京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2021年5月2日(日)、9日(日)、16日(日)礼拝説教

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 2021年5月2日(日)京北教会 礼拝説教 今井牧夫

「いつも励ましてくれる教会」

 

聖 書  テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5章 12〜22節(新共同訳)

 

  きょうだいたち、

  あなたがたにお願いします。


 あなたがたの間で労苦し、

 主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、

 また、

 そのように働いてくれるのですから、

 愛をもって心から尊敬しなさい。

 互いに平和に過ごしなさい。

 

 きょうだいたち、

 あなたがたに勧めます。


 怠けている者たちを戒めなさい。

 気落ちしている者たちを励ましなさい。

 弱い者たちを助けなさい。

 すべての人に対して忍耐強く接しなさい。

 

 だれも、

 悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。

 お互いの間でも、

 すべての人に対しても、

 いつも善を行うよう努めなさい。

 

 いつも喜んでいなさい。

 絶えず祈りなさい。

 どんなことにも感謝しなさい。 

 これこそ、キリスト・イエスにおいて、

 神があなたがたに望んでおられることです。

 

 “霊”の火を消してはいけません。

 預言を軽んじてはいけません。

 すべてを吟味して、

 良いものを大事にしなさい。

 あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。

 

 

………………………………………………………………………………………………………
 

(以下、礼拝説教)

 

 先週、京北教会では礼拝のあとに2021年度定期教会総会をいたしました。そして今日が新年度の初めての礼拝になります。今日の聖書箇所はテサロニケの信徒への手紙一を選ばせていただきました。それは、教会となは何であろうかということを、この年度の始まりにあたり皆様と共に考えてみたいと思ったからであります。

 

 なぜこのテサロニケの信徒への手紙を選ばせていただいたかというと、これが、新約聖書に収められている様々な文書の中で最も古くに書かれたと考えられているからです。新約聖書の中で一番最初に置かれているのは四つの福音書であり、そのあとに使徒言行録、そのあとにローマの信徒への手紙など使徒パウロが書いた手紙、パウロ以外の人の手紙、そしてヨハネの黙示録と続くので、福音書が一番古くに書かれたように錯覚をするかもしれませんが、実際にはパウロの手紙のほうが古くに書かれています。

 

 福音書が今日のような形にまとめられたのは、使徒パウロが活動していた時代よりも少しあとだと考えられています。そのときまでは断片的に伝えられていたイエス・キリストの言葉や様々な物語が、後の時代になってイエス様と同じ時代を生きた人々が段々とこの世を去るときになって、イエス様についての文書を残していく必要が生まれ、そして福音書が書かれたと考えられています。

 

 使徒パウロが伝道していた時代は、福音書が記された時代の少し前にあたります。本日の箇所のテサロニケの信徒への手紙一が書かれたのは紀元50年過ぎと考えられています。イエス様が十字架の上で死なれたのが紀元30年過ぎのことであるならば、そのイエス様の十字架、そして復活ということから20年後ぐらいに書かれたのです。そして福音書の中で一番古いマルコによる福音書が書かれたのが紀元70年過ぎ、マタイとルカの福音書が紀元80年代、ヨハネによる福音書は紀元90年代あたりに書かれたと、聖書学者の研究ではおおむねそのように考えられています。

 

 ということは、新約聖書の中で一番古くに書かれたのがテサロニケの信徒への手紙であり、ここには、当時の教会というものがどういうものであるのか、ということがわかる一番古い資料がある、ということです。いま、2021年度の歴史を生きている京北教会においても、2000年前の一番最初の時期のキリスト教会がどんなものであったか、ということをこの一番古い手紙であるテサロニケの信徒への手紙一から学ぶことによって今に活かしていきたいと思います。

 

 最初にはこう記されています。「きょうだいたち、 あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。」

 

 当時の教会はどのような様であったか、ということは具体的にこれはこうだとはっきりしたことはなかなか言えないのですが、パウロの手紙のような当時の文書からいくらかの推定をすることできます。

 

 今のように教会の建物が建っていたのではなくて、誰かの家の大きな部屋を借りて礼拝をしていたのではと考えられています。そしてそこに集まってくる人々の群れ、集団があり、その中で人々を教える立場の人がいました。長老と呼ばれる全体を治める立場の人たち、それから実際的なお世話をする執事のような立場の人たち、それらは今で言えば教会の役員にあたります。そして、聖書を通して主イエス・キリストの福音を人々に教える教師の立場の人がいました。そうした長老や執事、教師の立場の人たちを重んじて、また愛をもって尊敬して互いに平和に過ごしなさい、と書いてあります。

 

 それは、教会というのはただなんとなく人が集まっている群れということではなくて、その中で全体のことをまとめ、群れ全体を気に掛けて祈る人、全体の中で具体的なお世話をする人、聖書の福音を伝える教師、そういう人たちがいて教会が成り立っていたということであります。その働き人を重んじるということであります。

 このことは、誤解がないように言いますが、これは教会の中に、上下関係を作って、人間に区別をして組織を作るということではありません。ごく自然な意味で、教会でみんなのために働いている人を重んじてください、愛してくださいということです。そして、教会で働く人と、そのお世話を受ける人と、そのどちらかだけが幸せになるのでなく、お互いに幸せになるようにしなさい、というのです。

 

 次にこうあります。「きょうだいたち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。」

 

 そのようにあります。教会には様々人がいます。怠けている人がいれば、愛をもって戒めなければなりません。気落ちしている人もいます。どうしてもやる気が出ない、元気が出ない、という人がいれば、そういう人たちを励ましなさい。弱い人たちを助けなさい、とあります。

 

 この社会の中にあって、生きる力というものが、何らかの理由で乏しい人、あるいは病気でしょうか、事故でしょうか、あるいは人間関係の問題でしょうか、そうした何らかの理由で生きる力が奪われている人たち、そうした弱い人たちを助けなさい、そしてすべての人に対して、忍耐強く接しなさい、だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい、とあります。

 

 人間社会の中で生きるときに、許せないと怒りが込み上げてくることがあります。けれども、悪をもって悪に報いないということです。そして、お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい、とあります。教会の中だけではなくて、家族の中でも地域の中でも、どこでも、いつも善を行うよう努めなさいと言われています。

 

 そしてそのあとに、こう続きます。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」聖書本文では、いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい、という、この三つの言葉の頭のところで、それまでと段落が変わって、そしてこの三つの言葉の直後に「これこそ」という言葉で、これこそがキリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです、という流れになっています。

 

 この三つの言葉は、聖句として、これを色紙に書いて額に入れて飾ると、これを「絵になる」というとおかしいかもしれませんが、なんとなく良い感じがするのですね。「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい。」時折、クリスチャンの方のお家を訪問させていただいたときに、この聖書の言葉が綺麗な毛筆で色紙に記され、壁にかけて飾られているのを見た覚えがあります。とても良い言葉です。私たちが生きるときの態度はこれなんだ、神が私たちに望んでいるのはこういうことなんだ、ということがよくわかります。

 

 そして最後にこうあります。「“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」ここで最初の霊という言葉にコーテーションマーク(“〜”)が付けられていますが、これは新共同訳聖書が新しい翻訳として作られたときの決まりで、一般的な意味での霊、たとえば人間の魂や霊という意味でなく「神の霊」であることを表すときに、この印を付けています。

 

 ここで言われる、「“霊”の火を消してはいけません」と記された「霊」とは、神様の見えざる働き、聖霊ということです。その火を消してはいけない、といいます。そして続いて、「預言を軽んじてはいけません。」と言われている預言とは、旧約聖書に記された言葉で、これは「預言」と「予言」で漢字が違うように、未来を予想する予言ということでなくて、神様の言葉を預かって語る、という意味での預言で、旧約聖書に記されていますが、預言とは聖書の言葉全体と考えていただいて結構です。つまり聖書の言葉を軽んじてはいけないということです。

 

 また、「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」とあります。ここでは、この世の中にあって、何でも良いものということではないので、よく吟味する、よく見る、よく考える、そして正しい判断をする、というときに、祈って聖霊を受けること、そして聖書の言葉を大切にすること、そうしたことが大切な働きをしてくれるのですね。最後にはそのように示されています。

 

 以上が、今日の聖書箇所で言われていることです。これらのことを読まれて、皆様は何を思われたでしょうか? 

 

 聖書の中にはいろいろなことが言われていますが、今日の箇所の中には、誰にとっても良い言葉が言われています。何と言いますか、ごく一般的な意味で、いいことが書かれていますね。お互いに平和に過ごしなさい、とか、いつも善を行うようにしなさい、とか、弱い者たちを助けなさい、とか、悪をもって悪に報いることのないように気を付けなさい、とか、言われていることは一つひとつ、良いことだなあと思うことです。

 

 けれども、この現代の日本社会の中で生きている私たちが、いま言いましたような良いこと、それ以上のことを今日の箇所から何か思うでありましょうか。不思議なものですが、こうした道徳的な言葉というものは、確かに良い言葉なのですが、それ以上のことは思わないので、一般論として良いことだなあと、ふんふんと思うだけで、そこから何か実際に立ち上がって何かをする、というところまではいかずに読み過ごしてしまうということはないでしょうか。

 

 それだけではありません。聖書というのは、ちょっと皮肉な心を持った読み方をすることもできます。たとえば、今日の箇所に、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」とあり、これはとても良い言葉ではありますけれども、生身の人間が、いつも喜んでいる、そんなことができるでしょうか? どんなことにも感謝する、そんなことができるでしょうか?

 

 この今の世界を見渡すときに、民主主義が踏みにじられ、人の命が奪われ、生活が壊され、大変な世界であることは、一日の新聞を読めば一目瞭然であります。日本の中にあっても様々な経済格差、コロナウイルス問題、健康のこと、家族のこと、人間関係のこと、様々な問題があります。いつも喜んでいることなどできるのでしょうか。

 

 世の中では悲惨な事故や事件が起こります。自分には何の落ち度もなくても事故や犯罪に巻き込まれ、災害に巻き込まれ、恐ろしい目にあうことがあります。命が奪われることもあります。家族がひどい目に遭うこともあります。そんなことを思うと、どんなときにも感謝する、なんていうことは到底できません。

 

 そして、この世の中の現実というものを、深く深く心に思いながら聖書を読むときに、聖書がどんな良いことを言っていたとしても、「ふん!」と言いたくなるのが人間であります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と言われても、「そんなことができるもんか! この現実を見ろよ。何が、いつも喜んでいなさい、ですか!」と、聖書の言葉を突き返したくなるのが人間の思いであります。

 

 「絶えず祈りなさい」と言われても、祈ったところで、そこで誰も直接答えてくださるわけではないので、そんなことはできない、と絶望し、聖書の言葉を突き返して、そうして鬱憤を晴らしたくなることがあるのです。

 

 そんな風な皮肉な思いをもって、聖書を読むことが出来ます。そうして考えるときに、今日の聖書箇所は私たちに、どんな意味を持っているのか、ということを思います。そのことを考える前に、まず、このテサロニケの信徒への手紙一の全体を読んでみた、そのことを通して感じたことを先にお話します。

 

 テサロニケの信徒への手紙一は、新約聖書に収められている中で一番古い時代に書かれた文書です。それは、できた20年ほどの最初のころの教会の様子を今に伝えている手紙です。このテサロニケの信徒への手紙には一と二があるのですが、本日の箇所である一を読みますと、ここには何が書かれているかといいますと、次のようなことです。

 地中海沿岸の地域にテサロニケという名前の港町があって、そこに使徒パウロが巡回をして父中海沿岸の町のいろいろな教会を回っていたのですが、このテサロニケの教会の人たちにもパウロは非常にお世話になったし、パウロ自身もテサロニケの教会の人たちに一生懸命に説教をして、いろいろなことをしたようなのです。そして、非常にいいつながりがあったようです。教会の人たちとパウロの間には、非常にいい関係があったのです。

 

 そして、ではこのテサロニケの信徒への手紙に何が書いてあるかといいますと、もう、パウロは、このテサロニケの教会の人たちをほめちぎっている、という手紙と言ってもいいと思います。パウロは、テサロニケの教会の人たちをすごく愛して、ほめているのです。

 

 もともと、地中海沿岸にある港町は交易が盛んで、そうした港町には様々な国の文化や、いろいろな宗教が流れ込みます。人の出入りが多い状況の中では、その中にはあまり好ましくないものもあったようですが、様々な偶像を拝む宗教もあった。しかし、テサロニケの教会の人たちは、そうした偶像を拝む宗教ではなく、聖書に証しされる目に見えない神様を信じました。

 

 その町において、イエス・キリストを主と信じる、十字架で死なれ、復活なされて私たちを導いてくださる主イエス様を信じる信仰を持つようになったのです。その教会の人たちがみんなで助けあって、みんなで生きている、そうしたテサロニケの教会の人たちをパウロはとてもほめているのです。そして、パウロ自身もその教会の人たちにとてもお世話になったのです。

 

 少しくだけた言い方をしますと、テサロニケの教会の人たちは、めっちゃいい人ばっかりですね、と言っている手紙なのです。あなたたち、めっちゃいいよ! 私もお世話になったし、私たちお互いにとってもいいよね、私の願い、私の祈りに皆さんは応えてくれたよね、いい人ばっかりだったよ、テサロニケの教会の人たちは……と、くだけた言い方をすれば、そのようなことが書かれているのが、このテサロニケの信徒への手紙一なのです。そうした、この手紙の全体は、また皆様がそれぞれに読んでいただければと思います。

 

 この、テサロニケの教会の人たちはみんなとっても良かったよ! とパウロがほめちぎっている手紙の、一番最後の部分が、今日の礼拝での聖書箇所です。この箇所で言われているのは、ある種の道徳的なことです。「弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。」

 

 こうした言葉は、一つひとつ倫理道徳的なことであり、特に聖書だから言われている言葉ではないと思いますので、平凡な言葉というようにも言えるでしょう。けれども、聖書の中で、平凡に見える言葉というのは大事なものだなあ、ということを今回の箇所を読んでいて思いました。

 

 というのは、たとえば、聖書の中に出てくる言葉で、復活ということが書いてあります。復活とはどういう意味があるでしょう。これは難しいですね。十字架の罪のゆるしとはどういう意味があるでしょう。これも難しいですね。こうした言葉は、何度も読んで味わうなかで、自分の中で時間をかけて受けとめていく言葉です。

 

 それに対して、本日の聖書箇所はどうでしょうか。復活もなければ十字架もない、特に何にも無いかのような箇所です。そういう意味で特別に難しいことは特に言われていない箇所です。けれども、この箇所を読みながら、私はだんだんと教えられてきました。それは、こうした平凡な言葉が並んでいる箇所は大切だなあ、と思うのです。それは、教会の本質とは何か、と考えたときに、それは実はこういう所にあるんじゃないのか、ということです。

 

 ここには、復活とは何か、十字架とは何か、そういうことは何一つ書かれていません。言われているのは単純なことです。お互い仲良くしなさいとか、よく働いている人を大事にしなさいとか。いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい、というように言われているとき、それは私たち人間がこの現実の中で苦しめられている中で、困っている中で、無理矢理にでも感謝しなさいというようなことが言われているのではなく、教会の中でみんなで一緒に礼拝してたら、感謝できることが必ず出てくるんだよ、必ず、喜ぶことが出てくるんだよ、ということをパウロはここで言いたいわけです。

 

 この社会の中で生きていて、悲惨な事故が起こります。事件が起こります。どんなことがあってもニコニコして感謝しましょう、なんていうことは、人間は絶対できないんですよ。そんなロボットのように、クリスチャン・ロボットのように、私たちはなれません。悲しいときは悲しい、悔しいときは悔しいですよ。本当に恨みつらみが爆発するときだって人間はある、それは当然のことなんですよ。

 

 その人間の有り様、現実がある一方、でも、教会に行ってごらん、礼拝に出てごらん、そうしたら、その中で絶対に何か喜べることがあるよ、絶対に何か感謝できることがあるよ、この世界の現実がどんなにひどくて、実際に苦しくて惨めであったとしたって、教会に行ってごらん、礼拝に行ってごらん、絶対に何かいいことがあるよ、絶対になんかうれしいことがあるよ、そんなふうにパウロは言っているのです。

 

 日常の生活の中で、いつも清く正しいことをする、ロボット・クリスチャンになることを勧めているのではありません。教会というところに、行って初めてわかることがあるんだと、それを絶対逃したらあかん、とパウロここで言っているのです。教会の人たちに対するパウロの深い深い愛情があふれているのです。

 

 2021年度、私たちも新しい歩み、新しい年度の歩みをするときに、教会って、このテサロニケの教会の人たちのような、こういうところだと思って歩んでいきたいと願う者であります。

 

 

 お祈りします。

 天の神様、いつもいつも守ってくださっていてありがとうございます。そのことに気が付くことが少なく、神様に感謝することが少ないこと心より反省をいたします。そして、教会がどなたにとっても、いつも励ましてくれる場所となりますように、今そうであることをこれからも続け、また、広げていくことができますように。病気や様々なことで教会に来ることができない方々、コロナ問題で礼拝を自粛している方々、仕事の事情や家族のことやいろんなことで教会に来ることができない、たくさんの人たちのことを思います。その人たちのことを思い、お互いに励まし合って、みんで祈って礼拝して、喜んで歩むことができますようにお願いいたします。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

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(いただいたサクランボ。庭で育てられたものをいただきました。感謝です)

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2021年5月9日(日)京北教会 礼拝説教
今井牧夫

「結ばれて生きる時代に」


 聖 書  テサロニケの信徒への手紙一 3章 6〜13節(新共同訳)

 

 ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、

 あなたがたの信仰と愛について、

 うれしい知らせを伝えてくれました。

 

 また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えていてくれること、

 さらに、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、

 あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。

 

 それで、きょうだいたち、

 わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、

 あなたがたの信仰によって励まされました。

 

 あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、

 今、わたしたちは生きていると言えるからです。

 

 わたしたちは、神の御前で、

 あなたがたのことで喜びにあふれています。

 

 この大きな喜びに対して、どのような感謝を神に献げたらよいでしょうか。

 

 顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、

 夜も昼も切に祈っています。

 

 どうか、わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエスとが、

 わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように。

 

 どうか、主があなたがたを、

 お互いの愛とすべての人への愛とで、

 豊かに満ちあふれさせてくださいますように、

 わたしたちがあなたがたを愛しているように。

 

 そして、わたしたちの主イエスが、

 ご自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、

 あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、

 聖なる、非の打ちどころのない者としてくださいますように、アーメン。

 

………………………………………………………………………………………………………

 (以下、礼拝説教) 

 

 今日の聖書箇所は、先週と同じくテサロニケの信徒への手紙一からであります。このテサロニケの信徒への手紙一は、新約聖書に収められている文書の中で一番古くに書かれたと考えられています。紀元50年過ぎ、つまり主イエス・キリストの十字架の死と復活ののち、20年ほどが経ったころの、一番最初のキリスト教会の様子を、その中で今に伝えている手紙です。

 

 テサロニケというのは町の名前であり、地中海沿岸にある港町でありました。そのころ、最初のキリスト教会は、地中海沿岸の港町にできていました。教会といっても、今のように教会としての建物があるのではなくて、イエス・キリスト主と信じる人たちの群れ、集まりということでした。礼拝の場所は少し大きな家を持っている人の部屋を貸していただいて、そこで礼拝をしていたのではないかと考えられています。

 

 この手紙を書いた使徒パウロは、当日の地中海沿岸や各地において、船に乗り、また徒歩で旅をして、各地の教会を巡回して伝道していました。パウロだけではありません。各地にそうした巡回伝道者がいて、イエス・キリストを主と信じる人たちの群れが少しずつ各地にできていたのです。本日のテサロニケの信徒への手紙も、そうした教会の様子を今に伝えています。

 

 この手紙の中には、その教会の中の非常に具体的なことはあまり記されていません。具体的なことよりもパウロがその教会にいて、その教会の人たちをどんなふうに思っていたか、教会の何をうれしいと思っていたか、自分がどんな気持ちだったか、そうしたことが書かれているが多いのであります。ですから、教会の中の具体的な出来事のことはあまり書かれていません。

 

 しかし、この手紙を読みますと、使徒パウロがこのテサロニケの教会の人たちと、大変いい交わり、いい関わりを持っていたということがよくわかります。そのことは今日の箇所からもよく伝わってきます。

 

 最初のところから見ていきますと、こう書いてあります。「ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。」このテモテとは、パウロが教会に遣わした人物でありますが、教会から遠く離れているパウロに教会の様子を伝えてくれたのです。

 

 「また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えていてくれること、さらに、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。それで、きょうだいたち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。」

 

 このとき使徒パウロは、キリスト教に対する迫害を受けていたようです。捕らえられていた時期もあったようです。そうしたことが苦難と表現されているのであります。そういう中で、会いたいけども会いに行けない、そうした苦労、困難があるということでありました。

 

 けれどもこのときテモテという、パウロが使わした人を通して、テサロニケの教会の人たちがしっかりと、イエス・キリストを信じる信仰につながっていて、パウロたちのことを覚えていてくれている、すなわち苦しんでいる人たちのことを思って祈ってくれている、そのこを聴いて非常に励まされている、ということがここから伝わってきます。

 パウロはここで、次のように言っています。「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。」

 

 ここで、「あなたがた」と呼んでいるのはテサロニケの教会の人たちであります。「わたしたち」と呼んでいるのは、遠く離れた地にいる使徒パウロとその仲間たちのことです。お互いにバラバラに生きています。けれどもその片一方の側がイエス・キリストとしっかり結びついているという様子を知ることによって、遠く離れた地にいるパウロたちも、いま生きていると思う、という生きる実感があるのです。遠く離れたところにいる教会の人たちがイエス・キリストにしっかりとつながっているということを知ることで、パウロたちも、今わたしたちは生きている、というその実感が持てているのです。

 

 ここにはそのころの時代の教会の人たちの、実感がよく表されています。幸せとは何でしょうか。それは自分のことだけではなく、遠く離れた教会の人たちのことでもあるのです。神様が与えてくださる教会のつながりとは、そういうものであります。会うことができなくても、離れていても、その一人ひとりの人が神様につながって今生きている、そしてお互いのことを祈っている、そのことを知るときに本当に励まされる、それがその時代の教会の喜びでありました。

 

 後半のところを読んでいきます。「わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神に献げたらよいでしょうか。顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。」とあります。本当にお互いのことを思っている様子が伝わってきます。

 

 次に、「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。」

 

 そして最後に、「そして、わたしたちの主イエスが、ご自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非の打ちどころのない者としてくださいますように、アーメン。」と言って、祈りの言葉でしめくくられています。

 

 ここで言われている、「わたしたちの主イエスが、ご自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき」とは、神学の言葉では「再臨」と言われるときのことです。再臨とは、再び臨むということであり、この「臨む」とは臨時の臨という漢字ですが、イエス様が再び私たちのところに来て下さるということを示す、神学的な言葉です。

 ここには、私たちが今生きているこの世界が、いつか役割を果たし終えて、この世界が終わる時が来る、その時には天から新しい神の国がやってきて、私たちをその新しい詩世界に招き入れてくださる、という、新約聖書の信仰がここに残されています。

 

 この再臨という考え方は、旧約聖書の最初にある創世記に記された、天地創造の物語の信仰と、対を為している考え方です。つまり、神様がこの世界を創造されたのだから、神様がいつかこの世界を終わらせてくださる、という考え方です。この世界が終わる時というのは、この世界が滅ぼされるという、暗い、怖いときというのではなく、新しい神の国が現れるとき、神様の恵みが満ち満ちている神の国が現れて、この今の世界にとって変わり、世界をすべてにおいて新しくして下さる、ということです。その新しい神の国が来る前には、様々な困難があるとしても決して希望を失ってはいけない、という希望が示されているのが、この再臨という考え方であります。

 

 現代日本社会に生きている私たちにとっては、そうした、いつか今のこの世界がその役割を果たし終えて、新しい神の国が来てすべてが新しくされる、という考え方は、あまりにも突飛であまりにも現実離れしているように思えます。そういう意味で、この再臨という考え方を歴史的な意味で、また科学的な意味で、これを断言すること、あるいはこれを信じるということは、難しいと私は思っています。しかし、この聖書が書かれた時代に使徒パウロが信じていた、再臨の信仰とは、今を生きている自分たちの苦労や悲しみが、いつか完全に報われて、その苦労が良しとされて、すべてのことが新しくされる、という神様に対する信仰ということでありました。

 

 つまり、再臨ということが具体的にどういうことであるかということは、ほとんどわからない。けれども、神様が私たちを招き入れてくださる、だから、今この世界の中にあって、どんな苦しいことがあったとしても、そのすべての苦労が清められて、涙がぬぐわれて、私たちは神様の国に招き入れられていく、ということが、今ある苦しい現実を乗り越えていく力となったとは事実です。

 

 そういう意味で、この再臨という考え方は、とても不思議な考え方に思えたとしても、このことは本当の苦しみの中にある人間にとっては、この世界がいつか必ず新しくされるという、確かな希望であり、人を生きさせる力であったということは、確かなことなのであります。そして今日のキリスト教会、この現代日本社会の中で礼拝をしている私たちの信仰も、そのような信仰、パウロの時代にパウロが持っていた、希望の信仰でありたいと願います。

 

 今日の聖書箇所において、真ん中あたりに、次の言葉があります。「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。」

 

 ここに、テサロニケの教会の人たちとパウロたちが、離れて生きているけれども、教会の人たちがしっかりと主に結ばれている、だから私たちは生きていると言える、とある、ここにはパウロが本当に教会の交わりを喜んでいる様子が伝わってきます。ここから、今日の説教題は、「結ばれて生きる時代に」という題を付けさせていただきました。この聖書の箇所から、結ばれて生きることが大事だ、と思ったからです。それと合わせて、「〜時代に」という言葉を付けさせていただいたのは、では今の私たちは、今のこの時代において、何に結ばれて生きているのだろう、と思ったからです。

 

 結ばれて生きる。人間関係で、結ばれて、という言葉を使うときというのは、だいたい良い意味に使われるように思います。しかし、今のこの時代にあって、私たちは何に結ばれて生きてるでしょうか。誰もが、新型コロナウイルス問題と結び付けられて生きているのではないでしょうか。そんなものとは結びつきたくないものと誰しもが思っていますが、いやおうがなく、誰もがそのことを意識せざるを得ない時代です。

 

 そして、この世界全体のことをニュースなどを見ていながら考えますと、本当に、いま私たちは何に結び付いているのかと思います。人間は何に結び付けられているか。ミャンマーはどうでしょう。台湾はどうでしょうか。香港はどうでしょう。アジア、アフリカでは、アメリカでは、EUでは、と考えていくと、それぞれの国の民衆の苦難の状況が浮かび上がってきます。その国の社会体制、その有り様のなかで、権力の戦いの中で、いやおうがなく人間がその体制に結ばれて生きている。そんなことは嫌だといっても、その時代の中で結び付けられて生きています。結び付けられていることを前提として、その中でどう生きるかが問われています。

 

 日本社会においてはどうでありましょうか。目に見えた戦争や弾圧がなかったとしても、様々な社会の矛盾があり、人間の罪としか言い様がない現実があります。その中にあって私たちは、何と結びついて生きるのか、誰と結ばれて生きるのか、ということを考えます。この社会の中で、いやおうなしに結び付けられている、コロナウイルス問題。常にそのことを気にして、警戒し、その中で私たちは疲れさせられています。疲れても疲れても、そこから解き離たれることがない結びつきの中で生きている私たち。

 

 そのような私たちに対して神様が、今日の聖書箇所を通して語りかけて下さっています。パウロは言っています。「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。」パウロはなぜ、このように言えたのでしょうか。それは、遠く離れていても、イエス・キリストがそこにおられる、ということを信じているからであります。

 

 つまり、目に見えないきずな、としての主イエス・キリストがおられる。その主、イエス様がこの私の知らないところで働いて下さっていて、私が会うことのできない人たちの中にあって、きずなとなってくださっている。そのイエス様をこのわたしも信じている。そうした目に見えないイエス様という方を通じて結ばれている、そのことが、この世の中にあるあらゆる結びつきよりも勝って素晴らしいものである、ということをパウロは信じているのです。

 

 パウロの時代ではキリスト教に対する迫害がありました。社会の中で様々な矛盾があり、困難がありました。当時の、最初のころのキリスト教会に集った人たちはどういう人たちであったのか、ということを聖書学者、歴史学者が研究しています。もちろん、はっきりとした資料というものがあるわけではないので、はっきりしたことは言いにくいのでありますが、地中海沿岸の港町にキリスト教会ができていった理由には、いろいろな背景を持った人たちが来ていたということがあります。自分の生まれ育った町を離れてその町に来ていた人たち、その中にはいくらかの割合で、奴隷の人たちがいたと考えられています。

 

 奴隷と言っても、どこかに閉じ込められてムチで毎日過酷な作業を強いられて、というイメージではなく、家に住むことができ、家族と共に暮らすことができる、働くこともできる、ただし自分の存在や仕事は主人によって拘束されている、そしてまた奴隷として売り買いもされる、そうした奴隷で、比較的に生活の自由もゆるされていた奴隷たちです。そうした人たちは、自分たちの持っていた土地を失って追われた貧困な人たち、戦争や災害など様々な問題で土地を追われた人たちが多かったのではないでしょうか。そうした奴隷たちが、一定の数、存在していました。

 

 そうして港町にやってきていた、いろいろな所から自分の生まれ育ったところを離れて来ていた、いわば自分たちの「根」を持つことのできない人たちが、教会に来ていたのではないかと考えられています。そして、その人たちに礼拝する場所を提供していたのは、比較的裕福な人たちだったのではないか、と考えられます。そういう意味で、その港町において、経済的な状況や、立場や民族が違っていたとしても、その中で集まる人たちがいました。

   そして、当時の様々な文化や宗教が流れ込んでくる港町においては、様々な偶像を信じる宗教があり、そうした宗教は往々にしてその土地に根ざしています。しかし、その土地に根を持たない、奴隷の人たちや流浪の人たちにとっては、そうした偶像を信じる宗教、その土地に根ざした宗教というのは、関係がないか、あるいは、自分たちが信じることの恩恵を感じることが少ないものでありました。

 

 そうした中にあって、主イエス・キリストを信じる信仰というものは、その土地に根ざすものではなく、また、特定の民族に根ざすものでもありませんでした。旧約聖書イスラエルの民によって書かれましたけれども、主イエス・キリストを信じる信仰は、ユダヤ人だけではなく、世界のすべての人に向けられています。そのことを証しするときに、その最初の時代のキリスト教、おそらくまだキリスト教とも呼ばれていなかった時に、聖書に基づく新しい教えが、地中海沿岸の港町において新しいコミュニティ、人々の集まりを作っていく、その魅力を持っていたようであります。

 

 そうした中で集まっていた人たちの信仰は、どこかの土地や民族というものと結びついて、この土地に生きているから、とか、私たちは何人だから救われて幸せなんだ、と考えるのではなく、土地も民族も、そういうことから離れて、私たちは神様に結びついているから幸せなんだ、だから希望を持って生きられるんだ、と。そして、いつか再臨の時がやってくるのだから、その日を待って、毎日を元気に、神様を信じて生きていこうというものの考え方ができたわけであります。

 

 そうしたキリスト教会ができてくるにあたっては、使徒パウロの働きが大きかったと思います。もともと聖書を厳格に守る律法学者だったパウロは、あるとき自分の目が見えなくなったその時に初めて、律法を守れば救われるという信仰では、自分は救われないということをパウロは痛感いたしました。そして、その後にまた目が見えるように戻ったのでありますが、パウロは以前とは違う新しい道を行くことになります。

 

 聖書においては、神様の聖霊がくだり、主イエス・キリストがパウロに現れて下さって、パウロが新しい道を歩み始めたという形で、新約聖書使徒言行録やパウロの手紙において記されています。しかしその中にあるのは、律法主義と言われる、旧約聖書の律法を信じることによってユダヤ人が救われる、という、それまでの考え方から解き放たれて、世界のすべての人が、聖書の神様を信じることによって救われるんだ、という考えです。

 

 国とか、民族とか、あるいは障がいがあるとかないとか、男女の違いであるとか、そうした人間の属性とは何ら関係ないところで、神が私たち一人ひとりに出会ってくださる、ときには突然のようにして、パウロがそうでしたが、突然のようにして神様が出会って下さる、そのことによって私たちは新しく生きる力が与えられるんだと。そのパウロは各地を巡回して、そのような自分の経験を語り、そして聖書の信仰にしっかりと基づきながら、そこから新しい教え、聖書に記された神の恵みはすべての人に与えられる、その考え方が、地中海沿岸のいろいろな港町において出来た人の群れ、立てられた教会において大きな魅力を持っていたのであります。

 

 今の日本社会の中に生きる私たちにとって、その当時の教会の様子を知る、ということが、ここで新しい意味を持ってきます。というのは、私たちは、今のこの時代において、いやおうなくコロナ問題に結ばれて生きているからです。また、いろんな人間関係や社会の関係の中に結ばれて生きています。その中には、いいこともあればいやなこともあり、私たちはいやおうなく、世の枠組みの中で生きています。でも、どんな枠組みの中にあったとしても、イエス・キリストが私たちと出会って下さる、わたしたちが神を選んだのではなく、神様が私たち一人ひとりのところに来て下さったということへの感謝として生き始めるとき、いやな結びつきではなく、神様との素晴らしい結びつきへと新しく招かれているのです。 

 

 お祈りします。

 神様、いつも一人ひとりを守って下さっていて、ありがとうございます。この世界の中でどう生きていったら良いのかと、迷うこともありますが、その中にあって一人ひとりの心を照らして下さい、そして落ち着いて自分の道を歩めますように。イエス様がいつも共にいて下さいますように、心よりお願いをいたします。そのことがすべての人にありますように。また、私たちのこの京北教会も、テサロニケの教会のように、遠くにいる人たち、会うことのできない人、そうした人たちのことを常に覚えて、祈りの中でつながっていることができますように、お願いをいたします。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

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 2021年5月16日(日)京北教会礼拝説教 今井牧夫

「罪を捨てて愛される」

 

聖 書  ヘブライ人への手紙 12章1〜7節(新共同訳)

 

 こういうわけで、

 わたしたちもまた、

 このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、

 すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、

 自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。

 

 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。

 

 このイエスは、

 ご自身の前にある喜びを捨て、

 恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、

 神の玉座の右にお座りになったのです。

 

 あなたがたが、

 気力を失い疲れ果ててしまわないように、

 ご自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、

 よく考えなさい。

 

 あなたがたはまだ、

 罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。

 

 また、子どもたちに対するようにあなたがたに話されている勧告を忘れています。

  「わが子よ、

   主の鍛錬を軽んじてはいけない。

   主からこらしめられても、

   力を落としてはいけない。

   なぜなら、

   主は愛する者をきたえ、

   子として受け入れる者を皆、

   むち打たれるからである。」

 

 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。

 神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。

 いったい父からきたえられない子があるでしょうか。

 

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 (以下、礼拝説教) 

 

 4月の教会総会が終わりましてから、しばらく、礼拝において、教会とは何だろうかということを皆様と一緒に考えていくために、聖書の箇所を、新約聖書の様々な手紙から選ばせていただいています。本日の箇所はヘブライ人への手紙の12章です。

 

 このヘブライ人への手紙は、手紙という名が付けられていますが、他のパウロの手紙などとは違って、説教として書かれています。一番最後に、手紙として送ることを示す文章があるので手紙という名が付けられていますが、実際にはこれは普通の手紙ではなく、説教です。

 

 そして、このヘブライ人というのは何人を指すかといえば、イスラエル人、ユダヤ人を指すのですが、もっと広い意味で言えばヘブライ語という言葉を使う人々、という意味で使われているようです。そして、この文書の特徴は、かなり長い手紙なのですが、この中で旧約聖書が存分に使われているということであり、つまり、この文書の性質は、旧約聖書をよく知っている人たちに向けて書かれている、つまりイスラエルユダヤ人の文化である、旧約聖書をよく知っている人たちに向けて書かれているということです。

 

 それは、いわゆるユダヤ人だけに限らず、地中海沿岸の町で暮らしていたギリシャ人やローマ帝国の人たち、そうした人々の中にもイエス・キリストの福音を信じた人たちがおり、そうした人たちは旧約聖書に触れていましたから、そうした人たちをも含めて、この文書は書かれています。

 

 ということは、この文書は、特定の民族や地域の人たちだけに向けて書かれたのではなく、旧約聖書を読む人たち、旧約聖書を大事にしている、すべての人たちを対象にして、説教として書かれているといってよいでしょう。そういう意味でヘブライ人への手紙というタイトルが付けられていると考えることができます。

 

 当時、地中海沿岸の町にあって、ユダヤ人の中には、母国イスラエルを遠く離れて生きている人たちがいました。その人たちは旧約聖書の律法を守る謹厳実直な生活をしていました。その実直な信仰深い生活に感銘を受けて、その信仰や生活に心惹かれる異邦人、外国人の人たちもいたということです。

 

 そうした人たちが旧約聖書の教えを聞いて、感銘を受けて聖書を読むようになり、さらにそうした人たちの中から、後にパウロたちの伝道を受けて、イエス・キリストを主と信じる信仰を持ち、クリスチャンになっていった人たちもいると考えることができます。そういう意味で、旧約聖書を知っているということは大きな意味がありました。

 

 そうして地中海沿岸のいろいろな所にいる、様々な人たちに対して、旧約聖書を存分に用いてイエス・キリストへの信仰を証ししているのが、このヘブライ人への手紙です。

 

 本日の箇所は、その中で説教の終わりに近いところにある箇所です。次のように書かれています。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、……」とあります。こういうわけで、と書かれている本日の箇所の前の箇所には、旧約聖書の物語がたくさん引用されている箇所があります。旧約聖書の登場人物をたくさん引用して、その人たちが皆、神の恵みを証ししている、ということを示しています。そうした人たちに私たちは囲まれている以上、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」と書かれています。

 

 この手紙がなぜ書かれたか、ということへの一つの推測としては、キリスト教に対する迫害ということがあったと考えられます。そして、その中で信仰を捨てることがときには求められるような社会の情勢があったと思われます。その中で勇気を出そう、というのです。それは、旧約聖書の中に記された、もうたくさんの登場人物たちが、信仰の素晴らしさを証ししているのだと、だから「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」と言われています。

 

 ここには、競争する、走る、ということがここで一つのたとえとして言われています。あとの所では、「血を流すまで抵抗したことがありません」という言葉があります。また、罪と戦うという言葉が出て来ます。こうした言葉には、ボクシングのような当時のローマのスポーツが想定されているようです。走る競争であったり、スポーツのことがたとえられていますが、スポーツではなくて信仰の戦いとしてこれからしていこう、ということが言われています。

 

 さらに、次の箇所を読んでいきます。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」そして、次にこうあります。「このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」ここでイエス・キリストの十字架の死のことが言われています。ローマ帝国にとらえられて無残な死を遂げたということではなく、人間の罪をゆるすための犠牲の死という意味で、栄光の出来事として記されています。

 

 そしてそのあと、こう言います。「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、ご自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」ここで、イエス・キリストが十字架につけられたのは、神に反抗する人間の罪によってである、ということが言われています。このイエス・キリストの十字架の死において、天の神様が忍耐をされました。イエス・キリストの十字架の死は、神様の究極の忍耐でありました。

 

 次に、「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」とあります。今の時代に迫害があったとしても、以前の時代とは違っていると言われています。そして次にこういいます。「また、子どもたちに対するようにあなたがたに話されている勧告を忘れています。『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主からこらしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者をきたえ、子として受け入れる者を皆、むち打たれるからである。』」

 

 ここでカギカッコに囲まれている言葉は、旧約聖書箴言3章の言葉をアレンジした言葉です。神様が私たちを鍛えてくださっているのだから、力を落としてはいけないというのです。試練の向こう側には神様の愛があるのだからと、旧約聖書箴言を通して教えています。

 

 そして最後にこういいます。「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい父からきたえられない子があるでしょうか。」私たちに試練がやってくるのは、一人ひとりを神が愛しているからです。愛しているがゆえに試練がやってくるのです。神の愛とはそういうことであるということが言われてます。

 

 今日の聖書箇所は、そのようにして、教会の人たちに対して神の愛ということを告げ知らせています。今この、ヘブライ人への手紙という名前で残されている説教を、その時代に実際に耳で聞いていた人たち、実際に読んでいた人たちは、どんな人たちであったのか、ということは、はっきりとはわかりません。しかし、地中海沿岸、あるいはいろいろな地域にあって、教会において信仰の危機に出会っていた人たちではないかと思えます。自分たちが信じていることは、どれほど確かなことなのだろうかと、社会状況が悪くなっていく中で、そうした悩み苦しみを持っていたのだと思います。

 

 その中にあって、旧約聖書の物語を一つひとつ思い出してごらん、そこにはたくさんのいろんな人たちが今まで生きてきたことが書いてあるよ、それを思い出して、その人たちに支えられてこれからも生きていこうと語っているのであります。

 さて、このような今日の聖書箇所を読んで皆様は、何を思われたでありましょうか。先週、先々週の礼拝で読みました、使徒パウロの手紙とは違った雰囲気を感じている方もおられるでしょう。

 

 この箇所を本日の礼拝説教の箇所として選んでから、私はこの箇所を読みながら、いろんなことを考えました。そして、なんとなく自分の中で感じたことがあるので、そのことをお話します。

 

 この箇所を繰り返し読みながら、なんとなく、段々と、私は「ふわっ」とする気持ちになりました。この「ふわっ」という気持ちとは何かというと、この箇所を読んでいる自分の心の焦点が定まらない感じがしたということです。ふだんの礼拝のときの聖書の言葉、それが、イエス様がお話される福音の物語や、使徒パウロが語る手紙などのはっきりした言葉であれば、その言葉と向き合うときに、自分の心の中に何かが生まれてくる、そのことが聖書を読むときの喜びなのですが、本日の箇所では、なぜか「ふわっ」としたことは考えるのですが、なぜか、はっきりしたことが考えられない、というちょっと不思議な気持ちになりました。

 

 それはなぜだろうか、と考えてみると、ひとつのことに気が付きました。今日の箇所で言われているのは、お父さんが子どもを愛している、ということと、神様が人間を愛しているということを重ねて言われているのですね。

 

 そして、そういう話を私が聞くときに、自分の気持ちがどんなふうに動くかというと、実際に私が自分の父親からいろんなことを説教されてきたことの経験というものが、無意識に出てくるのです。そして思い出しますと、実際に父親からお叱りを受けて説教を聞いていたとき、自分が何を思っていたかというと、だいたい聞いていなかった、ということが多いのです。いつになったらこの説教は終わるのだろうと思って、聞いている振りをしていたことが私は圧倒的に多いのです。そして、父の言っていたことは、わかるようなわからないようなことでありました。

 親の説教というものは、それはありがたいことなのでしょうが、ずーっと聞いていたところで、退屈というか、同じような話が多かったり、あるいは父の人生論のようなものが語られたり、あるいは、こっぴどく叱責されたりする中で、正直、力を落としていった、それこそ力を落としていった、ということがあるのです。親に説教されることは疲れる、しんどいことなのだから、とにかく終わるまで待つ、という子どものときの経験がありました。

 

 私は、そうした経験がよみがえってきますので、今日の箇所に書かれていることにも、これはおそらく良いことなんだろうけれども、「ふーん」と聞いてしまうのです。そうだね、神様は試練を与えられるんだね、でもそこに、父が愛するような神様の愛があるんだよ、と言われたら、ふーん、そうなんだね、と思います。そういう意味で、ここに書かれていることに反対はしません。けれども、ふわーっと話を聞いてしまうのです。

 

 そして、こうした話が終わったあとに、やっと自分の時間に戻れる、という子どものときの感覚があるのです。それは、10代のとき、いや20代になっても私は父からしかられていたのですが、いや、30になっても40になっても50になっても、やっぱり父からしかられているのですが、やはり、こうした親から叱られて説教を聞くときの気持ちというのは、どこか焦点が定まらない感覚で聞いてしまうのです。

 

 しかし、こうした聖書の箇所をいま皆様と共に礼拝という場所で読みながら思うことは、そんなふうになんとなく聞きながら聞き流してしまう箇所が聖書の中にはある、また、聞き流すだけではなく反発を感じることもあります。それは、父のために、自分のしたいことができなかった、自分の時間が奪われてきたという感覚も父に対してあるのです。

 

 皆様はどうでしょうか。今日の箇所に書いてあることを読んで、その通りと受け取られる方もいるでしょうし、また、あまりピンとくるものがない、として何も思わない方もおられるでしょう。あるいは、父に虐待を受けたというような悲しい経験のある方ならば、逆に反発を感じる箇所であるかもしれません。

 

 いろいろなことを考える中で、私は本日の説教題を「罪を捨てて愛される」と題しました。それは、今日の箇所をいろいろに読む中で私が感じたことなのですが、私たちが神様を信じて、神様を愛して生きるときに、私たちがすべきことは何だろうかと考えてみたのです。

 

 それは何かというと、それは「罪を捨てる」ということだと思いました。

 

 罪とは何でしょうか。社会では罪とは法律上のこと、いわゆる犯罪のことや、あるいは嘘をつく、人を馬鹿にした、というような道徳的なことだと思われます。しかし、聖書でいう罪とは、そうした法律上の犯罪ではなく、また道徳的な意味での罪ということでもなく、神様との関係がまっすぐでないということを示しています。神様との関係がそれている、まっすぐ向き合う関係ではなく、神様を避けて自分を中心として生きていくことが、聖書が示している罪ということです。その根本的な罪から、法律に触れるような様々な犯罪や道徳的な罪として、隣人との関係の破壊、喪失など様々な罪が生まれてきます。

 

 そうした罪というものを人間は持っています。なぜかというと、それは、人間には自由というものが与えられているからです。神様から与えられた自由というものを正しく使うことができません。神様から与えられた自由を正しく使うことができず、自己中心的に用いることによって、人間は神様からそれていきます。そのことによって人間は罪深い存在となっていきます。そのような人間が、もう一度神様の方向を向くということができるとしたら、それはどのようなことによるのでありましょうか。

 

 聖書が教えているのは、主イエス・キリストの福音を信じる、ということであります。神様と人間の間の分かたれた関係の間に、神様は主イエス・キリストを与えて下さった、この人間世界に下さった、と聖書は教えています。そのイエス・キリストを通して、もう一度私たちが神様との関係に戻っていく。そのことが、私たち人間が人生でなす最大のことなのです。

 

 私たち一人ひとりの人間は、神によって造られてこの世界に存在しています。にも関わらず、その神様から離れてしまい、与えられた自由を正しく使わずに、罪の中に生きていきます。そうしてそれていく、私たちがもう一度神様のもとに戻っていく、その時に試練が生まれます。なぜならばこの人間の社会というものは、罪に満ちたものであって、神様との関係に戻っていこうとする人間の努力を踏みにじるからであります。そこで私たちが戦う、ということが生じます。その戦いは、私たちが自分自身の力ですることはできません。それは、私たちを招いてくださる神様の導きがあって初めてできることであります。そして、神様から分かたれていた私たち一人ひりとが、神様のもとに戻っていく、そこに信仰の戦いというものがあります。

 

 そこで必要なものは、私たちを招いてくださる神様と、招かれている私たち、という二者の関係であります。今日の聖書箇所を読むときに、父と子、という関係のことが言われています。父と子という関係を読むときに、それを自分の父と自分の関係ということに無意識に重ねて読むときに、ときに反発を感じたり、ときに何も感じなかったり、ときにふーんと聞き流してしまったり、ということが、人間だから誰しもあります。しかし、聖書ということを通して父と子の関係ということを読むときには、自分自身が経験してきた父と子の関係ということから離れて、聖書が言っているメッセージに本当に心の耳を傾けていく必要があるのです。

 

 それは、父といえばあんな父だったなあと思い、子といえば私はあんな子だったなあと思い、そうして、いつまで経っても自分の経験してきたこと、そこから進むことができない、というところに私たちの弱さがあるのです。それはまた一つの罪であると言ってもよいかもしれません。

 つまり私たちは、何だかんだ言いながら、あんな親がいやだったとか、あんな家庭がいやだったとか言いながら、その経験から前に進むことができない時に、実は私たち自身が、いやだいやだと言いながら、親との関係をどこかで握りしめている、そこに何か、今こんな風な自分が生きていることの責任を、親に背負わせて生きている、そんな人間の弱さというものがあります。

 

 聖書を読むことの素晴らしさの一つは、そうした自分の弱さというものを教えられて、そこを離れて前に進むそのことが、メッセージとして聖書に託されているということであります。

 

 今日の箇所において、旧約聖書のたくさんの登場人物が、神の恵みを証しする存在として語られ、そのあとにイエス様のことが語られ、そして私たちに与えられる試練が、父が子を愛するように神様から与えられているものである、ということが語られています。この箇所を読むときに、いつまでたっても自分自身の家族の経験に縛られて、その中でしか聖書を読むことができない、という、その状態を離れて、そこを出て神様の恵みへと近づいていきたいと思います。神様は愛をもって私たちを、その方向に導いて下さっているのであります。教会というものの役割がそこに果たされます。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、どうぞ私たちを神の愛のもとに招き入れ、そして日々の生活を守ってください。私たちが神様の愛に応えて、それぞれ与えられた場にあって、自分なりの生き方をすることができますように。イエス様が私たちと神様の間に立ってくださって、すべてのことを導いて下さいますように、お願いをいたします。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。