京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2020年12月20日(日)クリスマス礼拝を含む、待降節の説教集

 

2020年11月29日(日)京北教会 礼拝説教

「イエスがおられると聞けば」牧師 今井牧夫

聖 書 マルコによる福音書  6章  45〜56節 (新共同訳)

 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、

 向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、

 その間にご自分は群衆を解散させられた。

 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。

 

 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。

 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、

 湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。

 

 弟子たちは、

 イエスが湖上を歩いておられるのを見て、

 幽霊だと思い、大声で叫んだ。

 皆はイエスを見ておびえたのである。

 

 しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、

 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。

 

 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、

 弟子たちは心の中で非常に驚いた。

 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。

 

 こうして、一行は湖を渡り、

 ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。

 

 一行が舟から上がると、

 すぐに人々はイエスと知って、

 その地方をくまなく走り回り、

 どこでもイエスがおられると聞けば、

 そこへ病人を床に乗せて運び始めた。

 

 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、

 病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。

 触れた者は皆いやされた。

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(以下、礼拝説教) 

 本日から、教会の暦はアドベント待降節に入っています。本日からクリスマスまでの四週間、主イエス・キリストのお生まれを待ち望む期間です。そのために本日は礼拝堂にクリスマスのクランツを飾り、4本のローソクを置いてその1本目の灯りを灯しました。毎週一本ずつ灯りを増やしていきながら、主イエス・キリストの御降誕を待ち望むのです。それは、主イエス様のお生まれは、単なる一人の人の誕生だけではなく、神様の御心が一人の人となられたことであって、そのことがこの闇に満ちた世界を救おうとする神様の御心が現されたことだからです。

 

 このアドベントの最初の日曜日にあたって、本日の聖書箇所はクリスマスに向けて関係づけられる箇所ではなくて、今年の7月からずっと続けて読んでいるマルコによる福音書の流れで選びました。本日の箇所は6章です。本日の箇所に書かれていることは、大きく分けて二つのことです。前半は湖で逆風のために舟でおぼれそうになっている弟子たちをイエス様が助けてくださった話です。後半は、イエス様がおられると聞けば、たくさんの人々が病気を治していただくために、あちこちからたくさんイエス様のところに押し寄せてきたという話です。

 

 ここには、アドベントもなければクリスマスもありません。いわば普通の聖書箇所です。しかも、なんといいますか、本日の箇所はちょっと何だか、いつもよりも地味な内容に思えます。また、前半にはイエス様が湖の上を歩いたという話がありますが、このような奇跡の話は、他の奇跡の話、たとえば病気の癒しとか、食べ物がないときに食べ物を与えたとか、そうした話に比べると、深みに欠けるようにも思えます。

 

 そうした意味で、あんまりアドベント第1聖日にはふさわしくないかもしれない、と思う方もおられるかもしれません。しかし、本日にこの箇所を選ばせていただいたのは、後半にある、一つの言葉のゆえです。それは、次の言葉です。「一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。」ここにある言葉、「どこでもイエスがおられると聞けば」という、この言葉になぜか私は心がひかれました。

 

 自分がどこにいたとしても、イエスがどこかに来られて、そこにイエスがおられると聞くと、人々はイエスのところに急いでやってきました。しかも自分一人だけが行くのではなくて、病気の人たちをみんなイエス様のところに連れていこうとして、その地域全体を周り、一人でも多くの人をイエス様のところに連れていった、ということであります。ここには、そのころの人たちのイエス様に対する強い信頼の気持ちがあります。イエスがどこにおられたとしても、その場所にイエス様がおられるならば、自分もそこに行く、しかも病に苦しんでいる人と共に行く、そういう決意を、地域の人々は持っていたようであります。その決意を持って人々はイエス様のところにはせ参じたのでありました。

 ここに、実は私たちがこれからクリスマスを迎えるときの、心の持ち方の秘訣があるように私は思いました。それは、イエスがおられると聞けば、そこで自らの行動を起こすということです。

 

 そのことをもう少し深く学ぶために、まず本日の前半の箇所を読んでみます。ここには、イエス様が湖の上を歩いた話が記されています。この、湖の上を歩いた話というのは、様々なイエス様の奇跡物語の中で、少し独特の雰囲気があります。というのは、他にたくさんある病気の癒しの話や、五千人の人にパンを与えたという食事の奇跡の話に比べると、湖の上を歩くというのは、それ自体で人を救う働きではなく、また、その光景を想像すると、それは実際にはまるであり得ないことだと思えるからです。

 

 たとえば、いま皆さんに質問して、人の病気を治す奇跡を起こしてほしいですか? と尋ねたら、それが実際にできるかどうかを別として、それはぜひやってほしいと思われるはずです。それは、病気のことは人の命や健康に関わる大切なことであり、なんとしてでも直ってほしいと思えば、それが実現可能か不可能かを別にして、私たちは病気からの回復を願うからです。しかし、湖の上を歩きたいですか? と皆さんに尋ねたら、何と答えるでしょうか。結構です、というのではありませんか。わざわざイエス様に湖の上を歩いてもらったところで、特に何もいいことはなく、私たちだって、別に湖の上を歩きたいとは思わないからです。そういう意味で、湖の上を歩く奇跡の話というのは、なんとなく福音書の中で場違いに思えます。言葉を代えて言えば、私たちは本日の箇所にある、イエス様が湖の上を歩いたという奇跡の話を聞いて、それに憧れるということがないのです。

 

 すると、本日の箇所というのは、福音書の中であまり重要でないようにも思えてきます。しかし、本日の箇所をもう少し深く読んでいけば、私たちの最初の印象もこれから変わっていきます。

この箇所を順番に読んでいきます。

 

 この箇所では、まずイエス様は祈るために山に行かれます。そして弟子たちは自分たちだけで小舟に乗って湖に出て行きます。ここで弟子たちが、湖に何をするために舟を出したかは書かれていません。このように弟子たちだけでイエス様と別に、意味もなく舟で湖に出ていくことは不自然にも思えます。実は、こうした話は、あとでイエス様が助けに来てくださる、という物語の流れを作るための設定です。そして、湖の上で逆風のために弟子たちが舟を漕ぎ悩んでいたことが書かれています。

 

 ここで、この「逆風」という言葉に注目してみます。福音書で舟という言葉が出てくるとき、それはしばしば後の時代の教会ということを指しています。教会、あるいは神様を信じる人々の群れという意味です。その舟が逆風を受けて漕ぎ悩んでいます。これは、教会がこの世の逆風の中で前に進むことができなくて立ち往生している、そういう場面を表していると考えることができます。イエス様がいない中、弟子たちだけで舟を漕いでいても、逆風のために漕ぎ悩んで進めない、これは、イエス様が十字架で死なれ、復活して天に上げられ、そういう形で弟子たちの目の前からいなくなったあとの、弟子たちの集団、そして初代のキリスト教会の様子をたとえていると考えることができます。その、困っている弟子たちのところに、そこに来るはずがないイエス様がやってきてくださった、という話です。

 

 ところが、その次の場面では、そうしてせっかく湖の上を歩いて助けに来てくださったイエス様の姿を見て、弟子たちは「幽霊」だと言って大声を出しておびえたと記されています。せっかくイエス様が助けに来てくださったのに、「幽霊」だとはひどすぎますね。弟子たちは何を考えているのでしょうか。ここに、こうして、イエス様を見て幽霊だと思った、というような言葉が出てくると、いま聖書を読んでいる現代の私たちにとっては、なんだか興ざめという気持ちにはなりませんか。

 

 だいたい、イエス様が湖の上を歩くというところからして、何だかいつもの福音書の話とは違う雰囲気があります。これは何か昔から伝わる古い伝説の物語、奇談と呼ばれるような、素朴で何か変なお話という気がしてこないでしょうか。実際、その通りだと思われます。マルコによる福音書では、他にこうした雰囲気の話があります。それは、5章の箇所ですが、ゲラサという地域で、悪霊に取りつかれた一人の人が墓場に住んでいて、その人がイエスに出会って悪霊を追い出してもらい、その悪霊がなんとたくさんの豚の中に移り住んで、その豚がおかしくなって海に飛び込んでみんな死んでしまった、という話です。この話には、福音書の他の話とは違う、何かおどろおどろしいもの、奇妙でちょっと怖い何か、というものが含まれています。本日の箇所にも、その雰囲気があります。

 

 こうした少し不思議な印象を受ける話は、福音書の中で異彩を放っています。それは、イエス・キリストがどういう御方であったか、ということを後世に伝える上で、より素朴で、より洗練されていない話だからです。もっといえば、ここにある雰囲気は、いわゆる「昔話」「言い伝え」としての「土着」の雰囲気を色濃く持っています。それは、時代があとになればなるほど、主イエス・キリストを神の子・救い主として美しく描写するようになることに対して、より古い時代のイエスについての言い伝えを、土着の昔話の形によって残していると考えることができます。

 

 本日の箇所で言えば、この箇所が一番伝えたいことというのは、イエス様が湖の上を歩いたというとではありません。そうではなくて、弟子たちが逆風のために舟をこぎ悩んで困っているときに、そこにいないはずのイエス様が来てくださっていた、ということを一番に伝えたいのです。
そこにいないはずのイエス様、あるいは、そこに来ることが出来ないはずのイエス様が、自分たちが一番困っているとき、まさにその場所に来てくださった、ということが一番のことなのです。湖の上を歩いた、というのは、来ることができないはずのところにイエス様が来てくださったということを言いたいだけであって、別にミズスマシのように湖の上をすいすいと歩いてこられたわけではありません。

 

 弟子たちが逆風のために舟を漕ぎ悩んでいる、まさにそのところにイエス様が来られます。そして、イエス様がすぐそこにおられることを信じることができない弟子たちが、「幽霊だ」と言っておびえている、その弟子たちに声をかけてくださいます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」そしてイエス様が舟に乗り込まれると、波がやんだのです。イエス様を乗せずに弟子たちだけで舟を出したから、漕ぎ悩んだのです。この舟にはイエス様が必要だったのです。

 

 こうして、教会という名の舟には、必ずイエス様が乗っていることが必要であることが、はっきりと示されます。このことが、今日の私たちの教会にとっても大きな意味を持ちます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」、このイエス様の言葉の真ん中にイエス様がおられます。わたしだ。と。教会がこの世の逆風によって漕ぎ悩むとき、そこにいるはずがない、あるいは、来ることができないはずの、主イエス・キリストがそこに来てくださいます。

 

 そのようなことは、弟子たちにとって、自然に信じることはできませんでした。だから、「幽霊だ」と失礼なことを言っておびえていたのです。それは、弟子たちが勘違いをしている姿です。それと全く同じように、現代に生きている私たちもまた、聖書を読むときに勘違いをします。こんなことが実際にあるはずがない、これは古代の人たちの素朴な信仰心であって、科学が発達した現代において、こんな風にイエス様が私たちと共におられるはずがないと勘違いをするのです。

 

 そのような私たちと同じく、この箇所での弟子たちは、せっかく来て下さったイエス様の姿を信じることができず驚きます。次の箇所にこうあります。「弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」これは少し前の箇所のことです。イエス様がパンを五千人以上の人たちに分けて与えられた、という奇跡の意味を弟子たちは理解していなかったということです。弟子たちにとって、食べるパンというものも、乗るための舟というものも、結局は自分たちだけのものと考えていました。それではダメなのです。パンも、舟も、自分たちだけではなく、この社会の中にあって様々な人と共に分け合うために、神様から与えられるのです。パンも、舟も、教会ということを表しています。教会というものは、自分たちだけのものではなく、様々な人と共に分け合うため、神様から与えられるのです。 

 

 本日の箇所の後半には、各地から大勢の人々がイエス様のところにやってきて、病気を治してほしいと願って、その通りに癒されたことが記されています。ここにはこう記されています。「一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。」このように、どこにいたとしても、そこにイエスがおられると聞けば、そのことに心を動かして、そのイエス様のおられる場所に、病気の人たちを連れていく人々のことが記されています。人間は神様による救いを必要としています。それは決して弟子たちだけが独占することではなく、社会のすべての人のものです。 

 

 本日から始まるアドベント待降節の時期を、そのような人々の信仰を私たちもまた持って過ごしていきたいと願います。それは、クリスマスという言葉を聞けば、そこにイエス様がおられるということを思い、私たちもまたクリスマスに会いに行きたい、隣人とともにクリスマスに出会いたい、それがどこであっても、そのような気持ちになることであります。

 

 お祈りします。
 神様、主イエス・キリストの御降誕を待ち望む思いで、アドベントの日々を私たちに過ごさせてください。世界にまことのクリスマスの平和が来たりますように。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神の御前にお献げします。
 アーメン。

 

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2020年12月6日(日)京北教会礼拝説教

「生まれ出(いず)る喜び、誰もが」 牧師 今井牧夫

 

 聖 書 ルカによる福音書  1章  39〜56節 (新共同訳)

 

 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。

 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。

 

 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。

 

 エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。

 

 「あなたは女の中で祝福された方です。

  胎内のお子様も祝福されています。

  わたしの主のお母様がわたしのところに来てくださるとは、

  どういうわけでしょう。

 

  あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。

  主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 

 そこで、マリアは言った。

 

 「わたしの魂は主をあがめ、

  わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

 

  身分の低い、この主のはしためにも 

  目を留めてくださったからです。

 

  今から後、いつの世の人も 

  わたしを幸いな者と言うでしょう、

  力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。

 

  その御名は尊く、その憐れみは世々に限りなく、主を畏れる者に及びます。

  主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、

  権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、

  飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。

 

  そのしもべイスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、

  わたしたちの先祖におっしゃったとおり、

  アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」


 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

 

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(以下、礼拝説教) 

 先週から、教会の暦はアドベント待降節に入っています。待降節とは、クリスマスまでの四週間、主イエス・キリストのお生まれを待ち望む期間です。そのために本日は礼拝堂にクリスマスのクランツを飾り、4本のローソクを置いてその2本目の灯りを灯しました。毎週1本ずつ灯りを増やしていきながら、主イエス・キリストの御降誕を待ち望むのです。それは、主イエス様のお生まれは、単なる一人の人の誕生だけではなく、神様の御心が一人の人となられたことであって、そのことがこの闇に満ちた世界を救おうとする神様の御心が現されたことだからです。

 

 このアドベントの2回目の日曜日にあたって、本日の聖書箇所は、マリアの歌です。マリアの賛歌とも呼ばれます。マリアの賛歌、という意味は、マリアをたたえる歌という意味ではなく、マリアが神様をたたえている歌という意味です。実際には歌というよりも、文章の詩と書いて「うた」と呼ぶような内容ですし、その中身を見ると、これは神様への感謝の祈りでもありますし、また、その感謝を他の人たちに伝えているという意味でうたとも言えます。

 

 こうしたマリアのうたは、実際にマリアがこうした言葉を発したときに、そばにいた人が書き写して記録した、というようなものではなく、マリアのことが後世に語り伝えられるなかで、マリアの気持ちを表す詩が作られ、それが聖書のこのマリアの物語の中にはめこまれたと考えることができます。そして、このマリアの詩の元になっているのは、旧約聖書のサムエル記上の2章に記されている、ハンナという女性の祈りの言葉だと考えられています。神様にお祈りして子どもを授かったことの感謝が記されています。

 

 ハンナの祈りはマリアの賛歌とは時代は全く違いますが、神様への深い感謝を女性の立場から献げているという意味では、同じです。つまり、本日の箇所にあるマリアの言葉は、時代を超えて女性たちが共有している祈りの精神を表しているということです。また本日の箇所には、前半にエリサベトという女性の言葉も記されています。ルカによる福音書では、このエリサベトはマリアより半年先に同様の経験をして、後に洗礼者ヨハネと呼ばれて活躍することになるヨハネをみごもっています。ハンナにしろ、エリサベトにしろ、神様に仕える女性たちの言葉が聖書には記されており、それらがマリアの物語に影響していることがわかります。

 

 そういう意味で、マリアは、たった一人で聖書の中に登場するのではなく、聖書の歴史に登場する、無数の女性たちの祈りを背景に、ルカによる福音書に登場しているということがいえます。

 

 では、そのようなマリアのうたは、何を今日の私たちに伝えているのでしょうか。順番に見ていきます。まず最初の47節では神様をたたえます。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」これは、祈りの最初の言葉です。そして次にこう続きます。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」ここに神様を讃える理由があります。神様が来てくださるはずがない、無名の田舎娘の自分に、神様が来てくださった、という驚きと喜びと信頼が、ここにあります。

 

 そしてこう続きます。「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」ここには、自分の境遇が、いつの世の人にとっても、幸いな者だと言ってもらえる境遇であるという、確信があります。神様がこの私に御心を示してくださったので私は神様の独り子をみごもっている、という確信です。

 

 そして、その神様の御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます、と続いています。そこからさらに、神様がなさるお働きがどのようなものであるか、ということが次の様に語られています。

 

 「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」

 

 この箇所を読まれて、皆様は何をお考えになられるでしょうか? 皆様は、この箇所を読んだとき、ここよりも前の部分を読んだときとは、少し違った気持ちになるのではないでしょうか。それは、この部分に書かれていることは、社会の大胆な改革であり、革命であると言ってもよい内容だからです。もちろん、聖書に記された事柄と、20世紀の革命とは同じことではありませんし、また、社会の変革といっても、そんな簡単に社会の物事を変えられるわけもありませんから、マリアがこのような言葉を言ったからといって、神様というのは世界に革命を起こされる方だ、というのは単純すぎる気がします。では、このマリアの言葉を私たちはどう理解したらよいのでしょうか。

 

 このマリアの言葉のあとには、次の言葉が続きます。「そのしもべイスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったおとり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」ここには、その当時の人達の苦しい生活が反映しています。それは、強大なローマ帝国によって植民地として支配されていたイスラエルユダヤの人々の思いです。自分たちは今はローマ帝国によって支配され、抑圧されている。けれども、そんなふうに苦しんでいる自分たちのことを神様は決して忘れているのではない、必ず、いつかローマ帝国の支配から抜け出して、独立してもういちどこの国を盛んにするときがやってくる、そういう希望がマリアの口を通して語られています。

 そのことは、このマリアのうたが、マリア一人が個人的な喜びをうたっているのではなくて、その当時の社会情勢において、国の人々がみんな思っていたことをマリアが自分のこととして語っている、ということを示しています。こうして、マリアの賛歌は、神様をたたえる言葉から始まって、マリア自身に起きたことへの感謝から、マリアだけのことを超えて、社会全体、国全体の希望へとつながっていきました。個人的な喜びと希望だけでなく、共同体としての社会、国の希望へとつながること、そのことがマリアのうたでありました。このことは、クリスマスというものの意味を私たちに伝えています。クリスマスの喜びは、決して個人的な喜びだけではなく、共同体、すなわち、家族や社会、国全体、世界全体まで広がっていく、共同体の喜びなのです。

 

 さて、ここで先ほど少し考えましたことに戻ります。マリアの賛歌の後半にある言葉のことです。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」こうした社会変革の言葉を、現代の日本社会に生きる私たちは、どのように受けとめたらよいでしょうか?

 社会の中にある貧富の格差、権力構造の中での上と下、社会的地位の違い、こうした格差を神様からひっくり返してくださる、という、このマリアの大胆な言葉を、私たちはどう受けとめたらよいでしょうか? このことについては、聖書を読む人によって、それぞれ読み方、受け止め方が違ってくると思います。皆様それぞれの経験、考え方、年齢、立場、など、人によって、今日の箇所の受け止め方は違うでありましょう。

 

 その中で、私が本日の箇所を読んで、マリアのうたを読んで、私が自分の心に受けとめたことを以下にお話いたします。

 

 マリアが語った社会の変革、これはまさに教会の働きのことであると思います。これはまさに教会の働きのことです。といっても、もちろん教会で暴力革命を起こそうというような乱暴な話ではありません。それは現実性も意味もないのです。そうでなくて、教会の働きというものは、人を平等にする、ということです。教会の働きというものは、人を平等にする、ということです。そのことによって人間は、それぞれがこの社会から背負わされてきた、様々な重荷から解放される、ということです。

 マリアの祈りは力強く、確信に満ちています。それはうぬぼれや傲慢ではなく、神への深い信頼であり、充足ということであります。マリアにとって、これから起こる未来がどんなものか、マリア自身が全くわかっていないのですが、それでも、いまこのときのマリアがとても幸いである、ということは、今日の箇所からよく伝わってきます。ここに、聖書がいまアドベントにあたって私たちに伝えようとしているメッセージがあります。そのメッセージが皆さんに伝わっているでしょうか? マリアは、ここで社会の変革のために心を高ぶらせているのではありません。そうではなくて、マリアは、いま自分が幸いだ、と言っているのです。それは、この時代がすごく幸せな時代だから自分が幸せだ、といっているのではなくて、この時代はとても暗いけれども、私はいま神様に守られてみごもっているから、必ず未来がこのお腹の中の子ども、イエス様に与えられるのです、という確かな希望があるから、自分が幸いだと言っているのです。

 

 このマリアのうたの後半部分だけを読むと、ここで主が「思い上がる者を打ち散らし」というような荒々しい言葉を読んだときに、私たちは、もしかしたら、少し気持ちが退いてしまうかもしれません。というのは、そうした荒々しい言葉に関係している、社会的な正義感の高揚、その荒々しさに不安を感じ、自分が付いていけないものを感じてしまうからです。

 

 しかし、私たちはここで、マリアの言葉に耳を傾けてみなくてはなりません。マリアはここで、決して何かの危なっかしい正義感を語っているのではありません。マリアの言葉に耳を傾けてみましょう。マリアは言います。神様がこの私に偉大なことをなさったと。一人の無名の娘が神様の導きによって役割を担うのです。小さな、取るに足りない人間が、神様の御心を担って、この社会の中で新しい家族となってこれから生きていく、その中で神様から与えられる役割を、家族の一人一人が担うのです。そのことにマリアは深い確信を持っています。

 

 これからマリアは、一人の子どもを産み、家族とともにその子を育てていきます。そのこと自体は、この世の中の平凡なひとつの家族の話であって、決して社会全体を揺るがすようなことではありません。この社会を不安にさせるようなことでもありません。マリアが一人の子を産み、家族が共に生きていくということは、この社会にあって命を産み、命を守り、命を育てることです。それは自分の命ではない命に寄り添って、お互いの命の意味を確かにしていくことです。

 

 その、命を大切にして家族が社会の中で生きていく、ということの過程において、社会の中の不平等が是正され、本当の社会の変革が起きていくのです。それは、暴力をもって社会を変革していくことではなくて、命を大切にして共同体を形作っていくことにおいて社会を変革していく、ということです。人間の力によって社会を変革するのではなく、命を大切にして共同体が共に生きることによって、結果として不平等が是正され、人間の傲慢が裁かれ、貧富の差が埋められて、社会に正義が実現します。それが、キリスト教会が目指す社会変革です。

 

 本日の説教題は「生まれ出ずる喜び、誰もが」と題しました。本日のマリアのうたには、生まれ出ずる喜びがあります。それは、この暗い世界の中にあって、神様から新しい命が授けられて生まれ出ずる、という喜びです。その喜びは、誰のものでしょうか。それは母マリアだけの喜びでありません。神様から与えられる喜びが、クリスマスには誰の所にも与えられます。喜びそのものが、この世界の中に生まれ出ずるのです。

 

 神様は、この世の中を決して見捨てていないし、この世の中で生きるすべての人を決して見捨てていない、という喜びがクリスマスにはあふれ出るのです。その喜びによって、社会が変革され、人間が平等になり、貧富の差が埋められ、社会的な差別・抑圧から人間は解放されます。人間が社会を変革するときには、政治的な論理や権力、闘う力、そういったものだけで変革されるのではありません。そこには必ず本当の喜び、というものが必要なのです。神様の御心がいつか必ずこの世に生まれ出ずる、という喜びこそが、本当の社会変革にとって最も必要なものであります。

 

 本日のマリアの讃歌は、教会の働きが何であるかを私たちに伝えています。クリスマスに向けれて、主イエス・キリストの御降誕をお祝いする気持ちをもって、私たちは共に命に寄り添い、共に命を育み、共に生きる共同体を望んで参りましょう。 

 

 お祈りします。

 神様、主イエス・キリストの御降誕を待ち望む思いで、アドベントの日々を私たちに過ごさせてください。世界にまことのクリスマスの平和が来たりますように。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神の御前にお献げします。

 アーメン。

 

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「この時代の陰に光を」2020年12月13日(日)京北教会 礼拝説教 今井牧夫

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 本日の聖書 ルカによる福音書 1章 67〜80節(新共同訳)

 

 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。

 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。

  主はその民を訪れて解放し、

  我らのために救いの角(つの)を、

  僕(しもべ)ダビデの家から起こされた。

  昔から聖なる預言者たちの口を通して

  語られたとおりに。

  それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。
  主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。

  これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。

  こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、

  生涯、主の御前に清く正しく。

  幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。

  主に先立って行き、その道を整え、

  主の民に罪のゆるしによる救いを

  知らせるからである。

  これは我らの神の憐れみの心による。

  この憐れみによって、

  高いところからあけぼのの光が我らを訪れ、

  暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、

  我らの歩みを平和の道に導く。」

 

 幼子は身も心も健やかに育ち、

 イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

 

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(以下、礼拝説教) 

 11月の終わりから、教会の暦はアドベント待降節に入っています。待降節とは、クリスマスまでの四週間、主イエス・キリストのお生まれを待ち望む期間です。そのために本日は礼拝堂にクリスマスのクランツを飾り、4本のローソクを置いてその3本目の灯りを灯しました。毎週1本ずつ灯りを増やしていきながら、主イエス・キリストの御降誕を待ち望むのです。それは、主イエス様のお生まれは、単なる一人の人の誕生だけではなく、神様の御心が一人の人となられたことであって、そのことがこの闇に満ちた世界を救おうとする神様の御心が現されたことだからです。

 

 本日の説教題は「この時代の陰に光を」と題しました。それは、本日の箇所の最後にある、次の言葉からとっています。「この憐れみによって、高いところからあけぼのの光が我らを訪れ、 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」これは、神様の憐れみによって、高いところからあけぼの、つまり夜明けの光が私たちのところにやってきて、暗闇と死の陰に座している者たちを照らす、というのです。私たちが生きている今の時代においてもまた、クリスマスがやってきます。それは、主イエス・キリストが私たちの時代にやってこられる、ということです。そして主こそが、この時代の陰に光を与えてくださるのです。

 

 今の時代は、コロナウイルス問題によって世界中が苦しめられてる時代です。第三波と呼ばれています。この先どうなるか、予想がつきません。ワクチンが実用化される計画が早まっていますが、それがどのように成果を生むか、まだわかりません。しかしそれでも、この時代にもういちどクリスマスがやってくる、そのことがキリスト教会の希望であり、世界の希望であります。

 

 クリスマスに向かう、待降節アドベントの3回目の日曜日にあたって、本日の聖書箇所は、ルカによる福音書1章にあるザカリアという人の言葉です。このザカリアの妻はエリサベトと言い、ザカリアとエリサベトの間に、後の洗礼者ヨハネと呼ばれるヨハネという子どもが生まれたときに、父親のザカリアが神様に感謝した歌が本日の箇所です。ですから、本日の箇所で「幼子」と記されているのは主イエス・キリストのことではなく、ヨハネのことです。

 

 本日の箇所は、主イエス・キリストの御降誕を祝うクリスマスの意味のひとつを表しています。それは、クリスマスとは、イエス様の御降誕をめぐる直接の出来事だけではなく、その周囲において、離れたところでもクリスマスに関わることが起こっている、そうしたことを含めてクリスマスの恵みである、ということであります。

 

 ルカによる福音書においては、洗礼者ヨハネの母であるエリサベトと、主イエス・キリストの母であるマリアは、親戚関係にある近しい存在として記されています。ただし他の三つの福音書ではそうした親戚関係があったとは全く記されておらず、自然なことではないので、それが事実であったとはあまり考えられません。ルカ福音書は、実際の主イエス・キリストの御降誕の時代から何十年も経ったあとに書かれているので、あとの時代になって、洗礼者ヨハネとイエス様の関係を最初から近かったはずだと考えて、このように編集したのではないかと考えられます。

 

 そのように記すことによって、イエス様の誕生と洗礼者ヨハネの誕生は、どちらも神様に導かれたことだった、と強調することで、後に洗礼者ヨハネが活躍し、そして捕らえられたあとに、イエス様が公の宣教活動を開始されたという、このつながりが、イエス様の誕生の前から神様によって用意されていたことだと、そのような歴史認識で、ルカ福音書の著者は考えています。こうして、クリスマスの意味というものは、単にそのときイエス様が世の救い主としてお生まれになられたという意味ではなく、そこから始まってずっと続いていく将来のことまでが、すでにクリスマスのときに用意されていたという、「ときの備え」を意味していることがわかります。

 

 クリスマスには、そのときの喜びだけではなく、そこから始まって将来に起こることの、ときの備えがある、ということです。しかも、それは、この世にあって陰に生きている人たちのところに、その備えが与えられているのです。そのことを本日の箇所から知っていきたいと思います。

 

 では、本日の箇所を順番に見ていきましょう。本日の箇所、すなわちヨハネの父親のザカリアの歌の前半は、これから救い主がお生まれになられることへの期待と喜びが次の通り記されています。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角(つの)を、僕(しもべ)ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して、語られたとおりに。」ここにある「救いの角(つの)」というのは、不思議な表現ですが、これは動物の角(つの)と同じように、力強さの象徴の言葉と言えます。また、当時の神殿の祭壇には角(つの)のようにとがった飾りがあったので、角(つの)とは神様への礼拝という意味かもしれません。また、動物の角(つの)はラッパのような楽器に使われていたので、「救いの角(つの)」とは神様からの救いを告げ知らせるラッパの音を意味していたかもしれません。

 

 「救いの角(つの)」どのような意味だったか一つの答えはないのですが、おそらくここでは、自分たちを救ってくださる、世の救い主となる人が、神様から自分たちに与えられるということを表現しているようです。そして、その人は古代のイスラエルにおいて最も著名な英雄であったダビデという王様の血筋から生まれるということを信じていました。それが旧約聖書に記されているからです。そのことは血統信仰のようなものというよりは、未来にやってくる救い主は、昔の王様ダビデのように力強い方だ、という素朴な期待がこめられていたのでしょう。

 

 そこから、さらにザカリアの歌は、以下のように続きます。「それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。」こうして、ザカリアは聖書に記された古代イスラエルの信仰を受け継いで、そこから神様への希望と喜びを歌っています。

 

 そして、その次のところから、救い主のことではなくて、自分に与えられた子どもであるヨハネのことが言われています。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪のゆるしによる救いを知らせるからである。」

 

 ここでは、後にヨハネが大人になったときに、罪の悔い改めを強く人々に説いて、自分の罪を悔い改めて自らを清めるためにヨルダン川の水につかる洗礼を人々に施して、洗礼者ヨハネと呼ばれるようになる、その将来のヨハネの姿がここですでに父親ザカリアによって歌われているということです。洗礼者ヨハネの役割は、そのあとに来られる主イエス・キリストの公の宣教活動に先だって現れ、まず罪の悔い改めが必要であることを、イエス様が来られる前に人々に強く宣べ伝えることでした。そのことが、イエス様が宣教をなされるための道を準備したのです。

 

 そして、ザカリアの歌の最後は次の様に締めくくられています。「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高いところからあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」ここで「これは」と言われているのは、後の時代の洗礼者ヨハネの働きのことです。ザカリアとエリサベトの間に生まれたヨハネという赤ん坊が、何十年かしたあと、大人になって、洗礼者ヨハネとなって神様から与えられた役割を果たすのです。その役割は、「高いところからあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」ということです。

 

 そしてザカリアの歌が終わったあとに、こうあります。「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。」 こうして、ザカリアとエリサベトの間に与えられた子どものヨハネが、のちに洗礼者ヨハネとして活動するときまで、荒れ野にいて、身も心も健やかに育ったと記されて本日の箇所は終わっています。

 

 さあ、ここまで本日の箇所を皆様と共に読んで参りました。皆様は、本日の箇所のどの言葉が心に残ったでしょうか。私は、本日の説教の最初に申し上げた、次の言葉が心に残っています。「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高いところからあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」

 

 なぜ、この箇所が心に残るかといえば、ここに「暗闇と死の陰に座している者たち」という言葉があるからです。神様の御心が光となって照らし出す相手というのは、「暗闇と死の陰に座している者たち」です。それは、私なりに言葉を代えて言えば、「救われない人たち」ということです。

「救われる人たち」にではなく、「救われない人たち」に神様の光が照らされること、そのことが将来の洗礼者ヨハネの宣教であることが、このクリスマスのときにすでにザカリアの歌によって示されていました。

 

 ということは、クリスマスというのは、そのときだけのお祭りではなくて、そのクリスマスのなかに将来の出来事が神様によって預言されているということです。この、預言ということですが、ここで言われている預言というものは、将来のことを言い当てるという予言、予想の予に言葉という漢字で書かれる予言ではなく、預かるという意味での漢字の預(よ)を使っての預言です。将来を予想して言い当てるというのではなく、神様から預かった言葉を人に伝えるということが、聖書で預言というときの意味です。

 

 クリスマスは一過性のお祭りではありません。その物語の中にすでに将来のことが表されている。その将来のことというのは、救われないと思われていた人たちのところに、あけぼのの光が射すということです。あけぼの、とは夜明けのときという意味です。クリスマスには将来の夜明けの前触れがあります。救われない世界に夜明けがやってくる。その前触れがクリスマスであり、
それゆえに私たちはクリスマスをわくわくしながら迎えることできます。これから始まる神様からのプレゼントとしての、私たちそれぞれの人生における夜明けがやってきます。それゆえに、私たちはクリスマスをお祝いすることをきっかけに、新しい人生を待望するのです。

 

 本日の箇所は、主イエス・キリストが直接には登場しない話です。父のザカリアも子どものヨハネも、イエス様との直接の関係はなく、クリスマスの出来事の周辺にあって、クリスマスの出来事と並行して生きている人たちでした。そういう意味で、彼らは脇役といってよいでしょう。けれども、脇役であることはつまらない人生という意味ではありません。クリスマスにおいては、どんなつまらない脇役に見える人でも、輝いて見える瞬間があります。それは、私なりの経験でいえば、クリスマスからはるか遠くにいるように見える人のところに、まさにクリスマスの平和がやってくる、という思いです。

 

 本日の箇所で「暗闇と死の陰に座している者たち」という言葉があります。その人たちに夜明けの光がやってきます。そのような「暗闇と死の陰に座している者たち」とは具体的にはどんな人たちでしょうか。そのことを考えるときに、私たちの心には、少しためらいが生まれるのではないかと私は思います。というのは、そうした暗いところにいる人とは、たとえば世界の中で戦争や貧困や政治的抑圧のなかで、辛い思いをしている人たちだとしたら、どの国のどんな人たちがそうなのか、と考えるときに、どこか心が痛むからです。たとえば国際ニュースを見て、難民の姿を見るときに私たちの心は傷みます。また、世界というだけでなく日本社会にある様々な困難な問題を考えるときに、私たちの心は痛みます。そして、心痛むことを考えるとき、私たちの心は、そうした問題から目をそらしたい気持ちにもなります。

 

 けれども、あえて申し上げます。「暗闇と死の陰に座している者たち」とは、世界のどこかにいる可哀想な人たちのことではなく、自分が神様に救われると思っていない、すべての人間のことです。自分は神の救いからはるかに遠いと思い込んで、この世の陰に生きている、すべての人間のことです。そのようなすべての人間のところに、今年もクリスマスがやってきます。この世界にあって取るに足りない脇役のような、人間一人ひとりのところに、クリスマスがやってきます。

 

 そのとき、本日の箇所のザカリアのように、私たちは祈りのうたを歌うことができるのです。

 

 お祈りします。
 神様、主イエス・キリストの御降誕を待ち望む思いで、アドベントの日々を私たちに過ごさせてください。世界にまことのクリスマスの平和が来たりますように。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神の御前にお献げします。
 アーメン。

 

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     2020年12月20日(日)クリスマス礼拝

 

      クリスマス説教
    「天使に引っぱられて」

 

 聖 書 ルカによる福音書  2章  1〜15節 (新共同訳)

 

 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。

 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた

 最初の住民登録である。

 

 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。

 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、

 ユダヤベツレヘムというダビデの町へ上(のぼ)っていった。

 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。

 

 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、

 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。

 宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。

 

 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

 

 天使は言った。

 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。

  今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。

  この方こそ主メシアである。

  あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている

  乳飲み子を見つけるであろう。

  これがあなたがたへのしるしである。」

 すると、突然、この天使に天の大群が加わり、神を賛美して言った。

 「いと高きところには栄光、神にあれ、

  地には平和、御心にかなう人にあれ。」

 天使たちが離れて天に去ったとき、

 羊飼いたちは、

 「さあ、ベツレヘムへ行こう。

  主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」

 と話し合った。 

  

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(以下、礼拝説教) 

 

 本日はクリスマス礼拝の日を迎えました。いま、礼拝堂のローソクを4本灯しました。教会の暦で待降節アドベントの時期には毎週、ローソクのともし火を1本ずつ増やしていきます。本日は待降節の4週目の日曜日となり、クリスマスを待つ期間が完了することとなりました。そして、本日の礼拝はクリスマスの聖日礼拝です。

 クリスマスの日は12月25日であり、その前日をクリスマス・イヴとして祝うことが世界的な習慣ですが、今年は新型コロナウイルス問題により、イブの燭火礼拝を始め、クリスマスの行事の多くを取り止めています。そのため、京北教会のクリスマスは、このクリスマス礼拝のみということになりました。本日は12月20日なので、クリスマスである25日までまだ5日間あることから、クリスマスにはまだ少し時期が早いように感じている方もおられるでしょう。

 

 ルカによる福音書の1章にはこんな話があります。まだ結婚していない、おとめマリアのところに天使が現れて、マリアは、将来に世の救い主となられるイエス・キリストとなられる子どもをみごもっていると告げたのです。そのときの天使の言葉は、まだ結婚していないマリアにとって、早すぎるクリスマス・プレゼントでした。当時の習慣では女性の結婚は十代半ばから始まっていたといいます。その歳のマリアにとっては、結婚自体がまだ先のこと、そして赤ちゃんを身ごもるというのはそのまた先のことのはずなので、聖書に記されている天使の言葉は、あまりにも早すぎるクリスマス・プレゼントでした。しかし、天使の言葉を聞いて、最初は驚いたマリアは、そのあとの天使の言葉を聞いたあとに、マリアは最後にこういいます。「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように。」

 

 こうして、神様からの早すぎるクリスマス・プレゼントは、マリアによって受け取ってもらえることになりました。このとき、マリアが自らの現実を受け入れることができたのは、天使がマリアの心を前へと引っぱってくれたからです。そのように、神様の御心が私たちの心を前へと引っぱってくれなければ、私たちは、クリスマスの喜びを本当に受け入れることは難しいのだろうと私は思います。

 

 本日の礼拝でのルカによる福音書の箇所には、前半と後半で二つの物語が記されています。前半は、ヨセフとマリアの夫婦が、当時の権力者に強いられた過酷な長い旅の途中で、泊まるところがなく馬小屋に宿泊したときに、マリアが赤ちゃんを出産した話です。旅が終わってから出産のときを迎えると思っていたヨセフとマリアの夫妻にとって、早すぎた出産でした。それは大変なことでありました。その大変なことと同時に起きていた、もうひとつの物語が、本日の箇所の後半に記されています。

 

 深夜に、草原で羊の群れの番をしていた羊飼いのところに、たくさんの天使たちが現れました。その場にいた羊飼いたちにとっては、何のことだかわからない奇跡です。ありえないことです。

 そのあり得ないことが起こって、羊飼いたちは、この夜に、あるひとつの町で、将来に自分たちを救ってくれる、世の救い主がお生まれになられたことを天使から知らされました。そのとき、羊飼いたちは、なぜ自分たちにそのような天使のお告げがやってきたのか、その理由がさっぱりわからないままに、クリスマスの出来事を聞かされたのです。そして天使たちは羊飼いの前から消えて天に帰っていきました。

 

 そのあと、羊飼いたちは話合って、この夜にお生まれになられた一人の人、その人は将来に世の救い主となられる、その赤ん坊に会いに行くために出発します。天使たちの言葉を聞いて、その言葉を信じて、急いで歩いていきます。そして、救い主がお生まれになられた馬小屋を探し当てて、羊飼いたちは無事、赤ちゃんの主イエス様と会うことができました。

 

 このときに羊飼いたちが出会った、まことの世の救い主のイエス様はまだ赤ん坊です。大人になって神の国の福音を宣教する、救い主としての主イエス・キリストではなく、ただの赤ん坊です。この赤ちゃんに出会うことは、羊飼いたちにとって、早すぎる出会いでした。目の前の赤ちゃんは、羊飼いたちを救ってくれるわけではありません。ただ寝ているか、泣いているか、そのような弱い存在でしかありません。まだ、この赤ん坊は神様の御心を現す働きを、何一つ行うことができいのですから、その赤ちゃんイエス様に出会うことは、羊飼いたちにとって、早すぎるクリスマス・プレゼントでした。

 

 こうして、前半と後半の二つの物語を続けて読みますと、これらの箇所には、言わば神様からの早すぎるプレゼントというものが記されていると言ってもよいでしょう。クリスマスに限らず、いただく時期が早すぎるプレゼントをもらうと、その意味がわからないことがあります。本日の箇所においても、ヨセフやマリア、そして羊飼いたちにとって、その意味がわからないプレゼントを神様からもらったような気持ちになっていたかもしれません。

 

 けれども、聖書の登場人物たちは、その早すぎる贈り物に困惑するだけではなくて、その贈り物を、自らの人生の深い喜びとして受け取って神様をたたえました。ここに、神様を信じる喜びがあります。神様を信じる喜びとは、自分がまだ理解できない事柄、すなわち、自分にとってまだ早すぎるプレゼントを神様からいただいて、それに困惑するだけではなく、その贈り物を自らの人生の深い喜びとしていくことです。

 

 それは、たとえば次のように言い表すことができます。私たちは、人から贈り物をいただくとき、手で受けとめます。その贈り物は紙で包まれてリボンが掛けられており、その中身を見ることはできません。しかしそのとき、自分の手で贈り物を受け取って、その贈り物を手のひらでささえます。その手のひらの上で、まずその贈り物の重さを感じ取ります。そのとき、人間は、その贈り物が何であるかとか、その意味が何であるか、ということよりも先に、そこに何かがある、ということをまず先に感じ取ります。そのプレゼントが何であるかということを具体的に知るよりも早くに、そこで自分の手のひらが、そこに何かがある、ということを先に感じています。

 

 そのようなときに、私たちは自分の手のひらで、その贈り物のメッセージを受けとめています。私たちは普通、人が伝えようとする言葉、メッセージを、耳が聞こえる人であれば耳で聞きます。けれども、人間は、耳だけではなくて、手のひらでもメッセージを受けとめています。もちろん、手のひらは耳ではありませんから、何も聞こえるはずがないのですが、それでも、手のひらにメッセージが聞こえてくることがあるのです。私がもらった、この贈り物に、何かの意味がある、ということを敏感に察知するのは、その贈り物を手で受けとめたときの手のひらです。それは、すなわち、実感、ということです。実感、ということは、ときに私たちが耳で聞く言葉よりも、先にものごとの意味を受けとめます。

 

 本日のルカによる福音書の登場人物たちはみな、自分にとってはまだ早すぎるはずのプレゼントをいただいた方々です。けれども、マリアとヨセフ、そして羊飼いたちは、そのプレゼントを、これはとてもとても大切な神様からの贈り物だと実感した人たちでありました。そして、それゆえに、自分たちにいま起こっている出来事の意味というものを、まだ理解することができなくても、そのときには理解できなくても、そこに神様からの確かな導きがあることを実感し、その喜びをお互いにわかちあうことができたのです。

 

 本日の説教題は「天使に引っぱられて」と題しました。これは、本日の箇所で羊飼いたちのところに天使が現れて、その天使の言葉に引っぱられるようにして羊飼いたちが出発し、馬小屋に眠る赤ちゃんのイエス様に会いに行った、その様子から本日の説教題を付けさせていただきました。自分にとって身に覚えがない、早すぎるクリスマス・プレゼントを受けたとき、羊飼いたちは、そこで考え込んで何もしないのではなく、急いで出発しました。その理由は、羊飼いたちはこのとき、天使の言葉にひっぱられていたからです。もちろん、羊飼いたちは何かに引っぱられるのではなく、自分たちの意志で行動したのですが、その行動を導いたのは天使の言葉でした。

 

 天使の言葉に引っぱられていったとき、何が起こるのでしょうか。羊飼いたちは、馬小屋に到着したときに、赤ちゃんイエス様と出会いました。その場でヨセフとマリアに話しかけ、自分たちが天使から告げられた知らせを話しました。こうして、羊飼いたちは、マリアとヨセフの夫婦と共に、その場で喜びを共にしました。このような羊飼いたちの様子を、どのような言葉で表現したらよいでしょうか。ふだんあまり使わない言葉ですが、お相伴する、という言葉があります。お相伴にあずかる、という言い方もあります。相談の相と書いて、御供の供と書いて、漢字二文字で相伴、丁寧にする「お」をつけてお相伴、という言葉の意味は、辞典ではだいたい次の様な意味で書かれています。「宴会の座の本来の客の、連れとして同席し、もてなしを受けること」また「他の人とのつりあいや、行きがかりで利益を受けること、他の人の行動につきあうこと」、これらがお相伴するということの意味です。

 

 本日の聖書箇所、クリスマスのときにあたって、羊飼いたちは、マリアとヨセフ、そして赤ちゃんイエス様の家族たちの喜びに、いきがかり上で同席して、その喜びに預かっています。それは決して自分たちが努力して得たのではない喜びです。

 決して自分たちの努力ではなく、天使に引っぱられて、神様の恵みのお相伴にあずかりました。クリスマスとは、私たちにとってそのような、以外なお相伴の恵みです。どうしてこんな私に、早すぎるではありませんか、と言いたくなるような、早すぎる恵みに引っぱられて、神の国の恵みの喜びにお相伴をさせていただくのが、クリスマスです。すなわち、その本当の意味を知って、よく理解して、それからクリスマスの喜びがわかるのではなく、まずクリスマスプレゼントの重みを、先に自分の手のひらで実感するような形でクリスマスの喜びにあずかります。そこには、自分自身という人間は、ことさらに信仰深い人間でも何でもない、しかし、天使にひっぱられるときには、こんな私でさえ、クリスマスの喜びにお相伴させていただくのだ、という喜びです。

 

 そうした喜びがクリスマスにはあります。しかし、ここで一方で、私たちが生きている現実世界のことを考えてみます。最近、私はある牧師の教会の関係者がコロナに感染して亡くなられたと言う話を聞きました。その方の年齢をお尋ねすると50代とのことでした。私も50代です。自分と近い年齢の方がコロナで亡くなられたという話に胸が傷みます。いや、どんな年齢の方であれ、コロナで亡くなられるということが辛く、耐えられない悲しみであることを思います。どの年齢の方の死であっても、それは、感染症を社会全体で防ぐことが出来なかったための、早すぎた死ではないか、という思いが込み上げるのです。私たちはおそらく、そのような早すぎる死ということのむごさに対して、その辛さのゆえに、慰める言葉を持たないのではないかと思います。

 

 その絶望を一方では思いつつ、本日のクリスマスの聖書箇所を読むときに、私の心の中に、神様から与えられる力があります。それは、人間には、早すぎる悲しみというものがやってくることもあるが、それと同じぐらいに、あるいはそれ以上に、早すぎる恵みというものもたくさんあったのかもしれない、と。自分が気が付いていないだけで、神様からのたくさんの恵みが、人間の目には早すぎるような形で、今までに、実はたくさん与えられていたのではないか、と。

 

 私たちは神様に様々なことを願って、それがかなえられないときに、悲しくなります。そして場合によっては、神様なんて本当はいないんだと思いたくなることもあるでしょう。けれども、人間は、もしも神が本当はいなかったとしても、神の言葉を必要とする存在です。このコロナウイルス問題に苦しむ世界の中で、あまりにも耐えられない辛さのなかで、私たちが神の恵みということを感じ取ることができなかったとしても、神の言葉は必ず与えられます。それは、ときには私たちには早すぎて理解ができなかったとしても、必ず与えられているのです。

 

 お祈りします。

 神様、主イエス・キリストの御降誕をお祝いいたします。神様の御心がこの世界に実現すること、このこと以上に素晴らしいことはありません。御心にかなって世界が平和になりますように。あらゆる苦しみから人間が救われ、私たちがこれからも人間であることを希望することができますように。まことのクリスマスの平和が来たりますように。どの人にもクリスマス・プレゼントが神様から与えられますように。この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神の御前にお献げします。

 アーメン。

 

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