京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2022年6月の説教

 2022年6月の説教

6月5日(日)ペンテコステ(聖霊降臨日) 6月12日(日)
6月19日(日) 6月26日(日) 礼拝説教

「語らせるままに宣教へ」

 2022年6月5日(日)ペンテコステ(聖霊降臨日) 礼拝説教

 聖 書  使徒言行録 2章1〜13節(新共同訳)

 

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、

 激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、

 ほかの国々の言葉で話し出した。

 

 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた、

 信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。

 そしてだれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、

 あっけにとられてしまった。

 

 人々は驚き怪しんで言った。

 「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

  どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

  わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、

  また、メソポタミアユダヤ、カパドキヤ、ポントス、アジア、フリギア

  パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。

  また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、

  ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、

  彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業(わざ)を語っているのを聞こうとは。」

 

 人々は皆驚き、とまどい、

 「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。

 しかし、

 「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、

 あざける者もいた。

 

 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
     改行などの文章配置を説教者が変えています。
     新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

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 (以下、礼拝説教)

 

 本日は教会の暦でペンテコステ聖霊降臨日を迎えました。ペンテコステというのは「50」という意味があり、イースター(復活日)から数えて50日目、七週間経った後ということを意味します。

 元々のこの日は、農業における自然の作物の収穫をお祝いする、お祭りの日でありまして、それが聖書の伝承、言い伝えと結びついて、このときに「聖霊降臨日」を祝うということになったようであります。

 

 このペンテコステの日は、何を意味をしているかというと、今日の聖書の箇所にあります事です。イエス様が天に挙げられた後、残された弟子たちが毎日祈っていた。そこに天から神様の目に見えない聖霊、聖い霊が与えられた、その時から弟子たちはイエス様のことを世界中に宣べ伝える、その力が与えられて勇敢に語り出した、その働きを、今日の箇所では記念しているのであります。

 

 イエス様が十字架に架けられ、そこで死なれ、その三日の後によみがえられて、弟子たちと40日間、共におられ、その後にイエス様は天に挙げられた。そのように使徒言行録の1章において記してあります。イエス様が目の前から消えていった。

 

 その弟子たちはおそらく寂しかったと思います。孤独を感じたかもしれません。しかし、残された弟子たちは、イエス様が天に挙げられるときに、あなたたちには神様からの聖霊が与えられる、そのときを待つようにと言われた、そのイエス様の約束を信じて、毎日集まって祈っていました。そして、その通りに神様の聖霊、聖い霊が与えられたのであります。

 

 その聖霊とはどのようなものであったのか。
    今日の箇所には、次のように書いてあります。

「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」

 

 この短い記述の中には、いくつかの、ペンテコステを象徴する言葉があります。それは「風」という言葉、そして「音」という言葉、そして「炎」という言葉、そして「舌」、「言葉」、そういう言葉であります。

 

 聖霊とは何か。それは目に見えない神様のお姿であります。目に見えないので、では、どのようにたとえたらよいのか、ということで、この箇所に出てくる言葉、風とか音とか炎、そして舌、つまり言葉、しかもほかの国の言葉を語る力、そうした、この箇所に出てくるいくつかの言葉が、ペンテコステあるいは神様の聖霊ということを表す言葉になっています。

 

 目に見えるものではない、固定したものではない。しかし、はっきりと一人ひとりの人間の内に働いて、その人に新しい力を与える。その新しい力は、その人が新しいことを語ることができるようにさせてくれる。そういう力があるということが示されています。そのように、神様の聖霊が一人ひとりの人にくだった、ということが今日の聖書箇所に書いてあります。

 

 聖霊という言葉は、キリスト教の神学でいうと、神様、主イエス・キリスト聖霊、この三つの存在は、一つの神様の三つの現れであると説明します。「三位一体(さんみいったい)」という言葉です。

 

 この世界を造られて、目に見える存在ではない、しかし確かにおられる神様。そして、目に見える一人の人の姿でこの地上に生き、死なれ、そして復活なされた主イエス・キリスト。そして、聖霊、この三つのお姿は一人の神様の三つの現れは、同じであるとキリスト教の神学は理解しています。

 

 なぜそうであるのか。それは具体的にどう説明されるのか。ということに関しては、それは、「わからない」ということです。それは明瞭に、たとえば科学の方程式のような形で、それを説明することはできない。ただ、人間に与えられている信仰、神を信じる心の中において、神様とイエス様と聖霊は、一つなんだ、同じことなんだ、そういうふうに理解することができる。そういうことなのであります。

 

 そういう意味で、聖霊がくだるということは、イエス様が一人ひとりの心の中に来て下さるということと同じであり、また、神様が一人ひとりの心の中に来て下さるということと同じであります。それまでは、自分の外にあって、遠い所にあるように思えていた神様とかイエス様が、自分の心の中にやってきて、この私と一緒にその聖霊が語って下さる、そしてこの私を力づけて下さる、という、そういうことがこのペンテコステの出来事なのであります。

 

 そのように記されている、このペンテコステの出来事ということが起こって、そのあとどうなったかということが、5節以降に書いてあります。「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そしてだれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」

 

 ここで起きたことというのは、イエス様の弟子たち、そしてまた弟子たち以外にもイエス様に従った人たちが、このとき集まって祈っていたところに、こうして聖霊がくだって、そして弟子たちが言葉を語るようになったのですが、それまで自分たちが使っていた言葉ではなくて、世界の各地で使われている言葉で、それを語りだしたということです。

 

 そして、その言葉を聞いて、その周囲にいた人たちは、自分たちが元々出身だった故郷、ふるさとの言葉をこのイエス様の弟子たちが急に語り出したので、びっくりしてしまった、そういう場面なのであります。

 

 世界中といっても、当日の聖書の書かれた世界の中でいえば、だいたい地中海沿岸とか中近東と現代の私たちが読んでいる地域でありますけれども、そうしたいろんな所からこのとき都エルサレムに来ていた人たちがいて、その人たちの目から見て、とても不思議なことがこのとき起こっていたということです。

 

 イエス様の弟子たちがそんないろんな国の言葉を、しゃべれるはずがないのに、急にそんなことを違った国の言葉で話し出したときに、人々は驚き怪しんだとあります。

 

 7節にはこうあります。「人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。』」

 

 ガリラヤというのは、都エルサレムから離れた田舎といいますか、辺境の地、都から遠い所にある地域がガリラヤなのですけれど、そんな田舎の人たちではないか。その人たちがどうして、と驚くのですね。

 

 「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミアユダヤ、カパドキヤ、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業(わざ)を語っているのを聞こうとは。」

 

 ここでは、いろいろな地名が出てきています。当時の人たちにとって「世界中」ということがここで表現されています。ローマから来ている人もいるんだ。本当に遠くから海を越えてやってきた人たち。アラビアの人たちだっている。その人たちが、この都エルサレムに来たときに、どうしていたか。ここにもし定住するのであれば、ヘブライ語を使っていたのでありましょう。しかし、その場において、自分たちのそれぞれの故郷の言葉を、なぜイエスの弟子たちが急に語れるようになったのか。全く理解できない、そういう様子でありました。

 

 12節にはこうあります。「人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った。しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた。」

 

 ペンテコステの物語というのは、今日のこの13節で終わりではなくて、このあと14節以降に、ここからイエス様の弟子のリーダーであったペトロが、声を張り上げて説教をしてイエス・キリストのことを人々に証しをする、そういう場面に移っていきます。最終的には、そのペトロの力強い説教を聞いて、多くの人たちが悔い改めて、イエス様を自らの救い主として主と信じた。

 そして、三千人ほどの人たちが仲間に加わったということが書いてあります。

 

 こうして、世界最初の教会ができたということで、ペンテコステというのは、教会の誕生日、世界最初の教会の誕生日というふうにも表現されます。教会が出来たという意味は、建物が建ったという意味ではなくて、人々の群れ、イエス様を信じる人々の大きな群れというのができて、その最初に集まった三千人の人たちがまた、世界中に出ていってイエス様のことを伝えて、そして教会がどんどんと各地に増えていった。そういう物語の発端が、今日の箇所になっているのであります。

 

 そして、その発端にあるのは、イエス様の弟子たちが世界各国の言葉で語れるようになったという、非常に不思議な出来事であり、そのことを見て、「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざける者もいたとあります。

 

 こういう状態といいますか、今日の聖書箇所に書かれていることを、現代日本社会に生きている私たちが理性的な目でもって読んで、このときのことはどういうことだったのかと考えると、ずいぶん不思議な気持ちになってきます。一体ここで何が起こったのか、よく分からないというのが正直なところであります。

 

 この箇所を読んだときに、まあこれは聖書的な物語なんだろうけれども、実際に何があったかということは、もう全然わからないなと思ったりもいたします。最後に「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と悪口を言っている人もいたとありますから、このときの情景というのは、てんでに勝手なことを語っているという奇妙な光景であったのかもしれません。

 

 今日の箇所を読みながら、これがもし現実にあったとしたら、私たちはこれをどう思うだろうかといろいろ想像してみました。そして、今日の箇所にあるようなことが、現実にありえることがあるとしたら、どんな場面かなと考えたときに、私は次のようなことを想像してみました。

 

 日本には東京という街があります。東京には日本の各地からいろいろな人がやってきます。学生たちもいろんなところから東京の大学にやってきます。東京の大学の中に来たときには、みんな共通語として標準語的な言葉を使うものだと思います。ふだんそうやってみんな標準語を使って学校の中で暮らしている、学生生活をしていると。

 

 ところがある日、学校に行ってみたら、一部の人たちが集まってきて、なんかずいぶんおしゃべりをしている。そしてよく聞いてみると、ふだん使っている標準語じゃなくて、日本各地の方言でしゃべっていると。もし、そんな場面があったら、きっとみんなびっくりすると思うのですね。しかもいろんな地方から来た学生たちにとって、「あっ、あれは私の故郷の言葉だ」と、はっと思ったときに、みんなびっくりすると思うのです。一体、これは何が起こっているのですか、と。

 

 地方からやってきた学生たちにとって、自分の故郷の言葉が、この東京のど真ん中で、しかもそんな言葉を今まで語ってきた人たちが、東京生まれ、東京育ちのような人たちが、そんな言葉を語っていたら、何事かと思って、「なんで? どうして?」と質問すると思います。

 

 そしたら、言われた方は、「いや、みんなの方言を勉強したんだ」と答えると思います。それは、勉強しなければ方言はしゃべれませんから。では、そうしたら次の質問をします。「えっ、なんでそんなみんなの方言を勉強したの?」と尋ねたら、「そりゃ、みんなのことをもっと知りたいからや」と答えるのではないでしょうか。……なんで関西弁になるんでしょうね。わかりませんけれど。

 

 私はなんとなく、そんなふうに場面を想像してみました。実際、今日の聖書に書いてあることが起こったら、「なんで? どうして?」と質問したくなります。そしたら「みんなのことをもっと知りたいから」と、私ならそう答えるな、と思ったのですね。

 

 京都に来たのだったら、まあ京都で通じるような言葉遣いをみんなすると思います。でも一方で、その人は生まれ育った故郷の言葉というものを一方で持っている。ふだんしゃべらないけれど、その人たちはそうした言葉を持っている。その人たちの言葉をしゃべるとしたら、それを勉強することが必要ですし、そして何のためにそんなことをするのかと問われたら、それはみんなのことをもっと知りたいから。そうして、あんたの所の方言でしゃべったら、もっと話しやすいんとちゃうの。そんなふうに言ってみたくなる、そう私は思いました。

 

 実際には、そんなことはとても無理ですよ。いろんな地方の方言をみんな覚えてしゃべったりとか、そんなことはいくら勉強したってできません。けれども、今日の聖書箇所に書かれていることというのは、単に何かその、神様の霊が降ってきたら不思議なことが起こった、奇跡が起こった、ということだけを言っているのではないと私は思うのです。

 

 こんなふうにいろんな国の言葉を急に語り出すとしたら、そこにどんな意味があるのか。それは世界中から来ている、いろんな人たちのことをもっと知りたいから、もっと仲間になりたいから。そして、もっと大事な話をしたいから、こんなふうなことが起こるのではないでしょうか。私はそんな風に思いました。

 

 ペンテコステというのは、今日の箇所に書いてある、不思議なことが起こったときなのでありますが、それは何か、単に不思議なことが起こったというだけではなく、世界中の人のことをもっと知りたい、そして世界中の人たちにもっともっと、イエス様のことを伝えたい、という神様の御心があって初めて起こった出来事ではないか、と思うのであります。

 

 そして、こうした聖書の物語というものは、私たちが新聞やテレビを見るときのように、ドキュメンタリーのようにして、その場に実際に行って、一から十までメモを取って写真を撮って記録をした、そうして書くような形で聖書の言葉が書かれているのではなくて、実際の出来事があってから何十年も経ったあとに、あのときはこんなことがあった、というようにいろんなことを思い出して、いろんな人の話をつなぎ合わせて編集していく、そういう書き方をしていきます。

 

 そういうことを考えたときに、今日の箇所にあるペンテコステの出来事は、ここに書いてある、メディア、メソポタミアというような、私たちが聞いたこともないような地中海沿岸の町、海をはるかに越えた所にあるローマやアラビアなど、そんなところにもイエス・キリストの福音が伝わっていった、その発端がこのペンテコステだったということを、あとになって整理して、こうした物語の形にしたのではないか、そう思えるのであります。

 

 ペンテコステの日が来るまでは、イエス様の弟子たちは、天にイエス様が挙げられたあと、何をしていたか。ずっと集まって祈っていたと考えることができます。それは、何もしていなかったということではなくて、イエス様が約束してくださった聖霊がくだるときを信じて、みんなで待っていたということであります。

 

 その、信じて待っている弟子たちの姿というのは、おそらく世間一般の人たちの目から見たときには、じーっと自分たちの仲間だけで閉じこもっている姿に見えたと思います。じーっと閉じこもっている人たち。しかし、その人たちに、ある日、神様の聖霊が働いて、そこから、それまではじーっとしていた人たちが、外に向かって語り始めた。

 

 そのときに、周りの人たちが本当に驚くような働きをして、イエス様の働きを宣べ伝え、そてし病気をいやし、新しい仲間をどんどん増やしていった。その教会というものがそこで生まれた、そこで大きな意味で、この世界の歴史が変わったのですね。このペンテコステの出来事というのは、単に教会が生まれたというだけではなくて、世界の歴史が変わったという地点であります。

 

 ここから始まって教会というものが世界中に伝道していって、世界中で増えていった。そして、その行った土地において、その土地の文化や伝統に土着するという言い方をするのですが、土に着陸するという意味で「土着」という言葉を使いますが、キリスト教がその土地の文化や伝統に根ざす形で土着をしていった、そうした歴史の発端というのが、このペンテコステ(聖霊降臨日)であります。

 

 このことを今日、この現代社会のいろんなことを考える中で、もういちど、このペンテコステの意味というものを受け止め直してみたいと思うのです。そして私は、先ほど申し上げました、このペンテコステの出来事を、本当に日本であったらどんな光景だろうと思って、一つの例え話をしました。もしこんなふうにして、日本各地の方言を突然話し出したら、みんなびっくりすると思うのです。「なんで? なんで? なんのために? どうして?」「勉強したんや。もっとみんなと話したいから。」私だったらそんなふうに言います。

 

 ペンテコステの出来事とは、単に教会が生まれたというだけではなくて、みんなのことをもっと知りたいんだ、そのために、みんなが使っている故郷の言葉を勉強して、私もみんなの故郷に生きることができるような人になりたいんだ。そこまでして、みんなと一緒に歩んでいきたいんだ。そういう思いが、このペンテコステにもあると思うのです。

 

 いま私たちはウクライナ情勢のことを、テレビのニュースなどで毎日のように見ています。そして、ニュースを見るたびに心を痛め苦しんでいる、そういう世界でありますけれども、そうしたニュースを見る中で、それまで知らなかったいろいろなことを私たちは教えられています。

 

 ある日のニュースを見ていると、こんなふうに解説をしていました。ウクライナにはロシア語を使う人がたくさんいるが、ロシア語を使うからロシアの味方とかそういうことではなくて、ウクライナに生きていたら、それがあたり前なんだと。そういう文化圏に生きているから。だから、ロシア語を話すから、この人は親ロシア、あっちはそうじゃない、そんなことでは全くない、というような解説を聞くことで、私は知らなかったことを教えられました。何何語というのは使うからその国の人なのではない。二つの言葉を使うのが普通、という世界がそこにあるのだと。

 

 イスラエルパレスチナとか、あるいはアメリカ、ヨーロッパ、あるいは中国、東南アジア、いろいろな世界のニュースが私たちの所に入ってきます。言葉というものも一つではないのです。ごく当たり前に2カ国語、3カ国語が使える。そこには、長い長い歴史の中でつちかわれた文化的な背景というものがあります。そのことを知らないで、ある一部分だけを取り出して、これはこうだ、あれはああだ、と言ってしまうと、大きな間違いをしてしまうこになります。

 

 一人ひとりの人間が、どんなふうに生きてきたか、その人が使う言葉というものが、その人が育ってきた国の文化・伝統というものが反映しています。そうしたことを私たちが勉強するときに、いわゆる標準語、あるいはみんなが使う言葉、今でいえば世界で使われる公用語といえば英語ということになってきますけれど、でも英語を使っていれば世界のことがみんなわかるわけではないです。日本で標準語を使っていれば、日本のすべてがわかるわけではないように。

 

 いろんな国の言葉があります。そして、もし私たちが片言でもいいから、そうした言葉をしゃべるなら、それは何のために? と聞かれたら、それは、「ちょっとでも知りたいから」「ちょっとでもわかりたいから」そして、「ちょっとでもつながりたいから」そんなふうに私たちは答えるのではないでしょうか。

 

 今の世界の中にあって、そうしたことが本当に必要とされています。このペンテコステの出来事というのは、単に人間の願いということではなくて、神様の御心がそこにある、神様は私たち一人ひとりにいろんな言葉を使うことへの憧れ、あるいはそのことの意味といいますか、どう言ったらいいのでしょう、世界の人たちのことをちょっとでもお互いに知っていくこと、そのことが大切なのだということを、このペンテコステのときに、教えて下さっていると思うのです。

 

 そして、その聖霊の力が与えられたイエス様の弟子たちは、その聖霊が語らせるままに宣教をいたしました。イエス・キリストの十字架の死による罪のゆるし、そして復活による新しい命。その二つを中心にした「神の国の福音」の宣教ということをいたしました。それは単にキリスト教という一つの宗教を世界に広めていく、ということだけではなかったのです。

 

 世界の人たちの言葉を知る、お互いの言葉を知ることによって、もっとお互いに知り合う者になっていこうよ、そのことを通して、まことの平和というものを神様から与えられていこうよ。そのことを語る勇気が、イエス様の弟子たちにはペンテコステの日に与えられたのであります。今日の現代日本社会に生きている私たちにもまた全く同じであります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様。心から世界の平和を願います。いくら願っても願っても、かなえられないかのような、その悲しい現実の前で、それでも願うとしたら、それは人間の思いでなく、神様の御心によって私たちが突き動かされ、私たち自身が神様の恵みの手段として、この世界に平和をもたらすものとして用いられることではないかと思います。どうか一人ひとりに平和への祈り、そのための言葉、そしてそのためのほんの小さな力であってもいいので、それを与えてください。このペンテコステにあたり、教会の働き、そして平和を造る働きが世界中に満ちあふれますように、心より願います。

 この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、神様の御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

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「使命は捨てておかれず」 
 2022年6月12日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  使徒言行録 2章14〜28節(新共同訳)

 

 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。

 

 「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、
       知っていただきたいことがあります。
      わたしの言葉に耳を傾けてください。

    今は朝の九時ですから、この人たちは、
       あなたがたが考えているように、
       酒に酔っているのではありません。

 

 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。

 

『神は言われる。/終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。/すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。/わたしの僕やはしためにも、/そのときには、/わたしの霊を注ぐ。/すると、彼らは預言する。/上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。/地と火と立ちこめる煙が、それだ。/主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、/月は地のように赤くなる。/主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

 

 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。

 ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。

 神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、

 不思議な業と、しるしとによって、
   そのことをあなたがたに証明なさいました。

 あなたがた自身が既に知っているとおりです。

 

 このイエスを神は、お定めになった計画により、
    あらかじめご存じのうえで、

 あなたがたに引き渡されたのですが、
    あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、

 十字架につけて殺してしまったのです。

 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、
     復活させられました。

 イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、
    ありえなかったからです。

 

 ダビデは、イエスについてこう言っています。

 

『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。/主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。/だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。/体も希望のうちに生きるであろう。/あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。/あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』」

  

 

 

 

  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
 改行などの文章配置を説教者が変えています。
 新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

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 (以下、礼拝説教)

 

 先週の日曜日には教会の暦でペンテコステという日を迎えました。これは聖霊降臨日ということであります。

 イエス様が天に挙げられたあと、残された弟子たちのところに神様から、聖い霊、聖霊というものがくだって、そこからイエス様の弟子たちが、イエス様のことを世界中に宣べ伝えることができるようになりました。そして、そこからたくさんの仲間が集まって最初の教会ができました。その、世界で最初の教会が生まれたときのことを記念する日であります。

 

 教会では、教会の暦によって、クリスマス、イースターペンテコステ、この三つの日を特別に大切にしています。クリスマスは、イエス様がお生まれになられた日。イースターは、イエス様が復活なさった日、そしてペンテコステは、教会が誕生した日であります。

 

 先週、その日を迎えて、その聖書の箇所を読みました。今日の聖書箇所もその続きの所であります。今日の箇所には旧約聖書から2箇所が引用されていて、少し言葉が難しく感じられるかもしれません。しかし、ここに書かれていることは、いつか神様から神様の霊、目に見えない聖霊というものを人々に与えて下さる、そのとき人々は夢を見る、そして新しい力が与えられて、そして人々が救われていく、そうしたことが言われているのであります。

 

 この聖霊降臨日、ペンテコステということを、聖書が書かれてから2000年経った今、私たちはこうして記念する礼拝をしています。わたしたちが今、このペンテコステの日ということを記念すること、それは単に2000年前にこんなことがありました、ということを聖書を読み直して確認するというだけではありません。

 

 聖書に書かれていることというのは、2000年前だけではなくて、私たちが今に生きている、この時代、この場所、この世界において必要なのだ、ということを確認する、それがペンテコステの日であります。

 

 では、2000年前にはどのようなことがあったのか、ということを私たちはまず聖書から知る必要があります。イエス様は、人々によって憎まれて、捕らえられて十字架に架けられ、そしてイエス様はその十字架にはりつけにされ、人前にさらされ、そこで命を落とされました。十字架の刑というのは、ローマ帝国によって定められた最も重い刑罰であります。

 

 それは政治的な反逆者に対して与えられる最も重い刑罰でありました。何の罪も犯していないイエス様が、なぜそのような刑に処せられたのか、それは、その当時にあって人々がイエス様を憎んだからであります。

 

 イエス様は神の国の福音を宣べ伝えました。本当の神様の恵みというものは、人を問わず全ての人に与えられる。神の国が近づいた。その神の国を信じる、そのことによって誰でも救われる。その神の国の福音、良き知らせということをイエス様は人々に伝えました。

 

 しかし、そのイエス様の教えというものは、当時のイスラエルの人たちにとって、それまでの宗教のあり方というものを揺さぶるものでありました。旧約聖書に記されていた、様々な律法と呼ばれる決まり事、宗教上のおきてというもの、それを守ることによって救われる、と信じていた人たちにとっては、イエス様が説いた新しい教えは自由過ぎて、それは危険なものに思われました。

 

 そして、当時の宗教的な権力者の人たちは、口裏を合わせてイエス様を無実の罪で捕らえ、そしてローマ帝国に引き渡し、偽りの裁判によって十字架の刑に処したのでありました。

 

 そのイエス様が十字架で死なれた後、三日後によみがえられた、ということが聖書には書かれています。それは私たちの理解を超えたことでありますが、聖書はそのように記しています。そしてそのあとイエス様は、40日間弟子たちと共におられた後、天に帰られました。天に挙げられた、と聖書には書いてあります。

 

 そしてイエス様が天に挙げられていくときに、残された弟子たちに、もうすぐあなたたちに天から聖霊が与えられる、そのときを待ちなさい、と言って、イエス様は天に帰っていかれました。その後のことが、ペンテコステであります。

 

 そのペンテコステの前には、残された弟子たちは毎日集まってお祈りをしていました。それ以外には何もしていなかったのではないかと思われます。イエス様がいなくなったあとの弟子たちの姿は、世間一般の人たちの目から見て、どうだったでありましょうか。

 

 おそらく、自分たちのリーダーを失って意気消沈している人たちに見えたと思います。何のやる気もなくなってしまって、毎日どこかに集まってお祈りしているらしいけど、ああ、やっぱりイエス様がいなくなったら、あの人たちは何にもできない人たちだね、そんなふうな陰口もささやかれていたのではないでしょうか。

 

 普通は、そのグループの大切なリーダーがいなくなったら、そのグループはつぶれていきます。もう、力がなくなってしまうのです。まわりの人たちから見て、イエス様に残された弟子たちはそんなふうに見えていたでありましょう。

 

 しかし、あるとき、神様から聖霊、神様の聖い霊、それは目に見えない神様のお働きでありますが、その聖霊が弟子たちにくだったとき、そこから弟子たちはただ集まってじっと祈っているだけではなくて、みんなに向かって世界中に向かって、イエス・キリストのことを宣べ伝える、その勇気と、その言葉の力が与えられました。

 

 しかも、自分たちの国の言葉だけではなくて、世界中の国の言葉を使って、世界中に伝道することができるようになった、というのであります。これまた私たちの理解を超えた、不思議なことであります。

 こうしたことがあったのがペンテコステの日なのでありますが、そのことが2章の前半に書いてありますが、そのところには、まわりで見ていた人たちは、その弟子たちがいろんな国の言葉でイエス様のことを語ることができるようになった、その場面を見て、あれは新しいぶどう酒を飲んで酔っ払っているのだ、とあざける者もいた、ということが書いてあります。

 

 つまり、何かよくわからないことだけれども、何かあの人たちがにぎやかになっている、口々にいろんな国の言葉でイエス様のことを語り出した、一体何なんだ、という周囲の人たちの戸惑い、またそこからあの人たちは新しい酒に酔っているんだ、という嘲り、悪口まで生まれたことが書いてあります。

 

 そうしたあざけりや悪口を聞いたあとの話が、今日の聖書の箇所であります。イエス様に残された弟子たちのリーダーだったペトロが、他の弟子たちと共に声を張り上げて話し始めた、とあります。ここからが使徒ペトロの説教であります。

 この説教の中で、ペトロは旧約聖書を、今日の箇所の中では2箇所引用して、今起きていることというのは、脈絡なしに今突然起こったのではなくて、実は旧約聖書に記されている通りのことが今起こっているのだと、すなわち、これは神様の御心が実現したことだということを語り出した、ということであります。

 そして、ペトロが引用した箇所の一つは旧約聖書のヨエル書の言葉であり、そこには、終わりのときに、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐという言葉があります。終わりのときとはいろいろに解釈することができますが、神様の恵みが現れるときという意味にとることができます。

 

 そのときに神様の見えざる霊、聖霊というものが与えられて、そして一人ひとりが夢を与えられ、新しい力が与えられ、新しいことを語ることができる。そういう、旧約聖書の言葉を引用して、このペンテコステというのはそういうときなんだ、ということをペトロは語っています。

 

 そして、その後の22節以降はイエス・キリストのことを語ります。神様は私たちにイエス・キリストを救い主として与えて下さいましたけれど、人々はイエス様を憎んで十字架に架けて殺してしまった。しかし神様は、そのイエス様をよみがえらせて下さった。復活させて下さった。そうしてイエス様は死の力を打ち破って、そして今、天に挙げられて、今も私たちと共にいてくださる、という、そうした信仰を語っています。

 

 こうしたペトロの勇敢な説教を聞いて、その周囲にいた人たちは心を打たれ、罪を悔い改めて、イエス・キリストを主と信じるようになった、そのような人たちが3000人いたということを使徒言行録は記しています。こうして世界最初の教会が誕生したということを、使徒言行録は今の私たちに教えているのであります。

 

 ここに書かれていることは、現代の私たちの目から見たときに、とても不思議です。科学的に、これはどういうことなのだろうか、とか、歴史的な実際はどういうことだったのだろうか、ということも考えますけれども、その時のことというのは、それは実際には私たちはわかりません。タイムマシンに乗って行って、その事実を確かめることはできません。

 

 ですから、残された聖書の言葉を通していろいろに解釈するのでありますけれども、こうした使徒言行録の物語が書かれたのは、実際のペンテコステの出来事があってから何十年も経ってから、過去のことを振り返って、過去はこのようであった、という形で、いろんな人の言い伝えをもとに編集をして書かれています。

 

 そこにあるのは、歴史の事実そのままではなくて、その時代の人たちは教会が一番最初に生まれたときは、このようであった、という、自分たちの信じていることを文章化したのであります。そういう意味で、事実というものを度外視して、自分たちの教会の出発点はこのようであった、と自分たちが信じていることを言葉にしているのが、今日の箇所であります。

 

 以上が、今日の箇所のおおざっぱな説明であります。では、2000年経った今日の現代日本社会に生きている私たちは、今日の箇所をどのように読むのでありましょうか。

 ここに書かれているようなペンテコステの出来事、そして旧約聖書の預言の言葉に支えられて、イエス・キリストを信じる弟子たちの所に、神様の見えない聖霊というものがくだって、そこから伝道が始まった、ということ、このことは素晴らしいことであるけれども、しかし今を生きている私たちにとって、こうしたことが、実感として感じられるかといえば、そうではないかもしれません。

 

 これはあくまでも聖書の中でのお話であって、いまの私たちにとっては縁遠く思えるのではないか、と私は思います。そのように聖書の箇所というものを読んでいて、縁遠く思うのは、皆さんだけではなくて、実は、牧師をやっている私もそうなのであります。聖書に書かれていることは素晴らしいことなのでありますけれども、人間ですから、いろんな思いに心が満たされるときには、聖書の言葉も上の空、キリスト教のメッセージも全然心に入ってこないようなときもあります。

 

 たとえば2月に起きましたウクライナでの戦争、本当にあんなことが起こるとは思っていませんでした、数ヶ月前までは。そのことが本当に起こり、一体これはどうなるのか、というその絶望的な思いに満たされたときに、正直私は思うのです。神も仏もあるものか、これが現実だ。私たちの祈りも願いも、みんなひっくり返されてしまったじゃないか、ただ力だけがこの世界を支配しているのではないか。私はそんな思いになるのです。

 

 そうして私はある日、テレビのニュースをつけました。ウクライナのことを報道していました。そしてニュースの場面にこんな場面が流れました。「日本に住んでいるウクライナの方々を取材しました。」そうして、日本に住むウクライナの人々が集まる場である、東京のウクライナ正教会の礼拝でありしまた。私が見たことのない、ウクライナ正教会の人たちの礼拝が映り、そこに集まってくるウクライナの人たちのインタビューが流れました。

 

 その教会の司祭の方は、インタビューを受けて、最初は冷静に語っておられましたが、途中で泣き出されました。あまりの悲しみに泣き出されました。なぜこのようなことになるのか、と。

 

 私はウクライナの戦争が起こって、神も仏もあるものか、という思いで、その現実から逃れた思いでニュースを見ましたが、そこに映っていたのは教会でありました。そこに泣く人たち、悲しむ人たち、祈る人たちが映されていました。

 

 私は思ったのです。私は神も仏もあるものかと思った。しかし、今、ウクライナの教会に集まっている人たちは、まさに心から平和を願っている、泣きながら祈っている、その様子を見たときに、教会って何だろう、ということを私はもう一度深く考え直したのであります。

 

 教会というのは何でしょうか。現代において、教会というのは、日本において決して大きくありません。人数は本当に多くはありません。そして、どこの教会も小さくて、なかなか新しい人が来なくてねえ、そんな話をすることもあります。世界的に見ても、ヨーロッパやアメリカの教会ではクリスチャンが減っているというニュースも聞きます。その反対にアジアとかアフリカではとても増えています。南アメリカもそうです。

 しかし全般に先進国と呼ばれる国では、クリスチャンの数は減っている、教会の活動も前ほどには盛んではないと言われます。日本ではどうでしょうか。日本でも教会は中々大きくなれません。だんだんと減っていって最後は無くなってしまうのだろうか。そんなことを心にふっと思うこともあります。

 

 そんな私の心に、今日の箇所は、いろんな問いかけを与えてくれるのです。今日の箇所の後半で、使徒ペトロが旧約聖書詩編の言葉を引用して語っているところがあります。25節のところです。ダビデは、イエスについてこう言っています。

「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。/主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。/だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。/体も希望のうちに生きるであろう。/あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。/あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。」

 

 ここには、神様を信じる者の信仰というものがあふれています。「神様はわたしの魂、陰府に捨てておかず」と書いてあります。そして「聖なる者が朽ち果てるままにしておかれない」と言われます。これらは主イエス・キリストのことを示しています。

 

 神様が、神の国の福音を告げ知らせるために、私たちに与えて下さった、イエス・キリストの魂を見捨てておかず、そして神の聖なる者であるイエス様は、朽ち果てるままにしておかれない、とあります。

 そこには、イエス様という方は、十字架に架けられて死なれ、そして天に挙げられて目の前からいなくなるけれども、しかしそのイエス様のなされた使命というものは、滅びずに、ずっとこの世の中に生き残っていく、継承されていく、ということを示しています。

 

 2000年前にイエス様がいなくなって残された弟子たち、集まってお祈りばかりして何にもしていない人たち、その群れは世間の人たちの目から見て、ああ、あの人たちはイエス様がいなくなったら何もできないんだな、と思われていた、その群れが、ある日、神様の聖霊がくだった、そのときから勇敢にイエス・キリストのことを宣べ伝え、そしてただ集まっているだけではなくて、世界に出て行っていろんな活動をするようになりました。そして仲間が増えて世界中に広がっていったのであります。

 

 それは、イエス・キリストという存在が、目に見える人間の存在でなくなっても、そのイエスの使命を受け継ぐ人たちが世界中にいて、教会というものを世界中に造っていく、そのことによってイエス様の使命が世界中に受け継がれていったということを示しています。

 

 私は、考えました。日本の教会は小さい。人数が少なくて将来はどうなるのだろう。確かに不安もあります。でも、こう思うのです。もし、教会がなくなってしまったとしても、本当になくなってしまうのであるならば、イエス・キリストの使命は、教会以外の所から、誰かが、何かが、きっと担っていくのだろうと思うのです。

 

 今日の聖書の箇所にあるように、イエス様は決して朽ち果てない。その魂は読みに捨て置かれることはない。イエス様の福音は必ず世界に生き続けます。もし教会がなくなってしまうのならば、イエス様の使命は、教会以外の何かがその使命を担うのでしょう。

 

 教会は様々な働きを生み出してきました。学校を生み出してきました。病院を生み出してきました。社会福祉を生み出してきました。音楽や美術や様々な芸術を生み出してきました。そうした、教会が生み出してきたたくさんのものが、教会の役割を担っていくのではないでしょうか。

 

 しかし、その一方で、私はこうも思うのです。でも、それでも、その中にあって一番大切なものは教会ではないだろうか、そう思うのです。どうしてかというと、教会というものだけが、礼拝を中心に動いているからであります。

 

 学校も、社会福祉も、芸術も、みんな素晴らしいものでありますけれども、礼拝を中心しては動いていません。それぞれの論理で動いています。教会だけが、礼拝というものを中心にして、つまり、神様を信じ、神様をたたえ、神様に祈り、神様の御言葉を聖書を通して聞き、その礼拝をすることから全てのことを始めていく、というのが教会であり、その役割というのは決して、学校とか社会福祉とか芸術とか、そうしたものに丸投げをすることができません。

 

 やっぱり教会は、教会だけができる使命を持っています。そういう形で、教会が、イエス・キリストの福音をこのように宣べ伝えていくならば、やはり教会というものは、この世からなくならないと私は思います。そう信じます。

 

 わたしたちの京北教会も、この地域にあって今日もこうして礼拝をしています。それは教会に集う人たちが集まってそれぞれの心の中のいろんな願いとか思い、いろんな昔の思い出とか、今悩んでいることとか、いろんなことを考えながら、この礼拝に集っています。その一人ひとりの心を神様がしっかりと受け止めて下さっています。

 

 この礼拝を通して神様につながり、そして神様から祝福を受けて、神様に愛されて、今日から始まる新しい一週間をまた新しく生きていきます。世界中が戦争に苦しみ、コロナ問題に苦しみ、様々な問題に苦しめられていても、教会には教会にしかできないことがあります。それは礼拝を中心にして動いていくということであります。

 

 ペンテコステのときに、神様の見えない聖霊がくだって、弟子たちにはその力が与えられたのです。そして世界中に行って、その国の言葉を話し、イエス様のことを伝えることができるようになりました。それは科学的・歴史的な事実からはちょっと遠いことかもしれません。でも、信仰においては、そういうものだったんだ、と信じて構わないのです。

 

 その時代に実際にどうしていたかということは、神様とその当時の人たちだけが知っています。それでいいではありませんか。いま、今日の現代社会を生きている私たちにとっても、今の時代をどう生きるかということは、私たちと神様の間でそれぞれに進んでいく物語なのであります。

 

 それは科学的にどうか、歴史的にどうか、ということを飛び越えて、本当に私たち一人ひとりが神様に愛されて、そしてまことの平安というものをこの世に作り出していく、そのために用いられる教会の働き、そういうところにあります。これからも教会は教会らしく、皆様と共に歩んでいきたいと願うものであります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様。世界中が悲しんでいる、苦しんでいるこの時代にあって、一人ひとり、自分の生活の場にあって、ほんの小さなことであっても、そこに平和を創り出し、家族と共に、隣人と共に、教会の方々と共に、心豊かに健やかに安らいで歩んでいくことができますように、一人ひとりを守ってください。病のある方にいやしを、悩みのある方に解決を、希望のない方に希望を、未来が感じられない方に未来を、その思いをみんなで神様に祈り、そしてつながっていくことができますように。そして、この世界の戦争が終わり、みんなでコロナ問題に立ち向かったように、みんなで平和を創り出していくことができますように、心よりお願いいたします。

 この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、神様の御前にお献げいたします。
 アーメン。


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「神の約束、心あたたかく」
  2022年6月19日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書 使徒言行録 2章 29~39節(新共同訳)

 

    兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、

 その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。

 ダビデ預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、

 神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。 

 

 そして、キリストの復活について前もって知り、

 『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』と語りました。

 神はこのイエスを復活させられたのです。

 わたしたちは皆、そのことの証人です。

 

 それで、イエスは神の右に上げられ、

 約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。

 あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。

 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。

 『主は、わたしの主にお告げになった。/「わたしの右の座に着け。/

  わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』

 

 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。

 あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、
 神は主とし、またメシアとなさったのです。」

 

 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、

 「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。

 

 すると、ペトロは彼らに言った。

 「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、

  罪を赦(ゆる)していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

 

  この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、
   遠くにいるすべての人にも、

  つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、

  与えられているのです。」    

 

 

(上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、改行などの文章配置を説教者が変えています。新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

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 (以下、礼拝説教)

 

 先々週の日曜日、6月5日(日)は教会の暦でペンテコステ聖霊降臨日でした。これは、今から2000年前に、神様の聖霊が天からくだって、世界で最初の教会がこの世に生まれたことを記念する日でした。そのときのことが聖書の使徒言行録2章に記されています。そのペンテコステの日から、使徒言行録の2章を毎週の礼拝で続けて読んでいます。

 

 今日の箇所は2章29節以降です。ここには、イエス様の12人の弟子のリーダーであったペトロという使徒の長い説教が記されています。このとき、すでにイエス・キリストは神様の御手によって復活なされたあとに天に挙げられて、おられませんでした。ですからこのとき、弟子たちのそばにはイエス様はおられなかったのです。

 しかし、残された弟子たちは、イエス様がいなくても、イエス様がお語りになっていた神の国の福音を、勇気を持って宣べ伝えることができるようになっていました。今までは弟子たちは、そのような伝道ということをできなかったのですが、それをできるようにしてくださったのが、まさに神様の聖い霊、聖霊でした。

 聖霊とは、キリスト教の神学では三位一体という言葉を使って説明されるものです。神様、イエス様、聖霊。この三つの存在は、三つであり同時に一つであるというのが、三位一体という意味です。

 

 この世界全体を作られた天の神様、そしてその神様から神の独り子として世に遣わされた主イエス・キリスト、そして神様の見えないお姿である聖霊、この三つは、お一人の神様が三つの現れ方をすることであり、神、イエス様、聖霊は、三つで一つの存在であるということです。

 

 こうしたキリスト教の神学における教えは、その話だけを聞いても理解できません。それは、言葉として知るだけでは、その意味が実感できないからです。三位一体の神様というとを知るためには、単に神学の理屈を知るだけではなくて、実際に聖書を読まなくてはなりません。たとえば、今日の箇所にはどんなことが書いてあるでしょうか。

 

 聖霊の働きは、今日の箇所においては、まずペトロが力強くイエス様の生涯を語っているという、そのことに現れています。今まではそんなとができなかったペトロが、そのような伝道説教をすることができている、ということがまさに聖霊の働きでした。

 

 そして聖霊の働きとはそれだけではありません。今日の箇所の後半には、ペトロの説教を聞いていた人が、自分たちの罪を認めて悔い改め、自分たちはこれからどうしたらいいか、とペトロに真剣に尋ねる場面が出てきます。それを聞いてペトロは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることを勧めます。そうしたら、その人たちもまた神様の聖霊を天から受けるようになるとペトロは教えました。

 

 この箇所を読んでいてわかるのは、聖霊の働きというのは、このときペトロだけに働いているのではなかったということです。神様の聖霊は、ペトロの説教を聞いていた人たちにも働いていたということです。それは、聖霊がまだ一人ひとりの心の内側に入ってはきていないとしても、その人たちの心の外からドアをノックするようにして、働きかけておられるということです。

 

 聖霊というのは、どのように説明される存在でしょうか。ペンテコステ聖霊降臨日のできごとというのは使徒言行録2章の説明では次のようなことです。

 イエス様が天に挙げられていなくなられたあと、しばらくの期間、弟子たちは集まって祈る日々を過ごしていました。そうして祈っていると、突然、まず天から風が吹いてくるような音がしました。

 次に、炎のような舌、人間の口の中にある舌の形をした炎のようなものが、一人ひとりの弟子たちの頭の上に降りてきました。さらに、そのときから弟子たちは、世界の様々な言葉で口々に語って、イエス様を伝える言葉をそれぞれに語り出した、ということです。

 

 この非常に不思議な場面が、ペンテコステ聖霊降臨日のできごととして使徒言行録に記されています。この場面が、聖霊の働きを説明しています。聖書に記されているのは、まさにそうした不思議な状況です。この場面から聖霊というのは何かと考えてみると、それは人間の理屈では説明のつかない現象を起こす力といってよいと思います。

 しかし、もしも、聖霊というのはそうした不思議な力である、ということばかりを考えていると、聖霊の働きということの、本当の意味がわからなくなってしまいます。聖霊というのは、決して、ただ奇妙で不思議な現象のことを言うのではなくて、その働きによって、人の心が神様のほうを向いて動かされていく、という所にあるのです。

 

 それも、単に自分一人の心が神様に向かって動いていくというだけでなく、今日の聖書箇所にあるように、自分の中にも、そして自分の話を聞いてくれる人たちの中にも、共に神様の聖霊が働くことによって、伝道ということが実際のことになるのです。

 

 今日の箇所の中程に次の言葉があります。「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」

 これは、ペンテコステ(聖霊降臨日)のときに、神様の聖霊が弟子たちにくだって、弟子たちが様々な外国の言葉でイエス様のことを語り出したときに、それを離れて見ていた地域の人たちが、あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ、と悪口を言っていたことに関係しています。

 

 人々にとって、突然起こったペンテコステの出来事、神様の聖霊が弟子たちにくだった、ということは、理解できないことでした。なんだか、イエス様が残された弟子たちの集まりがずいぶん賑やかになった。何だかよく分からないけれど、色々な国の言葉を語っているようだ、一体、あれは何なんだ?

 

 そう不思議がる周囲の人たちに、ペトロは、このペンテコステの出来事は、イエス様が約束してくださっていたことが、いまここで実現していることだ、と説明しました。神様の聖霊がくだるとき、こんなに弟子たちは元気が出てきて、様々な国の言葉で口々にイエス様の言葉を語り出した、つまり、これから世界全体に出て行って、イエス様のことを伝えにいくぞ、という元気が満ちあふれているということです。

 こうしたことは、イエス様が約束してくださっていた、聖霊という形で、神様のお働きそのものが、弟子たち一人ひとりの中に満ちあふれていることなのです。

 

 本日の説教は「神の約束、心あたたかく」と題しました。神の約束、それは今日の箇所にあるように、イエス様が弟子たちに約束したことは、本当に実現して、そのことによって、イエス様の弟子たちの心が強くされ、世界中に向かって伝道する力が与えられたという、その約束の実現は、人間の心をあたたかくするものである、ということを表現しています。

 

 では、どのように心をあたたかくしたかというと、それはペトロの説教で語られた内容によってでした。それは、本日の箇所にある使徒ペトロの説教です。ここでペトロは、旧約聖書詩編の言葉を引用しています。

 そのことで、イエス様が神から遣(つか)わされた主、救いの主であると示しています。そしてペトロは、そのイエス様が、人々によって十字架にはりつけにされて殺されたのであるけれども、そのイエス様が、よみがえられて、すべての人の神様に対する罪をゆるしてくださる主として、今も自分たちと共にいてくださる、ということを語りました。

 

 この箇所でペトロが語っている説教は、大変力強い、勇敢な説教であります。ただし、この箇所を現代の私たちの目で読むときに、ここでペトロが語っている内容は、理屈で考えると、誰にでもわかるといえるようなほどには、簡単なものではありません。

 というか、このペトロの説教は、あくまでペトロという一人の人の心の中のことであって、イエス様を直接知らない人たちに、それがすぐ理解されるような内容ではなかったと思います。

 しかし、そのようなペトロの説教、決して誰にでも理解されるような内容ではなくて、ペトロの心の中の主観的、個人的と言ってもよいような内容の説教が、これまた不思議なことに、その説教を聞いていた周囲の人たちの心に響いて、その人たちが信仰を持つようになった、ということが今日の箇所に書かれていることなのです。

 実は、聖霊の働きというのは、こういうことなのです。つまり、個人的なこと、自分の主観で考えていることが、自分だけではなくて、他人にも伝えられるようになる、ということが聖霊の働きなのです。ペトロが自分で経験してきたこと、個人的な心の中のこと、つまり信仰体験というものを語るときに、その言葉が、他人にも伝わるようになるのです。

 

 このとき、神様の聖霊というものが、人と人をつなぐパイプとして、あるいはブリッジ、橋として働いていることがわかります。聖霊という存在は、単に天から降ってきて言葉の力を人に与えるというだけではなく、人と人の間に降りて来て、その人と人をつないでくださる、神様の力なのです。

 

 主イエス・キリストは、次のように言われました。「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」ルカによる福音書17章20節にある、このイエス様の御言葉は、まさに聖霊が働かれているところに、神の国があることを示しています。

 

 神の国とは、どこかにある理想の世界とか、ユートピアのことではありません。そうではなくて、いまを生きている私たち一人ひとりの人間が、他の人間と出会い、接して、語り合う、話をする、話を聞いてもらう、そんな中において、目に見えない神の国が現れるのです。それを実現するものとして、神様の聖い霊、聖霊が働くのです。

 では、それは具体的にはどういうことでしょうか。今日の聖書箇所をよく読んでみます。今日の箇所では、使徒ペトロは実はかなりきびしいことを人々に語っています。あなたたちが十字架につけて殺したイエスを神はよみがえらせた、とあります。

 このときペトロが説教していた相手の人々は、特に自分がイエス様を十字架につけて殺したとは思っていない人たちばかりでした。一般の地域の人たちです。それを、ペトロがそんな言い方をして、驚くばかりです。

 

 けれども、このとき、ペトロの言葉を聞いていた人たちに、やはり聖霊が働いていたのです。自分自身に罪の意識がなくても、自分もまたこの時代の生きている人間の一人として、この時代の罪というものを背負っているのだということが、はっきりと自分たちの心に示されたのです。だから、ペトロの説教の意味がわかったのです。

 

 本日の説教題は「神の約束、心あたたかく」と題しました。神の約束、というのは、旧約聖書に記された神様の約束、終わりのときに人々に聖霊を注ぐ、という約束です。また、イエス様が天に挙げられる前に弟子たちに約束されたこと、すなわち、天から聖霊がくだるときまで待っていなさい、という約束を意味しています。

 こうした神様の約束というものは、神様の心のあたたかさを示す約束でした。なぜ、今日の説教題を「神の約束、心あたたかく」と題したかというと、今日の箇所を読んだときに、私は、このペトロの説教はとても心あたたかいものだと感じたからです。

 ペトロの説教は、人々の罪をあばいて弾劾するような厳しさをも持っていますが、決して、人々を責めて苦しめるものではありません。そうではなくて、人々に対して、主イエス・キリストの十字架による罪のゆるしを宣言する、まことに心あたたかいものなのです。

 

 人々はペトロに言いました、「わたしたちはどうすればよいのですか」と。この人々の言葉を聞いて、ペトロは人々をさらに責めたり困らせたりするようなことは言いませんでした。そうではなくて、こう言いました。

 

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦(ゆる)していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているのです。」  

 

 こうして、罪のゆるしということが宣言され、神様の約束が、本当に心あたたかいものであることが示されました。心あたたかいという意味は、神様の御心が心あたたかいという意味でもありますし、同時に、その神様の御心によって救われる一人ひとりの心もまた、あたたかくされるという意味です。

 

 ここで一つ考えてみましょう。私たち一人ひとり、皆様それぞれがお持ちの心は、今あたたかいでしょうか。自分の心はあたたかいでしょうか。おそらく、そう聞かれても困りますね。自分の心があたたかいかどうかなんて、ふだん考えることは少ないと思います。

 

 自分の心があたたかいか冷たいか、ということを考えるときがあるとすれば、それは、あっ、私の心は冷たいのかな、と気づくとき、他人に対して何か冷たいことを考えているときに、あっ、これでいいのかな、と自分で少しドキッとするようなときではないかと思います。

 

 なぜ、心が冷たくなるのでしょう。テレビをつけたら、ウクライナで起こっている戦争の情景が映ります。ウクライナだけではありません。シリアでは、ミャンマーでは、中国では、香港では、と考えると心は冷たくなっていきます。コロナ問題が2年以上続いて社会全体が苦しめられました。そうした苦しい生活、希望を失うような世界の中で、一人ひとりの心もまた追い詰められ、苦しくされ、そうして、一人ひとりの心が冷たくなっているのです。

 

 このペンテコステの日のときにも、ペトロたちイエス様の弟子たちを周りで取り巻いている人たちの心は、最初は冷たかったのです。ペトロたちが集まって、そこに神様の聖霊がくだって様々な外国の言葉を語り出すようになって、とてもにぎやかになっている、そのような場面を遠くから見ていて、あの人たちは何をやっているんだろう、おかしい人たちだね、あれは新しいぶどう酒に酔っているんだよ、と冷たくあざける人もいたのです。

 

 けれども、そのような冷たい心になっている人たちに、ペトロは他の弟子たちと共に声を張り上げて、勇敢に説教をしました。主イエス・キリストが救い主であることを宣べ伝えました。そのことによって、聞いていた人たちは、最初は冷たかった心が熱くされたのです。あたたかくなったのです。

 

 そして、その日にペトロたちから洗礼を受けて仲間になったのは三千人ほどであったと、使徒言行録に書かれています。これが世界最初の教会の誕生です。教会の誕生とは、建物が建つことではなくて、イエスを主と信じる群れが生まれ、そこに加わる仲間が生まれていく、そのことが教会の誕生なのでありました。

 

 今日、私たちそれぞれの心はあたたかいでしょうか。それとも冷たいでしょうか。私は今まで、このペンテコステの箇所を読むときに、このペンテコステの出来事を見て、「あれは新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざける人たちは、教会の外にいて教会を中傷する人たち、いやな人たちのことだと思っていました。

 しかし、今回、この箇所を読んでいて、それは教会の外の人たちだけのことでなく、教会の中にいても、聖霊の働きを理解せず、心が冷たいままの人のことも表しているのではないか、と感じました。それは、たとえば私自身もそうではないか、と感じたのです。

 

 そのように感じるのは、私自身が、自分自身の心がさめていると感じることがあるからです。教会の働きについて心がさめてしまって、何も感じなくなっている。何も思わなくなっている。そのような自分は、心が冷たくなっています。

 

 聖書に記された、ペンテコステ聖霊降臨日の出来事は、そんなふうに心が冷たくなっている人間、心がどこか冷たくなっている私たちに、神様が希望の炎を灯してくださる出来事でもあります。神様が私たちの罪をゆるして、救いへと招いて下さっています。三千人の人たちが世界最初の教会を形作ったように、私たちもまた今日の京北教会を大切にしていきたいと願います。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様。聖霊の恵みによって、この教会が114年目を迎えていることを感謝します。2000年前の出来事が今日もこの教会に起こり、私たちの心があたたかく、強く、導かれていることに心から感謝します。どうか、この教会につながる一人ひとりの方々が、神様によって深く愛され、その生活が守られて、すこやかに充実して日々を歩むことができますようにしてください。体の弱気を覚えておられる方々にいやしを、人生の困難に直面する一人ひとりに解決の良き道筋を、いつどんなときにも、主イエス・キリストが聖霊の姿において私たちと共にいて、すべてを導いてくださいますように、心からお願い申し上げます。
 この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、神様の御前にお献げいたします。
 アーメン。

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「パンと仲間と好意と」 
 2022年6月26日(日)京北教会 礼拝説教 今井牧夫

 聖 書   使徒言行録 2章 40~47節(新共同訳)

 

  ペトロは、

 このほかにもいろいろ話をして、

 力強く証しをし、

 「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。

 

 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、

 その日に三千人ほどが仲間に加わった。

 

 彼らは、

 使徒の教え、

 相互の交わり、

 パンを裂くこと、

 祈ることに熱心であった。

 

 すべての人に恐れが生じた。

 使徒たちによって多くの不思議な業(わざ)としるしが行われていたのである。

 

 信者たちは皆一つになって、

 すべての物を共有にし、

 財産や持ち物を売り、

 おのおのの必要に応じて、

 皆がそれを分け合った。

 

 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、

 家ごとに集まってパンを裂き、

 喜びと真心をもって一緒に食事をし、

 神を賛美していたので、

 民衆全体から好意を寄せられた。

 

 こうして、

 主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。 

 

(上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、改行などの文章配置を説教者が変えています。新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

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 (以下、礼拝説教)

 

 教会の暦でペンテコステ聖霊降臨日は今年は6月5日でありました。そこから始まって使徒言行録2章の箇所を順々に読んでいます。今日の箇所は2章40〜47節です。

 この使徒言行録2章全体がペンテコステ聖霊降臨の出来事を報告するようになっています。この2章の構成を見てみます。

 最初の1節から4節までの部分には短い形で、五旬祭の日、ペンテコステの日が来たときに、天から激しい風が吹いてくるような音が聞こえ、そして炎のような舌が分かれ分かれに、一人一人の上にとどまった。すると、聖霊が語らせるままに他の国々の言葉を話し出した、という短い形でペンテコステの日のことが報告されています。

 

 そのあと、5節から始まって、41節の所までは、先の出来事のあとに使徒ペトロが説教をした、という場面があります。そして、その説教によって多くの人たちが悔い改めて、そして3000人もの人たちが教会に加わったという記事があります。

 ペトロの説教は14節から始まっています。5節の所からは、ペンテコステの出来事を見聞きした人たちが、非常に驚いたという姿が記されています。そして、中には「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者もいたとあります。

 

 こうして見ていきますと、最初にペンテコステの報告、そしてそのあと5節からはその出来事に対する人々の驚きや疑問が記され、そして14節からはペトロの説教が語られて、その中で旧約聖書が引用されて、このペンテコステの出来事というものが、どういうものであるかということが、証しをされる。そしてその中でイエス・キリストの十字架の死の意味、そして復活の意味ということが力強く語られています。

 

 そして、そのペトロの説教を聞いた人たちの反応が、37節以降に書いてあります。人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロと弟子たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうすればよいのでしょうか」と聞きました。ペトロは、「イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪をゆるしていただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます」ということを語ります。

 

 主イエス・キリストを救いの主と信じて洗礼を受け、罪をゆるしていただく、そうすれば賜物として神様の聖霊を受ける。つまりペンテコステの日に起こっているこの出来事というものが、一人ひとり、イエス様を主と信じた人たちにも起こる、ということを約束するのです。

 

 このペトロの言葉を聞いて、多くの人たちが洗礼を受け、その日のうちに3000人ほどが仲間に加わったとあります。そして3000人の人たちが洗礼を受けて仲間に加わったということを受けて、世界最初の教会の誕生日だという言われ方がされています。ペンテコステというのは、世界最初の教会の誕生日なんだと。そしてそうした誕生した一番最初の教会というものがどういうものであったか、ということを説明しているのが、43節から47節ということになります。

 

 こうして、使徒言行録は、ペンテコステの出来事、それに帯する人々の疑問、それに対するペトロの説教、そして人々の悔い改め、そして教会の形成、さらにその教会の歩み、ということが、この2章の中に、ペンテコステから始まる一連の時間の流れというものがここに凝縮されています。

 

 そして、このあと使徒言行録3章からは、ペトロたち、弟子たちが、どのような伝道、宣教ということをしたか、そのダイナミックな動き、流れ、地中海沿岸に広がっていくキリスト教の姿というものが3章以降に記されています。

 

 その中で、イエス様の12弟子の1人ではなかった、後に使徒となるパウロが登場いたします。ペトロたちはイエス様の元の12弟子としてイエス様に近い所にいたのでありますが、生前のイエス様に出会ったことがなかったパウロもまた、各地に伝道することになります。そうした形でイエス・キリストの福音というものが世界中に広がっていく様子を、今日の私たちに伝えています。

 

 そして今日の箇所においては、新共同訳聖書においては「信者の生活」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは、新共同訳聖書が読む人の便宜のために後から付けたものであり、最初からこうした小見出しがあったわけでありません。

 

 ここでの小見出しには、「信者の生活」と書いてあって、まあ確かにそうではあるのですけれど、ここに書かれているのは単なる信者の生活ではなくて、世界で一番最初の教会というものが、どういうものであったかを私たちに教えているのです。

 

 世界最初の教会がどのようなものであったか。42節にはこう書いてあります。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」このように書いてあります。

 

 使徒の教え。イエス様が残された12弟子たち、彼らを直接イエス様から教えを受けた人たちとして使徒と呼んでいました。その使徒たちが語るイエス・キリストの福音を、みんなで聞いていた。

 そして、相互の交わり、交流を持っていた。パンを裂くこと、というのは、いわゆる、今で言えば聖餐式にあたること、つまりイエス・キリストを記念するということであり、そしてまた同時に、愛餐会と呼ばれていた交わりの食事をも指していたと考えられます。そして祈る事に熱心であったとあります。

 

 ここに書いてあることは、現代の私たちの教会でもしていることであります。ただし、今は派新型コロナウイルス問題によって教会活動も大きく制限されて、聖餐式ももう2年以上していません。食事、愛餐会もみんな無くなってしまいました。祈ることも、みんなで集まってするのではなくて、一人ひとりそれぞれに祈りましょうということになっています。

 

 コロナの時代においては、初代の教会のようなことは一つひとつできなくなってしまっている。そういう現実があります。しかし、このようなコロナの時代にあっても、使徒言行録の時代の教会と変わらず、私たちは毎週礼拝をしています。

 礼拝をすることにおいて、また初代の教会と同じように、教会らしい働き、そういうことができるんだということを私たちは信じています。

 

 次に43節を見ると、このように書いてあります。「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業(わざ)としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」とあります。

 

 聖書の注解書を見ますと、ここには原始共産制と言われるような、理想化された形の最初の教会の姿が記されています。それぞれの個人が持っているものを売って財産に提供し、それを分け合って、貧しい者が出ないようにする、そういう共同体が語られています。

 

 そして46節にはこうあります。「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。」

 

 彼らは、毎日神殿で礼拝をしていたということであります。そしてそれと同時に、各家ごとに集まってパンを裂き、聖餐式を行い、またみんなで楽しく食事をしていた。そして神を賛美していた。そうした集まりを持っていたので、民衆全体から好意を寄せられたとあります。

 

 このペンテコステの出来事が起きる前は、イエス様に残された弟子たちは、自分たちだけで集まって祈る生活をしていました。それは、世間の人から見たら、ああ、イエス様がいなくなってあの人たちは、もうやることがなくなったんだな、ただ集まって祈っているよ、そんなふうに陰口を叩かれるような存在であったかもしれません。

 

 しかし、ペンテコステの出来事が起きた後には、イエス様の弟子たち、また弟子たちと共に歩んでいた方々は、こうして楽しく礼拝をし、楽しく交流を持ち、みんなで励まし合って歩んでいた、その姿が民衆全体から好意を寄せられることになったとあります。

 

 そして最後にこうあります。「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」

 

 こうしてペンテコステの出来事というのは、こうしてできた最初の教会に日々新しい人たちを加えて、一つにしていった、そういう神様のお働きであり、ペンテコステのゴールというものは、こうした教会の形成であり、その中にたくさんの人が招かれ、救われていく、そのような教会の形成、それがペンテコステのゴールであることが示されているのです。

 

 そして、そのあと、使徒言行録の3章には、そのようなペンテコステのゴールというものを、この一番最初の日にできた3000人の人たちの教会だけではなくて、当時の世界、地中海沿岸や中近東の世界の各地に、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることによって、そうしたペンテコステのゴールとなる教会というものを各地に立てていく、造っていく、そうしたことが3章以降に記されているのであります。

 

 今日、こうしたペンテコステの記事を読んだときに、今の日本社会の中で生きている私たちは何を思うのでありましょうか。私は時々思うのでありますけれど、教会の三つの大切な日といいますと、クリスマス、イースターペンテコステ、この三つの日があるのですけれども、クリスマスとイースターに比べて、ペンテコステというのは何かちょっと違うような気がしていました。

 

 それは、昔、教会学校に行っていた子どもの時代からかもしれませんが、教会の三つの聖日、三大聖日は何かと聞かれたら、まずクリスマスがすぐに出てきます。そしてイースターも少し考えると出てきます。けれども三つ目がなかなか出てこないのです。何だったっけ、何とかっていう……。なんか子どものときはそんな感じでしたね。

 大人になるとちゃんと覚えるのですけれど、クリスマスというのがどことなく子ども心にうれしいものであり、イースターも子ども心にどこか晴れがましいものだったのに比べて、ペンテコステというのは、一体何なのだろう、そんな思いがありました。

 

 聖書の箇所を読むときに、ペンテコステというのは、イエス様が登場しないお話であり、そして天から目に見えない聖霊が下ってきた、風のような物音がして、そして炎のような舌が現れると書いてある、その様子はとても不思議に思えるものでありました。

 

 クリスマスが不思議なことであり、イースターが不思議なことであるのと同じように、ペンテコステもまた不思議なことであるのですけれども、ペンテコステにはイエス様の姿は直接登場しません。目に見えない聖霊が登場します。目に見えないものを記念するというのは、これは中々難しいものです。

 

 そして聖霊の働きとは何か、というと、これは世界中に伝道する力であった、というふうによく説明されます。今日のこの使徒言行録2章には、世界中のいろんな国の言葉で弟子たちが語り始めた、というようなことも書いてあります。「外国の言葉がしゃべれるようになるのが、聖霊の働きなのか」と思うと、ちっとも外国語がしゃべれない私には聖霊がくだっていないのかなあと思います。

 

 何と言うか、クリスマスとかイースターに比べると、ペンテコステというのはどこか自分から遠い、何か夢のような出来事、そんなふうな気がいたします。けれども、ペンテコステの出来事というのは、そんなふうな、何か夢のような出来事というのではなくて、もっともっと本当は人間の生活の中に、この根を下ろしていく力なんだろう、ということを、今日の聖書の箇所を読んでいると思うのです。

 

 聖霊の働きというものが何であるか、というと、それは、この世界に伝道していく力である、それは間違ってはいません。けれども、そういう言い方をする時に、聖霊の働きというのは、いわゆるキリスト教の伝道、各地に教会を建てていく働き、そういうことだけなんだというように考えてしまうと、聖霊の働きというものをすごく狭くとってしまうことになります。

 

 聖霊の働きというものは、もちろんキリスト教の伝道、教会を世界各地に建てる、そのことも中心でありますけれども、しかし、たとえば、私たちが今生きているこの日本の国において、キリスト教がどんなふうに入ってきたかというと、明治の前のころ、キリスト教が入ってきたときには、それはアメリカ・ヨーロッパの文明と思われていた、近代の技術、生活文化、物の考え方、そうしたいろいろなものと一緒に入ってきました。

 そしてまた、第二次大戦後にキリスト教の伝道がなされたときに、そこにあったのは、キリスト教というものが持っているアメリカ・ヨーロッパの文化と一つになった形での伝道であり、様々な芸術であったり、平和思想・人権思想、そういったものと結びついていました。

 

 そうした歴史の現実から考えると、聖霊の働きというのは、各地に教会を建てるとか、キリスト教の信者を増やすというだけではなくて、実は、この世界の中において、大きな意味で文明を伝えていく、あるいは、より合理的な生活文化や生活の技術、産業の技術を伝えていくという、その大きな世界の流れの中にあると言えます。

 大きな意味での文明の伝播、伝えることによって、人間の生活それ自体をよくしていく、いろいろな力、そういうものを世界中に伝えていく、それもまた聖霊の働きであったと言えるのではないか、と私は思います。

 

 ただし、もちろん、こうした考え方には限界もあります。というのは、いわゆるアメリカ・ヨーロッパの文明とか、キリスト教文化というものが世界中どこに行っても良いものと受け入れられたかというとそうではないし、また世界の様々な現地においてキリスト教が入っていった所で、その現地に元々あった文明・文化をキリスト教が押しつぶしていく、そうした非常に悲しい、良くない働きをしてきたという面があることを言うこともできるのですね。

 

 たとえばカナダで先住民族の人たちを教会が抑圧した、弾圧した、ものすごく悲しい歴史が最近明るみになってきています。そうしたことを考えるときに、そのキリスト教の世界観、キリスト教の文面が世界に伝わることは、必ずしも良いことばかりではなかった。むしろ現代の目から見たときに本当に心底反省しなければならないことが多々あるということを私は一方では思います。

 

 しかしそれと同時に、大きな意味で神様の聖霊の働きというものは、それが単にある一つの宗教を世界中に伝えるという狭い意味ではなくて、人間が人間らしく生きていくために、必要なものを伝えていく、という意味もありました。

 それは、私たちがパンを食べていく、何かを食べて生きていく、そうした食べ物を得るためにどういう技術を持ったらいいのか、どうやって産業を興したらいいのか、そのためにはどんな学校を造ったらいいのか、というような、生きるための本当に必要な様々な技術を求めていくことでもありました。

 その時に明治期の日本であったり、第二次大戦後の日本であれば、アメリカ・ヨーロッパの文明・文化というものが、やはり大きな力を持っていきました。

 

 聖霊の働きというのは、そんなふうにして、人間の罪深い社会の中にあって、いろんな矛盾があったとしても、人が人として生きていくための力を伝えていく、それもまた広い意味で聖霊の働きであったということが言えるのではないか、と私は考えています。

 

 そして、そのように人間らしく生きていくための、その世界を、あるいは社会を良くしていく力を、その発端が何であったかということが、今日の使徒言行録2章43節以降に書いてあると思うのです。

 

 ペンテコステの一番最初の日にできた教会、その初代の教会の人たちはどんな暮らしをしていたかというと、そこではイエス様に残された弟子たち、使徒たちが多くの不思議なわざとしるしを行っていた、そして信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」とあります。

 

 これは別に現代の意味で共産主義と言っているのではなくて、もっと素朴な意味で、自分たちの集まりの中に貧しい人を作らない、誰もが何とか食べていけるような、この人間の相互扶助というものがここに描かれています。

 

 「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。」

 

 それはみんなで神殿で礼拝をするときもあるし、家で礼拝することもあったということです。公の場であっても、個人の場であっても礼拝する。そして、そこで集まって単に礼拝するだけでなく、パンを裂く、つまり生きていくための糧をわかちあって、そして一緒に神様を賛美して生きている。

 

 しかも、このとき集まった人たちは、いろんな国の言葉をしゃべることができた。そうした人たちでありました。すると、ここでの3000人の人たちは、いろんな国の人たちがいた。特定の国民、民族でなければ救われないという考え方ではなくて、世界のいろんな人たちが共に出会って、共に神の恵みの中で礼拝し、そして必要なものをわかちあい、共に食事をして生きていく。

 

 そうしたことがペンテコステの一番最初の日に実現していたのだと。そしてそれが、教会というものが目指すゴールである、と言って良いのだと思います。世界中に、このゴールを作っていく、そうした教会を造っていく。

 それは現代の私たちの目から見て、あまりにも理想化された姿であり、これは理想であって実際はこんなことができるのかなあ、と言いたくなるようなことかもしれません。しかし、教会というものは、こんなふうに成ることができるんだよ、ということを教えられていると思うのです。

 

 そして今日の箇所の最後に次のように書いています。「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」聖霊降臨、神様の見えざるお姿である聖霊が、一人ひとりにくだって、その結果はこういうことであった、というのであります。

 ペンテコステという言葉を聞くときに、いろいろなことを考えます。聖霊の働きというものは、聖書にいろんな形で記されています。とても一言では言えません。それは世界中に伝道する力、ペトロやパウロなどがダイナミックに、いろいろな所に旅をして、そしてイエス・キリストを広めていった、そうした伝道の働きもまた聖霊の働きでありました。

 

 けれども、そうした働きのもとになっているのは、やはり教会ということであり、教会というのをみんなで造り、その教会が幸せな人たちの群れである、ということが、このペンテコステにおいては一番基本的なことではないかと、私は思うのです。

 

 ペンテコステって何だろう、と考えるときに、目に見えない聖霊の働き、外国の言葉をしゃべる、世界に伝道する、そうしたダイナミックな働きはもちろん、聖書に書いてある通りなのでありますけれども、もし、そういうことばかりだけを言っているとしたら、聖霊の働きというのは、私たちの中、心の中にしっかりと根をおろさないで、何だか夢のようなことだなあ、ということで終わってしまうのではないか、そのことを恐れます。

 

 何か特別な人になって、外国の言葉がしゃべられるようになって、世界中を飛び回るようにならなくてはいけないのだろうか、そんなふうに思うのであれば、それはやはり正しくはありません。

 本当に大切なことというのは、一人ひとりの心の中に、神様の見えざるお姿である聖霊ということが、根を下ろしていくということです。そして、それぞれの地域における教会というものがしっかりと充実して、その教会というものが本当に素晴らしい集まりになっていく、ということ、そのことがペンテコステの基本ではないかと、私は思うのであります。

 

 そして、そのような教会を世界中に建てていくことができるのならば、その教会を通して、単にキリスト教を伝えるというだけではなくて、私たちが人として生きていくための様々な生活技術、文化、文明と言われるようないろいろなもの、そうしたものもまた、聖霊の働きによって伝えていくことができるのではないかと思うのです。

 

 それは決して、キリスト教文明を世界中に押しつけていくという、そういう侵略的な価値観ではなくて、人類の歴史の中で、神様に導かれて一生懸命いろんな人たちが工夫して積み重ねてきた、科学であったり、生活技術であったり、いろんなこと、それを本当に世界各地の人に分け与えることによって、世界全体の生活を良くしていく、世界全体を平和にしていく、聖霊の働きというのは、本当はそういうものであるのではないか、と私は思うのであります。

 

 そうした聖霊の、平和を形作る働きということに触れないで、キリスト教の伝道ということだけを言うのであれば、それはちょっと物の見方が狭すぎる。むしろ、そんなふうに狭すぎる見方をすることによって、私たちはペンテコステの意味を見失っているのではないか、そんなことを思います。

 

 今日の説教の題は、「パンと仲間と好意と」と題しました。今日の聖書箇所の中に出てくる言葉をつなぎ合わせています。「パンと仲間と好意」、この三つが私たちの教会にも必要です。

 みんなでわかちあえる神様の恵み、それがパンであります。具体的な本当のパン、食べるものが必要です。そして仲間が必要です。そして、その仲間全体が地域の人たちからも好意を持って見られる、良い集まり、あの教会はいい教会だねと言ってもらえる、そうした好意というものを必要としています。

 

 私たちの京北教会もまた、ペンテコステの教会として、パンと仲間と好意を、神様から与えられて歩んでいきたいと願うものであります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様。いつも日々私たち一人ひとりを神様に守っていただいて、いろんな恵みをいただいていることを心から感謝します。それにも関わらず、その恵みに気づかず、忘れ、神様に不満を申し立てることが多い、罪深い自分を思い起こし、悔い改めをいたします。特に、私たちそれぞれに大切な隣人、隣り人がいても、その隣人の心を気づかずに傷つけてしまう、そんな失敗を繰り返していることを思い、悔い改めをいたします。どうか神様から聖霊を与えられて、今日から始まる新しい一週間を、新しい思いで過ごすことができますように。そして神様によって用いられて、一人ひとり平和の使徒として、平和を造り出す人となることができますように、私たちをこの世界に派遣して下さい。

 この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、神様の御前にお献げいたします。
 アーメン。