京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2024年5月の説教

 2024年 5月5日(日) 
 5月19日(日)ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝説教

「踏みつけない生き方」今井牧夫
 2024年5月5日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  
 テサロニケの信徒への手紙一 4章1〜12節 (新共同訳)

 

 さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、
 また勧めます。

 あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、
 わたしたちから学びました。

 そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、
 その歩みを今後も更に続けてください。 


 わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、
 あなたがたはよく知っているはずです。

 実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。

 すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と

 尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、

 神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。

 このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。

 

 わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、

 主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。 

 神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、
 聖なる生活をさせるためです。

 

 ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、

 御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです。

 

 兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。

 あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。

 現にあなたがたは、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、
 それを実行しています。

 しかし、兄弟たち、なおいっそう励むように勧めます。 

 

そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、

自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。

そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、
 だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。

 

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
   改行などの文章配置を説教者が変えています。
   新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

…………………………………………………………………………………………………………………

 

 (以下、礼拝説教)  

 

 毎週の礼拝で、福音書使徒パウロの手紙、旧約聖書、この三箇所を順番に読む形にしています。今日はパウロの手紙である、テサロニケの信徒への手紙一の14章冒頭からであります。

 

 ここには「神に喜ばれる生活」という小見出しがつけられています。こうした小見出しは新共同訳聖書が作られた時に、読み手の便宜を図ってつけられたものであり、元々の聖書にはこうした小見出しはありません。

 

 今日の聖書箇所には何が書いてあるのでしょうか。今日のこのテサロニケの信徒への手紙一は使徒パウロが書いた手紙であり、新約聖書に納められている27の文章の中で一番古くに書かれている文書と考えられています。

 

 それはすなわち、使徒パウロが実際に活動していた時期、つまりイエス様がおられた時期にとても近い時代に書かれた手紙ということであります。その時期に書かれたということは、教会の一番最初の時代、その時代の教会の雰囲気と言いますか、その時代の教会のあり方を一番に表している。そういう手紙であると言えます。

 

 その初代教会には、どういう雰囲気があったのでしょうか。今日の箇所を見ていきます。

 1節「さて兄弟たち。主イエスに結ばれた者としてわたしたちはさらに願い、また勧めます。あなたがたは神に喜ばれるために、どのように歩むべきかをわたしたちから学びました。そして現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後もさらに続けてください。わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、あなたがたは知っているはずです。」

 

 ここでは、最初の頃の教会において、パウロだけではなく様々な伝道者がいて、イエス・キリストの福音、「神の国」の福音、福音とは「良き知らせ」という意味ですが、それを伝えていたのでありますが、そうした伝造者たちから当時の教会の人たちは、生活の仕方、神様に喜ばれるための日々の暮らしの仕方を学んでいたということがわかります。

 

 そのときに、それを教えるパウロたちは、それを自分たちの生活の知恵とか、自分たちが信じる宗教の決まりという形ではなくて、主イエス・キリストが、このようにあなた方に命じておられます、という言い方で、主イエス様から教えられたその生活のあり方を伝え、そしてその最初の時代の教会の人たちは、その通りに生きようとしていたということであります。

 

 では、そのような生活とは、具体的にどういうものかというと、こういうことです。
 「実に神の御心は、あなたがたが聖なるものとなることです。すなわち、みだらな行いを避け、各々汚れのない心と尊敬の念を持って妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように強欲におぼれてはならないのです。」

 

 

 ここで記されていることは、当時の地中海沿岸の世界の、貿易などで栄えた町でよくあったと考えられることであります。地中海沿岸にある貿易の盛んな都市には、当時の世界中から色々な文化、色々な考え方、生活習慣が入り込みます。そして、人の出入りが多く、定住するのではなく、旅をして商売をする人たちの文化、その人たちに合わせた町の様子がありました。

 

 そこでは、家族のあり方が大切にされず、男女の関係というものも、商業都市の中にあって、その商業の一部として扱われていたのではないか。そのように考えることができます。

 

 そのように存在する当日の生活文化の中にあって、人間が人間を抑圧するような性のあり方というものがあり、それをパウロが批判し、そのような生活から救い出されて生きること、そのことをパウロが人々に教えていた、ということがここからわかります。

 

 そして次にこのようにあります。

 「このようなことで、兄弟を踏みつけたり欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にもまた厳しくいましめておいたように、主はこれら全てのことについて罰をお与えになるからです。神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく聖なる生活をさせるためです。ですから、これらの警告を拒むものは人を拒むのではなく、ご自分の聖霊をあなたがのうちに与えてくださる神を拒むことになるのです。」

 

 ここで言われているのは、先ほど申し上げました、家族というものを軽んじる生き方、あるいは男女の性のあり方というものを軽んじる、商業的な考え方によって、商業の一部としてそれを扱う、そうした生活というものが結果として何を生むかというと、それは兄弟を踏みつけ、また欺く、そういう生活をもたらすということを、パウロは警告をしているのであります。

 

 それは単に倫理として、聖人君子のように清く正しく生きなさい、ということを言ってるのではなくて、あなたたちがこの商業的な扱いによって性や人間関係、家族というものを扱うならば、それは必ず自分の兄弟と思っている人たちを踏みつける、またあざむくことになるのだと。

 そして、人間関係全体が全て悪しきものになり、その中で結局、罪というものにおぼれて人間が滅んでいく、そうした当時の社会状況の中での人間の悲惨さというものを、パウロはよく知っていたのであります。そして警告をしているのです。

 

 ここまでのところを読んできまして、この中に「聖なる生活」という言葉が出てきていました。聖なるもの、あるいは聖なる生活、そのことを神様があなたたちに求めている、パウロはそのように言っています。この、聖なるものとか聖なる生活という言葉を聞いて、皆様はどのように思われるでありましょうか。

 

 それは、この現代の日本社会にあって、日常生活を普通の人として生きているわたしたちにとって、そんな「聖なる生活」なんてできません、と言いたくなる、そういう言葉ではないでしょうか。

 

 というのは、その「聖なる」ということを聞くと、それが具体的に何を指しているか分からないけれども、とにかくそれは立派な生活であって汚れたものがない生活で、世の中のいろんな問題から一切から離れた、何かピカピカな生活と言いますか、清く正しい生活。そういうことを考えると、いや、とてもそんな生活はできません、とわたしたちは反射的に思うのではないか、と思うのですね。

 

 しかし、この「聖なる」という、この「聖(ひじり)」という言葉が使われるときに、では、このひじりという言葉は何を意味しているかと言うと、それは「区別をする」ということなのですね。

 

 人間の生活の中にある様々な、人間を蝕(むしば)むものから区別されたものとして、聖(ひじり)、聖なるものというものがあり、それが神様の領域のことであると考えられていたわけであります。人間の世界とは区別をするということであります。

 

 ですから、単純に何か清く正しい聖人君子の生活、何の問題もない、何の欲望もない生活、ということを言っているのではなくて、自分をむしばむものから区別された生活、そして神様の側にある生活、そういうふうに言っていいでありましょうか。

 

 自分自身が神や、神のようになるのではなくて、自分自身が神様の光によって照らされている、そういう意味で、この世の中の他のものと区別されるような生き方、そのように考えて良いと思います。

 

 パウロはここでそのようにして、自分が神のように清くなるのではなくて、自分たちが神様の光によって照らされて、世の中にある自分をむしばむものから区別された生活、それが教会の生活であるということを言ってるのであります。

 

 そしてその後に9節からこう言います。

 「兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように神から教えられているからです。現にあなたがたは、マケドニア州全土に住む全ての兄弟にそれを実行しています。

 しかし、兄弟たちに、なお一層を励むように勧めます。そして、わたしが命じておいたように落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば外部の人々に対して品位を持って歩み、誰にも迷惑をかけないで済むでしょう。」このようにパウロは教えています。

 

 兄弟愛。主イエス・キリストを信じる者同士が互いに自分たちを家族と考えて、ここで兄弟というのは、単に男性の兄弟という意味ではなく、家族ということですね。

 

 家族愛ということについてはあなたがたに書く必要はありません、ということと同じです。

 

 誰の家族か、イエス様の家族である父なる神様のもとで、主イエス様が長男であってみんな家族なんだ、そういう理解であります。

 

 もちろんそれは、現代のジェンダーとか性に関する考え方で行くと、父親また兄弟、男性を中心にした考えでありますから、現代においてはそうした男性優先ではなくて、お母さんも女性の姉妹も含めて、家族みんなで一つのものというふうに考えて構いません。

 

 そうした関係において生きる、ということについては、このテサロニケの教会の人たちは、すでにそれを実践していると。しかし、それをなお一層励むようにとパウロは言っています。そして最後に言っているのは、「わたしが命じていたように落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように務めなさい」ということであります。

 

 これは、パウロ自身が仕事をしていたことを背景にしています。パウロは、天幕作りという仕事をしていました。自分の生計を立てるため、自分の生活費を稼ぐための仕事としてです。天幕、それはテントということであり、動物の革を使ったテントと考えられています。

 

 その天幕作りの技術をパウロは持っていて、それによって自分の生活費を稼いでいた。だから、パウロが集めた献金は、パウロが自分のために使うのではなくて、他者のために献げていた。そのために献金を集めて他の使徒のペトロたちにも送金をしていた。そういうことがパウロの手紙の中に出てきています。

 

 そうした生活をすることによって、自分の独立生計の生活をすることによって、安定した落ち着いた生活があり、他の人たちとのバランスの取れた歩みです。伝道者だからといって、他者からの献金に全面的に頼らない生活をしていた。そのことは、伝道者だけでなく、信徒一人ひとりにもそのように生きることを促していたということであります。

 

 以上が、今日の聖書箇所です。最初の時代の教会の雰囲気というものが、わたしたちにも何となく伝わってくるような気がしないでしょうか。

 

 こうした文章を読んで、皆様は今日、いまここで何を思われたでありましょうか。パウロが説いている、この生活というのはどんなふうに思われますか。真面目で実直な生活であり、一つひとつが、ああなるほどな、というふうに受け入れられるような気がするのではないでしょうか。

 

 というのは、ここで書かれていることというのは、現代のわたしたちが教会という場にあって聞くときには、まあまあ良いことであり、そして、ああなるほどなと、なるほど教会というのはこういう生活習慣とか、いい家族のあり方というのを教えているのだなと。

 ああ、なるほどと思える、そういう意味では、読んでいてそんなに困らない、と言ったら変ですけれども、それほど戸惑わない箇所かもしれませんね。わたし自身も、今日の説教の準備をするときに、この箇所を読んでいて、何かいつもと違うな、ということを感じたのです。

 

 それは、今日の箇所を読んでいるときに、あまり緊張しないな、ということをわたしは感じたのですね。聖書の他の箇所を読むときには、というか、聖書を読むときにいつも、わたしはちょっと緊張するのです。

 

 こんなことが言われてるのか、これはどう読んだらいいのだろうか、今の自分の生き方でこんなことができるだろうか、というような何かの問いかけが聖書の文面にあって、それを読むときに自分と聖書の間の緊張関係が生まれ、その緊張関係の中で神様のメッセージは何だろうかと聞いていく。

 そこに、ある意味で、聖書を読む楽しさや面白さもあり、充実感があるのですけれども、今日の箇所を読むときには、あまりそういう、神様から強く問われるような緊張感を感じませんでした。

 

 まあまあ良い話、がここで言われている気がします。なるほど、この通りですね、と読んですっと終わってしまうような気もしたのであります。けれども、この箇所をずっと読みながら、だんだんと考えてきました。いや、ここに書かれてあることは、意外と難しいことかもしれない、と。

 

 それはなぜかと言うと、ここでの家族とか、あるいは男女、あるいは性ということに関して言われているときに、来週わたしたちの教会で教会ファミリーの日礼拝っていうことをしますけれども、「家族とは何だろう」ということを考えたときに、現代の日本社会にあっていろんな課題というか、問いかけというものが頭に浮かびます。

 

 家族の形というのは一つではない。性というものの考え方も一つではない。ジェンダー、それは社会的に考えられている性の違いという意味で、性差とも呼ばれますが、その区別をどう考えたらいいのだろうか、というふうに考えていくと、何だかちょっと難しい問題もあるな、ということをも考えるようになってきました。

 

 そしてだんだんと、パウロという人自身がどんなふうに考えていたか、ということにも思いが至りました。パウロは、ここで夫婦生活の大切さということを言ってますが、パウロ自身は独身の人でありました。独り身だったのですね。

 

 その人がこうして「家族とは」と、この箇所で書いているときに、どんな思いで言っていたのかな、ということも、これはわたし自身が独身の人間なので、ちょっと色々と考えるところがあります。

 

 そうしていろんなことを考える中で、いや、今日の箇所に書かれていることは、平凡なことのようだけれども、実はその中にいろんな問いを含んでいるな、ということも思ったのですね。

 

 そしてその中で、今日の箇所の中で、一番わたしの心に止まった言葉というのは、何かというと、6節の言葉なのです。「このようなことで兄弟を踏みつけたりあざむいたりしてはいけません。」

 

 家族や性に関すること、そのことに関して、兄弟を踏みつけてはいけない、というふうに書いているのですね。それは、何か倫理道徳の問題として、家族を大事にしなさい、とか、清く正しく生きなさい、と言うのではなくて、そういうことをしていると、あなたは兄弟を踏みつけてしまうよ、だから絶対だめなのだよ、とパウロは言ってるわけです。

 

 それで、今日の説教の題は「踏みつけない生き方」と題を付けさせていただきました。この「人を踏みつけない生き方」というものができるか、ということが今日の聖書箇所から問われています。

 

 ここには、パウロという人自身が生きてきた中で、自分が人を踏みつけてきた、という思いがあるのでしょうと同時に、パウロ自身も、わたしは人から踏みつけられてきた、という思いがあるのではないかと、わたしは想像するのです。

 

 結婚していないから、独り身だから、この人はどこかおかしな人だ、神の御心にかなわない人だと思われてきたのではないか、旧約聖書の律法に従って生きるならば、という前提でありますが、結婚生活であるとか、いろんな社会生活というものが律法に規定されている社会にあって、そこから外れた人、律法を守らない、あるいは律法の示す通りに生きることのできない人は、どんなふうに思われていたか。

 

  強い差別を受けていました。病気の人、障害を持っている人、何らかの形で貧しさによって律法を守ることができない人。そして、独身で生きている者も、そうであったのではないでしょうか。

 

 そのような中にあって、パウロ自身も自分の兄弟、同胞(はらから)からである人たち、同じ民族の人たちから踏みつけられてきた。そういう思いもあったのかもしれませんが、それはどうなのでしょうか。当時の社会の様子というのは、わたしたちにとって想像の域を出ないところがあります。

 もしかしたら、独身で生きるということが、神に仕える生き方としては、立派なことだと思われていたのかもしれません。そして、現代でもそういう感覚はあるかもしれませんね。

 

 しかし、どういうことであったとしたって、どうなんでしょう。家族ということを巡って、あるいは、性ということを巡って、わたしたちはどこかで、人との距離を計っている。そしてどこか、ドキドキしてるところもあるのですね。それは、自分が人からどんなふうに思われているか、という思いです。

 

 家族ということに関して、自分は人からどんなふうに思われているか、ということを考えるとき、いろんなことを思います。その中には、このわたしの苦労が、あなたたちに分かるのか? というふうな、そういう思いもあるのですよね。

 たとえば、たくさんの家族がいて、幸せそうに生きているように見えるだろうけれど、わたしの生活にどんなに苦労があるか、お前たちに分かるかと、何か叫びたくなるような、良い家族というものは、他人から見てそうであっても、そんな叫びを内側に抱えていることだってあります。

 

 そして逆に、独り身の人も思うのです。何か独身貴族とかと言われて、何か好き勝手に楽しく生きているように思われるけれども、わたしがどんな思いをして生きているか、あなたたちに分かります

か? と叫びたいときだってあるんですね。

 

 人間みんな、それぞれに言い出したら切りがない何かを内面に持っている。その中から何が生まれるか、どういうことが起こるか、と言うと、そこから兄弟を踏みつけるということが起きてくるのです。パウロはそのことをよく知っていたようであります。

 

 なぜ、兄弟を踏みつけるのか。人間には嫉妬っていうものがあります。「隣の芝生は青く見える」と言うことがありますね。他人の家族というものを見ていて、やっぱりいいなと思ったら嫉妬するところもあります。その一方で、わたしの苦労があんたに分かるか? という、そういう思いも生まれてくるのです。

 

 教会というところにあっても実はそうなんだ、社会というところにあってもそうなんだ。神を信じる信仰の中にあっても、わたしたちはそんな思いから完全に解放されることはない。まさに人間は罪人であります。

 

 だからこそ、パウロは言うのです。「聖なる者となりなさい。聖なる生き方をしなさい。それは聖人君子のように生きるということではありません。そうではなくて、実際の人間であるわたしたちは罪人としていろんなドロドロしたものを持ってます。それでも神様の光によって照らされてご覧なさいよと。神様のほうに顔を向けてみなさいよと。

 あなた自身は、神様に顔向けできないような人間であったとしても、そんな、あなたの顔を神様が照らして下さるのだよと。その神様の光に照らされた、あなたの顔を神様は見たいのだよと。

 それは、今日の聖書の箇所には、どこにもそんなことは書いていないことですが、わたしはあるときに、ある教会の一人の女性の信徒の方とお話しているときに言われたことがあるのです。「神様はあなたの顔が見たいのよ。お母さんが子どもの顔を見たいように、あなたの顔が見たいと思ってるのよ。」そう言って、わたしは伝道したことがあります、という、そういう話だったのですね。

 

 そういう一つのたとえ話と言いますか、言い方です。それは、聖書のどこにも、そんなことは書いていないことです。それは、その人自身の言葉なのです。けれども、その方が人に対して、イエス様とはどんな方であるか、神様とはどんな方であるかを伝えるときに、ご自分の母親としての経験から、そうおっしゃったのですね。
 

 神様はね、親があんたの顔を見たい、子どもの顔を見たいと思っているように、神様はあなたの顔が見たいんですよ。その言葉によって、イエス様のことを伝道したことがある、というある一人の女性信徒の言葉を、聞いたのはもうだいぶ前のことでありますが、わたしは思い返すのです。

 

 それは、家族というものには色々ある、そして、あなたが知らない家族の気持ち、というものがあるのですよ、ということですね。あなた自身は、母親になったことはないから、直接には分からないかもしれない。でもね、母親はこう思ってるのだよ、というときに、そこには、あなたが知らない親の思い、というものがあるよ、ということを言っているわけです。

 

 それは神様と人間の関係というときにも、神様は、あなたは神様になったことがないから神様のことがわからないんのでしょうけれど、でも、あなたの知らない神様の愛というのがあるのですよ、そのことを言うときに、それを聞いて、どう思うか、ということは、人それぞれであります。

 

 そんな言葉を聞いても、何にも気持ちが動かない人もいるかもしれません。でも、なぜか、わたしはその言葉を聞いて心が動いたのですね。ああ、そうなのか。そうなのかと。それまでずっと聖書を読んできても分からなかったような、神様の愛ということが、わたしの心に伝わってきた。そういうことを覚えています。

 

 そのようにして、神の愛ということについて、聖書に書かれた言葉がよく理解できなくて、その言葉のまわりをわたしたちはぐるぐる回っているのかもしれませんけれども、そんな思いの中で、ある一人の人間の言葉を聞いて、ああそうか、と思うときに、神の言葉は本当に生きていて、わたしたちの心の奥に届けられるのだな、そういうことに本当に気づく時があるんですね。

 

 そういう思いを、パウロもどこかでしていたのではないかと思うのです。パウロは、自分が目が見えなくなった経験、かつて律法学者として生きてきて、そのことによって兄弟を踏みつけてきた人生、その悔やんでも悔みきれないような過去の経験、いろいろなことを思い起こす中で、パウロが一生懸命に、最初の時代の教会において伝えたことは、兄弟を踏みつけない生き方ということでありました。パウロはそうして、神の愛ということを今日のわたしたちに伝えてくれています。

 

 そしてパウロは、自分自身が働いて暮らすという生き方も伝えました。パウロがしていた天幕作りという働きは、動物の革を使ってテントを作る仕事でありました。動物の革を使う仕事というのは、ともすれば人から見下げられていた仕事、なぜなら、動物の革を扱うということで汚れた仕事と思われ、社会の中にあって一段低い仕事と考えられていたということであります。

 そのような中にあって、そのパウロの生き方を、日本で言えばいわゆる被差別部落の人たちの生き方、皮革産業、動物の革を扱う仕事に重ねて考えることもできます。

 

 パウロは、社会の中で底辺と思われていた人たちの生活をすることで自分の生計を立て、社会の中にあって伝道し、神の家族として生きる生き方を世に伝えました。そこにある、人を踏みつけない生き方というものを、今日のわたしたちにとっても神様からの大切なメッセージとして、受け止めていきたいと願うものであります。

 

お祈りをいたします。

天の神様、一人ひとりの人生に神様からの問いかけがあり、また恵みがあることを信じます。どうか、わたしたち一人ひとり、自分に与えられた歩みの中にあって、家族というものの意味を考え、大きな意味で神様の家族として、またこの地球の社会全体が一つの家族として生きる、その恵みを分かち合っていくことができますように、どうぞ導いてください。
 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。

 アーメン。

 

「風の言葉、教会の誕生」 今井牧夫
 2024年5月19日(日) 
    京北教会 ペンテコステ礼拝説教

 聖 書  使徒言行録 2章 1〜13節 (新共同訳)

 

旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、

彼らが座っていた家中に響いた。

 

そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、
ほかの国々の言葉で話しだした。

 

さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、

信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。

そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、

あっけにとられてしまった。

 

人々は驚き怪しんで言った。

「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、

 また、メソポタミアユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア

 パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。

 また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、

 クレタ、アラビアから来た者もいるのに、

 彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

 

 人々は皆驚き、とまどい、
 「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。

 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、

 あざける者もいた。

 

(上記は新共同訳聖書をもとに、
 改行など文字配置を説教者の責任で変えています)

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 (以下、礼拝説教)  

 

 ペンテコステ(聖霊降臨日)の日を迎えました。本日の聖書に記されている通り、イエス様が天に挙げられた後、地上において祈り続けていた弟子たちに、天からの聖霊、神様の聖い霊が与えられたのであります。

 

 聖霊、それは目に見えない神様の働きであります。そして「三位一体」という言葉、これはキリスト教の神学の言葉で、三つの存在が一つのものである、という意味ですが、それは天におられる神様、そして主イエス・キリスト、そして聖霊、この三つの存在は、三つに分かれているけれども一つの存在である、お一人の神様がその三つの現れの形を取る、というふうに理解をしています。

 

 そうしたキリスト教の神学の言葉は、現代のわたしたちにとっては大変不思議に思いますし、なぜそう言えるのか、なぜそう言えるという理屈があるのか、ということについては神学的な話になってまいりますが、わたしなりに要約していえば、聖書に書いてあることを大まかにまとめていくと、そのように言えるということです、という、わたしはそんな説明しかできないのであります。

 

 けれども要は、聖書に記されている神様の働き、そしてイエス様の働き、そして目に見えない聖霊の働き、それらはみんな一つの働きから出ているのだ、ということなのですね。

 

 そして今日の箇所においては、その三位一体の神様の働き、神様の現れの一つである聖霊という、目に見えない神様のお働きというものが、弟子たちにどういう形で来たかということが記されてあります。

 

 2章1節にはこのように書いてあります。
 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると一同は、聖霊に満たされ霊が語らせるままに他の国々の言葉で話しだした。」

 ここには、風、そして炎、そして舌、霊、言葉、音、そうした単語が出てきます。これらがペンテコステのキーワードと言っていいでしょうか。そうした言葉がここに集中して記されています。そして、これらの言葉がまさにその聖霊の働きというものを象徴するもの、聖霊というものは目に見えないが、このようにわたしたちに現れるのだ、ということを示しているのであります。

 

 そして、このように起こったペンテコステの出来事で、弟子たち一人ひとりに神様の聖霊がくだり、弟子たちが色々な国々の言葉で話し出した様子を見聞きした、ここの周囲にいた人たちは大変驚いた、ということが5節以降に書かれています。

 

 「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まってきた。そして誰も彼も、自分の故郷の言葉で人たちが話をしてのを聞いて、あっけに取られてしまった。人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは皆、ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちはめいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか』」と言って、ここで当時の地中海沿岸などの各地の地名が記されています。

 

 そうした、いろいろな人たちが、この都エルサレムにはいた。そこでペンテコステの出来事が起こったときに、そうしたいろんな国の人たちがいたのですが、その人たちが驚いたというのです。

 

 そんなにいろんな人たちがいるのに、「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大なわざを語っているのを聞こうとは」と言って、驚いた人々は皆驚き戸惑い「一体これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ、と言ってあざける者もいた」とあります。

 

 いろんな国の言葉を弟子たちがしゃべっている。それは、そのそばにいる人たちにとっては、意味の分からない言葉をしゃべっているように聞こえたということなのです。たくさんの言葉を全部分かる人というのはいなかったと思いますから、一体どこの国の言葉か分からない言葉を弟子たちがしゃべっている、というふうに聞き取り、そして、これは新しいぶどう酒に酔っているのだ、と言ってあざける者もいた、と書いてあります。

 

 こうして今日の箇所を読みますと、ペンテコステの出来事というのは、随分変わった出来事であり、奇妙なことであり、周囲にいた人たちにとっては理解できないことであった、というふうな印象がわたしたちに生じてきます。

 

 しかし、これは単に何か奇妙なことが起こったという話ではありません。その後、14節からは「ペトロの説教」と新共同訳聖書では小見出しが付けられていますが、ペトロがこの場面から、聖霊によって力が与えられてイエス・キリストがまことの救い主であるということを、雄弁に、勇敢に説教するようになりました。

 

 その結果として何が起こったかというと、ペトロの話を聞いた人たちが大いに心を打たれて、自分たちはどうしたらいいのかと尋ね、そしてイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を許していただく、そのことによって、イエス様を信じた者たちに賜物として聖霊が与えられる、ということがペトロから告げられ、この日三千人ほどの人が洗礼を受けて教会に加わった、というか、このときに世界で初めての教会が三千人の人たちによってできた、ということが言えます。

 

 そして、その人たちはお互いに助け合って生きました。
 「信者たちはみな一つになって全てのものを共有し、財産や持ち物を売り、各々必要に応じて皆がそれを分け合った。毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心を持って一緒に食事し神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして主は、救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」

 これが2章の締めくくりの言葉であります。

 

 こうして見ますと、ペンテコステの出来事というのは、何か奇妙な出来事が起こったということではなくて、一見、あるいは一瞬、驚くようなことは確かに起きた、しかし、そのことのもたらした実りというものは、教会というものが神様によって誕生させていただいた、ということであり、その教会に集う人たちが互いに助け合って神様を礼拝し、お互いの生活を支え合いながら、みんなで生きていく、そういう教会が出発した。そういうことなのであります。

 

 そして、その教会はこのときに始まって、世界中へ伝道し、そしていま、今日わたしたちはこの京北教会という場所が、このペンテコステの出来事の結果として今ここにあり、わたしたちは集っているのであります。

 

 今日のこの箇所を読んで皆様は何を思われるでありましょうか。

 

 今日の週報の報告欄に書いてありますけれども、わたしは、京都教区定期総会が昨日、一昨日、金土とありまして出席をしてまいりました。わたしは今、教区総会議長に選ばれておりまして、6年目になりました。3期目の6年目であります。

 

 教区議長の仕事をすることは、わたしにとって大変なことであります。二日間に渡って総会をいたしました。議員の方たちが100人近く集まってきます。関係者、准議員も含めると100人以上の方々が集う二日間の総会を、議長としての責任によって運営していくことは、わたしにとって大変なことでありました。クタクタになることでした。

 

 昨日、そのクタクタになる総会が正午に終わって、この教会に帰ってきたのでありますが、もう1時半頃になり、とにかくお腹が減っていて、何か食べなくてはいけないと思いながら、何を食べようかと思っても、何も食べたいものというのが思いつかないのです。では、もうカレーでいいかと思ってカレーを食べに行きました。それでカレーの店へ行って、そのとき、はっと気が付いたのです。

 よく考えると、金曜日の昼間の食事がバザールカフェのカレーだったのですね。総会の1日目はカレーだったのです。そして晩は、そのカレーの残ったのを持って帰ってください、と言われて持って帰ったのが金曜日の晩御飯だったのですね。そして土曜日の朝ご飯は自分で作りましたけれども、もうクタクタになって帰って来た土曜日の昼すぎ、もう何でもいい、という感じで、とりあえずどこかへ行こうと思って行ったら、カレー屋さんだった、ということは、わたしは何も考えていなかったということですね。あまりに疲れすぎていて、もう何を食べたいとか、そんなことも考えられなかったのです。

 

 そして土曜日の夕方に、バザールカフェ、これは京都教区が関わっている喫茶店なのですが、そこで毎月一回、バイブル・シェアリングと言って、聖書の言葉を読んでみんなで思ったことを分かち合う時間があって、わたしはいつも行っているのですが、そのバイブルシェアリングに行きましたら、そこで晩御飯に出していただいたのが、やはりカレーだったのですね。

 

 わたし、二日間で4回カレーを食べたのは、人生で初めての経験かもしれませんけれど、もう何も考えていないぐらい、疲れた総会の最後の締めくくりが、やはりカレーだった、ということで神様の恵みと思っておいしくいただいたのでありました。

 

 その京都教区総会の中で、わたしにとって一つ心に残る場面がありました。いろんな場面がたくさん心に残っているんですけれども、一つだけご紹介いたしますと、これは二日目の土曜日の午前中の議事なのですけれども、建議案といって、元々の議案になっていない議案、その総会の中で議員の方から新しく提案される議案というものがあるのです。

 

 その建議案が二つありまして、そのうちの一つが、ちょっと難しい内容でもあるのですけれども、出入国管理及び難民認定法っていう法律がありまして、外国人の方々を日本においてどう位置付け、どう受け入れるかという、そういう趣旨の法律についての声明を出すという建議でした。

 最近よく言われますが、日本でも外国人労働者の方が多いです。その方々の立場をどう保証するか、ということに関わる法律なのですが、それが非常に悪い方向に改定されるように向かっているということから、そのことに京都教区としてやはり声を挙げて、もっといい法律を作って下さいと言う、そういう声明文を出したい、という提案で、京都教区には社会部って言いますか、「教会と社会」特設委員会という委員会があり、その委員会の方々がしっかり準備してくださった建議案でありました。

 

 その建議案が出て、概ね皆さんがこれに賛成という空気なのでありましたが、その議論のときに一人の方が手を挙げて、こういう発言をされたのですね。「わたしは、この議案に賛成なのですけれども、この議案を提案するにあたって、提案者の方は聖書のどういう言葉を思い浮かべられましたか、というふうに尋ねられたのですね。

 それを聞いて、議場の皆さんの雰囲気は、ちょっと意外な質問、という感じでした。そう思ったのはわたしだけだったかもしれませんけれども、そういう社会的な課題を扱うときに「聖書の言葉は」というようなことは、あまり言われないのですね。けれども、そういう質問が出たときに、ああなるほどな、と思ったのですね。

 

 つまり、ここで扱うのは、社会的な課題、人権の課題、外国人の人権の保証という問題なのですけれども、それを教区として、あるいは教会として取り組む、というときに、そこでどういう聖書の言葉が力になっているか、ということですね。

 

 その議場では、建議の提案者の方は、すごく迷いながら、聖書の言葉のどれか一つではなくて、聖書全体です、とか言いながら、それでも「良きサマリア人のたとえ」とか「あなたの隣人を愛しなさい」とか、しどろもどろになりながらも、答えて下さいました。

 

 わたしは、その様子を議長として見ていましたけれども、わたしの心の中には、確か申命記だったと思うのですけれども、「あなたたちの中の寄留者をしいたげてはならない」という言葉、これは旧約聖書の言葉ですが、そういう言葉があるのですね。これは、あなたがたは、その寄留者を虐げてはならない、なぜならあなたたちもエジプトで寄留者だったからである」、そういう言葉があるのです。

 

 それは、旧約聖書出エジプト記申命記に書かれてることなのですけれども、イスラエルの人たちはかつて、飢饉で食べるものがなくてエジプトの国に移住した、そこで奴隷とされて苦しんできた、つまり移住した国に寄留して、そこで抑圧される苦しみを知ってきた、そこから脱出したのがイスラエルの人たちですね。

 

 だから、寄留の人たちの苦しみを知っているのだから、今度はイスラエルの人たちの中の寄留者を虐げてはならない、そういう聖書の言葉がわたしの心の中には浮かんでいました。けれども、それを議長の立場で言うと、何か答えを言ってしまうようで、それはちょっと黙っておこう、と思ってずっと黙っていたのであります。

 

 けれども、教区総会の全体は、いろんな議事があって、もう結構大変なこともあり、わたしは議長として大変だったのですけれども、その総会の中で、その聖書の言葉の話が出たときだけは、何か他の議事の話をしているときとは違う、風が吹いてきたようにわたしは思ったのですね。

 

 社会的な課題だから、こういう話、ああいう話、というそれだけではない、何か一生懸命にみんなで話し合ってる、この場面の横からふっと風が吹いてきて、えっ、何だろう、と振り返ったところに、そこには何もないのだけれど、誰もいないのだけれど、それでもその風が吹いてきて、何かハッとするものがあった、そういう気持ちが与えられた、そういう思いがしたのです。

 

 そして、いま、わたしたちはペンテコステ聖霊降臨日の聖書の箇所を読んでいます。ここには「風」という言葉が出てきています。「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ」とあります。「風が吹いてくるような音」とありますから、実際には風は吹かなかったのかなと思いますが、しかし、その風ということは大事なことですね。

 

 風というものは、目に見えない姿で、わたしたちに何かを伝えてくれる存在です。神様のメッセージというものは、そういう形でわたしたちのところにやってくる、ということを今日の聖書箇所は示しています。

 

 皆さんは風という言葉がお好きでしょうか。風という言葉を聞いて、好きと思う人のほうが多いのではないかなと想像しますけれども、わたしは自分でちょっと考えてみたときに、わたしも風という存在は好きなのですけれども、一方で風というのは、ちょっと寂しい感じもするなと思ったのですね。

 

 風が吹いているけれども、そこには何もなかった。なんていう、そんな表現もあるかと思います。風がただ吹いているだけだった……というと、何か虚しい感じがしますね。風というのは、爽やかな風、心地よい風もちろんありますが、一方で何か虚しい、寂しい、何もない、そんなことを示す言葉でもあります。

 

 そして、この風という言葉をいろいろ考えていくと、なぜ、わたしは風という言葉が好きなのだろう、と思ったときに、いろいろ考えていると、「風の便り」という言葉があるな、ということに気がついたんですね。

 

 「風の便りで聞きました」、そういう言い方がありますね。そうだ、あの言葉がわたしは好きなのだ、と思いました。この「風の便り」という言葉は、何かあやふやな言い方ですね。「ちょっと風の便りに聞きましたけれども」とか言って、誰から聞いたとかは言わずに、どこかで誰かから聞いたけれど、あれはどうだったのですか、みたいなことを聞く。

 そこには、あいまいな言葉遣いがあり、そしてまた、はっきり知っているわけではないけれど、というニュアンスがありますね。はっきり聞いたわけではない、つまり、確かではないかもしれない、しかし、わたしは聞いたという。その「風の便り」というものは何かと言うと、人の消息ということですね。

 

 あの人は今どうしているのだろう、とか、あの人は今どうしているのだろう、という、人の消息

が気になる、ということです。「風の便り」とか、「風の知らせ」というもの、それはわたしが普段忘れている、あの人のことをふと教えてくれるものです。

 そして、その風を受けることによって、あの人は今どうしてるんだろう、と思うときに、このわたしとは直接に関係が近くはない人、関係が遠い人、ときには、どこかで1回会っただけの人とか、本当にもう関係ないというか、そういう人たちのことも含めて、「風の頼り」によって人の消息を知ること、そしてその人のことが気になること、それはとても大事なことではないかな、ということを考えました。

 

 今日の聖書箇所においては、ここに記されている物語は、これが歴史の事実として実際どういうことが起こったのか、ということをわたしたちは確かめることができません。タイムマシンに乗って、ペンテコステのこの時代の世界に旅をして、ああ、実際はこういうことだったのか、と見ることはできないのですね。

 

 ここに書かれていることは、とても伝説的なことであります。こういうことがあった、と書かれているけれども、実際にどういうことがあったのか、ということは確かめることができない。そして、また、聖書学の研究と言いますか、そういうことを踏まえて言いますと、こうした物語というのは、こういう出来事が起こったときに、それをたとえば新聞記者が取材して記録した、というふうなことではなくて、ずっと時間が経った後に、後から考えて、そしていろんな人の言い伝えを探してまとめていく、そういう物語なのですね。

 

 教会というものが、地中海沿岸から世界各地に広がっていった、そのずっと広がっていって各地に教会ができた、その後の時代になってから、では自分たちの教会は元々どこから生まれたのだろう、ということを知りたくなる、聞きたくなる、そういう人たちが生まれてくるのです。

 

 その人たちが、この教会は元々どこから出発したのですか、とその教会にいる一番古くからいる人に聞きます。すると、その人が教えてくれた話はこんな話であった、そういうふうな話をつなぎ合わせながら、まとめて編集し、そしてわたしたちの教会の出発点はこういうことであった、とまとめあげたのが、今日のペンテコステの聖書の箇所であるとわたしは理解をしています。

 

 ですから、事実そのままがこれであったか、ということとは関係なく、最初の時代の教会を生きた人たちの信仰はこうであった、ということなのです。それは、どういうことかと言うと、教会というものは人間が作ったのではないのだ、ということなのです。

 

 神様の聖霊が降(くだ)って、そこで初めて教会は生まれた。それは人間の力で生まれたのではない。弟子たちが祈り続けているときに、主イエス様が約束してくださった聖霊が降って、そこから弟子たちは勇気が与えられ、言葉を語る勇気が与えられ、それだけではなく、世界中の言葉を語る力が与えられた。そのことはわたしたちにとって、とても不思議に思うことですけれども、そういうことがなかったら、世界中に教会がこんなに広がることはなかったはずだ、と人々は考えたのです。

 

 そして、こうした聖書箇所の解釈なのですけれども、こんなふうに世界中の国の言葉を話し始めた、なんて実際にはありえない、というふうに考えることも、もちろんできるのですけれども、一方で、この箇所を読んで、こういうことというのはあり得るよ、と言った方もおられるのですね。

 

 とても知識のある方ですけれども、こういうことを言われた方があります。当時の人たちは何カ国かの言葉をしゃべることが元々できたという人たちがいたと。地中海の沿岸の町々に生きていて、いろんな文化に触れていて、自分の出身の国の言葉、それから仕事先の言葉、そうした複数の言葉を使い分けていた時代です。

 その中で普段使う言葉は一つだったかもしれないけれど、しかし、そうした言葉というものが何かのきっかけによって語りだされる時に、実は一人一つだけの言語ではなくて、いろんな国の言葉がしゃべることができた。そして、いろんなところから集まっている人たちが、一斉にしゃべり出したら、まさにこんなことが起こっていたのではないか、そんなふうな想像もできるらしいですね。

 

 それでいくと、このペンテコステの出来事というのは、後の時代の人たちが作った伝説、作ったというか編集した伝説的な話だ、というだけではなくて、いや、まさに本当にこういうことがあったのではないか、と考えることもできる、そういう話なのですね。

 

 先ほど、わたしは「風の頼り」という言葉を言いました。それは、人の消息を知るという意味なのですね。今日の聖書の箇所を読んで、ペンテコステというものがどんなふうなものか、皆さん一人ひとりの心の中に、いろんなイメージができたと思います。

 

 これは良いな、と思った人もいるでしょうし、いや、わたしには分からん、と思った人もいるかもしれません。皆様それぞれにペンテコステのイメージがあっていいと思いますけれども、わたしにとっては、今日の箇所にあることというのは、とにかく不思議な何かの出来事が起こった、というようなこと以上のことなのです。

 

 もちろん、不思議な出来事も大事なのですけれども、それ以上に、「風の頼り」のように神様からやってくる知らせというものがあって、それはまさに風が吹いて来るように、わたしのところにやってくる、その風が吹いて来たときに、わたしは気になるんだ、ずっと会っていなかった、あの人のことが。そんな思いこそが、ここで大事なのではないかな、と思ったのですね。

 

 なぜかと言うと、今日のペンテコステの話は、世界最初の教会が生まれたという話なのですが、教会とは、どういう所だと思いますか。これは、皆さんいろんな答えがあると思いますけれども、わたしもいろんな答えを持ってるのですが、教会というものが持っている意味の一つはですね。あの、何て言いますかね、人が気になる場所なんです。みんなどうしてるかな、とか、あのときに礼拝に来ていたあの人はどうしてるかな、今どうしているかな、教会に行っていたら、いつかまたあの人と会えるのかな、そういう不思議な感覚ですね。

 

 たとえば教区総会というのは、そういう場所なのです。あの人は来るかな、来るかな、来るかな、あ、来てた。とか、あ、来てなかった。とか色々思うのですけれども、教会っていうのはそんな風にどこかで「風の知らせ」「風の便り」を聞くところであります。

 

 教会の働き、それはたくさんありますけれども、その一つは、人の消息を知ることであり、そしてその人のことを気にする、気になる、その人のことを思う、そしてこのわたしもまた、いろんな人から「風の便り」で思っていただいているのではないか、そう思ったときに、定期教区総会で疲れ果てた心と体も、何か癒されるような気がするのであります。皆様はいかがでしょうか。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、わたしたち一人ひとり、それぞれ自分の人生を歩んでいます。違った場所において、いろんな条件のもとで、いろんな課題を与えられて、ときには本当に苦しくて苦しくて仕方がないようなときもあります。その中にあって、わたしたち誰もが、たった一人で生きているのではない、仲間がいる。遠くであっても近くであっても、仲間がいる教会、という大きな仲間の群れがある。わたしたちがその群れにつながっていくことができますように。そして、そのことにおいて、本当にペンテコステの出来事につながり、イエス様につながり、神様につながって、一人ひとり自分自身の歩みをしていくことができますように、どうぞ守り導いて下さい。
 この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。
  アーメン。