2021年5月23日(日)ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝説教 今井牧夫
「教会、好きになれたかも」
聖 書 使徒言行録2章1〜4節、43〜47節(新共同訳)
五旬祭の日が来て、
一同が一つになって集まっていると、
突然、
激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、
彼らが座っていた家中に響いた。
そして、
炎のような舌が分かれ分かれに現れ、
一人ひとりの上にとどまった。
すると、
一同は聖霊に満たされ、
“霊”が語らせるままに、
ほかの国々の言葉で話し出した。
すべての人に恐れが生じた。
使徒たちによって多くの不思議なわざとしるしが行われていたのである。
信者たちは皆一つになって、
すべての物を共有にし、
財産や持ち物を売り、
おのおのの必要に応じて、
皆がそれを分け合った。
そして、
毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、
家ごとに集まってパンを裂き、
喜びと真心をもって一緒に食事をし、
神を賛美していたので、
民衆全体から好意を寄せられた。
こうして、
主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
………………………………………………………………………………………………………………………………
(以下、礼拝説教)
本日の説教には「教会、好きになれたかも」という題を付けさせていただきました。ここには、私は教会が好きになれたかもしれない、という気持ちをこめてみました。というのは、私は子どものときに、教会があまり好きではなかった、という記憶があるからです。親に連れられて教会には行っていましたけれど、教会でなされていることは、子どものときの私にとっては意味不明でありました。大人たちがなぜ日曜日でこうして集まっているのか、さっぱりわからないままその場にいて、礼拝堂をうろうろしていた、本当に小さかった自分の記憶というものが、今も残っています。
それからずいぶん時間が経ち、もう半世紀以上が過ぎました。今となって、教会をどう思っているのかというと、教会を好きになりました。かつて教会が好きでなかった私が、教会を好きになったのはなぜかな、と思います。それは、教会が好きになれたかも知れない、と思える、そうした経験があったからに他なりません。
そして、そのことを考えてみることは、これからの伝道ということにとっても、意味があることではないかと思います。皆様はどうでしょうか。最初から教会が好きだったという方ももちろんおられると思います。それとは逆に、教会は好きではなかったとか、あるいは教会は好きだったけれども、どこかでつまずいてしまった、好きじゃなくなってしまった、そんな気持ちをどこかで持たれた方もあるかもしれません。そんな中で私たち人間の心というものは教会の中にあっても外にあっても、揺れ動いているようなところがあります。そんな中で、「教会、好きになれたかも」と思える、そんな瞬間というのはどういうときであろうか、と思います。
ここしばらく、ペンテコステの前のときから京北教会の礼拝では、「教会とは何だろうか」と皆さんと一緒に考える聖書箇所を、礼拝で選ばせていただいています。本日はペンテコステ、聖霊降臨日であります。これは、使徒言行録にある記事です。
福音書にあるように、イエス様がとらえられて十字架の上で命を落とされ、その3日後に復活されました。そして、次に使徒言行録1章にあるように、その40日後に天に上げられました。そのあと、つまりイエス様が地上におられなくなった後に、残されて心を閉ざしていた弟子たちのところに、神様の聖霊、聖い霊が与えられて、そこから弟子たちは勇敢に、神の国の福音を世界に向かって宣べ伝えることができるようになったのです。そういう、まさに世界で最初の教会が生まれた時、伝道というものが始まった時、そうしたことを記念するのが、このペンテコステの日であります。
まさに「教会とは何か」ということを考えるとき、その出発点とはこれだ、ということがこのペンテコステであります。このペンテコステの日の教会はどんなものであったでしょうか。聖書を見てみます。
最初に申し上げておきますが、今日の聖書の箇所は使徒言行録2章の一番最初の部分と、一番最後の部分を取り出してくっつける形で並べさせていただいています。実際の使徒言行録2章では、本日の箇所の前半・後半の間に、使徒ペトロの長い説教が入っています。その部分が長い文章としてあるのですけれども、そのペトロの説教よりも、前にある部分と、後にある部分を、一つにつないだ形で、礼拝のプリントに印刷しました。
このようにした理由は、聖書に記された様々な物語は最初から、始めから終わりまで最初からずっと続けて書かれたのではないからです。聖書は、様々な言い伝え、伝承されたバラバラな内容が、つなぎ合わされて、編集されて現在の形になっています。だから、今残されている聖書の文章から、さらにその元の文章っていうのを探ってみたらどうなるのか、ということで聖書学者が様々な研究をしています。そして、今日のこの箇所において、ペンテコステのことを伝える元々の物語は、こういう短い形だったのではないかな、と私が一つの仮定をしてみた、そう考えてみた、ということであります。
ペンテコステの日の、ペトロの長い説教はもちろん大切なのですが、それは直接にペンテコステの出来事を伝える記事とは、また別の所で編集されたものではないかと私は思います。今日印刷した聖書箇所の部分とは内容の力点が違っていると思います。話の流れから見ると、今日ここに記したような、前半後半を一つにならべた文章の形が、ペンテコステとはどういうことであったか、ということをごく短い形で伝える物語ではなかったか、と私は考えてみました。
では、この箇所を順番に皆さんと共に読んでいきます。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」とあります。この時の人たちはイエス様を天にお見送りして、そのあと集まって祈っていました。イエス様が天に帰って行かれる前に弟子たちに約束しておられたのは、聖霊が降(くだ)るのを待ちなさいということでありました。弟子たちはそのイエス様の言葉に従って、ずっと待っていたのであります。そしてある時、このようにして突然、激しい風が天から吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いたとあります。その後、炎のような舌が分かれて現れ、一人一人の上にとどまりました。
この箇所に出てくる言葉、音、そして風、そして炎のような舌、そうした言葉は普段は特に結びつくことがあまりない、バラバラな言葉でありますが、このペンテコステの時には、音、風、炎、舌、そうしたようなものがここに現れた、それは「そのようなもの」としてでありますけれど、神様の聖霊が与えられた、という、その出来事を示すときの表現は、風、音、炎、舌、そのような表現になってくるということです。
神様の目に見えないお姿である、聖霊が降(くだ)ると、どうなったのでしょうか。
「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」とあります。この箇所で霊という言葉に、コーテーションマーク(“霊”)が付けられています。これは新共同訳聖書を翻訳するときの決まりで、霊という言葉が人間の霊とか魂という意味でなくて、「神様の霊」ということを示すときに、このマークを付ける決まりになっています。ですから、ここでは、一同は聖霊に満たされ、神様の霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出したということであります。
聖霊降臨日の出来事はこのように現れました。それは、神の霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出したということです。イエス様がこの世におられなくなったあと、祈って次に聖霊が降(くだ)ることを待っていた弟子たちに、聖霊が降(くだ)ったときに、弟子たちにはこうして、世界の他の国の言葉をしゃべる力が与えられたのです。
このことは、現代の日本社会に生きる私たちにとって、とても不思議に思うことです。そんな習得もしていない外国の言葉が急にしゃべることができるようになるはずがないと考えるのが普通です。実際にはどういうことであったのでしょうか。それは今となっては私たちは確かめることができません。
しかし、こうした使徒言行録の物語について、いや、こういうことは現実にありますよ、というようなことを言った学者があるのです。それはどういうことかといいますと、何の外国語も知らない人が突然外国の言葉を話し出したというのではなくて、当時の地中海沿岸世界では様々な交易がされていて、いろんな国の人たちが行き来をしていた、その中でいろいろな国の言葉を聞いていた、だからそうした様々な国の言葉を用いて語り出すこと、これは実際にあり得たのではないか、というのです。
確かに、よく考えてみますと、今まで何一つ学んだことのなかった外国の言葉を突然話し出した、というようには、この聖書箇所に書かれていないのです。(いくらか聞いてきたことはあるが) ふだんは使ってない外国の言葉を話し出した、ということであれば、これはまさに現実にありえることになってきます。そして、この箇所で一番言いたいことは何かというと、そうして何か言葉の特殊な能力がここで生まれた、ということをここで言っているのではなくて、世界中に向かってイエス様のことを伝える、その力が与えられたということが、ここで一番言われていることなのです。
このペンテコステの時までは、イエス様に残された弟子たち一同は、かたまって毎日お祈りをする生活でありました。外に向かって出て行く生活ではなかったのです。しかし、この聖霊降臨日から弟子たちは、人々に向かってイエス様のことを様々な国の言葉で語ることができるようになった、その力を与えられたというのです。するとどうなったでしょうか。
「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議なわざとしるしが行われていたのである。」とあります。それまでイエス様が地上からおられなくなって、意気消沈していると思われていた弟子たち。どこかの家に集まって、かたまって毎日祈りばかりをしていた、世の中を避けていたと思われる、その弟子たちが、ある日から突然、勇気を持ってイエス・キリストのことを語るようになった。人々に向かって伝道するようになった、それだけではありません。弟子たちがそのころ与えられていた力は人々の病気をいやすということでありました。また、悪霊を追い出すということでした。
そうしたことは今の時代に生きている私たちにとって、それが具体的にどういうことであったのか、知るよしもありません。けれども実際に弟子たちはそのような力を持っていた、と聖書は証言しています。それはイエス・キリストのことを語る、ということが、そのような力を起こしていたということであります。誰かの超能力のような形で神秘現象が起こって、弟子たちがそんなことができていた、ということではなくて、イエス・キリストのことを力強く語っていくときに、そこに伴って病気のいやしの力、そして悪霊を追い出す力、そうしたものが与えられていった、ということであります。するとその結果どうなったでありましょうか。
「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」とあります。皆一つになって必要なものをすべて共有にし、財産の持ち物を共有し、必要に応じて皆がそれを分け合った、それは一人も飢える人がいない共同体ということを示しています。貧しくて生活できない、という人が一人もいない、共同体がここで生まれたということを言っています。
そしてその人たちは、ふだんは何をしていたのでしょう。次の所に書いてあります。「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。」とあります。
ペンテコステ、聖霊降臨日の、最初の時代のキリスト教会の人たちがしていたことは、このようなことでした。神様を礼拝していた、そして家ごとに集まってパンを裂いていた、これは今では聖餐式にあたることと考えられます。つまりイエス・キリストを象徴するパンを裂いて分けることで、イエス様のことを繰り返し繰り返し思い起こしていたのです。そして喜びと真心を持って一緒に食事をし、神を賛美していたので民衆全体から好意を寄せられた、とあります。その教会に集う人たちだけじゃなくて、この地域社会全体にとって民衆の全体から好意を寄せられたということです。
そして最後にこう締めくくられています。「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」つまりこのペンテコステの日だけで、伝道が終わったのではなくて、この日を始めに伝道が行われて、日々新しい人が救われて仲間に加えられて一つになっていたということで終わります。そしてこの、ペンテコステの日の出来事が、今日の私たちの京北教会にも続いているのであります。
今日の聖書箇所を読むときに、ペンテコステの日とは何であったのか、ということがよくお分かりいただけるのではないかと思います。神様から聖霊が与えられました。それは、イエス様がこの地上におられなくなって心細くなっていた弟子たち、家にこもり祈りばかりしていた弟子たち、聖霊が降(くだ)ることを待ち続けた弟子たち、そこに聖霊が降(くだ)ったとき、風のような音が聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに一人ひとりの上にとどまった、それはとても不思議な表現でありますが、そんなふうなたとえでしか表現できないことでもありました。
そして弟子たちは神の霊が語らせるままに、外国の言葉で話し出しました。イエス・キリストのことを世界中の人に伝える、そのための力が与えられたのです。その結果できた教会というのは、みんなが一つになって、貧しい人が一人もいない共同体を作り、みんなで礼拝し、みんなでイエス様のことを思い出し、神様を賛美して生きていた、そのことによって民衆全体から好意を寄せられたということであります。つまりペンテコステということの一つのゴールといったらいいでしょうか、ペンテコステの一つの到達点は民衆全体から好意を寄せられるということでありました。
ということは、すなわち、このゴールに到達しないならば、その伝道というものは、ペンテコステの伝道ではないということですね。このことを今日の私たちの教会のこととして考えておりますと、多くの示唆が与えられると思います。
教会ではイエス様の力が満ちています。神様の恵みが満ちています。今日もまた私たちに聖霊が与えられています。そこからイエス・キリストの福音を世界中に宣べ伝える力が与えられます。この教会は特定の民族や特定の国の人、特定の何かの属性を持った人たちだけのものではなく、世界中の全ての人に開かれています。この教会全体の中には貧しい人がいない、貧しい人を一人も生み出さない、そうした共同体であります。そして、そのような教会を形作ることによって、地域社会から好意を持たれていく、私たちの教会が目指す所もそこであります。
つまり教会の中で閉じこもって、自分たちが救われているからいいんだよねって言って、世間の人を見下しているような、そんな自分たちだけの救いを考えているような所ではありません。
そしてまた「伝道、伝道」と言って、自分たちのことを人に知らせようとするのは良いけれども、それがちっとも人に伝わらないままに空回りしているという、そういう伝道であってはいけないわけです。最終的に私たちは、民衆全体から好意を寄せられる教会になっていくということが、ペンテコステの教会の一つのゴールであるのです。
最近、私は、あるテレビ番組を見ていました。その時に、そのニュース番組の司会者がこう言いました。その番組の特集は何かといいますと、いま本当に大変な問題になっているミャンマーの国における情勢を特集している番組だったのですが、皆さんご存じの通り、ミャンマーでは軍隊が民主的な政治を弾圧して大変なことになっています。
その状況の中で、ミャンマーの10代の若い人たちがその状況の中で立ち上がって、いろんな抗議活動をしています。それに対して軍隊が無残に銃で撃ってたくさんの若い人の命が失われています。そういう本当に悲しいことがミャンマーの現実です。その特集をしたニュース番組を見ていたときに、そのニュース番組の司会者が最初に次のようなことを言いました。「一体なぜミャンマーの若者たちは、銃で撃たれてまで抵抗のために活動しているのでしょうか。なぜそこまでするのでしょうか。そのことを本日は探ってみます。」
そのようにニュース番組の司会者が言いました。それを聞いたとき、私は直感的に思いました。「それ、違うやん。なんでミャンマーの若い人たちが活動しているかじゃなくて、なんで軍隊があんなふうに若い人たちを銃で撃っているのか、それが一番問題じゃないか」と私は思いました。
そうなんです。一番の問題はそこにあるのです。将来のある若い人たちを無残なことに銃で撃てるのか、そこが一番の問題のはずなんです。しかし、その一番の問題に焦点を当てることは難しいのです。ちょっと別の視点からもっとこれを見るとしたら、なせ若者たちがあんなふうにしてまで戦っているのかということを扱う、そうなっているのです。
その番組自体は大変真剣に作られたものであり、若い人たちの気持ちやまたその家族の気持ちがよく伝わってくる、よくわかる番組でありました。しかし、私の中にある疑問が生まれたのです。なぜ若者が戦ってるかじゃなくて、なぜ軍があんなことができるか、そこにこそ一番の私たちが解決しなきゃいけない問題があるのではないか、そのように思ったのです。
本日はペンテコステの礼拝をしている礼拝説教の中で、なぜ突然こんな話をしましたかと言いますと、このペンテコステって何だろう、どういう意味があるのだろう、ということをいろいろと考えていたときに、その問いは、結局、教会というのはなぜあるのか、という疑問につながっていくのですね。キリスト教がなぜあるのか、なんのためにあるのか、ということを考えるとき、このペンテコステの物語を読みましょう。そして、そこに何が書いてあるのか、ということを考えてみましょう。
ここには、最終的に教会が「民衆全体から好意を寄せられた」として終わっています。貧しい人を一人も生み出さない共同体を作り、みんなで神様を賛美し、祈り、そのことによって、この地域社会の中にあって好意を寄せられる、そして神様ご自身が一人ひとりの人を救ってくださり、日々仲間に加えて一つとしてくださる、教会というものはまさに、この神様の働きのためにあるということが、このペンテコステの物語から明確であります。
さきほどミャンマーの若い人たちの話をしましたのには、理由があります。それは、次のようなことです。たとえば今、「教会はなぜあるのか考えてみましょう」と考えたときに、当然いろんなことが考えられて、私は教会のここが好きだとか、こういうところが嫌いだとか、いろいろなことが言えます。また、「なぜ教会が伝道しているのでしょうか」と言ったら、それは、いろんな話が出て来ます。それは重要なことですね。
だけどそうしたことを考えるときに、もう一方で考えなければいけないことは、この教会っていうのは何のためにあるかというと、一番根本的なことを言えば、人間の罪にまみれたこの世界というものがあって、神様がその罪の世界から私たち一人ひとりを助けだそうとして下さったから、イエス・キリストを与えてくださり、そして教会ができたのですよ、ということなのですね。
この私たちが生きている全世界の一人ひとりの人間が作っているこの世界というものが、人間の罪にまみれていて、人が人の命を奪い、人が人を抑圧していく、そのような世界であるからこそ、神様は私たち人間一人ひとりを愛されてイエス・キリストを遣わして下さり、この世界を救い出してくださり、その神様の御心があって初めて教会というものはあるのです。
そして、その御心に沿って、ではどのような教会を私たちは作れば良いのかということを、聖書に尋ね求め、イエス様の導きによって、長い長い年月をかけて、できたのが私たちの教会であるということです。その、一番の根本のことに光を当てないで、そこから派生するその次のいろんなことに課題を当てていくと、それにはいろんな意味があるとは思うのですけれど、一番の根本を見失ってしまうのではないかと私は思うのであります。
最近ニュースを見ておりますと、政府が「子ども庁」というのを新しく作るということを検討していると、そういうような記事がありました。いろいろな役所の中で「こども庁」というのを作る、それがいいことなのかどうなのか、それは私はわかりません。皆様もいろんな意見があると思います。けれど私は、ふっと思ったんですね。「子ども庁」というのをもし作ったとしたら、それができたとしたら、次は「おとな庁」というのを作らないとダメなんじゃないかと。子どものために役所を作るのなら、次は大人を救うのでないとダメじゃないですか。
もちろんそれは冗談で言っていることで、本気で言っても誰も聞いてくれないと思います。なぜならば、大人は自分の責任で生きていくものだとされているからです。子どもは自分の責任で生きていけないから、子ども庁を作って助けよう、それはよくわかります。しかし、では大人はどうなるのでしょう。大人庁は誰も作ってくれません。誰も作ってくれないから、教会を作りましょう、というのは短絡的な話でしょうね。けれども、冗談ではありますけれども、神様の目から見たときに、本当に救われなくてはいけないのです。大人も子どもも。この罪に満ちた世界で。そのために教会があるのではないでしょうか?
私たちの京北教会の歴史は、元々はメソジスト教会という教派の流れであり、これはイギリスで始まりアメリカで広まりました。そして日本に来た、その歴史の中でメソジスト教会の発端を見るとですね、イギリスで産業革命の時代にたくさんの工場ができて、社会が急変していくときに、社会がどんどん悪くなっていく、子どもたちの保護や教育がおろそかになっていく、貧しい人たちが生み出されていく、家庭というものが壊されていく、そうした社会が壊れていく現実がある中で、教会が子どもたちを集めて教会学校をしたということがあるのです。
それは何か教会を盛んにするためにクリスチャンをたくさん生み出そう、というようなことではなくて、社会のなかで悪い大人たちの慣習に社会が染められていく子どもたちを、教会が救い出して、教会が教会学校という形で子どもたちを取り込んで、子どもたちを守っていくためであった。そのことを、教会学校の一つの役割としたのですね。
実は、説教の冒頭に言いましたことですが、私自身が思う、「教会が好きになれたかも知れない」と思ったときというのは、私が子どものときに、教会が、神様が、イエス様が、私を守ってくれたのかな、と思える瞬間があったときです。
現代の日本社会において、この悪い社会から子どもを守るために、教会学校をやりましょう、と言ったら、ちょっとピンとこないかもしれませんし、それはまた感覚が違うかもしれませんね。けれども私は思います。いつの時代であっても、神様の御心は変わらないのです。それは、この罪に満ちた世界から、私たち一人ひとりの人間、大人も子どもも救い出してくださる神様の御心があってこそ教会があるんだ、ということだと思います。そのためのペンテコステであって、その中で私たちは教会を形成し、民衆全体から好意を寄せられる教会を、イエス様と一緒に作っていくのであります。
お祈りします。
天の神様、今日のペンテコステにあって、みんなで教会を見直して、みんなで教会をもう一度やっていこうと、そういう思いになれますように。コロナ問題のために礼拝に来ることができないたくさんの方々、いろいろな方々のことを覚えて、これからもこの地域にあって、民衆から好意を寄せられる京北教会でありますように心よりお願いいたします。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。
アーメン。
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「救いを伝える風の音」
2021年 5月30日(日)京北教会礼拝説教 今井牧夫
聖 書 使徒言行録 2章32〜42節(新共同訳)
神は、このイエスを復活させられたのです。
わたしたちは皆、そのことの証人です。
それで、イエスは神の右に上げられ、
約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。
あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。
ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。
『主は、わたしの主にお告げになった。
「わたしの右の座に着け。
わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」。』
だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。
あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、
神は主とし、またメシアとなさったのです。」
人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、
ペトロとほかの使徒たちに、
「きょうだいたち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。
すると、彼らに言った。
「悔い改めなさい。
めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、
罪をゆるしていただきなさい。
そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、
遠くにいるすべての人にも、
つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、
与えられているものなのです。」
ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、
「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。
ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、
その日に三千人ほどが仲間に加わった。
彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
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(以下、礼拝説教)
先週の教会の礼拝では、聖霊降臨日、ペンテコステ礼拝の日を迎えました。そのときには使徒言行録の2章から聖書の箇所を選ばせていただきました。今日の礼拝の聖書箇所も同じ使徒言行録の2章です。先週の礼拝の時には2章の冒頭と最後の所をつなげる形でプリントをさせていただきました。今日はその先週の冒頭からの前半部分と、終わりにあたる後半の間にはさまれている、使徒ペトロのとても長い説教、その説教の一番最後にあたる部分と、説教を聞いた人たちの反応が記されているところであります。
先週の箇所と今日の箇所を合わせた全体が、使徒言行録2章としての一つのメッセージになっているわけでありますが、今日はその中で、使徒ペトロの説教、そしてそれを聞いた人たちの反応ということを今日の聖書箇所に選ばせていただきました。
長い説教でありますが、ペトロはこの説教を始めたのは、そのペンテコステ、聖霊降臨日に天からの聖霊が天より降(くだ)ってきて、そして弟子たちが世界各地の言葉で、イエス様のことを証しする言葉を語り出していた、その様子が、その弟子たち以外の、周辺の地域の人たちにとっては、一体これはどういうことなのだ、何が起きているのかと、そのペンテコステの出来事が理解できなくて、とても不思議な思いになっていたときでした。
そして周囲の人々の中には、その弟子たちの様子を見て、「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざ笑う者たちもいた、ということが使徒言行録には記されています。そのような周囲の人たちの無理解な言葉を聞いた時に、使徒ペトロが立ち上がって説教を始めたのであります。
「今は朝の9時ですから、この人たちは、あなたたちが考えているように、酒に酔っているのではありません」とペトロは説教を始めています。そしてその後に、イエス・キリストが自分たちにとってどういう方であるか、ということを証しをいたします。その証しの仕方は、自分の心の内面を語るとか、知識を語るのではなくて、旧約聖書の言葉によるものでした。
ペトロは、旧約聖書から詩編などの、いくつかの箇所を利用して、そこに書いてある通りのことがイエス・キリストに起こった、だからイエス・キリストの十字架の死、そして復活は、旧約聖書に証しされた、神様の御心の実現なのである、ということを、人々に向かって勇敢に堂々と証しをしたのであります。
そして、その説教の一番最後の所からが、今日の聖書箇所です。「神は、このイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」このように使徒ペトロは言いました。
イエス様は十字架につけられて、そこで命を落とされた。しかしその3日の後に甦られた。そして天に挙げられた。そしてそのイエス様が天に挙げられる前に、弟子たちに約束していた通り、神様の聖い聖霊、それは神様の見えないお姿でのお働きのことですが、その聖霊が弟子たちに注がれました。
だから弟子たちは、世界各地の言葉を持って、世界中に主イエス・キリストを証しする、そのような言葉を発することができるようになった、いま皆さんが見ているこの出来事、ペンテコステの出来事というのは、そういうことだと説明しています。
そして、そのあとで旧約聖書の詩編の言葉が引用されています。「ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」。』ここで「主」という言葉が2回出ていて、その二つの「主」は違う存在であるということから、天の父なる神様も「主」であり、そして神の子イエス・キリストもまた「主」である、そのような神様とイエス様の関係がここで言われている、ということが証しされています。
そして最後に言います。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
「メシア」というのは救い主のことです。私たちを救って下さる中心が主です。そこにイエス様がおられるのです。私たちを救って下さる中心がイエス様です。そのイエスは人々がとらえて十字架につけたのだと、そのイエスを神は主とし、また救い主となさったのです。そのようにペトロは力強くこでその説教を締めくくっています。
このペトロの説教を聞いて人々は、大きな反応をしました。次のようにあります。「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「きょうだいたち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。」とあります。
ペトロがこのように勇敢に、そして大胆に旧約聖書の言葉を用いて、イエス・キリストのことを証しした、その説教がとても説得力があったようです。自分たちが殺したイエスが実は自分たちにとっても救い主であったということ、つまり自分たちは取り返しのつかないことをしていたのだ、という、自分たちの罪に人々は気づいたのです。自分たちは神様の前で大きな罪を犯してしまった。一体どうしたらいいのだろうか、それは一体どうしたらゆるされるのだろうか、という心の底からの問いでありました。
これは、魂からの問いでありました。こんな私は一体どうしたら救われるのでしょうか。どうしたらゆるしていただけるのでしょうか。聖書に基づいた本当の説教というのは、そのような大きな意味を持っています。そのように人の心に時に突き刺さり、人の心を突き動かして、神様の前で自分が神様に対して罪を犯してきたということ、そのことを分からせる、知らせる、力が聖書の言葉にはあるのです。
そのペトロの説教を聞いて人々は、ペトロに対して言いました。「きょうだいたち、わたしたちはどうしたらよいのですか。」すると、次にあります。「すると、彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪をゆるしていただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と、このようにあります。
ペンテコステ、聖霊降臨日の出来事、その日であるペンテコステに聖霊降臨の出来事、その日は神様からの聖霊、神様の聖い霊が与えられた。それは目に見えない神様のお姿そのものですが、それがこのとき、賜物、贈り物として、罪を悔い改めてイエス・キリストの名において洗礼を受けることによって罪がゆるされることにおいて、その贈り物として聖霊が与えられるというのでありました。
そしてさらに言います。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
このペトロが語る約束は、このペンテコステの日だけではなく、また、その場にいた人だけではなくて、世界中の全ての人に対してこの約束が与えられていると言っているのであります。主が招いてくださる者ならだれにでも、それは世界のすべての人に神様の愛の心が向けられていますから、実際には、世界のすべての人、と言ってよいのです。
そしてその後にこうあります。「ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。」
そのあと、どうなったでしょうか? 「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」とあり、最初のころの教会の人たちがしていたことが何であるのか、ということがここに書いてあります。
それは、イエス様が選ばれた12人の使徒たち、また別にパウロも使徒としてそこに加わりますが、そうした使徒が教えたことを、つまりイエス・キリストがどのようなお方で、何を教えてくださったのか、イエス様の十字架と復活、そのことを人々は教えとして聞き、そして相互に交わり、交流を持ち、そしてパンを裂き、これは現在の聖餐式でもあるでしょうし、また一緒に食事をするということでもあったでしょう。そして、祈ることに熱心であったのです。
今の私たちの教会の元々の形というものが、ここにあります。「3000人ほどの人がこの日、仲間に加わった」とあります。この言葉は、この数字の大きさを考えると、誇張されているようにも感じますが、しかし後の時代になって、教会の発端が何だったのかということを振り返ったときに、すでに一番最初のときから神様の聖霊というのは私たちの常識を越えた働きをして下さったのだ、ということを記録している、そういう言葉であります。神様の聖霊の働きというのは、人間が想像するような、つまり自分の経験で計ることができるようなことではない、ということを示しているのが、この3000人という数字でありましょう。
こうして今日の箇所に起きましては、ペトロの説教、そしてそれを聞いた人たちの反応が記されています。ペンテコステの出来事というのは、使徒言行録において、風のような音が聞こえてきた、という光景で表現されています。ここには、風とか音、そして炎、そして人間の舌、しゃべる舌、言葉、そういうことで聖霊という存在が表現されています。
ペンテコステの出来事というのは、そういう目に見えない働きを伝えることですから、目に見える形でこれが聖霊だということができないのです。ですから何かでたとえて、「何々のようなものだ」という言い方しかできないのです。そして、その「何々」ということにおいて、それが何であるかということが、薄々感じられていく、薄々、私たちは知っていく、そして何よりもその聖霊を与えられて生きる、という、その人生そのものを神様と共に、イエス様と共に、生きていく、その実感の中で、その、最初は、薄々としか感じられなかった、風のような聖霊の働きを、私たちは自分の心の中に確かなものとして感じ、そして信じていくということができるのであります。
そのような神様を信じる、悔い改めて神様を信じるという出来事が起きたのが、このペンテコステの日の出来事であり、そしてこのときに、世界で最初の教会が生まれたという、そういう言い方を後の時代にするようになりました。それは何かの建物が建っているという意味で教会というのではなくて、人々の群れが生まれた、神様の聖霊がくだったとき、そこが教会になった、ということです。
今日の京北教会の姿、私たちの様子もまた、このペンテコステの様子が、今に継続されている姿であると考えていただいてよいのです。
今日の説教題は、「救いを伝える風の音」と題しました。風の音(ね)、風の音(おと)、そこには目に見えた実態はありません。しかし、それは必ず私たちのところにやってきます。そして、目には見えないけれども、私たちに救いを告げ知らせてくださっています。今日の聖書箇所もまた、そうなのであります。
今日の聖書箇所の中でペトロが最後のほうでこう言っています。「邪悪なこの時代から救われなさい。」邪悪なこの時代から救われなさい、ペトロはこのように言っています。
現代の私たちは、どのような時代に生きていると言えるでしょうか。今の時代を、まあいろいろあってもそれなりに平穏だなあ、と感じるのか、それとも本当に今の時代は邪悪な時代だと感じるのか、あるいはその中間なのか、人によっていろいろな考え方があるでしょう。多くの場合、自分自身にこの時代の矛盾や苦しさというものを本当に感じる、つらい悲しい出来事にさらされたときには、本当にこの時代がいやだ、邪悪なこの時代がいやだ、という思いがするでありましょうし、また、それほどでもなければ、まあいろいろあっても何とかなるわ、と考えられるのであれば、それほど邪悪だとも思わないでしょう。
けれども、ペトロがこの箇所で「邪悪なこの時代から救われなさい」と言ったときは、苦しいと思っているときには苦しいから邪悪と思うでしょうけど、そうでない人にはそうでなくて、というような、ある種の気分のことを言っているわけではないのです。そういう人の心の気分のことを言っているのではなくて、人間はみんな罪人であって、そしてその罪人である人間がどんなに努力をしたところで、どこかで人間のやることは失敗をしていく、そして人が人を抑圧し、人の命を奪い、人を苦しめていく、その邪悪な世界というものが作られていく、世界というのは根本的に人間の罪に満ちている、だから、今は邪悪な時代なんだということをペトロは言っているわけであります。
では、この今の時代が邪悪だとしたら、では昔の時代は良かったのだろうか、とか、あるいは、将来は良くなるのだろうか、ということを考えているわけではありません。邪悪なこの時代というときに、それは過去と比較して、あるいは未来と比較してそうだと言っているのではなく、今私たちの生きている時代の中に、人間の罪が満ちている、その中で私たちは生きている、だから今、この時代の中で救われなさい、ということをペトロは言っているのであります。
10年経ったらもっと良い時代になるだろう、100年経ったらもっと良い時代になるだろう、そういうふうに将来を待つのではなくて、いま、今救われなさい、というのです。なぜかというと、いま、私たちが救われることが5年後や10年後の社会を変えていくことだからということをペトロは知っているのです。今この時代、この邪悪な時代から救われなさい。
もしかしたら、平親に生きている人にとっていは、今の時代は良い時代に見えるかもしれません。けれども、世界全体を見渡したときにどうでありましょうか。人間の罪というものは重なり合って、やはり人の命を奪い、人の生活を抑圧しています。この世界の中にあって人間が造る世界の限界ということを私たちは、毎日、テレビや新聞やインターネットのニュースを見るなどして、知っています。そしてそんな世界中のことを知ることがなくたって、自分の身近な人間関係や、いろんな小さな世界のことを見るときであっても、そこにある人間の弱さ、小ささ、愚かさ、そして何よりも自分自身の弱さ、小ささ、愚かさを感じるときに、私たちはいま、人間の罪の中に自分が生きている、そのことを知ることができます。
このペンテコステの日にあたって、そのように自分たちが生きている世界が、罪の世界であるということを人々が気づくことができた力は、このペトロの説教にあります。このペトロの説教の中でペトロが一番言いたかったこと、それは今日の箇所の真ん中あたりにあります。「あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」とあります。あなたたちが神の子イエスを殺したのだといいます。あなたたちが、神様の御心である主イエス・キリストを拒否して、十字架につけたのだといいます。人間の罪というものは、最終的に神様の愛を拒絶するというところにあります。
神様を拒否し、拒絶し、そして自分自身が神になって生きていこうとする、それが聖書に言われている人間の罪ということであります。罪という言葉は一般には、法律に触れる犯罪のことであったり、あるいは嘘をつくとか何かそうした道徳的に悪いことをする、そういうふうな意味で、罪という言葉は一般に使われています。しかし、聖書で罪ということが言われるときには、それはそうした犯罪や道徳的な悪いことではなくて、神様に対して関係がまっすぐではない、ということが、聖書が言っている罪のことなのです。
自分が今まで何の悪いこともしてきませんでした、とか、毎日毎日、人を傷つけないように努力してがんばっています、そういうことをいくら言ったところで、それとは関係なく、神様にそむいて神様のほうを向かず、神様との関係がまっすぐではなく、自分自身を主として生きているということが、人間にとっての一番の罪なのであります。その一番の罪から他の様々な犯罪や、いろいろな道徳的な罪の問題が生まれてきます。その神様に対する罪、神様との関係がまっすぐでない、ということが、今日のペトロの箇所では、「あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」という言葉で表現したのであります。
おそらく人々は、自分が罪人である、そんな意識はなかったと思います。私は何も別に悪いことをしてきませんでしたから、と思ってたんです。その彼らに対して、いや、イエス・キリストをあなたたちが十字架につけて殺した、「そのイエスを神は主とし、また救い主となさったのです」と言われたときに、もしかしたら、人々の中には、私そんなこと知りません、という人も多かったのではないかと思うのです。それは都エルサレムでそんなことがあったということは聞いています、でも私はその場にいませんでした、と言う人もたくさんいたでしょう。あるいは、私はあんなことをするのに反対でした、と言う人もいたでしょう。
けれども、ここでペトロからこの説教の言葉を聞いたときに、いや、あの十字架の場でイエス様を十字架につけた人たちだけが悪いのではないのだと。この社会を支えることにおいて私たちもまた、イエスの死に加担していたのだと。私たちもまた神様の御心を拒絶したのだと。そうしたことを人々はここでペトロの説教を通して知ったのです。
神様がイエス様を私たちに与えて下さった、という言い方を聖書はしていますし、教会ではそう教えています。それは、イエス様が私たちにとって本当に素晴らしい、本当の恵み、救いであるからですが、その恵みにおいて、イエス・キリストが十字架で死なれた、つまり十字架にはりつけにされて無実の罪で、その罪を負って死なれたということ、そのことがあります。それは、とてもつらい悲しい出来事です。
けれども聖書では、それは神様が私たちのために自ら命を失ってくださった、神様自らがご自分を無としてくださった、私たちの罪をゆるすために、そういうことであった、というように解釈をしています。そのことにおいて、なぜイエス様が十字架の上で死なれたのか、それは人間が神の子、神の御心を拒絶したからである、そのような十字架の出来事がなけれぱ、人間は自分が罪人であるということに気づかないであろう、だからそのような出来事があったのだ、ということを聖書は解釈しているのであります。
神様の側が先に自ら傷つかれた。しかも、自らの命を失うほどに、ご自分の姿を無とされるほどに、神は自らを傷つけ、自らを失うことによって、私たち人間を受け入れてくださり、人間の罪をゆるしてくださった、そして人間の存在を受け入れてくださった、それが聖書の解釈であります。そのことが今日のペトロの説教にも反映をしています。
そのペトロの説教を聞く人たちにとって、イエスがどんな人であったでしょうか。イエスなんて会ったこともない、という人も多かったでしょう。私は別に、罪なんて言われることを何もしてきていません、悪いことをしてませんから、というような人たちもたくさんいたでありましょう。けれどもそうした、自分の意識の中で自分が何をしてきたか、ということと関係ないのです。
そうではなくて、人間という存在そのものが、神に対する関係として見るとどうなるかです。人間の存在を神様の前で根本的に見ると罪人なんだと、旧約聖書が証しする人間像、人間理解というのはそういうことであると、そしてそのことを前提として、イエス・キリストが神の国の福音を宣べ伝えた、しかし人間はそれを拒絶し、イエスを十字架に架けたということです。そこに人間と神様の関係の、決定的な破綻があるのです。
人間というのは、どこかで自分で心を悔い改めたら良い人間になるので、ゆるしてもらえる、ということではありません。元々ゆるされない存在なのです。いくら人間が心を悔い改めても、人間が罪人であることには変わりがありません。けれども、そんな人間をゆるしてくださる方がいらっしゃるから、人間は神に受け入れられて、新しい命を与えられて、生きていくとができるのです。
そこには悔い改めということが必要であり、そして悔い改めてイエス・キリストの名によって洗礼を受けて、罪を赦していただいたならぱ、賜物として聖霊を受ける、ということがペトロからはっきり言われています。このようにして人間は、自らの力では救われないけれども、イエス・キリストの力によって、新しい命を与えられて新しい存在とされて、罪ゆるされて新しく生き始めることができます。これは、神様から私たちへの最大の贈り物なのです。賜物なのです。そのことを知っていただきたい。
ペンテコステの日に、ペトロがそのように語ったように、本日の京北教会の礼拝説教においても、そのように語らせていただいた次第であります。
お祈りいたします。
天の神様、今日良い天気を与えてくださり感謝をいたします。さわやかな風がふき、春から初夏に向かう今このとき、自然も豊かに繁り、私たちの心も神様によって解き放たれて自由にされていくことを感謝いします。どうか、教会を通して与えられる聖書の御言葉の恵み、聖霊の働きが一人一人に臨んでくださいますように。そして一人ひとり、悔い改めて新しい命を受け取り、イエス様と共に、この世の中にあって福音を宣べ伝え、また証しをして、そして一人ひとり、与えられた自分の人生を楽しんで、喜んでいろんな人たちと一緒に生きていくことができますようにお守りください。この京北教会も、またペンテコステにあたり、新しい出発をし、この地域にあって歩んでいくことができますようにお願いいたします。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。
アーメン。