2022年2月の京北教会礼拝説教
2月6日(日)、2月13日(日)、2月20日(日)、2月27日(日)
「神様は良き知らせのために」
2022年2月6日(日)説教
聖書 マルコによる福音書 8章 27〜38節 (新共同訳)
イエスは弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。
その途中、弟子たちに、
「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。
ほかに『エリヤだ』という人もいます。」
そこでイエスがお尋ねになった。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと
弟子たちを戒められた。
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、
長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、
三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
しかも、そのことをはっきりとお話になった。
すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、
自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、
わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、
人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、
その者を恥じる。」
(以上は、新共同訳聖書をもとに、改行など、文字配置を、
説教者の責任で変えています)
…………………………………………………………………………………………………………………
(以下、礼拝説教)
京北教会の礼拝では、マルコによる福音書、そしてローマの信徒への手紙、そして旧約聖書、その三つの箇所から選んで、毎週順番に読み続ける、ということを最近しております。本日の聖書箇所はマルコによる福音書、その8章であります。
ここには、イエス様が御自分の十字架の死、そして復活について、弟子たちに対して初めて語られた、その場面のことが記されてあります。それは、弟子たちにとってとてもショックを覚えることでありました。
神様から遣わされた救い主、世界のすべてを救ってくださる、主として信じていたイエス様がとらえられて十字架で死ぬ、つまりそれは、重い罪を犯した犯罪人として十字架の刑に処せられ、命を落とすということでありましたから、到底考えられないことでありました。あるはずがないこと、あってはならないこと、弟子たちにとってはそうでありました。
しかしイエス様は、そのことをはっきりとお語りになられました。そのことが今日の箇所に書かれてあります。この箇所を読むことは、今日の現代日本社会で、この京北教会でみんなでこの聖書箇所を読んでいる、その私たち一人ひとりにとっても、大きな衝撃であろうと思うのです。
私たちを救ってくださる主イエス様が、とらえられて十字架で死なれる。ありもしない罪を負わされて十字架で命を落とされる。はりつけにされ、そのまま放置され、体の機能が停止していくというむごい刑罰によって、なぜ主イエス様は死ななくてはならなかったのでしょうか? 弟子たちにとって大きな衝撃であると共に、今日の私たちにとっても、やはりこれは衝撃的なことなのであります。
そのことを通して神様は私たちに今日、何を示してくださるのでありましょうか。今日の箇所を読んでまいります。
「イエスは弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。」
イエス様が生まれ育ったナザレの村、そこを出発点として、神の国の福音を人々に告げ知らせる旅をしておられました。そして行く先々において、様々な病気を持った人をいやし、一人ひとりの人生を新しくしていく、神の国の福音というものを伝えていました。
神の国、それは人間が死んだあとに行く天国、というだけの意味ではなくて、神様の恵みが満ち満ちて、神の恵みがすべてを支配してくださっている所です。その神の国というものが、神様の側から私たち人間の世界に近づいて、今私たちが生きているこの人間世界のただなかに、その神の国が目に見えない形で生まれ、そして、神様の言葉と共に広がっていく、それが神の国の福音ということでありましたが、そのことをイエス様は伝えておられました。
その旅の、そうした福音を伝える旅の途中において、次の所があります。
「その途中、弟子たちに、『人々は、わたしのことを何者だと言っているか』と言われた。弟子たちは言った。『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに『エリヤだ』という人もいます。」
これは、イエス様が当時の世間において、人々がどんな風に評価していたか、ということを示しています。洗礼者ヨハネというのは、イエス様が活動されるよりも前に先立って、罪の悔い改めということを人々に宣べ伝え、そしてヨルダン川で洗礼を授けていました。その洗礼とは、罪の清め、また悔い改め、神様の前で新しく生き直す悔い改めということ、それを示す洗礼をヨルダン川で授けていたのが、洗礼者ヨハネという人であります。
そしてまたエリヤという人は、旧約聖書に登場いたします。預言者とは神様から言葉を預かって語るという意味です。そうした預言者と呼ばれた人たちのなかで、一番重要と思われていた人物がエリヤでありました。つまり、そうした過去に存在していて、神様の言葉を宣べ伝えてきたいろんな人たちと同じような人たちであると、世間の人たちはイエス様に対して思っていたのであります。
あれは洗礼者ヨハネの生まれ変わりだ、あるいは預言者エリヤの生まれ変わりだ、そんなふうに人々は言っていたのでしょう。そうした言い方は、その人がとても重要な人だという意味であると共に、過去に登場してきた預言者や、そういう人たちと同じような人だ、というニュアンスがそこにあるのです。
そうした世間の人々の評判を聞いたあとにイエス様はおっしゃいます。
「そこでイエスがお尋ねになった。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』
ペトロが答えた。『あなたは、メシアです。』」
メシアという言葉は、救世主という意味です。この世を救ってくださる主、ということであり、旧約聖書の信仰に基づいて言うと、神様から遣わされてくる一人の人ということであります。あなたは救い主です、そうペトロは答えました。
ここでイエス様から尋ねられていたのは、12人の弟子たちであります。イエス様の最も近くにいて旅を一緒にしてきた仲間、最も近くでイエス様のことを見てきた人たちであり、その中で弟子のリーダーであったペトロが言ったのは「あなたはメシアです」という言葉でありました。
神様から遣わされた、特別なただ1人の人である、という意味です。それは、かつての洗礼者ヨハネとかエリヤとか、そうした預言者、旧約聖書に出てくるような立派な人たちの中の1人、という意味ではなくて、ただ1人、これからの時代を変えていく本当のメシア、救い主です。
そうペトロが言ったとき、これはペトロたちにとって信仰の告白であった、ということが言えます。私たちはそう信じています、という信仰告白の言葉でした。この言葉を聞いたイエス様はどうされたか、次の所に書いてあります。
「するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話になった。」
ここで初めてイエス様は、御自分が多くの苦しみを受けて、当時の宗教的な権力者層から排斥され、殺され、三日の後に復活することになっていると言われた。しかも、そのことをはっきりとお話になった、とあります。何かのたとえとして話すのではなくて、まさにこれからそういうことが事実として起こる、そういうことをおっしゃられたのでありましょう。
するとどうなったか。
「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」とあります。
弟子たちの前で話していたイエス様をちょっとひっぱったのでしょうか。ちょっと、イエス様、こっちへ来てください、とわきへお連れして、そこで、イエス様、なんていうことをおっしゃるのですか、そう言っていさめ始めた、そういう場面であります。
ペトロの心中、心のなかを今想像してみます。ペトロは、ここで「あなたはメシアです」と弟子たちを代表して自分たちの信仰を告白しました。あなたは神様から遣わされた特別な人です。ふだんであればそんなことはとても言えないようなことを、思い切って申し上げたのです。
自分たちにとって、そして世界の人たちにとっても救い主である、あなたが救いの主なのです、中心なのです、そのようにイエス様に伝えた、その直後に、そのイエス様がとらえられて十字架で死なれるというのです。
十字架という言葉はこの箇所にはありませんが、大きな苦しみを受けて殺される、そのあと三日の後に復活することになっている、と言われたのですが、弟子たちの心にはそのような復活のことではなく、主がそのようにして殺されるということ、そのことのショックがものすごく大きかったのです。
それは、あってはならないこと、というか、考えもしないことでした。今この場面、私はあなたを信じます、と言っている信仰告白の場面に、全くふさわしくないことをイエス様がお話されたことに対して、ペトロは耐えられなくなったのです。それに対してイエス様はどうされたのか。
「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』」
イエス様はそのようにおっしゃいました。ペトロが一生懸命にイエス様をいさめたことに対して、ペトロはここで「サタン」と言われています。悪魔ということです。引き下がれ、と言われました。イエス様に一番近い人間であったペトロが、サタンと言われています。
サタン、それは誘惑するものでもあります。荒れ野の誘惑という言葉がありますが、イエス様が公の宣教活動を始める前に、荒れ野の40日間の断食をして過ごされたときに、そこにサタンが現れて誘惑したという話があります。
サタンということは、一種の誘惑です。ペトロが「イエス様、そんなことを言わないで下さい」と一生懸命言っている、そのことがサタンと言われています。「あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている。」人間のこととは、すなわち自分自身のことです。ペトロたち一人ひとりの自分の思い、人間としての自分の思い、そのことをもって語っている、そのペトロに対して、「サタン、引き下がれ」と言われました。
なぜ、こんな厳しい言い方をされたのでしょうか。ペトロのこのときの、やるせない気持ち、あわてる気持ち、戸惑う気持ち、いろいろなことを想像しますと、イエス様のこの言葉は冷たすぎるようにも思います。けれども、イエス様はここで、12人の弟子たちだけに語ったのではなく、ペトロだけに語ったのでもなく、「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた」とありますので、イエス様はこのことを弟子たちの中だけの秘密のことではなく、みんなに対して語られました。その言葉が、今日の箇所の最後に記されています。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
いつか再びイエス様がこの世にやって来られる、ということを、ここでは前提にして語られてイエス様は語っておられます。キリスト教の神学の言葉で言えば、「再臨」、再び臨む、臨むというのは臨時の臨という字ですが、イエス様がこの世に再び来られる、いつか来られる、それが聖書の信仰であります。
その再臨のときには、イエス・キリストの言葉を恥じた者というものがいたならば、イエス様の言葉を恥じた者が恥じられる、そのように言われます。自分の命ということ、それをどのようにとらえ、どのように生きていくのか、ということが今日の箇所から問われています。
今日の箇所の一番中心の言葉は、この言葉ではないでしょうか。「わたしのあとに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。」この言葉の意味をお一人おひとりが、自分の中で繰り返し反芻し、かみしめ、味わい、そして自分なりの生き方というものを見つけていかれるのであろうと思います。キリスト者の生き方というものは、みんなロボットのように同じわけではありません。一つの聖書の言葉を聞いても、それがその人の心の中でどのように種として落ちて、どのように芽を出して育っていくか、それは一人ひとり違っています。
私自身が今日の箇所を読んで感じることは、その一つは、やはり大きな衝撃であります。私たちの主イエス様がとらえられ、十字架で死なれる、殺される。一体なぜ、何のためにそんなことが起こらなければならないのか。そのことを受け止められない自分というものを感じます。
もちろん、福音書においては、その十字架の苦しみの後、三日後に復活され、弟子たちと再会してくださり、そして私たち一人ひとりのすべての人の罪をゆるしてくださり、天に挙げられ、今日も神様の聖霊、聖い霊というお姿で私たちに出会ってくださる、そのことを教会はキリスト教信仰として宣べ伝え、私自身もそれを信じています。
けれども、復活があるからといって、イエス様の十字架ということをまるで無かったことのようにはできません。それはやはり生きた生身の人間として生活している私たちにとって、これは衝撃的なことなのであります。今日の箇所を皆様はどのように受け止められるでしょうか。
私が思うことというのは、この箇所を読むときにいつも感じる、心の中のとらえきれない渦のように自分の思いがグルグルと巡る、独特の思いであります。
私は今日の箇所を読んで、「自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と言われるときに、この「自分の十字架」という言葉にとてもひっかかります。そして、この自分の十字架ということについて、今まで自分がどんな礼拝説教をしてきたかを考えます。
すると自分で気がつくのですが、私は、この「自分の十字架」ということを説明するときに、こう言うことが多かったのです。「これは、自分の死に場所ということです」と。十字架、それはイエス様の死に場所でした。無残な刑です。十字架というものはローマ帝国において定められた刑で、最も重い罪を犯した者に与えられる残酷な刑です。政治犯、ローマ皇帝への謀反にあたるような重い罪、そうした罪を犯した者が十字架刑に処せられていたということです。
イエス様はそのような罪を犯していないにもかかわらず、最も重い罪を背負った者として、十字架の上で死なれました。そこにイエス様の死に場所があったのです。
では、私たちはどうでしょうか。一人ひとり自分の死に場所というものがあるのではありませんか。その自分の死に場所を背負って、日々イエス様と共に生きていく。それは、イエス様と、同じ気持ちで、とまでは言いませんが、イエス様の気持ちを思いながら生きていく、ということであります。そのような思いで、十字架という言葉を「自分の死に場所という意味です」と語る礼拝説教が多かったことを私は自分で振り返ります。
そして、あらためてこの聖書箇所を読んで、自分でどう思うかを考えたとき、確かに自分の十字架は自分の死に場所ということであるのだけれども、自分の死に場所ということだけを言うのであれは、それは主イエス・キリストの十字架の意味をきちんと説明したとはいえないのではないか、ということも今自分で思うのです。それは、自分の死に場所であると共に、神様が与えた使命、十字架の意味とはそういうことであります。
どこに言っても自分の死に場所を負って生きる、という、その思いと共に、そこには神様から与えられた使命を私たち一人ひとりが負ってイエス様に従っていく、そういうことなのかと思うのです。
「自分を捨て」と、今日の箇所に書いてあります。ここを読むときに、「自分を捨てる」ということは何だろうか、と思います。自分の考えてきたことを全部捨てて、今までの生活を全部捨てて、何にもなくなってただイエス様に従う、それもいいかもしれませんが、自分がロボットのようになって、自分の思いを捨ててただ機械的にくっついていく、ということではありません。
自分の考えること、というものを捨ててしまえば、イエス様に従っていこうという、その考えすらなくなってしまうのです。そうではなく、自分にある「捨てるべきもの」というものがあるのです。「捨てるべき自分」というものが、神様の目から見たときにそれがある。それは何であるか、自分で考えて、自分で探して、その自分を捨てなくてはいけないのです。
そして、自分の死に場所である十字架を背負う、それは同時に、死に場所とは神様から与えられた使命なのである、そのことをもってイエス様に導かれていく、ということがここで言われているのであります。
今日の箇所を読むときに、私は「殉教」という言葉を思い起こします。教えのために死ぬこと。そうなのでありますが、殉教ということはどういう意味を持っているのでありましょうか。それは、これは私の考えでありますけれども、殉教というのは、決して美化することではないと思っています。ある宗教のために、それを信じて、そのために死んだ、ということ、それは決して美化することではないと思うのであります。
「殉教精神」というようなことを言うことによって人を戦争に駆り立て、人の命を失わせているものが何であるか、今日の世界全体の情勢を見るときに、そしてまた宗教というものがどんな役割を果たしているのかということを、しっかりと見るときに、そこには殉教というものを美化することによって、人の命を多く失わせている、むごい現実があることに私たちは気がつくことができます。聖書の教えも、そのような殉教を美化するために用いられてはならないと思っています。
では、どうしたらいいのでありましょうか。私は思います。心の中で愛を膨らませてください。愛の心をどんどん大きくしていってください。そのことにおいて、イエス様が今日の箇所で示されていることがわかると思うのです。
自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエス様に従う、ということは、みんなで殉教しようという話ではありません。神様から与えられている使命がわかるようになってください。そのためには、自分の心の中で、愛の心をどんどん大きくしていってください。イエス様がそうであられたように、私たちの愛の心もどんどん大きくしていってください。そうすれば自分の生き方がわかります。そして、どんな自分を捨てなくてはいけないかがわかります。
そうして神様に従っていく中で、ときには本当に厳しいこともあるのでしょう。命を失わせられることもあるのかもしれません。考えたくはありませんが。しかし、そうしたことを決して美化することはできません。殉教が起こるような社会あるいは政治というものがあれば、それ自体が間違っているのです。そのことを棚上げして、殉教することが素晴らしいなんていうことはできません。
この苦しい世界の現実の中にあって、命を捨てるということは、それは、神様と一対一の関係においてだけ、できることであります。人が人にそれを決して強いてはなりません。それはどんな国の政治であれ、どんな宗教であれ、間違っているのです。
イエス様は、ただ一度、十字架に架けられて死なれました。そしてただ一度、復活されました。イエス様に私たちが従っていくということは、私たちがイエス様のようになるということではなくて、そのように十字架の死を味わわれるのは、イエス様で最後であってほしい、イエス様がすべての人の罪を背負って死なれたのだから、もうそこで犠牲の死は終わりなのだ、ということを福音書から正しく読み取っていきたいと思うのです。
神様はなぜイエス・キリストを十字架に架けられたのか、なぜそのようなことをされたのか、それは神の国の福音を告げ知らせるためでありました。神様は、良き知らせのために、イエス・キリストの十字架という、この、受け入れることができない衝撃的な、本当に辛い、悲しいことを、歴史の中に表されたのであります。
そのことを聖書から教えられる私たちは、そのことを美化するのではなく、そのことを通して神様から与えられているたくさんの希望ということに気がつかなくてはなりません。
そのことに気がつくためには、イエス様の心には愛が一杯であったということ、そのことを忘れてはなりません。私たち一人ひとりの心の中でも、愛を一杯にふくらませてください。そうしたら、自分の生き方がわかるのです。そして、自分の死に方もきっとわかる、神様によってわからせていただけるのでありましょう。
お祈りをいたします。
天の神様、今日の世界の中で、今日の聖書の箇所を読むときに、本当に胸がドキドキするような思いや、困惑や、自分自身の弱さなどいろいろなことを思います。その中にあって、しっかりと神様につながっていくことができますように、イエス・キリストの御言葉を通して、私たち一人ひとりが救われ、新しい自分を発見していくことができますように願います。そして、本当の意味でお互いの命を大切にし、命を喜び、感謝し、神様の前で共に生きていく、その世界となりますように。どんなに無力に見えても、まだ祈り続ける、私たち一人ひとりでありますように、お願いをいたします。
この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。
アーメン。
……………………………………………………………………………………………………………………………………
「愛も怒りも、神様の所に」
2022年2月13日(日)説教
聖 書 ローマの信徒への手紙 12章 9〜21節 (新共同訳)
愛には偽りがあってはなりません。
悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、
尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。
希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、
旅人をもてなすよう努めなさい。
あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。
祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。
自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。
だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。
できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。
「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」
と書いてあります。
「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。
そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
…………………………………………………………………………………………………………………………………
(以下、礼拝説教)
毎週の礼拝において、マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、旧約聖書、その三箇所から順番に選んで、礼拝で読んでいくという形で、礼拝の聖書箇所を選択しています。本日はローマの信徒への手紙の12章です。
使徒パウロが記した、この長い手紙の中で、段々と終わりに近づいている部分です。手紙全体の結論として、主イエス・キリストへの信仰による生き方ということを、教会の人たちに教えている箇所であります。ここにはたくさんの言葉が記されています。
皆様は今日の箇所を読まれて、どのように思われたでありましょうか。良いことが一杯書いてあるなあ、と思った方もおられるのではないでしょうか。ここには、素晴らしいこと、こういうことが教会にとって大事なんだ、という素晴らしいことが書かれています。
今日の箇所の終わり近くの所では、カギ括弧にくくった言葉で、旧約聖書の言葉が引用されています。ここには「復讐」ということについての教えが言われています。復讐、それは神様がなされるのだ、だから神様に任せなさい、つまり自分が正義感による怒りを持って復讐するのでなく、神様が必ずそのことをなして下さると信じて、自らを抑制すること、自制すること、そのことが言われています。
今日の聖書箇所を私が最初に読んだとき、私の印象としては「良いことが一杯書いてあるなあ」ということでした。そして、「終わりのほうはちょっとわかりにくいなあ」というものでした。終わりのほうは旧約聖書の言葉の引用です。特にわかりにくいのは、最後から2行目にある「燃える炭火を頭の上に積む」という表現です。
「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」これは一体どういうことでしょうか。聖書の注解書を見ても、これはたとえでありますが、その意味ははっきりとはわからないようです。
しかし、この文脈から考えると、敵に対して復讐するのではなくて、敵に対して好意を持って、善意を持って、愛を持って、そのことにおいて自らの持っている怒りを、相手の頭の上に燃える炭火を置くことにする、つまり、それは直接相手をやっつける力になるのではなく、相手に熱を気づかせる力になる、そのように考えることができます。
つまり、愛というのは、相手に気づかせる熱となるのです。正義の怒りというものをそのまま復讐という形で表すのではなく、愛の行動に変えることによって、相手に自らの誤りを気づかせる、熱の力になる、そのように解釈することができるかと思います。
今日の聖書箇所はそのように、使徒パウロが教えている所であります。前半部では、いわゆる良いことが一杯言われています。「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し……」と、とても良い教えが書いてあります。
しかし残念ながら、私たち人間は、素晴らしいことが書いてあると、それはその通りだなあ、と思いながら、なんとなく読み過ごしてしまうものであります。不思議なもので、読んですぐわかることというのは、いいなあと思っても、それっきりということが多いのです。
そこで、もうちょっと真面目に、今日の所は何が書いてあるのだろうと思って真剣に読んでみると、気がつきます。1行目にこう書いてあります。「愛には偽りがあってはなりません。」なんとなく読めば、ああ、そうでしょうねえ、と思うだけですが、このたった一行の言葉だけでも、本当に真面目に考えてみたらどうでしょうか。私たち一人ひとりの心の中にある愛というものが、偽りがないと言えるでしょうか。
生身の人間としての自分が持っている愛というもの、そこに嘘、偽り、あるいは偽善、そうしたものがないでしょうか。実は人間一人ひとり、自分の持っている愛というものは結構疑わしいものであり、また、風に吹かれて形を変えるロウソクの炎のように、いつもふわふわと消えかかっているもの、実はそんなものだなと思うと、この「愛には偽りがあってはなりません」という、この聖書の言葉も、ちょっとドキッとする言葉になります。
そんなふうに今日の箇所は、上から順番に読んでいきますと、何となく聞くと、ふんふんと聞き流してしまうような言葉ですが、真面目に考えていくと、一つひとつ、なんか自分の心に深く迫ってくる、そういう所があります。
中でも、どんな言葉が迫ってくるでしょうか。今日の箇所の真ん中あたりに、こんな言葉があります。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」とあります。これは使徒パウロが生きていた時代の社会状況を表しています。パウロがクリスチャンとなり、キリスト教の伝道者として、その社会の中にあって迫害される立場でありました。
その迫害されていたときに命を狙われ、困難に何度も出会ってきた、牢屋に入れられたこともあった、そうしたパウロがここで、あなた方を迫害する者のために祝福を祈りなさい、祝福するのであって、呪ってはなりません、というときに、とても説得力があったのでありましょう。
けれども、私たちは生身の人間として、そのようなことができるでしょうか。やはり、自分を苦しめる相手は憎い、怖い、恐ろしい。そう思うのが普通であります。そんな私たちの所に、聖書の言葉は、ときに私たちに挑戦してくるようであります。
その次にはこうあります。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」ここには、共感するということが言われています。私たちが到底できないようなこと、自分を迫害する者のために祝福を祈る、そんなことができるだろうか、と戸惑う私たちに対して、聖書は共感するということを勧めています。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」
そしてこう言います。「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。
自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」ここには、クリスチャンが陥りがちなことが言われているように思います。自分が賢い者だとうぬぼれてしまうのです。自分は特別だ、自分はわかっている、自分はこんな風に賢くものを考えている。ある一面では、それは事実かもしれません。゛でも一方で、自分はそんなふうに特別だと思うことによって、失敗することも多いのです。
そしてこう言います。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」
ここで使徒パウロが、できれば、せめて、と言葉を重ねている所に、パウロの現実感覚が表れています。つまり、100%すべての人と仲良くするということはおそらく無理なんだ、おそらく現実の人間社会、世界というものはそれが難しいことなんだということはわかっている、しかし、その中で、できれば、あなたがたは、できれば、教会に来ている人だけでも、すべての人と平和に暮らしなさい、と言っている所には、この大変な社会の中にあっても、「せめて、ここだけでは」とか、「せめて」と言いたくなるような、そういう現実があるということであります。
そして次に、パウロは言います。旧約聖書を引用して、「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる』と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。』」
自分に対して敵である相手に対して、あえて愛の行動をすることによって、自分の過ちを気づかせていく、その熱を相手の頭の上に置くことになるのだ、そのように言われています。
そして最後にこう言います。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」
パウロはここで、悪を耐え忍びなさいとか、悪というものはしょうがないものだ、だからあきらめなさいと言うのではなく、善をもって悪に勝ちなさい、とはっきりと言っています。
ここで言われている善というのは、神様の御心のことであります。人間の価値観によって打ち勝つのではなく、神様の御心を持って悪に勝つ、そのためにはどうしたらいいか。そのためには自分で復讐するのではなく、敵に対する愛の行動によって、相手に自らの過ちを気づかせていく、ということであります。
パウロはこうして、今日の箇所において、私たちがどう生きていくべきか、どのように生きていったら良いか、その具体的な生活の仕方について教えています。
今日の箇所を読みながら、私はいろんなことを考えました。さっきも申し上げましたが、この箇所を私が最初読んだときの印象としては、「何か良い事が一杯書いてあるなあ」ということでありました。いわゆる正義とか、善、愛、そういう言葉が言われています。「ええことが一杯書いてあるなあ。」そして、「終わりのほうはちょっとわかりにくいなあ」、ここは旧約聖書の言葉です。ちょっとドキッとする言葉です。自分が復讐して敵に打ち勝つのではなくて、神様がそれをなしてくださると信じて、自分は愛の行動をするということです。そういえばイエス様はこういうことをおっしゃっていたなあ、ということも思い出します。「あなたの敵を愛しなさい」ということでもあります。
パウロがここで、このように言っている土台には、イエス・キリストの教えがあることは間違いありません。まさにパウロはイエス・キリストを、ここで人に伝えているのであります。こうした箇所を読むときに、いいことが言われている、なるほどと思わされることも言われています。
しかし、今日の言葉は、皆さん、心の中にどれぐらい響いているでありましょうか。いい言葉というのは、本当に耳に良いのですけれど、聞いていてなるほどと思うのですが、すぐに忘れてしまいます。読んで何かわかりにくいなあと思った言葉は、読み終わったあとは、いよいよ忘れてしまいます。すると一体、何が残るのだろうというふうにも思います。
そんなことを思いながら、今日の箇所を読んでいくなかで、私は、聖書を読んでいる自分の心の中に何があるかを考えてみました。読んでも読んでも、書いてあることが自分の中に残っていかないのはなぜだろうか、と考えてみると、気がついたことは、私の心の中に一杯あるもの、それが心の中で本当に一番多いことかどうかはわかりませんが、ウクライナのことなのです。
戦争が起きるのでありましょうか。ロシアといわゆる西側諸国は激突するのでしょうか。戦争が起こると、ウクライナの首都は2日間で制圧されると新聞に出ていました。破滅的な結果にならないように、各国は警告しているということです。もし本当にそんなことが起こったら、一体どうなるのでありましょうか。そのような事態に対して、備える言葉があり、また落ち着くべきだという言葉があり、いろんな人がいろんなことを言っています。世界がどうなるのでありましょうか。
ウクライナだけではありません。世界の各地を見るときに、武力によって軍事力によって国が支配され、あるいはその危険を感じさせている地域がたくさんあります。世界は一体どうなるのでありましょうか。そんな思いで、絶望的な思い、暗澹たる思いに自分の心がなっていく中で、聖書を読んでもちっとも心に入ってこない、そういう思いがするのです。
しかし、そんな中にあって神様の御心というのは、どこか天からぴょーんと降ってきて、何か正しい道を教えてくれるというのではなくて、今私たちが手元に持っている聖書、その言葉に本当に一体一で向き合って、神様から御心を教えていただく、という形でしか、本当の意味で神様の御心に向き合うということはできないのではないかと思います。
今日の箇所を読んでいて私は気づかされました。ここに書いてあることは、一般的な意味で良いことであるととも読めるのですが、本当は一般論として良いことを一杯言っているのではなくて、ウクライナはどうなるのだろうか、とか、世界の大国は、アメリカは、中国は、ロシアは、どうなるのだろうか。日本の国はどうなるのだろうか。韓国や北朝鮮は、香港や台湾は、ミャンマーやシリアは、どうなるのだろうか、と考えている私たちに、どんなことがあったとしても、あなたはあなたの場でやることがあるよ、と言われていることではないかと思うのです。
この世界がどんなふうになったとしたって、あなたは置かれた場にあって、あなたの隣にいる人とどんなふうに生きていくか、ということについて、神様はいつも気にしておられるよ。「愛には偽りがあってはなりません」というときに、自分の持っている愛が本当なのかどうなのか、この、ぐらつくような自分の思い、そういう思いというものを神様は見ておられる、ということであります。
「悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」
この世界がどんなものになっていったとしても、ある場合には一つの国がなくなることがあったとしたって、ある場合には武力や軍事力によって私たちの生活が壊され、失われていくことがあったとしても、それでも、あなたは置かれた場にあってまだすることがあるよ——。
聖書の言葉は、私たちに、そうした究極の生きる倫理と言ったらいいのでしょうか、究極の生き方を教えている、ということであります。聖書という書物自体が、イスラエルの国を失った人たちによって書かれた旧約聖書、そして迫害の中で生まれたキリスト教会、そこから生まれた新約聖書、そうした形で生まれてきた書物です。
この一冊の聖書というものが生まれてきた背景には、人間が作り出す国家とか政治とか法律とか社会、そういうものが本当にすべて失われてしまった、そんな中にあって、じゃあ、一体私たちどうやって生きたらいいのだろうか、というその深い絶望の中で、まだあなたには、神様がいらっしゃるよ、神様と一体一の関係のなかで、今与えられているその場所から、その地点からもう一度生き始めるんだ————。聖書の言葉はそのようなものとして、私たちに与えられています。
では、どんなふうに生きて行ったらいいのかというと、それが、今日の聖書箇所に書いてある生き方をするということです。ここに書いてあることは何かの義務ということではありません。こうしなければ神様から叱られるよ、罰せられるよ、地獄に落ちるよ、という義務ではありません。そういうことではなくて、何のやる気もなくなってしまった、何の希望も見いだせないような、この世界に生きている私たち一人ひとりが、こういうふうに生きたらいいんだよ、そのとき神様が一緒にいてくださるんだから、そういう励ましであります。
自分の力で相手に打ち勝とうとするな。特に、自分で復讐しようとするな。迫害する者に対して迫害をもって返すのではなくて、祝福を祈る。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
人間が自分の理屈によって相手に打ち勝とうとしても、そのことによってかえって火に油を注いでいく、それが社会の現実であります。そうではなくて、敵に対する愛の行動によって、相手に過ちを気づかせていく、そこに本当の生き方、イエス・キリストが示してくださった、十字架と復活の福音の生き方というものがあるのです。
もちろん、こうしたパウロが言っていることを、国際社会の現実にそのままあてはめて、国と国との関係、地域と地域の関係にあてはめて、こうしたらいいんだ、ああしたらいいんだ、などということは軽々しくは言えません。それは、やっぱり違うのです。人と人との関係ということと、国と国との関係ということは違います。
けれども、では、国や地域、政治、社会、そういうものがみんな壊されてしまったときに、一体どうするのか。そうなっても、まだ私たちは生きている力が残されている。神様の御心に従って生きていくということは、この世界がどんなふうになっても、まだそこにちゃんと道が用意されている、そのことが今日の箇所から言われているのであります。
使徒パウロは、元は熱心な律法学者であり、クリスチャンを迫害する立場の人でありました。実際に迫害していたのです。しかしあるとき、目が見えなくなって、その暗闇の中でイエス・キリストの言葉を聞いたと聖書は記しています。今まで自分の力で律法を守って正しい生き方を実践して、その敵を迫害してきたパウロが、自分が目が見えなくなったときに、自分がどんな人間であるかをパウロは知ったのです。
そこから生き方が180度変わりました。それ以降、パウロにとって、それまでのイスラエルの人たちの暖かいコミュニティ、共同体というものは厳しいものになりました。それまでの教えから違った教え、イエス・キリストを信じる教えに移って伝道者になったパウロは、元の仲間だった人たちから見ると裏切り者でありました。命をねらう人たちも現れました。権力から狙われて牢屋に入れられたこともありました。パウロにとっては、国とか地域とか、宗教とか、政治とか、どれをとっても本当の意味で、そこに頼ることができない、そのようになってしまったのです。
しかしパウロは、そのような人生を喜んで生きました。神様が共にいてくださる、そのことは他の何にも代えられないことだったのです。パウロはその喜びを持って、このローマの信徒への手紙を記しています。
今日の箇所は、単なる、何かの良いことが一杯書いてある箇所ではないのです。頼れるものが何もなくなっても、それでもまだあなたにはやることがある、生きていく道があるよ、と記してくださっている、そうした箇所なのであります。
私たちは、愛ということについて悩みます。そして、怒りということについても悩みます。どうしてこんな現実なんだろう、なぜこんなことが起こるのだろう、と怒ります。そして、やるせなくなり、うっぷんばらしをし、何かにぶつけていかなかったら、自分がやりきれない、そうした怒りの思いにとらわれます。愛について悩み、怒りについて悩む、それが私たち生身の人間でありますが、聖書が教えていることは、愛も怒りも神様のところにある、ということであります。
本当の意味で、正義であるもの、本当の意味で善であるものは、神様の御心しかありません。その神様の御心に従って、一人ひとり置かれた場にあって、注意深く慎重に誠実に生きていく必要があるのです。それは人間は自分の力ではできません。神様を信じ、イエス・キリストを自分の中に受け入れて、イエス様の導きによって生きていくこと、イエス・キリストを自分の主とするということは、イエス・キリストを自分の救いの中心にお迎えする、ということであります。そのことにおいて、今日のこの困難な世界において、平和のために心から祈り、そしてまたその祈りを実践して行きたいと願うものであります。
お祈りします。
天の神様、私たちがどんなに考えても、悩んでも、答えを出すことができない、大きな世界の現実の前で苦しみ悩み、たたずんでいる、この私たち一人ひとりを、どうぞ神様が愛してくださいますように。そして一人ひとりが今日、自分に託されている、自分のすべきことをしっかりとしていくことができますように。そのことを通じて、世界の平和を創り出す、そのことにつながっていくことができますように、一人ひとりに信仰の力をどうぞお与えください。そして、この京北教会が教会として、イエス様の神の国の福音を、この地においてしっかりと宣べ伝えていくことができますように、心からお願いいたします。
この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。
アーメン。
……………………………………………………………………………………………………………………………………
「希望と共に土に返る」2022年2月20日(日)説教
聖書 創世記 3章 8〜19節 (新共同訳)
その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。
アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
主なる神はアダムを呼ばれた。
「どこにいるのか。」
彼は答えた。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。
わたしは裸ですから。」
神は言われた。
「お前が裸であることを誰が告げたのか。
取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
アダムは答えた。
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、
木から取って与えたので、食べました。」
主なる神は言われた。
「何と言うことをしたのか。」
女は答えた。
「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
主なる神は、蛇に向かって言われた。
「このようなことをしたお前は、
あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で 呪われるものとなった。
お前は、生涯這(は)い回り、塵(ちり)を食らう。
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。
彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く。」
神は女に向かって言われた。
「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。
お前は苦しんで子を産む。
お前は男を求め 彼はお前を支配する。」
神はアダムに向かって言われた。
「お前は女の声に従い 取って食べるなと命じた木から食べた。
お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
お前に対して 土は茨(いばら)とあざみを生えいでさせる
野の草を食べようとするお前に。
お前は顔に汗を流してパンを得る。
土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。
塵(ちり)にすぎないお前は塵に返る。」
(以上は、新共同訳聖書をもとに、改行など文字配置を、
説教者の責任で変えています)
…………………………………………………………………………………………………………………
(以下、礼拝説教)
最近の京北教会では、マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、旧約聖書、この三つの箇所から之選んで毎週順番に読む形で礼拝をしています。今日は旧約聖書の創世記の3章であります。
ここには、アダムとエバ、世界最初の人類であるその二人が神様の前で、神様に対して罪を犯して、そのことによってエデンの園を追放されることになった、その時のことが記されてあります。
今日の礼拝説教の題は「希望と共に土に返る」と題しました。今日の聖書箇所には人間が最後には土に返っていく存在であるということが言われており、それが人間の罪の結果である、その厳しいことが言われています。
それとともに、今日のこの聖書箇所を通して、神様から与えられる希望というものを感じ取ること、希望と共に私たちはいつか土に返っていく、そうした思いで人間理解をしていきたい、そういう思いで「希望と共に土に返る」と題させていただきました。
今日の聖書箇所にはイエス・キリストは登場しません。これは旧約聖書の冒頭の物語なのでありますから、イエス様の存在はここにはないのであります。しかし、いま教会で今日の聖書箇所を読むときに、イエス様が共におられる、イエス・キリストが私たちを導いて下さっている、というその中に、今日の箇所があります。その中で今日の箇所は何を私たちに教えてくださるのでありましょうか。
順々に読んでいきます。
「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」
今日の箇所はこうして始まっています。実際の聖書では、この箇所の前の所に、へびが誘惑をしてアダムとエバが、食べてはならないと言われていた木の実を食べた、という場面があるのです。そのあとのことが記されています。
さらにこう続きます。
「彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』」
それまでは何ら恥ずかしいと思っていなかった自分たちの裸が恥ずかしいことだと知った。それは、食べてはならないと言われていた木の実を食べることによって、知恵がついたということであります。
ここで神様は言われました。
「神は言われた。『お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。』アダムは答えた。『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。』」
このようにアダムは言います。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が」という言い方をしているところには、これは神様がなさったことの結果、私はそうしたのだ、という言い訳をしているわけであります。
「主なる神は言われた。『何と言うことをしたのか。』女は答えた。『蛇がだましたので、食べてしまいました。』」こうしてアダムは女に責任を転嫁し、女はへびに責任を転嫁します。
そして、そこから神様がおっしゃいます。
「主なる神は、蛇に向かって言われた。『このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で 呪われるものとなった。お前は、生涯這(は)い回り、塵(ちり)を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く。』」へびに対してこのように言われました。
さらに女性に対して言われます。
「神は女に向かって言われた。『お前のはらみの苦しみを大きなものにする。』お前は苦しんで子を産む。お前は男を求め 彼はお前を支配する。』」
さらにアダムに向かって言われます。
「神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い 取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して 土は茨(いばら)とあざみを生えいでさせる 野の草を食べようとするお前に。』お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵(ちり)にすぎないお前は塵に返る。』」
今日の箇所はこのようにして終わっています。この箇所で、女に対してエバと言わずに女と言われているのは、エバという名前がつけられるのがこの箇所の後のところだからです。エバとは命という意味です。アダムという単語は男とも言えますし、また人という意味でも使われています。
今日の箇所から、いろいろなことを考えることができます。神様に対して罪を犯した者であるアダムとエバ、このあとエデンの園を追われて、自分たちで畑を耕して働き、そして子を育て、苦労して生きていくことになる、そのことがここから始まって言われています。もちろん、こうした創世記の物語は、神話の物語であり、古代から伝えられている伝承、言い伝えということであります。これが、そのままで歴史的な事実であったわけではありません。
けれども、こうした物語を通して神様が私たちに伝えようとしているメッセージがある、そのことを、今日この現代日本社会の中で生きている私たちの神様から、直接一人ひとりがそのメッセージを聴く、ということが、この物語を通してできることなのであります。
今日の箇所を読んで私が思いましたことは、このへびと女と男、この三者のことが今日の箇所に出てきています。また、神様を合わせますと四者ということになりますが、このなかで、どこに、どの存在に焦点を合わせるか、ということで、この箇所の読み方もいろいろと変わってくるのではないか、ということを思います。
自分自身を、女性、男性、あるいは神様に重ねるのかで、ずいぶん変わってきます。ここで、へびに焦点を当てて考える方はいらっしゃるでしょうか。どちらかといえば少ないのではないかと思います。
この話は、「アダムとエバ」の話だと普通言われています。「アダムとエバとへび」の話という言い方は、一度も聞いたことがありません。へびはここでは誘惑する存在として、少し出てきて、そしてそれ以上出てこない。悪者でありますけれども、ちょっと出てきて、すぐ姿を消してしまう、そういう存在として出てきています。けれども、思い切って、このへびというものにちょっと焦点を当ててみることにしました。
へびというものが出てきます。今日の箇所の中ではこんなふうに、神様から言われています。「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で 呪われるものとなった。」他のあらゆる動物とは違うと言われています。「お前は、生涯這(は)い回り、塵(ちり)を食らう。」塵を食べるということでありますけれども、地面を這いずり回る姿がそう見えたのです。
そして、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く。」とあるように、へびと人間は対立するものとして、ここで言われています。ここでは、アダムとエバを誘惑して神様に対して裏切りをさせた、そういう大きな罪の結果が言われているわけであります。
しかし考えてみますと、なぜ、へびはこんなに悪者扱いされなくてはならないのだろうか、ということも私は思いました。へびが悪いんだと思い込んでいますから、へびが悪いと思って、この物語を普段から読んできましたけれども、へびは何か悪いことをしたのでしょうか?
聖書の中で、この物語の中でへびが言っていることは、もちろん誘惑でありました。しかし、「それを食べると目が開け、神のように善悪を知恵を知るものとなることを神はご存じなのだ」(3章5節)と言った内容は事実なのであります。
そして、このへびはエデンの園において、また神様の創造によってできた存在、神様が創られた、神様の恵みが満ちている、調和した世界の中に、神様が創られたものとしてへびがありました。つまり、へびは元々良きものであったのです。
ここでもし、これがへびでなくて、何か可愛らしい生き物であったりしたら、イメージは全然違っていたかもしれません。ポメラニアンとか、よく知りませんが、プードルとかチワワとか、ペルシャ猫とか、よく知りませんけれども、自分が可愛いと思うものであったとしたら、この話の印象はずいぶん変わっていたかもしれないと思います。
それが、このへびというものが出てくるのは、へびというものが人間にとって怖い物、不気味な存在であり、聖書の時代の人たちが考えていたことによると、へびは賢く、そして恐ろしい、特別な存在であったということであります。どこからでも入ってくる、頭としっぽだけで生きている、それはきっと賢い存在に違いない、そういう、へびというものがどういう存在かわからないけれど、それは不気味で、しかし賢い存在である、そうした何と言いますか、悪役のイメージを人間から思われていたのです。
けれども、へびの立場に立ったら、それは全部人間が考えたことです。へびは神様が創られた姿のままで自由に生きています。そのへびを忌み嫌うのは人間であります。それは人間の側に立って考えたことであって、へびの立場から考えるとちょっと違うのでありましょう。ある動物は可愛くて、ある動物は忌み嫌う、それは人間のわがままかもしれません。人間の目から見てそう見える、ということであります。
そしてまた、このエデンの園、この神様の創られた世界の中、すべてが調和している世界の中では、その中でお互いの麗しい信頼関係があったはずです。へびは女に言葉を告げました。女はへびのいうことを聞いて、なるほどと思って木の実を食べました。そこには神様が創られたへびと、それから女の信頼関係があります。そしてさらに、その女が食べた木の実を、今度はアダムが食べました。そこには、信頼関係があったのであります。神様が創られた世界の中にあって、互いの信頼関係があり、この木の実を食べたらいいよ、じゃあそうしよう、そういう麗しい信頼関係があったのです。
ところが、その結果、人間は知恵がついて神様の姿を避ける、主なる神の顔を避ける、そのようになりました。そこで神様が言われました。「どこにいるのか。」それは、なぜ自分の姿を隠すのか、という問いであります。それまでは普通に神様の前に出てきていたのが、神様の前に出てこなくなった、それはなぜか。それは、知恵が人間の中に生まれたからです。そして自分たちの存在が恥ずかしい存在であることだと知ったのであります。
こうしてエデンの園の中にあった、麗しい関係は終わりを告げることになります。人間は男も女も神様を裏切ったものとして、エデンの園から追放されたのであります。
ここでもう一度、へびというものに焦点を合わせてみます。へびという動物自体が何かよくない動物なのではなく、人間がへびを忌み嫌ったのであります。それは人間の生活の中に侵入して害を及ぼす、そういう恐ろしい不気味な存在だったのでありますが、そのへびというものが何を象徴しているかというと、この神様が創られた世界の中にあって、人間の心を動かす何かということであります。
へびという動物が悪いのではなくて、へびにたとえられるような、何かのきっかけというものがあるのです。神様によって創られた素晴らしい世界があり、その中で麗しい信頼関係というものが出来ている、けれどもその中にちょっとしたきっかけがあって、人間は心が動いて、ああそうか、じゃあそうしてみよう、と思って何かをした、その結果として大きな罪を犯す、大きな大切な信頼関係、神様との関係という根本的な信頼関係を裏切ってしまう、そういうことがあるのです。
今日の聖書箇所の話は、古代の単なる神話ということではなくて、人間というものが日々の生活を生きる中で、日常的に直面している現実というものを象徴的に現しているのです。だれも、悪いことをしようと思ってするわけではないのです。
だれもがこの世界の信頼関係の中で生きている、でもその中でちょっとしたきっかけがあって、そのきっかけに自分の心がふっと動いたときに、自分でも気がつかないうちに、大きな、取り返しの付かない結果を味わうことになってしまう。人間というのはそうした不確かな存在であることが、ここで言われています。
そして、本当にちょっとしたきっかけでしたことでしかなかったのに、その結果というのは大変なことでありました。そのきっかけを作ったへびというものは、人間から忌み嫌われることになったことが書いてあります。しかし、へびというものは、もともと土の上を這い回っていた動物であります。もともと人間から嫌われていた、それは人間の目から見ればということでありますが、そういうことです。
すると、神様に対して罪を犯したことによって、そのへびがこうむったことよりも、人間がこうむった現実のほうがもっと重いですね。女性はそのはらみの苦しみが大きいものにされます。 「神は女に向かって言われた。『お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は苦しんで子を産む。お前は男を求め 彼はお前を支配する。』」と言われます。
ここで「支配する」という言葉で言われているのは、文字通り、支配するということですが、創世記においては、支配するということは、その世界を十分に保つという意味もあります。つまり、支配して自分の好きなようにこの世界をおもちゃにしていいということではなくて、相手の存在を保ち、神様から託された存在として、それを維持していく、それが「支配する」ということであります。
ですから、男性は女性を支配することの意味は、男性は女性を保ち、維持し、共に生きていく。神様から託された存在として十分に女性を守り、共に生きていくということが必要になるわけであります。
そして、アダムと言われている男に対して神様は言われます。「神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い 取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して 土は茨(いばら)とあざみを生えいでさせる 野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵(ちり)にすぎないお前は塵に返る。』」
人間は土からとられてその土でできた人間に、神様が息を吹き込んで人間が生まれたと創世記は記しています。ですから人間はもともと土なのです。その土から美味しい草、野菜も生えてくるのですが、いばらやあざみも生えてきます。その中で人間はどうやって食べ物を得るか、そのために生涯苦しむことになると言います。「お前がそこから取られた土に返るときまで。」そして、「塵(ちり)にすぎないお前は塵に返る。」
結局、土というものを耕して、食べるものを得て、その最後は、自分自身がその土に返っていく、そしてその間にある苦労というのは、土からいばらとあざみが生えてくる。結局、元々はすべて土なのです。土から生まれた人間が土に関わった命を得て、そしてその土に最後は返っていく、そういう人間観、世界観がここにあります。人間は最後は土に返る。そのことによって、神様が創られた世界の中に、自分としての存在はどうしていくのでしょうか?
こうした聖書の物語は、もちろん一つの物語、お話であります。私たちは時折夢というものを見ることがあります。怖い夢を見たり、おもしろい夢を見たり、幸せな夢を見たりしますけれども、朝にはっと目が覚めて、ほっとする、そんなこともたまにはあるのではないでしょうか。こうした物語を読むことも、それに少し似ています。物語を見て、その中に没入している間はいろんなことを考えます。どんなふうになるのだろう、と思っていたときに、「あっ、これはお話なんだ」と気づいてホッとします。緊張がほぐれます。
けれども、それが夢であれば、目が覚めると大抵忘れてしまうのですけれど、聖書を読むときには、これがお話だ、物語だといってそれで終わるのではなくて、心の中に何かが残ってきます。それは神様が、お一人おひとりに伝えようとしたこと、それが残っていくのです。
今日の聖書箇所を読みながら、いろいろなことを思うことができます。たとえば、女に対して神様が言われた言葉、「お前のはらみの苦しみを大きくする」という言葉は、女性のすべてがはらみをするわけではありませんから、女性に対する固定した考え方をこの箇所からだけ切り取って言うならば間違っています。
それはアダムに対する言葉でも同じです。「お前は顔に汗してパンを得る」、しかし人間にはそうした労働ができない状態の方もたくさんおられます。人間というものはこういうものである、ということを、聖書の言葉から一部分を切り取って物差しとして使うと、新たな差別を生むことになりますので、そのようなことがあってはなりません。
わたしたちが今日に聖書を読むということは、そうした何かの物差しを聖書から取り出すということではなくて、この物語を通して、あなたの心の中に神様が残してくださるものがある、それをきちんと聴き取るということであります。
今日の聖書箇所を読みながら、私は思いました。この話では、へびというものが言われているけれども、それは単に生き物としてのへびについて言っているのではなくて、私たち一人ひとりの中に現れる、ほんのちょっとしたこと、この世界の中にあって、ほんのちょっとしたこととして現れるものではないかと。
それは人間同士の信頼関係の中にも生じてくること、その信頼関係の中に生きようとしたときに、思いもかけない大きな裏切りをしてしまうこともある、人間というのはそういうことで、この世界というのはそういうものであるのだ、ということではないでしょうか。
そして、その中で人間とはどういうものであろうか、と考えたとき、最後は土に返る、そうとしか言えないのです。エデンの園の物語、旧約聖書の創世記の冒頭から読んでいくと、人間というのは神様が御自分の姿にかたどって創られた存在であり、神様にとって近い存在なのですね。
本当に素晴らしい神様が創られた、神様のもっとも近くにいる、神様のような神様に似た存在であるはずの人間というものが、本当に小さなきっかけによって、神様から離れることによって、最後は土に返っていく、いつかその命を神様にお返しする、そういうもろい存在であることが、はっきりするのであります。
ここで、何が言われているのでしょうか。人間、うぬぼれるなよ、と言われているのだろうと私は思います。人間は知恵がついて、あんなことができる、こんなことができる、いろんなことで夢が広がります。能力が高まります。科学は進歩します。何でもできそうな人間、でもそんな人間、信頼関係の中にあるほんの小さなきっかけ、それに乗ることによって、大切な大切な神様の信頼関係を失うとき、人間は自らが土から生まれて土に返っていく存在でしかない、そういうことを知ることになります。
働くこと、家族を持つこと、人間としてそれが必要とされている、この世界の中で起こるすべてのこと、それらが人間であることの結果だと、聖書は教えています。今日の箇所の中では、それらは人間が神様に対して罪を犯した結果として書かれています。
しかし、そのあとに生まれてくる物語があります。女にエバという名前が付けられます。それは「命」という意味です。そして、「主なる神は、アダムと女に、革の衣を作って着せられた」とあります。神様はアダムとエバを、エデンの園から突き放していくのでありますけれども、革の衣を着せて、つまり守ってくださいました。
こうした旧約聖書の創世記の冒頭の神話的な物語、エデンの園の物語が終わり、ここからエデンの園を出た人間の新しい歴史の物語に移っていきます。
繰り返して申し上げますが、あくまで神話的な物語であり、伝承であるので、これが歴史的・科学的事実であるわけではありません。また、ここから何かの物差しを取り出して、人間とはこういうものだという固定観念を押しつけるのではありません。そういうことてではなくて、人間というものは、こんなにももろい存在であるということを神様はよく知って下さっているのです。
そして、神様は人間から離れておられるのだけれども、神様との関係がここで切れたわけではないのです。それは、神様は人の心の中にあって、信じられる存在になったことです。
エデンの園差にいたときには、目の前に神様がおられて一緒に生活することできた、しかしエデンの園を出て行ったところから、神様は目の前にはいなくなりました。目に見える存在ではなくなりました。ではどこにおられるのか。それはエデンの園を離れた人間一人ひとりの心の中に来てくださる、そのようになったのであります。つまり、信じられる存在になったのです。
今日の私たちの教会において、神様の御心を聖書から学ぶときに、それは自分の目で見る存在ではなく、心の中で信じる存在として、いま、この聖書の言葉を通して、私たちは大切に信仰というもの受け付いでいるのであります。
お祈りします。
天の神様、私たち一人ひとりが与えられている人生を全うすることができますように、いつか土に返っていく人間が、常に希望を持ち続き、主イエス・キリストによって導かれ、神様によって守られて歩むことができますようにお願いいたします。
この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。
アーメン。
……………………………………………………………………………………………………………………………………
「イエス様が自らを投じて」2022年2月27日(日)説教
聖 書 マルコによる福音書 9章 2〜13節 (新共同訳)
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、
高い山に登られた。
イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、
この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
ペトロが口をはさんでイエスに言った。
「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。
仮小屋を三つ建てましょう。
一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのためです。」
ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。
弟子たちは非常に恐れていたのである。
すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。
「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはや誰も見えず、
ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
一同が山を下りるとき、イエスは、
「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」
と弟子たちに命じられた。
彼らはこの言葉を心に留めて、
死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
そして、イエスに、
「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」
と尋ねた。
イエスは言われた。
「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。
それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。
しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、
人々は好きなようにあしらったのである。」
(以上は、新共同訳聖書をもとに、改行など文字配置を、
説教者の責任で変えています)
…………………………………………………………………………………………………………………
(以下、礼拝説教)
京北教会では、マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、旧約聖書、その3箇所から選んで毎週順番に礼拝で読むということをしています。今日の箇所はマルコによる福音書です。
順々に読んでいきます。
「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、
高い山に登られた。」
「六日の後」というのは、どこから六日後かといいますと、イエス様と弟子たちが対話をしていた重要な場面があり、そこから六日後ということになります。どのような重要な対話をしていたかというと、次のようなことです。
イエス様が弟子たちに対して、あなたたちは私を何だと思っているのかと問う、そのことを尋ねられました。それに対して12人の弟子の筆頭であったペトロが、あなたはメシア、救世主です、と信仰告白をいたします。
それに対してイエス様は、そのことは誰にも言ってはいけない、と言って、これから御自分が捕らえられて十字架に架けられ、死なれ、そして復活なされるということをはっきりとお話になられました。そのイエス様の言葉を聞いたペトロは、今度はイエス様をわきへ引き寄せて、いさめました。そのようなことがあるわけがない、とペトロは考えていたのです。
そうしたペトロに対して、イエス様はお叱りになられました。サタンよ、退け。あなたは神の事を思わず、人間のことを思っている。そのように非常に厳しくお叱りになられました。そのあとでイエス様はご自身のことを語られます。御自分の十字架の死、そのことを語られました。
このときまでは、イエス様に従っていた弟子たちは、わりと素朴な気持ちであったと想像することができます。ローマ帝国に支配されていた自分たちの国、このイスラエル、ユダヤの国が神様によってもう一度独立した強い国になることを願っていました。昔の旧約聖書に記されたダビデ王やソロモン王の時代のような、強い豊かな国になる、そうした自分たちの国の復興ということを、多くの民衆が願っている時代でした。その時代の中にあって、イエス様の弟子たちもまた、そうしたリーダーとして、社会的な政治的な意味もこめて、イエス様を自分たちの救世主と信じていたのであります。
ところが、そのイエス様に対して、自分たちは、あなたをメシア、救世主だと信じていると、信仰を告白した、そのペトロたちに対してイエス様は、自分はこれから捕らえられて十字架に架けられ命を落とすということを語られました。そのときに、その十字架のあと、三日の後に復活するとお話されたのでありましたが、弟子たちにとってはそのような復活ということは全く意味がわからないことでありました。それ以前に、イエス様が十字架に架けられて死なれるということは、あるわけがない、あってはならない、そういう思いでいたのであります。
しかし、そうした弟子たちに対してイエス様は、これからご自身が十字架の受難の道を歩むということを、ここではっきりとお話になられたのでありました。このときにイエス様と弟子たちの間の関係は、それまでの関係から大きく変わりました。
それまでは弟子たちは、わりと素朴な気持ち、まあ純情なと言ってもいいのでしょうか、まっすぐな気持ち、あるいは非常に単純な気持ちで、イエス様から弟子として招かれたから、あるいはイエス様から選ばれたから、そういう喜びのもとで、イエス様を支えて一緒に歩む、イエス様を支えて歩む旅の仲間として、喜んで歩んでいたのです。
それがこの、イエス様と弟子たちの対話の場面において、はっきりと弟子たちが思っている単純素朴な純情な思いと、イエス様がこれから実際に歩まれる道が違う、ということがはっきりと示されたのです。
その重要な場面というものがあって、そこから「六日の後」ということで今日の聖書箇所が始まっているのです。
続けて読みます。
「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」
このようにあります。高い山に登られたとき、そこにヨハネ、ヤコブ、ペトロという三人だけが共にいました。その高い山の上でイエス様の姿が変わったというのです。服が真っ白くなった。
そこに、エリヤとモーセという二人の人物が登場します。エリヤというのは預言者で、神様の言葉を預かって語るという意味での預言者で、旧約聖書に出てくる預言者の中で、最も重要な人物と考えられていた人であります。というのは、エリヤという人は、地上で人間として生きたのでありますけれど、地上で死んだのではなくて、神様によって天に挙げられていった、という最後を歩んだということが旧約聖書に記されていますので、他の、人間として生きて地上で死んでいった預言者とは違うという、別格の存在と考えられていました。
そしてモーセという人は、旧約聖書の出エジプト記などに登場しますが、かつてエジプトで奴隷とされていたイスラエルの人たちを神様の導きによって、そのエジプトの国から脱出をするときのリーダーでありました。
ですから、旧約聖書において非常に重要な人物であるエリヤとモーセ、この二人がここで登場しているのであります。その二人がここでイエスと語り合っていた。それはイエス様が歩まれている道が、旧約聖書に記されたイスラエルの歩みの中にあって重要なリーダーである、エリヤとモーセと語り合うような関係、その中にイエス様がおられるということです。聖書を通して御心を示される神様の思いの中に、イエス様がおられるということが表されています。
高い山の上に上って、そこでこのようなことが起こった、そのときにペトロが言いました。
「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのためです。』」
そのあと、すぐにこう書かれています。
「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。」
ペトロは、この光景を見て、目の前で起こっていることの意味がわかりませんでした。いったいこれは何だろう、と思い、でも何か言わなければならない、と思って言った言葉が、「仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのため」という言葉でした。
ペトロ自身も、なぜ自分はこんなことを言っているのだろう、と思うような、とっさに口をついて出てきた言葉であったようです。何かここは特別な所なので、じゃあ、この出会いを記念するために小屋を三つ作りましょう、それぞれにその小屋にいていただけるように、そんなふうなペトロの気持ちがあったのでしょうか。
弟子たちは非常に恐れていたのであります。いったい何事が起こっているのか、という気持ちであります。
そのあと、こう続きます。
「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。
『これはわたしの愛する子。これに聞け。』」
神様の声が響きました。そのあと、こうあります。
「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはや誰も見えず、
ただイエスだけが彼らと一緒におられた。」
こうして、この高い山の上に上ったときの、非常に不思議な時間、空間、この経験というもの、これがパッと終わったのです。ハッと弟子たちが見合わせたときには、ただイエス様だけ一緒におられた。それは、先ほどの最初の場面に戻ったということであります。ほんの一瞬、こんな経験をしたということでありましょうか。
そのあと、山を下りる時のことが書いてあります。
「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、
今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた。」
弟子たちは非常に不思議な気持ちがしたのでありますが、イエス様はこのように仰いました。
そして、次にこうあります。
「彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。そして、イエスに、『なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか』と尋ねた。」
このあたりの、弟子たちとイエス様の話は、少しわかりにくいことかと思います。ここで言われているのは、その時代において律法学者たちが旧約聖書をよく研究していて、そして、自分たちに救い主が与えられる、その前にまず先立って人が、預言者が来るはずだと考えていたということです。救い主が来られる前に、エリヤが、あるいはエリヤのような、そうした重要な預言者がまずやってくるはずだと律法学者が言っていると、そのように言いました。
それは、聖書において、死者の中から復活するということが、いわゆる世の終わり、終末のことを指していて、そのような終末が来る前に、そのようなことがあると聖書の解釈をしていたということが背景にあります。
それに対してイエス様が言われました。
「イエスは言われた。『確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。』」
こうして、この箇所は終わっています。旧約聖書に書いてあるように、世の終末が来る前に、重要な預言者がやってくる、ということは確かにその通りなのです。しかしそれは、そうした立派な預言者がやってきたら、その後に世界が神様によって変えられて、素晴らしくなるというような単純ことが言われているのではない、ということをここでイエス様はおっしゃっています。
「人の子は苦しみを重ね、辱めを受ける、と聖書に書いてある」と言われています。「人の子」という言葉は、人間の子、つまり人間という意味でありますけれども、これは旧約聖書のダニエル書にあっては、単なる人間の子という意味ではなくて、来るべき救い主という意味を持っています。
イエス様が人の子という言葉を使うときに、ひとつは、単に「人間の子、人間」という意味で使うときと、「来るべき救い主」という意味で使う二つのことがあります。今日の場面で言うと、これは救い主という意味で使われています。
救い主というものは、苦しみを受けて辱めを受ける、そのように書いてあるのは、イザヤ書53章にもあることです。救い主は確かにやってくる、しかし人々はその救い主を苦しめ、辱め、そして好きなようにあしらうのだ、とイエス様は言われます。
ここでイエス様は、ご自身のことを語っていると思われます。また、ご自身のことでなければ、洗礼者ヨハネのことであったかもしれません。預言者という意味でいくと、洗礼者ヨハネ、それはイエス様に先立って活動した重要な人物、預言者でありますが、神の国の到来に先立って罪の悔い改めということを告げた洗礼者ヨハネは、捕らえられて命を落としました。
神の救いというものは必ずやってくる、そしてその前に、そのことを告げ知らせる人も必ずやってくる、しかし人々はその預言者を好きなようにあしらうのだ、その中にあってイエス様も救い主として、この世にあって苦しみを受け、辱めを受け、十字架に架けられて死なれる、そのことをここでおっしゃっているのであります。
しかし、こうしたイエス様の言葉は、弟子たちには理解されないことでありました。弟子たちがこうしたイエス様の言葉を理解するようになったのは、まさにイエス様が十字架で死なれて三日の後に復活され、天に挙げられ、その後に天から神様の聖霊、聖い霊、聖なる霊が、イエスをキリストと信じる一人ひとりの人に与えられ、その聖霊の力によって、目が開け、心の目が開けて、イエス・キリストがどういう方であるかがわかった、そのときから、今日の聖書箇所にあるような事柄の意味がわかったのです。
ですから、そのときが来るまでは、すなわちペンテコステと呼ばれる聖霊降臨日、聖書の使徒言行録に記された、その日が来るまでは本当の意味では理解できなかったことなのであります。そして福音書というのは、そのペンテコステの日が終わり、何十年も経ったあとに、一番最初のキリスト教会が建てられて、段々と広がっていった、その時期に、過去のことを振り返って書かれました。
この福音書に書かれていることは、イエス様と同じ時代を生きた弟子たちは、そのときにはイエス様のことを本当には理解していなかった、すべてのことがわかったのは、もうイエス様が天に挙げられたあとに、天に帰られたあとであった、ということであります。
今日の聖書の箇所に書かれていることは、非常に不思議なことです。イエス様が高い山の上に登られた。三人の弟子だけを連れて登られた。そこで非常に不思議な経験を、その三人の弟子たちはしました。光輝き、白く輝いているイエス様、そして現れた預言者エリヤとモーセ。一体これはどういうことなのかと、ペトロはどう言えばよいかわからず、思わず口走ります。「先生、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはエリヤのため、一つはモーセのため……。」
何か言わなきゃ、と思って人間はこんなことを言ってしまうのです。しかし、それに対して返ってきた答えは、「これはわたしの愛する子。これに聞け」という神様の言葉でありました。弟子たちは、目の前にある、目に見える現実が変化した、ということはに恐れて、驚き、どう言ったらいいかわからずにいます。口走るのは、わけのわからないようなことであります。
このことを記念しましょう、という意味でしょうか。仮小屋を建てるというのは。そうなのです。人間は、すごく驚いたときには、どうしたらよいかわからなくて、せめてこれを記念しましょう、記念する小屋を建てましょう、何とかさんのために建物を建てましょう、と。
しかし、そんな人間たちに対して返ってきた神様の言葉は、「これはわたしの愛する子。これに聞け」という言葉でした。
目の前に見えている状況に対して、私たちは度肝を抜かれて、せめてと思って、記念しましょう、このことを記念しましょう、と言います。けれども、神様から返ってくる答えというのは、「これはわたしの愛する子。これに聞け」ということでした。
目の前のことに振り回されるな。目の前に起こっていることに度肝を抜かれて、何かしなきゃいけないと思って記念しましょう、そんなことではないのだと。目の前の出来事に振り回されるのではなくて、目の前にいる大事な方をしっかりと見つめ、その方の声を聞くこと。
神様が愛しておられる、イエス・キリストの言葉を聞け。それが、今日の聖書箇所において、ほぼ唯一と言ってもいい、大切なメッセージではないかと思います。
弟子たちが、こんな不思議な経験をした、というこの物語は、この現代日本社会において常識的に、理性を持って生きている私たちにとっては、理解できないことであります。これは何かの幻想を見たのだ、ということもできます。何か不思議なことが起こったのだ、そういうふうに考えることができます。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、この三人だけを山に連れていったということから、この三人の弟子たちは他の弟子たちとは違う何か特別なことがあったのかなと思います。
そしてまた、こうしたことは、イエス様の復活のときまでは誰にも話してはいけない、とイエス様がおっしゃっている、だからこれは秘密のことだったのだ、そんなふうなことも思います。何かの秘密がある、特別なことがある、その秘密は何だろうか、というように私たちも、ある意味で推理小説を読むような意味での関心を持たれる方もおられるかもしれません。そうした関心を持つことは間違いではありません。
けれども、目の前に起こっていることに、一番教えられるのは、目の前に起こっていることに振り回されるな、ということであります。そういうことではなくて、「これはわたしの愛する子、これに聞け」というメッセージを私たちは聴かなくてはならないのであります。
いま私たちの世界が直面している現実というのは、戦争というものが本当に存在するという現実であります。いまウクライナで起こっていることは、私たちの心を切り裂くようなことであります。私は思いました。神様、この戦争を止めてください。そして、傷ついている人、命を失っている人、その人たちのために祈ろうと思いました。
その中で考えました。いま私は何を祈ったらいいのだろうか。それに打ち勝たなきゃならない、じゃあ、ウクライナの軍隊がロシアの軍隊を打ち負かしてください、と祈るべきなのだろうか、とも思いました。そのことは私の心に抵抗を感じることでもありました。今まで、軍隊によってい、力によって世界の形を変えていくということはよくない、誰でもがそう知っている、そう思ってきた私でありますが、しかし今の現実世界を見るときに、対立している片方の軍隊が打ち勝つようにと祈っていいのだろうか、というためらいがあるのです。
私のそんな思いは、その戦いの中にいない、遠く離れたこの日本の中にいて、ただ心の中でやきもきしているばかりの人間、弱いセンチメンタルな人間の思いなのだろうと思います。現実にその中にいたら、生きなくてはならない。相手をやっつけないといけない。相手を殺さなくてならない。それが戦争というものでありましょう。
そのなかで教会は何を祈るのか、と思いました。祈ろうとすればするほど、その戦争に加担していることになる、戦争には本当の勝者はないのだと、第二次世界大戦が終わったあと、原爆の投下やいろいろなこと、植民地支配の問題や大量殺戮の問題や、いろいろなことを私たちは歴史の中で、人類が経験し、戦争を直接知らない世代も、そのことをたくさん学んできたはずです。しかし、いま起こっている事態に対して、何を祈ったらよいのか、本当に力が抜けていくような絶望的な思いにかられます。
しかし、よく考えてみますと、戦争はいま初めて起こっているのではありません。イラク戦争がありました。湾岸戦争がありました。シリア内戦がありました。ミャンマーでは軍隊が民衆を殺傷し、あちこちに戦争あるいは軍事的な抑圧は世界にはびこってまいりました。いま初めて起こっているわけではないのです。その現実の中にあってどうやって生きていくのか、ということが問われています。
そんな絶望の中で聖書を読むときに、私たちは何を教えられるのでしょうか。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と言われたイエス様。その御言葉に従っていくときに、どんな道を選んだらよいのでしょうか。それは一人ひとり違うのでありますが、この現実の中で本当に迷っている、困っている、言葉をなくしていくのが、私たちの現実であろうと思うのです。
いくら聖書の言葉を学んだって、いくら愛の言葉を学んだって、強大な軍隊を持っている人たちがやってきたら、戦わなくてはいけないではないか、そうだそうだ、と誰しも思うのです。しかし、それでいいのか、というブレーキをかける心を私たちが無くしてしまったら、いったいどうなるのでしょうか。
そんな私たちの揺れ動く思いに対して、今日の聖書の箇所が語りかけています。目の前に起きている出来事に振り回されるな。その中でとっさに何かを言わなきゃならなきゃと思って、何かを言ったりやったりすること、そんなことが大事なのではないのだ。「これはわたしの愛する子、これに聞け。」そう神様はおっしゃいました。
主イエス・キリストは、御自分の十字架の死、そして復活ということを、はっきりと弟子たちに告げられました。神が人を救われるということは、そういうことなのだ。みんなが力を合わせればいつかハッピーエンドがやってくる、という形ではなくて、神様ご自身がこういう世の中にあって苦しまれるのだ。そして、その神の子の死ということを通して、その向こうにある神の子の復活ということを通して、私たちに、今まで知らなかった神の国の平和というものが到来するのです。
どんな時の中を生きていっても、どんな空間、場所の中にいたとしても、「これはわたしの愛する子、これに聞け」、その神様の言葉を聞いて歩んでいきたいと願うものであります。
お祈りをいたします。
天の神様、いま私たち一人ひとりに知恵と力、そして今日を生きる勇気をお与えください。そしてはるか遠くの国に生きている、たくさんの弱き小さき方々と共に私たちが共に生き、歩んでいくことができますように、神様からのお導きをお願いをいたします。イエス様がご自身を神様の御心のために、この世に投じて下さった、その思いを私たち一人ひとりも神様からいただいて、自分自身の歩みをなすことができますように。そして、互いに和解をすることができますように、平和を造り出すことができますように。
この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。
アーメン。