京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2021年 京北教会 受難節(2〜3月)礼拝説教(3月21日創立112周年記念礼拝説教含む)

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「神は愛なら、人は何だろう」

  2021年2月14日(日)京北教会 礼拝説教

 

 聖 書 ヨハネの手紙1 4章7〜21節(新共同訳)

 

 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。

 愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。

 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。

 

 神は、独り子を世にお遣わしになりました。

 その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。

 ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。

 わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、

 わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。

 ここに愛があります。

 

 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛してくださったのですから、

 わたしたちも互いに愛し合うべきです。

 

 いまだかつて神を見たものはいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。神はわたしたちに、ご自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることがわかります。

 

 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。

 

 神は愛です。

 愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。

 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。 

この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。

 

 わたしたちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。

 「神を愛している」と言いながらきょうだいを憎む者がいれば、それは偽り者です。

 目に見えるきょうだいを愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。

 神を愛する人は、きょうだいをも愛すべきです。

 これが、神から受けた掟です。

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 (以下、礼拝説教)

 

 2021年に入ってから、京北教会の礼拝では毎週の礼拝で、新約聖書の後半に収められている、様々な種類の手紙の内容を抜粋して、皆様とともに読んでいます。本日の箇所はヨハネによる福音書4章を選びました。

 

 この箇所の中には、聖書の有名な言葉があります。それは「神は愛です」という言葉です。「神は愛です」。昔の文語訳聖書では「神は愛なり」と記されていました。こちらの言葉のほうが、知られているのかもしれません。

 

 「神は愛なり」「神は愛です」どちらであってもいいのですが、この短い言葉の中に聖書の教え、キリスト教の教えが凝縮されているので、この言葉が愛されているのだと思います。もしも「キリスト教って、結局何なんですか?」と問われたとしたら、一言で答えるとしたら、この言葉に尽きるのです。そのように言うことができます。

 

 もちろん、私たちの現実の生活というものは、とても複雑にできていますから、「神は愛です」と一言唱えたところで、それで何か私たちが普段生きているところの人生の問題や社会の問題が解決するわけではありません。

 

 けれども「神は愛です」という言葉を、私たちがものを考えるときに、その世界の中心に、この言葉を置くことによって、私たちの世界は、その持っている意味を一変するのではないでしょうか。もし「神は愛です」という言葉がなければ、神という言葉もなければ、愛という言葉もなければ、この世界はずいぶん冷たい世界になっているように思います。

 

 元々、この世界には何があるのでしょうか。元々、ただの現実、というものが広がっているだけであるならば、私たちはこの世界の現実の中で、その現実を受けとめてありのままに生きるしかありません。そして、ありのままに生きると言えば、聞こえはよいかもしれませんけれども、実際には様々な現実の問題、矛盾の ぶつかって、結局は現実に押しつぶされて、現実の奴隷のようにされてしまう、それが人間の世の現実ではないでしょうか。

 

 そのような世の中にあって「神は愛です」と言うときに、神というものが何であるかわからなくても、愛というものが何であるかわからなくても、そこに何か今までこの世界を自分の目で見て、自分で観察して、ああだこうだと思っていた、そうしたことととは違う、何かが言われていることに気がつきます。この世界をありのままに観察して、その中でいろんな法則を見つけ出し、自分自身の人生を闘って得ていく、ということだけではわからない、そういうことだけでは知ることができなかった世界がある、ということが聖書が示している世界であり、キリスト教のメッセージであります。

 

 本日の箇所で「神は愛です」と言われています。そして、その他にもたくさんの言葉が書いてあります。この箇所は「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」という言葉から始まっています。「愛は神から出るもので、愛する者はみな神から生まれた者で、神を知っているからです」とあります。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。こうして愛という言葉が今日の箇所のキーワードになっています。

 

 

 これは、神を信じるということが、愛がなくてもあり得ることとして、たとえば教会において神を信じるということだけが言われているならば、それは理屈としては間違っていなくても、実際にはひからびた生活、ひからびた教会になってしまいます。愛するということがなければ、教会は教会にならない、神を信じるという信仰にならない、ということがここで示されています。

 

 そして、さらに次の用に書かれています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」神様が主イエス・キリストを私たちに与えてくださった、この世に遣わしてくださった、ということは、イエス様によって私たちが生きるようになるためです、とあります。それは、神様の側の自己満足ではなくて私たち人間が生きるようになるために、神様がイエス様を私たちに与えてくださった。キリスト教のメッセージはそういうことであります。


 「ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」神様が示してくださる最大の愛は、神様の大切な独り子イエス様を私たちにくださったということであります。

 

 そして次のように続きます。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛してくださったのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見たものはいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。神はわたしたちに、ご自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることがわかります。」

 こうしてヨハネの手紙は、この手紙を読む人に対して「私たち」と呼びかけて、私たちがお互いに愛し合うならば、神は一緒にいてくださるんだ、そのようにして、この教会の交わり、
あるいは信仰の交わり、あるいは人と人との交わりというものを、そこに神の愛が現れていて、私たちは神様の愛の中に今いるのだと、そうした確信が語られています。

 

 こうして今日の箇所では、互いに愛し合うことが勧められています。私たちが互いに愛し合うとき、そこに神様がいてくださる、それは本当のことであり、私たちが心温まるメッセージであります。

 

 今日の説教題は、「神は愛なら、人は何だろう」と題しました。「神は愛なら、人は何だろう」このように説教題をつけたのは、今日の箇所の中に「神は愛です」という有名な言葉があるからです。「神は愛です」、このように一言で言えば、もうそれで全てが満足できる、すべてがわかる、すべてもうキリスト教のメッセージがここで完結する、「神は愛です」とはそれぐらい大きな大きな言葉なのであります。

 

 けれども、そうして今まで何度も何でも聴いてきた、読んできた言葉である、「神は愛です」という言葉を、改めて意識して読んでみたときに、私はこう思いました。

 「神は愛です」というのであれば、じゃあ、人間は何なんだろう。

 そのように私は思ったのです。皆様はどうお考えになられるでしょうか。神は愛です、というとき、愛という漢字一文字が使われています。では同じように、人は〜です、というとしたら、その漢字一文字を選ぶとしたら、その漢字一文字に、皆さんはどういう漢字一文字を選ばれるでしょうか。私がそのことを考えたとき、真っ先に浮かんだ言葉、それは「人は罪です」という、その「罪」という漢字が浮かびました。なぜでしょうか。

 

 それは、今日の聖書箇所に、そういうことを考えさせる箇所があるからです。「わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ですから、罪という言葉が、愛という言葉の対極として、愛によってあがなわれる、私たちが持っている人の罪、と考えて、罪という漢字一文字を選びました。

 

 しかし、そこで「神は愛です。人は罪です」と考えてみたときに、何だか自分の心の中でモヤモヤとするものが生まれてきました。神は愛です、人は罪です、と言われたら、なるほどそうかもしれないけれども、なんだかそれはずいぶん、何と言ったらよいのでしょうか、物が分かったような言い方をする言葉ではありますけれども、何かピッタリしないものを感じました。

 

 というのは、人は罪です、と言ったときに、「なるほど、それはそうかもしれないけれど、それだけじゃなんいだ、人間は!」と言いたくなるものもあるのです、不思議なことに。では、罪という言葉を使わなければ何でしょうか? 人は〜である。こういうふうに考えるときに、やっぱり愛の反対語というものを考えるのですね。神様は素晴らしいけれど人間はダメです、として神は愛です、という愛の反対語は何かと考えたときに、この、愛の反対語というのは結構難しいのですね。

 

 漢字で考えると「愛憎関係」という言葉がありますから、愛と憎しみがセットになっていますから、人は「憎しみ」です、と言うこともできるでしょう。しかし、これまたピッタリ来ませんね。人は憎しみだけで生きているのではないからです。ではどうしましょうか。

 

 もういくらでも考えてみることにしました。そして今度は、「人は空(くう)です」という言葉も考えてみました。「空(くう)」、空っぽ、これもなんとなくそれっぽい感じがします。

 

 そして、さらにもうひとつ考えたのは、涙という言葉です。「神は愛です、人は涙です」。これは何となく、ちょっと人生の実感みたいな、ちょっとこうホロッとくるような何かが込められている言葉になるかもしれませんね。

 

 他にどうでしょうか。他にも皆さんが思い浮かべる言葉があるかもしれません。けれどもこうやって考えているときに、たとえどんな言葉を考えたとしても、人は〜ですと、漢字一文字で表すことは本当はできないのだろうなと思いました。

 

 「神は愛です」と言うならば、「神は愛なら人は何だろう」。それは聖書の言葉を通して私たちが受けている問いかけであるのかもしれません。けれけども、その問いかけは、実は聖書からの問いかけではなくて、「神は愛です」という言葉を読んで、「では、人間は何なのだろう」と思ったという、聖書を読んだ私の自分自身に対する問いかけなんですね。聖書のメッセージというのは、そんなに読む人を困らせるような宿題を出してくるわけではありません。聖書は「神は愛です」ということを告げて、そしてそれ自体が私たちに対する一つの幸福なのですね。神様から私たちに与えられる幸福、その一つが「神は愛です」という言葉のメッセージです。そうであるならば、その言葉を受けて感謝して、神様ありがとう、とお答える、そういうことでいいのではないかと思いました。

 

 すると、「神は愛です、人は何だろう」という問いかけに対して、こう言うこともできます。人は「答」であると。「神は愛です。人は答えです」。これでは、答えになっていないのだろうとは思いますけれども、しかし実際そうではないかな、と私は思いました。神様は愛です。それに対して私たちは、答える、ということしかできません。その答えの仕方、その内容は人によって千差万別でありましょう。何を答えるかはその人それぞれの生き方であり、その人それぞれの持っている尊いものがあると思います。それは固定したことではなく、その人の人生の中でどんどん変わっていくことでしょう。けれども、「神は愛です、人は答えです」というとき、人間は、その愛に対して答える存在である、ということはなんとか表現できているのではないか、と考えることができます。

 

 この「神は愛です」という言葉を考えているときに、私は最近聞いたある方の言葉を思い起こしました。それは最近わりとホームレスの支援活動ということで全国で活動しておられる、北九州の一人の牧師がおられます。その方が、先日京都に来られて小さな学習会がありまして、そこに私も招いていただいてお話を聴く機会がありました。

 

 そのときに仰っていたお話なのですが、ホームレス支援のために募金を集めて5軒のアパートを借りることができて、支援者はみんな喜びました。そして、そのアパートに入る人をホームレスの人たちに募集しました。するとホームレスの70人から応募がありました。5人しか入れないところに70人です。

 

 本当はそんなふうに人を選ぶなんてことはしたくなかった。入りたいと思う人全員に入ってほしかった。しかし5人のところに70人が来たら選ぶしかありません。そこからが大変でした。どうやって選ぶのか。誰を選び、誰を落とすのか。いつまでたっても会議が終わらない。会議は夜中まで続きましたが結論が出ません。そこで最後に、責任者の牧師が会議室のホワイトボードにこう書きました。「罪人の運動」とこのホームレス支援の活動は、罪人の運動なんだ、神様の運動じゃないんだと。そうして5人だけを選んだということです。人間だからここまでしかできません、といっていくしかないということです。

 

 そこには人間の限界があります。一生懸命活動して一生懸命募金して、ここまで来ましたと。実際にやってみたら、もっと大変な現実がそこで待っていると。私たちは5人を選ばなくていけないと。そのあと、こうも仰いました。アパートに入ることができる5人を選んで、そのあと70人の人が集まっているところで、5人しか入れませんでした、と報告したときに、多くのホームレスの人たちは怒るだろう、と自分は思っていた。ところがそうではななかったのです。拍手が起きたそうです。そしてアパートに入れるようになった5人の人に対して、「俺らは入れないから、入るお前たちはがんばって行けよ」と声援が起きたというのです。

 

 「罪人の運動」ではあります。しかし、意外なところで次につながっていく力がそこで与えられます。人間は罪人なんだけど、やはり、その為すところには、神様の力が暖かく働いているのではないでしょうか。そんなふうに考えることもできます。

 

 私は最近そのような話を聴いて、そのことを、本日の箇所を読むときに思い起こしました。

 

 神は愛です、という言葉を聴いて、私たちは何をしたらいいのでしょう。「神は愛です」、では人は何だろうかと考えてみたときに、人は「罪」かもしれない。「悪」かもしれない。人は「憎しみ」かもしれない。「空(くう)」、空っぽ、何にもない、そういうことかもしれない。いろんなことを考えることができます。しかし、こうも言えるのです。「神は愛です。人は答えです」。そのように言うことも許していただけたら、と神様の前で1人つぶやく者であります。

 

 お祈りをいたします。

 私たちをどうぞ守り導いてください。私たちを救ってください。私たち一人ひとりが誰しもが神様の前では小さな存在であり、罪人であり何も言うことがない者です。そんな私たちに「神は愛です」という、その御言葉をくださった、その大きな愛に心から感謝して、私たちも生きていくことができますように導いてください。この祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。

 アーメン。

 

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「無駄遣いも愛の内にある」

 2021年2月21日(日)京北教会 礼拝説教

聖 書 マルコによる福音書 14章1〜9節(新共同訳)

 

 さて、過越祭(すぎこしさい)と除酵祭(じょこうさい)の二日前になった。

 祭司長たちや律法学者たちは、

 なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。 

 彼らは、

「民衆が騒ぎ出すといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。

 

 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、

 食事の席に着いておられたとき、

 一人の女が、

 純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壷を持って来て、

 それを壊し、

 香油をイエスの頭に注ぎかけた。

 

 そこにいた何人かが、憤慨して互いに言った。

 「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。

  この香油は三百デナリオン以上に売って、

  貧しい人々に施すことができたのに。」

 そして、彼女を厳しくとがめた。

 

 イエスは言われた。

 「するままにさせておきなさい。

  なぜ、この人を困らせるのか。

  わたしに良いことをしてくれたのだ。

  貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、

  したいときに良いことをしてやれる。

  しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。

 

  この人はできる限りのことをした。

  つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、

  埋葬の準備をしてくれた。

 

  はっきり言っておく。

  世界中どこでも、

  福音が宣べ伝えられる所では、

  この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

 

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 (以下、礼拝説教)

 

 2021年に入ってから、京北教会の礼拝では新約聖書の後半に収められている、様々な種類の手紙の内容を抜粋して、皆様とともに読んできました。そして、先週から、正確には「灰の水曜日」と呼ばれる水曜日から新たに、教会の暦が「受難節」、レントと呼ばれる時期に入りました。レント、受難節とは主イエス・キリストの十字架の苦しみ、受難を心に覚えて歩む期間です。イースターは4月に迎えます。イエス様が十字架に至るまでの歩みを覚える、これからこのレントの期間において、聖書の様々な箇所を礼拝で読み、イエス様の十字架を心に刻みつつ歩んでいきたいと願います。

 

 このようにあります。「さて、過越祭(すぎこしさい)と除酵祭(じょこうさい)の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは、「民衆が騒ぎ出すといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた」とあります。

 

 過越祭、徐酵祭、これらは旧約聖書出エジプト記にあります、イスラエルの人たちが奴隷とされていた、そのエジプトの国を脱出するときのことを記念する、特別なお祭りであります、特別な食事を食べて、自分たちの歴史についてそれぞれの家庭で学びます。そうした一つの宗教的なお祭りの時期、そのような時期の直前のことでありました。この時期、すでに当時の権力者たち、祭司長達は、何とか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていたのであります。

 

 それはイエス様の語る神の国の福音というものが、人々の心をとらえていたからであります。今まで旧約聖書の律法に従って、それを守ることによって救われ、逆に、律法を守らないことによって救われないと考えていた人たち、宗教的な権力者層の人々にとっては、神を信ずることのみで救われる、という、福音、神の国の新しい教えは、社会の秩序を混乱させるものでありました。ですから、イエスを捕らえて殺そうと考えていたのであります。しかしお祭りの時期が近づいていたので、その間はやめておこう、と話合ったと、そのような不穏な情勢が今日の最初のところに書かれています。そのような危険な状況において、それ以降にあったことが今日の所に書かれています。

 

 このように書いてあります。「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壷を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」

 

 1人の女性がやってきて、このようにしたということが書いてあります。当時、男性だけで食事をしていたということなので、そこに女性が入ってくるということは不作法なことでありました。しかも、その食事の席の中で、このように純粋で非常に高価なナルドの香油、これはオリーブ油に、良い香りがする樹木の皮などを入れて香りを付けたものであり、とても特別な貴重なものでしたが、それを入れた石膏の壷を持ってきて、壊してイエスの頭に注ぎかけたというのであります。 

 

 このようにあります。「そこにいた何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。」とあります。三百デナリオンというのはお金のことですが、一デナリオンとは福音書の他の箇所の物語で、ぶどうを収穫する季節労働者、その季節だけれに雇われる日雇い労働者の一日分の賃金と言われています。その300日分、すなわち1年間働いて得られる金額と同じ、現代であれば150万円でしょうか、途方もない高額な金額、その価値を持った香油であると、そのように周囲の人たちは考えて、それをこんなふうにイエスの頭に注ぎかけるという、その一瞬のために使ってしまったことに怒って、周囲の人たちは彼女を厳しくとがめたのでありました。

 

 その当時、貧しい人たちへの施しということは、旧約聖書の律法に記されていて、社会の習慣なのでありました。そのことが律法の中で決められていました。それなのに、単に一瞬のためにこんな無駄遣いをしたということが、厳しく責められていたのであります。一体なぜ、この女性はこのようなことをしたのでありましょうか。頭に香油を注ぐとは、聖書の中では王様が王に就任するときのことです。戴冠式といってもいいでしょうか。王でない人が王になるときの儀式です。この女性がそのことを考えてこうしたのならば、イエス様が本当の王であることに、精一杯の敬意を示したと考えることができます。

 

 しかし、ベタに屋というシモンの家に、これは王になる儀式ではない、そんな場面ではないということは誰だってわかることです。決してそれは1人の人が新しく王になるような場面ではありません。そんなときになぜそんな大げさなことをしたのでありましょうか。この女性は、この箇所において、全く何の言葉も発しません。そして聖書の著者、ナレーターとなる著者も何もここに書いていないのです。

 

 「イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

 

 イエス様の周囲にはいつも貧しい人がいたのでありましょう。そうした人たちと共に食事をするということが、イエス様とイエス様の弟子たちにとって日常だったのでありましょう。貧困というのは、どこの国のどこの社会に行っても、なくなることはないようです。いつもそれは人類にとっての課題としてあるようです。それは日常の課題であり、いつでも、したいように、そのような施しをすることができる、いつでもその問題に取り組むことができる、そのことをここでイエス様は仰っています。しかし、それと同時に、この箇所においては、日常ということと、今しかできないこと この二つがどちらも大事なのでありますが、この二つが緊張関係を持っています。

 

 そしてこう言われています。「この人はできる限りのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

 

 この最後の締めくくりの言葉は、非常に印象的な言葉であります。「はっきり言っておく。世界中どこでも福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」福音、それは神の国の教えということであり、イエス・キリストのことが教えられる所です。

 

 この箇所において「どこでもこの人のしたことも記念として語り伝えられるであろう」という言葉を読むときに、この言葉が今本当に実現していることを私たちは知ります。というのは、世界中において、キリスト教が宣べ伝えられているところにおいては、教会においてこの聖書のこの箇所が必ず読まれ、語られているからです。

 あるときにある一人の女性がした、本当に小さな世界でのこと、しかも非常に高額な香油を一瞬で無駄遣いするという、この愚かしいものと見える出来事、それが実は世界中に伝えられる素晴らしいことなのだと、イエス様はおっしゃられるのであります。

 なぜそうなのでしょうか。それは、この女性のしたことが、もうすぐ捕らえられて十字架の上で死なれる、イエス様の死、ということの準備だったというのです。当時、人が死んだときにそのなきがらに香油を塗るということは、葬りの儀式でありました。いま香油を注いだのは、その葬りの準備だった、とイエス様は仰ります。

 

 本当でしょうか。この女性がそんなことを思って香油を頭にかけたとは想像できません。この女性はイエス様のことを敬愛していました。神の子として信仰していたのでしょう。非常に敬愛の気持ちをこめてこのように特別なことをしたのです。高い高い香油。自分の人生をかけて貯めてきたお金で買った香油。自分の人生をそのまま表している高価な香油。それをすべて一瞬でイエス様の頭に注ぎかけ、そのことで敬意を表す。それが何であったか、その女性の内面の心は、ここでは語られていません。女性の口から語られず、聖書のナレーターも語っていません。

 しかし、イエス様お一人が、この一人の女性がしたことはこういう意味であったと語るときに、それは、この女性の心の中を代弁して、この女性になりかわって、こういうつもりで頭に香油をかけたのですよ、とイエス様が解説して下さっている、ということではないのです。この女性の内面がどうであったか、ということは後ろに隠されています。この女性がどう思っていたか、ということはここでは触れていません。

 

 そしてイエス様は言われます。「この人はできる限りのことをした。」つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれたと。これは、このあとに来るイエス様の十字架の死という大きな出来事を前にして、今この女性がしたことが、イエス様ご自身にとってどんな意味を持っているかということを、お語りになられたのであります。そしてそれは、私たちにとってどんな意味を持っているか、キリスト教にとってどんな意味を持っているか、そしてこの世界全体にとってどんな意味を持っているか、ということを、イエス様はお話になられたということであります。

 このとき、この一人の女性の心の内面がどうであったか、それはわかりません。しかし、この女性はイエス様によって100%守っていただけました。この女性の思いがどんなものであったか、それは誰にもわかりません。それは、その人とイエス様だけが知っています。その人と神様だけが知っています。そのことは言葉にしません。言葉にすべきは、その行いが、イエス様にとってどんな意味を持っているか、そして今日聖書を読んでいる私たちにとってどういう意味を持っているか、ということであります。

 

 それは、今しか出来ないことがある、それをしたらいい、それを誰も止めてはならない、ということであります。今しか出来ないことがある。それはいったい何でありましょうか。この女性が、このような高価な香油をイエス様の頭に注ぎかけたとき、何がしたかったのかと思います。

 

 私は考えてみました。この場面を想像してみました。食事の席にこの女性が入ってきました。男性だけで食事をする習慣のこの時代、女性たちは別の所にいます。しかし、この一人の女性が入ってきて、イエス様に香油を注ぎかけた時、その香油の香りは家一杯に広がったはずです。それぐらいに良い香りがするのです。そのとき、男性だけの食事の部屋と女性たちの所の両方とも香油の香りが一杯になりました。離れた所にいても同じ良い香りを共に味わったのです。それは、イエス様がこの家に来たことは、誰にとってもうれしいことであり、そしてイエス様にとっても喜んでいただきたい、この女性の思いはそのようなものだったのではないでしょうか。

 

 そうして考えますと、この、香油をイエス様の頭にかけるということは、イエス様への敬意の表れであると共に、イエス様をこの世においてまことの王として宣言する、この女性の信仰であると共に、その喜びを、家の中一杯に広げるという、その家庭の中に、またそこにいる人たちすべてにイエス様の恵みを伝える、という意味で、これは伝道のために香油をイエス様の頭に注ぎかけた、そのように解釈することもまた許されるのではないでしょうか。

 

 この女性は、300デナリオンという、高価な香油、自分が一生働いてきた証しである、そのすべてを投げ打って伝道したのです。イエス様と共に喜びをわかちあうのです。そのために自分のすべてをここで注ぎかけました。その女性の行い、行動を見てイエス様は言われました。「この人はできる限りのことをした。」つまり前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれたと。

 

 イエス様を伝道するということは、イエス様の十字架の死を世界中に告げ知らせることであります。すなわちそれは、人間は罪人であって、神の国の福音を説いたイエス様を十字架につけた、私たち人間とは、それぐらい罪深いのです。神様の御心に反逆して、180度反対のことをするのだと。

 

 神の愛を拒絶して、神の愛を十字架に付けて否定する。それが人間の本性であります。そのイエス様の十字架の死ということを記念し、そしてそのイエス様は死の三日の後に甦られた、復活なされて、信じる者と共に働く、そして信じない者の所にも神様の聖霊、聖い霊の働きを通じて来て下さる、そうしたキリスト教というものが世界中に宣べ伝えられていくのであります。そのことが、今日の箇所の最後に言われています。「はっきり言っておく。世界中どこでも福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」。

 あるときにある家の中で一人の女性がした、無駄遣い。高価な香油の無駄遣い。お金の無駄遣い。しかしそれは伝道のためでした。喜びのわかちあいのためでした。今しかできないこと、イエス様が十字架で死なれる直前、今しかお会いできない、このときに、その出会いの喜びをわかちあい、誰に対しても伝えていく。そのために自分の人生すべてを注ぎかけた、この女性のしたことは、世界中どこでも福音が宣べ伝えられる所では、記念として語り伝えられるということが、イエス様からはっきりと宣言をされたのであります。

 

 お祈りいたします。

 神様、私たちが生きている日々の中において、今しかできないことをしっかりとしていくことができますように。そのときに自分だけの思いに偏らないように、自分のしていることが神様の御心にかなうことを心から願って、そして確信を持って行うことができますように。これからの受難節、イエス様の十字架の死を覚えつつ、そのお苦しみを、受難を思いつつ、私たちも自分自身の受難ということに出会い、自分の十字架を背負いながら神様と共に歩んでいくことができますように導いて下さい。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。

 アーメン。

 

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礼拝説教「祈りも喜びも惜しまず」

 2021年2月28日(日)京北教会

本日の聖書 マタイによる福音書 25章14〜30節(新共同訳)

 

 天の国はまた次のようにたとえられる。

 

 ある人が旅行に出かけるとき、しもべたちを呼んで、自分の財産を預けた。

 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、

 もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。

 

 早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンもうけた。

 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

 

 さて、かなり日がたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。

 

 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。

 『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、ご覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良いしもべだ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

 

 次に、二タラントン預かった者も進み出て行った。

 『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、ご覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良いしもべだ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

 

 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。

 『御主人様、あなたはまかない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。ご覧下さい。これがあなたのお金です。』

 

 主人は答えた。『怠け者の悪いしもべだ。わたしがまかない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。

 

 だれでも持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たないしもべを外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』

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 (以下、礼拝説教)

 

 いま、教会の暦で「受難節」、レントと呼ばれる時期歩み始めています。受難節、それはレントとも呼ばれ、これは主イエス・キリストの十字架の受難を心に覚えて歩む期間であります。受難節が終わるのは、イースター、主イエス・キリストの復活を記念する日です。今年のイースターは4月4日。それまで受難節の期間において、教会ではイエス様の受難を覚えて歩みます。また、イエス様の受難に、私たち一人ひとりの自分自身の生きることの苦しみを重ねて思い、そして、一人ひとりへの救いを神様から与えられることを祈る、そうした時期でもあります。

 

 この受難節にあたって本日の礼拝では、マタイによる福音書25章から選ばせていだきました。イエス様がなされたお話です。ここには十字架という言葉は一言も出て来ておりません。しかし、イエス様の十字架の苦しみ、そして私たち一人ひとりの、自分が負っている十字架ということを思うとき、今日の箇所から豊かなメッセージが与えられます。

 

 今日の箇所を皆様と共に読んで参ります。最初にイエス様はこう仰いました。「天の国はまた次のようにたとえられる。」天の国、それは私たちが死んだ後に招き入れられる天国という意味と考えることができますが、それだけではなく、神の国、という意味でもあります。神の国、それは神様の恵みが満ち満ちている時間と空間、ということであり、その神の国は、私たちが死んだあとの話ではなく、私たちが今生きている、この現実のただ中において現れ出る空間、神様の恵みが満ち満ちている空間、それが神の国であります。

 

 その神の国は、次のようにたとえられる、とイエス様がお話しになります。これは一つのたとえ話です。「ある人が旅行に出かけるとき、しもべたちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。」とあります。

 ここで言われている「タラントン」とはお金の単位であります。これを現在のお金に換算して単純計算すると、1タラントンは6000万円ぐらいになるそうです。すると2タラントンとは一億2千万円、5タラントンとは3億円となります。どれも莫大な金額で、それぞれの力に応じて三人のしもべに預けたのです。この預けるということについては、その主人から指示があったとは書いてありません。主人は自分が出かけるので、留守にしている間に財産を管理するように、ということです。それぞれに預けられる額の違いがあっても、どのしもべも莫大な金額を預けられたことは同じです。そこから三人のしもべの対応が分かれます。

 

 「早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。」とあります。

 

 

 このあと、次のように記されています。「さて、かなり日がたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。」こうして清算が始まります。「まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、ご覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良いしもべだ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」こうして、最初のしもべは主人からほめられました。

 

 次は二人目のしもべです。「次に、二タラントン預かった者も進み出て行った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、ご覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良いしもべだ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」二人目のしもべも主人にほめられました。

 

 次は三人目のしもべです。「ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたはまかない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。ご覧下さい。これがあなたのお金です。』 

 

 こうして三人目のしもべは、主人が「まかない所からでも集める」という強欲な人だと知っていたので、莫大なお金を土の中に埋めて隠しておきました。そのことが主人から厳しく批判されたのです。この、お金を埋めておいたしもべの態度は、ある意味で謹厳実直な態度とも言えるでしょう。財産を1円も減らさなかったのですから。しかし、これは強欲な主人から見たときには「なまけもの」と言われてダメでした。

 

 「主人は答えた。『怠け者の悪いしもべだ。わたしがまかない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。』」

 

 このようになったのは、何の努力もしなくたって、きちんと預かっているだけで利息がつく、そういう銀行の仕組みが世の中にはあるぐらいなのに、このしもべはお金を預かって何一つしなかったからです。だから、そのような者からは持っている莫大なお金を取り上げて、他の者に与えるというのです。

 

 そのあと、最後にまとめの言葉があります。「だれでも持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たないしもべを外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」」

 

 こうして、本日の箇所は終わっています。以上の話をイエス様から聴いた人々は何を思ったでしょうか? また、皆様はどう思われたでしょうか?

 

 この時代には、こんな強欲な、冷酷無慈悲な主人が本当にいたようです。莫大な財産を持っていて、それを自由に使って、人に預けて人を働かせ、その上がりをまた自分のものにする。そして働かない人は追い出していく。これはこの世の中の冷たい現実です。世の中はこんなものなんだ、お金というものを巡って人間はこんなふうに振る舞うのだ、という現実が言われています。

 

 この話をイエス様から聞いていた人たちも、その社会の現実を前提にして聞いていました。だからこの話を聞くことで、この三人目のしもべは愚かだったな、と笑うことができます。また、現代の私たちも、本日の箇所を、単に一つのお話として聞くならば、この三人目のしもべは愚かだなあ、と馬鹿にして笑うこともできるでしょう。何にもしないでお金を土の中に埋めた、そのことは律儀だったかもしれないが、怠け者でしかない愚か者だった。そのように、この話を単なる小話として読むこともできます。

 

 しかし、本日の箇所の1番最初には、こうあります。「天の国は次のようにたとえられる。」ということは、本日の聖書箇所は、世の中はこんなものだよ、と教えるための単なる小話ではありません。これは実は、天の国、神の国とはどんなものかが教えられている重要な話なのです。

 今まで私たちは、神の国、天の国、それはきっと神様の愛が満ちた世界だと、平等な世界で、どの人も幸せに生きることができる場所だと、神の国とはそういうはずだと思い込んでいました。しかし、今日の箇所においては、イエス様から、そうではない、という神の国に関する現実をつきつけられることになります。イエス様から、この厳しい主人と三人のしもべの、厳しい現実の話をされて、神の国はこんなものだ、と言われて私たちは本当に、とまどうことになります。では、私たちはどうしたらいいのでしょうか?

 

 ここで考えてみます。私たちは、この話を読んで、この三人のしもべの中で私たちはどの人に共感するでしょうか。私は、この三人の中で誰になりたいか、と考えてみると、一人目と二人目の、きちんとお金を増やしたしもべになってみたいです。なれるものなら、なってみたいです。本当に。こうなって誉められたいです。あずかったお金を2倍でも5倍でも増やせたら、素晴らしい仕事です。自分でもこんな仕事をしてみたいです。

 

 けれども、もし預かったお金を使った仕事に失敗して、莫大な借金を作って失敗したら、どうなるでしょうか。借金を作って主人の怒りに触れて、その主人のために私は命を失うかもしれません。私はそんな恐怖感にかられます。お金を増やすために働く、ということが本当にできるものならば私は働きたいです。でも、失敗がこわいのです。失敗が怖いから商売することはできないけれども、最低限これなら私もできる、ということで、神様の前で認めてもらいたいために、土にお金を埋めて保管しておこう、これだけは何とか最低限守り通そう、とも思うのです。

 

 ところが、私が失敗を避けて最低限これはやりました、といって、お金を土に埋めておくことが、結果的に神様が「なまけもの」と言われるなら、どうでしょうか? この世の中でそうであるように、神の国も同じだったとたら、私はどうしたらいいのでしょうか? 神の国が、この話の通りであれば、神の国には、私の居場所がなくなってしまうのではないでしょうか? 

 

 皆さんは、ふだんの生活の中で、自分の居場所がありますか。もちろん、居場所といっても様々な意味での居場所というものがありますが、それが皆様にはありますでしょうか。そして、本日の聖書箇所の中に、皆さんは自分の居場所を見つけられますか。どこにもないと思いませんか。それは、この三人の最後のしもべが自分自身のことに思えてくるからです。もし本当にこの話が神の国の話だとすると、神の国には、自分の居場所がどこにもないように思えてきます。

 

 今日の説教題は「祈りも喜びもおしまず」と題しました。本日の聖書の箇所を読んで、私たちはふだんの生活の中で、祈りも喜びも惜しまないことが大切だと感じたからです。この三人目のしもべは、祈りも喜びも惜しんでいます。それらを惜しんでいるから、自分の居場所がなくなってしまうのです。そうであってはならない、ということが本日の箇所からのメッセージです。

 

 いま私たちは受難節を過ごしています。どの人にも生きることの苦しみがあります。その中で私たちは、祈り、とか、喜び、というものを惜しんでいるのではないでしょうか。私たちは、ふだんの生活の中で、自分の失敗を恐れるあまりに、神様への祈りを惜しんでいることがあるのではないでしょうか。また、祈りだけではなく、神様の恵みを喜ぶ、ということもまた惜しんでいることがあるのではないでしょうか。様々なことを恐れているために、結果として、自分ができることを惜しんでしまうことは、結果として、神様の御心にかなわないことにもなります。この三人目のしもべのようにです。 

 

 この三人目のしもべは、自分では最低限のことをしたつもりでした。しかし実は、この人は祈ることを惜しんでいたのです。もし実際に商売に踏み出すならば、悩まざるをえません。そうして悩めば、祈らざるをえません。けれども、この人はその祈ることを惜しみました。怖い主人にただおびえていたのです。おびえているときは喜びは生まれません。お金を土の中に埋めて、主人が帰ってくるまで、ただ月日が過ぎ去るのを待っていました。そのときには、「このお金が人間にどんな喜びをもたらすか」、そんなことは考えられませんでした。だから、この人は、祈りも喜びも惜しんでいたのです。そうして最後には、自分の居場所がなくなってしまったのです。 

 

 ただ単に、主人の前で最低限の務めを果たす、という意味では、この三人目のしもべは、一見、真面目に見えるかもしれません。しかし、実は、祈ることを惜しいと思っている人間の姿なのです。祈ることを惜しいと思っているのです。そんなとき、人間には言い訳がいくらでもわいてくるのです。そして思うのです。私の人生は苦しい、と。しかし、私は何もできません、苦しい、苦しい、というのです。しかし、受難節にも神様からの恵みは必ずあります。その恵みをどう用いるか、ということについて、そのために悩んでください。ときには苦しんでください。

 誰もわざわざ苦しみたくはありませんが、苦しまざるをえなければならないのであれば苦しんで下さい。悩み苦しむことを惜しんでいてはいけません。そして何よりも、その悩み苦しみにおいて、祈ることを惜しんではなりません。そして祈ることを惜しまず、歩むときに喜びが与えられます。祈りも喜びも惜しんではなりません。

 

 今日の聖書箇所で、一人目と二人目のしもべは、あずかった主人の財産を増やしすことができ、主人と一緒に喜ぶことができました。私たちも、こうなれたらいいなあ、と思いませんか。そうであれば、祈りましょう。そうであれば、何かしてみましょう。そうすれば、この二人のしもべと全く同じことはできなくても、きっと、神様からのメッセージが与えられるのです。「忠実なよいしもべだ、よくやった。お前は、少しのものに忠実であったから多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」ここに神様からのメッセージがあります。

 

 私たちはこの箇所を読むときに、タラントンの金額が莫大であることを知ります。その金額の大きさであるとか、商売のことや、現実の社会のことが示されていることにドキドキしてしまうので、今日のこの聖書箇所をそのまま受け取ることは難しいのだと思います。けれども、よく読んでみてください。今日の箇所で言われていることは、莫大なお金をどうするべきであったかということではありません。「少しのものに忠実だったから、多くの財産を管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と言われます。それが莫大かどうかは、人によって違います。この主人の目から見たときには、莫大に思える金額も、少しのものでしかなかったのです。


 神様が見ている目は人が見ている目とは違うのです。他人の目から見てどうか、社会の中でどうか、ということはさておき、あなたが神様から与えられている恵みを、土の中に埋めてひとつも減らさないように守りぬく、ということではなく、祈りも喜びも惜しまずに、その与えられた恵みを使ってください、と神様は仰るのです。それをどう使ったらいいかは、祈ってください。もしも、そうして自分が失敗したらどうなるのですか、ということを言いたいのであれば、それを神様に尋ねかけてください。そうして祈ったうえで神様の恵みを使ってください。

 私たちの人生が神様に保証されていることは確かです。しかし、それはいつも私たちが、この世の中での成功が約束されているという意味ではありません。そうではなく、神様と一緒に生きる人生が、神様と共にあって豊かである、ということを私たちは知る必要があります。この受難節、祈りも喜びも惜しまずに歩んで参りましょう。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、私たちができないことが求められている気もいたします。気の弱い一人ひとり、自分自身が神様から叱られたような気になるかもしれません。けれども、神の国はこのようなものである、とイエス様が仰ったときに、その話の中にもたくさんの恵みが埋められていて、そのことを私たちは、今日もこの礼拝を通じて見つけているのだと思います。どうぞ、一人ひとりに神様の御言葉の恵みをお与えください。そして、この受難節を豊かな心で歩むことができますようにお願いをいたします。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

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「知らずに届けた恵み」

 2021年3月7日(日)京北教会 礼拝説教

聖 書 マタイによる福音書 25章31〜40節(新共同訳)

 

 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、

  その栄光の座に着く。

  そして、すべての国の民がその前に集められると、

  羊飼いたちが羊と山羊を分けるように、

  彼らをより分け、

  羊を右に、山羊を左に置く。

 

  そこで、王は右側にいる人たちに言う。

  『さあ、わたしの父に祝福された人たち、

   天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。

   お前たちは、

   わたしが飢えていたときに食べさせ、

   のどが乾いていたときに飲ませ、

   旅をしていたときに宿を貸し、

   裸のときに着せ、

   病気のときに見舞い、

   牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

 

  すると、正しい人たちが王に答える。

  『主よ、いつわたしたちは、

   飢えておられるのを見て食べ物を差し上げたでしょうか。

   いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、

   裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。

   いつ、病気をなさったり、

   牢におられたりするのを見て、

   お訪ねしたでしょうか。』

 

  そこで、王は答える。

  『はっきり言っておく。

   わたしのきょうだいであるこの最も小さい者の一人にしたのは、

   わたしにしてくれたことなのである。』」

 

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 (以下、礼拝説教)

 

 今日の聖書箇所はマタイによる福音書25章です。この箇所はマタイ福音書の流れの中では、イエス様がとらえられて十字架につけられる、その直前の時期のひとつ手前のところに記されています。いま私たちは教会で、受難節といって、主イエス・キリストの十字架の受難を覚えて過ごす期間を歩んでいます。この受難節が終わるのは4月4日のイースターの日です。イースター、イエス様の復活を記念する日まで、わたしたちの一人一人の人生の受難を覚えて祈る日々でもあります。イエス様ご自身の十字架を通して、今日の箇所を通して私たちに何が示されるのか共に今日の箇所より教えられていきたいと願うものであります。

 今日の箇所にはイエス様がお話なされたたとえ話が記されています。ここでは、世の終わりと言われる、いわゆる終末が来るときのこととして記されています。終末とは、私たちが生きるこの世界が、いつかその役割を果たし終えるときのことです。それがいつのことかは誰もわかりません。しかし、そのときに何が起こるのか、ということを示すたとえ話になっています。

 

 人の子という言葉は「人間の子」という意味ですが、聖書の中ではこの言葉は、救世主、メシアということを示す言葉として使われています。旧約聖書のダニエル書にその元の言葉があります。もうひとつ、人の子という言葉が、単に「人間」、人間である、という意味で使われていることもあります。その二つの意味がありますが、今日の箇所においては、「人の子」、それは救い主ということを指しています。ということは、ここでイエス様は、ご自身のことを指しているといって良いと思います。

 

 次のように記されています。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いたちが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」このようにあります。羊と山羊、それは外見に似通ったところがある動物です。似通っているが、しかし違う種類であるということがはっきり分けられる。これはもちろんたとえ話です。そして王とは、ここで言われているのは、この世の終末のときに栄光の座につく救い主ということです。それがイエス様ご自身である、あるいは神様であるといってよいと思います。

 

 次にこうあります。「そこで、王は右側にいる人たちに言う。」これは、王が人々を裁くというひとつの物語の形で、たとえをしているわけであります。王は次のように言います。「『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』」

 

 これは、世界の始まりのときから、もうすでに神様が用意してくださっている大きなプレゼントである神の国、その中であなたたちはこれから生きていくことができる、と祝福されます。それは、わたしが困窮していたとき、命の危機にあったときに助けてくれたからだ、というようにここで王は言うのです。

 

 すると、正しい人たちが王に答えます。ここで右に分けられた羊にたとえられている人たち、それは正しい人たちですが、その人たちが王に答えます。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げたでしょうか。』というように答えます。つまり、自分たちはそんないいことをした覚えがちっともないのです。いつそんなことをしましたか、と王に不思議そうに聞き返しているのです。


 「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしのきょうだいであるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」

 

 こうして、王が、王として困窮しているときに人々が助けてくれた、というのではなくて、王にとって私のきょうだいである、この最も小さい者の一人にしたことが、私にしてくれたことなのであると言われています。つまり、王に対してしたことではない、誰か最も小さな者に対してしたことが、王に対してしたことと同じであると言われています。本日の聖書箇所はプリントでは長さの関係でここまでですが、このあとには、そうしたことをしなかった人たちが、裁かれる場面があります。

 

 本日の箇所を読んで皆様はどのように思われますでしょうか。私はこの箇所を読んで「鶴の恩返し」という民話を思い出しました。相手が誰であるか、その本質を知らないままに助けてあげたその人が実はこんな人であった、ということで思わぬ恵みにあずかるという話です。「鶴の恩返し」など、帰ってくるという話は、世界のそうした物語が何のためにあるかというと、一言では言えないとは思いますが、物語の一つの働きとしては、困っている人を助けることは大事だよ、ということを人に教える教訓の話になっています。

 

 困っている人を助けてあげましょう、ということは一般的な倫理道徳としては大事ですが、それは何のために、なぜ、と問われたときに私たちは困ることがあるのです。最初は、可哀想だから、大変だから、とかいう思いで助けてあげようとする、するとかえって面倒なことになることもあります。すると、人に親切にする、助けてあげるということも少しおっくうになったり、 逆に嫌いになったりすることもあります。そもそも、なぜ人を助けてあげないといけないのかは、これは、わかっているようでわかっていないことなのです。

 

 そこでイエス様のお話が意味を持ってきます。あなたたちがしたこと、しかも自分で気づかずにしたことが、実は神様に対してしたことだったのだと。そういう意味を持っていると語ることで、困窮している人に対する善意の意味づけを与えているのです。

 

 しかしながら、そのように今日のこの話を読むときに、一つの倫理道徳の話、その理由付けの話として読むこと、当然それはできるのですが、「鶴の恩返し」、そういう話として、読むときに現代の日本社会に生きている私たちは、単純にそうしたメッセージを受け取ることができるだろうかと思います。

 

 というのは、私たちは今日の箇所にあるように、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが乾いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」と言われるような、そういうことをしているでありましょうか? あるいはこれからやろうと思っているでしょうか? と考えると、そんなことはしてこなかったし、これからもしないだろう、という平凡な自分に気がつきます。

 

 もちろん、教会という単位では、何らかの献金をしています。たとえば、京北教会では教誨師の活動に献金しています。教誨師というのは、刑務所で牧師がお話をしたり、そこで関わる活動です。そうした活動への献金もしています。そうして、自分はしていないけれども、教会を通して、支援していることはあります。また、教会を通して ホームレス支援の献金もしています。献金以外にも、できる範囲であれば何かのボランティアをすることもあります。そういう意味で教会の私たちは何かをしているといえます。何もしていないいうわけではありません。

 

 けれども、今日の箇所を読むときに、何かドキッとするものがありますね。今日の箇所をどんなふうに読んだらいいのでしょうか。困っている人を助けてあげましょう、という一般的な倫理道徳の意味づけの話、教訓として語られているだけであれば、私たちにとって本日の箇所は、ちょっと苦手な話だなあ、で終わってしまうのではないかと思います。

 

 いま私たちは受難節の中を歩んでいます。受難節の中にあって今日の話を読むときに、物足りない読み方をしてるのでしょう。

 

 今日の箇所から学ぶことのひとつは、今日の箇所を読んでドキッとして、心がかき乱されて、けれども何かしようとも思わない私たち、そんな私たちの罪を背負って十字架の上で罪を滅ぼしてくださったという、十字架の意味であります。私たちはこの世に生きる中にあって少しでも、困っている人たちが助かればいい、助けられる社会であればいい、ということを誰もが願います。しかし、ではどれほどのことをしているのかと言われれば、大したことはしていない、いや、何もしていない、それどころか、その反対のことをしているのだと言いたくなる時もある、そんな人間の心は実に虚しいものであります。そんな私たちの心の虚しさということをも、イエス様は引き受けてくださり、十字架の上で命を落とされることによって滅ぼしてくださっているのであります。

 

 私たちは今日の箇所を読んで、どんなに良心の呵責を覚えたところで、「ああ、私はこういうことをしていないなあ、できないなあ、私もこうして選り分けられたら、山羊のほうなんだなあ、だめなんだなあ」と思って、ブツブツと自分の中で心をかき乱している、だけである、そんな虚しさ、ということもすべて人間の罪ということであります。

 

 そうした形で自分の良心の呵責を生じさせて、自分の中で自問自答しながら結局は何もしない。そんな人間の弱さ、愚かさ、小ささということを、イエス様はよく知っいてくださっています。そして、そんな私たち一人ひとりが、実は、わたしのきょうだいであるこの最も小さな者の一人である、ということを私たちは知らなくてはなりません。

 

 私は何もできない、とブツブツと心の中で言っているだけだと言っている、そんな私たち一人ひとりに対して、してくださること、それは困窮している人たちに対してするのと同じようにしたということと同じなのだ、ということ、つまり、人が人を助ける行いとはそういうことなのだということであります。

 

 イエス様がわたしたちにとって救い主であるということの意味は、私たち一人ひとりの小ささ、弱さ、愚かさというものを、全て背負って死んでくださったということであります。今日、私たちのキリスト教会は、この社会の中にあって何をしているのか問われたら、それほど大きなことはしていないのでありましょう。それは、もしかしたら世の中で批判を受けることかもしれません。神を信じていると言いながら この世の中で何をしているのかと問われたら、まことに小さな働きでしかない。そういう弱さを持っています。あるいはあなたは何をしているのかと問われたら、一人ひとり、大したことはしていません。そのことによって私たちは批判を受けることかもしれません。

 

 しかしその一人ひとりが、主イエス・キリストのきょうだいなのであります。それはどういう意味でありますしょうか。神の御子がもっとも弱くもっとも小さな者になられた。そして、むなしく滅ぼされて死んでいった。少なくても人の目からそう見えました。人間というのはそれほどまでに小さな者であるのだと。神の御子というものも、それほどまでに小さな者だと。人から批判され、最後は十字架の上で死なれた、そのイエス様のきょうだいとして、私たち一人ひとりは招かれています。

 

 何にもできなかったじゃないかと人から批判され、良心の呵責を覚えて心をかき乱されている一人ひとりが、主イエス・キリストのきょうだいなのです。そんなわたしたちに何かしてくださる方がおられる、ということを覚えたいものです。あなたたちは、何もできないというけれど、そんなとないよと言われます。あなたたちは、自分でも知らないうちに、人に恵みを届けてきたのだよ、とお褒めにあずかるのです。

 

 この世が終わりを告げるとき、この世が役割を果たし終えるとき、それは新しい神の国が来たるときでありますが、そのとき私たちは神様からおほめにあずかるのです。私は何にも良いことをしてきませんでした、身に覚えがありません、という私たちに対して、いや、あなたたちは知らない間にわたしをこんなふうに助けてくれた 最も弱い人たちのきょうだいになってくださったとおほめにあずかるのです。それは一体何ゆえに? と思いますが、そこには理由はないのです。根拠はないのです。自分の内面がどんなだったとは関係なく、わたしたちは神様の御言葉を聞いて生きようと思い、自分自身を神様にゆだねるときに、必ず神様に用いられています。

 

 私は学生時代に、重い障害を持つ方々の介護をするボランティアをしていたことがあります。その時代に、今日のこうした聖書の箇所を読んでいたときには、「最も小さな者」と言われるとき、まさに自分が関わっている重い障害を持った方々が、まさにそうだと思っていました。そのことは今でもそんなに間違っていなかったと思いまするけれども、人生を生きてくる中で人間ができることには限りがあって、この年齢、この立場のときにはできた、でもそうでなくなれば、できなくなった、そういうことはたくさんあるのです。

 

 聖書の言葉を読むときにも、今日の箇所を読むときにも、絵に描いたようなことはなかなかできません。もちろん、困窮者支援ができてるならば、それはとてもよいことであろうと思います。けれども、そうはできないという思いや状況のなかで、良心の呵責を覚えなが生きている一人ひとりも、最も弱い小さな者としてこの世に生きています。良心の呵責を覚えつつ、助け合い支えあって生きる中でしていることが、実は、イエス様の目から見たときに、「それは私にしてくれたことなのである」と仰っていただけることなのであります。

 

 イエス様はむなしく十字架の上で死なれたのです。人の目から見て、それは確かに虚しい滅びだったのであります。私たちの良心の呵責どころではありません。神の御子だと言っていたのに、何にもできないじゃないか、とののしられ嘲笑われながら死んでいかれたのです。そして私たちもまた、重荷を負って生きています。何にもしていないじゃないか、と批判される対象でもあります。そんな私たちの痛みを、イエス様は十字架の死によって知っていてくださるのです。ですから私たちは、その主のよみがえりの日であるイースターを待ち望むのであります。

 

 お祈りします。
 神様、私たちはできることとできないことがあり、常日頃いろんなことを考えています。そんな私たちのことを知ってくださることに感謝し、安心をいたします。今日から始まる一週間、私たちはそれぞれに生きていきます。その中で、私たちが自分でも知らずにイエス様の恵みを人に届けるとができますように。人を大事にすることができますように。そして私たち一人ひとり、自分自身が人に助けられて、神様に救われて生きることができますように。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

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「つまづいて起こされる道」

2021年3月14日(日)京北教会 礼拝説教

 

聖 書 マルコによる福音書 14章22〜31節(新共同訳)

 

 一同が食事をしているとき、

 イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、

 弟子たちに与えて言われた。

 「取りなさい。これはわたしの体である。」

 

 また、杯を取り、

 感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。

 彼らは皆その杯から飲んだ。


 そして、イエスは言われた。

 「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
  はっきり言っておく。

  神の国で新たに飲むその日まで、

  ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」

 

 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

 

 イエスは弟子たちに言われた。

 「あなたがたは皆わたしにつまずく。

  『わたしは羊飼いを打つ。すると羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。

 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」

 

 するとペトロが、

 「たとえ、みんながつまづいても、わたしはつまずきません。」と言った。

 

 イエスは言われた。

 「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、

  三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 

 ペトロは力を込めて言い張った。

 「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、

  あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」

 

 皆の者も同じように言った。

 

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 (以下、礼拝説教)

 

 いま、教会の暦が「受難節」、レントと呼ばれる時期に入っています。レント、受難節、それは主イエス・キリストの十字架の受難、それが私たちの罪のゆるしのためであったということを心に覚えて歩む期間です。受難節は、イースター、イエス様の復活を記念する日の前日まで続きます。今年のイースターは4月4日です。今から4月4日までの受難節、レントと呼ばれる期間において、聖書の様々な箇所を礼拝で読み、イエス様の十字架を心に刻みつつ歩んでいきましょう。また、自分自身が負っているそれぞれの十字架、生きることの重荷をイエス様が共に負ってくださっていることを覚え、イエス様の十字架に重ねて、祈りつつ歩んでいきたいと願います。

 

 本日の箇所は、いわゆる最後の晩餐の場面です。前半の所には、イエス様と弟子たちが食事をしている場面が出て来ます。このときに過越祭と言われる、旧約聖書に由来がある歴史的な記念のお祭りの時期、主イエス様がパンとぶどう酒を弟子たちのためにわかちあってくださったのです。このとき、過越の祭りと言われる特別なときに、特別な食事をイエス様と弟子たちはしていました。その食事のときに食べるパン、そしてぶどう酒を、イエス様が分けて弟子たちに与えられました。そのときに言われたのが、「とりなさい。これは私の体である。」という言葉でした。体も血潮も、パンとぶどう酒によって表現された、一人ひとりのために分け与えるイエス様ご自身ということでありました。そしてイエス様は言われました。「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」こうして、この食事は、イエス様の約束を示す食事となりました。

 

 そして言われます。「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」それはこの世界が改まってイエス様がもう一度来られるとき、つまり本当に神の国が実現するとき、そのときまでは、ぶどうの実から作ったもの、つまりこの世で作られたぶどう酒を飲むことは、もうあるまい、もうこれで最後だということです。このイエス様の言葉から、この食事がとても特別だったということがわかります。今日のキリスト教会が行っている聖餐式は、今日の聖書箇所に基づいて行っているものであります。

 

 そして、次にこう言われました。「イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。」ここで引用されている言葉は、旧約聖書のゼカリヤ書13章7節の言葉です。この言葉を引用することによって、今から後にイエス様がとらえられたときに、弟子たちはバラバラに散っていくのだということを、イエス様が先だって言っておられるのです。そしてそれは聖書において前もって神様から示されていることだと示しておられます。

 

 そしてそのあと、こう言われました。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」それは、弟子たちがバラバラに散ってしまって、もうそれで終わりということではなく、その後にもう一度イエス様と再会するときが来るということでありました。しかし、そのイエス様の言葉を聞いた弟子たちは、その言葉の意味を理解しませんでした。何の意味か、さっばりわからなかったのだろうと思います。

 

 イエス様の言葉の意味を理解しないままに、ペトロが言ったのが、次の言葉です。「たとえ、みんながつまづいても、わたしはつまずきません。」12人の弟子の中で一番弟子、筆頭の弟子であることを自覚していたペトロがこのように言いました。

 

 それに対してイエス様が言われます。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ここでは、「今日、今夜」と二つの言葉が続けられています。「今日、今夜」。これからということです。それを聞いて、ペトロは力を込めて言い張りました。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者もそのように言った。」

 

 今日の箇所は以上であります。私たちはこうした箇所を読むときに、福音書の中でこのあとペトロがイエス様を裏切って逃げていったこと、他の弟子たちも皆逃げて行ったことを知っていて、読むことが出来ます。もちろんペトロは一度逃げたあと、戻ってきて、イエス様をとらえた人々がいる屋敷の近くまで忍び込みます。しかし、そこでたき火にあたっていたときに、そこにいた人々から、あなたも弟子の一人だといわれたときに、ペトロは、私はそんな人は知らないと三度言いました。そして、イエス様が言われていた通り、鶏が2度鳴くのです。

 

 そうした話の流れを、今まで聖書を読んできた人は知っていますから、今日の箇所を読むときに、ペトロに対して、ああ人間はどうせこんなものだな、とそんな思いでつきはなして読むことが出来ます。また、こうした、ペトロがイエス様を裏切った思いに、自分の弱さを重ねて、人間とはどうせこんなものだな、と考えることもできるでしょう。

 

 けれども、イエス様と弟子たちの最後の晩餐、様々な会話、そうした情景というものを、それを自分自身がその場において経験するかのように、具体的に想像することは結構難しいことです。というのは、私たちの日常生活は、こうしたイエス様と弟子たちとの最後の晩餐のような場面からは、はるかに遠い所にあるからです。ですから、今日の聖書箇所に、自分自身を重ねて考えるということは難しいことかもしれません。

 

 そういう意味で、本日の聖書箇所を読むときに、いろいろな受け止め方があると思います。その中で、私自身は何を思ったかといいますと、東日本大震災のときのことを思い起こしました。というのは、ここしばらく、テレビや新聞などでは、ちょうど10年前に起こった東日本大震災のことが繰り返し報道されています。今そういう時期です。そのことと、今日の聖書箇所が私の中で重なりました。

 

 それはどういうことかと言いますと、次のようなことです。東日本大震災が起きたとき、誰もがそうでしたが、私もとてもショックでした。原発事故を含めて大変な時代に入っていったことを思い起こします。そして、その被災地の救援・復興のために多くの方々が大変な労苦をされることになりました。

 

 そして私たちの京北教会が所属する日本基督教団でも現地でのボランティア活動が組織され、現地で働くルートが整えられて、ボランティアの募集がありました。震災が起きてからすぐに現地に行くことは難しかったのですが、ある程度の期間が過ぎると現地に行くことができるようになります。そして、京都教区からもたくさんの方々がボランティアで現地に行かれました。

 

 そして、この私もボランティアに行きたいなと思いました。そこで私は夏期休暇を一週間いただくときに、その期間を利用して、被災地の現地に行きたいと思いました。そしてボランティアの申込み書に全部書き込んで、それをFAXで送れば申込みが完了するところまで行きました。そこまで行ったのですが、そこからFAXを送るかどうかで、ものすごく躊躇したのです。

 

 というのは、私は以前に自律神経失調症を患って牧師を休職していたことがある人間です。また、以前にバイクでこけて左足をちょっと負傷したことがあります。そして、ボランティアの募集要項を読むとこういうことが書いてありました。現地の拠点が仙台の東北教区センター・エマオというところにあり、そこから自転車で片道14キロ離れた荒浜地区というところに復興ボランティアに行くのです。そして1回参加するときの期間は三泊四日です。一日や二日では仕事になりませんので、必ず三泊四日です。私はいろんなことを考えました。三泊四日、毎日毎日片道14キロを自転車に乗っていく、それが私にできるだろうか。行ったはいいけど、ああしんどいといってみんなの足手まといになるのではないか。そんなことを考えていると、電話機の前で申込みを全部記入した用紙を持ちながら、どうしてもそれをFAXで送ることができませんでした。

 

 そしてそのあと、9月に東日本大震災から半年の記念礼拝というものが、被災地の各地の教会で行われ、私はそれに出席することにしました。私は教会の夏期休暇一週間に東北の地に行くことができました。仙台に行き、気仙沼に行きました。岩手県の大船渡教会にも行きました。それらの地で貴重な出会いをし、大船渡教会での日曜日の礼拝にも出席し、そして東日本大震災から半年の記念礼拝にも出席をさせていただきましたことを、感謝して受けとめています。そしてその折に現地を車で回って、私が思っていた以上の、すさまじい被災の現場を私は見てきました。

 

 今から10年前、そうしたことをしていたなあ、ということを今の時期に思い起こすのは、あのとき、ボランティアに行こう行こうと思っていながら、結局行くという決断ができなかったときに、私は裏切ってしまったのではないかと思うのです。もちろん、実際には、誰も裏切っていません。ただ自分で思って自分でできなかっただけです。けれども、あのときのことを思い返すときに、私は被災地の現実に対して、行くことをしないことによって、裏切っているのではないか、という自分を責める良心の呵責、それが強烈にあった、ということを思い起こすのです。

 

 私は今まで、今日の聖書箇所を、もう何度も何度も読んできました。子どものときから何度も読んできたこの話が、福音書の中で、この先どうなるかわかっています。そしてここからメッセージとして何を語るかということも、今までさんざん様々な礼拝の説教の場などでしてきました。そういう意味で、この聖書箇所に慣れてしまって、もうあまり何も感じない面もあるのです。

 

 けれども、先ほど言いましたように、東日本大震災の報道を見て、10年前のことを思い起こすと、今日の聖書箇所の持つ意味が、本当に自分自身の胸に迫ってくるものがありました。

 

 皆様はどうでしょうか。本日の最後の晩餐の聖書箇所を読んで、この場面を創造して、この中に自分を置いてみて、そこで自分がイエス様を裏切るかどうか、というように考えることは、この場面が私たちの日常生活から大きく離れたことですから、とても難しいことだと思います。

 

 けれども、そうした想像ではなくて、過去の自分の実際の生活の中で、私はやるべきことをやってきたか? と自分に問いかけたときに、自分は裏切ってきたのではないか、と思われることはないでしょうか? これは、具体的に誰を裏切ったか、ということではなくて、私は自分で自分を裏切ってきたのではないのか? 自分としてこれで良かったのか? という問いかけです。

 

 ペトロがこのとき、イエス様の前で、「たとえあなたと御一緒に死ななければならなくなっても、逃げません」と言ったのは、まさに人間の率直な心情としては、本当に人間はこういうことを思うということです。それは、建前を言っているとか、良い格好をしているというのではなくて、本当にそう思うときがあるのです。でも、その一方で、イエス様を捕らえにきた集団があって、弟子たちが散り散りバラバラに逃げてしまった。それもまた人間の本当の姿です。

 

 そのことを、あとでどんなふうに理由付けするとができたとしても、そのときイエス様を裏切ったこと、それは弟子たちが一人ひとり、自分自身を裏切ったということでもあります。その裏切りの思いというのは、強くペトロや他の弟子たちの心の中に残ります。そのような、自分で自分を裏切ったのではないか、という思いは、私たち一人ひとりの心の中にも強く残るのです。

 

 そうしたことを思いつつ、今日の聖書箇所にある、今でいう聖餐式の場面の意味を考えてみます。イエス様がご自身をパンとぶどう酒にたとえて、みんなに分けて渡してくださったとき、イエス様が「とりなさい。これは私の体である」と言われたとき、まさにイエス様ご自身が明日とらえられて、十字架に付けられて、弟子たちの前からいなくなる、その前に、ご自身をパンとぶどう酒という形で、弟子たちに分け与えてくださったことがわかります。

 

 そのあとにイエス様は、弟子たちがこのあとどうなるか、そしてご自身がどうされるか、ということを語られます。それを聞いた弟子たちは、口々に、自分は決して離れない、という意味のことを言います。けれども、イエス様にとっては、このあと弟子たちが逃げて行くことは、もうご存じなことでした。

 

 ですから、そのことがわかっていて、イエス様があえてこのときに、パンとぶどう酒を弟子たちに分け与えたのは、「これを食べて、これを飲んだら、もう決して私から離れるなよ!」という誓いの儀式としてこれをしたのではないのです。

 そうではなくて、あなたたちはこれからバラバラに生きていくことになる、ということがよくわかっておられるからこそ、イエス様は、ご自身をパンとぶどう酒に表現されて、弟子たちに分け与えられたのです。てすから、この場面は、「決して裏切るなよ!」という誓いの儀式ではなく、あなたたちはこれからバラバラに生きていかざるをえないのだ、だからこそ、どこにいっても、私は私はをあなたたちに残していく、ということでありました。これからずっと、今食べたパンとぶどう酒のように、イエス様が共にいてくださる。そういうことが聖餐式の意味でありました。

 

 私たち一人ひとりの人間が、お話にならないほど弱く小さな存在です。ペトロや他の弟子たちと同じく、私たちは、いざとなったらバラバラになって逃げて行く存在です。でも、そのことをイエス様は先に知っておられた。だから、パンとぶどう酒を、イエス様ご自身として、先に、私たちに分け与えてくださっていたのです。

 

 今日の聖書の箇所を読みながら、いくつか他の聖書の箇所を読みました。その一つは、マタイによる福音書18章10節の言葉でした。それは一匹の羊が道に迷っていなくなったあと、羊飼いは他の99匹の羊をおいていても一匹の羊を探し求める、そこに神の愛がある、という話です。私は思いました。迷い出たこの1匹の羊は、単に遊びほうけていて、どこかに行ってしまったのではなく、どうして私ははぐれてしまったのだろうと、そのことに悩み苦しみ、良心の呵責を持って歩いているのです。どうして私ははぐれてしまったのだろう、と孤独な思いで歩いている、その一匹の小羊のためにイエス様が来てくださるのであります。

 

 また、もうひとつ別の聖書箇所を読みました。旧約聖書箴言27章9節です。そこにはこうありました。「友人の優しさは、自分の考えに優る」。こんな言葉がありました。「友人の優しさは、自分の考えに優る」。それは、思い悩んでいる自分というものがあって、確かに自分の考えはもちろん大事なんですが、けれども、「友人の優しさは、自分の考えに優る」と言われるときに、自分一人だけで考えているのではなくて、友人の考えも聞いてみたらいいよ、友人は何と言っている? あなたを責めるか? ということです。友人の優しさは自分の考えよりも優っている、ということもあるのです。旧約聖書箴言を読んで、そんな言葉を私は見つけました。

 

 今日の聖書箇所を読むときに、また、東日本大震災で無数の命が奪われた現実を知るとき、私たちは言葉もないような人間の現実を思います。しかし、その現実の中で良心の呵責に苦しんで、自分を責めてしまうことがあるならは、あえて私たちは今日の聖書箇所を読み、神様から力づけられていきたいのです。本当に救われて守られて、1匹の羊のように、神様に発見されて、イエス様に発見されて、みんなと共に生きていくことを願い求めましょう。

 

 お祈りします。
 神様、いつもたくさんの恵みをありがとうございます。そのことに気がつかない、本当に罪ある私たちが赦されて歩めますように。東日本大震災から10年経ちましたが、これが節目でなく、これからも続く日常の道のりを、神様が守ってください。そのために私たちも祈り、協力できますように。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げします。

 アーメン。

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2021年3月21日(日)京北教会 創立112周年 記念礼拝
説教
「教会は岩の土台、風の心」牧師 今井牧夫

 

聖 書 マタイによる福音書 16章 15〜26節 (新共同訳)

 

 イエスが言われた。

 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

 シモン・ペトロが、

 「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えた。

 

 すると、イエスはお答えになった。

 「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。

  あなたにこのことを現したのは、

  人間ではなく、わたしの天の父なのだ。

  わたしも言っておく。あなたはペトロ。

  わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。

  陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。

  わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。

  あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。

  あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

 

 それから、イエスは、ご自分がメシアであることをだれにも話さないように、

 と弟子たちに命じられた。

 

 このときから、イエスは、

 ご自分が必ずエルサレムに行って、

 長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、

 三日目に復活されることになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。

 

 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
 「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」


 イエスは振り向いてペトロに言われた。

 「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。

  神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 

 それから、弟子たちに言われた。

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

  自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

  人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。

  自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」

 

 

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 (以下、礼拝説教) 

 

 本日、私たちは京北教会創立112周年記念礼拝の日を迎えました。教会創立記念日は3月25日です。その日の前に一番近い日曜日に記念礼拝を毎年しています。この記念の日にあたり、聖書から、教会とは何かということを学んでいきましょう。

 

 その前に、ごく簡単に京北教会の歴史を振り返ってみます。1901年12月8日、京都市の烏丸五条近くの貸家で「烏丸講義所」が開設されました。これは当日の日本メソジスト教会という教派に属する京都中央教会(現在の京都御幸町教会)を拠点とした開拓伝道の一貫として、1901年に新しく開設されたものです。この講義所はその後5回も引越をして、そのたびに講義所の名前も烏丸講義所、下京講義所、五条講義所と変わります。しかし順調に教会員が増えたので1909年には初めての定住伝道者を置くことになり、1912年には京南講義所となり、1918年には京南教会を設立し、そして幼児園を併設して1924年には教会の礼拝堂と幼児園舎を建てます。

 

 その後、伝道の伸び悩みがあったためと思われますが、現在の下鴨の地域に移転して今の礼拝堂を建築します。それが1941年3月のことでした。このとき、戦時の体制下にあって国の要請を受けて様々なキリスト教の教派が30以上集まって合同し、日本基督教団も発足させ、京北教会もその一員となりました。戦中には礼拝人数は激減し、当時の高木彰牧師はインドネシアに徴用され、高木夫人とごく少数の会員がこの教会を守ります。その後、戦後の大変な時期を乗り越えて、様々な先輩方が集まる教会となり、教会学校や青年会を含めて大きく成長し、そして長きにわたり歩んできました。以上が、ごく簡単にふりかえった京北教会の歴史です。こうして112年が経ちました。

 

 この記念礼拝のときにあたり、皆様と共に聖書からメッセージを聴いて参ります。本日の聖書箇所は、マタイによる福音書16章です。ここには、主イエス様と12人の弟子たちの対話の場面が記されています。そして、福音書の中で非常に大事な場面が含まれています。それは、主イエス様ご自身が、自らの十字架の死と復活を弟子たちに向かって予告される一番最初の箇所です。福音書の中では、イエス様は、ご自身の十字架の死と復活を、12人の弟子たちに向かってお話される場面が3回あります。その一番初めのときが今日の箇所です。

 弟子たちはイエス様の十字架の死と復活、という大変重い出来事がこれから起こる、ということを全く受け入れず、信じず、理解しなかったのでした。ですから、3回もイエス様がお話されたことも、弟子たちはそれを否定するか、黙って聞くか、ということしかできませんでした。その理由は、弟子たちにとってイエス様は自分たちの先生であり、リーダーであり、自分たちの国を救ってくれる救世主だったからです。当時のローマ帝国の植民地であったイスラエルの国が、ローマ帝国の圧政のもとで苦しんでいた、その状況から自分たち民衆を救い出してくださる、それが弟子たちがイエス様に対して強く持っていた希望でした。その希望であったイエス様が、十字架で死なれるということは、それはイエス様がとらえられて罪人とされて殺されるということでしたから、そのようなことはあってはならないことでした。さらにその先の復活など、何のことかわからないほどに受け入れられないことでした。

 

 その弟子たちに対して、イエス様がお話されたことが、本日の箇所に記されています。今日の箇所を順番に見ていきます。まず、最初の対話の場面では、こうあります。「イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えた。」ここでは12人の弟子の中でリーダーであった筆頭の弟子のペトロが答えています。メシアとは、救い主という意味で、この世界を救ってくださる主人、世界の救いの中心という意味です。そして、そのメシアの存在は、生ける神の子、つまり、
今、目の前で生きている神の子というのです。

 

 神の子という表現は、神様から遣わされて、神様から愛されている存在、ということを指します。それは神そのものと等しいけれども、神よりも小さな存在というようにも言えます。弟子たちは、このとき、イエス様から、あなたはわたしを何者だと言うのか、と問われたときに、このように答えます。あなたは救世主、あなたは神様から遣わされた、神様から愛されている存在。そのような意味で弟子たちは答えました。

  

 この答えを聞かれたイエス様は言われます。「すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

 

 シモン・バルヨナと言う名前は、シモンは名前で、バルヨナはそれを説明する言葉で、バルヨナとはヨナという人の子ども、またはヨハネという人の子ども、という意味のようです。このシモンに対してイエス様は幸いだ、と言われました。それは、先にペトロがイエス様を救世主であり生ける神の子だと答えた、その答えが幸いな答えだったことを示しています。そして、
そのようにペトロが言うことができたのは、人間としてのペトロの知恵や知識によるのではなく、イエス様の天の父、すなわち天の神様の力なのだと言われます。

 

 そしてさらにこう続けられます。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」ここでペトロという名前が出て来ます。ペトロとは「岩」という意味の言葉です。この名前はイエス様からいただいた名前でした。ペトロにはもう一つの呼び名があり、パウロの手紙に出て来ますが、「ケパ」と言います。これも岩という意味です。どうしてイエス様が、シモンに対して「岩」という呼び名で呼んだのかはわかりません。しかし、その理由はわからなくても、イエス様がシモンを選び、岩にたとえ、その岩の上に神様の教会を建てると言われました。

 

 このイエス様の言葉がもとになって、弟子であるペトロがリーダーとなって形成した教会が初代のキリスト教会となり、後のカトリック教会へと成長していきました。その発端のことは、福音書使徒言行録にしか記録が残されていません。そして、その記録の中において、教会とは何か、ということがはっきりと示されています。本日の、この聖書の箇所です。

 

 教会、それは主イエス・キリストの任命によって成立するものである、ということです。そしてイエス様は言われます。「陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」現在、カトリック教会では教皇の力は絶対的な性質があります。その根拠はこの聖書箇所にあります。後にできたプロテスタント教会は、カトリック教会の制度とは大きな違いがありますが、教会というものは神様からの権威を与えられていると理解することは同じです。

 

 本日、京北教会の創立112周年記念の礼拝をしています。教会の創立ということに関して、本日の聖書箇所から学ぶことは、教会というものは、主イエス・キリストによる任命によって、その土台が成立するということです。イエス様がペトロを選び、将来の教会を建てる土台の役割を与えられたように、イエス様の任命ということが、岩となり、教会の土台となるのです。この京北教会の発端にも、伝道のために遣わされた伝道者がおり、その言葉を聴いて信徒となった方々がおり、そうした一人ひとりが主イエス・キリストの導きによって、みんなで教会を支えることになったのです。その教会には、神様からの権威が与えられ、それによって教会はこの世界の中にあって重要な役割を担うようになりました。

 

 しかし、教会というものは、人の目から見たときには、常に弱点を持ち、この世の波風にさらされ、様々な問題を抱えながら歩んでいる存在でもあります。その教会に神様から与えられた権威がどんなふうにあるのでしょうか。ふだん私たちは教会の礼拝に毎週来ていても、そこで教会の権威というものを感じることがあるでしょうか。私たちは多くの場合、権威というような言葉をあまり好まないのではないかと思います。権威というのは何か重たくて怖くて、いかめしいものです。教会の権威というと、あまり歓迎されないのではないかと思います。

 

 教会の権威とは何か、ということが、本日の聖書箇所の後半で、イエス様から示されています。読んでみましょう。「それから、イエスは、ご自分がメシアであることをだれにも話さないように、

と弟子たちに命じられた。このときから、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活されることになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」とあります。

 

 これから、そう遠くない時期にやってくる、イエス様の十字架上での死、そして復活。それらのことをイエス様はお話されました。しかし弟子たちは全くそれを理解しません。そればかりかペトロはそれをいさめ始めました。次のように記されています。「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」」

 そして、こうあります。「イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」これはとても厳しい言葉です。ついさっき、ほんの少し前に、「あなたはペトロ、私はこの岩の上に教会を建てる」と言われた、その直後に、イエス様は一転されたかのように、サタン、引き下がれ、と言われます。

 

 本日の箇所を、京北教会創立記念礼拝において読むときに、教会の権威というものは、このようなイエス様の言葉を心して聴く、という姿勢にこそある、ということを実感します。教会の権威、というものは、人の上に立っていばるためにあるのではありません。重く、怖く、いかめしい権威、ということではなくて、イエス様がペトロを叱られた、そのようなイエス様からの愛の厳しさというものを、みんなで受けとめていく姿勢にこそ、教会の権威というものがあります。

 

 すなわち、それは、悔い改めるということの権威です。イエス様は、続けて次のように言われました。「それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」

 

 ここで言われていることは、次のようなことです。命というものは、神様から与えられたものであり、ものすごく大切なものです。その、与えられた命を、神様の御心にかなうように献げていく、つまり、この命を神様に用いていただくことが大切なのです。それが主イエス・キリストが十字架の死と、その三日後の復活という形で示された道でありました。それは弟子たちの目から見たときには、理解できず信じられないことでありました。けれども、それをペトロが、そんなことがあってはならない、といさめたときにイエス様は言われました。「サタンよ、退け。あなたは神の事を思わず、人間のことを思っている。」

 

 この言葉を聴いたときのペトロは、おそらく、自分の心にものすごく強い風が吹き付けられたような気持ちになったのではないか、と私は想像します。教会は岩であると言われても、その教会に来ている人間は、岩のようではありません。風のような存在です。いるのかいないのかわからず、どの方向に自分が向いているのかもよくわからない、そして、もっと強い風が吹いてきたときには、自分自身の存在が吹き払われて消えていく、人間はそんな風のような存在です。

 

 つい先ほど岩と呼ばれ、その岩の上に教会を建てると言われたペトロに対して、サタンよ、退けとイエス様は言われました。教会の権威というものは、人に対していばるためにあるのではなく、このようにイエス様から厳しく叱られ、問われ、そして導かれていくところにあります。神様の御心を理解できない、弱く小さな人間の群れが、教会において、風のように生きています。けれども、誰もが、聖書の言葉によって問われ、叱られ、そして愛されて、成長していきます。

 

 京北教会は創立112周年を迎えました。今までのたくさんの先達の皆様に感謝します。そして、これからもイエス様に問われながら、叱られながら、愛されて、みんなで歩んでいきまょう。

 

 お祈りします。

 神様、京北教会が創立112周年を迎えたことを皆様と共に心から感謝いたします。これからも皆で、神様の御心にかなう礼拝と交わりと奉仕ができますように、守り導いてください。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。 

 アーメン。

 

 

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「十字架──他人を救うこと」

 2021年3月28日(日)京北教会「棕梠の聖日」礼拝説教

 

 マタイによる福音書 27章 32〜42節(新共同訳) 

(以下、本日の聖書箇所)

 

 マタイによる福音書 27章 32〜42節(新共同訳)

 

 兵士たちは出て行くと、

 シモンという名前のキレネ人に出会ったので、

 イエスの十字架を無理に担がせた。

 

 そして、ゴルゴタという所、

 すなわち「されこうべの場所」に着くと、

 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、

 イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。

 

 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、

 そこに座って見張りをしていた。

 

 イエスの頭の上には、

 「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。

 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、

 一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。 

 

 そこを通りかかった人々は、

 頭を振りながらイエスをののしって、言った。

 

 「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、

  神の子なら、自分を救ってみろ。

  そして十字架から降りて来い。」

 

 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、

 イエスを侮辱して言った。

 

 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。

  今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。

 

  神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。

  『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」

 

  一緒に十字架につけられた強盗たちも、

  同じようにイエスをののしった。


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 (以下、礼拝説教) 

 今まで教会の暦で受難節の時期を歩んできました。受難節はまたレントとも言われます。そして、その受難節の中で、本日は教会の暦で「棕梠(しゅろ)の聖日」です。

 

 この棕梠の聖日の由来は、主イエス・キリストが十字架に付けられる一週間前に、それまでの長い宣教の旅を経て、都のエルサレムに到着したときに、都の人々がイエス様を迎えて歓迎したときに、人々が手に棕梠の大きな葉を持って、それを左右に大きく振って、歓迎の気持ちを表したことにあります。人々はイエス様を都に迎えるときに、これからこのイエス様が自分たちの救世主として、ローマ帝国に植民地にされたこのイスラエルの国を再び復興して強い国にしてくれる、という期待を大きく持っていました。

しかし、その一週間の内にイエス様はとらえられ、無実の罪で重罪犯人としてローマ帝国の最も重い刑罰として十字架に架けられ、打ち付けられて放置され、その十字架の上で命を落とされます。ですから、棕梠の聖日とは、イエス様が十字架の苦しみを受ける、その受難の最後の一週間、受難週に入る日のことを指しています。

 

 そして、週報にも記していますが、今週の木曜日が、イエス様が弟子たちの足を洗われた「洗足木曜日」です。そしてイエス様が十字架に架けられたのが金曜日で、この日を「受難日」と呼びます。そして、その三日後となる4月4日の日曜日が、主イエス・キリストが復活なされた記念の日で、イースター、復活日となります。

 

 こうして、教会の暦で受難節は、主イエス・キリストの十字架の死を記念する頂点である、「受難日」を今週に迎えます。私たちはふだんの生活の中で、できればこうした教会暦においてイエス様のことを覚える、心に思い浮かべることをしたいと思います。それは何のためかというと、イエス様受難を心に刻むことによって、私たち一人ひとりが、自分自身の受難、つまり生きることの痛み苦しみを思い、それを共に担って下さる神様の救いに心を向けるためです。

 

 そのようなことを思いながら、本日の聖書箇所を皆様と共に読んでいきます。最初にこうあります。「兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。」ここに出てくるキレネ人とは、北アフリカの地域の人のことで、つまり外国人、異邦人です。その異邦人に対して、ローマ帝国の兵士は、イエス様がこのあとにはりつけにされる十字架の木材を無理矢理に担がせたのでした。

 

 そのキレネ人シモンという名前がここに記されているということは、このことが特別な印象を人々に残したからと考えられます。その特別な印象とは、イエスの十字架を担ったのは異邦人だった。つまりユダヤ人ではない人だった、ということです。主イエス・キリストが宣べ伝えた神の国の福音、その救いの働きは、ユダヤ人だけではなく世界のすべての人に与えられるものです。今日のこの場面では、そのイエスの十字架の死に至るまでの働きの一つを、異邦人がイエスと共に担ったということが、イエスの十字架を異邦人が背負ったということで、象徴的に示されています。

 その次の場面に行きます。「そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。」とあります。ゴルゴタとはされこうべ、これは人間の頭の骨、という意味で人間の死を象徴しています。ここが十字架の刑を執行する場でした。そこでイエスは十字架にはりつけにされます。そのはりつけの前に、人々がイエスに飲ませようとした、苦いものを混ぜたぶどう酒とは、いわゆる気付け薬のようなものでしたが、イエスは飲まれませんでした。この前の日に弟子たちと共に飲んだ、最後の晩餐のときのぶどう酒が、イエス様にとって、この世界で飲む最後のぶどう酒だったからです。

 

 次の場面に行きます。「彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、

そこに座って見張りをしていた。」これは、イエス様が十字架につけられるときに衣服をはぎとられ、その服を人々が分け合った場面です。これは旧約聖書の言葉の実現と考えられています。

 

 さらに次の場面に行きます。「イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。」ここには、イエス様がなぜ十字架に付けられたか、という説明が記されています。十字架の刑というのは、ユダヤの国にはない刑罰で、これはローマ帝国における最も重い罪を犯した人間に与えられる刑罰です。ローマ帝国あるいはローマ皇帝への反逆罪などです。

 

 もちろん、イエス様はローマ帝国に政治的に反逆したわけではありません。しかし、イエス様が「神の国」の福音を宣べ伝えたことが、イエス様を憎む人々にとっては、イエスは自分をユダヤの国の王様だと主張すること解釈され、それがさらにローマ皇帝の権威に反逆していることだとされて、最も重い刑罰として十字架刑が与えられたのでした。これは正に無実の罪であります。

 

 このとき、イエス様の十字架の隣には、右と左に強盗たちが十字架に付けられていたとあります。この強盗たちは、おそらく単なる強盗ではなく、ローマ帝国に対する反政府、反権力的な活動をしていた、あるいはそう解釈された強盗たちだったのではと思われます。単なる強盗だけでは十字架刑にはならないでしょう。そのような世の罪人と同じ扱いをイエス様は受けたのです。

 

 さらにこう続きます。「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」」これが、一般の民衆たちがイエスをあざけった言葉です。

 

 この「神殿を打ち倒し、三日で建てる者」という言葉は、これは都エルサレムの大きな石作りの神殿を前にして、人々がこの神殿にこそ自分たちの神がいると思っていたことに対して、この神殿はいつか徹底的に打ち壊される日が来るとイエス様が言われた言葉です。イエス様は、神様という存在は、人間の手で作った神殿などには住まわれないということを示されたのです。そして、本当の礼拝の場所であれば、こんな神殿ではなく三日で私が建てると言われました。しかし、その言葉が、神殿が持つ宗教的な権威を全否定することと解釈されたのです。

 

 そして次にこうあります。「同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」このようにあります。そしてこの次には、右と左に同じく十字架に付けられた強盗達もイエスをののしったとあります。

 

 つい数日前まではイエスに期待し、イエスを歓迎していた民衆たちがイエスをののしります。祭司長や長老たち、すなわち宗教的な中心人物の人たちもイエスをあざけります。そして、同じ犯罪者という立場の者たちからも、ののしられます。ここでは、イエス様に同情する人は一人も記されていません。なぜでしょう。それは、イエス様の弟子たちは皆逃げ去ってしまったからです。そして、イエスと弟子たちと活動を共にしていた女性の人たちは、遠くから見ているしかありませんでした。こうして、イエスは、たった一人になるのです。そして命を落とされました。

 

 さて、ここで考えてみます。主イエス・キリストはなぜ、十字架にかけられて命を落とされたのでしょうか。もちろん、その過程は福音書に記されています。当時の宗教的な権力者たちがイエスを憎み、ユダヤの律法とローマ帝国の法律を組み合わせて、イエス様をローマ皇帝への反逆者として無実の罪を着せたということによります。そして、なぜ宗教的な権力者たちがイエスを憎んだかというと、イエス様が宣べ伝えた神の国の福音の教えが、それまでの宗教的な考え方を大きく変えるものであり、それが世の中の秩序、そして宗教の秩序を揺るがすものだったからです。

 

 そうして、なぜ主イエス・キリストは十字架で死なれたのか、ということについて、当時の歴史における、政治的・社会的・法律的な経過ということはある程度説明することができます。しかし、本日、私たちがこの京北教会で礼拝をしている意味というのは、そうしたイエスの十字架の歴史的意味を知るためではありません。私たちがいま、主イエス・キリストの十字架について考えているのは、そのような勉強のためではありません。

 

 では、何のためでしょうか。その理由は、お一人おひとりで違うのだろうと思いますが、私が思うことを申し述べます。私たちが教会でイエス・キリストの十字架の話を聴く意味、そのひとつは、私たち一人ひとりの孤独ということを考えるためではないかと思います。孤独。皆様は孤独でしょうか。

 

 十字架に付けられて、民衆からも、宗教者からもあざけられ、同じ十字架に付けられた罪人たちからもののしられ、弟子たちは皆逃げていったあとの、イエスは孤独だったはずです。

 

 今日、新型コロナウイルスによる問題が全世界をおおっています。マスクをして手洗いして、あんまり出歩かず、お店も入らず、人と距離をとる、そういう習慣はかなり身につきました。インターネット上で行う会議も社会では当たり前になりました。これからワクチンはどうなるのかわかりませんが、とにかく日常を何とかしのいでいくことが、新しい日常として定着しました。

 

 そんな中で、世界的に起こっていることは、孤独ということです。それは単にひとりぼっちとていう意味ではありません。家族がいてもいなくても、孤独だ、人がまわりにいてもいなくても、孤独だと人間は感じます。コロナ問題に苦しめられている世界において、どんな形での孤独があるでしょうか。それは外から見えないことが多いのです。

 コロナ問題に不安になるだけではありません。自分の病気のこと。仕事のこと。家族のこと。人間関係のこと。過去の問題のこと。これから起こる問題のこと。などなど、たくさんの問題が、いまの社会においてはコロナ問題の陰に隠されてしまっていますが、実は、一人ひとりの人生においては、コロナ問題だけではない、無数の課題があって、それがコロナ問題と相まって、避けられない問題として迫ってきます。

 本日の聖書箇所では、イエス様のまわりには人がたくさんいます。群衆がいます。宗教の人たちがいます。同じ立場の罪人たちがいます。けれども、イエスは孤独です。

 

 本日の聖書箇所から示されることのひとつは、孤独にはどんな意味があるのか、考えてみよう、ということだと私は思います。イエス様は次の言葉で人々からののしられました。「他人は救ったが、自分は救えない。今すぐ十字架から降りてこい。そうすれば信じてやろう。」ここには、宗教というものが持っている、重い現実があります。あなたは他人に対しては立派なことを言っているが、自分ではできていないじゃないか、というあざけりです。

 そして、宗教だけではありません。一般社会においても、ごく普通のふだんの人間関係においても同じです。「他人は救ったが、自分は救えない。今すぐ十字架から降りてこい。そうすれば信じてやろう。」こうして、お前は、自分一人すら救えない人間だ、そんな弱い人間だ、というあざけりが、人間を本当に孤独にしていくのです。神を信じている人もまた、そうしたあざけりを言われて、孤独になっていきます。

 

 孤独は、闇です。救われない人間が、自分を隠すための闇です。救われないと思う人は、闇の中に居続けたほうがまだましだと思うのです。そんな人間世界に対して、聖書のメッセージは、特別な意味を持っています。それは、聖書のメッセージは、人間の孤独をいかに解消するか、ということではなくて、あなたの孤独は何のためなのか、ということだからです。本日の箇所はそのことを雄弁に語っています。イエスの十字架、すなわちイエスの孤独は、他人を救うためでありました。それは自分がしたくてしていることではないのです。自分を十字架に付けた人たちを救うための、十字架であり、孤独であり、神の救いのみわざなのです。

 

 主イエス・キリストの十字架の死は、何のためだったのでしょうか。いや、それ以前に、キリスト教は何のためにあるのでしょうか。一言では言い表せないのですが、それは、自分を救うためではなく、他人を救うためにあるのだと思います。他人を救うために、この私に与えられているメッセージが、主イエス・キリストの十字架であり、キリスト教というこことです。

 

 お祈りします。

 神様、私たちは孤独のうちに自らの十字架を負っています。自分の十字架だけでなく、他人が背負っている十字架のことも思うことができますようにお導きください。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。