京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2022年8月の説教

 2022年8月の礼拝説教 
  8月7日(日)平和聖日 8月14日(日)
         8月21日(日)

 「傷ある草花を折らず」

 2022年8月7日(日)京北教会
    平和聖日 礼拝説教

 聖 書 イザヤ書 42章 1〜9節(新共同訳)

 

  見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。

  わたしが選び、喜び迎える者を。 

 

  彼の上にわたしの霊は置かれ

  彼は国々の裁きを導き出す。

 

  彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷(ちまた)に響かせない。

  傷ついた葦(あし)を折ることなく

  暗くなっていく灯心を消すことなく

  裁きを導き出して、確かなものとする。

 

  暗くなることも、傷つき果てることもない

  この地に裁きを置くときまでは。

  島々は彼の教えを待ち望む。

 

  主である神はこう言われる。

  神は天を創造して、これを広げ

  地とそこに生ずるものを繰り広げ

  その上に住む人々に息を与え

  そこを歩く者に霊を与えられる。

  主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び

  あなたの手を取った。

  民の契約、諸国の光として

  あなたを形づくり、あなたを立てた。

  見ることのできない目を開き

  捕らわれ人をその枷(かせ)から

  闇に住む人をその牢獄から救い出すために。

 

  わたしは主、これがわたしの名。

  わたしは栄光をほかの神に渡さず

  わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。 

  見よ、初めのことは成就した。

  新しいことをわたしは告げよう。

  それが芽生えてくる前に

  わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。

 

  

    
(上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
 改行などの文章配置を説教者が変えています。
 新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

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 (以下、礼拝説教)

 

  本日は日本キリスト教団の暦で「平和聖日」であります。終戦あるいは敗戦の記念日、そして広島・長崎への原爆投下、そうした出来事を記念し、その事実を通して平和ということを考えるときとして、8月の第1日曜日は「平和聖日」という名前が付けられています。

 

 この日にあたって選ばせていただいた聖書の箇所は、旧約聖書イザヤ書42章1〜9節であります。ここにある小見出しには「主のしもべの召命」という言葉が付けられています。こうした小見出しは元々の聖書にはなく、新共同訳聖書が作られたときに、読む人の便宜を図って付けられたものであります。

 ここに書かれているのは、神様に選び出された一人のしもべのことであります。そのしもべという人が、どういう人であったかということは、今でも全くわかっていません。聖書学者は当時の歴史、その時代状況に照らしてそれが誰であるかということを様々に推測をいたしまして、いろいろな仮説がありますが、決定的なものはないようであります。

 

 このイザヤ書が記された時代に書かれている出来事というのは、聖書の民であるイスラエルの国が大きな国であったバビロニアに侵略されて、国がなくなり、そしてイスラエルの国の中心的な主だった立場の人たちがバビロンの都に捕囚、捕らわれの囚人と書きますが、捕囚として連れていかれた。そういう大変大きな苦難の時代のことでありました。

 

 イスラエルの人たちは、自分たちの国がなくなって、そのように多くの人たちが捕囚として連れて行かれてしまった、その時代の苦しみのことを考えて、なぜ、このような苦しみに自分たちはあっているのかと考えたときに、それは本当の神様への信仰からそれて、偶像崇拝に陥ったから、本当の神様を信仰する心から離れて、自分自身を神として、あるいは何かの偶像を神として自分勝手に利己的に生きるようになっていたから、神様はそのようにお怒りになって、そのような罰を下されたのだと考えたのであります。

 

 そして、そのような大国の植民地とされていた時代の中にあって、きっといつか、神様が私たちをまた元のように、元の国に返して下さる、そのことを信じていた。そのために、その神様が預言者と呼ばれる人たちを選んで、神様が御心を伝えて、その言葉を預言者が人々に伝えることによって、希望を持ったということなのであります。

 

 その場合の預言者という言葉は、漢字で書くと、預ける言葉の者、と書きます。一般的に言うときの、将来の予言をするという意味で予言者というのではなくて、神様からの言葉を預かって人々に伝える人という意味で預言者というものがいたのです。イザヤはその一人でした。

 

 そして現実のこのイザヤ書というものは、大変長い書物であり、その中に書かれているのは、ある限られた時代だけのことではなくて、かなり長期間にわたる時代のことが記されています。そして、この中に記されている預言者も一人だけではなくて、長きに渡ってのいろんな時代の預言者の言葉を、イザヤという一人の予言者のもとに編集したのではないかと考えています。

 

 そうした背景を持っているので、今日の42章1〜9節の箇所も、ここに書かれている主のしもべという人が誰であるのかということは、わからないのであります。

 

 イスラエルの国は、バビロンの植民地とされていた時代から、何十年も経ってから、解放されることになります。それは自分たちの力で独立したのではなくて、ペルシャという国がバビロンを滅ぼしたのであります。そしてペルシャの王様はバビロンの王様よりも、もう少し進歩的な政策を取っていたのでありました。それは、バビロンの場合は、支配した国を滅ぼして自分たちの文化を強要する形でいたのですが、ペルシャの王様はもう少し賢かったというと変ですけれど、別の政策を取りました。

 

 支配するそれぞれの国の文化を大事にして、それぞれの土地の文化を大事にして、その国の指導者が治める形にして、そこに指導者がいる上でさらにペルシャがその全体を治めるという形を取ったのであります。そのようにしたほうが、軍事的にも経済的にも楽なわけですね。ピラミッド構造を作ってその中で現地の支配者に支配させていく。その支配者をまたその上から支配するる。そうしておけば、いちいち国の細部に渡って支配しなくてよいわけです。

 

 大国が小国を支配する形も、時代によって変わっていくわけです。そうした中でバビロンではなくペルシャが、バビロンに捕らえられていたイスラエルの人たちは元の国に帰ることができるようになりました。しかし、そのように元に帰ることはすぐには進まなかったようです。というのは、何十年もバビロンの都で過ごした人々は、もうそこに生活の基盤が出来ていたので、もう元に帰りたくないという人もたくさんいたようであります。そんな中で、元の国に戻って国を再興するということ自体が、非常に大変なことでありました。

 

 旧約聖書の後半には、そうした苦難の時代の預言者の言葉が記された文書がたくさん収められています。そうした今から2千数百年前のイスラエルを巡る様々な歴史、本当に大変な戦争、植民地支配、そうしたことの困難の中で人々が生きていた、その時代の人たちの心というものが今日の箇所にも現れています。

 

 何が書いてあるでしょうか。1節から見てみます。
 「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。/わたしが選び、喜び迎える者を。/彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」

 

 ここで「見よ、わたしの僕」と言っているときに、この「わたし」とは神様のことです。神様の選んだしもべがいる。そのしもべが、その時代の国のリーダーであったのか、預言者であったのか、それはわかりません。けれども、聖書には名前が記されていない無名の預言者、またはリーダーだったということがいえます。

 

 そして2節にこうあります。

 「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷(ちまた)に響かせない」
 彼がリーダーや預言者であるとすれば、かなり不思議な人です。叫ばない、呼ばわらない、声をちまたに響かせない。普通であれば、王様だったり、リーダーだったり、預言者であったりすれば、その語る言葉を人に聞かせようとして、叫ぶはずです。ところが、この人はそうではないというのです。いったいどういうことでありましょうか。

 そして、3節にこうあります。

 「傷ついた葦(あし)を折ることなく/暗くなっていく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。」

 

 傷ついた葦という言葉が出てきます。葦というのは植物の名前です。沼地などに生えて、細い植物です。かなり長くなります。葦草とも言われます。太く丈夫に育つと、それを取って細工をして物を作ったり、時には物差しの代わりに使われたり、そういう役に立つ植物であったそうです。

 

 細く長く伸びていく植物なので、それが傷ついたときには、簡単に折れると思います。傷ついた葦を折ることなく……そして暗くなっていく灯心を消すことなく、段々と消えゆく灯心、ローソク、油だったのでしょうか、弱くなっていく、暗くなっていく灯心を消すことなく、裁きを導き出して確かなものとする。

 

 ここで1節、3節の「裁き」という言葉は、別の言葉で言うと「公義」、おおやけの義、という言葉でも訳すことができるそうです。裁きというと、引っ張ってきて断罪するような厳しいイメージがありますが、そうした断罪というイメージよりも、公の義、そういう意味があるそうです。誰に対しても通用する、本当の公の義というもの、それを確かにするというのですね。

 

 ということは、何か個人的な怒りとか、個人的な恨みとか、個人的な正義感で何かするというのではなく、普遍的に誰にでも通用する正しさというものを、この人は確かなものとするというのです。そして4節後半。「暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。/島々は彼の教えを待ち望む。」

 

 島々とは遠く離れた所という意味です。そうした離れた所にいる人たちも、彼の教えを待ち望むといいます。その人のすることは、暗くなることもなく、傷つき果てることもない、この地に裁き、つまり公の義を置くまで。個人的な正義感とか恨みとか復讐心とかではなくて、誰にでも通用する公の義というものをその人は持ってくる。みんながそれを待っている。

 

 そのようなリーダーや預言者なのでしょうか、わかりませんが、そうした無名の人の存在がここで言われています。その人の上には神様の霊が置かれているのです。

 

 さらにこう言います。

 「主である神はこう言われる。/神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。」

 これは神様がなさることを書いています。天地創造以来の、神様がこの世界を造って、その中で人間を創造され、息を与え、霊を与えられた。天地創造・人間創造のことです。

 

 そして6節にこうあります。

 「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。/民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。」

 神様は一人の人を立てたというのですね。それは諸国の光であると。世界的な光なんだと。

 そして7節。
「見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷(かせ)から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。」

 こうして、はっきりと、このしもべが、捕らわれている人を解放する人なんだということが言われます。見えなかったのを見ることができるようにしてくれたのだと。本当にこの世界を解放してくれる人なのだと。

 

 そして8節。
 「わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず/わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。」

 神様という方がおられる。その神様がいなくなったことはない。

 

 そして9節。「見よ、初めのことは成就した。/新しいことをわたしは告げよう。/ それが芽生えてくる前に/わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。」

 この「新しいこと」とは解放の出来事ということであります。その前の「初めのこと」とはそれに先立つことであります。神様の約束の最初のことは成就した。これから新しいことが始まるというのであります。それが具体的に何を指しているかということは、今日の箇所からはわかりません。

 しかし、大きな歴史的な文脈でいえば、大国に支配されていた小さな自分たちの国が、解放されるということが、これから起こるのだと。その前触れになるようなことはすでに成就、実現するのだと。その第一段階はもう過ぎているのだと。

 

 以上が今日の箇所です。これを読まれた皆様は何を思うのでしょうか。

 本日は「平和聖日」であります。平和のことを祈る日であります。その平和ということをいうためには、今までの私たちの生きてきた、この国の歴史、また世界の歴史ということを振り返ることになります。

 

 いま世界はどうなっているでありましょうか。新聞やテレビやインターネットニュースを見ると、もうたくさんの情報が出ています。この平和聖日ということを考えるときに、何十年か前のことを思い起こしますと、それは第二次世界大戦のことを思い起こして、そしてその悲劇、そのことをいかにみんなで勉強し、そして二度とそうした時代が来てはならない、二度とそうした時代に戻ってはならない、そういう決意を新たにする日だったというふうに私は思っています。

 

 しかし、いま2022年の現在、過去の77年前の昔の戦争のこと、あるいはその以前からの日本のアジアへの植民地支配や、様々な戦争、そうしたことを振り返ってどう考えるかということよりも、ウクライナで起こっているロシアによる侵略戦争、そして最近ではアメリカの下院議長が台湾を訪問して、そのことによって中国が非常に怒って、軍事演習をしている、そうした本当にリアルな、日本のすぐ近くで起こっている軍事的な緊張、そうしたことのほうを、まず私たちは敏感似感じるのではないでしょうか。

 

 最近、買い物に行きますと、行きつけのパン屋で、以前だったら180円だったパンが210円になっていました。値上げしましたとはどこにも書いていません。ある日行くと、値段が変わっていのです。これはやはり小麦が入ってこないからでしょうか。それだけではなんのでしょうけれども、コロナ禍の問題があり、戦争の問題があり、いろいろな問題がありますけれども、本当に世界が変わってきているということが、パンを買いに行ったときに、そんな日常のことであっても、ここに変化が現れている、と気づくときに、本当にドキッとします。

 

 本日、平和聖日というときに、ずっと昔の何十年も前の第二次世界大戦アジア・太平洋戦争、日本の植民地支配、また世界における様々なたくさんの戦争、またそれ以降の時代の戦争や、数え上げるといくつもいくつも、かすかに戻ってくる記憶はあるのですけれども、過去のどの時代よりも今が一番、危険なのではないか、そんなふうな思いがしてきます。

 

 まるで、いつのまにか誰かから脅迫されているような気持ちになってきて、浮き足だってくる、そわそわしてくる。その中で段々と私たちは疑心暗鬼になり、自信をなくして怖くなっていくのだと思います。今まで平和が大事だと言っていた人たちも段々としゃべらなくなってきている。やっぱりなんかしないとあかんな、昔と時代が違うからな、前提条件が変わったからな、そういうふうにいろんなことを考えながら、いろんなシミュレーションを頭の中で無言の内にしてしまいます。

 いま私たちが生きている時代は、そんな時代ではないかと私は思います。そんな時代にあって、今日私たちは聖書を開いています。旧約聖書イザヤ書、今から2千数百年の前に書かれたこと、あるいはその時代のことをテーマにして後の時代に書かれたこと、そうした文書を読んでいます。その内容は難解であり、そこに書かれていることも、その背景であったり人物であったりも、それが何であったかは断定できない文章が並んでいます。

 

 今日の箇所では、「見よ、わたしのしもべ」と言われている人が誰であるか、わかりません。もしそれが「誰それである」と書かれていると、事実の表現になってしまうので、そのことを避けたのではないかと思えます。つまり、それが誰かということを言わないことによって、人間のわざではなくて、その人を担った神様の御心ということを知るように、今日の箇所は私たちに促しているように思えます。

 

 そうなんです。誰かが偉いとか、この人が立派だったとか、この人にならおうとか、そういうことを言い始めると、またそこに偶像崇拝のようなことが起きてくるのですね。こんな時代にこんな人がいた、こんな風に闘ったら勝てるんだ、と教訓化して、強い自分たちを造ろうとすることに対して、聖書はちょっと違うことを書いています。

 

 神様の御心にかなった働きをした人がいた、その無名の人はどんな人であったか、ということをここでは書いています。その人はこんな人です。「彼は彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷(ちまた)に響かせない。」

 

 これは、今の時代に照らして考えると非常に興味深いですね。というのは、私たちは不安になってくると、テレビをつけます。インターネットで調べます。ときには本を買ってきます。知りたいのです。そのときに耳に入ってくるのはたくさん叫んでいる人の言葉です。あるいは有名な人の言葉です。

 けれども今日の箇所で言われている人は「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷(ちまた)に響かせない」というのです。だったら、どうやったら、その人の言葉がわかるのだろう、と私たちはすぐに思いますけれども、神様の御心はちょっと違っているのですね。たくさん叫ぶ人の言葉が正しいわけではない、ということがまず大事だと思うのです。

 

 そして、その次に3節にこうあります。「傷ついた葦(あし)を折ることなく/暗くなっていく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。」

 

 この「傷ついた葦を折ることなく」という言葉から取って、今日の礼拝説教の題を付けさせていただきました。「傷ある草花を折らず」と題させていただきました。葦という植物が今日の箇所に出てきています。ここには花は出てきていません。しかし花という言葉を付けさせていただいたのは、今日のイザヤ書の言葉だけではなくて、マタイによる福音書6章のイエス様の言葉も一緒に考えたかったからであります。

 

 マタイによる福音書6章25節以降にこうあります。
 「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか注意して見なさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、このように装ってくださる。ましてあなたがたにはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。」

 

「だから『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と思い悩むな。それはみな異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものが、みなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」

 

 マタイによる福音書6章25節以降で、イエス様はこのようにお語りになられました。ここには、今日生えていて、明日は炉に投げ込まれる草のことが言われています。それはその当時に燃料として燃やすのに良かった、あざみの花のことではないかと考える学者もいます。でもその花だって一生懸命に咲いているじゃないか。そうであれば、神様は一人ひとりの人間を大事にしてくれる。そう言われています。

 

 今日の聖書箇所では「傷ついた葦(あし)を折ることなく/暗くなっていく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする」という、この言葉があります。

 

 傷ついた葦、ああこれは折れるんだな、じゃあもう折ってしまおう。もう暗くなってくる灯心。ああこれは消えるんだな、じゃあ消してしまおう。そう言って、もう役に立たないんだな、と言って消してしまうことをしない、というのが、この無名の人のすることだというのですね。このことは私たちにとって大変大事な言葉だと思います。

 

 いま私たちが生きている世界にあって、苦しみを感じることが多々あります。沖縄ではどうでしょうか。戦争を経験し、多くの人が死なれた、戦争で命を奪われた沖縄にあって、米軍基地の問題は大変難しいことになっています。台湾のことが緊張すれば、アメリカの基地にたくさんの飛行機が、戦闘機が飛んでくる、まさにそうした現実を私たちは見ています。どんな政策を取ったらいいのでしょうか。正直、わからないと考える人が多いと思います。私もわかりません。

 

 ミャンマーはどうでしょうか。軍事政権が圧倒的な力によって民衆を圧迫しています。そこで日本人も捕らえられました。もうそんなニュースを私たちは毎日毎日聞いています。もう世界はダメになっていくのではないか、もう仕方がないのではないか。

 そんなふうな思いで暗く満たされていくときに、今日の箇所を思い起こしたい、と思うのであります。もうダメだと思えるから、もうやめましょう、ということではなく、もうダメだと思えるときに、それをダメにしない。その、弱っていく葦(あし)、弱っていく灯心を大事にしていくこと、それが神様の選ばれた人のなすことだと言うのであります。

 

 そういうことをしたら、じゃあ何が起こるのか、ということは、ここには書いてありません。けれども、小さくなっていくもの、弱くなっていくもの、それは私たちにとっての希望と言ってもいいかもしれません。希望が小さくなっていく、どんどん小さくなっていく、消えそうになっていく、だから消そう、と言ってはいけないのです。どんどん小さくなっていく、だから大事にしよう、ということが大事ではありませんか。

 

 本日の箇所に記されている無名の人、それは実は、はるか昔にいた立派な人ではなくて、実は今を生きている私たち一人ひとりではないか、とも思うのです。神様が一人ひとりを選んでくださるから、そしてどんな世界の中に生きていたとしても、その中であなたにはあなたのなすべきことがあるよ、と神様が仰っているのです。

 

 ですから、今日の箇所において神様が言われている無名の人、それは私たち一人ひとりである、と言ってもいいのではないでしょうか。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、わたしたちのお祈りをいたします。この平和というものを、この2文字を前にしたときに、それはどうやって作り出すのか、どうやって守るのか、考えたときに、難しい選択を考えて難しい決断というものが、私たちの社会にあって問われていることを思います。けれども、そんな中にあって、私たちがどう考えてきたのか、ということをよくよく思い出す必要があります。第二次世界大戦が終わった以降、私たちの国は何を考えてきたのでありましょうか。中国や韓国、北朝鮮、台湾、香港、ロシア、アメリカ、東南アジアの国々、いろいろな国々と共に、ときにぶつかりあい、ときに仲良くしながら、いろんなことを考えながら、共に歩んできた人たちと共に、これからどんな平和を作り出すことができるのか。いま目の前に大きな危機があるからといって、それで浮き足立つのではなく、今までどんなことを祈ってきたか、冷静に思い起こし、まことの平安を神様から与えられるために、私たち一人ひとり、自分の道を歩むことができますように、神様どうぞ導いてください。

 この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、神様の御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

 

 

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 「何がほしい、平和のために」 
  2022年8月14日(日)京北教会 礼拝説教

  聖 書  マルコによる福音書 10章 35〜45節(新共同訳)

 

  ゼベダイの子ヤコブヨハネが進み出て、イエスに言った。

 「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」

 

 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。

 「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、
   もう一人を左に座らせてください。」

 

 イエスは言われた。

 「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。

  このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」

 

 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。

 「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、
  わたしが受ける洗礼を受けることになる。

  しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、
        わたしの決めることではない。

  それは、定められた人々に許されるのだ。」

 

 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブヨハネのことで腹を立て始めた。

 

 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。

 「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、
  支配者と見なされている人々が民を支配し、

  偉い人たちが権力を振るっている。

  しかし、あなたがたの間ではそうではない。

  あなたがたの間で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、

  いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。

  人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、

  多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

  

    
(上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
 改行などの文章配置を説教者が変えています。
 新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

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 (以下、礼拝説教)

 

 本日は8月という月にあたり、今日の聖書箇所を選ばせていただきました。先週の8月7日の礼拝は、日本キリスト教団の暦で平和聖日でありました。8月、敗戦あるいは終戦の記念日を迎える月であること、また広島・長崎への原爆投下、その凄惨な被害。そして今の時代に至る様々なたくさんの戦争と平和ということを心に刻み、礼拝するときであります。本日も、明日の終戦記念日を前にして、この聖書箇所を選ばせていただきました。

 

 今日の箇所においては、イエス様が政治ということについて触れておられる場面であります。福音書の中にあって、イエス様が政治ということについてハッキリと語っておられる箇所は、今日のこの箇所だけではないかと思います。もちろん、広い意味では政治に関わることというのは、社会に関わることとして、広く解釈できますから、他の箇所でも大きな意味では政治に触れている箇所はあるわけですが、しかし直接的な形でイエス様がおられた時代の国際社会の政治ということを語っている場面は、福音書の中では、今日の箇所だけであります。

 

 42節にはこうあります。

 「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」

 

 この箇所が政治について直接的にイエス様が触れておられる箇所です。ここに言われている「異邦人の間で」とは、ローマ帝国の支配のことを言っていると考えられています。そこでは、支配者とみなされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力をふるっている、とあります。

 

 この「みなされている」という言葉があるように、本当の意味では支配者ではない人が、支配者とみなされている、そういう人々が民を支配している、そういう言葉であります。本当の意味で人々を支配する、人々の上に立って人々を守り、人々を正しく治めるのは天の神様だけであります。その神様ではない、神様の御心に沿わない人々が、人間の上に支配者として君臨している、そして偉い人たちが権力を振るっている、ということをイエス様はここではっきりと仰っておられます。

 

 政治に対する批判、当時の国際社会におけるローマ帝国イスラエルの国の、植民地支配の関係、その中でイエス様が世界の政治をどう見ていたか、ということがはっきりとわかります。イエス様がこのことを語られたあとに、では、そのような政治に対する批判を繰り広げられたか、というと、そうではありませんでした。

 43節にはこうあります。
 「しかし、あなたがたの間ではそうではない」と言われます。

 

 これが、12人の弟子たちに対して語られていることであります。「そうではない」というふうに言われています。いまイエス様と共にいる12人の弟子の中では、支配者とみなされている人が、本当に支配者ではない人が権力を振るっている、そういうことではない、とイエス様は言われています。イエス様が一緒にいて下さる群れ、人の集まり、その中ではローマ帝国の支配とは全く違ったものがそこにある、と言っておられるのであります。

 

 そして44節にはこうあります。
 「あなたがたの間で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 

 このようにイエス様は言われました。「人の子」という言葉は、この聖書の中では二通りの意味を持っている言葉です。一つは単純に人の子、つまり人間の子、人から生まれた人間という意味で、人間という意味を指します。もう一つは、旧約聖書のダニエル書という書物の中で使われている言葉でありますが、これは、来るべき救い主、未来にやってきて、天から、神様のもとからやってきて、私たちを救って下さる救い主、それをメシアというのですが、その救い主ということを言うときに、「人の子」という言葉を用いるときがあります。

 

 今日の聖書箇所においては、それは、来るべき救い主という意味がありますし、それと同時にここでは、イエス様がご自分のことを「人の子」という言葉で表しておられるであります。「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために」来た、それは、まわりに自分の部下が一杯いて、王様が家来によって支えられるように、イエス様が弟子たちによって支えられるためではなく、逆にイエス様が弟子たちの所に仕えるために来たというのです。

 

 そしてまた、「多くの人の身代金として」という、これは、多くの人のために自分が身代わりとなって、自分の命を献げるために来たのである、と言われています。これは、後のイエス様の十字架の死を表しています。無実のイエス様が捕らえられて、そして偽りの裁判にかけられて、ローマ帝国の極刑である十字架の刑、死刑に処せられた、そのことというのは、イエス様がすべての人のために神様の前で犠牲になっていった、ということであります。

 

 イエス様の十字架の死は、単なる死ではなく、神の子が神の子自身の命を神に献げた、そういう意味であった、それは、全ての人間が罪によって滅びることを、そこから救うために、滅びるべき人間の代わりに、神の子イエス様が自らの命を献げて死なれた、そういうことであります。

 

 こうして、ここでイエス様は、12人の弟子たちに対して、その12人の中での関係というものは、誰かが上に立ち、誰かが下に立って仕えるという関係でなく、お互いに仕え合う関係というものである、そしてそれは、ローマ帝国のような軍事力、政治力、経済力をもって人々を支配する関係とは全く違った関係である、ということが言われているのであります。

 

 ですから、ここでイエス様は政治について語られるときに、政治そのものを批判するのではなくて、政治とは違ったものが、あなたたちの中にある、ということを言っておられるのであります。いわゆる世の中での政治、国際社会での政治とは違ったものが、イエス・キリストと一緒に歩む群れ、人の集まりの中にはある、というのであります。

 

 今日の箇所は35節から始まっています。どうやってイエス様が42節以降のことを語られたかというと、35節から始まっています。

 「ゼベダイの子ヤコブヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』」

 

 この「栄光をお受けになるとき」というのは、おそらく、弟子たちがそのころに想像していた所では、イエス様が、イスラエルの国の王様になる、本当の意味で、社会的・政治的にもイスラエルの国を助けてくれる本当の王様になって、そしてローマ帝国から独立する、そういう奇跡的なことでありますが、そうした自分たちの国の復興、植民地支配からの解放、そうしたことのリーダーとして、イエス様に成っていただく、そういうことを信じていたと思われます。

 

 あるいは、この世というものに神様の救いが本当にやってきて、世界がすべて作り変えられていく、そのときに、このイエス様が世界のすべてを裁く、そういうふうな宗教的な考え方であったかもしれません。どちらであったとしても、そのような考え方は、弟子たちの持っている一つの希望でありました。

 

 今の社会が変わるときに、本当の神様の御心がこの世界に現されるときに、本当にイスラエルの国が復興するとき、あるいは神の国ができるときに、今までイエス様と一緒に行動していた12人の中で、ヤコブヨハネという、他の弟子たちよりも特にイエス様に近かったと思われる二人が頼んだわけです。

 

 そのときが来るときには、私たち二人を、一人は右に、もう一人は左に置いてください、と。それは、自分たちも、イエス様の栄光を共にする、そしてイエス様と共にこの世界を治める重要な役割を持つ人物となる、ということであります。それに対してイエス様が言われました。

 

 それに対してイエス様は言われました。

 「イエスは言われた。『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。』」

 

 イエス様はそのように切り返しをなされました。「杯を飲む」とか「洗礼」という言葉が突然出てきています。おそらく、このヤコブヨハネは、このイエス様の言葉を聞いて、その意味がわからなかったと思います。イエス様が飲むぶどう酒の杯とか、イエス様がヨルダン川で受けられた洗礼を自分たちも受けるか、それぐらいできることだ、と二人は考えたでありましょう。しかし、イエス様が仰っている意味は、そんな簡単な意味ではありませんでした。ここで仰っている「杯を飲む」とか「洗礼を受ける」ということは、十字架の死を経験する、ということでありました。

 

 人々から見捨てられ、十字架にはりつけにされ、命を失う。それが、ここでイエス様が仰っている、杯を飲む、あるいは洗礼を受ける、そういう運命の分かれ目であります。そうした運命を自らの身に甘受していく、甘んじて受けていく、そういうことができるか、とイエス様は問うたのです。しかし、弟子のヤコブヨハネはその意味を受け止めることができませんでした。

 

 できます、と二人は答えます。それに対してイエス様は言われました。

 「彼らが、『できます』と言うと、イエスは言われた。『確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。』」

 

 これは後に、イエス様が捕らえられて命を落とされ、その後に弟子たちがバラバラになってしまう、つまり弟子たち一人ひとりも大きな苦しみに出会うことになる、それは自分たちが主と信じているイエス様を失う、という大きな悲しみの出来事でありました。まさにあなたたちはそんな悲しい杯を飲み、悲しい洗礼を受けることになるのだ、と仰ったあとでこうあります。

 「『しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。』」

 

 いつかやってくる栄光のとき、神様の御心が現されて、イエス様がすべてのことを裁く、そのときにイエス様の右や左に誰がいるか、それはイエス様が決めることではない、天の神様が決めることであると、ここでイエス様は語っておられます。

 

 そのような会話がありました。12人の弟子たちの中で、この2人、ヤコブヨハネの兄弟が進み出て、密かに頼んだのです。そういうときが来たら、私たちを特別扱いしてくださいね、と。他の弟子たちを置いて、まあ抜け駆けのようなお願いでありました。12人の弟子たちの中ではペトロがリーダー格でありましたが、ペトロを抜きにしてこのように言った、そのようなこの2人の話があって、次にこうあります。

 

 「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブヨハネのことで腹を立て始めた。」

 2人の話がどこかで漏れたのでありましょうか。わかりませんが、次にこうあります。
「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。」

 

 ここから、先ほど申し上げました、「あなたがたも知っているように」という、ローマ帝国の政治に触れることをお話されます。

 

 

 この話をされたとき、おそらく12人の関係は最悪だったのではないでしょうか。みんなで仲良く力を合わせてイエス様と一緒に宣教の旅をしている、神の国の福音を宣べ伝えて、人々の病気を癒やし、そして神の国の福音を宣べ伝えて、人々に本当の幸せとは何であるか、それは神の恵みに生きることである、そういうことを伝えていた、苦しいけれど楽しい旅、その中で協力していた12人の弟子たちは、おそらくこのとき関係が最悪になったのではないかと思うのです。

 

 12人の中で、リーダー格のペトロを差し置いて、自分たちを特別扱いしてほしいと将来のことを願った。12人の関係が、ここで亀裂が入ったといいますか、本当にこのとき、お互いを信じることができないような関係になったのではないかと思います。

 

 それに対して、イエス様は仰いました。まず、ローマ帝国のことであります。

 「『あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。』」

 

 これは、政治に対するイエス様の考え方であります。ローマ帝国は、そういうものであると。しかし、そのローマ帝国を批判するのではなくて、次にこう言われます。

 「『しかし、あなたがたの間ではそうではない。』」というときに、この世界の中にあって当時、世界で一番強い国であったローマ帝国がしているようなこと、それはあなたがたの間では、そうではない、というのです。

 

 それは、国際社会、国際世界の様子を見ながら、そこに批判すべきことが一杯あるということをイエス様は見抜いておられながら、しかしその政治への批判ではなくて、この今、目の前にいる12人、わずか12人の人間の中で関係が最悪になっている、お互い疑心暗鬼になっている、そのときに、「しかし、あなたがたの間ではそうではない」と言うのです。

 

 これは、将来にそうではなくなる、というのではなくて、すでに、今そうではない、あのローマ帝国のような関係は、いま、あなたたちの中ではないのだと。

 そして、こう言われます。
「『あなたがたの間で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。』」

 

 これはヤコブヨハネに対する言葉であると同時に、12人全員に対する言葉であります。自分が人より偉くなりたいと思っているのだったら、みんなに仕える者になりなさいと。これはヤコブヨハネに対してだけ言っているのではないのです。それは、他の10人が怒った、という所にも関係するのです。自分よりもあいつらが上に立つなんて許せない、そういう思いが他の10人にはありました。

 そこには、みんな一緒でなければ気が済まない、そういうふうな思いがあったと思うのです。でも、あいつらのほうが抜け駆けして上に立つなんて許せない、という所には、一見、平等を求めているようであって、実は、自分の中にも平等を超えた、やはり権力への欲がある。あんなやつの下に置かれてたまるものか、そういう思いもまた、権力への願望を生んでいくのであります。そういうときに、偉くなりたいのであれば、仕える者になりなさい、とイエス様は仰いました。

 そして、いま、現代の日本社会の中で、こうして礼拝に集って聖書を読んでいる私たちは、今日のこのイエス様の言葉を聞いて何を思うのでしょうか。「偉くなりたい者」という人が、皆さんの中にいらっしゃるでしょうか。「いちばん上になりたい者」がいらっしゃるでしょうか。おそらく、多くの人は、とんでもありません、私はそんなことを考えたこともありません、考えもしません、そんなふうに言うのではないでしょうか。

 

 この社会の中で、上になりたいとか、偉くなりたいとか、そんなこと考えたって仕方がないじゃないか、そんなことは思いたくもない、そう思う人が多いのではと思うのです。けれども、もし、このイエス様の言葉が、「他の人よりも偉くなりたいものは、その、他の人に仕える者になりなさい」、「他の人よりも上になりたい人は、その、他の人に仕える者になりなさい」、そうした言葉であったら、どうでしょうか。

 

 この社会全体の中で、いちばん偉い人になりたい、そんなことは大抵は思わないものです。そんな、うぬぼれたといいますか、自信過剰というか幻想というか、何かあさましいというか、そんな人間には成りたくないと、多くの人は思います。けれども、そうは思っていたって、ほんの小さな仕事を、たまたま組になった2人でするときに、「あっ、こっちのやり方のほうがいいのに、なんであんなやり方をするんだろう」と思うときに、私たちはやはり、あの人よりも上になりたい、他の人よりも上になりたい、と心のどこかで思っているのです。

 

 まあそれは、人間としてごく自然な感情でもあります。けれども、他の人よりも上に立って物事をスムースに進めたい、そのほうが本当はうまく行くのだ、そのほうが良いのだ、と思っているけれども、でも、あえてイエス様は仰るのです。偉くなりたいなら、仕える者になりなさいと。それは、2人で組みになって仕事をしていて、あっ、こっちのやり方のほうがいいんだからね、と勝手に言うと相手は怒り出してしまいます。

 そういうときは、相手に仕える気持ちになって、あなたの言うことはもっともなんですけれど、でも、このやり方はどうでしょうか、と言うと、ああ、それは良いね、じゃあ採用しよう、と相手が言ってくれたときに、相手と対立せずに、より良い方法を見つけることができる。そういう経験を皆さんはどこかでしているのではないでしょうか。

 

 私がいま申し上げているのは、本当にささいなことです。日常生活の中での人間関係の知恵のようなものです。あんたのやり方は間違っているからねえ、と言われたら誰だって腹が立つのです。そうじゃなくて、いや、あなたの言っていることはもっともです。でも、こんなやり方はどうですか。そう言って相手に仕えていくときに、ああ、それはいいね、と言って採用してもらえる。まあ、日常生活の中ではそういうことがあります。

 

 イエス様がここで仰っているのは、人間は誰しも、一番上になりたいと思っていなくても、他者よりも上になりたいと思うときがある。そのときに、すでにそこに何か間違いというか、人間の罪深さが始まっているのだ、だから、相手よりも上になりたいと思ったら、その相手に仕える者になりなさい、そのときに新しい道が開ける。イエスはそういうことを仰っているのだと私は思います。皆様はいかがでしょうか。

 

 イエス様が今日の箇所でお話されている言葉を聞いて、私が、今日のこの聖書箇所を読んでいちばん心に残ったのは43節の言葉であります。「しかし、あなたがたの間ではそうではない」という言葉です。

 

 これは、あなたがたの間ではそうであってはならない、という義務であったり、あるいは、将来はちゃんとお互いに助け合うようになるんだという、将来のことではなくて、今すでに、あなたたちはそうではない、ローマ帝国のようではない、ということを言って下さっているのです。

 

 すると、ついさっき、このヤコブヨハネが進み出て、抜け駆けして、イエス様に自分たちの権力を願って、そしてその話を聞いた他の10人が怒っているという、この12人の人間関係が最悪になっている、亀裂が走っている、もう信頼関係が崩れていると言っていいと思いますが、このときの12人に対して、「しかし、あなたがたの間ではそうではない」とイエス様が仰っている、この言葉が私には大変心に残りました。

 それは、今はあなたたち、信頼関係が壊れちゃったけど、それをちゃんと修復して、将来にはそうではない関係になりなさい、と未来のことを言っているのではなくて、もう今すでに「そうではない」と仰っているからであります。それは言葉を変えて言えば、イエス様はこのときに、ヤコブヨハネをゆるしているし、他の10人、怒っている10人に対しても、もうゆるしてあげてほしい、私もあなたたちをゆるすから、もうすでにイエス様が先に、彼らを、12人の弟子たちをゆるして下さっている、ということであります。

 

 「あなたがたの間ではそうではない」というとき、12人が悔い改めたら「そうではない」というのではなくて、今すでに「そうではない」、お互いに力で支配しあう関係ではない、と言っておられるのです。それはどういうことでしょうか。まだ弟子たちは悔い改めもしていない。本当に人間関係が最悪な状態、そんなときに、なぜイエス様はこんなふうに、「あなたがたの間ではそうではない」と仰ってくださるのでしょうか。

 

 それは、このとき、この12人の弟子たちの真ん中に、イエス様がいらっしゃったからであります。12人の心の中にはそれぞれ、いろんな思いがあふれていたでしょう。ヤコブヨハネの心の中には、本当にいろんな思いがあったはずです。自分たちが抜け駆けしようとしたことが、バレてしまった、何て恥ずかしいという思いと共に、いや、俺たちだった真剣だったんだ、そんな思いもあったのではないでしょうか。いろんな思いが、12人の中にあふれています。

 

 けれども、12人の1人ひとりがどんなふうに思っていたとしても、それとは別に、12人の真ん中にイエス・キリストが立っていて下さって、イエス・キリストが12人を呼び集めて下さる、そして12人は、そのイエス様の言葉を聴く、その関係の中を生きているからこそ、「あなたがたの間ではそうではない」とイエス様は仰っているのです。

 

 つまり、1人ひとりはそれぞれにうぬぼれがあったり、権力への願望があったり、抜け駆けが許せなくて怒ったり、罪深い思いがあふれていたって、真ん中にイエス様がいて下さり、その言葉を聴く関係にあれば、もうすでにあなたたちは、ローマ帝国による権力の支配、そこから逃れている。離れている。もう、その罪深い支配というもの、それによって心が満たされる、その状態から解放されている。イエス様が真ん中にいて下さっているからであります。

 

 今日の説教題は「何がほしい、平和のために」と題しました。「何がほしい」と言っているのは、今日の聖書箇所でイエス様が「何をしてほしいのか」と問うた、その言葉から取っています。ヤコブヨハネは、「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」と願いました。イエス様は「何をしてほしいのか」と尋ねます。二人は言いました。「栄光をお受けになるとき、一人は右に、もう一人は左に座らせてください。」

 

 そこには、この2人の弟子たちが、他の10人よりも一生懸命にイエス様に従ってきた、そして真剣にイエス様と共に歩んできた、イエス様が歩まれる方向に、一緒になって苦労して行こうという、そういう決意があったと思います。それは、言葉を変えて言えば、この世界を本当に平和にするために、正義と平和を回復し、一人ひとりの人間が大切にされる、命が大切にされる、そういう世界を造るために、私たちを右に、左に置いてください、そういう願いだったのだと思うのです。

 

 単なるうぬぼれとか、自分たちの自尊心、あるいは権力欲、願望、そういったものだけで、こんなお願いを二人がしたとは思えません。そこには、本当の意味で、ローマ帝国に支配されている、この自分たちの国を解放してほしい。本当の意味で平和を得たい。平和に暮らしたい。軍事力、武力、また政治力や経済力におびえながら、抑圧されながら生きるのではなくて、本当に解放されて自由に生きていきたい。そのために、私たちを右に、左に置いてください。そういう、至極真面目な思いがあったのだと、私は想像します。

 

 「何をしてほしいのか」とイエス様が問うたときに、ヤコブヨハネは「平和のために、神の国の平和のために、平和によってこの世界を支えるために」、そう思って、「そのために、私たちを右に左に置いてください」と願ったのだと私は思います。なぜなら、ヤコブヨハネも、大変真面目な弟子たちだったからであります。ほかの10人よりもそうだったのかもしれません。

 

 こうした姿を見るときに、現代社会の中で私たちが直面する大きな問題が、ここに重なります。いまの世界において、私たちは平和を求めています。本当の平和がほしい、そのためにどうしたらいいのか、と思うときに、そのために力が必要だ、という現実に私たちは気がつきます。ときには、軍事力も政治力も経済力も必要だ、そのために、この私を用いてください、と真面目に真剣に平和を求めれば求めるほど、権力を求めることになる。それが人間の現実であります。

 

 しかし、その願いは正しいでしょうか。イエス様は仰いました。「あなたがたも知っているよわうに」という言葉で、ローマ帝国の支配がどんなものであるかをまず言われます。そして、それを批判するのではなく、「あなたがたの間ではそうではない」ということを言われます。

 

 イエス・キリストが真ん中にいてくださる、その群れの中で生きること。その中で、他の人よりも良いことをしたいと思っているのであれぱ、その、他の人に仕える人になりなさい。なぜなら、イエス・キリストはあなたたち全ての人のために、身代金としてご自分の命を献げるために来られたからであります。

 イエス・キリストが歩まれる道は、十字架の道であります。そこで命を失うことによって、イエス様は神様の前でご自分を犠牲となされ、そのことによってすべての人の罪をゆるしてくださる。そのことによって罪から解放される道というものをイエス様は示されました。

 そのイエス様の言葉を聴いて歩むときに、私たちはすでに権力による支配、その欲望から解き放たれているのであります。そのように生きること、それは、平和のために権力を求めることよりも、もっと大切なことなのであります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、私たちが生きる世界が、本当に困難に満ちています。その中で一人ひとり、神様の導きによって日々正しい判断、御心にかなった生き方をすることができますように。そしてこの世界を覆っている戦争の苦しみ、コロナ禍による苦しみ、政治や社会の不安による苦しみ、そうしたもののなかで生きる一人ひとりに、イエス・キリストが共にいてくださいますように。そして、その御言葉を私たちが、心から聴いていくことができますように願います。
 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

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 「平和を教えてください」2022年8月21日(日)

   聖 書  創世記 12章 1〜4節(新共同訳)

 

主はアブラムに言われた。


 「あなたは生まれ故郷

  父の家を離れて

  わたしが示す地に行きなさい。

 

  わたしはあなたを大いなる国民にし

  あなたを祝福し、あなたの名を高める

  祝福の源となるように。

 

  あなたを祝福する人をわたしは祝福し

  あなたを呪う者をわたしは呪う。

 

  地上の氏族はすべて

  あなたによって祝福に入る。」

 

 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。

 ロトも共に行った。

 

 アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。

 

(上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
改行などの文章配置を説教者が変えています。
 新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

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 (以下、礼拝説教)

 

 8月に入り、8月第1聖日日本基督教団の暦で平和聖日であることから、礼拝の聖書箇所を平和ということをテーマに選んでいます。本日は、旧約聖書の創世記です。

 創世記の最初には、天地創造・人間創造の物語が記されており、そこから世界の歴史が始まったことが記されています。それは、現代人の目から見たときには、古代の神話的な物語であり、科学的・歴史的な意味での事実そのものではありません。しかし、その物語を通じて神様の御心を一人ひとりの人間の心に伝えるという意味では、創世記の物語は今も生きた言葉、神様の御言葉であります。

 本日の箇所は、創世記12章です。ここにはアブラムという名前の人が登場します。この人は後にアブラハムという名前に変わります。本日の説教の中では、名前の呼び方が混乱しないように、アブラハムという呼び方で統一します。アブラハムは、聖書に記されたイスラエルの人たちの歴史において、イスラエルの父と呼ばれました。この人からイスラエルの歴史が始まります。

 

 聖書の中には、歴史の始まりということが、様々な形で記されています。一番大きなことは、何と言っても、創世記の1章に記された天地創造のことです。果てしない暗闇の中にドロドロとした何かが動いている、そのように何の形もない世界に、神様が「光あれ」と言われたことから、神様による天地創造が始まります。この時点が、聖書における大きな歴史の流れの始まりです。

 

 けれども、聖書の中で、歴史の始まりということは、その天地創造のときだけではありません。ものすごく長い時間の経過の中で、世界の歴史は繰り返し、その歴史の中で、新しい歴史の始まりということが起こります。具体的に言いますと、創世記の中では、まず天地創造・人間創造がなされます。それが最初の歴史の始まりなのですが、そのすぐあとの物語の中で、アダムとエバが神様に対して罪を犯して、エデンの園から追放される話があります。これが、人類が神様の園から離れて自分たちで生きていくことになるという、新しい歴史がここで生まれるのです。

 

 さらに、その次にはノアの箱舟の物語があります。世界中に増えた人類は、神様の御心から離れて、利己的な心で、人間自身を神として生きようとすることになります。そのことを怒った神様は大きな洪水を起こして世界を滅亡させます。その中で選ばれたノアの部族だけが、世界中の動物と植物をノアの箱舟に乗せて洪水の中を救われます。その洪水が終わったあと、ノアの部族は地上に再び住み、そこからまた生活をしていきます。これもまた新しい世界の始まりです。

 

 そのあと、人類は各地で増えるのですが、今度はバベルの塔の物語があります。そこでは、人口が増えて力をつけた人間たちが力を合わせて、天まで届く大きな塔を建てようとします。そのときに、神様は人々の言葉を混乱させて、互いの言葉が通じないようにされました。そのことによって人間は一箇所にかたまって住むことができず、世界中にバラバラに分かれて住むことになります。これもまた、新しい歴史の始まりです。

 

 こうして、創世記の最初のほうにある物語を駆け足で見てみますと、ごく短い箇所でありながら、聖書が描く古代の世界においては、何度も何度も世界が新しくされ、そのたびにそれまでの古い世界から離れる、あるいは古い世界が滅びる、そうした世界の抜本的な転換がなされていることがわかります。そして本日のアブラハムの登場となります。ここから、アブラハム、イサク、ヤコブという三代に渡る部族の歴史が始まります。それが今日の話ですが、それは少し置いておいて、この先の時代の話をします。

 

 アブラハムヤコブ、イサクの次には、ヨセフが登場します。創世記の後半には、とても長いヨセフを巡る一連の物語が収められています。そしてそこから、さらに、今度は、聖書の出エジプト記の出来事につながります。

 

 出エジプト、それはどういうことだったでしょうか。ヨセフの時代に、飢饉によって食べるものがなくなり、イスラエルの人たちはエジプトの地に移り住むことになります。そのエジプトの国の中に住み着きながら、そこから人口が増えて強い民になったために、エジプトの王様ににらまれてイスラエルの人たちは奴隷とされることになります。そして、毎日レンガ作りの重労働を負わされて、イスラエルの人たちは苦しみます。

 そして、その人々の苦しみの声が、天の神様のもとに届きます。そこから神様は、苦しむ人たちの声を聞いて、人々をエジプトから脱出させるためのリーダーとしてモーセという人を選び、つかわします。そして紆余曲折を経て、モーセに率いられた人たち70万人がエジプトの国を脱出します。そのとき、紅海の海が割れてエジプトの軍勢は海に飲み込まれ、イスラエルの人たちは助かります。ここから、新しい旅立ちの歴史が始まります。

 そのあと、イスラエルの人たちは神様から、モーセ十戒を始めとする律法をいただきました。シナイ山というところで、モーセが神様から十戒をいただいたのです。そして、そこからイスラエルの民は、荒れ野の旅を40年かけて行った結果、神様に導かれて、乳と密の流れる土地と呼ばれたカナンの地に住むようになりました。そこから、新しい土地において、神様から与えられた律法に従って生きる人たちとなりました。

 

 そうした出エジプトの出来事の中にも、歴史の新しい出発が記されていました。どれいとされていた国を脱出したこと。そして40年の荒れ野の旅。そしてカナンの地での新しい生活。このカナンの地での新しい生活も、簡単にうまくいったのではなく、そこに住む様々な民族との対立の中で長い時間をかけて定住していったと考えられています。これもまた新しい歴史の歩みです。

 

 そのようにして、聖書の中には、ここから新しい歴史が始まった、と言えるときがたくさんあります。それは、一番最初の天地創造だけではなくて、今までもう上げましたように、古い歴史が終わって新しい歴史を始めるときに、たくさんの出来事があり、そのたびに古い世界が滅びたり、あるいは人々が古い世界から脱出したり、ということがありました。

 

 本日の聖書箇所にあるアブラハムの旅立ちの物語も、そうした新しい歴史が始まることを示した物語です。創世記の時間の流れのなかでは、これは、ノアの箱舟の話のあと、出エジプトの物語に入る前の時期のことです。創世記の中で、イスラエルの歴史の重要人物が何人も登場しますが、その中でイスラエルの国の父祖と呼ばれるのが、アブラハム、イサク、ヤコブの3人です。

 

 アブラハム、イサク、ヤコブ。この3人は親・子・孫の関係になります。そして孫のヤコブの子どもがヨセフで、アブラハムからはひ孫になります。このヨセフをめぐる物語は大変長く、創世記の後半は多くがヨセフの物語です。そして、このヨセフの時代にイスエラルの人たちは飢饉のためにエジプトに住むことになり、そこから後の出エジプトにつながっていきます。

 

 そんなふうに、旧約聖書の物語は、天地創造から始まって連綿と続いていくのですが、その流れの中で、新しい歴史の始まりと言える大きな出来事が何度もあったということです。その一つが、本日の聖書箇所であるアブラハムの旅立ちの物語です。

 

 本日の聖書箇所を、この8月に平和を考える礼拝の聖書箇所に選んだのは、歴史ということを考えるためです。私たちはいま、世界が暗黒の中に突き落とされていくような不安を感じる時代に生きています。ロシアがウクライナを侵略し、戦争がずっと続いています。3年前からのコロナ禍はいまだ収束せず、危険が続いています。日本社会においても戦争の影響である物価高が続き、私たちの身近な生活にも危機が押し寄せています。

 

 このような時代にあって私たちは、教会に集まって礼拝するとき、聖書からどんな言葉を聴くのでしょうか。私たちが聖書から聴きたいと願う言葉は、人間の言葉ではなく、神様の言葉、そして主イエス・キリストの言葉であります。神様は、今の時代に私たちに何を語ってくださるのかと、ということです。

 

 そういうことを考えて、本日の説教題は、「平和を教えてください」と題しました。8月は平和について考える期間です。私たちは、戦争がいつまでも終わらない、この悲壮な現実世界の中を生きています。その中で、どうやったら平和になるのか、教えてほしい、と願う気持ちになります。世界の人がこんなに努力しても、それでも戦争が終わらないのなら、いったい私たちはどうしたらいいのか、本当に心から「平和を教えてください」と言いたくなります。誰に向かって言うかといえば、それは神様に向かってです。

 

 といっても私たちが、神様に平和を教えてください、と願えばすぐに世界を平和にできる方法が教えていただけるわけではありません。ではどうしたらいいのでしょうか。それは、聖書に深く学ぶことです。そして、本日、このアブラハムの箇所を選んだのは理由があります。

 

 それは、平和ということを考えるとき、それは様々な視点から考えることができますが、ひとつの視点は、一人の人の人生を通して考えるということができます。平和というものは、政治的に考えることもできますし、経済とか社会とか軍事とか、様々な面から考えることができます。けれども、そうした学問的な分析とは別に、一人の人の存在を通して、一人の人の生き方という面から平和とは何かということを考えることもできるのです。

 

 今日、選ばせていただいたアブラハムという一人の人は、聖書の民イスラエルの父と呼ばれる重要な人物です。このアブラハムが神様によって新しい道へと旅立ったことは、歴史の新しい始まりを告げることでした。そして、このアブラハムと同じように、実は2022年という今の時代に生きている私たちもまた、神様に導かれて新しい世界を目指すことが求められているのではないかと考えます。

 

 歴史というものは、ずっと同じようなことが続いていくものではなくて、ときに応じて新しくされていくものなので、その中で生きる私たちもまた、新しい出発をするということです。そのときに、本日のアブラハムが神様から祝福を受けたように、わたしたちもまた祝福されるということです。

 

 では、本日の箇所を一つひとつ読んでいきます。神様がアブラハムに言われた言葉です。

 「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。」

 

 それまでアブラハムはハランという土地に住んでいました。アブラハムの父であるテラという人がカルデアのウルという土地を離れて、このハランに住み着いたのです。長い旅をして、やっとたどり着いた新しい土地だったのでしょう。アブラハムはこのとき75歳だったと4節にありますから、このハランという土地でずいぶん長く住んでいたはずです。

 ここで畑を耕して、家を建てて部族一同がここに住み、アブラハムは一家の長、部族の長として、みんなで力を合わせて生きていたと思います。しかし、その75歳のアブラハムに対して、神様は言われました。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。」これは一体どういうことでしょうか。75歳まで生きてきて、これから平安な老後を過ごすことができたら一番いいと思うのが普通でしょう。それを、なぜ、今ここから旅立たなくてはいけないのでしょうか。

 次に神様はこう言われます。

 「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。」神様の約束は、アブラハムという1人の人を幸せにするというものではなくて、アブラハムから生まれる家族がさらに家族を産んで、いつか大きな国になる、そのためにあなたを祝福し、あなたの名を高めると言われます。それは、アブラハムという1人の人が、アブラハムから生まれる他のすべての人たち、後のイスラエルの国民すべての祝福の源となるようにするためだと神様は言われます。そのために、75歳のアブラハムが神様によって選ばれ、新しい土地へと旅立つように命じられています。

 

 さらに神様はこう言われます。
 「あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。」

 ここには、アブラハムという人が世界の中で神様に守られていることが示されます。アブラハムはたった1人で孤独に世界を生きるのではなく、アブラハムが世界の人から祝福されるように、そして、アブラハムが人から呪われるときはその呪いから守られるように、神様が共にいてくださるということです。

 

 そしてさらに神様はこう言われます。

 「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」

 こうして、神様がアブラハムを選んだ理由は、アブラハムという一人の個人のためだけではなく、また、アブラハムから生まれるイスラエルという民族、国に属する人たちだけでもなく、この世界に生きるすべての人が、アブラハムという一人の人を通して神様から祝福を受けるということがわかります。言葉を変えていえば、世界のすべての民族、すべての人の平和ということをもたらすために、神様はこのとき、75歳のアブラハムを選ばれたのです。

 

 本日の箇所には、旧約聖書の中で重要な登場人物、イスラエルの父と呼ばれるアブラハムが登場します。このアブラハムの時代の人たちのことを、ずっと後の時代にモーセは、申命記26章で次のように言っています。「わたしの先祖は滅びゆく一アラム人でした。」アラムとは一つの地域の名前です。

 

 これは口語訳の翻訳では、「わたしの先祖はさすらいの一アラム人でした。」と言われています。アブラハムの時代からヨセフの時代までの人たちのことは、「滅びゆく」とか「さすらいの」という呼ばれ方をされていた人たちなのです。つまり、吹けば飛ぶような小さな群れ、どこから来てどこに行くかもわからない、自分たちの確かな土地というものを持てないで、さまよっているような人たちなのでした。

 

 そのようなアブラハムの群れは、アブラハムが75歳のときに旅に出ることになります。神様が命じられたがゆえにです。そこには、新しい土地に行ったら、こんな良いことがあるよというような合理的な理由は示されませんでした。この旅に意味があるのだろうかと大いに不安を感じる旅、その旅に出る理由はただひとつ、神様が命じられたからであります。そして、その旅の結果、最終的には、アブラハムの足跡を通して、神様から世界のすべての人々に平和が与えられるのです。神様が与えてくださる平和は、ばくぜんと世界の人に与えられるのではなくて、一人ひとりの人間の足跡、歩みを通して与えられるものであります。

 

 ここで私たちは、主イエス・キリストのことを思い起こしてみたいと思います。それは、イエス様もまた、アブラハムと同じく神様が命じられた旅に出発をされたからです。それは、世界のすべての人たちに「神の国」の福音を宣べ伝えるための旅でした。もちろん、その当時において、その旅の時間も距離も限られていました。イエス様の宣教の旅は弟子たちと共に、ほんの数年のことでした。そしてイエス様は、都エルサレムでとらえられて、偽りの裁判により十字架に架けられて命を落とされました。つまり、イエス様ご自身の命を神様に献げる旅でありました。

 

 イエス様が旅に出発するとき、不安はなかったのでしょうか。不安があったとは聖書に書いてありません。本日の聖書箇所のアブラハムも、旅立つことに不安があったとは書いてありません。もちろん、どういう場合であれ、新しく旅立つときの人間の心には不安があって当たり前です。イエス様にも、アブラハムにも、不安はあったでしょう。けれども、聖書がそこでイエス様や、アブラハムの心の中の不安を書き記さなかったのは、そうした内面のことは、一人ひとりの心の中で神様が責任を負ってくださるから、神様がすべての不安を解決してくださる、そう信じられていたからです。

 

 本日、こうしてアブラハムの旅立ちの物語を皆様と一緒に読んだのは、今日、2022年のいま、ウクライナ戦争やコロナ禍、そしてシリアやミャンマーや台湾や香港など、様々な国と地域で争い事があり、いっこうに平和を道筋が見えない、この現実の中で、私たちは今、新しい時代に入ろうとしている、その中で私たちはまたここから新しい旅をするのだ、と考えたからです。その新しい旅とは、平和を探す旅です。

 

 今まで、第二次世界大戦が終わったあとの世界は、その歴史全体が平和を守ろうとした旅であったと思います。二度とあんな大戦を繰り返してはいけない、という思いが世界中にあったはずです。けれども、2022年の現在は、第二次世界大戦の教訓をくみ取ってどうするかということではなくて、今すぐそこにある危機、今起こっている危機をどうするかという問題です。

 

 ウクライナはどうなのか、台湾はどうなのか、日本はどうするのか、そうした言葉を頭の中で並べてみると、正直、段々怖くなってきます。平和はどうしたらやってくるのでしょうか。本日のアブラハムの聖書箇所から教えられることは、平和をいただくにはまず神様の言葉を聴くこと、そして神様の導きによって私たちは旅に出る必要があるということです。その旅は楽な旅ではなく、また、何のためにその旅をしなければならないのかと問うても、なかなか答えが返ってこないような旅です。それでも、神様が命じておられるなら、旅立たなければなりません。

 その旅というものは、いまの私たちの現実から考えますと、今いる場所を離れてどこかの遠くに向かうということではなくて、今いるこの場所から離れずに、神様の平和を求めていくという旅になります。すなわち、私たちの現代の旅は、距離的な旅、地理的な旅ではなくて、時間的な旅です。平和が与えられるときまで、困難を耐え忍び、神様に礼拝を献げながら、神様に感謝を献げながら、この世を今までと同じ場所で、平和を祈り求めながら生きていくということです。

 

 創世記15章で神様は、アブラハムに言われました。「あなたから生まれる者があなたを継ぐ」と。しかし、もう子どもを授かるはずがない年齢なので、それを信じようとしなかったアブラハムは、神様の言葉を聞いてひそかに笑います。妻のサラも笑います。しかし、後に本当に一人の子が授けられたのでした。こうした聖書の物語は、あくまで古代の物語であり、すべてを事実そのものとして読まなくてはならないわけではありません。むしろ、表面的な部分は事実ではないけれども、こうした物語の背後には、もっと重要な事実があったと考えることができます。

 

 それは、神様は、もう歴史の舞台では不要だと思われていた人間たちを用いて、神様の御心をこの世界に現されるということです。滅び行く人々、さすらいの人々と言われていた、古代のイスラエルの人たちの旅は、ものすごく長い年月をかけて、神様への信仰をもって平和を創り出していく旅へとつながります。滅び行く人々、高齢の人々、もう新しく子どもを授からないと思われていた人々が、すべての人を平和に導くために神様に用いられるときが来るのです。

 

 今日、世界においてもう不要だと言われている存在が、神様に呼び出していただくときには、平和を創り出す重要な存在になります。そのことを、私たちは本日の聖書箇所からしっかりと学びたいと思います。平和を求める旅においては、滅び行くような小さな存在、もう不要だとされるような存在、それが神様に大切にされ、守られ、平和のために用いられるのです。 

 

 お祈りをいたします。天の神様、いま、混迷を深めているこの時代にあって、ただ不安におびえて生きるだけではなく、自分が今いる場所から離れずに、今いる場所からも平和を求める旅へと出発することができますように、一人ひとりをお導きください。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。アーメン。

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