<きょうほく・きょうかい>
「虹のかかる教会」京北教会ブログ
2012.12.30付 「クリスマス礼拝/イヴ燭火礼拝」
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2012年 12月30日(日)
「12月30日(日)のこと/クリスマス礼拝の説教」
今日は雨の日でした。
2012年 12月30日(日) 京北教会 聖日礼拝
聖書 ルカによる福音書 2章 22~35節
説教 「安らかに去らせて」
讃美歌21 361「この世はみな」
482「わが主イェス」
258「まきびとひつじを」
出席者数 17人 毎年、この時期は減ります。
礼拝後 いつものお茶のときは無しにして、
クリスマスの物品を、
みんなで協力して片付けました。
イブの燭火讃美礼拝の手持ちキャンドル台から、
溶けたローソクをこそげとり、来年に備えます。
リースも来年のために、きれいにしまっていきます。
クリスマスツリーも来年のために、きちんとしまいます。
以下は、先週の礼拝説教です。
2012年 12月23日(日) 京北教会
クリスマス聖日礼拝説教 「星を見つめ続けよう」
聖書 ルカによる福音書 2章 1~7節
「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、
マリアは月が満ちて、初めての子を産み、
飼い葉桶に寝かせた。
宿屋には彼らの泊まる場所が、
無かったからである。」(7節)
星を見つめて旅をして、そこでイエスが生まれました。
当時は方角を示す唯一のものは、星でした。
夜も歩いて急ぎの旅をするには、
星を見つめ続けることになります。
クリスマスがお祝いされるようになったのは、
実際のイエスの誕生から、数百年も経った後からです。
最初の教会においては、そんなに大事でなかったようです。
イエスの誕生の物語は、ロマンチックではありますが、
それゆえ「お話」っぽくて、重要な使信とは思えなかった?
…のかもしれませんね。
けれども、クリスマスって、大事じゃないですか?
世界で今もクリスマスは大きな行事です。
もしかしたら、クリスマスが無かったら、
それほどに大切なものだったのですよ、実は。
クリスマスが無ければ、キリスト教は「大人向け」の、
いわば人生哲学みたいなもんで終わっていたかもしれません。
クリスマス(のお祝い)があるために、
キリスト教は、子どもも大人も含めた、全ての人への、
全ての世代へのメッセージとなったのではありませんか?
では、クリスマスはいったいどんなメッセージを、
全ての人に向けて発信しているのでしょうか。
その一つは勇気です。
クリスマスの物語は、勇気を与えます。
マリアもヨセフも、受け入れがたい自分たちの運命を、
勇気を持って受け入れました。
なぜ、神の独り子、世の救い主としてのイエスを、
我が子として産むのか。
なぜ、その親となるのか。
マリアはまだ結婚していないのにみごもり、
ヨセフは実直で、律法に違反する結婚はしたくないのに、
彼女と彼は、自分たちに「降ってきた」、
その事実を受け入れます。
なぜ、それが出来たのか? なぜ、その勇気が出たのか?
聖書は、それは神様がそう導いてくれたからと語ります。
天使やら夢やら、羊飼いやら博士やらが出てきて、
窮地に陥った二人を、神様が救ってくださる、そこから、
勇気が与えられたと聖書の物語は示しています。
神様が私を救ってくださったから…。
しかしながら、本当にそうでしょうか。
確かに、今の時代でもそのように、
「神が私を救ってくれた」と、
自らの経験を人に語る人がいます。
それは、おそらく、よいことなのでしょう。
けれども、そうした経験があるからといって、
それは「神様は本当に存在する」という実証になるでしょうか?
人は時と共に成長します。
神に救われた経験があったとしても、いつかは…
この世界には本当には神様なんていない、
ただ自分がそう思った、感じた、だけなんだと、
振り返らざるをえなくなるときだってあります。
科学的な見方があり、また世界の情勢を見る見方があり、
人間の心理を解明する見方があり、その他いろいろあって、
神を信じる心と、現実世界との矛盾が大きくなれば、
人はいつか、自分にとっての神様の存在を考え直します。
あれは、私がそう思っていただけで、
神様なんて、本当は存在しないのかもしれない…。
しかし、そう思うと、今度は別の問いが生まれます。
神様が本当は存在しないのだとしたら、
では、あのとき、私を救ってくれたのは、
いったい誰だったのだろう? 何だったのだろう?
現代の私たちが、
「神様なんて本当は存在しないんだよ」と、
そのように、
マリアとヨセフに、
とても優しい言い方で、
相手の気持ちを尊重しながら、
懇切丁寧に、誠実さをもって、
その根拠がよくわかるように、
じっくりと時間をかけて、
教えてあげたとしたら、
二人はどうするでしょう。
神様がいらっしゃると信じたからこそ、
それによって救われて、
ようやく、なんとか、
自分たちの運命を受け入れたのに、
神様は本当は存在しないのだとしたら、
…では、自分たちを救ってくれたのは、
誰だったのだろう?
あれはいったい、何だったのだろう?
マリアとヨセフのそんな葛藤に満ちた問い、
(というものが本当にあれば)
それは、現代を生きる私たちにとっても、
全く同じ問いです。
神に救われたと思っていたのに、
それがそうでなかったとしたら、
では、誰が、何が、
この私を救ってくれたのか…?
それに対する答えは、
私を救ってくれたのは、
おそらく…
私なのでしょう、ということです。
自分の知らない自分、
自分がまだ気がついていない自分が、
私の中で勇気を出させてくれたのです。
きっと、マリアも、ヨセフも、
自らが勇気を出したのです。
そして、私たち一人ひとりも!
話は少し飛びます。
「サンタの学校」というものがアメリカにあるそうです。
サンタさんが勉強している学校ではなくて、
子どもたちにプレゼントをあげるサンタになるために、
普通のおじさんやおじいさんが、
サンタ・クロースになるための勉強をする学校です。
期間は一週間、費用は約3万円とのこと。
サンタの服装をきれいに身につけ、
髪の毛もひげも、真っ白に美しくメイクします。
子どもたちからの質問に答えるための勉強もします。
煙突の無い家にはどうやって入るとか、
トナカイはどこに留めているのか、などなど。
そうやって、見た目も、中身も、
ばっちりと、全てがサンタらしくなっても、
まだサンタ・クロースになるには駄目だそうです。
外見や言葉をサンタらしくしたとしても、それではまだ、
子どもたちはサンタだと信じてくれないからだそうです。
本当にサンタ・クロースになるために、大切なこととして、
その学校で、一番大事にしている教えは、
「自分がサンタ・クロースだと信じること」だそうです。
現代の、フランスの哲学者でキリスト信徒である、
ミシェル・アンリは、次のように言います。
「実際、生きるとは、『自分自身を感じとること』、
『自分を自分に明かすこと』に他ならない」。
(『キリストの言葉』ミシェル・アンリ著より)
神を信じることは、自分が自分でなくなることではなく、
自分のまだ知らない自分の正体が、自分に明かされていく、
そういうことなのでした。
あなたには、あなたを救う力がある。
神に救われたと思っていたあなたが、
たとえ何年かして、
神は本当はいないんだと思ったとしても、
それは絶望することではなく、
自分自身の本当の姿、勇気ある自分が、
かつて、そこに、本当にいて、
この私を救ってくれたんだという、
驚くべき事実を発見するときなのです。
そして、それ以上に大きな発見が、
さらに、あなたを待っています。
あなたを救ったのは、あなたの勇気だと、
気がつかせてくださる、まことの神がおられると!
あなたが、自分自身の正体を知ることができるようにと、
全てを導いてくださる、まことの、慈しみ深い、
愛に満ちた、あなたの神様がおられます。
マリアも、ヨセフも、そして私たちも、
そのことを知るのが、クリスマスです。
マリアも、ヨセフも、勇気を出して旅をしました。
それは、星を見続けることによって、
方角を間違えずに、夜道を急いで歩く旅でした。
方角さえ間違わなければ、道のあいだに出会う様々なことも、
勇気をもって、ときには切り抜け、ときには受け入れ、
そうして、いつしか、思いがけないときに、
クリスマスのときに、たどりついたのでした。
神様を信じるからこそできた、
その旅の、もうひとつの意味は、
自分を知り、自分を信じる旅であったということです。
ヨセフもマリアも、そして私たちも、
神の名のもとに勇気を出して、
自らの運命を引き受け、
そしていつか、己を知るのです。
神の導きが引っ張り出してくださった、
その、大切な己を。
イエス・キリストの恵みと共に。
今日、12月30日(日)の年末聖日礼拝を終えて、
この1年間の全ての聖日礼拝が終わりました。
今日の礼拝説教の題は「安らかに去らせて」です。
ルカによる福音書の2章22~35節にある話からです。
老いたシメオンという人が、
神殿にお参りに来たヨセフとマリアが連れた、
赤ちゃんイエス様に出会って、
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、
このしもべを安らかに去らせてくださいます。
私はこの目であなたの救いを見たからです。」(29~30節)
…と語る箇所からでした。
神の恵みを証しして、生き続け、そして、
区切りが来るときに、安らかに去っていく老人、シメオン。
もう、思い残すことはない生き方を、
それまでにしてきた人でした。
もうすぐ、2012年が去っていきます。
いろいろあった、この年も、
安らかに去らせてあげましょう。
不安なこと、困ること、いやなこと、
うれしいこと、楽しいこと、おもしろいこと、
いろいろあったけど、この年も、もうおしまい。
クリスマスの恵みを区切りに、
新しい年、2013年を、
神様から、新しくいただきましょう。
みなさん、良いお年を!