
どの実も、上を向いて、ついています。
ミカンといえば、ぶら下がるように実る姿しか、知りませんでしたが、
このように最初は、上に突き出すようにして、実が出来ていくのです。

天来の命の色。
2012年 7月22日(日) 京北教会 聖日礼拝
聖書 ルカによる福音書 9章18~27節
説教 「主の言葉に静まり」
讃美歌21 7 「ほめたたえよ、力強き主を」
504「主よ、御手もて」
419「さあ、共に生きよう」
出席 28名
礼拝後 ・こころで歌おう~新旧讃美歌一曲(自由参加)
讃美歌Ⅰ編─367番「木工(たくみ)のわざをば」
・いつものお茶

当初、教会玄関に飾っていただいたヒペリカム。
この実は何度も色が変わるそうだ。
その後、置き場所を玄関正面に移動。

この小さな実は、ここだけでなく…

礼拝堂にも。
単体のときとはまた違った印象を受ける。
初夏の花々が、濃い茶色の木壁を背景にして、映える。

玄関の受付に新たに活けられた花。
紫色の花は、瑠璃玉あざみ。
活けてくださった方々、ありがとうございました。

この日から、教会玄関に、
聖書の言葉と、今年度の教会標語を掲げました。
礼拝後、いつものお茶の時間。
お茶とお菓子と果物をご用意いただいた皆様に感謝。

この日に、いつも礼拝に来られていて、
お茶のときまで初めて残ってくださった方から、
自己紹介をいただいて、
みんなも一人一人自己紹介して、
最後にその方とご家族を憶えて牧師が祈りました。
教会に通うようになって、
みんなの名前を一度に憶えられる人は無く、
誰もが、何度も何度も忘れてはお尋ねして、
そうして、互いの名前を憶えていきます。
遠慮することなく、何度でも尋ねてください。
「お名前は…?」と。
それは決して失礼なことではありません。
人間は、日々、自分のことも他者のことも、忘れていきますから。
にもかかわらず、神には、誰もが最初から憶えられているとは。
週報掲載の「宣教のことば」 (+加筆)
イエスが、ご自分の歩む先に、
十字架の死があることを、
弟子たちに語ったときに、
一番弟子と自負していたペトロは、
イエスをいさめます。
そんなことがあってはならない、
と思ったからですが、
逆にイエスはペトロを、
「神のことを思わず、人間のことを思っている」と、
叱責しました。(マタイ16:23)
このペトロとイエスの会話の場面は、
ルカ版では、弟子たちは何も言わずに、
イエスの言葉を聴いています。
どちらにしても、弟子たちは、
イエスが語る「十字架への道」について、
沈黙せざるをえませんでした。
それだけではありません。
イエスは「私について来たい者は、
自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、
私に従いなさい」と言われます。
自分の十字架とは、自分が負うべき使命、
自分の死に場所の意味でしょうか。
弟子たちだけではなく、聴く者の誰もが、
沈黙せざるをえないイエスの言葉です。
イエスから、一対一で、
この言葉を聴くことが大切なのでしょう。
私自身の十字架とは何か、
その真の意味をイエスに問いつつ。
私たちが、日々、負うべき十字架とは、
イエスが私たちに与えた、
いのちの言葉のことであるとも言えるでしょう。
しっかりとそれを身から離さずに、
生きよう、それぞれの歩幅で。

さあ、今日は、これでお開き。帰りましょう。
教会で今日のために活けた花を、手分けして、
もらって帰ります。


教会をきれいに飾ったあとに、捨てられていく花ではなく…
最後まで私たちと共にいてくれる花として、持ち帰る。

午後から陽射しが強くなってくる中を、
お一人お一人、帰って行かれる。

恵みを携えて。