京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2022年5月の説教

2022年5月1日(日)、5月8日(日) 、

5月15日(日)、5月22日(日)  、5月29日(日)

礼拝説教

「あの遠くに望みを放つ」

 2022年5月1日(日)京北教会 礼拝説教

 聖書    創世記 8章 6〜22節(新共同訳)

 

 四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、烏(からす)を放した。烏は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。

 

 ノアは鳩を彼のもとから放して、地の面(おもて)から水が引いたかどうかを確かめようとした。しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来た。水がまだ全地の面を覆っていたからである。ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した。

 

 更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。

 見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。ノアは水が地上からひいたことを知った。

 

 彼は更に七日待って、鳩を放した。鳩はもはやノアのもとに帰ってこなかった。

 

 ノアが六百一歳のとき、最初の月の一日に、地上の水は乾いた。ノアは箱舟の覆いを取り外して眺めた。見よ、地の面は乾いていた。第二の月の二十七日になると、地はすっかり乾いた。

 

 神はノアに仰せになった。「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい。」

 

 そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外へ出た。

 獣、這うもの、鳥、地に群がるもの、それぞれすべて箱舟から出た。

 

 ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。

 

 主は宥(なだ)めの香りをかいで、御心に言われた。


 「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。

  人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。

  わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。


   地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも

   寒さも暑さも、夏も冬も

   昼も夜も、やむことはない。」     

 

 

 (以上は、新共同訳聖書をもとに、改行など文字配置を、

 説教者の責任で変えています)

 

                

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 (以下、礼拝説教)

 

 ここしばらく京北教会では、礼拝において、マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、旧約聖書、その3箇所から順番に選んで毎週、皆様と共に読んでいます。

 

 今日の聖書の箇所は創世記の8章です。ここには、ノアの箱舟と呼ばれる物語の一部が記されています。神様が人間の生きている世界を、天から御覧になられたとき、人間はとても罪深く生きていた、悪を行って生きていた、その様子を神様は見て悲しまれ、神様は怒りを持ってこの世界を滅ぼすことを決められました。そして、大きな洪水を起こされました。

 

 しかし、その洪水を起こされる前に、神様はノアという人とその家族だけを選んで、箱舟を造らせて、その箱舟に地球上のすべての動物、鳥などを集めて、その箱舟に乗ったものだけが洪水から救われるようにされました。

 

 そして、雨水が続き洪水が続いたあと、40日間経って、そして水が引き始めた、そこから今日の聖書箇所があります。こうしたノアの箱舟と呼ばれる物語、こうした洪水物語というものは、聖書の中だけにあるのではなくて、当時の世界、今でいうと中近東と呼ばれている地域にあって、他の地域にもあった物語であるということであります。

 

 それは、当日の世界においてナイル川など大きな川があり、その下流に文明が栄えて人間の生活が栄えた、しかしその川が氾濫するときには、一気に地表が流されて、ぬぐわれて壊滅していつた、そうした実際にあった、とても大きな自然災害が繰り返された、その経験というものがあって、そこからこうした洪水物語というものが伝説、伝承、言い伝えという形で残されていった、ということであります。

 

 そうした自然世界の出来事から起こる人類の経験というものを、単に悲惨な経験というだけではなくて、神様への信仰と結びつく形で人々は受け止めていました。今日の聖書箇所である創世記のノアの箱舟の物語はまさに、そのように元々が実際にあった自然界の出来事、それを神様への信仰ということと結びつけて描かれています。

 

 「結びつけて」というと、この物語を書いた人というのがいて、その人が「じゃあ、このように解釈して、このように書こう」と、あたかも、例えば小説を書くようにして、神への信仰と自然界の出来事を結びつけるんだ、と思って書いたように思われるかもしれませんが、それよりは、実際としては、これを書いた人がそうやって自然界のことと神への信仰を結びつけたというよりも、自ずとそれらが結びついていたのではないか、と思うのです。

 

 それは、作為的に何かおもしろい小説を書こうとして、そのように結びつけた、ということではなくて、自然界で起こる悲惨な出来事というのは、これは単に何かの偶然で起こることではなくて、その背景に神様がおられて、その神の怒りや悲しみ、そしてその怒りや悲しみを通して示される御心、というものがあるのだと、いうことを人々は本能的に自分たちの心の中に刻み込んでいたのではないかと思います。

 つまり、それは人間が何かの創作意欲、何かをクリエイティブに作っていく、ということで、このノアの箱舟の物語を考え出したのではなくて、実際の辛く苦しい自然災害の経験の中で、自ずと、神への信仰というものが、災害の苦しさと結びついていった、そういうふうに考えてことができるのではないでしょうか。

 

 そういう意味で、今日の箇所にある物語というものは、今日の現代日本社会に生きている私たちにとっても、たくさんのことを教えています。自然災害が起こるときに、それは単なる偶然の結果ではないと考える。そして、生き残った者は、何をすべきなのか、ということを考える。

 何にも自分を支えるものがなくなってしまったかのような、この悲惨な災害の悲劇のあとで、それでも生きなくてはならない、というときに、それはなぜか、どうして、どのように生きていったらよいのかと、この自分を突き動かすものがある。神様というのは、実は、そういうところにしっかりと働いて下さっているのだ、という、そのことは人類の歴史の中にあって、いつの時代にあっても、変わらないことであると思われます。

 

 今日の聖書の箇所を一つひとつ見ていきます。 

「四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、烏(からす)を放した。烏は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。」

 烏(からす)は、あとに出てくる鳩に比べて、より大きな鳥であります。大きな鳥は飛び立ったが、出たり入ったりしていた。なかなか、飛んで行ってくれなかったのであります。

 

 次の8節はこうです。「ノアは鳩を彼のもとから放して、地の面(おもて)から水が引いたかどうかを確かめようとした。しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来た。水がまだ全地の面を覆っていたからである。ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した。」

 
 このとき地表を埋め尽くしていた水、その海の上に浮かんでいた箱舟から、こうしてノアは鳩を放ちました。大きな鳥は飛んで行こうとしなかったので、より小さな鳥を放ったのでありますが、とまるところがなかったので帰ってきた。まだ、この地上の中のどこに行っても、生き物が生きるための場所がなかったのであります。

 

 このとき、ノアはどんな気持ちであったでしょうか。世界のどこかに地表が顔を出していて、そこでまた生き始めることができる、地上で生活することができるように、そのことを願って鳩を放したけれども、鳩は帰ってきてしまった。どこにもとまる所がなかった。

 

 このとき、この広い海の中で生きている人間は、ノアと家族たちだけであった。この広い海に浮いているたった一隻の舟、それだけが生きた命を運んでいる舟であり、他には何もなかった。このようなときに、ノアはものすごく孤独な思いを味わったと思います。自分たちしかいない海、なんという孤独でありましょうか。

 

 その中で孤独に生きているノアは、この箱舟の中で一緒に生きている小さな鳩を放しました。そこには、単に生き物である鳩を偵察係として話したというだけではなくて、自分たちと一緒に生きている命の片割れ、命の仲間である鳩を放した、自分の代わりに、自分が行けないから行ってきてくれと放したのでありますが、その鳩は戻ってきてしまった。

 

 ノアは、このあと一体どうなるのでありましょうか。
「更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。ノアは水が地上からひいたことを知った。」

 

 まだ地上に、鳩がとまれるような場所はなかったのでありますが、水が引いてきた。その証拠にオリーブの葉っぱが水面の上に出ていたというのであります。ずいぶん賢い鳩だなあ、と思います。この鳩は単なる偵察係ではなく、単なる生き物ではなく、ノアから送られてきた、ノアの分身のような存在でありました。

 

 そして12節。
 「彼は更に七日待って、鳩を放した。鳩はもはやノアのもとに帰ってこなかった。」

 水が引いて、鳩が生きることができる地表が姿を現していた、ということであります。自分の分身である鳩が、もう戻ってこない。それは、命というものが生きる地表が現れてきているということであります。

 

 こうして、ノアは、時間の推移というものを知ることになりました。水が減ってきている。徐々に減ってきている。そしていつか、この箱舟がこの地面に着く。またそこで新しく生きることができる、そのことをノアは実感したはずであります。

 

 そしてそのあと、13節、14節には、水が乾いたこと、そして舟が地上に着地した、そこでノアが覆いを開けてこの世界を見たことが書いてあります。

 

 その次の15節にこう書いてあります。

 「神はノアに仰せになった。『さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい。』」

 ここからまた、命の歴史が新しく始まります。それは、旧約聖書を最初から読んでいる人にとっては、世界の一番最初から天地創造がなされている、そこで生き物が、命というものが神様によって造られた、そこからまた始めていく、そうした物語の繰り返しということが言われているのです。

 

 世界というものは、洪水によってドロドロに流されて、何にもなくなって、しかしそのあとに、神様が残されたほんのわずかな命が、そこからまた増えていくのだと。人間も動物も、鳥も家畜も、地を這うものも。地を這うものというのは、へびであったり昆虫であったり、何か小さな生き物ということでしょうか。そうしたものが、また地上で生きていくのです。

 

 そして、ノアとその家族は外へ出ます。動物たちも外に出ます。そこでノアが最初にしたことは何であったか。

「そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外へ出た。獣、這うもの、鳥、地に群がるもの、それぞれすべて箱舟から出た。ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。主は宥(なだ)めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
 地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも 
 寒さも暑さも、夏も冬も

 昼も夜も、やむことはない。』」    

 

 神様はこのように、御心に言われた、つまりご自身の中でこのように言われた、ということが書いてあります。ノアの家族、そして限られた動物たち、それ以外のものはみんな滅ぼされた、しかし、このとき以降はもう二度とすまい、と神様ご自身が仰っておられます。

 

 「人は心に思うことは幼いときから悪いのだ」というとき、人間は元来、罪深いものだということが言われています。だから、人間の罪のゆえに、人間を滅ぼす、人類のすべてを滅ぼす、世界を滅ぼすということはしない、と言われます。

 

 こうした古代の言い伝えである物語を読むときに、私たちはいろいろなことを心に思うことができます。こうした物語にさほどの関心を持たないときは、「ああ、そうですか」といって終わることができます。「ああ、ノアの箱舟、有名な物語ですね」「こんなふうに終わるのですね、特に感想はありません」そんな感想を言うこともできるでしょう。

 

 また、少し皮肉っぽい言い方をすることもできます。最後に、神様が「こうしたことは二度とすまい」と仰っていますが、それだったら、最初からこうしたことをしなかったら良かったのじゃないか、ということは普通に考えることができます。やっておいて何なんですか、ということです。結論が、人間は最初から罪深い、ということはわかっていたことじゃないですか。神様が人間を創造したのでしょう? そんなふうに、神様がいかにいい加減であるか、不確かであるか、また聖書のこうした物語がいかに都合が良いか、そうしたことをいくらでも皮肉ることができます。

 

 また、世界でほとんどの人が滅びたのに、なぜノアとその家族だけが残されたのか。しんでいった人たちはどうなるのか。命の大切さ、なんていうことをいうがおかしいじゃないか。聖書の物語は、いくらでも、それに対して私たちが非難することができるのであります。つじつまが合わない。身勝手ではないか、神様は。そのように言うことはいくらでもできます。

 

 けれども、聖書の物語は、誰が見ても問題がないように作られているのではなく、私たちの心に問いかけを残すために書かれているのだと言っても間違いではありません。

 

 誰も批判できないような完璧な物語だとすれば、それは私たちの心に何一つ残していかないのです。問いかけ、というものは、一体なぜこんなことになるのだ、と私たちが思うように、聖書というものは書かれているのです。なぜ、と私たちが神様に問うように、聖書は書かれています。

 

 その聖書の言葉を通して、「なぜ」と問う私たちが、聖書を読むなかで、神様から問われていることに気がつきます。この聖書の言葉を読んで、あなたは何か思い出さないか、何か思わないか。神様のほうから問いかけがなされているのであります。それは何でありましょうか。

 

 それは、こうした聖書を読むときに、一人ひとり受け止め方というものは違っているのでありますけれども、私はこの聖書箇所を読むときに、どうしても思うことはウクライナでの戦争のことであります。

 

 世界が滅びていくような恐ろしい光景が、報道で私たちは目にすることができます。2日でも終わるのではと言われていた戦争が、もう2ヶ月続いています。いろいろな想定外のことが起こっているのでありましょうが、国際社会の動向や、ロシアの動向やウクライナ国内の動向や、いろいろなことが報道されています。それらを見聞きするたびに、私たちは自分の心のなかでタンスがひっくり返ったように、今まで自分が考えてきたことが全部突き崩されるような、そんな恐ろしい思いにとらわれています。

 

 そんな中で今日の聖書箇所を読むときに、心に思うことというのは、この洪水の物語というのは、おそらく単に過去の自然災害の洪水、そのことだけを言っているのではないだろう、ということであります。これは、やはり、戦争ということも言っているのではないか。大きな戦いによって人間が住むことができなくなる、本当に壊滅的に滅ぼされていく、その状況、それがここに重なっているのではないか、そう思っています。

 

 いつになったらこの戦争が終わるのか。願っても願っても戦争が終わらない。烏(からす)を放しても烏が舟から外に出て行かない、鳩を放しても鳩が戻ってくる。どこに行っても人が生きる世界が見つからない。だから、自分たちで造った箱舟の中に身を潜めて生きるしかない。

 世界を見渡すと、他はみんな廃墟になってしまって自分たちだけが生きている。そのものすごい孤独、それは戦争の中でもそうであったのではないでしょうか。

 そして、洪水の水が引いていったあとの、ノアたちのこの状況というものは、大きな戦争が終わったあとの人々の姿を表しています。戦争というと、勝ち負けというものがあることを私たちは思います。けれども、そのあとを生きていく一人ひとりの民衆にとっては、実は勝ち負けということを超えて、ただ悲惨ということばかりが広がっているのではないか、と思うのです。

 

 どっちが勝ったから良かったね、ということは、それは言うでしょうけれども、しかし命を失い、生活を失い、自分の体や健康や、いろんな自分の生きることの誇りや、いろんなことを失ってしまったあとにやってきた、平和というものがもし与えられたとしても、一体どうやって生きていったらいいのでしょうか。

 

 そのとき、どっちが勝った、負けた、だから……というようなことを、言う人は言うでしょうけれども本当に自分自身にとって大切なものをいっぱい失ってしまったら、どっちが勝っても負けても、それはこのノアの洪水のようにひどいものであったということは、何のかわりもないのです。

 

 どっちが勝ったのか、ということを問題にするのではなく、もはや人間の生きる場所が地上にない、その中で身を潜めて生きるしかない、という孤独。いつかこのときが終わりますように、と願い続けて、そしてあるとき、意外なときに、この鳩がオリーブの葉を加えて帰って来たように、「ああ、もしかしたら、世界が落ち着いていくのかもしれない」と思えるときがやってくる、ということであります。

 

 いまのウクライナの情勢にあって、いつ鳩がオリーブの葉をくわえて来てくれるか、それはわかりません。見当もつきません。けれども、そのときがいつかやってくる、そのことを願い続ける、そうした希望がこのノアの箱舟にはあります。

 

 一体この戦争は何で起こったのか、身勝手ではないか、おかしいではないかと本当に誰でも思います。今日の聖書箇所で、神様が最後に、こんなことは「二度とすまい」と言われますが、そんなだったら最初からそうしたら良かったじゃないか、と思いますが、そんなことを言っても意味がありません。

 

 目の前に起きてくる大変な現実の前で、それでも生きざるをえない、それは何かはっきりとした理由があって、生きざるをえない、というのではなくて、ひたすら追われ続ける生活をしながら、それでも人間がなすべきことというのは、やはり前を向いていくということだからです。

 

 その中でいかに矛盾があり、苦しみがあったとしても、それでも生きていく。いつか箱舟から出て、この地上に下りるときがやってくる。そのとき、最初にすべきことは何であるのか。それは神様への礼拝である、ということであります。

 

 そして、そこから、天地創造のときと同じく、命が命を増やしていく、その世界を造っていく、歩みを始めることになります。それが何のためであるか、ということは明確に示されているわけではありません。けれども、押し出されるように人間はそんなふうにして、生きていきます。

 その中において私たちは神様に「なぜ」と問いかけながら、逆に今度は神様から問いかけられて、また新しく生きていくようになっていくのであります。

 

 あなたは、どのように生きるのか、と神様が問うています。誰かが、明確な答えを出してくれれば、それに従って生きたら幸せになる、ということであれば、どれだけ楽でありましょうか。けれども現実の世界では、そういうものではなくて、この現実世界に満ち満ちているのは、人間の罪と不確かさということであります。明確な答えは誰からも与えられない。それでも、押し出されるように私たちは生きていく。その中で、前を向いて生きていく。

 そのときに、いつか、鳩がオリーブの葉をくわえて帰ってきた、「ああ、もしかしたら、この世界は、また私たちが生きていくことができるようになっていくのかもしれない」という、そのことを願っていきたいと思います。ノアは、鳩をはるか海の向こうへと放しました。今日もまた、私たちは今の世界にあって、鳩を放していきたい。自分の分身である、命の分身である鳩を放していきたい、そのことを心から願います。

 

 お祈りします。

 天の神様、私たちが生きているこの世界にあって、何を頼りにしていったらいいかわからない、この不安な世界の中にあって、聖書は私たちに主イエス・キリストを与えて下さいました。イエス様の導きによって、この世界を見つめ直し、また自分自身を見つめ直して生きていくことができますように。心よりお願いをいたします。イエス様が復活なされた、神様の御心によってイエス様が復活なされた、という聖書の言葉の前で戸惑いながら、また悩みながら、それでも私たちは押し出されるようにして、神様に押し出され、イエス様に導かれて生きていくことができますように。この世界にまことの平和が来たることを願い、そのために私たちが働くことができますように、お願いをいたします。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

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「一杯の水をありがとう」

 2022年5月8日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書 マルコによる福音書 9章 38〜41節(新共同訳)

 

 ヨハネがイエスに言った。

 

 「先生、

  お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、

  わたしたちに従わないので、

  やめさせようとしました。」

 

 イエスは言われた。

 

 「やめさせてはならない。

  わたしの名を使って奇跡を行い、

  そのすぐ後で、

  わたしの悪口は言えまい。

  わたしたちに逆らわない者は、

  わたしたちの味方なのである。

 

  はっきり言っておく。

  キリストの弟子だという理由で、

  あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、

  必ずその報いを受ける。

           

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 (以下、礼拝説教)

 

 ここしばらく京北教会では、礼拝において、マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、旧約聖書、その3箇所から順番に選んで毎週、皆様と共に読んでいます。今日の聖書の箇所はマルコによる福音書9章です。ここには、イエス様が弟子たちに言われた言葉が中心に記されてあります。

 

 「ヨハネがイエスに言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。』」とあります。

 

 このヨハネはイエス様の12人の弟子たちの1人でありました。ここで言われているのは、その時代において、悪霊を追い出すということは、言葉を使って追い出すということであり、そこで権威ある人の名前を使うことによって、その名前が持っている力が働いて悪い霊を、その人に取りついている悪霊を追い出すことができる、そのように信じられていた時代のことであります。

 

 そのような時代にあって、イエス様の名前を使って悪霊を追い出している、そういう人たちがいたのであります。

 そして、イエス様の弟子であるヨハネは、そういう人たちを見て、その人たちと話をしたのでありましょう。そこで、イエス様の名前を使って悪霊退治をしているのであれば、自分たちと一緒に行動してほしい、とヨハネはその人たちに言ったのでしょう。

 

 しかし、その人たちはヨハネの言うことには従いませんでした。その人たちはヨハネたちには付いてこなかったのです。

 

 ここで想像できることは、実際にイエス様に従っていくつもりは全然ないのだけれども、イエス様の名前を使って悪霊退治をすると、本当に出て行って、人を助けることができる、そういうことでイエス様の名前だけを使っていた、そういう人たちがいた、ということです。

 

 そして、その人たちはヨハネが声をかけても、イエス様と本当の意味で一緒に行動しようとはしなかった。そういうことがあったので、その人たちに対して、イエスの名前で悪霊を追い出すことをしていたのを、ヨハネがやめさせようとしていた、そういうことがあったのです。

 

 それに対してイエス様はおっしゃいました。
 「イエスは言われた。『やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。』」

 このようにイエス様は言われました。イエス様の名前だけを使っている人たち、本当にはイエス様に従っていくつもりはないのに、表面的にイエス様の力だけを勝手に使っている人たち、その人たちに、そのことをやめさせようとしたとヨハネが言ったときに、「それをやめさせてはならない」とイエス様ははっきりおっしゃいました。

 

 その人たちがこっちに来ないからといって、その人たちの、人を助ける働きをやめさせてはならない、ということです。

 イエス様は「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」と言われています。

 もし、その人たちの働きがいかに形だけのことであっても、ずるいことであっても、それでも、その働きのすぐあとで、その人たちはイエス様の悪口は言うことができないだろう、とイエス様は言われます。

 

 そういうことであれば、その人たちは、私たちに逆らわない者であるのだから、私たちの味方なのである、とイエス様はおっしゃっているのであります。

 

 しかし、政治という意味でいえば、イエス様に賛成するというなら、その人たちはこっちに来て私たちに従うべきだ、それをそうしないのであれば、それはおかしい、だからその人たちの活動をやめさせるべきだ————というように、これを政治の問題として考えるならば、ここで弟子のヨハネが言っていることはもっともなことであります。

 また、今風にいえば、たとえば商標登録というものがあります。この商品の名前を使うのであれぱ、当然お金を払うべきだ、こっちに従うべきだ、そうしないのであれば、商品の名前を使ってはいけない。現代社会であれば、そんなふうな法律問題とすることもできます。

 けれども、イエス様はここでそのように、何かの商標登録とか政治とか、そうした妙な考え方でおっしゃっているのではありません。そうではなくて、どんな人たちであったとしても、その人たちがイエスの名前を使って何かの良いことをしているのであれば、それはやめさせてはならない。そういう、はっきりしたことをここでおっしゃっておられます。

 

 そして最後にこう言われます。41節。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」このようにあります。

 

 ここで「キリストの弟子」というように表現されている言葉は、ギリシャ後の原文で見ますと、「キリストのもの」という言葉であります。あなたがたが「キリストのもの」だという理由で、「あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は必ず、その報いを受ける。」

 

 「キリストのもの」とは、キリストのもとにある者、キリストにつながっている者、キリストの下にいるもの、そんないろんな解釈をすることができます。つまり、文字通りに「弟子」ということでなくても、キリストのものである、キリストがその人を持っていて下さるということです。その、あなたがたにはキリストが責任を負って下さっている、という意味です。

 

 そのあなたがたが、キリストのものである、キリストのもとにあるという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくださる者は、必ずその報いを受ける、恵みを受ける、とイエス様はおっしゃっているのであります。

 

 それは本当の意味でイエス・キリストに従って、弟子たちと一緒に生きて下さる、ということほしてくれる人たちではなかったとしても、その人たちが、イエス様のもとにいる人たちに対して、本当に彼らに一杯の水を飲ませてくださる、つまり助けてくれる、支えてくれる人だということです。

 そうして、本当にわずかなこととして、暑いときであれば一杯の水を出す、それぐらいのことはできるだろう、ということをしてくれた人は、必ずその報いを受ける、神様からのお返しを受ける、恵みを受ける、ということであります。

 

 ここでイエス様がおっしゃっておられることは、神の恵みとはクリスチャンだけに限られるものではない、ということです。クリスチャンに対して一杯の水を恵んで下さる人には、必ず恵みがあるのだと。

 

 だから、イエス様の名前だけを使って悪霊退治をしている人、それを何と言ったらいいのでしょうか、ちゃっかりしていると言えばいいのでしょうか。あるいは、ちょっと冷たく言えば、あの人は詐欺まがいのことをしている、そうともいえるかもしれません。そんなずるい人たちも世の中にはいます。

 

 けれども、イエス様はおっしゃるのです。「『やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。』」

 

 ここには、ときに、キリスト教とは何だろうとか、あるいは宗教とは何だろうとか、教会とは何だろう、とかいうことを、ふと考えるときに、大きなヒントを与えてくれるものがあります。

 

 教会って一体何によって成り立っているのだろうか。それは教会員によって成り立っているのは、当然のことであります。けれども、この社会全体の中で見たときに、キリスト教というものそのものは、教会の中だけで支えられているのではありません。

 この広い世界全体の中にあって、キリストの弟子だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人たちが、無数にいるから、教会というものが成り立っている、キリスト教というものが存在している、そのことを私たちは、今日のイエス様の言葉から教えられるのであります。

 

 今日の箇所を読んで、それぞれ思われることは一人ひとり違っていると思います。いろいろな意味で今日の聖書箇所は、物を考えさせてくれる箇所だといってよいと思います。まあ、聖書のどの言葉もそうなのですけれども、今日の箇所は今日の箇所でまた、その中で何と言いますか、味わい深い箇所だなあ、と思います。

 

 一杯の水を飲ませてくれる者。それは一体誰でありましょうか。この箇所を読むときに、まさに、今読んでいる私たちが一杯の水を誰かから飲ませていただいている、そんな気分にならないでしょうか。

 

 私たちが普段飲んでいる水は、神様からいただいている恵みであると共に、たくさんの人たちの協力によって与えられている水であります。


 今日の箇所を読みながら私は、いくつかのことを思い起こしました。

 

 それは最近のことなのでありますけれども、実は、私の父親がいま、私たち家族が育った家を使って、生駒伝道所という伝道所を開いています。その伝道所は今から何十年も前から奈良県生駒市にあったのでありますけれども、礼拝する場所がなかなか得られないときがあり、転々としていました。その中で、私の父親が自分の家でよければといって、家の一室を伝道所の礼拝に使うことになったのであります。

 

 その生駒伝道所に最近、一人の方が来て下さっているということであります。先日聞いたところでは、その方は、私が昔、小学生だったときに子ども会というのが地域でありまして、その子ども会でクリスマス会があった。そのときに、ちょうど子ども会の世話役をしていた私の母親が、クリスマスにイエス様のお話をした、そのことを覚えていて、そして礼拝に来られたということを最近聞きました。

 

 もうそれは、昔々の話であって、私もその子ども会の場にいたのかいなかったのか、ということも覚えてはいませんけれども、何かそのころに母親が、地域の子ども会の世話役かPTAか何かわかりませんが、何かをしていた、ということはかすかに記憶にありました。しかし、そのときのことが今につながっていたということは、何か不思議なこととして、驚くものがありました。

 

 そして今から思い返すときに、その地域の子ども会というものは、別にキリスト教と特に関わりがあるわけもないのですが、クリスマスをしてそのときに私の母親に何か話をする機会をくれた、ということは、とても良かったことだったのだなあ、ということを思うのです。

 

 今日の聖書箇所を読むときに、キリスト教に別に理解があるわけでもない、関係があるわけでもない、けれどもクリスマスだから、ということで、そんな話をする機会を私の母親にくれた、地域の子ども会の関係者の人たちに、感謝を覚えます。

 

 今日の聖書の箇所にあるのは、キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者、それは、そんなふうな、無数におられる、ひょんなことから、何か教会あるいはキリスト教の考え方というものを、どこかで支えて下さる方、どこかでつながって下さっている方、そういう方たちではないか、ということを思います。

 

 また、それと別に、最近、私が経験したことをお話します。私はこの連休の間に、何か普段していないことをしたいなあ、と思っていましたが、ひとつの機会があって、京都の南のほうにあります、伊勢田という駅からしばらく行ったところにある、ウトロ平和祈念館というところに行ってきました。

 ウトロというのは地域の名前です。いま、北海道でもウトロという地名が出ていますが、そことは全く関係がありません。京都の南部です。

 そのウトロの地域には昔、戦争中の時代には、京都に飛行場を作るための工事現場があり、そこに朝鮮半島からたくさんの人たちが労働者として来ていた、連れてこられていたのでありますが、その人たちが戦後その地域に残って生活をしていました。

 その土地が何十年も経ってから、それは不法占拠であると訴えられて、でも今まで戦争の結果、植民地支配の結果としてそこに住んでいた人たちの生活はどうなるのか、ということでもう40年以上、その地域において、ずっと話し合いがされてきました。

 

 そして、紆余曲折があった中で、最終的にその土地を所有者から買うことができ、そこに公営の住宅が建てられることができ、最終的な解決に至ったのであります。そこに、歴史を記念するウトロ平和祈念館というものが開設されました。私はそこに行ってまいりました。

 

 そこに行った私の、自分の中の理由というものがあるのですけれども、それは、もう何十年も前からウトロという地名や状況のことは、大学生のときから聞いてはいたのですが、実際に行くことは一度も無かったので、この機会に一度行ってみたいということがありました。

 

 それともうひとつの理由は、こういうことがありました。それは、ウクライナで戦争が始まって以来、私の心の中はものすごく重いものがあり、苦しめられており、この世界がおかしくなっている、この状況にすごくしんどい思いをしています。その中にあって私は、ただしんどいとか、重い、暗いとか、そんな気持ちばっかりで生きていっていいのだろうか。そんなふうに思ったのです。

 

 確かに、世界の戦争の状況はしんどい。ミャンマーを見たって、シリアを見たって、ロシアを見たって、中国だって、アメリカだって、どこを見たってしんどい状況です。けれども、その状況の中にあって、ただ心を暗くしているだけではなくて、何かその中で変わっていく、この状況を変えていくために、足下から平和のために人権のために、働いている、そうした人たちの働きに触れたい、そういう思いがありました。

 

 ただ世界の現実の前で怖くなっているだけではなくて、そこから解決を目指していく道が、どこかにないか。そうした気持ちになりたかったのであります。そんな気持ちからウトロ平和記念館に行って、大変勉強になりました。

 

 その中でシンポジウムがあって、オンライン、インターネットで参加できるのでありますけれど、その中でこれからのウトロ地区のことなどを考える、シンポジウムをされたのでありますけれども、その地域において、韓国の人、朝鮮の人、そして日本人、そうした違った立場の人たちが協力することによって、地域で生きていくことが大切であり、そうして平和のために生きていきたい、という主旨のシンポジウムでありました。

 

 それを見ておりますと、5人ほどシンポジウムに登場された内に1人、私が知っている方がおられました。クリスチャンの方でありました。その方は高校の先生をしながら、地域の文化活動に関わっておられるということで、いろんな話をしてくださいました。

 

 それを見て、「あっ、あの人や」と思ったのですが、何だかそのときに、ちょっとだけ誇らしいような気がしたのです。クリスチャンの人がずっと前からその地域に関わっているんだ、もちろん、クリスチャンでない人のほうがずっと多いのだけれども、そこで一緒に働いて下さっている、ということが何か誇らしい、うれしい思いがしました。

 

 そしてまた、そのシンポジウムの中で、別の方がこんな話をされました。このウトロの問題は何十年も続いてきたのですが、土地の所有権を巡る裁判では残念ながら敗れてしまったのです。いま解決に至ったのは、裁判では負けたけれども、土地を買うことができたのでそこに公営住宅を立てることができたということです。

 

 その裁判に負けたときに、裁判のあとで記者会見を開きたいということになって、何の連絡もしていなかったのだけど、洛陽教会という教会に電話して、教会の地下にあるホールを場所に貸してくれないと頼んだら、何の連絡もしていなかったのに、すぐに場所を貸してくれることになった。そこで裁判所から洛陽教会に歩いていって、そこで記者会見を開くことができたそうです。

 

 そのことを、シンポジウムの中で、何十年もの歩みのなかで印象に残っていることとしてお話された中で、教会のことが出てきたことに私は驚きました。そして、少し誇らしい思いがしたことも確かです。

 

 教会というものは、先頭に立って旗を振って、さあこれをしよう、といって世の中の先頭を走っていく、そんな働きはそうそうできるものではありません。けれども、人が気がつかないようなところで、実はあれっと思うようなところで、重要な働きをしていることがあるのです。

 

 そして、それがあるかないかで、決定的に物事が変わるかもしれないような所で、教会というものが、キリスト教というものが、目に見えない所で働いているんだ、ということを、私は知ることができました。そのことがとてもうれしかったのであります。

そんな思いを持ちながら、今日の聖書箇所を読んでいるときに、イエス様の言葉が心に響いてきます。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 

 それは、地域の子ども会であっても、地域の人権活動であっても、私たちそれぞれが生活している場において出会う、無数の方々が、教会というものに対して、そんなに理解がなくたって、一緒に行動してくれるわけでもなくたって、それでも、あなたがたに好意的であるならぱ、一杯の水を飲ませてくれる者は、必ず報いを受ける、神様からの祝福を受けるんだ、というイエス様の言葉は、私たちを励ましていると思えます。

 

 今日は5月の第2日曜日であり、コロナ禍になる前は、京北教会では「教会ファミリーの日」ということで礼拝をして、そして午後には教会の庭で「焼きそばパーティー」をしてきました。コロナになってそういうこともできなくなりましたが、家族のことを思うとき、家族とは必ずしも考え方が一緒ではない、ということをも思います。

 

 家族であっても、クリスチャンではなく、仲も悪い場合もあるかもしれません。けれども、どこかで一杯の水を飲ませてくれている、家族とはそういうものではないかと思うのです。そうした一人ひとりのつながりというもの、それを大事にしていきましょう、そのようにイエス様は私たちに、今日の聖書箇所を通して教えて下さっているのではないでしょうか。

 

 そして、教会において、この神様を信じましょう、と言うときに、その神様とは、このイエス様の言葉のように、心の広い神様である、ということです。

 

 「一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 

 この世界全体にあって、そうなんだ。神の恵みは決して閉ざされていない。教会につながる皆様が、世界のどこでどんな活動をしたって、そこで必ず、神様のことを知らない人、クリスチャンではない人、その人たちと一杯つながって生きていく、助け合って生きていく、その中で必ず大きな恵みが与えられる。

 そのことを思うときに、この重苦しい世界の中にあっても、平和を願う人たちの思いが世界中にあふれています。そこにつながっていくことにおいて、私たちは一人ひとり、なすべきことがあり、そしてその中で、恵みが与えられていきます。

 今日の箇所にあるイエス様の言葉を聞いて、もう一度、元気を出していきたい、日々を生きる力を出していきたい、そのように願うものであります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様。私たちが日々生きていく中にあって、いろんな問題があって、思いわずらうこともあるのですが、その私たちにイエス様が共にいて下さること、そして一杯の水を恵んでくれる人たちが無数にいることを、教えられて感謝をいたします。どうか、自分の足下から平和のために祈り、また、人と共に生きていくことができますように、お導きください。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げいたします。
 アーメン。

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神の国が働く」2022年5月15日(日)礼拝説教

 聖 書  ローマの信徒への手紙 15章1〜13節(新共同訳)

 

 わたしたち強い者は、

 強くない者の弱さを担うべきであり、

 自分の満足を求めるべきではありません。

 

 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、

 互いの向上に努めるべきです。

 

 キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。

 「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてある通りです。

 

 かつて書かれた事柄は、

 すべてわたしたちを教え導くためのものです。

 それでわたしたちは、

 聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。

 

 忍耐と慰めの源である神が、

 あなたがたに、

 キリスト・イエスにならって互いに同じ思いを抱かせ、

 心を合わせ声をそろえて、

 わたしたちの主イエス・キリストの神であり、

 父である方をたたえさせてくださいますように。

 

 だから、

 神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、

 あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。

 

 わたしは言う。

 キリストは神の真実を現すために、

 割礼ある者たちに仕える者となられたのです。

 

 それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、

 異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。

 

 「そのため、

  わたしは異邦人の中であなたをたたえ、

  あなたの名をほめ歌おう」と書いてある通りです。

 

 また、

 「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、

 更に、

 「すべての異邦人よ、

  主をたたえよ。

  すべての民は主を賛美せよ」と言われています。

 

 また、

 イザヤはこう言っています。

 「エッサイの根から芽が現れ、

  異邦人を治めるために立ち上がる。

  異邦人は彼に望みをかける。」

 

 希望の源である神が、

 信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、

 聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。 

 

 

 

 

(以上は新共同訳聖書をもとに、改行など、

文字配置を説教者の責任で変えています)

 

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 (以下、礼拝説教)

 

 ここしばらく京北教会では、礼拝において、マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、旧約聖書、その3箇所から順番に選んで毎週、皆様と共に読んでいます。今日の聖書の箇所はローマの信徒への手紙15章です。

 

 1行目の「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」という言葉から始まっています。

 

 ここには「強い者」という言葉が出てきます。すると、これは腕力とか、いわゆる力が強い・弱い、というようなことだと私たちは思いますが、この箇所は突然ここに出てきているのではなくて、その前の14章からの流れがあり、そこで言われていることというのは、強い者というのは、この世の様々な迷信的な考え方から解き放たれている者のことです。進んだ考え方をしている人と言って良いと思います。

 

 そして、強くない者というのは、イエス様を信じたけれども、まだこの世の中の様々な迷信、言い伝えに束縛されている、そうした人たちのことが言われているのであります。ですから、腕力とか、何かの力が強い・弱いとか、権力がある・ないということが言われているのではありません。

 

 教会の中において進歩的な考え方をしている人たち、合理的・科学的な考え方ができるようになった人たちとは違った人たち、まだそこまでに至っていない人たち、いろんな迷信的なこと、この生活の中で、こういうときにはこうしたらいけない、罰(ばち)が当たるというような、土着の宗教的生活というか、その中で身につけてきたものからまだ抜け出ていないといいますか、それにとらわれている人たち、そういう人たちが、強くない者と言われてるのですね。

 

 具体的には、当時において、たとえば市場で売られている肉を食べていいかどうか、という問題がありました。市場で売られている肉の中には、異なる宗教の神殿の祭儀にいけにえとして献げられて、それが払い下げられて市場で売られている、そうした肉がありました。異教の祭儀に献げられた肉を食べると汚れてしまうと考える人たちもいたのです。

 

 それに対して、この手紙を書いている使徒パウロは、他の宗教に献げられた肉であっても、肉は肉だ、関係ないんだ、普通に食べたらいいんだ、そんな迷信には縛られない、と考えていました。パウロからすれば、主イエス・キリストを信じたことにおいて、あらゆる宗教的な迷信・制約から解き放たれて本当に自由になった、そうした信仰を持っているパウロからすれば、その肉が元はどこにあったか、なんていうことは信仰とは何の関係もないことでありました。

 

 しかし、世の中にはいろんな方がいます。どんなふうに「イエス・キリストが」とか、「神様が」とか説明されても、今までの生活の中で刻み込まれてきた感覚は、いくら迷信だとか言われたって、なかなかそこから離れることができないものであります。

 

 そうした、いろんな考え方をする人たちがいたときに、教会の中で考え方の違いが対立を生んできたことがあったのです。その現実を踏まえて、ここで使徒パウロは「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」と言っているのです。

 

 自分たちが言っていることがいかに合理的で正しくて、キリスト教の信仰にかなっていて、正しい考え方であったとしても、その正しさにまだそこまで行けていないといいますか、同じ考え方ができていない人たちを排除してはいけないということであります。そうではなくて、2節にあるように「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです」とあります。

 

 隣人を喜ばせ、あるいは地域において、自分の隣り人、自分の近くにいる人、その人が自分と考え方が違う人たちであっても、隣人を喜ばせる。お互いが向上するように、そのことを努める。自分たちの強さ、合理的なことを考える賢さといってもいいのですけれども、賢いからといって、まだその賢さに達していない人を排除してはいけない、みんなお互いが喜ばれるようにということが言われているのです。

 そして、3節ではこう言われています。「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。『あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった』と書いてある通りです。

 

 そして4節ではこう言います。「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。」ここで「かつて書かれた事柄」というのは旧約聖書という意味ですけれども、「すべてわたしたちを教え導くためのものです。

 

 そして、「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」とあるのは、イエス・キリストの福音を宣べ伝えること、それまでの迷信から解き放たれて、合理的な生活をすること、いろんな宗教的な制約から解放されること、そのことに対する「そしり」、つまり批判というものがやってきた。その批判がまさにイエス様にかかっていくのです。そして、そのことをイエス様は受け入れておられるということです。

 

 旧約聖書の中には、そうした神様のメッセージを伝えた人たちが、どんなふうに世の中で迫害を受けたかということがつぶさに書いてあります。旧約聖書の中にたくさん登場する預言者、その預言者というのは、未来のことを言い当てるという意味での「予言」というのではなくて、神様から言葉を預かって語るという意味での「預言者」でありますが、世の中で迫害を受けました。

 

 それと同じように、いや、それ以上にイエス・キリストは迫害を受け、そして十字架にかけられて命を落とされたのであります。しかし、そのようなことはすべて聖書に書き記されていた、神様からのメッセージとして記されていた、その聖書の言葉を読み、学ぶことによって、「わたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」とあります。

 

 そして5節にこうあります。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」とあります。

 

 イエス様がすべての人からの批判を受け入れて死なれた、そういう形ですべての人の罪をゆるして下さった。そのことを信じ、イエス様のことでお互い対立しないで、互いに向上しあうことを求めて、隣人を喜ばせていく、そうした善を行う生き方というものを、ここでパウロは勧めています。

 

 そして次に7節にはこうあります。「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れて下さったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」

 ここではイエス様が自ら十字架で死なれた、そのことによってすべての人の罪をゆるして受け入れて下さった、それと同じように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい、と言われています。それは、自分の満足を求めるのではなくて、自分を神様に献げることによって、この世界にあって、いろんな立場の人たちがお互いに和解する、そうした生き方を現しています。

 

 8節にはこうあります。「わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。」割礼ある者たちとはユダヤ人のことを示しています。

 

 そして、そのあとこう言われます。「それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。」

 

 旧約聖書に記されている、イスラエルの人たちに対する神様の選び、そして神様の救いということが確証され、そしてその様子を見て異邦人、外国人、イスラエルの人たち以外の人たちが、イスラエルの人たちに対する神様の、恵み、慈しみ、憐れみということを見て、これこそ本当の神様だといって、世界中の人が、その神様を讃えるようになるためである、とここでパウロは説明をしているのです。

 

 イスラエルの人たちが選ばれた民である、ということの意味は、イスラエルの人たちが他の民族よりも優れているから、素晴らしいから、だから神様が救って下さった、ということではなくて、イスラエルの人たちは本当にいつ滅びてもおかしくないような人たちであった。小さく小さく弱い群れであった。その小さく弱い人たちを神様は愛して守って下さっている。

 

 その神の愛はイスラエルの人たちだけでなくて、世界のすべての人に愛が注がれているのだということを聖書は教えています。そうしたことが旧約聖書には書かれています。そして、そこにある神様の愛ということを知ることによって、イスラエルの人も、イスラエルの人ではない人も、すべての人がまことの神様をたたえるようになる、そのことをパウロはここで力説をしています。

 

 そして、そのあと、旧約聖書の言葉をあちこちから引用しています。「『そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう』と書いてある通りです。また、『異邦人よ、主の民と共に喜べ』と言われ、更に、『すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ』と言われています。また、イザヤはこう言っています。『エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。』」

 

 ここには、異邦人という言葉が使われている所が抜き出されています。異邦人とは外国人、民族が違う人たちであると共に、聖書の神様を知らない人たちという意味も込められています。単に外国人というだけでなくて、聖書の神様を知らない人たち、異邦人とはそういう意味を持っています。そうした本当の神様、聖書の神様を知らない人たちが、神様のことを知っている人たちと一緒に喜ぶ。一緒に主をたたえる。一緒に主を賛美する。そうしたことが旧約聖書の中に、ここにいくつも書いているんだ、ということをここでパウロは、論証して力説をしているわけであります。

 

 聖書のメッセージは決して、イスラエルの人たちだけのためにあるのではない。そうではなくて、世界のすべての人に対して向けられているのだと。パウロのそのような信仰がここで高らかに響いています。

 

 そして最後にこう締めくくられています。13節。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」

 

 こうして今日の箇所は使徒パウロによって、神様に対する豊かな希望ということで締めくくられています。今日の箇所は、新共同訳聖書では二つのかたまりに分けられていて、それぞれに小見出しが付けられています。この小見出しは新共同訳聖書が作られたときに後から付けられたものであり、元々の聖書の言葉ではありません。

 

 今日の聖書箇所に書いてあることは14章から続いていて、先ほど申し上げましたが、イエス様を信じることによって、この旧約聖書にあるような、いろんな律法、つまり宗教的な決まり事を守ることによって救われるという考え方から解き放たれて、そんな宗教上の決まり事、制約を守ることで救われるのではなくて、ただ主イエス・キリストを自分の救い主として信じる、つまり「神様を信じます」という、その思いがあれば、人は救われるのだと。

 

 決して「行い」、自分がこれこれの宗教の決まりを「こんなふうに守っています」、「しっかりと守りました」、だからそれに対して、ごほうびのように救いが与えられる……というのではなくて、何の行いもしなくても、あなたの心がまっすぐに神様に向くならば、そのときあなたは、神に救われているのだと。

 

 そうしたパウロの考え方、神学の言葉で言えば「信仰義認」と言いますが、信仰によって義と認められる、信仰によって義とされる、そのことが今日の箇所にも満ちあふれているのですあります。

 

 そして、その信仰義認の考え方に立って生きるときに、いろんなこの世の制約、宗教的な決まり事とか、地域にあるいろいろな迷信、たとえば、この日には何々をしてはいけない、この日にはしてよい、というような、何の科学的な根拠もないのに、こうしてはいけないとか、食べてはいけないとか、いいとか、ある人たちとつきあってはいけないとか、つきあってもいいとか、そうした、根拠のない所で決められているいろんな宗教的制約や迷信から解き放たれている、そうしたパウロのような人々がいたのです。

 

 しかし一方で、この世の中で生活するというときには、そうした進んだものの考え方だけでは生きていけない、という方々がやっぱりおられるのですね。いろんな生活の制約、家族・親族の中、地域で仕事していく中にあって、今までやってきたことも捨てられない。

 

 それを破ったら、「あんなことをしたら罰(ばち)が当たるんじゃないか」「怖いな」、そうした思いがある人は、新しくイエス様を信じても、やっぱり今までと同じ生活態度を守らないと、自分たちは生きられない、そんなふうな切実なものがあったと思います。

 

 そうした生活スタイルの違いが現れたときに、合理的に考える賢い人たちが、そうではない人たちを裁いてはいけない、そうした人たちのあり方を認めて、一緒に生きていくのだと、パウロはそのようにここで言っているのであります。

 

 そして、今日の箇所の前半でそのことを言ったあとに、後半では、そのようにいろいろな人が一緒に生きていくということは、ほかにどういう展開をするかというと、今度は、イスラエルの人と、イスラエル以外の人とが一緒に生きていく、ということのために言われています。

 

 それは単に民族という問題であるだけではなくて、神様を信じている人と、その神様を信じていない人、あるいは、まだ神様を知らない人と言ってもいいでしょうか。その間にある垣根というものを超えていく、そこで対立というものを和解へと導いていく、そして世界のすべての人がみんな、この神様を賛美していく、共に神様をたたえる、そうした世界に向かっていく、そうした大きな希望が、ここでパウロから語られているのであります。

 

 ローマの信徒への手紙が終わりに近づいている今、こうして世界の理想、あるべき姿、それは、対立する二つのものがその中で和解をしていく、そのためにキリスト教というものがあるんだ、というふうな、これは私なりの言い方でありますけれども、パウロがそうした思いをここで豊かに述べている、そのことに感謝を述べたいと思います。

 

 パウロがこうした主張をするときに、単に自分の中にある正義感や倫理観ということを言っているのではなくて、旧約聖書の中でこれらのことが確かに言われている、証明されている、という強い信仰があります。旧約聖書の中の全てに、異邦人とイスラエルの人たちが共に主を賛美する、そのことがいくつも書かれていると。そうしたパウロの力強い言葉が、今日の聖書箇所に満ちています。

 

 今日、私たちはこれらの言葉を読んで、そして今私たちが生きている世界の現実というものを見渡すとき、パウロが2000年前に手紙に書いた、この理想が、世界で実現しているかどうかということを考えてみます。

 

 考えてみたときには、それは実現していないんじゃないか、そして今、この2022年の現在にあたっては、むしろ対立は厳しくなり、ひどくなっているのではないか。宗教対立だったり、民族対立だったり、国と国の政治、軍事の対立であったり、本当に悲惨な世界というものが、私たちの目の前にあります。

 

 いろんな国の中で、対立が深まっています。私は世界のニュースを見るときに、時々こんなことを思うのです。私は民主主義というものが進んでいけば、時代が経てば経つほど、人間が言わば進歩してですね、悪い考え方が減っていって、良い考え方が増えていって、本当に良い社会ができていくのではないか、そんな素朴な期待というものを持っていた気がするのであります。

 

 しかし、最近の世界を見ていますと、民主主義というものが発達といいますか、いろんな形で進んでいったとしても、そこで何が起こるかというと、たとえば、いわゆる右と左の対立というようなことが言われるときに、右も左も同じぐらい支持を集めるようになっていくのですね。

 

 たとえば、アメリカの大統領選挙や韓国の大統領選挙にあるように、50%と50%の対立になって、ほんのわずかの差で結果が出ることになります。日本でも大阪での大阪都構想の投票もそうだったように思います。もうほぼ一緒、拮抗している、ほんの少しの差で勝敗が決まる。

 

 そうした現実というものを見ていきますと、民主主義が発達していくと、どちらかの良い考え方にみんなが傾いていく、ということを私は何となく漠然としたイメージで持っていましたが、二つの考え方がどちらも同じぐらい支持を集めるようになっていく。それは、SNSと言われるインターネットの発信のためとか、いろんなことが言われていますが、人間というものは本当に予想できない存在だなということを私は持つのですね。

 

 そんな思いを持ちながら今日の箇所を読むときに、「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」という言葉は、なかなか心に響いてくる言葉だと思うのですね。つまり、自分はやはり合理的に考えたり、賢く考えたい。こういうふうに考えたい。そう思うのは別に悪いことではありませんが、一方でその考え方とは違う人たちが必ず世の中にいる。

 そういうときに、あの人たちは愚かだな、そうやって排除して責めていく、そういうことをしているとどうなるかというと、本当に世界が真っ二つに割れていくような、大変な世界になっていくわけですね。私は思うのですけど、右と左が対立するときに、あるいはいくつかの考え方が対立するときに、どの考え方で行くのをその人の自由なのですけれど、自分たちの側に全ての素晴らしいものがあって、相手の側にすべての悪いものがある、と考えるとどこかで間違えるのではないかと思うのですね。

 

 本当は、自分たちの考え方にも意味があるし、相手の考え方にも意味がある。本当はどちらも必要なんです。部分的には。それをどう組み合わせていくか、どう一緒にやっていくか、ということが本当は大事ではないか、と思うのですね。

 今日の箇所を読むときに、パウロがこういうふうに言っている通り、本当に、対立を作り出す、自分の賢さに立って対立を作り出すのではなくて、あえて、イエス・キリストがなされたように、「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。『あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった』と書いてある通りです」というように、世の中がいろんな人、いろんな不満というものを受け止めつつ、自らの満足を求めず、自己犠牲というものを神様に献げていくことによって、世界の対立を和解へと導いていく、そこにこそ、本当の神様の御心がある、そのことを今日の箇所から教えられたいと願うのであります。

 

 今日の説教題は「神の国が働く」と題しました。今日の聖書箇所に「神の国」という言葉は出てきていません。では、なぜ、この言葉を使わせていただいたかというと、今日の箇所の中には、異邦人という言葉が出てきています。外国人、そして本当の神を知らない人というニュアンスで言われている、異邦人たちと、主の民と呼ばれている人たち、聖書の信仰を持っている人たち、イスラエルの人たち、そうした人たちが共に喜ぶと、今日の聖書箇所にはあります。

 

 そこで、何が言われているかというと、ある特定の国がいいと言われたり、ある特定の国が悪いと言われているのではなくて、「神の国」というものがイエス・キリストから始まって、世界に広がっていく、その「神の国」のために働くことが大事なんだと、そのことを今日の聖書箇所からのメッセージとしたいのであります。

 

 合理的な考え方と、そうでない考え方との対立。民族や国籍、地域、そうしたものによる対立というものがたえず世界にあって、私たちはどこに立って生きるべきか、私たちは最終的には「神の国」という立場に立つことが必要です。まことの神様の恵みが満ち満ちている「神の国」。

 

 それは、目に見えて「あそこに神の国がある」「ここにある」ということは言うことができません。目に見えないものであります。「神の国」はイエス様の言葉を通して世界に広がっていきます。どこに行っても、どの国の人であっても、どんな歴史を持っていたとしたって、心を神様にまっすぐに向けるときに、その人に「神の国」の力が働きます。

 その神の国の働きによって、押し出されて、この世界の平和のために、そして普段に生きている生活の中で、最も近くにいる隣人、隣り人のために、共に生きていきたいと願うものであります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様。この世界の中にあって、私たち一人ひとり、自分の無力を痛感することが多々ありますが、「神の国」の力が働くときに、私たちは自分の思いを超えて、神様に用いられ、この世界にあって確かな仕事をすることができます。どうか一人ひとりにその役割を与えてください。そして、世界にまことの平和が来ますように、神様の導きを世界中にお願いいたします。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

 

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「雨上がりの虹の教え」2022年5月22日(日)

 聖 書  創世記 9章 12〜17節(新共同訳)

 

 更に神は言われた。

 「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、

  代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。

  すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。

  これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。

  わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、

  わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、

  すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。

  水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。

  雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、

  すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」

 神はノアに言われた。

 「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

 

 

 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
     改行などの文章配置を説教者が変えています。
  新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

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 (以下、礼拝説教)

 

 ここしばらくの京北教会では、マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、旧約聖書、その三箇所から選んで毎週順番に読んでいます。そうしたことを通して、聖書のメッセージをより深く皆様と共に読んでいきたいと願っています。

 

 今日の箇所は、旧約聖書の創世記の9章です。礼拝の中で全体を読むと長いので12節からを選んでいますが、この箇所は1節から続いており、そしてずっとその前の6章から始まって続いている、ノアの洪水、あるいはノアの箱舟の物語の、一番最後の部分が今日の箇所であります。

 

 40日にわたって降り注いだ雨、その洪水に世界中のすべてのものを飲み尽くした、その洪水が徐々にやんできて、そして洪水の前に神様が命じてノアは大きな箱舟を造り、そこにノアの一族と世界中の動物たちをそこに載せて、洪水の海を漂流し、そして水が引いたあと、地上に下りて、すべてが壊滅した世界にあって、新しく人類として、そしてまた、舟に乗せた動物たちや鳥などと共に、新しい世界を造り始めた。そういう場面が今日の箇所であります。

 

 9章1節には、次のように書いてあります。「神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちよ。』」そのように書いています。世界の始まり、天地創造のとき、創世記の1章に書かれている言葉がもういちど言われています。

 

 天地創造のときと同じことが、今から始まるのだ、ということを神様が宣言しておられます。こうした旧約聖書の物語は、現代の私たちを不思議な気持ちにさせるものであります。これは古代の物語、言い伝えでありますが、まあ今でいう昔話であり、日本でもいろんな昔話がありますけれども、その中には民話、神様が登場したりして不思議な物語があります。

 

 こうした旧約聖書の物語もまた、そうした古代からの言い伝えに基づいたお話ではあります。しかし、単なるお話として終わることができないのは、こうした旧約聖書の物語を文字に記し、書物にまとめていった方たちは、これを神様に対する信仰の物語として書き残しているからであります。

 

 そして、その信仰というのは一見、古代の人たちの素朴な世界観というふうに見えて、実は非常によく考えられている物語であるからです。

 この世界が最初に造られたとき、神様の言葉、人間を創造し、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われた言葉が、もう一度宣言されています。それは、洪水で一度滅びた世界が、ごくごくわずかな人間と動物たちによって再び、この世界が始められていく、世界が再生していくことなのです。

 

 これは、聖書学者の研究によれば、中近東のチグリス・ユーフラテス川ナイル川といった大きな川のある所に、最古の文明と言われるものが生まれて栄えたわけでありますが、そうした大きな川の氾濫によって人間が生活している区域が壊滅してしまう、そういうことが実際にあった。そうしたときに、洪水によってもう全部滅びてしまったかのような、その壮大な洪水によって流されてしまった所で、もう一度、新たに神様の導きによって、人類が生き始めていく、生き直していく。

 そうした、長い年月がかかってのことでありますが、長い長い期間がかかる中で、人間の生活が再生していったことが、このノアの箱舟の物語の中に反映しているわけであります。つまり、人間が生きている世界の中で、破滅が来て、もう何にもなくなってしまったかのような世界になってしまっても、一つの箱舟に乗って逃げることができた人たちがいれば、残された生き物たちと共に、またそこから生き始めることができる。

 

 神様が人間を創造され、そして神様によって創造された人間は、神様から与えられた自由を正しく使うことができずに、自分自身のために、利己的にその自由を使うことによって罪を犯し、そして結果として人間は罪深い世界を造っていきます。

 

 違いに殺し合い、戦って戦争して、殺し合ってつぶしあって生きていく、その様子を神様は悲しまれ、そして、このノアの時代のように洪水を起こされました。しかし、そのような神様の怒りが爆発した、まさにこのノアの箱舟の物語の最後において、神様はどのようにおっしゃったのか、ということが、この9章に書いてあるのです。

 

 9章の1節には「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われ、そして世界のすべての動物、鳥はあなたたちの手に委ねられるとあります。「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。」とあります。

 世界のすべての生き物、それをみんな、あなたたち食べていい。青い草を食べてよいのと同じように。神様はそうやって人間に、生き延びなさい、ということを命じているのであります。

 

 そして9章5節以降には、こうあります。「あなたがたの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。」「人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。」「人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。/人は神にかたどって造られたからだ。」

 

 これは、旧約聖書天地創造のときの物語が、ここでもう一度振り返る形で生きているわけであります。人間というものは、神様にかたどって造られたものであるから、尊い、大事なものなのです。だから、人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。だから、人の血を流してはいけない、ということがはっきりと言われています。

 

 人は人を滅ぼしてはいけないのだと。天地創造のときに神様が人間を神にかたどって造って下さった。そのように尊いものであるのだから、決して人の血を流してはいけないと。

 

 そして、さらにこう言われます。9節にこう書いてあります。「わたしはあなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や血の全ての獣と契約を立てる。わたしがあなたがたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こっても血を滅ぼすことも決してない。」

 

 ここで神様は人間に対して契約をされます。それはこのように、ノアの洪水のようなことは、もう二度としない、という、そういう契約であります。

 

 そして12節から、こう言われています。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物が、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」

 

 ここで虹という言葉が出てきます。これは旧約聖書の原文のヘブライ語では「弓」という言葉が使われています。虹という言葉がなかったのでしょうか。雲の中の弓、それが虹を現しているわけです。弓の形をしている、あの美しい光の弓、それが虹でありますが、それが神様と大地の間に神様が立てる契約のしるしとなるといいます。

 

 14節にこうあります。「わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。」このように神様は仰って下さいました。

 

 ここで、すべてが洪水で滅びてしまった世界において神様は、このようなことはこれ以降は決してしない、そのように言われたのであります。そしてそのことを人間たちに約束として現すために、雲の中に虹を立てる、それが神様からの契約であり、約束である。そのことがここで書かれています。

 

 そしてその虹が出たとき、その虹を見ることによって、神様がご自身の立てた契約というものを思い起こし、その永遠の契約に心を留める、というように16節には書かれてあります。この契約は人間とだけではなくて、この地上に生きるすべての生き物との間にもあると言われています。動物たちも含めて、この世界のすべてと神様がこのようにして下さった。動物の命というものも、このように神様によって大切にされていたのであります。

 

 今日の箇所はこのような箇所であります。このような箇所を、皆様はどのように思われるでありましょうか。

 現代の日本社会に生きている私たちは、虹というものがどういうものであるか、科学的な知識を持ってぼんやりと、そのことを思い起こします。雨の中で水分が空気中に満ちて、光の屈折が……と言うようなことがあった気がします。つまりこれは、自然現象なのです。神様がお造りになられた、という説明をしなくても、これは自然現象なんだ、ということができます。

 

 古代の人たちにとっては、どうだったのでしょうか。虹というのはとても不思議なものだったと思います。なぜ、あんな形をした光の筋が現れるのか。七色の虹と言われますが、私が数えると五色ぐらいにしか見えないのですが、七色あるのでしょうか。大きな虹がかかっているなあと思うことが時々あります。自転車に乗っているときに虹を見ると、その虹の端といいますか、下のほうに行けば、何かもっとすごい虹が見えるのかと行ってみたけれど、その間に虹は消えてしまいます。

 

 なぜか、虹というものは、私たちの心を動かすものであると思います。それは、短い時間しか現れない、ときには少し長く現れていることもありますが、そんなに長くはありません。虹が出たときに、それを人に伝えることがあります。「見て見て、虹が出てるよ!」と言った所で何があるのだろう、と思ってしまうのですけれど、でも何か人に伝えたい気がします。ときに携帯電話で「虹が出ているよ」と教えて下さる方もありました。

 

 虹を見るときに、それが自然現象であったとしても、そこに特別なことが起こっている、今見ないとそれは消えてしまう、「だから今見ようよ」、そういう気持ちになるのが虹ということであります。その虹はどういうときに現れるのか。それは雨上がりのとき、雨がやんだときであります。

 

 あの雨上がりの虹を見るときに、どこか爽やかな空気感といいますか、太陽の光が射してきて、何かふだんと違う、晴れ晴れとしたものを覚えます。虹というものは、そういうものを人の心に与えます。

 

 今、私たちはそんな、虹を見るときのような晴れ晴れとした心を求めているでしょうか。願っているでしょうか。「虹を見ようよ」と言われても、そんなものを見て何になるのだろうと思いつつ、「はいはい」と応えているのではないでしょうか。虹が出るということに、さして何の期待もせず、たまたま見たら「虹だな」と思う、まあ日常のことでありますから、そんなものかもしれません。

 

 けれども聖書の物語をこうして読むときに、虹というのはただの自然現象ではなくて、神様が大地との間に立てた契約であり、人間との間に立てた契約であり、世界のすべての命あるものとの間に立てて下さった契約であり、この虹を見るときに、「ああ、私たちは神様によって守られている」、そういうふうに思うことが、聖書の言葉を通してゆるされているのであります。

 

 私たちは守られている。この世界に雨は降るけれども、しかしこの世界がすべて滅びるような洪水はもう起きることがない。ここで雨を降らせるのをやめる、そうされたのが神様からのサインであります。そこで虹が出てくるのです。

 

 今日、世界においてはロシアとウクライナの戦争が長期化しています。コロナ問題においてこの2年間、ずっと苦しんできたこの世界、ようやく様々なワクチンの普及であったり、様々な感染対策によって、ようやく出口が見えてきたかなあと思ったころに、世界は戦争の苦しみに巻き込まれているような、そんな状況の中にいます。

 

 そんな状況の中で、私たちはいつしか、虹を見ることに期待を見出さなくなっているのであれば、私たちの心が弱っているということだと思うのであります。

 

 虹が、どこかに出ている。虹がきっといつか現れる。それはほんのわずかの間しか現れない。そして、それを見たといって、他に何かいいことが虹から降ってくるわけではないのであろう。けれども、あそこに虹が出ているよ、というときに、その虹を見て、沈黙しながら虹をじっと見ているとき、そこで何か晴れ晴れとしたものが生まれてくる、そのことは確かであります。

 

 週報にも書きましたけれども、京都教区総会というものが、一昨日から昨日、金曜日から土曜日にかけて、平安教会という、国際会館に近い所にある教会で行われていました。コロナ問題が起こってから教区総会を行うことが、対面でみんなで集まって集合した形でできなくなり、書面開催という形で、紙に議案を書いて、それに賛成・反対を書いて提出してもらう、そうした書面総会という形で過去2年間やってきました。

 

 コロナ禍が始まって3年目になる今回の教区総会は、対面でやりたいとみんなで願いました。ただ実際には、本当にそうできるかという不安があったのです。5月10日を判断のタイムリミットにしました。その日までにコロナ禍の状況が悪化していたら、やはり書面総会に切り替えようと。でも、何とかできるのではないか、そういう状況になれば、そう思って過ごしてきました。

 

 そして5月10日になり、社会の状況を総合して、対面でやろうということになり、最終的に私が決断したわけであります。それ以降、10日間の私の悩みというのは、対面で総会をやると決めたけれども、議員の皆さんといいますか、参加者ですね、京都府滋賀県で全部で76の教会・伝道所からだいたい2名ずつ、教師と信徒一人ずつ議員を送っていただきます。それ以外にも学校など様々な関係の方を含めて150名ぐらい議員の方がいらっしゃるわけですが、その3分の1以上が来て下さらないと、総会が成立しないわけであります。

 

 このコロナ禍で大変な中でたくさんの人が集まるというだけで、ひんしゅくかもしれない、クラスターが起こったらどうするのか、そんな心配が生まれてきます。そんな心配をしながら10日間を過ごして教区総会の日を迎えました。受付を広くして換気をして、マスクをして手を消毒していただいて、お互いに密にならないように座って、そして食事もありません、お菓子もありません。時間を短縮して、開会礼拝すらもせずに開会祈祷だけにしました。讃美歌も歌いません。

 

 もう何から何までもコロナ対策で固めた総会でした。何人の人が来て下さるでしょうか? 心配でした。1日目に受付で確認した人数は確か81名でしたか。そんな人数だったと思いますけれど、3分の1を大きく上回っていました。半分以上の方々が来て下さったのです。

 

 もちろん、事前に欠席しますという連絡もたくさんいただいていました。幼稚園の仕事をしている方で、どうしても行くことができませんとか、家族の事情とかお病気とか、欠席の理由はいろいろありました。そうされる方々はそれで構わないのです。仕方がないことです。その一方で何とか来て下さる方がいらっしゃれば、という思いでした。そして無事に総会を開催することできました。

 

  そして二日間、まあ一日半といいますか、一日目の午後から2日目の正午まででありますけれど、一つひとつの議題をすごく短い形でありますけれども無事に終わることができました。その中で、この教区総会の中で様々な選挙があり、常置委員などの選挙がありました。その中で教区議長の宣教というものが一番最初にありまして、私はあいさつで、次のことを言いました。「今まで議長を3年間やってきました。元々2年任期だったのですが、コロナ禍で1年延長して3年やってきました。私はもう十分です」と挨拶しますと、会場からくすくすと笑い声が広がりました。この笑い声はどういう意味なのだろうと思っていました。

 

 その後に選挙をすると、一回目は誰も過半数をとれなかったのですが、二回目の選挙で私が議長にまた選ばれました。私はもう議長をやめるつもりでおりましたので、正直、結果を受け止めるという心の準備はありませんでしたので、どうしたらいいのかと思ったのでありますけれども、しかし、目の前で起きている事実がこういうことである、ということはわかります、という、そういうごあいさつをしました。そして「先のことは全くわかりませんが、皆様と共に歩みます、どうぞよろしくお願いします」と言いますと、皆さんが大きな拍手を送ってくださいました。

 

 こんな教区総会での出来事を話しているのは、今日礼拝に来ている皆様にとっては、ピンとこないといいますか、自分とは関係があると思えない、という方もおられるかと思います。でも一方で教会という集まりは、それぞれの地域における各個教会があるということと同時に、ときにはそうして集まって日本基督教団に属する教会同士としての協議という形での会議もあるわけです。

 

 そうしたときに私は、教区の活動で様々な方々と出会う中で、このコロナ禍の中で教会でどんなことをしているとか、貴重な情報交換をしたり、お話をしたりしているわけでありますが、今回の教区総会で、過去2年間できなかった対面での総会を今回はできた、ということはやはり大きな恵みだと私は思いました。

 

 いろんな悲しいことがあるこの世界、本当にやるせないこの世界です。だけども、何にも状況が変わらないといって、ただじっとしているのではなくて、何か状況が変わっていかないか、変えていけないか、というみんなの気持ちが、やはり実を結ぶということがあるのです。

 

 それは必ずしもみんながみんな同じ方向で歩んでいく、ということではありません。コロナ禍だからと欠席する人があってもよいのです。いろんな人がいて、いろんな判断をする、それをお互いに尊重する、その中でなんとか最低限のことができていかないか、そういうことを思うときに、私の心はやはり祈りの心になっていきます。

 

 世界はこうあるべきだ、こうでなければ、と人間の力で無理矢理に導いていくのではなくて、神様どうぞ導いて下さい、と願うときに、最終的に人間の力を超えた結果が与えられる。そしてその結果が人間にとって意に反することであったとしても、その結果の前で神様が問いかけをさらに尋ね求めていく、そうしたことが必要なのであります。

 

 私たちも普段の生活の中にあって、ときに虹を見るときがあります。空に出ている虹を見るときに、そこに何の希望も何の願いも持たずに、ただぼんやりと虹を見るのではなく、あの虹があるから、私たちは神様からの契約によって守られている、自分の思いや経験を超えて神様によって守られている、そのことをしっかりと実感したいと思うのであります。

 

 そして、ウクライナにあっても必ず虹が出ます。人々がどんな思いであっても、そのいる場から空を見上げたときに、そこに神様からの契約を思い起こすことができます。そこにある現実が、どんなに私たちの祈りから、かけ離れていたとしても、今日の聖書箇所にあるように、神様の側からの契約がしっかりと天に示されている、ということを心に刻みたいと思うものであります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様。いつも私たちを守って下さってありがとうございます。どうか一人ひとりの生きる場にあって、いつもイエス様が共にいて下さり、私たちのの罪をゆるし、そして復活の力において私たち一人ひとりを導き出し、この世界が再生していく、神様によってこの世界が再生されていくことにおいて、私たちもまた生きていくことができますようにお願いをいたします。どうか世界に平和をお与え下さい。
 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

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「つまづかせないために祈る」

 2022年5月29日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書 マルコによる福音書 9章42〜50節(新共同訳)

 

 わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、

 大きな石臼を首に懸けられて、

 海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。

 

 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、

 切り捨ててしまいなさい。

 両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、

 片手になっても命にあずかる方がよい。

 

 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、

 切り捨ててしまいなさい。

 両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、

 片足になっても命にあずかる方がよい。

 

 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、

 えぐり出しなさい。

 両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、

 一つの目になっても神の国に入る方がよい。

 

 地獄では蛆が尽きることも、

 火が消えることもない。

 

 人は皆、

 火で塩味を付けられる。

 塩は良いものである。

 だが、塩に塩気がなくなれば、

 あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。

 

 自分自身の内に塩を持ちなさい。

 そして、互いに平和に過ごしなさい。
 


 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、

  改行などの文章配置を説教者が変えています。

  新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

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 (以下、礼拝説教)

 

 ここしばらくの京北教会では、マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、旧約聖書、その三箇所から選んで毎週順番に読んでいます。そうしたことを通して、聖書のメッセージをより深く皆様と共に読んでいきたいと願っています。

 

 今日の箇所はマルコによる福音書9章です。ここには「罪への誘惑」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは、新共同訳聖書が作られるときに付け加えられたものであり、元々の聖書にはこうした小見出しは付いていません。そして、こうした小見出しは、ここに書かれている箇所の内容を正確に表しているかというと、疑問符がつく小見出しもあります。そういう意味で、こうした小見出しはあくまで参考として読んでいただきたいのです。

 

 今日の箇所には「罪への誘惑」という小見出しが付けられていますが、それとは違ったことが書かれているように私は思います。皆さんはいかがでしょうか。

 

  今日の箇所を順々に読んでいきます。42節にはこうあります。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」と言われています。

 

 ここに書かれている「わたしを信じるこれらの小さな者」というのが、どういう人を指しているのかは、ここには明確には書かれていません。

 

 マルコによる福音書の流れで、この箇所の一つ前の箇所を見ますと、38節から「逆らわない人は味方」という小見出しが付けられていますけれど、イエス様のお名前を使って悪霊を追い出している、つまり病気をいやしたり奇跡を起こしたりしている人たちがいて、その人たちはイエス様の名前を使って活動しているのだけど、イエス様の所にやってきて一緒に歩むことをしないので、やめさせようとしたと弟子たちが言ったことに対して、イエス様が、やめさせてはならない、その人たちも私たちの味方なのだ、と言われた話があります。

 

 すると、ではそうした人たち、つまり、イエス様の名前を勝手に使っているけれども、仲間としては歩んではくれない人たちのことが、42節の「これらの小さな者」として言われているのかというと、ちょっと話の流れが合わなくなってくる気がします。

  

 そこで、その38節からの箇所の、さらに一つ前の箇所を見ますと、9章33節以降の箇所に次のようにあります。イエス様の12人の弟子たちが、自分たちの中で誰が一番偉いかを議論していたことに対して、イエス様からお叱りをいただいて、イエス様が一人の子どもを招いて真ん中に立たせ、抱き上げて言われた、という形で、この子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れる者である、そういう言い方で、12人の弟子たちが自分たちの中で誰が一番偉いか議論をしていたのだけども、本当に偉い者というのは実は、自分の偉さを主張したりしない者、あるいは社会の中にあって愚かな者と思われているこの子どものような者、そうした者のほうが先になるのだ、という意味のことをイエス様は仰いました。

 

 おそらく、話の流れとしては、こちらの話があって、そのあとに今日の42節からの箇所、「わたしを信じるこれらの小さな者」という話につながっていくのが、元々の話の流れではないかと考えることができます。そして、その間に、この38節以降の部分が関連あることとして後からここに挿入されたのではないか、そのように考えることができます。

 

 今日の箇所はマルコによる福音書だけではなく、マタイによる福音書ルカによる福音書でも記されています。それらでは、いま私が申し上げたような形で、この社会の中にあって小さい者と思われている者たちを、つまずかせてはならない、そういう文脈で記されています。

 

 ですから、総合的に考えると、今日の箇所で言われている「これらの小さな者」とは、社会の中で小さな者と思われている者、子どもであったり、あるいは信仰的に大人と比べてと言いますか、たとえばイエス様の弟子たちに比べたら信仰が小さく思える者たち。

 あるいは、物の考え方において、イエス様の弟子たちのようなレベルにはなっていないような人たち、そうした、弟子たちの目から見てそう感じられていた人たち、または社会の中でそう思われていた人たち、そうした人たちを「これらの小さな者たち」と言われたと推測することができます。

 

 では、そうした「小さな者たち」をつまずかせた人は、どうなるのでしょうか?

 

 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」とあります。

 

 ここでイエス様はふだんはおっしゃらないような言葉遣いで、ドキッとするようなことを言われています。そして、次にこうあります。「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。」こんなことが書いてあります。

 

 片方の手、自分の片方の手が、自分自身をつまづかせる、という、これはどういうことでありましょうか。そんなことをするのであれば、もう切り捨ててしまいなさい……。ここに書いてあることは、私たちが普段社会の中で生きていて、ここまでひどいことを言われることは無いよな、と思えるような、ひどい言い方、厳しい言い方、常識では到底考えられないようなことが言われているように思います。

 

 そして、イエス様の言葉はさらに続いていきます。「もし片方の足があなたをつまずかせるなら」という言い方で言われています。その次には「もし片方の目があなたをつまずかせるなら」という言い方で続きます。「両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。」

 

 手とか足とか目が、自分自身をつまずかせるのであるなら、そんなものはもう切り取ってしまいなさい、と言われます。そして、そうしてでも天国に入ったほうがよい、と言われます。

 

 自分自身が体が元々の状態といいますか、まあ、健常と思われている状態で地獄に行くよりも、自分の体の一部を失っても、神の国に入って、神様の所に行くことができる、そのほうがよい、と言われています。こうした箇所を読むときに、私たちの心はドキッとするのではないでしょうか。

 

 そして、今日の箇所を読むときの注釈ですが、44節にあたる箇所と46節にあたる箇所に、十字架のようなマークが付いています。これは新共同訳聖書で付けられたマークですが、こんなマークが付けられていると、この箇所が重要だと言われているように感じます。しかし実際は、そうではありません。

 

 これはマークです。新約聖書は元々ギリシャ語で書かれているのですけれど、その元になったギリシャ語の原本はいくつかの種類があって、ある原本にはここで言葉が入っているけれど他の原本には入っていない、というとき、実際に元々の文章の状態がわからないというときには、この十字架のようなマークを付けて、ここにもう一つの言葉が入っていたかもしれない、という注意をうながす印がこれであります。

 

 そして、ここに入っていたかもしれない聖書の言葉というのは、マルコによる福音書でいえば、その福音書の一番最後の所にまとめて書かれています。ですから、この十字架のようなマークは、ここが特に重要だという意味ではありません。

 

 けれども、ここがドキッとするような言葉であって、ここに十字架の言葉が付いていると、何か怖い印象で残るのではないかとも思います。

 

 そしてイエス様の言葉は、このあとに続いていきます。「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

 

 この箇所の一番最後に、「互いに平和に過ごしなさい」という言葉が来て、やっと少しホッとするというか、ああ、そうだなあ、と思えるのですが、ここに至るまではずいぶん厳しい言葉が続いています。「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」……そんな苦しみが待っているのだと。

 

 そして、そこでの「火」という言葉に関連して、「火で塩味を付けられる」と言われます。そしてそこから「塩」という言葉に関連して、「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか」と言われます。

 

 塩というものは、食べ物を保存のために、また、食べ物に味を付けるという意味で大切なものであります。人間が生きるために塩は必ず必要な成分であります。しかしその塩というものが、その塩が持っている塩らしさ、辛み、というものが無くなってしまえば、その塩には味を付けることができない。聖書の他の箇所では、そのように味が抜けた塩は捨てられてしまう、というイエス様の言葉が記されています。

 

 そのようにして塩というものが必要なのだ、人間には、塩で味を付けられる、そうした厳しさが人間には必要なんだ、と言われています。

 

 こうして今日の箇所全体を通して、皆さんは何を思われたでありましょうか。大変厳しいことが言われているなあ、と思われたのではありませんか。そして、ここに書いてあるような言葉、手や足や目や、そうしたものを、もし自分にとってつまづきとなるならば、それを切り取って、そうしなさいと言われます。

 

 そのことによって神の国に入る道を選びなさい、と言われたときに、いやあ、私はそんなことができるだろうか? と思いませんか。たいていの人は、私はそんなことはできません、というと思います。

 

 そして、今日の聖書箇所を読んで、その通りにしました、という人の話は、私は聞いたことがありません。

 

 また、今日の箇所をじっくり読んでみると、この、「片方の手があなたをつまづかせるなら」とありますが、これは一体どういう状態で何を意味しているのでしょうか。手とか足とか目が自分をつまずかせる、何だかこれは意味が不明な感じがします。自分の体の一部が、自分の思いと違ったことをしてしまっている、という状態でありましょうか。そのあたりを考えていくと、段々よくわからなくなってくるのです。

 

 よくわからなくなって、結局私にはできないことだ、と言って、今日の聖書箇所を読むことを終わってしまうと、イエス様の言葉を聞いたことにはなりませんから、大変もったいないことになってしまいます。すると、イエス様はここで何を仰りたいのでありましょうか。

 

 それを知るには、今日の箇所の一番最初の42節の所に戻る必要があります。「わたしを信じるこれらの小さな者たち」、それは、マルコによる福音書の流れでいくと、その少し前の箇所にある、たとえば一人の子ども、そうした存在が言われています。

 

 しかも、イエス様がその話をなされたのは、12人の弟子たちが自分たちの中で誰が一番偉いかと議論していた、まさにそうした場面であります。つまり、自分たちの中で誰が一番優秀で、自分の知恵、自分の力、リーダーシップ、人柄、人望、そうしたものを含めて、誰が一番上なんだと言って議論していたことに対して、いや、あなたたちのそんな姿勢がまさにこの一人の子どものような人たちをつまづかせているのだと、イエス様はおっしゃっているのであります。

 

 おそらく、そう言われた弟子たちは、「えっ?」と思ったのです。自分たちはそんな、子どものような存在を困らせたりはしていない、世の中で小さな者たちと思われている人たちを困らせたりしているつもりはない、そう弟子たちは思っていたのではないでしょうか。

 

 けれども弟子たちが、自分たちの中で誰が一番偉いか、と議論すること自体が、そうした弱い人たちをつまづかせていること、排除していることだ、ということをイエス様はおっしゃっているのです。そして、そんなことをする者は、大きな石臼を首に懸けられて海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい。これはもう、大きな罪を犯して、ゆるされなくなって重い刑を受けて殺されてしまう、そんな人のことがたとえで言われているのでありますが、弟子たちは、まさかそこまで、自分たちがしていることが罪深いとは思っていなかったはずです。

 

 ただ自分たち12人の中で、誰が一番偉いかと、お互いの自慢話をしながら議論をしていた、それだけなのであります。けれども、それがいかに罪深いか、ということをイエス様はおっしゃっているのであります。

 そして片方の手が、片方の足が、あるいは片方の目が、あなたをつまずかせるなら、切り取ってしまいなさいと言われる、そのような厳しいことが言われているときには、それはいったいどういうことなのでしょうか。

 

 こうした箇所を読むことは、なかなか難しいのでありますけれども、切り捨ててしまいなさい、と言われて、はい、じゃあ切り捨てますと言って、自分自身の体を切り捨てることは誰にもできない、と私は思うのです。また、誰もそんなことはしてはならない、と私は思っています。

 

 イエス様は、そう思っておられたのではないでしょうか。イエス様がここでおっしゃっているのは、ここでこうした言い方をすることによって、決して、あなたたちはそんなことをしてはいけない、ということを言っておられるのだと、私は思います。

 

 手や足や目、そうした自分の体の一部分が、自分をつまずかせる、これは一体どういうことなのでしょうか。私は考えてみました。何かでカチンと腹が立ったときに手が出てしまうということがあります。良くないとわかってるのだけれど、ガンと殴ってしまった、そんなときがあります。あるいは、見てはいけないと思うものを、つい見たくなってしまった。そんなこともあるでしょう。

 

 そんなふうに人間は、自分で自分をコントロールすることが完全にはできない存在です。そして、自分では思いがけない所で、あっ、しまった、こんなことをしてしまった、と悪いことをしてしまう存在であります。でも、そんなことをしてしまったからといって、じゃあ、そんな手や足や目を切り取ってしまいなさい、と言われて、はい、そうしますと言えるでしょうか。決して言えないはずです。

 

 ということは、自分の手や足や目に、どんなに問題があっても、それによって、自分が罪を犯してしまうような存在であったとしても、そうしてはいけない、それと同じように、この社会にあって小さい者とされている者たちというのは、あなたがたの体の一部分と同じように大事なんだ、とイエス様はおっしゃっているのではないでしょうか。

 

 自分たちの目から見て愚かに見える者たち、子どもであったり、あるいは女性であったり、あるいは社会的に差別を受けていた人たちであったり、外国人であったり、異なる宗教の人たちであったりします。

 

 あるいは自分たちのグループの中で能力の低い者たちであったり、あるいは何か考え方足りないなあと思ってしまうような人たち、そうしたいろんな人たちのことを小さな者と、イエス様は表現しています。

 そして、そうした「小さな者たち」が、いかに自分たちにとって、何かこう腹立たしくて、一緒にやっていくことができなくって、うとましくて、排除したくなる、そうしたくなる人たちであっても、しかしその人たちを自分の体の一部分であるかのように受け入れなさい、決して切り落としてはならない、というふうに、イエス様は教えておられるのではないでしょうか。

 

 もちろん、こんなふうに今日の聖書箇所を解釈するのは、私個人の解釈であって、一般的にこの箇所をそのように解釈されるかどうかについては、そうではないだろうというふうに私は思っています。また、皆さんもお一人おひとり、今日の箇所を解釈することができると思います。自分が罪に落ちないように、罪の誘惑に負けないように、自分自身に問題があったら自分の体を切り落とすぐらいのつもりで、自分自身の罪深さを、自分でコントロールする、そういう厳しさが自分に必要なんだ、そういうふうに考えることは、これはもちろんできます。

 

 聖書の素直な読み方として言えば、そっちのほうが良いのかもしれません。けれども、私があえて、そのようなストレートな読み方ではなく、もう一つの違った読み方を、今申し上げましたのは、この箇所を読むときに、そんなふうに自分の体を切り落としてでも、自分を打ちたたいてでも、罪を犯さないようにしようとする努力は、多くの場合、失敗するのではないか、無理があるのではないか、と思うからであります。

 

 そしてそうした努力をしようとして、うまくいかなかいことによって、ああ、私は神様に従うことができない、私は聖書の言葉を守ることができないと言って、結局は私は罪人だから、これでいいんだ、そんなふうな開きなおる、そんな結果を呼び込んでしまうのであれぱ、今日の箇所をそのようにストレート過ぎる解釈で読むことは、ちょっとしんどいのではないか、と私は思うのであります。

 

 皆さんはどう思われるでありましょうか。今日のこうした箇所を読むときに、イエス様が後半のほうでおっしゃっておられる、「塩」とか「火」についてのたとえ話は、大変厳しいですけれども、人間にとっては、火で塩味を付けられることは、確かに必要だと思うのです。

 

 そして同時に、「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」とイエス様から言われるときに、単に人間関係というのは、お互いにゆるしあって優しくしあって、ということで終わるのではなくて、やはり、お互いに厳しい面も必要である、ということが言われていると思うのです。

 

 そして、お互いに厳しい面が必要であって、その上でお互いに平和に過ごしなさい、と、いろいろな人間が一緒に生きていく社会、あるいは教会ということにおける人間関係、家族であったり、そういうことを含めた人間と人間の関係、こうした厳しさを持ちながら、お互いに平和に過ごすことについて、イエス様がおっしゃっていると思うのです。

 

 そして、そうした中にあって、とっても大事なことというのは、小さな者の一人ひとりをつまずかせない、ということなのであります。どんなにその人が愚かに見えても、たとえば今日の箇所の前の38節以降の所で言われている所で、イエス様の名前を勝手に使って病気をいやしたり奇跡を起こしている人たち、それでもイエス様のところには来ようとしない人たち、つまり自分勝手な人たち、そんな人たちであっても、それをやめさせたり排斥したりしてはいけないとイエス様はおっしゃいました。

 

 12人の弟子たちが、自分たちの中で誰が一番偉いかと議論しているときに、イエス様は一人の子どもを招いて真ん中に立たせました。世の中にはいろんな人たちがいるんだ、あなたたちの目から見て愚かだと思う人、罪人だと思う人、ちょっとこの人はなあ、と思う人、そういう人が確かにいます。そして、すべての人と仲良くすることはできません。人間はそんなにできた存在ではありません。

 

 だからといって、気に入らない人たちを排除して、放り出して、そして最後は自分たちの中で誰が一番偉いかといって、議論する、そんなふうな社会であってはならない、ということをここでイエス様はおっしゃっていると思うのです。

 

 誰かを排除したいと思っているとき、その相手が、もし自分の体の一部であったとしたら、どうするか、あなたはそれを切り落とすかというと、切り落とさないだろう。それは、いろんなことを思いながらも、問題がある自分という、その体そのもので生きていくということです。

 

 もちろん、いろんなことを悩んだり考えたりしながら、そしてときに自分自身を打ちたたいて鍛えたり、節制したり、そういうことももちろん必要で、自分自身の中に塩を持つということは、そういうことであります。ベタベタしあって何でもゆるしあって、ということばかりしていると、人間関係はだめになっていきます。そういうことはあってはならない。それと同時に、小さな者をつまずかせてはいけない、ということが言われているのであります。

 

 こうした話を読むときに、私は、ふっと思い起こすことがあります。ある所で、一人の牧師の講演と言いますか、聖書解釈を聞いたときのことでありますけれど、聖書の中には「いと小さき者」という言葉が出てきます。今日の箇所にある言葉でいえば「これらの小さな者」と言われるような、小さな人たち、それと共に生きるということが大事だという話をする中で、一人の牧師がこう言いました。「でもね、小さな者というのはね、めんどくさいんですよ」。

 

 そう言われたときに、会場のみんなが「あはは」と笑いました。そこには、小さな者と共に生きるというのは、キリスト教会において大切な、一つのスローガンというか、大切なことなのですが、実際にそうしようとするとき、一筋縄ではいかないことがあります。

 

 「いと小さき者というのは、めんどくさいのですよ」とユーモアを持って言いいたくなる、あるいは、そう言われることによって、聞いている者たちの心が、ふっと、何と言うか、ほぐれると言いますか、クスクスッと笑って、そうだよね、という気持ちになるのです。

 

 そうしたことというのは、いわゆる社会的な弱者と共に生きようとする、そのことの困難を笑いものにしているのではなくて、実際、弱い者と生きることは大切なんだけれど、決して一筋縄にはいかない。めんどくさいこともあるし、腹が立つこともあるし、決してきれい事ではないということも、こうした箇所を読むときに、私たちの心に伝わってくるものがあるのではないでしょうか。

 

 それと同時に、決して、そういう人たちを排除してはならない、そうした人たちは、自分自身の体の一部であるかのように大切なんだ、そんなふうに今日の箇所を読んでいくことはできないでしょうか。

 そうした聖書解釈は、果たして適切であるか、それはお一人おひとり考えていただくことになるのでありますけれども、どのように今日の箇所を解釈するにあたったとしても、小さな者と思われている者をつまずかせない、そのような生き方が必要であり、そのつまづかせないということを心から祈ること。

 

 自分は決して聖人君子ではない、何でもできるスーパーマンでもない、弱い者と生きることを、ああ、めんどくさいと思っている、でも、そんな自分でも、人をつまずかせたくないと思っているのです、ということは神様にお祈りをしていきたい、そんなふうに願うのであります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様。一人ひとりがこの社会の中で生きるときに、つまづきを覚えます。高いハードルを感じ、また社会のいろんな差別・抑圧など、難しい構造を感じます。国際社会の問題もあります。けれども、どんな課題があったとしても、私たち一人ひとり、決して小さな者をつまずかせたくない、なぜなら、私たち一人ひとりもまた、この社会の中にあって小さな者であるからであります。神様、どうぞ私たち小さな者一人ひとりを愛して守り導いてください。いつもイエス様が共にいて隣人との関係を導いて下さいますようにお願いをいたします。
 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

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