京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2015年10月11日(日)のこと

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 <きょうほく・きょうかい>

「虹の架かる教会」京北教会ブログ

2015.10.14

 「10月11()のこと

 
本日の記事は、

この下の、数枚の写真の後にありますので、

ずっと下方にスクロールしてご覧下さい。
 

 
 以下は、過去(2010)のブログを読むときに便利な方法
 (パソコンで見る場合のみです。スマートフォンでは表示されません)
 
 ブログの右の欄の「ここ2ヶ月のブログ」という文字を、
 クリックすると最近の約2ヶ月分のブログが出てきます。
 
 右欄の中にある、「教会の四季や日常の歩み」「説教の断片など」
 「クリスマスシーズン」「京都教区の諸教会などへの訪問記」、
 などの各項目の文字をクリックすると、過去のブログを、
 それらのテーマ別に分けて読むことができます。
 
 右欄の、項目の最上段の、緑の字の「すべて表示」を、
 クリックすると、今までの全てのブログを順番に読むことができます。
 
 上記の仕方で開いたときに、ブログ欄外の上のほうに、
 赤く小さい字で「リスト」とあります。この文字をクリックすると、
 記事の一覧表が出ます。
 
 右欄のカレンダーの、年と月の表示の左右の三角印をクリックすると、
 年月を移動させて検索することができます。カレンダーの中で赤文字の
 日付けがブログ作成の日で、これをクリックするとその日のブログが、
 表示されます。
 

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日本キリスト教団 京北(きょうほく)教会
 
京都市 左京区 下鴨 神殿町 17-3
 
京都市地下鉄「北山」駅を下車、徒歩約7
 
 
京北教会のホームページを、
 
ブログとは別に作っていますので、
 
よろしければ、どうぞご覧下さい!
 
 
ホームページのアドレス
 
 
 


 
 
 

 
 
 
 
本日のブログ内容はここからです。
 
「10月11日()のこと










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  2015年 10月11日(日) 京北教会 聖日礼拝


 聖書 コリントの信徒への手紙1 15章 12〜28節

 
 説教 「罪にとどまらず復活を歩け」


 讃美歌21     210「来る朝ごとに

         531「主イェスこそ我が望み」

           575「球根の中には」

   

 礼拝出席者数 24名


 礼拝後 ・お茶のとき

     
     ・10月定例役員会


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   お茶のときに、北海道のお土産のクッキー、

 そしてケーキをいただきました。

 茶菓の用意をされた皆様に感謝。




 最近、けがや病気などで礼拝を欠席されるご家族が続き、

 心配しています。皆様のご快復を心から祈ります。


 役員会でも様々に打合せをして、皆様の奉仕において、

 ご負担のかからないようにと、みんなで考えています。






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 教会バザーが近づいてきました。

 みなさま、どうぞいらしてください。


 バザーは、10月25日(日)正午〜2時開催で、

 寄贈物品や手作り食品の販売、

 喫茶コーナーがあります。


 わりと早く売り切れていくので、

 なるべくお早めにお越し下さい!






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礼拝前の奏楽練習。

教会庭の秋明菊が綺麗に活けてありました。

それぞれ担当の方に感謝します。



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どんな風に聞こえているのかな。







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   この時期、教会庭の酔芙蓉(すいふよう)がよく咲いています。

 よろしければ、集会室から庭に出て、どうぞご覧ください。




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 一日のうちに、色が白から紅に変わっていく花です。

 そこから酔芙蓉という名がついたとのこと。 


   ただし、バザーの日までは、

 咲いていないだろうと思います……。
 
 (それが、すごく残念!)














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           週報掲載 <宣教のことば>


  「そして、キリストが復活しなかったのなら、

   あなたがたの信仰はむなしく、
  
   あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」


                     コリントの信徒への手紙1 15章 12〜28節




  聖書のなかで福音書に記された、

  主イエス・キリストの復活は、

  わたしたちにとって、

  事実としては受けとめられませんが、

  信仰として受けとめることができる、

  つまり神様からの使信(メッセージ)として、

  「いただく」出来事です。


  日常の延長や、自分の物思いのなかには、

  死からの復活はありえません。


  復活は、神様からわたしたちへの、
  
  理解を超える恵みであり、

  すべてのことの最後にわかる喜びです。


  使徒パウロはこの箇所で、

  キリストを自らの救いの主としておきながら、

  キリストの復活については否定する人たちを、

  念頭に置きながら記しています。

  (つまり、「世の中」の一般常識に対しての議論を、

  ここでしているわけではありません)


  キリストの復活を信じることは、

  理性を否定することではなく、

  信仰の意味を肯定することです。


  信仰のなかに生きる、

  一人ひとりの人生を肯定する意味で、

  復活はまさに真実そのものです。



  

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