京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2021年7月の礼拝説教

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京北教会
2021年7月4日(日)、11日(日)、18日(日)、25日(日) 

礼拝説教

 

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2021年7月4日礼拝説教
「新しい関係、仲間のゆるし」
今井牧夫

 

聖 書  マルコによる福音書 2章 13〜17、21〜22節

 (新共同訳より抜粋)

 

 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。

 群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。

 

 そして通りがかりに、

 アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、

 「わたしに従いなさい」と言われた。

 彼は立ち上がってイエスに従った。

 

 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。

 多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。

 実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。

 

 ファリサイ派の律法学者は、

 イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、

 「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。

 

 イエスはこれを聞いて言われた。

 「医者を必要とするのは、

  丈夫な人ではなく病人である。

  わたしが来たのは、

  正しい人を招くためではなく、

  罪人を招くためである。」

 

 「だれも、織りたての布から布ぎれを取って、

  古い服に継ぎを当てたりはしない。

  そんなことをすれば、

  新しい布ぎれが古い服を引き裂き、

  破れはいっそうひどくなる。

 

  また、だれも、

  新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。

  そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、

  ぶどう酒も革袋もだめになる。

  新しいぶどう酒は、

  新しい革袋に入れるものだ。」

 

………………………………………………………………………………………………………

 

 (以下、礼拝説教) 

 

 5月のペンテコステ(聖霊降臨日)の前の時期より、しばらくの期間、教会とは何かということを皆様と共に考える聖書の箇所を皆様と共に読んでいます。そしていまは、ローマの信徒への手紙とマルコによる福音書を、毎週交互に礼拝で読んでいます。使徒パウロの手紙と、イエス・キリストの福音を記した福音書を交互に読むことで、教会とは何かということを知っていきたいと願っています。今日の箇所はマルコによる福音書2章であります。

 

 イエス様が公の宣教を始めていた、最初のころの話であります。まだ12人の弟子を全員集めていないときのことです。イエス様が神の国の福音を宣べ伝え、新しく歩む仲間が増えつつあった、その最初のころの話です。

 

 順番に読んでいきます。「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」

 

 ここには、収税所というものが出てきます。これはそのころのイスラエルユダヤの国がローマ帝国の植民地であった時代のことです。ローマ帝国の強大な軍事力で人々は支配されていました。町のあちこちに収税所があり、この橋を通るときには税金をいくら、この道を通るときには税金をいくら、と税金を徴収していたようです。そうした理不尽といってよい税金に人々は苦しめられていました。こうした税金を集める人は徴税人と呼ばれていました。こうした徴税人の仕事をしていた人は、世間において嫌われていたようであります。

 

 その理由は二つあり、その一つはローマ帝国の手先になって税金、お金を集めるからです。特に、聖書を信じるユダヤの人たちにとって、ローマ皇帝、それは自分を礼拝することを人々に教勢していた存在でしたから、その皇帝のために税金を取るということは、信仰においても許しがたいことでありました。そしてもう一つの理由は、徴税人たちが単に税金を徴収するだけではなくて、定められている分よりも多くを取り立てて、その分を自分の私腹を肥やすために取っていたということであります。強大なローマ帝国の権力がバックにありますから、逆らうことができません。そうしてお金をちょろまかすことによって、私腹を肥やしていました。人々はそのように思っていました。

 

 そうした理由によって、この徴税人という人たちは、世間において嫌われた存在でありました。そのレビという人が収税所に座っているのを見て、イエス様は仰いました。「私に従いなさい。」 すると、すぐに立ち上がってイエスに従った、と書いてあります。なぜそうやってすぐに立ち上がることができたのか、なぜすぐに従うことができたのか、そうした理由は一切書いてありません。

 

 場面は次にいきなり、レビの家の場面に移ります。「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。」

 

 レビのような徴税人、そして罪人と書いてあります。それがどのような人たちであったかわかりませんが、世間において罪人とされていた人たち、徴税人同様に世間から嫌われていた人だったと思われます。そういう人たちがイエスと、イエスの弟子たちと一緒に座って食事をしていた。徴税人同様に嫌われていた人たちが、レビの家にやってきたのであります。イエス様がこのレビという人を選んで、あなたの家に行く、そのように言ったのでありましょう。この日の宿も、このレビの家だったのでしょう。突然でしたが、イエス様のそのような言葉によって、このときこの家は、レビとレビの仲間たち、イエスとイエスの弟子たちでいっぱいになっていたのです。

 

 「どうして彼は罪人は罪人たちと一緒に食事をするのか」。徴税人、罪人、そうした人たちは世間から嫌われていただけではなく、ユダヤの人たちが信じる聖書の信仰において、批判されていた人たちでありました。それは、徴税人がローマ帝国に仕える人たちだからであります。そして神様の信仰の前にゆるすことができない、汚れた人たちでありました。ですから、そうした罪人たちと付き合わないようにしていたのであります。イエスはそうした人たちと共に食事の席に着かれました。そして一緒に時間を過ごしておられた。その様子を見て、イエスが一体なぜそんなことをするのか、と不審に思ったのです。ファリサイ派とは、律法学者の中でも特に律法に厳格な人たちのことを指しています。そしてイエス様はおっしゃいました。

 

 「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」

 

 この場面に、なぜイエス様が登場しているのか、そして、私たちが今なぜ聖書を開いて礼拝しているのか、という理由が、このイエス様の言葉で表されています。それは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。罪人が必要としている救いを与えるために、です。自分たちは汚れていない、自分たちは汚れていない、神様の前でそうでありたい、と胸を張りたい人たちにとっては、救いというものは、またイエス・キリストの救いということは、必要とされないものであったかもしれません。そうした人たちのところにはイエス様は行かれません。そうではなくて、必要とされるところに行かれるのであります。

 

 医者を必要とするのは病人である。これは当たり前のことではありますが、その当たり前のことを言うことによって、その当たり前のことに気づいていない、律法学者たちに対してイエス様は仰るのであります。そして、それはそのころの律法学者たちだけに対してではなく、イエス様を理解していないすべての人に対して、イエス様はこの言葉を仰っておられるのであります。必要とされる所に私は行く、そのことが私たちに伝わってきます。そのイエス様に来ていただきたい、と私たちは思っているでしょうか?

 

 律法学者たちが、レビとの食事を見てつまずいたように、今日の私たちもまた、キリスト教に対して、どこかでつまずいているかもしれません。なぜ、なんのために、教会とはあるのでしょうか。そのことを考えると、私たちの心はちょっと遠ざかっていきます。何のために教会ってあるのでしょう。何のために礼拝ってあるのでしょう。いろいろ考えているとわからないことがいっぱい出てきます。どうして、どうして……と問うていったときに、どうしてだろう、と自分でもふと考えこんでしまうかもしれません。律法学者たちがつまずいたように、私たちもまたつまずいています。

 

 そのような私たちに対して、イエス様が仰った次の言葉を見てみます。「だれも、織りたての布から布ぎれを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布ぎれが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

 

 このようにイエス様は仰いました。この「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という言葉は、名言のようにして、ことわざとして使われます。新しいことをするときには新しい器がいる、という意味です。こうした言葉は、ことわざとしては知られていても、元々はどういう意味で使われていたかは知られていないかもしれません。福音書の今日の箇所においては、この言葉は、主イエス・キリストの福音というものは新しい教えであるから、これに生きる人は、新しい生活が必要になる、ということを示す言葉であります。新しい考え方を入れるのは、新しい生活であり、新しい生き方であります。それは社会の常識を打ち破るものでもあります。そういうときもあるのです。

 

 今日の箇所において、イエス様が徴税人レビに声をかけ、そのレビを選んでその家に言って食事をした、それは新しい生き方でありました。その新しい生き方に入れた、新しいぶどう酒というのは、神の国の福音です。

 

 人は行いによってではなく、信じることにおいて救われる。人間的な努力、能力、家柄や、今までやってきた実績とか、あるいは男性か女性かとか、健康か、そうでないかとか、そうした、その人間の属性、性質、背景、そうしたものによって人は救われたり救われなかったりする、ということではなくて、そうしたことと何の関係もなく、イエス・キリストがあなたを選び、イエス・キリストが、あなた共に食事をしたいと言ってくださるとき、その声を受け入れるとき、それを受け入れることによって、その人のすべての罪がゆるされているのです。

 

 罪のゆるしとは神様の側でなされることであり、人間の側でなすことではないのです。聖書で教えられている罪とは、現在の私たちが想像するようなことではなくて、神様との関係がまっすぐでないということを指しています。神様との関係を直す、元に戻す、そのことにおいて私たちは本当の自分になることができます。レビはこのときにそのことを経験したのでありました。

 

 そのような新しい経験をもたらしてくださるイエス様の福音は、新しいぶどう酒であって、それを入れるのは新しい革袋です。実際に新しいぶどう酒を革袋に入れると、とてもその発酵の力があるので、古い革袋に入れると破ってしまうのです。また、新しい布は古い布に合わせると、合わないと引っ張り合ってちぎれてしまいます。ちぐはぐなことになってしまいます。そんなことにならないために、新しい教えは新しい生き方の中に入れる、それがイエス様の教えでありました。このイエス様の言葉を、今日の私たちはどのように聴くでしょうか。

 

 私は、この箇所を何度も読む中で思い起こすのは、今までこの言葉を何度も何度も読んで来たなあ、という箇所です。この物語は、マルコによる福音書の始めのあたりにあります。最初のほうに書いてある物語は覚えるのです。しかしそのあと読み続けるのがしんどくなって休みます。すると読み通す事ができなくなり、次にまたもう一度最初から読み始める。すると最初のころの1章とか2章の話は、何度も何度も読むことになります。このレビの話も何度も何度も読んできました。

 

 そして今思うことは、この箇所にはレビの心の中のことは何も書いていないということです。どんな人生を歩んできたのか、そしてイエス様に声をかけられたときに、何を思ったのか、レビがこの職場である収税所を離れて、どうなったのか、仲間たちはどうなったのか、そんなことはわかりません。けれども、何一つ具体的なことがわからないのに、この話はなぜか私の心にいつも残っていきます。それはなぜだろうか、といろいろ考えてみたときに、ふと私が思ったのは、この箇所にはレビという人だけが登場するのではなくて、レビの仲間たちがたくさん登場するということです。多くの徴税人や罪人たちが、同席していたとあります。

 

 イエス様の弟子たちと、多くの罪人や徴税人たち。それは律法学者たちから見ると、ちぐはぐな集まりでした。水と油のようなはずの、神の教えを宣べ伝える人たちと、罪人がなぜ一緒になっているんだと不審がられていたのです。その光景を想像する中で、私は、私にとっての「仲間」とは誰だろう、そして、その仲間たちは今、何をしてるのだろう、と考えました。

 

 「仲間」という言葉はいろんな意味を持っています。私が仲間という言葉を聴いて思い浮かべるのは、私が一番仲間が多かった時代というのも変ですけど、それは私の学生時代だったということです。何をしたらよいかわからなかった、ぼんやりした学生でしたが、あるときから視覚障害を持つ方のボランティアに入ることから、様々な障害をもった方々のボランティアの、同世代の方々と知り合いになり、また、大学の寮に入ったことからも、また広がりという感じで、いろいろな人たちとのつながりが増えました。

 

 遊び仲間のような人もいれば、先輩後輩、同じような活動をしてる人たちなど、あの時代、いろいろな人たちがいました。それから何十年も経って、そのときの仲間がその後どうしているかは、ほとんど知らないのです。知っている人もいます。まあいろいろです。牧師になってからは牧師の仲間が多いです。

 

 けれども、どうなんでしょう。今日の聖書の話を読みながら、いろいろ思い返していたことは、仲間というと、いろいろですが、良くない仲間と言いますか、心が傷つく仲間もいたなあとも思います。また、あれほど元気でがんばっていたのに、それが報われず別の人生を歩むことになった、そんな人たちもいます。その人たちもまた別のステージで一生懸命がんばっています。一人ひとり人間は違っています。どの仲間が良くてどの仲間が悪い、というようなことは言いません。

 

 そんなことを思い出すなかで、私がだんだんと思うことは、どの人も、ゆるされてほしいな、ということです。神様にゆるされてほしいな、どの人も、ということです。自分のできたこと、できなかったこと、失敗したこと、傷つけたこと、傷ついたこと、いろんなことがあった中で、どの人も最後は神様からゆるされて、それなりに良かった人生、あるいは、良かったことのあった人生、そう思ってほしいと思います。それがなぜであるかわかりませんが、しかし、「仲間」という言葉を考えるときに、私はなぜかそんな気持ちになるのです。

 

 そして、そんな思いを持って今日の箇所を読むときに、これは単にレビという人が救われました、というだけの話ではないと思うのです。レビが、自分の家にイエス様とイエス様の弟子、そして自分と同じような徴税人や罪人たちを招いたときに、そのことにおいて、それまでと同じような自分たちの仲間と出会っているのですが、それはイエス様がいない時に出会っていたのとは、違った意味で出会っているのではないか、と思うのです。

 

 イエス様がいないところでの、仲間との出会いは、くされ縁であったり、お互いいやな仕事してるなあ、という、いわば悪人同士のつきあいであったかもしれません。しかし、イエス様が来てくださってイエス様と食事しているときには、その仲間たちが同じ顔ぶれであったとしても、その、仲間たちと出会っている意味が違うのです。俺たちにも光が当たっている、私たちにも光が当たっている、その思いを共有しながら囲む食事は、それまでの罪人どうしの食事とは全く違っていたと思うのです。

 

 これから何が起こるかわからない、自分たちの生活が変えられるかどうかも、何にもわからない、けれども、イエス様が私を選んでくださった、その喜びは私だけじゃない、仲間たちとも一緒に味わっている、そう思うときに、そこには確かに新しい光が差しているのであります。この後のレビの生活がそれまでとどう変わったのか、それはわかりません。けれども新しいぶどう酒を新しい革袋に入れるように、レビの所に到達した新しい救いの言葉、その言葉を入れて生きるために、レビという人は新しくされたのであります。仲間との関係も新しくされたのであります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、私たち一人ひとり、この世を生きるにあたって、いろいろな人と出会い、別れ、そして遠くで記憶をたどったりしながら生きています。そんな私たち一人ひとり、神様から与えられたこの社会の中で、大きな神のまなざしのなかで生きることができますように。そしてどの人も神様に対する罪がゆるされ、暖かく神様に見つめられて、生きていくことができますように。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通してお献げいたします。

 アーメン。

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「聖書から感謝を知る」

2021年7月11日(日)礼拝説教 今井牧夫

 

聖 書  ローマの信徒への手紙 7章 15〜25節 (新共同訳より抜粋)

 

わたしは、自分のしていることが分かりません。

自分が望むことは実行せず、

かえって憎んでいることをするからです。

 

もし、望まないことを行っているとすれば、

律法を善いものとして認めているわけになります。


そして、そういうことを行っているのは、

もはやわたしではなく、

わたしの中に住んでいる罪なのです。

 

わたしは、自分の内には、

つまりわたしの肉には、

善が住んでいないことを知っています。

善をなそうという意思はありますが、それを実行できないからです。

わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。

 

もし、わたしが望まないことをしているとすれば、

それをしているのは、もはやわたしではなく、

わたしの中に住んでいる罪なのです。

 

それで、善をなそうと思う自分には、

いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。

 

「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、

わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、

わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのがわかります。

 

わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。

死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。

わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。

 

このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、

肉では罪の法則に仕えているのです。

 

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 (以下、礼拝説教) 

 

 最近の京北教会の礼拝では、マルコによる福音書とローマの信徒への手紙を毎週交互に読んでいます。そのことを通して、教会とは何かということを皆様と共に考えていきたいと願っています。今日の箇所はローマの信徒への手紙7章です。

 

 ここには、罪ということについての使徒パウロの考え方が記されてあります。何が書かれているでしょうか。読んでいきます。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」このように書いてあります。

 

 パウロは、今日の聖書箇所において、自分が何をしているかわからない、自分が望むことは実行できず、かえって憎んでいることをしている、ということをここで語っています。そして、それが具体的にどういうことについてであったか、ということはローマの信徒への手紙には、一つも書いてありません。具体的な事実とか、その状況、背景、そうしたものは手紙には記されていません。しかし、パウロにとって、自分が望んでいることができず、望んでいないことをしている、その矛盾ということが大きな問題であったことがわかります。

 

 次にこうあります。「もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。」律法というのは、旧約聖書に記された、出エジプト記申命記などに記されている、神様から与えられた掟、法律、決まり事、そういうものであります。

 

 パウロは、自分が望むような生き方ができないので、悪を行うとようになってしまうのでね神様から与えられた決まり事が必要になってくる、それを善いものとして認めていることになる、と言っています。

 

 けれども使徒パウロが、ローマの信徒への手紙の全体を通して、ここで伝えようとしていることは、自分たちは罪人なんだから、律法が必要なのだ、それを守ることで救われるのだ、ということが言いたいのではなくて、むしろそのような掟、律法があることによって、自分の罪というものを知らされ、そして、その罪から離れていきたいけれど、それができないから神の律法が必要になる、ということが言いたいのであります。そしてそのような律法によっては、本当の意味では人は救われないので、神様に対する信仰によってのみ救われる、ということがローマの信徒への手紙の全体のテーマであります。

 

 ここでパウロは、そうした自分という存在が、自分が思う通りに生きることができない、なそうと思う善をなせずに、そうは思わない悪を行っている、自分の矛盾ということを、聖書の言葉を通して考えているわけです。

 

 次にこう言います。「そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意思はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」とあります。

 

 パウロはここで、自分の中に罪が住んでいることを言っています。「もし私が望まないことをしてるとすれば、それは、私の中に住んでいる罪なのです……」ここでパウロは、自分の中に罪が住み着いている、外から入ってきて住み着いている、その罪が、この私を支配している、という現実を語っています。

 

 そして次に言います。「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。」自分自身が、いくら善をなそうと思っても、自分の中に住んでいる罪によって、自分には悪がつきまとっている。そのことによって、自分がなすべきことができない、というのがパウロの悩みでありました。

 

 さて、今日の箇所を読んで皆様は、どのように思われるでしょうか。もし自分の身近な所に、このパウロのような人がいたら、皆様は何を思われるでしょうか。今日の箇所に書いてあるような、自分がなそうと思う善を行うことができず、かえって悪を行っているという悩みを持ったパウロ、そのパウロの言葉を皆様が身近なところで聴いたら、皆様はなんと答えるでしょうか。

 

 私は考えてみました。自分の周りにこういう人がいて、こういう言葉を言われたら、何て答えるだろうか、と。おそらく私は次のように言うと思います。「考えすぎと違いますか」と。関西弁で言えば、「考えすぎなんちゃうの」と。「確かに人間いろいろあるけれど、それが人間なんとちゃうの。ぼちぼちやったらええんとちゃうの。」そんなふうに、私だったら、その言葉に答えるような気がしました。皆様はどうでしょうか。

 

 罪という言葉は、人間の心をえぐるところがあります。自分の罪とは何だろうと考えるとき、いろいろなことが思い浮かびます。あのとき、あんなことを言わなきゃ良かった。あのとき、あんなことをしてしまった、その自分というものの存在、罪深さということを思うときに、自分の心がえぐられるような気がします。そのことがあるために、自分のなしたいことがなせない、という、その苦しみはわかります。

 

 けれども一方でどうでしょうか。そんなふうに、罪、罪、罪と言われたら、暗い心になってきませんか。自分のなしたい善がなせないんだけど、どうしたらいいと思う? と聴かれたら、何だか重たい気持ちになってきます。実際、この聖書箇所を何度も読みながら、私は、だんだん気が重くなってくることを感じました。罪について、一体どうしたらいいのだろうか。そして思いました。もう気が重くなるばっかりだから、ちょっと外に出よう。ちょっと自転車に乗ってお茶飲みに行こう。

 

そう思って自転車に乗って外に出ました。罪、罪、罪、そんなことを思っていても、気が重くなるだけです。そこで自転車を走らせている内に、ふっと私は気がつきました。もしかしたら、パウロが言っている、自分のなそうとする善がなせない自分、というのは、それは今の私のようなことではないか。なぜならば、私は、礼拝説教を作らなくてはいけないのに、そこから逃れて自転車に乗ってお茶を飲みに行こうとしている。まさに、なそうと思うことができていないのは、この私じゃないのか。

 

 罪という言葉は、人の心をえぐります。そして、いろいろなことを人間の心の中に思い出させます。それは何と言ったらいいのでしょうか。感傷的といえばいいですか、傷を感じる心、センチメンタルな心、何か自分の心の敏感なところ、そこにある痛み、それを思い起こして、ああ、あんなことを言わなきゃ良かった、どうしてあんなことをしてしまったのだろう、あのときに私のしたことは良かったのだろうか、と思い起こすときに、自分自身の罪ということを思います。

 

 そんなふうに感傷的になり、センチメンタルになり、自分で自分の心をえぐっているようなときもあるでしょう。しかし、パウロが今日の聖書の箇所を通して、私たちに教えていることというのは、そんなふうに自分の罪ということを、センチメンタルに、感傷的に思いめぐらせる、そういうことを言っているのではないのです。

 

 パウロは、かつては熱心な律法学者でありました。旧約聖書に記された律法を堅く守ることによって神に救われる、人間はそのことで神によって救われると信じていた、そのパウロにとって、イエス・キリストの福音というものは、目障りな、あるいは間違った存在でありました。掟を守らなくても、神を信じる信仰によって救われるという、イエス・キリストの福音はパウロにとって受け入れられないものでした。そんなことをしたら人間はみんないい加減になってしまうじゃないか、ちゃんと律法を守らないと、そうしないと救われない、そう堅く信じていたパウロは、クリスチャンを牢屋につれていくような、そういう迫害をしていました。そんなある日、パウロは目が見えなくなったのです。地面にもんどり打って倒れたとき、真っ暗闇の中で語りかけて下さるイエス・キリストの声をパウロは聴いたのであります。

 

 そのときにパウロは知ったのです。目が見えなくなった自分は、もはや、律法を堅く守って生きる、そういう生活はもうできない。障がい者になったから。じゃあ、これからの自分はどう生きるのだろう、今までの自分は何だったのだろう。その絶望の中で、パウロはイエス・キリストの言葉を聴いたのでありました。それがパウロの回心でした。そこからパウロは生き直したのです。

 

ローマの信徒への手紙は、そうした最初の回心から何十年か経ったときに書かれたと考えられています。もう若いときのパウロではありません。それでも悩むことというのは若いときと同じなのです。自分の中に罪が住んでいる。かえって悪を行っている。それがまさにパウロの悩みでありました。しかしそれは決して、パウロが自分の若いときの苦しみを思い出して、自分の心をえぐったりする、そういうことではありませんでした。

 

 その悩みは、パウロにとって「自分がなそうと思う伝道ができていない」ということでもあったと考えることできます。もっと伝道できるはずなのに、それができていない自分というものがありました。そこには、自分の健康の問題もあったでしょう。世の中の迫害もあったでしょう。いろいろな教会の中でのもめ事のようなこともあったかもしれません。伝道者どうしの意見の食い違いもあったでしょう。自分の人間としての弱さ、勇気が足りないということもあったかもしれません。パウロの悩み、それは自分がなそうとする伝道ができない、ということでありました。

 

 しかし同時にパウロは知っていました。そんなふうに思うように、自分がなそうとすることをなせない自分もまた、イエス・キリストの十字架によって罪がゆるされている、救われているということであります。自分が何かをしたから、つまり一生懸命に神の前で何か良いことを積み上げる、例えば、一生懸命に伝道をする、そうした良いことを一杯したから救われる、ということではない、ということをパウロは知っていました。一生懸命な奉仕、そして伝道、そうしたことは、神様に対する感謝、そして自分の喜びとしてはありますが、決して神に救われるための義務とかの行いではありませんでした。

 

 そうした古い考え方から解放されたのが、パウロの新しい生き方でありました。人間が、自分でしたいと思うことができないというとき、それは何か自分以外のものに支配されている状態であります。人間の罪、その正体が何であるかということは、パウロはここで明快には言っていません。ただ罪とは何であるかということでなく、罪があるゆえに自分がなすべきことがなせないという、その自分の姿をパウロは直視しています。

 

 本日の聖書箇所の後半で、パウロは次のように言っています。「『内なる人』」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのがわかります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と言った、そのすぐあとに言っています。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」

 

 ここにはパウロの、こんなに悩み事の多い私もまた神によって救われている、という感謝の言葉が記されています。しかし、この手紙の結論は、そのような自分の罪について考えてみよう、自分の心をえぐってみようという、そのような暗いことではなく、そのような罪によって支配されて生きるような自分が、イエス・キリストの十字架によって救われている、罪ゆるされている、新しくされている、という、その喜びであり、そのことをしてくださる神様への感謝が、この手紙には満ちているのです。

 

 先週の礼拝で皆様と共に読みました、マルコによる福音書2章では、「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れる」というイエス様の言葉がありました。それは、新しく素晴らしいものは、新しい器に入れるものだ、ということであります。

 

 罪とは何か、それは人間が逃れられないものとして、心をえぐるものとしてありますが、そのことを振り返って、私はなんと罪人なんだ、と言って生きていく、そんな古い考え方をやめて、イエス・キリストによってすべての罪をゆるされて、新しい自分というものを神様から与えられて、その自分を新しい器、新しい生き方に入れていく、そのことこそが大切なのであります。

 

エス・キリストと共に生きる、ということ、自分の罪について考えながら生きる、ということは、決して、過去の自分を振り返って、重い心に苦しめられて生きていくということではなくて、その罪をゆるしてくださるイエス・キリストに依り頼んで、共に新しく生きていくということであります。罪ということについての考え方が、イエス・キリストによって新しくされました。それは新しいぶどう酒なのであります。それを入れる新しい革袋、新しい入れ物が、新しい人生です。そのことが聖書には記されています。聖書を読むときに罪という言葉を見て、心が暗くなることは確かにあります。

 

けれども、聖書が教えている罪というとは、決してそういう意味ではなくて、神様との関係がまっすぐではないこと、そのことを罪と読んでいるのです。神様との関係がまっすぐでないがゆえに、人間は自分を神として、自己中心的に、利己的に生きていく、そのときに人を傷つけ、自分自身も傷つけ、互いに傷つけ合って、そうしてこの社会を暗く、悪くしていく、そういうことであります。ですから、聖書が言っている罪とは、犯罪とは、あるいは嘘をつくというような、そうした道徳的・倫理的なことを言っているのではなく、神様との関係がまっすぐでないことが一番の罪であり、そこから他の様々な犯罪や道徳的な問題が起きてくる、ということが聖書の考え方であります。

 

 だから、パウロが、目が見えなくなった暗闇の中で、自分自身の弱さに気がつき、その暗闇の中でイエス・キリストの言葉を聴いたように、私たちもまた、自分の弱さの中で、罪のゆるしの声を聴くのです。そのときに心から感謝があふれます。私たちが聖書から知ることは、自分の罪ということがいかに暗いか、ということではなくて、その罪がゆるされること、それがいかに素晴らしいことであるか、それが実に感謝である、ということこそが私たちが聖書から知ることであります。イエス・キリストと共に今日から始まる新しい一週間、皆様それぞれに、またみんなで共に歩んでいきたいと願うものであります。

 

 お祈りします。

 天の神様、私たち一人ひとりがそれぞれに違った状況に置かれていて、その中で、過去のことを振り返り、胸が突かれ、心がえぐられるようなことが確かにあります。けれども、そのことにとどまらず、イエス・キリストによって罪ゆるされて、何も心配もなく、これから生きる自分のことを考えることができますように。なそうと思う善をなせない、その私たち一人ひとりが、すでに罪ゆるされて、新しい器として生きることをゆるされています。人間としての自分は何らかわることなくても、神様によって新しい中身を与えられて、罪ゆるされて生きることができますように、導いてください。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

 

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「主を信じる対話」
 2021年7月18日(日)礼拝説教 今井牧夫


 聖 書  マルコによる福音書 5章1〜20節 (新共同訳より抜粋)

 

 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。

 

 イエスが舟から上がられるとすぐに、

 汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。

 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、

 くさりを用いてさえつなぎとめておくことができなかった。

 

 これまでにもたびたび足かせやくさりで縛られたが、

 くさりは引きちぎり足かせは砕いてしまい、

 だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。

 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。

 

 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。

 「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」

 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。

 

 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、

 「名はレギオン。大勢だから」と言った。

 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。

 

 ところで、そのあたりの山で豚の大群がえさをあさっていた。

 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。

 

 イエスがおゆるしになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。

 すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、

 湖の中で次々とおぼれ死んだ。

 

 豚飼いたちは逃げだし、町や村にこのことを知らせた。

 人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、

 レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、

 恐ろしくなった。

 

 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の身に起こったことと、

 豚のことを人々に語った。

 

 そこで、人々はイエスにその地方から出ていってもらいたいと言い出した。

 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。

 

 イエスはそれを許さないで、こう言われた。

 「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、

  あなたにしてくださったことを、ことごとく知らせなさい。」

 

 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく

 デカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

 

 


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 (以下、礼拝説教) 

 

ペンテコステ(聖霊降臨日)のころより、京北教会では、教会とは何か、ということを皆様で一緒に考えるための、聖書箇所を選んで読んでいます。そして、ローマの信徒への手紙とマルコによる福音書を、毎週交互に読むことで、聖書のメッセージをより豊かに受け取ろうと、そのように私は考えています。

 

 今日はマルコによる福音書5章です。ここには、マルコによる福音書を読んでいて、いつもと少し違う雰囲気が感じられる物語が記されています。というのは、豚という動物が出てきて、しかもその豚に悪霊というものが乗り移って、その豚が走り出して湖に飛び込んでおぼれ死んでしまう、という、かなり奇妙なお話が出てくるからであります。

 イスラエル(ユダヤ)の人たちにとって、豚というのは食べることがない動物でありました。ですから豚が登場するということは、ですから豚が登場するこの話というのは、イスラエルが舞台ではなくて、外国の地、異邦の地が舞台になっているということであります。本日の箇所1行目にある「ゲラサ人の地方」というのは、まさにそうした所です。湖を小舟で渡って、異邦人の地に行ったときのことであることを示しています。そして、豚だけではありません。この話には人間が登場します。

 

 「イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、くさりを用いてさえつなぎとめておくことができなかった」とあります。かなり異様な印象を与える人間が出てきます。墓場に住んでいるというだけで不気味な存在です。そして、そのあと次のように書かれています。

 

 「これまでにもたびたび足かせやくさりで縛られたが、くさりは引きちぎり足かせは砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。」

 ということで、本当にこの人は恐ろしい存在であり、周囲の人が近寄ることができない人、人付き合いできない人、力の強い人でした。くりさでもつなぎとめることができない、足かせも砕いてしまい、とあり、本当にこの人が怪人と言ってもよいでしょうか、モンスターのような存在として描かれています。

 

 その人がイエス様のところにやってきました。「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。』」
これは、この人の言葉であると共に、汚れた霊の言葉でもありました。「イエスが、『汚れた霊、この人から出て行け』と言われたからである。「そこで、イエスが、『名は何というのか』とお尋ねになると、『名はレギオン。大勢だから』と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。」

 

 このモンスターのような怪人には、大勢の汚れた霊が憑いていた、その汚れた霊がこの人の口を通して言葉を出しているのです。この汚れた霊の言葉に対して、イエス様がお答えになられる、その前にこの悪霊が言いました。

 

 「ところで、そのあたりの山で豚の大群がえさをあさっていた。汚れた霊どもはイエスに、『豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ』と願った。イエスがおゆるしになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。」とあります。

 

 悪霊がたくさんの豚に乗り移ると、今度は豚たちが走り出し、湖の中に落ちておぼれ死んでしまった。このような光景がもし本当に目の前に起こったとしたら、もう私たちは度肝を抜かれて、驚いて恐怖感にとらわれてしまいます。これは一体何なんだ! と。

 

 そして、そのあとどうなったかが次に書いてあります。「豚飼いたちは逃げだし、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。」

 

 この人は裸で、化け物のような怪人として暴れていた人でありました。それが正気になって座っていた、つまり汚れた霊がみんな出て行ったことを示しています。

 そのあと、こう続きます。「成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の身に起こったことと、豚のことを人々に語った。そこで、人々はイエスにその地方から出ていってもらいたいと言い出した。イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。イエスはそれを許さないで、こう言われた。『自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことを、ことごとく知らせなさい。』その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。」こうして、この話はしめくくられています。

 

 イエス様によって悪霊を追い出していただき、すべてを癒やしていだたいたこの人が、イエス様について行きたいと願ったのでありますが、イエス様はそれをゆるさなかったとあります。イエス様は、この人が自分の家族の所に戻り、社会に戻って、神様がどれほど素晴らしいことを自分に対してしてくださったかを、みんなに宣べ伝える人になりなさいと言われました。つまり、この人が家族たちと共に生き、その中で神様のことを伝える、いわば伝道する人になる、ということを、イエス様はここで、この人に命じられたのでありました。

 

 この箇所はいつもの話とは違った雰囲気があると、先ほど申し上げました。ユダヤの人たちが飼うことのなかった豚が出てくるということ、そして怪人のような人に取りついていた悪霊たちが、豚に乗り移っておぼれ死んだという、異様な話の流れ。この話は、世界的に見ると、民話というものに属する話です。日本でも様々な民話があります。私たちは桃太郎とか金太郎とか、様々な民話を知っており、どれもが子ども向けに明るく楽しくアレンジされた形で親しんできたと思います。しかし世界各地で語り伝えられてきた民話というものは、必ずしも楽しいものではなく、不気味なこと、困ったこと、怖いことの話。そうしたことの民話もたくさんあるのです。昔から語り伝えられている奇妙な話としての民話のような、今日の福音書の話もそうした雰囲気があります。

 

 そうした民話というものが、なぜ聖書に入っているかというと、こうした民話とイエス様のことが、一つに結びつくかたちで語り伝えられていたからであります。なぜそうなったのかというと、この少し気持ち悪いというか、怖いような民話の話が、イエス・キリストのことを語り伝えるのにぴったりだったからであります。

 

 では、どうして、このような奇妙な話が、イエス様を伝えるのにぴったりだったのでしょうか。その理由ははっきりとは言えません。私たちはタイムマシンに乗って、福音書が書かれた時代に行って、この話をどうしてここに入れたのですか、と聖書を記した人たちに聞くわけにはいかないので、想像するしかありません。ですから様々な解釈ができるのです。

 しかし、ひとつ言えることは イエス様の話はユダヤの人たちの中だけではない、外国、異邦人の地でもなされたこと、そしてその地においても、ユダヤの人たちのところと同じように、あるいは、それ以上に、神様の救いのわざというものが具体的にここで示されたということ、しかも、その働きというのは、豚に悪霊が乗り移っておぼれ死んでしまう、というように、ありえないような不思議なできごと、それほどのできごとすら起こるほどに、イエス様のお働きは、人間の思いを越えていた、人間の常識を越えていた、ということが、今日の話からわかるのです。

 

 そのように、今日の話の性格ということを押さえた上で、では、今日の話が現代日本社会に生きている私たちに、どのような意味を持っているかを考えてみます。

 

 皆様、今日のこの話を読んで何を思われたでしょうか。登場するこの人の異様さに驚かれたり、あるいは、豚の、何というのでしょう、豚の話に驚いてしまって、この話はちょっと変わった話だなあ、そう思っている方が多いのではないでしょうか。皆様は、今日のこの話を読んで、感動されたでしょうか。正直、感動と言われると、なんかよくわからないのではないかと思います。正直、私は現代人として、この話の不思議さということは思いますが、感動は覚えません。聖書によくある奇跡の話だなあと読み過ごしてしまいます。

 

 しかし、この話をよくよく読んでみますと、またそうした気持ちが変わってきます。今日の話において一つの鍵は、レギオンという言葉です。まんなかのあたりに出てきますけれども、悪霊が何という名かとイエス様から尋ねられたときに、レギオン、大勢だから、と悪霊が答えています。このレギオンという言葉は、部隊というものを示す言葉です。ローマ帝国の軍隊のことを指しています。それぐらいに数の多い悪霊がこの人の中に入り込んでいた、そういうことを示しているわけであります。

 

 そして、ここからが聖書の解釈ということになるのですが、単にたくさんの悪霊がこの人に取りついていた、というだけではなくて、この悪霊がレギオンと名乗った背景には、ローマ帝国の軍隊による支配、それがこの社会全体を抑圧していた状況というものが、この話に反映していると考えることができます。

 

 現代世界において、無数の問題が世界に起きていることを、様々なニュースを見て私たちは知っています。国家権力、軍隊の力、民衆の中での対立、様々な暴力など、言うまでもなく、世界中に問題が満ちあふれています。その中で、どの国でも、その社会の中でも抑圧が起きています。軍隊の力、戦争の恐怖、そのために一人ひとりの人間の中にいろんな悩み事が無数に詰め込まれていきます。もう悩んでも何も解決をしない、という状況の中で、次から次へと、生きることの悩み苦しみがふくれあがっていきます。それはまるで、一つの国の軍隊がその人の心の中に攻め込んで、その人の心を奪ってしまった様子にも思えます。

 

 今日の話には、化け物のような異様な人が登場します。現代人である私たちは、この人は現代であれば何かの病気にかかった人かなあ、と想像することができます。けれども、この人はただの病気だったのでしょうか。レギオンという名前がこの人の背景にあるとすれば、この人は単なる病人ではありません。もし病気であったとしても、病気に至った背景には大きな抑圧があるのではないでしょうか。

 

 この墓場に住んでいる異様な一人の人は、世界の隅っこにいる誰かということではなくて、実は一人ひとりが、心の中に世の悩み苦しみが入ってきて苦しんでいる、その自分自身の姿ではないかと思います。そして、悩み苦しみが自分自身を傷つけて、激しく噴出しているのです。どうしたらいいかわからないから、暴力をふるうのです。実は世界における人間の姿とは、こういうものではないでしょうか。

 

 そんな人間が、イエス様に出会いました。自分からイエス様に会いに行ったのではありません。イエス様と弟子たちが小舟に乗って、湖を渡って来てくれたのです。イエス様のほうから来てくれた、そのときにこの人は、会うべき人のところに行きます。しかも、自分から行くのではありません。自分自身を苦しめている悪霊たちが、イエス様の所に行くのです。悪に導かれる形でこの人はイエス様に出会います。

 

 そして悪霊たちは、自分たちがここから追い出されないことを願って、人間の中にいるのがだめならば、ここから豚の中に移らせてくれと願います。豚の中に移れば、そこが悪霊たちの安住の地になるはずでした。ところが、その豚たちは気が狂ったように走り出して、湖の中になだれこみ、おぼれ死んでいくのです。ユダヤの人々が汚れた生き物だと思っていた豚、あんな汚れた生き物の中が、悪霊の居場所にちょうどいいところだと思われていたのでしょう。ところがその豚すらも、この悪霊に耐えることできなかった。そして集団で走り出して、湖の中で死んでしまった。それほどまでに、この悪霊たちに取りつかれるということは、その人を滅ぼす力だったのです。

 

 そのような、この世に生きることの悩み苦しみが、その人を暴力的な形で人間を支配していた、その暴力的な支配からイエス様が救い出して下さった。そのあと、この人は正気に戻った人になったのです。そこで、みんなが喜んでくれるかと思えば、町の人々は言いました。イエス様に対して、この地方から出ていってもらいたいと言ったのです。あれほどの大きな働きをしてくださったイエス様に対して、ここにいてくれるな、帰ってくれと。

 

 これは一体どういうことでしょうか。あまりにも冷たい言葉ではあると思いますが、人間としての本性はこういうものです。それまでは、この人は墓場に住んでいてみんなから嫌われていたけれども、その嫌われ者を排除していることでその社会が成り立っていたのです。ところが、この人は、実は普通の人なんだということで社会に戻ってきたら、その人を忌み嫌って排除することで、今まで成り立たせていた社会の秩序がおかしくなってしまいます。そこで、人々は、イエス様という方に危険なものを感じて、出て行ってほしいと願ったのでありました。

 

 別れの時がこうして来たのです。いやされたその人はイエス様に願いました。一緒に行きたいと。私を救ってくれたイエス様、あなたとこれから一緒に歩みたいのだと願いました。しかし、イエス様は言われました。「自分の家に帰りなさい」と。イエス様が願っておられたことは、イエス様の救いのわざによって、自分の部下を一人でも増やすことではなくて、その救われた人が元の家族のところに戻り、元の地域社会に戻って、そして神様が自分に何をしてくださったかを証しする、伝道する人になる、ということでありました。

 

 この、イエス様と、そのいやされた人の対話、ここには、本当に心のこもった、まことの対話があります。この人のことを思っているから、「家に帰りなさい」と言われたのであります。そして、この人は本当にそのようにしたのでした。ここにまことの対話があります。

 

 それに比べると、悪霊たちとイエス様の対話はどうだったでしょうか。悪霊たちは言います。後生だから苦しめないでほしい。構わないでくれ、と。「出て行け」と言われたことに対して、悪霊たちは懇願をします。名を聞かれて、自分たちはレギオン、大勢だから、と答えて、そして豚に乗り移ることをゆるしてほしいと願います。ここにも対話というものがあります。しかしその対話の結末は、乗り移られた豚たちが走り出して、みんな湖でおぼれ死んでしまうという、悲惨な最期でありました。

 

 悪霊というのは何でしょうか。この現代に生きる私たちの考える基準からすると、悪霊なんていうものは存在しない、それは古代の人たちの幻想だ、ということは簡単であります。しかし、聖書のメッセージが訴えていることは、古代世界の民話ではありません。この民話のような話の中に隠されているメッセージ、それを聴き取ることが私たちにとって大切なのです。

 

 本当の対話ではないこと、それは最終的には死をもたらします。偽りの対話というものは、最後には死と滅びをもたらします。本当の対話というものは、その人を社会の中に戻し、その人を社会の中で生きることへと導きます。本日の説教題は「主を信じる対話」と題しました。今日のこの物語の中で、どこに神様がいらっしゃるのでしょう。どこに、神様のメッセージがあるのでしょう。あるとは思えないかもしれません。

 

 しかし、よくよく読んでいくと、この物語の中には、対話があることに気づきます。本当の対話と偽りの対話があることに気づきます。その違いに気づくことが必要です。

 

 私たちは、聖書を読むだけではなくて、社会の中でいろいろな人と対話することによって、神様のメッセージを聴き取ることがゆるされていくのであります。神の言葉というものは、どこかに固定した形であるものではなく、神様との対話、人との対話、その中にあって示されていくものであります。

 

 お祈りします。

 天の神様、私たちは、この日々の暑さの中で、またコロナ問題で様々な不自由があるこの社会の中で、いろいろな問題を感じ、ときに自分の心の中に苦しさを感じることもあります。世界中が、この社会の中で生きることの苦しみに出会っています。その中で、どうか一人ひとりにメッセージをお示しください。聖書の言葉を通して、また人との対話を通して、私たちが生きることの意味を教えてください。そしてお一人おひとりを救い出し、神様との関係をもたらしてくださいますように、心よりお願いします。

 この祈りを主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

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「命と平和を祈る」
 2021年7月25日(日)礼拝説教 今井牧夫

聖 書  ローマの信徒への手紙 8章 6〜17節  (新共同訳より抜粋、改行して配置)

 

 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。

 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、

 神の律法に従っていないからです。従いえないのです。

 

 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。

 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、

 あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。

 

 キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。

 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、

 “霊”は義によって命となっています。

 

 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、

 あなたがたの内に宿っているなら、

 キリストを死者の中から復活させた方は、

 あなたがたの内に宿っているその霊によって、

 あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

 

 それで、きょうだいたち、わたしたちには一つの義務がありますが、

 それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。

 

 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。

 しかし、霊によって体の仕業(しわざ)を絶つならば、あなたがたは生きます。

 

 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。

 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、

 神の子とする霊を受けたのです。

 

 この霊によって、わたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。

 〔注:「アッバ」とは、子どもが「お父ちゃん」と呼びかけるときの言葉〕

 

 この霊こそは、わたしたちが神の子どもであることを、

 わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

 

 もし子どもであれば、相続人でもあります。

 神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。

 キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

 


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(以下、礼拝説教) 

 

 京北教会の礼拝では5月以降、マルコによる福音書とローマの信徒への手紙を、毎週交互に読んでいます。このことを通して、教会とは何かということについて、聖書のメッセージをより深く知っていきたいと願っています。本日はローマの信徒への手紙8章です。

 

 ローマの信徒への手紙は、ローマにある教会の人たちに向けて、神学的な論文といってもよいほどの充実したメッセージを語っているものであります。今日のこの8章は、その中でパウロの教えていることのなかでの非常に重要なことが記されています。

 

 パウロの考えによれば、人間というものは肉の存在であって、肉の存在のままでは人間は罪の中に生きるしかない。しかし、そこから救われて霊によって生きることで、キリストと共に、キリストに結ばれて生きることによって、新しい生き方をすることができる。そうしたことが、パウロの主張であります。肉という言葉が何度も使われています。パウロの手紙の特徴であると言ってもいいと思います。肉という言葉を使うときに、それは実際の人間ということが言われています。私たちのふだんの生活の中で、肉の思い、というような言葉を使うことは、ほとんどないと思います。そういう意味で、これは聖書的な言葉、神学的な言葉だと思っていただいて結構です。肉という言葉と、霊という言葉が、対照的に語られています。

 

 肉の思いに従って生きるならば、人間は罪から逃れて生きることはできません。しかし霊によって生きるならば、しかもキリストの霊によって生きるならば、罪から解放されて生きることができる。これはパウロ自身が、自ら経験してきたことでありました。かつては、自分自身の力により頼んで生きていました。

 

 ユダヤ人として生まれて、旧約聖書に記された律法を守ることで人間は救われると信じて、その宗教の教える通りに生きて、しかもその律法を厳格に守り通して生きようとした。そのパウロがあるとき目が見えなくなり、その絶望の中でイエス・キリストの言葉をパウロは聴きます。

 

 それまでパウロは、クリスチャンたちを迫害する側の人間でした。お前たちの信じていることはおかしいと言って迫害する側でありました。パウロは、イエス・キリストに出会ったことがありませんでした。ですから、パウロイエス・キリストについて知っているとというのは、そのパウロが迫害したクリスチャンたちが語っていたことが、唯一のことでした。パウロはクリスチャンたちを滅ぼそうとしていました。そのパウロが自らの目が見えなくなったとき、真っ暗闇の絶望の中でイエス・キリストの言葉を聴いた、と聖書は記しています。

 

 それはとても不思議な経験に思えますが、それまで憎んでいた、その相手が自分に語りかけてくる、という思わぬ経験の中で、新しい生き方をパウロは神様から与えられたのでありました。自分の力で勝ち取ってきたのではなく、思いがけず与えられた新しい生き方を、パウロは終生離すことはありませんでした。そうしたパウロが記したローマの信徒への手紙も、パウロが生きてきた歩み、その中でつちかわれてきた様々なものの考え方が語られているところであります。

 

 今日の聖書箇所の中ほどに、次のようにあります。「それで、きょうだいたち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。」と言います。

 

 人間である限り、生きることにおいて何かの義務を負うています。しかしそれは、肉に従って、つまり人間であることの、元々の心、元々の体、それに従って生きなくてはならないのではない、とパウロは言っています。

 

 生きるための義務、という言葉を聴いて、皆様は何を想像するでありましょうか。食べるために何をしなければいけないか、仕事をしなければいけない。この社会の秩序の中で法律を守って生きなければならない、他人を大事にして生きなければならない。いろんな倫理道徳や、経済や社会の秩序などを思い浮かべます。

 

 そうした生きるための義務というものが確かにあるのですけれども、パウロによれば肉に従って生きる、そこにある人間の身体や心、そこにある欲望に従って生きる、そういう義務はないと言います。

 

 そのあとでパウロはこう言います。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業(しわざ)を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって、わたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」

 それを神様から与えられたことによって、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。「アッバ」とは、子どもが「お父ちゃん」と呼びかけるときの言葉であります。通常、このような言葉使いは、当時の人々はしていませんでした。福音書にも出てくる言葉ですが、神様をお父ちゃん、と呼ぶのは、人間が神様に対して、人間として持っている様々なものを捨てて、赤子がお父さんを呼ぶように神を呼ぶ、そういう意味が込められています。

 

 イエス様がそのように父なる神様のことを呼ばれたように、一人ひとりの人が神を、お父ちゃん、そのように呼ぶのだと、パウロは言っています。ここには、神様に助けを呼び求めている、弱く小さな人間の姿というものが現されています。神の律法をこんなに守っている、旧約聖書に記された通りに守っている、そのことによって救われるのだ、とかつては考えていたパウロであります。そのときには、自分が修行をして、こんなにいい人間になりましたよ、こんなに私がんばりましたよ、と神様の前で胸を張って、そうしてがんばってきたがゆえに救われる、そういう信仰をパウロは持っていました。しかしパウロは目が見えなくなったときに、そうした頑張りが、もはや神に救われるために、役に立たないということを痛感しました。そこから、パウロの新しい人生が始まったのであります。

 

 お父ちゃん、と神様に呼びかけるとき、それは自分が何も持っていないことを示しています。

こんなに大人になったんだよ、とそうした自分を示すことで、自分も大人の仲間入りを果たす、私もあなたたちの仲間入りを果たす、という考え方を持っていたパウロが、自分の考え方が打ち砕かれたとき、お父ちゃん、自分は何も持っていない、その地点から神に呼びかける、その信仰を与えられたのであります。

 

 パウロは言っています。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業(しわざ)を絶つならば、あなたがたは生きます。」それは霊によって、つまりイエス・キリストという目に見えない精神的な存在によって、自分の人間としての生まれながらの欲望、そうしたものの仕業を絶つならば、生きることができる、そのようにパウロは言っています。

 

 こうした言葉を読むときに、私たちは何を思うでしょうか。昔の人が山にこもって何かの修行をしたように、何かものすごく精神的に高めるような高度な修行をして、自分の体を打ちたたいて、立派な人になって、自分の欲望をすべてぬぐい去って、清く正しくなる、そんなイメージを持つ人もいるかもしれません。

 

 しかし、それは、ちょっと違うのです。というのは、パウロ自身が、かつて律法学者であって、自分の欲望というものを捨てる生活をしてきた、しかし、それでは救われないということがわかったあとに、パウロがこのように言っているからであります。 霊によって体のしわざを絶つということは、何かの修行によって、自分の精神を整えて鋭くして、そのことで、いわゆる煩悩と呼ばれるものを捨てる、ということを言っているわけではありません。

 

 では、どういうことを言っているのでしょうか。 それは一人ひとりがご自身の人生において経験していくことでありますが、私は、最近読んだある一冊の本から、そのことを教えられました。

 

 それはある一人の牧師が精神的な病によって、閉鎖病棟に入ることで治療を受けた話でした。『牧師、閉鎖病棟に入る』という題名の本であります。非常にユニークな、私が今まで読んだことのないような経験がそこに記されていました。

 

 牧師として、今まで一生懸命働いて来た、その方が、心の病によって、精神的な調子を崩されて、家族で相談されて、閉鎖病棟に入って治療を受けられることになった。数ヶ月後に回復されて退院されたわけですが、その過程が克明に記してありました。病院での生活 ときに理不尽に思える制限もあります。治療といってもいろんな治療があります。辛いことも一杯あります。そのなかでその方は回復していかれるわけです。

 

 その本を読みながら私は、いろいろなことを考えさせられました。その病院においてなされる治療は、修行ではありません。しかし治療のためにしなければならない生活というのは、様々な制約があります。持って生まれた、その人の心身というものと向き合うことになります。特に何かが悪い人間だったということではありません。それはもしかしたら、病気でも障害でもなく、 その人のあり方そのものだったのかもしれません。その牧師は、治療を受けることで、それまで知らなかったことを知ることになります。それは、そうした病棟で出会った方々は、自分が今まで出会ったことのないような人たちであった。その中でどの人も生きようと努力しておられた。その人は自分のことを知ると共に、自分以外の人がどんなふうに生きているか、ということに向き合うことになりました。

 

 今日の箇所を読むときに、霊によって体のしわざを絶つと書いてあることは、何か山にこもって修行をして、一切の煩悩を断って、というような修行のことを言っているのではなくて、日常の生活をしながら、自分自身がありのままの自分と向き合いながら、自分が持っている欠点であるとか、自分が持っている良い面であるとか、そうした面と向き合いながら、そして、自分以外の人がどんなふうに生きているか、ということに目を向けていくということ、そのことの中で、自分自身をとらえ直していくことではないか、と思いました。

 

 病気にしても障害にしても、その人の元々の人間としてのあり方が現れてきます。それを100パーセント否定することはできないのです、人間である限り。それがどんなに悪いものに見えたとしても、その人がその人である、ということを否定することはできません。自分で自分を殺してしまうとはできません。

 

 そうではなくて、そのままでは人と一緒に生きることができない、という問題に本当に向き合っていくときに、自分自身が罪人であることに気づき、そこから、罪人である自分という人間がどんな人間であるかということに気がついていくと共に、他の人がどんなふうに生きているかに気がつき、そこからその人自身が新しくされていくのです。

 

 今まで自分とはこんなものだと思っていた、その固定観念が打ち破られていく、そしてもっと広い道に出て、その広い道を歩いていく、そうした経験が与えられるときに、その人には、神様が示してくださる、新しい生活というものがそこにあるのです。

 

 パウロは、そのような新しい生活へと自分が至ったときのことを、繰り返し繰り返し、思い起こしています。律法学者としてクリスチャンを迫害して生きていた自分が、180度転換した新しい自分、それは、こんなに私は大人になりましたよと、神様の前で誇り、そのことによって、神様の仲間、大人の仲間に入れてもらおうとすることを捨てて、自分は本当は何も持っていないことに気がついた、その私は、神様をお父ちゃんと呼ぶよ、神様に守っていただくというくことを心から願ったのです。

 

 その心になるときに、その人は、今まで持っていた様々な肉の思い、自分自身の元々からの思いから解き放たれて、神様の前で新しく生きていくことができる、その新しい自分を神様からいただくことができるのです。

 

 そして、パウロは次のように言っています。

「この霊こそは、わたしたちが神の子どもであることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子どもであれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」

 

 イエス・キリストは、私たちの罪を負って、十字架の上で命を落とされました。ご自身が死なれることにおいて、人間一人ひとりの罪を背負って下さり、その十字架の死によって罪を滅ぼして下さった、そのように聖書は教えています。それはとても不思議なことに私たちには思えます。それは科学の理屈ではありません。信仰の理屈です。

 

 そのように考えたときに、イエス・キリストのことが一番よくわかった、だからそのように信じるのだ、ということであります。科学のものの考え方ではなくて、信仰の考え方がそこにあります。

 

 そして、そのイエス・キリストが私たちのために死んでくださった、そして3日の後によみがえってくださった、そして今も、イエス・キリストを信じる者の所に来てくださる。共にいてくださる。そのイエス・キリストは、私たちと共に苦しんでくださるのだと。苦しんでくださるからこそ、私たちはそのキリストの恵みにあずかり、その栄光にあずかるのだと、そのようにパウロは主張しています。

 

 こうしたパウロの言葉使いは、神学的で難しく聞こえるかもしれません。しかし言葉使いは難しかったとしても、その言われている本当の中身というものは、一人ひとりの人間にとって誰でもが、「あっ、そうなのか」とわかるときが必ず来る、と私は思っています。

 

 思いもかけず、心の病によって入院して閉鎖病棟で治療を受けられた、その牧師のその思いを知る中で、文章を読ませていただく中で私は思いました。肉のしわざを絶って、生きること、それは特別な修行をすることではないのです。

 

 元々の自分とつきあいながら、元々の自分と向き合って、自分の悪い面と良い面の両方を見ていくこと、そして同時に、自分以外の人がどんなふうに生きているか、ということに正しく目を注ぐこと、そのことを通して、自分が今まで知らなかった世界が見えてくるのです。私というのはこんな人間なんだ、変わりようがないんだ、と言うだけでなくて、変わりようがないように見えて、あなたは、もう一つの自分を見つけることができる、パウロが見つけることができたように、私たち一人ひとり、誰でもが見つけることができるのであります。

 
 霊において、神様は私たちに命と平和を与えてくださいます。今日の聖書箇所の1行目に書いてあります。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、私たち一人ひとりが、何も変わらないような日常の中で、日々いろんなことを思い、自分のことを思い、人のことを思い、また社会のことを思います。自分が生きてきた道が何であったのかと、その道筋を振り返ることもできます。そんな日常の中で、どうかイエス・キリストが共にいてください。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。アーメン。