2012.9.2
「虹のかかる教会」京北教会ブログ
─創立103年目の歩み─
記事はこの下にありますので、スクロールしてご覧下さい。
(注)ヤフーブログでは、最近、トップ画面に広告が入り、
左の欄の幅が広がって、全体に読みにくくなりました。そこで、
広告が目に入らずに記事を読めるように、ブログの冒頭の体裁を変えてみました。
ここからが本記事です。
2012年 9月2日(日)
日曜日の礼拝の受付。
玄関の扉を開け放したところなので、
暑い季節、寒い季節、ここで受付をされることは、
お体にこたえるだろうと思う。
けれども、毎週、当番を組んで受付される方々は、
「大丈夫です」と、言ってくださる。
感謝に堪えないことです。ありがとうございます。
教会を初めて訪ねてこられた方が、
最初に出会う方は、受付の方。
とても大切な働きをしていただいている。
今日の奏楽者は、初代リードオルガン(1916年or17年製造)を、
用いて弾いてくださった。
聴く者をつつみこんでくれるような低音が、
礼拝堂によく響く。奏楽者に感謝。
2012年 9月2日(日) 京北教会 聖日礼拝
聖書 ルカによる福音書 10章13~20節
説教 「人の勝利の影に」
讃美歌21 17「聖なる主の美しさと」
58「みことばをください」
430「扉の外に立ち続けて」
出席者数 23名
礼拝後 ・軽食
・9月定例役員会
今日は、茄子のたっぷり入ったチキンカレーでした。
おいしかったです。カブの酢漬けが、よく合いました。
ご用意くださった皆様、ありがとうございました。
そして今日は、おみやげとして、韓国のノリをたくさん、
いただきました。お友達からのいただきもの、とのこと。
塩味とゴマ油の味付けでおいしい。
暑い日々が続くなか、手軽な塩分補給にもなりそうな…。
この韓国ノリを、た~くさん、いただきました。箱いっぱい!
みんなで山分けしました。ありがとうございます。
礼拝後の集会室の風景。
京北教会では、誕生日のお祝いや、初めて教会に来た方への歓迎、
またお見舞いなどに、毎週、教会の手作りカードを用意して、
皆様にサインをしていただき、発送している。
いま使っているカードは、教会庭のむくげの花の写真。
その次のカードには、教会庭の酔芙蓉の花の写真。
担当の方、カードの印刷をいつもありがとうございます。
そして、サインくださる全ての皆様に感謝。
集会室の後ろの机には、それらの、
教会から発送するカードや、
教会あてにいただいた暑中見舞い等のカード、
他教会のコンサート等のチラシを置いている。
そして、この京北教会ブログを、
毎週プリントしていただいた束も置いている。
パソコンを使っておられない方にも、
この「京北教会ブログ」を見ていただきたいと思って、
教会員に毎週印刷していただいたものを、
ここに置いて、どなたも見られるようにしている。
実際、教会からの帰り際などに、
いろんな方に見ていただいている。
また、プリントしたブログを、
ご自宅へ届けてほしいと願われる方もおられる。
そのようにして、様々な方に、
見て喜んでいただいていることに、感謝。
…と、ここまで書いたところで、
今回のブログは、記念すべき(?)、
100回目の作成であることに気づく。
2010年8月9日(月)に開設して、2年が過ぎた。
見てくださる方がおられるから続けることができた。
アクセス数からいうと、他の様々な種類のブログとは、
比べものにならない少なさだが…、
教会のブログにとって、大切なことは、
「教会に行ってみようかな」と思った方がご覧になって、
「ここなら良さそう」と安心していただくこと。
そして、遠方や療養中などの教会関係者に見ていただき、
教会の交わりと祈りをつなぐ橋渡しになること。
それらのためになれば、と思って毎週コツコツと作成。
そうして、100回目…。
見ていてくださる方々がおられるから、できたこと。
ありがとうございます。
9月2日(日)週報掲載 <宣教のことば>
「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを、
喜びなさい。」
(ルカによる福音書10章20節)
イエスによって町や村へと、遣わされた弟子たちが、
人々に罪のゆるしを宣教し、病をいやし、
人々の中から悪しき力を追い出すことができて、
喜びにあふれて帰ってきたときに、
それを迎えたイエスの、弟子たちに対する言葉です。
使命に基づいて働いた自分たちが、
どんな素晴らしいことができたか、と喜ぶのではなくて、
神様があなたがたの働きをそっとご覧になられて、
御心の中に憶えてくださっている、
そのことをこそ、喜びなさいと言われたのです。
遣わされた彼らが、町や村で宣教していたときのこととして、
イエスは、「私は、サタンが稲妻のように、
天から落ちるのを見ていた。」と語りました。
地上で彼らが宣教していたとき、
天から人を支配していた悪しき力が、
稲妻が落ちるように、転げ落ちていったのを見た、と…。
これは超自然的な表現ですが、力強い言葉です。
教会の宣教は、天の神様の御心に呼応する力なのです。
悪に打ち勝つのは神。
人は、その御心にそって、
与えられた小さな働きにいそしむのです。
それで、もう、充分です。
人の勝利の影には、様々な欲望や優越感があります。
ときには「悪に勝ったぞ」と思って、おごり高ぶるのです。
それよりも大切なことに気づくようにと、
イエスは私たちに願っておられます。
教会庭に、名を知らぬ花が、いつのまにか咲いていた。
教会庭の草木の葉が、枝の先端付近から、
紅葉してきていることに気がついた。
暑い夏の気候はまだ続くのだろうが、
暦は秋に入り、草木も秋へと向かいだした。
伸びていこうとする枝。
その先端に“秋”が、ほのかに現れ出ている。
もう、そんな時期なのか。