京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

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2021年3月28日(日)京北教会 受難週 説教

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 2021年3月28日(日)京北教会 「棕梠(しゅろ)の聖日」(受難週)礼拝

「十字架──他人を救うこと」2021年3月28日(日)京北教会「棕梠の聖日」礼拝説教

 マタイによる福音書 27章 32〜42節(新共同訳)

 

(以下、本日の聖書箇所)

 

 マタイによる福音書 27章 32〜42節(新共同訳)

 

 兵士たちは出て行くと、

 シモンという名前のキレネ人に出会ったので、

 イエスの十字架を無理に担がせた。

 

 そして、ゴルゴタという所、

 すなわち「されこうべの場所」に着くと、

 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、

 イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。

 

 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、

 そこに座って見張りをしていた。

 

 イエスの頭の上には、

 「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。

 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、

 一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。 

 

 そこを通りかかった人々は、

 頭を振りながらイエスをののしって、言った。

 

 「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、

  神の子なら、自分を救ってみろ。

  そして十字架から降りて来い。」

 

 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、

 イエスを侮辱して言った。

 

 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。

  今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。

 

  神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。

  『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」

 

  一緒に十字架につけられた強盗たちも、

  同じようにイエスをののしった。


……………………………………………………………………………………………………………

 (以下、礼拝説教) 

 今まで教会の暦で受難節の時期を歩んできました。受難節はまたレントとも言われます。そして、その受難節の中で、本日は教会の暦で「棕梠(しゅろ)の聖日」です。

 

 この棕梠の聖日の由来は、主イエス・キリストが十字架に付けられる一週間前に、それまでの長い宣教の旅を経て、都のエルサレムに到着したときに、都の人々がイエス様を迎えて歓迎したときに、人々が手に棕梠の大きな葉を持って、それを左右に大きく振って、歓迎の気持ちを表したことにあります。人々はイエス様を都に迎えるときに、これからこのイエス様が自分たちの救世主として、ローマ帝国に植民地にされたこのイスラエルの国を再び復興して強い国にしてくれる、という期待を大きく持っていました。

しかし、その一週間の内にイエス様はとらえられ、無実の罪で重罪犯人としてローマ帝国の最も重い刑罰として十字架に架けられ、打ち付けられて放置され、その十字架の上で命を落とされます。ですから、棕梠の聖日とは、イエス様が十字架の苦しみを受ける、その受難の最後の一週間、受難週に入る日のことを指しています。

 

 そして、週報にも記していますが、今週の木曜日が、イエス様が弟子たちの足を洗われた「洗足木曜日」です。そしてイエス様が十字架に架けられたのが金曜日で、この日を「受難日」と呼びます。そして、その三日後となる4月4日の日曜日が、主イエス・キリストが復活なされた記念の日で、イースター、復活日となります。

 

 こうして、教会の暦で受難節は、主イエス・キリストの十字架の死を記念する頂点である、「受難日」を今週に迎えます。私たちはふだんの生活の中で、できればこうした教会暦においてイエス様のことを覚える、心に思い浮かべることをしたいと思います。それは何のためかというと、イエス様受難を心に刻むことによって、私たち一人ひとりが、自分自身の受難、つまり生きることの痛み苦しみを思い、それを共に担って下さる神様の救いに心を向けるためです。

 

 そのようなことを思いながら、本日の聖書箇所を皆様と共に読んでいきます。最初にこうあります。「兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。」ここに出てくるキレネ人とは、北アフリカの地域の人のことで、つまり外国人、異邦人です。その異邦人に対して、ローマ帝国の兵士は、イエス様がこのあとにはりつけにされる十字架の木材を無理矢理に担がせたのでした。

 

 そのキレネ人シモンという名前がここに記されているということは、このことが特別な印象を人々に残したからと考えられます。その特別な印象とは、イエスの十字架を担ったのは異邦人だった。つまりユダヤ人ではない人だった、ということです。主イエス・キリストが宣べ伝えた神の国の福音、その救いの働きは、ユダヤ人だけではなく世界のすべての人に与えられるものです。今日のこの場面では、そのイエスの十字架の死に至るまでの働きの一つを、異邦人がイエスと共に担ったということが、イエスの十字架を異邦人が背負ったということで、象徴的に示されています。

 その次の場面に行きます。「そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。」とあります。ゴルゴタとはされこうべ、これは人間の頭の骨、という意味で人間の死を象徴しています。ここが十字架の刑を執行する場でした。そこでイエスは十字架にはりつけにされます。そのはりつけの前に、人々がイエスに飲ませようとした、苦いものを混ぜたぶどう酒とは、いわゆる気付け薬のようなものでしたが、イエスは飲まれませんでした。この前の日に弟子たちと共に飲んだ、最後の晩餐のときのぶどう酒が、イエス様にとって、この世界で飲む最後のぶどう酒だったからです。

 

 次の場面に行きます。「彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、

そこに座って見張りをしていた。」これは、イエス様が十字架につけられるときに衣服をはぎとられ、その服を人々が分け合った場面です。これは旧約聖書の言葉の実現と考えられています。

 

 さらに次の場面に行きます。「イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。」ここには、イエス様がなぜ十字架に付けられたか、という説明が記されています。十字架の刑というのは、ユダヤの国にはない刑罰で、これはローマ帝国における最も重い罪を犯した人間に与えられる刑罰です。ローマ帝国あるいはローマ皇帝への反逆罪などです。

 

 もちろん、イエス様はローマ帝国に政治的に反逆したわけではありません。しかし、イエス様が「神の国」の福音を宣べ伝えたことが、イエス様を憎む人々にとっては、イエスは自分をユダヤの国の王様だと主張すること解釈され、それがさらにローマ皇帝の権威に反逆していることだとされて、最も重い刑罰として十字架刑が与えられたのでした。これは正に無実の罪であります。

 

 このとき、イエス様の十字架の隣には、右と左に強盗たちが十字架に付けられていたとあります。この強盗たちは、おそらく単なる強盗ではなく、ローマ帝国に対する反政府、反権力的な活動をしていた、あるいはそう解釈された強盗たちだったのではと思われます。単なる強盗だけでは十字架刑にはならないでしょう。そのような世の罪人と同じ扱いをイエス様は受けたのです。

 

 さらにこう続きます。「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」」これが、一般の民衆たちがイエスをあざけった言葉です。

 

 この「神殿を打ち倒し、三日で建てる者」という言葉は、これは都エルサレムの大きな石作りの神殿を前にして、人々がこの神殿にこそ自分たちの神がいると思っていたことに対して、この神殿はいつか徹底的に打ち壊される日が来るとイエス様が言われた言葉です。イエス様は、神様という存在は、人間の手で作った神殿などには住まわれないということを示されたのです。そして、本当の礼拝の場所であれば、こんな神殿ではなく三日で私が建てると言われました。しかし、その言葉が、神殿が持つ宗教的な権威を全否定することと解釈されたのです。

 

 そして次にこうあります。「同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」このようにあります。そしてこの次には、右と左に同じく十字架に付けられた強盗達もイエスをののしったとあります。

 

 つい数日前まではイエスに期待し、イエスを歓迎していた民衆たちがイエスをののしります。祭司長や長老たち、すなわち宗教的な中心人物の人たちもイエスをあざけります。そして、同じ犯罪者という立場の者たちからも、ののしられます。ここでは、イエス様に同情する人は一人も記されていません。なぜでしょう。それは、イエス様の弟子たちは皆逃げ去ってしまったからです。そして、イエスと弟子たちと活動を共にしていた女性の人たちは、遠くから見ているしかありませんでした。こうして、イエスは、たった一人になるのです。そして命を落とされました。

 

 さて、ここで考えてみます。主イエス・キリストはなぜ、十字架にかけられて命を落とされたのでしょうか。もちろん、その過程は福音書に記されています。当時の宗教的な権力者たちがイエスを憎み、ユダヤの律法とローマ帝国の法律を組み合わせて、イエス様をローマ皇帝への反逆者として無実の罪を着せたということによります。そして、なぜ宗教的な権力者たちがイエスを憎んだかというと、イエス様が宣べ伝えた神の国の福音の教えが、それまでの宗教的な考え方を大きく変えるものであり、それが世の中の秩序、そして宗教の秩序を揺るがすものだったからです。

 

 そうして、なぜ主イエス・キリストは十字架で死なれたのか、ということについて、当時の歴史における、政治的・社会的・法律的な経過ということはある程度説明することができます。しかし、本日、私たちがこの京北教会で礼拝をしている意味というのは、そうしたイエスの十字架の歴史的意味を知るためではありません。私たちがいま、主イエス・キリストの十字架について考えているのは、そのような勉強のためではありません。

 

 では、何のためでしょうか。その理由は、お一人おひとりで違うのだろうと思いますが、私が思うことを申し述べます。私たちが教会でイエス・キリストの十字架の話を聴く意味、そのひとつは、私たち一人ひとりの孤独ということを考えるためではないかと思います。孤独。皆様は孤独でしょうか。

 

 十字架に付けられて、民衆からも、宗教者からもあざけられ、同じ十字架に付けられた罪人たちからもののしられ、弟子たちは皆逃げていったあとの、イエスは孤独だったはずです。

 

 今日、新型コロナウイルスによる問題が全世界をおおっています。マスクをして手洗いして、あんまり出歩かず、お店も入らず、人と距離をとる、そういう習慣はかなり身につきました。インターネット上で行う会議も社会では当たり前になりました。これからワクチンはどうなるのかわかりませんが、とにかく日常を何とかしのいでいくことが、新しい日常として定着しました。

 

 そんな中で、世界的に起こっていることは、孤独ということです。それは単にひとりぼっちとていう意味ではありません。家族がいてもいなくても、孤独だ、人がまわりにいてもいなくても、孤独だと人間は感じます。コロナ問題に苦しめられている世界において、どんな形での孤独があるでしょうか。それは外から見えないことが多いのです。

 コロナ問題に不安になるだけではありません。自分の病気のこと。仕事のこと。家族のこと。人間関係のこと。過去の問題のこと。これから起こる問題のこと。などなど、たくさんの問題が、いまの社会においてはコロナ問題の陰に隠されてしまっていますが、実は、一人ひとりの人生においては、コロナ問題だけではない、無数の課題があって、それがコロナ問題と相まって、避けられない問題として迫ってきます。

 本日の聖書箇所では、イエス様のまわりには人がたくさんいます。群衆がいます。宗教の人たちがいます。同じ立場の罪人たちがいます。けれども、イエスは孤独です。

 

 本日の聖書箇所から示されることのひとつは、孤独にはどんな意味があるのか、考えてみよう、ということだと私は思います。イエス様は次の言葉で人々からののしられました。「他人は救ったが、自分は救えない。今すぐ十字架から降りてこい。そうすれば信じてやろう。」ここには、宗教というものが持っている、重い現実があります。あなたは他人に対しては立派なことを言っているが、自分ではできていないじゃないか、というあざけりです。

 そして、宗教だけではありません。一般社会においても、ごく普通のふだんの人間関係においても同じです。「他人は救ったが、自分は救えない。今すぐ十字架から降りてこい。そうすれば信じてやろう。」こうして、お前は、自分一人すら救えない人間だ、そんな弱い人間だ、というあざけりが、人間を本当に孤独にしていくのです。神を信じている人もまた、そうしたあざけりを言われて、孤独になっていきます。

 

 孤独は、闇です。救われない人間が、自分を隠すための闇です。救われないと思う人は、闇の中に居続けたほうがまだましだと思うのです。そんな人間世界に対して、聖書のメッセージは、特別な意味を持っています。それは、聖書のメッセージは、人間の孤独をいかに解消するか、ということではなくて、あなたの孤独は何のためなのか、ということだからです。本日の箇所はそのことを雄弁に語っています。イエスの十字架、すなわちイエスの孤独は、他人を救うためでありました。それは自分がしたくてしていることではないのです。自分を十字架に付けた人たちを救うための、十字架であり、孤独であり、神の救いのみわざなのです。

 

 主イエス・キリストの十字架の死は、何のためだったのでしょうか。いや、それ以前に、キリスト教は何のためにあるのでしょうか。一言では言い表せないのですが、それは、自分を救うためではなく、他人を救うためにあるのだと思います。他人を救うために、この私に与えられているメッセージが、主イエス・キリストの十字架であり、キリスト教というこことです。

 

 お祈りします。神様、私たちは孤独のうちに自らの十字架を負っています。自分の十字架だけでなく、他人が背負っている十字架のことも思うことができますようにお導きください。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。アーメン。