京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2022年3月の説教

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2022年3月の説教

 3月6日(日)、3月13日(日)、3月20日(日)、3月27日(日)

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「愛は人に借りを作らず」2022年3月6日(日)説教

 聖書  ローマの信徒への手紙 13章 1〜10節 (新共同訳)

 

 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。

 神に由来しない権威はなく、

 今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。

 

 従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、

 背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。

 実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、

 悪を行う者には恐ろしい存在です。

 

 あなたは権威者を恐れないことを願っている。

 それなら、善を行いなさい。

 そうすれば、権威者からほめられるでしょう。

 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。

 

 しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。

 権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、

 悪を行う者に怒りをもって報いるのです。

 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。

 

 あなたがたが貢(みつぎ)を納めているのもそのためです。

 権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。

 

 すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。

 貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、

 恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。

 

 互いに愛し合うことのほかには、だれに対しても借りがあってはなりません。

 人を愛する者は、律法を全うしているのです。

 

 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、

 そのほかどんな掟があっても、

 「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。

 

 愛は隣人に悪を行いません。

 だから、愛は律法を全うするものです。 

 

 

 (以上は、新共同訳聖書をもとに、改行など文字配置を、
 説教者の責任で変えています)

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 (以下、礼拝説教)

 

 京北教会では最近、マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、そして旧約聖書、その三つの箇所から選んで毎週順番に、礼拝で皆様とご一緒に読んでいます。本日の箇所はローマの信徒への手紙です。

 

 今日の箇所には、使徒パウロがローマにある教会の人たちに対して教えている言葉が書かれています。ローマの信徒への手紙は全体として、とても長い手紙であり、手紙というよりも実際には一つの説教のような内容であり、また神学論文のような形もとっています。

 

 この文書は、イエス・キリストの十字架と復活ということが、私たち一人ひとりにとっての救いであるということが、論証されている手紙であり、そしてその手紙の終わり近くになっていくときには、イエス・キリストの福音を信じるクリスチャンがどのように生きていったらよいのか、ということを具体的な生活のこととして教えているところであります。

 

 今日の箇所は、まさにそうした、この実際の社会の中で人間がどのように生きていくべきか、神への信仰を持ってどう生きていくべきか、教えている場面であります。この箇所においてパウロは、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」と言って教えています。

 今日の箇所は聖書の解釈において、いろいろに議論されていた場所であります。いや、聖書の他の箇所も皆そうなのですが、聖書の言葉を読むときに、誰もが同じことを思うわけではなく、読む人によって本当にその解釈は分かれてきます。また、こうした箇所を読むときに、そこに書いてあることが本当に正しいのか、正しくないのか、ということが議論されることになります。

 

 今日の箇所は、聖書を読む者にとって、なかなか手ごわい箇所と言ってもいいでしょうか。人によって解釈が分かれてくる箇所であるかもしれません。というのは、ここに書かれてあるような、権威、権力というものをパウロは肯定して、それに従うことを勧めているからであります。

 その理由は、この世にある権威というものは、すべて神様が立てたものであって、神様の御心をこの世に現すために、権力者というものが立てられているのだから、それに逆らわずに従って生きることを勧めている、という場面であります。

 

 そうしたパウロの教えというものは、この現代世界に生きている私たちにとって、どうでありましょうか。政治的な独裁権力、独裁国家、独裁政治がなされている、その国でどんなことが起こっているか、戦争の恐怖、抑圧、差別、様々なことを考えていくときに、今日の箇所に書かれていることはどういう意味を持つのだろうか、とも思います。

 

 また、世界中で同じ事が言えるのでありますけれども、既成の政治、既成の社会のあり方というものの中で、人々が抑圧され、苦しめられ、それに対して闘いを挑もうとするときに、今日の聖書箇所が持ち出されて、キリスト教というのはこういう考え方をするんだ、だから刃向かうな、と言われたら皆さんはどう思うでありましょうか? その状況によって、また、人によって、その時に思うことはみんな違うのですけれど、反発を感じる方が多いのではと思います。

 

 今日の聖書箇所で言われている理屈が、いつでもどこでもどんな時でも正しいのならば、私たちは権力に対して闘うことはできません。いつも従わせられている、従順な人間になり、その中で権力者から好かれるようなことばかりしている、果たしてそれが正しい生き方でありましょうか。そのように考えていくと、今日の箇所でパウロが語っていることというのは、権力に迎合して、権力と一体化している、そのような非常に保守的な姿であると受け止めることができます。

 

 けれども、その一方で、パウロという人は、そんなに保守的というか、権力に迎合的な人だったのかと考えて、聖書をいろいろに研究しますと、そうではないということがすぐにわかります。

 

 というのは元々、使徒パウロイスラエル人として生まれ、律法学者となる勉強を重ね、旧約聖書の律法を熱心に守って生きてきて、その生き方はまさに、イスラエルの人たちにとって模範のような生き方でありましたが、あるときからその生活を捨てて、主イエス・キリストを信じる生活へと入っていきました。

 

 それは、ある一つの宗教を信じ、その宗教の中で律法、決まり事を守るという、自分の行いによって、行動によって神に救われる、と信じていた世界を飛び出したことでした。人は行いによって救われるのではなく、神の恵みによって救われる、ということに気づきました。そこから主イエス・キリストの福音、良き知らせ、十字架と復活、罪のゆるし、それこそが本当に救いであることを信じて、クリスチャンとなり伝道者となったのであります。

 それまで生きてきたイスラエルの社会の枠組みを飛び出して、それまでの権威というものから離れて、逆に、その権威から迫害される立場になって、生きることを選んだのでありました。すると、パウロは、上に立つ権威に従わなかった、ということが言えます。

 

 そして同時に、パウロは生まれながらにローマの市民権を持っていました。パウロの家族がそうであったということであります。そして、そのローマの市民権を持っているということは、パウロが地中海沿岸において伝道活動をする上で有利なことでありました。そのことによって身を守ることもできたのであります。

 

 しかし同時に、そうしてパウロが地中海沿岸を動いて伝道することができたゆえに、またさらに多くの人たちから憎まれ、時には命を狙われるようになっていったのであります。それは、パウロの行動が、ローマ帝国の人たちにとっても時には脅威に感じられたからであります。

 

 するとパウロは、イスラエルあるいはローマ帝国といった、当時の権力機構の中にあって、ときにはその庇護を受け、ときにはそこから飛び出して迫害される立場になる、その二つの立場の中で揺れ動きながら、クリスチャンとして各地を回り、非常に危険な迫害やいろいろな抑圧の中に置かれつつ、伝道者として生きた、そういう人なのであります。

 

 そのパウロが、生きてきた中で、クリスチャンとしてのイエス・キリストへの信仰というものを、集大成のような形で、このローマの信徒への手紙は書かれています。この手紙において、今日の聖書箇所のようなことが書かれています。すると、この部分は、元々ある、その国や宗教や民族、そして帝国、そうした様々な権威にただ従っていたらよい、と言っているのではない、ということです。では一体、何を言っているのでしょうか?

 

 パウロは、今日の聖書箇所において、したたかに生きることを勧めているのです。なぜ、したたかに生きることを勧めているのか。それは上に立つ権威に従うべきか、そうでないか、ということは、これはいつの時代にあっても、どこに行っても、どういうものの考え方をしていても、人間がぶつかる課題だからであります。

 たとえばイスラエルの人たちは、ローマ帝国に税金を納めることに対して、非常に反発を感じていました。本当の神様を信じて、その本当の神様に献金を献げたい、神殿で自分たちの献金を献げたい、と思っているにもかかわらず、ローマ帝国に支配されることによって、ローマ皇帝に自分たちはたくさんのお金を献金しなくてはいけない。しかも、ローマ皇帝は自らを神に等しい存在として主張していました。そして皇帝への礼拝というものが強要されることもあったのです。

 

 そんな中で、なぜローマの皇帝のために、礼拝をし、お金を献げなくてはいけないのか、耐えられないことでありました。そうした中にあって、どう生きるべきであるのか。徹底して、その権力に対して闘うにはどうしたらいいのか。そう考えていた人たちの中には、武力によって立ち上がる人たちもいました。福音書の中においては、たとえば「熱心党」と言われている人たちのグループがそうではないか、と推測する研究者もいます。

 

 いろんな意味で、権力に対して闘う、国の独立をかけて、あるいは民族や宗教の自由をかけて闘う、それはどの時代のどの世界にあっても、やはりそれは課題なのです。しかし、その闘いが、どのような結果を生むのでありましょうか?

 

 これはいろいろな考え方があることでありますけれども、パウロは今日の箇所においては、そうしたことでの闘いというものから、距離を置いています。ハッキリと距離を置いています。

 

 権力とどう対峙するかということは、どこに行っても大事な問題でありましょう。けれども、そのことを一番大事な問題にしてしまうことによって、人間はやはり、たくさんの失敗をしてしまうのだ、ということをパウロは知っていたのであります。

 

 本当の神に仕えるのか、それとも偽りの神に仕えるのか、これは確かに信仰というものが問われる究極のことでありましょう。本当の権威というものは神様だけだ、と考えるときに、この世にある権威は偽りの権威だと考える、それはなるほど、と思える考え方であります。

 

 けれども、この世の権力に付くのか、それとも神様に付くのか、ということを一番大事な問題にすることによって、人間はまた大きな失敗をするのです。それは、武装闘争が正しいか正しくないか、という問題ではありません。実際にはいろんなことがあります。これが正しかった、あれが正しかった、と歴史の中であとで評価されることもあります。世界は激動の中で動いていきます。

 

 けれども、パウロは見抜いていました。どんな生き方をするにしても、その中で一番大事なものは何であるか。それは、「『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます」とパウロが今日の聖書箇所の最後に言っている、その部分であります。

 

 ここでパウロモーセ十戒を引用して、「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます」というように言っています。

 

 聖書において、唯一の神を神とする、ということ。礼拝をする、ということ。そのように、宗教にとって、聖書の信仰にとって、大事なこと、それはいっぱいあります。けれども、いったい何が一番大事かと考えるとき、それは、この世の権力との衝突が一番大事なのではなくて、隣人を自分のように愛する、その言葉に要約されていくのです。

 

 ですからパウロはここで、クリスチャンが世の中において生きようとするときに、あるいは、人間がこの世界の中にあって、権威・権力というもの下で生きようとするときの、いろんな矛盾、問題が一杯あることを、パウロ自身が経験してきた、その問題というものを感じて生きてきた中にあって、一番大事なことが何であるか、ということにおいて、隣人を自分のように愛しなさい、しかも、イエス・キリストがそうなされたように、というところに、自分の信仰というものの一番大切なものを、自分の存在をかけて主張しているのであります。

 

 そして、そのことを一番大事なこととして見るときに、この世の権力というものにどう付き合うか、どう対峙するか、ということは、一番大事なことの次にある、二番目以下のこととして受け止めることができるのです。

 

 では、そのとき、どういう生き方をするのか、ということは、一人ひとりに委ねられています。

クリスチャンだから、こうすべきだ、神を信じているならこうすべきだ、正しい生き方をするならこうすべきだ、と律法のように、権力に対する生き方を決めるということはパウロはしませんでした。

 

 パウロにとって、その生涯を賭けた闘いは、律法とではなく、律法主義との闘いでありました。神が定めた律法、旧約聖書に定められたモーセ十戒を始めとした律法、それは神様が人間に対して与えて下さった宝物であります。そこには倫理・道徳・宗教というものがあります。そうしたものがなければ、この人間の世界は弱肉強食の世界になってしまいます。

 強い者が弱い者を虐げて分捕っていく、その弱肉強食が元である世界に対して、人間に必要な倫理・道徳・宗教、そして政治、社会制度、人権、いろいろなものを神様は与えて下さいました。旧約聖書の律法というものは、実はそういうものを一杯含んでいる、とっても大事なものなのです。けれども、その律法というものが文字に書かれ、文章となり、法律となると、今度は人を縛るものになっていったときに、逆に人を苦しめるものになっていきます。それが律法主義というものであります。

 権力と闘うということも、それが律法になっていくときには、それは今度は人間を苦しめるものになっていきます。そのことを知っているパウロは、そのような律法主義から解放されることを、ここで教えています。

 

 では、どんなことをしたらいいのでしょうか。

 今日の箇所を順々に読んでいきます。

 「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。」

 

 ここには、このような支配者、権力というものがあり、そこに警察や軍隊、そうしたものに相当する力、剣の力がある。武力、実力行使というものがある、ということを前提にパウロは語っています。そうした支配者というものは、悪を行う者にとっては恐ろしいが、善を行う者にとってはそうではない、とパウロは言っています。

 

 そして次に言います。
 「あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。」

 

 権威者というものは、恐ろしい力を持っています。その恐ろしい力を持っている者に対して、どうしますか。あなたは権威者を恐れたくないのでしょう? あなたは、権威者を恐れるような、権威者の顔色をうかがうような、そんな人生ではない、自由な人生を願っているはずだ。それなら善を行ったらいい、そうしたら権威者からほめられるでしょう。そうしたことをここでパウロは言っています。

 

 ここでは、社会の中にあって善の価値観を作り出す、そのことが、権威を持っている者と共に生きていく、と言いますか、この社会の秩序の中で生きていくにあたって有用な生き方である、善を行って生きていく、ということが有用である、大きな意味があるということを言っています。

 

 そしてそのあと、こう言います。

「しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。」

 

 だから、単にその支配者から罰せられないために、あるいは逃れるためではなく、自分の心の中にある良心、良い心、自分の信念、そのためにも、権威者に従うべきであると、積極的に権力に従うことを勧めます。それはなぜかというと、それはもし、自分が悪を行っているのならば恐れなくてはならないからです。

 権威者というのは悪というものを罰するためにある。だから、権威者に協力するということは、悪を罰するということに協力するものなのだと。つまり、正義の側に立つことだと言っているのです。

 そして、そのあとにこう言います。
 「あなたがたが貢(みつぎ)を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。」

 

 こうして、人々が心の中に矛盾を感じていた、ローマ帝国に対して税金を払うことであったり、権力に従うということに対して、それは何のためにやっているのか、それは権威者が悪を罰するためだ、という説明をパウロはしています。

 

 そのあとにこう言います。

 「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」

 

 この世の価値観の中にあって、義務とされることは全部果たしなさい、というようにパウロは言っています。まさに、ローマ帝国の良き帝国臣民といってもいいでしょうか。そうした人間像が言われているように思います。しかし、パウロはここでただそのようなことを言っているのではない、ということが次のところでわかります。

 

 「互いに愛し合うことのほかには、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」

 

 自分の義務を果たすというのは、借りを作らないということであります。権力と闘うためにといって、あるいはその闘いに負けることによって、結果としてまた権力に対して借りを作ってしまった、権力の世話になってしまった、そういうふうにならないようにとパウロは勧めているのです。なんだかんだと言って、最後は権力のお世話になってしまった。そうして借りを作ってしまうと、もうそこから抜けられなくなるのです。どんな闘いをしたって、そこで結果として大変なことになって、また権力の世話になってしまっている、その借りを返すまでは支配されることになります。

 

 権力と人間の関係というのは、そんなふうに、一人ひとりの人間に借りを作らせて、従わせていく関係なのであります。このような権威のあり方というのは、ときに合理的でありますが、ときに非常に人間の弱さを突く形で機能します。その中で、私たちはどうやって生きていくのでしょうか。

 

 「互いに愛し合うことの他には、誰に対しても借りがあってはなりません」……そのことのために、与えられている義務を一つひとつ果たしなさい、ということです。こうした言葉は、ローマの市民権を持っているパウロだから言えたことであったかもしれない、とも思います。しかし、パウロがその当時の世界の中にあって、まさに権力機構の下の世界で苦しんで生きて、そのなかで、ある種、こんな風に考えたら生きることができるんだ、と言っている、そのパウロのしたたかな言葉に、今日の私たちも耳を傾けたいと思います。

 

 パウロは、次にこう言っています。
「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。」

 

 イエス様の言われた言葉、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に、すべての律法は要約されるのです。それは、人間がこの世の中に生きるということにおいて、いろんな決まり事が必要なのだけれども、そしていろんな権力機構を必要としているのだけれども、本当に必要なものは何か、ということを集約していくと、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に集約されるということです。

 

 そして、その生き方というものを、神様の御心において表して下さったのが、主イエス・キリストであり、その十字架の死、そして復活ということでありました。

 

 教会の暦がいま、受難節に入りました。今日が、その初めての礼拝の日です。イエス・キリストが十字架に架けられ死なれた、ということは、単に2000年前にある一人の人が無実の罪で捕らえられ、ローマ帝国によって無残な刑罰を受けた、というだけの事実ではありません。単純な事実としてだけ見るならば、今言ったようなことです。そして、それは世界のどこでも起こっているようなこと、それは悲しいけれど、どこでも起こっているようなことであります。

 

 けれども、聖書が教えていることというのは、そんな世界のどこでも起こっているような、無残な悲しいことというものが、忘れられ、どうでもいい価値のないことになるのではなくて、実はそこにこそ、神様の救いが現れるのだと、その、どうしようもない、その悲しい事、取り返しのつかないような、その悲しみの中に神様の御心が表されるのだと、そこから始まる新しい世界があるのだ、ということを示しています。主イエス・キリストの十字架の死、そして復活を通して。

 

 今日の箇所でパウロは最後にこう言っています。

 「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」

 

 この愛というものを行うことが、権威、権力の最大の使命のはずなのです。今日の聖書箇所のパウロの言葉によれば、そのはずなのです。では、その権威・権力が、愛を行わなくなっているならば、どうしたらいいのでありましょうか。

 

 今日の聖書の箇所を読むときに、誰でもぶち当たる壁は、そこであります。本当の愛とは何か。そして、本当の権力とは何か、ということを考えるときに、今日の箇所というのは、この言葉だけを取り出して機械的に、現実の人に対して当てはめていくことはできません。そうではなくて、聖書全体を読み、パウロの言葉の全体を読んでこそ、わかってくるいろいろなことがあるのです。

 

 私は、今日の聖書箇所を今まで何度も何度も読んできました。そして、読むたびに抵抗を感じてきました。パウロからこんな言い方をされたら、世の中で政治権力と闘う人はみんなダメだ、ということになってしまうではないですか。それではおかしいではないですか。私は前からそういう思いであります。事実、この聖書箇所は、そうした政治闘争や社会の改革に取り組む人にとっては、本当にトゲのような言葉でもあります。

 

 また逆に、権力の側に立とうとする保守的な立場からすると、この言葉は本当に使いやすい言葉です。ここにこう書いてあるではないか! というために、この箇所が使われてきたということも確かなのであります。こんな考え方はいやだ! と言ってキリスト教から距離を置く人もあるかもしれません。皆様はどうでしょうか?

 

 私は、今日の箇所を読んでいて、今まで感じなかったことを初めて感じました。それは、パウロがここで、あなたは権威に従え、権威に従って生きたらいいんだ、従うべきなんだ、と言っている言葉を読んでいて、初めて感じたことです。それは、パウロはここで、権力者を皮肉っている、ということです。

 

 権力者というのは、すごいのです。あらゆることにおいて、正義とか愛とか、いろんな理屈を持ってくるのです。そして、そのことによって、人々にああせえ、こうせえ、と言ってくるのです。そして、打ち勝てないような武力を持って人々にそのことを強いてくるのです。

 そんな権力者に対して、弱い一人ひとりの人間がどう対応したらいいのでしょうか。闘えばいい、なんて軽々しく言えません。どうしたらいいのですか。

 パウロはここで一つの例を示していると思います。パウロはここで、権力、権威を絶賛しているようです。そうしてパウロはここで、権力者を皮肉っているのです。あの人たちは、きっとこんなことを言ってくるよ。こんなやり方をしてくるよ。だから、それに対してどうするか考えなさい。権力者から良いと思われることをしたらいい。

 

 そして、その中でどうするか。「隣人を自分のように愛しなさい」、その言葉に徹底していくのです。権力に対して、決して借りを作るな。愛し合うことの他は、借りを作ってはならない。権力に対して一度借りを作ったら、それを元に骨までしゃぶられるんだ、そこまでパウロは言っていませんけれど、それは私の言葉なんですけれど、でもそうなんですよ。そんな借りを作るなと言います。

 

 パウロはここで権力者を絶賛しているようであって、実は権力者たちに皮肉を言っている、そのことに私たちは気がついてきたでしょうか?

 

 いや、パウロ自身は、権力者を皮肉ってはいなかったかもしれません。けれども、この箇所を私たちが、今日の現代社会の中で読むときに、ここには、パウロが、言うに言えないいろいろな思いをこめて言っているんだ、そう思えます。少なくても、現代の私たちが、今このパウロの言葉を読み、朗読し、解釈しようとするときに、このパウロの言葉の中に、深い深い人間の思いをこめていくのではないでしょうか。

 

 本当に必要なものが何であるか。イエス様が言われたように、「隣人を自分のように愛しなさい」ということであります。愛は隣人に悪を行いません。ならば、隣人に悪を行う権威とは何でありましょうか。それは、本当の権威ではない、ということであります。

 

 お祈りします。

 天の神様、一人ひとりを守ってください。この現代社会にあって、私たちが問われています。一人ひとりが、どんなふうに生きたらよいのかと、怖じ惑うときに、神様が一人ひとりと共にいてください。そしてイエス様が道を示して下さいますようにお願いします。ウクライナでの戦争が一刻も早く終わりますように、心よりお願いいたします。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。
 アーメン。

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「暗闇に光を、人には何を」 
 2022年3月13日(日)礼拝説教

 聖書   創世記  4章 1〜16節 (新共同訳)

 

 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、
 「わたしは主によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。

 

 アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持ってきた。

 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。

 主はアベルとその献げ物に目を留められたが、
    カインとその献げ物には目を留められなかった。

 

 カインは激しく怒って顔を伏せた。

 主はカインに言われた。

 「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。

  もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。

  正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。

  お前はそれを支配せねばならない。

 

 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、

 カインはアベルを襲って殺した。

 主はカインに言われた。「お前の弟アベルはどこにいるのか。」
 カインは答えた。「知りません。私は弟の番人でしょうか。」

 主は言われた。
 「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。

  今、お前は呪われる者となった。

  お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。

  土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。

  お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」

 

 カインは主に言った。
 「わたしの罪は重すぎて負いきれません。

  今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、

  地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、

  わたしを殺すでしょう。」

 主はカインに言われた。

 「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」

 主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、
 カインにしるしを付けられた。

 カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。

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 (以下、礼拝説教)

 

 京北教会では昨年から、マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、そして旧約聖書、この3箇所から選んで毎週順番に聖書を読んでいます。今日は創世記です。

 

 ここには、カインとアベルの話というものが記されています。旧約聖書の冒頭には、天地創造の物語があり、その中にあって人間もまた神様によって創造されたことがあります。神様によって創られた人間がその後、エデンの園において神様に対して罪を犯して、そのエデンの園を出て生きることになりました。そのすぐあとの最初の人間たちの物語がここに記されています。

 

 順々に読んでいきます。

 「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、

『わたしは主によって男子を得た』と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。」

 こうしてカインとアベルの兄弟が生まれます。

 

 次にこうあります。
 「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持ってきた。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。」

 

 こうして、今日の箇所は短い物語でありますが、急展開をしています。カインとアベル、この兄弟が生まれ、カインは土を耕す者となった、つまり農耕をする者となりました。アベルは羊を飼う者になったとあります。この二人は兄弟であります。それぞれに自分の働きの場から神様に献げるためのものを持ってきました。

 

 どちらも一生懸命に働き、神様に献げたのだと思われますが、神様はアベルの献げ物には目を留めたが、カインとその献げ物には目を留めなかった、とあります。神様がなぜ、そのようにされたか、という理由はここには書いてありません。

 そのことの結果が次にあります。 

 「カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。『どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。』もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

 

 神様はこのように言われました。この言葉を聞いて、アベルがどのように思ったかということは、書いてありません。そのあと場面は、また急展開します。

 「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインはアベルを襲って殺した。主はカインに言われた。『お前の弟アベルはどこにいるのか。』カインは答えた。『知りません。私は弟の番人でしょうか。』」

 

 カインがアベルを襲って殺したあとに、しばらくの時間があり、場所も離れているのだと思われますが、この物語の中では、神様の問いがもういきなり続いています。神様は尋ねます。「お前の弟アベルはどこにいるのか。」カインは言います。「知りません。私は弟の番人でしょうか。」

 

 「主は言われた。『何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。』」

 

 ここで、すべてを見ておられた神様は、カインに対して、このようなことをおっしゃいました。カインが殺したアベル、そのアベルの血が神様に向かって叫んでいるというのです。そして、その結果として、カインは呪われる者となりました。

 今までカインは、土を耕す者でした。土を耕してそこから地の実りをいただき、生きてきました。しかしもはや、その土が実りを生み出さないというのです。その土は血を飲み込んだから、もはや命を生み出すことはない、そういうことになったのです。

 そして、そのためにカインはその土地を離れて、さすらう者となったのでありました。神様が与えて下さった、その土地はもう実りを生み出さないので、そこを離れて地上をさまよってさすらう者となったのです。

 

 エデンの園を追放されたアダムとエバ、そこから生まれたカインはそこも離れて、さすらう者になりました。自らが犯した罪のためです。

 そのあと、こうあります。

 「カインは主に言った。『わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。』」

 カインはここで、自分の罪というものを自覚しています。そして、その罪を自覚して、それは重すぎて負いきれないと言います。神様が与えて下さった、この土地を離れていくならば、そして、自分がさすらう者になれば、自分に出会う者はだれでも私を殺すでしょう、弟のアベルから呪われ、神様から追放された、この自分は、もはや人間の世界の中で生きていけなくなった、その絶望の言葉をカインは言います。

 

 それに対して、次のように続きます。
 「主はカインに言われた。『いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。』 主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。」

 

 こうしてカインとアベルの物語は終わっています。大変短い物語でありますが、その中で急展開をしていきました。読む私たちにとって、どうしてこうなるのか、と驚きながら、話についていけない感じであわてて読んでいく、そんな気持ちになられた方もおられるのではないでしょうか。

 

 聖書を読んでいくと、「なぜこうなるのか」と思うときがあり、その理由が示されていないことがあります。また、出来事があったときに、その人がどう思ったか、というその人の内面が書かれていない、そういうことがあります。それらは、現代の私たちが読む小説とか、そういう文章との違いというものでありますけれども、昔々の文章というものは、私たちが知りたがることを懇切丁寧にかゆいところに手が届くように書かれているわけではありません。というか、人が書く物語というものは、元来こういうものだと思ったほうがよいかもしれません。

 

 今日の短い物語は、私たちに対して何を教えているでありましょうか。いま、このときにみんなで聖書を読んでいる私たちに向けて、神様は何をお語りになっておられるでありましょうか。

 

 今日の箇所にはイエス・キリストは登場しません。旧約聖書はイエス・キリストのお生まれになられる前の時代のことを記しています。イエス様はどこにも出てこないのです。では、今日の物語のどこに救いがあるのでしょうか。救いなんかないような気もする話です。

 

 今日の説教題は「暗闇に光を、人には何を」と題させていただきました。

 創世記の一番最初に「光あれ」と言われて光が創造された、その話から創世記が始まっているのですけれど、その話から始まってほんの少しあとの、今日の箇所には、人類最初の殺人事件とも言われる、この悲しい話が記されているのであります。天地創造されたときに、神様は真っ暗闇の中のどろどろとした世界に向かって「光あれ」とおっしゃいました。そしてその言葉はそのままに形となり、光が現れ、そしてそのあとにこの世界が創られてきました。

 これはもちろん、神話的な物語であり、古代世界の伝承、言い伝えということでありますけれども、何もなかった、どろどろした暗闇の中に、神様が「光あれ」という言葉を神様がおっしゃることによって、その光がこの世界を変えた、新しくした、今まで見えなかったものが見えるようになり、そして区別の無かった世界に区別が現れ、形のなかった世界に形が現れて、そしてこの世界が造られていった、という創世記の物語があります。

 

 そこには、神様がどういう御方であられるか、ということがハッキリと示されています。形なき所に形を、光なき所に光を、区別なき所に区別を。そうして、この世、この世界、そして時間というものが始まり、世界が動き出していった。それはもちろん神話の物語でありますけれども、神様という御方は、そうやって時間と空間を始める御方である、ということがはっきりと示されています。

 

 そのように、神様は暗闇に光を創ってくださいました。しかし、その物語のすぐあと、創世記の4章では、カインがアベルを殺す、この悲しい事件が記されています。神様は暗闇には光を創ってくださいました。では、人には何を創ってくださるのでありましょうか?

 その思いをもって、今日の説教題を「暗闇に光を、人には何を」と題させていただきました。今日の箇所において、光というのは何でありましょうか。それは今日の箇所の最後にあります、カインが自らの罪を告白し、絶望の言葉を述べたときに、神様はカインに「いや、だれであれカインを殺す者は七倍の復讐を受けるであろう」と言われました。

 

 カインはさすらう者になります。しかし、だれもカインを殺してはならない。それが神様のメッセージでありました。「復讐に対しては復讐する」という時代にあって、ここに神様からのメッセージがあるのだと思います。「主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた」とあります。この「しるし」とは何であるか。聖書学者によれぱ、その時代に行われていた入れ墨のことではないかというように考えられています。

 

 そうして、カインが特別であるということをわかるように、そうしたしるしを、入れ墨だったのでしょうか、そういうことがされたのであります。

 

 このように最後にほんの少しだけ、この悲しい話の最後に、それでもカインは生き続けることが許されたということ、そこにかすかな光を見いだすことができます。けれども一方で私は、読んでいて思うのです。まあそれはそうなのだけれど、ずいぶん悲しい終わり方だなあ、と。

 人間というのは、こういうものなんだろうか。かろうじて生きることは許された、しかし、そのカインが負っている罪は、自分の兄弟を殺したという罪であります。それを背負って一生生き続けるのか、さすらいの身となって。自分がそれまで耕していた土が、もう実りを生み出さなくなったから、その土地を離れて地上をさまよっていく、そんな悲しいさまが人間なのか、と思うのです。

 

 こうした物語を今日に読むときに、皆様はそれぞれに感想や意見、いろいろなことを思われると思います。そもそも、この話を読んでいて、非常に理不尽だと思うのは、この事件がどうして起こったかということです。カインとアベルがそれぞれに献げ物を持ってきて、それを同じように献げたのに、神様が片一方のアベルの献げ物には目を留めたが、カインとその献げ物には目を留めなかったという、その理由は書いてありませんが、神様が原因となったことでこうなるのですから、これは本当に理不尽なことであると言わざるをえません。

 

 カインが「激しく怒って顔を伏せた」というのもうなずける話です。それに対して、神様はカインに言われました。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」と言われます。

 それは理屈ではそうだと思うのです。自分が一生懸命に働いて、そして正しいと思っているのだから、顔を上げたらいい、それは理屈ではそうでしょうけれども、カインとアベルの二人のき兄弟が並んでこうなったとき、どうして耐えられるでしょう。腹立たしいではありませんか。

 

 神様はここでそのあと、「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」と言われます。これは私の感想ですが、カインは、この前半の言葉は聞いたと思いますが、後半の言葉はもう耳に入らなかったのではないかと思います。どれほど理屈として正しいことが言われたとしても、これはおかしい、と思ったあとには、もう神様の言葉は耳に入らなかったのではないでしょうか。

 

 そして「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインはアベルを襲って殺した」とあります。変えられない憎しみが、このとき、この兄弟の間にあって、カインの中にあって、このようになってしまったのであります。

 

 このような話を読むときに、今日の現代社会に生きる者として、この箇所をどう読むかと言われたら、まさに今の状況のことでありますけれども、ウクライナとロシアのことを思い起こします。

 先日、テレビを見ておりますと、コメンテーターの方がこんなことを言っていました。「ロシアにとってウクライナは兄弟国なのです。教科書にもそう書いてます。だからロシアの人はウクライナに対して、ものすごく親密な気持ちを持っています。」その話が出てきた背景には、そのテレビ番組が、こういうことを尋ねたときです。「今の状況はどうやったら変わるでしょうか。どうやったら変わる可能性があるでしょうか」と尋ねたときです。

 そこで、大学教員だったかと思いますけれど、コメンテーターの方が言われたのは、「変わるとしたらロシアの中で反戦の世論が出てきたら、それによって国の中でいろんな意見が分かれてきたら、状況が変わるかもしれません」という話をされたあとに言われたのです。

 「ウクライナというのはロシアにとって兄弟国なのです。歴史的に深いつながりがあります。教科書にもそう書いてあります。そのウクライナに対して、ロシアが攻め込んで、こんな残虐なことをしているということを、いまは報道の規制をしているからロシア国内で報道されていないけれども、このことをロシアの人たちが知ったら、もう耐えられないような感情が生まれてくるのではないか、そのときに変化が起こるのではないか。」そのようなことが言われていました。

 

 私がいま申し上げたことは、国際情勢のことであり、専門家の話であり、実際にどうか、ということは私はわかりません。けれども、そのときに、この二つの国は「兄弟国なのです」という言葉は、すごく私の胸に刺さりました。

 そして、今日の聖書箇所を読むとき、兄弟とは何だろう、と思うときに、兄弟、それは単に一つの家族の中での兄弟というだけではなく、いろいろな意味がこめられている、そのことに気がつくのです。

 

 今日の物語は、カインとアベルの物語でありますけれども、この背景にあるのは、古代のイスラエルの人たちの生活スタイルにあると考えられています。アベルがしているのは牧畜、家畜を飼うという生活であります。カインがしているのは農業の生活であります。

 この二つの生活スタイルがあり、牧畜をする者と、農業をする者は産業の中で非常に重要な二つの柱なのでありますが、私が読んだ聖書の注解書に書いてあった言葉によると、雨が豊かなときには両者の関係は良かったが、雨が降らないときには両者の関係は対立関係になっていたということでありました。

 

 牧畜も農業もそれぞれに、自然界のいろいろな変化に出会うわけでありますが、農業の場合は特に雨に左右されていました。そのことによって緊張関係が生まれていたのです。元々をたどっていくと、牧畜という以前に狩猟生活というものを人類がしていたと考えられています。元々あちこちを移り住んで狩猟をして生きる生活、また焼き畑農業などで生活していく生活というように、人類の歴史の中で様々なことがありました。

 そうして、原始時代と言われる時代からだんだんと生活が変わってきた、そうした狩猟から牧畜へ、そして農耕へと生活スタイルが分かれていき、それぞれに違った生活スタイルの人たちが共に生きていく社会というものができ、そこにあった対立、そういうものが、このカインとアベルの物語には、非常に集約された形で現れている、と考えることができます。

 

 そして、その中にあって、両方が献げ物をして、その片方の献げ物だけに神様が目を留めたということには、その理由は書いていない、という、そこには、牧畜で生きる者も、農耕で生きる者も、同じように人間として生きているのだけれども、この自然界の変化の中で片方が有利になり、片方が不利になる、ということが実際にあったのだと思われます。

 

 そのときに、なぜこんなことになるのか、神様はなぜ不公平なのか、という怒りがわいてきます。しかし、その怒りというものは良くない。それは罪である。もし、一生懸命に働いてそうなったという、全うな気持ちがあればいいけれど、この不公平な自然界によって腹を立ててしまう、そのことによって殺人を犯してしまう、自分と違う生活スタイルをしている人たちを侵略してしまう、まさにそれが人間の罪なのだと、今日の物語は示しています。

 

 その発端は、神様が片方の献げ物だけに目を留めたことにあるではないか、と人間は思うのですが、それは違うのです。なぜ不公平が生まれるかはわからない、けれども私は間違ったことはしていない、という思いがあればいいのです。それに対して、いや、神様は不公平だ、あんなやつらはやっつけろ、という思いがわいてくるとき、それはまさに罪であり、「罪は戸口で……」とまさに神様はこう語っているのです。その言葉を聞き逃してはならない。しっかりと、この言葉を心に留めて人類は生きていかないといけない、そういうメッセージがここにしっかりと記されているのであります。

 

 その神様のメッセージを聞かないと、どうなるか。神様のいない所で、弟を殺してしまったカインに神様が言います。

「『お前の弟アベルはどこにいるのか。』カインは答えた。『知りません、私は弟の番人でしょうか。』」

 これは皮肉っている言葉であります。

 ……私がいつもいつも弟と一緒にいて、弟の命を守らなくてはいけない、そんなことないですよね、神様。別の人間ですよね、私と弟は……。そうやって、カインは神様を皮肉っています。……あのとき、神様が、私の献げ物に目を留めなかったように、違うんですよ、私と弟は……。

 

 そのようなことを言うときに、すべてのことを知っておられる神様が言われます。「なんということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。」ここに、神様からのはっきりとした宣告があります。カインがこのようなことをして、なかったことにはできないのです。

 

 今まで自分が、実りを生み出すと思っていた土が、実は弟の血を飲み込んで、「もはやお前のために作物を産み出すことはない。」命を生み出すものと思われていた土というものが、もうその役目を果たしてくれない。お前は地上をさすらう者となる。このような結果が待っているのです。

 だから、人類は助け合って生きていかなくてはならない。どんな小さな単位であっても、そうなのです。一つの家族の中の兄弟ということであっても、そうであるし、大きな大きな意味で国と国、民族と民族、地域と地域という関係であっても、そうなのだ、ということが、この古代の人類社会の出発の地点から、神様からはっきりと言われていることなのだということが、今日の物語は記しているのであります。

 

 そして、この地を離れてさすらいの身となっていくカイン。そのカインが自分の罪を認めて、ああ、「わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」と絶望したときに、神様はおっしゃいました。「いや、それゆえカインを殺す者は、誰であれ七倍の復讐を受けるであろう」。そうやってカインを殺すならば、また復讐の連鎖が起こる、だからそうならないように神様が計らって下さるというのであります。

 

 献げ物に目を留めてくれなかった、あの神様は献げ者に目を留めてくれなかった、といって腹を立てていたカインは、どんな思いでその神様の言葉を聞いたでしょうか? 神様は私を見てくれていたのだ……神様はすべてのことを知っておられたのだ……そのことを、カインがどのように思ったからということは、この箇所には記されてありません。それはカインの思うことではなく、実はいま聖書の箇所を読んでいる一人ひとりの人間が思うことであります。

 

 ゆるされない者が、生きることをゆるされた。では、ここからどうして生きていったらいいのだろうか。それが、一人ひとりに与えられているテーマであります。いまの社会の中、世界の中にあって、人類に与えられているテーマでありましょう。その道筋を誰が支えてくださるのでありましょうか。聖書においては、それは主イエス・キリストであります。イエス・キリストの導きを受けて、また今週一週間、イエス様と共に歩んでいきたいと願います。

 

 お祈りします。

 天の神様、私たちが今このとき、この世界にあって命を与えられて生きていることを、神様の恵みによるもの、そして慈しみと憐れみによるものであることを覚えて、心から感謝をいたします。世界において失われていく命や、世界の秩序、いろいろなものが過去のものとなり、未来の見えない時代に突入しているかのように思える時代、その中にあって一人ひとりの人間が神様に立ち返り、とことん冷静になって、この世界を見つめていくことができますように。自分の力ではそれをなしえない私たちが、イエス様の導きによって、イエス様の導きによって、その道を歩むことができますように、心よりお願いします。世界にまことの平和をお与えください。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

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「信仰のない世界に光を」

 2022年3月20日(日)
 京北教会創立113周年記念礼拝 説教

 聖書  マルコによる福音書 9章14〜24節 (新共同訳)

 

 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、

 彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。

 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。

 

 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、

 群衆の中のある者が答えた。

 「先生、息子をおそばに連れて参りました。

  この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。 

  霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。

  すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。

  この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、
  できませんでした。」

 

 イエスはお答えになった。

 「なんと信仰のない時代なのか。

  いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。

  いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。

  その子をわたしのところに連れて来なさい。」

 

 人々は息子をイエスのところに連れてきた。

 霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。

 その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。

 

 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。

 

 父親は言った。

 「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、

  もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。

  おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」

 

 イエスは言われた。

 「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

 

 その子の父親はすぐに叫んだ。

 「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

 

 

 (上記の聖書箇所は、新共同訳聖書をもとに、改行など文字配置を、
  説教者の責任で変えています)

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 (以下、礼拝説教)

 

 今日の聖書箇所には「信仰のない時代」という言葉が出てきます。今日の箇所の真ん中あたりで、イエス様がお語りになっている言葉です。「信仰のない時代」、それは一体どういうものでありましょうか。

 それは、今日の聖書箇所においては、病気の一人の子どもを救うことができない人々の様子として、描かれています。この物語は、今日の私たちに対して何を示しているのでありましょうか。

順々に今日の箇所を読んでいきます。

 

 「一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。」
 このようにあります。マルコによる福音書の流れでは、今日の箇所の前にあたる所では、イエス様が12人の弟子たちの中で3人の弟子だけを連れて山に登って、その山の上でイエス様の様子が変貌して、そこで神様の御声が聞こえた、そうしたことが記されてあります。

 

 つまり、このときイエス様と3人の弟子たちは、他の弟子たちや町の人たちから離れて山に登っていた、そして、そこから降りてきたときのこととして、今日の箇所があります。ひととき、他の人たちの所から離れていたイエス様が戻ってきたときに、何が起こっていたかということがここに書かれているのです。

 

 「群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き」と書いてあります。この驚きというのは「あっ、いま話をしていたイエス様がちょうど来て下さった」という驚きのようです。

 

 次にこうあります。
 「イエスが、『何を議論しているのか』とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えた。『先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」

 

 1人の人が言いました。自分の息子を連れてまいりました。その子ははっきりとした病気がありました。その病気をもたらしている悪霊、その悪霊が取り憑いていて、それを追い出してくださるようにと、イエス様のお弟子たちに申しましたが、できませんでしたと、この1人の人が言いました。

 

 そのことのために、なぜ弟子たちはこの息子から悪霊を追い出すことが出来なかったのか、どうして出来ないのか、ということが議論されていたようであります。

 

 それは一体どんな議論だったのかと思いますけれど、弟子たちはここで、なぜ自分たちはこの病気を癒やすことが出来ないのか、ということを話していたのでしょうか。答えの出ない議論をしていたのだと思います。そのような所にイエス様が戻ってきたので、その息子のことをイエス様に訴えたのです。

 

 それに対してイエス様が言われました。

 「イエスはお答えになった。『なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。』」

 

 ここでイエス様はこう言われています。それは、弟子たちが自分たちの祈りによって悪霊を追い出すことができなかった、そのことが「信仰のない時代」のことだと言われているのがわかります。「なんと信仰のない時代なのか」、そうイエス様は言われます。

 

 そしてイエス様は、近づくご自身の十字架の死ということを考えておられましたので、「いつまで私はあなたがたと共におられようか」と仰っておられます。そして、「いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」とも言われます。

 

 なぜ、あなたたちはそのような状態なのか、つまり、イエス様がいなければ、この1人の人の病気をいやすことができないのか、いつまでもいつまでも、イエス様がいないとだめなのか、そういうお叱りの言葉であります。

 

 そして言われました。「その子をわたしのところに連れて来なさい。」

 「人々は息子をイエスのところに連れてきた。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、『このようになったのは、いつごろからか』とお尋ねになった。父親は言った。『幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。』」

 

 父親の言葉は淡々とした言葉に聞こえます。このようになったのはいつごろからか、と尋ねられたときに、幼い時から、つまり、すごく昔からです、と答えます。「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。」こうした病気、あるいは障がいと言ったらいいのでしょうか、そうした状態のことが言われています。

 

 それは、自分や息子が何かをしたからこうなったのだ、というような因果関係ではなくて、自分の知らないところで何かが働いて息子がこんなふうになっているのだ、という言葉であります。

 

 そして父親は言いました。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」この言葉は、すごく弱々しい言葉に聞こえます。「おできになるなら……」。
 この言葉を発した背景には、イエス様の弟子たちが、この悪霊を追い出すことが出来なかったということがあります。

 あのイエス様の弟子だというからお願いしたけれど、悪霊をちっとも追い出してもらえなかったのです。だから、そのお弟子さんたちの師匠であるイエス様にお願いするのも、まあ、「おできになるなら」、助けてください……。そうした、あきらめの含まれた弱々しい言葉であったと思えます。

 それに対してイエス様は言われました。
 「イエスは言われた。『「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる。』その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください。』」

 

 こうして、今日の礼拝での聖書箇所はここで終わっています。もちろん、マルコによる福音書の中では、この物語はこのあとに続いています。それぞれ御自分の聖書で読んでいただければと思います。子どもはイエス様によっていやされるのであります。

 

 今日、この聖書の箇所から私たちが学ぶことは、この箇所の一番最後に父親が叫んでいる言葉であります。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

 

 この言葉は矛盾を含んでいます。信仰のない、と言っているのでありますけれど、信じます、と言っています。信仰のない者がどうして「信じます」と言うのでありましょうか? 理屈で言えば矛盾しています。けれども、これが人間の本当の姿であるということを、今日の物語は教えています。信仰というものは、ここにこれだけあります、といって、その量や質を測ることができないのであります。

 

 このカバンの中に信仰が入っている、この入れ物の中に信仰が入っている、その量はこれぐらいで、その質はこんなものである、ということを説明することはできません。信仰というものは、ないのです。人間の目から見れば、どこまで行っても、ないのです。そんなものは、ない。

 

 しかし、信仰のない人間が、なぜか「信じます」と叫ぶときがあります。信仰がないのになぜ叫ぶのか、「信じます」と言って叫ぶのか、それはわかりません。

 

 けれども、今日の箇所が教えていることというのは、信仰というのは、何かの物差しで測ることではなくて、こうした心の底からの叫びというもの、それが本当の信仰ではないかということであります。

 

 今日は、京北教会の教会創立113周年の記念礼拝を守っています。長い歴史を持つこの教会、その教会の最初の発端は、烏丸五条近くの民家を借りた講義所というものでありました。聖書の話を講義する、お話する、そしてそこでみんなが勉強する、そういうものとして一番最初は出発したのであります。

 そして、その講義所は、わりと短い年月で何度も場所を変えています。その当時にあって迫害のようなことがあったのか、どういう理由があったのかわかりませんけれど、転々としています。その中で段々と集う人が増えてきて、京南教会を設立することになります。講義所が転々とした理由が、人が集まってきてだんだん入らなくなってきたから、という可能性も十分に考えられます。

 

 その頃の時代に、教会というものがどういう役割を果たしたかということは、いろいろな考え方があると思います。その当時のことについて、どう考えるかということで、教会の創立100周年のときに教会で作った文集があり、その中に、今から13年前に私が創立記念礼拝で話した説教が収められています。その中で自分が語っていた言葉をもう一度読み返してみました。

 

 そこに以下のことを書いていました。当時の教会にとって大事だったこと、それは、ある一つの宗教を発展させよう、とか、同じ思想信条を持った仲間を増やそうということではなくて、社会というものの中に大きな罪というものがあって、あくどい世界というものがあって、放っておくと、その罪の世界の中に人間がみんな飲み込まれていく、そうした所から救い出すために、教会というものが神様から与えられたのだ、ということです。

 罪深い社会のあり方の中で、罪の中に飲み込まれていく人間を救い出していくために、教会というものが神様から与えられたのだ、そのような主旨のことを私自身が語っていたことを思い起こしました。

 

 教会というものが何であるか、それは人によっていろんな考え方があるでしょう。でもそれは、決して何かある一つの宗教を盛んにしようとか、自分と同じ考え方の人をたくさん増やそうとか、そういうことではなかったと思うのです。少なくても一番最初のときには。

 本当に罪深い社会、人間の悪というものがたくさんある、この社会の中にあって、放っておくとその中にみんな取り込まれていってしまう、その人間たちを神様が救い出してくださる、そのための器として教会を建て、そこに集う者が神様の御心によって働くことによって、教会というものの意味があるのだと、日本社会の中に教会というものが立てられていったときに、そうした情熱があった、そのことを私は信じています。

 

 そのことは、今日の現代日本社会においても、基本的に同じだと思っています。

 

 今日の聖書箇所には、「信仰のない時代」という言葉があります。イエス様がそう仰っています。それは、悪霊を追い出すことができなかった弟子たちに対して、まずは言われています。

「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」とイエス様は言われます。

 それは、イエス様がもうすぐ捕らえられて十字架で死なれる、そして復活して天に挙げられる、そのあと、イエス様が目の前からいなくなったあとに、弟子たちは1人ひとり、自分自身の人生、そしてイエス様の教会をみんなで作っていかなければならない、にもかかわらず、弟子たちはイエス様がいるときでさえ、一人の人の病を癒やすことすらできない、そのことを「信仰のない時代」として、弟子たちを叱って言われているのであります。

 

 イエス様が一緒におられるから大丈夫だ、と思っている弟子たちは、一人の人の病気すらいやすことができないのです。そして、弟子たちが癒やせなかった息子の父親がイエス様の所に来ました。そして、こう言いました。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」

 

 そこでは、弟子たちに対する失望というものが背景にあって、イエス様に対しても失望している、おそらくイエス様も大したことはできないんじゃないか、と最初から思っている、この父親の気持ちが表れています。

 

 それに対してイエス様が言われます。
「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

そして、その子の父親はすぐに叫びます。
『信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

 

 この話の流れを見ますと、「信仰のない時代」、それは、弟子たちのことだけではなくて、ここで救いを求めているこの父親もまた、この「信仰のない時代」の一人として描かれていることがわかります。

 つまり、人を救おうとする、その役目を持っている弟子たちは、人を救うことができないし、また、救われたいと思っている父親も、救われないという、結局、救う側も救われる側も、信じていないんだ、ということが、この「信仰のない時代」ということの意味です。

 

 救う側も、救われる側も、結局、信じていない、それが「信仰のない時代」です。その時代に、イエス様が、一歩を踏み出してくださいました。そして、神の国の良き知らせを告げる言葉を私たちに与えてくださいました。それだけではありません。イエス様は一人ひとりの病を癒やしてくださいました。

 この話を現代の私たちが読むときに、いろいろなことを思います。もし同じような状況で、今の私たちが「病気を治してください」と言われても、「たぶん、治すことはできないだろうな」と思います。それは、病気を治すことは、医学、医療がすべきことであって、人間の祈りとか信仰とかが、直接に治すものではないから、ということを私たちが科学的知識として知っているからです。

 だから、今日の聖書箇所において、弟子たちが病気を治してもらえなかったから、と責められていることは、どこか辛い気持ちがします。「だってしょうがないじゃないか、そんなことは」と思うのです。「今の私たちだって一緒だよ。できないよ。そりゃあ、イエス様はできるのかもしれないけれど、生身の人間は、人の病気を治したり、そんなことはできないんだよ。」私は、そんなふうに思います。

 

 けれども、そんなふうに言ってしまう私たちに、「信仰のない時代」という言葉がイエス様から言われるのです。今日の聖書箇所で、父親は言っています。「おできになるなら、わたしどもを憐れんで助けてください。」これは、「もし、できるのだったら」という言葉であります。これは私たちも同じようなことを思います。

 そして、こうした言葉を発するのは、逆に、癒やす側も同じなのです。病気を治すことを求められても、「もし、私にその力があるのだったら、やります。でも、その力がなければ、やりません。」そういうことを私は思います。

 

 けれども、「できれば」とか「もしその力があるのなら、やります」とか、そういうことを言うときには、「実際には、そんなことは、私はできませんし、あなたも、できないのでしょう」と、内心で思っている人間の心というものがあります。

 「どうせ、そんなものだ。人間ってそんなものだよ。本当はできないんだよ。それを、私たちはよくわかっているよ」と一方では思っているのです。そんな私たちに、イエス様の言葉が響きます。

「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

 その言葉に押されて、父親は叫びます。
「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

 

 この言葉は、究極の信仰告白と言ってよいのではないでしょうか。この私という人間の中には、信仰なんて無いのです。私たちは、信仰の話をするときに、「できれば」とか「もしそうだったら」とか、それぐらいのことは言います。でも、そうした言葉にはいつも何かの皮肉が入っています。「実際は、病気が治されたりすることはないのでしょう? 私は知っていますよ、現実がどんなものかを」という思いです。

 

 「これは宗教のお話なんでしょう? キリスト教なんでしょう? いつも良いこと言いますよね。でもウクライナで戦争が起こっているじゃないですか。どうして戦争を止めないのですか。どうして止められないのですか。神様がいらっしゃるのであれば、今すぐ止めてください。」……そんなことを私たちだって思うのです。「もしおできになるなら、戦争を止めてください!」

 

 けれども、そんな私たちの皮肉な心に対して、イエス様がおっしゃいます。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」これは、イエス様だったら何でもできる、と言っているのではありません。つまり、あなた自身が信じる者になれば、何でもできるんだよ、と言われているてのです。

 

 その言葉を聞いて父親は言いました。「信じます。信仰のない私をお助けください。」一人ひとりの人間には力がありません。信仰もありません。けれども、「信じる者は何でもできる」と言われたときに、とっさに動く心というものがあります。信じることができるんだ、と気づくのです。

 

 この私という人間が、現実を動かして何かをする、ということはできません。そんなことはできません。けれども、信じるということは、今すぐ、この場でできることです。そして、そこから現実は変わっていくのです。「できない、できない」と言っている人間でも、できることがあるのです。信じるということができるのです。そこから全てが変わっていくのです。

 

 そのことがわからずに、この世界の現実の中にあって、この現実を皮肉っているだけの人間ね言い訳だけをしている人間ばかりになってしまっているならば、それはまさに「信仰のない時代」ということです。「信仰のない時代」、それは希望のない時代ということです。すべてが「現実、現実」と言われて希望がなくなってしまう。するとどうなるか。救う側の人も何もできない。救われる側の人も、何もできないというふうになっていくのです。

 

 そんな世界の中に、神様が一歩を踏み出して下さいました。私たちの所には聖書があります。そこに神の言葉がすでに来ています。その神の言葉を聞く耳が、一人ひとりにあるのです。そうであるならば、社会というものは必ず変わってきます。

 教会というのは、このイエス・キリストの福音というものが語られる所であります。この世界のどこに行っても教会があるならば、そこでイエス・キリストの福音が語られます。すると、そこから新しい時代が始まるのです。この京北教会が、京都の地に建てられた所から、そこで神の国の福音が新しく語られ始めました。

 

 そして、今日のこの日曜日、この京北教会で皆さんと一緒にしている礼拝、この礼拝においてもイエス・キリストの福音が、新しく、この聖書の言葉を通して、聖霊を通して語られています。その喜びを持って、新しい世界に踏み出して行きたい、教会創立114年目の歩みを、みんなでしていきたいと願うものであります。

 

 お祈りします。

 天の神様、一人ひとりに与えられている課題を果たすときに、イエス様が一緒にいてくださいますように。戦争が終わらず、災害が各地で起こり、生活が苦しくなるこの時代にあって、神様の言葉を聞くことによって、新しい信仰を一人ひとりの心の中に、どうぞお与えください。そこから始まっていく、一人ひとりの人生、そしてこの京北教会全体としての新しい歩みを、神様が祝福して下さいますように。私たちの歩みの中心にいつも主イエス・キリストが立って下さいますように、心よりお願いいたします。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

 

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「我らは主にあって生きる」2022年3月27日(日)

 聖 書  ローマの信徒への手紙 14章1〜12節 (新共同訳)

 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。

 何を食べてもよいと信じている人もいますが、
   弱い人は野菜だけを食べているのです。

 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、

 食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。

 神はこのような人をも受け入れられたからです。

 

 他人の召使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。

 召使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。

 しかし、召使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。

 

 ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。

 それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。

 特定の日を重んじる人は主のために重んじる。

 食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。

 また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。

 

 わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、

 だれ一人自分のために死ぬ人もいません。

 

 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、

 死ぬとすれば主のために死ぬのです。

 従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。

 

 キリストが死に、そして生きたのは、
    死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。 

 それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。
    また、なぜ兄弟を侮るのですか。

 わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。

 

 こう書いてあります。
 「主は言われる。
 『わたしは生きている。
       すべてのひざはわたしの前にかがみ、
  すべての舌が神をほめたたえる』と。」

 

 それで、わたしたちは一人一人、
 自分のことについて神に申し述べることになるのです。

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 (以下、礼拝説教)

 

 京北教会では、マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、旧約聖書、その三箇所から順番に、毎週の礼拝で皆様と共に読んでいます。今日はローマの信徒への手紙14章です。

 

 使徒パウロが記した大変長い手紙であるローマの信徒への手紙、これはローマにある教会の人たちに向けて、パウロがまだそこを訪れたことがない教会なのですが、そこに送った手紙です。手紙という名前がついていますけれど、その内容は実際には一つの神学論文、あるいは長い説教とも言えるような、大変充実した内容が書かれています。

 

 この長い手紙の中で多くを占めているのは、主イエス・キリストを主と信じる信仰について、解き明かしている内容でありますが、この14章では手紙がかなり終わりに近づいてきた所であり、それまでにはあまり書いてこなかった教会の中での具体的な教え、教会生活についての具体的な教えということを書いている所であります。

 

 順々に読んでいきます。

 「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」

 この言葉から始まっています。

 

 信仰の弱い人とはどういう人のことでしょうか。詳しくはわかりませんが、このあとに書いてあることによって、どういう人たちのことか少しわかってきます。

 

 「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」

 

 ここで、「弱い人は野菜だけを食べている」という言葉があります。現代では菜食主義と言われる考え方があるようですが、この聖書箇所ではそういうことが言われているのではありません。当時の人たちは、市場で肉を買って食べていたのですが、その肉の中には異教の祭儀、宗教のために献げられた肉が、そこから市場に出回って売られているということがありました。そうした肉は汚れているから、絶対に食べないという人たちがいたのです。そうした人たちは肉を食べずに野菜だけを食べていた、ということがあったということです。

 

 そこでは何らかの形での宗教的な考え方、信念があって、そうしていたようです。それに対してパウロは他の所でも書いていますが、そうしたことは外側のことであって内側のことではないので、異教に献げられた肉を食べてはいけないとは考えていませんでした。むしろ、そうした考えは迷信に近いと考えていたのであります。けれども、当時のキリスト教会の中には、そうした肉は食べてはいけないと考える人もたくさんいたようです。

 

 そうしたときに、お互いの考え方が違うことによって争いが起こることがあったようです。あの人たちはおかしい、異教に献げられた肉を食べている、と軽蔑する人もいる。その反対に、平気で食べる人もいる。そうして一方が一方を軽蔑する、低く見る、ということが起こっていたわけであります。お互いにそうだったのです。

 

 そのような教会の状況を見越して、パウロは言っているのです。そのように軽蔑してはならない、また、裁いてはならない、神はこのような人も受け入れられたからです、と言います。

 

 さらに言います。
 「他人の召使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。」

 

 ここで、「他人の召使い」という言葉をパウロは使っています。それは、神様の僕(しもべ)という意味であります。一人ひとりの人間は神様の僕なのです。その、神様の僕が、自分自身の信仰に基づいて、私はこういう風に生活すると決めて生活している、その様子をはたから見て、あれはおかしいといって裁くことについて、それはどういうことか、とパウロはここで言っているのです。

 

 「他人の召使い」という言葉で言われているのは、人は一人ひとり神様の僕であり、あなたの僕ではないのだということです。神様という主人が、その一人ひとりの上に立っている。だから、その人を裁くことは神様がなさることであって、あなたがすることではない。

 

 「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。」

 

 ここには「ある日を他の日よりも尊ぶ人」という人が出てきます。そうした人もパウロの言葉によれば、信仰の弱い人の中に入ります。これがどのような意味か、はっきりわかりません。その地域にあって、この日は他の日よりも大事だと決められていたお祭りの日とか、地域の習俗を指すのか、あるいは何かその人にとっての記念日を指すのか、そうしたことはわかりませんけれども、そうしたことはその人の生まれ育った土地の文化、また生きてきた人生の経験、家族や仕事、いろいろな関係の中で、そうした物事の考え方が変わってくるのですね。そういうことは、一人ひとり自分で決めたらいいのだ、ということです。

 

 もちろん、パウロがこういうことを言うときに、暗に言っていることは、どの日も同じだ、だからこの日だけが他の日よりも大事だということは、迷信に近いということです。そうしたことは、パウロが主イエス・キリストに出会って、物の見方が変わったからです。神様は一人ひとりの心の内面を見て、その信仰によって救ってくださいます。その人の行いによって救われるのではありません。正しい行いをしたから救われるのではなくて、神様に心を向けたときから救いは始まっているのです。パウロはそのことを知っていました。

 だから、この世の中で生きるいろんな決まり事とか、宗教的な習俗、地域の文化、そういうものの中で、これは食べていけない、これは食べていいとか、この日は悪い日、この日は良い日、日本で言えば「吉凶」、この日は吉でこの日は凶、そうしたことを本当に信じているなら、それはもう迷信といっていいでしょう。

 

 けれども、そういう人たちもまた、教会にあっては仲間なのだ、パウロはここでそういうことを言っているのです。それぞれが神様に対して信仰を持って、自分の生活スタイルを判断していけばよいのだと、はたから見てそれが迷信に縛られているように見えたとしても、それがその人にとって大事なことになっているであれば、そしてそれがその人の信仰に基づいてされているのであれば、それはもういいではないか、とパウロはここで言っているのです。

 

 そして、以下、今日の聖書箇所の後半に入っていきます。

 「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」

 

 このように言っています。今日の箇所の前半には、非常に具体的なこととして、物の考え方の違いがあったときにどうするか、その人をどう見るかということを語っているのでありますけれど、ここでパウロは単なる生活の知恵とか、教会運営の知恵ということを言っているのではなくて、そのあとに後半で言っていることが一番言いたいことであって、それを現実に適応するとこうなる、ということを前半で言っているわけであります。ですから、今日の箇所の後半にパウロの主旨があります。

 

 ここでは、わたしたち人間一人ひとり、そして今日の箇所では教会に来ている人、ということですが、「だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません」とパウロは言います。私たちの命、そして死というもの、これは神様のものなのだ、だれもがそうなのだ、と言います。

 

 そして、こう続きます。

「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。 

 それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。

 わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。」

 

  イエス様が生きられ、そして死なれたこと、十字架にかかられてすべての人のあがないとなった、すべての人の罪をゆるしてくださるための犠牲となってくださった。福音書はそのように私たちに教えています。それはなぜだったのか。それは、すべての人に対してイエス様が救い主、救いの中心に立ってくださったからなのであります。そういう意味で、すべての人はみんな平等なのです。神様の目から見たときに、どの人も救われるべき対象なのです。

 

 そうであるにもかかわらず、なぜ、あなたは自分の兄弟を裁くのですか、とパウロは問うのです。あなたもイエス様に救われたのでしょう? あの人もイエス様に救われたのですよ。なのに、なぜ、あなたは、あの人を裁くのですか、まるで、あの人が自分の僕(しもべ)であるかのように、あの人を裁くのですか、とパウロは厳しく言うのです。

 

 前半の所でパウロはこう言っていました。「他人の召使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。」他の家を見て、その家の召使いを見て、あの召使いはおかしい、というならば、それはおせっかいであったり、越権であったり、ピント外れだったりします。その家にはその家の主人がいて、召使いを守っているからです。それと同じように、神様という主人が、すべての人を守って、すべての人を救ってくださるのです。なのに、なぜ、あなたは自分の兄弟を裁くのですか、というときに、教会の中で、あるいは社会の中で、神に救われたと信じているその人たちが、ときに自分の兄弟を裁く、侮る、しかも考え方の違いによって、しかもささいな考え方の違いによって人を裁く、そういうことが現実にあるということをパウロはよく知っていました。そうであってはならない。すべての人は神様によって救われ、愛されるべき対象として存在しているからです。

 

 さらにパウロは言います。

 「こう書いてあります。『主は言われる。「わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる」』と。それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。」

 これはイザヤ書45章の言葉の引用です。「すべてのひざが……すべての舌が……」という言い方で、すべての人間が神様のもとにあって等しく神様に愛され、救われる人間として、そこにいる、そしてそのすべての人間が神様をほめたたえる、すべての人間が自分を造ってくださった、まことの主に感謝する、ということが言われています。そこに例外はないのです。こうして、すべての人は神様の前で平等であるということが言われています。

 

 そして最後にパウロはこう言います。「それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。」

 

 最後のこの言葉は、今日の聖書箇所全体をグッと引き締めています。どういう生き方をしても、それはその人の自由なのです。けれども、その生き方がどういうものであるか、ということについて、一人ひとりが自分で神様の前に申し述べることになります。

 それは神様はすべての人に自由を下さったけれども、すべての人間がそれぞれにしていること、その全てが良いというわけではなくて、神様は一人ひとりの人間と向き合っていてくださり、その神様の前で、自分はどう生きているか、生きてきたか、ということを一人ひとりが申し述べることになる。そこでは、その人自身の人生の責任は、自分というものが負っているのだ、そのことをパウロははっきりと言っています。

 

 一人ひとりが自分の生きることの責任を負っているのだから、はたから見て、それをあれこれと裁くな、侮(あなど)るな、とパウロは言っているのです。そして、こうしたパウロの信仰から考えたときに、教会の中でのいろんな考え方というのは、お互いに受け入れられることができるようになる、ということをパウロは信じているのであります。

 

 生活習慣、あるいは宗教的な習慣の理解において、これは汚れている、これは汚れていない、とか、この日は尊い、いや、どの日も同じだとか、そうしたことはいろんな考え方があるのです。それを意見交換して、私はこう思う、いや、それはどうかなあ、そんな話はたくさんできるでしょう。けれども、それで裁いてはならない、侮ってはいけない、そのことを今日の聖書箇所でパウロは言っています。

 迷信にこだわっているように見えても、それがその人の真剣な、本当に真剣な信仰から出てきた生活態度ならば、それは受け入れましょう。そうしたことが言われている、この箇所を読むときに、パウロは本当にいろんな人たちに出会ってきたのだなあ、ということを私は思います。

 いろいろな人に出会ってきたのです。その中には、迷信に捕らわれているような人、あまりに素朴な人、いろんな人がいたでしょう。でも、その人たちを、この人はだめだ、幼稚だ、前の時代の考え方だ、といって切り捨てていったならば、教会に来る人はどんどん減っていき、最後はだれもいなくなってしまうかもしれません。

 

 信仰の弱い人、迷信に捕らわれているような人、つまり、イエス・キリストが私たちを救って下さって、一切のからみつく罪から解き放って下さった、ということを、いくら言葉で聞いたとしても、それを実際の生活に反映することができない人、それを「信仰の弱い人」として、ここで言われています。しかし、そんな人を教会はしっかりと受け入れて、兄弟として一緒に歩みなさい、ということが、具体的な戒め、教えとして今日の箇所で言われています。

 

 今日のこの箇所を読んで、皆様はどのようなことを思われますでしょうか。私はこの箇所を読んだときに、いろいろなことを思いました。この日本社会の中で生きるときに、様々な生活習慣、仏教や神道、また様々な土着の習慣、あるいは自然と共生する中で、たとえば農業とか、日本のいろんな産業の中でつちかわれてきた様々な習慣、慣例、その中にあるいろんな考え方、そういうものがあって、その中で私たちは生きています。

 

 そこで自分がどう生きるか、ということは一人ひとりの選択によります。ときには、それがすごく異教の考え方に見えたとしても、それが生活の中でしっかりと根を下ろして意味を持っているときには、あえてその考え方を受け入れていく、そしてキリスト教もその環境に適応して、そこに融合していく、ということも、これは十分にありえることであります。

 

 もちろん、どういう考え方をするか、ということは一人ひとり違いますし、いろいろなチャレンジというものがあってよい、と私は思っています。そういうときに、ある人の考え方を他の人が一方的に批判する、受け入れない、ということは亀裂を生んでしまうことであるので、やはりお互いに相手のことを受け入れていきたい、というふうに考えます。

 

 そんなふうに、日本社会のことに重ねながら、今日の箇所を読んでいたのですけれど、しかし、なかなか今日の箇所を読んでいてもピンとこないものがあったのです。というのは、いろんな習俗の中で私たちが生きていること、これはあたり前のことで、慣れてしまえばそんなに悩むことではないのではないか、とも思うのです。

 

 パウロが今日の箇所に書いていることも、パウロは心が広いなあ、と思って読むと腑に落ちるので、それでよいのですが、もしそれだけならば、これは何かの、生活の知恵のようなことだと思うのです。いろんな考え方の違いがあっても、裁き合ってはいけません、ということならば、それはそうですね、ということで終わるのですけれども、もう少しいろいろと考えてみると、それとはまた違ったことも思いました。

 

 それは何かといいますと、この箇所の1行目に書いてある「信仰の弱い人」という言葉に、心がひかれたのです。「信仰の弱い人」とはどういう人でありましょうか。今日の箇所では、迷信的なことにまだ捕らわれている人という、そういうニュアンスがあるのですけれど、「信仰の弱い人」という言葉を考えるとき、単にそうした生活習慣のことだけではなくて、いろんな意味で「信仰の弱い」ということがあると思うのですね。

 

 こんな風に生きたい、と思っても生きることができない。他者との関係をこんなふうにありたいと思っても、そうなれない、とか、家族との関係で、こんなふうに家族の一員でありたいと思ってもできない、友人との関係でも、地域との関係でも、こう生きたいと思っても、そうできない、そんなふうに思うときに、自分の信仰が弱い、自分がしっかりとした信仰に立って生きていない、と感じるときがあります。

 

 すると、「信仰の弱い人」というのは、どんな人なのだろうか、と考えたときに、それは何と言いますか、「精神的に弱くて、信仰が弱い」というのとはちょっと違っていて、何と言ったらいいのでしょうか……。

 

 私は、パウロがここで「信仰の弱い人」と言っているのは、「疲れている人」ということかなあ、とちょっと思いました。疲れている人、それは神様への信仰を持って生きたいなあ、と思っているけれども、そんなに、何と言いますか、信仰によって生きる、と人前で言えるほどには強くない自分……。

 そして、職場とか家族とかの関係の中で、自分の生き方をしっかり主張していくことができるかというと、それもできないというような所で、何となく人に合わせてしまって疲れてしまっている自分……。

 それは、単に何かのキリスト教信仰ということを人前で言って、私はこんなクリスチャンとして生きていきますと宣言して生きる、というようなことではないのです。

 そうではなくて、ごくごく単純に、私は私らしく生きていきたい、そして他の人のその人らしさも大事にして、だれとも仲良く生きていきたい、そう思うのだけれど、できない。なぜか人とぶつかってしまう。なぜか自分で決めた目標を達成できないような、うまくいかない所で疲れてしまっている、そういうこともまた、「信仰の弱い」という状態なのかなあ、ということを思ったのです。

 

 なぜそう思うか、と言いますと、何を食べてもいいはずなのですが、これは食べてはいけない、とか、あるいは、どの日も同じのはずなのですが、いや、この日はちょっと特別な日で、と思っているのは、そうしたことにしがみついていかなかったら、自分の心が守れないように思っている人のことではないか、と思うからです。

 

 ……迷信だとはわかっているのだけれども、こうしなかったら何かスッキリしないのです、何かバチがあたるような気がするのです……というようなときに、そこにはその人の心の弱さが表れています。でも、なぜそこに弱さが表れるのかというと、現実の中でその人が疲れてしまっているからではないかと思うのです。

 

 現実の中で疲れてしまっいる。現実の中でどう生きていったらいいかわからない。だから、今までやってきたことにすがりたいんだ、なぜそうなのかわからないけれど、迷信のようなことであったとしても、今までやってきた通りの生活を守って、何とかそこにしがみついて自分を守っていきたいと思う、そこにある心は、この世の中を生きることにおいて、疲れている姿ではないでしょうか。

 

 キリスト教の信仰を持つときに、イエス・キリストによって救われ、全ての罪から解放され、いろいろな迷信から解放され、自由に生きることができます。けれども、その自由に生きるということについても、私たちはなぜか疲れてしまうことがあるのですね。

 

 本当の自由になっても、それで自分が思い通りに生きられるわけではない。すると、なぜだかちょっと、自分が昔やっていたことに戻りたくなってしまうのです。何か、人間の心にはそうした揺らぎというものがあって、パウロが今日の聖書箇所で言っている言葉も、実はそんなふうなことを思って言っているのではないか、と考えてみました。

 

 そして、そんな心の揺れを持っている一人ひとりの人間が、お互いに、その弱さをお互いにつつき合い、裁き合ったならば、この世の中はもう成り立たなくなってしまうとパウロは知っていたのです。

 

 自由に生きるといっても、そんな簡単に生きられないんだよ。うまく行かないんだよ。ではどうしたらいいかというと、昔やっていたことに逆戻りすることだってあるんだ。それでもお互いに、そうした人を見捨てないで、「うん、わかるわかる」「わかるよ」と言いながら、お互い支え合っていこう、神様への信仰とは、そんな温かいものではないか、と思うのです。

 

 そして、いろんな考え方の違いはあっても一緒に生きていく、その根拠は何だと言われたなら、イエス様が私たちすべての人のために死んでくださったから、ということです。イエス様は、私たち一人ひとりの、救いの中心に立ってくださるのです。そして神様の前で、一人ひとりが神様に守られている神の僕(しもべ)なのです。だから、自分とは考え方が違うなあと思う人がいたとしても、その人もまた神の僕でありますから、その人を裁くことは、他人の召使いを裁くことであり、ピント外れなことになってしまいます。そうであってはならない、というのです。

 そして最終的には、一人ひとりが自分のことについて、神様の前で申し述べる、そのことができたら、もうそれでよいのです。自由に生きたいと思っているけれども、なかなか自由に生きられない一人ひとり。疲れてしまっている人。「ああ、私は信仰が弱いなあ」と思う人。また「私は、もともと信仰なんてないなあ」と思う人。そんな私たちもまた、教会という所につながっていくとき、お互いが受け入れられていく、その中で神様から温かい言葉をかけていただいて、また新しくその一週間を歩み直していく、そのことができますように、そのことを心から願います。

 

 お祈りします。

 天の神様、私たちが一人ひとり、与えられた場にあって、信仰が弱くても、信仰がなくても、それでも神様によって心をひっぱっていただいて、自分がすべきことをし、また、祈るべきことを祈っていくことができますように、どうぞ導いてください。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。
 アーメン。

 

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