京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2023年8月の説教

 

 2023年8月6日(日)、 8月13日(日)、

 8月20日(日)、8月27日(日) 礼拝説教

神の国はあなたがたの間に」
  2023年8月6日(日)京北教会 平和聖日礼拝説教

 聖 書  ルカによる福音書 17章 20〜24節 (新共同訳)


 ファリサイ派の人々が、
 神の国はいつ来るのかと尋ねたので、
 イエスは答えて言われた。

 「神の国は、見える形では来ない。
  『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
  実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

 それから、イエスは弟子たちに言われた。

 「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。
  しかし、見ることはできないだろう。

  『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、

  出て行ってはならない。

  また、その人々の後を追いかけてもいけない。

  稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、

  人の子もその日に現れるからである。」


  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
    改行などの文章配置を説教者が変えています。
    新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 今日、8月6日平和聖日礼拝の日を迎えました。日本キリスト教団は1960年代にこの日を教団の暦に定めました。8月6日の広島原爆投下、9日長崎原爆投下、そして8月15日敗戦また終戦記念日、そうしたことがある8月の第1日曜日に平和を祈るということを決めたのであります。

 

 そして本日は8月6日、広島への原爆投下を想起する日であります。皆様もニュースなどを見られて今日の日がどういう日であるか、ということを考えて礼拝に来られた方もおられると思います。この平和聖日礼拝の日にあたって、選ばせていただきました聖書箇所は、ルカによる福音書17章20節以下であります。

 この箇所は京北教会の今年度、2023年度の教会標語「神の国は、いまここに確かにある」という言葉の元になっている標語聖句です。この今日の聖書箇所の言葉を元に2023年度の京北教会の標語を定めています。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」、この言葉を今年度の私たちの教会は大事にしています。

 

 この言葉はイエス様が語られた言葉であります。どういう場面で言われたかというと、「ファリサイ派の人々」とありますこの方々は律法学者の人たちであり、旧約聖書に記された、神様からいただいた様々な決まり事である律法というものを研究している人たちでありました。

 

 その人たちがイエス様に質問をしてきたのです。「神の国」はいつ来るのかと。それは、イエス様が「神の国は近づいた」ということを各地で宣べ伝えてきたからです。「神の国」とは、神様の恵み、また力が満ち満ちている時間と空間のことを意味しています。

 

 その「神の国」が近づいた。だから、悔い改めて福音、神様からの良きお知らせを聞いて、それを信じなさい、とイエス様は各地で宣べ伝えられました。その神の国というものはいつ来るのだろうか。近づいていると言われるけれども、いつ来るのだろうか。そういうことを律法学者の人たちが尋ねてきたのです。

 

 その人たちがそういう質問をしたときには、その「神の国」というものがもう明日に来るとか、10日後に来るとか、半年後に来るとか、そうした具体的なことを聞きたかったのだと思います。また、それが来るときにはどういうことが起こるのか、聞きたかったのでしょう。

 

 それは、私たちが生きているこの世界に「神の国」がやってくるというのは、言わば「天国」がこの世にやってくることだと思われていたのです。私たちの生きている世界が美しい天国に切り替わって、私たちがみんな新しい神の国で生きることができるようになる。そういう、何だか夢の国がやってくるような、そんな風に思っていたのではないかと思うのです。

 

 そんなことを考えること自体が何か、おとぎ話のような、夢の話のような気もしますが、当日の人たちは聖書を学ぶなかで、神様がこの世界を造って下さったのだから、いつか神様が新しい神の国を私たちにくだるのではないか、という期待を持っていたのです。

 

 そしてイエス様は、神の国が近づいた、ということを本当に宣べ伝えておられましたから、じゃあ、そのイエスが言う「神の国」とは、いつどんなふうにやってくるのか、聞いてみようとしてファリサイ派の律法学者の人たちはやってきたのです。

 

 こうした聖書の物語を読みますと、現代の日本社会に生きている私たちは、ものすごく昔の時代の人たちの話のようであったり、あるいは、何ていいますか、自分が生きている世界とははるかに離れた時代の、何かこうみんなで夢を見ているような話に思えるかもしれません。

 

 しかし、この「神の国はいつ来るのか」という質問は、何か夢を見ているような質問ということではないのですね。現実の私たちが今生きている世界にあっては、世界中に戦争というものがあります。ウクライナで起こっている大きな戦争が、いつ終わるかもしれず続いています。

 

 その他にも、この国では内戦が起こっている、この国ではクーデターが起こっている、この国では、というようなことを考えると、本当に世界中に争いごとが起こっている、戦争が起こっている、このアジアにおいても例外ではありません。

 そして、この日本の国、その周辺、いろんな地域のことを考えるときに、私たちが生きている世界、社会というものを本当に争いごと、戦争、暴力、また差別、貧困、経済格差、そういう本当に悲惨な現実の中を私たちが今生きているということを考えるときに、神の国が近づいたと言われたならば、それは本当にいつ来るのですか、と言いたくなるときがあると思います。

 

 それは、神様、いつになったら、こんな悲しい時代が終わるのですか、いつになったら、こんな悲しい世界が変わるのですか、そのように神様に向かって訴えてみたい、そういう思いであります。

 ですから、今日の聖書に書かれていることは、決して古代の世界での何かの夢を見ているような、おとぎ話を見ているような世界のことではなく、本当にこの現実が苦しいと思っている人たちがいっぱいいる、その世界の中で出てくる質問なのですね。

 

 神の国はいつ来るのでしょうか。「神の国は近づいた」と言っておられるイエス様に対して、「神の国はいつ来るのでしょうか、イエス様」と迫ってみたい、そんな気持ちで本日の聖書箇所を読むことができるのです。

 

 では、イエス様は、問われた何と答えられたでしょうか。

 「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と答えられました。

 

 「神の国」は目に見える形では来ない、というのですね。そしてまた、1年後に来るとか、10年後に来るとか、明日来るとか、そんなふうに期間を区切って明示できるものでもない、というのですね。時間がずーっと経ったら、いつか神の国がやってくるというものでもない。

 

 そしてまた、「神の国」はどこか海を越えた世界にあるとか、あそこの国に行ったら神の国があるとか、そんなものでもないと。つまり私たちが考える地理的な空間にあるのではないし、また時間的な中にあるのでもない、ということをおっしゃるのです。

 そして次に22節以降に続きます。
 「『あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。「見よ、あそこだ」「見よ、ここだ」と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。』」

 

 これは何をおっしゃっているかというと、つまり、この世の終わりということに関することなのですね。世界に戦争が起こったり、天変地異が起こって大きな災害が起こって、この世界が変わっていくような、何かものすごく大変なことが起こって、人々の心が不安にかられていくときに、「世界の終わりが来るのですよ」と言って、人々の心を惑わす人たちが出てくる。

 しかし、決してそういう人たちについて行くな、ということをイエス様はここで言っているのですね。戦争が起こったり、地震が起こったり、いろんな悲惨なことが起こって、「ああ、もう世界の終わりが近づいているのだ。本当の神様を信じましょう」と言って、人の心を集めようとする、ひっぱっていこうとする、そういうふうな言わば偽りの預言者のような人たちが現れる。

 そして、この世界の苦しみの中で、一日だけでもいいから、救い主がやってくる時を見たいと思うときが来る、とイエス様はここでおっしゃっているのですね。今日の聖書箇所で「人の子」と言われているのは、旧約聖書のダニエル書の言葉で、「来たるべき救い主」ということを意味しています。

 

 20世紀の終わりごろに世紀末と言われて、だんだんと人類は滅びに向かっているのだというようなことをまことしやかに言うような新興宗教だったり、いかがわしい教えであったり、そうした人たちが確かにいました。そんな人たちに心を誘惑されるといいますか、それに乗って大変なことが起こる事件も社会の中でありました。

 

 しかし、そんなふうな人の心を惑わせるようなおかしな教え、人の心の不安につけこんで終わりだといってあれこれ言う、そういう人たちに絶対ついて行ってはいけない、というのがイエス様の教えなのです。

 

 というのは、世の終わりというのは、天変地異とか戦争とか、そんなことでやってくるのではない。そんなことがあるから神様を信じましょう、と言って宗教を持ってくる、そういうものではない。イエス様が教えられるのは、どんなことがあっても、戦争があっても地震があっても、それで世の終わりが来るのではない、ということです。

 そういうことは世界の歴史の中で何度も起こってきたし、これからも起こりえるのです。けれども、そういうことが起こって世の終わりが来るわけではない。世の終わりというのは、神様が、決められることです。それは、私たちが今生きている世界がその役割を果たし終えるときであり、そのときには確かに新しい神の国がやってくる。

 

 しかし、それはいつやってくるということができないし、どんなふうにやってくるということもいえない。また、「ここにある」「あそこにある」とも言うことができるものでもないのです。

 

 こうしてイエス様は、私たちが「神の国」という言葉を聞くときに、それが何かの理想郷のような世界であったり、何かの神秘現象であったり、新興宗教的なと言いますか、オカルト的なと言ったらいいのでしょうか、何かものすごく不思議なことがこの世界に起こって、その中で一部の人たちが救われていく、そのことを、何と言ったらいいのでしょうか、人の心を惑わせる、そういう形で「神の国」というのはやってくるのではない、ということをおっしゃっているのであります。

 では、イエス様がおっしゃる「神の国」とは、どういう形でやってくるのでしょうか。21節でこう言われています。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」この言葉を、皆さんはどのように解釈するのでしょうか。これは私たち、キリスト教会に身を置いている者にとって、この言葉をどう解釈するか、ということは決定的なことですね。

 そして、この言葉の解釈は、多様であると申し上げます。これは、これこれこういうことである、という決定版の解釈があるわけではありません。

 一つの解釈を紹介いたします。ある牧師が教えて下さったことでありますけれども、ここで話をされている「神の国はあなたがたの間にある」というときの「神の国」とは何をさしているか。

 それは、このとき、弟子たちやファリサイ派の人たちが輪になって話をしていたときに「神の国はあなたがたの間にある」というとき、それは今このあなた方の間にいる、イエス・キリスト神の国なのである、ということをおっしゃっているのだ、という解釈を、私は他の牧師から教えていただいたことがあります。

 それを聞いたときに、大変驚きました。あっ、そんなふうに解釈することができるのか、なるほど、言われてみたら、そうかもしれない。そういうことを思ったのです。というのは、神の国というのは、どこかにある、地理的なまた時間的な概念とか、空間ではないわけですね。

 

 それは私たちのところに近づいてくる、見えない神の国というものを伝えて、その見えない神の国がこの地上で広がっていくときに、そこに平和が生まれてくるというのが、イエス様が教えられる「神の国」なのですけれど、どこから始まるかというと、イエス様から始まっているわけです。だから、いまここにいるイエス様が神の国であると解釈することができるのですね。

 

 そしてまた、イエス様が目の前にいない現在では、この言葉はどう解釈できるか。それは、私たちの間にあるイエス様の言葉、また聖書の言葉というものが「神の国」である。このように解釈することもできます。そのほかにもいろんな解釈をすることができます。

 

 では、私自身がこのイエス様の言葉をどう受け止めているかと言いますと、この聖書の言葉に即して単純に考えています。わたしと皆さんの間に、「神の国」があるのだと。そこに天国があるのだと。

 ただ、天国があるというと、死んだあとに迎え入れていただける世界だと通常は考えられていますね。天国と言ってしまうと、死んだあとの話かと思われるので、そうではないのだと。神の国とは、今生きている間も、また死んだ後にもある、神様の恵みが満ち満ちている、目に見えない空間です。

 

 そしてそれは、いましゃべっている私と皆さんの間にある、また、皆さん同士の間にある、目に見えない所にある、人と人との関係の中に、神の国は今もうすでに来ているのだと。だからね人と人との間を大事にしましょうと。その間にこそ、私たちの本当の幸せがあり、平和があるのだと。

 

 人と人との間に本当の平和というものがあるのなら、その平和を少しずつ広げていく。この世界全体の中で、人と人との間の平安を広げていくことによって、世界全体が平和になるのだと、そのように私は理解をしています。

 

 他にもいろんな解釈ができるのだと思います。聖書の解釈には決定版というものがなく、一人ひとりが聖書を読み、神様の聖霊、聖い霊が、目に見えない形で導いて下さる、それによって理解をすることができるのです。

 

 さて、本日は平和聖日であります。そして広島に原爆が投下された日であります。その日のことを覚えて、この聖書の箇所を読むときに、じゃあ、私たちの間にあるという「神の国」、それはどんなふうに平和をもたらしてくださるのだろうか、ということも考えます。

 

 ウクライナでの戦争のことを考えるときに、また、世界中の様子を考えるときに、「神の国」なんて言われても、ちっとも広がっていないじゃないか、とも思います。

 第二次世界大戦が終わったあとには、確かに世界中の皆さんが平和への希望をいだいて、それが実現するかのように思っていた時代もあると思います。しかし、もう、そんな第二次世界大戦が終わったあとの希望というものは、一つひとつ崩されていって、新しい戦前のような時代が来ているのではないか、そんな暗い思いになるときも私たちにはあるのではないでしょうか。

 

 こんな時代にあって、私たちは何をしたらいいのか、ということを本当に私たちは、苦しみながら悩みながら歩まざるをえない。そんなふうな思いなることもあります。

 

 ここで私自身が、今どんなふうに考えているかということを少しお話をいたします。広島に原爆が投下された日にあって、私は以前に広島での被爆者の経験を聞いたことを思い出しておりました。

 この京北教会において早野ミチ子さんから聞かせていただいた話もありました。また、岡山県に住んでおりましたときに、平和研修ということで広島に行って、そこで広島で被爆された方の経験を聞かせていただいたこともありました。また、広島において原爆投下のときには自分は赤ちゃんだったという牧師の話を聞かせていただいたこともありました。

 

 また、広島で被爆された方のお話は何度か聞かせていただきましたが、長崎で被爆された人の話は聞いたことがなかったな、ということも思いました。

 そしてまた、これは私の失敗でありますけれど、広島で被爆者の方の貴重なお話を聞かせていただいたのですが、そのときにこともあろうか、私はちょっとだけ寝てしまったのですね。疲れていたのか、お昼ご飯を食べた後だったからか、貴重なお話を聞くなかで、ふっと眠気がして寝てしまって、その後にまた目を覚ましてお話を最後までちゃんと聞いたのでありますが、そのときにお話をして下さっている方に対して、とても申し訳ない、後ろめたい思いをしたことを思い起こします。

 

 そしてまた、その被爆者の方のお話は、原爆で亡くなられたお父様を御自分で背負って山の上って焼いて、そのお骨を拾って納骨したという、そういうお話を淡々としておられた様子を思い起こします。

 

 そして、またこんなお話もお聞きしました。広島の町に原爆の歴史を覚えるポスターが貼ってあったのですが、そのポスターに使われていた写真は、原爆で被爆したときに子どもが持っていたお弁当が真っ黒になって炭化した様子の写真だったのですが、そのお弁当の写真を見たある戦争経験者の方が、この写真はよくない、と言われたそうです。

 というのは、このお弁当を食べていた子はいいとこの家の子だ、お米のご飯だったのだから、私の家はこんなご飯ではなかった、ということを言われたという話を聞きました。

 

 同じ被爆体験、戦争体験をした人たちも、その経験の違いの記憶が今も生々しく残っている、そうしたことを思い起こすのです。みんな悲しい経験をしたのだから、みんな同じ事を考えていると、私は単純に思っていましたけれど、いや、そうじゃないんだ、本当はいろんな思いがあるのだと思いました。

 

 また、ウクライナでの戦争、世界中の情勢を考えると、これから一体どうなるのかと重苦しく考える、この時代にあって憲法9条はどうなるのか、軍事作戦と言われる戦争が起こったときに、私たちが生きるこの日本の国はどうするのか、という重い問いかけが現実になされているわけであります。

 そんな中にあって、どうしたらいいか、たとえば教会としてどうしたらいいか、クリスチャンとしてどうしたらいいか、ということは私にはわからないのです。しかし、わからないながら思うことは、教会においては常に平和を祈り、そして過去の戦争の経験を思い起こし、みんなで話合い、考え続けて行く、その機会を教会という場で持っていきたい、続けていきたいと思うのであります。

 

 なぜなら、そのことをすることが、これからの時代にあってどんなふうに社会が困難になり、まさに世の終わりであるかのような切迫した空気になり、戦争に反対するということ自体が愚かなことのように思われて、こんな恐ろしい時代なんだから、世の終わりなんだといって人々の心をかき回し、誘惑し、不安をかきたてていくような時代がやってくるかもしれません。

 

 その中にあって、今日の箇所でイエス様が言われるように、決してそんな人たちにはついていくな、最後まで冷静であれ、常に落ち着いてあれ、とおっしゃっておられると私は思うのです。

 

 そのイエス様に従って、自らの心を落ち着かせていくということが、教会の大切な使命であると私は思うのです。神の国はあなたがたの間にある、というときに、私たちの間にある神の国とは何であるか、それはお互いを落ち着かせる力だと思うのです。

 

 こんな時代なんだ、大変な時代なんだ、もう昔のようなことを言っていられないんだと。みんなが武器を取って戦わなければならないかもしれない、愛する人を守るために、と言われた時に、私たちはどうしたらいいかわからなくなっていくのですね。

 

 現実の政治はいろいろに動いていくと思います。国際情勢、社会情勢もいろいろと動いていくと思います。いかに平和を願ったって、実際には、ということもあると思います。しかし、そんな時代の中にあって私たちはどうすべきか。徹底して落ち着いていくということです。

 

 興奮していく社会の中にあって、不安の中でもうどうしたらいいかわからなくなってくる、浮き足だっていく私たちがお互いに、私とあなたの間に神の国があることを信じ、それが私もあなたも落ち着かせていくのだと。神様は必ず私たちを落ち着かせて下さるのだと。そのことを信じていきたいと願うのです。

 今日の箇所にあります、神の国はあなた方の間にあるのだと言われている、この言葉はいろんな風に解釈することができます。私はこの箇所を読んでいてこんなふうに解釈しました。それは、今日の私と明日の私たちと明日の私たちの間に、神の国があるのだと。

 それは、今私たちは何をしたらいいかわからない、けれども明日何をしているだろうか、そのこともわからない。今日から明日に向かっていく、これからの過程の中に、時間の経過の中に、神の国があるのではないか、それは本当の平和を願って何かをしていく、それは心の中で祈るということも重要なことです。

 

 いま私たちの手の中に、神の国はあるように思えないかもしれない。しかし、今日の私と明日の私の間に、神の国がある。平和を願い、平和を創り出していく、その思いの中に神の国がある、そんなふうに考えることもできるのではないでしょうか。

 

 そして、その神の国というのは、この世界がどんなふうに動いていったとしても、私たちを徹底して冷静にさせてくださる神様のお力であります。

 お祈りをいたします。

 天の神様。私たちが今どんな時代を生きているか、神様はすべてを知って下さっています。そして、何を怖がっているか、人の目を気にし、そして社会の動向を気にして、社会の情勢がめちゃくちゃになっていくことを恐れている、私たち一人ひとりの小さな心を知って下さっている神様。そのことに感謝をいたします。その私たちに神様が独り子イエス・キリストを救い主として遣わして下さいました。どうかイエス様が私たち一人ひとりと共にいて下さって、それぞれの生活の現実の中で平和を創り出していくことができますように。自分の力は小さく限られています。しかし、イエス様と共に歩むときに、イエス様との間に力が与えられることを信じます。どうか導いて下さい。そして本当に世界に誠の平和をお与え下さい。午後からの平和を考える集いのひとときも神様が守ってください。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

 

「平和を声に出す」 
    2023年8月13日(日)京北教会 礼拝説教


 聖 書  ルカによる福音書 18章 1〜8節 (新共同訳)


 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、

 弟子たちにたとえを話された。

 「ある町に、神を畏(おそ)れず人を人とも思わない裁判官がいた。

  ところが、その町に一人のやもめがいて、

  裁判官のところに来ては
 『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。

  裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。

  しかし、その後に考えた。
  『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
   しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、
   彼女のために裁判をしてやろう。
   さもないと、ひっきりなしにやって来て、
   わたしをさんざんな目に遭(あ)わすに違いない。』
  

  それから、主は言われた。
  「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
   まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、
   彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
   言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。

 

   しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか。」



  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
    改行などの文章配置を説教者が変えています。
    新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 先週は、日本基督教団の暦で「平和聖日」の礼拝を行いました。そのときにルカによる福音書17章の言葉を読みました。これから8月中は、ルカによる福音書18章以降から、平和について聖書から教えられていきたいと願っています。

 

 本日の箇所はルカによる福音書18章1〜8節です。ここには「裁判官とやもめのたとえ」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは元々の聖書にはありません。新共同訳聖書が作られたときに読み手の便宜を図って付けられたものであります。

 

 今日の聖書箇所に書いてあるのは何なのでありましょうか。1節から読んで行きます。
「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。『ある町に、神を畏(おそ)れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言っていた。」』」

 これは、たとえ話です。裁判官に訴え出てきた一人のやもめ、伴侶に先立たれた一人の女性が登場いたします。そして、裁判官のほうは、神を畏れず、人を人とも思わない裁判官というふうに書いてあります。大変傲慢な、横柄な人、そういう印象があります。

 

 そして、繰り返し繰り返し、この裁判官の所にやって来て、わたしを守ってください、というやもめがいた、そういう話です。

「裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭(あ)わすに違いない。』」

 ここまでが、イエスが言われたたとえ話であります。こうした話を読むときに、何とも言えない、この世の一場面といいますか、世間の一つの情景というものが浮かんできます。つまり、ここでのこの裁判官は、法の精神に立って正しい裁きをしようとか、正義感というものを持って、正義の実現のために裁判をしよう、などとは別に考えていないのです。

 わたしは裁判官だと。わたしの思うようにするのだと言って威張っている。神を神とも思わない。自分のためにやるんだ。そういう、ひどい裁判官と言っていいと思うのです。そういう人がいました。

 そして、そこにやってくる一人のやもめ、このやもめが、この女性が何を裁判官に訴えていたか、具体的なことは何も書いてありません。ただ、相手を裁いてわたしを守ってください、と言うのです。

 しかし、この裁判官は、5節以降の言葉を見ると、「うるさくてかなわない」と言うのです。このやもめが言うことは正しいかどうかわからない。しかし、もううるさくてかなわない。ほうっておくと、ひっきりなしにやってきて、わたしを散散な目に遭わせるに違いない。そんなことは迷惑だと考えました。

 そこで裁判官は、自分は神など畏れないし、人を人とも思わない、しかし、あのやめもはうるさくてかなわないから、彼女のための裁判をしてやろうと言うのです。この裁判官は、しばらくの間取り合わなかった、と書いてありますから、最初しばらくは、これは裁判で扱うような事柄ではないという判断だったのではないでしょうか。あるいは、このやもめが言っていることの理屈が無茶苦茶で、これで裁判ができるはずがない。そんなことではなかったかと思うのです。

 

 しかし、人が良いとは言えないこの裁判官の所に、ちょっと困った人という感じのやもめがやってきて、その言葉を聞いて、うるさくてしょうがないから、この人のために裁判してやろう、という判断は正しいのでしょうか。

 これは人によって見方が違うかもしれませんが、この女性に同情してあげたのだから、この裁判官はいい人だという見方もできるとは思います。ところが裁判とは何か、ということを考えたら、裁判とは誰それさんのためにするものではなくて、法の秩序のためにするわけですから、この裁判官の判断はやはり間違っていると言わざるをえません。これは恣意的な判断なのです。

 世の中で裁判官といえば高潔な人格で正しい判断をする人だと思われているにもかかわらず、この裁判官は、やもめがうるさくてしょうがないからということで、この女性のほうに傾いた裁きをしようとするのですから、何ともひどい話であります。

 しかし、こうしたことは実際に世の中に起こっているなあと、ここでイエス様の話を聞いている人たちは心の中で思ったのです。世の中で、あれはおかしいよなと思う裁判、裁判官が自分の考えで事実をねじ曲げて判断しているのではないかと思う裁判、そんな現実がこのイエス様のたとえ話には反映しているのであります。

 

 そんな世の中のいやな現実の一部を切り取ったような、このたとえ話をしたあとにイエス様はおっしゃいます。
「それから、主は言われた。『この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」

 ここでイエス様がおっしゃっているのは、裁判というのは不正なことをしてもいいのだということではなく、こんなおかしな現実が世の中には起こっている、そうであれば本当の神様、人間よりもずっと賢い本当の神様というのは、もっともっと、苦しんでいる人の側に立って本当の裁きをして下さるのだということを、イエス様はここでおっしゃっているのですね。

 神を信じていない横柄な裁判官、そして、うるさいやもめ、そんな人たちの現実によって裁判というものが行われていくのだとすれば、神様というのは、もっともっと人間の苦しみに耳を傾けて正しい判断をしてくださる、というのであります。

 

 そして、なぜこのようなたとえ話を持ってこられたかというと、このうるさくて仕方がないやもめのように、相手が聞いていてもいなくても訴え続ける、そういう心が、祈りというときには必要なのだ、ということをイエス様はおっしゃっているのであります。

 自分の言っていることが聞き届けられない、ちょっと祈ったけれど実現しなかった、だったらもういいや、神様なんて本当いないんだ、とか、神様は身勝手なものだ、というようなことを人間は考えますが、このやもめのように繰り返し繰り返し、自分の願いがかなえられるまで祈り続ける、それが人の目から見て理不尽に見えたとしても、しかし、世の中ではそんな理不尽なヘンテコなことをやっている願いがかなえられるということが、本当にあるのだと。

 

 その願いがかなえられる理屈というのは、この人が正義だとか、あるいはこの人は弱者だけれど正義を訴え続けたから最後は勝った、というような、良い話といいますか、最後は正義が勝つという感動的な話ではありません。

 この裁判官が、自分が迷惑をかけられるのがいやだから、という身勝手な理由で判決を下す、というような中で現実の判決が下るということがあるのだから、本当の神様はもっともっと、ちゃんとしてくださるよ、として繰り返し祈り続けることの大切さを教えているのであります。

 

 そしてイエス様は、この話の最後にこう言われます。
 「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか。」

 

 ここで言われている「人の子」という言葉は、解説がないと意味がわからないと思います。ここでの「人の子」とは、将来やってくる、いつか神様から遣わされてくる救い主、という意味で使われています。旧約聖書のダニエル書にある言葉です。

 そして、福音書全体の教えからいいますと、それは十字架で死なれ、復活して天に挙げられたイエス様が、いつかもう一度私たちの所に来て下さる、本当の神の国がわたしたちの世界に来てくださる、そのときにイエス様がもう一度、この世に来られる、そういうときのことを言っています。

 もう一度イエス様がこの世に来られる、世界の終末が来る、そのときに地上に信仰を見出すだろうか、とイエス様は最後におっしゃっておられるのですね。

 なぜ、こんな言葉を最後に言われるのでしょうか。地上に信仰を見出すだろうか、つまり、将来の世界において、神様への信仰というものが世の中に残っているのだろうか、そんな疑問を最後に投げかけておられるのですね。なぜ、こんなことを言われるのでしょうか。

 

 それは、このたとえ話に関係があります。というのは、わたしたちはこういうイエス様のたとえ話を読んだときに、この繰り返し繰り返し訴えてくるうるさい女性、一人のやもめの話を聞いて、ちょっとクスッと笑ってしまうことがあると思うのですね。

 こういう人ってどこかにいるよな、と思うのです。同じことを何度も何度も言って、理屈は通ってないんだけど、自分のことばっかり考えてワーワー言ってくる人。いるよな、こういう人は世の中にいるよな。そう心のどこかで思っているのです。それは女性だけではありません。男性にもいます。いろんな人がいます。性別にとらわれずにいます。

 

 同じことを何度も何度も言ってくる、理屈が通らないのに、身勝手な人、ああもうめんどくさい、言うことを聞いてあげますよ、と言って、表面的に話を合わせてあげて、納得させて帰らせる、そうやってやっと帰っていくことでホッとする。そういうことが現実にあるわけです。そうやって笑うのです。こういう迷惑な人に対して。

 

 しかし、イエス様がここで言われるとき、あの人はものすごく一生懸命に言ってましたよね、それと同じぐらいにあなたたちも神様に祈ったらいいんじゃないですか、というようにイエス様はおっしゃっているのですね。

 

 あんなふうに人に迷惑をかけるほどに、祈り続ける、なんてことは何だかかっこ悪いし、いくら祈ったって実現しないのだから、もうやめておこうと思って祈らなくなる人のほうが圧倒的に多いのです。

 

 だから、イエス様は最後に言われるのです。しかし人の子が来るとき、地上に信仰を見出すだろうか、と。神様——っ、神様——っと言いながら、本当に祈っていますか。ちょっと祈って、祈りがかなえられなかったら、もういいんです、こういうことになっているのです、と言って、聞き分けのいい優しい実直な良い人になっていって、みんなお祈りしなくなったらどうなるのでしょうか。

 

 きっとみんな神様のことを忘れていくと思うのですね。そんなふうに、イエス様がここでこの一人のうっとうしいと思えるやもめ、また、神を畏れず人を人とも思わない裁判官、そんな人たちをここで持ってきて、このやもめぐらいに同じように一生懸命に祈っていますか、自分の祈りたいことを持ってますか、とイエス様は尋ねておられるのです。

 

 この8月にあたり、平和聖日がある8月にあたり、8月に平和ということを聖書から教えられたいと願って、今日の箇所を選ばせていただきました。ここには祈りについて教えておられる言葉が書いてあります。ここで言われている祈りということ、そのことを平和を求める祈りとして、わたしたちは今日考えてみたいと思います。

 

 平和、平和、平和が来ますように。戦争がなくなりますように。軍隊がその軍事力を発揮しなくてもいいように、侵略戦争をしなくてもいいように、防衛の戦争もしなくていいように。戦争そのものがなくなるように、軍事力そのものがなくなるように、それは人間、人類の永遠の願いだと思います。

 

 必要悪として必要なのだと。とりあえず現在は必要なのだと。それが現実であるということはみんなわかっています。でもその一方で、そんな戦争の恐怖によって人を支配し、抑止力という言葉を使って保っている平和というのは、危ういものであることは誰でもわかっています。

 

 だから、平和のために祈ろう、そのために行動しよう、どの国も平和のためにがんばりましょう、そういうふうに言うのです。言いたいのです。だけどもわたしたち人間は、弱い小さな、身勝手なわがままな存在なので、だんだんと疲れてきます。

 

 平和、平和と言ったって、実現しないじゃないか。ウクライナを見てみなさい。平和、平和と言っていても、こうなるのですよ。だから戦いの備えをしなきゃ。いろんなことを考えます。戦争の恐怖が具体的に迫っています。武器を持たなくては成らない、いろんな準備をしなければならないと、いろんな意見が飛び交います。

 

 わたしたちは恐怖に支配されて身動きがとれなくなります。そんな中で平和の中で祈ろうということが、何だかしんどくなってくるのですね。もうそんなことを言うのはちょっと控えようか。

 心の中でそれぞれが祈ることにしましょう、と段々と口にも出せなくなってくるかもしれません。そんなふうに私たちは平和という言葉がだんだんうとましくなったり、怖くなってきたり、めんどくさくなってきたり、あるいはそれは憧れでしかないものなのかなあ、なんていうふうにも考えたりもいたします。

 

 そんなわたしたちに対して、イエス様は今日の御言葉を語ってくださっているのです。このやもめのように、身勝手でいいから、自分中心でいいから、平和を祈り続けたらいいのです。

 

 最初は取り合ってくれないのです、世の中の人たちは。けれども、繰り返し繰り返し祈っていたら、平和が大事だとか人権が大事だとかは全然思わなかったとしても、そう祈る人たちがあまりにもうるさいので、ちょっとは平和のために何かしてあげよう、といって、世の中の人々の心が変わる、権力者の心がちょっと変わる。そんなことによって、何らかの平和が訪れてくるのです。今日の聖書箇所は、そのような話としても読めるのであります。

 

 わたしは今日の箇所を読みながら、本当に教えられました。一生懸命に祈っても平和は来ない、とわたしたちは思っているけれども、もしかしたら今日の聖書箇所には本当の平和に至るカギが、ヒントがあるのかもしれないと思いました。

 

 それは何かというと、平和ということが、それほど、何というか、それほどに大事なことと思えないことになってきたときに、初めて平和が実現するのかなあ、と思ったのです。「世界を平和にしてください、戦争をやめさせてください」と一人ひたすら祈り続ける、そのうるさい祈り、その祈りを聞くと、いい加減、めんどくさくなってくるのですね。うっとおしくなってきて。

 そこで、何のために平和がいるのですか、と聞きたくなるかもしれません。その理由は、本当の裁判だったらちゃんと、平和を必要とする理由とか、訴える理由とか、なぜそういう判決を下すという根拠とかをちゃんと調べるのですけれど、そんなのではなくて、もう「めんどくさいから」、そういう理由で戦争をやめましょう、となってくれたら一番いいのかもしれません。

 

 そのときには、もう平和という言葉が、もうそれほど大事なものではなくて、めんどくさい言葉でしかない、手垢(てあか)のついた言葉、政治的な取引の中でドロドロしてしまったような言葉になっている、そんなときに平和というものは訪れる時ではないかと考えてみました。

 

 もちろん、平和を実現するために何ができるかをいっぱい考えて、やり方を考えて、経済力を使って社会の意識を変えて、外交努力をして、いろんな工夫をして、環境問題も関係があります。食糧問題にも関係があります。人間の協力、国際貢献、国際協力の方法もあります。

 いろんなやり方があって、一つひとつ平和のためにやっていくのですけれど、そんな人間の努力が踏みにじられているのが現実の世界だと思うのですね。そしてその中で、何をやっても、もう無理だ、もう無駄だ、もうだめだ! こんなとき、どうしたらいいのだ! と言いたくなるとき、平和を言い続けましょう。笑われてもいいから。

 

 平和ということだけではありません。祈りというのは、実はそういうことじゃないのか、ということを、イエス様はわたしたちを教えて下さっていると思います。そのような解釈は身勝手に見えるかもしれない。理屈は通ってないかもしれない。けれども祈り続けるのだと。

 

 イエス様は、最後に言っておられます。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」と。それはもう賢くなってしまって、みんなが祈らなくなってしまった世界のことを言っておられるのだと思うのですね。

 

 いろんなことを勉強して、いくら祈っても無駄なんですよ、人間って元々罪深い存在なのですよ、聖書に書いてあるじゃないですか、戦争はなくならないのです。いろんな問題はなくならないのです。……そう言って祈らなくなってしまって、もう本当に世の終わりにイエス様がもう一度来て下さるときには、どこに行っても、祈る人が見出せなくなっている。そんなことになっているのではないだろうか。

 

 そうであればですね。いい加減であってもいいから、祈り続けたらいいのだと、今日の聖書箇所から教えられるのであります。

 

 今日の説教題は「平和を声に出す」といたしました。平和という言葉を言いにくくなっている今、平和を求めるからこそ、何をすべきなのか、いろんな考え方があります。政治的なこと、また軍事力というものをどう考えるか、それらについて聖書で解答は一つだけではありません。

 旧約聖書を読んでいると、戦争の話がいろいろ出てきます。神様に導かれて戦争に打ち勝った話がたくさん出てきます。それと共に、神様への信仰から離れていったときには、イスラエルの国が他の国から侵略され支配されてきた悲しい歴史もたくさん記されています。

 

 そして、新約聖書旧約聖書、それらの全体を見ていくときに、軍事力というものは人間の作りだしたものであって限界があり、神様の力の前では何の力も持ち得ないものである。そのことも聖書に教えられています。

 

 しかし、それでも現実の世界においては、軍事力が必要とされています。力というものがなければ、現実の世界を治めることができない。まさに人間は罪人であるから、その苦しみの中で私たちの人間社会は力によってお互いを支配する、この社会を作ってきました。

 その現実から目をそらすことはできません。その中にあって、平和を求めるとしたら、わたしたちは具体的にはどう生きたらいいのでしょうか。

 聖書の中にはたとえば、サマリア人のたとえと呼ばれているイエス様のお話があります。強盗に襲われて倒れている人がいる。その人の横を祭司とか律法学者が通り過ぎて行った。血まみれの人に触れたら汚れるから。そういう信仰熱心な人たちは、傷ついた人の横を通り過ぎていった。しかし、その後にやってきたサマリア人、つまり外国人の人、ユダヤ人たちから嫌われていた人は助けてくれた。だれがこの人の隣り人になったのかとイエス様は問いかけます。

 

 そこにはイエス様の深い教えがあります。しかし、わたしはその話を読みながら、こう思ったことがあります。道で倒れている人がいたら、誰だって助けますよ。それを助けなかった祭司や律法学者が悪かったのはすぐわかります。けれども、この人を助けたのは倒れていた後でしたが、もし暴力を振るわれている最中だったら、イエス様はその人を助け出すために、暴力を使ったのだろうか。そんなことを考えたことがあります。

 

 倒れている人を助けるというだけではなく、本当に自分自身が戦わなくはいけないかもしれな、現実があるわけです。イエス様だったら、それにどう対処されるのでしょうか、と思うのですけれど、答えは返ってきません。

 

 結局、戦争とはな何かと学び、歴史を通して学び、考えて、世界中の人たちの知恵を総動員してみんなで考えていくしか、先のことを考えることはてきません。そして、いくら考えたって、誰でもが納得するような結論はここでは出てこないのです。

 

 では、どうするのか。今日の聖書箇所のこの一人のやもめのように、やはり祈り続けること、平和を声に出していく、ということです。たとえ身勝手であるとしても、そうしていくということであります。それが、戦争に対する抑止力になります。

 

 教会の働きというものは、平和と言うことに関して、決定的な働きをすることはできないかもしれません。弱く小さな存在です。けれども、ある意味で、教会というものは社会において「変数」の役割を果たすことはできます。

 

 それは数字の公式にはいろいろな要素があるのと同じように、教会というものがあることによって、「教会がない」という世界に比べて違った結論を出す、そのための要素に教会はなりえる、ということです。教会というものがなかったら世界はこんなふうになっていた、しかし教会というものがあるがゆえに、その結論が変わった、何らかの形で変わり得る、それがどう変わり得るかということはわかりません。けれども、教会はそういう力を持っています。

 

 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とイエス様は言われました(ヨハネによる福音書12章24節)。教会というものがこの世の中にあって、消えていく麦の種になり、消えていくときに、教会の平和に向けた祈りというものが、この世の中にあって、あたかも消えたようなところから芽を出し、平和への力を発揮するのです。そのことを祈り続けようではありませんか。

 お祈りをいたします。

 天の神様。わたしたちに日々委ねられている働きの尊さを思います。どの人も自分が生きている場にあって、自分自身が生きるためにすべき仕事があり、そのことによってわたしたちは家族や隣人、また社会とつながっています。そしてまた、自分自身の命を守るという、本当に一番基本的なことを通して、わたしたちは命を大切にする社会というものを構成しています。そのわたしたち一人ひとりの小さな人生において、平和のために祈るということがなくならないようにしてください。そして、教会において、また社会において、平和のために声を出していくことができまように、どうぞ一人ひとりをお導きください。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

 

神の国を待つ時代」 

 2023年8月20日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  ルカによる福音書 18章 9〜17節 (新共同訳)


 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、

 イエスは次のたとえを話された。


 「二人の人が祈るために神殿に上った。

  一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。


  ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。

  『神様、わたしはほかの人たちのように、

   奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、

   この徴税人のような者でもないことを感謝します。
   わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』

 

  ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、

  胸を打ちながら言った。
  『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』

 

  言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、

  あのファリサイ派の人ではない。

  だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 

 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。

 弟子たちは、これを見て叱った。


 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。

 

 「子供たちをわたしのところに来させなさい。

  妨げてはならない。

  神の国はこのような者たちのものである。

 

  はっきり言っておく。

  子供のように神の国を受け入れる人でなければ、

  決してそこに入ることはできない。」

 

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
    改行などの文章配置を説教者が変えています。
    新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 8月に入って第1日曜日の平和聖日のときから、ルカによる福音書を通して、平和ということを聖書から教えられています。今日の箇所はルカによる福音書18章9〜17節であります。

 この箇所は新共同訳聖書では二つの箇所に分かれて、それぞれに小見出しが付けられています。「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」、「子供を祝福する」。こうした小見出しは元々の聖書にはありません。新共同訳聖書が作られたときに、読み手の便宜を図って付けられたものであります。

 

 今日の聖書箇所には何が書かれているのでありましょうか。9節。
 「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」

 

 ここでイエス様は、たとえ話をされます。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」とはっきりと書いてあります。どういう人に対して語ったかということが明確にされているのです。

 

 どのようにたとえを話したのでしょうか。
 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。」

 ファリサイ派というのは、当時の律法学者の人たちのグルーブの名前であります。旧約聖書に記されたたくさんの決まり事、信仰と日常生活における様々な決まり事、律法といいますが、その律法を厳格に解釈し、厳格にそれを実行することによって、神に救われると考えていた、そういうグルーブの人たちでありました。

 その厳格に律法を守る人と、それからもう一人は徴税人と呼ばれている人、この二人が祈るために神殿に来たということであります。

 徴税人というのは税金を集める人という意味であります。ただ、そういう仕事に就いているというだけの意味ではなくて、徴税人という言葉にこめられているのは、特別な意味がありました。

 

 というのは、当時はこのユダヤの国はローマ帝国の植民地になっており、この徴税人というのは、そのイスラエルユダヤの国を支配しているローマ帝国の手先になって、人々から重い税金を取り立てているという意味で、人々から嫌われた立場だったということを意味しています。

 また、そうした徴税人の人たちは、決まった税金の額だけを集めるのではなくて、それよりも多い額を集めてその分を着服していたと考えられていたので、人々から嫌われていた人たちでありました。その分、お金持ちであったのかもしれませんけれど、外国の手先になって人々からお金を巻き上げていく、そのことによって私腹を肥やしている、そうした嫌われ者であったというニュアンスがこの言葉には込められています。


 「『ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」』」

 

 このようにファリサイ派の人はお祈りをしました。このお祈りの言葉は、11節で「心の中でこのように祈った」と書いてありますから、これは実際に口に出して言葉に出して祈ったのではない、ということがわかります。つまり、この言葉は神様だけが聞いた言葉として言われているのですね。徴税人に対してあてつけで言った言葉ではなくて、心の中で言った言葉だというのです。

 そのあと、どうなったでしょうか。
「『ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」』」

 

 ファリサイ派の人の祈りに対して、徴税人の祈りは短いものであります。遠くに立って、とあります。このファリサイ派の人から遠くに立ってという意味でありましょうか。あるいは、神殿の中心部から遠くに立って、という意味でありましょうか。

 遠く離れたところから、「目を天に上げようともせず」、神様に目を向けることができず、という意味ですね。当時の人たちのお祈りは、今のわたしたちの教会でしている祈りとは違って、顔を上げて、両手を上に上げてお祈りするというのが、通常の祈りの仕方であったようなのですね。

 

 上のほうを向いて、神様のほうを向いて、神様、と言って祈る。天に神様がおられるとすれば、そのほうが自然なのでしょう。しかし、ここで徴税人は神様のほうを向いて祈るのではなくて、「いやいや、私はとても神様に顔を合わせられません」というふうな感じで下を向いて祈ったようであります。

 そして「胸を打ちながら」というのは、自分の胸を叩きながらということであり、自分を責めながら、といってもよいと思います。本当に自分はだめだなあ! って言いながら、自分の胸をトントンと叩きながら、下を向いて祈っている、そんな徴税人の様子が伝わってきます。そして短くひと言だけ祈りました。「神様、罪人のわたしを憐れんで下さい。」

 
 そして、こう続きます。

 「『言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。』」

 こうして読んできますと、イエス様がおっしゃりたいことは明確に伝わってきます。自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対してイエス様は、このたとえを語っているのです。「あなたが、まさにこのファリサイ派の人ではないのか」と。

 神様のほうを向いて、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」と言っている、この人、それがこの「自分は正しい人間だとうぬぼれて他人を見下している人」、あなたがまさにそうではないのか、と言っているのです。

 

 そのようにうぬぼれているあなたたちよりも、あなたたちのようになれない、と言って自分を責めているこの徴税人のほうが義とされて家に帰ったのだと、神様からこの人こそ良しとされたのだと。正しいとされたのだと。

 それは倫理的に正しいとか、法律的に正しいとか、律法に照らして正しいとかというのではなく、神様の目にかなう、神様の御心にかなったのは、こっちの徴税人のほうだということであります。

 こうした話を読んだときに、ここにこめられているイエス様のおっしゃりたいことは、はっきり伝わってくると思うのですね。ある意味でマンガのようにといってもいいでしょうか、はっきりと好対照にした形で二人の人が比べられています。どちらの人がいいかといえば、はっきりしているのです。

 

 これは、ファリサイ派の人は徴税人のほうに向かって、当てつけてこのように祈ったのではありません。そんな失礼なことをしないというのが、このファリサイ派の人の賢い所ですね。礼儀正しい人なのです。当てつけて祈ったりしません。あくまで心の中で祈っているのです。

 でも、その心の中での神様への祈りを、神様だけが聞いて、そして判断されるのです。義とされるのは、この人ではない、あっちの遠く離れた所に立っている徴税人なんだと、神様が判断されるというであります。

 

 この話を読んで、わたしたちは何を思うでありましょうか。この通りだなあ、とわたしたちは思うのではないでしょうか。まったく、この通りだなあと。こうやってうぬぼれている人ではなくて、うぬぼれていない、本当にどうしようもない罪人のほうが救われるのだよな、と思うときに、わたしたちはこの罪人のほうに自分の姿を重ね合わせています。

 

 そうなんだ、そうなんだ、と。できる人よりも、できないわたしのほうが、良しとされるのだから、いいじゃないか、救われるんだよ。そう考えたら、何か納得できるものがあるのではないでしょうか。

 そういう意味で、今日の話を読むとわたしたちは、これはいい話だな、と思って喜んで聞く、そして感謝して聞く、そしてそれで終わるのではないでしょうか。

 けれども、どうでしょうか。わたしも最初はそのように思って、この聖書の箇所を読んだのでありますけれども、今回、8月の平和聖日ということを8月第1日曜日に迎えて、そして8月に平和ということを考えるというテーマを設定して、今日の箇所を読むことにいたしました。

 

 その平和というテーマを重ねながら、今日の箇所を読んでみたときに、このイエス様の言葉って、すごく考えさせるものがあるなあ、ということをわたしは改めて思ったのです。

 というのは、ここで、自分は正しい人間だとうぬぼれている人の言葉として、このファリサイ派の人の言葉を読むと、本当にうぬぼれているなあ、と思うのですけれど、平和と言うことに関して、わたしたちがどんなふうに自分自身のことを考えているか、というと、どうなのかということなのですね。

 

 つまり、「わたしは他の人たちのように」というときに、「わたしは他の国の人たちのように」というようにちょっと考えてみたらどうかな、と思ったのです。「わたしは他の国の人たちのように、奪い取る者、不正な者でないことを感謝します」と。「わたしの国は、いま戦争しているような国、侵略戦争をしているような国では無いことを感謝します」と。

 また、「わたし自身」のこととしてみてもよいと思います。「わたしは、他の人たちのように、人から奪い取ったり、どろぼうしたり、人を傷つけたり、人を殺したり、悪いことしたり、そういうことをしていない人であることを感謝します」と。

 わたしたちの国は不十分でありますけれども、平和を創り出そうとしています。わたしの国は、侵略戦争をしていません。いろいろ問題はあると思いますけれども、困っている国に対して援助をしたり、お金を出したりしています。……というふうに祈るとしたらですね。ちょっと何か、雰囲気が変わってくるな、ということを思うのですね。

 

 いまわたしが言ったことは、ある程度事実を反映していると思うのです。わたしたちが平和な日本の国に生きることができて幸せです。もちろん、日本の国にも問題があります。罪がいっぱいあります。でも、「比較したらわたしたちはまだましであることを感謝します」、そんなふうに祈ることができます。

 けれども、そんなふうに祈る、あるいは、そんな気持ちでいる、そういうことでよいのでしょか。「わたしはまだましな国に生きています。そのことを感謝します」というときに、どうでしょうか。実際に侵略戦争をしている国の人たちはどんな祈りをするのでしょうか。

 「わたしの国は侵略戦争をしています。多くの人を殺しています。その国の中にあって、わたしが反戦運動をもし起こしたら、わたしは捕らえられて牢屋に入れられてしまいます。それが怖いから平和を叫ぶことができません。こんなわたしを許して下さい、神様」と、侵略戦争をしている国の人が祈ったとします。

 その人の祈りと、「わたしは侵略戦争をしていない国に生まれて幸せです」と祈るわたしたちと、どっちが神様によって義とされて家に帰ることができるのでしょうか。答えははっきりしているのですね。

 そんなふうに考えたときに、今日ここでイエス様がおっしゃっている言葉というのは、ああなるほどなあ、とフンフンと聞いて、聞いて良かったな、納得したな、というだけの言葉ではないな、ということを思ったのですね。

 8月に入ってからわたしたちの教会の礼拝では、最初の招詞、招きの言葉でマタイによる福音書の5章の冒頭の言葉を読んでいます。そこには、「心の貧しい人々は幸いである」という言葉があります。「悲しんでいる人々は幸いである。」イエス様がそうおっしゃる言葉はすごい言葉です。

 

 ルカによる福音書では「貧しい人は幸いである」と言われています。そうした言葉を、現代社会に生きているわたしたちはどのように聞くでしょうか。これは聖書の言葉、イエス様の言葉なんだと思って聞くと、これは信仰の言葉として聞きます。そのことに慣れてしまって、取り立ててショックを覚えない感じです。

 

 けれども、悲しんでいる人々は幸いである、貧しい人々は幸いである、という言葉を現代に当てはめてストレートに読んでみたら、どんなふうでしょうか。「ウクライナに生きる人々は幸いである」という言葉を聞くなら、到底そうだとは思えないと思います。「ロシアの国に生きる人は幸いである」と言われたなら、そうだとは思えないと思います。

 そんなはずがない、悲しみに満ちているんだ、苦しいんだ、幸いなはずがないと思うのです。そんな言葉を受け入れられないと思います。イエス様が言われた言葉、「貧しい人々は幸いである」あるいは「心の貧しい人々は幸いである」「飢えている人々は幸いである」というイエス様の言葉は、これは本当はまじめに考えたら、到底受け入れられない言葉であるということがわかります。

 

 その、到底受け入れられない言葉をイエス様はあえてわたしたちに語って下さっているのであります。それはなぜでしょうか。それは、その言葉を通してわたしたちが神様につながっていくためであります。その言葉を通して、到底受け入れられない言葉を通して、「神様なぜですか」「神様なぜそうおっしゃるのですか」と、神様に食ってかかるようにつかみかかり、そして神様の手をしっかりとつかんで離さないように生きるために、イエス様はあえてそうした言葉をわたしたちに語って下さっているのであります。

 

 今日の聖書箇所において、二人の人間が対照されています。片方は、神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」と祈ります。

 そして、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」、つまりそれができるぐらいに安定した生活をしています、と祈ります。

 わたしはこの日本の国に生まれて、生きて、そこそこの暮らしをして、安定した生活をしていることを心から感謝します、あんなふうに貧しい国の人間が、ほかの国を侵略したり、ほかの人間に暴力を振るって物を奪い取っている、そんなことをしなくて済むことを感謝します、とわたしたちが祈っているとしたならば、それは神様の目から見て、決して御心にかなっていないのです。

 

 神様の目から見て御心にかなっているのは、苦しんでいる人であります。自分がどうしようもない現実の中に置かれて「わたしは罪人です」といって胸を打ちながら下を向いて祈っている人間が、神様に義とされるのであります。

 

 そうであるならば、この現代の日本社会に生きて教会に来ている人たちは、みんな義とされないじゃないか、と思ってしまうかもしれません。そこで、次の聖書箇所を読みます。

 

 「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。」

 当時にあって、子どもたちは、聖書を読むことができない、神様を信じることができない、愚かな小さな存在だと思われていました。ですから、その人々が乳飲み子をイエス様の近くに連れてきた人たちを弟子たちは叱ったのです。しかしイエス様は言われました。

「弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』」

 

 こうして、イエス様からもうひとつの話がなされます。それは、神様によって良しとされるのは、子供のように神の国を受け入れる人である、ということであります。子供のように神の国を受け入れる、それはどういうことでありましょうか。

 もう大人になってしまったわたしたちは、もう子供のふりをすることができません。そんなことをいっているのではありません。一つ前の話で、「罪人のわたしをゆるしてください」と祈った徴税人のようになることであり、子供のように神の国を受け入れる人になるということであります。

 

 平和ということをテーマにして聖書を読むときに、わたしたちは新しい発見をします。そしてわたしたちの日常というものが、どんなものであるか、イエス様の前でもう一度問われているということを発見するのであります。

 そして、イエス様の問いに対して、応えることができない、むしろイエス様の言葉に対してついていけない、従えない、受け入れることができない、まさに罪人である自分を発見するのであります。そんな罪人であるわたしたちが神様のもとに迎えられる道がすぐそこに用意されています。それは、子供のように神の国を受け入れるということであります。

 

 それは、だれが天国に受け入れられるか、ということに関してイエス様の弟子たちが、この乳飲み子たちを連れてきた人たちを叱ったことに対して、イエス様が言われているのですね。人々は言いたがるのです。この子たちはダメだと。神を信じる力がまだないのだと。聖書の言葉をまだ知らないのだと。愚かな者なのだと。そう言って乳飲み子たちを遠ざけようとする。

 

 それに対して、いや、そんなことはないのだと。むしろ、自分が何者であるかが分かっていないがゆえに、無邪気にイエス様のところに寄っていく、あるいは、イエス様の所に寄っていく力すらないので、人々がイエス様の所に抱きかかえて来てくれる、そんな存在こそが神に救われるのだ、ということであります。

 

 罪からの救いということは、わたしたちが努力によって得るものではありません。また、わたしたちが苦労して苦労して得た生活の中で、安定した暮らしをしてキリスト教を正しく学んで、聖書の御言葉をしっかり守って、そういうことで神に救われていくのではありません。

 いや、わたしたちはイエス様の言葉に応えることができない、ということがわかったので、わたしたちは自分のすべてを神様にお献げいたします、と言ってすべてを神様に献げる、その思いから、まことの平和というものがわたしたちに与えられていくのであります。

 この世界がどんな世界であり、その中でわたしたち一人ひとりが今日という日を、この1日をどんなふうに生きたらいいのか、と迷うときに、イエス様の言葉をしっかりと大事にしていきたい、そのことを心から願うものであります。

 苦しむ者は、常に平和を待ち望んでいます。今、わたしたちは、平和な時代に生きているのではなく、平和を待ち望む時代に生きているのであります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様。この猛暑の中で自分の健康を守ることが精一杯で、人のことまで考えていられない、本当にそんなときに生きているのだと思います。でも、その中にあって、今日こうして礼拝に来ることができたこと、そのことが許されたことを感謝します。また、YouTubeやいろんな形で今日のこの説教を共に聴いている皆様と、そしてまた、そのこともできなくても離れた所でいても、その場にあって胸を打ちながら礼拝することもできない、その自分のことを神様の前で悔い改めながら神様に祈っている、一人ひとりの方々と共につながりながら、わたしたちは平和を請い願います。どうかそれぞれに与えられた生活の場にあって、イエス様と共に平和を創り出して歩むことができますように、どうぞ導いてください。本当に戦争の中を生きている方々、貧しさの中に生きている方々、災害や事故や様々な、自分ではどうしようもできない苦しみの中に生きている一人ひとりが、神様によって愛され、用いられ、癒やされて神様の国の中に生きることができるように、心よりお願いをいたします。

 この祈りを、感謝して主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

「平和の弟子になる」 
 2023年8月27日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  ルカによる福音書 18章 18〜30節 (新共同訳)


 ある議員がイエスに、

 「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。

 

 イエスは言われた。

 「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。
        神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。

 

  『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟を

  あなたは知っているはずだ。」

 

 すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。

 

 これを聞いて、イエスは言われた。

 「あなたに欠けているものがまだ一つある。

  持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。

  そうすれば、天に富を積むことになる。

  それから、わたしに従いなさい。」

 

 しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。

 大変な金持ちだったからである。

 

 イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。

 「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。

  金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

 

 これを聞いた人々が、「それではだれが救われるのだろうか」と言うと、

 イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。

 

 するとペトロが、

 「このとおり、
        わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。

 

 イエスは言われた。

 「はっきり言っておく。神の国のために、
  家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、

  この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
    改行などの文章配置を説教者が変えています。
    新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 8月に入ってルカによる福音書17章、18章を通して、「平和」ということを聖書から教えられています。8月は第1日曜日が日本キリスト教団の暦で「平和聖日」といって平和を祈る礼拝の日としています。8月の2回の原爆投下、そして敗戦記念日。そうした日を迎える8月はわたしたちが心から世界の平和を祈る日であります。

 そして、8月の毎週の礼拝において、わたしたちは平和を祈ってまいりました。今日の聖書箇所はルカによる福音書18章18〜30節です。ここには「金持ちの議員」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは元々の聖書にはありません。新共同訳聖書が作られたときに、読み手の便宜を図って後から付けられたものであります。

 

 今日の箇所には何が書いてあるのでしょうか。順々に読んでいきます。

 「ある議員がイエスに、『善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』と尋ねた。」

 

 福音書においては、こうしてイエス様に対して質問をしてくる人たちのことが、しばしば出てきます。イエス様が答えにくい質問をあえてすることによって、イエス様の答えの言葉尻をとらえて、イエス様を捕らえるための、言いがかりをつけることをねらっていた律法学者の人たちもいました。

 

 そういう話が多いのですが、今日の箇所に出てくる話において出てくる、この「ある議員」という人にそうした背景があったかどうかは書かれていません。話の全体を見ると、そうした特別な背景があったのではなく、純粋な気持ちでイエス様に対して質問をしてきたように思えます。

 議員と呼ばれているからには、人々の間で人々の代表として選ばれて、政治に関わる仕事をしていた、そういう立派な人であった、またまじめな人であり、神様への信仰を持ち、聖書をよく学んで自分の生活を議員として整えていた、そうした真面目で純粋な人だったのではないかということを思います。

 

 その人が「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」とイエス様に尋ねてきたのであります。

 

 それに対してイエス様は言われました。

 「イエスは言われた。『なぜ、わたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。』」

 

 まずこう答えられました。神おひとりの他に善い者はだれもいない。だから、この自分、イエス様にとって御自分だけを特別な人だというな、そんなニュアンスだったのでしょうか。

 

 まずそのように答えられたあとに、こう言われます。

「『「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ。』」

 

 ここにある言葉は旧約聖書出エジプト記、また申命記民数記などにあります、モーセ十戒の言葉です。十の戒めということが、ここで引用されています。旧約聖書において神様から与えられた、大切な十の戒め。人として生きるにあたって大切なその掟を、あなたは知っているはずだとイエス様は言われました。

 ということは、永遠の命を受け継ぐために何をすればよいか、というその質問に対して、イエス様の答えは、それは聖書に書いてある十戒を守ること、そうした聖書の言葉を守ることが、神様のみ心にかなうことであり、そういうことをすでにあなたは知っているはずだ、というふうにお答えになられていると思われます。

 

 それに対して議員は言いました。

 「『すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。』

 

 とてもまじめな人であったようです。そういう家庭教育を受けて、熱心な聖書の教育を受けて、まじめにそれを実行してきた、そういう人間でありました。そうした聖書の言葉はすでに知っています、というのです。
 

 そうであるならば、この議員が最初に「どうすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたときには、そうした聖書の言葉は全部守ってきた、しかしそれでも足りないのではないかと思って、このことにイエス様だったらどう答えるだろうか、と考えて尋ねてきたようなのであります。

 

 それに対してイエス様は言われました。

 「これを聞いて、イエスは言われた。『あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。」

 

 このように書いてあります。このような箇所を読んで皆様は何を思われるでありましょうか。聖書に書いてあることは全部守ってきた、子供のときから守ってきた、というこの人は、イエス様から言われた通りに、持っているものを全て売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい、という言葉に従うことができなかったのです。

 そして、それをできない自分のことを非常に悲しんだのです。大変な金持ちだったからだといいます。今日の箇所をみなさんはどのように読むでしょうか。

 

 まず最初に、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」というような、そういう問いを私たちはするだろうか、と思います。現代の日本社会に生きている私たちは、こんなふうな問いをすることがあるでしょうか。

 

 ここで言われている永遠の命というのは、永遠に生きる命、すごく長く生きる、長生きする、という意味ではなくて、地上の命というものはいつか死によって終わるわけですが、その死によって、地上の死によって、自分という存在がすべて滅びてしまうのではないことをいっています。

 

 神様のもとで天国にあって受け入れられて、そこで永遠にあり続けることができる、そういう自分の命というものが無にならない、本当にそういう祝福された命としてあり続ける、そういうことがここで願われているのであります。

 

 現代の日本社会に生きているわたしたちは、こういうことを願うでありましょうか。自分の命ということはもちろん大切でありますけれども、どうやったら自分が天国に行けるとか、自分がどうやったら永遠の命をもらえるか、そういうことで悩んだり考えたりする人は少ないように思います。

 どちらかというと、死んだ後のことはわからない、それは人間にはわからない、天国に行けたらそれはそれでいいことなのでしょうけれども、それは分からないことなのだから、今を生きている間に、自分のかわる範囲で自分の人生を大事にして生きる、その中でいろんなことで自分自身が決着をつけていって、死んだあとのことはもう神様にお任せする。

 

 そんなサバサバした感覚が日本社会に生きている多くの人にあるのではないでしょうか。そうした観点で考えますと、今日の聖書箇所にあるような質問、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」、このような質問はわたしたちの心からはなかなか出てきませんし、こうした物語、今日の聖書箇所の話の全体が、ちょっとわたしたちにとってピンと来ない話になっているかもしれません。

 

 しかしながら、ここでわたしたちは視点を変えてみたいと思うのです。永遠の命ということは一体、この現代で言えば何を意味するでありましょうか。長生きするとか、何千年も生きるとか、そんな意味じゃないんだと。

 それは、命が永遠に大事にされる世界、自分の命というものが無駄にならない世界、そういうものであると考えたときに、それを現代であれば何と表現するのだろうか、と考えたときに、一つの考えとしては、それは「平和」というように表現することができるのではないかと思います。

 

 戦争のない世界、自分というものが戦争によって滅ぼされない世界。みんながお互いのことを大事にしあって生きていく世界。もしかしたら、永遠の命というものの具体的な現れなのかもしれません。

 そうであれば、今日の聖書箇所において、最初の問いは、こうなります。

 「先生、何をすれば平和を受け継ぐことができるでしょうか。」

 あるいは、「何をすれば平和をいただくことができるでしょうか。」

 こういう祈りになってきます。こういう問いになってきます。

 

 こういう問いであれば、それは現代のわたしたちも、ものすごく心の中で真剣にしているのではないでしょうか。

 この世界のことを見渡すときに、戦争が終わらない世界、コロナ禍が終わらない世界があります。ますます悪くなっていくような国際的な国と国との関係、そんなことを考えると、「何をすれば、わたしたちは平和をいただけるのでしょうか」という問い、それはすごく真剣な問いになってくるのではないでしょうか。

 

 東日本大震災の際の原発事故による被害、その結果としての処理水の放出の問題をめぐって、中国との間で大変な緊張関係が生まれています。そんなニュースを聞くときに、わたしたちはどうしたらいいのだろうか、どうやったら平和が与えられるのだろうか、ということをわたしたちは、実は心のどこかでとても真剣に思っているではないでしょうか。

 

 そして、それを真剣に祈るのではないでしょうか。一体どうしたら今の状態は解決するのでしょうか、と。そのように祈るときに、イエス様は何と答えられるでしょうか。

 

 今日の箇所の言葉を用いて言えば、こういうことです。「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」

 

 そうしたことはみんな聖書に書いてあると、神様の御心にかなった生き方が何であるか、それを生きることが平和を与えられるための大切なことなのだと、イエス様が言われたら、わたしたちは何と言うでしょうか。「そういうことは子供のときから守ってきました」とはちょっと言えませんけれど、そういうことは教会に行ったときに、どこかで聞いてきた、何かで言われてきた、どこかで断片的ですけど言われた言葉は知っていますよ、となりませんか。

 

 「善きサマリア人のたとえ」の話も知っています。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という言葉も聞いてきました、と、そういうことはもちろん不十分ですけど、実際にはできませんけど、そうした言葉は今までにも聞いてきました、とわたしたちが答えたとします。

 するとイエス様が何と言われるか。

 「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

 

 これが、わたしたちが平和をいただくための、条件だとしたら、どうでしょうか。わたしたちは非常に悲しむことになると思います。それは大変な金持ちだったからではありません。金持ちであろうがなかろうが、わたしたちは自分の持っているものを売り払って、貧しい人々に分けてあげる、そこまでの気持ちがないからです。

 

 わたしたちはそれはできないのです。わたしたちはそのことに自分で気がついて、非常に悲しむことになります。

 では、どうしたらいいのでありましょうか。24節以降を読んでみましょう。

 「イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』これを聞いた人々が、『それではだれが救われるのだろうか』と言うと、イエスは、『人間にはできないことも、神にはできる』と言われた。」

 

 今日の聖書箇所を読んで皆様はどの言葉が一番、心にとまったでありましょうか。わたしはこの27節の言葉です。「人間にはできないことも、神にはできる。」

 

 このイエス様の言葉は、この聖書箇所の文脈において、理屈にかなっているようには思えません。というのは、ここで人々が言っているのは、「では誰が救われるのだろうか」ということなのですね。

 だれが救われるのかということについ、金持ちが救われることができないと、自分の持っている物を売り払って貧しい人々に与えることができなかったから、とすれば、それでは一体、だれが救われるのだろうか、と疑問を持ったときに、「人間にはできないことも、神にはできる」という、このイエス様の答えは、その問いに対してかみあっているとはいえません。

 

 だれが救われるのだろうか、という問いに対して、「人間にはできないことはも神にはできる」とは、どういうことでしょうか。それは、わたしたちが考えていることと、イエス様が考えていることが、違うということです。

 

 わたしたちが、だれが平和を与えられるのか、だれが救われるのか、ということを考えるときに、その人の資格と言うことを問うています。だれが、その資格を持っているのか。平和を与えられる資格を持っているのか。どんな人間ならそれができるのか。そうした人間像をわたしたちは求めます。

 

 どんな生活をして、どんなことを実行していったら、その人は救われるのか、どうやったら永遠の命を受け継ぐことができるのか、どうやったら平和を与えられるのかと、その人の資格を問います。どんな人がそうなのですか、と。

 

 しかし、イエス様の答えは違うのです。「人間にはできないことも神にはできる」と言われるとき、資格のことを言っているのではありません。「救われるのは誰か」というのは、わたしたちの問いであります。そうではなくて、「救うのは誰か」という問いが、イエス様の問いなのです。

 わたしたちは、だれが救われるのかということを問います。しかし、イエス様は、だれが救うのかと、ということを問うておられるのです。だれが救うのか、それは人間ではない、神様が救うのだと、その神様にわたしたちが自分自身の心を向けていくこと、そのことをイエス様はここでわたしたちに求めておられます。

 

 人間はどこまで行っても、自分の資格というものを気にしています。わたしは救われる資格があるのか、ないのか、あの人はどうなのか、どうしたらいいのか、と、だれが救われるかを問います。でも、違うのです。だれが救われるのかということを問うのとは違うのです。だれが救うのか、ということを問うのです。そして、神様が救ってくださるのだと言うのです。

 

 人間は救われるための条件を問い、そして倫理ということを考えます。どういう倫理を守ったら救われるのか、平和がもらえるのかと。そのことを問いたがるのです。そして、その倫理によって救われるのであれば、その倫理をわたしも守っていきたいものだと思っています。

 

 しかし、本当にその倫理が問われたら、「自分の持っているものを全部売り払って、貧しい者に分けてあげなさい。それからわたしに従いなさい」と言われたときに、そのイエス様に従うことの以前に、自分の持っているものを売り払えない、その倫理には従えない、というところで、自分は救われない人間だと自分で決めてしまうのです。

 

 それが人間の限界であり、人間の罪であると言っていいでありましょう。自分の救いはだれが決めるのか、自分で決められると思っているのです。そうではありません。あなたが、あるいはわたしが、つまり人間が救われるということ、だれが救われるかということ、それは人間の倫理が決めるのではありません。神様が決めるのです。

 

 倫理によってではなく、神様が愛によってわたしたちを救ってくださるのです。イエス様がそのことを教えてくださったのです。

 イエス様の12人の弟子の筆頭であったペトロが、このあとの箇所で言います。

 「するとペトロが、『このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました』と言った。」

 ここで弟子のペトロは、このお金持ちの議員ができなかったことを、わたしたちはやってきましたよ、ということをイエス様に言っているのです。自分たちは持っているものを売り払って、一文無しになってイエス様に従ってきました。だから救われるのですよね、という、その救いの確証をここでペトロはイエス様から言ってほしかったのだと思います。ほめてほしかったのだと思います。

 しかし、イエス様は言われました。

 「イエスは言われた。『はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。』」

 

 イエス様は言われます。神の国のために、これこれを捨てた者は「だれでも」と言われます。ペトロだけではありません。12人の弟子たちだけでもありません。だれでも、それをできるのだと、自分の持っているものを全て捨てることができる、それを捨てた者は、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受けると言われます。

 

 それは世の中にあって、ある限られた人たち、よっぽど何かすごい人たち、「自分のものは全部捨てました」と言って、何か禁欲的な生活に入っていけるような特殊な人たちだけではなくて、「だれでも」という風にイエス様は言っておられます。

 

 この聖書の言葉を読む人の「だれでも」、それができるんだ、そのようにイエス様はおっしゃっておられるとき、それは自分の持っているものを全部売り払って、すべてを貧しい者のために分け与えるということ、それは一部の人しかできないことではなくて、だれでもできることとして言われているのです。

 わたしたちは、それを聞いて驚きます。自分は到底そんなことができないのに、と思うのです。このイエス様の言葉をどんなふうに聞くかは、その人それぞれでありますけれども、何かよっぽど特別な人になって、持っている物を全部売り払うということではなくて、自分にはそれはできないという限界を知りながら、しかし、イエス様に従っていく者は、そのイエス様に従っていく中にあって、自分の持っている物を一つずつ捨てていくことができるのではないでしょうか。

 

 そして、そのことによって、わたしたちは、この地上の生活の中にあっていろんなことを捨てながら、またいろんなことを新しく与えられて、恵みを受けて生きていくのであります。なぜそんなことができるのですかと問われたら、それは人間にはできることではなく、「人間にはできないことも神にはできる」という、イエス様のこのお答えの通りだからなのであります。

 

 今日のこの箇所において、この1人の議員が最初に「善い先生」とイエス様に呼びかけています。それに対してイエス様は言われました。「なぜわたしを『善い先生』と言うのか。神お一人の他に善い者はいない」と。天の神様だけが本当に善い御方なのだと。

 

 このお答えには、わたしだって「善い先生」なんて呼ばれるほどの存在じゃないと、イエス様ご自身が言われている、イエス様自身が、わたしだって一人の人間なんだよ、善い先生なんて言われる筋合いじゃないんたよ、わたしだって限界がある一人の人間として生きているのだよ、そんな思いで言われているのではないかと思うのですね。

 イエス様に聞けば大丈夫、イエス様ならば永遠の命を受け継ぐためにどうしたらいいか知っているはずだ、と思われて、尋ねてこられるのだけれども、イエス様だって大変なんだよ、いろんな人にいろんなことを言われて、この質問をしたらどう答えるかと問われながら、そして、何を答えても、そんなことしか言えないのか、とか、わたしはついていけない、とか言われながら、歩まれたイエス様です。

 そのイエス様はとらえられて十字架につけられて死なれました。そして三日の後に復活され、天に上げられて今もイエス様を主と信じる一人ひとりと共にいてくださいます。それがイエス様の歩まれた道でありました。

 「人間にはできないことも神にはできる」。その神様によって導かれた人生はそうでありました。わたしたち一人ひとりにどんな人生が待っているのでしょうか。

 人間の倫理によってわたしたちは救われることはできません。自分の持っているものを全部売り払いなさいと言われたら、もうできませんとしか言いようがありません。聖書の言葉を守る以上に、何かをしたら永遠の命が与えられるなんていう生き方をわたしたちはすることできません。限界がある一人の人であります。

 その限界ある一人の人間であるわたしたちが、イエス様の弟子になるときに、それは真の平和ということを追い求めていく、その道筋を歩む、その平和というものに至る道筋において、イエス様の弟子となる、平和の弟子となるといって良いと思うのです。

 

 平和というものを追い求めて生きていく。平和の弟子になって歩んでいく。その道筋の中でわたしたちはいろんなものを捨てながら、また、同時にいろんなものを与えられていきます。平和をいただくということもまた、そういう道のりのことなのでありましょう。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様。今日与えられた御言葉を感謝いたします。

 どうか一人ひとりに平和への道筋を与えてください。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。