京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2021年12月の説教

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 2021年12月5日(日)、12日(日)、

 19日(日)クリスマス聖日礼拝、26日(日)

  京北教会の礼拝説教 説教者 今井牧夫

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「マリア、我らのどこに」

  2021年12月5日(日)説教


聖 書  ルカによる福音書 1章 26〜38節
 (新共同訳)

 六か月目に、天使ガブリエルは、

 ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。

 

 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに
 遣わされたのである。

 そのおとめの名はマリアといった。

 

 天使は、彼女のところに来て言った。

 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

 

 すると、天使は言った。

 「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。

  あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。

  その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。

  神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。

  彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

 

 マリアは天使に言った。

 「どうして、そのようなことがありえましょうか。

  わたしは男の人を知りませんのに。」

 

 天使は答えた。

 「聖霊があなたに降(くだ)り、いと高き方の力があなたを包む。

  だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。

  あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。

  不妊の女と呼ばれていたのに、もう六ヶ月になっている。

  神にできないことは何一つない。」

 

 マリアは言った。

 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」

 

 そこで、天使は去って行った。

 

 

 (以上は新共同訳聖書をもとに、改行など文字配置を説教者の責任で変えています)       

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(以下、礼拝説教) 

 

 教会の暦が待降節に入りました。これは、イエス様のお生まれを待ち望む4週間であります。この待降節の時期は、アドベントとも呼ばれます。ラテン語でありますけれども、アドベント、それは「現れ出る」という言葉です。

 

 アドベント、それは、神様の御心が現れ出る、そのことを待つ時期です。その、待っているときから、すでに神様の御心は私たちに示されている、そうした意味がこめられています。

 

 教会の暦は1年の始まりはアドベント待降節のときから始まっています。待つ、というところから新しい1年が始まっているのであります。

 

 今日の聖書箇所においても、待つ人のことが記されています。おとめマリアに天使が現れて、そしてイエスの誕生を告げた、というのであります。このときから、マリアは、待つ人になりました。そこから新しい年が始まっていたのであります。

 

 このときに、マリアしか知らない、新しい年が始まっていました。そしてそれはマリアだけではなく、世界のすべての人にとっての新しい時代の始まりでありました。

 

 マリアに天使がイエス様のお生まれを告げ知らせる、この場面は、たとえば「受胎告知(じゅたい・こくち)」という言葉で表現され、絵画などの芸術に表されています。劇的な場面でもありますし、静かな、そして不思議な場面でもありましょう。

 

 このような不思議な場面を記す、今日の物語を読んで、皆様は何を思われるでありましょうか。ここに書いてあること、すなわち、おとめマリアのところに天使が来て、イエスという名前の子どもが与えられるという、そのことを告げられた、この話を読むときに私たちは、このマリアに共感をすることができるでありましょうか?

 

 この話を読んで、マリアに共感できるという人はどれぐらいいるのか、あるいはいないのか、私にはわかりません。しかし、私自身の立場からいえば、私は男性でありますから、まあ、まったく共感できないというか、何の実感もわかない、それは不思議なこととしか言えない、そういう思いがいたします。

 

 そしてよく考えてみますと、これは男性とか女性とか、そうした性別を問わず、また立場を問わず、誰にとっても、ここに書かれていることと同じことを経験してきた、そういう人は一人もいないのでありますから、そういう意味では、この話に共感できる人というのは一人もいない、といってもいいのではないでしょうか。

 

 あまりにも不思議であって、あまりにも私たちの常識とか、現実の生活からかけ離れている話であるがゆえに、この話には共感することができない、そのように思えます。けれども一方で、この話に自分がまったく何の共感もしない、しかも誰一人この話に共感することができない、ということであれば、この話はどういう意味を持っているのでありましょうか?

 

 聖書というものが、誰も共感することができない、神様の側の何かの物語であって、それは素晴らしいものかもしれないけれども、私には関係がないという、そうしたことになるのでしょうか? 

 

 聖書の言葉は、どの言葉をとっても神様から私たちに向けて記された手紙であり、メッセージであります。それと今日の箇所に記されていることが、どれほど自分にとって共感できないことに思えても、しかしここに必ず神様からの御言葉、神様の御心というものが、私たちに向けて、こめられているはずであります。では、それはどういうことなのでありましょうか?

 

 本日の説教題は、「マリア、我らのどこに」と題しました。この今日の話を読んだときに、こんなこと、どこにあるのだろうか、ありえないじゃないか、と考える私たちでありますけれども、しかし、あえて、こうしたことがもし本当に起こったのだとしたら、また、起こり得るのだとしたら、そのようなマリアは、この私たちの中のどこにいるのだろうか、と考えてみました。

 

 私たち、と言っても、その「私たち」という言葉が示す範囲は、どのようなものでありましょうか。世界の人口、何十億というものすごい人数でありますが、そのどこにマリアがいるのでしょうか。どこにもいない、という答えを考えることは正解なのでありますけれど、しかし、いや、どこかにいるかもしれないよ、と言われたら、ふと「そうかもしれないな」と思う気持ちはないでしょうか。

 

 聖書の時代においても、イエス様がお生まれになられたこの時代にあって、救い主が生まれるという事はビッグ・ニュースでありました。いつか自分たちのために神様が救い主を与えてくださると信じていたイスラエルの人たちにとって、救い主の誕生ということはビッグニュースでありました。

 

 そしてイスラエルの人ではない、当時の王様にとってもビッグ・ニュースでした。当時の王様、その地域を治めていたローマ帝国のもとで治めていた王にとっては、救い主が新しく生まれるというニュースは、自分がこの地域の王であるという立場を脅かす存在が生まれるということですから、そのニュースは聞き捨てならないことでありました。そのために、当時生まれた二歳以下の子どもたちを皆殺しにしたという恐ろしい話がマタイによる福音書にあります。

 その子はどこに生まれたのか、誰の子どもであるのか、ということはビッグニュースだったのです。聖書の時代において、まさにそうでありました。

 

 また、それは、今私たちが呼んでいる聖書、その中にある福音書を記した人たちにとっても、大きなことでありました。新約聖書の中には四つの福音書が収められています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書です。

 

 この四つの福音書の中に、それぞれにクリスマスの出来事が、どのように記されているかということを見ますと、大変興味深いことがわかります。それは、四つの福音書の中で一番古くに書かれたと考えられている、マルコによる福音書には、クリスマスの物語は何一つ記されていないということであります。

 

 マルコによる福音書では、旧約聖書の預言から始まり、洗礼者ヨハネの話、そしてイエス様の登場と宣教活動というように、最初からどんどん話が進んでいます。ここには、クリスマスの物語は一つも記されていません。

 

 そのマルコによる福音書が書かれた時代から、少しあとの時代に書かれたと考えられている、マタイによる福音書ルカによる福音書には、クリスマスの物語がはっきりと示されています。

 

 ルカによる福音書においては、このルカ福音書がなぜ記されたか、という理由が最初に書かれています。それは、いろいろな人がいろいろなことを言っていますが、正しい歴史を皆さんに知らせるために、こうして私は調べました、という主旨の序文が、ルカによる福音書ではその最初に書かれています。

 

 そのことは何を示しているかというと、たとえばイエスの誕生ということについても、当時すでに、いろんな人がいろんなことを言い始めていたのです。その状況のなかで、そんな間違った情報に人々が惑わされたらダメだと考えて、当時の言い伝えを丁寧に集めて、これが本当のイエス様のお生まれなのだ、ということで、ルカによる福音書の冒頭のクリスマスの物語が記されたのです。そして、マタイによる福音書のほうでは、ルカによる福音書がマリアに重きを置いて記されたことに対して、ヨセフのほうに重きを置いて記されました。

 

 さらに、それらから、また少しあとの時代に記されたヨハネによる福音書では、また、クリスマスの出来事は全く記されなくなって、今度は福音書の最初に「始めに言(ことば)があった」という言い方で、神様の御心がまず最初にあってイエス・キリストが生まれた、お生まれになられた、という、神学的・抽象的な表現だけがなされています。

 

 こうして四つの福音書の、クリスマス物語に対する扱いを見ていると、いろんなことがわかってきます。それは、イエス・キリストの福音を伝えるという、一番最初の段階においては、イエス様のお生まれ、クリスマスの出来事というものは問題にされていなかったということです。

 

 しかし、イエス様の福音が世に伝えられていくなかで、ではイエス様という人はどういうお生まれで、どういう方だったのか、という興味がわいてきて、いろいろな推測がなされる中で、正しい歴史を知らせる必要が生まれた。そしてクリスマスの物語がまとめられたということです。

 

 しかし、またしばらくの期間が経つと、そうしたクリスマスの物語があるからイエス様を信じるということではなくて、イエス様がどのようにお生まれになられたかは、もうたどることはできないけれども、イエス様のお生まれの意味というものを神学的に考えるようになった、それがヨハネによる福音書であります。

 

 そうした歴史の中でそれぞれの立場で記されてきた、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネという四つの福音書の流れを見ていくだけでも、クリスマスということに対する当時の人たちの気持ちの移り変わりといいますか、そうしたものが伝わってきます。

 

 そのことが示しているものは、どの時代であっても、イエス様がどういう人であったかを知りたい、という人々の願いが福音書が書かれた背景にあった、ということであります。

 それと同時に私たちは、一番古いと思われるマルコによる福音書にはクリスマスの物語は何一つない、ということを心に留めておきたいのです。それはどういうことかというと、クリスマスの出来事を信じるか・信じないか、ということが聖書にあって一番大事だということではなくて、一番大事なことというのはイエス・キリストが私たち一人ひとりにとって主である、ということであって、そのうえで「イエス様のことをもっと知りたい」というときに、クリスマスの物語が生きてくる、そういうことであります。

 

 そうしたことを考えた上で、今日の箇所を見ていきます。

 「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。」

 ここで「六ヶ月目」と時間の経過が書かれていますが、その意味を示す、この箇所の直前の話については聖書を読んでください。

 「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。」

 こうした、物語の最初の部分は、単にお話の前書きのようにも思えますけれども、神からの救い主が生まれるということを示す物語にあって、この最初の部分は重要な意味を持っています。というのは、ナザレというガリラヤの町という町は、都から遠く隔たった地域でありました。その所に天使が来たというのです。そして、ダビデ家のヨセフという名前が出てきます。ダビデというのはイスラエルの古代の王様の名前でありますが、その子孫から神様が遣わす救い主が生まれる、と人々は信じていました。そのヨセフのいいなずけがマリアでした。そのマリアの所に天使が来たというのです。

 「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」

 本当に、唐突にこの物語が始まっています。いきなり最初から「おめでとう」と言うのです。何か伏線があるのではなくて、突然に天使が「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」というのです。マリアは、この言葉の意味がわかりませんでした。

 

 「すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。』」このように告げられました。

 

 それに対してマリアは言います。

 「マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。』」

 

 まだ結婚していない、おとめマリア。10代の女性であったと考えられています。まだ結婚していないのに、イエスの誕生ということが、自分がみごもって自分が産むという形で言われるのか、マリアにはさっぱりわかりませんでした。

 

 そのマリアに対して天使が言います。
「天使は答えた。『聖霊があなたに降(くだ)り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と呼ばれていたのに、もう六ヶ月になっている。神にできないことは何一つない。』」

 このように天使は答えました。マリアが身ごもったのは神様によるのです。そして、ルカによる福音書の物語の中では、先に、マリアの親類のエリサベトが先にみごもっている話があるのです。

 

 「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。』そこで、天使は去って行った。」

 こうして今日の箇所は締めくくられています。

 

 本当に短い会話でしかありません。突然「おめでとう」という言葉で始まって、「お言葉どおり、この身になりますように」という言葉で終わっています。本当に一瞬の対話に思えます。しかし、世界の歴史が転換するときというのは、こんな短い一瞬の間に起こることによって、世界というものは変わっていくのだということを思わされます。

 

 さて、今日の説教題は「マリア、我らのどこに」と題しました。この物語にあるようなことは、この世界のどこで起こるのでしょうか。私たちの中にマリアのようなことが起こる人が、いるのでしょうか。

 聖書が伝えるところによれば、マリアの話、それは今から約2,000年前に、たった1回だけ起こった出来事でありますから、私たちが今生きている世界の中で、このマリアと同じことは起きないのでありましょう。今までのどの時代にあってもなくて、イエス様の時代のときだけに、マリアのところだけに起こった事です。聖書が伝えているのはそういうことであります。 

 

 しかし、それがゆえに、この物語が私たちにとって共感できない、昔に書かれた聖書の中だけの物語だとするなら、それは神様から私たちに与えられているメッセージを聞き逃すことになってしまいます。

 今日の物語に書かれていることは、私たちの世界の中に起こりえるのです。全く同じではなくても、神様の御心が私たちに臨む、という意味では起こり得るのです。では、どこに起こるのでしょうか。誰に起こるのでしょうか? 

 

 そんなことを考えると、ちょっと心がドキドキするものが私にはあります。そんなマリアのような女の子は、どこにいるのだろうか。世界中に女の子は一杯います。10代の女の子、女子たちは一杯います。どこにいるのだろうか。考えてもわかりません。しかし、それは私たちが生きている世界のどこかに起こりえるのだ、と考えたときに、この、私たちが世界を見る目が変われば、今日のこの聖書の箇所を本当に読んだ、と言えるのではないでしょうか?

 

 最近、インターネットのニュースを見ておりますと、十代の女性、様々な貧困や家庭内の暴力や虐待であったりいろんな問題を通して、自分の家にいることができない、子どもたち、女性たちをかくまうと言いますか、保護して住むことができるようにするシェルターと呼ばれたり、支援施設と呼ばれたり、そうした施設が様々できています。京都でも作られています。そうした働きを支援する団体もあります。そうした団体がインターネット上に出している様々なニュースといいますか、その働きを伝える報道を見ていますと、私はいろいろなことを思わされました。

 

 もちろん女性たちだけではありません。男性、男の子、10代、また10代に満たない子どもも含めて、虐待されている、苦しめられている、家にいることができない、親からひどい目に合わされる、そうしたニュースを見るとき、誰の心も暗くなると思うのです。その状況の中で、この社会にあって、なんとかこの子どもたちを助けたいと思う様々な善意がつながりあって、何らかの福祉的な働きが今、作られています。

 

 そうした働きを見るときに、マリアは私たちの中のどこにいるのだろうか、と考えます。もちろん、そうした苦しい目にあっている10代の女性たちの中からマリアのような女性が出るということではなく、すべての女性、ということを考えているのでありますけれども、どの女性もマリアのような経験をすることはなく、また、そうした経験をした人と出会うことも、現代の世の中にあってはない、ということだとしても、しかし、天使が、今日のこの物語のようなメッセージを告げる前の、たくさんの女の子たちが、この世界の中に生きているということを考えることはできるのです。

 

 無数の、たくさんの、女の子たちが、10代の女性たちが世界にいます。天使が、今日の物語の言葉を告げる前の、女の子たちが一杯いるんだ、ということは思うことができます。そして、その子たちが、いま世界の中でどんなふうに生きているのか、と考えたとき、神様からのメッセージは、人が思っているような所に届くのではなく、人が思わないような所に届いて、そして突然現れて、突然に「おめでとう」と言って、その人に新しい人生を告げ、そしてその天使の言葉を受け止めて、「お言葉どおり、この身になりますように」と応えたことで、世界の運命が変わっていったように、私たちの世界にあっても考えることができるのです。

 

 まだ、天使ガブリエルからメッセージを聞いていない、その前のマリアはどこにいるのだろうか、そのマリアはやっぱり大切ではありませんか。イエス様をみごもるから大切だ、ということではありません。そうではなくて、天使のメッセージを聞く前のマリア、そしてヨセフのことも言いましょう。いいなずけのヨセフ。まだ天使からマリアの受胎告知の話を聞く前のヨセフ。そのヨセフもたくさん、無数に、この世界に生きています。そうしたことを思うときに、今日の箇所にある物語は、全くの夢物語ではなく、私たちが生きているこの世界のどこかに起こっていることだと、私には思えるのです。皆さんにとって、いかがでしょうか?

 

 お祈りします。

 天の神様、クリスマスまであと3週間ほどとなりました。世界に悲しみが満ちあふれて、戦争や貧困や経済格差や、政治的な抑圧、犯罪、自然災害など、いくつもの悲しみを数えることが、いや、数え切れないほどの悲しみが世界に満ちており、私たちもその例外ではありません。その世界の中にあって、神様がクリスマスを与えてくださることの意味を、心から受け止めて、今日から始まる新しい1週間を、それぞれにその場にあって大切な隣人、となりびとと共に、そして、身近な隣人を超えて、世界中におられる隣人を覚えて歩むことができますように、一人ひとりを導いてください。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。
 アーメン。

 

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「マリアに続く一歩から」 
 2021年12月12日(日)説教

 
聖 書  ルカによる福音書 1章 39〜56節 
(新共同訳)

 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。

 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。

 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。

 

 エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。

  「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。

   わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、

   どういうわけでしょう。

   あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。

   主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 

 そこでマリアは言った。

 「わたしの魂は主をあがめ、

  わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

  身分の低い、この主のはしためにも

  目を留めてくださったからです。

  今から後、いつの世の人も

  わたしを幸いな者と言うでしょう。 

  力ある方が、

  わたしに偉大なことをなさいましたから。

 

  その御名は尊く、

  その憐れみは代々に限りなく、

  主を畏(おそ)れる者に及びます。

  主はその腕で力を振るい、

  思い上がる者を打ち散らし、

  権力ある者をその座から引き降ろし、

  身分の低い者を高く上げ、

  飢えた人を良い物で満たし、

  富める者を空腹のまま追い返されます。

 

  その僕(しもべ)イスラエルを受け入れて、

  憐れみをお忘れになりません、

  わたしたちの先祖におっしゃったとおり、

  アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

 

 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。 

 

 

(以上は新共同訳聖書をもとに、改行など文字配置を、
 説教者の責任で変えて掲載しています)  
      

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 (以下、礼拝説教)

 

 主イエス様のお生まれを待ち望む待降節の時期に入っています。アドベントと呼ばれるこの時期で3回目の日曜日を迎えました。礼拝堂に立てたロウソクには三本のともし火をつけています。毎週一本ずつ増やしながら、クリスマスに近づいていることを目で見ても実感し、この待降節のときを覚えて私たちは過ごしています。

 

 この世界全体の中にあって、今がどんな時代であるかを考えたとき、コロナ問題であったり、またいろいろなことを考えていると、私たちの心はともすれば暗くさせられてしまいます。また、自分自身の健康であったり、自分が抱えているいろいろな問題のことを考えると、また気持ちは重くなっていきます。それでも、この時期、ロウソクを一本ずつともして増やしていくときに、時は進んでいるということを私たちは感じることができます。

 

 世界のことが何一つ良くなっていなくても、それでも時は進んでいます。この一本のロウソクを灯すときに、私たちはそのことを感じることができます。世界の大きな流れに対して、一本のロウソクというものは、本当に小さいものです。しかも、その光は小さく弱く揺らめいていて、頼りないものに見えるかもしれません。

 

 けれども、教会でこうしてアドベントのロウソクを一本ずつ増やしていくということは、私たちの希望というものも、こんな風にして小さくて頼りないけれども、一本ずつ増やしていくことができるものであると、このアドベントの時期に心に覚えることができるのであります。

 

 今日の聖書箇所に登場する、マリア、そしてエリサベト。そうした方たちもまた、自分自身の中に小さなともし火を与えられ、それをロウソクを一本ずつ増やすようにして、自分たちの希望というものを大切にしていた方々であります。

 

 今日の聖書箇所を順々に読んでいきます。
 「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。」

 

 ザカリアとエリサベトという夫婦がいました。年老いていたことが聖書に記されています。しかし、おとめマリアが生まれるよりも先に、エリサベトは自らみごもる子どもを与えられていました。そしてマリアが、このときエリサベトの所に来ました。

 

 続いてこうあります。「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。』」

 

 このエリサベトの言葉は祝福に満ちています。もう、うれしくてうれしくてしょうがない、という、喜びばかりが伝わってくる言葉であります。神様がエリサベトに与えて下さった大きな幸い、それと同じ幸いを神様はおとめマリアに与えて下さった。年齢からいうと、エリサベトのほうがずっと年上で、そのエリサベトがこうしてマリアを祝福し、励ましているのです。

 

 その言葉を聞いてマリアは言いました。

 「そこでマリアは言った。『わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。』」」

 こうしてこの所から、後の時代に「マリアのうた」と呼ばれる言葉が続いていきます。

 

 「『身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。/今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう。/力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。』」

 

 マリアはここで自分のことを、「身分の低い、主のはしため」と言っています。マリアにとって、いま自分にとって起きていることは、自分にとっては引き受けられないほどの大きなことであるのですが、それは神様が私を祝福してくださったから、そうなんだ、という喜びに満ちています。

 

 そして、こう続けます。

 「『その御名は尊く、/その憐れみは代々に限りなく、/主を畏(おそ)れる者に及びます。/主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、/権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、/飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。』」

 

 ここにあるのは、その時代の人たちが信じていた、救い主が将来にしてくださることであります。神様が遣わされる救い主、私たちを救ってくださる主が来てくださる、そして自分たちを救ってくださる、その救い主は、こんなふうにしてくださるんだ、という、その時代の人たちの希望、あるいは信仰というものが、この箇所の言葉に表れています。

 

 「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし」とある言葉は、社会の秩序の中にあって人々を苦しめている権力というものが、神様によってくつがえされ、苦しんでいる人たちが救われていく、世の中の身分というものが逆転する、そして飢えた人は良いもので満たされる、富める者が空腹のまま追い返される、そうしたこの社会の悪しき秩序がひっくり返される、そういうことが起こる、ということがここで言われています。

 

 そしてそのあとに、こう言います。

 「『その僕(しもべ)イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、/わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。』」

 この言葉で、「マリアのうた」は締めくくられています。

 

 そして、最後にこうあります。

「マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。」

 

 こうして神様に祝福された二人の女性は、3ヶ月を共に暮らし、そしてマリアは自分の家に帰ったと記されています。  

 

 今日の箇所に記された物語は、四つの福音書の中では、ルカによる福音書にしか記されていません。そればかりか、四つの福音書をクリスマスの物語という観点で見ていきますと、非常に大きな違いがあることに気がつきます。

 

 四つの福音書の中で、一番古くに書かれたと考えられているマルコによる福音書には、クリスマスの物語は一つもありません。それは一番最初にイエス・キリストの福音ということを文章にして人々に宣べ伝えていた、その時期においては、イエス様という人がどういうお生まれをしたか、ということは、その時代の人たちにとって、関心が持たれていなかったことを示しています。

 

 しかし、そのマルコによる福音書より少し遅れて書かれた、マタイによる福音書ルカによる福音書にはクリスマスの物語が記されています。それは、イエス・キリストの福音を聞いた人たちが、ではそのイエスという人はどんな人なのか、という関心が出てきたことに対応した結果だと考えることができます。その中で、マタイによる福音書ではヨセフに焦点を当て、ルカによる福音書ではマリアに焦点を当てて、それぞれの物語が記されています。

 

 そしてさらに、時代があとになって書かれたヨハネによる福音書には、またクリスマスの物語は一つも無くなりました。その代わりに、「始めに言(ことば)があった」というヨハネ福音書の最初の言葉に象徴されるように、神様の御心というものがあって、そこからイエス・キリストが、私たちの所に来てくださった、という抽象的、また神学的な表現に変わっています。

 

 こうして、四つの福音書の中で、それぞれにクリスマスということがどう扱われてきたか、または扱われてこなかったか、ということを見るだけでも、そこにはイエス様に対する関心の持ち方というものが、その時代によって違っていた、ということがわかります。

 

 つまり、一番最初のころは、クリスマスということは、人々にとって関心がなかったことなのです。しかし、段々とキリスト教が広がっていく、つまり、主イエス・キリストの福音が広まっていくと、人々の関心が深まってクリスマスの出来事を知りたくなる。しかしそこからまた時代が経っていくと、その関心がより深まって神学的になっていく、そうした傾向があるわけです。

 

 そんな中で、今日のルカによる福音書においては、イエス様がおとめマリアのところに生まれた、ということが四つの福音書の中では一番詳しく書かれています。そして、今日の箇所においては、ここに最初に出てくるエリサベトという女性もまた、神様の御心によって身ごもったということが記されてあります。

 

 他の福音書にはない、こうした物語がなぜ、ルカによる福音書には記されているのかということを考えてみると、ルカによる福音書が書かれた時代に人々が考えていたことが伝わってきます。それはどういうことかというと、主イエス・キリストがお生まれになられたということは、旧約聖書に記された預言の実現であり、また、旧約聖書の時代に起こっていたことが、イエス様のお生まれのときにも起こったのだ、ということを証明しようとしている、ということであります。

 

 子どものいない高齢の夫婦に神様から子どもが与えられてみごもる、という話が旧約聖書にはあります。アブラハムとサラの話です。旧約聖書を知っている人であればみんな知っている、その話を知っている人たちに対して、エリサベトのこともその話と同じことだったのだと説明しているのです。

 

 そしてそのあとに、エリサベトがそうやってみごもったから、おとめマリアが神様の御心によってみごもっても、ちっともおかしくはない。これも神様のなさったことなんだ。というように、イエス様が、まだ結婚していないマリアから生まれた、ということを、これは正しいことなんだと証明している、そういう物語なのですね。イエス様の誕生の物語は、旧約聖書の流れにぴったり合っているのだから、これは神様の御心にかなった正しいことなのだ、そのように証明している物語なのであります。

 

 ではなぜ、そのように証明する必要があったのでしょうか? それは、おそらく、ルカによる福音書が書かれた時代において、イエスというのはどこから来たかわからない、誰から生まれたかもわからないような人なのだ、というような悪口と言いますか、批判と言いますか、そうした言葉がいろいろとあったのではないかと考えることができます。その一方で、イエス様はおとめマリアから生まれたんだよ、という話をする人がいても、それを疑ったり、そんなことがあるわけがないと言う人もいたでしょう。つまりは、イエス様という方に対する、いろいろな人からの疑念があったのです。また、イエス様に関わる物語について、あざけわらう人がいたり、そんなことが本当にあるわけがないよ、というような、世間の人たちの悪意というものがあったのだと、私は思っています。

 

 そうした人々の悪意、ということに対して、いや、そうじゃないんだ、イエス様のお生まれは、神様の御心にかなったお生まれなのだ、旧約聖書の時代に起こっていたことが、今のこの時代にも起こって、そしてイエス様がお生まれになられたのだ、ということを聖書が証ししているんだ、ということを示すために、今日の箇所の物語が記されているのであります。それは、イエス様に対するあらゆる悪意、批判というものに対して、打ち勝っていくために、この物語がルカによる福音書の中に記されている、ということであります。

 

 ではなぜ、そうして世の中の人々の悪意に打ち勝つための方法として、旧約聖書の話を持ってきたうえで「マリアのうた」をここに記す、という形をとったのでしょうか。その理由は、マリアがここでうたっている「マリアのうた」と呼ばれる言葉の中にあります。

 

 マリアはこう言っています。「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。/身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。」

 

 神の御心、神の恵みというものは、社会の秩序によって制限されるものではありません。この社会の秩序の中で、高貴な身分とされているところに神がやってくるというものではありません。そうではなく、神様はすべての人を等しく見ておられます。誰が高貴で、誰が高貴でないか、そんなことは関係ありません。

 

 そして、神様は、その御心をこの世の中で表すために、一番ふさわしい人を選ばれるのであります。それが今日の箇所の場合は、おとめマリアを選んだということでありました。その選びにこそ、神様が本当におられるという、そのメッセージがあるのです。神様というのは、この世の秩序の中にあって、王様とか貴族とか立派な宗教家とか、そうした権威を守るために神があるのではありません。そうではなくて、そんな権威から忘れ去られ、相手にされない周辺の人たち、放っておかれる人たち、その中に、神様からの救いのメッセージが届くのだと。そして神様はその中で人を選ばれるのだと。そのことがこのマリアのうたには記されています。

 

 そのように選ばれた人は、幸せなのです。

 「今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう。/力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。」

 

 小さな人間が実は幸せなのだ、神様からの恵みを一杯受けて、いま幸せなんだ、そういうことを言っています。そしてさらにマリアは言います。「その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏(おそ)れる者に及びます。」これは、このマリアの時代だけのことではないということです。今から後の時代も全部そうなのだと。神様がこの世界を救ってくださる、その御心が表されていくのだと、これからの時代において、未来のことも含めて、マリアはうたっているのです。

 

 そしてこう続けます。「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、/権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、/飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。」

 

 ある神学者は、マリアのうたのこの部分を、「マリアの革命歌」と呼びました。その言葉が適当であるかどうかはわかりませんが、本当にこの社会の秩序をひっくり返してくれるんだ、ということをマリアがここで高らかに歌っています。そこに、この時代の人たちの希望があったのです。それは、当時の人たちのこととして言えば、人々を支配していたローマ帝国に対して、救い主が人々を救ってくれるのだと、そうした歌として読むことができます。

 

 そして、そのあとこう言います。
 「その僕(しもべ)イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、/わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

 

 こうした形で「マリアのうた」というものは、苦しんでいる自分たちの民族、自分たちの国、それが神様によって愛され、救われ、もう一度豊かになっていく、そうした夢がここにうたわれています。

 

 このような「マリアのうた」を、この時代から約二千年経った、そして地理的に遠く離れた所にあるこの日本の国において、現代日本社会の中で私たちが教会において、この箇所を読むときに、どんなことを考えるでありましょうか。

 

 マリアの時代において、マリアはこのようにうたいました。そのあと、確かにローマ帝国は後の時代にはなくなっていくのでありますが、イスラエルの国もなくなっていきました。戦争によって国がなくなっていくのであります。この時代から二千年間、世界の歴史は、大きな国が生まれたかと思うと、いくらかの時代のあと、その国はあとかたもなく無くなっていた、そういうことの繰り返しでありました。現代にはイスラエルの国がありますけれども、それが聖書に言われているイスラエルということと同じではないと私は思っています。

 

 また、そうした歴史のつながりという所を見て、だから聖書の話は正しいのだ、とか、聖書の話は正しくないのだ、ということを現実の国際政治のこととからめて考えることは、あまり正しくないことだろうと私は思っています。

 

 むしろ、聖書が書かれたその時代に願われていたことの多くは、そのままの形では実現しなかったのだと思います。聖書の時代の人々がリアルに感じていた希望とか願いというものは、このつらく厳しい現実の中で、木っ端みじんにされていったことのほうが多いのではないかと、私は思います。

 

 そうだとすれば、聖書の言葉というものは、一体どういう意味を持っているのでしょうか。それは、神様の御心というものは、このマリアのような人の所にやってくるのだということを示すことにあります。このマリアという、そんな人の所に神の独り子、救い主が生まれるなんて誰も思っていなかった。しかし、そのマリアの所に神様の御心が来たのだと。

 

 そして、そこからマリアの人生は変わりました。マリアから生まれた赤ちゃんイエス様が育ち、そしてそのイエス様を巡っていろいろなことが起こり、イエス様は十字架にかかり、死なれ、3日の後によみがえられ、天に挙げられたと記されている福音書の物語があり、キリスト教というものが生まれてきました。

 

 そして、キリスト教というものは、その時代や伝えられた地域によって、その現れ方をずいぶんと変えていったのだと私は思います。この日本社会においても伝えられたきたキリスト教というものは、世界各地のキリスト教と同じであると共に、日本社会にあって独特の形になってきたのだと考えられます。

 

 その中で、今日の聖書の言葉に書かれている、「マリアの革命歌」と呼ばれるほどに大胆な、神の救い主は「身分の低い者を高く上げ、/飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます」というはっきりとしたメッセージを、今日の私たちはどう受け止めたらよいか、正直、戸惑うことがあると思うのです。

 

 しかし、今日のこの箇所に書かれていることは、政治的なメッセージではありません。元々は政治的なメッセージがこめられていたかもしれないけれども、二千年経った今、ここに政治的なメッセージを読み取るのではなくて、むしろ、神様の御心というものは、抑圧され苦しめられている、その民衆の中にあって、神の恵みなんていうものは、こんな所には来ないと思われている所にやってきて、そして、そこにおいて守られ、育まれていくことにおいて、神様の御心というものは育っていくのだと、そのように読むことが出来ます。

 

 今日の私たちは、このマリアの話を読んで、これが直接自分に関係ある話とは、なかなか思えないのではないかと思います。それは、はるか昔のおとぎ話のようにも思えます。けれども、そんなふうに、おとぎ話だと思いたがる人が多いからこそ、マリアはここで、「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、/権力ある者をその座から引き降ろし」という、ある意味で過激な言葉をここに残しているのではないか、と思います。

 

 マリアの話、それは単なるおとぎ話ではありません。苦しんでいる人間が、その苦しみの中にあって、ある日、神様から選ばれて使命を与えられることがあるのだと。それは決して、ほのぼのとしたおとぎ話ではなく、本当に社会を根っこから変えていく、そこに神様からのメッセージがあるのだと、そのマリアに続いて、いまを生きている私たちも、自分自身の一歩を踏み出していきたいと願う者であります。

 

 お祈りします。

 天の神様、世界が重苦しくなり、コロナ問題の中で本当にたくさんの命が失われ、生活が制限され、また生活が壊され、多くの悲しみ、苦しみが満ちているこの世界の中にあって、今年もクリスマスがやってきます。小さなともし火であっても、それを吹き消さずに大切にすることができますように、お一人おひとりに与えられている、ともし火を守ることができますように、心よりお願いいたします。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。
 アーメン。

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「二人と、私と、イエス様」

 2021年12月19日(日)クリスマス聖日礼拝説教

 聖 書 ルカによる福音書 2章 1〜7節 

 そのころ、

 皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、

 登録をせよとの勅令が出た。

 

 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた

 最初の住民登録である。

 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。

 

 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、

 ガリラヤの町ナザレから、ユダヤベツレヘムという

 ダビデの町へ上(のぼ)っていった。

 身ごもっていた、
 いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。

 

 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、

 マリアは月が満ちて、初めての子を産み、

 布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。

 

 宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 

 

 

 

  (以上は、新共同訳聖書をもとに、改行など文字配置を、

   説教者の責任で変えています)

        

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(以下、礼拝説教)

 

 今日、私たちはクリスマス聖日礼拝の日を迎えました。神様が独り子のイエス・キリストを私たちに与えて下さった、そのことを記念し、感謝し、その喜びを世界中に宣べ伝えるための礼拝であります。

 

 神様のメッセージはこの今の時代に、イエス・キリストを通して伝えられています。聖書にはそのことが記され、教会はその言葉を語り継いできました。そして今日もまた、この2021年のクリスマスにふさわしい御言葉が与えられています。

 

 この時代、それはどんな時代でありましょうか。コロナの時代というように言ってよいでありましょう。今、世界中のどの国にあってもコロナ問題は深刻な問題であります。その問題が始まってから、もう1年半を過ぎて2年目となった今、私たちはコロナということに疲れを覚えています。それと同時に、感染問題の状況変化によって段々とこれからは状況が良くなってくるの゛てはないだろうかというような、淡い見通しも持ちたいと思う、そのような気持ちにもなっているのではないかと思います。

 

 このコロナの時代にあって、キリスト教会は何を求められているのか、何をしたらいいのか、ということについて、ある一人の日本のキリスト教神学者がこのように言いました。今、キリスト教会がなすべきことは、「とむらい(弔い)」であると。

 とむらい、それは、死んだ人の家族に言葉をかけるという意味があります。とむらい。今キリスト教会がすべきことは、とむらいである、と言われるとき、それは、教会はコロナによって失われた命を思い、その残された遺族に対してどのような言葉をかけるのか、という責任が問われているのであります。

 

 その言葉の意味は、キリスト教会に対して少し厳しい言葉でもあります。というのは、このコロナの時代にあって教会は何をしてきたのだろうか、というその問いだからであります。コロナの時代に教会はどんなことをしてきたのか、教会でどんなことが語られてきたのかを振り返るときに、いろいろなことを思います。

 

 私はコロナにかからなくて良かった、と思っている人は多いと思います。また、別の人はこんなことを言います。コロナの時代だからインターネットを使ってテレワークができるようになった、Zoomというものを使って会議ができるようになった、このコロナの時だから、イノベーション(技術革新)のときだ、生活の転換のときだ、ニューノーマル(新しい日常)だ、そのような言葉も飛び交いました。

 

 それらは一つひとつ、人間の実感であり、世の中の現実であり、正しいことであろうとは思うのです。しかし一方で、どうでしょうか、失われていった多くの命を覚えて、その残された遺族に対して私たちはどんな言葉をかけてきたでしょうか。

 

 コロナ問題の中にあって、私は生き残って良かったとか、私はこんな良いことがあった、ということは、もちろん言うことができます。それは一方で大事なことなのです。苦しい時代だから希望を失わずに生きる、それはとても大事なのです。でもその一方で、教会は何をすべきか、それは「とむらい」ではないか。この苦しい現実の中にあって、失われていった命は無駄に失われていったのだろうか、これは一体何のためだったのだろうかと嘆き悲しむ、残された人々に教会は何を語るのか、ということが問われています。

 

 もちろん、ではどんな言葉をかけたらいいのか、という具体的な言葉は、容易には思い浮かびません。むしろ、私たちができることというのは、じっと黙って一緒にいる、そんなことしかできないのではないかと思うのです。言葉にしたってむなしいのだから、何もしないでじっとそばにいる、それしかできないということも一つの真理だと思います。また、祈るしかない、そういうこと、これも真実だと思います。人間の力ではどうしようもないことなのですから、祈るしかない。

 

 しかし、それでも「とむらい」という時に、そこには、言葉をかけるということが必要になってきます。どのような言葉をかけたらよいのでしょうか。私は考えてみました。それは、亡くなった方々を私は決して忘れません、という言葉です。コロナの中で、この時代の中で、私は生き残ったから良かった、このコロナ時代の中でこんな良いことができた、それも一方で大切です。その一方で、寂しく死んでいかれた方々、残された遺族のことを私たちは忘れません。

 

 死んでいかれる方々には、「さようなら」という言葉が使うことができます。生き残った方々には「さようなら」という言葉でなく、「これから、共に生きていきましょう。」「みんなで一緒に生きましょう。」そういう言葉になります。そしてそのとき、「過去を忘れて共に生きていきましょう」ではなく、「私は過去を決して忘れません、だから一緒に、共に生きていきましょう。」そういう言葉になります。

 

 本日の聖書の箇所、クリスマスのこの物語も、また、過去のことであります。クリスマスにこの箇所を読むのは、過去に対して「さようなら」というために読んでいるのではなく、私はこの過去を決して忘れません、そして、この、過去に生きた人たちとこれからも共に生きていきます、そういう思いなのであります。

 

 今日の箇所には何が書いてあるでしょうか。大変短い言葉です。イエス・キリストのお生まれに関するルカによる福音書の物語、1章から続く物語の一部でありますが、イエス様の誕生ということをここに簡単な言葉で記している物語であります。

 

 読みます。

 「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。」

 

 このように書かれています。この当時の人たちが生きていた時代は、ローマ皇帝が世界を支配する時代でありました。ローマ皇帝がこの世界の秩序の中心にいて、その時間も空間も支配している、そうした時代のことでありました。その皇帝から人口登録の勅令が出たのです。誰も逆らうことはできません。そして、人々は皆登録するためにおのおの自分の町へと旅立った。自分の生まれた町へとみんな帰って、私はこの町で生まれました、という、そういう戸籍の登録のようなものであります。

 

 それは、皇帝が、自分が支配している領土の住民が全員、自分のもとにあるということを示すためのことでありました。そのことによって皇帝は、自分のこの帝国に何人の人がいて、どこにどれぐらいの人がいて、ということが把握することができるのであります。そして、そのような勅令によって、このとき身重であったマリアとヨセフも旅をすることになったと書いてあります。

 

 このような時の長旅は大変なことでありました。しかし、皇帝の命令であるならば逆らえない、そのような世界にこの人たちは生きていたのです。そして「ヨセフとマリアがユダヤベツレヘムへと上(のぼ)っていった」とあります。「みごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」

 

 ここまでが、当時の時代状況と、それによって動かされたヨセフとマリアの二人のことが記されてあります。そして、次に行きます。

 

 「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」

 

 ベツレヘムの町にいるうちに、初めての子が生まれました。布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。そして、こう続きます。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」

 

 飼い葉桶、牛や馬が草を食べるために置かれたものに、赤ちゃんイエス様を寝かせた、そのような記事であります。イエス様の誕生の、今日の物語の半分以上が、当時の時代状況でありました。お生まれになられたこと自体の記事は、本当に短い言葉であります。

 

 ここに、過去というものがあります。昔むかしの時代に、大きな帝国によって支配された植民地に生きる人たちの、大変な人生。そして宿屋には彼らの泊まる場所がなかった、それは貧しかったということでありましょうか。この世界の中に生きている庶民、と言ったらいいのか、民衆、と言ったいいのか、小さな世界に生きている人々、その中にいるヨセフとマリアに、赤ちゃんイエス様が生まれました。

 

 今日の説教題は「二人と、私と、イエス様」と題しました。二人というのは、誰でしょうか。ヨセフとマリアのことです。ヨセフとマリアとイエス様、この三人が今日の箇所に登場する自分物であります。クリスマスの物語の中心は、この三人でありましょう。けれども、どうですか。皆様、クリスマスというときに、皆さんの心の中に思い浮かぶのは何でありましょうか。ヨセフとマリアとイエス様、その三人、そして、この馬小屋の光景。そのことを思うときに、皆様何を思われるでありましょうか。

 

 私が今日のクリスマス聖日礼拝の日を迎えるにあたり、ふと、こんなことを思ったのです。今年はクリスマスの礼拝の日は12月19日ですね。いわゆる本当のクリスマスの日というのは12月25日です。まだあと6日間、約一週間あります。一週間早いなあ……なんか、まだ気分が出えへんなあ。と、ちょっと思ってしまったのですね。

 

 何年かに一回、こういう、ちょっと早いクリスマスの日がやってきます。まだクリスマスが来るのが早い気がするなあ〜、と思ったのです。なんか気分出えへんな……。そして、そう思ったときに、ちょっと、こう思いました。「まだ気分出えへんから、クリスマス来なかったらええんかな」とふと思ったときに、「いや、やっぱり、クリスマス来てほしいな。日が早くても来てほしいな」、そう思いました。なんででしょうか。まだ気分出えへんのに、なんで来てほしいのでしょうか。考えてみたのですが、よくわかりませんでした。

 

 今日の箇所に、クリスマスのヨセフとマリアとイエス様の物語が書かれています。その三人のことを思っていると、クリスマスのことは確かに頭の中に浮かぶのですけれど、なんかもう一つピンとこないのです。そうなんです。本当のクリスマスっていうのは、ヨセフとマリアとイエス様だけじゃなくて、そこに、私がいてほしいのです。「二人と、私と、イエス様」。クリスマスっていうのは、その出会いのときであってほしいのです。

 

 もしも、そこに、私という存在がなくて、単に聖書に書いてある物語として、ヨセフとマリアとイエス様だけがそこにいて、そして、ローマ皇帝がどうだとか、当時の時代状況がどうであったとか、そんな話だけであったとしたら、それはまさに聖書物語として語られる世界ではあるけれども、そこに私がいない。けれども、その所に、この私という人もいてほしいのだと。そのとき、初めて本当のクリスマス、私にとっての本当のクリスマスが来る、と思ったのです。

 

 ヨセフとマリアとイエス様の三人の物語に、私はどうやって割り込んだらいいのでしょうか。二千年前の昔の物語に私が忍び込むことはできません。けれども、どうでしょう。私がいる所に、ヨセフとマリアとイエス様をお招きしたら、そうしたら、二人と私とイエス様が一緒にいる、今のこのときがクリスマスになるのです。

 

 聖書のクリスマスの物語が私たちに促していることというのは、そういうことではないか、と私は思うのです。二千年前のこと、それはどこまで行っても過去のことであり、その真実がどんなものであったのか、当時の時代がどんなものであったのか、そんなことは私たちにはもうわかりません。過去の1点にあって、そしてもう忘れ去られていくようなこと、自分には関係ないといって忘れられていくこと、そのようなこととして聖書を読んでいる限り、聖書のメッセージは生きたものになっていきません。

 

 そうではなくて、今を生きている私たち一人ひとり、自分の所に来てほしいのです。ヨセフとマリアとイエス様に。そのときに、この4人の関係は、どういう関係でありましょうか。ヨセフとマリアとイエス様の家族三人の温かい関係の所に、私というお邪魔虫が入ってきている、という光景でありましょうか? 

 

 いや、そういう関係ではないのです。そもそも、ヨセフとマリアはいいなずけでありましたが、まだ一緒になる前にマリアは身ごもったのです。マタイによる福音書によれば、それを聞いたヨセフは、正しい人であったので、縁を切ろうとしたとあります。ルカによる福音書によれば、マリアが「どうしてそのようなことがあるでしょうか」と天使に向かって言っています。

 

 いいなずけだったヨセフとマリアが、これから貧しくても幸せな家庭を作っていこうと思っていたであろう、二人に、神様によってイエス様があなたのところに身ごもると言われたときに、それは、想定していなかったこと、お邪魔虫というのも失礼ですが、想定していなかった神様の御心がまるで二人の関係を邪魔するようにしてやってきたのです。そこからクリスマスの物語が始まっているのです。

 

 そして、マリアはエリサベトと出会います。そこから新しい人間関係が始まっているのです。そして、今日のルカによる福音書の7節までですが、このあとの8節以降には、その夜に羊の番をしていた羊飼いたちが、天使の知らせを聞いて、このヨセフとマリアとイエス様のところにやってくる、そんな話も書かれています。

 

 羊飼いたちは、イエス様のところにやってきます。これまた、迷惑な訪問客だったのではないでしょうか。ヨセフとマリアの所にいろんな人がやってくる。思いがけなかったことが起こる。そうして、人同士が出会っていくときに、誰がお邪魔であるか、というようなことは、もはや関係がなくなっていく、そこには、神様がもたらして下さる、新しい出会い、無数にそのクリスマスということから生まれてくる無数の出会いがあって、またそれぞれの人生がそこから新しく展開していく、そのようなことがここで起こっているのであります。

 

 私たちは今、コロナの時代を生きています。私は生き残ったから良かった、こんな良いことがあった、と良いことを数えることも大事だと私は思っています。それと同時に、しかし決して私たちは、過去この世界に共に生きていた人たちのことを忘れてはいけない。そして、その大切な人を失って生きていこうとしている、残された人たちと共に生きていく、そうした社会を作っていくために、教会は過去ということに本当の意味で向き合っていきたいと思うのです。

 

 過去に何があったのでしょうか。神様の御心が示される、この人間の歴史の中に、神様の御心が示されるということが本当にあったのです。その過去にしっかりと向き合い、そしてそれを単に過去のある地点のこととして終わらせるのではなくて、その過去にあったことが、今このときにもありますように、私たちの側が、過去をお迎えし、過去と共に生きていこうといる、その時に実は、私たちにとって、それまで考えてもいなかったような、その人それぞれにとっての私のクリスマスというものがあるのです。

 

 私のクリスマス、私にとって神様の御心が本当に命となって、この私の中に生きてくださる、そういう経験を、皆様お一人おひとりがすることができるのであります。

 

 お祈りいたします。

 天の神様、このクリスマスにあって、世界にあって、また日本にあって、孤独というものがあり、見捨てられているような、失われているような、そんな一人ひとりの人間の姿があります。神様、どうかこの世界を見て、神様の愛を、どうぞ豊かにお与え下さいますように、心よりお願いをいたします。そして私たち一人ひとりが、自分に与えられた恵みを、自分だけのものにせず、人に伝え、人とわかちあい、人と共に生きていくことができますように、心よりお願いをいたします。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前に御献げいたします。

 アーメン。 

 

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「年の暮れ、天使もお疲れ様!」

 2021年12月26日(日)説教

 聖 書   ルカによる福音書 2章 8〜21節 (新共同訳)  

  

 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。

 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

 天使は言った。

  「恐れるな。
   わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。

   今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。

   この方こそ主メシアである。

   あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている

   乳飲み子を見つけるであろう。

   これがあなたがたへのしるしである。」

 

 すると、突然、この天使に天の大群が加わり、神を賛美して言った。

 「いと高きところには栄光、神にあれ、

  地には平和、御心に適(かな)う人にあれ。」

 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、

 「さあ、ベツレヘムへ行こう。
  主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。

 

 そして急いで行って、

 マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。

 

 その光景を見て、羊飼いたちは、

 この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。

 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。

 

 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。

 

 羊飼いたちは、

 見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、

 神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。

 これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。    

 

 

 (以上は、新共同訳聖書をもとに、改行など文字配置を、
  説教者の責任で変えています)

     

…………………………………………………………………………………………………………………………………

 

 (以下、礼拝説教)

 

 今日の朝、雪が舞っていました。ほんの少しの雪で、積もるところまで行きませんでしたけれども、粉雪のような雪が降っているのを見ました。もしこれがクリスマス・イブの日であったり、クリスマスの日であったら、つまり12月の24日や25日であれば、ホワイト・クリスマスだ、というように思い、新聞の見出しなどにはそんな言葉が載っていたかもしれません。しかし、今日は12月26日、クリスマスを過ぎてしまいました。もうホワイト・クリスマスとは呼べないのでありましょう。

 

 しかし、クリスマスは本当は何年何月何日であったか、ということはわからないことです。どの日が本当にクリスマスであったかということは、確かめようがないことです。教会の伝統の中で古代の言い伝えをもとに、この日をクリスマスとして祝おうと決めたのが、現在のクリスマスであります。本当のイエス様の誕生日がいつであったのか、誰も知りません。

 

 そういう意味では、たった1日が過ぎてしまったゆえに、ああ、クリスマスは過ぎてしまったのだなあ、と思わなくていいのだと思います。いつであったって、雪が降ったならば、そしてこの私の心にイエス様をお迎えしたならば、その日がホワイト・クリスマス、心に残る美しい日、そのようにしても構わないのです。

 

 今日の聖書の箇所にある物語も、それがいつであったか、ということはわかりません。しかし、いつであったとしても、私たちの心にイエス様を連れてきてくれる物語であることは間違いがありません。

 

 では、今日の聖書箇所を順々に読んでいきます。

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」

 羊飼いという仕事は、当時の社会にあって底辺と呼ばれるところで、生活していた方々だと考えられています。多くの人が寝静まっているときに起きて仕事をしなければならない、羊の番をしている、そういう仕事でありました。

 この社会の中で人の目が届かないところで仕事をしている人たち、なくてはならない仕事をしているのだけれども、それは昼間の光の中で評価されるものではない。そうした羊飼いの人たちのところに、主の天使が現れたというのです。

 

 昼間の光ではなく、天使の光、神様の栄光が羊飼いたちの周りを照らしました。そこで、天使は言いました。
 「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」

 

 当日の人たちは、聖書に記された言葉を元にして、自分たちには、ダビデという古代の王様の子孫が救い主として神様から与えられる、この世界を救ってくれる主という方が私たちのところに来られる、と信じていました。その救い主が、今、この世に生まれたのだと天使が言うのです。そしてその羊飼いたちが、飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう、それが今この天使が言っている言葉の証明になるのだ、しるしなのだということを天使は言いました。

 

 次にこうあります。 

 「すると、突然、この天使に天の大群が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適(かな)う人にあれ。』」

 

 天使の歌が聞こえてきました。そして次にこうあります。

 「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。」

 

 天使が「ダビデの町」と言っただけで、それがベツレヘムの町だとわかった、なぜそうわかったのか、というようなことは、ここには書いてありません。そうした、事実関係がどうのこうの、ということではなくて、天使たちが知らせを聞いたあと、すぐに羊飼いたちは立ち上がって歩き出した、ということがここでは伝えられているのです。

 

 次にこうあります。
 「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」とあります。

 

 ここでのマリアの「思い巡らしていた」という言葉は、聖書の原文では、ただぐるぐると自分の頭の中で、一つのことわ思い巡らしている、という意味ではなく、自分が理解できないことについて、神様から答えを与えられようとして、思い巡らしている、という意味であるようです。

 

 突然やってきた羊飼いたち、その羊飼いたちの言葉はとても不思議なものでした。本当に不思議な訪問客でありました。理解できないことでありました。しかし、そのことに神様からのメッセージをここでマリアは読み取ろうとしていたのであります。

 

 そして、こうあります。

「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」  

 

 こうしてイエス様の誕生物語は終わっています。今日の礼拝で読んでいます聖書の箇所は、多くはクリスマス礼拝やクリスマス・イブ礼拝のときに読まれることが多い箇所です。現在のキリスト教会はコロナのために活動の多くを自粛しており、京北教会ではクリスマス・イブ礼拝もありません。そんな中で今日の礼拝において、この箇所を皆さんと共に読みました。

 

 クリスマスの日は昨日終わりました。もうクリスマスは過ぎたのです。けれども、こうしてこの箇所をみんなで一緒に読むときに、過ぎたはずのクリスマスが、もう一度ここにやってきている、いや、今ここからクリスマスが始まっているのだ、そのような想いが私たちに与えられるのではなでしょうか。

 

 いま私たちは、年末と呼ばれる時期を過ごしています。今日は2021年で一番最後の日曜日となりました。皆様それぞれの生活の場において、年末のお掃除などをしておられるかと思います。忙しいときでありましょう。その忙しい中にあって教会は、今年最後の礼拝を守っています。

 

 年の暮れに、お互いに私たちが掛け合う言葉は何でありましょうか。今日の説教題は「年の暮れ、天使もお疲れ様!」と題しました。「お疲れ様」という言葉を言うときに、それはお互いよく働いたね、いろいろあったけれど、お互いよく働いたね、よく生きてきたね、よくやってきたね、そういう励まし合いの言葉であります。

 

 この1年間、お互いによく歩んできたのだと思います。そのやってきたことが、自分としてどれだけできたか、できなかったか、ということとは別に神様がお一人おひとりのその歩みを見て下さっています。そして、神様が「お疲れ様」と言ってくださっているのではないでしょうか。そして、今日のこの箇所を読むときに、神様が「お疲れ様」と言ってくださるのは、私たちだけではなくて、今日の箇所に出てくる天使たちもまたそうではないか、と思うのです。

 

 聖書に登場する天使、それは神様の御心を表す存在です。神様の御心を表すために現れて、そしてその働きを終えると、また帰っていきます。そのような天使というものが、歴史的・科学的な事実として本当にあるかないか、というようなことは、関係がありません。

 

 と言いますか、実際のこととしては、そのような天使という存在はないのだろうと考えてよいと思います。しかし、聖書の物語を読むときに、実際にはいないはずの天使があたかもごく普通にいるように思える、という、そのことも大切にしたいのです。

 

 それは、神様の御心は、あたかも天使が現れるようなことだからであります。それは、神様の御心を私たちに伝えるという仕事があって、それを達成したならが、もはや天使の見える姿は不必要になるからです。だから天使は消えていきます。神様の御心は私たちに与えられるときに、ときに不思議な形をとります。そして、その心が伝わったならば、その形は消えていくのです。最初から無かったかのように。

 今日の聖書箇所において、ヨセフとマリア、そしてお生まれになられた赤ちゃんイエス様、その3人家族の所に突然やって来た訪問客である羊飼いたち、その羊飼いたちもまた、天使のような存在でありました。

 

 一体なぜ、こんな時間に、一体なぜ、あなたたちが、この赤ちゃんイエスの誕生を知っているのか、わけがわからないなかでやってくる訪問客が、自分たちは天使の言葉を聞いたのだと、そのことを言ってくれました。大変不思議なことです。

 

 そのあと、羊飼いたちは神様を讃えながら、賛美しながら帰っていったとあります。やるべきことをやったら、その人は目の前から消えていくのです。あたかも最初からそこにはいなかったかのように。

 

 神様から遣われて天使が、あるいは羊飼いが、そうやってメッセージを届けてくれる、そのようなことはクリスマスのときだけではなく、1年間365日、いつだって起こることです。そして、今日、この現代の日本社会の中で生きている私たち一人ひとりも、同じくそうなのです。

 

 それは、この私のところにもいつか天使がやってくるのかなあ、という空想でもいいのですけれど、もう少し現実的な話をしますと、実は私たち自身が一人ひとり、天使として神様によって用いていただける、ということなのです。

 

 もちろん、私たち自身が「私は天使だ」と思っているわけではありません。天使のまねをするわけではないのです。そうではなくて、ごく普通に生きている、そしてこれからも普通に生きていこうとするときに、思いもかけずに、この私があたかも天使のように、神様のメッセージを人に伝える役目を果たしている、そういうことが本当にあるのです。

 

 そしてそのことによって、クリスチャンというものは、あるいは教会に集っている方々一人ひとりは、神様によって用いられてこの広い世界の中にあって、天使のような役割を果たすのであります。

 本当でしょうか。いや、とてもそんなことはしていません、とか、そんな気恥ずかしいこと、私は天使じゃないです、と言いたくなる人もいるかもしれません。でも、私たちが天使になる、ということは、背中に羽が生えたり、白い服を着て空を飛んだりすることではないのです。あたかも、そこには天使なんかいないかのようにして、神様の御言葉、神様の御心を、何らかの形で伝えていく、ということです。

 ときには言葉で、ときには行動で。ときには沈黙で。ときには文章で。ときにはささやかな献金によって。ときには何かの音楽であったり、自分のしたいこと、自分が表現したい何かであったり、それでもよいのです。神様の御心をこの世界に伝えていく、そのために私たちは用いられているのです。

 

 実は、この2021年の1年間の中で、私たちは神様から天使として用いられてきたのです。そして今日、この年の最後の礼拝の日にあって、神様からお一人おひとりの天使に、言葉がかけられます。「お疲れ様でした。新年、またよろしく。」そんなふうに神様が言ってくださるのか、そうでないのか、それはわかりませんけれども、私は思います。神様はきっとお一人おとりにふさわしい、温かい言葉をかけてくださるのだと。

 

 今日の箇所において、「天使たちは神をあがめ、賛美しながら帰って行った」とあるように、私たち一人ひとりも、たとえ、できの悪い天使であったとしても、神様を賛美しながら帰っていくのです。いなくなっていくということであります。

 

 天使というものは、いつまでもいつまでも人のところに居座るものではありません。やるべきことをやったら帰って行く。あたかも最初からいなかったかのように。それでいいのです。

 

 私たちが普段の生活のことを思い返すときに、いろんなことを思います。自分でやろうと思うことをやってきただろうか、と振り返るのです。やりたいことはやれずに、やりたくないことばかりやらされてきた、とか、したくないことばかりしてきた、とか、愚痴を言いたくなる人もあるかもしれません。この社会の中で起きていることは本当にいろいろです。やりたいことばかり、できるわけではありません。

 

 そんなときに、この「お疲れ様」という、この言葉を言うときに、何となくそのニュアンスの違いのようなものが現れるときがあります。自分のやりたくなこと、しんどいことをやっているときには、「お疲れ様」という言葉も、「おつかれさま……」と気のない言い方をしてしまうことがあります。適当な言葉です。

 

 けれども、やりたいことをやったとき、がんばったなと思えるとき、ちょっとお互いに励ましあいたいなあ、と思ったときには、「お疲れ様!」という、ちょっと声も華やいでくる、そんなこともあります。同じ言葉でも、私たちはずいぶん、そこにこめる気持ちが変わってきます。

 

 ちょっとしたことなのに、なぜそんなに気分が変わるのでしょうか? 私たち一人ひとりが、この2021年、どんな1年であったのか、それぞれに違っていると思いますけれど、しんどいこともあったのだと思います。それでも、神様の前で本当にうれしいといって、喜べることもあったのではないでしょうか? 

 

 そんな思いを持って天使と一緒に、お互いに「お疲れ様」、年の暮れに「天使もお疲れ様!」と言いたいものであります。

 

 空のどこかにいる天使に向かってではなくて、いまここで人として暮らしているすべての私たちが、お互いに「お疲れ様!」、喜んで「お疲れ様!」と言って、この年を終わり、そして新しい2022年をみんなで迎えていきたいと願います。

 

 お祈りします。

 天の神様、今日このときから始まる新しい1週間を祝福してください。年の暮れ、そして新しい年を迎えて、それぞれの生活の中でイエス様が共にいて、このクリスマスの喜びを大切にし、また、それぞれに健やかに元気に楽しんで、新しい年を迎えることができますように、心からお願いいたします。世界に平和を、そして私たちが生きるこの日本の国に、まことの救いをお与えください。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

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 少し雪が降った朝。2021年12月27日(月)。

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             みなさま、良いお年を。

         2022年の祝福が豊かにありますように。