京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2022年5月の説教

2022年5月1日(日)、5月8日(日) 礼拝説教

「あの遠くに望みを放つ」

 2022年5月1日(日)京北教会 礼拝説教

 聖書    創世記 8章 6〜22節(新共同訳)

 

 四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、烏(からす)を放した。烏は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。

 

 ノアは鳩を彼のもとから放して、地の面(おもて)から水が引いたかどうかを確かめようとした。しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来た。水がまだ全地の面を覆っていたからである。ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した。

 

 更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。

 見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。ノアは水が地上からひいたことを知った。

 

 彼は更に七日待って、鳩を放した。鳩はもはやノアのもとに帰ってこなかった。

 

 ノアが六百一歳のとき、最初の月の一日に、地上の水は乾いた。ノアは箱舟の覆いを取り外して眺めた。見よ、地の面は乾いていた。第二の月の二十七日になると、地はすっかり乾いた。

 

 神はノアに仰せになった。「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい。」

 

 そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外へ出た。

 獣、這うもの、鳥、地に群がるもの、それぞれすべて箱舟から出た。

 

 ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。

 

 主は宥(なだ)めの香りをかいで、御心に言われた。


 「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。

  人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。

  わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。


   地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも

   寒さも暑さも、夏も冬も

   昼も夜も、やむことはない。」     

 

 

 (以上は、新共同訳聖書をもとに、改行など文字配置を、

 説教者の責任で変えています)

 

                

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 (以下、礼拝説教)

 

 ここしばらく京北教会では、礼拝において、マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、旧約聖書、その3箇所から順番に選んで毎週、皆様と共に読んでいます。

 

 今日の聖書の箇所は創世記の8章です。ここには、ノアの箱舟と呼ばれる物語の一部が記されています。神様が人間の生きている世界を、天から御覧になられたとき、人間はとても罪深く生きていた、悪を行って生きていた、その様子を神様は見て悲しまれ、神様は怒りを持ってこの世界を滅ぼすことを決められました。そして、大きな洪水を起こされました。

 

 しかし、その洪水を起こされる前に、神様はノアという人とその家族だけを選んで、箱舟を造らせて、その箱舟に地球上のすべての動物、鳥などを集めて、その箱舟に乗ったものだけが洪水から救われるようにされました。

 

 そして、雨水が続き洪水が続いたあと、40日間経って、そして水が引き始めた、そこから今日の聖書箇所があります。こうしたノアの箱舟と呼ばれる物語、こうした洪水物語というものは、聖書の中だけにあるのではなくて、当時の世界、今でいうと中近東と呼ばれている地域にあって、他の地域にもあった物語であるということであります。

 

 それは、当日の世界においてナイル川など大きな川があり、その下流に文明が栄えて人間の生活が栄えた、しかしその川が氾濫するときには、一気に地表が流されて、ぬぐわれて壊滅していつた、そうした実際にあった、とても大きな自然災害が繰り返された、その経験というものがあって、そこからこうした洪水物語というものが伝説、伝承、言い伝えという形で残されていった、ということであります。

 

 そうした自然世界の出来事から起こる人類の経験というものを、単に悲惨な経験というだけではなくて、神様への信仰と結びつく形で人々は受け止めていました。今日の聖書箇所である創世記のノアの箱舟の物語はまさに、そのように元々が実際にあった自然界の出来事、それを神様への信仰ということと結びつけて描かれています。

 

 「結びつけて」というと、この物語を書いた人というのがいて、その人が「じゃあ、このように解釈して、このように書こう」と、あたかも、例えば小説を書くようにして、神への信仰と自然界の出来事を結びつけるんだ、と思って書いたように思われるかもしれませんが、それよりは、実際としては、これを書いた人がそうやって自然界のことと神への信仰を結びつけたというよりも、自ずとそれらが結びついていたのではないか、と思うのです。

 

 それは、作為的に何かおもしろい小説を書こうとして、そのように結びつけた、ということではなくて、自然界で起こる悲惨な出来事というのは、これは単に何かの偶然で起こることではなくて、その背景に神様がおられて、その神の怒りや悲しみ、そしてその怒りや悲しみを通して示される御心、というものがあるのだと、いうことを人々は本能的に自分たちの心の中に刻み込んでいたのではないかと思います。

 つまり、それは人間が何かの創作意欲、何かをクリエイティブに作っていく、ということで、このノアの箱舟の物語を考え出したのではなくて、実際の辛く苦しい自然災害の経験の中で、自ずと、神への信仰というものが、災害の苦しさと結びついていった、そういうふうに考えてことができるのではないでしょうか。

 

 そういう意味で、今日の箇所にある物語というものは、今日の現代日本社会に生きている私たちにとっても、たくさんのことを教えています。自然災害が起こるときに、それは単なる偶然の結果ではないと考える。そして、生き残った者は、何をすべきなのか、ということを考える。

 何にも自分を支えるものがなくなってしまったかのような、この悲惨な災害の悲劇のあとで、それでも生きなくてはならない、というときに、それはなぜか、どうして、どのように生きていったらよいのかと、この自分を突き動かすものがある。神様というのは、実は、そういうところにしっかりと働いて下さっているのだ、という、そのことは人類の歴史の中にあって、いつの時代にあっても、変わらないことであると思われます。

 

 今日の聖書の箇所を一つひとつ見ていきます。 

「四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、烏(からす)を放した。烏は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。」

 烏(からす)は、あとに出てくる鳩に比べて、より大きな鳥であります。大きな鳥は飛び立ったが、出たり入ったりしていた。なかなか、飛んで行ってくれなかったのであります。

 

 次の8節はこうです。「ノアは鳩を彼のもとから放して、地の面(おもて)から水が引いたかどうかを確かめようとした。しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来た。水がまだ全地の面を覆っていたからである。ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した。」

 
 このとき地表を埋め尽くしていた水、その海の上に浮かんでいた箱舟から、こうしてノアは鳩を放ちました。大きな鳥は飛んで行こうとしなかったので、より小さな鳥を放ったのでありますが、とまるところがなかったので帰ってきた。まだ、この地上の中のどこに行っても、生き物が生きるための場所がなかったのであります。

 

 このとき、ノアはどんな気持ちであったでしょうか。世界のどこかに地表が顔を出していて、そこでまた生き始めることができる、地上で生活することができるように、そのことを願って鳩を放したけれども、鳩は帰ってきてしまった。どこにもとまる所がなかった。

 

 このとき、この広い海の中で生きている人間は、ノアと家族たちだけであった。この広い海に浮いているたった一隻の舟、それだけが生きた命を運んでいる舟であり、他には何もなかった。このようなときに、ノアはものすごく孤独な思いを味わったと思います。自分たちしかいない海、なんという孤独でありましょうか。

 

 その中で孤独に生きているノアは、この箱舟の中で一緒に生きている小さな鳩を放しました。そこには、単に生き物である鳩を偵察係として話したというだけではなくて、自分たちと一緒に生きている命の片割れ、命の仲間である鳩を放した、自分の代わりに、自分が行けないから行ってきてくれと放したのでありますが、その鳩は戻ってきてしまった。

 

 ノアは、このあと一体どうなるのでありましょうか。
「更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。ノアは水が地上からひいたことを知った。」

 

 まだ地上に、鳩がとまれるような場所はなかったのでありますが、水が引いてきた。その証拠にオリーブの葉っぱが水面の上に出ていたというのであります。ずいぶん賢い鳩だなあ、と思います。この鳩は単なる偵察係ではなく、単なる生き物ではなく、ノアから送られてきた、ノアの分身のような存在でありました。

 

 そして12節。
 「彼は更に七日待って、鳩を放した。鳩はもはやノアのもとに帰ってこなかった。」

 水が引いて、鳩が生きることができる地表が姿を現していた、ということであります。自分の分身である鳩が、もう戻ってこない。それは、命というものが生きる地表が現れてきているということであります。

 

 こうして、ノアは、時間の推移というものを知ることになりました。水が減ってきている。徐々に減ってきている。そしていつか、この箱舟がこの地面に着く。またそこで新しく生きることができる、そのことをノアは実感したはずであります。

 

 そしてそのあと、13節、14節には、水が乾いたこと、そして舟が地上に着地した、そこでノアが覆いを開けてこの世界を見たことが書いてあります。

 

 その次の15節にこう書いてあります。

 「神はノアに仰せになった。『さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい。』」

 ここからまた、命の歴史が新しく始まります。それは、旧約聖書を最初から読んでいる人にとっては、世界の一番最初から天地創造がなされている、そこで生き物が、命というものが神様によって造られた、そこからまた始めていく、そうした物語の繰り返しということが言われているのです。

 

 世界というものは、洪水によってドロドロに流されて、何にもなくなって、しかしそのあとに、神様が残されたほんのわずかな命が、そこからまた増えていくのだと。人間も動物も、鳥も家畜も、地を這うものも。地を這うものというのは、へびであったり昆虫であったり、何か小さな生き物ということでしょうか。そうしたものが、また地上で生きていくのです。

 

 そして、ノアとその家族は外へ出ます。動物たちも外に出ます。そこでノアが最初にしたことは何であったか。

「そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外へ出た。獣、這うもの、鳥、地に群がるもの、それぞれすべて箱舟から出た。ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。主は宥(なだ)めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
 地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも 
 寒さも暑さも、夏も冬も

 昼も夜も、やむことはない。』」    

 

 神様はこのように、御心に言われた、つまりご自身の中でこのように言われた、ということが書いてあります。ノアの家族、そして限られた動物たち、それ以外のものはみんな滅ぼされた、しかし、このとき以降はもう二度とすまい、と神様ご自身が仰っておられます。

 

 「人は心に思うことは幼いときから悪いのだ」というとき、人間は元来、罪深いものだということが言われています。だから、人間の罪のゆえに、人間を滅ぼす、人類のすべてを滅ぼす、世界を滅ぼすということはしない、と言われます。

 

 こうした古代の言い伝えである物語を読むときに、私たちはいろいろなことを心に思うことができます。こうした物語にさほどの関心を持たないときは、「ああ、そうですか」といって終わることができます。「ああ、ノアの箱舟、有名な物語ですね」「こんなふうに終わるのですね、特に感想はありません」そんな感想を言うこともできるでしょう。

 

 また、少し皮肉っぽい言い方をすることもできます。最後に、神様が「こうしたことは二度とすまい」と仰っていますが、それだったら、最初からこうしたことをしなかったら良かったのじゃないか、ということは普通に考えることができます。やっておいて何なんですか、ということです。結論が、人間は最初から罪深い、ということはわかっていたことじゃないですか。神様が人間を創造したのでしょう? そんなふうに、神様がいかにいい加減であるか、不確かであるか、また聖書のこうした物語がいかに都合が良いか、そうしたことをいくらでも皮肉ることができます。

 

 また、世界でほとんどの人が滅びたのに、なぜノアとその家族だけが残されたのか。しんでいった人たちはどうなるのか。命の大切さ、なんていうことをいうがおかしいじゃないか。聖書の物語は、いくらでも、それに対して私たちが非難することができるのであります。つじつまが合わない。身勝手ではないか、神様は。そのように言うことはいくらでもできます。

 

 けれども、聖書の物語は、誰が見ても問題がないように作られているのではなく、私たちの心に問いかけを残すために書かれているのだと言っても間違いではありません。

 

 誰も批判できないような完璧な物語だとすれば、それは私たちの心に何一つ残していかないのです。問いかけ、というものは、一体なぜこんなことになるのだ、と私たちが思うように、聖書というものは書かれているのです。なぜ、と私たちが神様に問うように、聖書は書かれています。

 

 その聖書の言葉を通して、「なぜ」と問う私たちが、聖書を読むなかで、神様から問われていることに気がつきます。この聖書の言葉を読んで、あなたは何か思い出さないか、何か思わないか。神様のほうから問いかけがなされているのであります。それは何でありましょうか。

 

 それは、こうした聖書を読むときに、一人ひとり受け止め方というものは違っているのでありますけれども、私はこの聖書箇所を読むときに、どうしても思うことはウクライナでの戦争のことであります。

 

 世界が滅びていくような恐ろしい光景が、報道で私たちは目にすることができます。2日でも終わるのではと言われていた戦争が、もう2ヶ月続いています。いろいろな想定外のことが起こっているのでありましょうが、国際社会の動向や、ロシアの動向やウクライナ国内の動向や、いろいろなことが報道されています。それらを見聞きするたびに、私たちは自分の心のなかでタンスがひっくり返ったように、今まで自分が考えてきたことが全部突き崩されるような、そんな恐ろしい思いにとらわれています。

 

 そんな中で今日の聖書箇所を読むときに、心に思うことというのは、この洪水の物語というのは、おそらく単に過去の自然災害の洪水、そのことだけを言っているのではないだろう、ということであります。これは、やはり、戦争ということも言っているのではないか。大きな戦いによって人間が住むことができなくなる、本当に壊滅的に滅ぼされていく、その状況、それがここに重なっているのではないか、そう思っています。

 

 いつになったらこの戦争が終わるのか。願っても願っても戦争が終わらない。烏(からす)を放しても烏が舟から外に出て行かない、鳩を放しても鳩が戻ってくる。どこに行っても人が生きる世界が見つからない。だから、自分たちで造った箱舟の中に身を潜めて生きるしかない。

 世界を見渡すと、他はみんな廃墟になってしまって自分たちだけが生きている。そのものすごい孤独、それは戦争の中でもそうであったのではないでしょうか。

 そして、洪水の水が引いていったあとの、ノアたちのこの状況というものは、大きな戦争が終わったあとの人々の姿を表しています。戦争というと、勝ち負けというものがあることを私たちは思います。けれども、そのあとを生きていく一人ひとりの民衆にとっては、実は勝ち負けということを超えて、ただ悲惨ということばかりが広がっているのではないか、と思うのです。

 

 どっちが勝ったから良かったね、ということは、それは言うでしょうけれども、しかし命を失い、生活を失い、自分の体や健康や、いろんな自分の生きることの誇りや、いろんなことを失ってしまったあとにやってきた、平和というものがもし与えられたとしても、一体どうやって生きていったらいいのでしょうか。

 

 そのとき、どっちが勝った、負けた、だから……というようなことを、言う人は言うでしょうけれども本当に自分自身にとって大切なものをいっぱい失ってしまったら、どっちが勝っても負けても、それはこのノアの洪水のようにひどいものであったということは、何のかわりもないのです。

 

 どっちが勝ったのか、ということを問題にするのではなく、もはや人間の生きる場所が地上にない、その中で身を潜めて生きるしかない、という孤独。いつかこのときが終わりますように、と願い続けて、そしてあるとき、意外なときに、この鳩がオリーブの葉を加えて帰って来たように、「ああ、もしかしたら、世界が落ち着いていくのかもしれない」と思えるときがやってくる、ということであります。

 

 いまのウクライナの情勢にあって、いつ鳩がオリーブの葉をくわえて来てくれるか、それはわかりません。見当もつきません。けれども、そのときがいつかやってくる、そのことを願い続ける、そうした希望がこのノアの箱舟にはあります。

 

 一体この戦争は何で起こったのか、身勝手ではないか、おかしいではないかと本当に誰でも思います。今日の聖書箇所で、神様が最後に、こんなことは「二度とすまい」と言われますが、そんなだったら最初からそうしたら良かったじゃないか、と思いますが、そんなことを言っても意味がありません。

 

 目の前に起きてくる大変な現実の前で、それでも生きざるをえない、それは何かはっきりとした理由があって、生きざるをえない、というのではなくて、ひたすら追われ続ける生活をしながら、それでも人間がなすべきことというのは、やはり前を向いていくということだからです。

 

 その中でいかに矛盾があり、苦しみがあったとしても、それでも生きていく。いつか箱舟から出て、この地上に下りるときがやってくる。そのとき、最初にすべきことは何であるのか。それは神様への礼拝である、ということであります。

 

 そして、そこから、天地創造のときと同じく、命が命を増やしていく、その世界を造っていく、歩みを始めることになります。それが何のためであるか、ということは明確に示されているわけではありません。けれども、押し出されるように人間はそんなふうにして、生きていきます。

 その中において私たちは神様に「なぜ」と問いかけながら、逆に今度は神様から問いかけられて、また新しく生きていくようになっていくのであります。

 

 あなたは、どのように生きるのか、と神様が問うています。誰かが、明確な答えを出してくれれば、それに従って生きたら幸せになる、ということであれば、どれだけ楽でありましょうか。けれども現実の世界では、そういうものではなくて、この現実世界に満ち満ちているのは、人間の罪と不確かさということであります。明確な答えは誰からも与えられない。それでも、押し出されるように私たちは生きていく。その中で、前を向いて生きていく。

 そのときに、いつか、鳩がオリーブの葉をくわえて帰ってきた、「ああ、もしかしたら、この世界は、また私たちが生きていくことができるようになっていくのかもしれない」という、そのことを願っていきたいと思います。ノアは、鳩をはるか海の向こうへと放しました。今日もまた、私たちは今の世界にあって、鳩を放していきたい。自分の分身である、命の分身である鳩を放していきたい、そのことを心から願います。

 

 お祈りします。

 天の神様、私たちが生きているこの世界にあって、何を頼りにしていったらいいかわからない、この不安な世界の中にあって、聖書は私たちに主イエス・キリストを与えて下さいました。イエス様の導きによって、この世界を見つめ直し、また自分自身を見つめ直して生きていくことができますように。心よりお願いをいたします。イエス様が復活なされた、神様の御心によってイエス様が復活なされた、という聖書の言葉の前で戸惑いながら、また悩みながら、それでも私たちは押し出されるようにして、神様に押し出され、イエス様に導かれて生きていくことができますように。この世界にまことの平和が来たることを願い、そのために私たちが働くことができますように、お願いをいたします。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

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「一杯の水をありがとう」

 2022年5月8日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書 マルコによる福音書 9章 38〜41節(新共同訳)

 

 ヨハネがイエスに言った。

 

 「先生、

  お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、

  わたしたちに従わないので、

  やめさせようとしました。」

 

 イエスは言われた。

 

 「やめさせてはならない。

  わたしの名を使って奇跡を行い、

  そのすぐ後で、

  わたしの悪口は言えまい。

  わたしたちに逆らわない者は、

  わたしたちの味方なのである。

 

  はっきり言っておく。

  キリストの弟子だという理由で、

  あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、

  必ずその報いを受ける。

           

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 (以下、礼拝説教)

 

 ここしばらく京北教会では、礼拝において、マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、旧約聖書、その3箇所から順番に選んで毎週、皆様と共に読んでいます。今日の聖書の箇所はマルコによる福音書9章です。ここには、イエス様が弟子たちに言われた言葉が中心に記されてあります。

 

 「ヨハネがイエスに言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。』」とあります。

 

 このヨハネはイエス様の12人の弟子たちの1人でありました。ここで言われているのは、その時代において、悪霊を追い出すということは、言葉を使って追い出すということであり、そこで権威ある人の名前を使うことによって、その名前が持っている力が働いて悪い霊を、その人に取りついている悪霊を追い出すことができる、そのように信じられていた時代のことであります。

 

 そのような時代にあって、イエス様の名前を使って悪霊を追い出している、そういう人たちがいたのであります。

 そして、イエス様の弟子であるヨハネは、そういう人たちを見て、その人たちと話をしたのでありましょう。そこで、イエス様の名前を使って悪霊退治をしているのであれば、自分たちと一緒に行動してほしい、とヨハネはその人たちに言ったのでしょう。

 

 しかし、その人たちはヨハネの言うことには従いませんでした。その人たちはヨハネたちには付いてこなかったのです。

 

 ここで想像できることは、実際にイエス様に従っていくつもりは全然ないのだけれども、イエス様の名前を使って悪霊退治をすると、本当に出て行って、人を助けることができる、そういうことでイエス様の名前だけを使っていた、そういう人たちがいた、ということです。

 

 そして、その人たちはヨハネが声をかけても、イエス様と本当の意味で一緒に行動しようとはしなかった。そういうことがあったので、その人たちに対して、イエスの名前で悪霊を追い出すことをしていたのを、ヨハネがやめさせようとしていた、そういうことがあったのです。

 

 それに対してイエス様はおっしゃいました。
 「イエスは言われた。『やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。』」

 このようにイエス様は言われました。イエス様の名前だけを使っている人たち、本当にはイエス様に従っていくつもりはないのに、表面的にイエス様の力だけを勝手に使っている人たち、その人たちに、そのことをやめさせようとしたとヨハネが言ったときに、「それをやめさせてはならない」とイエス様ははっきりおっしゃいました。

 

 その人たちがこっちに来ないからといって、その人たちの、人を助ける働きをやめさせてはならない、ということです。

 イエス様は「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」と言われています。

 もし、その人たちの働きがいかに形だけのことであっても、ずるいことであっても、それでも、その働きのすぐあとで、その人たちはイエス様の悪口は言うことができないだろう、とイエス様は言われます。

 

 そういうことであれば、その人たちは、私たちに逆らわない者であるのだから、私たちの味方なのである、とイエス様はおっしゃっているのであります。

 

 しかし、政治という意味でいえば、イエス様に賛成するというなら、その人たちはこっちに来て私たちに従うべきだ、それをそうしないのであれば、それはおかしい、だからその人たちの活動をやめさせるべきだ————というように、これを政治の問題として考えるならば、ここで弟子のヨハネが言っていることはもっともなことであります。

 また、今風にいえば、たとえば商標登録というものがあります。この商品の名前を使うのであれぱ、当然お金を払うべきだ、こっちに従うべきだ、そうしないのであれば、商品の名前を使ってはいけない。現代社会であれば、そんなふうな法律問題とすることもできます。

 けれども、イエス様はここでそのように、何かの商標登録とか政治とか、そうした妙な考え方でおっしゃっているのではありません。そうではなくて、どんな人たちであったとしても、その人たちがイエスの名前を使って何かの良いことをしているのであれば、それはやめさせてはならない。そういう、はっきりしたことをここでおっしゃっておられます。

 

 そして最後にこう言われます。41節。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」このようにあります。

 

 ここで「キリストの弟子」というように表現されている言葉は、ギリシャ後の原文で見ますと、「キリストのもの」という言葉であります。あなたがたが「キリストのもの」だという理由で、「あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は必ず、その報いを受ける。」

 

 「キリストのもの」とは、キリストのもとにある者、キリストにつながっている者、キリストの下にいるもの、そんないろんな解釈をすることができます。つまり、文字通りに「弟子」ということでなくても、キリストのものである、キリストがその人を持っていて下さるということです。その、あなたがたにはキリストが責任を負って下さっている、という意味です。

 

 そのあなたがたが、キリストのものである、キリストのもとにあるという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくださる者は、必ずその報いを受ける、恵みを受ける、とイエス様はおっしゃっているのであります。

 

 それは本当の意味でイエス・キリストに従って、弟子たちと一緒に生きて下さる、ということほしてくれる人たちではなかったとしても、その人たちが、イエス様のもとにいる人たちに対して、本当に彼らに一杯の水を飲ませてくださる、つまり助けてくれる、支えてくれる人だということです。

 そうして、本当にわずかなこととして、暑いときであれば一杯の水を出す、それぐらいのことはできるだろう、ということをしてくれた人は、必ずその報いを受ける、神様からのお返しを受ける、恵みを受ける、ということであります。

 

 ここでイエス様がおっしゃっておられることは、神の恵みとはクリスチャンだけに限られるものではない、ということです。クリスチャンに対して一杯の水を恵んで下さる人には、必ず恵みがあるのだと。

 

 だから、イエス様の名前だけを使って悪霊退治をしている人、それを何と言ったらいいのでしょうか、ちゃっかりしていると言えばいいのでしょうか。あるいは、ちょっと冷たく言えば、あの人は詐欺まがいのことをしている、そうともいえるかもしれません。そんなずるい人たちも世の中にはいます。

 

 けれども、イエス様はおっしゃるのです。「『やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。』」

 

 ここには、ときに、キリスト教とは何だろうとか、あるいは宗教とは何だろうとか、教会とは何だろう、とかいうことを、ふと考えるときに、大きなヒントを与えてくれるものがあります。

 

 教会って一体何によって成り立っているのだろうか。それは教会員によって成り立っているのは、当然のことであります。けれども、この社会全体の中で見たときに、キリスト教というものそのものは、教会の中だけで支えられているのではありません。

 この広い世界全体の中にあって、キリストの弟子だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人たちが、無数にいるから、教会というものが成り立っている、キリスト教というものが存在している、そのことを私たちは、今日のイエス様の言葉から教えられるのであります。

 

 今日の箇所を読んで、それぞれ思われることは一人ひとり違っていると思います。いろいろな意味で今日の聖書箇所は、物を考えさせてくれる箇所だといってよいと思います。まあ、聖書のどの言葉もそうなのですけれども、今日の箇所は今日の箇所でまた、その中で何と言いますか、味わい深い箇所だなあ、と思います。

 

 一杯の水を飲ませてくれる者。それは一体誰でありましょうか。この箇所を読むときに、まさに、今読んでいる私たちが一杯の水を誰かから飲ませていただいている、そんな気分にならないでしょうか。

 

 私たちが普段飲んでいる水は、神様からいただいている恵みであると共に、たくさんの人たちの協力によって与えられている水であります。


 今日の箇所を読みながら私は、いくつかのことを思い起こしました。

 

 それは最近のことなのでありますけれども、実は、私の父親がいま、私たち家族が育った家を使って、生駒伝道所という伝道所を開いています。その伝道所は今から何十年も前から奈良県生駒市にあったのでありますけれども、礼拝する場所がなかなか得られないときがあり、転々としていました。その中で、私の父親が自分の家でよければといって、家の一室を伝道所の礼拝に使うことになったのであります。

 

 その生駒伝道所に最近、一人の方が来て下さっているということであります。先日聞いたところでは、その方は、私が昔、小学生だったときに子ども会というのが地域でありまして、その子ども会でクリスマス会があった。そのときに、ちょうど子ども会の世話役をしていた私の母親が、クリスマスにイエス様のお話をした、そのことを覚えていて、そして礼拝に来られたということを最近聞きました。

 

 もうそれは、昔々の話であって、私もその子ども会の場にいたのかいなかったのか、ということも覚えてはいませんけれども、何かそのころに母親が、地域の子ども会の世話役かPTAか何かわかりませんが、何かをしていた、ということはかすかに記憶にありました。しかし、そのときのことが今につながっていたということは、何か不思議なこととして、驚くものがありました。

 

 そして今から思い返すときに、その地域の子ども会というものは、別にキリスト教と特に関わりがあるわけもないのですが、クリスマスをしてそのときに私の母親に何か話をする機会をくれた、ということは、とても良かったことだったのだなあ、ということを思うのです。

 

 今日の聖書箇所を読むときに、キリスト教に別に理解があるわけでもない、関係があるわけでもない、けれどもクリスマスだから、ということで、そんな話をする機会を私の母親にくれた、地域の子ども会の関係者の人たちに、感謝を覚えます。

 

 今日の聖書の箇所にあるのは、キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者、それは、そんなふうな、無数におられる、ひょんなことから、何か教会あるいはキリスト教の考え方というものを、どこかで支えて下さる方、どこかでつながって下さっている方、そういう方たちではないか、ということを思います。

 

 また、それと別に、最近、私が経験したことをお話します。私はこの連休の間に、何か普段していないことをしたいなあ、と思っていましたが、ひとつの機会があって、京都の南のほうにあります、伊勢田という駅からしばらく行ったところにある、ウトロ平和祈念館というところに行ってきました。

 ウトロというのは地域の名前です。いま、北海道でもウトロという地名が出ていますが、そことは全く関係がありません。京都の南部です。

 そのウトロの地域には昔、戦争中の時代には、京都に飛行場を作るための工事現場があり、そこに朝鮮半島からたくさんの人たちが労働者として来ていた、連れてこられていたのでありますが、その人たちが戦後その地域に残って生活をしていました。

 その土地が何十年も経ってから、それは不法占拠であると訴えられて、でも今まで戦争の結果、植民地支配の結果としてそこに住んでいた人たちの生活はどうなるのか、ということでもう40年以上、その地域において、ずっと話し合いがされてきました。

 

 そして、紆余曲折があった中で、最終的にその土地を所有者から買うことができ、そこに公営の住宅が建てられることができ、最終的な解決に至ったのであります。そこに、歴史を記念するウトロ平和祈念館というものが開設されました。私はそこに行ってまいりました。

 

 そこに行った私の、自分の中の理由というものがあるのですけれども、それは、もう何十年も前からウトロという地名や状況のことは、大学生のときから聞いてはいたのですが、実際に行くことは一度も無かったので、この機会に一度行ってみたいということがありました。

 

 それともうひとつの理由は、こういうことがありました。それは、ウクライナで戦争が始まって以来、私の心の中はものすごく重いものがあり、苦しめられており、この世界がおかしくなっている、この状況にすごくしんどい思いをしています。その中にあって私は、ただしんどいとか、重い、暗いとか、そんな気持ちばっかりで生きていっていいのだろうか。そんなふうに思ったのです。

 

 確かに、世界の戦争の状況はしんどい。ミャンマーを見たって、シリアを見たって、ロシアを見たって、中国だって、アメリカだって、どこを見たってしんどい状況です。けれども、その状況の中にあって、ただ心を暗くしているだけではなくて、何かその中で変わっていく、この状況を変えていくために、足下から平和のために人権のために、働いている、そうした人たちの働きに触れたい、そういう思いがありました。

 

 ただ世界の現実の前で怖くなっているだけではなくて、そこから解決を目指していく道が、どこかにないか。そうした気持ちになりたかったのであります。そんな気持ちからウトロ平和記念館に行って、大変勉強になりました。

 

 その中でシンポジウムがあって、オンライン、インターネットで参加できるのでありますけれど、その中でこれからのウトロ地区のことなどを考える、シンポジウムをされたのでありますけれども、その地域において、韓国の人、朝鮮の人、そして日本人、そうした違った立場の人たちが協力することによって、地域で生きていくことが大切であり、そうして平和のために生きていきたい、という主旨のシンポジウムでありました。

 

 それを見ておりますと、5人ほどシンポジウムに登場された内に1人、私が知っている方がおられました。クリスチャンの方でありました。その方は高校の先生をしながら、地域の文化活動に関わっておられるということで、いろんな話をしてくださいました。

 

 それを見て、「あっ、あの人や」と思ったのですが、何だかそのときに、ちょっとだけ誇らしいような気がしたのです。クリスチャンの人がずっと前からその地域に関わっているんだ、もちろん、クリスチャンでない人のほうがずっと多いのだけれども、そこで一緒に働いて下さっている、ということが何か誇らしい、うれしい思いがしました。

 

 そしてまた、そのシンポジウムの中で、別の方がこんな話をされました。このウトロの問題は何十年も続いてきたのですが、土地の所有権を巡る裁判では残念ながら敗れてしまったのです。いま解決に至ったのは、裁判では負けたけれども、土地を買うことができたのでそこに公営住宅を立てることができたということです。

 

 その裁判に負けたときに、裁判のあとで記者会見を開きたいということになって、何の連絡もしていなかったのだけど、洛陽教会という教会に電話して、教会の地下にあるホールを場所に貸してくれないと頼んだら、何の連絡もしていなかったのに、すぐに場所を貸してくれることになった。そこで裁判所から洛陽教会に歩いていって、そこで記者会見を開くことができたそうです。

 

 そのことを、シンポジウムの中で、何十年もの歩みのなかで印象に残っていることとしてお話された中で、教会のことが出てきたことに私は驚きました。そして、少し誇らしい思いがしたことも確かです。

 

 教会というものは、先頭に立って旗を振って、さあこれをしよう、といって世の中の先頭を走っていく、そんな働きはそうそうできるものではありません。けれども、人が気がつかないようなところで、実はあれっと思うようなところで、重要な働きをしていることがあるのです。

 

 そして、それがあるかないかで、決定的に物事が変わるかもしれないような所で、教会というものが、キリスト教というものが、目に見えない所で働いているんだ、ということを、私は知ることができました。そのことがとてもうれしかったのであります。

そんな思いを持ちながら、今日の聖書箇所を読んでいるときに、イエス様の言葉が心に響いてきます。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 

 それは、地域の子ども会であっても、地域の人権活動であっても、私たちそれぞれが生活している場において出会う、無数の方々が、教会というものに対して、そんなに理解がなくたって、一緒に行動してくれるわけでもなくたって、それでも、あなたがたに好意的であるならぱ、一杯の水を飲ませてくれる者は、必ず報いを受ける、神様からの祝福を受けるんだ、というイエス様の言葉は、私たちを励ましていると思えます。

 

 今日は5月の第2日曜日であり、コロナ禍になる前は、京北教会では「教会ファミリーの日」ということで礼拝をして、そして午後には教会の庭で「焼きそばパーティー」をしてきました。コロナになってそういうこともできなくなりましたが、家族のことを思うとき、家族とは必ずしも考え方が一緒ではない、ということをも思います。

 

 家族であっても、クリスチャンではなく、仲も悪い場合もあるかもしれません。けれども、どこかで一杯の水を飲ませてくれている、家族とはそういうものではないかと思うのです。そうした一人ひとりのつながりというもの、それを大事にしていきましょう、そのようにイエス様は私たちに、今日の聖書箇所を通して教えて下さっているのではないでしょうか。

 

 そして、教会において、この神様を信じましょう、と言うときに、その神様とは、このイエス様の言葉のように、心の広い神様である、ということです。

 

 「一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 

 この世界全体にあって、そうなんだ。神の恵みは決して閉ざされていない。教会につながる皆様が、世界のどこでどんな活動をしたって、そこで必ず、神様のことを知らない人、クリスチャンではない人、その人たちと一杯つながって生きていく、助け合って生きていく、その中で必ず大きな恵みが与えられる。

 そのことを思うときに、この重苦しい世界の中にあっても、平和を願う人たちの思いが世界中にあふれています。そこにつながっていくことにおいて、私たちは一人ひとり、なすべきことがあり、そしてその中で、恵みが与えられていきます。

 今日の箇所にあるイエス様の言葉を聞いて、もう一度、元気を出していきたい、日々を生きる力を出していきたい、そのように願うものであります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様。私たちが日々生きていく中にあって、いろんな問題があって、思いわずらうこともあるのですが、その私たちにイエス様が共にいて下さること、そして一杯の水を恵んでくれる人たちが無数にいることを、教えられて感謝をいたします。どうか、自分の足下から平和のために祈り、また、人と共に生きていくことができますように、お導きください。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

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