京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2022年4月の説教

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  2022年4月の京北教会 礼拝説教 

    4月3日(日)、4月10日(日)、
 4月17日(日)イースター(復活日)、
 4月24日(日)

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f:id:kyohhokukyohhokukyohhoku:20220404171622j:plain「罪を終わらせる力」2022年4月3日(日)説教

 聖書   創世記 6章5〜22節 (新共同訳)

 

 主は、
 地上に人の悪が増し、
 常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、

 地上に人を作ったことを後悔し、心を痛められた。

 主は言われた。
 「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。

  人だけでなく、家畜も這(は)うものも空の鳥も。

  わたしはこれらを造ったことを後悔する。」
    しかし、ノアは主の好意を得た。

 

 これはノアの物語である。
    その世代の中で、ノアは神に従う無垢(むく)な人であった。

 ノアは神と共に歩んだ。ノアには三人の息子、
    セム、ハム、ヤフェトが生まれた。


 この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。

 見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。

 

 神はノアに言われた。
 「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。

  彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。

 

  あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。

  箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。

  次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを三百アンマ、幅を五十アンマ、

  高さを三十アンマにし、箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、

  それを仕上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。

  また、一階と二階と三階を造りなさい。

 

  見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、

  すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。

 

  わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。

  また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、

  あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。

  それぞれの鳥、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものが、

  二つずつあなたのところへ来て、生き延びるようにしなさい。

  更に、食べられる物はすべてあなたのところに集め、
       あなたと彼らの食糧としなさい。」


 ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。



  (以上は、新共同訳聖書を元にして、改行など、

   文字配置を、説教者の責任で変えています)

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 (以下、礼拝説教)

 

 ここしばらく京北教会の礼拝では、マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、そして旧約聖書の3箇所を、毎週順番に読んでいます。今日は旧約聖書の創世記6章です。

 

 ここには、いわゆる「ノアの箱舟」という名前で知られている物語の、発端の部分をプリントしています。大変長い物語であり、皆さんには聖書そのもので、この長い物語をそのまま読んでいただければと願うます。今日の礼拝ではその最初の短い部分をプリントしました。

 

 ここに書かれているのは、古代の伝承に基づいた聖書の物語であります。ノアの箱舟と聞くと、それは洪水の物語なんだ、ということを多くの方は思い浮かべるかと思います。そして、では実際に聖書には、そこでどんなことが書いてあるのかと思って読んでみますと、今日の箇所にありますようなことがあります。

 

 神様がこの世界を造られ、人間を創造し、その人間が増えていったのですが、その人間たちは悪いことばかり心に思い計って罪を犯して生きていた、その様子を見て神様が深く心を痛められた。そういうことから始まって、神様ご自身が造られたこの世界を滅ぼし、人間も動物も鳥も、そうしたものを造ったことを後悔する、この世界全体を造ったことを後悔すると、神様が思われて、そして洪水をもたらす、そういう話であります。

 

 こうした物語を読むときに、この物語がどういう意味を持っているか、ということは、これを読む人によって一人ひとり違ってきます。そしてまた同じ人であっても、これを読むときの自分の心の様子によって、受け取り方がずいぶん変わってきます。そしてまたそれは、この物語読む人がどういう時代、どういう状況において生きているかということによっても、大きく変わってくるかと思います。

 

 いまの時代はどういう時代でありましょうか。新型コロナウイルスによって苦しめられてきた、この時代がもう3年目に入っています。この時代にあって読むときにいろいろなことを思うことができます。

 そしてまた、ロシアとウクライナの戦争が始まり、それが本当に悲惨な形で続いている、この時代の中で、この箇所を読むときにまた、このノアの洪水、ノアの箱舟の物語は私たちの心に、今までとは違った力を持って迫ってくるように私は感じています。

 

 では、今日の箇所を順々に読んでいきます。

「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を作ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這(は)うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。』しかし、ノアは主の好意を得た。」

 

 こうした形で、人の世の罪深さ、そして神様自身の後悔、そしてノアという人の名前がここに出てきます。

 

 そして次に続きます。
 「これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢(むく)な人であった。ノアは神と共に歩んだ。ノアには三人の息子、セム、ハム、ヤフェトが生まれた。」

 

 これはノアの物語であると言われています。そして三人の息子の名前が記されています。ここには、このノアの物語が歴史の一つである、ということが言われているのです。ノアという名前を持った一人の人が生きた、その息子は三人いた、そこからまたノアから始まる新しい人類の歴史というものがあるのだということが、ここで説明されているのであります。

 これは決して空想の世界のことではなく、人間が何かを想像して作りだした世界ではなく、実際に世の中を生きた人間の物語であると、そしてノアの時代から始まって今の私たちの時代につながっているということが示されています。

 

 そして、こう続きます。
 「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。」

 

 そして神様は言われます。
 「神はノアに言われた。『すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。」

 

 その時が来ている、ということを神様はおっしゃいます。世界を神様が創造なされた、そこから時というものが始まって進んできたのでありますが、それを終わらせるときが来ている、と言われるのでありました。

 そして、こう言われます。

 「『あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを三百アンマ、幅を五十アンマ、高さを三十アンマにし、箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それを仕上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい。』」

 

 ここには箱舟の簡単な設計図のようなものが言われています。アンマとは長さの単位で、いちアンマは約45センチ、人間のひじから中指の先までがいちアンマです。それで計算すると、どれぐらいの大きさでイメージされていたか、ということがわかります。

 

 このような箱舟を作るこを命じられました。そしてさらにこう言われます。

 「『見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。それぞれの鳥、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものが、二つずつあなたのところへ来て、生き延びるようにしなさい。更に、食べられる物はすべてあなたのところに集め、あなたと彼らの食糧としなさい。』ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。」

 

 今日の箇所は、このような箇所であります。皆様は何を思われたでありましょうか。

 

 私は、こうしたノアの箱舟を読むときに、まず頭に思い浮かぶことは、この聖書箇所に書かれていることそのものではなくて、この物語がどのようにして出来たきたか、という聖書神学で習った知識というか、本で読んだ知識ということが、まず頭に出てきます。こうした「洪水物語」というものは聖書のノアの物語だけではなくて、当時の中近東といわれる世界にあって普遍的に各地にあった物語のようであります。

 

 その理由は、チグリス・ユーフラテスといった大きな川、またナイル川、そうした川のほとりに栄えた文明というものが、その川の氾濫によって、消滅していく、破壊されていく、そうした悲惨な経験というものをしていた人たちが、その古代世界にあってものすごく大きな悲惨な災害、そうした経験を元にして伝承を語り伝えていった。そういう、その中における人間の歴史、その中で経験してきた悲惨なことがあって、このノアの箱舟の物語ができているのだという、そうした知識ということを、私はまず思い返します。

 

  そして、そうした大きな川の氾濫によって世界は押し流され、滅亡するような、そうしたことから新しい世界が生まれてくる、ということは、実はこのノアの話だけではなくて、旧約聖書の創世記の一番最初にある、天地創造の物語も、そうした洪水のような経験が元になっているのではないか、という考え方、聖書学の知識があります。

 

 どろどろとした、形なきものしか存在しない、カオスと呼ばれる混沌。土も水もみんなまざって、しかも真っ暗闇で何にもそこに形がない、ただドロドロしたものがうごめいている、その世界に神様が「光あれ」と神様が言われて、光が生じました。

 そこから世界が始まる、という創世記の物語は、川の氾濫によって全てが押し流され、真っ暗闇の中を絶望して生きていた、その人たちの心に光が射し、そしてそこから水が引いていき、陸地が現れ、そこに新しい命が生まれ出る、世界の始まりとはそういうものであった、という、当時の人たちの洪水の経験に基づくことが、旧約聖書天地創造の物語に反映している、ということを、私たちは知識として知ることができます。

 

 すなわちノアの箱舟の物語は、物語としては、これは人間が作りだした物語とは言えるのでありますけれど、その元になっているのは、歴史の事実であって、その歴史の事実を単に事実としてだけ伝えるのではなくて、これは神様の御心である、そこで神様という存在を信じて、この物語を後世に伝えていった、当時の人たちの信仰というものが、ここに現れているのであります。

 

 私はノアの箱舟の物語を読むときに、まず思い浮かぶのは、そうしたことなのです。それは何を意味しているかというと、聖書神学、聖書の研究における、先人の方々が積み重ねてくださった知識というものがあって、私は聖書を読んでいます。そのことよって大いに助けられています。

 

 けれども、もしそうした知識ということのみを頼りにして、この物語を読むならば、どこまで行っても、この物語というのは、人間のある種の創作といいますか、古代の経験を元にして、人間が神への信仰を持ってこういう物語を書いた、そういうお話であり、物語であると、そういう所で終わってしまうかもしれません。

 そうした、知識を元にした読み方に対して、もっと直接的に今日の聖書箇所を読んでいくということもまた大切だと、私は感じています。

 今日の箇所に書かれているのは、人間が作りだした空想の物語のように見えて、実はそうではなく、まさに神様が私たちに問うている物語ではないかと思います。なぜ、そう思うかというと、今日の聖書箇所を読むとき、私はここに、ロシアとウクライナの戦争の光景、それによってボロボロにされてしまった、まさにこの世界、地上の様子、失われていったたくさんの人々の命、壊された生活、そうしたものを思い浮かべるときに、今日の箇所にある話は、古代の人たちの空想の物語ではなくて、まさにこの21成果にも響いてくる現実の物語ではないかと思うのです。

 

 この地上を見て、人間は何を思うでありましょうか。今日の箇所には、神様が登場し、そして神様がこの世界を造ったことを後悔したということが書かれています。

 何にも考えないでこの話を読むならば、私たちは次のように思うことができます。
 「神様って、ずいぶん勝手だなあ。自分がこの世界に人間を造りたいと思って、その人間たちが言うことを聞かなくて罪深いことばかりやっていると、今度は滅ぼしてしまう。神様とはなんて自分勝手なのか」……と思います。

 「自分のために人間を造って、自分のために滅ぼすのか。神様ってずいぶんひどいじゃないか。」そう思うことができます。

 

 けれども一方で、この今の時代のなか、戦争の状況ということを思い起こしながら、この箇所を読むときに、私にはそのように思えませんでした。私はこう思いました。「神様がここでご自身を後悔しておられる。これはすさまじいことだ。ありえないことだ。神様がこの世界を造られたのに、神様ご自身がそれを後悔する、というありえないことがこの地上に起こっている。そう思いました。

 

 神が後悔する、このありえないことが起こっている。それはまさに人間の生活、この地球上において人間が生きていることにおいて、人間が罪深く、互いに殺し合い、命を奪い合って、侵略し、他者を搾取して、他者の命を奪う、他者の生活を壊して自ら生きようとする、そのような世界を見たときに、神様はご自身を後悔されることになった、ということは、まさにそこで、あり得ないことが起こっている、それほどの罪の現実がある、ということを私は感じます。

 

 そして、神様はもうこの地上を滅ぼしてしまおうと思われた。そこには、神様が造られた世界というものが万能ではなかったという現実があります。神様が造られた世界で、神様は人間に自由を与えてくださった。しかし、人間はその自由を正しく行うことができず、自分自身のために使った。つまり、人間は神様によって造られたにもかかわらず、神に等しいものとして、神と同じく振る舞おうとして、この罪の世界を造り上げてしまった。そのことに対して神様の怒りがくだるときが来ているのであります。

 

 現在の、私たちが生きている時代も、同じような時代ではないかと思うのです。神様がこの世界を造られたことを後悔せざるをえないほどに、ありえないことが起こっています。本当にそこには、大きな絶望というものがあるのです。ではその絶望の中で神様は何をなさっているのでありましょうか。

 

 ノアという人を選び、ノアに命じました。大きな箱舟を造ることを命じられました。ここに記されている大きな箱舟の設計図。巨大な箱舟であります。水が入ってこないようにタールを塗った、1階、2階、3階のある箱舟。このような巨大な箱舟を造るには、相当な技術が必要だったはずです。そして、その舟にたくさんの生き物や人間が乗れるようにする、それは大変なことであったでしょう。

 そして、その箱舟を、洪水が起きていないときに造り始めたとき、世間の人たちはノアをあざ笑ったと思います。いったい何のためにそんなことをするのか、と。この地上で舟を造っている、しかもこんな巨大な、馬鹿でかい大きな舟を造って、防水のタールまで塗って。

 

 そんな愚かなことをノアは、コツコツとしていたのでありました。それが神様の御心によるから、ただそれだけの理由でノアはそうしたのであります。

 

 こうした物語を読むときに、現代人である私たちはいろんなことを思い、言わば「突っ込み」をすることができます。ノアは助かったけれど、他の人たちはどんな意味を持っていたのか。なぜノアだけが救われたのか。神は人を差別しているのではないのか。ノアだけを助けることはおかしいじゃないか。そんな突っ込みをすることはいくらでもできます。

 

 そんな話になれば、「みなさん、これはお話ですから」というふうに言ってしまわないといけません。

 ここに書かれている物語というものは、何の矛盾もなく神様の御心を私たちに合理的に説明するための物語ではなくて、神様が私たちに対して一番伝えたいことを伝える、そのために生まれた様々な欠けの多い物語であり、矛盾あるいは謎、そしてユーモアに満ちている物語なのであります。

 

 神様はこのようにノアに命じました。ノアはコツコツと箱舟を造ります。本当に世間の人から見たら、はたから見たら、愚かに見えたと思います。やめてくれよ、何やってんだ。膨大なお金あるいは労力をかけて、こんな舟を造って、いったい何のために。

 

 それは命を守り、そして命というものを受け継ぐためでありました。神様はご自身がこの天地世界を創造されたことを後悔され、すべてを滅ぼすことを決められました。一方で命というものを、この世界において継いでいく、受け継いでいく、そのことの指示がなされていました。

 

 けれども、なぜ、一方で滅ぼし、なぜ、一方でこのように命を受け継いでいくことを命じられたのか、その説明はなされていません。すべては謎に包まれています。けれども、ノアにとっては、このとき「なぜ私が」とか、「なぜこんな箱舟を」と問うような時間というか、心の余裕というものがあったのか、なかったのかはわかりませんが、ここにはそういうことは全く書いてありません。おそらく、これは、ノアがしなければならないことだったのだと思います。

 

 現代の時代において、何が箱舟になるでありましょうか。私は思いました。ウクライナから避難する人たちがたくさん列車に乗って脱出しているときの、あの列車が箱舟ではないのか、と。脱出したいろいろな東欧の国々に人々が散っていく中で、もう安心ですよ、と迎えてくださったシェルター、避難場所に迎え入れられたとき、そこが箱舟であったかもしれない。私はそんなふうに想像しました。

 

 では、ウクライナに残って戦っている人たちはどうなのか、ということも思います。こうしたことを考えるときに、このノアの箱舟の物語をもって、今の状況のすべてを説明したり、神様の御心がここにあるのだというような説明をするつもりは私にはありません。

 自分には何もできないからこそ、このノアの箱舟の物語を読みながら、自分には何もできないからこそ神様が私たちに対して何を示しておられるか、そのことに対して謙虚でありたいと願うのです。

 

 現代にあって何が箱舟であるのかは、私たちにはわかりません。けれども、かろうじて思うことは、洪水が起こる前から箱舟を造っていたように、私たちは悲惨な状況が起こる前に、平和を創り出すための舟を造らなくてはならなかったのではないか、ということです。それは、大きな舟を造るということではなく、平和のための枠組みを造るということだったかもしれないし、もっといろんな努力であったかもしれません。

 そうしたことはわかりませんけれども、この世界というものにおいて、神様ご自身というものが、この世界を造られたことを後悔される、というあり得ないことが起こる状況が、この世界に今あります。そのなかで私たちに神様の御言葉が与えられています。

 その御言葉は、直接的にいまの現実に関して、すべてに答えてくれる回答ではないけれども、その解答へと私たちの足を向けさせてくださる、導いてくださる、光である、ということを私は信じています。

 

 今日の説教題は「罪を終わらせる力」と題しました。罪、それは人間の神様に対する罪ということであります。いわゆる犯罪とか、道徳的なこと、嘘をつくとか、そうした道徳的・倫理的なことを罪というのではありません。そうではなくて、聖書においては、罪ということの一番のことは、神様に対してまっすぐ向いていない、神様との関係がまっすぐでない、ということ、それが人間の一番の罪であり、そこから様々な実際の罪が起こってくる、そういう理解ができます。

 

 今日のノアの箱舟の物語において、罪を終わらせる力というものは神様にあります。そして、その罪を終わらせる力というものは、同時に、命というものを守り、命をこの世界の中にあって受け継がせていく力として描かれています。

 

 この世界がどんなに罪深いものであったとしても、矛盾があったとしても、それでも命を受け継いでいくために、あなたは何ができるか、ということが神様から問われています。

 自然災害である洪水、誰もがそれに逆らえない、そういう意味で自然災害である洪水と、人間が作り出す人災である戦争とは、もちろん違っています。けれども、この世界を見たときに、私たちが今まで生きてきた人生や、作ってきた世界というものが、無残に壊されて滅ぼされていく無残な様子を見るときに、いったい何のために、私たちは今まで生きてきて、そして今何のためにこんな目にあっているのだろうと、本当に思います。

 そのときに、それでもまだ、私たちは生きることを諦めてはならないのです。罪を終わらせる力が必ず働くからです。神様の御心において、私たちに罪を終わらせる力が必ず働くのです。そして、その罪を終わらせる力は、命を受け継がせていく力と同じ力なのであります。

 

 お祈りします。

 天の神様、私たちがこの世界にあって、いろんな現実を突きつけられて、自分の足下が揺らいでいる、自分が何を信じていいかわからなくなり、怖くなり、浮き足だってしまう、そんなときに、今こうして礼拝のときが与えられていることを、心から感謝をいたします。どのような世界であっても、神様の御言葉を聞き続け、その前で心を静め、謙虚になり、神様の御心を示していただいて、一人ひとりが新しく歩み出すことができますように導いてください。この世界にあって、まことの箱舟を神様の御心にかなって造っていくことができますように。そして世界のすべての人が守られ、救われますように、そのことを心よりお願いします。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。
 アーメン。

 

 

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f:id:kyohhokukyohhokukyohhoku:20220416120547j:plain「偉くないキリスト」2022年4月10日(日)説教

 聖 書  マルコによる福音書 9章30〜37節 (新共同訳)

 

 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。

 

 しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。

 

 それは弟子たちに、

 「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。

  殺されて三日の後に復活する」

 と言っておられたからである。

 

 弟子たちにはこの言葉が分からなかったが、

 怖くて尋ねられなかった。

 

 一行はカファルナウムに来た。

 

 家に着いてから、イエスは弟子たちに、

 「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。

 

 彼らは黙っていた。

 途中でだれがいちばん偉いかと議論しあっていたからである。

 

 イエスが座り、

 十二人を呼び寄せて言われた。

 「いちばん先になりたい者は、すべての人に仕える者になりなさい。」

 

 そして、

 一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、

 抱き上げて言われた。

 

 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、

  わたしを受け入れるのである。

 

  わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、

  わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 

  

  (上記は、新共同訳聖書をもとに、改行など、
         文字配置を説教者の責任で変えています)

 

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 (以下、礼拝説教)

 

 今日は教会の暦で「棕梠(しゅろ)の聖日」の日を迎えました。今週は「受難週」という一週間です。今週の木曜日は「洗足木曜日」です。イエス様が捕らえられて十字架に付けられる前の日に、イエス様が弟子たちの足を洗って下さった、そのことを記念する日であります。そして今週の金曜日は「受難日」であり、イエス様が十字架に架けられて命を落とされた日であります。

 歴史的にはこれらの日が、実際にいつであったかを確定することはできませんが、教会は教会の暦として、1年に1度、受難節という時期を決め、そして受難週、洗足木曜日、受難日という日を決めることによって、イエス・キリストの十字架の苦しみ、その死の出来事が単に過去の出来事ではなくて、今を生きている私たちにとっても、現実のこととして、そこで私たちの心において体験することができるように、教会の暦でそう定めているのであります。

 

 この一週間を皆様はどのように過ごされるのでありましょうか。どう過ごされるとしても、イエス様の十字架ということを心に刻んで歩んでいただければと願います。

 

 今日の聖書箇所は、イエス様が御自分の十字架の死、そして復活を弟子たちに対してお語りにななられた場面であります。

 順々に読んでいきます。

 「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、『人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する』と言っておられたからである。弟子たちにはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。」

 

 イエス様は、神の国の福音を人々に宣べ伝える旅をしておられました。そしていろんな所を巡り歩いておられ、ここでは、お育ちになられた故郷であるガリラヤの広い地域の中を通って行かれた、そういう場面であることがわかります。イエス様を知る人がたくさんいた地域であります。

 そこにおいて、「イエスは人から気づかれることを好まれなかった」とあります。少し不思議な気もいたしますが、このときイエス様は、弟子たちに対してご自身の十字架の死が近いこと、そしてその十字架の死の向こうには復活がある、ということを弟子たちに語っておられました。

 そのようなときが、もう近づいている、そのことからイエス様は、人から気づかれることを好まなかったのではないか、つまり、特別な気持ちを持って過ごしておられた、そのように思うことができます。

 しかし、イエス様がそのように言っておられたことの意味、それを弟子たちはわからなかった、そして怖くて尋ねられなかった、ということが書いてあります。

 

 弟子たちは、イエス様に従っていく時に、イエス様という方がどういう人であるか、どういう存在であるか、ということについては、自分たちの心の中にいろいろな思い込みというものを持っていました。

 その時代において、時代背景というのは、大きなローマ帝国によって支配されたイスラエルの国、ユダヤの人たちは、この支配された国にあって、いつかまたこの国を強い国にしてくれるリーダー、政治的、社会的、また軍事的なリーダー、そうしたリーダーが神様から与えられる、そうした人を救い主として待望していました。

 その時代の雰囲気の中にあって、イエス様の弟子たちは、イエス様こそがそういう意味で、この国をもう一度強くしてくれる、本当の王になってくださる、そのように思っていたのであります。そのように思っていましたから、イエス様が捕らえられて殺される、ということは考えられないこと、あってはならないことでありました。

 

 しかしイエス様は、そのことをはっきりと弟子たちにお告げになっています。以前にも、そのことを言われました。そのときには、十二人の弟子の筆頭であったペトロはイエス様から厳しく叱られました。「サタンよ、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

エス様はそのようにペトロを叱られました。

 

 イエス様の十字架の死ということを、イエス様ご自身が語られたときに、そんなことがあってはならない、といさめたペトロをそのように叱られました。そして今日の場面においては、また同じことを弟子たちにおっしゃっていたのでありますが、そのことの意味というのを、もはや弟子たちはイエス様に怖くて尋ねられなかったとあります。

 

 それは弟子たちが気が弱かったから、とか、あるいは物事をちゃんと理解していなかったから、というものではないのです。いや、誰だって、こういう言葉をイエス様から言われたら、一体私はなんて言ったらよいのだろう、どう考えたらよいのだろう、ということに戸惑って考えてしまいます。

 それは、今日、いまこの場でこの聖書を読んでいる私たちも同じです。主イエス・キリストの十字架の死、そして復活ということを聖書から告げられるときに、私たちは「えっ?」と思い、そして自分が何と言ったらいいか、わからなくなるのです。そして、そのことに疑問を呈したり、何か批判的なことを言えば怒られるのだろうか? と思うと、もう尋ねることはできません。そんなふうな、何ともいえない沈黙というものが、この場面にはあります。

 

 そのあと、こうあります。

 「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論しあっていたからである。」
 弟子たちはイエス様の十字架について議論するのではなく、誰が一番偉いかと途中の道で議論していたとあります。なぜそんな話をしていたのか、という理由・背景については個々に書いてありません。

 しかし、当時の時代背景ということを考えるときに、ローマ帝国に支配されている自分たちの国をもういちど強い国にする、独立して昔の栄華を取り戻す、そうしたことを夢見ていた当時の空気の中で、イエス様の弟子たちもまた夢を見て、そして自分たちはイエス様の一番近い所にいる、その中でどんな上下関係があり、だれが一番リーダーで、この中で優秀であったか、そんなことを弟子たちの中で議論していたのでありましょう。

 

 そのような弟子たちに対して、イエス様は次のように言われました。。

 「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人に仕える者になりなさい。』そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。『わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。』」

 

 このイエス様の言葉で今日の箇所は終わっています。マルコによる福音書の中において、イエス様の受難の時期、直接その十字架の苦しみへとつながっていく、その場面の少し前の時期のこととして、今日の箇所はあります。イエス様の十字架の受難が予告されていたけれども、まだ本当に人々がイエス様を捕らえに来るという所までは来ていなかった、その時期のことであります。

 

 この箇所においては、子どもという存在が登場しています。イエス様は言われました。「わたしの名のためにこの子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」そして「わたしを受け入れる者はわたしではなく、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」このように仰いました。

 

 このような子ども、と言われているときに、当時の社会にあって子どもというのは大変低く見られていたということを知る必要があります。子供というのは知恵が無い、愚かなものである。人間というものは大人であって、子供というのはまだ一人前の人間ではない。聖書の言葉を覚えることができない、献金もできない、働くこともできない、自分のことを自分でできない子供というものは、大変低い存在でありました。

 その時代にあって、そのような子供という一人を呼び寄せて真ん中に立たせ、抱き上げて言われた、そこには、人々が低く見ている、その子供こそが大事なのだ、彼らの真ん中に立たせて抱き上げて言われた。そこには、このイエス様と弟子たちの集団、その真ん中に子供がいて、そしてイエス様に最も近い所に子供たちがいて、そしてイエス様が抱き上げて、持ち上げている、この子が大事なんだ、と言っているときに、それは弟子たちとイエス様の、この共同体の中にあって、最も低いと世間で思われているものが、最も大事なのだ、と言われているのであります。

 

 そして、なぜそのように言われているのか、それは、わたしの名のために、イエス様の名のために、このような子供の一人を受け入れる者は、イエス様を受け入れることと子供を受け入れることは同じである。つまり、イエス様を受け入れるということは、イエス様を最も弱い者として受け入れることである。そしてイエス様をそのように受け入れる者は、イエス様ではなく、イエス様をお遣わしになった神様を受け入れるのである、ということが最後に言われています。

 

 だれが一番偉いのか、という議論をしていた弟子たちに対して、イエス様は言われました。「一番上になりたい者は、すべての人に仕える者になりなさい。」

 

 この社会の中で 誰が一番偉いかを考えて、その中で自分がどんなポジションにいるのかを考えて、誰が一番優秀かと考える弟子たちの中にあって、もしあなたたちが、人よりも優れたものがあり、人の先頭に立ちたいのであれぱ、すべての人に仕えるものになりなさい、そうイエス様は言われました。

 

 それは、この社会の中にあって、この社会の中で良く生きていきたい、一生懸命に仕事をしたい、そのように思うこと自体は悪いことではないのです。リーダーになりたい、ということもあってよいでしょう。

 もしそのように思うのであれば、その人はすべての人に仕える人になりなさい、と言われています。人間の思いによって、先頭に行こう、リーダーになろう、という思いは神様から修正されます。人の上に立つのではなく、人の下に立って仕える者になりなさい。たとえば、この一人の子供、その子供に仕える者になりなさい。この一人の子供を抱き上げて、一番上に高く上げて、この子供に仕える。そうしたことをイエス様は態度で示されました。

 

 これは、単に子供が好きだからとか、子供が可愛いからとか、そういう意味でするのではなくて、イエス様がそうなされたから、という意味で、それをする。そういうときに、この人間の社会にあって、それまでとは違った価値観、というものが教えられているのであります。社会の中にあって最も低い存在だと思われているもの、その低い存在に仕えるということ、神の名のもとでそうする、というところに本当の信仰があるのだ、ということが言われているのであります。

 

 そうして子供を受け入れる者は、子供を受け入れるという意味だけではなく、イエス様を受け入れ、そうして、イエス様を遣わしてくださった神様を受け入れるのだ、そのようなことが言われています。

 

 ここには、神様とかイエス様とかという存在が、単に天の上にあって、人間の上にあって人間を支配するものというのではなくて、むしろ、神様、イエス様がこの世界に降りて来て、私たちの足下よりも下に立ってくださり、この私たちを支えてくださるのだと、だからあなたたち一人ひとりの人間は、弱い者に仕えなさい、小さな者を受け入れて抱き上げて、弟子たちの真ん中に立たせたように、その最も弱い者をこの社会の真ん中に立たせて、そして、その弱い存在に仕えていくことにおいて、まことの信仰が表されるのだ、ということをイエス様はここで教えてくださいました。

 

 今日のこの話を、皆様はどのように読まれるでありましょうか。今日は教会の暦において、「棕梠の聖日」であります。棕梠というのは植物のことですが、大きな葉っぱである棕梠、これはイエス様が都エルサレムに初めて来られたときに、その都の人たちが大きな棕梠の葉っぱを振って、イエス様が都に入ってこられるのを歓迎した、そういう場面から来ています。

 

 その場面は、人々がイエス様を心から歓迎して迎え入れたことであると同時に、その日から始まってイエス様が捕らえられて殺される、そのことの一週間の始まりであった、という二重の意味が込められています。

 

 その最も悲しいことから始まっています。人間は神様に期待し、歓迎するけれども、その神の子イエス様が自分の期待したような存在でなかった場合は、一転してあざけ笑います。イエス様が捕らえられて十字架に付けられたときに、群衆はあざ笑います。

 「お前が本当に救い主だったら、十字架から降りてこい、そうしたら今すぐ信じてやろう。」そうした、本当に冷たい言葉には、人間という存在がどんな存在であるかということが、よく示されています。人間は神に期待します。しかし裏切られたと感じたときには、今度はあざけ笑い、神の子を十字架に付けるのです。

 

 福音書の、このイエス様の十字架の死は、本当に悲しい、むごい、つらいことであることが示されているのであります。これは受け入れられないことでありました。イエス様の弟子たちにとって、イエス様を信じてきた人たちにとって、受け入れられないことでありました。

 

 そして今日、聖書を読んでいる私たちにとっても、受け入れられないことであります。こんなつらいことを、どうして受け入れられるでありましょうか。

 

 今日の箇所を読みながら、私はいろいろなことを考えました。今日の箇所には、イエス様が十字架の死ということを告げられ、そして同時に、このとき弟子たちが話し合っていたことは、自分たちの中で誰が一番偉いか、ということであったという、そのことが描かれています。

 

 教会はイエス・キリストの福音を告げ知らせます。しかし、人間の心の中にあるものはなんでありましょうか。誰が一番偉いのか。そんなふうなことをお互いの上下関係、人間同士の嫉妬ということであります。嫉妬ということはいろいろなことを含んでいます。経済的なこと、政治的なこと。あんなふうになれてうらやましい、いや、俺の方がもっとすごいんだ、といって、社会の中でお互いににらみ合っていく。教会の中においても実はそういう面があるのではないか。そうかもしれません。

 そんな人間の社会に対して、イエス様はおっしゃるのです。「一番先になりたい者は人に仕える者になりなさい。」この言葉は、イエス様の十字架の死と切り離して、単なる人生訓とか、宗教のちょっといい話としてあるのではありません。そうではなくて、イエス様ご自身が十字架に架かられて死なれた、ということが、まさにすべての人に仕えて死なれることであったということが、ここで示されているのであります。

 

 すべての人の罪を背負って死んだ、そして復活なされた、それはすべての人の罪を背負って、それを自らの死と共に滅ぼし、そのことによってすべての人間の罪をゆるしてくださったということであります。罪、それはいわゆる犯罪とか、道徳的なこと、嘘をついたとか、そうしたことを言っているのではなく、神様と一人ひとりの人間の関係がまっすぐではない、ということが、聖書が教えている罪ということであります。

 

 イエス様の十字架の死ということは、その一人ひとりの人間の罪をゆるしてくださることであった、そのように福音書は教えています。そこにキリスト教の信仰の中心があります。そして、そのように罪ゆるされた人間は、では、そこからどのように生きたらよいのか、ということを考えるときに、今日の箇所のイエス様の言葉が響いてきます。

 

 「一番先になりたい者は、すべての人に仕える者になりなさい。」「わたしの名のために、このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

 

 仕えるということ、そして受け入れるということが言われています。子供という存在が出てきています。子供だけではありません。この社会の中にあって低くされている者、男性であれ女性であれ、またそうした性別によらず、経済的なこと、また身体の障がい、心の障がい、様々な民族・地域性、様々な文化、宗教。いろいろな所で人間それぞれの、属性と言われますけれど、それぞれの人間の与えられた環境や条件、状況というものがあり、それにより人は人を差別し、抑圧し、そうする社会というものが、この世界の中に存在しています。

 

 その社会の中にあって、ここでイエス様がこのような子供の一人、と言われているのは、それは単に一人の子供ということではなくて、あなたたちの社会の中にあって、あなたたちが見逃しているたくさんの存在、その存在を、あなたたちの真ん中に立たせ、そして抱き上げて、そしてそのことを受け入れる者であれ、ということを言われているのであります。

 

 子供に仕える者、それは子供のご機嫌をとって、たくさんのご馳走やお菓子を上げてご機嫌をとる、そういうことではありません。むしろ厳しい教育が必要でありましょう。けれども、そうした何か子供を持ち上げるということではなく、その子供を子供らしい存在として、その共同体の中でしっかり受け止めて共に生きていく、そのことが大事だと言われているのであります。

 

 どの人も、それぞれに違ったものを持っている、その人なりのものを持っている、そのことを大事にしてお互いに生きていく社会。そのことがイエス様から私たちに、こうして求められているのであります。

 

 この箇所を読みながら私は、いろいろなことを考えました。子供という言葉を見たときに、私の頭に浮かんだことは、ウクライナの戦争で死んでいった子供たちの、そのことを伝えるニュースでありました。泣いている子供たちの顔も見ました。何が起こっているのかわからない、なぜこんなことが、そんな言葉すら出てこなくて泣きじゃくっている子供たち、また、その子供たちの家族。

 

 そうした姿を私たちは、報道を通じて知っています。この社会の中で、いったいどんなことを考えたらよいのか、と思います。その中で今日の箇所を読むときに、私はふっと思いました。イエス様が十字架に架かられたということは、それはもしかしたら、それはイエス様が子供たちのように、この現実を受け入れられたのであろうか、そういう思いであります。

 

 そのときに、受け入れるというのは、喜んで受け入れるとか、よしとするという意味ではありません。そうではなくて、受け入れざるを得ないから、受け入れる、ということであり、そして、それは最終的に、神様に御自分をゆだねる、ということでありました。

 子供たちは自分たちで自分たちを守ることができません。ただ生き、そして殺されていく、そんな悲しい現実があります。その中にあって、それでも生きていこう、というときに、イエス様は私たちに対して、復活ということを示して下さっています。それは、人間は死んでも復活するからそれでいいんだ、大丈夫なんだ、そういう意味ではありません。そんな悲しいことは言ってはなりません。

 そうではなくて、復活を信じるという気持ちが、その人間を最後の最後まで、生きさせる力になる、そういうことであります。

 

 今日の現代日本社会に生きている私たちは、様々な知識というものを持っています。科学の知識もあれば、現代世界の国際社会に関する知識も持っています。宗教とか文化とかそういうものに対する知識も持っています。歴史ということの知識も持っています。いろんなことを勉強して、いろんなことを知識として持った中で、いろんなことを考えます。

 そして聖書の前に立ったときに、イエス・キリストの十字架の死、また復活ということの意味も、また一人ひとりそれぞれに考えます。いろんな考え方が心にあると思います。私自身は、そうしたときの一人ひとりの考え方の多様性ということを大切にしたいと思っています。

 そしてその中にあって、今日の箇所から示されること、それは、イエス・キリストの復活を信じる、あるいは十字架の死の意味を信じるということもまた、子供のようにならなかったら、なかなかそれはできないのかなあ、という思いであります。

 それは、子供が愚かだから、知恵が無いから、ということではなくて、子供なりの心でそれを信じる、受け止める、ということ。そのことによって、その子供が生きる力へと、イエス・キリストの復活ということが、その力へとなっていくということです。

 イエス様が一緒に付いていてくださっているから、私たちは死に瀕していても生きられるし、もし命を失うことがあるときには、イエス様が共に復活してくださる。そういう思いが与えられるのであれば、私たちもまた、復活を信じ、最後の最後まで生き抜くことができるのです。

 イエス様の十字架の死の意味、それはすべての人の罪のゆるしであった、どんなふうに生きた人もまた、イエス様の十字架によってゆるされて、イエス様がご自身の死によって、その罪を滅ぼしてくださり、復活された。それはもう人間の理屈を越えたことでありますけれども、そのことによって、わたしたちは最後の最後まで生き抜くことができるのです。

 そして、もし生き抜くことができなくなったときには、イエス様ご自身が、私たちと一緒に復活してくださる、そうした形で私たちの命は、最後の最後まで、神様の手の中でしっかりと守られているのだと、そのことを信じて、今週一週間をイエス・キリストを思い、そしてまことの平和を望んで過ごしていきたいと思うものであります。

 

 お祈りします。

 天の神様、これからの一週間をイエス・キリストの死を思い、その向こうにあるイエス・キリストの復活へと、私たちが皆共に歩むことができますように導いてください。この社会の中で生きることの苦しみ、痛み、悩みをすべて知ってくださっている神様に、すべてのことをお委ねします。そして、私たち一人ひとりにイエス様が、その人にふさわしい信仰を与えて下さいますように、そして誰もが共に生きることができますうように、導いてください。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

「失われた者のイースター」 
 2022年4月17日(日)イースター(復活日) 礼拝説教

 聖書   ルカによる福音書 23章44節〜24章7節 (新共同訳)

 
    既に昼の十二時ごろであった。

 全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。

 

 神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。

 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」

 こう言って息を引き取られた。

 

 百人隊長はこの出来事を見て、神を賛美した。

 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、
    胸を打ちながら帰って行った。

 イエスを知っていたすべての人たちと、
    ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、

 これらのことを見ていた。

 

 さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、
    同僚の決議や行動には同意しなかった。

 ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。

 この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、

 遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、

 岩に掘った墓の中に納めた。

 

 その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。

 イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、

 墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、
    家に帰って、香料と香油を準備した。

 婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。

 

 そして、週の初めの日の明け方早く、
  準備しておいた香料を持って墓に行った。

 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、
 主イエスの遺体が見当たらなかった。

 

 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。

 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。

 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。

  あの方は、ここにはおられない。

  復活なさったのだ。

 

  まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。

  人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、

  三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」



  (以上は、新共同訳聖書をもとに、改行など、
   文字配置を説教者の責任で変えています)

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  (以下、礼拝説教)

 

 本日はイースター礼拝の日を迎えました。イースター、それは復活日と言われます。主イエス・キリストが十字架で死なれたのち、三日目に復活なされた、そのことを記念する日であります。

 

 本日の聖書箇所は、そのイエス様の御復活の前、イエス様の十字架の死のところから、続けて復活のところまでを読みました。ルカによる福音書では、このように記されてあります。

 イエス様の十字架の死の出来事は、イエス様の御復活のときの二日前のことでありました。今の教会の暦で言いますと、金曜日が受難日であり、その日にイエス様が十字架に磔(はりつけ)にされ、そして命を落とされました。そして、間に土曜日をはさんで、日曜日にイエス様が復活なされた、そうしたことになります。

 

 今日で言う日曜日は、最初のころの教会の時代においては、「主の日」と呼ばれていました。主が復活された日であり、主イエス・キリストが世界の主である、神様から私たちに使わされた本当の救い主、救いの中心に立ってくださる方、主として、本当によみがえられた方であるということを記念する日。

 

 それが「主の日」ということでありました。それが現代の私たちがいう日曜日のもとになっています。そして、その二日前に「受難日」があったわけであります。

 

 先週の1週間、「受難週」を皆さんはどのように過ごされたでしようか。一昨日の金曜日は何をしておられましたか。皆様それぞれに御自分の生活の場があり、仕事や学びや活動や、また御自分の健康に関わることなど、家族のことなど、いろいろなことをしておられたと思います。金曜日、何をしてたっけ、とすぐには思い出せないかもしれません。つい2日前のことですけれども。

 

 しかし、聖書においては、今日の日曜日から2日前には、イエス様が十字架の上で死なれたのでした。それは無実の罪を着せられて、偽りの裁判を受けさせられて、あっという間にイエス様が人々の目の前から失われていった、ということであります。

 その前日まで、弟子たちは一緒にいました。一緒に食事をし、イエス様は弟子たちの足を洗ってくださった、そのことがヨハネによる福音書に書いてあります。また、マタイ、マルコ、ルカによる福音書の三つの福音書には、イエス様がパンとぶどう酒を分かち与えられた、今の教会の聖餐式のもとになっていることをされたことが書いてあります。それらが、イエス様が捕らえられていく前の出来事でした。

 

 弟子たちは、イエス様がとらえられ、十字架につけられて死なれる、という、そんなことは、想像もしていませんでした。そんなことがあってはならない、あるはずがない、と信じていました。しかし、現実はむごいもので、夜中にたくさんの人たちがイエス様を捕らえに来ました。

 

 その前に弟子たちがイエス様を見捨てて逃げ去ってしまったことが、福音書に書いてあります。自分たちにとって最も大きな幸せである、イエス様と共にいること、それが一瞬にして失われました。イエス様の存在が、自分たちの目の前から消えて十字架にはりつけにされました。イエス様の近くでお仕えしていた女性たちは、遠くから見守るしかありませんでした。

 

 イエス様の十字架に磔にされて、さらしものにされます。つい一週間前に都エルサレムに入城したとき、人々は大きな歓迎をしました。大きなシュロの葉を振って、「ホサナ、ホサナ」(神をたたえる言葉)と言って歓迎したのです。この人がきっと自分たちを救ってくださる、と信じて。

 その群衆たちは、そのころ、ローマ帝国の植民地とされたこの国をもう一度強い国にしてくれる、そうした夢をイエス様に託していたのであります。

 

 しかし当時の宗教的な権力者層は、そのようなイエス様の人気が高まることを恐れ、社会の秩序を乱す者として、暗黙の内に協力し、陰で相談して、そしてイエス様を捕らえたのであります。そして偽りの裁判によってイエス様の十字架刑が果たされました。

 当時、ローマ帝国に支配されていたイスラエルの国においては、ユダヤ人がイエス様をとらえ、そしてローマ帝国の官憲に引き渡し、そしてイエス様はローマ皇帝に対する反逆者とみなされて、最も重い刑である十字架の刑に処せられることになりました。

 

 十字架にはりつけにされて、さらしものにされ、体が衰弱し、やがて心臓が止まる、そういうむごい刑でありました。これは、ローマ帝国において最も重い罪を犯した人にだけ処せられる刑でありました。イエス様はそのように無実の罪を着せられ、死なれたのであります。

 そして、そのあと、イエス様のなきがらを、今日の聖書箇所に書いてあるように、引き取られ、そして岩の墓の中に納められたと記されています。そのあと、週の初めの日の明け方早く、今の私たちの日曜日、そして教会にとって「主の日」の朝早く、女性たちはなきがらに香油を塗るために訪れると、墓は空っぽであったとあります。

 

 そしてそこには、天使が二人いて、「なぜ、生きている方はを死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない、復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」このように天使は言いました。

 

 いま、この墓を訪れてきて、空っぽの墓に驚いている弟子たちに天使が告げたことは、今、弟子たちの目の前で起こっていることは、突然のことではなく、以前にすでにイエス様が言っておられたことではありませんか、と、弟子たちをさとす言葉でありました。イエス様の言葉を思い出すようにと、天使はここで言葉を告げたのであります。

 

 これが、今日の聖書の箇所であります。ルカによる福音書は、このようにしてイエス・キリストの十字架の死、そして復活ということを記しています。私たちは、こうした聖書の言葉に出会って、それぞれ何を思うでありましょうか。

 

 私は、今日の箇所を読んだときに、この言葉が一番心に残りました。それは、最後に天使たちが女性たちに言った言葉の中にあります。7節の言葉です。「人の子は必ず罪人の手に渡される」という、この言葉が私の心に残りました。

 

 「人の子」というのは、イエス様が御自分のことを指しているときに使う言葉であります。もう一つ、「人の子」というのは「人間」という意味で言われることもありますけれど、この箇所においては、これは、来たるべき救い主、という意味です。旧約聖書のダニエル書にある「人の子」という言葉は、来たるべき救い主という意味を示しており、ここではその意味で言われています。

 

 つまり、救い主であるイエス・キリストは、必ず、罪人の手に渡される、という、そういう意味であります。それは、イエス様が捕らえられて十字架にはりつけにされ、そこでイエス様が命を落とされた、そのことの意味を端的に表しています。

 イエス様は、神の子でありながら、罪人の手に渡され、殺された、命を落とした、ということであります。そして、神様は最初からそのことを知っておられた、ということを、ここで天使は言っているのです。

 聖書に登場する天使というのは、もちろん、私たちが知っている科学的な現実の中に登場する存在ではありません。天使というのは、物語の中で、現れて神様の言葉を告げたり、何かの方向を告げて、その役割が終わると、スッと消えていく存在です。それが聖書の中では天使として描かれています。

 

 ここで、人々に対して、そしてまた、いま聖書を読んでいる私たちに対して、この言葉を思い起こすように、と言う、その神様の御心を告げてくれているのが天使なのであります。

 

 人の子(イエス・キリスト)は「罪人の手に渡され」、と書いてあるとき、それは、神の子が罪人の手に渡された、人の罪の手に落ちた、ということを意味しています。あってはならないことが、ここで起きた。私たち一人ひとりを愛して下さっている、神様、その神の子が罪人の手に渡された。それは、神様という存在が、悪の手の中に落ち、悪がこの世界を支配するようになった、そのことが言われているのです。

 

 そのようになった、それは、その前から、以前のときから、イエス様ご自身が語っておられたことであった、そのことを思い起こすようにと、天使たちは言っているのであります。イエス・キリストの十字架の死と復活ということ、それは聖書が伝える信仰において、もっとも大切なこと、中心と言ってよいと思います。

 その中心的な事柄の中に含まれているのは、神の愛というものが、神の愛というものが、罪人の手の中に落ちていく、人間の手によって否定されていく、そういうことであります。神様の愛がすべてのことに打ち勝って、悪を滅ぼして正義の世界を造り出して下さる、ということではなくて、その反対に、神の愛というものは、罪人の手に落ちて殺されていくのだと。

 人間というものは、そういうものであると。人間の作り出す世界というものは、そういう罪に満ちているということが言われているのであります。

 

 今日の世界の中で考えるときに、それはロシアとウクライナの戦争があったり、あるいはミャンマーで起きている抑圧であったり、シリアで起きている内戦であったり、いろいろなことで世界に満ちあふれている悲しい出来事を思い起こすときに、世界は罪人の手に落ちているのではないか、ということを私は思います。

 

 そして、神様がいらっしゃるのに、なぜそんなことが起こるのか、今でも止められないのはどうしてか、ということを思うのです。そしてまた、じゃあ、それを止めるためにはどうしたらいいのか、もっとたくさんお金を出して武器を買って、軍事力を高めて、それで相手をやっつけること、そのことによってしか平和は来ないのだろうか、と思うときに、私たちの心は本当は暗闇の中に突き落とされていくのであります。

 

 罪人の罪の行いを止めるためには、自らも罪の行いに加担していかなければならないのだろうか。国際政治の現実を見るときに、私たちはそんな暗澹(あんたん)たる思いになります。もはや、ここには神はいないのであろうか、と。そのようにつぶやいてもおかしくありません。そんな私たちに対して、今日の聖書の箇所は告げています。

 

 「人の子は必ず、罪人の手に渡される」と書いてあります。「必ず」とあります。もしかしたら、とか、準備が悪かったから、とか、時間が足りなかったから、罪人の手に渡されたのでありません。「必ず」罪人の手に渡される、とあります。「人の子は、必ず、罪人の手に渡される。」

 

 そのことに対して私たちが「なぜ?」と問うても答えは帰ってきません。神様はそのようになされた……。この人間の世界というものは、罪人の手によってできている————神様の愛ということも、その手の中に落ちて殺されていく————それが現実である———そのことが示されています。

 

 そうでありますから、イエス・キリストの復活ということは、神の愛が完全に罪人の手に落ちて、神の愛が殺されてしまった、そのあとのことである、ということは聖書は私たちに教えているのであります。

 

 イエス・キリストの復活、それは、イエス様は死んだけど、神の子だから三日目に復活されて良かったね、ということではないのです。死んでもどうせ復活するから大丈夫なんだ、ということではないのですね。

 そうではなくて、私たちの希望も、愛も、平和への願いも、全部含めて、みんな罪人の手の中に落ちた、人間の世界というのはそういうものなんだ、その苦しみの中にあって、すべての希望が終わりを迎えた。その先に、復活ということが示されているのであります。

 

 イエス様が十字架にはりつけにされて、死なれるときに、言われた言葉は、今日の箇所の23章46節にあります。「イエスは、大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた」とあります。イエス様が最後に言われたのは、神様に委ねるということでありました。

 

 この場面は、マルコによる福音書では、「どうして、わたしをお見捨てになったのですか。」砥神様を問う言葉でありました。福音書によって、書かれていることはそれぞれに違っています。しかし、そのどれもが真実なのでありましょう。

 イエス様の十字架の苦しみ、そしてまた、最後にすべてを神様に委ねるイエス様、その死ということは衝撃的なことでありました。

 なぜ、神の子がこのように死ななければならないのか、十字架の周りに集まっていた群衆たちの中には、このときに天から天使がやってきて、このときに天使がイエス様を助けてくれるんじゃないか、と思う人もありました。イエス様が十字架から降りてきて、自分が本当に神の子であると示してくれるんじゃないか、そんな奇跡が起こることを興味本位で待っていた人もいたようであります。

 

 イエスが本当に神の子、救い主であれば、何か奇跡が起こるんじゃないか、そう思っていた人もいました。しかし、そんな奇跡は何にも起こりませんでした。イエス様は人として生き、人として死なれたのであります。何一つ、奇跡は起こりませんでした。

 

 しかし、今日の箇所の47節にはこうあります。「百人隊長は、この出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って神を賛美した」とあります。百人隊長はローマ帝国の軍人で、百人の部下を率いている隊長です。その隊長がそう言ったのです。

 

 奇跡が何一つ起こらなかった十字架上での無残な死を見て、「この人は、本当に正しい人だった」と言ったのです。それはなぜでしょうか。その理由はここには書いてありません。しかしここには、信仰とは何か、ということについて、教えていることがあります。

 

 神様への信仰、それは、何か奇跡が起こったから信じる、ということではないのです。受け入れられないことを受け入れた、というところに信仰が起こるのです。受け入れられない十字架の死、無残な死、しかし、それを受け入れられた。

 何一つ奇跡を起こすこともなく、起こることもなく、その死を自ら受け入れられたときに、「本当に、この人は正しい人だった」と言われたのです。それは、善悪とか正邪という意味での正しさということではなくて、神様に対して正しい、神様の御心にかなって正しい、ということであります。

 

 すなわち、神様にまっすぐ結びついている、という意味で正しかった、正しい人であった、という意味です。神様から与えられた十字架の死をイエス・キリストは受け入れられた。「私の霊を御手に委ねます」と言ってイエス様は死なれた。そこに、神様に対する本当の正しさというものがあり、その様子を見たときに、「本当に、この人は正しい人だった」とローマ帝国の軍人が言ったのです。

 信仰というものは、ドラマチックな奇跡が起きたから、そこで神を信じるということではなく、受け入れられないことを、受け入れた、その姿を見て、まことの神の存在を信じ、信仰する、そういうものなのであります。

 そして、イエス様の死の後、三日目に墓に行った女性たちは、イエス様のなきがらに香油、良い香りのする油を塗りに行くと、空っぽの墓に出会います。そこで途方にくれていたときに、天使が言葉を告げます。いまあなたの目の前に起こっていること、決して受け入れられないこと、それはすでにイエス様がお語りになっていたことではないか、そのことを思い出しなさい、というのです。

 

 イエス・キリストは罪人の手に落ちたのだと。そして、すべてが失われたのだと。そして、そのあとに、神様がイエス様を復活させてくださったから、いま、この墓は空っぽなのだと。天使はそのように告げました。ここにいた女性たちにとって、受け入れがたい現実だった、その、イエスの復活、そのことが言葉によって示されました。

 

 今日の私たちが聖書を読むときに、思うことは人それぞれだと思います。イエス様のご復活ということを、受け入れられない、信じられない、あるいは、何も思わない、何の言葉も出てこない、いろんな感想、思いが生まれてくるでありましょう。それで良いのだと思います。

 一人ひとり、神様の言葉に向き合って、正直な自分というものが現れてきます。その正直な自分が神様の前で、私は一体どうしたらいいのでしょうか、このイエス様の御復活という出来事に出会って、どうしたらいいかわからない、そう思うときに、天使が言ってくれます。すでにイエス様がお話してくださっていた通りではないかと。

 

 繰り返し、繰り返し、福音書を読み返したら、いいんですよ。そこでわかってくることがありますから。そして、信仰というものは、何か大きな奇跡に出会ったから、「ああ、そうだったのか」、「神様は本当にいたんだ」と、その奇跡を通して信じるのではなく、受け入れられないことを受け入れる、そのことにおいて信仰というものが生まれます。

 

 イエス・キリストの復活ということは、私たちにとって、科学的な意味では受け入れることができないことだと、私は思っています。私の理性的な考え方、科学的な意識、この世の常識においては、復活ということはあり得ない、そう考えることが、普通であると私は思っています。

 

 その一方で、そんなふうに科学的な社会、知識を持ってみんなで生きている、この社会において、なぜたくさんの人の命が奪われる戦争が起こるのか、なぜこんなに悲しいこどか満ち満ちているのか、私は説明することができません。みんな正しい知識を持っている、持つことが出来るはずなんだけど、それができない世界というものが、本当のこの世の中です。

 

 そして、罪人が罪人を生み、神の愛もまた、罪人の手の中に落ちていく現実が続いています。受け入れられない現実が目の前に広がっているです。その中で一体どうしたらいいのか、と思うときに、私は思います。

 

 私は、いつも理性的に物事を考えたいと思っています。科学的にきちっとこの世界を認識したいと思っています。けれども、聖書がそれと違ったことを私たちに教えているときに、そこで言われているのは、科学的な世界観の否定ではなくて、科学的な世界観では知ることができなかったこと、あるいは、その世界観に欠けていることを、神様がしっかりとお示しになっているのではないか、と思うのです。

 

 受け入れられないのであれば、それでいいのです。受け入れられないものを、受け入れる、それが信仰です。受け入れられないままで、そのことを受け入れる。イエス・キリストの復活というものは、そのようにして私たちのところに、一人ひとりのところに訪れます。

 

 罪人の手の中に落ちた世界に生きている、私たちは、神様から与えられるイエス・キリストの復活ということを、心から喜び、感謝して、それを受け入れるのであります。

 

 お祈りします。

 天の神様、イエス・キリストが失われたのちに、復活が与えられたことを、今日もまた聖書の言葉を通して、驚きをもって受け止めました。この御言葉が一人ひとりの心に種となってまかれ、そして芽を出し成長しますように。一人ひとりの心の中に平和の種がまかれ、そしてそれがふくらみ、育つように、この世界全体が神の国として育てられていきますように、心より願います。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。
 アーメン。

 

「平和を決める」2022年4月24日(日)礼拝説教

 聖 書 ローマの信徒への手紙 14章 13〜23節(新共同訳)

                     

  従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。

 むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、
 兄弟の前に置かないように決心しなさい。

 

 それ自体で汚れたものは何もないと、
 わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。

 汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。

 

 あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるなら、
 あなたはもはや愛に従って歩んでいません。

 食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。

 キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。

 

 ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。

 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。

 

 このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。

 だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。

 

 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。

 すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。

 肉も食べなければぶどう酒も飲まず、
 そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。

 

 あなたは自分が抱いている確信を、
 神の御前で心の内に持っていなさい。

 自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。

 疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、
 罪に定められます。

 確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。

 

 

  (以上は、新共同訳聖書をもとに、改行など、

  文字配置を説教者の責任で変えています)

 

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 (以下、礼拝説教)

 

 ここしばらく京北教会では、礼拝において、マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、旧約聖書、その3箇所から順番に選んで毎週、皆様と共に読んでいます。今日の聖書の箇所はローマの信徒への手紙の14章です。

 

 これは、使徒パウロがローマにある教会の人たちに向けて書き送った、非常に長い手紙です。これは手紙という名前がついていますが、実際には一つの神学論文あるいは説教のような、大変に深い内容が記されています。本日の箇所は、その終わりが近いところです。

 

 ローマの信徒への手紙の前半から後半にかけて多くの部分は、主イエス・キリストへの信仰について様々にパウロが書いています。そして、手紙の終わりに近くなってきたところでは、教会の具体的な生活の仕方といいますか、信仰者が取るべき生活態度、生き方ということに関してパウロが触れているところであります。

 

 今日の箇所はそうした、教会に集う人たちの具体的な生活に関わることについて、パウロが書いているところであります。

 

 最初の13節を見ますと、「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう」という言葉、ここから始まっています。

 

 今日の箇所には食べ物のことが出てきています。ここでなぜ食べ物のことがいわれているかと言いますと、当時の教会の時代背景を説明する必要があります。当時、ローマの町や地中海沿岸の地域において各地の貿易が盛んであり、港町は特にそうですが、様々な国の宗教や文化というものが流れ込んで、その町の中にいろんな宗教的な考え方が、たくさんありました。

 

 その中には、偶像を崇拝する宗教、というか、多くの宗教はそうだと思いますが、何か神の像を刻んでそれを拝む、そうしたことがたくさんありました。そして、キリスト教からすれば異教である儀式のために献げられた動物の肉、それが神殿で献げられたあとに一般の市場に払い下げられて流通していた、そうした社会の状況がありました。

 

 ユダヤ教の人たち、またキリスト教の人たちは、そうした異教の儀式に献げられた肉というものを、自分たちが食べていいのか、ということに関して厳格に考えていた人もいたのであります。

 

 それは、異なる宗教のために献げられているため、その肉は汚れているから食べてはいけない、と考える人もいました。その一方で、クリスチャンの人たちの中には、食べ物自体が汚れているわけではないのだ、だから同じ肉であれば普通に食べたらいいのだ、そういう考え方をする人もいたのであります。

 

 すると、一つの教会の中で、私はこの肉は絶対に食べないという人と、いや、私は食べますよ、これを食べないというのは言わば迷信みたいなものですよ、という人もいたでしょう。すると、教会の中で生活の態度、生き方というものが違ってくる、そこで対立が起こっていた、そういう時代背景があったのです。

 

 今日の箇所は、その肉のこと、そしてもう一つ、ぶどう酒のことが出てきます。ぶどう酒は当時は今の教会での聖餐式にあたるような、パンとぶどう酒の分かち合いということが、教会で普通になされていました。

 

 しかし、それを、どうでしょうか。食べ過ぎたり飲み過ぎたりする、どちらかといえば、社会的地域が高い人たちが先にたくさん食べて飲み、貧しい人たちがお腹をすかせている、そんな状況が教会にあったようです。パウロは他の手紙でそのように書いています。

 

 食べることは人間にとって基本的なことであり、また楽しいことであり。人と交流をする深い意味があります。けれども教会で、その食事ということによって亀裂が入ってしまう、ということがあったのです。

 

 あの人と一緒に食べられない、食事したくない、あの人がやっていることはおかしい、そういうふうに片方が厳しい態度を取れば、そのような厳しい態度をとられた相手もまた、あの人はおかしい、あの人はまだ迷信に囚われているんだ、といって態度が厳しくなってきます。すると、お互いに裁き合う、ということになってしまうのですね。

 

 ローマにある教会では、そのようなことが起こっていたのでありましょう。パウロは、そのことを教会の人たちから聞いて、そうでない道をということを思って、この手紙に書いているわけであります。

 

 今日の箇所において、パウロはそういう非常に具体的な、教会の中での人と人との対立ということに関して、その背景というものを考えながら、対処の仕方を教えています。パウロが教えていることというのは、「むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」ということです。

 

 そして、そのあとにこう言っています。「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。」

 

 ここでパウロが言っているのは原則的なことです。イエス・キリストを信じる信仰というものは、誤解を恐れずに言えば、宗教による生活の制約、食べ物などの制約から解き放たれた生活です。それ自体で汚れているものは何一つないのです。もし汚れているとしたら、それは人間の心の中にある罪なのです。

 

 そのことが一番の問題なのであって、食べ物がどういう背景を持っているか、他の宗教との関係でどうだということは一切、本質とは関係がない、パウロはそのように考えていました。

 

 しかし、続けてこう言います。「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるなら、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。」とあります。

 

 つまり、どの肉を食べても、異教の儀式に献げられた肉であっても、それを食べて何の問題もない。けれども、その肉をあなたが食べる姿を見ることによって他の人がつまずくときには、それはよくない、ということです。「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるなら、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。」というふうにパウロは言っています。

 

 実際に、この肉を食べている人は、愛がどうだとかそんなことを考えているのではなくて、そんな迷信に囚われていてはいけない、別の宗教に献げられた肉だから汚れている、というような考えは迷信だと、いわば合理的な考え方をしているのですね。今の私たちの考えでいえば、科学的に正しい考え方をしているといっていいでしょう。

 

 けれども、科学的に正しい態度をとる、ということが、まかり間違えばそれは、愛のないことになってしまう。人の心を傷つけることになってしまう、そういうことをパウロは知っているのであります。

 

 そして17節ではこう言います。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」

 

 教会においては、ご飯を食べること、みんなで一緒に食事すること、それは今も昔も、楽しいことであり素晴らしいことです。神様から与えられた恵みをみんなで楽しくわかちあっていく、そのことによって体が元気になるだけではなくて、心も豊かにされる。それは素晴らしいことです。

 けれども、だからといって「食事というのは素晴らしいのだ」ということだけを強調するのならば、その食事の姿を見ることで傷ついている人たち、心からつまづいている人たちはどうなるのか、そのことを考えたときに、「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」ということで、パウロは教会の人たちに釘を刺しているのです。

 

 そして18節。「このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。」

 

 このようにして、結果として人にとってつまづきとなり、人によっては悪への誘惑へとなって思われるものになっていたということがわかります。21節にはこうあります。「肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。」

 

 ここで出てくるぶどう酒というものが、当時にどういう役割を果たしていたのかというと、教会においては主イエス・キリストを思い起こして、一つの大きな杯からみんなで飲むという大切な聖餐式の役割を持っていました。

 

 また、聖餐ということだけではなくて、愛餐と呼ばれていましたが、みんなで楽しく食事をすることがありました(愛餐の「餐」という字は晩餐会の「餐」という難しい字です)。ぶどう酒というのはそうした役割を持っていました。

 

 けれども、それを飲み過ぎる人がいたのでしょうか。また、社会的地位の高い人たちが先にたくさん飲んでしまっている、そんな経済的な格差を表す場になっていたのかもしれません。どちらにしても、そうした食事の場において、人と人とが分けられてしまう、そういう思ってしたのではないでしょうけれども、結果としてそうなっていたことに関して、パウロは注意をしています。

 

 そして21節ではこういいます。「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。」このように言っています。

 

 食事というのは日常の小さなことにも思えますが、それが人の心を傷つけるときには重大な問題になります。では、どうしたらいいのか、というときにパウロは、自分の確信をしっかり持って、それで行動しなさい、ということを言っています。

 

 ということは、パウロは、こういうときにはこうしなさい、という生活の細かい規定を定めているのではなくて、判断するのはあなたですよ、そのあなたがちゃんと自分のする判断に対して、自信を持てるようにしなさい、と言っているわけであります。

 

 すなわち、異教の神殿での儀式に献げられた肉を食べない、ということも一つの選択であります。それを食べるということも一つの選択であります。けれども、それを食べることをいやがる人の前でわざわざ食べることはしない、ということがパウロの言っていることです。

 

 それはもちろん、ものの見方の問題として考えますと、あるときには食べるが、あるときには食べない、というのは矛盾しているのではないか、しかも、ある人たちの前でだけそうするというのは、日和見というか、人の顔色ばかりうがっていておかしいではないか、というものの見方をすることができます。

 

 しかしパウロはここで言っているのは、そうした何かの物事の一貫性ということが大事ではなくて、人の心を傷つけるか、傷つけないか、ということが大事なのだ、ということであります。

 

 そして、そのことに関して、あなたたちが一人ひとり、自分で考えて、わたしはこれで行こうという、その態度で行ったらいいのだ、と言っているのであります。異教の神殿に献げられた肉を食べるのであれば食べたらいい、しかし、それがもし、人からつまづきだと言われるときに、何と答えるかは、それはあなたがしっかり準備しておきなさい、ということであります。

 

 そして、そうした説明をすることができないようなのであれば、そんな誤解を受けることは、わざわざすることはない、そんなことがここで言われている具体的な生活態度であろうと考えることができます。

 

 今日の箇所はこういう箇所であります。皆様はどういうことを思われたでありましょうか。私はこの箇所を一読したときに思ったのは、ローマの信徒への手紙には、前にもこういうことが書いてあったなあ、ということです。パウロが書いた手紙には、時々こうしたことが出てきます。

 当時の教会の人たちの中においては、地中海沿岸世界の社会の中で生きていくときに、様々な国の宗教・文化というものが、町の中にたくさんあって、その中でこのキリスト教イエス・キリストを信じる信仰というものを、どんなふうに守っていったらいいか、ということで、人々がいろいろ考えていた、悩んでいました。

 ときにはそれで対立し、分裂することもあった。それに対して、一番大切な事は何であるか、それは神の愛であり、そしてまた教会においてはお互いの愛、人間のお互いの愛であると、イエス・キリストを中心にして、そのことを回復していく、ということがパウロの願いであったわけであります。今日の箇所は、そのことがよく伝わってきます。

 

 けれども一方で、現代の日本社会に生きている私たちにとっては、今日の箇所に書いてあることは、ちょっと縁遠くも思えることであります。異教の神殿に献げられた肉というものが、市場に売られているわけではありませんし、それを食べるか食べないかで悩んだりするわけではありませんし、それを食べている人を見て、それでつまづいているということは、この日本社会の中ではあまり考えられないと思います。

 

 最近では、イスラームの人たちがそうした、食べていいもの・いけないものという区別があったり、ユダヤ教の人たちもそうであったり、特別なお祈りをしたものでないと食べてはいけない、というような生活習慣が報道されることもあります。

 

 ですから、日本社会の中でも、そうしたことは全く無縁ということではないとも思いますし、細かいことをいえば、食べ物に関する宗教的な制約というのは、日本でもいろいろあるのかもしれません。私は詳しくありませんけれど、地域の習慣とかもあるでしょう。

 とはいえ、そうしたことでそんなに悩むことが度々あるのだろうか、と思うときには、私自身の生活の中では、ほとんどないという感じがするのです。ですから、そういう意味で今日の聖書箇所というのは、今から約2000年前のローマの人たちにとっては大事なことだったのだろうけれども、今の私たちにとってはそんなにピンとこないことではないか、ということも思うのであります。

 

 しかし、私は今日の聖書箇所を、今日の礼拝の箇所として神様から与えられて、読んでいたときに心に残ったのは、食べ物がどうこうということではなくて、ここで「平和」という言葉が使われていることが、心に刺さりました。

 というのは、いまウクライナでは大変な戦争が続いています。本当に救いのない、癒やしのない、本当に言葉を失う現実が広がっている世界の中にあって、今日の聖書の箇所には、平和という言葉があります。

 

 この現実世界の中にあって平和というものが、願っても願っても与えられないもの、まるで蜃気楼のように、それはどこかにあるのかもしれないけれども、人間の手にはつかめずに消えていくもの、そんなものなのであろうか、そんなはかない思いになる日々において、今日の箇所には「平和」という言葉が書いてあります。

 

 では、今日の箇所は「平和」ということについて、何を教えているのでしょうか。今日の箇所にはキリスト者がどんな生活態度を取ったらよいのか、ということがパウロによって教えられています。ここに書いてあることの結論というのは、22節の言葉であります。「あなたは、自分が抱いている確信を神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。」

 

 私はこのことを信じている、という確信を神の御前で、心の内に持つ、ということが大事です。そして、そこから実際の生活態度をどうするか、ということころでは、「疑いながら食べる人は、確信に基づいていないので罪に定められます」と23節に書いてあります。

 

 つまり、「食べていいのかな、いけないのかな、何となくいやだな、でもしょうがないな」と思って食べるという、このはっきりしないような態度というものは、それは罪に定められます、とパウロは言っています。

 ずいぶん厳しいことを言うなあ、と思いますが、あえてパウロはここで厳しい言葉を使っているのは、「何かわからないなあ。罪なのかどうなのかわからないなあ。でもまあいいか」と思って食べるときには、何となく、自分の考えていることをあいまいにしてしまったまま行動している、そんな状態が言われているのですね。

 

 「確信に基づいていないことは、すべて罪なのです」という最後の言葉は、ちょっと厳しすぎる気がします。というのは、人間というのは、いつもいつも何かの確信に基づいて行動しているわけではなく、「どうかなあ、これでいいかな、これぐらいにしとこうかな」とか思いながらしていることが多いのですね。

 そうした態度が全部、罪なのだと言われたら、それはそうなのかもしれませんが、「神様、ちょっとそれは厳し過ぎますよ」と私は言いたくなります。

 

 けれどもパウロがここで言っているのは、そんなふうに何か悩んだり考えたりしながら生きていることが悪い、と言っているのではなくて、何かをごまかしながら生きている、ということ、それが、平和から遠いことである、と言われているのかなあ、ということを思うのです。

 

 いま、この世界は戦争の苦しさということに直面しています。ウクライナだけでなく、シリアの内戦であったり、いろんな戦争、そしていわゆる戦争だけでなく、様々な国における政治的な抑圧、軍事力における様々な脅威、経済的な格差、政治的・社会的・文化的な差別、そうしたものが世界には満ちています。

 

 その中にあって「平和」という言葉は、憧れるけれども、ずいぶん遠い所にあるという気がします。

 そしてまた、こうも思うのです。私一人、この自分が、この世界の中で悩んでいる。けれども、私が何か悩んだからといって世界に平和が来るわけではない。私は本当にちっぽけな存在だ、ただぶつぶつ言いながら悩んでいるだけだ、と思うのです。

 

 けれども、今日の聖書箇所を読みながら思うことは、そんなふうにぶつぶつ言いながら、自分の気持ちをごまかして生きていること自体が、人間の罪ではないのか、ということであります。

 それは、この、ぶつぶつ言いながら悩んでいる私が、悪い人間だ、ということを言っているのではなくて、そんなふうなぶつぶつ言う、あいまいなことの積み重ねの中で、大きな大きな罪の重なりとしての戦争ということが起こっているのではないか、そういうことを思うのであります。

 

 今日の礼拝の説教題は「平和を決める」と題しました。「平和」という言葉が今日の聖書箇所には出てきています。そして、「決める」ということは、今日の箇所の最後のほうでパウロが言っていることなのですが、「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい」と言っています。つまり、自分の確信ということは、自分で決めなさい、ということをパウロは言っているのです。

 

 異教の習慣のもとで献げられた肉を食べるか、食べないかということに関して、その肉自体は汚れていない、それが合理的・科学的な考え方であります。けれども、それをあなたが食べることで、見ている人がつまずくのであれば、あえてこれ見よがしに人を傷つけることはしない、ということを自分で決めたら、それでいい、ということを言っているのです。

 

 この広い世界に生きている私たちは、神様の言葉に出会って、様々なことを考えます。聖書に書いてあることは、時代背景も、社会の状況も全然違う、自分とは縁遠いと思えることです。けれども、この聖書を通して、今を生きている私たちに対して語りかけて下さっていること、というものが、ちゃんとあるのです。

 

 状況は違う。けれども、神様が語っているのは同じことであります。自分の心をごまかしながら、そして人をつまずかせながら、はっきりしない日常を送るということではなくて、私は神様のためにこうしよう、と決めたら、その決めた気持ちをしっかりと心の中に持って行動して生きたら、それでいいのだと。

 

 そこにあるのは何かというと、小さな小さな平和です。世界の戦争が終わるような、大きな平和ではなくて、本当に小さな小さな平和です。自分の心の中に、私は神様の前でこのことを決めて実行しよう、このときにはこの肉は食べない、でもときにはこの肉を食べよう。それは愛のためにそうするんだ、みんなで一緒に生きていくために、人の心を傷つけないためにそうするんだ、ということをするときに、そこにあるのは、小さな小さな平和です。

 

 でもそんな小さな平和ということを、自分の心の中に決める、そのことをしなければどうなるのか。いろんなところで自分の心をあいまいにしたまま、適当に生きていく、という人生ではなくて、神様の前でこのことは大事にしよう、人の心を傷つけることはいやだ、と思って生きている、その小さな平和を一人ひとりが自分で決めていく、ということが大事です。

 

 そして、その小さな小さな平和が、つながりあい、重なり合って、大きな平和をもたらす。神の国というのは、そういう方向の中にあるのではないか、と私は聖書を読んでいて思うのであります。実際には、ウクライナの状況を見ていて、正直私は絶望的です。今から仮に奇跡的な何かか起こって戦争が急に起こって、平和が回復したって、失われた人たちの命は帰ってこない、廃棄となった町は元に戻らない。そう思うときに、もう一切が絶望的であります。

 

 でもそんな中にあって、「投げやりになったらあかんよ」と神様はおっしゃっているのではないでしょうか。今日の箇所に書いてあるように、あなたと全然関係ないような、約2000年前のローマの教会のことがここに書いてあるけれど、ここには、今を生きているあなたたちにとって大事なことがちゃんと書いてあるんだよ、そのように示されて神様は私たちを招き、この礼拝において御言葉を与えて下さっているのであります。

 

 お祈りします。

 天の神様、いつも導いて下さっていて、本当にありがとうございます。私たちは今、この日本社会の中に生きていて、いろんなことを思いながら日々を過ごしています。どうか、この世界にまことの平和が与えられますように。私たちも小さな小さな平和を決めていく、そのことが自分の生き方の中でできますように。そして、世界の人がそう思うとき、そのつながりの中で、神様が大きな大きな平和を与えて下さいますように、心からお願いをいたします。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げいたします。
 アーメン。