京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2021年3月21日(日)京北教会創立112周年記念礼拝までの降誕節の説教集

2020年12月27日(日)京北教会 礼拝説教
「星のような言葉」 牧師 今井牧夫

 聖 書 ヨハネによる福音書  1章  1〜5節 (新共同訳)

 

初めに言(ことば)があった。 

言(ことば)は神と共にあった。  

言(ことば)は神であった。 

 

この言(ことば)は、始めに神と共にあった。

 

万物は言(ことば)によって成った。  

成ったもので、

言(ことば)によらずに成ったものは何一つなかった。

  

言(ことば)の内に命があった。  

命は人間を照らす光であった。  

光は暗闇の中で輝いている。 

暗闇は光を理解しなかった。

 

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 (以下、礼拝説教)

 本日は2020年の最後の日曜日、最後の聖日礼拝となりました。先週にはクリスマス礼拝を行い、主イエス・キリストのお生まれをお祝いしました。そうして、クリスマスをお祝いしたあとに、2020年を締めくくる礼拝ができることは幸いなことです。今年もいろんなことがありました。そのなかで神様からの恵みをいただいてきたことを感謝し、来たる2021年に備えたいものです。

 

 本日の礼拝、2020年最後の聖日礼拝の聖書箇所は、ヨハネによる福音書1章の始まりの言葉です。この箇所はクリスマスなどで特に読まれることが多い箇所だと思います。この箇所には、新しい世界の到来を待ち望む祈りの心が満ちています。ご一緒に読んで参りましょう。

 

 このヨハネによる福音書においては、マタイやルカの福音書に書かれているような、主イエス・キリストの御降誕、つまりクリスマスの出来事であるイエス様のお生まれに関する物語が一つもないかわりに、今日の箇所にある神秘的な言葉が最初に記されています。

 初めに言(ことば)があった、と書かれています。この言とは、最終的には主イエス・キリストのことを指す言葉です。ですが、最初から主イエスがおられた、と書かないで、始めに言があった、と記したのは、まず最初に神様の側に、神様から出た言というものがあって、それが具体的な人間の姿となられたのが主イエス・キリストである、という考え方が、本日の箇所には書かれているのです。

 

 そのことは、いわゆる科学的な世界観のなかで言われているのではなく、当時のキリスト教の世界観のなかで、いわゆる事実ということではなく、信仰における真実、という意味で記されています。初めに言があった──これが、聖書が現代の私たちに語りかけているメッセージです。

 

 その言(ことば)という文字は、私たちがふだん使うような言葉、すなわち言(こと)と、それから葉(は)という二文字ではなくて、一文字の漢字で記されています。人間がふだん使う、言(こと)の葉、つまり木の枝から生まれる葉っぱのような意味での言葉ではなく、言葉の中心にあるもともとのもの、という意味で一文字の漢字で表現されていると考えることができます。

 

 この箇所は、実は旧約聖書の始めにある創世記の始まりの箇所の言葉を踏まえて書かれていると考えられています。創世記の始まりには次の言葉があります。「初めに神は天地を創造された。」このあと、天地創造の物語が始まります。もちろん、これは科学的な意味での事実を記しているのではなく、信仰における世界観を記しています。

 

 この旧約聖書の創世記の始めの言葉を踏まえて、ヨハネによる福音書の冒頭の言葉が書かれています。その理由は、ヨハネによる福音書の著者は、主イエス・キリスト神の国の福音を宣べ伝えたこと、そして十字架で死なれ、復活されて天に昇られた、という主イエス・キリストの御生涯は、神様がこの世界のすべてを創造されたのと同じように、神様は主イエス・キリストによって世界を全く新しくされたことである、という信仰の思いが本日の箇所にこめられています。

 

 しかし、ここで考えてみたいのです。それは、主イエス・キリストの生涯は、果たしてそれほどまでに、この世界を新しくしたことなのだろうか、ということです。イエス様がお生まれになられたことは、天地万物が造られて世界が創造されたことに比べると、はるかに小さいことと考えるのが自然だと私は思います。一人のひとの誕生ということは、もちろん素晴らしいこと、大きな意味があることですが、この世界全体ができたという旧約聖書の創世記に記されたできごとに比べると、ずっと小さなことであります。それなのに、創世記の言葉を踏まえて本日の箇所を記したのはなぜでしょうか。そこには、ヨハネによる福音書の著者の深い思いがあったはずです。その深い思いとはどんなものでしょうか。

 

 そのような問いを持ちながら、本日の聖書箇所を順に見ていきます。まず、最初に、初めに言があった、と言われます。物事の一番始めには、言があったのです。そして、この言は神と共にあった、言は神であった、と続きます。ここには、言というものと、神というものが、初めから一緒に存在していたということが書かれています。この言とは、神様の言という意味です。しかも、神様がお話された一つひとつの言葉という意味ではなくて、神様から出て、神様と全く同じ存在である何かが言と呼ばれています。

 

 そのあと、この言は初めに神と共にあった、と言われます。この世界ができる前の、一番始まりのときから、この言と呼ばれている何かが、神様と共にあると言われます。そして、さらに続きます。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった、と言われます。ここには、旧約聖書の創世記で、神様が天地創造のときに、一番始めに「光あれ」と言われて光ができたこと、そうした神様の言によって世界が誕生したことが、この言葉の背景となっています。神様が言葉を発することがなくては、世界が誕生することはなかった、また、わたしたち人間がこの世界に誕生することもなかった、ということです。

 

 その次には、言の内に命があった、命は人間を照らす光であった、と言われます。神様の言葉というものは、この世界を創造する力を持っていただけではなくて、その言葉の中に命というものがあって、この神様が創られた世界の中に生きている、一人ひとりの人間を照らす光が、その命から発せられているということです。

 

 最後にこう言われます。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

この光とは、神様が発する言葉の中に命があって、その命から出てくる光です。この光のまわりは暗闇で、そのなかで光が輝いています。そして暗闇は光を理解しなかった、と書かれています。

 この最後の言葉である、暗闇は光を理解しなかった、という言葉は不思議な言葉です。というのは、暗闇というのは、ふつうはただの真っ暗闇、何もない闇の状態を指すだけの意味の言葉です。ところが、ここでは、暗闇は光を理解しなかった、として、暗闇というものが、まるで一人の人間であるかのように表現されています。これはいったいどういうことでしょうか。

 

 こうして本日の箇所全体を読みますと、何か不思議なことが言われていて、その意味をすぐには理解できないように思います。では、この箇所の意味を理解するためには、どうしたらよいでしょうか。それは、この箇所の最後の部分から考えることが良いと、私は思います。この最後の箇所には、暗闇は光を理解しなかった、という言葉があります。実は、この言葉が、ヨハネによる福音書が書かれたことの理由になっています。暗闇は光を理解しなかった、というこのことは、主イエス・キリストの福音を、世の人々は最初は理解しなかった、ということを意味します。

 このことが実は、本日の箇所の背景となる現実です。一番最初の時代のクリスチャン、キリスト教会の人たちが直面していた現実は、これでした。世の人々は、主イエス・キリストの福音を理解しない、受け入れませんでした。この教会が直面していた現実を、暗闇は光を理解しなかった、という文学的な表現でここでは示しているのです。そして、その暗闇の中での光とは、主イエス・キリストの福音が、人間を照らす光であることを意味します。そして、その光は、神の言の中にあります。神の言とは、神様から出発して神様と全く同じ働きをする、目に見えない存在です。その神の言は、この世界の始まりのときに、神様が「光あれ」と言われたごとく、この世界を作り出す力でした。

 そして、この神の言葉というものは、一番最初から神と共にあった存在である、ということが、本地の箇所の一番最初の「初めに言があった」という言葉で表現されています。それは、言というものが、神様によって造られたものではなくて、神様と最初から共にあったものだという理解です。それは、もし言葉というものが神様に創られたものであれば、それは神様よりも下の存在ということなりますが、神の言葉とはそうではなくて、神と同じ働きをしてくださる、神様そのものであることを示しています。

 

 そこから、その神の言葉、というものが、本来は目に見えない存在であるはずの、神の言葉というものが、目に見える形で私たちのところに来てくださったのが、主イエス・キリストであり、世の人々はそのイエス・キリストを理解しなかった、ということが、この最後の言葉、「暗闇は光を理解しなかった」という言葉で表されています。

 

 こうして、本日の箇所を読みますと、ここで言われているのは、科学的な意味での世界の始まりを言っているのではなくて、非常に現実的なことを示している、ということがわかります。それは、次のようなことです。すなわち、キリスト教というのは、神を信じるの同じく、神の言葉を信じる宗教である、ということです。

 

 その神の言葉とは、まず聖書のことです。そして同時に、一人の人間としてこの世を生き、そして十字架で死なれ復活された主イエス・キリストのことです。言葉を代えて言いますと、キリストを、神の言葉の実現として信じる、ということです。それはさらに次のように言うとができます。キリスト教というのは、神を信じることと同じに、神の言葉を信じる宗教である、ということです。

 

 さて、本日の説教の最後に、そのようなキリスト教、ということをどうしたら信じることができるか、ということを考えてみます。本日の箇所は神話的で抽象的な表現がなされています。このような聖書の言葉を、もし、信じるか・信じないか、と問われたら、私たちはどう答えたらよいか、よくわからないだろうと私は思います。もし、こうした言葉を読むときに、これを科学的な事実かどうかと考えたら、これを信じるわけにはいきません。しかし、聖書のメッセージは科学的な事実の確認ではありません。そうではなくて、救い、ということが聖書のメッセージです。

 

 私たちは弱い人間であり、自分だけの力で自分を成り立たせることができない弱い存在です。そして、その弱さのゆえに、人間は罪を犯します。だから聖書では、私たち人間を罪人(つみびと)と表現します。この罪人という言われ方をされるとき、言われた人はいい気がしないでしょう。けれども、キリスト教でいうときの罪とは、いわゆる犯罪を行うこととは違います。また、嘘をつくとか悪口を言うとか、そうした道徳的な問題のことでもありません。そうしたことではなくて、自分と神様の関係がまっすぐでないことを、人間の一番の罪というのです。それがキリスト教の考え方です。その神様との関係がまっすぐでない、という一番大きな罪があるために、その他の道徳的な問題や犯罪などの問題が起こってくるということです。人間は、まず神様に対して罪人であり、それゆえに、人間に対しても人間は罪人になる、ということです。

 

 そのような罪人である私たちを、神様のほうから、神様の側に、神様が自ら取り返してくださるということが、福音書のメッセージです。すなわち、神によって人間は必ず救われるということが、この世界の始めのときから、神様の御心として決まっている、ということです。

 そのうえで、一つのことを申し添えます。本日の箇所には、光という言葉が出て来ます。人間は光を大切にしますが、同時に光に照らされることに耐えられない存在でもあります。私たちは光がある方向に行きたいと思いつつ、行けずに闇の中にとどまろうとする気持ちもあります。人間は光に憧れるけれども、その光に照らされると、自分の心の暗闇が照らされることに耐えられず、光から逃げてしまうような弱さが誰にでもあるからです。しかし、聖書が教えている光というものは、人間がそこにいることができない、まばゆい光ではありません。また、電気のスイッチを付けたらパッとついて、消したらパッと消えるような、そのときだけの人工的な光ではありません。聖書が教えている光は、遠い夜空に光っている星の光にたとえることができます。星の光は、その一つひとつの光は、いつ消えてもおかしくないぐらいに小さな光です。けれども消えることがありません。そして夜になって初めて見える光です。暗闇の中に小さく光り、いつまでも消えることがない。聖書の言葉はそのような光であり、聖書の言葉は星のような言葉です。

 

 お祈りします。
 神様、人の救いのためにお生まれになられた、主イエス・キリストの御降誕を心からお祝いいたします。2020年に与えられたたくさんの恵みに感謝します。そして、この2020年に世界中に起きたたくさんの悲しいことを思い、神様のいやしの御手が世界中に置かれるように、心よりお祈りいたします。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げします。
 アーメン。

 

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2021年1月3日(日)京北教会 新年礼拝説教

「恵みの時って何ですか」 牧師 今井牧夫

 

聖 書 コリントの信徒への手紙二 6章 1〜10節 (新共同訳)

 

 わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。

 神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。

 

 なぜなら、

 「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。

  救いの日に、わたしはあなたを助けた」

 と神は言っておられるからです。

 

  今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

 

 わたしたちはこの奉仕の勤めが非難されないように、

 どんな事にも人に罪の機会を与えず、

 あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。

 

 大いなる忍耐をもって、

 苦難、欠乏、行き詰まり、むち打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、

 純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。

 

 左右の手に義の武器を持ち、

 栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、

 好評を博するときにもそうしているのです。

 

 わたしたちは人をあざむいているようで、誠実であり、

 人に知られていないようでいて、よく知られ、

 死にかかっているようで、このように生きており、

 罰せられているようで、殺されてはおらず、

 悲しんでいるようで、常に喜び、

 物乞いのようで、多くの人を富ませ、

 無一物のようで、すべてのものを所有しています。 

 

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 (以下、礼拝説教)

 

 本日は2021年の最初の日曜日の礼拝です。この最初の聖日礼拝にあたり、聖書はコリントの信徒への手紙二の6章を選びました。この箇所には、真ん中のあたりに、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」という言葉があります。これは旧約聖書詩編の言葉の引用です。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」、この言葉は、神様の恵みが今日、来ているということ、神様の救いが今日、来ているということを示す言葉です。

 

 本日は2021年の聖日礼拝の始まりの日ですので、この日にあたって、神様の恵みが今来ている、そういう思いでこの2021年を歩んでいきたいと願って、この箇所を選びました。

 

 この、コリントの信徒への手紙は、イエス様よりも少しあとの時代に、キリスト教の伝道者として名を馳せた、パウロという人が書いた手紙です。宛先は、地中海沿岸のコリントという町にある教会の人たちでした。そのころは、各地の教会を訪ねて伝道のための旅行をするという、巡回伝道者の働きがあり、パウロはそれに従事していました。地中海沿岸各地の町に主イエス・キリスト神の国の福音を伝えて旅をしていたのです。その旅のなかで、コリントという、よく栄えた港町にある教会の人たちに向けて書き送った手紙です。

 

 このパウロは、イエス様の12人の弟子の一人ではありませんでしたが、12弟子と同じように「使徒」という特別な肩書きを用いることがゆるされていました。実はパウロは、イエス様が十字架にかけられて死なれる以前には、イエス様に出会ったことがなかった人です。パウロは、この世界を実際に生きて歩まれたイエス様の生前の姿に一度も出会うことなく、その少しあとの時期に、パウロはイエス様を自らの救い主と信じてクリスチャンになりました。

 

 もともとはパウロは、ユダヤ人の律法学者として、クリスチャンたちを迫害する立場にたって熱心に迫害の活動をしていた人です。そのパウロがクリスチャンになったのは、聖書の記述によれば、目に見えないお姿での、つまり聖霊としてのイエス様の導きによるものでした。そのときにはパウロは自分の目が見えなくなるという経験をしています。そうした経験が聖書の使徒言行録に記され、またパウロ自身が記したたくさんの手紙の中に、自らの回想という形で、自分がクリスチャンになったときのことが記されています。

 

 本日、そうしたパウロがコリントの町にある教会の人たちに対して記した手紙の一部分を、読みました。パウロがこの手紙を書いた理由は、何か用事があって事務的に書いたということではなくて、様々な思いがたくさんあって、それらがあふれるようにいろいろな言葉となって記されているようです。コリントの教会には様々な問題があり、それについてパウロは何通もの手紙を書いていたようです。ときには深い悲しみをもって厳しい言葉を記したこともあります。しかし、どのような背景があったとしても、パウロは常にコリントの教会の人たちへの深い愛情をもって手紙を書いています。それは単に自分が教会の人たちにお世話になっている御礼というだけでなく、神の愛と主イエス・キリストの十字架と復活の生涯を、教会の人たちと共有するためです。

 

 そのことが、パウロにとっては、 さきほど読みました言葉ですが、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」であるという気持ちにつながっています。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と言われるとき、それは1年の中でどこか特定の1日だけを指しているのではありません。いつかやってくる未来のどこかの日でもありません。そうではなくて、いま私たちが生きている、この現実のなかで、やってきた、今日という1日、それを神様からの贈り物として大切に受けとめるとき、その日そのときが、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」となるということです。

 

 そして、本日のこの箇所を読まれて、気が付いた方もおられるかと思いますが、この箇所の最後にある部分は、この京北教会の集会室にかけてある書、これは著名な伝道者であり社会事業家であった賀川豊彦が揮毫したものですが、その書に記されている言葉のもとになっている、聖書の言葉です。「悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」ここに書かれているのは、自分たちは、世の人々の目から見ると、だめな人に見えるかもしれないが、実は神様に守られてこんなにしっかりと生きているんだよ、という、力強い宣言です。

 

 以上のように、本日の箇所は、読む人にとって力が与えられる言葉が並んでいます。2021年の始まりにあたり、こうした聖書の言葉によって私たちは力づけられて、ここから1年間を歩み出したいと心から願います。

 

 そのうえでまず、本日の箇所の一番最初の言葉に注目します。ここには、次のように記されてています。「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」ここには、神様からいただいた恵みを無駄にしてはいけないと言われています。ここでパウロは、コリントの教会の人たちには、今まで神様からいただいてきた様々な恵みがあった、ということを前提にして記しています。この言葉を現代の私達が読むときには、コリントの教会の人たちとは時代が違うので、いま生きている私たちが、それぞれの人生のなかで神様から与えられてきた恵みというものを思い起こし、それを無駄にしない、という気持ちでこの箇所を読む必要があります。

 

 では、現代の私たちにとって、無駄にしてはいけない、神様から今までにいただいてきた恵みとは、いったい何でしょうか。もちろん、それは一人ひとり違うものであり、それぞれの人生経験の違いによって、神様からの恵みというものは千差万別であります。しかし、どんなに皆様それぞれの人生経験が違っていたとしても、共通していることというのは、神様からの恵みというものは、私たちが自分自身の努力によって勝ち取ったものではない、ということです。恵みとは、もともと私たち人間の側から考えると、さっぱり理解できないものだったはずです。恵みとは、神様の側で備えられたものであり、それが神様の知恵と力によって、私たちへと贈り物として与えられるものです。それは決して自分の力で勝ち取ったものではありません。そして、自分自身の知恵では理解できないものであります。

 

 その神様の恵みとは、具体的にはどのようなものでありましょうか。聖書から言いますと、その一番のものは、主イエス・キリストの十字架と復活の御生涯です。イエス様の十字架と復活の意味は、私たちにとって、自分の力では理解できないものです。それが、自分の中で不思議なことに、自分にとって大きな意味があるものになってくるのは、神様の聖い霊、聖霊の導きによるものです。それ以外に、イエス・キリストによる救いということを本当の意味で知ることはできません。

 そして、イエス・キリストが自分にとって救い主である、とはどういうことでありましょうか。それは、イエス様が、この私にとっての救い、ということの中心に立っていてくださる方である、ということです。

 

 もちろん、一人ひとりの人間にとって、自分自身の救いということが具体的にどんなことであるかといえば、それは千差万別のことです。みんながみんな、同じような形で人生の救いを経験して、同じようにクリスチャンになるわけではありません。人はみな千差万別であって、人の救いということもまた千差万別であります。

 

 しかし、どのような形であれ、その人が経験する救いというもののなかで、その中心に主イエス・キリストが立ってくださいます。それは、どのような形の救いであれ、それが本当の救いであるならば、それは人間と神様との間の関係がまっすぐになる、という経験だからです。聖書に記された主イエス・キリストによる救いは、まさに人間と神様の関係をまっすぐに直していく、元に戻していく、ということです。そのために、主イエス・キリストの十字架の死、そして復活の物語が聖書には記されています。

 

 そのようなイエス様の生涯を記した聖書の福音書には、イエス様と出会ったたくさんの人間のことが記されています。その人々は、イエス様に出会い、イエス様の言葉を聞いた、その日のことをとても大切に覚えていました。それがその人の救いの日だったからです。

 

 本日の聖書箇所には、こうあります。「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた。」これは旧約聖書詩編の引用です。どの人にも恵みの時がある、救いの日がある。そこには必ず神様がおられたのですよ、という意味です。そして次にこう言われています。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」あなたが神様に出会うとき、主イエス様に出会う時、そして教会に出会う時、それらはまさに恵みの日、救いの日です。

 

 もちろん、私たちが生きるこの世界には、そのように恵みの時、救いの日があるとは思えないような悲惨な現実があります。世界を見渡すときにそうでありますし、日本社会の中でもそうでありましょう。自分の人生を見るときに、心を押しつぶすようなものを感じる人は多いかもしれません。特に現在は新型コロナウイルス問題によって世界中が揺るがされています。感染の広がりを押さえることができない社会のなかで、私たちはどうなるのでしょうか。その不安のなかで私たちは本日も聖書に向き合っています。

 

 本日の箇所の最後には、こうあります。「わたしたちは人をあざむいているようで、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」

 

 ここには、聖書が私たちに示している人間観があります。それは、神を信じる人間は、外から見られているような姿が本質ではない、ということです。多くの場合、人間は、外から見われた姿でその人間性を判断されます。しかし、神を信じる人間は、神様に見られている姿こそが本当の自分であることを知っています。それは、主イエス・キリストが神様に見守られて生きられた姿を知っているからです。神の国の福音、十字架の死、そして復活。そして神様の聖い霊、聖霊を通して今もイエス様が私たち一人ひとりと共にいてくださいます。それは科学的な事実ではなく、キリスト教信仰を通した人間理解、自己理解のあり方です。

 

 本日の箇所の最後の部分に、次の言葉が含まれています。「物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」ここには、自分たちはとても惨めな人間のようであるが、実は、そのことによって、ほかの人たちを豊かにしているんだ、そのことによって、とても自分たちは豊かに生きているんだ、という、信仰の喜びが表現されています。ここには、人から見られている姿が自分の本当の姿ではなく、神様に見られている姿が本当の自分なのだ、という信仰の喜びが強く表現されています。

 

 私たちがこの世の試練に遭うとき、たまらなく辛いのですが、その苦しみを通して他の人が豊かになり、そのことによって私たちはすべてにおいて豊かである、そのように言える信仰を神様から与えられていきたいと願います。

 

 本日の説教題は「恵みの時って何ですか」といたしました。恵みの時、それは人によって千差万別です。みな同じではありません。けれども、あなたの救いの中心に主イエス・キリストが立ってくださるとき、それはいつでも恵みの時です。

 

 2021年の最初の聖日礼拝の日にあたり、まさに今日が恵みの時であり、そして、神様を信じる者にとっては、毎日が恵みの時となります。そのような1年間にしていきましょう。

 

 お祈りします。

 神様、2020年に与えられてきた、たくさんの恵みに感謝します。そして、新しく始まった2021年には、新型コロナウイルス問題を神様のいやしによって克服できますように、そのために世界中の人々が共に協力して、みなでお互いの命を守ることができますように。そして、2021年を、コロナ問題だけで終わるのでなく、人間が人間として、教会が教会として、なすべき働きができますように。特に礼拝と伝道の働きを守ってください。そして一人ひとりのご健康が守られ、健やかに日々歩めますように。病の方にいやしと平安をお与えください。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

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2021年1月10日(日)京北教会 礼拝説教

「喜んでひとつを祈る」 牧師 今井牧夫

 

 

 聖 書 テサロニケの信徒への手紙一 5章 16〜24節 (新共同訳)

 

 いつも喜んでいなさい。

 絶えず祈りなさい。

 どんなことにも感謝しなさい。

 

 これこそ、キリスト・イエスにおいて、

 神があなたがたに望んでおられることです。

 

 “霊”の火を消してはいけません。

 預言を軽んじてはいけません。

 

 すべてを吟味して、

 良いものを大事にしなさい。

 

 あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。                                

 

 どうか、

 平和の神御自身が、

 あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。

 

 また、

 あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、

 わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、

 非のうちどころのないものとしてくださいますように。

 

 あなたがたをお招きになった方は、

 真実で、

 必ずその通りにしてくださいます。

 

 

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 (以下、礼拝説教)

 

 本日、2021年を迎えて2回目の聖日礼拝となりました。今年も皆様ともに、神様を礼拝して、日々祈って、ともに歩んでまいりましょう。本日の聖書箇所は、使徒パウロが記したテサロニケの信徒への手紙です。

 

 本日の聖書箇所には、次の言葉があります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」この箇所の言葉は、いわゆる愛誦聖句として様々な人に愛されている言葉です。最初の、「いつも喜んでいなさい」という、この言葉が私たちの心に響くのでしょう。この「いつも喜んでいなさい」という言葉を聞くと、何か楽観的な気持ちが与えられる気がします。そうだ、いつも喜んでいていいんだ、神様に感謝して喜ぶことが大事なことなんだ、という前向きな明るい気持ちが与えられます。

 

 その一方で、本日の言葉に対して、少し意地悪な見方をすることもできます。というのは、人間は実際には、いつも喜んでいる、という生活をすることはできないからです。わたしたちの日常には様々なことが起こります。小さな事から大きな事まで、小さな悲しみから大きな悲しみまでは、様々なことが起こります。特に何か重大なことが起こるというのでない場合でも、人間というのは多くの場合、喜怒哀楽という感情の動きがありますから、いつも喜んでいる、ということは100%その通りにはならないものです。

 

 また、もっと意地悪な見方をすれば、いつも喜んでいる、ということの意味が、機械的にいつもそうでなければならない、ということで喜んでいることが強制されるとしたら、キリスト教を信じると、いつも喜んでいなければならない、ということは喜んでいることを演技としてお芝居としてしなければならなくなり、それは悪く言えば何かの宗教のロボットになったかのような状態をイメージされるかもしれません。それは極端なイメージなのですが、私たちは、いつも喜んでいなさい、という言葉を聞くときに、その言葉はおそらく私たちへの励ましの言葉なんだろうということはわかりますが、実際にそうである、ということはできない自分自身の日常を思い起こすのではないかと思います。

 

 それ以外にも、本日の箇所の冒頭で言われている三つのこと、いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい、とある、この最後の、どんなことにも感謝しなさい、という言葉も、この世界のなかで無数の悲しい現実があることを思うと、素直に「はい」と言えない気持ちが私たちにはあると思います。どうして、「どんなことにも感謝」なんてできるのでしょうか。辛い苦しい出来事に苦しめられている人間にとっては、どんなことにも感謝、などということは到底できません。すると本日の聖書箇所は、今日の私たちに何を語るのでしょうか。

 聖書の言葉は、今日、いまここで私たちに神様自身が、主イエス・キリストの恵みを通じて、語りかけてくださる神の言葉です。そのことに期待して、本日の箇所を番に見ていきます。

 本日の最初にある三つの言葉である、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」という言葉のあとにあるのは、次の言葉です。「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

 

 ここには、これらのことは、人間に関する一般論として、誰にでもあてはまることでなくて、神様が主イエス・キリストにおいて私たちに望んでおられることである、という事が説明されています。すなわち、これらの言葉は、神様が私たちに対して、あなたたちが、いつも喜んでいることができるような世界をみんなで造って、そのなかで生きてほしい、という神様からの願いなのです。

 

 その神様からの願いに応えて、私たちには、絶えず神様にお祈りすることが求められています。この場合の祈りとは、ただ自分の願い事を神様にお願いする、というだけの祈りではなくて、神様に感謝して自らが謙虚になって神様をたたえ、ひたすらに神様の導きを尋ね求める、という謙虚な姿勢が求められています。自分自身を世界の中心とするのではなくて、神様こそが、この世界のまことの中心であると信じて謙虚になる事が大切です。

 

 その結果として、どんなことにも感謝しなさい、という言葉を受け入れることができます。それは、この世界に起こるすべてのことに、ただわけもわからずに感謝するという意味ではなくて、この世界には嫌なこと、苦しいこと、辛いことがたくさんあるが、その現実の中でも、神様の救いの手はいつもあなたに対して備えられていることに感謝する、ということです。どんなことのなかにも、主イエス・キリストの救いが一筋の光明のようにして与えられている、そのことを信じるからこそ、どんなことにも感謝しなさい、という言葉が生きてくるのです。

 

 これは、人間が機械のようになって、ただ喜んでいる、ただ感謝している、という宗教のロボットのような人間観を言っているのではなく、神様の側が、私たちにそう望んでおられる、という、これからの可能性のことを言っているのです。つまり、人間の努力によって、いつも喜んでいる、悩みがひとつもない強い確かな人間になる、ということではなく、あなたたちは、あなたたちがなろうと思えば、神様にお祈りするなかで、そんな生活をすることができるようになるよ、という可能性の呼びかけとして言われています。すなわち、これは神様の側からの私たちへの希望なのです。その、神様からの希望を、いま聖書を読んでいる私たち自身の希望に、させていただくことが、大きな恵みです。

 

 キリスト教信仰の喜びのひとつは、神様ご自身が希望されていることを、人間でしかない私たちもまた、その希望を自分の中に持たせていただくことです。私たちは神様とは全く違う弱い小さな人間であるにもかかわらず、神様が持っておられるのと同じ希望を持つことができるのです。自分自身で作り出した希望ではなく、そのように神様から与えられる、神様が持たれる希望と同じ希望こそが、本当の希望です。これからの2021年においても、そのことを信じて、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する、その希望を、神様と共に持つことがゆるされています。

 

 しかしながら、そのように大きな恵みを聖書から教えられても、私たちはすぐにはその恵みを理解することはできません。なぜなら、私たちが生きる世界には悲しみが満ちあふれているからです。現在の新型コロナウイルス問題を考えるときに、そのことはすぐにわかります。世界には解決を見出せない困難な問題が山積みです。それが現実です。その現実に打ち勝つ力は、本日の聖書箇所にあるのでしょうか。

 

 あります。本日の箇所の中ほどに、次のように記されています。「どうか、平和の神御自身が、

あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずその通りにしてくださいます。」これらの言葉のなかには、「わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき」という言葉があります。これはどういう意味でしょうか。

 

 ここには、聖書の信仰として大切なことが言われています。それは、私たちが生きている世界がいつかその役割を果たし終えるときが来る、そのときに主イエス・キリストがもう一度この世界に来られる、という信仰です。終わりのとき、とか世界の終末といった表現で語られる、将来いつかはやってくる世の終わりの時のことを言っています。これは、新約聖書の信仰として、現代の私たちにとっては理解しがたいものでありましょうが、聖書の中でははっきりと示されていることで、キリスト教の神学においては、「再臨」という言葉で言われています。再臨、それは再び臨む、臨むというのは臨時の臨という漢字で、再臨と書きます。この世界がいつか終わりを迎えるときに、イエス様がもういちど天からやってこられる、という神秘的な信仰です。

 

 このことは、いわゆる科学的な事実としてそうなるという意味ではありません。もちろん聖書の中には、将来の預言として記されていますが、聖書の預言とは、これも漢字では預金の預、預かる言葉と書き、つまり神様からの言葉を預かって語るという信仰であり、単に未来を言い当てる予言ということとは違います。再臨ということが、科学的な事実としてどういうことであるかはわかりません。けれども、信仰における自分自身の人生の考え方として、この世界の終わりには主イエス・キリストがもういちど来られて、すべてのことに救いの光を照らしだしてくださる、ということを信じるのです。そのとき、すべてのことは神様から正しく裁かれ、正しく判断されます。そのとき、私たちの人生のすべての悲しみの涙が、神様によってぬぐわれるのです。

 

 このような再臨ということが、本日の聖書箇所の背景であることを、私たちは知らなくてはなりません。つまり、そのようにいつか主イエス様がもういちどこの世に来てくださり、私たちのすべての涙をぬぐい去ってくださる、という確信があるときにこそ、「いつも喜んでいなさい」「絶えず祈りなさい」「すべてのことに感謝しなさい」という、これらの、一見は実行不可能に見える、聖書の言葉が生きてくるのです。イエス様が必ずいつか来てくださいるという、その確かな未来というものがあるからこそ、様々な辛い現実を超越する希望をそこに見出すのです。その希望があるからこそ、いつも喜んで生きる、という言葉が、うその言葉ではなくなるのです。

 

 では、そのように「いつも喜んで生きる」生活とは、具体的には、どんな生活でしょうか。いつも喜んで生きる、そんなことが皆さんにはできますか。このことについては、皆様の反応は様々であろうと思います。様々な考え方ができるなかで、私の考えたとを少しお話します。

 

 いつも喜んで生きる、という生き方は、いつも喜びが私から離れない、という生活です。また、どんなことにも感謝する、という生き方は、どんなことにおいても神様の救いがこの私から離れない、と祈る生活です。

 

 もしも、喜び、ということも、感謝、ということも、それを自分の所有物と考えるならば、私たちはいつも喜びや感謝を所有しているわけではありませんから、いつも喜ぶ、いつも感謝する、というようなことは、普通の喜怒哀楽を持った人間にはできません。

 

 けれども、喜びや感謝ということを、私たちがモノのように所有するのではなくて、喜びはや感謝というものが、私たちのところに外からやってきて、この私から離れないでいてくれる、というのであれば、どうでしょうか。もしその喜びや感謝の気持ちが、神様の側から私たちのところにやって来てくれて、しかもそれが私たち一人ひとから離れないでいてくれたら、私たちは、とっても幸せだろうと思います。

 

 本日の説教題は「ひとつを喜んで祈る」と題しました。その理由は、本日の聖書箇所を読んだときに、自分はそんなふうにいつも喜んで生きることなんてできない、と誰でも思うだろうけれども、それはなぜだろうか、と考えたときに、それは、私たちは喜びということについて、自分がいつも喜んで生きるためには、自分にいつもたくさんの喜びが与えられるいることが必要だ、という勘違いかをしているのではないだろうか、と思ったからです。

 

 いつも喜んでいる生活、というのは、次から次へと喜びがたくさん続いていく生活、という意味ではありません。むしろ、喜びはたった一つあればいいのです。それは、神様がいつもあなたを愛してくださっている、ということです。それは、私たち人間が努力して神様からの愛を勝ち取ったことではありません。その反対に、神様の側から私たちに贈られた、クリスマス・プレゼントが私たち一人ひとりから離れずにある、ということです。その恵みが、私たちから離れずにあるがゆえに、私たちは、神様が共にいてくださる、というたった一つのことをすら、いつも喜んで生きることができるのです。 

 

 お祈りします。
 神様、2021年を、コロナ問題だけで終わるのでなく、世界の平安を祈りつつ、京北教会の礼拝と伝道の働きを行うことができますように、守り導いてください。そして一人ひとりのご健康が守られ、健やかに日々歩めますように。病の方にいやしと平安をお与えください。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げします。
 アーメン。

 

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2021年1月17日(日)京北教会礼拝説教

「きっかけ次第、人の道」牧師 今井牧夫

 

聖 書 ガラテヤの信徒への手紙 4章  8〜15節 (新共同訳)

 

 ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、

 もともと神ではない神々に奴隷として仕えていました。

 

 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、

 なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊のもとに逆戻りし、

 もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。

 

 あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。

 あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、

 あなたがたのことが心配です。


 わたしもあなたがたのようになったのですから、

 あなたがたもわたしのようになってください。

 兄弟たち、お願いします。

 

 あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。

 知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、

 あなたがたに福音を告げ知らせました。

 

 そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練となるようなものがあったのに、

 さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、

 また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。

 

 あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。

 あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、

 自分の目をえぐり出してでもわたしに与えようとしたのです。

 

……………………………………………………………………………………………………………

  

 (以下、礼拝説教)

 

 新しく2021年を迎えてから、京北教会の礼拝では、新約聖書にあるパウロの様々な手紙のあちこちから抜粋して読んでいます。それまで福音書をずっと連続して読むことが多かったので、しばらくは違ったところを読むことで、キリスト教のメッセージを新たな思いで受けとめていきたいと考えています。

 

 本日はガラテヤの信徒への手紙です。ガラテヤという名前の地中海沿岸の町にある教会の人たちに向けて、使徒パウロが書いた手紙です。その内容は、パウロが信じている主イエス・キリストが、世界のまことの救い主であるという信仰の内容を表すと共に、ガラテヤの教会の人たちの問題についてパウロがきびしく問題点を指摘して、立ち直ることを願い求めている、そういう内容です。

 

 ガラテヤの教会の人たちが直面していた問題というのは、ごく簡単に説明しますと、主イエス・キリストへの信仰から心が離れて、昔に自分たちが信じていた考え方に戻りつつあったということです。昔の自分たちの考え方とは、その土地に土着の異教の神への信仰であったり、あるいは、昔のユダヤ教の律法主義の信仰、そういった昔に信じていたこと、へと信仰の気持ちが戻ってしまつているということでした。しかも、それはなんとなくそうなったのではなくて、ガラテヤの教会の中に入り込んできた人たちが、そのような影響を与えたためだったのです。パウロは、そのようなガラテヤの教会の人たちの様子を悲しく思い、立ち直らせようとしているのでした。

 

 本日の箇所の最初には、次のようにあります。「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、

もともと神ではない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊のもとに逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。」

 

 ここには、あまり具体的なことは書かれていませんが、天体の動きと人間の人生に関係があると考える、土着の宗教らしき考え方にガラテヤの人たちが影響を受けている様子がうかがえます。そのことは、パウロの目から見たときには、単に昔の考え方に戻ってしまったというだけではなくて、主イエス様を自分の救い主と信じることによって、様々な宗教的な律法、決まり事から解放されて、自由な考え方ができるようになったのに、その自由を捨てることに思えたのです。

 

 主イエス様の神の国の福音は、人間に救いをもたらすものです。その救いは、宗教の決まり事を守ることによって与えられるのではなく、人間がただ神の愛を信じて、それを受け入れ、悔い改めて、神様との関係をまっすぐに直すことによって、救われるというものです。人間は、自らの努力によって宗教の決まり事を守る生活をすることで、救われるわけではありません。ただ神様の愛を信じ、それを受け入れることによって救われるのです。それが主イエス・キリストの神の国の福音です。

 

 しかし、ガラテヤの教会の人たちは、いつしか、その福音から離れてしまっていたようです。どうしてでしょうか。その原因が何であったか、はっきりとしたことは言えませんが、人間は誰しも、何か確かなものがほしいと思うときに、自由に生きることよりも、何かの決まり事を守るほうに確かなものを感じることがあるのです。しかも、それが具体的にまわりの人間がみんなそうしている、というようなことがあれば、自分も周囲の人たちに合わせて同じようにすることで安心感を感じることもあったのでしょう。

 

 そのようなガラテヤ教会の人たちの様子は、現代日本社会に生きている私たちにとっても、遠いことではありません。いや、どの時代であれ、どの世界であれ、本当の意味で自由に生きること、自分としての確信を持って自由に生きる、ということは難しいことだと思います。それまでの習慣、ものの考え方、まわりの人たちの生き方、その町の文化・習俗など、人間の周囲を取り巻いている様々なことが、一人の人間の生き方に影響を与えて、結局はもともとの古い考え方に引き戻される、ということが、いつの時代の人間にもあります。人間は弱い存在です。

 

 その弱い存在である人間に対して、本日の聖書箇所でパウロは、かなり厳しい言い方をしています。そして同時に、パウロはここで、非常に真剣に、自分の弱さをさらけ出しながら、ガラテヤの教会の人たちに、本当の信仰とは何であるか、ということを強く語っています。

 

 パウロはまず次のように言います。「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。」ここには、かつてパウロがガラテヤの町でキリスト教を伝道したときに、パウロが人々の中に入っていき、ガラテヤの町の人たちの考え方に自分を合わせる努力をしたことが言われているのだと思われます。おそらくパウロは、このときに自分自身の思いを捨てて、相手の気持ちに合わせることを最優先にして、人々の中に入って、主イエス・キリストの福音を伝えたのでしょう。相手の身になって伝道する、ということがパウロの信条だったのです。

 

 そして、その次に以下のようにパウロは言います。「あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練となるようなものがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。」

 

 ここには、ガラテヤ教会の人たちが、パウロを暖かく受け入れて、パウロが語る主イエス様の福音のメッセージを心から受け入れた様子が記されています。

 そして、同時に、パウロ自身の心の内面のことがここで記されています。パウロが、主イエス・キリストの福音、すなちわキリスト教を人々に宣べ伝えるようになったのは、自分の体が弱くなったことがきっかけだったと、ここで明言しています。

 

 そしてさらに、その病気によって、パウロの身体には、人々から見て試練となるようなものがあったとパウロ自身の言葉で明言されています。この、人々にとって試練と思われるようなもの、それはおそらく何かの病気か障害であろうと考えられます。そうしたものがパウロの体にはあったことがと思われますが、それが具体的に何であったかは記されていません。新約聖書使徒言行録やほかのパウロの手紙などを見ても、このパウロの病気または障がいというものが何であったかということは具体的にはどこにも書かれていません。

 

 推測される一つの可能性は、目の病気ということです。それは、パウロが回心する出来事があったときに、パウロが一時的に目が見えなくなったことが使徒言行録やパウロの手紙に書かれているからです。そして、それが何であったとしても、ガラテヤの教会の人たちは、その病気または障がいによって、パウロをさげすんだり嫌ったりするのではなく、かえって神の使いであるかのように、またキリスト・イエスであるかのように、受け入れてくれた、とあります。パウロはここで感謝をこめて、かつてのガラテヤ教会の人たちの様子を述べることで、ガラテヤの教会の人たちのかつての暖かい気持ち、篤い信仰というものを思い起こさせようとしています。

 

 さらにパウロは次のように言います。「あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してでもわたしに与えようとしたのです。」この、自分の目をえぐり出してでもわたしに与えようとした、というのは強烈な表現ですが、それはパウロが自分の目に病気があって苦しんでいたので、人々が自分の目をかわりにパウロにあげたいと思うほどに、人々がパウロのことを思ってくれていたことを、思い出させようとしています。

 

 それは、言葉を代えて言うと、かつてはガラテヤ教会の人たちは、自分自身を犠牲にしてでも神様を信じて、神様のために仕えたい、と思っていたということです。その自己犠牲の精神があったからこそ、人の目から見たときに試練だと言われるような、病気あるいは障がいを持つパウロを、ガラテヤ教会の人たちは、さげすんだり嫌ったりすることなく、心から受けとめて、パウロが語るキリスト教を信じていたのです。

 

 本日の聖書箇所では、パウロは、自分の体が弱くなったことがきっかけで、キリスト教を伝道するようになったことがパウロ自身の言葉で言われています。そしてまた、ガラテヤ教会の人たちが、自分の目をパウロに与えてもよいぐらいに、真面目な自己犠牲の精神を持っていたことがわかります。そのような、自分自身の弱みをもったパウロと、自己犠牲の精神を持ったガラテヤ教会の人たちが出会ったときに、本当の信仰の交わりが生まれ、信仰が確かなものとして大きな喜びを生み出していたことが、本日の箇所からよくわかります。

 

 さて、ここで本日の箇所に関連する話をします。本日の1月17日は、今から26年前の1995年に阪神淡路大震災が起こった日です。私は、その震災が起こる前の年まで神戸の三宮の教会に住んで働いていましたので、強いショックを受けました。

 震災が起こって1ヶ月後、神戸に行って一週間のボランティアをすることができました。まず大阪に行って1泊してボランティアの申請をして、その次の日から兵庫県の芦屋市に行き、芦屋岩園教会という教会に寝泊まりして、地域に食事や水を配るボランティアに携わりました。現地は、ここで本当にたくさんの人々が死んだのだ、というものすごい恐怖感を感じる現場でした。

 

 その現場に立ったときの辛さを思い出すと同時に、私はいま思い出す言葉があります。それは、震災ボランティアをした一週間の中で、現地の方から聞いた次の言葉です。「ボランティアでやって来る人たちが共通して持っているものがある。それは、神戸の人たちはこんなひどい目にあったのに、自分はそのひどい目にあっていない、ということに後ろめたい気持ちを持っている。しかし、そんな気持ちは持たなくてよい。なぜなら、何の意味もないからだ。」そんな言葉を現地の方から聞きました。そうなのです。自分は被害を受けていないからうしろめたい、なんていう気持ちは、現地では何の意味もありません。必要なことは後ろめたさではなく、自由な気持ちでボランティアを行うことです。暗い、後ろめたい気持ちから解き放たれて、自由に生きることです。

 

 主イエス・キリストの神の国の福音とは、実は、そのような価値観です。宗教の決まり事、律法によって人の心も生活も制約して、つらい義務を課して、そのことで神に救われようとすることは間違っているのです。それは、人間の心に、宗教によって後ろめたさを作り出して、そのことで人間を機械的に正しく導こうとすることだからです。それでは、人間は決して救われません。

 

 本日の聖書箇所では、パウロははっきりと言っています。自分がキリスト教を伝道するようになったのは、体が弱くなったからであると。本日の説教題は「きっかけ次第、人の道」と題しましたのは、このことからです。深い信仰を持ちたいからとか、立派な人になりたいからとか、そんなきっかけではなくて、体が弱くなったから、クリスチャンになり、伝道者になったのです。そして、ガラテヤ教会の人たちは、かつて、そのようなパウロの弱さから様々なことを教えられたことによって、主イエス・キリストを自らの救い主として受け入れました。そこには、弱いときこそ人は強い、という、キリスト教信仰の喜びが現れています。

 

 そして、パウロはここで言っています。あなたたちはかつて、自分の目をえぐり出してでも私にくれようとしたのだ、と。それは、かつてのあなたたちは、人の弱さを自分のこととして受けとめて、自分で考えて連帯しようとする心を持っていた、ということです。パウロはそのことをガラテヤ教会の人たちに思い出させようとしています。これは、いまこの時代を生きている私たちにも届く言葉です。キリスト教は、人間の強さではなく、弱さにおいて神を見出して、弱さにおいて自由に連帯し、自由に自らを献げて生きる生き方です。それは宗教の後ろめたさから解放された、自由な生き方です。

 

 お祈りします。

 神様、26年前には阪神淡路大震災に苦しみ、今は新型コロナウイルス問題に苦しんでいる世界に、主イエス・キリストのように自由に生きる力をお与えください。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

 

……………………………………………………………………………………………………………………………………2021年1月24日(日)京北教会礼拝説教

「平和、へだてなき心の力」 牧師 今井牧夫

 聖 書 エフェソの信徒への手紙 2章  14〜22節 (新共同訳)

 

 実に、キリストはわたしたちの平和であります。

 

 二つのものを一つにし、

 ご自分の肉において敵意という隔(へだ)ての壁を取り壊し、

 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。

 

 こうしてキリストは、

 双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、

 十字架を通して、

 両者を一つの体として神と和解させ、

 十字架によって敵意を滅ぼされました。

 

 キリストはおいでになり、

 遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、

 平和の福音を告げ知らせられました。

 

 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、

 御父に近づくことができるのです。

 

 従って、

 あなたがたはもはや、

 外国人でも寄留者でもなく、

 聖なる民に属する者、神の家族であり、

 使徒預言者という土台の上に建てられています。

 

 そのかなめ石はキリスト・イエスご自身であり、

 キリストにおいて、

 この建物全体は組み合わされて成長し、

 主における聖なる神殿となります。

 

 キリストにおいて、

 あなたがたも共に建てられ、

 霊の働きによって神の住まいとなるのです。

 

……………………………………………………………………………………………………………

 

 (以下、礼拝説教)

 

……この回は原稿を作成できず。

 

 

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 2021年1月31日(日)京北教会礼拝説教

「信じる本国は天にあり」 牧師 今井牧夫


 聖 書 フィリピの信徒への手紙 3章  12〜21節 (新共同訳)

 

 わたしは、すでにそれを得たというわけではなく、

 すでに完全な者となっているわけでもありません。

 

 何とかして捕らえようと努めているのです。

 自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。

 

 兄弟たち、わたし自身はすでに捕らえたとは思っていません。

 

 なすべきことはただ一つ、

 後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、

 神がキリスト・イエスによって上へ召して、

 お与えになる賞を得るために、

 目標を目指してひたすら走ることです。

 

 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、

 このように考えるべきです。

 しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、

 神はそのことをも明らかにしてくださいます。   

 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。

 

 兄弟たち、皆一緒にわたしにならう者となりなさい。

 また、あなたがたと同じように、

 わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。

 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、

 キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。

 彼らの行き着くところは滅びです。

 彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、

 この世のことしか考えていません。

 

 しかし、わたしたちの本国は天にあります。

 そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、

 わたしたちは待っています。

 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、

 わたしたちのいやしい体を、

 ご自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるのです。


……………………………………………………………………………………………………………

 (以下、礼拝説教)

 

 2021年に入ってから、京北教会の礼拝では新約聖書の後半に収められている、様々な種類の手紙の内容を抜粋して、皆様とともに読んでいます。本日の箇所はフィリピの信徒への手紙です。当時の地中海沿岸のフィリピという町にある教会の人たちに向けて、使徒パウロが記した手紙です。このフィリピの信徒への手紙は、別名、喜びの手紙とも言われています。それは、この中に、「喜び」という言葉がよく使われているからです。「わたしは喜ぶ」「あなたたちと共に喜ぶ」といったようにです。パウロにとって教会は喜びの源でした。神様を信じる信仰をもって、たくさんの仲間たちと共に生きる喜びをもたらすのが教会でした。パウロは、教会において主イエス・キリストを中心としてみんなが歩んでいく、ということが一番の喜びでした。

 

 そのような喜びをもって、フィリピの町にある教会の人たちに対して様々なことを伝えているのが、フィリピの信徒への手紙です。本日の箇所は3章です。この箇所の最初には、次の言葉があります。「わたしは、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。」このようにあります。ここでパウロが「それ」と呼んでいるもの、つまりなんとかして捕らえようと努めているものとは何でしょうか。

 

 それは、本日箇所の直前のところに書かかれています。本日のプリントには印刷していませんのでお読みいたします。3章8節の後半からです。「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」

 

 少し長い箇所を読みましたが、ここでパウロが自分が得たいと思っている事柄が三つの言葉言葉で示されています。一つ目は、キリスト。二つ目は、神から与えられる義。これは人間の正義ではない神様の正しさという意味です。そして、三つ目は、キリストの復活の力というとです。これら三つの言葉はバラバラに理解すべきではないので、一つのまとめると、主イエス・キリストによる人間の救いということができます。

 

 使徒という呼び名で、神様に仕える仕事としての伝道者をしていたパウロにとって、一番自分が求めているものは、神様によって自分が救われるということでした。パウロは、自分が神様に救われたということを確信しながら、さらに、その確信を追求して生きました。人生のある一時期に神様に救われた、というだけで終わらずに、その生涯をかけて、神様による人間の救いとはどういうことであるかを、探求し続けました。それは単に自分の救いのためだけではなく、自分以外のたくさんの人間にとっての救いということを求めることでもありました。
 

 パウロはそのような伝道者として一生求道する生き方をしました。その理由をパウロは本日の箇所で、「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と表現しています。自分の願望によって神の救いを探求するのではなくて、イエス・キリストがこの私をつかえまて守って導いてくださったからこそ、神を信じ、主イエス様を信じるのだという、強い確信が表れています。主イエス様によって自分が捕らえられているからこそ、自分はイエス・キリストを世の中に伝道するのだという、強い確信です。

 

 それと同時にパウロは、次のようにいっています。「兄弟たち、わたし自身はすでに捕らえたとは思っていません。」つまり、パウロは神様による救いということを、まだ完全には捕らえていないということです。そして、その次にこう続けています。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」

 

 ここには、迷いがないパウロの姿があります。いまの自分は、神様の救いにあずかる者としてまだ完全ではないから、自分がこれからなすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のもの全身を向けて、目標である神の救いを目指して、ひたすら走ることだ、と言っているのです。

 

 そして、本日の箇所の後半では、次のようにパウロは言っています。「わたしたちの本国は天にあります」。ここには、自分たちクリスチャンの帰るべきところは天の神様のところなのだ、ということです。その天に帰るべき時が来るときまで、神様による救いということを尋ね求めて、この地上での人生を最後まで走り通していきたい、そのようなパウロの気持ちが本日の箇所に表れています。

 

 本日の説教題は「信じる本国は天にあり」としました。この言葉、さきほどの聖書の言葉、「わたしたちの本国は天にあります」からとっています。自分が所属する国というものは最終的には天の神様のところにあるのだ、という意味です。

 

 これは、単に自分が死んだら天国に行くのだ、というだけの意味ではありません。私たちはふだんの生活の中では国というものに所属して、その中で生きていますが、人間が造り出した国というものにしばられて死んでいくのではなく、本当は神の国というものに所属しているがゆえに、私たちは本当は自由なのだ、人間が造り出した国に所属するのはこの地上を生きている間の限定的なものであって、本当は神様の国こそが、わたしたちの最終所属、本国なのだ、という思いがこの「わたしたちの本国は天にあります」というパウロの言葉に表れています。

  

 私たちは本当は自由なのだ、という解放された思いが、このパウロの言葉から伝わってきます。そして、この解放感というものが、まさにパウロにとって大きな喜びであり、その喜びがあるからこそ、パウロは「後ろのものを忘れて、前のものに全身を向けつつ、目標を目指してひたすら走る」と言っているのです。

 

 本日の聖書箇所には、比較的有名な聖書の言葉が3箇所あります。その一つは前半にある次の言葉です。抜粋すると次のようです。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」。ここには、信仰というものは、ひとつの考え方に留まって何も変わらないということではなく、常に全身を前に向けて進んでいく姿勢であるということが示されています。

 その次には、今日の箇所の半ばにある言葉です。「あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」ここには、他の人と考え方が違っていても構わないので、それぞれに自分が到達したところに基づいて進んだらそれでいいんだ、という寛容な心が言われています。

 

 最後に、後半にある言葉です。「わたしたちの本国は天にあります。」この言葉は、私たちの京北教会の納骨堂に刻まれている言葉でもあります。「わたしたちの本国は天にあります」、この言葉は、私たちがこの地上にあって旅人であることを示しています。最終的には私たちの所属は、地上の国ではなく神様の国にある、ということです。このことは、この地上における生活において、私たちが最終的に従うべき基準は神様にあるということを知ります。

 

 こうして、本日の箇所は、聖書の豊かな御言葉がいくつも収められている箇所であると言えます。これらの言葉から、今日の現代日本社会に生きている私たちは、何をメッセージとして聴き取るのでしょうか。それは一人ひとり違うことではありますが、私は、本日の説教の準備にあたって、このフィリピの信徒への手紙が、長いキリスト教の歴史の中で、別名「喜びの手紙」と表現されてきたことに着目しました。すなわち、本日の箇所には、神を信じる信仰、そして主イエス・キリストを信じる信仰の、喜びというものが詰め込まれている、というように考えたのです。

 

 今日の私たちにとって、神様を信じる喜びとは何でしょうか。それは一言では言えないことだと思います。というのは、私たちはふだんの生活の中では、自分の生活で手一杯で、そんなに神様、神様、といって生活していないからです。ふだんの生活の中では、うれしいこともあれば悲しいこともあり、いろいろなことがあります。そして、時間に追い立てられるような面もありますし、逆に、自分がいま何をしたらよいかわからない、というような不安に追い足られる面もあるでしょう。人間一人ひとり、それぞれの生活が全く違うなかで、神様を信じる喜びとは何でしょうか。

 

 本日の聖書箇所にある言葉から、そのことを考えてみます。パウロは言います。「わたし自身は、すでに捕らえたとは思っていません」と。神の救いというものを、実は私はまだ、しっかりと捕らえるほどにはわかっていないんだ、という告白です。神様を信じる信仰の喜びの一つが、ここにあります。すなわち、神様をわかっていないのだ、ということを正直に告白してよい、ということです。わかっていないのにわかっているかのように、お芝居をしなくてよいのです。正直に生きたらよいのです。

 

 そして、そのうえで、「後ろのものを忘れ」「前のほうに全身を向けて」「走る」とあります。自分の人生を、主イエス・キリストが示される方向に、自分なりに一生懸命に走っていくのだ、そのとき、過去のことは忘れて、これからを生きるのだ、ということです。つまり過去というものに縛られて生きるのではなく、前を向いて生きてよい、ということです。

 

 もちろん、私たちにとって過去というものは大変大切なものです。思い出は尊いものです。けれども、思い出というものは、単に過去の歴史の中にあるだけではなく、実は今を生きている私たちの心にいつも共にあり、あたかも今がそのときであるかのように、私たちの今とこれからの人生に付き添ってくれるのが、本当の思い出です。それは、今から前を向いて走る、というときに、過去に共に生きた方々とも一緒にここから前を向いて走って行く、という気持ちです。

 

 そして、次の言葉があります。「あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」ここには、他の人と自分を比較しなくてよい、という喜びがあります。信仰ということにおいても、他の人と自分は違っていてもよいのです。大切なことは、自分なりに前に進むことです。

 

 そして、さらにこの言葉があります。「わたしたちの本国は天にあります。」この言葉が、神様を信じる喜びの根拠となります。わたしたちが生きている人生の所属は、最終的には天の神様のところにあります。人間が造り出した地上の国から救い出されて、神の国において私たちのすべての悩み苦しみ、痛み悲しみから救い出されます。それは単に、死んだあとに天国に行けば幸せになるから、この地上の生活では我慢して生きなさい、というような民衆のアヘンのような、麻薬のような考え方ではなく、人生の最終決着は神様にお任せしてよいのだ、という潔い生き方を表しています。

 

 本日の説教の最後に、主イエス・キリストの言葉をご紹介いたします。ルカによる福音書13章18節の言葉です。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭にまくと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」

 

 からし種、とはとても小さな種のことです。それが土にまくと成長して大きな木のようになるそうです。神様を信じる喜びというものは、そのように、もともとはごく小さなもの、目に見えないほどのものです。言わば、大したことがないと思えるものです。もとは、気にも止めなかったことです。しかし、それが自分でも知らないうちに成長します。自分自身の心のなかで。あるいは、人と人との間において、見えないところで、神の国が成長します。イエス様はそのように仰いました。私たちの本国は、そのようなところにあるのです。

 

 お祈りします。
 神様、コロナ問題の緊急事態宣言の中を生きる、すべての人に神様の守りといやしをお願いいたします。悲しみと向き合って生きるすべての人に、神の国の恵みがありますように。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げします。
 アーメン。

 

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2021年2月7日(日)京北教会礼拝説教

「故郷への帰り道」 牧師 今井牧夫

 

 聖 書 ヘブライ人への手紙 11章 1〜3節、8〜16節 (新共同訳)

 

 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。

 

 信仰によって、わたしたちは、
 この世界が神の言葉によって創造され、従って目に見えるものは、
 目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」

                  (以上、ヘブライ人への手紙 11章 1〜3節)

 信仰によって、アブラハムは、

 自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、

 これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。

 

 信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、

 同じ約束されたものを共に受け継ぐ者である
 イサク・ヤコブと一緒に幕屋に住みました。

 アブラハムは、
 神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。

 

 信仰によって、不妊の女サラ自身も、

 年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。

 約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。

 それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、

 また海辺の数え切れない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。

 

 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。

 約束されたものを手に入れませんでしたが、

 はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、

 仮住まいの者であることを公に言い表したのです。

 

 このように言う人たちは、
 自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

 もし出て来た土地のことを思っていたのなら、
 戻るのに良い機会もあったかもしれません。

 ところが実際は、彼らはさらにまさった故郷、
 すなわち天の故郷を熱望していたのです。
 

 だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。

 神は、彼らのために都を準備されていたからです。」

           
              (以上、ヘブライ人への手紙 11章 13〜16節)

 

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 (以下、礼拝説教)

 

 2021年に入ってから、京北教会の礼拝では新約聖書の後半に収められている、様々な種類の手紙の内容を抜粋して、皆様とともに読んでいます。本日の箇所はヘブライ人への手紙です。この手紙は、新約聖書に収められた他の手紙とはかなり違った性質を持っています。それは、まずヘブライ人への手紙は、特定の教会の人たちに向けて書かれたものではないということです。コリントの信徒への手紙や、テサロニケの信徒への手紙のように、どこかの地域にある特定の教会の人たちに向けて書かれたのではなく、幅広くいろんな人に読んでもらうために書かれています。

 

 書名につけられたヘブライ人という言葉は、イスラエルを含めて、古くからイスラエルに関係する広い地域に生きている、様々な民族の人たちをまとめて指す言葉です。ヘブライ人への手紙においては、特定の国の人のことではなく、旧約聖書の内容を知っている、かなり幅広い人たち全体を指していると考えられています。そして、ヘブライ人への手紙の内容は、いわゆる手紙というよりも神学論文といったほうがふさわしいものです。主イエス・キリストを信じる信仰に基づいて旧約聖書はの様々な物語が引用され、旧約聖書が正しいのだから主イエス・キリストを信じる信仰が正しい、と教えている神学論文のような内容です。

 

 おそらく、このような手紙は、キリスト教会が誕生して成長していく初期の時代において、各地の教会において回覧され、礼拝の中で朗読され、この手紙によって主イエス・キリストを信じる信仰を学んでいたのだと思われます。そして今日の私たちもまた、本日の礼拝において、最初のころの教会と同じようにこの手紙を読み、神様の御言葉を心に受けとめることができるのです。

 

 では、本日の箇所には何が書いてあるのでしょうか。本日の箇所はプリントでは、2箇所を抜粋して並べて印刷しています。同じ11章の続きの文章なのですが、すべて読むと長いので中ほどの一部を少し割愛していますことをご了解ください。

 

 まず最初の部分を見ますと、次のように記されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」こうして、神様を信じる信仰というものが何であるかが教えられています。望んでいる事柄、見えない事実、それは人間にとってまだ実現していないこと、あるいはまだ実際に見ていないことを、確かなものとして実感することということができます。

 

 そして、なぜそのように言えるかというと、次の言葉の通りです。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って目に見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」ここでは、この世界が神様によって造られた、という旧約聖書の創世記の物語が背景にあって語られています。私たちが生きているこの世界は、ただなんとなく存在しているのではなくて、神様が創造されたというのが聖書の信仰です。旧約聖書の創世記にはそのことが古代の神話的な物語の形で記されています。もちろんそれは、科学的な事実とか歴史的に実際にその物語通りにことが宇宙で起こった、ということを意味するのではなく、神様を信じる気持ちの中において、この世界が持っている意味を表しているものです。

 

 この世界が持っている意味、それは人間が自らの存在の意味を知ることにあります。人間はこの世界がそうであるのと同じように、神様が命を与えてこの世界に中に生かされている存在です。この世界は、なんとなくもともとから存在しているのではありません。神様の御心があって、初めてこの世界が造られ、そして私たちもこの世界の中で、神様の御心によって存在し、神様から自由を与えられて生きています。

 

 そのような私たちの人生の土台となる、世界についての考え方というものは、目に見えない事実というものです。神様の存在は目に見えませんから、神様が創られた世界に私たちは生きている、というこの聖書に基づく考え方は、目に見える何かで証明されるものではありません。そうではなくて、私たち人間が、自分自身の生活の中で神様から与えられる実感です。

 

 そして、本日の聖書箇所では、その次の箇所においてこう言われています。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」ここの部分からあとは、旧約聖書の創世記のなかに記されている、アブラハムという人の物語が要約される形で、信仰に生きた歴史的な人物を通して、信仰とは具体的にどんなものであるかが教えられています。

 

 アブラハムというのは、イスラエルの人たちにとって、自分たちの民族の父としている人物でした。旧約聖書の創世記に登場する非常に重要な人物です。このアブラハムの子どもがイサクであり、イサクの子どもがヤコブです。出エジプト記では、神様を表す言葉として、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という言葉があります。それは、イスラエルの歴史の一番最初のころの三代にわたる一族を、世代を越えてすべて導いてくださった神様、という意味があり、つまりは人間の心の中で作り出した空想の神様ではなくて、長い歴史の中において、はるか昔に、自分たちの先祖に実際に働きかけて、助け、救ってくださった本当の神様、という具体的なイメージが、この「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という言葉にこめられているのです。

 

 しかし、このような旧約聖書アブラハムの物語は、今日の現代日本社会に生きている私たちにとっては、縁遠いものに思われるかもしれません。というのは、アブラハムもイサクもヤコブも、私たちにとって自分の先祖ては思えない人たちであり、アブラハムたちはあくまで聖書の登場人物でしかない、そのように思えるからです。けれども、キリスト教が教えている信仰というものは、旧約聖書新約聖書を合わせて一冊の聖書と考える信仰です。つまり、新約聖書において主イエス・キリストが、旧約聖書の信仰を完成させてくださったという信仰です。

 

 その信仰に基づいて考えますと、旧約聖書に登場するアブラハムやイサク、ヤコブをはじめ、ヨセフやモーセ、またエリヤやイザヤやエレミヤといった預言者たちは、どの人も、今日の私たちから遠くへだたった時代と地域に生きていた人たちでありますが、主イエス・キリストが私たちと旧約聖書預言者たちとの間に立ってくださることによって、生きた時代や地域、国や民族がどんなに違っていても一つにつながることができます。

 

 それは、いま聖書を読んでいる私たちが、聖書を通して主イエス・キリストへの信仰に目が開かれることで、主イエス・キリストだけではなく、聖書に登場するアブラハムなどたくさんの人たちが、今日の日本社会に生きる私たちにとってもまた、共に聖書の神様を信じる仲間であると知ることであります。

 

 本日の箇所では、アブラハムについて次のように語られています。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」ここには、アブラハムが行く先を知らないままに神様に導かれて旅に出発したことが書かれています。

 

 そして、その次にはアブラハムの妻サラのことが次のように記されています。「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数え切れない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。」このように聖書の物語を引用することで、サラという一人の女性の信仰について記しています。

 

 そしてさらに、次のように続きます。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」ここには、神様を信じる人間の人生は旅であり、この世界は私たちの仮住まいの地であることが示されています。

 

 さらにこう言われます。「このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らはさらにまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。」

 

 本日の説教題は「故郷への帰り道」と題しました。この言葉は、本日の箇所にあります「天の故郷」という先ほど読みました箇所にある言葉からとっています。私たちにとって、最後に帰るべき故郷は天にあるということです。私たちの人生はいま、天の故郷への帰り道の中にあります。

その帰り道をどんなふうに歩いていくかが、それぞれに神様から与えられた課題です。

 

 本日の箇所の最後には、こうあります。「だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」このように、私たちが最終的に帰る天の故郷においては、神様が私たちを迎えてくださるための都が準備されています。そのところにおいて、私たちの人生のすべてが報われて、すべての涙がぬぐわれて、すべての痛み苦しみがいやされます。本日の聖書箇所は、このようにして締めくくられています。

 

 では、私たちは本日の箇所において、何を学んだでしょうか。

 故郷、ふるさとということについて、私たちはそれぞれに考えることが違います。そのなかで私が考えたことをお話します。それは、ふるさとというのは、そこに誰かがいるということです。単に自分が生まれ育った土地というだけであれば、そこに故郷といえるものがあるのだろうかと思うのです。

 

 もちろん、その土地にある自然の光景、そこにあった山や海や川や、そして人間がすんでいる町の様子、家の様子、近所の様子、どれもが心の中で故郷になっています。けれども、自分を知っている人がもうそこに誰もいないという場合に、そこはなつかしい故郷とはいえ、心の渇きを感じるのではないかと思います。

 

 本日の聖書箇所を読むときにも、こう思います。いくら天のふるさとと言ったところで、そこに私を知っている人が誰もいなかったら、それは寂しい故郷ではないだろうか、と。天の故郷には、必ず、私を待っている方がおられるはずなのです。

 

 では、天の故郷には誰がいるのでしょう。自分自身の家族がそこにいてほしいという気持ちもあります。けれども、家族というのは、どの土地に自分が移り住んだとしても、自分の心の中から消えることはありません。いつも共にあります。すると、私たちが故郷に帰ったときに、そこでしか会えない、そこでしかお会いできない、という方は誰でしょうか。

 

 聖書的にいえば、天の故郷で私たちがお会いする方、それは神様であり、また主イエス・キリストであります。私たちがまだ直接お会いしたことがない神様やイエス様がいてくださいます。そのように考えるときに、本日の聖書箇所において天の故郷というときに、それは単に懐かしい場所や空間、自分が元々いたところ、とか自分が本来帰るべきところ、という意味だけではなくて、自分がまだ直接にはお会いしたことがない神様や主イエス様と出会う場所、という意味が含まれています。

 

 すると、天の故郷というのは、自分の中の単なる郷愁、ノスタルジーのなかでの空想的なお話ではなくて、天の故郷というものは、自分がまだ出会ってない自分の可能性ということを示している言葉だと思います。それを目指して地上の人生を生きるとき、天の故郷というのは、単なるノスタルジー、昔を懐かしむ想像のお話ではなく、自分に残されている地上の現実の人生において、新たな生きがいをもたらす、力強いメッセージであります。

 

 お祈りします。
 神様、私たちはいま、コロナ問題の緊急事態宣言の中を生きています。この時代に生きる、すべての人に神様の守りといやしをお願いいたします。悲しみと向き合って生きるすべての人に、天の故郷を目指して生きる恵みが与えられますようにお願いをいたします。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

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 2021年2月14日(日)礼拝説教

「神は愛なら、人は何だろう」牧師 今井牧夫

聖 書 ヨハネの手紙1 4章 7〜21節 (新共同訳)

 

 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。

 愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。

 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。

 

 神は、独り子を世にお遣わしになりました。

 その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。

 ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。

 わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、

 わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。

 ここに愛があります。

 

 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛してくださったのですから、

 わたしたちも互いに愛し合うべきです。

 

 いまだかつて神を見たものはいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。神はわたしたちに、ご自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることがわかります。

 

 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。

 

 神は愛です。

 愛にとどまる人は、神の内にとどまり、
 神もその人の内にとどまってくださいます。

 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、
 裁きの日に確信を持つことができます。 

この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。

 愛には恐れがない。

 完全な愛は恐れを締め出します。

 なぜなら、恐れは罰を伴い、

 恐れる者には愛が全うされていないからです。

 

 わたしたちが愛するのは、
 神がまず私たちを愛してくださったからです。

 「神を愛している」と言いながらきょうだいを憎む者がいれば、
 それは偽り者です。

 目に見えるきょうだいを愛さない者は、
 目に見えない神を愛することができません。

 神を愛する人は、きょうだいをも愛すべきです。

 これが、神から受けた掟です。

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 (以下、礼拝説教)

 

 この回は原稿を作成できず。

 

 

 

 

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2021年3月21日(日)京北教会創立記念説教
「教会は岩の土台、風の心」牧師 今井牧夫

 

聖 書 マタイによる福音書 16章 15〜26節 (新共同訳)

 

 イエスが言われた。

 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

 シモン・ペトロが、

 「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えた。

 

 すると、イエスはお答えになった。

 「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。

  あなたにこのことを現したのは、

  人間ではなく、わたしの天の父なのだ。

  わたしも言っておく。あなたはペトロ。

  わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。

  陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。

  わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。

  あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。

  あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

 

 それから、イエスは、ご自分がメシアであることをだれにも話さないように、

 と弟子たちに命じられた。

 

 このときから、イエスは、

 ご自分が必ずエルサレムに行って、

 長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、

 三日目に復活されることになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。

 

 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
 「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」


 イエスは振り向いてペトロに言われた。

 「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。

  神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 

 それから、弟子たちに言われた。

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

  自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

  人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。

  自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」

 

 

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 (以下、礼拝説教) 

 

 本日、私たちは京北教会創立112周年記念礼拝の日を迎えました。教会創立記念日は3月25日です。その日の前に一番近い日曜日に記念礼拝を毎年しています。この記念の日にあたり、聖書から、教会とは何かということを学んでいきましょう。

 

 その前に、ごく簡単に京北教会の歴史を振り返ってみます。1901年12月8日、京都市の烏丸五条近くの貸家で「烏丸講義所」が開設されました。これは当日の日本メソジスト教会という教派に属する京都中央教会(現在の京都御幸町教会)を拠点とした開拓伝道の一貫として、1901年に新しく開設されたものです。この講義所はその後5回も引越をして、そのたびに講義所の名前も烏丸講義所、下京講義所、五条講義所と変わります。しかし順調に教会員が増えたので1909年には初めての定住伝道者を置くことになり、1912年には京南講義所となり、1918年には京南教会を設立し、そして幼児園を併設して1924年には教会の礼拝堂と幼児園舎を建てます。

 

 その後、伝道の伸び悩みがあったためと思われますが、現在の下鴨の地域に移転して今の礼拝堂を建築します。それが1941年3月のことでした。このとき、戦時の体制下にあって国の要請を受けて様々なキリスト教の教派が30以上集まって合同し、日本基督教団も発足させ、京北教会もその一員となりました。戦中には礼拝人数は激減し、当時の高木彰牧師はインドネシアに徴用され、高木夫人とごく少数の会員がこの教会を守ります。その後、戦後の大変な時期を乗り越えて、様々な先輩方が集まる教会となり、教会学校や青年会を含めて大きく成長し、そして長きにわたり歩んできました。以上が、ごく簡単にふりかえった京北教会の歴史です。こうして112年が経ちました。

 

 この記念礼拝のときにあたり、皆様と共に聖書からメッセージを聴いて参ります。本日の聖書箇所は、マタイによる福音書16章です。ここには、主イエス様と12人の弟子たちの対話の場面が記されています。そして、福音書の中で非常に大事な場面が含まれています。それは、主イエス様ご自身が、自らの十字架の死と復活を弟子たちに向かって予告される一番最初の箇所です。福音書の中では、イエス様は、ご自身の十字架の死と復活を、12人の弟子たちに向かってお話される場面が3回あります。その一番初めのときが今日の箇所です。

 弟子たちはイエス様の十字架の死と復活、という大変重い出来事がこれから起こる、ということを全く受け入れず、信じず、理解しなかったのでした。ですから、3回もイエス様がお話されたことも、弟子たちはそれを否定するか、黙って聞くか、ということしかできませんでした。その理由は、弟子たちにとってイエス様は自分たちの先生であり、リーダーであり、自分たちの国を救ってくれる救世主だったからです。当時のローマ帝国の植民地であったイスラエルの国が、ローマ帝国の圧政のもとで苦しんでいた、その状況から自分たち民衆を救い出してくださる、それが弟子たちがイエス様に対して強く持っていた希望でした。その希望であったイエス様が、十字架で死なれるということは、それはイエス様がとらえられて罪人とされて殺されるということでしたから、そのようなことはあってはならないことでした。さらにその先の復活など、何のことかわからないほどに受け入れられないことでした。

 

 その弟子たちに対して、イエス様がお話されたことが、本日の箇所に記されています。今日の箇所を順番に見ていきます。まず、最初の対話の場面では、こうあります。「イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えた。」ここでは12人の弟子の中でリーダーであった筆頭の弟子のペトロが答えています。メシアとは、救い主という意味で、この世界を救ってくださる主人、世界の救いの中心という意味です。そして、そのメシアの存在は、生ける神の子、つまり、
今、目の前で生きている神の子というのです。

 

 神の子という表現は、神様から遣わされて、神様から愛されている存在、ということを指します。それは神そのものと等しいけれども、神よりも小さな存在というようにも言えます。弟子たちは、このとき、イエス様から、あなたはわたしを何者だと言うのか、と問われたときに、このように答えます。あなたは救世主、あなたは神様から遣わされた、神様から愛されている存在。そのような意味で弟子たちは答えました。

  

 この答えを聞かれたイエス様は言われます。「すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

 

 シモン・バルヨナと言う名前は、シモンは名前で、バルヨナはそれを説明する言葉で、バルヨナとはヨナという人の子ども、またはヨハネという人の子ども、という意味のようです。このシモンに対してイエス様は幸いだ、と言われました。それは、先にペトロがイエス様を救世主であり生ける神の子だと答えた、その答えが幸いな答えだったことを示しています。そして、
そのようにペトロが言うことができたのは、人間としてのペトロの知恵や知識によるのではなく、イエス様の天の父、すなわち天の神様の力なのだと言われます。

 

 そしてさらにこう続けられます。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」ここでペトロという名前が出て来ます。ペトロとは「岩」という意味の言葉です。この名前はイエス様からいただいた名前でした。ペトロにはもう一つの呼び名があり、パウロの手紙に出て来ますが、「ケパ」と言います。これも岩という意味です。どうしてイエス様が、シモンに対して「岩」という呼び名で呼んだのかはわかりません。しかし、その理由はわからなくても、イエス様がシモンを選び、岩にたとえ、その岩の上に神様の教会を建てると言われました。

 

 このイエス様の言葉がもとになって、弟子であるペトロがリーダーとなって形成した教会が初代のキリスト教会となり、後のカトリック教会へと成長していきました。その発端のことは、福音書使徒言行録にしか記録が残されていません。そして、その記録の中において、教会とは何か、ということがはっきりと示されています。本日の、この聖書の箇所です。

 

 教会、それは主イエス・キリストの任命によって成立するものである、ということです。そしてイエス様は言われます。「陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」現在、カトリック教会では教皇の力は絶対的な性質があります。その根拠はこの聖書箇所にあります。後にできたプロテスタント教会は、カトリック教会の制度とは大きな違いがありますが、教会というものは神様からの権威を与えられていると理解することは同じです。

 

 本日、京北教会の創立112周年記念の礼拝をしています。教会の創立ということに関して、本日の聖書箇所から学ぶことは、教会というものは、主イエス・キリストによる任命によって、その土台が成立するということです。イエス様がペトロを選び、将来の教会を建てる土台の役割を与えられたように、イエス様の任命ということが、岩となり、教会の土台となるのです。この京北教会の発端にも、伝道のために遣わされた伝道者がおり、その言葉を聴いて信徒となった方々がおり、そうした一人ひとりが主イエス・キリストの導きによって、みんなで教会を支えることになったのです。その教会には、神様からの権威が与えられ、それによって教会はこの世界の中にあって重要な役割を担うようになりました。

 

 しかし、教会というものは、人の目から見たときには、常に弱点を持ち、この世の波風にさらされ、様々な問題を抱えながら歩んでいる存在でもあります。その教会に神様から与えられた権威がどんなふうにあるのでしょうか。ふだん私たちは教会の礼拝に毎週来ていても、そこで教会の権威というものを感じることがあるでしょうか。私たちは多くの場合、権威というような言葉をあまり好まないのではないかと思います。権威というのは何か重たくて怖くて、いかめしいものです。教会の権威というと、あまり歓迎されないのではないかと思います。

 

 教会の権威とは何か、ということが、本日の聖書箇所の後半で、イエス様から示されています。読んでみましょう。「それから、イエスは、ご自分がメシアであることをだれにも話さないように、

と弟子たちに命じられた。このときから、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活されることになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」とあります。

 

 これから、そう遠くない時期にやってくる、イエス様の十字架上での死、そして復活。それらのことをイエス様はお話されました。しかし弟子たちは全くそれを理解しません。そればかりかペトロはそれをいさめ始めました。次のように記されています。「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」」

 そして、こうあります。「イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」これはとても厳しい言葉です。ついさっき、ほんの少し前に、「あなたはペトロ、私はこの岩の上に教会を建てる」と言われた、その直後に、イエス様は一転されたかのように、サタン、引き下がれ、と言われます。

 

 本日の箇所を、京北教会創立記念礼拝において読むときに、教会の権威というものは、このようなイエス様の言葉を心して聴く、という姿勢にこそある、ということを実感します。教会の権威、というものは、人の上に立っていばるためにあるのではありません。重く、怖く、いかめしい権威、ということではなくて、イエス様がペトロを叱られた、そのようなイエス様からの愛の厳しさというものを、みんなで受けとめていく姿勢にこそ、教会の権威というものがあります。

 

 すなわち、それは、悔い改めるということの権威です。イエス様は、続けて次のように言われました。「それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」

 

 ここで言われていることは、次のようなことです。命というものは、神様から与えられたものであり、ものすごく大切なものです。その、与えられた命を、神様の御心にかなうように献げていく、つまり、この命を神様に用いていただくことが大切なのです。それが主イエス・キリストが十字架の死と、その三日後の復活という形で示された道でありました。それは弟子たちの目から見たときには、理解できず信じられないことでありました。けれども、それをペトロが、そんなことがあってはならない、といさめたときにイエス様は言われました。「サタンよ、退け。あなたは神の事を思わず、人間のことを思っている。」

 

 この言葉を聴いたときのペトロは、おそらく、自分の心にものすごく強い風が吹き付けられたような気持ちになったのではないか、と私は想像します。教会は岩であると言われても、その教会に来ている人間は、岩のようではありません。風のような存在です。いるのかいないのかわからず、どの方向に自分が向いているのかもよくわからない、そして、もっと強い風が吹いてきたときには、自分自身の存在が吹き払われて消えていく、人間はそんな風のような存在です。

 

 つい先ほど岩と呼ばれ、その岩の上に教会を建てると言われたペトロに対して、サタンよ、退けとイエス様は言われました。教会の権威というものは、人に対していばるためにあるのではなく、このようにイエス様から厳しく叱られ、問われ、そして導かれていくところにあります。神様の御心を理解できない、弱く小さな人間の群れが、教会において、風のように生きています。けれども、誰もが、聖書の言葉によって問われ、叱られ、そして愛されて、成長していきます。

 

 京北教会は創立112周年を迎えました。今までのたくさんの先達の皆様に感謝します。そして、これからもイエス様に問われながら、叱られながら、愛されて、みんなで歩んでいきまょう。

 

 お祈りします。神様、京北教会が創立112周年を迎えたことを皆様と共に心から感謝いたします。これからも皆で、神様の御心にかなう礼拝と交わりと奉仕ができますように、守り導いてください。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。アーメン。