京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

7月22日(日)のこと

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 教会庭の夏ミカンの木に、小さい実がつきました。

 どの実も、上を向いて、ついています。
 ミカンといえば、ぶら下がるように実る姿しか、知りませんでしたが、
 このように最初は、上に突き出すようにして、実が出来ていくのです。
 
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深く濃い緑。

天来の命の色


 
 2012年 7月22日(日) 京北教会 聖日礼拝

 聖書 ルカによる福音書 9章18~27節
 説教 「主の言葉に静まり」
 讃美歌21  7 「ほめたたえよ、力強き主を」
      504「主よ、御手もて」
      419「さあ、共に生きよう」

 出席 28名

 礼拝後 ・こころで歌おう~新旧讃美歌一曲(自由参加)
       讃美歌Ⅰ編─367番「木工(たくみ)のわざをば」

     ・いつものお茶



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 当初、教会玄関に飾っていただいたヒペリカム
 この実は何度も色が変わるそうだ。


 その後、置き場所を玄関正面に移動。
 
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  この小さな実は、ここだけでなく…


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 礼拝堂にも。
 アジサイと共に活けられたヒペリカム
 単体のときとはまた違った印象を受ける。
 初夏の花々が、濃い茶色の木壁を背景にして、映える。


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 玄関の受付に新たに活けられた花。
 紫色の花は、瑠璃玉あざみ。

 活けてくださった方々、ありがとうございました。



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 この日から、教会玄関に、
 聖書の言葉と、今年度の教会標語を掲げました。



 礼拝後、いつものお茶の時間。
 お茶とお菓子と果物をご用意いただいた皆様に感謝。

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この日に、いつも礼拝に来られていて、
お茶のときまで初めて残ってくださった方から、
自己紹介をいただいて、
みんなも一人一人自己紹介して、
最後にその方とご家族を憶えて牧師が祈りました。

教会に通うようになって、
みんなの名前を一度に憶えられる人は無く、
誰もが、何度も何度も忘れてはお尋ねして、
そうして、互いの名前を憶えていきます。

遠慮することなく、何度でも尋ねてください。
「お名前は…?」と。
それは決して失礼なことではありません。

人間は、日々、自分のことも他者のことも、忘れていきますから。

にもかかわらず、神には、誰もが最初から憶えられているとは。



 
 週報掲載の「宣教のことば」 (+加筆)

 
 イエスが、ご自分の歩む先に、

 十字架の死があることを、

 弟子たちに語ったときに、

 一番弟子と自負していたペトロは、

 イエスをいさめます。



 そんなことがあってはならない、

 と思ったからですが、

 逆にイエスはペトロを、

 「神のことを思わず、人間のことを思っている」と、

 叱責しました。(マタイ16:23)



 このペトロとイエスの会話の場面は、

 ルカ福音書にはなく、他の福音書にあります。

 ルカ版では、弟子たちは何も言わずに、

 イエスの言葉を聴いています。



 どちらにしても、弟子たちは、

 イエスが語る「十字架への道」について、

 沈黙せざるをえませんでした。



 それだけではありません。

 イエスは「私について来たい者は、

 自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、

 私に従いなさい」と言われます。



 自分の十字架とは、自分が負うべき使命、

 自分の死に場所の意味でしょうか。

 弟子たちだけではなく、聴く者の誰もが、

 沈黙せざるをえないイエスの言葉です。



 イエスから、一対一で、

 この言葉を聴くことが大切なのでしょう。

 私自身の十字架とは何か、

 その真の意味をイエスに問いつつ。



 私たちが、日々、負うべき十字架とは、

 イエスが私たちに与えた、

 いのちの言葉のことであるとも言えるでしょう。



 しっかりとそれを身から離さずに、

 生きよう、それぞれの歩幅で。

 




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 さあ、今日は、これでお開き。帰りましょう。

 教会で今日のために活けた花を、手分けして、
 もらって帰ります。

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 教会をきれいに飾ったあとに、捨てられていく花ではなく…

 最後まで私たちと共にいてくれる花として、持ち帰る。


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 午後から陽射しが強くなってくる中を、
 お一人お一人、帰って行かれる。


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 恵みを携えて。