
<きょうほく・きょうかい>
「虹の架かる教会」京北教会ブログ
「1月17日(日)のこと」
「2月14日(日)のこと/マーマレード作り」
(ブログ作成の関係で、今回は2回分を掲載)

週報掲載 「宣教のことば」
「イエスは、何が人間の心の中にあるかを、
よく知っておられたのである。」
神殿で商売をしていた人たちに対して、
主イエス・キリストは厳しく叱り、
実力行使で追い出しました。
それは、ここで商売をしていた人だけでなく、
こうした神殿のあり方を批判することでした。
しかし、神殿にお参りに来る人たちにとっては、
ささげる犠牲(羊や鳩など)を買ったり、両替が必要でした。
だから、そのための商人がいることは、
人々の信仰を支えるためには、当然のことです。
それなのに、どうして主イエスがそんなことをしたのか、
私たちは深く考えてみる必要があります。
この、神殿での主イエスの怒りのふるまいは、
通称「宮きよめ」と言われています。
私たちは、一つの出来事がおきたときに、
その原因や背景、また今後の影響などを、
様々に考え合わせつつも、
最終的には自分にとっての利害関係を基準に、
判断することが多いものです。
けれども……
利害関係だけで判断するならば、
主イエスの、この行動の意味はわからないでしょう。
何が人間の心のなかにあるかを、
主イエスは知っておられます。
人々の心を、叱るのではなく、清めてくださったのです。
御自分の存在をかけて、
私たち一人ひとりを、清めてくださっているのです。

教会庭の夏ミカン収穫を、来週、
1月24日(日)礼拝後に行います。
作業に皆様のご協力を願います。
2本ある樹のうち片方は、
実が昨年よりもずっと少ないです。

「あなたの慈しみはわたしを超えて大きく、
深い陰府(よみ)から、
わたしの魂を助け出してくださいます。」
詩編 86編13節

週報掲載 「宣教のことば」
「主よ、渇くことがないように、また、
ここにくみに来なくてもいいように、
その水をください。」
井戸に水をくみにいくのは、
聖書の時代には女性の仕事で、
なんてことのない日常のありふれた風景で、
けれども正午ごろに水をくみに来るのは、
習慣から外れていることなので、
この女性は他の人たちと顔を合わせにくい、
理由があったようです。
それは家族関係の何らかの事情だったのだろうと、
この場面の一連の記述から推察できます。
こうして井戸端で、主イエス・キリストと、
出会うことになりました。
イエスが語る言葉は、なんだか不思議なことで、
この井戸の水をくんで飲む人は誰でもまた渇くけれども、
わたしが与える水は、その人の内で泉となり、
永遠の命に至る水がわき出る、ということでした。
こんな形で、聖書のなかの福音書には、
人が生きるために必要な水ということから転じて、
神から与えられる、みずみずしい恵みを伝えます。
日常のなかに、こんな泉がありますように。
そう祈ります。