<きょうほく・きょうかい>
「虹の架かる教会」京北教会ブログ
2015.10.4
「10月4日(日)のこと」
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「10月4日(日)のこと」
礼拝堂の活け花と、オルガン奏楽の練習と。
ありがとうございます。
教会庭から来ました。
2015年 10月4日(日) 京北教会 聖日礼拝
聖書 コリントの信徒への手紙1 15章 1〜11節
説教 「生きることになった」
讃美歌21 155「山辺に向かいて我」
280「まぶねのなかに」
579「主を仰ぎ見れば」
81「主の食卓を囲み」
礼拝出席者数 27名
礼拝後 ・軽食
・第2回バザー準備を話し合う会 21名出席
各人の担当を確認したり、
仕事会の日程を決めたりしました。
今日のお昼は、赤飯とカボチャの煮付け、
それに青唐辛子とジャコの煮付け。
秋の味覚で、とっても美味しかったです。
ご準備いただいた皆様、ありがとうございました。
今日は教会で聖餐式(せいさんしき)をしました。
パンとぶどう酒(京北教会ではぶどう果汁)で、
イエス・キリストを象徴して、いただきます。
今日は世界聖餐日といって、
世界で同じ日に聖餐式を行うことを始めた日です。
平和を願い、教会がそのために祈る意味があります。
聖餐式をするときは、
京北教会では、毎回、
週報に以下のことを記しています。
——聖餐式について——
本日は、礼拝中に短く聖餐式を行います。
これは、主イエス・キリストを「パンとぶどう酒」として表し、
それを食する者が、主にあって共に生きることを表す式です。
その意味を知って、恵みにあずかっていただくために、
すでに洗礼を受けた方にのみ、
パンとぶどう果汁を配餐します。
まだ洗礼を受けてない方には、
この聖餐式の場を、
万人を招く神様の御心のなかにあって、
洗礼を受けるまで、
あえて待つ機会として、
この場に共にいてくださいますよう願います。
神様を信じる道である、洗礼は、
誰もが自らの重荷を降ろしていく道です。
いつでもご遠慮なく牧師に受洗を相談なさってください。
主イエスと共に、教会と共に、
前に広がる道を歩みましょう。
バザー準備を話し合う会のあとで。
ぐっすり……。
お疲れさま?
看板の字を書いてくださる方が、代わりました。
下半分は昨年の看板のままで、
先日に天に召されたNさんが、
昨年の看板に書いてくださっていた字です。
そして、上半分を新しく別の方に書いていただきました。
お二人に感謝。
週報掲載 <宣教のことば>
神の恵みによって今日の私があるのです。
そして、私は他のすべての使徒より、
ずっと多く働きました。しかし、働いたのは、
実は私ではなく、私と共にある神の恵みなのです。」
コリントの信徒への手紙1 15章 1〜11節
自分の過去と現在を短くまとめて記しています。
その結論は、自分の現在までの働きは、
自分の力によるものではなく、
神の恵み、それ自体が働いたものだということです。
なぜパウロは、このように言えたのでしょうか。
それは、パウロにとって、回心から始まった、
新しい人生が、それまでとは、
全く違うものになったからです。
過去の自分の努力の積み重ねとは違う方向へ、
回心によって進むことで、パウロの歩みは、
神様に祝福されたものとなりました。
死の危険にさらされつつ、苦労を重ねながらも、
新しく生きることになった……
その喜びがありました。
その喜びは、
神の恵みが自分の中心となることによって、
自分が生きる道の、ど真ん中に神の導きががある、
そのことの実感だったのでありましょう。
在日大韓基督教会と日本キリスト教団による
京都における「世界聖餐日」合同聖餐礼拝