京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2022年1月の説教

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2022年1月の京北教会礼拝説教

 1月2日(日)、1月9日(日)

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「初めに光、初めに言(ことば)」

 2022年1月2日(日)説教

 聖書  創世記1章1〜5節、ヨハネによる福音書 1章 1〜5節

                                 (新共同訳)

  ・ 創世記1章1〜5節

 

  初めに、神は天地を創造された。

 

  地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、

  神の霊が水の面(おもて)を動いていた。

 

  神は言われた。

  「光あれ。」

  こうして、光があった。

 

  神は光を見て、良しとされた。

  神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。

 

  夕べがあり、朝があった。第一の日である。

 

 

  ・ ヨハネによる福音書 1章 1〜5節

 

  初めに言があった。

  言は神と共にあった。

  言は神であった。

 

  この言は、初めに神と共にあった。

  万物は言によって成った。

  成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

 

  言の内に命があった。

  命は人間を照らす光であった。

  光は暗闇の中で輝いている。

 

  暗闇は光を理解しなかった。

 

 

  (以上は、新共同訳聖書を元に、改行など文字配置を、

   説教者の責任で変えています)



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 (以下、礼拝説教)

 

 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 新しい年、2022年を迎えました。よく晴れていますけれども、とても寒い気温の日であります。昨年の終わりより、大型の寒波の襲来ということが、新聞などでマスコミで報道されておりましたが、各地で程度の差はあれ、かなりの雪が降る、そのようなことが起こっています。

 

 聖書の中に、雪というものが出てくる箇所があることを、皆様はご存じでしょうか。聖書の中に雪という言葉、そんなものはないのではないか、と思っている方もいらっしゃると思います。でも、聖書の中に雪という言葉は出てきます。イザヤ書の55章10節にあります。ちょっと読ませていただきます。

 

 「雨も雪も、ひとたび天から降れば、空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように私の口から出るわたしの言葉もむなしくは私のもとに戻らない。それはわたしの望むことをなしとげ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」こうした言葉が旧約聖書イザヤ書55章にあります。

 

 雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは、誰もが知っている自然現象であり、雨も雪も、それは天から地上に降りてくる存在であり、天に戻ることはありません。それと同じく神様の御言葉というものも、天から私たちのところにやってきて、そして、むなしく戻っていくことはないのだと。必ず役割を果たしていくのだと。そのように示されています。

 

 雪という言葉がここで、そのような意味で神の御言葉と同じ意味で用いられているのであります。雨も雪も、地上に降ると、それは水分となって、この土を潤し、役割を果たしています。

 

 もちろんそれは、海や川や湖などによって、そこに集まり、そしてまた蒸発して天に戻り、ということが自然のサイクルとしてあるということを、科学の知識を持っている私たちは知っているのでありますけれども、そうした知識のないはずの古代の人たちにとって、水というものは神様からの恵みでありました。雨と雪が降ってきて、それが天に戻ることがないのと同じように、神様の恵みは私たちの所に来て、必ず役割を果たすと言われているのであります。

 

 では、そのような神様の恵みは、どのように、私たちの所に来てくれるのでありましょうか。

 

 今日、2022年の初めの礼拝にあたって選ばせていただきました聖書の箇所は、創世記とヨハネによる福音書それぞれの冒頭の言葉であります。旧約聖書の一番最初の言葉、そして新約聖書の最初にあたる四つの福音書の中の、ヨハネによる福音書の一番最初の言葉を並べて、皆様と共に読んでいます。

 

 この創世記とヨハネによる福音書のそれぞれの冒頭の言葉を並べて見ると、共通点があることに気がつきます。それ以降にある言葉は違っていますけれども、この二つの箇所を並べて見るときに、この創世記の言葉があって、それを意識しながらヨハネによる福音書の一番最初のこの箇所を書いたということが伝わってきます。

 

 創世記の冒頭に書かれている内容を、もう一度イエス・キリストにあって確認して、もう一度語り直している、それがヨハネによる福音書の冒頭の言葉であります。

 

 順々に見ていきます。

 創世記の最初に、「初めに、神は天地を創造された。」とあります。

 

 「地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面(おもて)を動いていた。」

 

 ここにある「神の霊」という言葉の「霊」という言葉は、元々のヘブライ語では「風」とか「息」という意味を持っています。霊とも風とも息とも翻訳することができます。そうした、神様の何か、目に見えない、動いている力というものが、このとき、混沌とした地、真っ暗闇の中にあって、それが動いていました。

 そして、こうあります。

 「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」

 

 真っ暗闇の中にドロドロとした混沌というものがあった。そこに神様の言葉が響き、「光あれ」という言葉が響き、そしてその言葉通りに光というものが現れました。

 

 次にこうあります。

「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」

 

 聖書の創世記では、その冒頭にあたって、その天地創造の物語が記されています。天地創造は一週間で行われました。その第1の日がこのようであったということを、伝えています。

 

 ここで神様が造られたのは「光」ということでありました。それは、太陽を造ったということではありません。この天地創造の物語の中で、この後で、太陽と月を神様が創造される場面が出てきます。ということは、ここで「光あれ」と言われて光があったのは、太陽を造ったということではないのです。そうではなくて、真っ暗闇の、そしてただドロドロと動いている形のない、その世界に光というものが現れて、この世界というものが初めて目に映るものとなった、姿を現したということであります。

 

 次にヨハネによる福音書を読みます。

 ヨハネによる福音書 1章 1〜5節を見ていきます。

 

  「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」

 

 このように始まっています。「初めに」という言葉が創世記と共通しています。創世記では、神様は天地を創造されました。しかしヨハネによる福音書のほうでは、「初めに言があった」とあります。神様が何かを創造される、その前に神様と共にあった、言は神であった、と言っています。

 

 そして次にこうあります。

 「この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」

 

 ここで言われている「言(ことば)」とは何でありましょうか。この箇所の意味を知るためには、創世記の言葉と対照してみなければわかりません。

 創世記では神様は「光あれ」と言われます。「こうして光があった。」この神様が発せられた言葉、これが「言(ことば)」であります。「光あれ」、「こうして光があった。」神様の言というものは、その言がすなわち光となる、光を造り出すものでありました。その言というものが神様と共にあって、そして、その言が神であった、と言っているのであります。

 

 創世記の天地創造物語で、神様は最初に光を造られました。その次には大空を造られます。そして海を造り、陸地を造り、そうして世界が造られていく、そうた物語になっています。すべて神様の言によって造られたのです。「成ったもので、言によらずに成ったものは一つもなかった」というヨハネによる福音書の言葉は、創世記の物語をもう一度確認しているのであります。

 

 そして、次にこうあります。

 「言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。」

 

 これは、どういう意味でありましょうか。「言の内に命があった。」これは、創世記に書かれていることを踏まえています。神様の最初の言葉は、「光あれ」という言葉でありました。「光あれ」……それは単に、光っている太陽ということではなくて、ものごとを明らかにし、ものごとに意味を与えるものであり、そして、そのような光の働きをここで「命」と呼んでいるのであります。

 

 今まで命がなかった世界。どろどろした混沌だけがあり、暗闇で何かが動いている、それだけの世界だったところ、そこに光が照らすときに、そこに命というものが生まれるのです。「命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。」とあるのは、創世記の物語を確認しながら、もう一度新しい思いでそのことが言われているのであります。

 

 ここで、このヨハネによる福音書の冒頭で言われている「光」、そして「言(ことば)」という言葉が表していることは、主イエス・キリストということであります。

 

 イエス・キリストとはどういう方であるか、ということを、人々に伝えるために、このヨハネによる福音書は書かれました。その冒頭にあたって意識したのは、創世記の最初の言葉でありました。神様がこの世界を造られた、「光あれ」と言われて世界を造られた、それと同じことが主イエス・キリストの中にあるのだ、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」と言われるとき、世界の最初に輝いた光と同じ光が、主イエス・キリストの中にあって、それが私たちを照らしている、そうした信仰がここに記されています。

 

 そして、こう締めくくられています。「暗闇は光を理解しなかった。」

 

 これは、主イエス・キリストを理解しなかった、この世の中、人間の世界ということを意味しています。人間の造り出した社会は、真っ暗闇であり、どろどろしたものが何かうごめいている、そのような混沌としたものでありました。そこに、神様の「光あれ」という言によって光が照らされた、そのことによって初めて、その混沌とした世界というものが明るみに出されて、そしてその世界に神様は、秩序を与えていかれました。それが旧約聖書の創世記の天地創造物語であります。

 

 主イエス・キリストが伝えてくれた福音、良き知らせ、イエス・キリストの十字架の死がすべての人の罪のゆるしのためであり、イエス・キリストの復活はすべての人にとっての希望であり、そして天に挙げられたイエス・キリストを信じる者に神様からの聖い霊、聖霊が与えられる、そのことによって私たちは、一人ひとりの人間は、神様によって救われ、新しい命を与えられてこの世を生きるものになります。

 

 罪のゆるし、そして人の救い。そして救われた者は神の国に生きるようになります。神の国とは、死んだあとに行く天国のことだけを示しているのではありません。いま、私たちが生きている現実の世界そのものの中に神の御言葉を通して、神の国が現れるのです。神の国とは神様の恵みが満ちあふれている時間と空間のことであります。それがイエス・キリストを通して私たちが生きる世界に現れている、それがイエス・キリストの福音でありました。

 

 しかし、その福音を人間の社会は受け入れようとせず、イエス・キリストを拒み、十字架に付けてその命を奪いました。そこに人間の罪ということが現れています。神様から与えられる救いを受け入れることができず、自らを神とすることによって、本当の神の救いを退けていく、それが人間の罪であります。

 

 本日の聖書箇所の最後に、「暗闇は光を理解しなかった。」と書かれているのは、このヨハネによる福音書が記された当時の、社会の状況を現していると考えられます。しかし、その中にあって、まことの光である主イエス・キリストを宣べ伝えるということを、このヨハネによる福音書を記した人たちはしていたのであります。

 

 イエス・キリストが伝えて下さった、神の国の福音、それは、この世界全体を天の神様が造って下さったときと同じほどの意味があるのだ、そのような確信を持って、ヨハネによる福音書のこの冒頭の言葉は記されています。

 

 創世記の言葉を意識して、それを元にしながら、天地創造のときに「光あれ」と言われて生じた「光」、その光を造り出した「言(ことば)」、その言は、この世界が造られる前から神様と共にあったのだ、神様から生まれた言というものが、神様と同じものであった、その神の言が人となったのが、主イエス・キリストである、そのような信仰がヨハネによる福音書には記されてあります。

 

 いま、私が申し上げていることは、キリスト教の教えであります。旧新約聖書を通して教えられている、神様の恵み、主イエス・キリストの恵み、それはこういうことである、ということを私は申し上げました。皆様は、どのように受け取りになられるでありましょうか。

 

 私がこうしてキリスト教の話をしながら、一方で思うことは、これだけ素晴らしいことが聖書に記されているということと同時に、こうした素晴らしいことを、この私という一人の人間、この2022年を歩み始めた、この時代にあって、現代の日本社会で生きている、この私という人間は、このイエス・キリストのメッセージをどんなふうに受け取ったらよいのだろうか、ということであります。

 

 そのことは、私だけではないはずです。教会に集われる皆さん、お一人おひとり、聖書のメッセージをどのように聞き取っていかれますか。そして、どのように聞いて、どのように御自分の人生というものに、それを糧(かて)として、食べ物として、感謝していただいて、味わって、生きていくのでありましょうか。

 

 それはお一人おひとりそれぞれに生き方が違うように、神様との関係も、それぞれのあり方なのだと思います。一つではありません。人間はみんな違っています。バラバラです。正反対のときだってあります。それでも神様から与えられた恵みまをいただいて、それぞれが歩むときに、必ず、そこに御心というものが現れてきます。

 

 今日の聖書箇所を皆様と共に読んだ中で、私が特に示されたことは、聖書の言葉というものは、なんだかスケールが大きすぎて、困っちゃうな、ということでありました。あまりにもスケールが大きすぎて、私の心は何だかそのままではついていけないような、気後れするようなものを私は感じるのです。

 

 しかし、その思いの中で、聖書の言葉を心にいだいて思い巡らせていると、だんだんと心が落ち着いてきます。それは、私が神様を信じるようになったのは、天地創造の物語とか、あるいは、イエス・キリストの十字架の死による罪のゆるしとか、復活とか、そういうことを信じたから、神様を信じたわけではない、という私自身の経験があるからです。

 

 私は、教会を通して神様ということを知りました。そして聖書ということを通して、いろいろに考えることを与えられました。そして、今に至るまで生きてきました。その中で、神様から私に与えられてきたことというのは、ものすごくスケールが大きなことという、その聖書の物語を背景にしながら、実際に私の心の中に、雪が降り積もるようにして、たくさんたくさん、積まれていった恵みというもの、それは、人との出会いということでありました。

 

 無数の人との出会いがありました。家族であったり学校であったり、友人であったり、いろんな奉仕活動であったり、地域であったり、もう忘れてしまったたくさんの方々、いろんな所でお会いしてきた方々、そしてまた、文章、本とかそうしたものでしか出会っていない、たとえば神学者という方々の多くはそうですね、あるいは、社会的な活動家であったり、あるいはニュースでしか見ることができない方、本を読むことでしか出会えない、そうした言葉でしか出会えない、そうした無数の人たちとの出会いというものがあって、その中で、「うん、私も生きていこう」と思える「光」がそこにあった、ということであります。

 

 何かの理屈に納得したから信仰が始まったのではなくて、「私も生きていこう」「私も生きていきたい」、なぜかわからないけれども、そう思わせてくださる方々、人との出会いがあったのです。その出会いが、私の心にローソクの火をともすように、小さな光となり、手をかざせばそこにぬくもりを感じる温かいものがそこにあったのであります。その光や、小さな温かさというものに、忠実に生きていきたい、というものが私の信仰、ということでありました。

 

 聖書に記された、本当にスケールの大きい、この天地創造の物語、世界全体を愛して救ってくださる神様の御心の、ものすごく大きな世界というものに、私はいつも圧倒されています。けれども、圧倒されるだけで終わらないのは、その神様の恵みが、この私の所にも、人との出会いという形を通じて来てくださったからであります。

 

 ヨハネによる福音書が、この創世記の言葉を土台にしながら記していることも、大きく言えば、そういうことであろうと私は受け止めています。

 

 「初めに言があった。」その「言(ことば)」がイエス・キリストなのです。「光あれ」と言われた、その神の「言」がイエス・キリストなのです。そのイエス・キリストという「言」の中に、光があって、そこに命がある。それは、「命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」とあります。

 

 それは世界全体を愛してくださる神様の御心が、一人ひとりの心の中に来た、そこに命があり、人間を照らす光がある、その人間の中に光があると信じたら、それでいいのだ、と聖書は私たちに語りかけています。

 

 何か大がかりな世界観とか、圧倒されるようなものすごいことを信じろ、と言われているのではなく、あなたの心の中にやってきた、小さな光を信じる、信じなさい、信じることによって、あなたが生きる新しい道が開かれていくのだ、そして、その光の背景には、この世界全体を救ってくださる神様の大きな御心があるのだ、その神様の御言葉は、雪のように降ってきて、そして天に戻ることは決してない、必ずその役割を果たしていく、そのようにイザヤ書55章にある、その通りなのであります。

 

 お祈りします。

 天の神様、2022年をみんなで始めていきます。今年がどんな年になるか、誰もわかりません。いろんな心配事や、世界に関する不安、自分の健康に関する不安、人間関係、家族の関係などなど、いくらでも数え上げれば心配事はありますが、そのすべてを神様におゆだねをいたします。

 そして、今日、聖書から与えられた言によって、また新しく灯し火を自分の中に灯し、そして大切な隣人となる人の心にも、それが灯ることを心より祈って、この2022年を始めていくことができますようにお導きください。

 世界にまことの平和を与えて下さい。戦争が終わりますように。様々な国での国内の少数者への抑圧、国と国、地域と地域、宗教と宗教の争い、お金を巡る争い、資源を巡る争い、能力を巡る争い、そうしたことを一つひとつ、神様が共に悲しんでください。神様の御心によって、その悲しみの涙をぬぐってくださるように導いてください。

 この祈りを、2022年にあたり、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

 

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「これまでと違う一歩」2022年1月9日(日)説教

  聖 書   ヨハネによる福音書 1章 14〜18節 (新共同訳)

                     

 言は肉となって、

 わたしたちの間に宿られた。

 

 わたしたちはその栄光を見た。

 

 それは父の独り子としての栄光であって、

 恵みと真理とに満ちていた。

 

 ヨハネは、

 この方について証しをし、

 声を張り上げて言った。

 

 「『わたしの後から来られる方は、

   わたしより優れている。

   わたしよりも先におられたからである』

 

  とわたしが言ったのは、

  この方のことである。」

 

 わたしたちは皆、

 この方の満ちあふれる豊かさの中から、

 恵みの上に、

 更に恵みを受けた。

 

 律法はモーセを通して与えられたが、

 恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 

 

 いまだかつて、

 神を見た者はいない。

 

 父のふところにいる独り子である神、

 この方が神を示されたのである。

 

 

 (以上は新共同訳聖書をもとに、改行など文字配置を説教者の責任で変えています)


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 (以下、礼拝説教)

 

 2022年を迎えて2回目の聖日礼拝となりました。新年、新しい年を迎えたときにふさわしい聖書の箇所として、先週と本日は、ヨハネによる福音書の冒頭の部分から選ばせていただいています。

 

 今日の聖書箇所の一番最初には、このようにあります。

「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」

 

 「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」……このような言葉を、教会以外のどこかで聞くことがあるでしょうか。ないと思います。そもそも、「言は肉となって」という言葉からして普通に考えると意味がわかりません。これは、ヨハネによる福音書だけに出てくる言葉であり、信仰の言葉、そして神学的な言葉であります。

 

 ここで言われている「言葉は肉となって」といのは、神様の言葉、あるいは神様の御心というものが、一人の人間となって私たちの間に宿られた、ということであります。「肉」という言葉が、生きた人間ということを示しています。このような表現の仕方は他では見られないと思います。

 

 神学、キリスト教の神学の言葉では「受肉(じゅにく)」とも表現されます。受けるという字と肉という字で「受肉」。これは、神様の御心が一人の人間のところに現れた、人間の形で私たちのところに神の独り子が来てくださった、そのことを示すのが「受肉」という言葉であります。

 

 神様の御心が人の世に受肉した。神の御心がそのように人間の世に与えられた、この世はそれを受けた、ということを意味しています。それは、何か科学的な意味での事実関係を示す言葉ではなくて、イエス・キリストとは、どういう方であるかということを示す、信仰的な表現、神学の表現ということであります。

 

 その「受肉」という神学的な言葉の元々の意味というのは、このヨハネによる福音書の本日の箇所にある言葉から来ています。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」

 

 そして、こう続きます。

 「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

 

 ここで「わたしたち」と書かれてあるのは、このヨハネによる福音書を生み出した教会の人たちのことであります。イエス・キリストが主、自分たちにとっての救いの主、救いの中心にいてくださる方であると信じた人たち。

 

 そして、その人たちだけではなく、世界のすべての人にとって、イエス・キリストが救い主(ぬし)として来られたとして、その栄光を見て信じた人たちであります。

 

 その栄光とは、どのようなことだったのでしょうか。それを示すのが、このヨハネによる福音書の全体なのです。本日の箇所は全体の中で序文の役割を果たしています。この序文で言われているようなことが、どのようなことであったのかを示す内容が、このあとずっと続いていくのです。

 

 本日はこの序文の所だけを読んでいます。さらに、序文を読んでいきます。

 「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。『「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

 

 ここで言われているヨハネという人は、聖書の中では「洗礼者ヨハネ」と呼ばれている人です。ヨハネという名前自体は当時とても平凡な名前でした。それは、このヨハネによる福音書を書いたヨハネとは違うヨハネです。

 

 この洗礼者ヨハネは、イエス様が公の活動を始める前に現れて、ヨルダン川で人々に洗礼を授けていました。洗礼とは川の水につかって身を清める、そうしたことで自分の罪を悔いあらためるということですが、そうした悔い改めということを人々に勧めて実行していたのが、この洗礼者ヨハネです。

 

 この洗礼者ヨハネが言いました。「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」とヨハネが言った、その人が、イエス・キリストということであります。

 

 そしてそのあと、こう続きます。
 「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」

 

 これは、最高の恵みを受けた、という表現です。もともと恵みが満ちあふれている、その豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。これは、最高の、最上の恵みを受けた、ということであります。

 

 その理由が、そのあとに書かれています。

 「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」

 

 ここで「律法」と言われているのは、旧約聖書に記されている様々な掟(おきて)、決まり事のことであります。それを守ることによって神様に救われると、人々は信じていました。

 

 様々な礼拝の仕方や、生活の様々な仕方が、この律法で決められています。それは旧約聖書の物語の中では、出エジプト記にあるように、民衆のリーダーであったモーセという人を通して神様から与えられたものであります。

 

 しかし、その律法を守るということでは、人々は本当には救われませんでした。律法は、何が正しくて何が間違っているか、という区別をつけることはできますが、人間を救うことはできなかったのです。

 

 決まり事というのは、善悪の判断をすることはできますが、人間を救うことはできませんでした。それは、人間の罪が深かったからであります。

 

 神様から与えられた大切な律法も、人間は自らの罪によって、守ることができませんでした。そのようにして、救われなかった人間、そして神様から遠く離れて、自らを神として自らを主人として、神様を忘れて生きることによって、さらに大きな悲劇を招いていた人間たち。

 

 その人たちに対して、恵みと真理がイエス・キリストを通して与えられたということが、ここで書かれています。旧約聖書に記された、神様による決まり事では救われない、罪深い人間に対して、イエス・キリストが来られ、そのイエス・キリストの十字架の死によって、人間の罪があがなわれ、主イエス・キリストの復活によって新しい命が与えられた、そのような信仰がここで記されています。

 

 そして、そのあとこう言われます。

 「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独(ひと)り子である神、この方が神を示されたのである。」

 

 このように今日の箇所は、ヨハネによる福音書の序文として、このように締めくくられています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独(ひと)り子である神、この方が神を示されたのである。」これは、主イエス・キリストが神の子ども、神の御子であって、このイエス様が神を示されたということです。

 

 「いまだかつて神を見た者はいない。」旧約聖書にもそのような言葉があるのですけれども、人間は神を見ることはできない、という意味のことが書かれています。人間は神を見ることができない、しかし、イエス・キリストが神様を現して下さった、そのような理解がここで書かれています。今日の聖書箇所がここで終わっています。

 

 ヨハネによる福音書を書き始めるにあたって、自分たちが伝えたいこととは一体何であるか、ということが凝縮して書かれた序文です。この箇所を読んで、皆様は何を思われるでありましょうか。

 

 ここに書かれている事柄は、かなり難しいことに思えます。もう、言葉づかいからして難しいです。一番最初の「言は肉となって」という、そこからもう何かこれは一般的な言葉遣いではない、聖書的な独特な表現なんだなあ、と思い、もうここでちょっとその意味がわからなくなるかもしれません。神様の御心、あるいは神様の意思というものが、一人の人間となった、それは一体どういうことなのだろうと私たちは戸惑います。

 

 これは、もちろん科学的な意味でのことではありません。そしてまた、歴史的にこれはこうだと証明できる、そういう歴史の中でのつながりがあることでもありません。これは、神様の側でそうなされたのだと、そう受け止めるしかない、これは信仰において受けるしかないことなのです。

 

 わたしたちが、その理屈に切り込んでいって、「ああ、これはこういうことなのか」と自ら真理をつかみ取って理解する、ということではなく、神様から与えられる理解の仕方を、私たちが受ける、受け止める、そういうことしかできないことなのですね。

 

 そのように考えることは、今は何でも科学によって物事を把握しようとする時代にあっては、いま私が申し上げたような、信仰的な考え方というのは、ちょっとやりにくいといいますか、居場所に困るような考え方かもしれません。何でも科学で解決できる、何でも科学で道を切り開くことができる、そのように思っていると、聖書的な事柄というのは、私たちの心にしっかりと受け止めることができません。

 

 聖書に書かれていることは、科学的なことではなく、また歴史的なことでもなく、歴史を越え、科学を越えて、物事の根本的な理解はこういうものである、という神様から私たち一人ひとりに直接伝えていただくことであり、それが信仰ということであります。

 

 神様の御心が一人の人、イエス・キリストとなって、私たちの世界に来てくださった、ということも、これは神様の目から見てそういうことなのであるとして、その神様のものの見方を私たちが受け止める、という仕方でしか私たちの中に受け止めて理解することはできません。そのように、とても深い真理がここで言われているのです。

 

 この箇所の中で、今日、私が皆様と共に、特にわかちあいたいと思ったことは、今日の箇所の真ん中のあたりにある、洗礼者ヨハネの言葉です。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

 

 洗礼者ヨハネという人は、イエス様が公の活動をされる、その少し前に現れて、人々に対して罪の悔い改めを勧めて、川で水につかる洗礼を授けるということを人々に宣べ伝えていた人です。当日の人たちの中には、このヨハネが神様からつかわされた救い主ではないか、と考える人たちもいました。しかし、その人たちに対してヨハネは、「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」と、今日の聖書箇所にある言葉を言っていたのです。

 

 このヨハネの言葉は,少し不思議な言葉です。「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」

 

 これは、どういうことでありましょうか。洗礼者ヨハネのほうが先に現れて活動していたのですから、ヨハネのほうが先にいるのです。しかし、ヨハネは、この自分のあとに来られるイエス・キリストが私よりも先におられる、私よりも優れている、私よりも大切な所におられる、そのようにヨハネは示したのでありました。

 

 それは、洗礼者ヨハネが自らを低めて言った、謙遜の言葉として受け止めることもできます。しかし、これはただの謙遜ではない、信仰における真理というものが表されています。というのは、この現代において神様を信じている、あるいは神様を信じたいと思っている私たちにとって、神様のことというのは、自分が何かを見つけるとか、自分が何かを信じる、ということよりも前に、そこに神様がおられた、そこには真実というものが先にあった、ということ、そのことを信じることだからであります。

 

 そこが、科学とか歴史とかいうこととは違っているところであります。

 科学でものを考えるときには、自分が、あるいは人類というものが、何かを発見していく、生み出していく、そしてそこで発見したところから、そこに何かがあるということを知る、そういう意味で人間が主となって、物事の事実を発見していく、自分の手の中に入れていく、そういうことになります。また、歴史の考え方というものは、時間というものは一方通行で止まることがありませんから、自分というものがあって、その自分のあとに歴史というものが出来ていくと考えます。

 

 しかし、信仰的な考え方というものは、そういう科学や歴史の考え方と違って、自分たちよりも前に本当のことというものがあった、神様のなさってきたこと、というものがあったのだということです。その、私たち自身よりも先にあったところにある、神様の恵みというものがあって、それにあとになって気づいた私たちがそれを信じる、そういう形になります。

 

 今日の箇所の冒頭にあります、「言は肉となって,私たちの間に宿られた」という言葉も、私たちが何かの理屈を作って、何かの現実に切り込んでいって、「このことがわかった! このことを見つけた!」ということではなくて、私たちが考えるよりも先に、神様がそのようになしてくださっていた、という、その過去に神様の恵みはすでに十分に表されていた、ということを、そのあとに生きている私たちが気がついて、その神の恵みを受け入れていく、そういうことなのであります。

 

 私たちが信じたから、神様がそこにいるのではありません。

 神様が先にいてくださったから、私たちはあとになってそのことに気づいて、感謝して神様を信じていくのです。

 

 今日の箇所の最後にはこのように書いてあります。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる神、この方が神を示されたのである。」

 

 ここにあるように、過去の時代にさかのぼっても、「私は神を見た」という人は一人もいないのです。神様という方は人の目に映るものではありません。聖書の理解というものはそういうものであります。

 

 けれども、その目に見えない神様を表してくださったのがイエス・キリストである、そのことが今この現代の日本社会に生きる私たちにとって、はるか昔のこと、過去のこととして示されています。その事柄は、私たちが何かの理屈を持って新しく理解することではなく、神様がすでに用意してくださっていた、大きな恵みということであります。私たちは後になってそのことを受け入れていく、そういうものであります。

 

 信仰というものは、そのような理解の仕方をするのでありますけれども、そのことは、これから2022年の新しい年を生きていく、新しく歩んでいく私たちにとって、どんな意味があるでしょうか。

 

 今日の説教題は、「これまでと違う一歩」と題しました。ここには、2022年を歩み出すということは、2021年とは違う歩みを、一歩を踏み出すのだという気持ちをこめています。

 

 皆さんお一人おひとりがこれまでとは違う一歩を踏み出していきます。それは、何か目に見えて何かを変えるとか、何かがと変わったという意味ではなく、今までと同じような生活をしながら、その日々が去年とは違ったものへと変えられていく、そういうことも多いのだと思います。あるいは、今年は去年とはがらっと違った歩みをすることになる、そういう方もおられるでありましょう。

 

 まだ、私たちは新しい一歩を、2022年に踏み出したばかりで、これからどうなるか誰にもわかりません。けれども、今までと違った一歩を踏み出すことは確かであります。

 

そのときに、それは自分自身で切り開いていく一歩、という面も確かにあるのですけれども、一方で、信仰の点から見たときには、私たちが踏み出す一歩というのは、実は、私たちが踏み出すよりも以前に、神様が用意してくださっていた道である、ということも覚えたいものであります。

 

 それは私たちがロボットのように神様によって操られて、自分たちの進む道がもうすでに全部決められている、という意味ではありません。

 

 そうではなくて、私たちの未来は、誰にもわからないのですけれども、私たちがこれから歩む、今までと違う一歩を支えてくださるのは、私たちよりも先におられた神様である、私たちよりも先にいてくださったイエス様が、私たちの一人ひとりの具体的なこれからの今までと違った一歩を支えてくださるということであります。

 

 神の御心が人となられた、それは科学的にも歴史的にも、私たちの常識からすれば受け入れられない、受け入れがたいことでありますけれども、聖書は、そのことが過去にあったがゆえに、そのイエス・キリストが私たちを導いて新しい一歩を踏み出させてくださるということを示しています。

 

 真実、真理、私たちが本当に歩みたい道、それは何であるか、それは私たちが自分自身で切り開くものであると同時に、神様がすでにおられ、あなたにこの道を行ってほしい、という神様の御心が、私たちよりも先にあるのだと信じるときに、私たちの心は自由になります。すでに神様が、この私を応援してくださっている、ということがわかるからであります。

 

 神様についての信仰というものは、考え出すとなかなか難しいところもあります。聖書の言葉は難しい、神学的な言葉はいよいよわかりにくい。いろんなことがあります。けれども、それらは全部、神様によって、私たちよりも先に整えられて用意されていることなのであります。

 

 これから新しい一歩を踏み出すにあたって、神様について悩むのではなく、神様は私たちよりも先に、私たちが歩む道を用意してくださっている、その神様の応援の声を受けて、安心して新しい一歩を踏み出していきたい、そのように願うものであります。

 

 お祈りをいたします。
 天の神様、新しい1年が始まっています。世界には困難が山積みであり、一人ひとりの生活もまた健康のことや家族のことや、経済的なこと、社会的なことを考えていくと、心配事はなくなることがないかもしれません。けれども、イエス様が私たちに与えられているということ、それが世界のすべての人のためであることを信じ、これからもなるべく元気で健やかに、いろんな人と協力して、楽しんでこの心豊かな人生を楽しんでいくことができますように、2022年の1年を神様が導いてください。イエス様がいつも共にいてください。
 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。
 アーメン。

 

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