこうあります。
「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」

 

 ここには、イエス様は十字架で死なれて、全てが終わってしまったということではなく、よみがえられて今も私たちと共にいて下さる。ここでは、「言」という表現を通して、イエス・キリストということを語っているのであります。イエス・キリストは「言」として、今も私たちと共にある。そして、その「言」を受け入れた人は、新しく生きるようになる、ということを言っているのです。

 新しい命を与えられて、新しく生きるようになる。そのように、ここで教えています。その人たちは、人間として生まれたのでありますが、しかし、神の言葉を受け入れて生きるときに、いわば2回目の誕生日を迎えることになります。神によって生まれる、という新しい経験をするのです。

 ヨハネによる福音書の中では、イエス様がそのことを語って、それを聞いた人たちがつまずいた話があります。もう一度生まれるって言われても、もう一度自分が母の胎内に入って生まれ直すことがどうしてできようか、とつぶやいた話があります。まさにイエス様の仰ったことを言葉通りに理解しようとして、理解できないといってつまずいている人たちの話です。

 それは単に聖書の中の登場人物というだけではなくて、実は現代を生きている私たち一人ひとりの姿であります。新しく生まれる、もう一度生まれる、と聞いて、そんなことできるものか、と思うのです。

 イエス様が仰るのは、文字通りの事実としてそうなると言っておられるのではなく、言わばそうなのだ、と言っておられるのであります。イエス様を主と信じ、神を信じて新しく生きていく。そのこと、その決断をした人は、神によって生まれた者となる。

   それは科学的な事実とか歴史的な事実ということではなくて、その人が新しい人生を生き始めるということであります。神と共に、新しい人生を生き始めるということであります。

 今日の聖書の箇所は、以上のことを私たちに教えています。皆様はどのように受け止められたでありましょうか。何を考えられたでありましょうか。

 私は今日の箇所を何度も読む中で、少し疑問に思ったのは、1章の1節から5節までは、大変重々しい言葉と神学的な言葉で、世界の始まりとイエス様の存在ということを書き記しているのでありますが、そのあとですぐに洗礼者ヨハネという、この歴史上の人物、一人の人の名前が出ていることに、少し疑問を感じました。

 1節から5節までの、この神学的な言葉をもっと発展させて書くこともできるであろうに、なぜいきなり実際にいた一人の人の話に、ポンと飛ぶのだろうか、と思ったのです。それはなぜか、ということは、ヨハネによる福音書を書いた人に聞いてみないとわからないのでありますけれども、私は自分なりに、こんなふうに考えました。

 神様はこの世界を造られたことを、そしてこの世界の初めからイエス様が神と共にいて、そのイエス様が私たちの所に来て下さった、それがクリスマスということで、大変大きなことなのでありますけれども、それを誰かに伝えようとしたら、どうなるか。

 それは、そこに一人の人という存在を必要とするのですね。聖書に書かれてある大変素晴らしい教え、神様の御心、イエス様の言葉、聖書には素晴らしいことがたくさん書いてあります。けれども、それを人に伝えようとしたらどうなるのか。そこには、一人の人間を必要とします。

 

 その人の一人が洗礼者ヨハネということでありました。その人自身、ヨハネ自身が光だったのではなく、ヨハネは一人の人として、本当の光、神様の御心であるイエス様を世に伝えました。

 そのヨハネのことが、1章の6節から書いてあるとき、それは、このクリスマスの恵み、神様の御心ということを、この世界にあって人に伝えるには、一人の人間が必要なのだ、ということを示しています。

 そして、その一人の人間というのは、ここに書かれている洗礼者ヨハネ一人だけではなくて、この聖書を読むすべての人が、クリスマスの恵みを世界に伝えていくために必要なのだと、あたかも洗礼者ヨハネのように、ということであります。そういうことを意味しているではないでしょうか。

 もちろん私たちは、洗礼者ヨハネのような立派な人にはなれない……そんなことをすぐに思います。けれども、別にヨハネが立派な人だったとは、ここには書いてありません。ヨハネが光だったのではなく、光について証しをする、それがヨハネの役割であり、その役割は誰でもできるのです。

 皆様の一人ひとりが、ヨハネの役割をすることができるのです。神様がこの世界を造られ、そしてイエス様を与えて下さった、という大きな喜び、それを一人ひとりの人がこの世に伝えるのでなければ、どんなに素晴らしい神様の御心であったとしても、意味がない、というように、この福音書を書いた人たちは考えたのではないでしょうか。

 証しをする人が必要なのです。伝える人たちが必要なのです。現代でいえば、それはどんな人のことになるでしょうか。それは、私たち一人ひとりが家族や知り合いや、あるいは何かの関係の人に、もうすぐクリスマスですね、と伝えること。クリスマスが来るとうれしくなるのですよ。そんなことを言ってみることができるでしょうか。

 具体的に、クリスマスにはこんなことがあるのですよ。よかったら一緒に行きませんか。そんなふうにお誘いできることもあるかと思います。まあ、実際にはそれは勇気がいることで、そう簡単なことではないと思いますけれど、聖書に記されているクリスマスのことを、何らかの形で人に伝えたい、と思うことは、教会に集う人の自然な気持ちではないでしょうか。

 私はそんなことはできません、不器用ですから、とてもとてもできません、と本当に言いたくなるのですけれど、それでも何かできるかもしれない、神様が導いてくれたら、と思うときに、私たち一人ひとり、洗礼者ヨハネのように何かに用いられるということがあると思うのですね。

 そうした「伝道」ということの大切さを、この6節以降で言われているのではないかと、私は考えました。

 そして、10節以降に、今度は洗礼者ヨハネのことではなくて、イエス・キリストのことを 「言(ことば)」と言って、漢字一文字で表現して、イエス様のことを表しているのですが、そこで、「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とあり、その人々は「神によって生まれたのである」と、ここで最後に書いてあります。

 これらの言葉についても考えてみました。これらの言葉も、大変不思議な言葉ですね。実際に、そんなことをすることはできない。私たちが、もう一度生まれ直す、なんていうことはできない。文字通りにはできません。しかし、神様の目から見たときに、新しく生まれるということが許されている。そのようにされることが、神を信じる人の恵みとなるのだと、ということをここでは言っています。

 

 これは実際には、どういうことなのでありましょうか。私は、こんなふうに考えてみました。それは、私たちが一人ひとりが、新しい自画像を描くことができるようになることだと。

 自画像というものを皆さんは書いたことがあるでしょうか。子どものとき、図画工作の時間ですか、美術の時間ですか、そのときに宿題が自分の自画像を描いてくることであったり、そんな経験をしたことがある方もおられるかもしれません。でも、自画像を描くことは本当にいやなことです。自分で自分の姿を鏡に映して描くなんて。

 まあ、一つは難しいということがあるのですけれど、その難しいという以前に、自分で自分を見なければいけない、というのは結構、苦痛なこまとですね。もちろん、鏡を見て、自分の姿を整えるということは大事ですけれど、ずっと自分を見つめるというのはつらいところがあります。それは、自分がどんな存在であるかということが、まざまざとわかってしまうからです。

 鏡なんか見たくない。それは本当に、その実際にそうだというだけでなく、心の問題としてもそうなのですね。自分という人間を、その心、その存在ということを振り返って考えたときに、ああ、こんな私かーっと後悔したり、反省したり、ときには本当に罪の意識にさいなまされたり、いろんなことがあります。

 そんな中で自分というものを受け入れながら、自分が自分と折り合いをつけながら、自分の中で自分を受け入れていくということは、とても大事なことです。

 私のこういう所が嫌いなんだけど、しょうがないな、と思うこと、生まれつきというのでしょうか、元々の自分を変えようとしても変えられない自分、そういうものを、心の鏡に映すように考えているときには、自分がこんな人間なんだな、といやになってしまうことが、私にはあるのですが、皆様はいかがでしょうか。

 そんな私、あるいは私たちに対して、「神の言を受け入れた人には、神の子となる資格を与えた。」「その人は神によって生まれたのである。」

 こう言われるとき、一人ひとりが生まれつきのものをもって、いろんな経験をして生きてきた、その事実としての私、この人間、これだけが私ではなくて、神様の目から見たときに、全く新しい自分というものが生まれ出る、神を信じる経験、神を信じて生きる道ということは、そういうことなんだ。そのときに、私たちは、新たな思いで自分の自画像を思い描くことができるのです。

 それは、何か自分が鏡を見ながら、ああ、私のこれがああだったらなあ、ということではありません。こんな自分を見たくないと思っていた自分が、神様に変えられることによって、嫌いだ嫌いだと思わなくてもよくなる。

 それは自分の外見のことを言っているのではなく、自分の存在ということですね。新しい人間になる。私という人間は、本当に困った存在だけど、でも神に愛されているから、いまこの世の中にいるんだ。そして、神様を信じて生きるときに、この私は人と新しい関係を結ぶことができるようになる。

 新しい喜び、新しい楽しみがあるよ、と言えるようになります。この自画像は固定した自画像ではありません。どんどん変わっていく自画像です。もっと楽しい自分。もっと明るい自分。もっと謙虚な自分。そうした新しい自画像を思い描くことができるのです。

 そして、自画像というものは、自分一人だけを描くものが普通でありますけれども、いつしか自画像のはずなのに、そこに自分ではない自分以外の人も、顔をそこに描くことができるようになっていく。

 それは自分の家族であったり、友人であったり、教会の方であったり、仕事の関係の方であったり、あるいはもう天に召された思い出深い人たちであったり、そんな人たちの顔も自画像のの自分の顔のまわりに描くことができます。

 今までは、自画像といえば、画用紙に自分のムスッとした顔を描くだけで、描きたくないと思っていたのに、いつしかそこに喜びがあふれ、自分の自画像のまわりに、たくさんの隣人の顔を描くことができる、隣人と共に新しく生きる自分、そういう自画像を描くことができるのではないでしょうか。

 私はそのように考えてみました。新しく生きるというのは、新しく生まれるというのは、そんなふうなことではないか、と思ったのであります。そんな私たちを輝かせて下さるのが、神様によって現された、世の初めの言葉であります。そして世の初めの光、世の初めの命であります。

 旧約聖書の創世記1章の冒頭に書かれた言葉と、今日のヨハネによる福音書1章の冒頭の言葉は重なっています。それは、私たちに対して、イエス・キリストの言葉というものがあって、そこから世界が新しくされる経験、神を信じて新しく生きていく経験というものが、そこから始まっているのだということを、教えて下さっているのです。

 お祈りをいたします。
 天の神様、 いま私たちが招かれてここに集っていることを、心から感謝いたします。今日この場所に来たくても来れなかった一人ひとりに、その場で神様のお守りがありますように。そして、ここに集うことができた一人ひとりが、それぞれのクリスマスを思い描き、それぞれの自画像を思い描いて、神様の御心によって用いられ、それぞれの生活の場に遣わされて、いろいろな人たちとの出会いをしていくことができますように。どうか、この待降節の期間を有意義に送ることができますように、守り導いてください。そして、世界にまことの平和をお与えください。私たちはそのことを祈り続けます。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。



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「キリストを待とう」
    2022年12月18日(日)京北教会 礼拝説教 今井牧夫

 聖 書  マタイによる福音書 1章 18〜23節 (新共同訳)


 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。

 母マリアはヨセフと婚約していたが、
 二人が一緒になる前に、
 聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 

 夫ヨセフは正しい人であったので、
 マリアのことを表ざたにするのを望まず、
 ひそかに縁を切ろうと決心した。

 このように考えていると、
 主の天使が夢に現れて言った。

 「ダビデの子ヨセフ、
  恐れず妻マリアを迎え入れなさい。
  マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。

   マリアは男の子を産む。

  その子をイエスと名付けなさい。
  この子は自分の民を罪から救うからである。」

 このすべてのことが起こったのは、
 主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
  その名はインマヌエルと呼ばれる。」

 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
 

  

 

 

 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
  改行などの文章配置を説教者が変えています。
  新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

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 (以下、礼拝説教)  

 主イエス・キリストのお生まれであるクリスマスを待つ4週間の期間が、教会の暦で待降節の時期であります。待降節アドベントという言葉でも呼ばれています。アドベントというのは、現れる、現れ出る、そういう意味の言葉です。イエス・キリストが来られるのを待つ、というところから教会の1年間が始まっているのです。

 教会の暦は待降節から始まる、そのことを初めて私が聞いたときに、ああ、そうなっているんだ、そういうことなのか、と何か心に新しいことを教えられた、そういう思いがありました。イエス様が来てから、そこから新しい時代が始まるのではありますけれども、それを待つというところから、もうすでに新しい時代が始まっているのだと。教会というのは、そういうところなのだ、ということを教えているのだと思います。

 今日の聖書箇所においても、イエス様がお生まれになる以前の時期のことが、記されています。ここに書かれているのは、ヨセフ、マリアという若い二人の物語であります。婚約をしていたのでありますが、二人が一緒になる前に、聖霊によってみごもっていることが明らかになった、と書いてあります。

 「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」
 大変短い言葉でありますけれども、若い二人にとって本当に、深刻なときであったことがうかがえます。このときに、神様から天使が遣わされました。

 「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。』」
 このように天使は、夢の中でヨセフに告げました。イエス様がお生まれになられるずっと前に、このようなときがあったのです。

 私たちが今、この現代の日本社会の中で、クリスマスを迎えるというとき、皆様はどんな気持ちなのでありましょうか。それは人それぞれなのでありますけれども、この世界全体を見渡すときに、クリスマスが近いからといって、明るい気持ちにはなれない、浮いた気持ちにはなれない、そういうこの世の悩み、生きることの悩みが世界には満ちています。

 戦争、災害、病気、政治的・社会的な問題、経済的なこと、あるいは自分自身の病気、障害、また家族の関係、人間関係のこと、自分自身の不信仰、自分自身の心の中のいろんなことが、思いわずらいとして、あふれてくるときに、私たちの心は、クリスマスが近かろうが遠かろうが、もうそんなことは関係ないかのような思いに満たされるときもあります。

 今日の聖書箇所において、ヨセフとマリア、この若い二人がどんな思いであったか、私たちは知るよしがありませんが、聖書にごくごく短く書かれている言葉を通して考えてみることは、まさに新しい時代というのは、その決定的なときが来る、その前の段階から始まっているのだ、ということであります。

 最も苦しいとき、最もつらいとき、その最もつらい決断を迫られている、そのときに、もう新しい時代が始まっているのだと。

 

 そして、その最もつらい決断をしてはならない、という神様の遣わした天使の言葉を聞く、という、このヨセフの経験を通して私たちは自分自身が考えることで、それがどんなに正しいことであったとしても、それが神様によって止められる、そういうことがあるのだと、そしてそのことが、本当の新しい時代というものを切り開いていく、その一歩になるのだと。そのことを教えられるのであります。

 

 天使は言いました。
 「『その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」

 
 ここにヨセフの思いをはるかに超える、天使の言葉が告げられていました。新しくこの世に生まれ出ずる、その赤ちゃんにイエスと名付けなさい、と天使は言いました。その当時、子どもに名をつけるのは父親の仕事であります。ヨセフに対して神様はそれを命じるのです。その子をイエスと名付けなさい。あなたが、そう名付けなさい、というのです。

 もう名前すらも決められている。それは神様によって。その神様の決めた名前を、本当にその子に名付けるのはあなたの仕事なのだ。それがヨセフが父親として神様から与えられた責任でありました。ヨセフはそれを果たさなくてはなりません。そして、生まれ出ずる赤ちゃんは、自分の民を罪から救うと言われているのであります。

 

 もはやそれは、ヨセフとマリアの間だけのことではなく、これは世界に関係があることでありました。21節に次のように言われています。
 「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

 

 ここでは旧約聖書の、イザヤ書の7章14節にある言葉が引用されています。旧約聖書に記された言葉の通り、生まれてくる男の子がある。その名はインマヌエル、神は我々と共におられるという意味である、という、その名前がつけられるというのです。それは、イエスという名前の説明となる言葉でありました。

 神は我々と共におられる。この短い言葉を、ただその言葉だけを聞くのであるならば、いま現代において、この聖書を読んでいる私たちは、それほど心を動かされないかもしれません。「神様は私たちと一緒にいてくださる」、この言葉は、なるほど、良い言葉だなあと思いますし、耳に心地よい言葉であるかもしれません。けれども、ふだんの生活の中でどれほどこの言葉を私たちが実感していることがあるでしょうか。

 ああ、神様が私と一緒にいてくださる。私たちと一緒にいてくださる。そのことを私たちはどれだけ実感しているでしょうか。それは教会に行ったら、誰かが言ってくれるような言葉、聖書を開いたらどこかに書いてあるような言葉、なんとなくキリスト教っぽい言葉、良い言葉だとは思うけれども、「神は我々と共におられる」ということを、どれほど実感するでしょうか。

 

 生活において私たちは多くの場合、神様を忘れて生きているのではないでしょうか。どう生きるかということに気を使い、汲々としている。まさにそれが現実であります。

 それはヨセフにとってもそうでありました。現実というものが迫ってくるのです。自分は今どう生きるべきか、この社会の規範の中にあって、一番どうすべきかを考えたときに、正しい人であるヨセフは、決断をするのであります。

 マリアのことを表沙汰にするのを望まず、密かに縁を切ろうと決心した。これは、旧約聖書の律法に基づいていえば、正しい決心であります。神を信仰する者としての正しい決心であり、当時の社会の中で生きている者にとって、本当に正しい決心でありました。「表ざたにすることを望まず、密かに縁を切ろうとした。」そうした言葉を見るときに、そこにマリアに対する優しさが表れていると読むこともできます。

 

 その与えられた状況の中でどう生きるか、本当に自分に迫ってくる現実の中で最善のことを考えました。しかし、その最善の判断が天使によって止められるのです。
 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」

 

 この言葉によって、自分がしようとしていた決心を翻して、神様の御心に従う決心を新たにすることになります。それは、それまでヨセフが正しいと信じていたこととは違う正しさというものが、この世界の中には有り得るということを知り、そして、そのことを信じて決断をしていく、というヨセフにとって今までしたことがない、全く新しい決断でありました。

 ヨセフという人にとって、その決断が本当に大きなものであり、人生の決断として今までしたことがなかった決断をすることになった、しかしヨセフはそのことを受け入れました。「その子をイエスと名付けなさい」と神様から言われたとき、それが父親としての私の使命なのだ、神様がその役割を私に下さったのであるから、私はそれを果たすのだと。

 

 重苦しい現実、ありえない現実と思える状況の中で、新たに神様から与えられた役割を果たすことをヨセフは決断したのであります。そこからどのような人生が始まるのか、ヨセフにとってマリアにとって、そして生まれてくる赤ちゃんにとってどんな道を示していくのか、これからどんな道が開かれていくのか、ヨセフにはさっぱりわからないままでありました。けれども、その生まれてくる赤ちゃんは、「この子は自分の民を罪から救うからである」と言われたときに、ヨセフは思ったはずです。

 

 「自分の民を罪から救う」この赤ちゃん、この赤ちゃんによって救われるのは、世のたくさんの人というだけではなくて、ヨセフ自身もまた、この子によって救われるのだと思ったはずです。今から生まれてくる新しい命、その子にイエスと名付ける、その自分が名前を付けたイエス、その赤ちゃんが成長して民を罪から救う者となる、そのとき、この私、父親であるヨセフ自身も、その赤ちゃんによって救われていくのだと。そのことをヨセフは思ったはずであります。

 「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、「神は我々と共におられる」という意味である』」と言われるとき、生まれてくるこの赤ちゃんと一緒に生きていくこと、それが、「神が我々と共におられる」ということなのだと、思ったはずであります。

 このように天使から示される前には、ヨセフには自分というものが主でありました。自分とマリア、この二人が主となって、これからの人生をどう生きようかと考えていくのであります。ところが、ここでそれが変わりました。新しく生まれてくる赤ちゃんが、主になるのだと。この私、ヨセフ自身も、マリアも、この生まれてくる赤ちゃん、イエスと自分が名付ける赤ちゃんによって、救われるのだと。

 そのように考えたときに、ヨセフは人生観の転換をしたはずであります。それは、自分が知っている知識、今まで生きてきた人生経験、自分が缶変えるこの世界、そういうものによって自分たちの人生を決めるのではなくて、これから生まれ出ずる新しい命が、この私の人生を決めていく。まだ何もわからない、世に現れていない、神様の御心というものが、この私たちの人生を変えていく。

 そして、罪から救い出して下さる、というときに、ヨセフは自分が今なす決断が、仮にその社会の規範や宗教の規範、倫理道徳、正義、そうした規範と違っていたとしても、それがもし罪であったとしても、生まれ出ずるその子が私たちを、自分たちを罪から救ってくれる。その確信を得たのであります。

 このとき、神様を信じる出会いというものが、ヨセフに到来したのであります。もちろん、それ以前からヨセフは信仰を持っていたでありましょう。当時の世界の中にあって、聖書を読み、家庭において神を信じる教育を受けていた、その社会の規範としての教育を受けていたヨセフにとって、神がおられること、神を信じること、そして神様が下さった大切な律法を守って生きることは当然のことだったでしょう。

 けれどもこのときヨセフには、それまで知ってきた宗教であったり、社会であったり、家族であったり人間関係であったり、そうした、ものの規範として与えられてきた考え方の中での神様とは違う神様と、ここで出会うことになったのであります。

 ヨセフとマリア、この二人だけが知っている決断、今日の聖書箇所でいえば、ヨセフだけが天使の前でなす決断によって、ヨセフとマリアは人生の転換をすることになりました。新しく生まれ出ずる神の御心がこの私たちを救うのだと。その神の救いというものと、私たちは一緒に生きていく。

 今日の聖書箇所はそのことを私たちに教えています。皆様は今日の箇所を読んで何を思われたでありましょうか。いろんな思いがなされるのではないかと思います。

 私は今日の箇所を読むなかで、こんなことを思いました。私は聖書を読むなかで、今まで愛を持って聖書を読んできたことがあるかなあ、とふと自分を振り返ったのです。聖書を読むときに、聖書の言葉を愛して読んできたことがあったかなあ、そう自分を振り返ったのです。

 なぜなら、私は今日の聖書箇所を読むときに、つまり、おとめマリアが身ごもってイエス様を産む、というマタイによる福音書にある物語、そしてルカによる福音書の物語。それをどう解釈するかということを毎年毎年、クリスマスの時期が来るときに、アドベントの時期が来るときに、自分の心の中でいろんなことを考えてきたからであります。

 そして、現代人としての理性を持った私自身は、聖書の言葉にどっぷりと、その文字通りの理解にするのではなく、理性的な聖書箇所を解釈すること、それはキリスト教という宗教の信仰自体を理性的に解釈すること、それを現代に生かしていくこと、そのことを私自身が自分の職務、役割として考えてきたからです。

 私は毎年毎年、クリスマスが来ると、おとめマリアがみごもってイエス様がお生まれになられた、という、その物語をどう現代人として読むか、どう受け止めるか、ということを毎年毎年考えてきたのであります。

 

 その中で、いろんなことを言うことができます。四つある福音書の中でマタイとルカにはクリスマスの物語があるけれども、マルコとヨハネにはクリスマスの物語はない。そして、パウロの手紙を始め、その後の時代の様々なキリスト教の書簡、新約聖書の物語において、おとめマリアからイエス様がお生まれになられた、ということはそれはほとんど触れられていない。

 

 つまり、そのことは信仰、キリスト教信仰にとって、それがなければ信仰がつぶれてしまうようなほどの重要なことではない。そういう言い方をすることができます。

 また、若い女性が神様の子どもを身ごもるという話は、当時の中近東、また地中海沿岸の当時の宗教の世界にあって、そうした物語は聖書だけではなくて、世界各地にある。つまりそうしたことは、いわば伝承であって、もはや事実として確かめようがないことであり、人々が神の子ということを考えるときに思い描いた一つの夢であり、ファンタジーの物語である、そのように解釈することができます。

 

 私が今申し上げているのは、現代人が理性的に聖書を読むならば、という前提でお話していることであります。けれども、そのように聖書を読むときに、それはまことに理にかなっていると言いますか、ああ、なるほどね、と言ってもらえることではあろうと思うのですけれど、しかし今回、今日の聖書箇所を読む中で、ふと私は思いました。

 私は聖書を読むとき、愛を持って読んできただろうか。今日のこの聖書箇所を、愛を持って読んでいるだろうか、ということを、自問自答したときに、「あんまり愛がなかったかな」ということを反省したのです。

 

 現代人として理性的に読もうとするときに、それはクールに読むということであり、主観を排することであり、いろんな自分の先入観を排して読むときにいろいろなことが見えてくるのでありますが、その一方で、聖書を愛を持って読むということをしてきたかな、ということを考えるときに、それが欠けていたかもしれない、ということを思いました。

 

 聖書が伝えようとしているメッセージは何でしょうか。神の御心であり、神の愛ということであります。神の愛ということを本当に受け止めようとするのであれば、読む人もまた愛を持って読むべきではないでしょうか。

 聖書の言葉を、愛を持って読むときに、現代人として感じる様々なつまずきがあり、そして、そのつまずきをどう解決するか、ということで理性的な解釈をすることは、これは現代人としては当然であります。けれども、その一方で大切なことは、どれほど理性的に聖書を読むのであったとしても、聖書を読むときに、その聖書の言葉を愛する心は、やはり必要なものです。

 なぜなら、神様は私たちに、この聖書を愛を持って与えて下さったのであるから、それを受け取る者もまた愛を持って神様に感謝して読む必要があるのです。そのときに、私たちとの関係がまっすぐにつながるのです。

 

 そして、聖書の言葉を愛を持って読んだときに、今日の箇所にあるのは、単なる古代の人たちの伝承ということではありません。それは当時流布していた古代社会における物語と同じ物語であるとか、決してキリスト教の主張の中心にはない、付属的なことであるとしたとしても、今日の、このマタイによる福音書1章にある物語には、神様の愛が詰まっていると思うのです。

 それは、ヨセフやマリアに対する愛であり、神様の独り子イエス様に対する愛であり、そしてこの物語を読んでいる読者の一人ひとりに対する、神様のあふれるほどの愛があるのです。そのことを受け止めていきたい。そして、キリストを待とう。クリスマスにキリストが私たちのところに来て下さる、可愛らしい、何も出来ない無力な赤ん坊の姿で。そのことを私たちは愛を持って待ち望みたいと願うものであります。

 

 お祈りをいたします。
 天の神様、来週、クリスマスを迎えます。どうか皆で愛を持ってその日を迎えることができますように導いて下さい。そして、この広い世界の中にあって、クリスマスと縁遠いと思っている多くの人間の社会、私たち一人ひとりを含めて、心が干からびていくような悲しみや苦しみの満ちたこの世界にあって、神の愛が私たちの心を突き刺して、そして私たちが悔い改めさせて下さいすますように。そして、まことの平和が神様から世界のすべての人と一緒にいただけますように、心より願います。 
 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

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「恐れるな、闇が明ける」 
 2022年12月25日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  ルカによる福音書 2章 1〜20節 (新共同訳)


 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、
 登録をせよとの勅令が出た。

 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた
 最初の住民登録である。

 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。

 

 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、

 ガリラヤの町ナザレから、
 ユダヤベツレヘムというダビデの町へ上(のぼ)っていった。

 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。

 

 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、
 マリアは月が満ちて、初めての子を産み、

 布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。
 宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 

 

 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。

 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

 

 天使は言った。

  「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。

   今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。

   この方こそ主メシアである。

   あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている
   乳飲み子を見つけるであろう。

   これがあなたがたへのしるしである。」 

 すると、突然、この天使に天の大群が加わり、神を賛美して言った。
  「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、
   御心に適(かな)う人にあれ。」

 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、

  「さあ、ベツレヘムへ行こう。
           主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」

 と話し合った。

 

 そして急いで行って、マリアとヨセフ、
   また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。

 その光景を見て、羊飼いたちは、
    この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。

 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。

 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。

 

 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、

 神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

  

 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
  改行などの文章配置を説教者が変えています。
  新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 本日、私たちはクリスマス礼拝の゜日を迎えました。礼拝堂のクリスマス・クランツのローソクが5本灯されています。待降節に入って一本ずつ増やしてきたローソクが、今日から降誕節に入るクリスマスの日であることを示しています。

 

 私たちがクリスマスを迎える中、今この世界は、世界中を見回しているときに、闇に包まれているように思えるときもあります。なぜ、戦争が終わらないのか、なぜ、コロナ禍が終わらないのか、なぜ、あの国は、なぜ、この国は、そして、なぜ、私たちの国の社会においてはこんなことが起こっているのか、と思うときに、闇ということを感じざるをえないこともあります。

 

 そのような私たちに神様は、この闇が明けるということを知らせて下さいます。今日の聖書箇所をには、恐れるなという天使の言葉が記されています。「恐れるな。」この言葉ぱ、夜が明けてから聞こえるのではなく、夜が続いている間に、天使から羊飼いたちに向けて語られた言葉でありました。

 

 恐れるな。真っ暗闇の中にあって天使の声が響くのであります。まだ夜は明けていません。闇は暗い。しかし、闇が明けてから神様の声が聞こえるのでなく、その闇の真っ只中にいる人たちに、神様の「恐れるな」という言葉が響いているのであります。

 

 それは、今この現代の日本社会の中で生きている私たちにとっては、どのようなことなのでありましょうか。今日の聖書箇所には、クリスマスはの聖書の物語が記されてあります。私たちが生きる時代とはるかに隔たった時代、地理的にはるかに遠い所、そこで起きた2000年前の物語が記されてあります。

 

 どこを読んでも、私たちの普段の生活と重なることがない、遠い世界の話に思えます。それは、おとぎ話のようなものであり、何かの物語であり、美しい話ではあるんだろうけれども、しかし私たちの日常と重なることはない、別世界のことのようにも思います。

 この箇所を読んで皆様は何を思われたでありましょうか。私はこの箇所を、この日常の世界からははるかに縁遠いと思える物語を読みながら、今の日常の私たちとぴったり重なることが、あることに気がつきました。それは15節の所で「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちが『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださった、そのことを見ようではないか』と話し合った」という所です。

 

 羊飼いたちは「話し合った」とあります。今を生きている私たちは、天使の言葉を聞いたり、マリアやヨセフと出会ったりすることはできません。けれども、「話し合う」ということはできます。羊飼いたちがこのとき、天使のお知らせを、お告げの言葉を聞いて、そのあと天使が去ったあと「話し合った」とあるように、話し合うということは、今を生きている私たちができることであります。

 そのことに気がついたときに、思いました。私はこの教会でずっと説教をしてきました。その礼拝の説教をするときに、いつも思っていたことは、この礼拝に来られている皆さんが、何を思っておられるかなあ、ということであります。この聖書の言葉を聞いて、何を思い浮かべるかなあ、何を思われるだろうか、といつも思いながら話してきました。

 

 そういう意味で、私が説教させていただくときに、それは単に私という一人の人が何かをしゃべっているのではなくて、礼拝に来ている皆様と話し合っている、そういう思いで説教をして参りました。もちろん、説教は説教ですから、みんなで本当に話し合う言葉を礼拝の中で出し合うことはできません。けれども、この教会の礼拝に来られる皆さんの思い、願い、祈り、いろんなことを私は心に思いながら、聖書の御言葉を語らせていただいてきました。

 羊飼いたちが話し合った、とあるように、私たちも聖書の言葉を聞いて、神様からのお告げ、お知らせ、メッセージを聴いて、話し合ってきました。それは、たとえば「聖書に親しむ会」のときであったり、何かの拍子に立ち話したことであったり、私たちの教会は、やってくる皆さんがお互いにいろんな話をしてきました。

 羊飼いたちは互いに言っています。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださった、その出来事を見ようではないか。」私たちもまた、天使から知らせていただいた、聖書の言葉を聞いて、「その出来事を見ようではないか」と話し合っているのです。

 もちろん、ベツレヘムに行くわけではありません。では、どこに行くのでしょうか。聖書の物語の中では、羊飼いたちはそこから小さな旅をして、ヨセフとマリアとイエス様がいる馬小屋を探し当てるのであります。私たちは今から旅に出て馬小屋を探し当てることはできません。それは地図上の、平面上の旅をすることです。それをすることはできません。

 

 しかし私たちは、今度は時間の流れの中で、自分の人生を探し求める旅の中で、主イエス様と出会う旅へと招かれているのです。時間軸の中でこの時間が前に進んでいく中で、どこかで私たちはイエス様と出会う。そのことを求めて旅に出ることができるのであります。教会でみんなで話し合うとき、それはみんなでイエス様に会いに行こう、そういう話し合いをしているのであります。

 本日は、2022年の最後の日曜日となります。今年最後の礼拝、もうそのときが来てしまったのか、と驚きます。来週はもう元旦、2023年。時間が経つことの早さに本当に驚きます。私たちは1点にとどまっていることができません。そのことに少し寂しさも感じます。今日という日は永遠ではないのか、という寂しさです。

 

 今日の聖書箇所においては、羊飼いたちが登場します。羊飼いたちは羊の番をしていました。夜中に、その場所から離れることができない人たちであります。しかし、天使の言葉を聞いて、急いでそこを離れて小さな旅に出ることになりました。天使の言葉を聞いた以上、羊の番をして、そこにとどまっている時間というものが、もうもったいないのです。今すぐ行こう、主の所へ。彼らは小さな旅に出ました。

 羊飼いたちがたどり着いたのは馬小屋でした。どうやって、その馬小屋を探し当てたのか、ということは聖書には書いてありません。ただ神様が導かれたのです。そして、その馬小屋にはその場所から動くことのできない三人の家族、マリア、ヨセフ、赤ちゃんイエス様、その三人がいました。生まれたばかりの乳飲み子を囲む二人。この三人はこの場所から動くことができません。

 彼らも長い旅の途中でした。当時の政治の状況の中で、彼らは長い旅を強いられていたのです。その長旅の中で突然、彼らは動けなくなりました。イエス様がお生まれになられたからであります。そこに羊飼いたちがやってきます。そこに羊飼いたちがやってきます。

 クリスマスの物語というものは、旅をしている者が意外な所で言わば足止めをくらう、そういう場面であると同時に、意外な所で、同じ場所から動いてはいけない仕事をしている者たちが、小さな旅に出る物語です。この二つの話がクリスマスには同時にあるのです。

 

 それぞれに思っていた自分の日常とは違うことが起きて、旅をしていた者は足止めをくらい、同じ所で番をしていた者は急遽、急いで旅に出る。そうしてヨセフ、マリア、赤ちゃんイエス様と羊飼いたちは、馬小屋という場面で出会いました。どうして羊飼いが馬小屋にいるのでしょうか場違いといえば場違いです。いや、ヨセフ、マリア、赤ちゃんイエス様が馬小屋にいることも場違いです。なぜ、そんなことになるのでしょうか。

 

 それは神様がそうなされたからであります。聖書はそのことを私たちに教えています。イエス・キリストのお生まれ、クリスマスの到来によって、それまで急いでいた者は足止めさせられ、それまで同じ所にずっといさせられていた者は急遽、小さな旅に出る。そうした変化が起こります。そして、出会うはずがなかった者同士が出会います。

 「あなた、だれ?」と言いたくなる他人同士が出会って隣人、隣り人となりました。クリスマスということは、どこかに止まった点があって、これがクリスマスだよ、と言えるようなもの、あるいは、これがクリスマスの意味だよ、と言えるような固定したものがあるのではなくて、クリスマスというものは実は動いているものなのであります。生き生きとしているのです。それが何であるか、よくわからないまま、私たちの日常は止められ、そしてまた、止められている者は動き出す。

 なぜ、そんなことが起きるのでしょうか。私たちは、その本当の理由を知ることができません。それは、ただ神様の御心の中にあるものだからです。その、わからないものを尋ね求める、クリスマスの旅へと私たちは招かれています。

 暗闇、夜の真っ只中において、天使が「恐れるな」と言うとき、私たちはそのクリスマスの旅へと出るのであります。夜が明けてから神の言葉が響くのではない。漆黒の闇が私たちを覆っている、その中に「恐れるな。」その言葉が響くのです。

 お祈りをいたします。
 天の神様、私たちがそれぞれ与えられている場において、日々を生きるということの重さ、つらさ、また喜び、いろんなことを思います。今年もまた、クリスマスがやって参りました。一人ひとりの心の中に神様がくださるプレゼント、御子イエス様を確かに受け止めて感謝して、そししてみんなで話し合って、それぞれに、また、みんなで歩んでいくことができますように導いてください。
 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。