京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2021年4月4日(日)イースター(復活日)から復活節の礼拝説教(4月)

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2021年4月4日(日)京北教会 イースター(復活日)礼拝説教

「復活を聴く、我、生きる」今井牧夫

 

聖 書 マタイによる福音書 28章 1〜10節(新共同訳)

 

 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、

 マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。

 

 すると、大きな地震が起こった。

 主の天使が天から下って近寄り、石をわきに転がし、その上に座ったのである。

 その姿は、稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。

 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

 

 天使は婦人たちに言った。

 「恐れることはない。

  十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、

  あの方は、ここにはおられない。

  かねて言われていた通り、

  復活なさったのだ。

  

  さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。

  それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。

   『あの方は死者の中から復活された。

    そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。

    そこでお目にかかれる。』

  確かにあなたがたに伝えました。」

 

 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、

  急いで墓を立ち去り、弟子たちにも知らせるために走って行った。

 

 すると、イエスが行く手に立っていて、

 「おはよう」と言われたので、

 婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、

 その前にひれ伏した。

 

 イエスは言われた。

 「恐れることはない。

  行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。

  そこでわたしに会うことになる。」

……………………………………………………………………………………………………………

 (以下、礼拝説教) 

 

 本日、私たちは教会において、イースター礼拝の日を迎えました。イースターとは、主イエス・キリストの復活を記念する日であります。復活日。主の復活日。そのように表現することができます。

 今からちょうど1年前、私たちは、その年のイースターのときに何を考えていたでしょうか。京北教会ではその直前の時に役員会において、コロナウイルス問題を受けて礼拝の形式を変更すること、そのほかのことを決めました。そのことを週報で告知したのがイースターの日でした。イースター礼拝の日から礼拝の形が変わりました。全体を短縮しました。聖書朗読や祈祷や説教などをすべて事前の録音の再生にしました。讃美歌はCDの音源を使って、合唱団の讃美歌を用いました。また、オルガニストのCDから、礼拝の前奏・後奏などを選ばせていただきました。

 

 みんなでマスクをして、礼拝の前に係の方が礼拝堂の消毒をして下さり、みんなで協力をして手を洗ったり消毒したり、工夫をして感染対策をして新しい形式の礼拝をいたしました。それが昨年のイースターの礼拝でありました。教会にとって一番うれしい、一番晴れがましい日である、主イエス・キリストの復活をお祝いする日、その日が、コロナ問題に教会として真っ向から立ち向かう、ある意味での闘いの始まりの日となり、そして、礼拝の形を変えて京北教会は歩み出しました。

 

 そのあと、緊急事態宣言など政府の動きを受けて、礼拝に出席する方々の人数は大きく減りました。一番少ないときで5人という時もありました。京北教会の役員会ではすでに、礼拝は各人の家庭あるいは個人で守ることを原則とするということを、先に決めておりました。それに皆さんが従ってくださった、各人のご判断であります。それと同時に、どうしても礼拝堂での礼拝に出たいという方を断るということもしない、という判断をして礼拝堂での礼拝も続けました。

 

 礼拝堂での礼拝では、徹底した感染対策のもとでの礼拝であります。毎回毎回、礼拝説教も聖書朗読もみんな事前に録音をして再生する、という異例な形式を取らせていただきました。そこには私自身の思いも反映させていただいています。讃美歌は小さな声で、とか、マスクをして、とか、いう形だけではなく、徹底して感染対策するとしたらどうしたらいのか、と考えた結果です。言葉を発しなければ飛沫感染は起こりませんから、少し距離をとった上でさらに徹底して感染対策をする、そういう覚悟でありました。

 

 そしてそのあと、時間の経過の中で私たちはこの感染対策ということに経験を積んで参ります。こういうときにはこうしよう、こういうときにはこれぐらいで大丈夫じゃないかと、そうしたいろいろな経験の蓄積を得て、礼拝での説教や祈祷の録音再生は、昨年のクリスマス礼拝の時にやめて、今と同じく直接語る形にさせていただきました。讃美歌の奏楽者も初夏のころより自発的に復帰してくださいました。礼拝出席も一番少ないときは5人でしたが、その後に段々と回復して参りました。そのあとの緊急事態宣言の再発令など様々な状況により、礼拝堂での礼拝にも出席者は前年度の約半分、多くても3分の2程度になっています。それから、昨年度のペンテコステ礼拝のときから始めた、インターネットのYouTubeでの礼拝説教の公開、これを聞いてくださる方が毎回十数人程度おられます。礼拝堂に来ることができない方々がお家で礼拝説教を聞いて下さっているのです。

 

 この1年間、いろんなことがありました。昨年のイースターのとき、全く新しい形式をとった礼拝をしながら、これから一体この世界はどうなっていくのだろうか、という思いがいっぱいあったことを思い起こします。

 

 そのころ、桜の季節でありましたが、桜の花見も自粛するように、三密になってはいけないから、と言われて、桜を愛でる、楽しむ、という気持ちになりませんでした。そんなとき、たまたま道を歩いていて、道ばたのタンポポに目がとまりました。タンポポの花が咲いたあとに、種が羽毛のような白い羽のついたまん丸の球形の、とっても大きなタンポポが足元にありました。思わずそのタンポポの美しい、可愛らしい姿に目がとまり、しゃがんでじっとそれを見つめました。その時に思いました。桜を見ることも、今年はできないんだ、いけないんだ、と思っていたら桜を見る気もなくなった。しかし、タンポポを見てはいけないとは誰も言わない、だからタンポポを自由に心ゆくまで見ることができた、と。そのとき思ったのです。私と桜の間には、コロナ問題というものがはさまっているから、桜というものをまっすぐに見つめることができなかった。けれども、私とタンポポの間には何一つもはさまるものがなかったから、私はタンポポを見つめることはできた。イースターというものも、そういうものではないか、と思ったのです。

 

 主イエス・キリストのご復活ということが、福音書に記されています。キリスト教は今日もそのことを宣べ伝えています。けれども、イースターということと、この私の間に何がはさまっているでしょうか。いろんなものがはさまっていたならば、私たちはイエス・キリストのご復活ということを、まっすぐ見ることができません。そうであるならば、そうしたものを一切取り去ってみたときに、何が見えてくるのでありましょうか。

 

 見えてくるもの、というのは無いかもしれません。しかし、聞こえてくるものは、確かにあるのです。復活から見えることは、何もないかもしれません。けれども、復活から聞こえてくることは、確かにあります。

 

 今日の現代日本社会に生きる私たちにとって、復活とはどんな意味があるのでしょうか。いろいろな意味が考えられるかと思います。皆様いろいろに考えることができると思います。その中で私は、ふとこんなふうにを考えてみました。教会というものが、人が来なくなってつぶれてしまったらどうなるんだろう、と。

 

 コロナ問題で人が減った、いや、それ以前から教会はなかなか人が増えない。財政もしんどくなっているみたいだ。この現代社会の中で教会は、なかなか成長できなくて苦しんでいるんじゃないか。そんなことを考える中で、だんだんと人が減り、財政も厳しくなり、そして、教会はもう終わりなんだ、教会は最後を迎えるんだ、と思ったときに、そう思ったあとに、日曜日に教会に行ってみたら、いつもと変わらないようにみんなが静かに礼拝をしていた、死んだはずの教会が生きている。その歴史的役割が終わったはずの教会が、生きている。何一つ変わらないようにして生きている。問題はいろいろあるかもしれません。課題も多いのでしょう。反省もいろいろしたらよいのでしょう。けれども、弱っていき、困っていき、今にも倒れそうな教会に、「ああ、教会はここまでだったんだ」と思える日が来たとき、そのあとに、教会に行ってみたら、変わらずにみんなが礼拝をしていた。

 

 イエス・キリストの復活ということは、もし、この現代日本社会の中で私たちがその意味を経験するとしたら、そういうことなのではないか、と私は考えました。もう終わったはずなんだ、しかし、脈々と流れている命の鼓動が聞こえてくる。復活とはそういうものではないか、と考えました。

 

 私にとって、復活とは何か、ということを考えるときに、思い起こすことは、私の義理の兄の突然の死のことです。三十代半ばで神の御許に召されていった妻と2人の子ども、残された教会、残されたすべての者は、この世界はこれからいったいどうなってしまうのか、誰しも衝撃を覚えた死でありました。そのあと、葬儀などがすべて終わったあとに、私は道を歩きながら考えました。ちょうど受難週でありました。イースターを前にしたひとときでした。復活か……。イースターが来るのか……。復活か……と考えたときに、復活ということが本当にあったら、どれだけうれしいことか、と私は思いました。そして、そのときに私はハッと気が付きました。私は今まで復活をうれしいと思ったことが、一度も無かったということです。

 

 教会に行けば必ず復活の話を聞きます。イースターの時には必ず聞きます。聖書にそのことが書いてあります。キリスト教のどの本を見ても復活のことが書いてあります。入門書にも必ず書いてあります。私はそのことを知ってきました。そして教会の教師にもなりました。しかし私は、それまで、イエス・キリストの復活がうれしいことと思ったことは一度もありませんでした。復活とは、クリスチャンが通らなくてはならない何か、のことなのだろうと思っていました。しかし、私にとって大切な家族の死を迎えたとき、はじめて、復活というのはうれしいことだと思いました。

 

 復活ということがうれしいことである、ということを思わずに、あるいは知らずに、復活ということを論じるのであれば、そこには虚無と言っていいのでしょうか、カサカサした、ガサガサした、血の通わない思い、ただ理屈だけを論じ合っているだけの世界があるように思います。イエス・キリストの復活というのは、そのような、論じ合っていけばいつかそのことが説明されるということではありません。もちろん、科学的に証明されることではありません。証明されることであれば科学の対象になることであり、それは信仰の対象になることではなくなってしまうからです。それはあくまで証明されることがないこととして、私たちに神様の側から聞こえてくる、神の言葉、復活とはそういうことなのであります。その復活ということを聴くときに、私たちはまた新しく生き始めるのです。復活ということを聴くことによって、私たちはまた新しく生き始めるのです。私たちが経験する復活というのは、そういうことでありましょう。

 

 復活とは、具体的にはどういう形であるのか、と問われたら、それは千差万別、神様の御心しだいとしか言いようがありません。教会ということでいえば、さきほど申し上げたように、教会がこのコロナウイルス問題の中で弱っていく、この日本社会の中で教会がだんだんと弱っていく、その歴史的役割を終えて、いつか終わっていく、そうしたことだと思えたとき、そのあとに教会は、イエス・キリストと共に復活し、生きていく、そのような歩みをするのであります。

 

 ここから、本日の聖書箇所を読んでいきます。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。」とあります。そのころの安息日というのは、今でいう土曜日にあたります。神様を礼拝するための日、何も仕事をしない日、その日が終わって週の一番初めの日の明け方、朝に、2人の女性がイエスの墓に行きました。それは、亡くなられた方のなきがらに良い香りがする香油を塗って死者に敬意を表すことのためでありました。

 

 「すると、大きな地震が起こった。」とあります。主の天使が天からくだってきました。そして天使が女性たちに言います。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていた通り、復活なさったのだ。」ここにある、地震、そして天使の登場、そしてイエス様の墓が空っぽであったという事実。そして天使の言葉が続きます。「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かにあなたがたに伝えました。」

 

 ここにある天使の言葉は、2重カギカッコに入れられています。本日の聖書箇所全体が、聖書学者の研究によれば、マルコによる福音書の一番最後の場面をもとにして、そしてマタイによる福音書はマルコによる福音書よりも10年から20年程度のちの時代に書かれていますので、マルコ福音書の記事を元にして、そのあとにその他の言い伝えを組み合わせる形で、いわば、いくらかの、話の脚色をして、ここに記しているのであります。その中にあってもともとマルコ福音書に記されていた大切なメッセージをこの中にきちんと保存しているのであります。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」

 

 ガリラヤとは、主イエス・キリストが、神の国の福音の宣教を始めた地域でありました。弟子たち1人ひとりもガリラヤにおいてイエス様と出会ったのです。イエス様が活き活きと町をめぐり歩いて、活き活きと宣教をされた、神の国を宣べ伝えられた、その場所に先に出かける。イエスはあなたたちよりも先に働きに出ておられる。そこに行けばあなたたちもイエスに出会える、そのように天使たちが言ったというのであります。そしてその後、女性たちが「恐れながらも大いに喜び、 急いで墓を立ち去り、弟子たちにも知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

 

 ここではマルコによる福音書の言葉が、もういちどイエス様ご自身が言われるという形で強調されています。こうして、元々のマルコ福音書の記事をもとにして、マタイ福音書ではそれをより強調する形で編集がなされています。福音書というものが編集されていくときに、その記者たちの努力によっていくらかの脚色がなされ、いくらかの編集がなされ、いろいろな言葉が組み合わされ、解説され、そしてのちの時代に向けて、よりふさわしく人々に伝えられるように福音書は書かれていきました。その中にあって私たちは、いま残されている聖書の言葉を通じてイエス・キリストの復活ということに出会っています。

 

 正直、人間的な思いで申し上げれば、福音書の中にある、そうした脚色的な部分、また、説明されている部分、強調しようとしていろいろと記されている言葉、そうした部分に、現代人の目で見て、いくらかのつまずきを覚えたり、不可解な思いがしたりすることも確かであります。聖書を読むときに、現代人のそうした心のつまずきと言いますか、それは避けようがないと私は思っています。

 

 しかし、そうしたこと、聖書をよむときのつまずきということも覚えつつ、一方で、ではそんなにつまずくことがいっぱいあるイエス・キリストの復活ということ、そのメッセージを聴くことに、私たちは本当には何を聴いているのだろうか、と。皆様は何を聴いていますか。私は今回の聖書箇所を読んで思いました。私にとって復活とは、理解することができないことであると。それはわからないことであると。人にそのことを説明しつくすこともできないことであると。そのことをあらためて思いました。

 

 子どものときに聖書の言葉を読んでわからなかったと同じように、50代半ばになった今も私はやはりこれはわからない、これはやはり説明できない、ということを思います。一方で、イエス・キリストの復活が、この私を生きさせて下さっているということを心から信じ、感謝して主イエス・キリストの復活を私は証しをするのであります。キリスト教の中には、説明し尽くすことができないことがあります。イエス・キリストの復活もそうです。けれども、そのことについては、私たちは自分の人生の一番最後に神様から教えていただけるのではないかと私は考えました。

 

 どの人にとっても、神様から託されていることがあり、理性では説明できない生きる力というものがあり、それが何であるかということは、一人ひとりの生涯の一番最後に神様から明かしていただけるのではないか、そしてそれで充分なのではないか、と思うのです。主の復活、死の3日の後に与えられた復活、それは十字架の死ののちに、神様から明かされたことでありました。そのことを十字架にかけられる前からイエス様も仰っておられましたが、弟子たちは誰一人それを理解できませんでした。そして今日の私たちもまた、キリスト教の前でいろいろにつまずいています。けれども、私たちの生涯の最後に神様から明かされることがあるんだ、イエス・キリストの復活ということ、そして私たち一人ひとりの復活ということもまた、その時に、神様から明かされることである、そのように信じて、私たちは日々を今までと変わらずに、着実に歩んでいきたい、そのように願う者であります。

 

 お祈りします。

 天の神様、私たち一人ひとりに、神の愛の恵みを下さっていることを心より感謝いたします。私たちはそのことに気づかず、そのことを軽く見て、そのことを忘れ去っていきますが、心より悔い改めをいたします。このイースターにあたり、私たち一人ひとり、そしてこの京北教会、この世界の中に、仮に一度死んだとしても、神様が命の力を与えてくださる。そのことが私たちの復活のときにも明かしていただけることを信じ、たゆみない歩みができますように、お導きください。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

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 2021年4月11日(日)京北教会礼拝説教

「奇跡は立ち止まらない」

 

 聖 書 ヨハネによる福音書 20章19〜29節(新共同訳)

 

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、

 自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。

 

 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、

 「あなたがたに平和があるように」と言われた。 

 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。

 弟子たちは、主を見て喜んだ。

 

 イエスは重ねて言われた。

 「あなたがたに平和があるように。

  父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

 

 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。

 「聖霊を受けなさい。

  だれの罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪はゆるされる。

  だれの罪でも、あなたがたがゆるさなければ、ゆるされないまま残る。」

 

 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、

 彼らと一緒にいなかった。

 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。

 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、

  この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

 

 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。

 戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、

 「あなたがたに平和があるように」と言われた。

 

 それから、トマスに言われた。

 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。

  また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。

  信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 

 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

 

 イエスはトマスに言われた。

 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

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 (以下、礼拝説教) 

  先週の日曜日、教会はイースター礼拝の日を迎えました。主イエス・キリストのご復活ということを記念する礼拝であります。長く続いた、教会の暦で受難節、レントとも呼ばれるこの時期、私たちはイエス様の十字架の受難を心に刻み、そしてそれと共に、私たち一人ひとり、自分自身の受難ということをも、イエス・キリストの十字架ということを通して考えて参りました。教会の暦が復活節に入るとき、イースター礼拝のとき、そのとき暦が切り替わるだけではなく、私たちはイエス様の復活を通して自分自身のこれからの新しい歩みということをも考えます。新しい年度に入り、季節も変わり、私たちそれぞれの歩みがこの春の中で少しずつ少しずつ新しい道へと導かれています。

 

 一方で社会においては新型コロナウイルス問題が以前として深刻であり、第1波、第2波、第3波、第4波と、数字を数えるごとに、被害は大きくなっているのでありますが、人間の意識は徐々に緊張感が薄れ、何とも言えない思いにもなってきています。そんな状況の中、私たちは今日この礼拝に集い、イースター、復活節を迎えた教会で礼拝をしています。

 

 本日の箇所はヨハネによる福音書20章であります。このように書いてあります。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」とあります。その日とは、イエス様が捕らえられて偽りの裁判によって十字架の刑が下され、その十字架の刑において命を落とされた、その三日後のことであります。そこでの三日目とは、そのころの一週間の最後である安息日の日が終わった次の日であり、それは週の始まりの日でした。それは今の日曜日にあたります。その週の初めの日の夕方のことであります。

 

 ここで、「弟子たちはユダヤ人を恐れて」と書いてありますが、これはヨハネによる福音書の独特の書き方であり、弟子たちもイエス様もみなユダヤ人でありましたから、ここでユダヤ人というときには、社会一般の人々、世間一般の人々という意味です。ここで弟子たちは人々を恐れて、つまり、自分たちがイエス様の弟子であった、と分かると自分たちも迫害の対象になることがわかっていましたので、自分たちがいる家の戸にカギをかけていたのです。

 「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」とあります。ここでは平和という言葉には、ギリシャ語でシャーロームという言葉が使われています。

これは日常の「おはよう」という意味でも使われますし、ここで言われているように特別な意味を持って、「あなたがたに平和があるように」という意味でも使われる言葉です。

 

 ここでイエス様が ここで家にカギをかけて閉じこもって、人々からの迫害を恐れている弟子たちのところに、平和を持って来てくださったということであります。「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」とあります。なぜ、ご自分の手とわき腹をお店になったかというと、これはあとの話の伏線になっているのですが、十字架にはりつけにされたときに手のひらに釘が打ち付けられていました。わき腹には槍をさした傷跡がありました。

 

 それは十字架刑というのは非常にむごい刑であり、木の十字架の上にはりつけにされてそのまま放置されることによって、体が変調し衰弱して、その様子が人々が見ている目の前にさらされながら死に至るという、大変残酷な刑でありました。そして、はたから見て十字架の上で死んだように見えても、もしかしたらまだ生きているかもしれないので、十字架の下からわき腹をヤリで突くという習慣があったようです。ヤリでさしても何の反応もしなかったということで、死を確認したことになります。そのように最後のヤリの一撃がイエス様のわき腹にあったということです。その傷をここでイエス様はお見せになったということです。

 

 そしてこうあります。「イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」ここで再びイエス様は、シャーロームと言われています。今ここでイエス様が弟子たちに平和を持ってきてくださったように、今度はあなたがたが、この平和を持って人々のところに行くのだ、と言われています。そしてイエス様が弟子たちを派遣します。家にカギをかけて閉じこもっていた弟子たち、もう社会の人々から自分たちは迫害される実になってしまっていた弟子たちが、ここでイエス様から派遣されて、人々のところに出て行くことになるのです。平和を持って行くために。

 

 その次のところです。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

だれの罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪はゆるされる。だれの罪でも、あなたがたがゆるさなければ、ゆるされないまま残る。」ここには、「息を吹きかけて」という言葉がありますが、ギリシャ語では息というのは霊という意味でもあります。聖い霊、聖霊。そういう意味でイエス様が神様の聖い霊を弟子たちに与えて言われたということです。教会の暦では、聖霊降臨日、ペンテコステの日があります。これは、聖書の使徒言行録に記された、聖霊の働きであり、その日から教会を造る、伝道の働きが言われています。つまり、このあと40日後に弟子たちが聖霊を与えられるということを、ここで先取りして、イエス様が先に聖霊を弟子たちに与えてくださっているのです。聖霊を受けたらどうなるのか、それは罪のゆるし、その力を神様から与えられるということがここで言われています。

 

 このあと、今日の箇所の後半で、話が少し変わってきます。トマスという人がいました。12人の弟子たちの1人でした。トマスは福音書の他の場面にも出て来ています。いつくかの場面を見ると、トマスがどんな人であったかが伝わってきます。まずトマスは熱血漢でまっすぐな性格の弟子でした。そして少しおっちょこちょいというと失礼ですが、少し思い込みが強い所もあった、そんな人物として聖書には描かれているようです。

 

 このとき、トマスはほかの弟子たちと一緒にいませんでした。次のように記されています。「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

 

 こうしてトマスは、イエス・キリストが復活したなんてことは決してありえないと考えています。ですからこんなことが言えたのです。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」これは本当に残酷なむごい言葉です。そんなことがあるわけがないと思っているから、トマスはこのように言えるのです。

 

 このようにトマスが言ったのは、単にイエス・キリストのご復活ということを信じていなかったたというだけではなく、イエス様が十字架につけられて死なれたということが、トマスにとってものすごく大きなショックだったからでありましょう。決して受けいられない嫌なことに出会って、もういやだと、こんな現実に直面することはいやだとトマスが思っているからこそ、そんな復活なんてことはありえないと、それは気休めなのだと、そんなふうにトマスは思っているのです。むしろ、そんなふうにイエスは復活したなどと言っている他の弟子たちが許せなかったのではないでしょうか。これほど大きな悲しみに直面しているにもかかわらず、イエスが復活したなんて気休めを言っているのは一体何事かと、そのようなトマスのまっすぐな思い、熱い思いが伝わってきます。

 

 「その傷に私の指を入れてみなければ私は決して信じない」というような、イエスの死を侮辱するような言葉、むごい言葉すら自分の口から出して、復活なんていうことは一切、私は受け入れない、とトマスは言っているのです。そのあとのことです。「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」とあります。

 

 もう一度イエス様が来てくださいました。その時には、トマスも一緒にいました。この時もまたイエス様は平和を持って来て下さいました。「それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 

 イエス様が1度目に弟子たちの所に来られた時には、ご自分の手とわき腹の傷を弟子たちに見せて下さったように、2回目のこの時にも同じことをされ、そして、どうぞその手を私の傷に入れてみなさい、そのようにして確かめてください、トマスが言っていたように、そうしたらいいんだ、という意味のことをイエス様は仰ってくださいました。その言葉を聴いた時、思わずトマスは言いました。「トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。」

 

 全くあり得ないことが、この時に起こっていました。復活などするはずがないイエスが目の前に来て下さった。その受け入れられないときの驚きの中で、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と言います。私の神……こんなに疑ってイエスの復活を信じない、この私のところにイエス様が来て下さった、その驚きのことで私の主、私の神よ、とトマスは言っています。

 

 

 これは、信仰の告白です。そのあとのことです。「イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」このようにして今日の箇所は締めくくられています。

 

 今日の箇所の前半と後半をつないだときに、物語として示されていることがあります。それは、今日の箇所、この箇所というのは、イエス様の時代からずーっと後の時代の人たちに向けて書かれているということです。それは、イエス様が天に上げられたあと、残された弟子たちがペンテコステ聖霊降臨日の日より、勇気を持って伝道を始めることになった、そのための言葉と力を聖霊によって与えられて、弟子たちは世界中に伝道をしにいくことになります。そして地中海沿岸を始めとして各地にキリスト教会が形成されていきます。教会の建物を建てるという意味ではなく、人の群れができる、そういう意味で各地に教会が作られていきます。そしていろいろな迫害もたくさん受けましたが、その中で広がっていったキリスト教会。

 

 イエス様の時代からずっと時間が経って、イエス様のことを直接知っている人たちがいなくなっていく、その時代にあって、ではイエス様の宣べ伝えた神の国の福音を、誰が継承して宣べ伝えていくのか、という話になったときに、それはキリスト教会である、ということは明白であります。そのキリスト教会というものにイエス様の力が聖霊によって託されている。復活なされたイエス様がそのように仰って下さって、弟子たちに、聖霊を受けよ、と言って下さって、そしてペンテコステの日に聖霊がくだり、本当に聖霊の力に満たされて弟子たちは伝道しに行くことになった。そうした形でイエス様の権威というものが、教会に継承されていくことになった、そのことの根拠が本日の聖書箇所で示されているのであります。

 

 前半のところで、イエス様がこうして弟子たちの所に来てくださって、聖霊を受けなさい、だれの罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪はゆるされる。だれの罪でも、あなたがたがゆるさなければ、ゆるされないまま残る。」と言われます。これは、罪のゆるしという非常に大きな力をイエス様が弟子たちに託してくださったことを示しています。

 

 そして今日の箇所の後半では、教会ということについての説明、と言ったらいいのでしょうか。トマスという人がいました。絶対にイエス・キリストの復活なんて信じませんと言っていた、そのトマスが、復活されたイエス様と出会ったときに、私の主、私の神よ、と信仰を告白しました。

 

 イエス・キリストの復活を信じることができない人が、ある日、イエス様と出会って信じるようになっていく、すなわち教会というものは、最初から神様を信じて最初からイエス様を信じている、そういう人たちばかりでなく、そんなことは絶対に信じませんと言っていた人たちが、加わっていく、そういう場所であるということが本日の後半に語られているのです。

 

 そして、最後にこう言われています。「イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 

 目で見て、あるいは触って確かめるということをなしに信じる人は幸いであると言われています。ここにはイエス・キリストの復活ということは、何らかの手段で確かめる対象ではなく、信じる対象であるということが、はっきりと言われています。これが教会の信仰だということがここに示されています。それは何か不思議な力を使って、確かめたから、わかったから、イエス・キリストの復活を信じようということではないのです。見ない、確かめない、しかし、信じる、それが教会の信仰であることが、今日の箇所ではっきりと言われているのであります。

 

 今日、私たちはこの現代の社会に生きている人間の一人として聖書を読むときに、復活の話というのは正直に言えば、つまずく思いがいたします。復活、そんなことあるわけないでしょう、そういう気持ちになるのは、ごく普通のことであります。それは、聖書が書かれた時代の人たちもそうだったのです。このトマスのように、私は決して信じない。それが人間としての自然な信条でありましょう。しかし、そのトマスもまたイエス様を信じるようになりました。そのイエス様の仰っていることが、「見ないのに信じる人は、幸いである。」

 

 このイエス様の言葉をどのように受けとめるのか、そこに信仰というものの一つの、ある意味で闘いというものがあるのだと思います。何に対して闘うのか、誰に対して闘うのか、自分の中の何かと闘うのであります。自分の力では打ち勝てない何かと闘うときに、神様の恵みによって打ち勝っていく、そのことが信仰ということでありましょう。

 

 今日の聖書箇所の最後にあります、「見ないのに信じる人は、幸いである。」という言葉を繰り返し読んでいたときに、私は、マタイによる福音書ルカによる福音書にある、イエス様の言葉を思い起こしました。「貧しい人々は幸いである。」ルカによる福音書の言葉です。この言葉は、マタイによる福音書では、「心の貧しい人々は幸いである。」となっています。どちらも不思議な言葉です。どうして、貧しい人々は幸いなのでしょうか。また、どうして、心の貧しい人々は幸いなのでしょうか。不幸じゃないですか、普通に考えたら。また、心の貧しい人々という表現が何を意味しているか、わかりにくいですが、心が貧しかったら、やっぱり不幸なんじゃないですか、そう思いたくもなります。

 

 しかし、貧しい人や心の貧しい人は幸いである、とイエス様が仰るとき、それは、私たちが幸い、幸福ということはこういうことなんだ、となんとなく自分の中で思っていることに対して、イエス様によって、それは違うと言われて、新しい道が開かれていることを私たちは知ることができるのです。

 

 何々の人は幸いである、と言われているときに、その人たちは目に見えて幸いであると言われているわけではありません。むしろ不幸のどん底にいるのかもしれません。でも、そのような人たちに対して、イエス様が「幸いである」と言われるとき、それは何を意味しているのでしょうか。

 

 それは人間にとって幸いというものは、目で見て確かめるものではない、ということが言われているのだと思います。これこれこんなふうに、目で見てこうなっているから、この人は幸せなんだ、と言えることではない、ということです。不幸のどん底にいるかに見えても、しかしその中で生きようとする思い、踏みつぶされても踏みつぶされても、それでも生きようとしている祈りがある、その祈りこそが幸いではないでしょうか。

 「見ないのに信じる人は、幸いである。」という言葉は、「貧しい人々は幸いである。」というイエス様の言葉と同じではないか、と思います。目で見て確かめるほどの力がありません。そのことができるほどの知識がありません。そのことを考えるほどの時間もありません。そんなものはないのです。しかし、神様が私たちに対して、最善のことをしてくださる、そのことを信じている信仰、というのはある。そのところにイエス・キリストの復活ということと出会っていく道があるのです。

 

 お祈りします。神様、私たちが知り得ることと、知り得ないことがあり、その間でいつもいろんなことを考えます。神様、どうか、この地上に生きているすべての人を祝福してください。どの人も自分なりに、一生懸命に考えたり悩んだりしながら生きています。そのどなたをも神様が知ってくださっていることを固く信じ、感謝して、生きることの希望を神様の御言葉から与えられたいと心から願います。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

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2021年4月18日(日)京北教会礼拝説教 今井牧夫

「話しましょう、福音」

 

聖 書  ルカによる福音書 24章 22〜35節(新共同訳)

 

 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。

 

 婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻ってきました。

 そして、天使たちが現れ、「イエスは生きておられる」と告げたと言うのです。

 

 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、

 婦人たちが言った通りで、あの方は見当たりませんでした。

 

 そこで、イエスは言われた。

 「ああ、物分かりが悪く、

  心が鈍く預言者たちの言ったことをすべて信じられない者たち、

  メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」

 

 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、

 ご自分について書かれていることを説明された。

 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。

 

 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、

 もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、

 イエスは共に泊まるため家に入られた。

 

 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、

 賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

 

 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

 

 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、
 わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

 

 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、

 十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、

 シモンに現れたと言っていた。

 

 二人も、道で起こったことや、

 パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

 

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 (以下、礼拝説教) 

 

   教会の暦が復活節に入って以来、新約聖書に記された主イエス・キリストの復活についての物語を、毎週の礼拝で皆様と共に読んでいます。本日の箇所はルカによる福音書24章です。

 これは読んだときに少し不思議な印象を受ける物語です。もちろん聖書に記された話はどれも不思議な印象を受けるのですが、今日の箇所は何か特別なものを感じます。それは、イエス様が十字架にかけられて死なれたあとに、弟子たちが暗い顔をして歩いていた、そこにいつの間にかイエス様が一緒に来て下さって、一緒に歩いて話しかけてくださった、そういう物語なのであります。

 

 そして、イエス様がその二人の弟子たちと一緒に歩いているのですが、その二人の弟子は、その話している相手がイエス様であるということがわからないままに話を続けた、という物語なのであります。それは一体どういうことなのでしょうか。一人の人が一緒に付いて来て、その人が誰であるかわからない、しかもそれが自分たちが一番知っているはずのイエス様であることがわからないというのはどういうことでしょうか。もうその時点で、この物語はとても不思議な印象を私たちの心に残します。

 

 しかし、ルカによる福音書のこの物語は、そうした読み手の疑問に答えることはなく、あたかもそれがごく当然のことであるように進んで行くのです。イエス様がとらえられて十字架にかけられて命を落とされたその後、残された弟子たちは絶望の中を歩んでいました。そして一刻も早く、自分たちが滞在していた都エルサレムを逃れて別の所へ行こうと、逃避行の旅をしていたのです。

 

 その二人の弟子の所に、一人の人がいつの間にか付いて歩いて来た、そしてその人から「何を話しているのですか」と尋ねられて、二人の弟子は「あれほど都の人たちがみんな知っていることをあなたは知らないのですか」と言って、イエス・キリストの十字架の死、そのことを語り伝えたのであります。

 

 そして、その弟子たちの話の一番最後は、次のようなことでありました。ここからが本日の礼拝での聖書箇所です。「ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻ってきました。そして、天使たちが現れ、「イエスは生きておられる」と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言った通りで、あの方は見当たりませんでした。」

 

 ここで、この二人の弟子たちが、その見知らぬ人に告げた言葉、というものは、マルコによる福音書に収められている、イエス・キリストの復活の物語、また、マタイによる福音書にも収められているイエス様の復活の物語でした。その一番最初の物語が、ここに凝縮された形で収められています。最初の証言は、墓に行ってみたが、そこにイエス様のなきがらがなかった、そして天使たちがいてイエス様が生きておられると告げたという話です。

 

 それを聴いたところで、この二人の弟子に付いて来ていた、誰だかわからない一人の旅人が、イエス様なのですが、仰いました。「そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことをすべて信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された。」とあります。こうしてイエス様ご自身が、ご自身のことを説明された、というのであります。

 

 そして「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。」こうして二人の弟子とそれが誰だかわからない旅人は、一緒に三人で宿に泊まります。そして「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」とあります。

 

 のちの時代の教会が、聖餐式という名前で、一つの式の形にしました、イエス様がパンをとり、それを裂いて渡す、それをみんなでわかちあう、それは、イエス様の命ということをみんなでわかちあう、そういうことであり、それは最後の晩餐のときにイエス様がなされたことでありました。その最後の晩餐のときにしたことを、イエス様がここでなされた時に、この二人の弟子たちの目が開け、それがイエス様だとわかったというのです。あのイエス様だ、とわかった瞬間にその姿は見えなくなったといいます。

 

 そして、「二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。」とあります。そして「時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」とあり、本日の聖書箇所は終わっています。

 

 とても不思議な印象を与える物語です。イエスだとわかった、しかし、その姿が見えなくなった、といって、ここで突然イエス様は消えてしまいます。この物語が事実だったとしたら、それはどういうことだったのでしょうか。その場面を頭の中でイメージしてみても、よくわかりません。一緒に付いてきた、誰だかわからない旅人が、イエス様であるにもかかわらず、それが誰だかわからないままで話をしていたということが、そもそも意味が分かりません。そしてイエス様だと気が付いたがその姿が見えなくなった、というのであれば、そのイエス様の姿とは一体何だったのでありましょうか。

 

 読み手にとって本当に不思議な印象を与える物語でありますが、この物語は、主イエス・キリストの復活とはどういう意味を持っているか、ということを語り伝えるために、教会で編集された物語であります。この物語で起こっていることは、後の時代の教会で起こったことであり、また、現代の、いま聖書を読んでいる私たちの中にも起こっていることであります。それはどういうことかというと、次のようなことです。

 

 まず最初に聖書のメッセージというものがあります。今日の箇所でいえば、最初のこの二人の弟子たちが言う、イエス・キリストは復活されたが、そのなきがらが墓の中なかったが、そのことが信じられないということ、つまり、聖書の言葉と、それを信じることができない自分たち、ということが最初に記されています。

 

 そして、そのあとに、弟子たちがよくわからないという事柄について、この時点ではそれが誰だかわからないという人が、聖書を用いて、イエス・キリストの復活の意味というものを教えて下さった。それでも、まだ弟子たちがよくわからなかった。

 しかし、イエス様が立ち止まらずに先に行こうとしておられたので、弟子たちは引き止めて、一緒に過ごしたいとして、泊まることにしていただいた。そして食事をした、パンをわかちあった、そのとき初めて、そこにおられるのがイエス様だとわかった。そして、わかった瞬間、その姿が見えなくなった。

 

 これは、のちの時代の教会の人たちが、聖餐式の場において、あるいは教会の交わりの場において、実際に経験した体験だったのだろうと思えます。

 

 つまり、まず聖書の話があります。しかし、それを聴いても信じることができません。そして、誰だかわからない、そこにいる人から、聖書全体を通して解説を受けます。すると、いろいろなことがわかってきますが、まだ信じるところには至りません。しかし、一緒に歩み、そして一緒に家に入り、一緒に食事をしたとき、パンをわかちあった、本当に自分自身が食べるものとして恵みが与えられ、それをわかちあったときに、そこにイエス様がおられることがわかった。

 

  そして、わかった瞬間、イエス様が目の前からいなくなられた。目で見える形ではいなくなられた。そして、いなくなられたあとに、残された者どうしが語り合うのです。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語りあったとあるように、イエス様の存在が本当にあるということを確信したそのあと、残された者はお互いの胸の内を語り合うのです。

 

 話を聴いていたとき、私の心は燃えていた、いや私の心もそうだった、そうやって、それぞれの心が神様によって燃やしていただいた、命の力をいただいた、そのことを語り合った。そして、そこから本当に生きる力が与えられて、今まで逃避行していた道を引き返して元のところに戻り、そして同じ経験をした人と再会し、言葉をかわし、自分たちの確信を深めていったのであります。

 

 後の時代の教会においても、何度も何度もこうしたことが繰り返されてきたのです。まず最初にあるのは聖書の言葉です。そしてそれを聴いて信じられない自分たち。しかし、聖書全体を通して学んでいく中で段々とわかってくる、そして最後はパンを分かち合うときに、そこにイエス様がおられるということを実感し、そしてイエス様が目の前におられなくても、まさにイエス様は復活された、イエス様が私たちと共にいてくださるということを心から実感し、そのことを語り合うことにおいて、主イエス・キリストは復活なされた、という信仰が、教会の信仰として確かなものとなっていったのであります。

 

 本日の聖書箇所には、そうした最初の時代の教会の人たちの、教会における経験というものが、凝縮して語られています。

 この箇所においてイエス様は、どこからか現れて、私たちと一緒に歩いてくださる方として記されています。そして、止まらずにこの先へと歩いていこうとしておられる方であり、実際に弟子たちよりも先に歩いておられます。イエス様の姿が消えたということは、ただ単にいなくなったということではなく、弟子たちよりも先に、行くべき所に向かわれたということであります。

 

 それは、他の聖書箇所に記されている言葉でいえば、ガリラヤという地域に行くのです。イエス様が育ち、生活し、そして宣教の活動をなされていたガリラヤの地、都エルサレムから遠く離れた辺境の地とも思われていたガリラヤに行く、そこでイエス様と弟子たちは再び会うことになる、ということが他の聖書箇所でイエス様から言われています。そのガリラヤの地へと、イエス様は進んで行かれます。

 このように、イエス・キリストの復活ということは、どこからか歴史のある時間の中で、この地点で奇跡が起こった、復活が起こったとして、その地点に固定していることではなく、復活は常に前に向かって進んでいる出来事である、ということが示されています。

 

 それを一つの科学的事実として、あるいは歴史的な事実としてこうであったということを確定しようとするならば、イエス・キリストの復活という出来事は、私たちの手をするりと抜けて、前へと進んで行きます。捕らえようとしても捕らえようとしても、捕らえられないものとして復活があります。それは、聖書に記されたすべての奇跡がそうなのですが、奇跡というものは、それが神様の御心である限り、私たち人間がそれを自分の手の中に入れて、これが奇跡だ、この奇跡を私は自分のものにした、ということはできないのです。それは常に、時間の流れの中で前へ前へと進んで行くものであり、私たちはそれを追いかけることにおいて、追体験するものなのであります。それを追いかけるときに、私たちが生きる力が与えられる、それが主イエス・キリストの復活ということであります。

 

  奇跡というものは、立ち止まるものではないのです。イエス・キリストの復活ということは、どこかに固定した形であるのではなく、常に前へ進んでいく力として私たちに与えられるのであります。

 

 今日の説教題を「話しましょう、福音」と題しました。今日の物語の中では、二人の弟子が語り合っています。最初は暗い話をずっとしていました。自分たちが信じていたイエス様が捕らえられて十字架に架けられて死なれた、そんなことはあるはずがないと思っていた、想像もしなかった、しかしそのことが本当に起きた、自分たちはどうしたらいいのだろうか、そういう絶望に満たされた思いでした。何をしゃべっても暗い気持ちになります。自分たちもまた、イエスの弟子だという理由でこれから迫害される。自分たちの希望だったイエス様はもうこの世にいない。絶望した弟子たち二人は、お互いに絶望を語り合って暗い旅をしています。

 

 しかし、そこに誰だかわからない一人の人がやって来て一緒に歩いて下さり、あなたたちが語り合っていることは何のことですか、と尋ねてくださった。それはその二人の弟子たちからすれば、愚かな言葉に聞こえたに違いありません。もう都の誰でも知っているのにあなたは知らないのですか、とあきれた顔をして教えました。自分たちが希望をかけていたイエス様が、あろうことか十字架に架けられて殺されてしまったのだ、もう希望がないのだ、と。

 

 そうして絶望を語ったときに帰って来た言葉は、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことをすべて信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」とその見知らぬ人が言うのです。

 

 それは、イエス・キリストの十字架の死ということは、歴史の中のある一つの地点で起こったこととしてだけ見るのではなくて、聖書全体を通して見るべきものではないか、とここで怒られているのです。

 

 イエスの十字架も復活も、そのことだけを歴史の中で見て、それだけを切り出して、取り出して論じてみても、何にも得るものはありません。聖書全体を通して、そこに込められた神様の御心ということを知るときに、初めてその意味を知るのです。

 

 教会で聖書を読む、教会で聖書について考える、そういうことが必要なのです。そのためには、話す、ということ、お話をする、ということが欠かせないのです。最初は絶望からであっても構いません。暗い気持ちからであっても構いません。話しているときに、自分と違ったことを話してくれる人が必ず現れます。そして、その話を聴いているうちに、それが誰であったとしても、その話の中で示されていくことがあるのですね。教会というのはそういう場所なのです。

 

 主イエス・キリストの福音を話しましょう。最初は絶望からであっても構いません。聖書の話が信じられないという話からであっても構わないのです。しかし、そこから話しましょう。そしてそのなかで福音というものが、良き知らせということが、必ず与えられていきます。そして、そのことが、みんなでパンを分かつときに、つまり、具体的な神様の恵みが実感されるときに、イエス・キリストの復活ということがわかるのです。言葉の持っている意味がわかってくるのです。

 

 私は以前に、聴覚障害者の方々が多く集っている教会の話を聴いたことがあります。牧師が手話ができる人であり、その教会には聴覚に障害がある方がたくさん集っておられたということです。そして、その教会では手話で説教をしておられるそうです。そして、私は、その教会に集う聴覚障害のある方の証し、ご自身のことのお話を聴かせていただいたことがあります。

 

 そのとき、手話を用いてご自分が主イエス様に救われた経験を、一生懸命に話して下さったのです。そのときに、本当に心の中がうれしくなる経験をいたしました。それは、耳の聞こえる、言葉がしゃべれる人間がふだん使っている言葉ではない、手を動かす手話の言葉であり、手話で伝える、その手の動きがとても活き活きしていたからであります。そのときのことを振り返るときに、私は思いました。言葉というのは動きなんだ、と。ふだんは静かに口だけ動かす言葉というものを考えていますが、そうではなく、聴覚障害の方々の手話は本当に動きが豊かです。言葉というのは動きなんだと思います。そしてその動きが言葉として解釈される、ということなのです。言葉というものは、動きとその解釈であるわけです。

 

 今日の聖書箇所においてはどうでしょうか。イエス様が宿に泊まられて、食事のときにパンを裂いて渡して下さったときに、二人の弟子たちの目が開けてイエスだとわかったとあります。そこにあった動き、パンを裂く手の動きということが、そこにイエス様がおられるということを弟子たちに知らせたのです。そしてそのイエス様の姿は見えなくなった。

 

 イエス様の復活ということを伝える言葉というものも、一つの動きであり、その解釈なのであります。イエス・キリストの復活ということは、歴史のある地点だけのことではなく、その後の時代の教会そのものを生かす力、その大きな大きな力、その全体がイエス・キリストの復活ということなのであります。その動きを解釈するものとして、イエス・キリストの復活の物語があり、聖書全体があるのです。

 

 お祈りいたします。

 天の神様、日々私たちを守って下さり、感謝いたします。聖書を読んでも理解できない思いの中で思い巡らすときに、イエス様ご自身が私たちに語りかけて下さる、そのことを信じてまた新しい力を与えられて教会の皆様と一緒に歩むことができますように。今、コロナウイルス問題を始め、苦しんでいるこの世界全体に生きるすべての人を、神様が祝福して守ってください。この祈りを主イエス・キリストの御名を通してお献げいたします。

 アーメン。

 

 

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2021年4月25日(日)京北教会 礼拝説教 今井牧夫

「友のために自分の命」

聖 書  ヨハネによる福音書 15章11〜17節(新共同訳)

 

 これらのことを話したのは、

 わたしの喜びがあなたがたの内にあり、

 あなたがたの喜びが満たされるためである。

 

 わたしがあなたがたを愛したように、

 互いに愛し合いなさい。

 これがわたしの掟(おきて)である。

 

 友のために自分の命を捨てること、

 これ以上に大きな愛はない。

 

 わたしの命じることを行うならば、

 あなたがたはわたしの友である。

 

 もはや、

 わたしはあなたがたをしもべとは呼ばない。

 しもべは主人が何をしているか知らないからである。

 

 わたしはあなたがたを友と呼ぶ。

 父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

 

 あなたがたがわたしを選んだのではない。

 わたしがあなたがたを選んだ。

 

 あなたがたが出かけて行って実を結び、

 その実が残るようにと、

 また、

 わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、

 わたしがあなたがたを任命したのである。

 

 互いに愛し合いなさい。

 これがわたしの命令である。

 

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 (以下、礼拝説教) 

 

  本日の聖書箇所は昨年度の京北教会の主題聖句が含まれている箇所です。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」そして「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」と言われています。イエス・キリストは十字架に架けられる前の日に、弟子たちにそのように言われました。

 

 そして、今この礼拝の中で聖書を読んでいる私たち一人ひとりに対しても、この言葉をかけてくださっています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」

 

 こうしてイエス様とわたしたちの関係は、友の関係であることが語られると同時に、その、友であることの理由は、私たちがイエス様を友として選んだからではなく、イエス様が私たちを友としてくださったからであるということが言われています。

 

 本日の説教は、「友のために自分の命」と題しました。それは今日の箇所の中に、この言葉があるからです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」これは主イエス・キリストが私たち一人ひとりの人間のために、その罪を背負って十字架に架かって死なれた、そこに神の罪のゆるしがある、ということを前提にしている言葉であります。

 

 イエス様が十字架にはりつけにされて命を落とされた、そのことはすべての人間の罪を負ったゆるしであった。これ以上に大きな愛はないのです。神の子が私たち人間一人ひとりの罪を負ってゆるしてくださった。そこには神の子が犠牲になってくださったために、私たち人間一人一人が生きていけるのだという、神と人間の関係というものがそこに示されているのです。

 

 今日の箇所のこの言葉、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」を読むときに、イエス様が言われる友とは、単なる友達ではないことを示しています。単にどこかで知り合った友達ということではなく、もっともっと深い意味が込められていることを思います。自分の命をその友のために捨てるほどに、その友とは、自分の意志を持って選んだ相手なんだということを示しています。

 

 今日の説教題を付けたとき、「友のために自分の命」としました。最初は、聖書の言葉通りに、「友のために自分の命を捨てる」としていたのですが、そのことを自分で自分に問いかけたとき、私はそのことができるだろうか、と考え込み、「そんなことができるのだろうか」という思いにとらわれました。友のために自分の命を捨てることができるかどうかは、その時その時の自分の判断によっています。その判断は自分にゆだねられています。そこで、そこで本日の説教題はその言葉の途中のところまでにしました。

 

 自分が友のために命を捨てることができるか、できないか、どのような判断をするにしても、本日の箇所では、自分の命ということと友の命が、向き合うものである、と言われていることは間違いがありません。友に、自分の命が向き合っている。それは、一体どういうことでありましょうか。

 

 ここで、命ということについて考えてみます。命とは、まず、誰のものでありましょうか。そう尋ねてみますと、多くの方は、命は自分のものである、と答えられるのではないかと思います。ごくごく単純な事実であります。自分が生きていて、自分の命が自分の中にある、だからこの命は自分のものだ、ごくごく単純に考えてそう考えること、それは間違っていないのです。

 

 けれども、自分の命は本当に自分のものなのだろうかと考えてみたときに、いろいろな考え方をすることができます。たとえば「親と子」の関係において命はだれのものでありましょうか。それぞれ自分のものだと言えば、そうなのでありますが、しかし、弱く小さな命を前にしたときに、自分の命はその小さな命を支えるためにあるのではないか。自分がいなくなったら、誰がこの小さな命を守り育てるのか、と考えてみると、自分の命は自分だけのものではないことに気が付きます。

 

 親も子も、互いに自分の命は自分のもの、という理屈では計り知れないものがあることに気が付きます。命とは、実はお互いのものではないのか。命というものの重みがかかってくるときには、命は単純に私のものとはいえない、お互いのもの、というそういう場面が実際にあります。

 

 そこから、命というものは「お互い」のものであると考えてみましょう。すると、どうなりますか。お互いというのは、いろいな単位、形でのお互いというものがあります。家族、親族、地域、など様々な形でのお互いというものがあります。そうやってお互いという単位がふくれあがっていきます。そこから、誤解を恐れずに言えば、命は「みんな」のものである、という言い方もできる思います。なぜなら人間は誰でも、お互いに助け合って守りあって生きている。そういう意味で、命はみんなのものである、そういう言い方も言えるでしょう。

 

 けれども、命はみんなのものである、ということを言ったときに、そこに出てくる疑問もあります。それは何かというと、もし命がみんなのものだとしたら、ではその命を左右することができるのは誰だろうかと考えます。世界の歴史のなかでは、命が王様のものとされていた時代には、戦争にかり出されていく兵士であり、戦いの中で失われていくこともありました。命は誰のものであるのか、というと 一人ひとりの命がみんなのために、あるいは力のために、大きな権力によって脅かされ、奪われ、そういうことになってしまいます。すると、命はみんなのものであるという言い方も充分ではない、むしろ非常に大きな問題を含んでいることになってきます。

 

 すると、命は誰のものなのでしょうか。自分だけのものでもない、お互いのものでもない、みんなのものでもない。そうなると、命は誰のものとも言えなくなってきます。

 
 そのような矛盾をかかえた人間の世界の中にあって、聖書は神様の言葉を伝えています。命は誰のものであるか。それは神のものであります。なぜならば、神様がこの世界を創られたからです。その創られた世界の中で、人間が神様によって天地創造の中で造られ、命の息を吹きこまれて生きるようになった。旧約聖書の創世記はそう教えています。もちろんそれは、古代の神話の形をとって表現されていますから、それがそのまま歴史的・科学的な事実ではありません。

 

 けれども、人間というものは、神様というものが存在して、神様が創って下さったという意味では、人間の命は、あるいはすべての命は神のものである、ということが言えます。人間の命が神様のものであるから、その秩序のもとで助け合って生きるときに、その命の意味を発揮することができるのです。生きることの喜び、楽しさ、そして厳しさや恐ろしさ、怖さ、いろいろな意味を含めて、神様が創られた世界の中で、その命が輝きを放ちます。

 

 そうして神様が与えて下さった命というものは、それは何のために使うのでしょうか。神様が創って下さった命なのだから、神様のために使う。これは当然のことであります。けれども、その神様が仰っているのです。「私はあなたがたを友と呼ぶ。父から聴いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」

 

 これは、イエス様の言葉です。神の子イエス・キリストがわたしたちを友と呼んで下さっています。これは、父、すなわち天の神様から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである、と。こうして私たちは、主イエスキリストを通して神様のメッセージを聴きます。神様が私たちに一人ひとりの命を与えて下さった。しかし、それは上から下へと与えたことではなく、神様が私たちを友と呼んで下さるために、すなわち同じ位置に立ってくださる。上下関係でなく同じ位置に、横に立ってくださる。神様が与えて下さった命と、それを与えてくださった神様が横に並んでくださる。友の関係とはそういうことであります。それは、驚くべき聖書のメッセージであります。

 そして、この、神様が友として横に並んでくださるということは、神と人が同じになるということではありません。同じになることではありません。そうではなく、神様があえて私たちのところに来て下さった。なぜならば、そのことによって人間は、神様が友になってくださったことによって、その持っている命の力を最も発揮することができるからであります。

 

 人間の命は、神様との上下関係の中で与えられたものでありますが、その命が価値を発揮するのは、上下関係ではなく、神様が友になってくださる横の関係においてであります。つまり、自分の命は誰のものであるかと考え、自分のものではないのか、いや家族のものではないのか、いや社会や国家のものではないのか、とあれこれ考えて、どう考えても矛盾が生じて、どうしていったらいいかわからない、そして最後は利己的になってしまう、そのような私たち人間に対して、神様は自ら天から降りて来て、私たちの横に立ち、あなたがたを友と呼ぶ、と言ってくださるのです。

 

 命に関して上下関係を考えても考えても、その中に解決を見出すことができない私たちに、神様は友と呼んでくださり、一緒に歩もうと仰っていてくださいます。その友の言葉が、聖書の言葉の一つひとつであり、教会は、その友であるイエス・キリストのことを、今日もこの世界にあって宣べ伝えています。神と共に生きましょう。友として生きましょう。イエス・キリストが私たちの友になってくださるのです。教会というものは、そういうものとして今日も歩み続けています。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、いつも私たちが神様によって守られ、そして多くの恵みを与えていただいていることを心から感謝いたします。今日の聖書の御言葉によって生きていくことができますように、一人ひとりをお導きください。今日の礼拝に来たくてもコロナ問題などで来ることができなかったたくさんの方々のことを思います。そのおられる場にあって、神様のお守りが豊かにありますように。また、病気や療養など様々な事情によって礼拝に来ることができない方々に、いやしを充分にお与え下さいますように。2021年度の京北教会の定期総会をこの礼拝後に行います。すべてのことを導いてください。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

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