京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2022年1月の説教

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2022年1月の京北教会礼拝説教

 1月2日(日)、1月9日(日)、1月16日(日)

 

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「初めに光、初めに言(ことば)」

 2022年1月2日(日)説教

 聖書  創世記1章1〜5節、ヨハネによる福音書 1章 1〜5節

                                 (新共同訳)

  ・ 創世記1章1〜5節

 

  初めに、神は天地を創造された。

 

  地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、

  神の霊が水の面(おもて)を動いていた。

 

  神は言われた。

  「光あれ。」

  こうして、光があった。

 

  神は光を見て、良しとされた。

  神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。

 

  夕べがあり、朝があった。第一の日である。

 

 

  ・ ヨハネによる福音書 1章 1〜5節

 

  初めに言があった。

  言は神と共にあった。

  言は神であった。

 

  この言は、初めに神と共にあった。

  万物は言によって成った。

  成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

 

  言の内に命があった。

  命は人間を照らす光であった。

  光は暗闇の中で輝いている。

 

  暗闇は光を理解しなかった。

 

 

  (以上は、新共同訳聖書を元に、改行など文字配置を、

   説教者の責任で変えています)



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 (以下、礼拝説教)

 

 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 新しい年、2022年を迎えました。よく晴れていますけれども、とても寒い気温の日であります。昨年の終わりより、大型の寒波の襲来ということが、新聞などでマスコミで報道されておりましたが、各地で程度の差はあれ、かなりの雪が降る、そのようなことが起こっています。

 

 聖書の中に、雪というものが出てくる箇所があることを、皆様はご存じでしょうか。聖書の中に雪という言葉、そんなものはないのではないか、と思っている方もいらっしゃると思います。でも、聖書の中に雪という言葉は出てきます。イザヤ書の55章10節にあります。ちょっと読ませていただきます。

 

 「雨も雪も、ひとたび天から降れば、空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように私の口から出るわたしの言葉もむなしくは私のもとに戻らない。それはわたしの望むことをなしとげ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」こうした言葉が旧約聖書イザヤ書55章にあります。

 

 雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは、誰もが知っている自然現象であり、雨も雪も、それは天から地上に降りてくる存在であり、天に戻ることはありません。それと同じく神様の御言葉というものも、天から私たちのところにやってきて、そして、むなしく戻っていくことはないのだと。必ず役割を果たしていくのだと。そのように示されています。

 

 雪という言葉がここで、そのような意味で神の御言葉と同じ意味で用いられているのであります。雨も雪も、地上に降ると、それは水分となって、この土を潤し、役割を果たしています。

 

 もちろんそれは、海や川や湖などによって、そこに集まり、そしてまた蒸発して天に戻り、ということが自然のサイクルとしてあるということを、科学の知識を持っている私たちは知っているのでありますけれども、そうした知識のないはずの古代の人たちにとって、水というものは神様からの恵みでありました。雨と雪が降ってきて、それが天に戻ることがないのと同じように、神様の恵みは私たちの所に来て、必ず役割を果たすと言われているのであります。

 

 では、そのような神様の恵みは、どのように、私たちの所に来てくれるのでありましょうか。

 

 今日、2022年の初めの礼拝にあたって選ばせていただきました聖書の箇所は、創世記とヨハネによる福音書それぞれの冒頭の言葉であります。旧約聖書の一番最初の言葉、そして新約聖書の最初にあたる四つの福音書の中の、ヨハネによる福音書の一番最初の言葉を並べて、皆様と共に読んでいます。

 

 この創世記とヨハネによる福音書のそれぞれの冒頭の言葉を並べて見ると、共通点があることに気がつきます。それ以降にある言葉は違っていますけれども、この二つの箇所を並べて見るときに、この創世記の言葉があって、それを意識しながらヨハネによる福音書の一番最初のこの箇所を書いたということが伝わってきます。

 

 創世記の冒頭に書かれている内容を、もう一度イエス・キリストにあって確認して、もう一度語り直している、それがヨハネによる福音書の冒頭の言葉であります。

 

 順々に見ていきます。

 創世記の最初に、「初めに、神は天地を創造された。」とあります。

 

 「地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面(おもて)を動いていた。」

 

 ここにある「神の霊」という言葉の「霊」という言葉は、元々のヘブライ語では「風」とか「息」という意味を持っています。霊とも風とも息とも翻訳することができます。そうした、神様の何か、目に見えない、動いている力というものが、このとき、混沌とした地、真っ暗闇の中にあって、それが動いていました。

 そして、こうあります。

 「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」

 

 真っ暗闇の中にドロドロとした混沌というものがあった。そこに神様の言葉が響き、「光あれ」という言葉が響き、そしてその言葉通りに光というものが現れました。

 

 次にこうあります。

「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」

 

 聖書の創世記では、その冒頭にあたって、その天地創造の物語が記されています。天地創造は一週間で行われました。その第1の日がこのようであったということを、伝えています。

 

 ここで神様が造られたのは「光」ということでありました。それは、太陽を造ったということではありません。この天地創造の物語の中で、この後で、太陽と月を神様が創造される場面が出てきます。ということは、ここで「光あれ」と言われて光があったのは、太陽を造ったということではないのです。そうではなくて、真っ暗闇の、そしてただドロドロと動いている形のない、その世界に光というものが現れて、この世界というものが初めて目に映るものとなった、姿を現したということであります。

 

 次にヨハネによる福音書を読みます。

 ヨハネによる福音書 1章 1〜5節を見ていきます。

 

  「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」

 

 このように始まっています。「初めに」という言葉が創世記と共通しています。創世記では、神様は天地を創造されました。しかしヨハネによる福音書のほうでは、「初めに言があった」とあります。神様が何かを創造される、その前に神様と共にあった、言は神であった、と言っています。

 

 そして次にこうあります。

 「この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」

 

 ここで言われている「言(ことば)」とは何でありましょうか。この箇所の意味を知るためには、創世記の言葉と対照してみなければわかりません。

 創世記では神様は「光あれ」と言われます。「こうして光があった。」この神様が発せられた言葉、これが「言(ことば)」であります。「光あれ」、「こうして光があった。」神様の言というものは、その言がすなわち光となる、光を造り出すものでありました。その言というものが神様と共にあって、そして、その言が神であった、と言っているのであります。

 

 創世記の天地創造物語で、神様は最初に光を造られました。その次には大空を造られます。そして海を造り、陸地を造り、そうして世界が造られていく、そうた物語になっています。すべて神様の言によって造られたのです。「成ったもので、言によらずに成ったものは一つもなかった」というヨハネによる福音書の言葉は、創世記の物語をもう一度確認しているのであります。

 

 そして、次にこうあります。

 「言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。」

 

 これは、どういう意味でありましょうか。「言の内に命があった。」これは、創世記に書かれていることを踏まえています。神様の最初の言葉は、「光あれ」という言葉でありました。「光あれ」……それは単に、光っている太陽ということではなくて、ものごとを明らかにし、ものごとに意味を与えるものであり、そして、そのような光の働きをここで「命」と呼んでいるのであります。

 

 今まで命がなかった世界。どろどろした混沌だけがあり、暗闇で何かが動いている、それだけの世界だったところ、そこに光が照らすときに、そこに命というものが生まれるのです。「命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。」とあるのは、創世記の物語を確認しながら、もう一度新しい思いでそのことが言われているのであります。

 

 ここで、このヨハネによる福音書の冒頭で言われている「光」、そして「言(ことば)」という言葉が表していることは、主イエス・キリストということであります。

 

 イエス・キリストとはどういう方であるか、ということを、人々に伝えるために、このヨハネによる福音書は書かれました。その冒頭にあたって意識したのは、創世記の最初の言葉でありました。神様がこの世界を造られた、「光あれ」と言われて世界を造られた、それと同じことが主イエス・キリストの中にあるのだ、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」と言われるとき、世界の最初に輝いた光と同じ光が、主イエス・キリストの中にあって、それが私たちを照らしている、そうした信仰がここに記されています。

 

 そして、こう締めくくられています。「暗闇は光を理解しなかった。」

 

 これは、主イエス・キリストを理解しなかった、この世の中、人間の世界ということを意味しています。人間の造り出した社会は、真っ暗闇であり、どろどろしたものが何かうごめいている、そのような混沌としたものでありました。そこに、神様の「光あれ」という言によって光が照らされた、そのことによって初めて、その混沌とした世界というものが明るみに出されて、そしてその世界に神様は、秩序を与えていかれました。それが旧約聖書の創世記の天地創造物語であります。

 

 主イエス・キリストが伝えてくれた福音、良き知らせ、イエス・キリストの十字架の死がすべての人の罪のゆるしのためであり、イエス・キリストの復活はすべての人にとっての希望であり、そして天に挙げられたイエス・キリストを信じる者に神様からの聖い霊、聖霊が与えられる、そのことによって私たちは、一人ひとりの人間は、神様によって救われ、新しい命を与えられてこの世を生きるものになります。

 

 罪のゆるし、そして人の救い。そして救われた者は神の国に生きるようになります。神の国とは、死んだあとに行く天国のことだけを示しているのではありません。いま、私たちが生きている現実の世界そのものの中に神の御言葉を通して、神の国が現れるのです。神の国とは神様の恵みが満ちあふれている時間と空間のことであります。それがイエス・キリストを通して私たちが生きる世界に現れている、それがイエス・キリストの福音でありました。

 

 しかし、その福音を人間の社会は受け入れようとせず、イエス・キリストを拒み、十字架に付けてその命を奪いました。そこに人間の罪ということが現れています。神様から与えられる救いを受け入れることができず、自らを神とすることによって、本当の神の救いを退けていく、それが人間の罪であります。

 

 本日の聖書箇所の最後に、「暗闇は光を理解しなかった。」と書かれているのは、このヨハネによる福音書が記された当時の、社会の状況を現していると考えられます。しかし、その中にあって、まことの光である主イエス・キリストを宣べ伝えるということを、このヨハネによる福音書を記した人たちはしていたのであります。

 

 イエス・キリストが伝えて下さった、神の国の福音、それは、この世界全体を天の神様が造って下さったときと同じほどの意味があるのだ、そのような確信を持って、ヨハネによる福音書のこの冒頭の言葉は記されています。

 

 創世記の言葉を意識して、それを元にしながら、天地創造のときに「光あれ」と言われて生じた「光」、その光を造り出した「言(ことば)」、その言は、この世界が造られる前から神様と共にあったのだ、神様から生まれた言というものが、神様と同じものであった、その神の言が人となったのが、主イエス・キリストである、そのような信仰がヨハネによる福音書には記されてあります。

 

 いま、私が申し上げていることは、キリスト教の教えであります。旧新約聖書を通して教えられている、神様の恵み、主イエス・キリストの恵み、それはこういうことである、ということを私は申し上げました。皆様は、どのように受け取りになられるでありましょうか。

 

 私がこうしてキリスト教の話をしながら、一方で思うことは、これだけ素晴らしいことが聖書に記されているということと同時に、こうした素晴らしいことを、この私という一人の人間、この2022年を歩み始めた、この時代にあって、現代の日本社会で生きている、この私という人間は、このイエス・キリストのメッセージをどんなふうに受け取ったらよいのだろうか、ということであります。

 

 そのことは、私だけではないはずです。教会に集われる皆さん、お一人おひとり、聖書のメッセージをどのように聞き取っていかれますか。そして、どのように聞いて、どのように御自分の人生というものに、それを糧(かて)として、食べ物として、感謝していただいて、味わって、生きていくのでありましょうか。

 

 それはお一人おひとりそれぞれに生き方が違うように、神様との関係も、それぞれのあり方なのだと思います。一つではありません。人間はみんな違っています。バラバラです。正反対のときだってあります。それでも神様から与えられた恵みまをいただいて、それぞれが歩むときに、必ず、そこに御心というものが現れてきます。

 

 今日の聖書箇所を皆様と共に読んだ中で、私が特に示されたことは、聖書の言葉というものは、なんだかスケールが大きすぎて、困っちゃうな、ということでありました。あまりにもスケールが大きすぎて、私の心は何だかそのままではついていけないような、気後れするようなものを私は感じるのです。

 

 しかし、その思いの中で、聖書の言葉を心にいだいて思い巡らせていると、だんだんと心が落ち着いてきます。それは、私が神様を信じるようになったのは、天地創造の物語とか、あるいは、イエス・キリストの十字架の死による罪のゆるしとか、復活とか、そういうことを信じたから、神様を信じたわけではない、という私自身の経験があるからです。

 

 私は、教会を通して神様ということを知りました。そして聖書ということを通して、いろいろに考えることを与えられました。そして、今に至るまで生きてきました。その中で、神様から私に与えられてきたことというのは、ものすごくスケールが大きなことという、その聖書の物語を背景にしながら、実際に私の心の中に、雪が降り積もるようにして、たくさんたくさん、積まれていった恵みというもの、それは、人との出会いということでありました。

 

 無数の人との出会いがありました。家族であったり学校であったり、友人であったり、いろんな奉仕活動であったり、地域であったり、もう忘れてしまったたくさんの方々、いろんな所でお会いしてきた方々、そしてまた、文章、本とかそうしたものでしか出会っていない、たとえば神学者という方々の多くはそうですね、あるいは、社会的な活動家であったり、あるいはニュースでしか見ることができない方、本を読むことでしか出会えない、そうした言葉でしか出会えない、そうした無数の人たちとの出会いというものがあって、その中で、「うん、私も生きていこう」と思える「光」がそこにあった、ということであります。

 

 何かの理屈に納得したから信仰が始まったのではなくて、「私も生きていこう」「私も生きていきたい」、なぜかわからないけれども、そう思わせてくださる方々、人との出会いがあったのです。その出会いが、私の心にローソクの火をともすように、小さな光となり、手をかざせばそこにぬくもりを感じる温かいものがそこにあったのであります。その光や、小さな温かさというものに、忠実に生きていきたい、というものが私の信仰、ということでありました。

 

 聖書に記された、本当にスケールの大きい、この天地創造の物語、世界全体を愛して救ってくださる神様の御心の、ものすごく大きな世界というものに、私はいつも圧倒されています。けれども、圧倒されるだけで終わらないのは、その神様の恵みが、この私の所にも、人との出会いという形を通じて来てくださったからであります。

 

 ヨハネによる福音書が、この創世記の言葉を土台にしながら記していることも、大きく言えば、そういうことであろうと私は受け止めています。

 

 「初めに言があった。」その「言(ことば)」がイエス・キリストなのです。「光あれ」と言われた、その神の「言」がイエス・キリストなのです。そのイエス・キリストという「言」の中に、光があって、そこに命がある。それは、「命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」とあります。

 

 それは世界全体を愛してくださる神様の御心が、一人ひとりの心の中に来た、そこに命があり、人間を照らす光がある、その人間の中に光があると信じたら、それでいいのだ、と聖書は私たちに語りかけています。

 

 何か大がかりな世界観とか、圧倒されるようなものすごいことを信じろ、と言われているのではなく、あなたの心の中にやってきた、小さな光を信じる、信じなさい、信じることによって、あなたが生きる新しい道が開かれていくのだ、そして、その光の背景には、この世界全体を救ってくださる神様の大きな御心があるのだ、その神様の御言葉は、雪のように降ってきて、そして天に戻ることは決してない、必ずその役割を果たしていく、そのようにイザヤ書55章にある、その通りなのであります。

 

 お祈りします。

 天の神様、2022年をみんなで始めていきます。今年がどんな年になるか、誰もわかりません。いろんな心配事や、世界に関する不安、自分の健康に関する不安、人間関係、家族の関係などなど、いくらでも数え上げれば心配事はありますが、そのすべてを神様におゆだねをいたします。

 そして、今日、聖書から与えられた言によって、また新しく灯し火を自分の中に灯し、そして大切な隣人となる人の心にも、それが灯ることを心より祈って、この2022年を始めていくことができますようにお導きください。

 世界にまことの平和を与えて下さい。戦争が終わりますように。様々な国での国内の少数者への抑圧、国と国、地域と地域、宗教と宗教の争い、お金を巡る争い、資源を巡る争い、能力を巡る争い、そうしたことを一つひとつ、神様が共に悲しんでください。神様の御心によって、その悲しみの涙をぬぐってくださるように導いてください。

 この祈りを、2022年にあたり、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

 

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「これまでと違う一歩」2022年1月9日(日)説教

  聖 書   ヨハネによる福音書 1章 14〜18節 (新共同訳)

                     

 言は肉となって、

 わたしたちの間に宿られた。

 

 わたしたちはその栄光を見た。

 

 それは父の独り子としての栄光であって、

 恵みと真理とに満ちていた。

 

 ヨハネは、

 この方について証しをし、

 声を張り上げて言った。

 

 「『わたしの後から来られる方は、

   わたしより優れている。

   わたしよりも先におられたからである』

 

  とわたしが言ったのは、

  この方のことである。」

 

 わたしたちは皆、

 この方の満ちあふれる豊かさの中から、

 恵みの上に、

 更に恵みを受けた。

 

 律法はモーセを通して与えられたが、

 恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 

 

 いまだかつて、

 神を見た者はいない。

 

 父のふところにいる独り子である神、

 この方が神を示されたのである。

 

 

 (以上は新共同訳聖書をもとに、改行など文字配置を説教者の責任で変えています)


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 (以下、礼拝説教)

 

 2022年を迎えて2回目の聖日礼拝となりました。新年、新しい年を迎えたときにふさわしい聖書の箇所として、先週と本日は、ヨハネによる福音書の冒頭の部分から選ばせていただいています。

 

 今日の聖書箇所の一番最初には、このようにあります。

「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」

 

 「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」……このような言葉を、教会以外のどこかで聞くことがあるでしょうか。ないと思います。そもそも、「言は肉となって」という言葉からして普通に考えると意味がわかりません。これは、ヨハネによる福音書だけに出てくる言葉であり、信仰の言葉、そして神学的な言葉であります。

 

 ここで言われている「言葉は肉となって」といのは、神様の言葉、あるいは神様の御心というものが、一人の人間となって私たちの間に宿られた、ということであります。「肉」という言葉が、生きた人間ということを示しています。このような表現の仕方は他では見られないと思います。

 

 神学、キリスト教の神学の言葉では「受肉(じゅにく)」とも表現されます。受けるという字と肉という字で「受肉」。これは、神様の御心が一人の人間のところに現れた、人間の形で私たちのところに神の独り子が来てくださった、そのことを示すのが「受肉」という言葉であります。

 

 神様の御心が人の世に受肉した。神の御心がそのように人間の世に与えられた、この世はそれを受けた、ということを意味しています。それは、何か科学的な意味での事実関係を示す言葉ではなくて、イエス・キリストとは、どういう方であるかということを示す、信仰的な表現、神学の表現ということであります。

 

 その「受肉」という神学的な言葉の元々の意味というのは、このヨハネによる福音書の本日の箇所にある言葉から来ています。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」

 

 そして、こう続きます。

 「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

 

 ここで「わたしたち」と書かれてあるのは、このヨハネによる福音書を生み出した教会の人たちのことであります。イエス・キリストが主、自分たちにとっての救いの主、救いの中心にいてくださる方であると信じた人たち。

 

 そして、その人たちだけではなく、世界のすべての人にとって、イエス・キリストが救い主(ぬし)として来られたとして、その栄光を見て信じた人たちであります。

 

 その栄光とは、どのようなことだったのでしょうか。それを示すのが、このヨハネによる福音書の全体なのです。本日の箇所は全体の中で序文の役割を果たしています。この序文で言われているようなことが、どのようなことであったのかを示す内容が、このあとずっと続いていくのです。

 

 本日はこの序文の所だけを読んでいます。さらに、序文を読んでいきます。

 「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。『「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

 

 ここで言われているヨハネという人は、聖書の中では「洗礼者ヨハネ」と呼ばれている人です。ヨハネという名前自体は当時とても平凡な名前でした。それは、このヨハネによる福音書を書いたヨハネとは違うヨハネです。

 

 この洗礼者ヨハネは、イエス様が公の活動を始める前に現れて、ヨルダン川で人々に洗礼を授けていました。洗礼とは川の水につかって身を清める、そうしたことで自分の罪を悔いあらためるということですが、そうした悔い改めということを人々に勧めて実行していたのが、この洗礼者ヨハネです。

 

 この洗礼者ヨハネが言いました。「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」とヨハネが言った、その人が、イエス・キリストということであります。

 

 そしてそのあと、こう続きます。
 「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」

 

 これは、最高の恵みを受けた、という表現です。もともと恵みが満ちあふれている、その豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。これは、最高の、最上の恵みを受けた、ということであります。

 

 その理由が、そのあとに書かれています。

 「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」

 

 ここで「律法」と言われているのは、旧約聖書に記されている様々な掟(おきて)、決まり事のことであります。それを守ることによって神様に救われると、人々は信じていました。

 

 様々な礼拝の仕方や、生活の様々な仕方が、この律法で決められています。それは旧約聖書の物語の中では、出エジプト記にあるように、民衆のリーダーであったモーセという人を通して神様から与えられたものであります。

 

 しかし、その律法を守るということでは、人々は本当には救われませんでした。律法は、何が正しくて何が間違っているか、という区別をつけることはできますが、人間を救うことはできなかったのです。

 

 決まり事というのは、善悪の判断をすることはできますが、人間を救うことはできませんでした。それは、人間の罪が深かったからであります。

 

 神様から与えられた大切な律法も、人間は自らの罪によって、守ることができませんでした。そのようにして、救われなかった人間、そして神様から遠く離れて、自らを神として自らを主人として、神様を忘れて生きることによって、さらに大きな悲劇を招いていた人間たち。

 

 その人たちに対して、恵みと真理がイエス・キリストを通して与えられたということが、ここで書かれています。旧約聖書に記された、神様による決まり事では救われない、罪深い人間に対して、イエス・キリストが来られ、そのイエス・キリストの十字架の死によって、人間の罪があがなわれ、主イエス・キリストの復活によって新しい命が与えられた、そのような信仰がここで記されています。

 

 そして、そのあとこう言われます。

 「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独(ひと)り子である神、この方が神を示されたのである。」

 

 このように今日の箇所は、ヨハネによる福音書の序文として、このように締めくくられています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独(ひと)り子である神、この方が神を示されたのである。」これは、主イエス・キリストが神の子ども、神の御子であって、このイエス様が神を示されたということです。

 

 「いまだかつて神を見た者はいない。」旧約聖書にもそのような言葉があるのですけれども、人間は神を見ることはできない、という意味のことが書かれています。人間は神を見ることができない、しかし、イエス・キリストが神様を現して下さった、そのような理解がここで書かれています。今日の聖書箇所がここで終わっています。

 

 ヨハネによる福音書を書き始めるにあたって、自分たちが伝えたいこととは一体何であるか、ということが凝縮して書かれた序文です。この箇所を読んで、皆様は何を思われるでありましょうか。

 

 ここに書かれている事柄は、かなり難しいことに思えます。もう、言葉づかいからして難しいです。一番最初の「言は肉となって」という、そこからもう何かこれは一般的な言葉遣いではない、聖書的な独特な表現なんだなあ、と思い、もうここでちょっとその意味がわからなくなるかもしれません。神様の御心、あるいは神様の意思というものが、一人の人間となった、それは一体どういうことなのだろうと私たちは戸惑います。

 

 これは、もちろん科学的な意味でのことではありません。そしてまた、歴史的にこれはこうだと証明できる、そういう歴史の中でのつながりがあることでもありません。これは、神様の側でそうなされたのだと、そう受け止めるしかない、これは信仰において受けるしかないことなのです。

 

 わたしたちが、その理屈に切り込んでいって、「ああ、これはこういうことなのか」と自ら真理をつかみ取って理解する、ということではなく、神様から与えられる理解の仕方を、私たちが受ける、受け止める、そういうことしかできないことなのですね。

 

 そのように考えることは、今は何でも科学によって物事を把握しようとする時代にあっては、いま私が申し上げたような、信仰的な考え方というのは、ちょっとやりにくいといいますか、居場所に困るような考え方かもしれません。何でも科学で解決できる、何でも科学で道を切り開くことができる、そのように思っていると、聖書的な事柄というのは、私たちの心にしっかりと受け止めることができません。

 

 聖書に書かれていることは、科学的なことではなく、また歴史的なことでもなく、歴史を越え、科学を越えて、物事の根本的な理解はこういうものである、という神様から私たち一人ひとりに直接伝えていただくことであり、それが信仰ということであります。

 

 神様の御心が一人の人、イエス・キリストとなって、私たちの世界に来てくださった、ということも、これは神様の目から見てそういうことなのであるとして、その神様のものの見方を私たちが受け止める、という仕方でしか私たちの中に受け止めて理解することはできません。そのように、とても深い真理がここで言われているのです。

 

 この箇所の中で、今日、私が皆様と共に、特にわかちあいたいと思ったことは、今日の箇所の真ん中のあたりにある、洗礼者ヨハネの言葉です。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

 

 洗礼者ヨハネという人は、イエス様が公の活動をされる、その少し前に現れて、人々に対して罪の悔い改めを勧めて、川で水につかる洗礼を授けるということを人々に宣べ伝えていた人です。当日の人たちの中には、このヨハネが神様からつかわされた救い主ではないか、と考える人たちもいました。しかし、その人たちに対してヨハネは、「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」と、今日の聖書箇所にある言葉を言っていたのです。

 

 このヨハネの言葉は,少し不思議な言葉です。「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」

 

 これは、どういうことでありましょうか。洗礼者ヨハネのほうが先に現れて活動していたのですから、ヨハネのほうが先にいるのです。しかし、ヨハネは、この自分のあとに来られるイエス・キリストが私よりも先におられる、私よりも優れている、私よりも大切な所におられる、そのようにヨハネは示したのでありました。

 

 それは、洗礼者ヨハネが自らを低めて言った、謙遜の言葉として受け止めることもできます。しかし、これはただの謙遜ではない、信仰における真理というものが表されています。というのは、この現代において神様を信じている、あるいは神様を信じたいと思っている私たちにとって、神様のことというのは、自分が何かを見つけるとか、自分が何かを信じる、ということよりも前に、そこに神様がおられた、そこには真実というものが先にあった、ということ、そのことを信じることだからであります。

 

 そこが、科学とか歴史とかいうこととは違っているところであります。

 科学でものを考えるときには、自分が、あるいは人類というものが、何かを発見していく、生み出していく、そしてそこで発見したところから、そこに何かがあるということを知る、そういう意味で人間が主となって、物事の事実を発見していく、自分の手の中に入れていく、そういうことになります。また、歴史の考え方というものは、時間というものは一方通行で止まることがありませんから、自分というものがあって、その自分のあとに歴史というものが出来ていくと考えます。

 

 しかし、信仰的な考え方というものは、そういう科学や歴史の考え方と違って、自分たちよりも前に本当のことというものがあった、神様のなさってきたこと、というものがあったのだということです。その、私たち自身よりも先にあったところにある、神様の恵みというものがあって、それにあとになって気づいた私たちがそれを信じる、そういう形になります。

 

 今日の箇所の冒頭にあります、「言は肉となって,私たちの間に宿られた」という言葉も、私たちが何かの理屈を作って、何かの現実に切り込んでいって、「このことがわかった! このことを見つけた!」ということではなくて、私たちが考えるよりも先に、神様がそのようになしてくださっていた、という、その過去に神様の恵みはすでに十分に表されていた、ということを、そのあとに生きている私たちが気がついて、その神の恵みを受け入れていく、そういうことなのであります。

 

 私たちが信じたから、神様がそこにいるのではありません。

 神様が先にいてくださったから、私たちはあとになってそのことに気づいて、感謝して神様を信じていくのです。

 

 今日の箇所の最後にはこのように書いてあります。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる神、この方が神を示されたのである。」

 

 ここにあるように、過去の時代にさかのぼっても、「私は神を見た」という人は一人もいないのです。神様という方は人の目に映るものではありません。聖書の理解というものはそういうものであります。

 

 けれども、その目に見えない神様を表してくださったのがイエス・キリストである、そのことが今この現代の日本社会に生きる私たちにとって、はるか昔のこと、過去のこととして示されています。その事柄は、私たちが何かの理屈を持って新しく理解することではなく、神様がすでに用意してくださっていた、大きな恵みということであります。私たちは後になってそのことを受け入れていく、そういうものであります。

 

 信仰というものは、そのような理解の仕方をするのでありますけれども、そのことは、これから2022年の新しい年を生きていく、新しく歩んでいく私たちにとって、どんな意味があるでしょうか。

 

 今日の説教題は、「これまでと違う一歩」と題しました。ここには、2022年を歩み出すということは、2021年とは違う歩みを、一歩を踏み出すのだという気持ちをこめています。

 

 皆さんお一人おひとりがこれまでとは違う一歩を踏み出していきます。それは、何か目に見えて何かを変えるとか、何かがと変わったという意味ではなく、今までと同じような生活をしながら、その日々が去年とは違ったものへと変えられていく、そういうことも多いのだと思います。あるいは、今年は去年とはがらっと違った歩みをすることになる、そういう方もおられるでありましょう。

 

 まだ、私たちは新しい一歩を、2022年に踏み出したばかりで、これからどうなるか誰にもわかりません。けれども、今までと違った一歩を踏み出すことは確かであります。

 

そのときに、それは自分自身で切り開いていく一歩、という面も確かにあるのですけれども、一方で、信仰の点から見たときには、私たちが踏み出す一歩というのは、実は、私たちが踏み出すよりも以前に、神様が用意してくださっていた道である、ということも覚えたいものであります。

 

 それは私たちがロボットのように神様によって操られて、自分たちの進む道がもうすでに全部決められている、という意味ではありません。

 

 そうではなくて、私たちの未来は、誰にもわからないのですけれども、私たちがこれから歩む、今までと違う一歩を支えてくださるのは、私たちよりも先におられた神様である、私たちよりも先にいてくださったイエス様が、私たちの一人ひとりの具体的なこれからの今までと違った一歩を支えてくださるということであります。

 

 神の御心が人となられた、それは科学的にも歴史的にも、私たちの常識からすれば受け入れられない、受け入れがたいことでありますけれども、聖書は、そのことが過去にあったがゆえに、そのイエス・キリストが私たちを導いて新しい一歩を踏み出させてくださるということを示しています。

 

 真実、真理、私たちが本当に歩みたい道、それは何であるか、それは私たちが自分自身で切り開くものであると同時に、神様がすでにおられ、あなたにこの道を行ってほしい、という神様の御心が、私たちよりも先にあるのだと信じるときに、私たちの心は自由になります。すでに神様が、この私を応援してくださっている、ということがわかるからであります。

 

 神様についての信仰というものは、考え出すとなかなか難しいところもあります。聖書の言葉は難しい、神学的な言葉はいよいよわかりにくい。いろんなことがあります。けれども、それらは全部、神様によって、私たちよりも先に整えられて用意されていることなのであります。

 

 これから新しい一歩を踏み出すにあたって、神様について悩むのではなく、神様は私たちよりも先に、私たちが歩む道を用意してくださっている、その神様の応援の声を受けて、安心して新しい一歩を踏み出していきたい、そのように願うものであります。

 

 お祈りをいたします。
 天の神様、新しい1年が始まっています。世界には困難が山積みであり、一人ひとりの生活もまた健康のことや家族のことや、経済的なこと、社会的なことを考えていくと、心配事はなくなることがないかもしれません。けれども、イエス様が私たちに与えられているということ、それが世界のすべての人のためであることを信じ、これからもなるべく元気で健やかに、いろんな人と協力して、楽しんでこの心豊かな人生を楽しんでいくことができますように、2022年の1年を神様が導いてください。イエス様がいつも共にいてください。
 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。
 アーメン。

 

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「時代に負けない良心」2022年1月16日(日)説教

 聖書  マルコによる福音書 8章 1〜13節 (新共同訳)

 

 そのころ、

 また群衆が大勢いて、

 何も食べる物がなかったので、

 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。

 

 「群衆がかわいそうだ。

  もう三日も私と一緒にいるのに、

  食べ物がない。

 

  空腹のまま家に帰らせると、

  途中で疲れ切ってしまうだろう。

  中には遠くから来ている者もいる。」

 

 弟子たちは答えた。

 「こんな人里離れた所で、

  いったいどこからパンを手に入れて、

  これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」

 

 イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、

 弟子たちは「七つあります」と言った。

 

 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、

 七つのパンを取り、

 感謝の祈りを唱えてこれを裂き、

 人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。

 

 弟子たちは群衆に配った。

 また、

 小さい魚が少しあったので、

 賛美の祈りを唱えて、

 それも配るようにと言われた。

 

 人々は食べて満腹したが、

 残ったパンの屑(くず)を集めると、

 七籠(かご)になった。およそ四千人の人がいた。

 

 イエスは彼らを解散させられた。

 それからすぐに、

 弟子たちと共に舟に乗って、

 ダルマヌタの地方に行かれた。

 

 ファリサイ派の人々が来て、

 イエスを試そうとして、

 天からのしるしを求め、

 議論をしかけた。

 

 イエスは、

 心の中で深く嘆いて言われた。

 「どうして、

  今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。

  はっきり言っておく。

  今の時代の者たちには、

  決してしるしは与えられない。」

 

 そして、

 彼らをそのままにして、

 また舟に乗って向こう岸へ行かれた。

 

 

 

 (以上は、新共同訳聖書をもとに、改行など文字配置を、

 説教者の責任で変えています)


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 (以下、礼拝説教)

 

 昨年のアドベント待降節のころからクリスマスに向けた聖書の箇所を選び、そして新年を迎えたあとには、新年を迎えるのにふさわしい聖書箇所を選んで、礼拝で読んで参りました。そろそろ、そうしたアドベント、クリスマス、新年といった時期を過ぎて、通常の礼拝説教の聖書箇所を選ぶ形に戻っていきたいと考えました。

 

 昨年から、マルコによる福音書とローマの信徒への手紙、そして旧約聖書、その三つの箇所から選んで毎週順番に読んでいく、そういう形で昨年、行ってまいりました。今年もそのやり方に戻ってしていきます。

 

 本日の箇所はマルコによる福音書の8章1〜13節です。ここにはイエス様がたくさんの人たちにパンを与えられた話が出てきています。この箇所では、四千人の人たちにパンを配ったということが書かれています。マルコによる福音書で、こうしたたくさんの群衆にパンを分け与えた話が出てくるのは2回目であります。1回目のときには五千人の人たちに分け与えた話が書かれていました。

 

 そして、こうした大勢の人たちに、食べ物がないときにパンを分け与えたという話は、四つの福音書すべてに、はそれぞれに違った形ではありますが載せられています。ということは、こうした話はとても大切な話であることがわかります。

 

 マルコによる福音書には2回出てきます。だいたい似たような話です。そこには、この話はとても大切な話であるということが、その背景にあります。そして、この話がなぜ大切であるかということは、単に、食べ物がないときにたくさんの人たちにパンを与えられたことが大きな恵みであった、というだけでなく、この話が非常に理解しがたいから、という面があるのです。

 

 パッと読んでわかる、という話ではないから、この話は大事なのです。今日の箇所の話は、マルコによる福音書では2回目に出てくる話です。そして、ほぼ同じ話が2回目に繰り返されて終わるということではなくて、この話のあとにどのようなことがあったか、ということが、この2回目には展開されています。

 

 今日の礼拝のプリントでいうと、下から7行目、「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた」とあります。単に、たくさんのパンを人々に分け与えて、そこで終わったという話ではなくて、その後に、そのことを元にしてでありましょうか、イエス様を試そうとして、議論をふっかけてきた人たちがいたことが記されています。

 

 そこには、イエス様がこのようにして、たくさんの人にパンを分け与えたということを聞いて、じゃあ、自分の目の前でそれをやってみろ、と議論をふっかけた、ということではないかと思われます。お前が本当に神様から遣わされた救い主であるなら、神の独り子であるならば、そうした奇跡ができるはずだ、そうした挑発があったのではないでしょうか。

 

 次の通りです。

 「イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。『どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。』」

 

 ここで「しるし」と表現されていることは、別の言葉でいえば「証明」と言ってもいいかと思います。証明するもの、証明してくれるものを「しるし」と言っているのです。しるしという言葉はサイン、印しという意味でも使いますが、ここでは何かを証明する「徴し」として使われています。

 

 これは今日の聖書の文脈で言えば、イエスが言っていることが本当に正しいのであれば、その正しさを証明するための何かの事実、それを見せろ、ということです。たとえば奇跡を起こすのであれば、それを起こしてみろ、病気の人を治すというのであれば、それをしてみろ、それを見て確かめたら、じゃあお前を信じてやろう、そうした挑発的な問いかけであります。

 

 それに対してイエス様がおっしゃったのは、「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」

 

 このイエス様の言葉は、この聖書の物語の中だけで意味があるのではなく、現代の日本社会の中で生きている、私たち一人ひとりに対してもイエス様から投げかけられている言葉であります。

 

 「今の時代」、それは私たちにとっても「今の時代」、2022年の時代にあって、私たちはどうか、ということが問われているのです。イエス様の言っていることが本当に正しいことであれば、それに見合った何か目に見える確かなことを示してほしい、私たちは実はどこか心の中でそう思っているのかもしれません。

 

 そういうものがあれば神様を信じよう、イエス様を信じよう、でもまだ私はそういうことに出会っていないから、信じるわけにはいきません、そうした思考回路というのでしょうか、それは人間の中には誰にだってあると思います。けれども、そんな私たちに対して、「決してしるしは与えられない」とイエス様はおっしゃるのであります。

 

 この箇所には「今の時代の者たち」と書いてあります。では、今の時代ではない、昔はどうだったのでありましょうか。旧約聖書の時代だったら、どうでしょうか。そこには、神様が様々な恵みとして奇跡を行ってくださった話が、自然現象を含めて、神様が本当に人間の力を越えたたくさんのことをしてくださったことが記されてあります。

 

 それと同じことを今の時代にもほしい、と思う今の時代の者たちには、そうした聖書に書いてあるような奇跡は与えられないのです。

 

 そうしたことが、今日の箇所の最後のほうに書いてあります。そして、最初のほうから見ていきますと、これは元々は、イエス様がたくさんの人たちにパンを与えられた話です。食べるものがほとんどない所にあって、困っている人たちにイエス様がパンを下さった。

 

 これは感動的な神様の奇跡の話なのでありますが、その神の奇跡の話を聞いたあとに人々が何を思うか、というと、じゃあ、それを私の目の前でやってくれ、それを見たら信じてやろう、というのでありました。そうして人々は奇跡を求めるのでありますが、決してそのような奇跡は与えられない、というのかイエス様の言葉であります。

 

 物事の証明というのは、なかなか難しいものです。今日の箇所を読みながら、私はいろいろなことを思い返していました。私が昔、ある教会で働いていたときに、その教会には大きな社会福祉施設と保育園があるところでした。そして年に一回、大規模なバザーをやっていました。それは社会福祉や保育園のために必要な資金をバザーによって得るためでした。とてもたくさんの人が来るバザーで、その準備は本当に大変でした。

 

 しかし、そのようなバザーを教会も関わってしていたのですが、そのことに批判をする声が地域にあるという話も聞きました。私が聞いた話では、あそこは教会なのに、あんなお金もうけをしている、あんな大きなバザーをしてお金儲けをしている、それでバチがあたって、あの教会の牧師は病気になったのだ、という話をしている方がいた、ということでありました。

 

 その教会の牧師は一度病気をされて、半身が不自由で車椅子を使っておられました。その牧師のことを揶揄して、あんな商売をしているからバチがあたったのだ、神様の教会なのにそんなことをするからだ、そんなことを言う人がいると私は聞きました。

 

 私はそれを聞いて大変に憤慨しました。そんなことを言う人が地域にいるのですよ、ということを私はその牧師に伝えました。言いたくもなかったのですが、でも地域の声として伝えたわけです。ひどいでしょう、許せません、と私が伝えたところ、その牧師は大きな声で爆笑されました。そして手を振って、「いいよ、いいよ、ほっといたらいいよ!」と言われました。

 

 私は心底から腹を立てていたのですが、その牧師が「いいよ、いいよ」と言ってくださったので、少しホッとしたような気がしたことを覚えています。

 

 教会は神様に仕える場所なのに、あんなお金儲けをして、というのは誤解で、バザーの利益は教会には入りません。社会福祉や保育の資金のためです。そして、そうした資金というのは自ら集めないとやっていけないほど、どこの施設でも大変なのです。

 

 にもかかわらず、地域の中にはそうした事情を理解してくださらない方もおられた。そうした方たちのなかで、人によっては、牧師が障害を持っているということが、神様から受けた罰だと、そう思っておられたのでしょう。

 

 本当にひどい話だ、と思いますけれども、よく考えてみますと、そうした感覚というものは、人間の心の中に、実は誰でもどこかで持っているのではないか、という気がするのです。

 

 あんなことをするから、あんなことになった、という物事の因果関係、結びつきというものを自分の心の中で考えて、ああ、あんな悪いことをしているから、あんなふうになったんだ、と考えることは残酷でありますが、そんなふうに考えることで、どこかでうっぷんを晴らすような人間の気持ち、それはまさに罪だと思いますけれども、人間の心の中には、それがあります。

 

 今日の聖書の箇所を読みながら、そうしたことを私は思い出していました。それは、神様の御心にかなわないことをしている、ということの証明が、病気や障害だと受け止められていた、ということを思い出したからであります。

 

 今日の聖書箇所には、ファリサイ派の人々が出てきます。このファリサイ派の人々とは、旧約聖書に記された律法と呼ばれていた様々な決まり事、現代の私たちで言えば法律と言ってよいと思いますが、その律法を守ることによって救われると考えていた、非常に真面目な人たちでありました。

 

 その真面目な人たちがイエス様のところにやってきて、天からのしるしを求め、議論をしかけた、とあります。お前の言っていることが本当に正しいのであったら、目に見える奇跡を起こすことができるだろう、さあ、今それをやってみろ。たくさんの人たちにパンを与えたというじゃないか、今、そのパンを私たちにください。そんなふうに挑発的な言葉だったのではないでしょうか?

 

 困っている人たちにパンを配る、というと、それは何か善いことのように思えます。貧しい人、困っている人たちがいる、イエス様、あなたが今パンを増やして、その人たちにたくさんパンを配ってくれたら、困っている人たちがみんな助かるのですよ、さあやってください、そのことをしたら、みんなイエス様のことを信じますよ。……そんな誘惑の言葉もあったかもしれません。

 

 けれども、どうでしょうか。聖書の他の箇所で、どこかで読んだ気がしませんか。そうです。イエス様が公の活動を始められる前に、40日間荒れ野で断食をして過ごされたとき、悪魔でやってきて誘惑した話があります(注・マタイによる福音書4章、ルカによる福音書4章)。

 

 おまえが本当に神の子なら、この石をパンに変えてみろ、と。もしそれをできるなら貧しい人たちを救うことができる、そんなことは悪魔は言わなかったかもしれませんが、おまえが神の子としての力を見せたら、みんなお前を信じるよ、と。

 

 しかし、イエス様はその言葉に乗りませんでした。「人はパンだけで生きるのものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」、それがイエス様の答えでありました。

 天からのしるし、証明ということを求めるのは、悪魔だけではないのです。ファリサイ派のように、非常に真面目な、聖書を一生懸命に読んでいる律法学者のような人たちですら、同じことを考えるのです。

 

 本当に神様がいるのだったら、これこれこういうことができるはずだ、本当にお前がやっていることが神様の御心にかなうのであれば、こんな奇跡ができるはずだ、と迫り、それが出来ないというと、なんだ、そんなこともできないのか、じゃあお前は嘘つきだ、神様の御心の通りに生きていないじゃないか、そのように批判することができるのです。

 

 そのように責められることのつらさというものがあるのです。しかし、イエス様はそのような批判に対して言われました。「どうして今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく、今の時代の者たちには決してしるしは与えられない。」

 

 ここで、どうしてイエス様はそのようなことをおっしゃるのだろう、と思います。しるしを見せてくれたら、みんなクリスチャンになりますよ。みんなキリスト教を信じて、みんな聖書を信じて、みんな神様を信じて、良いことばかりじゃないですか。だから、しるしを見せてくださいよ、イエス様。私だったら、そうお願いしたくなるのですけれど、イエス様は決して応えてくれません。

 

 なぜでしょうか。もし、そんなふうに、しるしが与えられるならば、それはどんなことになるでしょうか? あの人は神の御心に従わなかったから、あんな体になったんだ。病気の人や障害を持っている人を見て、そんなふうに言う社会になるのではないでしょうか?

 

 聖書の中に、こういう話があります(注・ヨハネによる福音書9章)。目の見えない一人の人がいました。弟子たちはイエス様に尋ねます。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」弟子たちがそう尋ねました。そこには、本人かその親かは知らないけれど、誰かが罪を犯したから、神様から罰を与えられたから、あんなふうに障害を持つようになったのだ、という考え方がありました。

 

 そのような考え方と、ここでしるしを求めるファリサイ派の人たちの考え方というのは、実は一緒なのです。貧しい人たちにパンを配るために、さあパンを増やしてくれと願うことも、あの人は神様の御心にかなわなかったから障がい者になったのだ、と思うことも、根っこは一緒なのです。この二つはどちらも、目に見える形で神様からのしるしがほしい、ということです。

 

 しるし、それを見たら信じてやろう、というときに、そこにあるのは、神様に対する信仰ではなくて……。これを、どう言ったら良いのでしょうか?

 

 自分の思うままに社会を解釈し、自分はこの社会の中で起こる物事の理屈を知っている人間になりたい、つまり、そういう、自分自身が神と同じ判断力を持つ者、自分自身を神とする者、そうした存在になろうとしているのではないでしょうか。

 

 それを聖書では何と言うでしょうか。それはまさに罪になるのです。人間が人間であることを越えて、人間が神になろうとすること、それがまさに罪であります。それはいわゆる犯罪とか、あるいは道徳的な意味で、たとえば嘘をつくとか人を傷つけるとかいった意味での罪ではありません。

 

 そうではなくて、この世界のすべてを造ってくださった神様に対する罪なのです。神様がこの世界を造られた理由は、神様がこの世界を愛するためでありました。神様は愛のお方でありますから、その愛を示してくださるものとして、この世界を造ってくださいました。その神の愛に応えて生きていくのが、人間の本当の使命であります。けれども、人間はその神様の御心から自分の心をそらし、目をそらして、自分勝手に生きようとします。

 

 神様から与えられた自由ということも、神様のためではなく、神様に感謝するためではなく、自分自身を神とするためにその自由を使おうといたします。そのことによって、人間は神様の前を離れ、そして自らの罪に苦しみながら生き、死んでいく存在となりました。

 

 それは、旧約聖書の創世記にある物語です。もちろん、それは古代の神話的な物語であり、歴史的・科学的な意味での事実ではありません。しかし、聖書が教えているのは、人間とは何か、という根本的な理解であります。

 

 今日の箇所にあたっても、そのことは同じです。今日の箇所でイエス様は、食べるものがないたくさんの群衆のことを気にかけておられます。

 

「そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『群衆がかわいそうだ。もう三日も私と一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れ切ってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。』」

 

「弟子たちは答えた。『こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。』」

 

「イエスが『パンは幾つあるか』とお尋ねになると、弟子たちは『七つあります』と言った。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。」

「弟子たちは群衆に配った。また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑(くず)を集めると、七籠(かご)になった。およそ四千人の人がいた。」

 

 ここでは、人間の手ではどんなふうにしたってパンを分け与えることができない四千人の人たちに対して、イエス様がわずか七つのパンを分けて配ると、全員に行き渡ったという、理解しがたい奇跡が書いてあります。なぜこんなことができたのでしょうか。それは、神様がこの世界を愛し、人間一人ひとりを愛してくださっているから、できたのです。イエス様の手からパンを一人ひとりに、弟子たちを通して渡していくことができたのです。

 

 これは、神の愛の話です。しかし、その神の愛の話を聞いて「ファリサイ派の人たちは、天からのしるしを求めて議論をしかけた」とあります。その奇跡をいま目の前でしてくれたら信じてやろう、と。

 

 もし何もしないで、パンというものを造ることができたならば、それは一見、素晴らしいことに思えますが、しかし、人間をダメにしてしまうことになります。一つのパンを作ることにどれだけの手間が必要か。それはお金が必要だというだけではありません。麦を植えて育て収穫し、それを加工して、それを販売し、みんなで食べられるようにしていく、どれだけの大変な手間がかかるでありましょうか。

 

 しかし、そのことを一つひとつやっていくことによって、パンというものはただパンであるのではなく、そこには、自然の中にあって麦を育てる人、畑を耕す人から始まって、いろんな人たちの連関によって、つまり社会というものがあることによってパンというものが私たちの口に入ってくるのです。それだけの手間暇がかかっているからこそ、パンというのものには価値があるのです。

 

 人間が生きるために、みんなで協力してやっていかなかったら、たった一つのパンだって私たちの口には入らない。そのパンがもし、神の奇跡だといって、ポン! とできてしまったら、そのパンの価値というものを無くしてしまうことになります。どんなに素晴らしいものに見えたとしても、その物事の本当の価値を失わせるものは、悪魔の誘惑であり、あるいは人間の罪なのであります。だから、そのような期待に対しては、決して証明するもの、しるしというものは与えられないのです。

 

 今日の説教題は「時代に負けない良心」と題しました。今の時代、社会は人に何を求めているでしょうか。お前の言っていることが本当なら、それをやってみろ、それを見たら信じてやろう、と挑発をします。しかし、それに乗ってはいけません。もしそんな簡単に神のに御心にかなった働きができるのであれば、それはどこかおかしいのです。一つのパンを作るためにどれほどの手間が必要であるか、そのことを私たちは考える必要があります。

 

 イエス様がなされた奇跡、それを今度は私たちがやろう、というときに、それは私たちが神様の超能力のような奇跡を起こすことではなくて、たった一つのパンを造るために、それを配るために、どれだけの働きをしなければならないか、そのことを真剣に考えて、みんなで考えて実行していく、そのことにおいて、神の恵みが豊かに表されるのであります。

 

 時代の挑発や誘惑に負けない良心というものが、今日の聖書箇所の中に確かに記されています。私たちはそのことを受け止めて、今週一週間を歩んでいきたいと願うものであります。

 

 お祈りします。

 天の神様、私たちが日々生きる中にあって、いろいろ大変なことがあり、ともすれば神様からの奇跡を求めます。けれども、本当に必要なことは何か、ということを、今日の聖書から教えられてました。時代に負けない良心、自分自身が誘惑に負けない良心を持って、イエス様と共に歩めますように、すべてのことを導いてください。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。
 アーメン。

 

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「みんなが祈られますように」

 2022年1月23日(日)礼拝説教

 聖書  ローマの信徒への手紙 12章 1〜8節 (新共同訳)

 

 こういうわけで、兄弟たち、

 神の憐れみによってあなたがたに勧めます。

 

 自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして献げなさい。

 これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

 

 あなたがたはこの世に倣(なら)ってはなりません。

 

 むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、

 何が神の御心であるか、

 何が善いことで、

 神に喜ばれ、

 また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

 

 わたしに与えられた恵みによって、

 あなたがた一人一人に言います。

 

 自分を過大に評価してはなりません。

 むしろ、

 神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。

 

 というのは、

 わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、

 すべての部分が同じ働きをしていないように、

 わたしたちも数は多いが、

 キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、

 各自は互いに部分なのです。

 

 わたしたちは、与えられた恵みによって、

 それぞれ異なった賜物を持っていますから、

 預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、

 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。

 

 また、教える人は教えに、

 勧める人は勧めに精を出しなさい。

 施しをする人は惜しまず施し、

 指導する人は熱心に指導し、

 慈善を行う人は快く行いなさい。



  (以上は、新共同訳聖書を抜粋し、改行など文字配置を、

  説教者の責任で変えています)

 

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 (以下、礼拝説教)

 

 クリスマスや年末年始の時期を過ぎて、礼拝で読む聖書の箇所を、マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、旧約聖書、その3箇所から順番に、毎週の礼拝で読んでいく従来の形に戻します。

 

  本日の聖書箇所は、ローマの信徒への手紙です。これは、使徒パウロがまだ自分が行っていない、ローマの町にある教会の人々に向けて書いた、長い手紙の一部です。それまでパウロが書いてきたことの結論を述べていこうとしている部分であります。

 

 今日の箇所を順番に見ていきます。

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

 

 ここで「兄弟たち」と言われていますが、男性の兄弟という意味ではなく、「皆さん」という意味でここで言われています。性別を問わず、皆さんに勧めます、ということです。そして、勧めてていることは、自分自身を神様に聖なるいけにえとして献げる、ということで、それがあなたがのなすべき礼拝である、ということでありました。

 

 「いけにえ」という言葉は、何となくドキッとする不気味な印象を与える言葉であろうと思います。ちょっと怖い言葉ですね。動物の献げものをする。何かそこで犠牲になる。そういうイメージが強い言葉だと思われます。何とかの生けにえになる、生けにえにされる、というと、何かものすごくいやなことと思うのが、普通の考え方だと思います。

 

 しかし、ここで言われているのはそうしたことではなく、神様に喜んでいただく一番大事なことという意味で言われています。旧約聖書に記された律法、決まり事に従っていけにえを献げるのであれば、それは神様に喜んでいただくために、最も素晴らしいものを神様に献げることで、神様に喜んでいただく、そして、そのことによって自分自身も喜んで神様に感謝できること、それが、あなたがたのなすべき礼拝である、ということが言われているのであります。

 

 ですから、何か物悲しく屠(ほふ)り場に引っ張られて行って、悲しく死んでいく犠牲の動物、というイメージではなくて、一番うれしいものを、一番好きな人に献げる、プレゼントする、そういう前向きなイメージで、この箇所を読んでいただきたいのであります。

 

 この私というものを、神様に御献げします——そのことが、神様が一番喜んでくださることであり、自分にとっても一番うれしいことなのです。なぜなら、自分自身の価値と言いますか、自分自身の存在が一番全うされることだからです。自分を造って下さったのは神様なので、その神様に自分をお返しすること、そして神様に愛され、用いられることが、神様に造られた人間が感謝を献げる礼拝であるのです。

 

 そして、次にこう言われます。

 「あなたがたはこの世に倣(なら)ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

 

 この世に倣(なら)ってはならない、と言われています。ここで言われている「倣(なら)う」という言葉は「まねをする」という意味です。この世のまねをしてはいけない。まねをするのではなくて、神様のほうを見て、神様によって自分を変えていただき、神様の御心がどこにあるのか、そのことを尋ね求めて、それをわきまえるようになりなさい、ということであります。

 

 世の中の基準とか、世の中にある様々な価値観のまねをするのではなくて、まず神様に、私はどう生きたら良いのですか、私はどうすればいいのですか、ということを神様に祈る、ということがまず一番最初にあって生きていく、そうした人間になることをここでパウロは勧めています。

 

 神様に自分自身を献げ、自分自身を、神様に一番大切なものとして神様に献げて、礼拝をする。そのときに、神様の御心を私たちは尋ね求めます。私はこれからどう生きていったらいいのですか、と。そのことを聖書の御言葉を通し、また礼拝を通して、私たちは問い求めます。そのことのほうが、この世のまねをすることよりも大切だということです。

 

 そして、その次にこうあります。 

 「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」

 

 ここからパウロは、具体的な勧め、つまり、このように生きてほしい、という具体的なことをここで願っています。自分を課題に評価してはいけません。うぬぼれてはなりません。自分で自分を評価するときには、慎み深く評価するべきです。

 

 「信仰の度合いに応じて」という言葉の意味は少し計りかねますが、この言葉を言うことで、聞く1人ひとりが謙虚になると、パウロは思ったのではないでしょうか。「信仰がどれぐらいありますか?」と問われたら人は「そんなにありません」と多くの人は答えるでしょう。その時にですね、自分がちょっとうぬぼれていたのが、自分は大したことがないよな、と自分を振り返る、そんな意味でパウロは言ったのではないか、と私は考えてみました。

 

 次にこうあります。
 「というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」

 

 ここでパウロは、教会、あるいはキリスト者の群れ、グループというものについて、キリストの体である教会というものは、人間の身体が多くの部分から成り立っていても、手や足や、目や耳や口や、そうした部分が同じ働きをしていないように、「私たちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」と言います。教会という群れは、たくさんの人がいるが、その一人ひとりが互いに部分だということであります。

 

 さらに、こういいます。

 「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。」

 

 ここで言われている「預言」とは、将来のことを言い当てる「予言」という意味ではなくて、神様から預かった言葉を語るという意味です。それが具体的にどういう言葉かはわかりませんが、聖書の言葉をきちんと解釈するということかもしれませんし、また別の意味があったかもしれません。また、奉仕の賜物のことも言われています。奉仕をして働く力のことです。

 

 そのあとでこう言われます。

「また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」

 

 教える人、勧める人、というように、「何々をする人」という形で、ここで様々なことが言われています。これは、それぞれの人の個性、能力、経験、そうしたものによる、役割、立場がいろいろある、それぞれに賜物を精一杯発揮していきましょう、ということです。

 

 ここでパウロがそのように言っているのは、一人ひとりの人は決して完全ではないということです。一人の人がこの全てのことを等しく行うことはできません。人によってそれはみんな違っいるのです。

 

 だから、それをお互いに認め合って、そして決して誰もがうぬぼれて、つまり自分を過大に評価するのではなくて、私はこのことはしますけど、でも別のあのことは私はできません、あのことは他の方にお願いします、そうした謙虚な姿勢をみんながとることによって、教会あるいはキリスト者の群れ、集まりというのは、それぞれに役割分担して、そして全体が健やかに成長していく、機能していく、ということが、ここでパウロから言われているのでありのす。

 

 それは、あたかも人間の体というものが、手や足、目や口、鼻、頭、そういうふうに体の部分が違っていても、いろんな体の部分があって、それが同じ働きをしていないからこそ、一人の人間の身体というものが、機能的に動いていく、そうしたことをたとえとして、教会にあっても、一人ひとりの人がその部分であることが言われています。

 

 ここでパウロが、人間の体というものを一つのたとえにして言っていることには、大きな意味があります。それは、自分の体の中で、自分の気に入らない部分があったとしても、そこでその体の部分を排除することはできないということであります。違っている人間同士が集まって、意見が合わないこともあったでしょう。対立することもあったでしょう。パウロはそのことを知っていました。

 

 けれどもそのときに、どうしたらそれが解決できるのか、というときに、それはパウロにとっては、自分を過大に評価しない、うぬぼれない、このことがとても大切なことである、ということをパウロはよく知っていたのであります。

 

 一人ひとりがうぬぼれないこと。自分で出来ることがあっても、できないことはできない。それをお互いにゆだね合って、支え合っていく。そうした生き方というものが、ここでパウロから勧められています。

 

 以上が、今日の聖書箇所の全体の流れであります。皆様は、この箇所を読んで何を思われたでありましょうか? この箇所は、ローマの信徒への手紙の最後にさしかかっている所で、結論に入っていく所であります。そういう意味で、パウロの言葉はローマの教会の人たちに対して、非常に具体的なことをここで言っているのですね。

 

 抽象的なこと、神学的なことの説明ではなくて、実際に、こんな風にあなたたちは教会でやりなさい、ふだんの生活でもしなさい、ということを、本当に日常のこととして言っています。

 

 ですので、今日のこの箇所に書いてあることは、今日の現代の日本社会の中で、この聖書を読んでいる私たちにとっても、まあ言っていることは大体わかる、という気持ちになる所ではないか、と思います。

 

 みんな人は違っている。だからといって、その中で能力の違いによってうぬぼれることはやめて、謙虚になりましょう、助け合って行きましょう、それぞれの個性を発揮していきましょう、といったことであります。そうして、ここを読むと「なるほど」と思います。

 

 ここに書いてあることには、聖書的な表現、パウロ独特の表現というものがされていますけれども、一方で、「みんなそれぞれ違っているのだから、それぞれ謙虚になって助け合いましょう」という、その内容自体は、世の中のどこに行ったって、こういう感じのことは言われているのではないかなあ、と思うことでもあります。

 

 世の中のどこに行ったって、こういうことを言いますよ。どこの学校に行ったって、どこの宗教に行ったって、どこの役所に行ったって、どこの会社に行ったって、みんなこれと同じことを言うのではないでしようか。うぬぼれない。みんなで力を合わそう。それぞれの個性、持ち味を発揮して、やってください、と。そのときに、その集団の中でうまくいくのです。

 それが、今の世の中の真理、だと思うのですね。人間とはどういうものか、と考えたときに、人間は集団の中で争っていたら立ちゆかない、お互いに謙虚になって、それぞれの賜物、個性を大事にして、お互いに活かし合う。それは別に教会じゃなくたって、どこでも言われることではないでしょうか。特に、子どもたちに対して、こういうふうなことを言ってきたのではないでしょうか。

 

 そう考えていくと、今日の聖書箇所は、良いことも言っているけれども、とても平凡なことが言われている、という気もします。そして、聖書の主張がそのようにあまりに平凡であったならば、それは私たちの心には残らないと思います。

 

 けれどもパウロはそんなふうに、世間のどこでも言われるようなことを、ここでもう一度繰り返して言っているのでしょうか? それは違うのです。

 

 今日の聖書箇所をもう一度最初から読んでみます。

 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

 

 まずこのこと、礼拝のことが言われているのです。このことが言われている、ということが、世の中一般で、お互い助け合いなさい、みんな個性が違うのだから、みんな違っていいんだよ、という、それ自体は大切なことでありますけれども、世の中一般で言われることとの違いは、このパウロが最初の言葉にあります。まず自分自身を神様に献げる礼拝をする、そのことがまず一番大事なのです。

 

 そして次にこう言います。

 「あなたがたはこの世に倣(なら)ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

 

 パウロはここで、「あなたがたはこの世に倣(なら)ってはなりません」と、はっきり言っています。すると、どうでしょうか。先ほど私は、今日の聖書箇所の後半を見て、こうした、お互いの個性を認め合ってお互いに助け合いましょう、というようなことは、世のどこでも言っています、と申し上げました。けれども、その、世のどこでも言われているようなことに倣(なら)っていたらいい、ということではないことが、このパウロの言葉によって、はっきりとわかります。

 

 ということは、私たちは教会においてお互いに助け合う、あるいは教会だけではなくて、どこでもそうなのですが、お互いの個性を大切にして、うぬぼれずにお互いに助け合って、というときに、この世で一般的に言われる倫理道徳、あるいは社会のマナー、そういうものをまねするということではない、ということです。

 

 そうではなくて、自分自身をまず神様に献げる、それは神様と一対一の関係を持つ、ということであり、まず神様の前で謙虚になり、神様の前で自分自身のすべてを御献げする、そのことを大前提として、お互いに助け合って行く、ということであります。

 

 するとそれは、自分自身が何かの知恵と力を持っていて、自分の能力によって何かをコントロールして、世の中にあって生きていく、ということとは根本的に違うのです。神様を信じ、神様に委ねる、神様の前で人間は誰しも小さく弱い存在です。そして神様こそが公平に愛して、一人ひとりに応じて救いを与えてくださる。そうしたことが、大事だということです。

 

 その神様の恵みというものに支えられてこそ、お互いがうぬぼれたり、賜物、個性の違いを出し合っていくことができる。そこに、この世のまねをするのではないこととしての、助け合いが言われているのです。

 

 逆に言えば、この世で言われる、お互いの助け合い、ということの中に含まれている、嘘、偽り、あるいは偽善というものを、鋭く見抜くことが、ここでパウロから言われているのです。

 

 お互いに助け合いましょう。それぞれの違いを認め合いましょう。それは、どこでもそう言われていますよ。けれども、世のどこでも言われていることというのは、その中に、どこか建前の匂いがいたします。これが良いことなのだと言いますけれども、実際にそのことを本当にやっているでしょうか。

 

 その中にあるのは、自分自身がどうやったら組織をコントロールできるか、どんなふうに自分がふるまったら自分の周りがうまくいくのか、というように考えて、自分の知恵や力や経験といったものを振り回して、そして組織をコントロールするのです。そうしたやり方は、一見は助け合っているように見えても、実は、陰で知恵と力を持つ人によって支配されているのです。世の中というのは実はそんなふうにできているのではないか、とパウロはここでそれをすでに見抜いていたのではないかと思えるのです。

 

 神様の前では、人は誰でも一人ひとりが小さな存在であります。そして、多くの欠点を持った人間であります。そこから、今日の聖書箇所の終わり近くを読まれて、皆さんはどう思われたでしょうか。「何々の賜物を受けた人は何々をしなさい」という感じのことが言われています。

 「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」

 

 こんなふうに書いてあります。でも、そんな賜物は私にないよ、という人は多いのではないでしょうか。いや、おそらく全員そうではないですか。私はそんな特別な賜物はありませんよ。特別な賜物があれば、それは発揮したいものですが、私には実際そんな力はないのですよ。と言いたくなります。今日の聖書箇所に書いてあることは、何かエリートのような人たちが集まって、自分の能力を発揮している教会のことのようにも見えます。

 

 しかし、そういうことではありません。そうでなくて、どの人も教会にあって一つの体として、他人が気に入らなければ排除するということは無しに、神様によって結びつけられた体として動くことができる、そうした、人間の出会い、そして互いに一緒に歩んでいく人間の群れというものが、ここで想定をされています。

 

 何か特別な力があるから奉仕をするわけではありません。人が求めていることに応えていく、必要とされることに応えていく、そういう働き、それはどの人にとってもできることなのです。教会に来る人はどの人も、教会にあって待たれている存在です。「ああ、あの人が来てくれて良かった」と思われる存在です。そこから何をするか、それは神様が用意して下さっています。私たちがそのことに気づくには、祈る必要があります。

 

 自分の趣味とか自分の経験によって、「私は昔これをやっていたことがあるから、これをやりましょう」ということは、もちろん大事なのですが、それだけではなくて、人が何を必要としているか、人間の集まりの中で、たとえば教会の中で、地域の中で、いま、何が必要とされているかを考えたときに、神様から与えられ、示されることがあるのです。それがとても大切です。それは一人ひとりにとって大切ですから、私たちはうぬぼれてはなりません。

 

 社会のマナーではなく、自分自身を神様に献げる礼拝、それをすることによって、自分の心が様々な制約から解放されて、自分の持っている罪ということから解放されます。その時にちゃんと世の中のこと見つめて、自分が何をすべきか、ということを考えることできます。

 

 世の中というものに縛られている限り、その中でいくら、助け合いましょう、お互いを大切にしましょう、と言っても、そこに働いているのは「世の知恵」というとです。でも、その知恵のまねをしてはいけません。そうではなくて、まず神様に祈って、本当にあなたがあなたらしい人、神様が愛されている一人の人に、ます戻って、そこから自分が何をできるかを考えて下さい、そうパウロは勧めているのです。

 

 今日の聖書箇所を読みながら、私が少し思い起こしていたことがあります。それは「学校」ということです。小学校、中学校、高校、大学、そうした経験をしてきました。あるいは幼稚園や保育園も含めて、学び舎、みんなで暮らす学校、その中で教えられてきたのは集団生活、共同生活のマナー、ルールというものでありました。そうしたものが10代、20代、そうした時代にあって大きな意味を果たしてきたことを思います。

 

 教会という所の役割は、そうした学校とは違っています。教会で教えることは、いわゆる学校教育とは違っていて、主イエス・キリストの十字架と復活、神様の恵み、救い、そういうことであります。けれども、教会がというものが存在している前提には、教会さえあれば世の中がうまくいくということではなくて、人間が全体としてどのように生きていったらいいか、という大きな意味での人間理解であり、人間をどのように育むか、という大きなテーマがそこにあるのです。

 

 かつての時代に、キリスト教というものが日本社会に入ってきたときに、同志社新島襄もそうですが、多くは学校ということとセットで、学校というものと協力して教会の歩みを始めました。その学校には、一般の学校もあれば、神学校というのもあるのですが、学校というのは、人に生活ということを教えます。共同生活、集団生活の知恵を教えていきます。

 

 そのことと教会の働きというのは、実は密接な関係があったと思うのです。教会というものそれ自体は、主イエス・キリストの福音を宣べ伝える所であります。けれども、それだけをしていたら教会は十分かというと、そうではなくて、教会というものの前提として、人間をどう理解し、人間をどう育むのか、ということもまた教会にとっては必要なことだと私は思うのですね。

 

 本日の聖書箇所を読むときに、ここで言われていることは、世の中一般でも言われるようなことですが、決定的な違いがあります。それは、神様の前で、あなたが一人になって祈る、神様の御心を尋ね求める、そこから本当の知恵と力が与えられる、ということです。

 

 そのパウロの教えを、皆様はどのように読まれたでありましょうか。一人ひとりの生活の中で活かしていきたいと願うものであります。

 

 そして、教会が、みんなのことが祈られている所でありますように。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、クリスマスに、神の独り子、主イエス・キリストが私たちの世界に与えられ、その喜びを感謝するクリスマス礼拝から1ヶ月が経ちました。新しい年、2022年が始まっています。これからの1年間、教会の皆様と共に、また、それぞれの家族や友人、地域の方、仕事の関係の方、教会の方々など、いろんな人たちと共に生きていく私たち一人ひとりに、この世の知恵とは違う神様の知恵と力を、いつも与えてください。イエス様がいつも一人ひとりと共にいて下さい。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通してお献げいたします。

 アーメン。

 

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