京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2021年11月の説教

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 2021年11月の京北教会礼拝説教

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「人に休みと祝福を」2021年11月7日(日)説教

 聖書  創世記 2章 1〜3節、15〜24節  

  
  天地万物は完成された。

  第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、

  第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。

 

  この日に神はすべての創造の仕事を離れ、

  安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。

                     (以上、創世記2章1〜3節)

 

  主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、

  人がそこを耕し、守るようにされた。

  主なる神は人に命じて言われた。

 「園のすべての木から取って食べなさい。

  ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。

  食べると必ず死んでしまう。」

  主なる神は言われた。

  「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

  主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、

  人のところへ持ってきて、人がそれをどう呼ぶか見ておられた。

 

  人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。

  人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、

  自分に合う助ける者は見つけることができなかった。

 

  主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。

  人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。

  そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。

  主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。

  「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。

   これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/

   まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」

  こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

 

                      (以上、創世記2章15〜40節)

 

(以上は、新共同訳より抜粋し、改行など文字配置を説教者の責任で変更しました)

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(以下、礼拝説教) 

 

 最近の京北教会では、聖書から三つの箇所、マルコによる福音書とローマの信徒への手紙と旧約聖書から、それぞれを毎週順番に読むことにしています。このことを通して、聖書のメッセージをより深く教えられていきたいと願っております。今日の箇所は旧約聖書の創世記であります。

 

 2章1〜3節、そして2章15〜24節です。2章1節から続けてずっと読むと、礼拝の中で読むには少し長くなってしまう箇所なので、間を省略して、二つの箇所に分けてプリントしています。

 

 2章1〜3節は、創世記の1章から始まる天地創造、人間創造の物語の最後の箇所です。神様が1週間をかけてこの世界のすべてを作られた、その一番最後の日のことです。その前の第六日目にすでに人間が創造されています。そして、その第七の日に、神様は御自分の仕事を完成されました。

 

 「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。」と書かれています。

 

 七日目に神様がお休みになられたということが、現代の私たちの日曜日、神様を礼拝する安息の日、ということの元になっている、そういう説明がここにあります。「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」このように書かれています。

 

 1週間に一日、すべての仕事をやめて神様に礼拝を献げるということの意味は、この創世記に書かれていることだけではなくて、旧約聖書出エジプト記にも話があります。そこでは古代のイスラエルの人たちが住み着いていた土地に飢饉があって、食べ物がなくて移住したエジプトの国の中にあって、人口がどんどん増えていったので、当時のエジプトの王様から目を付けられて奴隷にされ、抑圧されたことが書かれています。そして、そこから神様に導かれて脱出したのでありますけれども、そのエジプトにおいて、休みなく労働させられる苦しさということを、この人々は知っているので、この第七日目に休むということを何よりも大事にするようになったということが、出エジプト記には書かれています。

 

 そのようにして、この休むということの大切さということが、まずは神様が休まれたこと、そしてそのことが現実にエジプトの国の中で王様の圧力によって休みなく働かされる、非人間的な暮らしを強いられた、その中で七日目が休みであるということが、人間らしい生活をするために必要だということを現実の中で学んだのです。そういう歴史が旧約聖書の中には記されています。

 

 そして、そこから続いている、この安息日の習慣が、イエス様の時代にあっても大切にされていました。この日は神様を礼拝するために、すべての仕事を休まなくてはならない。その、神様を礼拝するということに専念するために、そうするのだということが律法で決められていました。しかし、イエス様の時代にあっては、今度は、日曜日には何もしてはならないという形で、逆に人を縛る決まりになっていました。その中で様々な矛盾が生まれていました。

 

 その中でイエス様は言われました。「安息日のために人があるのではなく、人のために安息日がある」と。安息日には全く何もしてはいけないとか、何かしたら神様の罰を受けるとか、人から罰せられるとか、そういうために安息日があるのではない、ということをイエス様がおっしゃってくださいました。そうしたことによって、この安息日に本当の意味を回復することになったのであります。

 

 こうして考えてみますと、聖書全体を通してこの安息日を休むということは、とても大切なことであり、神様を礼拝するということが1週間に1回必ずある、その意味は、そのことのために全てを献げる、そういう神様への信仰者の生活ということが、聖書の中で言われているということがわかります。

 

 そのもともとになっていることは、この創世記のこの箇所に書いてあるです。世界の始まりのときから、そうであった、と言われています。そして、今日こうした聖書の箇所を読むときに、どういう聖書の解釈の立場をとるか、ということでもあるのですけれども、私自身は聖書に書いてあることがすべて歴史的にそのままであった、現実にその通りであったという立場ではありません。

 

 聖書に記された物語は、これは歴史の中で積み重ねられ、編集されてきたものであって、その通りに歴史そのものではない、だからその文献をどう解釈するか、ということで、聖書のメッセージを聴いていくということが、私自身が聖書を解釈するときに取っている立場であります。

 

 そういう意味で、旧約聖書の創世記を読むときにも、「1週間で世界が造られた」ということは、この聖書の物語の中の世界のことであり、実際の歴史としてはそうであったということを信じているわけではありません。しかし、じゃあ聖書に書いてあることはすべてお話なのか、ということではなくて、この物語を通して人間はいかに生きるべきか、ということを神様がしっかりとメッセージをここでくださっているということを、私は固く信じています。

 

  今日の箇所においても、神話的な物語である、1週間の天地創造・人間創造、七日間で神様が造られた、この事柄は、私たちに今この時代にあって何を教えているのか、ということを本当に知りたく思います。

 

 今日の箇所を読まれて何を思われるかは、皆様それぞれでありましょうが、私自身は、この箇所を読むときに、神様ご自身が七日目に休みをとって下さったのは、神様は全知全能の方ですから、休みなんて必要なかったはずですが、あえて休んでくださった、そのことにおいて、私たち人間は、1週間に1回、休んでいいのだ、というお許しを神様からいただいている、ここに神様からの大きな祝福があると思います。

 人間にとって休みというのは、なくてはならないものであります。その休みを取るな、もっと働け働けと、奴隷とされていたエジプトで言われていたのと同じように、働け働けと言われるならば、それは神様の存在を否定しているのと同じことだ、というぐらいに、この1週間に1回休みを取らなくてはならない、それは神様からのかけがえのない贈り物だから、という聖書の信仰、このことを大切にしたいと思うのであります。

 

 そして、本日の箇所にある次の、創世記2章15〜24節を見ていきます。

 「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。 主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」

 

 旧約聖書の創世記に書かれている天地創造の物語は、ひとつながりに書かれているように見えて、実は二つの物語から出来ています。細かく見て行きますとわかりますが、1章に書かれている天地創造・人間創造の話と、2章に書かれている天地創造・人間創造の話は、違った話です。その二つの話は、似通ったところがあるので、すーっと続いているようにも見えますが、よく見ると、創世記1章にある神様が1週間で世界を造ったという話と、違う話が2章には書いてあります。

 

 今は細かいところは見ませんが、それはもともとこの天地創造の物語が二通り伝えられていたことを示しています。もともと違った物語が二つ伝えられていて、それを一つの聖書の創世記という形にまとめるときに、その二つの物語をうまく組み合わせて、一つの物語に変えてしまうというのではなくて、二つの物語をそれぞれそのままに残して、そしてその二つの物語がうまくつながるように若干の言葉を入れて編集しているのですが、ほぼ二つの物語がバラバラに残されています。

 

 それはなぜかというと、古代から伝えられてきた大切な物語、神様から伝えられている大切な物語というものを、人間の手で作り変えない、ということをしたためであります。いくらでもいじっていいのでしたら、二つの話が矛盾しているからおかしい、と言って二つの物語を一つに練り上げることも、やればできなくはなかったと思いますが、それは神様への信仰という点から見て、よくないことだったんですね。矛盾があったとしても、そのまま残しておく、そういうふうに、この創世記を編集した人たちがしてくれたおかげで、現在の私たちも、このことにより古代の世界の話というものをよくわかるようになっているのですね。神様への信仰があるゆえに、古代の文献がより正確に残されている、このことは本当に感謝することです。

 

 そして、今日のプリントに記しました、2章の人間創造の物語は1章とは違っています。1章においては神様は人間を創造したときに、神にかたどって創造された、男と女に創造された、というように、最初からもう男と女に創造されています。しかし、2章の物語には、まず一人の人というものがいて、その一人の人に合う助ける者として、女性を神様が創造されたという話になっています。

 

 ですから、1章と2章は違う話なのですね。しかし、違う話なのですけれども、そんなに矛盾を感じないのは、この二つの話に共通しているものがあるからです。それは神様が人間を祝福しておられる、ということです。神様は人間を祝福しておられる、そのことは確かです。人間が地上で生きている、そのことは神様の祝福によってそうなっています。そのことを、創世記の1章にも2章にも共通しています。だから、違った内容でも、ひと続きの物語として読むことができるわけです。

 

 本日の箇所を、さらに細かく見ていきます。

 「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」

 

 先にエデンの園、神様の庭というものがあって、そこに人を連れてきて、そこを耕し、守るようにされた。畑があってそこに働く人を連れてきた、という地主さんのような神様です。ここには、まさに実際の生活、人々が経験している生活のことが、この神様のことを伝える神話にも反映しているわけです。

 そして、次にこう言われます。

 「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」

 

 アダムとエバのリンゴの木の話、とよく言われますが、聖書にはリンゴとは書いてありません。こうした物語の形で、私たちが知っているアダムとエバの物語の元がここに書いてあります。園のすべての木から取って食べていいけれども、善悪の知識の木からは、その実を決して食べてはならないのです。しかし、このあと、蛇にそそのかされる形で、アダムとエバは善悪の知識の木の実を食べてしまいました。食べても死にませんでした。しかし、このために人間には、いつか死ぬという寿命というものができた、という、創世記の中ではそういう物語になっています。そうした、このあとに出てくる物語の伏線というものが、ここにあります。

 

 そのことが言われたあとに、神様はさらに言われます。

 「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持ってきて、人がそれをどう呼ぶか見ておられた。」

 

 人が独りでいるのは良くない、彼に合う助ける者を造ろう、と神様は言われました。しかし、ここで神様は人のパートナーを造ったのではなくて、獣や鳥を土で形づくり、人のところへ持ってきたとあります。まるで砂場で子どもが土で造るように、神様が動物や鳥を造って、連れてきたのです。そしてどうなったでしょうか。

 

「人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。」

 

 なんとなく、不思議な物語でありますが、神様が土でこねて造った動物や鳥を持ってくると、人間がそれぞれの名を呼んで名付けた、ということは、人間がその動物や鳥よりも大きな存在になったということかなあ、と思います。創世記1章の最初では、天地創造の最初に、神様が「光あれ」と言われると、光が現れるということがありました。その名を言葉で呼ぶと、そのものが現れるという考え方を反映しています。ここでは、人間は神様に造られた存在であると同時に、神様にかたどられた、神様に似た存在として、人間が名を呼ぶと、すべての動物や鳥に名を付けることができた、そういう意味で、この人間というのは、世界のすべての動物や鳥に対して、まさっているということが言われていると思います。

 

 しかし、そういうとをしても、人間は自分に合う助ける者を見つけることはできなかったのです。動物や鳥、そうした生き物はすべて見た、その名前を呼んで名前を付けた。そういうことで、すべての生き物は自分の下にあるものとすることができた。しかし、自分に合う助ける者は見つけることできなかったのです。

 

 その次の箇所です。

 「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。『ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。』こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」

 

 ここにある、男はイシュ、女はイシャーという言葉は、旧約聖書の原文のヘブライ語の言葉です。ここまでが、今日の聖書箇所です。いまの新共同訳聖書の一つ前にあたる口語訳聖書のときには、こうした原文の言葉はここに書かれていませんでした。これが書かれるようになったのは、この発音のことが書かれていないと、単語の音にあるつながりの意味がわからないからです。言わば言葉遊びなのですが、そうした言葉遊びを通じて、男と女は、もともと一体であった、ということが示されています。

 

 こうして、人にはパートナー、助ける者というものが与えられたわけです。こうした箇所を読むときに、現代の聖書学者は、いろいろな議論をします。聖書学者だけではなくて、世界中で聖書を読む人は何らかのことを、本日の箇所について、これはどういう意味なのだろう、ということを考えます。それは、男と女という、この両方の存在が世界の中にあってどういう関係なのか、お互いは対等なのか、どういう結びつきがあるのか、ないのか、という、この世界の人間、人類にとって根本的な問題というものが、ここに描かれていて、旧約聖書の言葉が、その問題に対する答えとなるか、あるいは、ならないか、ということに関心を持つのですね。

 

 それで、現在の聖書学者たちがどのように今日の箇所を読んでいるか、ということを紹介しますと、人のあばら骨から女を造ったということは、女というものはその程度のものだ、というように男性に対して女性を低めて言っている言葉ではなくて、男性にとって無くてはならないあばら骨を取ってそこから造られた、ということは、まさに男性と女性というのは、お互いになくてはならない存在である、大事な存在である、ということだと解釈をします。特にあばら骨というのは、人間の体を形作るものであって、他の骨とは違う、決定的に大切な、人間存在の本質ということで、そういう解釈をしているわけであります。

 

 確かに、昔からの、と言いますか、古代のキリスト教の解釈、聖書の解釈というものを見ていきますと、そうではなくて、もともと男がいて、男のために女が造られた、だから女は男よりも下の存在だという解釈があったということも事実です。実際には、こういう箇所を読むときには、そういうふうに読めるなあ、ということを思うのです。けれども、聖書というものは、どこまでもどこまでも、やはり深く読んでいくべきだと思うのですね。

 

 その時代時代にあって、その時代に都合のいい解釈をするために、「ほら聖書にこう書いているじゃないか」と言うために論じていると、本当には聖書のことがわからないわけです。

 

 さきほど言いましたように、創世記の物語は、1章と2章で内容の違う物語が載せられています。1章のほうは人間創造の一番最初から、人間は神にかたどって創造された、男と女に創造された、とあるように、最初から男と女として人間は創造された、という形で書かれています。

 

 では、この2章にある物語と1章の物語は、どういう整合性があるのか、という言い方をするのですが、内容が違う物語をどう解釈するのか、という問題があるのですが、そのことは聖書を読むときに矛盾がある、ということなのですね。矛盾があるからこそ、これはどういう意味だろう、と考えるわけであります。

 

 そして現代という時代において、聖書を読むときに考えたいことは、人間の性とは一体何だろうか、ということです。男性と女性という二つの分け方ができるのだろうか、ということです。セクシュアル・マイノリティと表現されるような方々のこと。また、男と女という対で人間を考える伝統的なキリスト教の考え方に対して、世界の現実はそうではない、という問いがあると思います。

 

 そういう所から聖書を読むときに、聖書の物語は必ずしも、男性・女性が一体として結ばれる関係が絶対だと、言っているわけではないということがわかります。男女の関係がどうであるかということも、聖書の中にあるのは一つだけの基準ではない、ということについて様々な議論がなされています。今日の私たちはそうした議論に参加することができ、それぞれの個人が聖書をどう読むか、ということがあります。

 

 私自身の立場は、聖書の解釈は、どこかに固定された答えがあると考えるのではなくて、一人ひとり自分の人生と聖書を照らし合わせる中で、無限に聖書の言葉が光り輝いていくと私は思っています。ですから、自分の人生と照らし合わせて聖書を読んでいくときに、そこから自分にとって役に立つ意味があるメッセージが神様からいただくことができるであろう、ということを私は信じています。

 

 では、私自身が本日の箇所から何を聴き取るか、ということについて少しお話をいたします。今日の箇所を選んだときに、ここで「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と言われている言葉で、「助ける者」と翻訳されている言葉は原文では「助け」という単語だそうです。「助ける者」とは書いていないのです。それは翻訳における意訳です。だから、その言葉のあとで、神様が獣や鳥を土で造って連れてきた、という話が続くのです。最初から人間のパートナーは人間ではなかったのです。何らかの助けは必要だ、ということで神様は獣や鳥を造られた、しかし、それらは本当の意味で人間の助けにならなかったのです。

 

 そこで、神様は人を深い眠りに落とされて、神様がこのようにされて女性が造られて、そして二人は一体であるという物語になっているわけです。ここで言われているのは、人が必要としているのは、助けであるということです。ここでは、人間はみんな男性と女性という二つの区分となると言われているのではありません。また、人間はみんな結婚しなくてはいけない、ということが言われているのではありません。そういうことではなくて、人が独りでいるのはよくない、助けが必要だ、そして神様は助けを造ってくださる、という物語であります。

 

 それは世界中探しても、獣や鳥、そうしたものは本当には助けにはならなかったのです。世界中探したって、そうした助けはなかったのです。だから、神様は人を深い眠りに落とされました。人が自らの力で、自分を「助ける者」を造り出すのではなく、自分からは何もできない眠りに、神様によって落とされました。深い眠りに落とされた。その、人が何もできないときに、神様がその人からあばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれ、そして人から抜き取ったあばら骨で造り上げたのです。


 ここには、人間が何か努力してパートナーを造ろう、造った、という物語ではなくて、人間は、自らの力で助けを得ることができなかったので、何もできなくなった、考えることもできなくなった、そのときに神様が助け手を密かに造ってくださっていた、しかも、その助け手は、その人自らの体から生み出したもの、その人間自身が生み出したのではなく、神様がその人間を用いて、もう一人の人を造ってくださったのです。だから、この二人は一体なのです。

 

 ここでは、人が眠っているときに、一番大切な助けが与えられています。本日の箇所の前半では、天地創造の七日目に神様が休まれた話を読みました。休むということは、ただ何もしないことではなく、神様の大きな恵みが働くときでもあります。眠るときというのは完全に休むときですが、そのようなとき、人間が何もできないときに、神様の不思議な御手が働いて、その人に最も必要なパートナーが造られ、与えられたのです。

 

 そうしたメッセージを読むときに、ここには、神様から人間に与えてくださる「助け」というものは何であるのか、ということについての教えが満ちてていると思います。人間は社会の中にあって、私たちはいろいろな社会の制度や生き方を考えます。最近で言えばジェンダーの問題を考えるとか、家族をどう考えるとか、性的少数者、セクシュアル・マイノリティの方々のことをどう思うか、そうしたことが様々に問われています。

 いろいろに教えられるとが多いなあ、と思うと同時に、こんなにいろいろなことを言われたら、私はどう考えたらいいかわからない、そういう気持ちも率直なところ、あります。そのときに、聖書に立ち戻って行きましょう。そして、その聖書を深く読んでみましょう。そうしたら、そこで知らなかったこと、気がつかなかったことに出会うのです。そして、そこからあなた自身の人生というものを造っていただく、ということが神様のメッセージだと思うのです。

 

 今日の聖書箇所において、創世記の1章と2章には内容の違った物語がある、ということを申し上げました。その違ったものを切り貼りする形で、創世記の物語はあります。それと同じく、私たち一人ひとりの人生の物語と、聖書の物語というものも、それも矛盾しているようであって、それを切り貼りするときに、思わぬ物語が生まれてきます。その中で私たちは神様に導かれて、自分自身の存在、そして自分にとって大切なパートナーが誰であるか、何であるか、ということもまた新しく示されていくのであります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、私たちに日々与えられている、たくさんの恵みに感謝をいたします。誰もが助けを必要としています。神様、どうぞ、その助けを一人ひとりに与えてください。そして私たちが、神様の導きによって、前を向いて歩むことができますように。苦しいこと、しんどいこと、不安なことがたくさんある、この社会にあって、私たち一人ひとり、神様に造られた世界の中をイエス・キリストと共に歩むことができますように、どうぞお導きください。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通してお献げいたします。

 アーメン。

 

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「子犬のように救われたい」

 2021年11月14日(日)説教 今井牧夫

 聖 書   マルコによる福音書 7章 24〜30節  (新共同訳)

 

 イエスはそこを立ち去って、

 ティルスの地方に行かれた。

 ある家に入り、

 だれにも知られたくないと思っておられたが、

 人々に気づかれてしまった。

 

 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、

 すぐにイエスのことを聞きつけ、

 来てその足もとにひれ伏した。

 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、

 娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。

 

 イエスは言われた。

 「まず、
  子供たちに十分食べさせなければならない。

  子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」

 

 ところが、女は答えて言った。

 「主よ、

  しかし、食卓の下の子犬も、

  子供のパンはいただきます。」

 

 そこで、イエスは言われた。
 「それほど言うなら、

  よろしい。

  家に帰りなさい。

  悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」

 

 女が家に帰ってみると、

 その子は床の上に寝ており、

 悪霊は出てしまっていた。

 

 

 

(以上は、新共同訳より抜粋し、改行など文字配置を説教者の責任で変更しました)

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(以下、礼拝説教) 

 

 最近の京北教会ではマルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、旧約聖書の3箇所から選んで毎週の礼拝で順番に、皆様と共に読んでいます。今日の聖書箇所はマルコによる福音書7章であります。

 

 今日の箇所には「犬」という言葉が出てきます。正確には「子犬」という言葉出てきます。今日の箇所において、この「子犬」が大きな役割を果たしています。

 

 この箇所を最初から順番に読んでいきます。

 「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。」

 

 イエス様が宣教の活動をされて、あちこちの町や村を巡り歩いておられましたが、そこを立ち去って、少し離れたティルスという名前の地方に行かれたのであります。

 

 そして、次のこうあります。

 「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。」

 

 ここでイエス様が、ある家に入って滞在をした、そしておそらく、少し休みをとりたい、と思っておられたのではないか、と想像することができます。そのことを「誰にも知られたくないと思っておられた」という、他の箇所にはない言葉でここに表現されています。

 

 誰も知らないところでお休みをとりたい、という思いであられたのではないでしょうか。なぜならばイエス様は、行く先々で人々が集まってきてお話を聞いたり、病気をいやしていただいたり、そうしたことの評判があちこちに伝わっていって、人々がイエス様の所にやってきていたからであります。そうした生活の中から、少し離れた地方に行き、ある家に入ってお休みをとりたいと思われていたのではないでしょうか。しかし、そこでも人々に気づかれてしまいました。

 

 そして次にこうあります。

 「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。」

 

 その時代にあって病気というものは、何かの悪い霊によると思われていました。何かの恐ろしい悪いことをする、何かが人に取りついて起こる、そのように考えられていました。ここでその幼い娘がどのような状態であったか、この箇所では何も書いてありませんが、普通に寝ていたら治るとか、医者にかかれば治るという状態ではない、何らかの状態にいた、その幼い娘を持つ女がすぐにイエス様のことを聞きつけて、その足下にひれ伏した、つまり、その娘のことについてお願いするためにやってきたというのであります。

 

 次にこうあります。

 「女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。」

 

 この女性はイエス様と同じユダヤ人ではありませんでした。ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった、いわゆるイスラエルに生まれた人、イスラエル人(ユダヤ人)ではない女性、ということです。その女性が、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだのです。

 

 このティルスという地方がユダヤの地域から離れたところであり、ユダヤの人たちから見れば異邦人、外国人の暮らす地域であり、そこにいた子の一人のギリシャ人の女が幼い娘のために、その病をいやしてほしいと願うために来たということであります。娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ、とあります。

 

 このとき、この女性はひれ伏してイエス様の足下にいました。そのようなこの女性の言葉を聞いてイエス様は何とおっしゃったでしょうか。

 「イエスは言われた。『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。』」

 

 このイエス様の言葉、それは聖書を読んでいる私たちにとって、意外に思える言葉ではないでしょうか。普通であれば、いやしてくださいと頼めば、いやしてくださるはずのイエス様が、ここでは、このような言葉を言っているのです。この言葉は、どういう意味でしょうか?

 

 この、まず子どもたちに十分食べさせなければならない、という言葉は、まず神の恵み、神の福音、それは神様からの良き知らせのことでありますが、その恵みは、聖書を語り継いできたイスラエルの人たちに、まず先に十分に伝えられなくてはならない、というこ意味で言われています。

 

 それを「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」というのは、イスラエル人でない異邦人に、先に神の恵みを与えてはならない、ということを意味しています。

 

 ここでなぜ、子どもと子犬という、そのことがたとえとして出てきているか、というと、当時、子犬は家の中で飼われていた、今で私たちがいうペット、そういう身近なとろで、その関係がわかりやすい存在だったからだと思われます。子どもたちがパンを食べた後に、子犬にパンくずのえさをやるのは分かるが、それが逆であってはいけない、ということを、イエス様はここでおっしゃっているのであります。

 

 この女性がユダヤ人ではない異邦人、外国人であったがゆえに、イエス様はここで神の恵みの伝え方の順番ということを、この女性におっしゃったのであります。

 

 そのことに対して、次のようにあります。

 「ところが、女は答えて言った。『主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパンはいただきます。」

 

 ここでこの女性が言っているのは、日常生活の光景でありました。子どもたちよりも先に子犬にパンを与えるなんてことは誰もしない。けれども、子どもたちがパンを食べていて、ポロポロと落としたパンくずは、食卓の下の子犬はいただいています、というふうにこの女性は答えました。

 

 そこには、物事の順番っていうものはわきまえながら、しかし、子どもたちがポロポロと落としているパンくずを食べることで、子犬もその時一緒に食べていますよ、と言っているのです。

 

 そして次にこうあります。

 「そこで、イエスは言われた。『それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。』女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。」

 

 今日の箇所を読んで皆様は何を思われますでしょうか。おそらく私たちの心に一番ひっかかるのは、最初のイエス様の答えであります。他の場面であれば、いつでもイエス様はみんなの病気をいやしてくださっていたのであります。ところがここで、イエス様が、イスラエルの地域を離れて外国人が住む地域に行ったときに、そこでいやしを行うことを人から願われたときに、このようにして、「まず子どもたちに十分食べさせなければならない、子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」ということを言われたのは、一体なぜでありましょうか?

 

 今日の現代社会の中において、この聖書を読んでいる私たちは、正直、このイエス様の言葉につまづくと思います。人間はみんな平等なのに、どうしてこんなことを言われるのだろう、と。イスラエルの人たちが先で、外国人はその次から、という順番、そこに何の意味があるのだろうかと思います。

 

 このことについては、当時のユダヤ教の、あるいは宗教というものの、理屈による順番ではないか、そのように私は思うのです。その宗教の構造の形においては、まず神に選ばれて、その聖書を語り継いできた、ユダヤ人つまりイスラエル人に恵みが当たられて、そのあとに外国人にも恵みが与えられるのであれば、その宗教の理屈がわかります。その宗教においての、ある一つ民族の優越性と言いますか、そのことが言われているのです。

 

 これは「宗教の理屈」ということであります。そして、今日の現代社会に生きている私たちは、おそらくそうした「宗教の理屈」が嫌いではないでしょうか。キリスト教を含めてでありますけれども、「キリスト教ではこうなっています」、「ユダヤ教ではこうなっています」、「イスラームイスラム教ではこうなっています」、「仏教では」、「神道では」、「何とか教では」というときに、「あ〜あ」とあきれるような気持ちで、その宗教の理屈を見ている視点が、現代社会に生きている私たちにはあると思うのです。

 これだけ科学が発達して、政治や社会などの、世界中にある問題がわかっていきて、その中で、様々な宗教というものの持つ素晴らしさはわかったとしても、その宗教が持っている「宗教の理屈」があまりにもかたくななために、宗教の名において、人の命を奪ったり、戦争を招いたり、いろんな問題が起きています。そして、そうしたことに現代に生きている私たちは、もう辟易(へきえき)して、そして悲しく思っている、そういう人が多いのではないでしょうか。

 

 そうした視点から見ていると、次のイエス様の言葉が私たちの心に響きます。

 

 イエス様が最初に答えられた言葉は、「まず子どもたちに十分食べさせなくてはならない。それを取り上げて子犬にやってはならない」という言葉でした。この言葉だけを見ると、当時の「宗教の理屈」の中に心が固められてしまった、ちょっとイエス様らしくない言葉に思えます。しかもここでは、「子供たちのパンを取って子犬に与えてはいけない」と言う言葉で、外国人を子犬扱いし、同時に、子どもたち以下の存在として扱っている言葉だとすれば、まさにこれは差別ではないでしょうか。

 

 人間を「犬」扱いするということは、今日、この日本社会の中で生きている私たちにとっても、よっぽど強くその人をののしりたいとき、あるいは軽蔑しているとき、あるいは警戒しているとき、そういうときであります。

 

 こんな「犬」という言い方をされて怒らない人って、いるのでしょうか? 「犬」という言葉は、たいへんきつく聞こえます。こうして考えますと、今日の箇所というのは、イエス様もまた当時の「宗教の理屈」というものにからめとられてしまっていた、宗教の制約の中に生きていた、古代の時代の、頭の固い宗教家の一人だったのだろうか、というふうなことも、ふと思うのです。

 

 しかし、今日の聖書箇所の物語は、そのようなことを私たちに伝えているわけではありません。そのイエス様の言葉のあとに、この女性は答えて言います。

 「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパンはいただきます。」

 

 これは、イエス様が言われた「子犬と子どもたち」という、この対比の仕方、ここには、聞き方によれば差別的な感覚がどうしても感じられるのですが、その差別的な言葉さえをもこの女性が引き取って、その言葉の意味をそのままに受け止めつつ、そのイエス様の言われた言葉の枠組みを使いながら、その中で非常にうまく、この女性は切り返しています。

 

 「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパンはいただきます。」ここで、イエス様が言われる順番、つまりユダヤ人が先で異邦人が後という順番を変えるのではなく、そしてまた、子どもたちのパンを子犬がどろぼうするのでもなく、子どもたちがポロポロと落としていく、そのパンくず、放っておけばゴミになってしまう、そのゴミになってしまうパンくずも、子犬はいただいていると言うのです。子どもたちと子犬は食卓の上と下で場所は違うけれども、同じときに一緒に神の恵みをいただいている、というのです。

 

 その言葉を聞いたイエス様もおっしゃいました。「それほど言うならよろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」と、過去形で言うのです。ここで、この女性の言葉を聞いて、よしわかった、ではいやしてあげよう、と言ってから娘の病気をいやした、ということではなくて、「悪霊はあなたの娘から出てしまった」と言われているのですから、おそらくこの女性がここで「主よ、しかし食卓の下の子犬も子供のパンをいただきます」と言った時点で、この女性の幼い娘はいやされていたであろう、と推察することができるのです。

 

 そして実際、「女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた」とあり、もうすべてが解決していたということであります。

 

 今日の聖書箇所に置いては「犬」ということが大変重要な役割を果たしています。犬、それは皆さんにとってどういう生き物でありましょうか。私は犬が大好きだという人もいるでしょう。いや、特に何も思いませんという人もいるでしょう。そしてまた、私はどうも犬は苦手です、という人もいるでしょう。犬が嫌いだっていう人もいておかしくありません。子どものときに犬`がほえて怖かったとか、かまれていやだったとか、いやな経験があれば、当然、犬を恐れる気持ちもわいてきます。また動物全般に対して、動物全般が好きという人もあれば、動物全般が好きになれないという人、あるいは特に嫌いてもないけど関心もないという人もいるでしょう。

 

 犬という動物ひとつとっても、人によって思うことはいろいろです。それはどうであっても構わないのです。人それぞれでありますから。しかし、今日の聖書箇所を読むときに、ふだん私たちが犬をどう思っているか、ということに、今日の箇所の内容は、実は大きく関係している、ということを、この箇所を読んでいて思うのですね。

 

 犬という言葉を使うときに、たとえば「子犬」と聞くと、ちょっと心がふわっと柔らかくなる、そういう人は多いのではないでしょうか。子犬、それはかわいい、楽しい存在、駆け回って、何かその元気のある、生き生きとした、うれしい存在、そういうことを思います。子犬でなくても、犬というもの自体、それって何か人にうれしいものを与える存在です。

 

 原始時代と言われている時代のころから、犬の骨が人間の集落、住居から発見されていて、おそらくものすごく古代の時代から、犬という動物は、人間と共に生きるペット、あるいは何らかの形で共に暮らすパートナーとして、人間と親しい生き物であったと言われています。

 

 そうして犬という生き物は、人間にとって本当に友達のような、そして本当にかわいらしい、素晴らしいものであると同時に、「あいつは犬だ」などと言われるときには、その人に対する警戒心や、ののしりの気持ちもこめられています。そういう敵、人間ではない、人間以下の何か恐ろしい生き物、そうしたイメージもその犬という言葉にこめることができます。

 

 どうして、犬という同じ生き物であるのに、そんなに180度反対の評価があるのでしょうか。それは、それこそが犬は人間に近い所にいるからです。人間の愛情というものを、人間の目から見て重ねられることもあれば、人間の目から見て、敵である、おそろしいものだという意識も重ねられます。そうして、犬を人間以下の、人間が支配し、やっつけるべきもの、そういうふうに見ることも、どちらでもできることです。

 

 そして、今日のこの箇所に聖書箇所においても、そうした犬という生き物の持っている特性と言いますか、人間が抱いているイメージというものが、犬という言葉に大きなイメージを与えています。

 

 イエス様が言われた言葉には、犬という言葉を使われるときに、それは人間たちよりも後に扱われるべきものとして言われています。子どもたちのパンを取って、子犬にやってはいけない、イエス様からすれば、まずユダヤの人たちみんなに福音を伝えて、そしてそこから世界中に福音が広がっていくのだから、まだ今はその時でないという、そうした神様のご計画についてお話をされたのだと推察できます。

 

 そのときに、犬というのは、人間よりも後の順番、子どもたちよりもまだ後の順番と考えられています。しかしそれに対して、女性が答えていたときに、「しかし食卓の下の子犬も子どもの番をいただきます」と言ったときに、世間の人から見れば、犬というのは、子ども以下の存在なのでありましょう、その子どもの存在以下である、犬もそのパンを食べているというときには、その犬のほうが子どもたちよりも下という、その構造を受け入れて、この女性は話しています。

 

 それは相手の女から見て、犬というのは位置が低いんだ、ということを前提にしています。しかし一方で、この女性からしたら、このとき、子犬と使っている言葉は何を意味しているのでありましょうか。それは、間違いなく、いま病気で苦しんでいる自分の幼い娘のことを指しているのです。

 

 もう、本当に大切、大切で、ほかの何よりも一番大切で、自分自身であり、自分の命の一部分である、私の幼い娘、その幼い娘を、子犬という言葉にたとえて、ここで言っているのです。

 

 ここで、この犬という言葉が二つの意味を持っています。イエス様がおっしゃっているように、この社会の人は、犬というのは子ども以下のものだ、人間以下のものだと思われている、それはそれでいいと、この女性は言うのです。それでも、子犬は私にとっては何よりも大切な存在なのだと言うのです。かわいらしい、大好きな、私自身の、この娘が。

 

 犬という言葉の持っている二つの面が、ここで生きてきます。この女性からすれば、こういうことです。「皆さんにとっては、私の娘も、子犬みたいなものなんでしょう。でも、私にとって子犬という言葉は、何よりもかけがえのない大切な存在を意味しているのです」という、その二つの意味がここでこの女性の子犬という言葉にはこめられています。そして、その言葉を聞いたイエス様は言われました。「それほど言うならよろしい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」

 

 この女性にとって、ここでイエス様から言われていることが、イエス様がおっしゃるような仕方での「宗教の理屈」というものは、それが差別であるかないか、ということは、わからなかったのではないかと思います。この女性が、イエス様の言葉が、もし差別であると思っていたら、「イエス様、なぜそんなことを言うのですか! 」と怒ってもよかったでしょう。しかし、この女性は、そうは言いませんでした。人が言う理屈、世間が言う理屈、「宗教の理屈」というものが、正しいか正しくないか、それが良いか悪いか、そんなことは、この女性にとっては、どっちでもいいのです。

 

 宗教の理屈が合っているか合っていないかは、どちらでもいいのです。それは、あなたたちの世界の中で十分に議論してください。それはもういいんです。関係ないのです。私は、あなたたちが犬だと思っている、その犬が大事なのです、と。そのことをわかってくださいませんか、わかってくださいますよね、と、この女性は、ここで確信を持って、イエス様に対して、言葉をもって切り返しているのであります。

 

 私の子どもは犬じゃないよ、人間だよ、と人権を主張するのではなく、食卓の下の子犬も子ども達のパンはいただきます、ということにおいて、相手の言っていることを受け入れつつ、しかし、その同じ犬という言葉であっても、そこにこめている意味が違う、私にとって必要なのは、宗教の理屈ではない、そしてその宗教の理屈を反論してやりこめることでもない、理屈はもうどうでもいい、あなたたちの理屈があるんだったら、それに私も合わせましょう、その理屈の中で構わないから、私の娘にパンくずを与えてください、お皿の上に乗っているパンだって、机の上から落ちてきて下に転がっているパンくずだって、同じパンなのだから。この女性はそのことを知っていました。

 

 このとき、この女性は、イエス様の足下にひれ伏していた、と記されています。イエス様がくださるパンの食卓の下に、自分を置きながら、この女性は自分と娘をひとつに重ねながら、イエス様と対話しているのです。

 

 そして、このときこの女性は、自分自身のプライドなんていうものは、もうどこにもなかったと思います。そんなことはどうでもいいのです。そんなプライドが問題なのではなくて、私の大切な大切な子犬、あなたたちの目から見れば子犬であろう、私の幼い娘、そこにパンくずを下さいと願った、そのときに、この女性の娘がすでにいやされていたのです。

 

 イエス様はおっしゃいました。「悪霊は、あなたの娘からもう出てしまった。」

 この女性の心のこもった言葉、それは神様の御心にかなう言葉だったのであります。

 

 今日のこの話は、この女性のこの言葉を聞くためにある物語です。イエス様も当時の「宗教の理屈」に縛られていた、ということを伝えるためではなく、この女性の言葉を引き出すためにイエス様は、この女性の前に立って、言葉を語られたのであります。おそらく多くの人にとって、つまり今日、いま聖書を読んでいる私たちにとっても、つまづきの種であるはずの、このイエス様の最初の答えの言葉、それは、この女性のまことの祈りの言葉を引き出すための言葉でありました。

 

 ここで私たちは、言葉というものが持っている、いろいろな意味に気づかされます。私たち一人ひとりの神様に対する祈りも、いろんな意味がこめられています。それでいいのです。いろんな意味をこめた言葉で、私たちは神様に祈り、願い、神様とお話させていただく恵みにあずかるのです。

 

 この社会の中にあって、容易には変えることができない様々な理屈、「社会の理屈」があり「宗教の理屈」があります。国際政治、国際社会においても、国と国、民族と民族、地域と地域、もう問題は山積みであります。

 

 しかし、その問題を一つひとつ取り上げて反論し、それをくつがえしていくことは、小さな人間一人ひとりの力においては、無理だとしか思えないことが多々ある、それがせ現実です。しかし、そんな状況の中にあって「しょうがない、そんなものだ」と諦めるものではない、ということを今日の話は示しているのであります。

 

 子犬のように救われたく思い、そのことを願います。

 

 お祈りします。神様、

 天の神様、私たちに日々与えられている、たくさんの恵みに感謝します。それと同時に、そのことに気づいていない、自分自身の罪深さを深く反省し、心より悔い改めます。どうかお一人おとり、神様の恵みが与えられますように、私たちが一人ひとりが子犬のように、その恵みにあずかりますようにお願いします。そして、いま病気にかかっている方、障害やけがや病気や、また年齢や様々な精神的な悩みなど、いろいろなことによって、問題を抱えて苦しんでいるお一人おひとりが、神の言葉によっていやされますように、心よりお願いをいたします。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

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「土に命が根づくため」 
2021年11月21日(日) 収穫感謝礼拝 説教

 聖 書   ローマの信徒への手紙 11章17〜19節、12章1〜2節
                     (新共同訳より抜粋、改行して配置)

 

 しかし、

 ある枝が折り取られ、

 野生のオリーブであるあなたが、

 その代わりに接ぎ木され、

 根から豊かな養分を受けるようになったからといって、

 折り取られた枝に対して誇ってはなりません。

 

 誇ったところで、

 あなたが根を支えているのではなく、

 根があなたを支えているのです。

 

 すると、

 あなたは、

 「枝が折り取られたのは、

  わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。 
                             (以上、11章 17〜19節)

 こういうわけで、

 兄弟たち、

 神の憐れみによってあなたがたに勧めます。

 

 自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。

 

 これこそ、

 あなたがたのなすべき礼拝です。

 

 あなたがたはこの世にならってはなりません。

 

 むしろ、

 心を新たにして自分を変えていただき、

 何が神の御心であるか、

 何が善いことで、

 神に喜ばれ、

 また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

                            (以上、12章 1〜2節)

 

 

(以上は、新共同訳より抜粋し、改行など文字配置を説教者の責任で変更しました)

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 (以下、礼拝説教) 

 

 最近の京北教会では、マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、そして旧約聖書、この三つの箇所から選んで、毎週順番に読んでいます。このことを通して聖書のメッセージをより深く知っていきたいと願っています。本日の箇所はローマの信徒への手紙11章です。

 

 そして、今日は教会の暦で「収穫感謝礼拝」の日にあたります。秋の自然の収穫を感謝する、その礼拝であります。そのことも覚えて、今日の聖書の箇所を選ばせていただきました。今日の箇所は続けて全体を読むと長いので、2箇所を分けて抜粋する形にしています。

 

 今日の前半の箇所では、植物の話がたとえ話に使われています。ここに、収穫感謝について考える一つのヒントがあります。順番に読んでいきます。

 

 「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは、『枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。」

 

 このように書いてあります。長いローマの信徒への手紙の中で、この部分だけを切り取って抜粋していますので、ここだけを読んだ方は流れがわかりませんから、何のことやらという感じだと思います。この部分は、このローマの信徒への手紙、これは使徒パウロが書いた手紙でありますが、その長い手紙の中で、様々な神学的な課題といいますか、キリスト教を信仰するにあたっての課題ということが、いろいろと書かれているのであります。

 

 その中に、当時のパウロの時代にとって非常に大きな問題であったこととして、神様に救われるのは、基本的にユダヤ人、イスラエルの国の人だけなのか、それとも外国人、異邦人と呼ばれていた人も含めて神様は救われるのか、という当時の人たちが考えていた大きな問題が背景にあります。

 

 この旧約聖書というものは、イスラエルの人たちが長い年月をかけて、様々な古代からの言い伝えを言葉にして、文章にして編集し、大切に受け継いできたものであります。ユダヤの人たちは聖書の言葉を、「神の言葉」として大事に受け継いできました。そういう意味で、ユダヤの人たちは神様に選ばれた民であり、神様に救われる人たちであります。けれども、そのことが後の時代になって、ユダヤ人、イスラエルの人だけが救われるという、ものすごく狭い考え方にもなってしまいました。

 

 しかし、神様の御心というものは、そうではなくて世界中の人に聖書の言葉を伝えるために、イスラエルの人たちが選ばれた、そういう意味で選ばれていたのでありますから、神の救いというのはユダヤ人だけではなく、世界中の人に伝えられるはずであります。しかし、このように考えることにいろいろな問題がありました。

 

 もともとはユダヤ人の救いが一番先で、異邦人の救いというものは、言わばその次だと考える人も多かったのです。しかし、使徒パウロにおいては違っていました。ユダヤの人たちが元々の信仰から離れてしまっている、その時代において、外国の人、異邦人のほうにこそ、神の恵みを正しく伝えられるのだ、とパウロは語る事がありました。

 

 それはユダヤ人の救いを否定することではありません。パウロ自身がユダヤ人であり、また主イエス・キリストご自身がイスラエルの人、ユダヤ人であります。そうした中で、パウロが考えていたのは、外国人とユダヤ人との差別をなくすということでありました。どの人も神様によって造られてこの世に生きている。どの人も神様によって救われる。イエス・キリストの福音というのはそういうものである、という使徒パウロの強い確信があって、そのように考えていたのであります。

 

 そうしたことを背景にして、今日の聖書箇所の言葉があるのです。

 「ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され」と書いてあるところで植物がたとえに出されています。もともと聖書の民であるイスラエルの人たちがまことの神への信仰から離れて、外国人であるあなたが、元の木に接ぎ木されて、聖書の神の言葉の恵みにあずかるようになりました。けれども、だからといって、神様の前で異邦人のほうがイスラエルの人たちよりも偉いのだ、というような「誇る」ということが不必要なのだということをここでは言っているのです。

 

 その次にパウロはこう言っています。「誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」

 

 つまり、神様に救われる、ということには大変大きな喜びがありますけれども、それは、人が立派な心がけで生きていたら立派な人になれる、ということではなくて、あなたを支えている根がしっかりしているから、その根によってあなたのことも支えられるということです。その根がしっかりしている木に、あなたは接ぎ木されたのだ、だから決して誇ってはならない、とパウロは戒めているのです。

 

 そのあと、こう言います。

 「すると、あなたは、『枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。」

 

 こうして聖書の民だけではなく、接ぎ木される形で、異邦人たちも聖書が神の言葉であることの恵みにあずかるようになった。すると、ではイスラエルの人たちがまことの神様への信仰から離れていったのは、それも神様の御計画の中にあり、異邦人を救いに招くためにそのようになった、とパウロは考えているのであります。こうしたパウロの解釈というものが、その時代にあって人々に与えた影響はいろいろでありました。そのように考えることが正しいという人もいれば、そうではないと考える人もいました。

 

 この現代でも、キリスト教神学の中でいろいろに考えることができます。聖書の言葉を現代の社会において読むときに、大切なことというのは、神の救いというものは、すべての人に与えられるものである、ということ、そして、ユダヤ人であれ異邦人であれ、自分に救いが与えられたときに、その救いは自分が救われるに値するから救われたのだという、自分が立派とか、優れたとか、そういう誇る気持ちを持ってはなならない、ということです。

 

 人間が立派だから救われるのではありません。神様が立派だから、私たちが救われるのです。どの民族、国籍、そうしたことに神様の救いはよらない、ということを、パウロは他の箇所で言っています。

 

 この箇所において、植物のことがたとえとして出てきます。「接ぎ木」という言葉です。接ぎ木によって新しい命が生まれていきます。新しい養分が、接ぎ木された木の根から与えられることが、言われています。こうした形で、神様への信仰というものが、それまでは何の関係も無かったと思われていた人たちにも、脈々と伝わっていくということが、この植物の生きた命の現実を通して、そのことをたとえとして、パウロはここで語っているのであります。

 

 この箇所のように、自然界にあるもの、自然界にある現象、命のあり方、生き生きした命のあり方、そういうものが、神様の信仰ということを伝えるにあたって、一番ぴったりとしたたとえとして用いられているのであります。

 

 今日、収穫感謝礼拝を私たちはしています。この現代の日本社会において、秋の自然の収穫と言っても、それが生活の中であまり、ピンとこなくなっている面は正直あると思うのです。今だけの問題ではありません。産業が近代化されて工業化され、細分化されていく中で、自然の収穫の手触りというものを、現代人は感じることが段々と少なくなってきたのだと思います。

 

 私が教会の教師になった、今から30年ほど前のときに、初めて赴任しました神戸の教会で収穫感謝礼拝をするときには、野菜を礼拝堂の講壇の前に並べて礼拝しようということで、子どもたちと一緒に礼拝をしました。そのときに主任牧師が言っていたことを私は覚えています。「野菜というものはね、こんなふうにスーパーで買ってきて並べたらそれでいい、というのではなく、畑で取れた野菜が土が付いたままで並んでいるのが本当なんだよ」という言葉でした。

 

 本当にそんなことをしたら礼拝堂が汚れてしまうなあ、とも思うのですが、実感としてはそうなのでしょうね。畑で取れた土の付いた野菜、それを本当に感謝して神様に献げる礼拝、それが元々の収穫感謝礼拝なのだと思います。

 

 アメリカにおいて新しくその土地に入植した人たちが、先住民たちと一緒に収穫を感謝して献げた礼拝、それがアメリカの収穫感謝礼拝の最初だと言われています。日本においても、その土地に生きるという決断をしたものが、その土地で取れた作物を、まさにこれは命であると考えて神様に感謝した、その収穫感謝礼拝を私たちは今しているのであります。

 

 私が赴任した最初の教会は、神戸の都会にある教会でありました。そこで3年間いた後に、愛媛県松山市から少し離れた所にある、昔は農村教会と呼ばれた教会に私は赴任して7年間いました。昔の農村教会と言われる教会でしたが、実際に農家の方は私が赴任したときは二家庭でしたね。養鶏をされている方、そして乳牛を飼って牛乳を作る仕事をされている方がおられました。そしてまた畑も耕しておられました。

 

 そして、その教会には小さな無認可の幼稚園がありまして、子どもたちのためにさつまいも畑の土地を借りて、さつまいもが大きくなったときに、子どもたちが土から掘って収穫して持って帰ってきて、教会の裏庭でたき火をして焼き芋を作ります。礼拝堂には農家の方たちが献げて下さった野菜を並べて礼拝をします。そして礼拝堂に並べた野菜は、礼拝のあとに隣にあった高齢者施設に献げさせていただきました。

 

 礼拝をしている間に当番の方が焼き芋を焼いて下さり、礼拝堂には子どもたちと保護者の方々も来て、50〜60人ぐらいで礼拝をしたあとに、みんなで裏庭に行って焼き芋を食べます。その収穫感謝礼拝を1年に1度行う生活を7年間、私はしました。焼き芋だけではなくて、私ふと思いついて焼きリンゴを食べたいと言って、アルミ箔にリンゴを包んでたき火に入れさせてもらったこともありました。

 

 焼き芋をうまく焼くには技術が必要で、その日の朝から大がかりなたき火の準備をして、ゆっくりと熱を与えて焼いていきます。そのような収穫感謝礼拝でした。そして、その愛媛県の教会に行きましたあと、今度は岡山に行きました。割と住宅地の中、岡山の衛星都市の西大寺という所で、駅前に近い所でありました。その後、同志社教会に行き、それからいまの京北教会に参りました。どの教会にいても、そこでしてきた収穫感謝礼拝のことを思い出します。その中でやはり、心の中に温かいものが、ふかふかと生まれてくるのは、やはりあの焼き芋をみんなで食べた収穫感謝の日の礼拝のことでありました。

 

 今は年がら年中スーパーに野菜があり、パックに入った野菜を買う生活になり、土の付いた野菜を見ることすら少なくなっていると思います。でも、そんな中にあって、今日の礼拝のこのときに思い起こすのは、思いますのは、神様を礼拝するっていうことは、なんかよそ行きの格好をして、よそ行きの考え方をして、教会にやってきて何かきれい事の話を聞いて、心を綺麗に整えていく、ということではなくて、みんなで作ったお芋を土が付いたまま集め、それをみんなで焼いて、一杯に手も顔も汚して、そして笑いながら、「このお芋は小さいけれど美味しいね!」 とか「これは焦げてる!」とか言いながら食べるのが収穫感謝であり、そして神様への信仰というのは、そういうものである、という実感であります。

 

 そうした、教会において焼き芋を食べるっていうのは、別に神学的なことではないのかもしれません。けれども、教会において、そういう経験があるかないか、ということは大きな違いです。

 そういえば、私たちの京北教会も、秋にはバザーをしてきました。焼き芋はしませんけれども、焼きそばは焼いてきました。毎年毎年、焼いてきました。顔を汚し、失敗したり涙を流したり……涙を流したのは焼きそばを焼く日が雨の日で、それを防ぐためにシートを張って焼いていたら、煙がこもって涙が出たので、次の年にはゴーグルを持ってきて焼きました。そうした経験、それは単に教会に行ってる生活の中でのおまけではなくて、実は、教会っていうものの中の、隠れた大切な宝物であることをしてきたんだなあ、ということを私は思い起こします。

 

 今日の聖書の箇所を読むときにも、そうした生き生きとした自然の経験、接ぎ木をしたら新しい命が育まれる、その経験をパウロはここでたとえとして使っています。自然と共に生きる生活、命を生かす経験をしていなければ、神様への信仰もわからないかもしれないよ、という問いかけを今日の箇所から私は受けるのです。

 

 そして、そのようにパウロが語っている言葉を受けて、今日の聖書箇所の後半に入ります。

 
 このように書いてあります。

 「こういうわけで兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世にならってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

 

 この箇所でパウロは、その前の11章の部分では、イスラエルの人が救われるのか、外国人は救われるのか、救われないのか、ということについて、当時の宗教の考え方の中で、人々があれこれに議論していましたことを語っていました。宗教の考え方として、何が正しいのか正しくないのかと議論すると、これはなかなか大変なのです。答えが出ないのです。伝統を元にして考えていきますから、聖書には何と書いてあるか、どう考えるのが正しいかと、議論はいつまで経っても終わらない、そんなところがあります。

 

 しかし、パウロにとっては、そうした宗教的な議論にうつつを抜かすのではなくて、すべての人がイエス・キリストの救いによって救われる、ということのほうが、はるかに大事でありました。そこでこの接ぎ木のたとえをして、誰もが救われる、しかし、救われたからといって、決して誇ってはならないということをパウロは言っています。

 

 そして、そのような信仰というものを持って、これからどのように生きるかというと、それは、「自分の体を」、つまり自分自身を、「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世にならってはなりません」と言ってます。

 

 この世にならう、それは、この世の制度とか習慣とか、この世の宗教的な考え方とか、そういうものを絶対のものとするということですが、パウロが言うのは、それにならっていきていくのではなくて、神様が一人ひとりに語りかけてくださるメッセージによって、生きていくということであります。すなわち、一人ひとりが独立した自由を神様から与えられた、人間として神様への信仰を持って聖書を読み、その聖書の言葉によって、こころ動かされ、自分らしく自分の使命を成していく、そういう生き方が必要だと、ここでパウロは言っているのです。

 

 自分が救われた、ということで誇っていく、それで終わってはいけない、むしろ、誇ったりするのではなくて、自分自身を神様に献げていく、という、その礼拝が必要だ、ということをパウロは言っています。

 

 今日は収穫感謝の日です。先ほど申し上げましたように、いろんな野菜を持ってきて、この礼拝堂に並べて、みんなで礼拝する、という習慣も教会にはあります。神様から与えられた恵みである野菜、穀物などいろんなもの、いろんなことに感謝して、それを自分たちで食べてしまって収穫を終わるのではなくて、まず「神様ありがとう」と献げて礼拝して、そこからみんなでわかちあっていく、自然と共に生きる人間のひとつの知恵であります。

 

 もし、自然の作物というものが人間の力によって収穫されるものであれば、神様に感謝なんかしなくたっていいのです。自分の力で作ったのですから。そして、作ったものを力の弱い者からみんな集めて、これは俺のものだといって集めていく、そうした弱肉強食の世界ではなくて、まず神様に献げる、つまり、この作物は自分のものじゃない、人間のものじゃない、神様からの贈り物なんだということを、しっかりと覚えた上で、ここから分けていく、そうしたものが収穫感謝なのでありました。

 

 今日の箇所の後半には、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」と書いてあります。いけにえ、という言葉はちょっとドキッとする言葉ではありますけれども、そのころの聖書の時代、その地域においては、動物を神様に焼いて献げることが、ごく普通の感謝を表すものでありました。畑の野菜を献げると同じように、動物を献げる、そういう習慣でありました。

 

 ここでパウロが言うのは、動物を焼いて献げるのではなくて、自分自身を神様に献げましょう、ということであります。これはいったいどういうことでしょうか。何か、ちょっと怖い気もします。生けにえとして献げる、それは決しておかしなことを言っているわけではありません。そうではなくて、皆さん一人ひとりが、神様によって収穫していただいた、何よりも大切な宝物、何よりも素晴らしい収穫物なんですよ、あなたがた一人ひとりの人間が、神様の目から見たときに、他の何よりもうれしい収穫物なんですよ、そういうことなのですね。

 

 私たちはふだん、収穫というときに、自分が収穫するということをよく考えます。けれども、聖書の中においては、本当の収穫というものは、この私たち一人ひとり、人間一人ひとりが、神様によって収穫される、集めていただける、神様の手の中に入れてしっかりと握りしめていただける、ということが、これから一番の喜びなんですね。

 

 私たちはそのことに気づいているでしょうか。気づいていないと思います。聖書を通して、メッセージを聴くことによって、初めて、「えっ、そうなのか」と驚くことが、この聖書には書かれてあります。私たち自身が、神を知らずに生きてきた人間であります。今日の箇所に、異邦人のことが出ているように、私たちも神様を知らないよ、そういう生活をかつてしてきているはずであります。

 

 クリスチャンホームに育ったからといって、神様のことをよく知っているわけではなく、むしろかえって、ああ、なんかクリスチャンってめんどくさいな、ややこしいな、そんなことを思うようになった、私のような人間もいます。クリスチャンホームでどんなふうにしていたって、青年時代になると、いろんなことを考えます。大人になると、もっと考えます。私、キリスト教なんてガラじゃないよ、そんなきれい事ばかり言っていたら生きていけないよ、そんなふうにも思います。けれども、そんな一人ひとりを神様は、声をかけて、呼び集めてくださいます。世界のすべての人に神様は声をかけてくださいます。

 

 そして、しっかりと守って下さり、あらゆる人間の罪、あらゆる人間の苦しみ、痛み、そうしたもののなかで、孤独に本当に苦しみながら生きていく、一人ひとりの人間を、神様が愛して下さり、発見して下さり、その御手で探して、神様の手の中に入れて下さるのですね。これ以上に幸せなことはないのです。神様の目から見たときに、私たち一人ひとりが尊い、作物、収穫物なのです。

 

 今、この自然の作物、収穫物というたとえをしていますのは、決して、人間なんて野菜程度のものだと、その言い方をしているわけではありません。命なのです。神様にとって、神様の創造された世界の中にあって、私たち一人ひとりが、命として神様によって愛されて、神様によってとらえられ、収穫していただける、そのことが人間にとって何よりも幸いである、ということを今日の聖書から教えられたいものであります。

 

 お祈りします。
 神様、私たちが生きているこの世界にあって、一人ひとりが、ときに孤独であります。聖書のことや教会のことも、忙しい生活の中で忘れてしまったり、遠ざかったり、自分に合ってないような気もあります。その私たちが神様によって招かれ、救われています。あらゆる異邦人が救われているように、イスラエルの人たちも含めて、すべての人が神様に救われています。そうであるからには、この世界でとれるすべての食べ物、すべての作物を世界のみんなで分け合って、食べ物のない人を作らないようにみんなで食べ物をわかちあっていく、その収穫感謝をしていくことができますように、そのように導いてくださいますように、心よりお願いいたします。そして、みんなで土に根ざして生きることができますように。
 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げします。
    アーメン。

 

 

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「冬の来始め————希望の到来」

2021年11月28日(日)説教  

 

 聖書  詩編 126編 1〜6節 

 主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて

 わたしたちは夢を見ている人のようになった。

 

 そのときには、わたしたちの口に笑いが 

 舌に喜びが満ちるであろう。

 

 そのときには、国々も言うであろう

 「主はこの人々に、大きな業(わざ)を成し遂げられた」と。

 

 主よ、わたしたちのために

 大きな業を成し遂げてください。

 

 わたしたちは喜び祝うでしょう。

 

 主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように

 わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。

 

 涙と共に種を蒔く人は

 喜びの歌と共に刈り入れる。

 

 種の袋を背負い、

 泣きながら出て行った人は

 束ねた穂を背負い

 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。 

 

          

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 (以下、礼拝説教)

 主イエス・キリストは2000年前にお生まれになられ、その生涯を通して福音を宣べ伝えて、十字架に架けられ死なれ、そしてよみがえって天に挙げられた。聖書はそのように記しています。それらの出来事は、過去のこととして、聖書の中に記されています。

 しかし教会の暦においては、毎年毎年、この時期になると待降節(アドベント)、イエス様のお生まれを待ち望む期間がやってきます。それはなぜでありましょうか。

 

 それは、イエス様のお生まれということは、単に過去のあるひとつの時点の出来事というだけではなくて、繰り返し繰り返し、私たち一人ひとりの人間にとって、大切なときとして覚えられる必要があるからです。

 

 それは神様が私たち一人ひとりの救いのために、神の独り子を私たちのために下さった、そのことの記念がクリスマスであって、2000年前のあるひとつの時点だけではなく、そこから始まり、ずっと毎年続いている救いのわざ、そのことを私たちが心に刻むために、教会の暦で待降節という時期が決められている、ということであります。

 

 教会の暦では、待降節から1年が始まります。クリスマスから1年が始まるのではなくて、クリスマスがやってくるということを待ち望むところから、新しい年、1年が始まる、教会暦というのはそういう考え方をしています。

 そして待降節に入って4週間後にクリスマスを迎えたあと、降誕節と呼ばれる時期を過ごします。そしてそのあと受難節といって、イエス・キリストの十字架の受難を思う時期があり、そのあとにイースターという、イエス様の復活を記念する日があり、そこから復活節に入ります。そのあとペンテコステという、聖霊降臨を記念する日があり、そこから聖霊降臨節に入ります。そしてそのあと、また待降節へと続いていきます。

 

 そうした教会の暦ということを通じて、1年間の中で、私たちは繰り返し繰り返し、クリスマスやイースターペンテコステといった、聖書に記された大切な記念日のことを覚えます。

 

 待降節に入るにあたって、京北教会ではアドベントの飾り付けをしました。クリスマスのツリーやリースやクランツといったものを作って、教会を飾るのは、神様への感謝の思いであり、そしてこの教会に来る人たちや近所の人たちに、もうすぐクリスマスがやってくるよ、と知らせる、そうしたことのためであります。

 

 クリスマスがやって来るよ、という知らせを教会ではそのようにしています。しかし、いまの日本社会において、クリスマスが来るよ、という知らせをどこよりも早く知らせているのは商店街かもしれない、と思います。気が早い所では、もう11月に入ったころからでしょうか。町を歩いているとクリスマスの音楽が流れていたり、セールの案内が配られています。大きなツリーがどーんと飾られて、そこにリボンが飾られ、クリスマスの飾りがなされている、そうしたものを先に見ています。日本社会の中でクリスマスというものも、年末の風物詩となり、そして一つのビジネスチャンスとして、セールのときとして親しまれています。

 

 そんなクリスマス・セールがあるなかで、教会では何を伝えるのでありましょうか。

 

 今日の聖書箇所は、旧約聖書を選ばせていただきました。このアドベント、クリスマスということを伝えようとする礼拝では、多くの場合は、ルカによる福音書やマタイによる福音書にある、イエス様のお生まれにつながる物語、そうしたことから解き明かすことが、一番クリスマスということに近いと思うのでありますけれども、今日はあえて旧約聖書を選ばせていただきました。

 

 詩編126編、この詩編の箇所が書かれた時期は、イエス様のお生まれになられるときよりも、何百年も昔のことであったと考えられています。何が書いてあるでしょうか。順番に読んでいきます。

 

「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。」

 

 シオンという言葉は、イスラエルの国の都であるエルサレムの別名と言ってよい名前です。また、ここで「捕らわれ人」という言葉が使われていますが、これは「捕囚」とも呼ばれます。この時代に、その地域にあってとても大きな国であったバビロンという国に侵略され敗北し、神殿が壊されて、そしてイスラエルの中で中心的な役割を担っていた人たちが、バビロンの都に連れて行かれた、という非常に大きな悲劇、戦争の苦しみということがあって、連れて行かれた人たちがいた、それが「シオンの捕らわれ人」ということであります。

 

 たくさんの人たちが、何十年もバビロンに捕らわれていたのです。そうして、自分たちの生きている国というものがなくなり、国のおもだった人たちは遠い所に連れていかれるという、本当に悲惨な時代がありました。

 そこから何十年か時間が経ったあとに、また情勢の変化がありました。ペルシャという国がバビロンを滅ぼしたのです。そのペルシャの王が、バビロンに捕らわれていたイスラエル人たちを解放したのです。聖書学者の研究によると、それはペルシャの王様が人道的で素晴らしい王様だったからということではなくて、当時の国際秩序の中にあって帝国主義といって一つの国が他の国を支配していく時代にあって、すべての国を自分たちの武力で治めるのではなくて、それぞれの国にそれぞれの自治をさせる、そして自治をさせた上で、その国を全体として支配していく、そのようにしたほうが、経済的にも政治的にも軍事的にも効率が良かった、そういうことのようであります。別に慈悲深い王様だったわけではない、ペルシャの王によって人々は解放され、元の国に戻ることができました。

 

 その大きなことがあったときのことを、この詩編126編は描写しています。

 「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。」

 

 あの捕らわれていた人たちが帰ってくるよ、と言われたときに人々が、「えっ、信じられない」と言って、夢を見ている人のようになったというのです。

 

 次にこうあります。

 「そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びが満ちるであろう。」

 一人ひとり、自分の口に笑いが、喜びが満ちる、そういうときが来るといいます。

 

 次にこう書いてあります。

「そのときには国々も言うであろう。『主はこの人々に、大きな業(わざ)を成し遂げられた』と。」

 神様がこのようにして捕らわれの人々を解放して下さったと、世界中の国々の人々が言ってくれるだろう、このように言われています。

 

 そしてそのあとにこう言います。
 「主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。/わたしたちは喜び祝うでしょう。/主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。」

 

 ここまで読むと、この、捕らわれ人が解放されるということは、この詩をうたった時点ではまだ実現していないということがわかります。そのような知らせを聞いた、解放されるという知らせを聞いた、そのときに本当にみんなで喜んだ。でも、まだそのことは実現していない、これからのことだ。そういうときに、この詩がうたわれたのでありました。そのとき、一刻も早く、捕らわれていた人たちを解放してほしい、元いた国に帰られるようにしてほしい、そして自分たちの国をもう一度作っていくことができるようにしてほしい、と神様に心から願っていたのであります。

 

 そして、最後にこのように言っています。

 「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。/種の袋を背負い、/泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」

 

 こうして、この詩編126編は悲しみの中にある者が、喜びを持って帰ってくる、捕らわれていた所から喜びを持って帰ってくる、という、その喜びに満ちた心からの感謝を神様に献げる詩編となっているのであります。

 

 この詩編を今日、この待降節の第1日目の本日の礼拝の中で読む意味というのは、神様はこの詩編126編のようにして、私たちを救って下さるということを知ることにおいて、主イエス・キリストのお生まれもまた、このような救いの喜びにつながっていることだということを知るためであります。

 イエス・キリストがお生まれになられたということは、神様の御計画であって、そこには捕らわれの人たちを連れ帰って下さる、その神様の救いのわざというものが記されているのであります。

 

 しかし、そのように聞きます皆様は、それは、どのようなことなのだろうか、と思いませんか。捕らわれ人を連れ帰って下さる、ということが、なぜイエス・キリストのお生まれと関係があるのだろうか、と思いませんか? 

 

 その疑問に答えるには、聖書全体の流れを通して考える必要があります。

 

 詩編126編には、戦争に敗れたイスラエルの人たちの 歴史的な悲劇であります。しかし、今日の現代日本社会において生きている私たちにとって、この詩編126編に書かれている出来事は、そうした歴史の中の1時点だけのことではなくて、もっと大きな広がりを持っています。

 

 捕らわれ人、それは何であるか。それは、人間の罪ということに捕らわれている、私たち一人ひとり、すべての人間のことである、そのように考えることができます。旧約聖書の創世記に記されたように、人間は神様に対して罪を犯すことによって、エデンの園を追放され、そして与えられた荒れ野を旅し、そして自ら土地を耕し、家族を持ち、苦しんで生きる、その中において神様の恵みを与えられて生きる者へと変わりました。

 

 そうした創世記の物語はもちろん神話的な物語であり、歴史の事実、あるいは科学的な事実として書かれているわけではありません。けれども、人間というものが何であるか、ということを示していることにおいて、やはりそれは聖書の言葉であります。

 

 人間は神様の前で罪人である、そして、その自らの罪によって苦しみ、生きていくことになる、その人間の罪というものが重なり合うときに戦争が起こり、そして様々な貧困などの格差を生み出して行く、そこで人間と人間が違いに争い、殺し合い、命を奪い合う、恐ろしい現実が生まれてきます。そうした現実そのものが、人間の罪の結果であると聖書は考えています。

 

 そして、今日のこの詩編126編にある、イスラエルの人たちが戦いに敗れて、遠くの国に主だった人たちが連れて行かれた、ということも、これは自分たちが弱かったから、負けたからそうなったのだ、ということではなくて、自分たちが神様へのまことの信仰から離れてしまって、偶像崇拝に傾いてしまった、そして、そのために神様の怒りが表されて、このような目にあっているのだと、人々は考えたのです。

 

 その「捕囚」という、恐ろしい戦争の悲劇ということを、単に目の前の事実とだけ考えるのではなくて、そこにある事実を通して、これから自分たちはこれからどう生きるべきか、そのことを考え抜いて得られた結論が、これは、神様の怒りであり、私たちはまことの神様に立ち返らなくてはならない、ということが、その時代の人たちの思いでありました。そして、その人たちの願いに応えて、神様が捕らわれていた人々を解放してくださったのであります。それは、自分たちの罪ということから神様が解放して下さった、そういう知らせとして人々の心に刻み込まれたのであります。

 

 クリスマスということも、事実としては、イエス・キリストのお生まれということでありますが、それは、私たち一人ひとりを罪というものから救って下さる、解放して下さる、神様の御業(みわざ)なのであります。

 

 今、国際社会を見渡すときに、この詩編126編に書かれたような世界の現実というもの、それと重なるようなことが、世界中でたくさんあるのではないでしょうか。国際ニュースを新聞やテレビやインターネットのニュースで見るときに、私の心は本当に暗くなります。

 

 もうどこにも希望はないのではないか、世界は悪くなるばっかりではないのか、世界中にあふれている難民、世界中に起こる戦争、また戦争の危機、本当に私たちが生きる日本社会、またそれを取り巻く東アジアの情勢、そうしたことを考えるときに私たちの心は不安で満ちていき、本当に押しつぶされそうになるような気がしてもおかしくありません。

 

 そんな時代のこの世界を生きている、私たち一人ひとり、聖書のメッセージを聴くことが必要ではないでしょうか。今起こっている現実は、単に目の前の現実、事実としてあるだけではなく、このような事実を通して、あなたはどう生きるのか、あなたはこれからこの時代をどう生きていくのか、ということが、神様から問われているのです。この時代にあって希望なんかどこにもない、もうしょうがないんだ、これが国際政治の現実だと言って、受け入れて生きるということではなく、それと違った生き方が聖書には示されています。

 

 今日の箇所を読むときに、私にとって特に心に響いた所があります。それは最後の所で言われている言葉でありますが、「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」とあります。この言葉は何を意味しているかというと、この詩編126編の文脈で言うと、自分たちが戦争で負けて国のおもだった人たちがみんなバビロンの国に連れて行かれてしまった、自分たちがリーダーとしていた人たちがみんな連れて行かれた、そんな、「ああ、もうおしまいなんだ」と思ったときにあっても、しかし、涙と共に種を蒔いていた人がいるんだ、ということです。

 

 こんな悲惨な現実の中にあっても、まだ種を蒔いていた。それが具体的に何を意味しているかはわかりませんけれども、未来に向かって種を蒔いていたということであります。そういう人たちがいたのです。

 そのあとにこう言われています。「種の袋を背負い、/泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い、/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」

 

 捕らわれていく人たちは泣きながら行ったのだけれど、ただ泣きながら行ったのではなくて、種の袋を背負って行った、そして種を蒔いていった。それが具体的にどういうことであったか、ということはここには書かれていません。

 

 しかし、当時の歴史を研究した聖書学者の研究によりますと、そうして捕らわれの身になっていった、この悲劇の時代にこそ、その時代にあって、今わたしたちが読んでいる聖書の原型が、編集されていったというように考えられているのです。それは、自分たちが生きる国というものがなくなって、民族がバラバラにされて自分たちの生きてきた歴史とか、いろいろに語り継いできた神様への信仰というものが、もうなくなってしまうのではないかという、その危機の時代にあって、初めていろんな言い伝えや文章を集めて、それを一つの聖書、今でいう旧約聖書でありますが、それをまとめていった。この悲劇の時代にこそ、自分たちのアイデンティティ、自分たちが何であるかがわからなくなる時代だからこそ、聖書をまとめていったと考えられているのです。

 

 すると、「種の袋を背負い、/泣きながら出て行った」とある それは神の言葉を蒔いていた、ということであります。そして、その蒔いていた種が、神様によって祝福されて芽が出た、それが、あの捕らわれていた人たちがもう一度帰ってくることになったことだ、そのように人々は理解したのであろうと推察することができます。

 

 現代の国際政治、この地球上に起きているいろんな出来事を知るときに、私たちの心は暗くされるのです。けれども、その中にあって神様から問われているのは、この暗い時代の中にあって、どのように暗い心で過ごすかということではなくて、この暗い時代にあって、どうやって種を蒔くか、ということであります。

 

 神の御言葉、神の言葉である聖書の言葉、そこに込められたメッセージ、解放の福音、イエス・キリストの福音、罪のゆるし、それを私たちが蒔いていくか、ということであります。そして、その種を泣きながら蒔いたときに、必ず私たちは喜びを歌いながら帰ってくる、喜びの歌と共に刈り入れる、そういうときがやってくるのであります。

 

 この待降節アドベントのときに私たちも、神の言葉を種として蒔きましょう。まず自分の心に蒔いてください。そして他の人の心にも蒔くように心がけてください。そして、世界中に神の言葉が蒔かれますようにと願います。そうして、喜びの歌と共に、クリスマスをみんなで迎えていこうではありませんか。

 

 お祈りをいたします。
 神様、本当に寒い冬がやって参りました。そして、日本社会においても、この世界においても、コロナ問題や、また、経済的な問題や、戦争、難民、貧困、経済格差など問題が満ちている世界に、私たちは今年もアドベントを迎えました。クリスマスまでの4週間に、それぞれ自分ができることをなさしめてください。祈ります。そして働きます。様々な方々と共に生きていく小さな小さな努力を、自分が生きる場で積み重ねていく中で、ご家族や友人やいろんな関係の方々を含め、そして教会の皆さんを含め、みんなで生きていく、そのようなことができますようにお祈りします。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。



 

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