京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2022年7月の説教

京北教会 2022年7月3日(日) 7月10日(日) 7月17日(日)

   7月24日(日) 7月31日(日) 礼拝説教  説教者 今井牧夫

「家族の恵みとイエス様」

 2022年7月3日(日)京北教会 礼拝説教 

 聖 書   マルコによる福音書 10章 1~16節(新共同訳)

 

 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。

 群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。

 ファリサイ派の人々が近寄って、

 「夫が妻を離縁することは、律法に適(かな)っているでしょうか」と尋ねた。

 イエスを試そうとしたのである。

 

 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。

 彼らは、「モーセは離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。

 イエスは言われた。

 「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。

  しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった。

  それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。

  だから二人はもはや別々ではなく、一体である。

  従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

 

 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。

 イエスは言われた。

 「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。

  夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 

 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れてきた。

 弟子たちはこの人々を叱った。

 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。

 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。

  神の国はこのような者たちのものである。

 

  はっきり言っておく。

  子供のように神の国を受け入れる人でなければ、

  決してそこに入ることはできない。」

 

 そして、子供たちを抱き上げ、

 手を置いて祝福された。

 

 

 

 

(上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、改行などの文章配置を説教者が変えています。新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

…………………………………………………………………………………………………………………

 

 (以下、礼拝説教)

 

 6月5日は教会の暦でペンテコステ聖霊降臨日でした。その日の礼拝のときから、聖書の使徒言行録の2章を今までを順々に読んで参りました。しばらくそうして読んできましたので、今日から以前の礼拝で読んできた聖書箇所の流れに戻ることにします。すなわち、マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、旧約聖書、その3箇所から順番に毎週読んでいく形に戻します。

 

 今日の箇所は、マルコによる福音書10章の1節から16節であります。新共同訳聖書では二つの箇所に分けられており、それぞれに小見出しが付けられています。「離縁について教える」とあるところ、そして次に「子供を祝福する」という小見出しが付けられています。

 こうした小見出しは元々の聖書にはなく、新共同訳聖書が翻訳されて作られるときに、読む人の便宜を図るためにあとから付けられたものであって、こうした小見出しの言葉は、必ずしも聖書に書いてあることを100%表現しているわけではありません。

 

 では、今日の箇所で、イエス様がわたしたちに何を伝えようとしておられるのか、読んでいきます。1節から12節までは、離縁ということを巡って、ファリサイ派の律法学者の人たちとの対話が記されています。

 ファリサイ派と呼ばれた人たちは福音書の中に何でも出てきますけれども、当時のユダヤ教において一番大切であったものは律法でした。旧約聖書に記されている、当時の宗教的な様々な掟(おきて)、現代の私たちで言えば法律なのですが、宗教的にも社会的にも当時の人たちにとって法律であったものが律法です。

 

 その掟というものを、どのように解釈するか、ということでいろいろな考え方が当時あったようですが、その中で特に厳格な解釈の仕方を守る人たちがファリサイ派と呼ばれるグループでありました。

 

 その人たちが、イエス様の所にやってきて、最初の質問したことは2節にあるように、「夫が妻を離縁することは、律法にかなっているでしょうか」ということでありました。そのあと、すぐにこう書いてあります。「イエスを試そうとしたのである。」

 

このようにして、律法学者、ファリサイ派の人たちがイエス様に向かって、ちょっと難しい、というか、かなり難しい質問をすることによって、その質問にイエス様がどう答えるかということを試す場面が何度も出てきます。

 

 それは、イエス様がそこで答えることに何か失敗すると、そのことで「イエスはこんなことを言っていた」というふうに、そこでイエスの弱みと言いますか、失敗ということを明るみに出して、イエスというのは所詮、こんな男なんだ、大したことないんだ、ということを人々に言いふらす、そんなふうなために、いわばイエス様をわなにかけるために、このように難しい質問をすることがあったのです。

 

 ここでファリサイ派の人たちがした質問は、「夫が妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか」ということであり、つまり、離婚するということは、律法にかなうかどうか、神様の御心にかなっているのかどうか、ということを尋ねてきたのであります。

 

 3節以降を見ますと、「イエスは、『モーセはあなたたちに何と命じたか』と問い返された。彼らは、『モーセは離縁状を書いて離縁することを許しました』と言った。」とあります。ここで言われているのは申命記24章1節に記されていることを巡ってのことでありました。そこにはまさに、離縁状を書いて離縁することができる、ということが、ちゃんと律法の中に最初に記されていたのであります。

 ということは、ファリサイ派の人たちはそのことを知っていて、あえて、離婚ということは律法にかなうかどうか、ということをイエス様に尋ねてきたのであります。すると、このことは単なる聖書の知識、律法の知識ということを聞いてきただけではなくて、そうであることはわかっている、つまり離婚してもいいんだ、ということはわかっている、ただ、それは本当に神様の御心にかなっているかどうか、ということ、その解釈ですね。その深い解釈をイエスに尋ねてきたということであります。

 

 なぜ、このようなことを聞いてきたかというと、ここで、離婚するということは神様の御心にかなっている、離婚しても構わない、離縁状を書いて離婚してもいいんだ、というふうに言えばですね、それは女性の側から見たら、男性の側にイエスが立っていると、そういうふうに見えるわけで、弱い立場の人たちの側に立たないで、男性たち、強い人たちの側に立ったと言うことができます。

 

 逆に、神の御心にかなっていないといえば、律法に書いてあることをイエスは否定した、それは神に対する冒涜である、と訴えることができます。つまり、どっちの答えをしたとしても、片方を言えば、弱者の側に立たなかった、もう片方のことを言えば、律法を冒涜したと、どちらの批判も言えるわけです。

 

 こうした意地悪な問いを、ここでファリサイ派の人たちはイエス様にぶつけてきました。それに対してイエス様は仰いました。「『あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。』」

 

 ここにあるのは、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」というものであり、結婚というものがこういう性格を持っている、それは人が結び合わせたのではなくて、神が結び合わせたのだと。だから、人がそれを勝手に離してはならない、というのであります。

 

 ここで質問してきたファリサイ派の人たちは、男性の側に立って、男性がいやになったら離婚できるのだと、それはちゃんと律法に書いてあるのだ、という前提で質問していたわけでありますけれども、イエス様の答えはそうした彼らの男性中心的な考え方を批判して、そういうものではないのだ、ということでした。

 旧約聖書の一番最初に書いてある通り、「天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。」一体であるものを引き離すということは、神様による天地創造のときの秩序に反している、ということでありました。

 

 そしてまた、そのように旧約聖書の創世記を用いて律法学者たちに反論する、その前に言われた言葉が5節にあります。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」

 

 この言葉は、さらっとイエス様から言われていますが、これはかなりすごい言葉だと私は思いました。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」この言い方は、何気なく読み流すと、そうなのかと読み過ごしてしまいますが、よく考えると、このイエス様の言葉はかなりすごいです。

 

 なぜかというと、旧約聖書のたとえば申命記などに書かれている律法は、これは神の言葉だと信じられていたわけです。その神様の言葉を、モーセが神様から預かって、いただいてきて、そして民に伝えた、として、出エジプト記申命記に書いてあるのですが、受け取ったのはモーセだとしても、元々の言葉は神様の言葉であることが大前提のはずなのです。

 ところが、ここで5節にあるようにイエス様が、「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と言っている所は、旧約聖書の律法に書いてあることは、ここでは「モーセが書いた」という言い方でありますけれども、別の言い方をすれば、旧約聖書の律法は、これは人間が書いたのだ、ということをイエス様がはっきりおっしゃっているということなのですね。

 

 それは、これはもう無前提的に神の言葉なのだと、言わば天から降ってきたのに等しいものが、旧約聖書の律法なのだというふうに信じて、そう教えていた社会の状況の中では、このイエス様の言葉というのは、本当に驚くべき言葉であります。

 

 「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」、つまり、人間であるあなたたちがワーワー言うから、男の権利がどうのこうのと言うから、しかたなくモーセはこのように書いたのだ、というように言うときには、旧約聖書の律法というものは、天から降ってきた神の言葉、ではなくて、人間の必要に応じて人間が書いたものなんだ、ということを、ここでイエス様は仰っているわけであります。これは当時の人たちの考え方に、本当に足下にくさびを打ち込むような強烈な一言であるように私には思えます。

 

 聖書の注解書を見ますと、このようなことを言ったのはイエス様だけではなくて、当日の律法学者の中にも、この旧約聖書の律法の中にはいろいろなことがあって、非常に重要なことから、そう重要ではないものまでいろいろな種類があって、そこには人間の手が加わっている、ということを言う人たちはいたようであります。

 

 けれどもイエス様がここでこのように言われるときに、律法というものが、元は神様の言葉であったとしても、それは人間が受け継いで語り継いでいく中で、どんなふうに都合良く書き足していったか、書き加えていったか、ということへの批判というものが、ここにあるわけなのですね。

 そうした後の時代の、付け加えられていった人間の思いということではなくて、元々の神様の御心はどこにあるのか、ということを考えたときに、この6節以降にあるように、旧約聖書の創世記で一番最初にある天地創造の初め、天地創造の物語、その中で人間というものが神様によって創造される、造られるわけでありますけれども、そのときに最初から人は男と女に作られたという、そこから始まっている、それが人間の元来の姿なんだと。だから人はそれぞれの親元を離れて、二人は一体となる、それを離してはならないと。

 

 そういうふうに言われたとき、モーセの律法と言われていた十戒を、神様から石の板に書き記された十戒を預かってきた、そういた律法というものを、それよりも先にあった、天地創造のときからの神様の御心のほうが大事なのだということを、イエス様は仰っているわけであります。

 

 つまり、聖書に書いてある、この律法はこう書いてあるから正しいんだというのではなくて、聖書に書いてある律法を本当の意味で正しく解釈するためには、律法によらないで、天地創造のときからの神様の御心を尋ね求める、そういう聖書に書いてある言葉というのは、どれも同じように大切なのではなくて、聖書に書いてある言葉の中で、何がどのように本質的であるか、ということを追求する、そこから初めて律法というものを正しく解釈できるのだというとを、イエス様は仰っているわけであります。

 
 そしてさらに続きます。10節ではこうあります。「家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。『妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。』」

 

 ここでは女性と男性の立場というものが平等にされています。片一方だけに離婚する権利があるわけではない。両方ともある。そして両方ともこうである、というふうに言われるときに、ここには単に離婚というものをしていいのか悪いのか、ということを超えて、もっともっと何か深い倫理というものが語られている、ということが思われます。

 

 ここまで読んできますと、離縁、離婚ということに対して当時の人たちがイエス様を陥れようとして問うた事に対して、相手の問いをはるかに上回る高いレベルの答えをすることによって、彼らをイエス様が圧倒している、そういう様子が伝わってきます。

 

 しかし、こうした箇所を読むときに私たちの心のそれぞれに、何かふっと自分の心の中を通り過ぎていく、何かの思いがないでしょうか。それは何かと言いますと、ここに書いているように、二人は一体であるという、この素晴らしい教え、これは本当だと思うのですけれど、一方でこの広い社会の中においては、たくさんの方々が離婚せざるをえない状況にあって、離婚して行かれる社会の現実というものがあります。

 

 その中にあって、神が結び合わせて下さったものを人は離してならない、という言葉は力強い、良い言葉であるけれども、現実の人間はこの言葉だけでは生きられない、ということも一方では思うのです。そういう意味で、この聖書を読んでいて、すっと心の中を通り過ぎていくものがある。ちょっと寂しい風が吹いてくるような気がしないでもないでしょうか。

 

 また、今日の箇所でいえば12節、13節に書いてあることがありますが、この言葉を型どおりに読めば再婚することはよくないことなのだろうか、ということも思えてきます。男性も女性も平等なのだけど、離婚することはしょうがないとしても、再婚してはいけないのか、ということを考えてくると、これまた心の中を冷たい風がふっと吹いてくるような気がします。

 

 実際には、キリスト教の考え方において聖書の解釈というのは多種多様でありますから、ここにこう書いてあるからこうだ、とかたくなに、ある一つの聖書の言葉だけを取り出して、それを社会全体にあてはめていく、というような乱暴な解釈はいたしません。

 

 人間の実際の生活においては、離婚することもあれば再婚することもあり、いろんなパターンがあって、そのためにいろんな法律というものを整えていく。そしてそうした多様な人間の現実に対して、聖書は何を語っているか、ということは、これは型どおりと言いますか、かたなくなに文字通りに解釈するのではなくて、聖書全体のいろんな箇所を参照して、総合的に考えていくということが大切になってきます。

 

 今日の箇所でも、イエス様が離婚というものを特に否定していたのかというと、そうではありません。福音書を見ていますと、再婚した人、何度も結婚と離婚を繰り返していた人とイエス様がお話をされる場面がありますけれども、そんなときにイエス様がそうした人たちを責めているかというと、そんなことはありません。つまり現実がそうであるということは、イエス様はご存じなのであります。 

 

 しかし、本日の聖書箇所の、この場面においてイエス様が何を言いたかったかというと、離婚の権利は男性も女性も等しく持っている、もし女性の側だけが再婚したら姦通の罪に問われるというのであれば、男性も当然そうである、そういうふうにして男性中心的な考え方をいさめているのであります。

 

 男性であれば一方的に離婚できると解釈したがる、このファリサイ派の人たちに対して、そうでない、ということを言うのです。当時にあっては親と子という結びつきのほうが強いと考えられていたのではと思える節があります。親と子、父と子、この関係のほうが絶対であると。

 

 しかしイエス様はそうではありませんでした。父と子の関係が絶対なのではなくて、結婚した夫と妻、この関係こそが一番大事な、天地創造のときからの秩序なのだと。親子、父と子の関係というのは、そうやって男女がそれぞれ結び合って結婚していくまでの成長においては、重要であるけれども、しかし結婚したあとは、この二人のつながりは神が結び合わせたものであり、だから決して離してはならないということを言うときに、これは、親子、父と子の関係をいうときにも、夫婦の関係というものを上位に置いている、そういう考え方ができます。

 

 これもまた画期的な考え方であると思います。聖書の解釈というものはいろいろありまして、父子の関係というものを非常に重要視している箇所はたくさんありますけれども、イエス様はここで創世記の箇所を引用することで、そうした人々の思い込みをくつがえしているということがよくわかります。

 

 そしてまた、こうしたイエス様が結婚や離婚について語られた言葉、こうした言葉をたとえば現代の世界の中で考えるときに、いわゆるセクシュアル・マイノリティと呼ばれる方々が、男性・女性という枠に収まらない、あるいは男性は女性を愛し、女性は男性を愛するという枠におさまらない、そうした考え方、そうした人たちは、このイエス様の言葉はどうなるのか、ということになると、これまたいろんな考え方が出てきます。

 

 今日の聖書の箇所を持ち出すことによって、同性愛は認められないと主張する人たちもいます。しかし、私が感じてることとしては、聖書の言葉のある一部分だけを切り出して持ってきて、ほらこう書いているじゃないか、だからこうなんだ、と人を説得するときには、必ず様々な矛盾が生じてきて、ギクシャクしてきて、結局は通用しなくなるのではないかと思います。

 

 今日の箇所でいえば、イエス様はここでセクシュアル・マイノリティの人たちがどうであるかということを説明しようとしているのではなくて、ファリサイ派の人たちがイエスを陥れようとして、弱者の側に立つのか、それとも神の律法の側に立つのかと、二つの内のどちらを答えても批判されることを強いられる、その危機的な状況の中にあって、最も大事なものは何であるか、それは旧約聖書の律法に書かれた文章、それを上回る、天地創造のときからの神様の御心である、ということであり、人々が社会の中で常識としている、父と子の関係、それよりも結婚した二人の関係のほうが大事なのだというときには、確実にイエス様はこの世の中で弱者とされている人たちの側に立っています。

 

 この世の中にあって、社会の常識の中で苦しめられ抑圧されている人たちの側に立つということから、神の御言葉ということをもう一度読み直していく、聖書を読み直していく、イエス様のその姿勢こそが、私たちにとってもメッセージであり、イエス様の言葉の一部を切り出して何かの政治的な主張に絡めて人を抑圧すること、それは決してキリスト教の歩むべき道ではないのであります。

 

 そして今日の箇所を今まで読みました12節までの次、13節からは子どもに関することが記されています。ここでこの話はガラッと変わっているようにも見えますが、よく考えると、前半の所で離婚と結婚について語られていて、そのあとに子どもの話が出てくるということは、この流れは、明らかに「家族とは何だろう」という問いを持ちながら、マルコによる福音書のこの箇所が編集されていることを示しています。

 

 結婚・離婚に関すること、そして子どもに関すること、これは別々のことではないのです。実際に言葉が語られた場面は別であったとしても、内容的にはつながっています。

 

 「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れてきた。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」

 

 ここでは、何と言いますか、読んでいて、ちょっと自然と何だか口元がゆるむような、何か微笑ましい、温かいものを感じます。イエス様に触れていただくために、人々が子どもたちを連れてきた、というときに、イエス様に祝福してほしい、そういう子どもたちを連れてきたという思いがあります。

 

 私の子、私の家族を、このちっちゃい子どもを祝福してほしい、そう思って近づいてきたときに、イエス様の近くにいた弟子たちは、その人々を叱ったとあります。なぜであるかというと、その当時において、子どもというのは愚かな存在だと思われていたからであります。

 

 聖書の律法を覚えることができない。働いて献金することができない。祈りの言葉を覚えてそれを実行することもできない。礼拝することができない。社会の中にあって大人の一員ではない、社会の一員ではない、半人前以下の存在が子どもでありました。

 

 宗教というものを徹底していくときに、意外でありますが、そのようなことになっていくこととがあるのですね。子どもたちは聖書の言葉を覚えることができないから、礼拝することができないから、そういう理由で、子どもたちは愚かな者、神様から遠い者とされていたのです。

 

 けれどもイエス様は違いました。「イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」と言うのでした。子どもたちは決して愚かな者ではない。それどころか、「神の国は、このような者たちのものである」と言うときに、弟子たちは自分たちのほうが子どもたちよりも神の国に近いと思っていたことへの批判であります。

 「神の国」というのは、あなたたちのように「俺たちのほうが聖書を勉強しているから、俺たちのほうが大人だから神の国に近いんだ」と思っている人たちではなくて、この子どもたちのような存在が神の国に入るのだというのであります。

 

 「はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」これはどういうことでありましょうか。子どものように神の国を受け入れる、そんなことができるのでしょうか。

 

 こういうことを考えるときに、「子どものように」とは何だろう、とやはり考え込んでしまいます。子どものように、単純なことかなあ、あまり理屈を言わないことかなあ、と考えてしまいます。そんなふうに考えてしまうこと自体が、大人の証拠といいますか、つまり何かで理屈を建てて子どもとは何であるかということを説明して、これこれこうであるから神の国に入るのだと、言葉で説明して、じゃあ、大人もそのようになろうといって、なれないはずの子どもの心になろうとする、そんなところがまさに大人の悪いところなのであります。

 

 子どものように神の国を受け入れる人、それがどんな人であるか、それはもう言葉で説明しなくてよいのです。もし、あえて言うとしたら、その子どもたちを連れてきた人たちを叱りつけた弟子たちのようでなければ、もうそれでよいのです。

 

 弟子たちは、ここでハッとしたはずなのです。私たちは何が悪かったのだろう。どうして今イエス様から叱られるのだろう。イエス様が持っておられる権威を守ろうとして、イエス様のところに子どもたちが来て、愚かな子どもがまとわりついて、そんなのは邪魔でしょうがないと思っていた弟子たちは、大人としてのイエス様の権威を守ろうとしていたのだけれども、イエス様にとってはそんな権威なんて、元々考えておられませんでした。

 

 そうではなくて、出会って、触れて、祝福してほしい、そういう思いでやってくる大人と子どもを、決して止めてはならないのだと。神の国に入る人、それはこんなふうに、祝福を必要としている人なんだと、イエス様はおっしゃっているのです。

 

 なぜ大人たちが、この子どもたちを連れてきたのか、それは、この子どもたちがすくすくと成長してほしいからであります。子どもたちの力だけでは、自分の力だけでは、子どもたちはすくすくと成長できない、大人の力でそうできない、子ども本人の力だけでもできない、そこには、自分たちを超えたもの、神様からの祝福が必要なのだ、と思ってやってきた、その人たち。

 自分たちは祝福を必要としている、その祝福の意味がどうであるかは、理屈ではわからない、けれどもその祝福を必要としている、そうした人たちが神の国に入るのであります。

 

 最後の16節にはこうあります。「そして子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」こうして今日の箇所は、微笑ましく温かい場面で終わっています。大人はこんなふうにイエス様から抱き上げてはいただけません(イエス様は大人にも、手を置いて祝福されることはあったでしょう)。でも子どもたちは、こうしてイエス様の祝福にあずかることができたのです。祝福を必要としていたからであります。

 

 それは本当は、子どもたちだけでなく、大人たち一人ひとりが、神様からの祝福を必要としているはずなのです。でも、そんな自分に気がついていないことが多いです。自分は祝福する側と思っている、そして祝福されるなんてことも、そんなわざわざしなくてていいですよ、神様を信じて生きています、それなりに働いて自分の生活してきましたから、こんな私でいいんですよ、そう思っているのではないでしょうか。

 そういうことではなくて、本当に祝福がなかったら、生きていけないのだ、これからの未来を思ったときに、心から祝福を望んでいる、そうした弱者というもの、この世の中において愚かだと思われていても、その祝福を待っている人たちに、祝福が与えられるのです。神の国は開かれているのであります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、いつも私たちを守っていてくださっていて、ありがとうございます。家族という問題を考えるときに、なかなか答えが出せない、そしていろんなふうに、悩む私たちであります。しかし、人間の生きた現実を何よりも見て下さるイエス様、そして言葉に書かれた聖書の様々な言葉にまさって、本当に神様の御心を尋ね求め、そこから語って下さるイエス様によって、私たちは救われ、祝福され、今日から始まる新しい一週間をそれぞれに、またみんなで共に、歩んでいくことができますように、お一人おひとり、またそれぞれの家族を神様が祝福して下さい。そしてみんなで、神様の家族として歩むことができますように願います。

 この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、神様の御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

……………………………………………………………………………………………………………………………………

 

「あの方と共に、そっと働く」  
 2022年7月10日(日)京北教会 礼拝説教

 聖書  ローマの信徒への手紙 15章 14〜21節 (新共同訳)

 

  兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、

  互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。

 

  記憶を新たにしてもらおうと、

  この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。

 

  それは、わたしが神から恵みをいただいて、

  異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、

  神の福音のために祭司の役を務めているからです。

 

  そしてそれは、
  異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、

  神に喜ばれる供え物となるためにほかならなりません。

 

  そこでわたしは、神のために働くことを

  キリスト・イエスによって誇りに思っています。

 

  キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。

 

  キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、

  また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。

 

  こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、

  キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。

 

  このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、

  わたしは熱心に努めてきました。

  それは、他人の築いた土台の上に立てたりしないためです。

 

   「彼のことを告げられていなかった人々が見、

    聞かなかった人々が悟るであろう」

  と書いてある通りです。 

 

(上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
 改行などの文章配置を説教者が変えています。
 新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

…………………………………………………………………………………………………………………

 

 (以下、礼拝説教)

 

 毎週の礼拝で読む箇所を、マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、旧約聖書、その3箇所から選んで毎週順番に読んでいく形に、戻しています。今日の聖書箇所はローマの信徒への手紙15章であります。

 

 この長いローマの信徒への手紙も、終わりに近づきました。その終わりにあたって、この手紙を書いた使徒パウロは、今まで手紙で書いてきたことをも振り返りながら、自分の思いということをもう一度ここで改めて書いている、そういう箇所であります。

 

 今日の箇所の中には、他の聖書の箇所のように、この言葉が特に目立つと言いますか、名言と言われるような聖書の言葉、聖句というものがあるわけではないと思います。一読したところでは、私の印象としては、今日のこの箇所は何か地味な箇所だな、という思いがありました。

 

 聖書の中のいろんなエピソードといいますか、私たちの心に残りやすい物語であるとか、また、名言というものがここの中にはなくて、何となく地味なことが書かれているという印象を私は受けました。手紙の最後のほうはこういうものかもしれません。今まで支えてきたことを振り返り、だいたいこんなことを思ってきたんだよ、ということを最後にもう一度再確認するような形で、落ち着いた調子で書いている、そういう感じがします。

 

 しかし、これは単なる手紙の一部ということではなく、ここにやはり大切なメッセージというものが含まれています。今日の箇所の中では18節の言葉が、特に私の心に残りました。「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。」

 

 パウロは今まで自分が伝道者として経験してきたことを通して、神様に対する自らの信仰ということを自信を持って語っています。そして、その中では、グッと筆が前に出るといいますか、読む人の心に迫ってくるような言葉もいろいろとありました。

 

 しかし、そうした言葉を書くときにパウロは、自分の思いを相手に伝えようとしているのではなくて、キリストが私を通して働かれた、そのこと以外にはあえて何も申しません、とここで言っているのです。

 

 自分が一生懸命に人に伝えようとしていること、これは自分の思いではなくて、キリストが私の中に働いて下さっている、そのことを一生懸命に伝えているだけなのだ、というふうにしてパウロはここで、自分の伝えている信仰ということの主体が、この自分、人間ではなくて、神様の御心であるということをここで謙虚な言い方で表しているのであります。

 

 そして、その他には、今日の箇所においては、「異邦人」という言葉がキーワードになっています。何度も出てくる異邦人という言葉、それは普通に言い換えると、外国人ということであります。国が違う人、民族が違う人、外国人、ということで、異邦人という言葉があります。

 

 しかしこれは他の箇所でもそうですが、異邦人という言葉を使うときに、単に外国人という意味だけではなくて、そこには、イスラエルの人たちから見た異邦人、というときに、それは、聖書を知らない人たち、という意味がこめられています。また、聖書に記された本当の神様を知らない人たち、そういう意味で異邦人という言葉が使われています。

 

 今日の箇所においても、その両方の意味が重なって、異邦人という言葉が使われています。「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となった」、パウロは自分のことをこのように16節で言っています。そしてそれは、「異邦人が聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる聖なる供え物となるためにほかなりません」、このように言います。

 

 それは、神様を知らなかった人が、神様を知るようになって、そして神に喜ばれる供え物となるためにに他ならない、というのです。人間がここでは「供え物」、神に喜ばれる供え物という言葉で表現されています。こうしたパウロの言葉づかいは、現代日本社会に生きる私たちは、ちょっと抵抗を感じる言葉づかいではないかな、と私は思います。

 

 それは、たとえで言われているのだとしても、なんとなくちょっとムズムズするような感じがしないでしょうか。この私、生きた人間というものが、何かの供え物にされてしまう、神様のために、と考えたときに、何だか神のために捕らえられて犠牲にされる、そういう怖さのようなものを感じます。

 

 しかし、使徒パウロがここでそのような言葉づかいをしているのは、そうした人間というものを犠牲にして神に捧げるという意味ではなくて、神様が最も喜んでくださる、私たちからのプレゼントという意味で言っています。

 

 私たちが自分を神様に献げるということ、そのことを儀式でいえば、当時の儀式でいえば、供え物を献げることなのでありますけれども、当時の、この時代における習慣、宗教的な考え方でいえば、礼拝のときに動物、鳥や小動物などの肉を焼いて神様に献げるということが、古代からの人々のならわしでありました。お肉というのはご馳走です。それを焼いた匂いが天に届いたときに、その香りをかいで神様の心がなだめられる、そのように人々が考えていたことが、旧約聖書からわかります。

 そのような考え方は現代の私たちの目から見たときには、すごく昔の考え方に思えますけれども、人類といっていいのでしょうか、人間というものが古代において宗教的な考え方というものをするときに、そうした、ものすごく素朴な考え方だけど、しかし、とてもそこに実感がこもっている考え方をしていたわけであります。

 

 当日の人たちは、たとえば農作物を作る、畑を耕して農作物をとって生きる、そうした作物をとったときに、その中で一番いい作物をまず神様に献げて礼拝し、感謝をする、そのことを通して、来年もまたその農作物がとれるようにと祈りました。そうしたことは非常に原始的に思えるかもしれませんけれども、人間というものは本能的にそうした存在であるといっていいのではないでしょうか。

 

 そうした文化的な背景というものを考えながら、今日の箇所を読むと、神に喜ばれる供え物として、献げるということには、人間からの心からの感謝をこめて一番の贈り物をするということであって、では、何が一番よい贈り物であるかというと、人間一人ひとり自分自身の心も体もすべてを神様にお献げする、ということであります。それが一番の贈り物です。

 

 そしてそれは、神様が元々、人間を創造された、神様が人間をお造りになられたという、旧約聖書の信仰からいえば、もともと神様のものであった、この私自身を神様にお返しするということになります。そういう形で神様に最大限の感謝を表す、そのことが礼拝ということの根本的な意味であります。

 

 そしてそのことは、聖書の民、聖書を知っている民であるイスラエルの人たちだけではなくて、もともと聖書の神を知らなかった人たちも、聖書を通して本当の神に出会い、その神に、自分自身を一番いいプレゼントとして神様にお献げする。そのことが、その人、一人ひとりの人間が本当の人間になって神様のもとに立ち返っていく。最もその人らしい姿になっていくことである、とパウロは考えているのであります。

 

 そのような考え方においてパウロは、今日の箇所において、自分が伝道者として各地を回り、イエス・キリストの福音を伝え、その伝道の言葉を、イエス・キリストを宣べ伝えることによって伝えてきたといいます。 

 

 そのことによって、元々は神を知らなかった人たちが神を知るようになり、そしてイエス・キリストを主と信じるようになり、そして自分自身を神様に対して一番良いプレゼントとして神様に献げる、あるいは神様に対して自分自身をお返しする、そういうことができるようになった。そのことを、パウロは自分がしてきた仕事において一番幸せなこととして、また誇りに思うこととして、ここで語っているのであります。

 

 そのような伝道者としてのパウロの働きは、パウロが自分自身のためにしたことではなくて、キリストが私を通して働いて下さったから、それができたのだ、だから、それ以外はあえて何も申しません、と言っているのです。

 

 もちろん、一人の人間としてのパウロは、いろいろなことが言いたかったと思います。こんな苦労をした、耐えられない現実に耐えてきた、あんな工夫をして、こんな工夫をして、何とか乗り切って、そんな人間としての思いを言えば、いくらでも言えたでしょう。そして、いろんな方の協力、ということも言えたでしょう。

 

 しかし、パウロはそうした人間としての思いを、いったんここで抑えて、キリストが私を通して働いて下さった、そのこと以外にはあえて何も申しません、ということによって、このローマの信徒への手紙の全体が、パウロ自身の、自分の人生を表すものではなく、キリストの御心を表すものとして、書いたのだということを言っているのであります。

 

 そしてパウロは20節でこのように言っています。「このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に立てたりしないためです。『彼のことを告げられていなかった人々が見、聞かなかった人々が悟るであろう』と書いてある通りです。」

 

 パウロは他の人たちは当時、様々な伝道者がいて、地中海沿岸、中近東、そういった地域において、各地を歩いて回って、また船に乗って伝道旅行をしていたのでありますが、パウロ自身は、他の人が先に行った町にあとから行くということではなくて、まだキリストが知られていない所に行って、熱心に伝道に努めてきた、ということを言っています。

 

 それは、パウロが自分の使命をそういう所にあると信じていたからであります。21節には旧約聖書イザヤ書の言葉が引用されています。「彼のことを告げられていなかった人々が見、聞かなかった人々が悟るであろう。」まだ本当の神様を知らない人たちに、聖書の神様を伝えていく、それが神の御心、キリストの御心であって、自分はそのためにずっと仕えてきた。そうしたパウロの気持ちが今日の聖書箇所からあふれてきます。

 

 さて、このような箇所を読んで、現代の日本社会に生きる私たちは、何を思うのでありましょうか。異邦人という言葉が出てきています。異邦人、それは外国人ということであり、また、本当の神を知らない人、聖書の神を知らない人、という意味であれば、いまここにいる私たちはどういう存在なのでありましょうか。

 異邦人であるとも言えますし、また、異邦人でありつつ、その中でキリストに出会って教会に招かれた、そして洗礼を受けた、あるいは教会に通っている、そうした一人ひとりの人間、それぞれに自分の人生があり、それぞれの生きてきた物語がありますが、礼拝に神様が一人ひとりを集めて下さって、今こうしてみんなで聖書の言葉を聴いているという意味では、みんな同じであります。

 

 そして、今日の箇所を読むときに、私は思うのです。私は、何人なのだろうと。私は日本人というふうに言っていいのですけれど、しかし今日の箇所で「異邦人」という言葉が出てきているときに、それが「神を知らない人」であるならば、私もまたそうではないか、と思います。神を信じたとしても、洗礼を受けたとしても、それでも私は異邦人ではないか。そういうふうに思うことがあるのです。それは、神様を信じていても思う気持ちです。

 

 たとえば「孤独」ということであったり、あるいは「疑問」、疑いということであったりもします。自分が生きている中にあって、自分が孤独であることを感じるとき、あるいは生きることにおいていろんな疑問、疑いを持つときに、「私はどうしたらいいのだろう、何を信頼したらいいのだろう」と本当に迷うときに、聖書の言葉を読んでいても、自分自身の居場所といいますか、自分自身の歩く道と言ったらいいのか、どうしたらいいのか、どこへ行けばいいのか、と思うときに、私は今でも「異邦人」ではないのか、ということを思うのです。

 

 けれども、そんな中で、パウロが今日の箇所の中で書いたことを、もう一度味わってみます。パウロは16節でこのように書いています。15節の後半を読みます。「この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかならなりません。」

 

 ここには、先ほど申し上げましたように、現代に生きる私たちには少し違和感がある言い方でありますけれども、異邦人が神様が喜ばれる供え物になるために、パウロが伝道してきたことが書いてあります。ここでの「異邦人」ということが、「私」ということであれば、まことの神ということを知らずに、あるいは確信を持てずにウロウロしているこの「私」が、神様に向けて一番のいいプレゼントになるように感謝の献げ物となるように、パウロは働いてくれたのだなあ、と私はそのように理解をいたします。

 

 2000年前に生きた、使徒パウロという人。私たちは実際に会うことはありません。残された手紙でしか知ることはありません。そしてパウロのいろいろな考え方の中には、現在の目から見ていろいろに問題を感じる箇所があることもわかっています。

 それは、当時の時代状況の中で書かれたことでありますけれども、たとえば女性に対する考え方や、性差別的な考え方、また教会の信仰に関するいろいろな考え方において、今日の私たちが見たときに疑問を感じることも様々にあります。国家権力に対する考え方、政治に対する考え方。いろんな意味でパウロの言葉を検討していくと、様々な疑問がわいてきます。

 

 しかし今日の箇所を読むときに、パウロのそうした箇所はパウロにとっては、いつかは消えていくことであったのではないかと思うのです。それは、パウロは、自分の神学思想とか考え方というものを後世に残そうと思って、この手紙を書いたのではなくて、ただ、できるだけイエス・キリストを多くの方々に伝えたいと思って、この手紙を書いているからであります。

 

 ですから、手紙に書いてあることが、後世の人が見て間違いがあると思われても、それでもいい。そういうことだったと思うのです。

 そこに書いたことが間違ったことであったとしたら、そぎ落としてくれて構わない。パウロの思想がいかに完璧であったか、ということを残すために、この手紙を書いているわけではありません。パウロの様々な間違った点があれば、それらを一つひとつ、そぎ落としていって、そしてイエス・キリストの福音を宣べ伝えるためにだけ、使われていけばそれで良いのだ。そういうパウロの思いが、今日の箇所からは私に伝わってきます。

 

 伝道ということも、今日の現代日本社会に生きている私たちは、いろいろなことを考えます。イエス・キリストを人々に宣べ伝える、皆さんに宣べ伝える、ということは、どういうことなのだろうか。どういうことが本当に伝道になるのだろうか、と考えたときに、なかなかそれは難しいなあと思い、考え込んでしまうことだろうとも思います。

 

 様々な他の宗教との関係、この現代社会の中にあって、科学的な考え方、そして聖書の言葉の解釈、そんなことをいろいろ考えていくと、どんどん難しくなって、伝道って何だろうと考える所で立ち止まってしまうのではないかと思います。

 

 けれども、今日の箇所を読むときに、伝道ということは、自分たちが考えていることがいかに完璧であるか、ということを世の中の人に伝えるためではなくて、教会の問題、キリスト教の問題、つまり自分たちの持っている問題というのは、この社会の中で、歴史の中で、人の目から評価されて、足りなかった所、間違っていた所というのは、一つひとつそぎ落とされていく、それでいいのだ。そのなかで一番大切なものを人に届けることができたら、もうそれでいいんだ。伝道ってそういうものではないか。そのように私はこの箇所を読んで思わされています。

 

 まことの神様を知らなかった人が、聖書を通してまことの神様を知るようになる。そのことによって、一人ひとりの人が自分自身を神様にお返しする、ということ、それが神様に対する最大のプレゼント、贈り物であって、最大の礼拝であるのだと、そのように思うことができるようになるならば、伝道ということは、本当に素晴らしいことであり、それはパウロの時代にも、今の私たちの時代にも、同じではないかと思うのであります。

 

 伝道というときに、世の中の様々な宗教との関係はどうなるのかと思います。キリスト教だけが正しいのか、他の宗教はそうではないのかと問われれば、おそらくそうではないのだろうと私は思っています。けれども、じゃあ本当の神様との関係はどうなるのかと言われたら、それは言葉では説明できません。

 そんなふうに、現代の私たちが、現代の教会で考えていることも、ずっと後の時代になれば、あれは間違っていたなあ、と批判されることであり、そうしたことはまた、そぎ落とされていくのかもしれません。でも、それでいいではないですか。

 

 一番大切なこと、それは一人ひとりの人間が神様に立ち返っていく、ということであり、そのことによって、その人がその人らしい人生を送ることができるようになることであり、そのためにパウロは神の福音に仕えてきましたし、2000年後の教会の私たちもまた、聖書を読み、その神の福音に仕えているのであります。

 

 伝道というものは、常に現在進行形のものであります。教会では、6月5日(日)にペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝をしたときから、聖書の使徒言行録を続けて読んで参りました。使徒言行録に記されているのは、今から2000年前に使徒パウロやペトロたちが、各地に伝道した、そのときの記録であります。

 

 伝道の記録を読んでいくときに、私たちはいろんなことを思います。そこでいやされた病の人とか、奇跡とか、そうしたものが実際にはどういうものだったのか、そういうことも考えます。歴史的に本当にそんなふうにペトロやパウロたちが伝道して、人がどんどん増えることがあったのだろうか、とも思います。

 

 真実というものは、私たちがタイムマシンに乗ってその時代に行って、すべてを見聞きするということはできないので、本当には知ることはできません。けれども、何十年、何百年という時間をかけて、イエス・キリストを主と信じる人たちが増えて、そして現在も世界中に伝道していることは事実であります。

 

 伝道というものは、常に現在進行形ということであります。その現在進行形のものの、ある一部分を切り取って、それがいかに未完成であるかということをチェックして、その伝道のあれがおかしい、これがおかしい、あの考え方がおかしい、と論評することは簡単でありますけれども、そういうことをしていても、本当の意味での伝道は進まないのであります。

 

 それは、こんなふうにたとえることができます。12歳の少年がいて、その12歳の少年がどんな考え方をしているか、どんな生活をしているか、ということをリポートして、その12歳の少年がいかに幼いか、いかに自覚が足りないか、行動がまだまだ出来ていない、と論評することは簡単です。しかし、12歳の少年をリポートして、いかに幼いかということを問題としたとしても、それは教育にも何にもならないと思います。

 

 それは、12歳の少年はどんどん成長していく過程にあって、常に変化していく存在だからであります。伝道というものも、同じであります。常に、日々変わっていく。それは現在進行形であります。たくさん失敗もするでしょう。課題もあるのです。今日言っていることが明日は違うかもしれない。いい加減かもしれない。けれども、伝道というものは、いろんな思いがあふれながら、どんどん前へと進んでいくものです。その中で、ちょっとずつ、伝道する者は成長していくのだ、そういうものだと思うのです。

 

 使徒パウロが、人生の後半において、このローマの信徒への手紙に書いた思い、それは、今まで自分がやってきたこと、それは自分の思いではなく、イエス・キリストがこの私を通して働いて下さったことなんだ、あの方が私に働いて下さったから、私はこうして働いてきたのだ、あの方と共に、そっと私は働いてきた。そのことの実感が今日の箇所には満ちあふれています。私たちの思いもまた、今日の箇所の中に、共感するものを見出すのではないでしょうか。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、私たち一人ひとりを守って下さって感謝いたします。この世の中にあって、どんなに悲しいことがあり、私たちの心を突き動かすことがあったとしても、それでもまた気を取り直して、今日自分がなすべきこと、また教会がすべきことに心を向け、神様の導きを信頼し、すべてをゆだね、すべての悲しみを神様にお献げして、そして慰められ、いやされて、また歩み出すことができますように、すべてのことを神様が守り導いてください。

 この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、神様の御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

……………………………………………………………………………………………………………………………………

「言葉が壊れる時、祈る」 
 2022年7月17日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書   創世記 11章 1〜9節(新共同訳)

 

 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。

 

 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、

 そこに住み着いた。 

 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。

 石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。

 

 彼らは、

 「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。
  そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。

 主は降(くだ)って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。

 「彼らは一つの民で、
  皆一つの言葉を話しているから、
  このようなことをし始めたのだ。

  これでは、彼らが何を企てても、
  妨げることはできない。

  我々は降(くだ)って行って、
  直ちに彼らの言葉を混乱させ、

  互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」

 主は彼らをそこから全地に散らされたので、
 彼らはこの町の建設をやめた。

 こういうわけで、
 この町の名はバベルと呼ばれた。

 主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、
 主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

 

 

(上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
 改行などの文章配置を説教者が変えています。
 新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

…………………………………………………………………………………………………………………

 

 (以下、礼拝説教)

 

 毎週の礼拝で読む箇所を、マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、旧約聖書、その3箇所から選んで毎週順番に読んでいく形に、戻しています。今日の聖書箇所は旧約聖書の創世記11章であります。

 

 今日の箇所は、創世記の物語の流れでは、ノアの箱舟の話のあとに記されています。つまりこれはものすごく昔のこと、古代の世界のことであり、そして、ノアの箱舟、ノアの洪水の時代に一度世界が滅びて、その中でノアとその一族だけが生き残り、そしてその後、ノアから始まって世界中に人間が増えていった、そのときの話であります。

 

 そのときといっても、歴史的に実際にそうした時代があったか、なかったか、ということは私たちはわからないわけでありますけれども、基本的には、今日のこうした物語は、長らく語り伝えられてきた伝承、言い伝えというものを、この聖書というものを編集するときに、神様への信仰を持ってここに書き記したものであります。

 

 そして、この物語は1節にこうあります。「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」ノアの箱舟の時代から始まった新しい世界、それはみんな同じ言葉を使ってみんなで話していた。それは世界各地で違った言語が使われている実際の世界とは違っています。昔々は、実はこうだったんだ、という設定がここで始まっています。

 

 2節にはこうあります。「東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。」この地域は地名ではバビロニア、バビロンとも呼ばれています。後のイスラエルの国を侵略して壊滅させた、ものすごく強い国の人たちがいた、そういう地域であります。 

 そして3節にはこうあります。「彼らは、『れんがを作り、それをよく焼こう』と話し合った。

石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。」ここで、わざわざ、町を造る材質のことを書いてある理由というのは、聖書の注解書を見ますと、こうありました。イスラエルでは石としっくいを使って建物を造る。それに対して、れんがとアスファルトを使うというのは、劣った材質を使っていることを意味している、ということでありました。つまり、バビロンの人たちは、自分たちよりも劣った材質を使っていた、そういう文化であったということをここで言っているのであります。

 

 そしてこう続きます。「彼らは、『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう』と言った。」

 天まで届く塔のある町を建てて、有名になろうと町の人々は言いました。ここで言われているのは、バベルの塔と呼ばれる高い塔がある町を建てて、有名になること、そして全地に散らされることのないようにすること。これらが町を建てる目的ということでありました。

 

 単に高い塔を建てるというだけではなくて、高い塔がある町、それは全体が塔から眺める人によって支配された町であり、そして世界のどこよりもこの町が良いのだと自慢できるような町、その町にみんなで集まって住んで、全地に散らされることがないようにしよう、自分たちはかたまって住もう。選ばれた人たちというのでしょうか、この素晴らしい町を造って、そこに選ばれた人たちが住む。そのシンボルが、バベルの塔なのでありました。

 

 そのような人々の試みに対して、5節にこう書いてあります。「主は降(くだ)って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降(くだ)って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」

 

 これが神様の御心でした。ここには「我々」という言葉が出てきています。神様はお一人なのに、なぜ「我々」というのか。聖書学者の研究によれば、立派な人がご自分のことを指すときに、一人でも「我々」という言葉遣いをするという解釈があります。そしてまた、神様と神様が造られた天使たちという意味で「我々」という言葉が使われるということもできます。そしてまた、宗教学的には、昔は多神教といいますか、たくさんの神様がいる信仰が元々あったので、様々な神様という意味で「我々」という言葉がここに残っているのだと、そのように考えることもできます。

 

 いろいろな考え方をすることができますけれど、ここでは要は神様の御心というものは、人間たちがたった一つの言葉でみんな、意思疎通をしてやっているから、こんなことになるんだとして、「これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降(くだ)って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」となりました。

 

 そのように実際になされたので、8節にはこうあります。「主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。」言葉がお互いに通じ合わなくなったので、町を建設することができなくなった。それだけではなくて、同じ町に住むということすら、できなくなってしまったのです。そして、全地に散らされたということでありました。

 

「こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」こうして、この短い物語は締めくくられています。

 

 この最後のところでは、イスラエルの言葉であるヘブライ語で「バラル」という言葉があり、混乱という意味で、そこから町の名はバベルと呼ばれたとあります。その一方では、バベルというのはバビロンという地名を指すものでもありましたので、バベルとバラルという言葉が発音が似ているので、このように結びついたと考えることができます。

 

 ここにあるのは、高い塔のある町を建てる、そしてそれによって有名になる、そのことで全地に散らされることのないようにしよう、という人間たちの願いが神様によって打ち砕かれたということであります。

 その人たちは、神様の御心にかなわないことをした、だからこのようになった、言葉がお互いに通じ合わなくなった。そこから、みんな同じ町に住むことができなくなって、世界中に散らされていった。ということがあったので、いま世界各地でみんな違った言葉をしゃべるようになっているんだ、という、最後は現実の世界に結びついていくのです。

 つまり、いまの世界はどうしてお互いに言葉が通じ合わないのか、それは過去にこういうことがあったからだ、という現実を説明するための物語になっているわけであります。

 

 こうした物語を読んで、皆様は何を思われるでしょうか。最後は言葉が互いに通じ合わなくなってバラバラにされていったのですから、人間が様々に分断されていったことであり、人間の欲望、有名になろうとか、自分たちの町を造ってずっとここに住むという、うぬぼれたエリート指向のようなもの、それが打ち砕かれたことが示されています。

 

 最後に、人間が分断されていって終わる、ということを真面目に考えると、これは悲しい話ではないかとも思うのですが、現代にあってこの物語を読んで悲しいとはあまり思わないのは、あくまでこれは古代の物語、お話であるという意味で、まあ落ち着いた心で私たちは読んでいるからでありましょう。

 

 そしてまた、人間の欲望というものに駆られて、高い塔を造った人たちのうぬぼれ、傲慢というものもわかりますから、それを神様が打ち砕かれたという所に、ある意味で神様の素晴らしさ、神様のなされることの偉大さ、素晴らしさというものを、ここで私たちは感じるからかもしれません。

 

 けれども、物語の最後に、お互いの言葉が通じなくなったので、みんなバラバラになっていったということは、何となく私たちの心にちょっと影をもたらすものだと思うのです。というのは、現実の私たちの世界に起きている事は何かというと、まさにお互いの言葉が通じなくて戦っている戦争があり、内戦があり、政治的抑圧がある。そうした問題がヒシヒシと私たちの上にのしかかっている、そういう時代だからこそ、今日の物語は、心に響いてくるのではないかと思うのです。

 

 私はこの箇所を読んで、思いました。言葉が通じないというのは、単に言語が違う、日本語と英語が違うように、というような意味だけではなくて、互いの言っていることの意味がわからない、信じられないということではないかと考えました。

 

 たとえば、現代ではフェイクニュースという言葉があります。ねつ造された、でっち上げられた、本当に根も葉もないことを、あたかも本物であるかのようにニュースの形式をとって、写真まで付けて、それを流す。これはインターネットの時代だからでありますけれども、そうして流れていくニュースが本当かどうかを確かめないままに、どんどん人に伝えていく、それと最後には本当のニュースとフェイクニュースの区別がつかなくなるというのです。

 

 そしてそれが、たとえばアメリカの大統領選挙で影響があったとか、そんなニュースを聞くと、正直私はゾッといたします。最初そうしたことを聞き始めたとき、それをあまり信じることができませんでした。というのは、フェイクニュース、そんなでっち上げられたものを、そんなに人々は信じないだろうと思っていました。なんぼなんでも常識とか理性というものが働くからと思ったからです。中には悪い人がいてそんなことをしても、多くの人はそれを嘘だろうとすぐに見抜くだろうと思っていたのです。

 

 しかし、いろいろなニュースを見ていますと、そうでもないということがわかってきました。むしろ理性的だと思われていた人が、そうしたフェイクニュースに影響されて、自分の判断を変えていく、そうしたことが現実にあるのだということが私にもわかってきました。

 

 そのことを考えると、この人間というものが、言葉が壊れていく、それは単に言語の違いがあるというだけではなくて、その言葉の意味を解釈する力、また、伝えられた言葉の真偽、それが本当か嘘なのか、ということを見分ける、そうした力もまた、失われているのであろうか、ということを思うのです。

 

 聖書においては、世界の国において言語が違っていることは、神様がなされたことであって、それは人間が傲慢にならないために、ということであります。また、聖書の注解書を読むと、こういうふうなことが書かれていました。このバベルの塔の話の人々の願い、全地に散らされることがないようにしよう、という願いは、旧約聖書の冒頭にある天地創造の物語の中で、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と書いてあることと逆のことであるということでありました。

 

 つまり、神様は人間がこの世界に広がっていくということが、神様の御心であるのです。にもかかわらず、ここに大きな町を造って有名になり、そしてみんなでここにかたまって生きようということは、それ自体が神様の御心に反しているというのでありました。

 

 私はそれを読んで、ああそうなんだ、と思ったのですね。というのは、自分が生きるために、自分のために、よい町に住みたいとは誰でも思うのです。

 

 そして、その町を充実させたい、しっかりとした建物を建てて、そして町のシンボルとして何かを建てて、そんなことを考えるのは現代でも古代でも一緒なのですね。そしてそこで、ずっとここに住み続けよう、ここから離れないで一族郎党がみんなここに住む、そういうことが幸せではないか、とどこかで思っているのではないかと思うのです。

 けれども、それは実は神様の御心に反しているのだと。世界のいろんな所に人間が増えていくこと、いろいろな土地に移り住んでいく、そうしたことによって、世界全体を神様に感謝して受け止め、また神様に感謝を献げていくのです。世界中で神様を礼拝するようになっていくということが、神様の御心であるのです。

 

 そうであるならば、ある一つの町にこだわって、その町をいかに立派にして、天まで届く高い塔を建てていくということは、実は、自分の住んでいる所を天国にしようとすることであり、自分の住む所を天国にしたならば、そこに住む自分が神になる、そういう考え方が、このバベルの塔の話にはこめられていますね。

 

 そして、そのようなことをするときには、互いの言葉が通じ合わないように、神様によってされてしまう。お互いに信頼しあうことができなくなる。その時には、もうこの町には住めない、となってみんなバラバラにされていく。それは悲しいことでもあると思うのですけれども、しかし長い目で見るときには神様の御心が現されていく。そのように考えることができます。

 

 もちろん、人間がそうやって離散させられていくことは悲しいことだと思います。辛いことであり、現実は本当に世界の状況を見るときに、そんな簡単にはそれは言えません。みんなかたまって住んでいるほうが、ずっと幸せではないか、自分の住んでいる所を天国にする、それの何が悪いのだろう、と私たちの実感は一方ではあると思うのです。

 

 けれども、そこにこだわって、自分が神になってはいけない。自分たちの町だけがこんな立派な町になって、天にも届く塔を建てるのだ、というところにあるうぬぼれというものが打ち砕かれる。そのことを知るときに私たちは、自分たちの生活ということ、町造りをするということも、それは人間の思いではなくて、神様の御心を尋ね求めながらしなければならない、ということがわかります。

 

 天にまで届く高い塔を建てて、その町に暮らすのではなくて、神様の御心を尋ね求めるための教会を建てる、礼拝する所を建てる、そして、そこから町造りをみんなで考える、そうしたことのほうが大切なのであります。

 では、そんなふうにするには、どうしたらいいのでありましょうか。この創世記のバベルの塔の物語は、新約聖書の物語とどんな関係があるかと言いますと、この話は、実はペンテコステ(聖霊降臨日)の物語とつながっています。

 

 というのは、新約聖書使徒言行録に記されたペンテコステというのは、聖霊降臨日という意味で、神様の見えないお姿である聖霊、聖い霊というものが、イエス様が天に挙げられたあと、天に帰られたあとに、神様のもとから聖霊が一人ひとりに注がれて、そのときに人々はそれまで語らなかった外国の言葉を語れるようになった、という不思議な物語です。それが使徒言行録には記されています。

 

 その物語というものが、実は今日のこのバベルの塔の物語につながっています。バベルの塔の物語では、お互いの言葉が通じ合わなくなって、そして人々が世界に散っていくという物語でありますが、その人たちが再び集まって世界の様々な言葉で語りながら、しかし一緒にいることができるようになった、神様の御心によってそうすることができるようになったのがペンテコステです。

 そのことはバベルの塔のときの人間の分断ということが、このペンテコステの日に終わりを迎えて、今度は神様の御心によっていろいろな国の言葉を使いながら、しかし人々が一致して生きていくことができるようになったという、ペンテコステ聖霊降臨日の物語につながっていくのであります。

 

 こうした物語を歴史的な時間の経過として考えますと、はるか昔のノアの洪水の物語やバベルの塔の物語があり、そして今から2000年前のペンテコステの時代、その間を時間の物差しではかれば、どれぐらい時代が離れているのかはわかりませんけれど、ものすごく時代が隔たった所で、神様の御心というものは、あるときには人を分断させ、あるときにはまたその人の分断を元に戻していく、そうした常にスケールの大きな神様の御心というものがあるのです。

 

 そして、ペンテコステの話というものを読むときに、私は使徒パウロのことを思い起こします。パウロという人は元々は熱心な律法学者であり、クリスチャンを迫害する立場の人でありました。イエス・キリストを信じるなんて許せないと言って、古い宗教信仰の立場に立って、しかも熱心な律法学者でありましたから、クリスチャンを見つけては捕らえていたのです。

 

 そうして迫害する側に立っていたパウロが、ある日突然に目が見えなくなって、その暗黒の中で、イエス・キリストの言葉を聞いたのです。「私はあなたが迫害しているイエスである。」パウロにとってそれは本当に驚くべきことでありました。

 今まで熱心にクリスチャンを迫害していた自分、その自分が急に目が見えなくなった。それはつまり、律法学者として律法を守って生きる、ということがもうできなくなってしまったということです。その暗黒の絶望のなかで初めて、イエス・キリストの言葉が響いてきたのです。

 そのときのイエス様の言葉、それは「それが何語であったか」ということとは関係なしに、神様から自分に直接伝わってくる言葉として、パウロは聞いたのであります。

 

 そして、そのあとにパウロはまた元のように目が見えるように戻り、そして今度は、イエス・キリストを救い主として宣べ伝える伝道者となりました。その働きが使徒言行録や、また様々なパウロの手紙の中にたくさん書かれています。

 

 パウロもまた、最初はイエス・キリストに関する言葉が伝わっていなかった、理解できなかった、そういう人でありました。言葉が伝わっていなかったのでした。しかしあるとき、暗闇の中で目が見えなくなった、その暗黒の中でパウロは神の言葉を聞きました。心の中に聞いたのです、確かに。

 

 そのとき、初めて、今までわからなかった言葉がわかるようになった。そこからパウロの人生が大きく変わりました。それは、ペンテコステ(聖霊降臨日)の日の出来事ではありませんが、パウロにとってのペンテコステの出来事だったのだと思います。そしてまた、そのようなペンテコステの出来事は、実は今ここにいる私たち一人ひとりにあり得ることなのであります。

 

 しかも、ただ1回だけではなくて、繰り返し繰り返し人生の中において、神様からの言葉を自分の心で直接聞く、それは「それが何語であるか」ということと関係なく、神様の御心というものが伝わる、そういう経験であります。あるいは、言葉にならないようなものが伝わる、そういう経験であるかもしれません。

 そういうことによって、一人ひとりが神様と結びつき、一人ひとりが神様と直接結びつき、神様に立ち返っていく、そのときには、一度はバラバラに分断されていた人間というものが、神様の御心によって再びつながることができるようになるのであります。

 

 ペンテコステの日に様々な国の言葉を語り始めた人たち、それは神様の聖霊が働いたときのことであり、ここから世界中に伝道しに今から出て行くのだと、そういう力がみなぎっていることでありました。それはバベルの塔の物語の最後に、人間たちが自らのうぬぼれが砕かれて、バラバラに分断されていくこととは全く違ったことでありました。

 

 バベルの塔のときと、反対のことがペンテコステのときに起きたのです。そしてそのことは、今を生きている私たち一人ひとりに、自分自身の生活の中でありえるのです。それは私たちが聖書の言葉を読むときに、また、自分の祈りをする中で、また、人と話す中で、いろいろなときに神様の御心というものが私たち一人ひとりの心の中に届くのです。

 

 そのときに、切れていた他者との関係、あるいは世界の中にある大きな分断というものを、ちょっとずつ埋めていく、変えていく力になっているのであります。

 

 バベルの塔の物語が、バベルの塔の物語だけで終わっていれば、世界の人はみんな違った言葉を使って話しているのですという、単なる現実の肯定にしかなりません。

 でも、このバベルの塔の話は大事なのです。世界中の人たちの言葉が違っているからこそ、人間はうぬぼれることができない。それは私たちの生活にとっては、それは不便だなあと思うこともあります。外国語を話す人たちとどうやってコミュニケーションをしたらいいのか、いろんな不安を感じます。世界の人がみんな同じ言葉だったら簡単でいいのに。

 

 でも違うのですね。もしそうなってしまったら、人間はものすごく傲慢になっていく。自らを神だと思い込んでいく。そうであってはならないために、神様は言葉というものを分けられた。しかし、そうやって分けられた私たちがもう一度神様においてつながることができるようになるてのです。

 それは、高い塔を建てる、この町を造る、そうした人間の技術の結晶としてではなくて、ただ神様から与えられる恵みとしての聖霊、目に見えない神様のお姿である聖霊、その聖霊の働きによってのみ、そのことは可能なのであります。そこに、信仰というものの重要さが現れています。

  

 お祈りをいたします。

 天の神様、私たちの生きる世界はいろんな力によって分断されています。お互いの言葉を信じることができない、お互いを信頼することができない、本当に悲しい時代です。世界中の国々がお互いに疑心暗鬼で、お互いに足下を見透かしている、そんな恐ろしい時代の中を生きている私たちにも、神様から救いが与えられます。どうか一人ひとり、神様の聖霊を与えられて、そこからまた生き直すことができますように。使徒パウロが新しい道を歩んだように、私たちも日々新しくされて、そして本当の意味で他者とのコミュニケーション、つながりというものを与えられて、自分のうぬぼれではなく、そのうぬぼれが砕かれる所から、人ときちんと対話していくことができますように、そのことを願います。

 この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、神様の御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

…………………………………………………………………………………………………………………………

 「では、誰が救われ……?」

 2022年7月24日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書 マルコによる福音書 10章17〜31節(新共同訳)

 

  イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。

  「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

  イエスは言われた。

  「なぜ私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はいない。

   『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』

   という掟(おきて)をあなたは知っているはずだ。」

  すると彼は、

  「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。

 

  イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。

  「あなたに欠けているものが一つある。

   行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。

   そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

 

  その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。

  たくさんの財産を持っていたからである。

 

  イエスは弟子たちを見回して言われた。

 「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」

  弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。

  イエスは更に言葉を続けられた。

  「子たちよ、神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

 

  弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろう」と言った。

  イエスは彼らを見つめて言われた。

 「人間にできることではないが、神にはできる。

  神は何でもできるからだ。」

  ペトロがイエスに、

 「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました」

  と言い出した。

 

  イエスは言われた。

  「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、

   家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、

   今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、

   後の世では永遠の命を受ける。

   しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」 

 

 

 

 


(上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
 改行などの文章配置を説教者が変えています。
 新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

…………………………………………………………………………………………………………………

 

 (以下、礼拝説教)

 

 毎週の礼拝において、聖書の3箇所から選んでいます。マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、旧約聖書。この3箇所から順番に選んで毎週読んでいます。今日の箇所はマルコによる福音書の10章であります。

 

 今日の箇所には、新共同訳聖書では「金持ちの男」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは、もともとの聖書にはないものであります。新共同訳聖書が作られたときに、読む人の便宜を図って付けられましたが、この読み出しは聖書の箇所の意味をすべて表しているわけではありません。

 

 今日の箇所において、17節を見ますと、このように始まります。「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。』」

 

 イエス様は旅に出ようとしておられました。旅といっても、いわゆる旅行に行く、遊びに行く、ということではなくて、宣教の旅、神の国の福音を皆さんに宣べ伝えるための旅のことです。その旅に出ようとしたときに、イエス様の言葉を聞こうとして、尋ねようとして、イエス様のところに来た人がいました。

 ひざまずいて尋ねるというのは、謙遜な思いを表しています。そして「善い先生」と言葉をかけることも、相手に対する心からの尊敬を表しています。尋ねた内容は、永遠の命を受け継ぐには何をすればよいのでしょうか、ということでありました。

 

 永遠の命。それは、いつまでも長生きする、そういうような意味での永遠の命ではなく、この地上の生が終わったあと、神様のもとに行き、神の国、天の国において永久に生きることができる、そういうものでありました。それは、当時の人たちが聖書を信仰に基づいて神様に願っていたことであります。

 そこには、単に自分の命が長くありたいということではなくて、自分という存在が自分が死んだあとにも神様のもとにあって、いつまでも安らかに、恵み深い中に自分の存在があり続ける、そういうものでありました。

 

 それは、自分が人生を生きたということが、無駄にならず、そしてまた罪の結果として滅ぼされて地獄に落ちて苦しむのではなくて、永久に神のもとにあり、そのことを願ったのであります。永久の地獄に落ちるということではなく、永久の神の国に行く、そのことを願っている。

 

 それは大変に宗教的な世界観の考え方でありますけれど、単に長生きするとか自分の命や名誉を守りたいというだけでなく、死後に苦しむのでなく、本当に自分が生きて良かったということを、この世の生が終わったあとに確かめたい、そういう思いでありました。

 

 そのことに対してイエス様は仰いました。「なぜ、私を善いというのか。神お一人のほかに善い人は誰もいない。」まずこのように言われます。「善い先生」と言われたその言葉、その言葉が本当の意味で善いと思って言われたのか、その気持ちを確かめているような言葉であります。

本当の意味で「善い」というのは、神様だけである。そのようにイエス様は仰います。

 

 そこには、そのことを本当に尋ね求めるのであれば、私に聞くよりも、天の神様に聞いたらいいよ、そういうニュアンスが込められているのではないかと私は感じました。

 

 そして、さらに19節にこうあります。「イエスは言われた。『なぜ私を「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はいない。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という掟(おきて)をあなたは知っているはずだ。』」

 

 このイエス様の言葉は旧約聖書に記された、モーセ十戒、十の戒めというものを元にした言葉であります。モーセが人々に伝えた神の言葉、十の戒めにある言葉をここに並べています。こうしたことをする、それは律法というのですけれど、今の私たちで言えば法律と言ってもいいのです。宗教的な意味でも日常生活においても、一つの法律、決まり事、神様から与えられている戒め、それをしっかり守るということ。それが永遠の命を受け継ぐためにすることだと、ここでイエス様は仰っているのであります。

 

 ここでイエス様が言われた、この律法は、イエス様だけではなくて律法学者であれば誰でも言っていたことであります。永遠の命というものを求めるのであれば、聖書に書いてあることをしっかりと受け止めて実行したらいいよ、ということでありました。「あなたは知っているはずだ」とイエス様は言っていますから、そういう質問をするのであれば、あなたはすでに聞いているはずだ、という意味がこめられています。

 

 次の20節にはこうあります。「すると彼は、『先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました』と言った。」この人は、子どものときからモーセの律法をしっかりと守ってきました。その中の社会にあって、標準的な教育を受け、その通りにしてきたのだ、ということでありました。こういう言葉を見ると、この尋ねてきた人は、青年であり、そしてまた、大変真面目な人だったのではないか、というふうに想像することができます。

 

 その相手に対して、21節にあるようにイエス様は答えました。
 「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」

 

 旧約聖書の律法をしっかりと一生懸命に守ってきた、その人に対して「欠けているものが一つある」とイエス様は仰いました。それは何であるか。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われました。

 

 欠けている一つのこと、というのは、天に富を積むということでありました。そのことをするためには、地上の富を売り払って貧しい人々に施す、慈善を行うことであります。そうして何ももたなくなって、そこから私に従いなさい、とイエス様は仰いました。

 

 その言葉を聞いて、その人はどうなったか。22節にこうあります。「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」このように書いてあります。こうして17節から読み始めて、この人とイエス様の対話はどうなるのだろうと思っていたのが、ここで一旦の区切りが来ます。この人は悲しみながら立ち去ったのであります。

 

 その理由は「たくさんの財産を持っていたから」という、ここの場面に来るまでは言われていなかったことが説明されています。たくさんの財産を持っていたがゆえに、それを売り払って施す、慈善をするということができなかった。そのために、このイエス様の言葉に従うことができず、悲しみながら立ち去ったのであります。

 

 「気を落とし、悲しみながら立ち去った。」この人の心情を私たちはどんなふうに想像するでしょうか。つらかったのだなあ、かわいそうだなあ、と思うこともできます。その一方で、ちょっと別のことも私たちは思うのではないでしょうか。

 なあんだ、たくさんの財産を持っていて、それを売り払うことができなかった。永遠の命をいただくにはどうしたらいいか、と尋ねてきたのだけど、結局この人も、ただの人間だったじゃないか。いろんな欲を持った一人の人間に過ぎなかったじゃないか。そんなふうに思う人もあるでしょう。

 

 また、もうちょっと違ったことを考えることもできます。ああ、やっぱりお金持ちはダメだなあ。いざとなったら、自分を守ることばかりを考える。そのように思って、イエス様の前から立ち去ったことを、小気味よく思う人もあるかもしれません。いろいろな取り方ができます。

 

 しかし、話は聖書のこの場面だけでは終わりませんでした。「イエスは弟子たちを見回して言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。』」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。」とあります。

 

 なぜ、弟子たちは驚いたのでしょうか。それは、その頃の人たちの神様に対する考え方というものを説明する必要があります。というのは、財産がある人は、なぜ財産があるかというと、それは神様がその人を祝福したから、その人は財産を持っている、というふうに人々は考えていたのです。

 

 ということは、お金持ちであればあるほど、それは神様がその人を祝福して下さっているのだ、という考え方なのであります。だから、ここでイエス様が「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われたときに、「えっ、いったいどういうことだろう」と思ったのであります。

 

 財産がある人というのが、神様から祝福された人である、そういう考え方というのは、現代の日本社会にいる私たちにとって、ちょっとびっくりする考え方かもしれません。というのは、宗教というものは往々にして、貧しいことが善いことだとして、財産を持つことは何か自分のために欲が深いことであって、宗教というのはそこから離れた所にある、何か清い心になること、清く貧しい「清貧」というものを求める価値観ではないかと、何となく私たちは感じているのではないかと思うからです。

 

 しかし、旧約聖書を見ておりますと、そうではなくて、たくさんの財産を持っている人は、神様に祝福されたからそうなんだ、という理解です。一生懸命働いた結果としてたくさんの財産が手に入った。それは、その人が働いたことを神様が祝福してくださったからと考えます。

 これは、もしかしたら「清貧」ということとは、ちょっと違うかもしれませんけれども、人間の心情には実は、これは合っているのですね。一生懸命、働いた、その報いとしてたくさんの財産をいただいた。「ああ、神様、ありがとう。もっと私は働こう。」そう思うということは、これは健康なことではないかと私は思います。

 

 けれどもイエス様は言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」これを聞いて弟子たちは驚きます。そしてさらにこう言われます。「イエスは更に言葉を続けられた。『子たちよ、神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』」

 

 このように、ものすごく極端なたとえを用いて、イエス様は語られました。らくだが針の穴を通るのは、非常に大きいものが非常に小さい穴を通るわけですから、それはもう不可能なことだと思われます。その不可能なことのほうが易しいということは、金持ちが神の国に入ることはもうほとんど不可能なこと、ありえないことと言われているのと同じであります。

 

 そのようなイエス様の言葉を聞いて弟子たちは、ますます驚きます。
 「弟子たちはますます驚いて、『それでは、だれが救われるのだろう』と互いに言った。」

 

 この「誰が救われるのだろう」という言葉から、今日の説教題を取りました。「それでは、誰が救われ……?」という弟子たちの率直な疑問ですね。たくさんの財産を持っている人は神様から祝福された人、だとみんな思っていた。一生懸命に働いてそれが祝福された、正しい方向に生きているから、この人は祝福されたのだと思っていたのに、そうでないとしたら、じゃあ、一体誰が救われるのだろうか、というのであります。

 そこには、弟子たち、あるいは当時の人たちが、神に救われるということは、目に見えてそのことが自分の前で、事実として現れてくることだと思っていたということがあります。この世で一生懸命働いて、目の前にその財産がある。大きな家や土地があり、そこで雇われた人たちがいる。まさにこれが神の祝福、神様の御心なのだ。ここに、もう偽りのない、疑いのない祝福がある、と思っていたのであります。

 

 ところが、そうしたもの、目に見えるものでは、救われる証拠ではないとしたら、じゃあ、どこにそうした証拠があるのだろう。本当に救われる人、永遠の命を受け継ぐ人は、どんな人なのだろうか、と思ったのであります。一体誰が救われるのか? それはどんな人か?

 そして思うのです。もし「こういう人が救われる人です。こういう人が神の国に入って永遠の命を受け継ぐ人です」というふうに、イエス様が言われる人がもしいたとしたら、それはどんな人なのか、興味津々になるですね。どんな基準なんだろうか、ということですね。神に救われるためには、どんな基準を満たす必要があるのだろうか。そういう弟子たちの思いがあります。

 そうした弟子たちの言葉に対して、17節でイエス様が言われました。

 「イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。』」

 

 この言葉は私たちの心に残る言葉であると同時に、このときの弟子たちの問いをはぐらかしているような言葉にも少し思います。禅問答という言葉がありますが、すごく真剣な問答をしているのですけれども、ピタッとその答えの意味がわからないまま、何かはぐらかされたような気がする、そういうふうな問答になっているのではないかと思うのです。

 「それでは、だれが救われるのだろう」と弟子たちが聞いたときに、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」とイエス様は言われました。なるほど、神様というのは全知全能、何でもできる方のはずであります。その神様ならできる。しかし、人間にはできることではない。

 

 これは、まあ宗教のこととしては、当然のことかもしれません。本当の意味で救われるとか、神の国に入るとか、命を受け継ぐということは、これは人間の努力ではできないことです。人間が一生懸命に頑張って、この基準に達したから救われる、永遠の命がもらえる、そういうことではないのです。人間には、一切できない。そこで、人間の力ということに関しては、私たちは本当の意味で絶望する必要があるのです。

 

 人間の努力の延長に、神の国があるわけではないのです。しかし、その上で、人間にはできないことも神にはできる、ということで、神様は救って下さるというのでした。

 

 この言葉を聞いて弟子たちは、一瞬、沈黙したのだと思います。そうなのか、と。その、救われた人の基準というものが何かわからない、しかしそれは、神様が知っておられることだ、という、このイエス様の言葉を聞いて、一瞬、立ち止まったのであります。

 

 そのすぐあとに、ペトロは言いました。
 「ペトロがイエスに、『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました』と言い出した。」

 

 ここで「言い出した」とある、この表現には、少し皮肉も入っているようにも思えます。つまり、金持ちは神の国に入れないと言われて、それに対して自分たちは、この弟子たちは、「私たちは何もかも捨ててあなたに従って参りました、つまり、もうこの世での成功ということを捨てて、イエス様に従ってきたのです。だから、たくさんの報いがあるんですよね」というような、実際にはそこまでは言っていませんけれども、イエス様に確認することを迫っているようなペトロの言葉であります。

 

 お金持ちの人たちは、一生懸命に働いて得た財産を持っていた。それは神の祝福だと思われていた。それに対してペトロたちは、そうした財産というものを持つことがない。けれども、自分たちは全部を捨てて、神の国の福音の宣教のために、教えを宣べ伝えるために、全部捨ててイエス様に従ってきた。では、どんな報いがいただけるのですか、私たちはどうなのですか、というペトロの思いがあります。

 

 そこには「きっと、良いものがいただけるのでしょう? 」という、人間的な思いというか、率直な思いがあることを私は感じます。

 

 それに対してイエス様は言われました。
 「イエスは言われた。『はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。』」

 

 ここでイエス様が仰っているのは、「わたしのためまた福音のため」、つまり神の国の福音宣教をするために、いろいろな持っているもの、家族や財産、それを捨てる者は、この世で迫害もされるけれども、それらを全て100倍も受ける、確かに受ける。

 それは、この世で生きることの喜びとか、生きがいというものを、本当に捨てなかったとき以上の100倍も受けるのだ、というイエス様の宣言であります。そして、この世でそうやって確かなものを受け、後の世では永遠の命を受けると言われます。

 

 まさに、今日の聖書箇所の最初に、「永遠の命を受け継ぐにはどうしたらいいのですか」と問われたことへの答えがここにあります。持っているものを捨てる。それは単に「清貧」、清く貧しく何も持たないことになりました、ということでなくて、福音のために捨てることによって、今度、この人生の中で、その将来に渡る生涯の中で100倍もいただくんだ、ということでありました。

 ここにあるのは、単なる「清貧」というものに生きることによって、何かそれが素晴らしい生き方だという、ある種、倫理的に厳しいと言いますか、そういう宗教の考え方ではなくて、「いや、あなたたちにとって必要な家族も財産も、みんなあなたたちの将来に神様からいただけるのだよ」という約束であります。

 そういう意味で、イエス様の言葉は、旧約聖書の信仰につながっているのです。一生懸命働いた者は、神様からちゃんと報いを受ける。だから、財産を持っている、家族がたくさんいる、そうした人は神様から祝福を受けているのだ、ということ自体は間違いではないのです。

 

 しかし、イエス様がここで言われているのは、元々持っていた財産を自分のためにずっと持ち続ける、というような意味ではなくて、自分が持っているものを大胆に神の国のために捨てることによって、もっともっと大切な財産をあなたたちは受ける、という、そういうことなのです。

 それは私たちの人生に対して、イエス様からチャレンジをして下さっているのだと、私は思います。財産というものが何であるのか、それは自分の中でしっかりと持って絶対に動かさないで守り抜く、そういうものではなくて、それは使うものだ、ということです。福音のために宣教のために、そしてまた貧しい人への施しのため、それは社会というものを変えていくためであります。

 

 神様から与えられた社会を、神様の御心にかなったものへと変えていくために、自分の持っている財産を捨てる、与える、そのことによって、神様はその捨てたものの100倍にあたる恵みを下さるのだ、ということであります。そして、後の世では永遠の命を受ける。これはイエス様が仰るときに、旧約聖書の信仰をただ受け継いでいるだけではなくて、それを元にして、新しいチャレンジというものを、イエス様は私たちに促しているのであります。

 

 そして、最後に言われます。

「『しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。』」

 

 イエス様が時々仰ることでありますけれど、自分は救われると思った者は後になり、自分は後だと思っている者が先に救われるのだ、という人生の逆転のことを最後に言っておられます。そこには、自分はここまでやってきた、こんなふうに頑張ってきた、と言いたい人間の心に対する、一つの戒めがあります。

 

 ペトロが言っています。「この通り、私たちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。」それは、世の人たちよりも先頭に立って、私たちはイエス様に従ってきたのだ、だから良いものがいただけるはずだ、というペトロの思いがあります。けれども、本当にそんなのでしょうか。そうして、うぬぼれたことを言っているのであれば、あなたたちは後に回る。そんなふうにイエス様はここで戒めておられます。

 

 さて、このようにイエス様が教えておられる箇所を、皆さんはどのように思われたでありましょうか。私は今日の箇所を読んで、いろんなことを思いました。その中で今日の箇所で、どの言葉が私の心にまずとまったかということを申し上げますと、21節「貧しい人々」という言葉でありました。

 

 貧しい人々、という言葉は、聖書を読んでいてちょっとドキッとする言葉かもしれません。貧しい人々に施したことがあるだろうか。イエス様の言葉を聞いて、その人たちのために財産を捨てることができるだろうか、と思ったときにちょっとドキッとするのであります。そして、この貧しい人々に施すということができなくて、「気を落とし、悲しみながら立ち去った」という、この一人の人の行動は、まさにここで聖書を読んでいる私自身の行動だなと思いました。

 

 私も、そこまでできないのです。持っている物を、多くの財産と言えるものではないのですけれど、私の持っている物を捨てて、そして貧しい人々に施し、そしてイエス様のあとに付いていくということが言われても、私はそれができません、と思います。すると私もまた、イエス様の前から立ち去らなくてはいけないのだろうか、と言うことを考えます。

 

 そのようなことを考えながら、この「貧しい人々」という言葉を考えていると、私はふと思いました。ここでイエス様に尋ねていたこの人は、イエス様から「貧しい人々」という言葉を聞いたときに、誰のことを思い浮かべただろうか、と思ったのです。もしかしたら、「貧しい人々」と聞いたときに、具体的に思う人が一人もなかったのではないかな、と思ったのです。

 

 それは、道を歩いていたら、その道ばたにいる物乞いの人を見たとか、町の中で貧しい人たちが暮らしている場所で、その人たちを見たというような経験はあったでしょう。けれども、その貧しい人々と本当にいろんなことをしゃべって語り合って、悩みを聞いて苦しみを聞いて、一緒にどうやったらこの社会の中でお互いにしっかり生きていけるのだろうか、そんな話をしたことがあるだろうか、と思ったのです。

 おそらく、ここでイエス様が尋ねてきた人は、そうしたことが無かったのではないか、と思ったのです。「貧しい人々」と言われたときに、それはどこかで見かけた人たち、中心的な存在だった そんな人たちに自分の財産を分け与えるなんてことは当然できないと思って、立ち去ったのではないか。自分の限界を知って立ち去ったのではないかと思うのですが、もしこのときに、この人が「貧しい人々」と聞いたときに、「あっ、あの人だ」「あいつだ」と思い出す人が一人でもいたら、この人の態度は変わっていたのではないでしょうか。

 

 それは、自分の持っている財産を、ポーンと出してしまうという、何か気前の良い、何と言いますか、そういう特別な決心をするということではなくて、いや、あなたが日常的に生きている世界の中にいる、貧しい人と一緒に生きていくために、それを使ったらいいのだ、と考えたなら、この人はもしかしたら、イエス様の前から立ち去らなくても良かったかもしれません。

「自分には、できること・できないことの違いがあり、限界は確かにあるけれども、イエス様が仰ったことの意味がわかるよ、私の持っている財産は、私が管理しているだけではなくて、神の国の福音のために使うのですよね、そのため、どう使うかは、これから一生懸命考えます。」そんな答えができたのではないでしょうか。

 

 自分の持っている財産、それを全部ポーンとどこかの慈善財団に献金して、それで、さあ終わった、という話ではなくて、「私が持っている財産、そんな大きいものでもないけど、でも、どう使うかを一生懸命考えるよ、この社会の中で貧しい人々と共に生きていくために。」そんなふうに考えることができたら、この人はイエス様の前から立ち去らなくて良かったのではないか、と思うのです。

 

 そして、イエス様は、この人が立ち去った後、言いました。弟子たちが「それでは、誰が救われるのだろう」と言ったときに、イエス様は「人間にはできないことも、神にはできる。神は何でもできるからだ」と言われました。これは禅問答のような、はぐらかされるような言葉でもありますけれども、私はこの箇所を読んだときに思いました。イエス様は「神の子」と福音書などで記されています。「人間にできることではないが、神にはできる」と言われたときに、イエス様はここで「俺には、できる」と言われたのではないか、と思うのです。

 「あなたたちが救われること、金持ちが救われる、ということは人間にはできない、けれども、俺にはできる、俺にまかせろ。」そんなふうにイエス様が「俺」なんて言葉を使ったかどうかはわかりません。けれども、「私にまかせろ、私について来たら大丈夫だ」、そんな思いが、このイエス様の言葉に込められているのではないでしょうか。

 

 私たちはこの世の中に生きていて、いろいろなことを問われます。問われるときに「ああ私はできません、そんなことはできない」と思うときに、イエス様が仰るのです。私に任せなさい。私を見なさい。「神には何でもできるからだ」。そこには、人間のいろんな思いを超えた、神様への信仰を持って生きることが、人間にはできないと思える困難を乗り越える力になっていく、そのようなイエス様のメッセージがあるのであります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、私たちが日々生きている中にあって、自分の考えが正しいかどうかわからず、また、自分の限界を感じることが多々あります。その中にあって、イエス様から問われるときに、その言葉の前で立ちすくみ、どうしたらよいか、またわからなくなるときもあります。けれども、イエス様の前から悲しんで立ち去るのではなく、イエス様に祈り、イエス様に問い、そしてイエス様と共に歩むことができますように、私たち一人ひとりを力付けてください。

 この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、神様の御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

……………………………………………………………………………………………………………………………………

 「旅する者は祈ろう」

 2022年7月31日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書 ローマの信徒への手紙 15章22〜33節(新共同訳)

 

  こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、
  妨げられてきました。

 

  しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、

  何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、

  イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。

 

  途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、

  あなたがたと共にいる喜びを味わってから、

  イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。

 

  しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。

  マケドニア州とアカイア州の人々が、

  エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに

  喜んで同意したからです。

 

  彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。

  異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、

  肉のもので彼らを助ける義務があります。

 

  それで、わたしはこのことを済ませてから、

  つまり、募金の成果を確実に手渡した後、

  あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。

  そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、

  あなたがたのところに行くことになると思っています。

 

  兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、

  また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。

  どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください。

 

  わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、

  エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、

  こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、

  あなたがたのもとで憩うことができるように。

  平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。 

       


(上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
 改行などの文章配置を説教者が変えています。
 新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

…………………………………………………………………………………………………………………

 

 (以下、礼拝説教)

 

 毎週の礼拝において、聖書の3箇所から選んでいます。マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、旧約聖書。この3箇所から順番に選んで毎週読んでいます。今日の箇所はローマの信徒への手紙15章であります。

 

 この22節から33節の今日の箇所は、ローマの信徒への手紙の終わりの部分に属しています。ある聖書学者によると、今日のこの33節のところで元々のローマの信徒への手紙は終わっていたのではないかとも考えられるのです。

 

 今日の箇所は、手紙の終わりを締めくくるにあたって、しっかりとした内容で書かれています。皆様も思われたかもしれませんが、いわゆる聖句、名言のように、この言葉が聖書の言葉として有名だと言われるような箇所があるわけではありません。どちらかといえば事務的な内容を記している箇所であります。

 

 そういう意味では、この聖書箇所を読んでいて、おもしろみを感じる箇所ではないかもしれません。けれども、このローマの信徒への手紙を締めくくるという前提で見たときに、ここには今までパウロがずーっと書いてきたことを、最後に締めくくる、その手紙の最後にあたって、自分の思いを集中してここに書いている、ということもできるわけであります。

 

 そうして、こうした所に、他の箇所では見ることができない、当時の教会の様子、またパウロの気持ちというものが伝わってくるのであります。

 

 順々に読んでいきます。22節にはこうあります。「こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。」これは迫害などの困難があったことを示しています。

 

 そして「しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います」とあります。

イスパニアとは、今でいうスペインのことです。スペインに行くときに、その途中にあるローマの信徒への手紙を訪問したい、そのことを切望していた、ということが書いてあります。

 「もうこの地方に働く場所がなく」という言葉の意味は、もう今までの土地では十分に伝道してきた、また他の伝道者たちも働いている、だからこれ以上いまの土地にいなくてもいい、ということを意味しています。

 

 「途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。」スペインに行く途中にローマに行く、そしてそこでローマの教会の人たちと出会って、一緒に喜びを味わってから、スペインに送り出してもらいたいというように、ここでパウロは願っています。

 パウロは、これまでローマに行ったことが一度も無いので、手紙でしか知らないような相手に、そのようなことを願っていたのであります。

 

 「しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。」

 スペインに行く途中にあるローマに行きたい、と言ったあとに、しかし今はまず、イスラエルの都エルサレムに行くというのです。ここに書いてある「聖なる者たち」と書いている、これは使徒ペトロたち、都エルサレムに作られたペトロたちのエルサレム教会の人たちのことを指しています。イエス様の12人の弟子たち、またそれに同行した様々な人たちが作っていたのが、エルサレム教会でありました。

 

 それに対して使徒パウロたちは、地中海沿岸を回って新しい教会を作りました。そういうことで、当時の教会を二つに分けて、元々イエス様と同行していた人たちによるエルサレム教会と、元々イエス様と同行する経験はなかったけれども伝道者となった、パウロのような人たちが地中海沿岸に、異邦人伝道、外国人伝道を繰り広げていた、そうしてできた教会。

 

 そうしたペトロたちのエルサレム教会とパウロたちの異邦人教会、そのように大きく二つに分かれていたのであります。その中で、都エルサレムにある使徒ペトロたちの教会には、貧しい人たちがいた、ということが今日の聖書箇所からわかります。そして、そのエルサレム教会の中の貧しい人たちを助けるために、パウロたち異邦人伝道をしてできた教会の人たちが献金をして、それを届けに行くということでありました。

 

 27節にはこうあります。「彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。」

 

 つまり、エルサレム教会の人たちがイエス・キリストのことを宣べ伝えてくれた、そのことによって異邦人の人たちは救われた。だったら、今度は異邦人の人たちがエルサレム教会の人たちを実際的に助けるんだ、ということを言っています。

 「それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行くことになると思っています。」

 

 これは、今までパウロがやってきた仕事の総仕上げ、という雰囲気がこの箇所から漂ってきます。パウロは元々、生前のイエス様と出会うことがなかった人であります。元々はクリスチャンを迫害する律法学者の立場の人でありました。ところが、そのパウロが突然目が見えなくなり、その暗黒の中で、自分が迫害していたイエス・キリストの言葉を、その暗闇の中でパウロは聞いたのでありました。そこからパウロは回心をいたします。そこからクリスチャンとなり、伝道者となりました。

 

 けれども、パウロがそのようにして直接、生前のイエス、十字架に架けられて死なれる前のイエスと出会っていなかったがゆえに、パウロの伝道というものは、それが何の権威によるのかということが問題になっていたのでありました。そこでパウロは、エルサレム教会の人たちと出会って、そしてパウロの伝道もまた、イエス・キリストの御心に基づいているのだという確信を得て、そして異邦人伝道へと派遣されていったのでありました。

 

 そして、その中において、律法、旧約聖書の律法をどのように考えるかということで、会議がなされたのであります。最初、エルサレム教会の人たちはクリスチャンになっても律法を守らなくてはダメだという考え方に傾いていました。

 

 しかし、それでは異邦人の人たちは、クリスチャンになることができないじゃないか、ということでパウロが熱心に働きかけ、そして、それに心動かされたペトロたちは、パウロの異邦人伝道を了解し、律法を守るということは、本当に中心的な事柄、信仰の中心的な事柄に限ってのことだということを認めるようになりました。

 

 こうした使徒会議、エルサレム会議というものが開かれて、そして使徒ペトロたちのエルサレム教会と、パウロたちの新しい異邦人伝道の教会というものが、今の言葉でいえば、住み分けをするような形で、両方とも大事なんだということで、世界宣教がされるようになっていたのであります。

 そうした長い年月をかけてしてきたことの上に立って、パウロはローマに行く前にまずエルサレムに行って、そこで困っている貧しい人たち、エルサレム教会の中に貧しい人たちを助け、そこからローマに行く、その後にスペインに行く、そのようにパウロは考えているのであります。

 

 そして30節でこう言います。
 「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください。わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。」

 こういう祈りの言葉によって、パウロは、ローマの信徒への手紙をいったんここで締めくくっています。今日の箇所に書かれているのは、事務的な事柄のように思えますけれども、使徒言行録に記されている、当日の教会の様子というものに照らし合わせて読むときには、なるほど、そういうことなのか、ということがいろいろわかる文章なのですね。

 

 エルサレム教会と異邦人教会を取り持っていたパウロの存在、そしてそれを具体的に支えていた献金、そうしたことがリアルに伝わってきます。当時、パウロがしていた宣教の旅というのは、こういうものでありました。

 

 ただなんとなく旅行するのではない、目的もなくただあちこちに行ってイエス様のお話をするということではなく、はっきりとした目的を持って、各地の教会の人たちと連絡を取り合いながら、着実な働きをしていた、ということがよくわかってきます。

 

 今日の説教題は「旅する者は祈ろう」と題させていただきました。旅する者とはパウロのことであります。そしてまた、パウロだけではなく、いま聖書を読んでいる私たち全員が、自分の人生という旅をしています。その旅はどんなものであるか、それは1人ひとり違っていますけれども、どれも神様に導かれているものであって、私たちはそれを遂行するにあたって祈るということが必要になってきます。

 

 自分の思いで旅をするのではなくて、神様の御心にかなうことを願って、旅をする。そういうクリスチャンの生き方というものが、今日の箇所には現れています。

 

 さて、これまでの今日の箇所を読んで、皆様は何を心に思われたでありましょうか。それは思うことは1人ひとりみんな違うのでありますけれど、私はこの箇所を最初読んだとき、特に心が動くことはありませんでした。

 というのは、なんとなく、この手紙の終わりに書かれた事務的な言葉というものは、特に心にズンと響くような、いわゆる名言のような言葉がここにあるわけではなく、まあ歴史を伝えるという意味では、こういう箇所も意味があるのでしょうけれども、あまりおもしろいとは思えない、そういう気持ちでありました。

 

 しかし、この箇所を繰り返し読む中で、私はだんだんと思わされてきました。パウロがここで旅をしているということは、いろんな所を巡り歩く、それはダイナミックな旅をしているな、ということであります。パウロはローマに行くだけでなくて、その先のスペインに行くことを願っています。その道の途中にあるローマに行く、そのローマへの旅というものが具体的にどうであったかということが使徒言行録の最後のほうにあります。

 

 それはパウロが自分の行きたい所に行くのではなくて、囚人としてローマに護送されていくのであります。そして囚人として連れて行かれた先で、パウロには家が一軒与えられて、そこで制約されることなく、伝道することができた。まさにそれは神様の導きということでありましたけれども、使徒言行録の最後はそのように終わっています。

 

 そして今日の箇所では、それだけではなく、エルサレムに行くことが記されてあります。そのエルサレムに行くことの意味は、マケドニアとアカイアの人たちの気持ちを反映するためということでありますから、地中海沿岸またエルサレムを含めた、非常に広い地域を行ったり来たりする、ダイナミックな旅というものをしている、そういうパウロの姿が記されているのであります。

 

 今日の聖書箇所を読む中で、私は自分自身のことを考えてみました。私は大阪で生まれました。そして奈良県で育ちました。大学は京都に行きました。そして教会の最初の赴任地は神戸でした。そして、そこから初めて主任牧師となったのは愛媛県の教会でありました。そしてさらに岡山県の教会に行きました。そしてそこからまた、今度は学生として大学院生として京都に戻ってきました。そしてその京都で二つ目の教会が、今の京北教会であります。

 

 この私の人生の中で動いてきた、この歩み、これを旅と言ってよいのでしょうか。それは地図上で言えば、瀬戸内海を一周する旅であったと言えなくもない旅でありました。私の人生は瀬戸内海を一周することでした。といっても、まあウソではないな、ということを思うのですね。

 

 パウロは地中海沿岸を回って伝道しました。私は瀬戸内海を巡って伝道しました。どっちがすごいかという話ではありません。そりゃあ、パウロのほうがすごいに決まっています。けれども、ふと思いました。私もこうやって、海を越えて伝道してきたのだな、と思ったときに、今日の聖書箇所を最初読んだときは、すごく縁遠いものと思えていたのが、少し自分に近いものとして感じることができるようになりました。

 

 そしてまた、いろいろと思い起こしました。私が初めて海を渡ったとき、それは神戸を離れて愛媛県松山にある港に船で行ったのでしょうか、詳しいルートはすぐに思い出せませんけれど、船に乗りました。着いたとき、その港に、その教会の方が車で迎えに来てくださりました。その車に乗せていただいて、その方の家に行き、朝早くから用意してくださっていたサンドイッチの朝食をいただいて、そしてそこから、私がまだ見たことがなかった教会の建物を案内していただいた、そんなことを思い起こしました。

 

 あのときの私はドキドキしていたなあ、と思います。それまでずっと暮らしていた関西を離れて、海を越えて愛媛県、四国に行きました。そこに何があるかわからないまま、出発した、あの不安な思いというものを思い出します。海を越えていった先の教会では、教会だけではなくて無認可の幼稚園がありました。私は牧師であることによって、その幼稚園の園長も兼ねることになりました。想定していなかったことであります。

 

 赴任した直後の4月の入園式のときから、新しい子どもたちが一杯います。子どもたちの顔を見たときに、私は思いました。みんな同じ顔だ、と。それは今から思うとおかしいのですけれど、本当にそう見えました。みんな同じ顔をしている、子どもというだけで全部くくってしまうといいますか、今までそんなたくさんの子どもたちと近くに暮らすことがなかったので、本当に子どもの区別がつかない、誰が誰ともわからない、つまり何と読んだらいいかわからない、そんな思いに本当に困惑した、困ったことを思い起こします。

 

 新しい土地に行くということは、その土地の文化、生活習慣、いろんなことを新しく学ぶというだけではなくて、それまでに身につけていなかったことを身につけていかなくてはならない、その土地に行って初めて出会うことがあり、そこで求められる立場があり、本当にそのことを痛感をいたしました。

 

 幼稚園の園長になったので、その小さい町の町長さんに挨拶に行きます、といわれて教会の信徒に、町長さんの所に連れて行ってもらいました。私の人生の中で、それまで町長さんに会うなんてことはなかったので、もう、しどろもどろになりながら、町長さんに何かの挨拶をした覚えがあります。

 

 そうして海を超えて行った教会、そして幼稚園、正直、私は最初戸惑っていました。なかなかその幼稚園の働きになじむことができず、子どもたちと、どうしたらよいかわからず、子どもたちの声が外に響いていると、外に出て行くことができない、そんな気弱な自分がそこにいました。

 

 どうしたらいいのだろう、と思いながら、日にちが経ち、秋の遠足のときがきました。遠足は1日子どもたちと一緒にいることになります。子どもたちを避けるわけにはいきません。子どもたちと一緒にバスに乗って公園に行き、そしてバスを降りて歩き出したとき、子どもたちが私の所にやってきて、抱きついて、しがみついて、そして言うのです。「園長先生、大好き!」

 

 そんなに一生懸命に子どもたちに接した記憶はなく、何もしていなかったのですけれども、子どもたちのほうから近づいてきて、飛びかかってきて、そして「園長先生、大好き!」と言ってくれたとき、私は「なぜ?」と思いました。「俺、何にもしていないよ」と思ったのですが、子どもたちは「遊ぼう!」と言うのでした。子どもたちがしがみついてくるので、私は歩けなくなりました。「ちょっと、離してよ!」とみんなで大笑いし、そして子どもたちと遊んで過ごしました。

 

 そのときの様子を私は覚えています。新しい土地になじめなかった自分。新しい仕事になじめなかった自分。その自分が、その土地に生まれ育った子どもたちの態度と言葉、そして胸いっぱいの愛を示してくれたおかげで、私のそのような凍り付いていた心、新しい土地になじめなかった自分の凍っていた心が、氷が溶かされるようにして、自分の心が変わっていくのを、まざまざと体験をした、そういう記憶があります。

 

 私の瀬戸内海を一周する、小さな小さな人生の中での、小さな小さな一コマをお話させていただきました。それは、パウロの地中海沿岸への伝道生活とは比べものになりません。けれども、パウロがこうした自分の旅ということを書いているとき、そして、その旅というものがパウロにとってどんなものであるか、ということを、その書いていることを見るときに、私は、自分の経験もだんだんと重ねて思い出してきたのであります。

 

 たとえば、パウロはこの箇所の中で何度も「喜んで」という言葉を使っています。また「祝福」という言葉もあります。「切望していた」という言葉もあります。パウロはここで、旅をすることはうれしいことだ、ということを心から感じながら文章を書いています。

 

 それは、神様の御心にかなって伝道するときに、必ずそこで道が開かれてきた、そこで出会う人たちの間に、本当に楽しい、一緒にいることがうれしい、そういう交わりが与えられてきた、そういうパウロの実感というものが、今日の箇所には満ちあふれています。

 

 パウロは実際、このあとどうなったか、というと、使徒言行録ではローマに囚人として護送された、そしてそこで制約されることなく家を借りて伝道した、ということで締めくくられています。そこで聖書でのパウロの記述は終わっています。聖書にはない言い伝えでは、紀元67年頃、パウロはローマで殉教したと伝えられています。スペインに行くことができたかどうかはわかりません。できなかったのではないか、と考えられています。

 

 当日の迫害というものは、そのように厳しいものでありました。けれども、パウロは今日の箇所において、そうした将来が待っていたにもかかわらず、喜びというものを将来に尋ね求めるように、ここに書いています。まだ出会ったことのない、ローマの教会の人たちと出会いたい、そしてスペインへ送り出してもらいたい、そのような夢いっぱいのパウロの姿があります。将来がどんなに厳しいものであったとしても、私は出発する、私はそちらに行きたくて仕方がない、そうした喜びがあふれています。

 

 そうしてパウロは最後に言っています。「どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください」と言っています。「神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。」こうして、パウロは「祈ってください」とローマの教会の人たちに願っています。

 

 私たち一人ひとりの人生というものも、旅にたとえることができます。その旅の先に、結果としてどんなことが待っているか、それは私たちはわかりません。けれども、大きな不安があったとしても、あなたと出会いたい、あなたたちと一緒にいたい、そして、それだけではなくて、あなたたちの所を超えて、さらに新しい所にも行きたい、と思うときに、そこには、パウロが自分の持っている自信とか、自分の願望ということではなくて、神様というのは、必ずそのような先の先まで導いて下さる方だ、というパウロの深い確信がここで記されているのであります。

 

 先はどうなるかはわからない。でも私は、あなたと会いたい、あなたがたと一緒にいたい、それが神様の御心だから、そう信じるときに、パウロは自分でも祈り、そして相手にも祈ることを求めています。

 いま、この暑い夏のなか、そして、コロナ問題がまた大変になってきている今、旅をするということ、これもまた困難なことであろうと思います。けれども、どんな旅であっても、私たちのそれぞれの人生、という大きな旅、それがどれぐらいのスケールであったとしても関係なく、神様の前で私たちは召し出されて、そして、自分なりの旅をしています。そこに神様の恵みが豊かにあることを心から願います。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様。パウロが神様によって招かれ、悔い改めて、クリスチャンとなって新しい人生を歩み、そして、その旅の多い人生を続け、さらにまた新しい旅へと出発していこうとする、その思いを今日の聖書箇所から教えられました。私たちもまた、これからすべきことがそれぞれに備えられています。それを尋ね求め、また一人ひとり自分の旅をしていくことができますように、心から願います。

 この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、神様の御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

……………………………………………………………………………………………………………………………………