京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2021年6月の礼拝説教

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京北教会 2021年6月6日、13日、20日、27日の礼拝説教

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「人を裁かず、救い主にゆだねる」

2021年 6月6日(日)京北教会礼拝説教 今井牧夫

 

 

本日の聖書 ローマの信徒への手紙 2章 1〜14節(新共同訳)

 

 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。

 あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。

 あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。

 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。

 

 このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、

 あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。

 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、

 その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。

 

 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。

 この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。

 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。

 すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、

 永遠の命をお与えになり、

 反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、

 怒りと憤りをお示しになります。

 

 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、

 苦しみと悩みが下り、

 すべて善を行った者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、

 栄光と誉れと平和が与えられます。

 

 神は人を分け隔てなさいません。

 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、

 律法のもとにあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。

 

 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、

 これを実行する者が、義とされるからです。

 

 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、

 律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。

 

 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。

 彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、

 同じことを示しています。

 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、

 人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

………………………………………………………………………………………………………

 (以下、礼拝説教) 

 ペンテコステ(聖霊降臨日)の以前から、しばらくの間、「教会とは何か」ということを皆様と一緒に考えるための聖書の箇所を選んで、礼拝の中で皆様と共に読んでおります。今日はローマの信徒への手紙の2章です。

 

 先週、先々週は、ペンテコステ(聖霊降臨日)にまつわる聖書の箇所から説教をいたしました。イエス様が天に挙げられたあと、残された弟子たちに、イエス様が約束してくださっていた聖霊、神様の聖い霊が与えられた、それがペンテコステ(聖霊降臨日)の出来事であり、その日から弟子たちは勇気を持って、イエス・キリストのことを世界中に宣教することが、できるようになりました。

 その日に誕生した、世界で最初の教会と言っていいでしょう、その群れ、その教会には3000人ほどが参加したと使徒言行録に記されています。それは今の私たちの目から見れば誇張した表現にも思えますが、しかし聖書が証ししている事柄というのは、神様のなされることというのは、何事も人間の思いによらず、人間が予想もできなかったことを神様はしてくださる、そのことによって教会が生まれ、そして世界中に宣教が広まっていった、そういうことを教えています。

 

 そのペンテコステ(聖霊降臨日)のときから始まった教会、そこから始まった伝道があります。そして、その中でパウロという一人の人が回心をいたしました。

 

 このパウロという人は、熱心な律法学者であり、旧約聖書の律法を守ることによって人間は神に救われると信じていました。そうでしたから、ユダヤ人が神様に選ばれた民族であるというプライドを持って生きていました。ところが、イエス・キリストの神の国の福音を聞いてクリスチャンになった人たちは、旧約聖書の律法を守ることによって救われるのではなくて、神の国の福音を信じることによって人は誰でも救われる、ということを信じていましたから、律法主義者であるパウロにとってはクリスチャンたちは許せない人たちでした。ですから、パウロはクリスチャンたちを迫害して、その信仰を変えるように迫る活動をしていました。

 

 ところが、そのパウロがあるときに突然、目が見えなくなり、その暗闇の中でパウロはイエス・キリストの言葉を聞くことになりました。そこからパウロは一転して主イエス・キリストを信じる人となりました。そのパウロが地中海沿岸の各地にイエス・キリストの福音を宣べ伝え、各地に教会を形成していきました。

 

 そのパウロが自分の活動の集大成のようにして書いたのが、本日のローマの信徒への手紙です。新約聖書に収められたパウロの手紙の中で、最も後の時期に書かれたと考えられています。手紙という名前が付けられていますが、その実質は神学論文のような、がっちりした構成の文章になっています。パウロが信じている神の国の福音というものが、どういうものであるかを、ローマの教会の人たちに向けて語りかけている内容です。一つの長い説教といってもいいでしょう。

 

 そういう意味で、ペンテコステ(聖霊降臨日)の出来事からパウロの回心、そしてパウロの長年の伝道、その集大成としてのローマの信徒への手紙と続く歴史の流れは、だいぶ時間が経過しています。20年以上の時間が経っていると思われます。そうした歴史の流れのなかで、ペンテコステ以降の時代のクリスチャンの信仰の、神学的な深まりというものがよくわかるのが、このローマの信徒への手紙です。

 

 今日は皆様と共に、教会とは何かと考えるために、本日の聖書箇所を選びました。教会というものはペンテコステから始まりました。しかし、そこで完結しているわけではありません。神様の聖霊が降(くだ)った、世界に伝道が進められた、ということだけで教会の歴史が完結するのではなく、ペンテコステ以降の教会の歴史の中で、教会はたくさんの苦労をすることになります。そして、その中で意外なことがたくさん起こります。その中で神様の奇跡が起こり、そして今日、世界中にキリストの教会がある、そうして今の私たちの時代を迎えているわけです。

 

 では、その発端となったペンテコステ(聖霊降臨日)から20年以上経ったときに、使徒パウロは何を福音宣教として語っていたのでありましょうか。それが今日の聖書箇所です。

 

 ローマの信徒への手紙2章1節からです。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。」

 

 このように、人を裁く者には弁解の余地がないと、パウロは厳しく言っています。今日はこの2章からの一部分だけを抜粋していますので、できればこの前の1章も読んでいただきたいのですが、1章では、人間の世界は罪にまみれて混乱しているということが書いてあります。

 

 その上で2章では「すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしている」と言います。それは、人間の世界には罪が満ちている、悪が満ちている、しかしだからといって、その罪や悪の人間世界を裁く者に対して、弁解の余地はない、その人も自分で同じことをしているから、というのです。

 

 普通であれば、社会に罪があれば、その罪を指摘して、みんなで正していこう、というのが普通の考え方ではないかと思います。しかしパウロは、そうではないのです。罪を裁こうとする人たちに対して、あなたたちも同じことをしているではないか、というのです。そこには単に正義というものを持って、この世界はこんなにおかしいから直そう、というのではありません。そうではなく、この罪深い世界を直そうとしているという、あなたたちもまたおかしい、とパウロは言っているのです。

 

 この主張は、パウロの人間観ということに行き着きます。パウロの人間理解です。いくら人が人を裁いても、人間は人間を良くすることができない、ということです。人間は努力したら良い人間になれるのだから、そのためにみんなで努力しよう、というのではありません。いくら努力したって、人間は罪人なんだということです。自分で自分を救うことができず、自分で人を救うこともできない。だから「人を裁く者よ、あなたには弁解の余地はない」とパウロは言うのです。

 

 ここに、パウロの福音宣教の持つ、一つの大きな力があります。それは、この世の罪、あるいは人間の悪ということを見ることで、人間というのは等しく罪人である、という人間理解にパウロは到達しているのです。それは、神様が創造されたこの人間というものが、神様の前で元来の罪人となったということである、ということであります。それは旧約聖書の信仰です。

 

 旧約聖書の創世記には、人間が罪人となったということが、神話の物語の形で記されています。創世記には、天地創造、人間創造の物語が記されています。それは神話の物語の形で書かれています。元々は人間というものは、神様が土をこねて、その形に神の息がふきこまれることで生まれました。そのときには、人間は神様に愛される存在として創造されて、この世に生まれたのです。そして神様は人間に自由というものを与えてくださいました。

 

 しかし人間は、その自由というものを正しく使うことができず、自らのための知恵として使いました。そのことによって人間は神様から目をそらし、神様との正しい関係を持つことができなくなり、神様に対する罪を犯し、神様の前から離れていった。まさにそれが人間の最初の罪であるということが、そうして旧約聖書の創世記に記されています。これはもちろん古代の神話でありますが、しかしその神話にこめられている、人間とは何か、というテーマにおいて、深い人間理解があります。パウロはその旧約聖書の人間理解に沿って、ここで語っています。人間は誰しもが罪人であるのだと。だから人間が人間を裁くことはできないといいます。

 

 さらに今日の箇所を読んでみます。「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。」このように書かれています。

 

 どのような人間であっても、自らの罪によって神様のもとに怒りを蓄えているのだと。だから、人が人を裁くということには限界があるのです。それは人間の作り出す社会の中の秩序のなかでそれは必要とされることではあっても、神様の前では根本的には意味をなさないということなのであります。

 

 そしてさらにパウロはこう言います。「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行った者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。」

 

 ここでは、ユダヤ人かギリシア人か、という民族や国籍の違い、それは関係がないということが言われています。ここで言われているのは、旧約聖書の律法を受け継いできたイスラエル人(ユダヤ人)、また、そうではないギリシア文化を持っていたギリシア人は、それぞれ違った文化、歴史を持って生きてきたけれども、そこに何の違いもないということをパウロは言っているのです。

 

 そのあとにこうパウロは言います。「神は人を分け隔てなさいません。律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法のもとにあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。」

 

 ここには、旧約聖書の信仰というものを語り継いできた、イスラエルの人たちの信仰から大きく踏み出した考え方が記されています。それは、聖書の律法というものを受け継いできた民族、つまりそれを聞いてきた人たちが正しいのではなくて、どこの国の人であっても、神様の御心にかなって生きてきた人が正しいと言うのです。律法を知らなくても律法に沿った、つまり神様の御心に沿った生き方をしてきたのであれば、その人は正しいのだと言うのです。

 つまりどの国の人であるか、どんな民族であるかということではなく、その人自身がどんな人であるか、ということを神様がご覧になっておられるということを、ここでパウロは言っています。まさにこのことが、主イエス・キリストがもたらしてくださった、世界のすべての人に対する神の愛ということを示す福音の言葉であります。旧約聖書を知っているか知っていないか、あるいは聖書に関する知識があるかないか、そうしたことが問題なのではありません。その人がどんな人であるかを神様が見てくださっている、そのことが最も大切なことなのであります。

 

 そして最後にパウロはこう言っています。「こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、わたしの福音の告げる通り、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」

 

 ここには、いつかやってくる再臨の時のことが言われています。私たちが生きているこの世界が、いつか役割を果たし終える時が来る、そのとき、新しい神の国がこの地上にやってくる、そのときに主イエス・キリストがもう一度この世界に来てくださる、ということが、聖書に記された再臨の信仰であります。このことは、現代に生きる私たちにとっては、とてもぶっ飛んだ考えで、もう想像もできないことでありますが、これは、いつか天変地異が起きて世界が滅んでしまう、という恐ろしい出来事というのではなくて、いつか本当に世界のすべての人の悲しみが報われる、すべての人の涙がぬぐわれる、そうした世界の刷新として考えていただきたいのです。使徒パウロはこのことを堅く信じていたのです。

 

 そして最終的には、そのときに神様が決着を付けてくださるのだから、それに先だって、人間が人を裁くな、とパウロは言っているのであります。イエス・キリストが私たちのところに来て下さった。その主イエス・キリストの導きによって生きていくとき、人を裁くのではなく、愛することによってこそ道が開かれる、そのことをパウロは、自らの経験を通して堅く信じていました。パウロにはそのような経験があったのです。では、今日の私たちはどうでしょうか。

 

 今日の聖書箇所に書いてあるようなパウロの言葉を聞いて、では私たちもまたパウロと同じように生きることができるだろうか、ということを考えたときに、それはなかなか難しいことのように思います。パウロのような、そんな経験、自らが回心をするような経験を皆様はしたことがあるでしょうか。

 

 私自身が、ふっと、今日の箇所をいろいろと読んでいて、思い出した、小さな回心の経験があります。そのことをお話します。

 

 中学校での英語の時間のときでした。中学校で英語の時間、いつものように学校の先生が教科書を開いて教えています。そして、前の週の時間に出した宿題をやってきた人を当てて答えを言わせようとしました。ところが、先生が当てた生徒が、宿題をやっていませんでした。そして、その次に当てた生徒も宿題をやっていませんでした。

 

 そこで先生がものすごく怒ったのでした。おまえたち、何をやっているんだ! と言ってすごく怒って、そしてクラス全体に向かって、宿題をやってこなかったやつは手を挙げろ! と怒鳴りました。そのとき、実は私も宿題をやっていなかったのですが、そんなときに手を挙げたら、叱られるに決まってると私は思って、わざわざ正直に手を挙げることをしなかったのです。

 

 ところが、その次の瞬間、クラスのほとんどの生徒たちの手がバーッと挙がったのです。それを見て先生はとても怒って、もう激怒して、クラス全体に向けて説教をしました。しかし、その先生の説教の間、私の心はずっとドキドキしていました。というのは、私は叱られるのがいやですから手を挙げなかったのですが、クラスのほとんでが手を挙げたときに、私は「うわっ!」と思ったのです。みんなが手を挙げたあとに、こそこそと後から手を挙げれば、私は嘘をついていたということがまるわかりになる、と思うと、もう手を挙げられなくなっていたのです。そして、そのまま、この長い説教が終わって普通の授業に戻ったときに、では答えてもらおう、といって当てられるときに、私が当てられるかもしれない! と思ったときに、心臓がドックンドックンと高鳴って、先生が怒っておられる間、私はずっと緊張していました。

 

 このあとで、じゃあ、今井、やってみろと言われたときに、実は私もやって来ませんでした、と言えば、さらに先生の怒りが爆発することは目に見えています。どうしようか、と私の緊張がずっと続きました。そして、先生のしばらくの長い説教が終わって授業に戻りました。しかし、先生はもう、誰も当てることはありませんでした。

 結局、私は先生に当てられることはなく、私の嘘は誰にもばれることはなく、その授業の時間は終わったのであります。私は嘘をついたのでありますが、結局、ばれませんでした。休み時間になって、日常が戻ってきました。クラスのみんなは遊びだしています。もう誰も、さきほどの英語の時間の話なんかしません。しかし、そのとき私の心はものすごく苦しくなっていました。私はなんて……なんて……なんていう人間なのだろう、ということ、自分が嘘をついていたということ、そのことにドキドキが止まらなくなっていたのです。そこで耐えられなくなって、私はどうしたかというと、教室からベランダに出て、ベランダの隅に行くと誰もいない所があるので、そこに行きました。そこで、私は生まれて初めて自分から神様に祈りました。

 

 神様、どうか許してください、とか確かそんなことを祈ったのだと思います。そのとき、初めて、生まれて初めて自分から神様に祈ったのです。それは私にとって、小さな小さな回心の経験でありました。パウロと比べることなどできません。しかし、なぜ私がそんなお祈りをしたかと今になって思い返すと、それは私が教会に行っていたからでした。両親に連れられて教会に行っていたからでした。両親がクリスチャンだったからということで教会に行っていたからでありました。 

 

 今日のパウロの言葉を読むときに、パウロから「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない」と言われるとき、人間とは何かということが問われています。そのことはパウロ自身がかつてクリスチャンを迫害する側の人間だったのが、突然に目が見えなくなって、その暗闇の中でイエス・キリストの言葉を聞いて回心したことが根底にあるのです。パウロの今日の箇所の言葉は、それは何か宗教の理屈として言われているのではなくて、人間の人生のなかで、神様が私に出会って下さった、私の心をノックしてくださった。そして、そこから世界というものを見直して言ったとき、そこからイエス・キリストに導かれてパウロは説教することになっていったのであります。

 

 人を裁かないということは、自分でも自分を裁かない、ということでもあります。人を裁く、あるいは自分で自分を裁く、ということにおいて、自分で究極の結論を導き出すことはできない。それは、イエス様にお任せしたら良いのです。人間は決して万能ではありません。人を裁かず、救い主に委ねる、という信仰は、聖書から、教会から与えられるものであります。

 

 お祈りをいたします。

 神様、どうか私たち一人ひとりに小さな回心を与えてください。この世界が悪に満ち、権力の横暴や一人ひとりの罪によって、この世界が悪くされていくなかで、何度でも、小さな回心をお与えください。そしてそのときに、神様から与えられるメッセージを大切にすることができますように。私たちもパウロと同じように、悔い改めて、そしてみんなで一緒にこの教会を形作っていくことができますように。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

 

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「人間の誇り以上のもの」

2021年6月13日(日)礼拝説教 今井牧夫

 

 

聖 書 ローマの信徒への手紙 3章 21〜31節(新共同訳)

 

 ところが今や、律法とは関係なく、

 しかも律法と預言者によって立証されて、

 神の義が示されました。

 

 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、

 信じる者すべてに与えられる神の義です。

 そこには何の差別もありません。

 

 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、

 ただキリスト・イエスによるあがないのわざを通して、

 神の恵みにより無償で義とされるのです。

 

 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために

 罪をつぐなう供え物となさいました。

 それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。

 

 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、

 ご自分が正しい方であることを明らかにし、

 イエスを信じる者を義となさるためです。

 

 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。

 どんな法則によってか。行いの法則によるのか。

 そうではない。信仰の法則によってです。

 

 なぜなら、わたしたちは、

 人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、

 信仰によると考えるからです。

 

 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。

 異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。

 実に、神は唯一だからです。

 

 この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、

 割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。 

 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。

 決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。

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 (以下、礼拝説教) 

 

 ペンテコステ(聖霊降臨日)の前の時期から、京北教会では、教会とは何だろうか、ということを皆様と共に考える箇所を礼拝で毎週読んでいます。本日はローマの信徒への手紙を選ばせていただきました。これは使徒パウロが記した、ローマにある教会の人たちに向けて書かれた手紙であり、そして一般的な手紙とは違って、神学論文のような形をとっております。まだ会ったことがないローマにいる人たちに向けて、パウロが自分の信じている信仰について、それを論理的に説明している、一つの説教といってもよい手紙であります。本日はその3章です。

 本日の箇所の一番最初に、「ところが」という言葉があります。「ところが、今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」

 

 ここで、「ところが」と言われています。この「ところが」の前に、何が書いてあるかというと、人間というのは罪人であって、本当の意味で正しい人、義人というのは一人もいないのだと言われています。

 

 そして、旧約聖書において律法というものがあり、それは神様から与えられた、様々な決まり事です。宗教や生活の決まり事といっていいでしょうか。その時代の人々にとっては、神様から与えられた法律でありましたが、その律法というものは、人間を救うために神様がくださったものでありますが、人間はその律法を守ることができずにいます。だから、人間の中で、神様の前で本当の意味で正しい人、義人は一人もいないのだ、ということが、本日の聖書箇所の前の箇所で言われていいます。

 

 そのことを踏まえた上で、「ところが」と記されて、それまでの話の流れが転換されています。この世に正しい人は一人もいない、というその一方で、旧約聖書に記された律法を守るか守らないか、ということと関係なく、しかも、その律法と預言者(旧約聖書に登場する、神様からの言葉を預かって語る人)によって記された言葉、すなわち旧約聖書全体によって証しされる、証明されることによって、神の義が示されました、とパウロは言っています。

 

 人間が、聖書に記された律法、掟(おきて)を守ることによって救われるのではなく、神様からのプレゼントとしての神の義というものが示されて、そのことによって私たち人間は救われるのだ、ということをパウロは言っています。

 次の箇所にこう書いてあります。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」

 

 イエス・キリストを信じること、一人ひとりを救ってくださる主、この私の救いの中心に立ってくださる方としてイエスを信じること、そのことによって、神様から神の義、神様の正しさが与えられる、そのことに何の差別もないと言われています。何人であっても、どの国の人であっても、男女や性別の違いとか、貧富の差、心身の障害があるかないか、そうした人間の違いによって、救いに何の差別も起きることはありません。人間は、私たちを救ってくださる主、一人ひとりの救いの中心に立ってくださる方としての、主イエス・キリストを信じることによって、だれでもが救われるのです。そこには何の差別もないと言われます。人間は宗教のおきてを守ることによって救われるのではなくて、神様からのプレゼントとして、どの人にも与えられるということをパウロは言っています。

 

 その次にこう言われます。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによるあがないのわざを通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」

 

 ここで「無償」と言われているのは「ただ」ということでありますが、これは、人間がお金を払う、あるいは何かの行動をして、これを神様にあげるから、その代わりに自分が神様に救われるという、まるで取引のように神様から義が与えられるということではなくて、人間が何もしなくても、神様からの贈り物として、神様の正しさ、神の義が与えられるということです。イエス・キリストの十字架と復活の出来事ということは、そうした神様からのメッセージだ、ということがここで言われています。

 

 次にこう言います。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために、罪をつぐなう供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」

 ここに「見逃す」という言葉が出てきています。今まで人が犯してきた罪を神様が見逃してくださるというのです。私はこの箇所を読んだとき、少し驚くものがありました。というのは、神様が人の罪を見逃す、なんていうことがあるのだろうか、という思いです。神様というからには、もう完璧な方であって、人間のすべてを見て知っておられるお方です。その神様が人の罪を見逃すというのは、どういうことでしょうか。人を多めに見てあげてくださる、ということでしょうか。さあ、そうしたことはわかりません。けれども、ここでパウロが言わんとしていることは、人間には罪があるということはわかっている、けれども、罪があるからといってその人を罰することはしない、そういうことであるかと思います。

 

 なぜならば、神様にとって大切なことは、人を罰することではなく人を愛することだからであります。神様が、罪を犯したその人を気に入らないから、その人が犯した罪を罰する、そのために神がいるのではありません。そうではなく、神様は一人ひとりの人間をこの世にあらせられ、その一人ひとりを愛する、そのことによって、神様の恵みがこの世には満ちあふれます。神様が望んでおられることはそのことであって、人を罰することではありません。

 

 そして次にこう言います。「このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、ご自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」

 

 今まで、人間の罪深いこの世界というものがあって、それに神様は忍耐してこられましたが、主イエス・キリストを私たちに与えて下さった。それは、神様の側が、今がそのときだと思われたからであります。神様がそのように思われて、主イエス・キリストを私たちに与えて下さった、そこからこの時代がはっきりと転換した、ということをパウロははっきりと信じているのです。

 

 そして次にこう言います。「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」

 

 パウロはここで、人間が神に救われるために、何が必要かということを言っています。それは、何かの誇りでありましょうか? 私はこんなにいいことをしてきました、という、何か徳を積むようなことをして救われる、ということではないと言います。そういうものは取り除かれたのです。行いの法則、行いをすることによって救われるということではなく、信仰の法則、つまり、何にもしなくても、ただ信じることにおいて、その人は救われるのです。このことが、パウロがローマの信徒への手紙の中で記した、最も重要なことであると共に、聖書に記された信仰の中で核心のことです。プロテスタント教会は、まさにこのことを中心にしてきました。人は行いによってではなく、信仰によって救われるということです。

 

 そして、こう続きます。「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。」ここには、旧約聖書への信仰を持っている人たちが、自分たちだけが、つまりイスラエル人だけが救われると考えていたことに対して、そうではないのだと、パウロはここで言っているのです。

 

 そして、さらにこう言います。「この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」ここで言われているのは、割礼のある者、とはユダヤ人(イスラエル人)ということを意味しているのですが、その民族に属することよって人は救われるのではなく、異邦人、外国人、つまり世界のすべての人が神によって救われるのだと言います。では、そのことによって旧約聖書の律法の教えは捨てられるのか、というとそうではなく、神様は世界中のすべての人に恵みをくださるゆえに、この旧約聖書の意味もいよいよ確立されていく、そのようにパウロは言っています。

 

 今日の聖書箇所は、以上のような箇所であります。この箇所全体を読んで、皆様は何を思われたでありましたでしょうか。いろいろなことを思うことができます。私自身は、この箇所全体を読んだときに、次の箇所が心に残りました。今日の真ん中あたりに「誇り」という言葉が書いてあるところです。ここで、「では、人の誇りはどこにあるのか」とパウロは問うています。

 

 ふだんの生活のなかで、誇りという言葉を使うことは、そう多くない、というか、ほとんどないように思います。自分でもどういうときにこの言葉を使うかな、と考えると、あまり出てきません。「もうちょっと誇りを持って頑張れよ」と人を励ましたり、あるいは、人を評価して「それがあの人の誇りなのかなあ」というように、その人の心の中の高い所にある、その人にとってすごく大事な何か、ということを現す特別なときに、この「誇り」という言葉を使う気がいたします。ふだんの生活の中でそうそう使うことはありませんが、特別なときにこの言葉を使います。

 

 その「誇り」が、パウロにとっては、神様の前で取り除かれたのです。人間にとって、これが大事だ、これが私だ、これが誇りだ、と思っている「誇り」が取り除かれたと言います。それはもう少し具体的は、どういうことを言おうとしていたのでありましょうか。私たちがふだん、誇りということを考える時には、仕事上のプライドとか、プライドという言葉のほうが使われているような気もなんとなくしますが、ここで使徒パウロが「人の誇り」と言っているとき、大きく分けて二つの意味をこの言葉から読み取る必要があると思います。

 

 その一つは、自分が何人であるか、という民族の誇りということです。自分はユダヤ人だということ、自分の出自、自分がでこでどう生まれ育ったか、ということです。同時に、パウロにとっては、もう一つの誇りとして、律法学者として生きてきたという自分の誇りがありました。つまり、一つは民族の誇り、そしてもう一つは、自分がどういうふうに生きてきたか、という自分の行い、この二つのことを、パウロはこの「誇り」という言葉にこめているのです。

 

 それは、自分がどういうことで救われると思っていたか、という二つのことです。一つは、民族です。家系ということも含んでいます。そしてもう一つは、自分がどう生きてきたかという人生の誇り。これら二つの誇りが、パウロから取り除かれました。どんな法則によってかというと、行いの法則ではなく、信仰の法則によって取り除かれたとパウロはここで言うのです。

 

 それは、使徒言行録やパウロ自身が記した手紙に記してありますが、パウロ自身が熱心な律法学者であり、なおかつクリスチャンを迫害する者であり、民族、そして自分がどう生きてきたかという人生の誇り。この二つの誇りによって生きてきたパウロにとって、キリスト教の信仰、主イエス・キリストの福音を信じたら行いがなくても救われるという信仰は、パウロにとって許せないものでありました。自分の誇りを否定するものだからであります。しかし、あるときパウロは目が見えなくなって、もんどり打って倒れたとき、その暗闇の中で主イエス・キリストが自分に語りかけてきたことを、パウロは後に書き記しています。パウロは、暗闇の中で、自分がもはや律法を守ることができない人間になったことを自ら経験したのです。

 

 そのあとでパウロの目はまた見えるようになったのですが、その後も何らかの病気あるいは障害がそのあとずっと続いていたのではないか、と思わせる記述が手紙などにあります。パウロがどのような人であったか、分からないことも多いですが、この回心において180度転換したのです。今まで持ってきた自分の誇り イエス・キリストに出会ってわかった、という経験を、パウロは自らの回心として受け止めて、本当にそこから生き方を変えたのであります。

 

 パウロにとって、本当の救いがやってきたのです。自分の目が見えなくなる、その痛み苦しみを通して、パウロにとって、この時代が変わったのです。イエス・キリストを与えてくださることによって、という言葉になっています。神様は今までは見逃してくださっていた 神の義をお示しに、今なられたのだ、そういう時代の転換が私にとってやってきた、というパウロの思いが伝わってきます。 

 

 こうしたパウロの思いは、今日、現代社会の中で聖書を読んでいる私たちにとって、どのように皆さんに伝わってくるでしょうか。それは一人ひとりそれぞれに違っていると思います。けれどもパウロの手紙を読んでいるときに、この私にも、そうした変化の時が与えられている、確かにある、そのように思えるのではないでしょうか。そのとき、その人にとって時代が変わるのです。世界の人々にとって一斉に時代が代わる、ということではないかもしれません。そうではなくて、今この私にとって、この時代が変わります。キリスト教のメッセージは、どの人にとっても、その意味を持っていると思います。

 

 今の時代はどんな時代でありましょうか。新型コロナウイルスが全世界の人間を苦しめている時代です。その時代の中にあっても、時代の転換ということが神様から示されています。イエス・キリストが私たちのところに来てくださったということは、2000年前の時代のあるひとつの歴史の地点においてだけではなく、いつの時代であったとしても、イエス様が私たちの心の中に飛び込んで来てくださるとき、そこから時代が変わっていくのであります。

 

 最近、私が頭をひねって考えていることがあります。それは、今私は日本基督教団京都教区の議長の役割を与えられています。すると、教団全体のことを扱う常議員会というものに私も陪席をします。オンラインで行われています。そして今、教団で大きな課題になっていることは、2年に1回の教団総会を、どうやって開くかということです。400名の議員を含めて500人ほどが集まる会議です。本当は去年開催予定だったのですが、コロナのために1年延期となりました。そのときには1年後にはなんとかなるだろうと思っていましたが、そうとはなりませんでした。

 

 最初は、東京の大きなホテルを借りてその中の広い会場を二つ借りて、それをリモートでつないで行うということを考えました。しかし東京に集まるということ自体が難しいだろうという話になり、次にオンラインで全国の17教区を結んで開催しようという計画も出ました。しかしこれは一カ所でも接続に不都合が出ると会議が機能しなくなります。一番確実なのは書面総会といって、文書にマルやバツを付けて返送する方法です。でもこのやり方だと、選挙が難しいのです。郵便投票では、議長や副議長の選挙などで過半数がとれずに再選挙や決選投票とかをしていると、郵便の往復で、全部で数ヶ月の時間がかかるそうです。

 

 そんな常議員会の話し合いの中でいろいろな意見が出てきました。たとえば、今のコロナの苦しい状況の中で、なんとか総会を開催しようとして、例えばこんな中継カメラを使ってこんな機械を使えばオンラインでこんなことができる、とか、インターネットでも投票できる、とか様々なアイデアが出ます。

 そうしたことが話し合われるのですが、よく調べてみると、オンラインでもカメラとか会議システムにすごくお金がかかるのですね。そしてオンラインでは全国の一カ所でも、電話線の接続が切れたら会議ができないというリスクがあります。その中でも、いや、できるんじゃないか、と会議で話し合われる中ら、私もその議論に加わるなかで、いろいろに考えさせられました。

 

 そして、「もしかしたら、それは」と、私の頭にふっと浮かんだことがあります。それは、バベルの塔の物語です。

 

 バベルの塔の話を皆様ご存じでしょうか。旧約聖書の創世記に出てくる物語です。人間が自らの知恵と力を使って、天まで届く高い塔を建てようとして、その塔がどんどん高くなっていくのですが、神様がそれではいけないと考えて、人間の言葉が互いに通じ合わないようにした、その結果、人間は塔を建てかけたけれども、それ以上に建てることができなくなり、そして人間はそのときから世界にバラバラに散って暮らすようになっていった、という物語です。

 いま、コロナ時代にあって、どんな技術を使えば総会が開けるのか、と議論するのは、今のこの苦しい時代にあって、なんとか希望を見いだしたいからです。それはよくわかります。けれども私は一方で、そうやって人間の技術を膨らませていったところで、それは最後は、バベルの塔ではないか、と思ってしまうのです。どこかで失敗するんじゃないのか、ということです。

 

 私は、このコロナの時代のなかで必要なことは、謙虚になることではないかと思います。人間にはここまでしかできない。今の状況の中でできることは限られている。この状況の中で助け合っていく。感染を増やさないためにちょっとでも努力する。そうした中で、本当にアナログなことですが、教団総会も書面で、つまり郵便でやったらどうかと私は主張しています。もちろん、それが正しいかどうかはわかりません。けれども、私は、このコロナの状況の中で、バベルの塔を求めてはいけないと思います。

 

 今日の聖書箇所において考えてみると、「人の誇りはどこにあるのか」「それは取り除かれました」というとき、コロナ問題において、みんなで力を合わせればなんとかなる、とか、科学技術、テクノロジーを使えば何とかなる、と考えることも、「人の誇り」ではないのかと思うのです。もちろん、科学が大切ということは私もよくわかっています。ワクチンも大切です。オンラインも大切です。けれども、そうしてやっていけば、いつか素晴らしい社会が実現すると考えるのは、実はバベルの塔ではないかと私は懸念をしています。

 

 使徒パウロが、今までの苦しみのなかで自分の誇りが打ち砕かれて、本当の救い主、主イエス・キリストと出会ったように、私たちも悲しみに満ちながら、誇りが打ち砕かれていくところに、本当の希望があるのではないでしょうか。

 

 お祈りします。

 神様、それぞれが置かれている状況のなかで、神様の御心を尋ね求めて、本当に謙虚になることができますようにお導きください。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

 

 

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 「聖書に、罪のゆるしを聞く」

2021年6月20日(日)礼拝説教 今井牧夫
 

 聖 書 マルコによる福音書 2章 1〜12節(新共同訳より抜粋)

 

 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、

 家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、

 戸口の辺りまですきまもないほどになった。

 

 イエスが御言葉を語っておられると、

 四人の男が中風の人を運んで来た。

 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れていくことができなかったので、

 イエスがおられるあたりの屋根をはがして穴をあけ、

 病人の寝ている床をつり降ろした。

 

 イエスはその人たちの信仰を見て、

 中風の人に、「子よ、あなたの罪はゆるされる」と言われた。

 

 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。

  神おひとりのほかに、いったいだれが、罪をゆるすことができるだろうか。」

 

 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、ご自分の霊の力で知って言われた。

 「なぜ、そんな考えを心の中にいだくのか。

 

  中風の人に『あなたの罪はゆるされた』と言うのと、

  『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

 

  人の子が地上で罪をゆるす権威を持っていることを知らせよう。」

 

 そして、中風の人に言われた。

 「わたしはあなたに言う。

  起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」

 

 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。 

 人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。 

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 (以下、礼拝説教) 

 5月のペンテコステの時期の前から、京北教会では、教会とは何か、ということを皆さんと一緒に考える聖書箇所を選んで来ました。そして、これからしばらくの期間、聖書の選び方において、新しい試みをしたいと思います。しばらくの間、福音書と、福音書以外のパウロの手紙などの箇所を、交代交代に毎週の礼拝で扱うことにしたいと考えました。なぜならば、福音書で語られているイエス様の福音が、展開されているのがパウロの手紙などなので、それらを交代交代に毎週の礼拝で読んでいくことで、よりイエス様の福音が私たちのところに伝わるのではないかと考えたのです。

 

 そうしたことから、本日はマルコによる福音書2章から選びました。次週はローマの信徒への手紙から選びます。そうして違った箇所を毎週交代して読みながら、神様からのメッセージを皆様と共に聴いていきたいと願っています。本日の箇所であるマルコによる福音書を選んだ理由は、罪のゆるしということが語られているからであります。そして、次週に読むローマの信徒への手紙は、神様に対する人間の罪のゆるしということが大きなテーマになっています。では、この罪のゆるしということは、マルコによる福音書ではどのようにイエス様から語られているでしょうか。そのことを読んでいきます。

 

 本日の箇所を最初から見ていきます。「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった」とあります。マルコによる福音書2章は、イエス様の福音宣教が始まってまもない頃のことを記しています。イエス様が様々な人々の病気のいやしをしておられたことが、あちこちで知れ渡り、たくさんの人が来た。そして、家の中ですきまのないほどになっていた、と書いてあります。この、すきまのないほどになっていた、ということが後の伏線になっています。外から人が家の中に入ることができず、イエス様のところに近づけなくなっていた、ということが示されています。

 

 その次に、「イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れていくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。」と書いてあります。

 

 そのころの家というのは土で作られており、土と木でを組み合わせられて、屋根に上がる階段が外にあったとのことです。屋根をはぐことは、日本家屋などに比べると、ずっと簡単にできたようです。しかし、このようにイエス様が家の中でお話をされているときに、家の屋根をはぐということが、いかに非常識なことであるか、ということはすぐにわかります。

 

 そこに、中風の人を床に乗せて4人の人たちが、つり下ろしたというのです。もう、ありえない光景がそこに広がっていたのです。イエス様のお話を聞いていた人たちは驚いたでしょう。まことに無礼というか、非常識というか、ありえない、そういうことが起きたときに、イエス様は仰いました。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪はゆるされる』と言われた。」

 

 ここで終わっていれば、この屋根をはぐということは非常に驚くことではありますが、イエス様が一人の病人に罪のゆるしを宣言した、ということで終わる話でした。しかし、話はこれで終わりませんでした。その続きがあります。

 

 「ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。『この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪をゆるすことができるだろうか。』」

 

 そのように心の中で考えたとあります。このときイエス様の近くに座っていた律法学者たちは、イエスという人がどういう人であるかを見定めてやりたい、そんな思いがあったと考えることができます。単純にイエス様のお話が聞きたいとか、自分の病気をいやされたいと思って来たのではなかったのです。そんな彼らの判断基準からする許せない言葉が、イエス様の口から出てきました。「子よ、あなたの罪はゆるされる」。

 

 病気のいやしをするのは医療の働きですから、それは良いことだとしても、「あなたの罪はゆるされる」ということは許されない言葉、越えてはならない一線を越えることだと彼らは思いました。それは、病気というものについて、人間が神様に対して何らかの罪をおかしたことで、神様から罰が与えられた、つまり罰(ばち)が当たったので、そういう病気になったと人々は理解していたからです。

 

 それなのに、その人に対して、罪のゆるしを宣言するということは、罪のゆるしは神様しかできないことであるのに、イエスが自らを神としているのに等しい言葉であり、傲慢であり、神を冒涜していると考えたのです。神しかできないことを、人間のイエスでもできるかのように言うことが、神を冒涜している、そのように律法学者たちは考えたのであります。

 

 こうした聖書に出てくる場面を読むときに、現代の日本社会に生きている私たちは、いろいろなことを思います。まず、人の病気を神様の罰と考えることはしません。科学的な世界観の中で生きている私たちは、人が病気になったからといって、これは罰(ばち)が当たったとか、神様に対する罪である、なんてことは普段考えません。そして、なおかつ、人の罪のゆるしを宣言することが神様を冒頭しているという考え方、これも全くピンとこないことです。それは、イエス様は神の子だと考えられていて、教会に来ていたら、イエス様だったらそういうことは当たり前だろうと私たちは思っているからです。けれども、聖書の中においては、そうした私たちが持っている常識というものが、一つひとつ問い直されていくのです。 

 まず、病気が罪の結果であるという当時の考え方です。そんなことは偏見であり、迷信であると私たちは普通は考えます。けれども、本当にそうでしょうか。

 ここで突然、私自身の話になりますけれども、私は3年前に痛風という病気になりました。足の痛みを突然に発症しました。京都教区総会の日の朝に発症しました。本当に大変でした。すごい足の痛みで七転八倒でした。とても立っていられない。会場の京都教会に、行くには行ったのですけれども、そして、私は総会の副議長だったのですが、とてもそんな仕事はできません。頼み込んで帰らせていただきました。そこで帰るときに、ある方からこんな言葉をかけられました。「今井さん、その病気は、昔はぜいたく病と言われてたんですよ。」

 

 それは、いいものばかり食べているからそうなるんですよ、というユーモアであり、痛風という病気に対するからかいなのですが、言葉として厳しかったですね。このときの言葉は、何が言いたい言葉かというと、「自業自得」ということが言いたいことなのです。おいしいものばかり食べていたからそうなったんですよ、というその言葉には、愛があります。

 けれども、イエス様の時代に、病気がその人の罪の結果だ、罰(ばち)が当たったんだ、と考えていたことと、現代の私たちが病気を、自業自得ですよ、いいもんばっかり食べてたからですよ、と言うことは、どれぐらい違うのでしょうか。もちろん、質は違っているのですが、似ていると私は思っています。つまり、病気になった理由というものを考えるときに、その原因をその人の責任にすることによって、その人に決定付けている、その感覚は現代の私たちも持っているのです。

 

 その病人に対して、イエス様は、あなたの罪はゆるされると言われました。自業自得ではない、と言ってくださっているのです。イエス様はそう仰ってくださいました。それは、その人の名誉を回復する言葉でありました。けれども当時の律法学者たちは、その人たちは旧約聖書の律法をよく勉強していた、当時の宗教的な世界のリーダーでありましたが、その人たちによれば、イエス様による名誉回復の言葉は、神を冒涜する言葉でした。神しかできないことをなぜイエスがそう言うのか。それは宗教者としては真っ当な問いであったと思います。自分たちが信じている権威、それから外れたところで、罪のゆるしを宣言する人がいる、そのことは許せないことでありました。

 

 そして、こう続きます。「イエスは、彼らが心の中で考えていることを、ご自分の霊の力で知って言われた。『なぜ、そんな考えを心の中にいだくのか。中風の人に「あなたの罪はゆるされた」と言うのと、「起きて、床を担いで歩け」と言うのと、どちらが易しいか。』」

 

 このようにイエス様は問いかけられました。律法学者たちに、あなたたちが言っていることは間違っている! と言うのではなくて、問いを投げかけたのです。どう思う? と問いを投げかけられたのです。これが、イエス様の闘い方でした。

 

 「中風の人に『あなたの罪はゆるされた』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」こう尋ねられて、皆様どうお考えになられるでしょうか? 

 

 私は子どものときにこの箇所を読んで、これはどっちが易しいのだろう? と本当に考え込みました。どっちも難しいからです。けれども、どっちが難しいか、と言われたら、罪はゆるされるというほうが易しいんじゃないかな、と思いました。それは、罪のゆるしを言うのは、言葉だけだからです。それに対して、実際に奇跡を起こすことは難しいと思ったのです。
 

 しかし、そんなことをこの問いにおいて、イエス様は仰りたかったのでしょうか。このことに対するハッキリとした答えはありませんが、今日、この箇所を読んだ私が皆さんと一緒にわかちあいたいことがあります。それは、どちらが易しいか、という問いの仕方の意味です。

 

 こうした問いをするときに、それは何を相手に求めている問いなのでしょうか。私は、「どちらが大事なのか」と問う人は「どちらも大事だ」と言いたいのではないかと思います。そのうえで、「あなたはどちらのことが大事だと思っているのか」と聞いているのだと思います。そのように、あなたは、どちらが大事だと思っているか、と聞かれると、これも答えにくいことです。

 

 その次にイエス様は、次のように言われました。「『人の子が地上で罪をゆるす権威を持っていることを知らせよう。』そして、中風の人に言われた。『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。』その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を賛美した。」 

 

 ここでイエス様は、「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて床をかついで歩け」と言うのと、どちらが大事か、と問いかけられたあとに、「起きて床をかついで歩け」と言われました。するとその通りになりました。イエス様にとっては、二つのことは同じことでした。

 

 二つのことがあるのではなくて、イエス様にとっては、同じことだったのです。どちらが大事かと尋ねられたときに、聞かれた側は、二者択一が迫られているように思いますが、そのように二者択一をしようとすることが罪なのではないでしょうか。そのように二者択一にすることによって、神様の恵みを二つに分けようとしていることが問題なのではないかと思います。

 

 「あなたの罪は赦される」と言われたときに、その人が、神様に対して罪を犯したからそのようになった、そのことからゆるされる、ということではなくて、あなたをしばりつけているすべてのことから解放される、そしてその結果として、その人は起きて床を担いで歩けるようになります。床をかついで歩くということは、自分がそれまで縛り付けられていた場所、そこにしか自分の居場所がなかった、もうその自分を縛っていた場所が必要なくなった、ということを示しています。

 

 そのようにして、言葉における罪のゆるしと、その人が実際に解放されるということが、分けられていなくて、その二つが一つである、ということが、今日の箇所において言われているのです。

 

 そして、今日の箇所が持っている恵みは、それだけにとどまりません。このような出来事を起こしたことは、4人が1人の中風の人を運んできたということに始まっています。この5人の人の関係がどんなものであったか、そのことは、聖書には何も書いてありません。けれども、この5人はイエス様のところに行く、そしてイエス様の言葉を聞く、そのために協力してやってきました。屋根をはぐというのは非常識なことではありましたけれども、その方法しかなかった。そしてイエス様のところに来ました。そのときにイエス様は屋根をはぐ行為をとがめるのではなく、あなたの罪はゆるされる、と言われます。もしかしたら、屋根をはぐことはイエス様を冒涜することであり、罪であったかもしれません。しかし、このイエス様の言葉によって、その罪はゆるされました。

 

 罪のゆるしとはどういうことか、ということが強く語り伝えられて来ています。それは私たちの常識を越えたことです。私たちがイエス様に近づいて行こうとするときに、様々に起こってくる、非常識や無礼なことや様々に起きてくる問題も含めて、あなたの罪はゆるされる、と言われ、そして自分を縛っている様々な縛りから解放されるのです。

 

 この4人の人と中風の人、5人の人たちの関係は、教会ということの一番元の形かもしれないと私は思います。ここには、誰がリーダーであるか、誰がどういう役割を持っているか、ということが言われているのではなく、動ける人も動けない人も共にイエス様のところにやってくるときに、その人たちを抑圧していたものから解放されていきます。罪のゆるしとは、こういうことであるということが言われているのであります。

 

 罪という言葉は、私たちにいろいろなことを思わせます。自業自得だということもその一つです。自分がこんな人間だからこんなふうになるんだ、自業自得だと。自分でもそう思います。人からもそう言われもします。けれども、そうでしょうか。神様の目から見たときに、一人ひとりの罪は、自業自得ではありません。イエス・キリストがあなたの本当の姿を見つけ出し、あなたの名誉を回復してくださいます。罪のゆるしとは、そういうことであることが言われています。

 

 お祈りします。
 天の神様、私たちが聖書を読んでいてわからないことがあり、いろいろなことにつまづいて、イエス様のところにたどりつけないときに、私たちにも屋根をはぐ勇気をお与えください。そして人と協力する、その心を与えてください。様々な悪しき力によって押さえつけられている人間一人ひとり、名誉を奪われ、剥ぎ取られている一人ひとりが、イエス様と出会うことによって、導かれ、罪ゆるされますように。そしてこの世界全体にまことの平和が与えられますように、心よりお願いいたします。
 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

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 「苦難は練達へ、希望は礼拝へ」

2021年6月27日(日)礼拝説教 今井牧夫

 

聖 書   ローマの信徒への手紙 5章 1〜8節(新共同訳より抜粋)

 

 このように、

 わたしたちは信仰によって義とされたのだから、

 わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、

 このキリストのおかげで、

 今の恵みに信仰によって導き入れられ、

 神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

 

 そればかりでなく、

 苦難をも誇りとします。

 

 わたしたちは知っているのです、

 苦難は忍耐を、

 忍耐は練達を、

 練達は希望を生むということを。

 

 希望はわたしたちをあざむくことがありません。

 わたしたちに与えられた聖霊によって、

 神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

 

 実にキリストは、

 わたしたちがまだ弱かったころ、

 定められた時に、

 不信心な者のために死んでくださった。

 

 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。

 善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。

 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、

 キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、

 神はわたしたちに対する愛を示されました。

 

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 (以下、礼拝説教) 

 京北教会の礼拝では、ここしばらく、ローマの信徒への手紙とマルコによる福音書を毎週交互に読むことによって、より広がりを持って聖書を深く読んでいきたい、そのように願っています。本日の箇所はローマの信徒への手紙からです。

 

 この箇所には、聖句(聖書の言葉)として、よく知られている言葉が含まれています。今日の箇所の真ん中あたりですが、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という言葉です。そしてそのあとにこうあります。「希望はわたしたちをあざむくことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

 

 「苦難は忍耐を、〜練達は希望を生む。」これらの使徒パウロの力強い言葉、それはパウロ自身の経験に根ざした言葉であります。私たちが神を信じる喜びとは、単に神様に救われるという経験だけではなくて、この現実の世界に生きる中で味わう様々な苦難ということも、神様によってその意味が変えられて、最終的には希望を生む、そのことが大きな喜びであります。今日の箇所はそのようなことを示しています。

 

 しかし、「苦難は忍耐を、〜希望を生む」とある、この言葉は、聴きようによっては、聴くことに少し辛い思いがする言葉かもしれません。というのは、現実の重い苦しみに直面するときには、この聖書の言葉は、なるほど、それは確かにそうなのだろうれれども、それは一体どうやったら本当のことになるのだろうか、と思うときもあるのです。自分はただ苦しいだけではないのか、と。苦しみだけが続くのではないか、そう思うとき、こうした聖書の言葉が自分から少し遠く思えるときもあります。

 

 私自身も、この言葉を聴くときに、何か、自分に苦労することが強く迫られているような気がするときがあります。つまり、この言葉から、お前は苦しめ、苦しめ、苦しんだら最後に希望が与えられるんだ、というように、苦しむことが与えられていると感じたときに、この言葉がいやな言葉に思えた経験を持っています。それがどんなに一般的に素晴らしいと言われる言葉であっても、その言葉が私に何か苦痛を強いていると思えるときには、どんなに良い言葉でも、その言葉を素直に聞くことができなくなります。

 

 では、今日のこのような言葉をどのように聴いたら良いのでしょうか。現在の世界における私たちにとっての大きな苦しみとは何でしょうか。それは人によって違うのですが、大きな世界の流れで見ると、それはコロナ問題であると言って良いと思います。世界において多くの人が苦しめられています。多くの人の命が奪われ、多くの生活が壊されています。この苦難の現実は、パウロの言葉のように、最後には希望に至るから良い、と言えるのでしょうか。希望に至ることもなく失われていった命、帰ってこない壊された生活、そうしたことを思うときに、最後は神様が良くしてくださる、という楽観的な希望だけで世界の現実を語るわけにはいきません。では、神様はこの時代の中で、何を与えて下さっているのでしょうか?

 

 私自身が最近経験したことをお話します。私たちの京北教会が加盟している日本基督教団の京都教区は、ここ20年以上、韓国の中西部にある大田(テジョン)という都市を中心にした地域にある、韓国基督教長老會大田(テジョン)老會との交流を続けています。毎年交代してお互いの国を訪問しあう形での交流プログラムを続けてきました。それがコロナ問題で海外渡航することができなくなり、この2年間は全く行き来がなしということになりました。

 

 しかし、コロナのために何もしないというのでは、今まで続けてきた交流が絶やしてしまうようで残念なので、何かしようということで、オンラインを通じての宣教協議会を開くことになりました。そして、韓国と日本のそれぞれの教会の立場から、コロナ問題の中でどんな現状にあるか、ということについて発題をすることになりました。そして私は今、京都教区の総会議長という立場なので、頼まれてコロナ問題における京都教区の現状について、その宣教協議会の中で短いお話をすることになりました。お話といってもたった15分間で、通訳を入れて2倍の30分という短い時間です。

 

 その中で日本の教会の現状をお話したのですけれども、韓国の教会も、日本の教会も、基本的には同じです。礼拝に集うことができなくなった、そこでオンライン礼拝を配信するようになった、とか、感染対策でこんなことをしたとか、コロナ禍における苦労話と言いますか、やっている工夫はそんなに変わりません。その状況の中で私が発題をすることになって、どんな話をしたら良いのだろうかとのずいぶん迷ったのですが、その中で私はこんなことを言いました。

 

 日本の教会は、韓国の教会に比べてずっと規模が小さいという違いがあるという話をした後に、日本の教会においては、コロナ問題によって、やがて来るだろうと思っていた将来が、早くやて来た、5年先ぐらいだと思っていたことが今来ているように思います、と言いました。教勢や財政について、日本の教会は弱くなっています。その中で5年ぐらい先に来るかなと思っていた現実が、今来ているのです。

 

 つまり、今の教会の状況は、降ってわいたようにして、思ってもいない状況が起きたということではなく、やがてもっと大変になると思っていた状況が、思っていたよりも早く来た、コロナ問題によって時計の針が進んだような気がしています、と私は言いました。だから、これは来るべき状況が今来たのだから、この今の状況から逃げずに、この状況の中でこれからどうやって教会が生きていくか考えるべきときであると、そういう話をしました。

 

 そしてその中で次のような話をしました。今のこの状況の中で、聖書から何を聴き取るか、聖書からどういうメッセージを聴くか、という話として三つの話をしました。

 

 一つ目は、出エジプト記の話です。聖書では、出エジプト記の信仰が一番の土台にあります。神様を信じて脱出していく、という出エジプトの信仰が、聖書の一番土台にあります。しかし現代の私たちが直面している状況は、別の国に脱出して、そこに新しい世界がある、という夢を見ることはできません。すると、今私たちはどうしたらいいのか。

 

 それは、どこか別の世界に出て行くことではなく、自分たちが今いる世界、この場所を神の国に変えていくということです。それが、「出エジプト」ならぬ「出コロナ」であると言いました。つまり、どこかに理想郷があるからそこに向かって脱出すると考えるのではなく、神の国の到来を今ここに待ち望むということを、まずお話しました。

 次に二つ目に、「バベルの塔」の話をしました。これは、人間が自分たちの知恵と力で、天まで届く高い塔、神様まで届く塔を作ろうとしたのですが、それを良しとされなかった神様が、人間たちの言葉をバラバラにしてお互いに通じないようにしたことで、バベルの塔は途中までしか建てることができなかった、というお話です。

 

 現在のコロナ問題の中で世界中で言われているのは、科学技術の必要ということです。テレワークなどインターネットなどでコロナ問題を克服しようとすることがとても進んでいます。またワクチンの製造も、今までは考えられなかったスピードで進んでいます。それらはすべて大事なこと、必要なことなのですが、そのようなことだけに依り頼んでいると、それは「バベルの塔」にならないかという心配を私はします。

 

 つまり、みんなで助け合うというヒューマニズム、みんなで力を合わせたら平和になるんだよ、というヒューマニズム、そしてテクノロジー、この二つが結びつくと、どうなるかというと、一見素晴らしいように見えて、そこにバベルの塔が待っているのではないか、そのように人間はどこかで失敗するのではないか。人間は罪人であり、不十分であり、バラバラな存在であることを忘れてはいけないのです。それを忘れたときに、テクノロジーヒューマニズムでコロナ問題を克服できるかのように、錯覚をしてしまうのではないか、と話しました。

 

 そして三つ目に、これで終わりでずか、これは福音書でイエス様が語っておられることですが、終末のことをイエス様が言ってる箇所があるのです。マタイによる福音書24章12節にこうあります。「不法がはびこるので愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われる。」そのようにイエス様はおっしゃいました。この世界には、いろいろな問題が起きているときに、最終的に何が一番の問題になっていくかというと、自然災害とか戦争とか様々な問題があるけれども、一番のことは、愛が冷えるということをイエス様がおっしゃっているのです。愛が冷えるということが、人間の罪の世界の行き着く先なのです。それは例えば、教会のこととして言えば、教会の中において愛が冷えていく、つまりお互いがお互いを信頼できなくなっていく、信頼関係が壊れていく、そういうことが一番の問題なのです。

 

 自然災害やコロナ問題なたくさんの問題があるのですが、どれも外からやってくる問題です。それに対して一番の問題は、愛が冷えていくこと、互いの信頼関係が冷えていく、愛が壊れていく、そのことによって世界が壊れていく。その可能性を世界はいつも持っています。しかし、天地を創造された神様の言葉を信じることにおいて、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。だから、いくら愛が冷えたとしても、愛を疑わずに信頼していくとき人は救われるということであります。

 

 いま、コロナ問題の中で、教会はどんなふうに対応すべきか、ということにおいて様々な考え方がありまずか、一番大事にしなければならないことは、教会の中で愛が冷えていく、ということを食い止めていくこと、それに対して闘うことです。教会の中で信頼関係が壊れていく、崩れていく、そのことに対して私たちは信仰を持って闘わなくはなりません。愛を持って闘わなくはなりません。神様が人と人をつないで、結んでくださる、私たちはそのことをあきらめてはならないのです。 

 

 韓国の大田(テジョン)という、韓国の中西部地域にある教会の方々と、京都教区の私たちがオンラインで宣教協議会をしましたときに、以上のような話を私はさせていただきました。そして、話を聴いておられた韓国の方から、この話はとても良かったというご感想もいただき、私はとてもうれしかったのです。

 

 今日の説教題は、「苦難は練達へ、希望は礼拝へ」と題しました。「苦難は〜」から「希望を生む」、そこまでは、聖書に書いてあります。では、その希望というものは、そのあとどうなるのだろう、と私が考えてみたとき、私は、「希望は礼拝へ」ということを考えてみました。

 

 この希望というのは、単なる人間的な希望ではありません。神様が私たちに、神様の聖い霊を与えてくださる、私たちに神の愛が注がれている、そこにこそ本当の希望があるのです。それは、私たちが一生懸命にインターネットをしたり、ワクチンを打ったりする そうしたことも一つひとつ必要なことでありますが、そうしたことで世界が平和になるのではなく、神の愛が一人ひとりの心に注がれている、ということが本当の希望であることを、私たちは見失ってはいけないのです。

 

 本日の聖書箇所「苦難は〜希望を生む」という言葉を読むときに、ちょっと心にひっかかるのは、本当にそんなことがあるのだろうか、現実は厳しいばかりではないか、と思う、そういう気持ちです。なぜそう思うかというと、希望は見えないからです。希望が見えないから、ただ今の現実が苦しいから、この苦しい現実を我慢するための理屈として、こんな聖書の言葉があるのではないか、と思うと、私たちは聖書の言葉を素直に聴くことができません。しかし、本当はそんなことはないのです。

 

 希望は何を生むか。それは礼拝を生むのです。神様を信じ、神様を拝み、神様に感謝し、そして聖書を通して神様の言葉を聴く、みんなで祈る、みんなで賛美歌を歌う、そのことによって、礼拝するということから、私たちに本当の力が与えられます。希望というものは、礼拝に向かいます。そこにおいて、今まで自分が、自分の中で悩んでいた、様々な悩み苦しみということが、神様の前にさらされ、神様の光を浴びることによって、その悩み苦しみが変わっていくのです。

 

 本日の箇所の後半に、次のように書いてあります。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」とあります。

 

 これは、イエス様が、私たちのために十字架に架けられて死なれた、という出来事の解釈として記されています。イエス・キリストの死、それは何か立派な人のために命を捧げたのではなくて、私たち一人ひとりのような罪人、弱く小さな、取るに足りない私たちのためにイエス・キリストが、自らの命を献げてくださったということであります。それは神学的な解釈でありますけれども、神の愛というのは、取るに足りないような小さな一人ひとりのために、ご自分を犠牲にしてくださるということ、それが神の愛だ、ということがここで言われています。

 

 次にこうあります。「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」

 

 ここには、神の愛というものが、神に対して忠誠を誓う、神に対して立派な成績を上げる、というような立派な人のために神が犠牲を払うのではなくて、神に対して何の貢献もしないような小さな存在、罪人である私たち、その私たちが神に愛されて、その私たちのためにイエス・キリストが来て下さった、そしてその命を献げられたという、神の愛についての解釈を示しています。それはあまりにも、人間的な理屈を越えて、人間の思いを越えて記されていることなので、私たちはすぐにはそのことを受け取ることができないかもしれません。しかし、神の愛というものは、このようにして私たちを救ってくださるのであります。その神様に対する感謝を表すのが、礼拝です。私たちの希望は、神様への感謝を表す礼拝へとつながっていきます。

 

 先週の礼拝でのマルコによる福音書2章では、4人の人たちが1人の中風の人を床に載せてかついでイエス様の所にやってきました。そして人が多くてイエス様に近づけなかったので、2階に上がって屋根をはいで、その中風の人をイエス様の前につり下ろしました。それを見たイエス様は、「あなたの罪はゆるされた」と言われました。人間の病気は、その人の罪の結果と誤解されていた当時にあって、その言葉は、その人の病を癒やす言葉でありました。イエス様に出会うこと、イエス様の言葉を聴くことによっていやされる、そのことを願った四人と中風の一人の人、その人たちの信仰が良しとされました。困難な世界の中で生きていく、この私たちの教会もまた、その5人の人たちのようでありたいと願います。

 

 お祈りします。
 神様、私たちがそれぞれに置かれている苦難の現場を思います。神様、どうぞ一人ひとりの現場をご覧になってくださいますように。そして、その中で私たちが罪人でありながら、しかし、自分として生きていきたいという思いを捨てられずに、与えられた場に食らいついて生きています。そのお一人おとりを神様が愛し、導いてくださいますように。この世界全体が苦しめられ、多くの命が失われ、もう戻ってこない、たくさんの現実がある中で、それでも礼拝することに希望を持って生きることができるよう導いてください。そして、より弱い立場の人たちのことを思い、教会が何をできるか、一人ひとりが祈り、尋ね求めていくことができるようにお願いします。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。