京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2021年10月の礼拝説教

 収録 2021年10月3日(日)、10日(日)、17日(日)         
               24日(日)、31日(日) 京北教会 礼拝説教

 

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「救いは私にも」2021年10月3日(日)礼拝説教

 聖 書   ローマの信徒への手紙 10章8〜15節

           (新共同訳より抜粋。以下は改行して配置)

 

 では、なんと言われているのだろうか。

 

 「御言葉はあなたの近くにあり、

  あなたの口、

  あなたの心にある。」

 

 これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。

 

 口でイエスは主であると公に言い表し、

 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、

 あなたは救われるからです。

 

 実に、

 人は心で信じて義とされ、

 口で公に言い表して救われるのです。

 

 聖書にも、

 「主を信じる物は、だれも失望することがない」と書いてあります。

 

 ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、

 すべての人に同じ主がおられ、

 ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになられるからです。

 

 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

 

…………………………………………………………………………………………………………………………

 

(以下、礼拝説教) 

 

 京北教会では最近、マルコによる福音書とローマの信徒への手紙、そして旧約聖書、その3箇所から毎週順番に選んで、礼拝で皆様と共に読んでいます。そのことによって、聖書全体のメッセージをより深く知っていきたいと願っています。

 

 本日の箇所は、ローマの信徒への手紙10章であります。ここには、人は自分の行いによって救われるのではなく、信仰によって救われる、という、プロテスタント教会の教理、つまり教えの中で一番の中心にある事柄が記されている箇所であります。

 

 使徒パウロが、その信仰を書き記した、この長い手紙は、手紙というよりも説教、あるいは神学論文といっても良いほどに、深い内容が記されています。そして、今日の箇所には、プロテスタント教会において「信仰義認」と呼ばれる教え、これは、人間は行いによるのではなく信仰によって救われる、ということですが、その重要な教えを伝えている核心の部分であります。

 

 この箇所を順々に、最初から読んでいきます。最初は、こう書かれています。

 「では、なんと言われているのだろうか。」

 

 最初に「では」とあるのは、この箇所には、その前にあたる流れがあるからです。そこに何が書かれているかというと、イスラエルの人たちの信仰ということについて触れられています。イスラエル、つまりユダヤの人たちは、古代の時代から、神様から聖書を与えられた、すなわち神の言葉を与えられた人たちとして、聖書を大切にして歩んできました。

 

 しかし、その人たちが長い歴史の中で、信仰から離れたり、偶像崇拝に陥ったり、そうしたことがありました。そうして、人々は様々な苦難の目に会っていくのでありますが、なぜそのように、神様が選ばれた民、ユダヤの人々がそのように苦しんだのか、ということをパウロが語っています。

 

 その理由は、人々が「自分の行いによって神に救われる」と考えてしまったために、本当の信仰から離れてしまい、そのために人々は苦しんできたのだ、というパウロの考えがここに記されています。

 

 旧約聖書には、「律法」という名前で、たくさんのおきて、決まり事というものが記されてあります。その中心は、「モーセ十戒(じっかい)」と呼ばれる十の掟、これが一番の中心であり、これを中心として様々な、礼拝のための規定、生活のための規定がたくさんありました。そして旧約聖書に記された律法だけではなくて、その律法を解釈するための様々な研究があり、また、律法には書いていないけれども、律法から導き出されたこととして、日常生活の本当に細かなことまで規定する、たくさんの決まり事がありました。

 

 そうした、たくさんの決まり事を守ることによって、自分たちは神様に救われる、と考えてしまった。そのことによって、結果として、本当の神様への信仰から離れてしまった。そのために、人々は現実の生活の中で、たくさんの苦難に出会うことになった。大まかに言えばそういうことである、とパウロは考えているのです。

 

 そのことに触れたうえで、今日の聖書箇所が書かれています。「では、なんと言われているのだろうか。」これは、そうした人々の苦しんでいる現実ということに対して、神様は何と仰っているのか、という、その書き方をしているのであります。

 

 そして、そのあとで次のように言われます。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」この言葉は引用であり、旧約聖書申命記30章にある言葉です。

 

 これは、神様の御言葉というものは、すぐ近くにあるということを示しています。神様の言葉は、どこにあるかというと、あなたの口、あなたがしゃべる口、そしてあなたの心にある、と神様が仰っている、というのです。そして、「これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」とパウロはそのすぐあとに言っています。

 

 パウロがなぜ、ここで旧約聖書申命記の言葉を引用したかというと、それは、神様による救いというものは、人間からはるか遠く離れたところにあるのではない、実にあなた自身の中に、神の救いがあるのだ、ということを言いたいのであります。

 

 この箇所の前の所で、パウロは言っています。神の御言葉とか、神の救いということは、たとえば、天の上とか海の下とか、そういう所にあるのではないと言います。元々の申命記の言葉に、そうした意味のことが書かれていて、それをさらにパウロが自分なりの言葉に言い直して、ここで語っています。

 

 神の救い、それは天の上のほうにあって私たちには手が届かない、誰が私たちのためにその救いを取ってきてくれるのか、とか、神の救いというのは海の底にあるぐらいに遠く離れた所にあって、だから誰かが取りに行かなかったら手が届かないのだ、とか、そういうものではないと言います。

 

 そんな遠くにあるのではなくて、神の救いというものはあなたの近くにある、あなたの口にある、あなたの心にある、とパウロはここで言っているのです。

 

 そしてそのあと、パウロはこう続けます。
 「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」

 

 ここには、「口で〜言い表す」とあります。このことは、教会においては、たとえば「信仰告白」というように、「告白」という言葉を使うことです。告げる、明らかにするということです。自分の信仰を、神様と人の前で公に言い表す、ということです。そして心で信じる、そうするならば、あなたは救われる、とパウロは言っています。

 

 この「心で信じるなら救われる」という言葉だけを、この箇所の中から切り離して読むならば、それはキリスト教だったら、これが当たり前のことのようで、普通のことなのかな、と思えるかもしれません。

 

 しかし、パウロがここで、この「心で信じるなら救われる」という言葉を言っている背景というのは、人間というのは、何か善い行いをしなければ救われない、という強烈な考え方がある、その世界に対して、いや、そうではない。善い行いをしたから神様に救われるのではない。心で信じて口で言い表したら救われる。それで十分だとパウロは言っているのであります。

 

 神様に対する礼拝の仕方、日常の生活の仕方、こんなふうに聖書を読み、こんなふうに生きて、こんなふうに働いて、というように、旧約聖書に定められた律法をすべて守り、それだけでも足りなくて、もっとたくさんの決まり事を作って、それをしっかりと守ることによって、清く正しい生活、確かな生活、そうした生活をすることによってこそ救われる、そういう考え方に対して、いや、そうではないのだと言うのです。

 

 端的に言えば、あなたが本当に「信じました!」と言えば、その時点であなたは救われているのだ、というパウロの信仰の言葉がここにあるのです。パウロはこう言っています。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」

 

 そのあと、こう言います。「聖書にも、『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。」これはイザヤ書28章の言葉を引用しています。

 

 そして、その後にさらにこう言います。「ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになられるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」 この最後の言葉は、旧約聖書のヨエル書3章の引用であります。

 

 ここに書かれている言葉も、この部分だけを切り取って読めば、それほど特別なことが言われているようには思えないと思います。「ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられる」という言葉は、別の言い方をすれば、どの国の人でも救われるということでありますが、これは現代で言えば、どの宗教でも同じようなことを言うことでしょうから、特に新鮮な感じはしないかもしれません。

 しかし、パウロが生きた時代にあっては、このことは大変強烈なメッセージでありました。聖書を信じている民、自分たちが神様に選ばれた民であると、イスラエルの人たちが信じており、そして旧約聖書に記されたたくさんの律法を守ることによって人は救われる、という考え方をユダヤ人がしていた時代・社会です。その中で生きていたパウロが、今日の箇所の言葉を言うときには、ユダヤ人でなくたって、何人であったってなくたって関係なく、すべての人に同じ神がおられる、ということであり、これは革命的な言葉でありました。

 

 それは裏を返せば、というか、別の言い方をしますと、ユダヤ人らしくなって聖書の決まりを守って生きる、ということをしなくても、世界のどの国の人も、神を信じるだけで救われるのだ、ということであります。どんな生活習慣をするか、とか、宗教上の決まりを守るかどうか、ということと関係なく人は救われる、ということをパウロは言っています。

 

 今日の聖書箇所が中心となって、キリスト教の歴史において16世紀のヨーロッパで「宗教改革」が起こりました。そこから生まれたプロテスタント教会というものは、ここにある今日の聖書箇所の言葉から始まった、と言って言い過ぎではないと思います。

 

 今日の箇所に記された、「信仰義認」と呼ばれる考え方、信仰によって義と認められる、ということですが、ここで言われる「義」とは、人間の考える正義という意味ではなくて、神様によって義とされる、神様によって良しとされる、神様に救われる、という意味での義であります。

 

 これは、何かいいことをして、道徳的に善いこと、あるいは正義、そうしたことを行って、神様からほめられるようにして救われる、そういう、自分の行いによる救いではなくて、ただ信じるだけで救われる、ということです。

 

 それは、別の言い方をしますと、どんな罪を犯してきた人間であっても、いまここで、あなたの心が神様に向いて、すべての罪を悔い改め、ゆるしてください、あなたを信じます、ということによって、あなたは今日このときから救われる、という、革命的といってもよいでしょうか、そうした、人間世界の常識とか秩序をひっくり返すキリスト教信仰というものが、今日の箇所に端的に記されているのであります。

 

 心で信じて義とされる。それを口で公に言い表して救われる。なぜここで、心で信じて、というだけではなくて、口で言い表して、とあるのは、それも「行い」ではないか、とも言いたくなりますが、ここで言われてる、口で言い表すということは、その人から神様に向けてそのことを語る、神様にお答えする、ということです。そして人に対しても伝える。そこに、その人が神様のほうを向いて新しく生きていく、ということが現れるわけであります。

 

 神様との関係が新しくされる、そのことの象徴として、言葉にする、口で言い表すということが、ここで言われているのであります。ですからこれは、何か良いことをする、という意味で、言葉で何か良いことを言う、というのではなくて、自らの心の中を表すという意味での言葉を、口で言い表す、ということが言われているのであります。

 

 今日の箇所を読まれて、皆様は何を思われたでありましょうか。プロテスタント教会の信仰の中心である「信仰義認」ということが、ここで言われています。宗教改革者のマルチン・ルターが、今日のこの箇所を通して、神様の真理に近づいた、そのことを知った、そういう箇所であります。

 

 こうした箇所を読むときに私たちは、「信じたら救われる」ということを言われるときに、何を思うか、これは一人ひとりみんな違うのですが、なかなか、その重みを受け止めにくい、ということがあるのではないか、と私は思います。

 

 つまり、心で信じるだけ、とか、口で言い表すだけ、ということであれば、すごく簡単なことに思えるのです。そして、そんな簡単なことで人が救われると言われると、そんなことがあるのかなあ、と半信半疑で聞いてしまうのではないでしょうか。

 

 というのは、人間は生きるためには、何かの行いをしなければならないからです。ただ寝転がっていて、神様を信じたよ、悔い改めましたよ、そう言っているだけで人は救われるでしょうか。そんなことでは、人間の人生は変わらないと思います。やっぱり、何かしなければいけないはずです。飯を食っていくためには、何かしなければならないのではないでしょうか。

 

 どんな立場の人であっても、何かをする、何かにあてはまることで生きていける、何かにあてはめてもらえることによって、何かの立場になる、そのことで生きることができる、この社会において、行いと関係なく、ただ信じるだけで救われるというのは、何かなまけものの理屈にも聞こえますし、あるいは空想的なこと、心の内面だけで人は救われるというような、ロマンチックな、といいますか、人間の心の奥深くには何かがあるんだ、というような、それは深い思想があるのかもしれないけれども、現実生活の中ではピンこないような、そんなことかなあとも思えるかと思います。

 

 そういうことを考え出しますと、頭の中がぐるぐるして、だんだん今日の箇所のことがよくわからなくなってくるのです。それで、今日の箇所を読みながら、私はいろいろなことを思っていたのでありますが、その中で一つのことを思い起こしました。

 

 わりと最近あったことなんですけれども、私はあるとき、ご飯が食べたいと思って、ある中華料理の店に行きました。比較的安い値段で提供してくれるお店であります。その中華料理店に行ったのですが、そこで食べようと思ったら、もう夜で時間が来ていて、あとはテイクアウトしかありません、と書いてありました。いまはコロナ禍なので閉まるのが早いのです。ここで食べられないのか、じゃあ持って帰ろうと思ってテイクアウトを頼むことにしました。

 

 それで、メニューを見ながら考えたのです。天津飯を一つと、それから餃子一つ……とそこまで考えたあとに、メニュー表を見ていると、中華弁当というのがあって、それは天津飯に餃子がついて、それに唐揚げもついて、しかも値段が先ほどの組み合わせと一緒ぐらいなのです。あっ、こっちのほうがいいなあ、と思って、天津飯と餃子、やっぱり中華弁当をください、と言いました。それで、店員さんに頼みますと、店員は「わかりました!」と言って、マイクを持って厨房に向かって、なんて言ったかというと、「天津飯一つ、餃子一つ、中華弁当一つ!」と言ったのです。わかりますか? 全部で二人分頼まれてしまったのです。

 

 私はそんなつもりは無かったのですけれど、店の人がそう言ったあとに、えっ、ちょっと待って、それどういうこと? とオタオタしてしまって、何も言えないうちに奥の厨房でジャーッと作ることが始まってしまって、ああ、もう取り消されない、と思いました。それで結局、できた天津飯と餃子と中華弁当、それら全部を私は持って帰ることになったのです。

 

 その間、ずーっと考えていたのですが、なんでこんなことになったかというと、それは私の口がそう言ったからなのです。確かに記憶をたどってみると、天津飯、餃子、そこまで言ったなあ。そのあとに、そこでメニューを見て、「そうでなくって」というつもりで私は、「やっぱり中華弁当一つ」と言ったのです。けれども聞いていた店員にとっては、私が言う言葉をそのままずっとペンで書いていましたから、私が言った言葉の通りに頼んでくれただけです。

 

 そういうことで、二人分のものを頼んでしまった形になって、それを持ち帰って、結局どうしたかというと、結局全部食べたのです。大変おいしかったです。どうしておいしかったかと言いますと、実はその日、私は献血に行っていたのでした。コロナ問題が大きくなってきてから、私は心に期するものがあって、何か一つ社会に役に立つことをしたいと思って、ときどき献血に行くのですが、献血に行ったあとに力がなくなるので、そのあとに、ちょっとおいしい中華でも食べたいと思って行ったのでした。その日もとてもおいしくいただきました。

 

 えーっと、何の話をしているのでしたっけ、信仰義認の話なのですが、何が言いたいかといいますと、この「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」とある、この言葉を読むときに思ったのです。あの注文をしたときに、確かに私はあの言葉を言ったなあ、と思ったのです。

 

 確かに私が言った言葉なので、その言葉に嘘はないのです。そのことであえて文句を言えば、それぐらいわかってよ、途中で頼むメニューを変えただけなのに、と思うのですが、それを店員はわかってくれなかったのですね。もちろん、私があまり正確に言わなかったからいけないのですが、けれども私がその言葉を言ったことには間違いがない、私が言った、その結果が返ってきたということですね。

 

 そのことを通して私は、言葉って何だろう、と思ったのです。そんな言い間違いの言葉ですら、現実に反映して私のもとにやってくるのです。幸い、全部食べておいしかったから良かったのですが、しかし、そのように良いことというか、笑って済ませられることばかりではなく、言葉というものは、大きな失敗、大きな問題ももたらします。

 

 あのとき言ってしまった一つの言葉のために、人間関係が壊れてしまった、と言う経験が私にもあります。人生を変えることもあります。とりかえしのつかないことだってあります。言葉というものはなんと恐ろしいものでありましょうか。

 

 それと同時に、私たちは、言葉というものを結構器用に使っています。たとえば、お世辞を言うことがあります。お世辞とまでいかなくて、も社交辞令を使うことがあります。その中で、ちょっと見え透いたことを言ってしまったかなあ、と思うときもあります。どうして私たちは言葉で傷ついたり、あるいは器用に使ったり、ということをしているのでしょうか。

 

 それは「人間とは、そんなものだ」といえば、そこまでのことなのですが、そこからさらに思うことがあります。人間というものは、言葉というものを適当に使っている生き物であります。にもかかわらず、神様を信じる、かどうか、ということが問われたときには、えらく真面目に考えますね。

 

 「いやあ、神様を信じるなんて、とても言えませんわ」と、そういう言い方をするときもありますね。「いやあ、私に信仰なんてありませんよ」と、神様を信じていたって、そういうことを言うクリスチャンは一杯いると思います。

 

 ほかのことについては適当に言えるのに、このことに関してはちょっと 「言えない、言えない」、と言う。そこには、神様ということと、言葉というものが密接に結びついていて、そのことに触れるときに、何か人間の心の奥というものにつながっている、そのことは否定できないと思うのです。 

 

 そこに何か、自分の自分らしい何かがあるんだ、と。神様を信じる、ということに何かためらいがある。そこには自分を振り返って、とてもじゃないけれど、自分はそんな人間じゃないんだと。自分はあかんのや、よう知っているんや、私は嘘つきなんやと。あっち行ったりこっち行ったりしているんやと。こんな私が、神を信じているなんて、冗談でもそう言えない、とつながっているわけですね。

 

 そう思う自分を考えてみたときに、なぜそう思うか、というと、やはり人間は「行いによって救われる」と、どこかで人間は考えているのはないでしょうか?

 今まで自分はこんな良いことをしてきた、とか、あのとき人に感謝された、とか、何かの善行を積んできた人間であれば、神を信じているといえるのでしょうが、私はとてもそんな人間ではない、と考えるときには、やはり、人間は行いによって評価される、ということを私たちは骨身にしみてよく知っているのです。それは、この人間社会というものがそうであるからです。あなたがどんな人間であるか、ということに関係なく、どんな行いをしているかによって、人間は人間を評価します。それが社会の基準です。当たり前のことです。

 

 けれども、神様は違うよ、ということが、使徒パウロが今日の箇所で言っていることなのです。神様は違うよ、あなたが今までにどんなことをしてきた人間であったとしても、神様はあなたの心の奥深くを見て下さっているよ、とパウロは伝えているのです。そして、そのことは、世界のどの国に生きてきたとか、どんな宗教を信じてきたかとか、そのような行いによるものではないのです。

 

 今までにどんな良いことをしてきたか、そういうことではないんだ、あるいはどんな悪いことをしてきたか、ということでもないんだと。ここに、一切のことを超越して、あなたという人を救ってくださる、神様の恵みというものがあるのです。イエス・キリストが私たちのところに来てくださる。聖書はそのことを記しています。

 「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」と言うのです。神様を信じている、という言葉は、人間がそれを語るときに、どこか嘘が入っているかもしれません。どこか嘘くさいこと、嘘のようなこと、この私が言ったら嘘になるなあ、という、そういう言葉だと私は思います。そんな、いい加減な、口から出任せのような、私は神を信じます、という言葉であっても、そのことを良しとして、あなたを救ってくださる神様がおられる、ということを、使徒パウロは確信し、今日の箇所で記しているのであります。

 

 お祈りいたします。

 天の神様、日々を生きている私たち一人ひとり、神様によって守られて、今日から始まる新しい一週間を、安心して歩み出すことができますようにお願いをいたします。いろんなことがある中で、人の言葉によって傷つき、また自分自身の言葉によっても傷つく、そのような社会でありますが、その中にあって、私たちの行いではなく、心の奥底を見てくださる神様、あなたに信頼して、あなたに委ねて、新しい人生を送ることができますように、どうぞお導きください。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

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「命を動かせる祈り」 
 2021年10月10日(日)礼拝説教

 聖 書  創世記 1章 14〜31節    (新共同訳より抜粋、改行して配置)

 
 神は言われた。

 「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、

  日や年のしるしとなれ。      
   天の大空に光る物があって、地を照らせ。」

 そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、

 大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。

 

 神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、

 昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。

 

 神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。

 

 神は言われた。

 「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面(おもて)を飛べ。」

 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、

 また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。

 

 神はこれを見て、良しとされた。

 神はそれらのものを祝福して言われた。

 「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」

 夕べがあり、朝があった。第五の日である。

 

 神は言われた。

 「地は、それぞれの生き物を生み出せ。

  家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」

 そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、

 それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。

 

 神は言われた。

 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。

  そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」


 神はご自分にかたどって人を創造された。

 神にかたどって創造された。

 男と女に創造された。

 

 神は彼らを祝福して言われた。

 「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、

  地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

 

 神は言われた。

 「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、

  すべてあなたたちに与えよう。

  それがあなたたちの食べ物となる。

  地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものに 

  はあらゆる青草を食べさせよう。」

 そのようになった。

 

 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。

 見よ、それは極めて良かった。

 夕べがあり、朝があった。第六の日である。

 

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(以下、礼拝説教) 

 

 京北教会では半年ほど前から、毎回の礼拝において、マルコによる福音書とローマの信徒への手紙を交互に読み、それに最近は旧約聖書も加えた3箇所を順々に読むことで、聖書のメッセージを深く聴いていきたいと願い、そのようにしています。今日の箇所は、旧約聖書の創世記1章13〜31節です。

 

 前回の旧約聖書のときには、創世記の1章1節から12節までを読みました。そのときには、いわゆる天地創造・人間創造と呼ばれる物語、全部で一週間でこの世界が神様によって造られた物語の、1日目から3日目まででした。そして今日の箇所は、天地創造の4日目から6日目の所に当たります。

 

 1日目から3日目までの所では何が創造されたかというと、1日目は、神様がまず「光あれ」と言われて光が創造されました。その次の2日目には、「大空あれ」と言われて空が造られました。その次の3日目には、陸地と海が分けられました。そのあとで陸地には植物、草木が生えさせられました。

 

 神様はそのように世界を造られた、ということが神話的な物語の形で記されていました。そして、まず光、次に大空、そして陸地と海が分けられたとありました。そして世界が造られてきて、今日の箇所から4日目に入ります。

 

 順々に見ていきます。「神は言われた。『天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。』」

 

 天の大空に光るものがある。それは昼と夜を分ける。そう言われると、これは太陽のことが言われていると思います。そのあとにこうあります。「そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。」これを読むと、大空に光るものは一つではなく二つあり、それらは太陽と月であったことがわかります。

 

 「神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。」とあります。 

この時代には、夕日が沈むときが一日の区切りでした。そのことがこの文章にも反映しています。

 

 天地創造の物語では、1日目、一番最初には「光あれ」と言われて、光が神様によって創造されたとあります。そのときには太陽も月もなかったのです。まず光というものがあった。そして,そのあとに大空が造られ、そのあとに陸地と海が分けられ、そのあとに太陽と月と星が造られたことになります。

 

 この天地創造の物語を順々に、厳密に見ていきますと、あれ、おかしいな? と少し不思議に思う方もあるかもしれません。最初に太陽があったわけじゃないのか。この地球が先にできてから太陽や星ができたのか……と考えると、これは、私たちの知っている科学の知識と矛盾することになります。その通りです。聖書のこうした物語は、科学的な事実を記しているのではなくて、神様への信仰ということを一番の中心に置いて、この世界の成り立ちというものを考えたときに、このような物語になってくる、ということであります。

 

 まず最初に太陽があって、そこから全てがそこから生じた、という「太陽信仰」ではなくて、神様が先におられて、神様の光というものがあって、そのあとに太陽と月が造られた、という所には、世界各地にある太陽信仰、あるいは月への信仰、あるいは宇宙・天体の動きというものに神を見いだす考え方とは違う、聖書の信仰が、ここに記されているということです。

 

 その次の部分に行きます。「神は言われた。『生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面(おもて)を飛べ。』」生き物として最初に造られたものは、魚など水の中に生きるもの、そして鳥でありました。

 

 最初に造られた生き物は、水の中の生き物、そして鳥でありました。

 

 「神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。』夕べがあり、朝があった。第五の日である。」

 

 ここにあるように、生き物が水の中に、と書かれているのは魚や水生の生き物を指しています。そして鳥は、地上のはるか上を飛ぶ生き物として記されています。世界で最初に生まれた生き物は、魚、そして鳥。そのように記されています。生物の進化の順番を考えたときに、最初にこうした水生の生き物が生まれたことなどの、こうした記述が科学的な事実と合っているかどうか、ということを考えることもできます。しかし、私自身は、創世記の物語について、科学的な歴史との関係はほとんど考えることはありません。それは、先ほど申し上げたように、聖書は科学の物語ではなく、神様への信仰を真ん中に置いて世界の成り立ちを考えて記された、信仰の書だからであります。

 

 生き物としては最初に魚、そして鳥が造られた。その次にこうあります。

 「神は言われた。『地は、それぞれの生き物を生み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。』そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。」

 

 ここで地上の様々な生き物が出てきます。家畜が出てきます。這うものとは蛇、そして昆虫も指しているのでしょうか。ここでおもしろいのは、最初から家畜と言われていることです。まだ人間が造られていないときから家畜がいるのです。そして、これらの生き物を産み出したのは、神様ではなくて、地、土というものが、生き物を産み出すと書いてあります。神様ご自身が造り出されるのではなく、神様が造り出した土、地という所から生き物が生み出されてきたということが書いてあります。

 

 その次の部分ではこう言われています。

 「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、

  空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』」

 

 ここで神様が人間のことを語っておられます。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」とあります。神様はお一人のはずなのに、なぜ「我々」という言葉が使われているのでしょうか。このことは聖書学者の研究によれば、いくつかの考え方、説があるようです。

 

 まず、昔の王様が語る言葉の形式として、「私」ではなく必ず「我々」という王様の語り方があったそうです。それは自分が語る言葉に力を付けるために、王様だけが自分を指して「我々」と威厳を持って語ることができる、という習わしがあったようです。その表現にならっているという考え方があります。その他の考え方としては、元来は神様はお一人と考えるのではなく、言わばギリシャ神話のようにたくさんの神々がいる、多神教的というか、そういう考え方が古代にされていた名残であるとも考えられます。

 

 そういう様々な説があるのですが、ここでは、お一人の神様が「我々」という言葉を用いてこのように言われた、と受け止めて行きたいと思います。神様が二つ三つと複数の存在をしているというわけではなく、神様が造られた世界全体の中にあって、神様ご自身が「我々」という言葉でご自身を表現されたということであります。

 

 「『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』」こうして、世界全体を治める者として、神様にかたどられた人間が創造されました。

 そのあと、こうあります。「神はご自分にかたどって人を創造された。/神にかたどって創造された。/男と女に創造された。」

 

 ここで人間は、神様から「男と女に創造された」と表現されています。先ほど申し上げた、この聖書箇所での「我々」という表現は、この「男と女に創造された」という言葉に重ね合わせると、「我々」とは「男と女」を含むものとして表現されている、と理解することもできるかもしれません。

 

 そして言われます。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」神様はご自身が造られたこの世界全体を治めるものとして、ご自身にかたどったものとして人間を造られました。

 

 そのあとこう言われます。
 「神は言われた。『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。』それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。』そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」

 

 この六日目の一番最後に、神様は人間を創造するのに先だって、地に生えさせられていた、種を持つ実を付ける木、そのすべてを人間に与える、そしてあらゆる生き物がその植物を食べて生きることができる、とあります。そのように神様はしてくださったのであります。

 

 こうして、この世界というものができあがったのです。この次の第七の日は、神様がすべてのことを終えて安息をされる日であります。今日、私たちはこの日曜日に教会で礼拝をしています。その根拠は、神様が7日目に安息されたことにあります。

 

 こうして天地創造の一週間の後半の部分を、今日は皆様と共に読みました。この箇所から皆様は何を思われるでありましょうか。

 

 この箇所を読むときに、私は思い起こすことがあります。それは私が親戚のある一人の青年としゃべったときのことです。

 

 私の家族関係で新しくできた親戚の、一人の青年とお話したときに、私は牧師をしておりますので、キリスト教のことが話題になったのです。そのときに彼は、こう言いました。「聖書を読んでみたのですけれど」と話し出しました。そして、聖書の最初の部分、つまり創世記の本日の箇所を読んだそうです。

 

 神様がこの世界を造られた、と天地創造・人間創造の物語が書いてある所を読んだのです。しかし、その箇所に書いてある言葉に彼はつまづきました。人間が、この世界の生き物を「支配」するということはおかしいじゃないですか、と私は言うのです。人間がこの世界をダメにして、世界中の生き物をダメにしていっているのに、人間がこの世界を「支配」するという考えはおかしいじゃないですか、と言われたのです。

 

 皆様も、そうした論調というか、そうした話は、テレビや新聞の論説や何かの本などで、どこかで出会っているかもしれません。それはつまり、ヨーロッパやアメリカにおけるキリスト教文明というものが、世界で公害を生み出し、自然破壊をして地球をダメにしていっていると。だから、東洋の知恵である、自然と一緒に生きていくことが大切だと。たとえば日本において、日本人は自然と共生してきた、それが正しいんだ、それはキリスト教文明にはない発想だ、という言い方で「なんと日本は素晴らしい国か」と言われる、そんな言い方がされるときがあります。

 

 そうした考え方は、日本だけで言われるているだけではなく、実は、アメリカ・ヨーロッパのキリスト教神学の世界でも、それと同じことが言われています。開発優先の世界観、つまり人間がすべての王様になってこの世界を治めていく、という考え方が傲慢なのではないか、という考え方であります。それは、この現代社会において過去を振り返って反省するときの言葉として、そこには貴重な、大切な視点があります。

 

 しかし、だからといって、この聖書の1ページ目、いや2ページ目に書いてある、人間に世界の生き物を「支配させよう」という聖書の言葉は、良くない言葉なのでしょうか?

 

 私は親戚の彼からそのように言われたときに、「う〜ん」と考えて、次のように言いました。「言ってることはわかるし、その半分ぐらいは正しいと思うんやけど、でも、考えてみて。今からはるか昔の人類にとって、自然ってどんなもんやったと思う?」

  「住むところもない、食べるものもないよ。どうやって生きていく? 自分よりもはるかに強い獣が襲いかかってくる時代、ない、襲いかかってくる動物をどうやって殺してやっつけて、どうやって自分たちの住むところを確保して、住む所を作って、着るものを作って、この世界を、この土地を変えていく。そのときに、この裸の人間、弱い人間がどうやって生きてきたと思う? 一生懸命に武器や道具を作って、動物を殺して、そうやってやってきた、それが元々の人間やで。」

 「その、何の力もないような弱っちい人間が、この世界の中でブルブル震えながら生きていくだけではなくて、しっかり生きていこうと思ったときに、どんなことが必要やったか、というと、ここの聖書に書いてあるようなことなんちゃうかなあ。つまり、人間は弱い、本当に弱い。けれども、この地球にあって、この地球全体を治める役割を神様から与えられている。だから、しっかりと生きないとあかんのや。しっかりと自分の生活を立てて、植物はちゃんと畑に種をまいて、みんなが食べられるだけのご飯を作って、そうやって世界を造り替えていかなかったら、人間は生きてこられなかったんやで。」

 

 ……そんな話をしました。

 

 古代の人間、かつての時代の人間にとって、自然は恐怖でした。自然は、人間にとって巨大な敵と言ってもいいものだったはず。その中で人間はどうやって生きていくのか。流浪の民としてあちこちを回り、飯を食っていけないときは食っていける所にたどり着くまで、自分の生活を守って生き延びようとしてきました。その中でチャンスをつかんで、つまり良い土地に出会ったら、そこに定住して、そこを自分たちの領分として、そこから野生の生き物を追い払い、その土地を人間が生きる世界に造り替えていったのであります。長い長い人類の歩みとはそういうものでありました。

 

 創世記の物語は、まさに人間の原初の姿は、そういうことなのだ、ということを示しています。だから、自然を「支配させよう」という神様の言葉は、自然を破壊してもいいよ、という傲慢なことを言っているのではなくて、圧倒的に弱い人間たちに対して、「いや、あなたたちこそが、この世界を治めるために、神様から役割を与えられているのだ」という、人間に使命を与える物語であったと。私はそのように説明しました。

 

 それを聞いた彼は、「まあ、そう言われたらそうですね」と言ってくれました。私はうれしかったです。その私の説明の仕方が、本当に正しいかと言われたら、自信はありません。しかし、聖書というものは、必ずしもこの現代という時代の中だけで読むのではいけない、と私は思っているのです。現代という、この狭い世界の中だけで、聖書のこの箇所がおかしい、ここがわからない、とばかり言っているならば、私たちは、神様から人間に対する大切なメッセージを聞き逃してしまうのではないか、と心配します。

 

 今日の箇所において、神様はこの世界と人間というものをお造りになられた、その物語に込められているメッセージを少し垣間見ることができたのではないでしょうか。この箇所の中には、神様が命というものをお造りになられたことが記されています。魚も鳥も動物も人間も植物も、そしてこの地球全体も、また光とか大空という、形ないものですら、それらはすべて神様が造られた。そして、それらに、動きというものを神様が与えられたのです。ここには神様の御心があり、その御心を受け止めて私たちは生きています。

 

 この神様によって支えられるときに、私たちは、神様が動かしてくださる命である、自分自身がそうである、ということを知ります。そして、その神様に信頼して祈るときに、私たちの祈りは、神様が命を動かしてくださるのと同じように、私たちもまた神様によって用いられて、命を動かすものとなります。

 

 生きるために、また、命を守るために、この世界にあって、決して傲慢にふるまうためではなく、お互いを守り、支え合って生きるために、私たちは与えられた命を動かしていくことが、祈りの中でできるのであります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、私たちが日々与えられている恵みに感謝いたします。どうか、この世界の中にあって、自らの小ささ、弱さ、愚かさを思い知るときに、イエス様が共に来てくださり、そして神様の御言葉によって力づけてくださることを信じ、今日から始まる新しい一週間を、どうぞ導いてください。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げします。アーメン。

 

 

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「ひとつの時を永遠として」 
 2021年10月17日(日)永眠者記念礼拝説教

 聖 書  マタイによる福音書 26章 6〜13節(新共同訳)
 

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 さて、

 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、

 一人の女が、

 極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、

 食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。

 

 弟子たちはこれを見て、

 憤慨して言った。

 「なぜ、

  こんな無駄遣いをするのか。

  高く売って、

  貧しい人々に施すことができたのに。」

 

 イエスはこれを知って言われた。

 「なぜ、

  この人を困らせるのか。

  わたしに良いことをしてくれたのだ。

  貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、

  わたしはいつも一緒にいるわけではない。

 

  この人はわたしの体に香油を注いで、

  わたしを葬る準備をしてくれた。

 

  はっきり言っておく。

  世界中どこでも、

  この福音が宣べ伝えられる所では、

  この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」



 (以上、新共同訳より抜粋し、改行して配置)

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(以下、礼拝説教) 

 

 本日は京北教会の永眠者記念礼拝のときを迎えました。皆様にお配りしている京北教会の永眠者名簿に掲載している一人ひとりの方々を追悼し記念する、そしてまた、ここに掲載していない様々な方々、先に天に召された私たちそれぞれの関係の方々、そうした方々のことも覚えて、神様に感謝を献げ、皆様と共にこの一時を過ごすことを願っています。

 

 本日の聖書の箇所は、マタイによる福音書26章からであります。ここには、捕らえられて十字架にかけられて死を迎えるその少し前の時の、イエス様のお話が記されています。

 

 このとき、十字架の死が近づいているということを知っていたのは、イエス様ご自身だけでありました。他の人たちはそのようなことは思っていなかったのです。この場に登場する他の人たちは、そのようなことは知るよしもなかったでありましょう。その場において起こった出来事が記されています。順番に読んでいきます。

 

 「さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。」と最初にあります。

 

 香油というのは、良い香りのする木の皮、樹皮、そうしたものを油に漬けて良い香りを着けたものであり、とても貴重な高価なものでありました。そして、香油を頭に注ぎかけるという、この行動が持っている意味は、聖書によると、それは古代のイスラエルの時代において、王様が即位する式で行われたことであったということであります。ということは、ここでこの名前が記されていない一人の女性が、イエス様の頭に香油を注ぎかけたというのは、イエス様が王になる、あるいは、それと同じようにこの女性がイエス様に対して敬意の心を表していることだったと思われます。

 

 しかし、その次には、「弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」」とあります。

 

 貴重な高価な香油、それはおそらくその香りを嗅いだだけで、あっこれはとても貴重な高価なものだとわかるような香りだったのでしょうか。弟子たちは、この行為を見て憤慨したのです。こんなふうにイエスの頭にかけてしまったら、もう香油が流れてしまって、もう一度使えないじゃないか。他のことで使えないじゃないか、いったい何のためにこんな無駄なことを、と怒ったのであります。

 そして、そのときに引き合いに出したものが、こんなことをしなければ高く売って貧しい人々に施すことができたということであります。この貴重な高価な香油を売れば高く売れる、そして貧しい人々に施す、それは人の命を大切にすることであり、社会に貢献することでありました。

 聖書によると、その頃のイスラエルの人たちは、そうした施しということを非常に大切にしていたようであります。それはそのことが神に対する信仰の証しであり、そしてこの地に共に生きる人たち、地域にあって共に生きる人たちへの一つの福祉の行いでありました。

 

 信仰の表れであり、社会の福祉である、そうしたことをすることができる、にもかかわらず、それをせずに、このようにイエスの頭に香油を注ぎかけて、流してしまった、もう元に戻すことができないように流してしまった、ということに弟子たちは怒ったのであります。

 

 その状況の中でイエス様が言われました。
 「イエスはこれを知って言われた。『なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。』」

 

 この「わたしはいつも一緒にいるわけではない」という、この言葉は、イエス様ご自身が十字架の死が近づいていることを知っておられたことを示しています。私が皆さんと一緒にいるのは、あと少しなのだ、私はいつも一緒にいるわけではないのだ、とご自身のことを語っておられます。

 

 それに対して、「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」と言われております。社会において貧困の問題、それは解決することがなく、ずっと続いていく問題なのでありましょう。もちろん、そのように考えることは、うれしいわけはありません。社会が変わっていけば、いつか貧困がなくなる、誰もが普通に食べて普通に生きられる世界が来る、そのように信じたい、そのようように願う、それは人間として誰しもの思うことであります。一方で、人類の歴史は、今までにそのような敢然な社会というものは一度も作り出すことができなかった、ということを示しています。

 

 問題は常に、私たちのすぐそばにあります。そこで何をするのか、一人ひとりが問われています。あせって何かをしたところで、社会が変わるわけではありません。人間のいろいろな矛盾というものを抱え込んで誰もが生きています。その中で様々なことを考えながらそれぞれに生きていく、それが人間の世の中であります。

 

 それに対して、イエス・キリストはそうして、いつも目に見えて一緒にいるわけではありません。いつも目に見える形で、私たちと共にいるわけではないのです。

 

 その後、イエスが仰いました。
 「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。」

 

 香油というものは、様々な用途がありました。王様が即位する儀式のときにも使われますが、死んだ人間のなきがらに香油を塗ることによって、その人に敬意を表し、また防腐処理の意味もあったようであります。そうして香油というものは、様々な使い道があったようですが、このとき、イエス様はご自分に注ぎかけられた香油の意味を、これは「私を葬る準備」だと解釈して、語ってくださいました。

 

 その後に言われました。

 「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

 

 この福音、それはイエス・キリストが語る、良き知らせということであります。福音という言葉は良き知らせ、良い知らせ、ということを意味する言葉です。そのイエス・キリストの語る、良き知らせとは何かというと、それは、四つの福音書に記されていますように、「神の国が近づいた」ということであります。神の国、それは神様の恵みが満ち満ちている空間・時間、それがこの私たちが今生きているこの世界に近づいてきた、ということであります。それは単に近づいてきただけではなくって、イエス・キリストの言葉と行動を通して、そのイエスが歩いた所に、その神の国が見えない形で、すでに現れているというのが、福音書に記された信仰であり、聖書の信仰であり、今日の私たちのキリスト教会の信仰でもあります。

 

 神の国というものは、目に見える形では来ません。「ここにある、あそこにある」ということはできません。「それは、どこにあるのか」と問われるとイエスはこう答えました。それは「あなたがたの間にあるのだ」と。人と人との間にあるのだ、あるいは、人の世界の中にあるのだと、イエス様は福音書の他の箇所で教えておられます。それは目に見えない、しかし、すでに私たちの所に来て、始まっている、その神の国が来た、近づいた、という、その知らせがイエス・キリストの福音、良き知らせということであります。

 

 その福音を知らせるために、初代の教会は残された弟子たちが中心になって伝道者を生み出し、当時の地中海沿岸を中心とした様々な地域へと、イエス・キリストの福音を伝えました。そして今日では、世界中に伝えられています。そしてキリスト教が伝えられる所では、必ず今日の、この福音書の物語も読まれ、語られ、聞かれ、そして、その中で今日のこの言葉が世界中で語られているのです。

 

 「世界中どこでもこの福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

 

 現実の問題としては2000年前の中近東、パレスチナ地方の片隅でのある家で起きた小さな小さな出来事でしかありません。しかも、その出来事は、いったい何のためにしたのかということが不明な行動です。それをした女性の名前すら記されてありません。何もかも意味不明に思えるような、この出来事、しかしその出来事が、この福音が宣べ伝えられる所では、記念として語り伝えられるとイエス様はおっしゃいました。なぜ、それほどまでにこのことが大事だったのでありましょうか。

 

 聖書がこうした言葉を語るときに、私たちはこの物語の前でいろいろに考えます。いろいろに思いを巡らします。その中で一人ひとりに、神様からの答えが与えられるのであります。ですから、一つだけの答えはありません。みなさんそれぞれに示される答えがあるでしょう。その中において、今日、私は私が感じたことをお話させていただきます。

 

 今日の聖書箇所において、この一人の無名の女性は、イエス様の頭に香油を注ぎかけました。このことを見ていた弟子たちは怒りました。なぜ怒ったのか、それは、取り返しがつかないからであります。もし、香油を持ってきて、その香りを部屋にちょっと漂わせる、あるいは充満するようにする、それぐらいだったら良かったのだと思うのです。まあ、それでも弟子たちは怒ったかもしれませんが、それでも、香油を無駄にすることはなかったわけです。けれども一度使って床に流してしまったら、もう使えないではないか、もう元には戻らないことをした、そのことに対し、見ている人たちは怒ったのであります。しかし、イエス様はそういう女性を守ってくださいました。

 「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。」このようにイエス様がおっしゃったとき、今ここでみんながこの部屋で出会っている、この場面において、出会っている、このことは今だけのことなんだ、もう2回目はないんだ、ということを意味しているのであります。

 

 2回目はないのです。2回目がないから弟子たちは怒ったのです。もうここだけで終わりじゃないかと。しかし、2回目がないからこそ、この女性はこうしたのだと、イエス様をおっしゃってくださいました。このことが、本当にこの女性の気持ちにとってぴったりくる言葉であったかどうかは分かりません。むしろ私は思います。それは違っていたのではないかな、と。この女性は、理由は分からないけれどもイエス・キリストに対する敬意あるいは敬愛の心を示すために、最大限のことをしたのではないかなと思います。

 

 それは弟子たちから見たときには不愉快なことだったことは想像がつきます。けれども、この女性が何を思っていたか、という内面とは直接の関わりなくイエス様が宣言してくださいました。
「この人は私はの体に香油を注いで私を葬る準備をしてくれた。」

 

 この女性が内面で何を思っていたかということと関わりなく、この人のしたことが大きな大きな出来事へと変えられたのです。人間が目に見たときには同じ事です。頭に香油をかけた、言わば無駄遣いした1回だけのことをした、二度と帰ってこないことをしてしまった、しかしそれはイエス様によって、この時は今しかない、二度とない時なのだと言われることによって、意味を持ったのです。

 

 こうして、この一人の人がしたことの意味が支えられて、それは死を前にした時に人がとるべき一つの行動のあり方として、今日の私たちにメッセージとなったのであります。

 2回目はない、ということは私たちの人生にとって真実であります。表面的には二度も三度もあること、そういうことはたくさんあります。毎日毎日同じようなこどか繰り返されているのでしょう。私たちの生活、仕事、人間関係、自分の心の中、同じことをぐるぐるぐるぐる思っています。似たようなことをやっています。その中でやっぱり無駄遣いもするのです。自分では、これこそはと思ったことが、なんやこれ、と人から叱られて、そして腐ってしまいます。

 

 そうなんです。今日の箇所に記されているこの一人の女性、名前が書いてありませんから、この女性の名前に、自分の思う名前を入れてくださって構いません。自分自身をここに入れてくださって構いません。ここに書かれているのは、自分が何かをしたいけれども、何をしたらいいかわからなくて、それで精一杯のことをして、人から叱られる、一人のちょっと辛い所に置かれた人であります。しかし、その人の思いはイエス様によって、確かに聞き届けられました。

 

 その時のイエス様の言葉は、後で振り返ってみたときに、決して楽しい言葉とは言えません。「この人は私の体に香油を注いで、私を葬る準備をしてくれたのだ。」

 

 これは死を前にした言葉です。これは寂しい言葉だ、そのように考えることもできます。けれども死を前にしたこの時に、イエス様は言葉のユーモアというものによって、この女性を救ってくださいました。言わば、こういうことなんだ、とイエス様がおっしゃることによって、最も無駄遣いと思われたことが、最も素晴らしいことになったのです。

 

 人の死を前にしたときに、いろいろなことの意味が180度転換することがあります。私たちは今日の永眠者記念礼拝において、天に召された私たちそれぞれの家族や先輩、友人、様々な関係者の方々のことを思い起こしています。一人ひとり、自分が接しているときにベストを尽くせていたかどうかと思うときに、後悔していることもあるかもしれません。

 

 もっとこうしてあげたら良かった、とか、もっとこのことを理解しておけば良かった、と思うこともあるでしょう。けれども、どんなことがあったとしても、そのときそのとき、自分が一生懸命にした、そのことの意味を神様が変えて下さる、神様の御心にかなったように受け止めてくださる、そのことは世界中でキリスト教が宣べ伝えられるどこの所においても、大事なことである、だからそのことがこの箇所に記され、今日もまた世界中において宣べ伝えられているのであります。

 

 私たちにとって、死者を追悼するということは常に、どこか不十分な気がすることであります。心がか細くなる、これでいいのだろうか、心が寂しくなる、そうした思いにかられることもあります。しかし、できる限りのことをする、2度と戻ってこないことを今この時している、その時に私たちのなしている、つたない礼拝が神様に愛され、祝福され、用いられるのであります。2度と戻ってこないことをする、そのことにおいて私たちは死者を追悼し、私たちの全存在を賭けて、天に召された家族を愛し、そして残された人生を全うしていきたい、そのように願うものであります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、今日集われた、お一人おひとり、そして今日集えなかった方々、それぞれの場にあって祈ってくださっている多くの方々、そして今は天におられるお一人おひとりの先輩方、家族、関係者の方々と、この礼拝においてつながって一つとなり、そして皆ともに神様に愛されて、残された生涯を歩んでいくことができますように、どうか導いてください。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。
 アーメン。

 

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「大切なことが聞けますように」 
 2021年10月24日(日)礼拝説教

 聖 書  ローマの信徒への手紙 10章 14〜18節  
                                                                       (新共同訳、改行して配置)

 

  ところで、信じたことのない方を、

  どうして呼び求められよう。

  聞いたことのない方を、

  どうして信じられよう。

 

  また、宣べ伝える人がなければ、

  どうして聞くことができよう。

  遣わされないで、

  どうして伝えることができよう。

  「良い知らせを伝える者の足は、

   なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。

 

  しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。

  イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」

  と言っています。

  

  実に、信仰は聞くことにより、しかも、
  キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

 

  それでは、尋ねよう。

  彼らは聞いたことがなかったのだろうか。

  もちろん聞いたのです。

  「その声は全地に響き渡り、

   その言葉は世界の果てにまで及ぶ」
    のです。

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(以下、礼拝説教)
 

 最近の京北教会では毎週の礼拝において、聖書の中からマタイによる福音書、ローマの信徒への手紙、旧約聖書、この3箇所から順番に選んで読んでいく形で、礼拝をしています。本日の箇所はローマの信徒への手紙10章からです。

 

 ローマの信徒への手紙は、使徒パウロが書いたたくさんの手紙、それらは新約聖書にたくさん納められておりますが、その中で一番最後に書かれた手紙が、このローマの信徒への手紙であります。手紙という名前が付けられておりますが、実際には一つの神学論文、あるいは一つの長い説教として書かれています。

 

 その中で、様々なテーマが扱われています。今日の箇所も、その長い手紙の中の一部分であります。ここでの大きなテーマとしては、聖書を受け継いできた、また語り着いできた、“聖書の民”であるイスラエル(ユダヤ)の人たちが、なぜ聖書の神様、本当の神様から離れて偶像崇拝に陥ったのかということがあります。そして、その人たちが昔の時代だけではなくて、パウロが生きた時代にもまた、本当の神様からの語りかけに耳を傾けることができていないのか、ということを、大きなテーマとして扱っている箇所であります。

 

 そして、このテーマは、さらに考えてみますと、ユダヤ人の人たちの不信仰というだけではなくて、世界中の人間にとって、人間がその神様を本当の意味で信じることができていないままに生きている、それはなぜだろうか、なぜ人間は本当に神様のほうを向いて、生きていくことができないのだろうか、という、非常に大きなテーマにつながっているところであります。

 

 聖書が記しているところによると、この世界というものは、神様がお造りになられたもの、創造されたものであり、人間もまたこの世界のなかで神様によって造られたものであります。ですから、この造られた世界の中で人間が、神様に感謝し、神様をたたえ、神様を信じて生きていくことは当然のはずなのであります。

 しかし、実際のこの私たちが生きている世界を見ますと、ちっともそうはなっておらず、神に逆らい、そしてそのことによって人間は、自分自身を神のごとくに考えて、人間自らがこの世界の主人としてふるまうことによって、たくさんの問題を引き起こしています。

 

 人の中に位(くらい)を作って差別している、そして他の人間を殺してその犠牲の上に立って、自分を守ろうとする、まさに人間の欲望、権力欲、そうしたものが世界を覆い尽くしているようであります。そして人間は戦争を引き起こし、差別をします。自分のために富を蓄積し、貧しい人を放っておきます。そうした人間の自己中心的なありさま、その根底には神様を信仰することのない、神様への不信仰ということが一番の問題としてある、ということを聖書は私たちに対して、指摘をしています。

 

 いったいなぜ、そうなっているのでしょうか? 神様がこの世界をお造りになられた、人間を創造されたにもかかわらず、なぜ、そうなのかという疑問があるのです。そして、その疑問の中にあって、今日の箇所にはユダヤの人たちが、聖書の言葉を与えられていたが、まことの神様への信仰から離れていったのか、という疑問に応える形で書いてあります。

 

 このことを、ユダヤの人たちだけの問題として受け取るのではなくて、いま現代社会を生きている私たち一人ひとりのこととして受け取らなくてはなりません。

 

 では、今日の聖書箇所を順番に見ていきます。

 まず「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。」

 

 今日の箇所は、「ところで」という言葉で始まっています。この言葉の前には、神様の救いの素晴らしさが書かれているところであります。行いによって、つまり何かの良いことをすることで神様に認められることによって救われる、ということではなくて、どんな良い行いがなくても、神様を信じる、というときに、その人の民族・国籍やあるいは今まで何をしてきたか、どんな良いことをしてきたか、悪いことをしてきたか、ということと関係なくどんな人でも救われる、ということが、今日の聖書箇所の直前のところに書かれているのであります。

 

 神様の救いというのは、100%素晴らしいのだ、そういう意味のことを語って、その次に今日の箇所があるのです。そこから、「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう」と言うのです。つまり、もともと神様を信じていない人間が、神様を呼び求めるはずがない、ということです。

 

 次にこういいます。「聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして伝えることができよう。」と言葉が続いていきます。ここにある言葉、順々に書いてありますけれども、つまり人間というものは、放っておいても自然と神様を信じたりする、ということはないんだ、ということがここで言われています。

 

 誰かから聞いたから、誰かから神の言葉を聞いたから、そこで信じるのだとすれば、その、“誰か”という存在がなければ、その“誰か”がいなければ、遣わされていなければ、神の言葉を聞くこともない、そうしたことが言われています。

 

 そしてそのあと、旧約聖書イザヤ書の52章7節の言葉が引用されています。「『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです。」ここには、神様の救い、神様の御言葉を伝える人の足はなんと美しいことか、という言い方をすることによって、伝道ということの素晴らしさが書かれています。

 

 誰かが、神様から遣わされて聖書の言葉、神の言葉を聞かせてくれたから、だから、神を信じることができたんだ、そういうことがなかったら、いったい誰が、自然に、何にも無くてただ神様を信じることができるのでしょうか。

 

 そんなことはできません、ということを使徒パウロはここで言っています。伝える人が必要だということを言っているのです。

 

 そのあと、こう言います。「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っています。」ここでの言葉はイザヤ書53章1節の言葉が引用されています。一生懸命に語ったけれども、誰も信じてくれなかった、そういうことがありました、というイザヤの言葉を引用して記しています。

 

 ここには、伝道者である使徒パウロの実感がこめられています。私は一生懸命にイエス・キリストの言葉を語ってきました、けれども、みんながみんな、私が伝えてきたことを信じてくれたのではないのです、という、そのパウロの実感がここにこめられています。聞いたからといって100%信じてくれるわけではなく、むしろ、信じてくれる人のほうが少ないのだ、そのパウロの思いが伝わってきます。

 

 そのあとにこう言われます。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

 

 ここで言われているのは、単に、聖書の言葉を「耳で言葉として聞きました」というような、軽い意味で聞くということではなくて、キリストの言葉を聞く、つまり、神様が遣わされた救い主の言葉を本当に聞いていく、これはキリストの言葉だ、私のための救いの言葉だ、と思って受け取る、そのところから始まるのだ、ということが言われています。

 

 単に耳で聞いて、聖書の言葉を、たとえば録音で流して、それを世界の人がみんな聞いたとしても、それでみんながみんな、神様を信じたりするわけではない、そういうことではなくて、これは直接には人が語っていることなのだけど、人が語っている言葉の、その背後に、主イエス・キリストがおられると信じて、キリストの言葉として聞くときに、信仰というものが始まる、ということが言われています。

 

 次に行きます。「それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。『その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ』のです。」ここには、詩編19編5節の言葉が引用されています。神様がこの世界を造られ、そしてその世界に神様の声が響いている、そういうことを示している言葉です。

 

 神の教え、あるいは、まことの神様の言葉から離れている人たちは、聞いたことがなかったのだろうかといえば、そうではなくて、神の言葉を聞いているのだと言います。それは、神様が造られた、この世界の中に生きている限り、必ず、この世界の自然や、世界の中に起こる出来事を通して、神様の御心を聞いているはずだ、と使徒パウロは言うのです。

 

 こうして、今日の聖書箇所はここで切らせていただいています。この前後に、パウロが主題としている、なぜ人間は神様を信じることができないのか、なぜ人間は、神様に逆らって生きていくのか、なぜ聖書の言葉を聞いていてもそうなるのか、という大きな課題があります。

 

 今日の聖書箇所を読んで皆様は何を思われるでありましょうか。短い言葉でありますし、何を思ったかというのははっきりしない、という方も多いかもしれません。今日の箇所を読みながら、私が感じたことは、ここに書いてあることは、まず、伝道者であるパウロの実感がこめられているということであります。

 

 神様とはどんな御方なのか、ということを人に伝える伝道者というものがなかったら、人は神を信じたりするはずがありません。パウロはそう考えています。パウロ自身が非常に苦労して地中海沿岸各地をまわり、いろいろな方たちと出会って、いろいろな町を巡り歩いて、その町にある教会、それは今の私たちがイメージするような教会の建物がある教会ではなくて、どこかの少し広い家にいろいろな人が集まって、イエス様を信じて神様を礼拝している、そういう教会です。

 

 その教会を、使徒パウロが巡り歩いて、イエス・キリストの福音を宣べ伝えていた、その時代にあって、伝える人というものがなかったら、信仰というものは伝えられているはずがない、という、パウロの実感が、ここにこもっています。

 

 しかし、伝えても伝えても、信じる人は決して多くない、という、その事実にもぶつかります。そして、パウロ自身が、様々な人からいろいろな問いを受けていました。あなたの信じている神様というのは、本当の神様なんですか? あなたの信じていることは本当に正しいことなのですか? そのように、パウロ自身が人々から問われていたのでありましょう。そうした伝道者の思いというものが、今日の箇所から伝わってきます。

 

 今日、現代の日本社会に生きている私たちにとっても、本日の聖書箇所は大きな意味を持っています。キリスト教が主張していることが正しいのであれば、もっと世界中の人がキリスト教を信じるようになるはずですけれども、そうなっていないのは、なぜでしょうか。そういう問いをすることができます。神様がこの世界を造られたのであれば、みんなが神様を信じるはずですが、そうなっていないのはなぜですか。そのように問われるときに、私たちはなんと考えたらいいでありましょうか。なかなか、答えにくいことであります。

 

 また、世界中にはたくさんの宗教が、それぞれの地域に根ざしてあります。どれも正しい気がします。どうしてキリスト教だけが正しいのでしょうか。あるいは、たくさんの宗教の中で、どれが一番正しいのでしょうか。そういうことを問われたら、私たちは答えに困ります。なぜならば、そんなことはたいてい、考えていないからです。考えていないけれども、いろいろなことを問われることがあります。パウロも同じように、人から問われて、悩んで苦しんできたのでありましょう。

 

 そして、この日本社会のなかで生きている私たちは、生活の実感の中で感じる一つの心があると私は思います。それは、宗教ということに対してなのですけれども、何かの教えとしての宗教の話を聞くよりも、たとえば、自然の中にいて、広い自然の野山の中を歩いて、あるいは、大きな海の海辺で、あるいは大きな湖を見て、というような、自然の環境の豊かなところに行って、その自然の豊かさというものを心から味わい、そのなかで安心する心というものがあります。

 

 そして、自然のなかで鳥の声を聞いたり、花を見たり、空を見たりしていると、本当に心が清らかになっていく、そういうときに、「ああ、私はこの中で生かされているんだ」というようなことを、自然の中で、自然と共に生きている自分というものを発見することができます。

 

 そうしたなかで、自然の中で生きていく、ここに、なんと言いますか、世界の真実があるんじゃないか、ということを考えることができます。そして、神様ということも、実は、そうした、自然の中に生きるときに感じる平安というもの、そういうものなんだろうか、というように考えたときに、神様というのは、この自然の中に存在していて、神と人が一つの世界にあって、心豊かな、自然豊かな世界、そういうものをイメージすることができます。

 

 なんとなく、この日本社会の中に生きていて、そうした感覚というものが、私たちの中にあるのではないかなあ、と思いますね。それは、この日本の国が、非常に自然が豊かであって、北国から南国まで範囲が広がり、その自然の豊かさというものを私たちが享受している、そしてその中で、食べ物にも水にも恵まれ、そして穏やかな人にも恵まれた、そうした恵まれた世界に生きている、その中にあって、神様という存在は、こうした自然の中にあるのではないか、と考えることができます。

 

 そうした、なんとなく感じる自然な実感ということと、今日の箇所にあるような聖書の教え、つまり、伝える人がいなかったら誰が神様を信じることができるだろうか、という問いとは、どういう関係にあるのだろうか、と思います。

 

 これは、いろいろな考え方ができることなのですけれども、神様が造られた世界の中で、人間は生きている、それなのに、なぜ、人間は神を信じることをしないで、自分自身を神として傲慢にふるまっているのでしょうか? 

 

 それは聖書の言葉で言えば、それは「人間が罪人であるから」ということであります。聖書の中には、創世記において、最初に造られた人間、アダムとエバが、神様の戒めに背いて知恵の木の実を食べたことが、最初の罪として記されてあります。

 

 物語としてはそうでありますが、木の実を食べたことが罪の始めだったということが、歴史のこととして、あるいは科学的な世界観の中で、その通りだと考えることはできません。あくまで物語は象徴であります。人間というのは、そういう深い悲しみというものがあって、聖書の物語は記されてあります。その世界の中にあって、イエス・キリストの言葉が宣べ伝えられます。

 

 それは、自然の中に最初からあったものではありません。この日本の国においては、かつての歴史の中において、明治時代が始まる前、あるいは戦国時代のころ伝えられたキリスト教、そうしたものが日本社会の中にあって、キリスト教伝道のルーツとなっています。

 

 もともと無かったものが伝えられて来ました。それは、外から来たものとしてあります。だから、プロテスタントキリスト教の宣教から150年経っても、日本にはクリスチャンは1%しかいない、そうして冷めた目で見られることも多いのです。

 

 しかし、そんな日本のキリスト教の歴史ということを考えながら、今日の箇所を読むときに、私は思うのです。それは、キリスト教の教えが間違っているから、そうなっているのではないだろう、と。キリスト教の教えが間違っているから、いまだに日本の中でクリスチャン人口が1%にも満たない、と言われる、それはキリスト教の言っていることが間違っているのではないのだと思います。そうではなくて、キリスト教が大切にしてきたことというのは、人から人へと語り伝えた。そのことを一番大切にしてきたから、だと思うのです。

 

 パウロは他の聖書箇所で、こう言っています。コリントの信徒への手紙Ⅰの1章において、人間は自らの知恵で神を知ることができなかった、だから、神は宣教という愚かな手段で、伝えられたとパウロは書いています。宣教ということ、それは別の言い方をすると、説教というようにも言える言葉です。説教、それは聖書を読んで、聖書を解釈し、聖書のメッセージを伝えるということであります。

 

 人間が、人間の言葉という、このつたないものを使って伝える、そのことによって、本当の神様への信仰ということが伝えられる、というのです。それは、言葉を代えて言えば、何か大きな奇跡をいっぱい起こしたり、あるいは、この自然現象を用いて人間を脅かして、この世界を造られた神様が怒っている、だから神を信じよう、というような、人を驚かせるような大きなしかけとか、人が何か「あっ」と驚くような、誰もが驚いて、そのことで神を信じるような、何かのしかけをするのではなく、ただ、神を信じた人が、次の人に自分の信仰を語り伝えていく、言葉で説教をする、そういう形で神様は、神の御言葉を人に伝えようとされた、ということであります。

 

 ですから、能率が大変に悪いのです。そして、一生懸命に伝道者が語っても、みんながみんな信じるわけではありません。むしろ信じる人は少ないのでしょう。けれども、それは語っていることが間違っているではなくて、人が人に言葉で伝える、その場にしかないものが、そこで生まれる、そこにこそ、本当の神様がおられる、というキリスト教の大きなメッセージがあるのです。

 

 あっと驚くような理屈で、こんなふうに考えたら神様がわかります、といってみんなが信じるようになる理屈、そういうものがあるわけがないのです。ただ、私は聖書の神様を、こう信じた、そしてこんな人生を生きてきた、その中でこのことをあなたに伝えたい、そうした本当につたない言葉で伝えるということ、そこにこそ、本当の神がおられます。そこにこそ真実があります。

 

 そのことが今日の箇所を通して、言われているのであります。私たちは本日の聖書箇所を、どのように受け止めるでありましょうか。

 

 この箇所において、一人ひとりの皆様が、自分が誰から、どんなふうに神の言葉を聞いてきたか、そして、いまそれをどう思っているか、そしてそれを、今度は、自分が人にどんなふうに伝えるか、ということを考えていただきたいのです。それは世界の人があっと驚くような理屈ではないと思います。世界の人がみんなクリスチャンになってくれるような、そんな素晴らしいとは誰も語ることはできません。むしろ、言えば言うほど笑われたり、何か距離を置かれたり、わからないというようなことを言われることが多いのです。人間はそんな不器用な存在です。いつもつたないのです。

 

 それでも良いのです。そこにこそ、まことのものがあるのです。人をだまさない、本当の神の御言葉があるのです。

 

 お祈りします。神様、

 私たちがふだんそれぞれに置かれているところで、いろいろな悩みや困難や、将来に対する不安などを抱えて生きています。その中にあって、思いもかけず、人からの言葉を聞くことで救われる経験があります。決して自分自身の心の中だけのことや、あるいは自然の中で暮らすだけでは、得られない、それらとは違った何かが、聖書の中にはあります。そのことを信じ、この聖書を通して、心豊かな信仰を、神様を信じる温かい豊かな信仰を持っていくことができますように、どうか一人ひとりの方を、神様ご自身がお導きください。そのときに、イエス様がいつも共にいてくださいますように。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。
 アーメン。


 

 

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「無力な者への選択」説教 今井牧夫
 2021年10月31日(日)桂教会 礼拝(京都教区 交換講壇)
 
 聖書 コリントの信徒への手紙一 1章26〜31節
                          (新共同訳、改行して配置)

 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、

 思い起こしてみなさい。

 人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、

 能力のある者や、

 家柄のよい者が多かったわけでもありません。

 

 ところが、

 神は知恵ある者に恥をかかせるため、

 世の無学な者を選び、

 力ある者に恥をかかせるため、

 世の無力な者を選ばれました。

 

 また、

 神は地位のある者を無力な者とするため、

 世の無に等しい者、

 身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。

 

 それは、

 だれ一人、

 神の前で誇ることがないようにするためです。

 

 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、

 このキリストは、

 わたしたちにとって神の知恵となり、

 義と聖と贖いとなられたのです。

 

 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

 

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 (以下、教区交換講壇による、桂教会での礼拝説教)

 

 本日、私は、京都教区の講壇交換として、礼拝説教させていただくために参りました。京北教会牧師の今井牧夫と申します。よろしくお願いします。私は、この桂教会で以前、2年半ほど前、熊谷沙蘭牧師の就任式の司式をさせていただきました。それは私が京都教区議長に選ばれた後、初めて司式をさせていただいた就任式でした。その皆様の喜びの日のことを今も覚えています。そして本日、講壇交換によって桂教会に、再び来させていただいたことを心から感謝します。

 

 私がおります京北教会は、京都市左京区の下鴨という地域にあり、河原町通をずっと北に上って北山通との交差点の近くにあります。京都府立植物園の近くです。漢字で書くと、必ず「けいほく」教会と読まれますが、実は「きょうほく」教会が正しい名です。今年で創立113年目となる教会ですが、昔は烏丸五条付近、本願寺の近くにあり、京都の南と書いて京南教会という名前でした。それが1941年に現在の北山通り近くに移転新築して京北教会となったのでした。礼拝堂は1941年建築の木造の塔がある2階建ての建物です。

 

 この京北教会の113年の歴史は、元は関西学院大学につながるメソジスト教会という名前の教派の流れにあります。教会の規模で言いますと、礼拝出席はコロナになる前の2019年度には平均30名でしたが、コロナになってから半分に減り、平均17名程度です。教会員数は35名です。そのような京北教会から私は本日参りました。よろしくお願いします。

 

 本日、この桂教会で説教させていただくことを、誠に光栄に思います。ありがとうございます。本日の説教題は「無力な者への選択」としました。これは、本日の聖書箇所に、神様はあえて世の無力な者を選ばれた、とあるからです。この、無力な者が選ばれている、という福音のメッセージを皆様と共に深く聴いていきたいと願います。

 

 そのことを心に留めていただいたうえで、まず、京北教会での私の歩みを短くお話させていただきます。今から14年前、私が招聘される前のとき、京北教会には専任の牧師がいませんでした。その時期に京北教会で奉仕して下さっていたのは、同志社大学神学部名誉教授だった土肥昭夫さんでした。

 

 私の招聘が内々に決まって教会に招かれたとき、土肥昭夫さんは昼食の席で、私と二人だけになったときに、少し小声でこう言われました。「この教会はね、みんな仲がいいんだ。それはいいことなんだ。だけど、これからはね、外に向かって開拓伝道していかないとだめですよ。開拓伝道といっても、ここを出て何かするということじゃなくてね、“開拓的”な伝道をするということですよ。」そのように言われました。それが2月のことでした。私は新しく赴任する教会で、開拓的伝道とは、どんなことをしたらいいのだろう、と考えました。

 

 その後、少しの時間が過ぎて、今から14年前の4月1日。この日に私の京北教会での就任第1日目が始まりました。その4月1日に一番最初にかかってきた電話がありました。

 その電話は驚くべきものでした。いま申し上げた土肥昭夫さんの、ご家族からのお電話で、土肥昭夫さんが亡くなられたということでした。大変驚いたことは言うまでもありません。そのあと、洛陽教会の府上征三牧師が前夜式・葬儀式の司式をしてくださりましたが、私にとって課題となる「開拓的伝道」という言葉を下さった方が、こうして赴任初日に神のもとに召されていかれました。

 

 あれから14年経った今も時々、私は、土肥昭夫さんが言われた、開拓的伝道、その言葉が心をかすめます。しかし、未だに私はその開拓的伝道ということが具体的にどういうことであるかは、わからないままです。赴任当時から考え続けましたが、画期的な宣教の方法というものを何か思いつくことは、ついにありませんでした。

 

 しかしそれでも、京北教会にはこの14年間、様々な方々が訪れました。私の赴任する前年度は平均20名の礼拝出席だったのが、何年かすると一時期は平均34名まで増えました。その後少し減って平均30名程度になり、コロナ問題が起きてからは平均17名になりました。増えたり減ったりです。教会の宣教にとって大きかったのは、インターネットで教会のホームページとブログ、これはインターネット上の日記みたいなものですが、そうしたものを開設したことです。これは教会を外部に宣伝し、また敷居を下げて入りやすくすることに大きく貢献しました。たくさんの人がそれらを見て教会に来てくださり、そのうちの10数名の方々が礼拝に定着してくださいました。

 

 しかし、最近はインターネットでも、ホームページやブログよりも、SNSと言われるFacebookなど、個人的なサークルのような形が主流になったようです。そのためか、ホームページを見て教会に来ました、と言う人は少なくなりました。時代は変化しています。その中で今まで、私は牧師として何をしてきたかなあ、と振り返ります。土肥昭夫さんから、開拓的伝道という言葉をいただいたことは、とても良かったと思います。それと同時に、その言葉に私は直接、具体的な形で応えることはできませんでした。

 

 けれども、開拓的伝道ということが実際にはできなかったとしても、それでも京北教会の私たちは毎週礼拝をして、そのたびに神様に導かれて新しくされてきたのではないかなあ、と感じています。新しいことをするというよりも、私たち自身が礼拝において新しくされる。もしかしたら、そのことこそが土肥昭夫さんが言われた「開拓的伝道」、すなわち「どこかに出かけて新しく何かするということじゃなくてね」と言われた、開拓的伝道ということだったのかもしれないと、赴任から14年経った今、私はそのように感じています。

 

 礼拝において私たちは、神様の導きによって新しくされます。同時に、古いものを捨てさせられます。そうして、ときには大切な思い出も乗り越えていくことになります。その歩みの中で、私たちが新しくされることに、本当の開拓的伝道が始まっているのです。

 

 本当の開拓的伝道、それは何か新しいことを始めるということ以前に、礼拝をしている私たち自身が、神様によって新しくされること、あるいは、新しく召されることにおいて始まります。それは、もう少し具体的に言うと、私たちが今生きている世界の中で、聖書の言葉を私たちが新鮮に聴くということです。聖書の言葉を新鮮に聴く、ということが、私たちが新しくされる、あるいは新しく召される、ということです。

 

 そのことのために、ここからは、今日の私たちが生きている世界の問題について考えてみます。今の世界は、コロナ問題によって苦しめられている世界です。現在のコロナ禍と呼ばれる状況について、私たちがどのように生きていけばよいか、その道しるべを聖書から得たいと思います。そのために、今から三つの聖書箇所を通して考えてみます。

 

 まず一つ目は、旧約聖書出エジプト記です。出エジプト記には、王の権力が支配する国からの脱出が記されています。苦しみの国から神様に導かれて脱出することが大切です。しかし、現代のコロナ時代においては、私たちはこの日本を出ることはできません。また、たとえ、どこかの地域に脱出したとしても、この地上のどこでもコロナウイルスをゼロにはできませんから、地理的な脱出は意味がありません。

 

 すると、私たちは、今いる場所から脱出するのではなく、今いる時間から脱出することが必要になります。つまり、私たちは同じ場所に居続けながら、その場所に流れている時間を、神の国の時間に変えていく働きが大切なのです。これが「出エジプト」ならぬ「出コロナ」です。どこかの土地に脱出するのではなくて、今いる時間から脱出すること、そして新しい時間へと進んで、その新しい時間の中で生きていくことが、出エジプトならぬ出コロナです。その中で、信徒も牧師も一人ひとりがモーセの役割を与えられ、神の言葉を聞くリーダーとなります。私たちは、どこかに逃げるのではなく、いまいる場所、たとえばこの桂教会を、コロナ禍で苦しむ私たちが共に神様のもとで祈りあって、神の国の時間の中を生きることができます。これはイエス様が、「実に神の国はあなたがたの間にある」と言われた通りです。

 次のことに行きます。これも旧約聖書からのことです。有名なバベルの塔の話から考えてみます。現在は、コロナ時代の中で、教会でもインターネットによる礼拝や交流の方式が大きく進みました。また、テレワークといってインターネットによる在宅の仕事も増えしまた。学校でもオンライン授業が普通になりました。また、ものすごいスピードで開発されたワクチンが、世界中で接種されて、コロナ感染を抑える力を発揮しています。しかし、そうしたテクノロジー(科学技術)が発展して、みんなで力を合わせればコロナ問題は解決すると、楽観的に言われることもあります。しかし、そこには落とし穴があります。こういう言い方をすることができます。それは、旧約聖書に出てくるバベルの塔は、当時の最新のテクノロジーヒューマニズムの結合によって作られた、そして、そして、それを人間は完成されることできず、お互いの言葉が通じ合わなくなって、バベルの塔は崩壊しました。

 
 バベルの塔を作るときに、当日の人間たちの膨大なお金や労力や技術が注ぎ込まれたはずです。しかし、その世界にはたくさんの貧しい人たちが暮らしていたはずです。そうした貧しい人たちを助けることよりも、天まで届く大きなバベルの塔を建てようとしたとき、そこには人間が神様に届く存在になろうという傲慢が満ちていました。そして、互いの言葉が通じ合わなくなったのです。

 

 ここから現代の私たちが学ぶことは、テクノロジーヒューマニズム、日本語で言えば科学技術と人間第一主義の結合だけでは、人類は救われないということです。現代でも、インターネットが得意な人とそうでない人の間に言葉が通じないという問題が生まれています。また、ワクチンを打つ人と打ちたくない人の間に分断が生まれます。また、テクノロジーによって収入を増やす人と、そうでない人との間の交わりが分断されます。こうした問題に直面するとき、私たちはバベルの塔の話を思い起こす必要があります。一番大事なことは、テクノロジー、科学技術ではなくて、神様への信仰であり、神様の前で真の意味で謙遜に生きることです。決して、ヒューマニズムとテクノロジーの結合では、人間は救われません。

 

 では次に、キリスト教会が、バベルの塔と同じことにならないためには、私たちはどうしたらよいのでしょうか。そのことの指針が、マタイ福音書24章にあります。ここには、主イエス・キリストによる終末の預言があります。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ24:12)とあります。教会はコロナ問題で苦しむのではなく、内部の愛が冷えること、つまり教会内部の信頼関係が冷えることで苦しみます。しかし、「天地は滅びてもわたしの言葉は滅びない」(マタイ24:35)とあるので、天地を滅ぼすことも創造することもできる主の言葉に信頼して、私たちは最後まで耐え忍ぶことができます。

 

 以上、やや急ぎ足で、聖書を通して、コロナ禍の中で私たちがどう生きるか、その指針を考えてみました。そして、次に、本日の聖書箇所について考えてみます。本日の聖書箇所の1行目には、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」という、使徒パウロがこの手紙に記した言葉があります。

 

 ここでは、自分がクリスチャンになったとき、あるいは教会に招かれたときのことを思い起こすように言われています。私たちは、この言葉を自分のこととして読むときには、自分が昔に洗礼を受けたころのことや、教会に行き始めたときのことを思い浮かべると思います。

 

 けれども、この、あなたがたが召されたとき、という言葉は、そのような昔のことだけではありません。というのは、いま、私たちはこのコロナ禍の中で神様から召し出されているからです。もちろん、私たちは一人ひとり、無力な存在です。誰もがこのコロナ禍の中で、自分の無知や、無力ということを経験しています。それでも、このコロナ禍の時代にわたしたちは教会に招かれています。それは、神様が無力な者を選択して下さったからです。

 

 私は、今日の説教の準備をしている中で、あるときにある教会の方とかわした会話を思い起こしました。次のような会話です。昨年の夏ごろ、コロナ禍が社会の中で大変な問題になり、社会の経済に与える影響が大きくなったごろのことです。私はある一人の方に声をかけました。ふだんアルバイトをして生活している方です。私は、その方の仕事が気になって、こう言いました。「コロナで今お仕事が大変でしょう?」 もしかしたら失業されていないかと気になったのです。

 

 すると、その方はこう言われました。「確かにコロナで大変なんですけれどね、でも私、コロナで新しい仕事もらったんです。役所から。それで助かっているんです。」と微笑まれました。私は、その言葉と微笑みに、コロナ禍の時代の、私が気づかなかった別の一面を見た気がしました。このコロナ禍において、様々な人の様々な生活があり、その中では、残酷なことも起こるし、少しだけ希望が持てることも起こります。そのどちらもが現実です。そうした様々な現実において、今この社会の中に生きる、様々な大衆の生活があることを私は感じました。コロナ禍の中で、現実にしがみついて生きる大衆の姿を感じました。

 

 今申し上げました「大衆」という言葉を、私たちはふだんあまり使いません。大衆というのは、雑多ないろんな人たち、特に区別できない無数の人たちのことです。この大衆という言葉は、聖書にはあまり関係ないように思われるかもしれません。聖書には群衆とは書いてありますが、大衆という言葉は出てきません。

 

 しかし、本日の聖書箇所においては、神様は無力な者、無学な者、無に等しい者を選ばれたと書かれています。それは、言葉を変えて言えば、神様は大衆を選ばれるということです。神様は、特に優れた人、有名な人、何かの素質や能力のある人、社会で成功する人、そうした人を選ばれるわけではありません。そうした人たちのの集まりが教会ではありません。

 

 教会は、宗教団体でありますが、それ以上に大衆団体であることを忘れてはなりません。教会は決して、優秀さゆえに選ばれた人たちの集まりではありません。大衆団体です。それは、教会が神様に対して自らを誇らないためです。

 

 神様が、私たち、無力な大衆の一人ひとりを選んで下さいました。教会は大衆の団体です。その大衆の教会だからこそ、バベルの塔を建てるのではなくて、神様の前で本当に謙遜になることができるのです。私たちは、このコロナ禍の中にあっても、大衆を愛される神様によって救われ、謙遜に祈り、礼拝し、そのことにおいて真の救いを、世に宣べ伝えて参りましょう。桂教会と京北教会に、主の導きと守りを切にお祈りいたします。

 

 お祈りします。

 恵み深い神様、本日の交換講壇礼拝を感謝いたします。コロナ禍の時代にあって、私たち一人ひとりの命と生活を守ってください。そして、失われた命を追悼し、世界各地で壊された人間生活の回復と癒やしを心から願います。一人ひとりに、主イエス・キリストが共にいて支えて助けてください。そのために私たちがあきらめずに祈り続け、また社会において必要な行動をすることができますよう、その導きをイエス様に心から願います。

 この祈りを、主イエス・キリストの名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。