京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2023年1月の説教

 2023年1月の説教

  1月1日(日)新年礼拝 1月8日(日) 1月15日(日)
   1月22日(日)

「新年の旅に出よう」

 2023年1月1日(日)京北教会 新年礼拝説教

 聖 書  ルカによる福音書 2章 8〜21節 (新共同訳)


 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。

 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

 

 天使は言った。

  「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。

   今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。

   この方こそ主メシアである。

   あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている

   乳飲み子を見つけるであろう。

   これがあなたがたへのしるしである。」 

 

 すると、突然、この天使に天の大群が加わり、神を賛美して言った。
  「いと高きところには栄光、神にあれ、

   地には平和、御心に適(かな)う人にあれ。」

 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、

  「さあ、ベツレヘムへ行こう。

   主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」

 と話し合った。

 

 そして急いで行って、マリアとヨセフ、

 また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。

 

 その光景を見て、羊飼いたちは、

 この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。

 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。

 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。

 

 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、

 神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 八日たって割礼の日を迎えたとき、
 幼子はイエスと名付けられた。
 これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

  

 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、

   改行などの文章配置を説教者が変えています。
 新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 みなさん、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 新しい年を迎えました。今日の聖書箇所は、ルカによる福音書の2章8〜21節を皆様と共に読みました。この中には、羊飼いたちが小さな旅に出たことが書いてあります。

 夜の中、いつもと同じように羊の番をして野宿をしていた彼らの所に、突然天使が現れました。その天使の告げたことというのは、羊飼いたちを含めたすべての人のために、神様から救い主が独り子を遣わし、お生まれになられた、という知らせでした。それを聞いた羊飼いたちは天使が去ったあと、すぐにその場をたって小さな旅へと出たのであります。

 

 その小さな旅がどのようなものであったか、ということは聖書には書かれてありません。あっという間にたどり着いたような書き方を、福音書はしています。何の手がかりもない所でどうやって羊飼いたちがその馬小屋を見つけたのか、ということはわからないのです。

 マタイによる福音書には星が導いたという話があるので、このときももしかしたら星が導いてくれたのかもしれません。その場所にたどり着いた羊飼いたちは、自分たちが天使から受けた話をそのまま伝えます。本当に天使が言った通りだった、ということを知らせるのです。

 マリアもヨセフも驚いたことでありましょう。しかし19節には「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて思い巡らしていた」とあります。突然にやってきた羊飼いたちの話、本当に不思議だけども、そうした出来事をすべてマリアは心に納めて思い巡らしていた、とあります。

 それは、現代の私たちがいま、この聖書箇所を読んで、それぞれがそれぞれに心にいろんな思いを巡らせることができることと同じであります。こんな不思議なことがあった、それをどう受け止めたらいいのか。ということを、本当に一人ひとりが思い巡らすのです。

 

 そして、その思い巡らしているマリアを残して、羊飼いたちはまた元のところへ帰っていきました。「羊飼いたちは見聞きしたことが天使の話した通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰っていった。」このような羊飼いたちの小さな旅、ここにたどり着くまでの旅、そして元いた所に戻るための旅、それは旅というにはあまりにも小さな距離であったかもしれません。本当に短い所を往復しただけだったのかもしれません。

 

 けれども、この小さな旅に出たか、出なかったか、ということは、この羊飼いたちの、おそらく一生を左右したことだろうと思います。天使の話した通りだった、そのことを確かめた、それは自分たちは天使の証人になった、そういう経験をしたことであります。

 

 天使の話したことは、単なる言葉だけのことではなかった。私たちはその言葉を受けて行動した、旅に出た、そして事実を確かめた。天使が言ったことが本当であったことを、この目で確かめた。そして帰っていった。
 そこには、単に自分たちが思いつきで旅をしたのではない。神様からのメッセージを自分たちは経験し、それを確かめた。そしておそらくはそのことを、元の所に帰ったあとに人々に語り伝えたのでありましょう。

 

 そうしたことをするということが、この羊飼いたちの旅の意味だったのであります。旅をする者は証しびと、証しをする人となるのです。

 

 2023年という新しい年を迎えました。今日の説教の題は「新年の旅に出よう」と題しました。新年の旅、新しい年を迎えてどこに行くのでありましょうか。実際に何か旅行の計画を立てている方もいらっしゃるかもしれません。もうすでに新年の旅に出た人は、この場にはいないのでしょう。いろいろな人がおられます。旅どころではない、という方もおられるでしょう。しんどいから、忙しいから、また病気や障がいやいろいろな事情を抱えた、その方は、新年の旅どころではないかもしれません。

 

 けれども、今日の聖書箇所を読むときに、これはクリスマスの箇所なのでありますけれど、この新年というときに改めて読むときに、このような新年の旅、新しい年、すなわち救い主イエス様がお生まれになった、そこから新しい年が始まったと考えるならば、そこから私たち一人ひとりは、この天使の言葉に出会って、それぞれに自分が新年の旅をしていくことができるのです。

 

 それは、天使の証しびとになる、そういう旅であります。天使なんて会ったことはない、という人は多いでしょう。というか、誰も会っていないと思います。私も会ったことはありません。けれども、聖書の言葉を読むときに、実は私たちはいつもいつも天使と出会っているのです。

 というのは、天使というのは、聖書の中に登場しますが、それは何か実体がある存在ではなくて、神様が私たちに告げ知らせるメッセージを前に進めるための役割を果たすのが、天使だからであります。

 そして、天使は神様からの物語を先に進めたならば、そこで役割を終えて天に帰って行くのであります。天使というのは、私たちの所にやってきて、何かの方向、記号、あるいは矢印というものを示して、あなたはこっちの方向に行くべきだ、そこに神様の御心がある、ということを示してくれる、そして「恐れるな」と励まして力づけて下さる、それが天使の役割であります。

 天使というのは実体がある存在ではありませんが、聖書を開くときにいつも、そこに神様からのメッセージがあり、私たちはそれに応えて歩み出すための力が与えられるとき、そこには、目に見えない天使が働いているのであります。

 では、その天使の働きに出会って、天使の証しびとになろうとするなら、私たちはどんな旅に出るのでありましょうか。

 お一人おひとりの人生の旅は違っているので、皆が共通した旅というものはありません。しかし、それぞれがそれぞれの旅を歩む中で、いろんな出会いをし、できればおもしろい経験をたくさんして帰ってくるときに、その旅の成果、旅の結果というものを持ち寄る場所というものが、私たちには与えられています。それは教会という場所です。

 それは別に、どこかに旅行に行ったらおみやげを買ってくる、というようなことではないのですが、証しびと、天使の言葉を聞き、つまり聖書の言葉を聞いて自分自身の人生の旅に出た者が、その人生の喜びをというものを見つけ、それを少しでも人に伝えることができる、わかちあうことができる、それが教会という場であります。

 

 この新年、皆様はどのような旅に出るでありましょうか。私は、今日、元旦の日、朝起きて、もうとっくに太陽は昇っていたのでありますけれども、少し旅に出たくなりました。自転車に乗って出発しました。どこに行こうかと頭の中で思い巡らしていましたが、どこに行きたいとか、どこに行こうとかは、なかなか思い浮かばないのです。

 思い浮かばないままに、とにかく自転車の乗って走っていますと、いつも通っているような道をついつい行ってしまいます。ふと、途中自転車を止めて、自分はどこに行こうとしているのだろうか、と考えてわからなくなったのであります。

 しかし、まあこういうときもあってもいいか、と思ってそのまま走り続けました。すると建物の間から太陽の光が射してきました。私は東に向かって走っていたのです。ああ、自分は太陽に向かって走っているんだな、と思い、自分なりに納得をしました。初日の出ではありませんけれど、まっすぐ太陽のほうに向かっているんだ、そう思うと、何か新年らしい気持ちになりました。 

 そして、いくらか走っていると、ちょっと疲れてきました。思ったのです。もう、これぐらいでいいか。そのままずっと走っていきたい気持ちもなくはなかったのですが、また疲れてしまうだろうなあ、と思って戻ってきました。しかし、ただ元の道を戻るのはおもしろくないので、少し遠回りをして戻ることにしました。

 そうやって京都の町なかをいくらか走っておりますと、街に人通りは本当に少ないのでありますが、歩いている方はそれなりにポツポツといます。鴨川のところを通りますとランニングをしている家族がありました。何人かが、一人であるいは数人で一緒に走ったりもしています。そうした元旦の日の客を当て込んででしょうか、ぜんざいを売っているお店もありました。

 また、そうした方々とは別に、頭にタオルを巻いて荷物を一杯持って歩いている、仕事帰りとおぼしき方もいました。大晦日も仕事だったのでしょうか。夜勤が明けて今から帰る所なのかわかりませんが、そういう方もいらっしゃいました。神社にお参りに行く方もたくさん歩いていました。いろんな方々が、このよく晴れた日、京都の街なかを歩いていました。

 ごくごく短い新年の旅をしましたけれど、その中で、私は思いました。ずいぶんと人が少ないなあ。そして思い出したのです。コロナ問題が段々と大きくなってきたころ、8割、人の出会いを制限してください、と言われていたころを。8割制限したらコロナがなんとか収まるはずだ、そういう分析があって、社会のみんなで一時期、時計を止めたかのような時期があり、みんな家にいて人に会わないようにする、そういう時期がありました。

 あの頃、本当に街なかに人が減っていたなあ、と思い起こしました。そして、そのときに緊張していた自分の気持ちも思い起こしました。街を歩いている人が本当に少ない、そして、わずかに歩いている人たちはみんなマスクを付けている、どこに行ってもみんなじっと黙っている。

 そして、マスクを買いに行ったけれど、どこにも売っていなかった、という私自身の経験も思い出しました。社会の変化にうとかったのです。私もそろそろマスクしようかな、と思って買いに行くと、どこにも売っていませんでした。どこにでもあるはずのものが手に入らない、ということを実感したとき、社会の動きというものを感じ、そして恐ろしくなったことを思い出しました。

 あれから3年目となり、マスクはどこでも手に入ります。行動制限も言われなくなりました。もう何もかもが元に戻っていっているような気さえするときがあります。だんだんと忘れかけていたことを、この新年の朝に私は思い起こしました。

 そして、考えました。いま、コロナ禍は終わりのほうに向かっているのだろう。けれども昨年は、新しく戦争が始まり、私たちの生きる社会は、本当に暗闇の中に突き落とされたかのような、そんな時代を歩んでいるのではないか、ということを思いました。

 

 昨日、テレビを大晦日に見ておりました。いつものように「行く年来る年」を見ておりました。各地の様子が伝わってくると共に、その中に教会が映りました。東京にあります日本に一つだけと思いますが、ウクライナ正教会があります。そこに集まる人々が年越しの礼拝をしておられました。テレビカメラがその中に入って、皆さんの様子を写していました。

 それを見ながら、また思い起こしていました。ウクライナでの戦争が始まったとき、私は本当に絶望する思いで、言ってしまえば、神も仏もないんじゃないのか、それぐらいに絶望する悲しい思いで、ふとテレビをつけたときに、そこに映っていたのは、その正教会、東京にある教会でありました。ウクライナの方々がみんなで集まれる場所はそうたくさんはありません。その教会が集まる場所になっていたのであります。

 

 その番組の中で、司祭の方がインタビューに答えて涙を流される場面がありました。なぜこんなことが、と言われながら、涙が流れていたのです。神も仏もないんじゃないか、と私が思った、その前で、まさに教会というものが映し出されていて、司祭の方の涙が映りました。そこにたくさんの人が集まって平和を願っていました。神も仏もないような世界の中で、教会に集まっている人々が祈っている。

 ウクライナでの戦争が始まったとき、そんなニュースをテレビで見たことを思い出しました。そして、この大晦日に、その同じ教会に人々が集まって年越しの礼拝をしておられました。何にも変わらないような世界、どこにも希望がないような世界にあって、皆さんは何をしておられるのでしょうか。教会に集まって礼拝をしているのです。

 何にも希望がないように見える、この世界の中にあって、教会に行けば、そこに何かがある。そう思って、人々は教会に集まるのです。ウクライナの人たちだけではありません。私たちのこの京北教会もまた、集まる場なのであります。

 今日の聖書箇所には、羊飼いたちが小さな旅をしたことが出てきます。旅とは言えないような、ごく小さな道のりの往復だったかもしれません。しかし、その旅に出たか出なかったか、ということにおいて、羊飼いたちの人生は大きく変わったのであります。それは、イエス・キリストの証しびとになるどうか、それをしたか、しなかったか、ということにおいて、羊飼いたちの人生は大きく変わったのです。

 それは、現代の日本社会に生きている私たちが、日曜日に教会に行く、礼拝に行く、その選択をするか、しないかということが、一人ひとりの人生にとって大きな違いであるということと同じであります。

 教会に行くと何があるのでしょうか。羊飼いたちが赤ちゃんイエス様と出会ったように、教会でイエス様と出会う、それと全く同じ体験をすることはありません。けれども天使の言葉を聞いて歩み出すときに、その行った先に必ず神様が与えて下さる場所、というものがあるのです。

 そして、そこにいる人たちは、今日の箇所で、「羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて思い巡らしていた」とあるように、それぞれが人生の中で出会ったイエス様のことを、この教会で語り合うことができます。わかちあうことができます。

 そして、そのことを聞いたときには、驚きます。そんなことが本当にあるのだろうか、と思うような神様の恵みに出会うこともあります。いやあ、私とは違うな、私にはそんな経験はありませんな、そうやって軽く流してしまうようなこともあるかもしれません。教会にやってくる方々の話は、それぞれにみんな違っています。共感できる話もあれば、共感できない話もあり、どっちかというと、どうっていうことのない世間話が1番多いのかもしれません。でも、それでいいのです。

 

 神様が私たちに与えて下さっている人生の、小さな小さな収穫を分け合えているとき、教会はまさに教会としての役割を果たしています。そして、教会に来た者は、天使たちが示して下さったことが、つまり神様の恵みというものが必ず、神様の言葉を聞いて礼拝する、その場にはある、そのことを確かめて、また自分の場に帰っていくことができるのであります。

 

 2023年という年がどのような年になるのか、私たちは皆目見当がつかないと思います。正直、不安はいっぱいあります。世界の国々の様子を見るときに、不安は高まるばかりです。不安が高まるときに、無理矢理に不安というものをなくして、落ち着いていようということはなかなかできないことです。むしろ、不安であるならば、本当に不安なんだ、それが人間なんだ、ということを徹底して自分でそのことを受け止めていったらいいかもしれない、と私は思います。

 

 背伸びをしたり、やせがまんをしたり、空(から)元気を出したり、ということでは、私たちの魂は救われないのです。私たちは聖書の言葉、神様の言葉の前で、打ち砕かれた者になりたい。そのことを願います。

 

 不安で不安でしょうがない、この世界。不安があることが、この私のありのままの姿なんだ。でも、その不安の中にあっても私たちは新年の旅に出かけることができるのです。そして、その旅の収穫を持ち寄って、また教会に集っていきたい、皆さんと出会っていきたい、そのように願うものであります。

 

 お祈りをいたします。
 天の神様、新しい年を迎えた私たち一人ひとり、主の恵みを豊かに受けることができますように、どうか導いて下さい。私たちのこの京北教会が、礼拝の場、そして伝道の場、そして奉仕の場として豊かに用いられ、この世界の中にあって平和を創り出す、神様の拠点として用いられますように心より願います。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

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「届けるために星を見て」 
 2023年1月8日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書   マタイによる福音書 2章 1〜12節 (新共同訳)

 

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤベツレヘムでお生まれになった。

 

 そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。

 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。

  わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

 

 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。

 エルサレムの人々も皆、同様であった。

 

 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、

 メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。

 

 彼らは言った。

 「ユダヤベツレヘムです。預言者がこう書いています。

  『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 

   決して一番小さいものではない。
   お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」


 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、
 星の現れた時期を確かめた。

 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。

      わたしも行って拝もう」

 と言ってベツレヘムへ送り出した。

 

 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、

 ついに幼子のいる場所の上に止まった。

 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。

 

 彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、
 黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、

 別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。


   

 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
  改行などの文章配置を説教者が変えています。
  新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

  新しい年、2023年を迎えて2回目の日曜日の礼拝となりました。本日の聖書箇所はマタイによる福音書2章1〜12節を選ばせていただきました。ここには「占星術の学者たちが訪れる」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは新共同訳聖書が作られたときに、読む人の便宜を図って付けられたものであり、元々の聖書にはありません。

 今日の箇所に書かれてあるのはいわゆるクリスマスの出来事であります。クリスマスは昨年の25日に礼拝をいたしました。それから2週間経って、まだクリスマスかと思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし今日の聖書箇所は厳密に言うとクリスマスその日のことではなく、その後日のことであります。

 教会暦、教会の暦というところでは、1月6日が公現日(こうげんび)、公に現れる日と書いて1月6日を公現日として決めています。それは何かというと、今日の聖書箇所にある、イエス様の所に東の国から三人の博士たちがやってきて贈り物を届けた、その日が1月6日であり、公に現れるというのは、そうした外からやってきた、外国からやってきた使者の前で公に救い主が姿を現した、その存在を現したということを公現日として決めているのであります。

 

 もちろん、そうしたことは過去の伝承に基づいて教会の暦を作るときに、そのように算定されて決定されたものであり、そのまま歴史的な事実ということではありません。しかし、そのような教会暦というものがあるので、クリスマスの後日に今日の聖書箇所のようなことがあったというのであります。

 今日の箇所というのは、マタイによる福音書の冒頭にあります、イエス・キリスト系図という事柄から始まって、そしてイエス様の誕生、そしてその後のこと、というふうにどんどん続いていく物語にあって、大変スケールの大きい話の流れに中にあるものです。

 東の国からやってきた占星術の学者たち、その東の国というのはペルシャであるか、あるいはアラビアであるかと考えられますが、そうしたイスラエルではない国の遠い所から、学者たちはやってきたのです。

 当時、占星術というのは現代の私たちが考えるような占いのためのものではなくて、政治的な出来事を決断するときに星を見て物事を決める、ということがありましたから、そんな占いのためというようなプライベートの楽しみのようなものでは全くなくて、むしろ政治を左右する力を持っている、政治、経済、社会、そうしたものを決定する力を持っていたほどの学問体系を持っていたのです。その学問の中でトップの位置にいる人たち、東の国のより知恵を持っていた人たちの国から、この時、イエス様のお生まれを祝うために、学者たちがやってきたのだということを言っているのであります。

 

 その学者たちはまず当時の王様、ヘロデの所に行ったのです。というのは、王様であれば当然、新しく生まれたユダヤ人の王となる人のことを知っているはずだと、占星術の学者たちは考えてやってきたのです。しかし、ヘロデ王はそんなことは何にも知りませんでしたから、いったいこれはどういうことか、自分がいま王様なのに自分の立場を危うくする者が生まれたのか、そういう危機感をいだいて不安を持ったということがここに書いてあります。そして、エルサレムの人は皆同様であったといいます。

 そしてヘロデ王は、民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシア、救い主、この世界を新しく救ってくれる救い主はどこに生まれることになっているのか、と問いただした。すると、彼らは言った。ユダヤベツレヘムです。と言って6節の所から旧約聖書のミカ書5章にある言葉が引用されています。そこでは、ベツレヘムという小さな村、それが小さなものではなくて、そこから本当の指導者が現れるのだという言葉がミカ書の中にあるのです。その記事を元にして救い主、メシアというのはベツレヘムから出ると当時信じられていたのであります。

 それから占星術の学者たちを呼び寄せて、星の現れた時期を確かめ、その星が現れた時期がいつごろであったかということから逆に算定して、多分ここにいるのだろうということを想定して、その学者たちをヘロデ王が遣わしたというのであります。それはもちろん、ヘロデ王が善意、好意によって彼らはを送り出したのではなくて、救い主が生まれた所を突き止めさせる、そしてその場所に後で行って、新しく生まれたユダヤ人の王となるべき人を殺害してしまう、それがヘロデの思惑でありました。

 占星術の学者たちが、王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上で止まった。つまり場所が特定されたというのであります。学者たちは、その星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、持ってきた箱を開けて黄金、乳香、没薬を献げた、とあります。

 こうして東の国から長い旅をしてきた学者たちは、赤ちゃんのイエス様と出会うことができたのです。そして、贈り物を無事届けることができました。ところが12節にあるように、ヘロデの所へ帰るなと夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った、とあります。

 こうしてヘロデは、いつになったらあの学者たちは戻って来るかと思って、そのことを心待ちにして待っていたのでありますが、いつまで経っても彼らはヘロデの所には帰って来なかった。ずいぶん経ってから、自分はだまされたと知って怒ったわけであります。

 そのあと13節以降では、この話に続きがありまして、ヘロデがイエス様を狙っているので、天使が告げて、ヨセフとマリア、赤ちゃんイエス様の三人家族は、エジプトへと逃避行することになります。ヘロデは、占星術の学者たちにだまされたと知って大いに怒った。そして確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子を一人残さず殺させた、という非常に悲しい出来事が記されています。

 

 今日の聖書箇所はそうした流れの中にあるわけであります。こうした物語を読んで皆様は何を思われるでありましょうか。

 クリスマスの物語ということで言いますならば、私はこの箇所を読むたびに思い起こすのは、ああ、自分は不勉強だったなあ、ということなのですね。それは何かと言いますと、この占星術の学者たちが東の国からやってきたという、この話は、ルカによる福音書でいえば、羊飼いたちが天使の言葉を聞いてイエス様の所に、はせ参じた、まさにイエス様がお生まれになられた馬小屋のことであると、私はずっと思っていたのです。

 

 というのは、クリスマスのことを記した絵本とか、そういうものでは、おそらくみんなそういう感じになっていたのではないかと思うのですね。私がかつて教会の幼稚園の園長をしていたときにしていたページェント(降誕劇)では、イエス様がお生まれになられた、その所に羊飼いたちがやってきて、そのあと東の国の三人の博士たちがやってきて、そして羊とか馬とかみんな出てきて、星が照らして、みんなで大団円になる、そうした楽しいページェントを毎年やっていました。

 

 ですから、それは当然同じ日に起こったことだと思っていたのですが、実際にはクリスマスの後日に、今日の聖書箇所の話があるのですね。ですから、この後にヘロデが殺したベツレヘムの周囲の地域の男の子が2歳以下というのは、それぐらいの期間が想定されているのですね。徹底した形で、新しくユダヤ人の王となる者が生まれることを許さないのです。この2年間に渡って生まれた男の子たちを皆殺害するという、そういう考えられないような事件へとつながっていくわけであります。

 私がクリスマスについて、知らなかったことは、そのクリスマスの後日のことが今日の箇所であるということは、実は私は牧師になってから知ったのですが、それを知ったときは、思わず「えーっ」と驚いて声を出してしまったのですが、クリスマスの出来事といえばこういうことだ、ということが私の頭に入っていたのですね。

 もちろん、降誕劇のときには、それで全く構わないのですが、厳密に考えたらそうだということでした。そしてまた、最近、また私が知らないことが分かったのですが、1月1日というとキリスト教ではどういう意味を持っているかということを最近知りました。1月1日は元旦で、キリスト教では意味が無いと思っていたのですが、そうではないということが最近わかりました。

 

 1月1日は「イエス」という名前が赤ちゃんに命名された日なのだそうです。つまり、新しい年が始まるのは、イエスという名前がつけられた、そこから新しい年、新しい時代が始まっているというのです。グレゴリオ暦が作られたときに、クリスマスが25日、1月1日がイエス様の名前が命名された日、そして1月6日が公現日、東の国の博士たちがイエス様にお会いに来られた日ということになっています。

 ですから、1月1日というのは単なる元旦だけではなくて、イエスという名前が付けられた大切な日であるということでありました。そんなことも私は最近まで知りませんでした。京都南部地区の新年合同賛美礼拝がオンラインで行われたましたけれど、その礼拝に参加しておりますと、説教者の方がそのことをお話して下さいました。

 そのお話を聞いたときに、私は思ったのです。ああ、また私が知らないことが一つあったのだなあ、と本当に思いました。そんな話をしていると、この牧師はなんと不勉強なのかと思われると思いますが、実際に私はそうなのです。なぜ、そうなのかというと、私自身はあまり細かいことにこだわりがないのです。

 正直、キリスト教の教会暦に関してとか、いろいろなクリスマスとは何かとか、この行事はこういうふうになっていて、こういう習慣があって伝統があって、ということに、もちろん関心はあるのですけれども、そんなに厳密には、何と言いますか、そんなに厳密にしっかりと把握して、その通りにそれを生かしていこう、というような思いは、それほど強くありません。

 どっちかというと、もっと大まかなところで、私たちが神様を信じるっていうのは、どういうことなのかなっていう、その大きなテーマがあって、そして私たちは神様を信じて、どう生きていったらいいのだろう、と思うのです。

 その生き方は一人ひとりみんな違うのですけれど、そういう大きなテーマというものがあって、そこに、その聖書の言葉が所々でこの私たちに出会ってくれる、そこで神様からのメッセージを聴いていく。そうした、大まかではありますけれども、そうしたことを大切にしてまいりました。そういう意味で、キリスト教の細かい知識というものが、それほど自分で一生懸命に追い求めてきたわけではないのであります。

 まあ、そんなことを言って、言い訳して不勉強であってはいけないのですけれども、いまなぜそんな話をするかというと、今日選ばせていただいた、この聖書箇所を読むときにも、皆さんはどんなふうに読まれるかなあ、というのは、一つの、説教する私の側からすると、楽しみなのですね。

 というのは、今日の箇所はクリスマスの話としては、何度も何度も聞いてきたという方がおられると思うのですね。そして、特に深い驚きもなく、ああ、こういう話なんだ、と聞いている方もいらっしゃるでしょう。そしてまた、こうして東の国から占星術の学者たちがやってきたという話は、いかにも、古代の物語という感じがするのですね。

 これは歴史的に実際にこうであったかどうか、ということはもう確かめることはできません。その中で、しかし、イエス・キリストというのは特別な方であった、ということを後の時代の人たちに示すために、こうした物語が作られるということは、言わば偉大な人、偉人の物語としては世界中にあると思うのです。

 今日の聖書箇所の話も、それと同じだと考えることができます。たとえばマタイによる福音書とマルコによる福音書を比べてみますと、マタイによる福音書の1章、2章に書いてあることは、マルコによる福音書には全く書いてありません。そして、マタイによる福音書の3章から始まる部分とマルコによる福音書1章から始まる部分は、大きく重なっています。

 聖書学者の研究によると、一番古くに書かれたのはマルコによる福音書。その少しあとに書かれたのがマタイとルカの福音書。そして、さらにその後に書かれたヨハネによる福音書。そういうことになっています。すると、元々のマルコ福音書では、洗礼者ヨハネの登場する、マタイ福音書でいえば3章の所から始まっている物語に、新たに物語を加えたわけであります。

 

 そこで何を加えたかというと、マタイによる福音書1章ではまずイエス・キリスト系図が書かれています。アブラハムから始まる系図がずーっと書かれています。そして、その後におとめマリアが身ごもってイエス様が生まれたという話がヨセフを中心に書いてあります。そして、本日の箇所、東の国の博士たちがやってきたという話です。

 すると、こうした話の流れは、非常にスケールの大きい物語を、マタイによる福音書の冒頭で展開していることだとわかります。一番最初に系図が記されるということは、これは時間の流れを示しています。膨大な時間の流れがあって、その中でアブラハムの子孫として、イエス・キリストが生まれたということを言っているのです。

 しかし、その後のイエス様の誕生の話では、イエス・キリストは血筋によってではなく、聖霊によって生まれたことが記されています。すると、人間的な意味での血筋から生まれたわけではないことになります。すると、旧約聖書に記されている救い主は、アブラハムの子孫、ダビデ王の血筋から生まれるという御言葉の実現と共に、しかし救い主は人によってではなく、神によって生まれた神の子であるという、その二つの矛盾することが、ここでは一つになるわけですね。

 そしてイエス様がお生まれになった。そのあと今度は、東の国から学者たちがやってきます。先ほどの系図は歴史の流れ、つまり縦の流れでありましたが、今度は世界の横の広がりを持つことになります。東の国とは、ペルシャでありましょうか、アラビアでありましょうか。東の国からやってきた学者たちが、イエス様のお生まれをお祝いしにやってきた。それは、イエス・キリストという存在が世界中の人からお祝いされる存在だということを表しています。

 

 そのあと、ヘロデ王が怒り狂って、多くの子どもたちを殺害したという話には、当時がどのような状況であったかを示しています。血なまぐさい時代です。王の権力が絶対であり、人々の命が王によって奪われている、ものすごく大変な時期。そんな時代に、このイエス様はお生まれになられた。

 その中で、イエス様の誕生をお祝いする外国の人たちがやってきた。それに対して都エルサレムにいるヘロデ王たちは、そのイエス様のお生まれを何も知らなかった。つまり、当時の宗教家たちは何も知らなかった。そういうことが言われています。

 すると、こうしたマタイによる福音書の1章、2章の話は、ものすごく長い歴史の縦の流れ、そして世界の広がりという横の流れ、そして世界が動乱している、本当に血なまぐさい大変な時期、そうした中でイエス様がお生まれになったのだ、ということを私たちに対して、説明をしているのであります。

 そうした説明があった後に、マタイによる福音書3章から始まる、洗礼者ヨハネ、教えを述べるとあるような、これはマルコによる福音書1章の始まりと同じでありますが、そこからイエス・キリストの生涯を記す福音書の本題が始まっていく。これがマタイによる福音書の1章、2章の果たしている役割ということなのですね。

 そして、現代に生きている私たちは、こうしたマタイによる福音書の1章、2章を読むときに、ここに記されていることが、歴史的には事実とは言いがたい、少なくても私たちはそれを事実として確かめるすべを持っていない、ということはハッキリしています。

 では、当時の人たちが作った作り話なのか、というと、そうでもありません。それは、事実ではないですけれども、作り話でもなく、それらはイエス・キリストとはどういう方であるかということを、私たちに前もって教えるために、整えられた物語なのであります。

 イエス・キリストのお生まれを喜んだのは、宗教的な権力者や、政治的な軍事的な王、当時の王様、そういう人たちではありませんでした。そんな人たちと全く関わりのない、遠い国の人たちがイエス様の誕生を先に知って、お祝いをしにやって来たのです。

 そこには、イエス・キリストによる、神の国の福音というものが、ある特定の国の民族とか、ある特定の階層の人たちのためではなくて、世界のすべての人のためのものであった。イエス・キリストの存在というのは、世界中すべての人から祝われ、分かち合われる、そういう存在であるということが言われているのであります。

 今日の箇所を読むときに、今日の箇所のどこが皆さんは一番心にとまったでありましょうか。私は今日の箇所を読むときに、9節で見た言葉が心にとまりました。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上にとまった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とあります。

 占星術の学者たちは、星を見て喜びにあふれたとあります。幼子イエス様と会ったときには、本当に喜びが爆発していたと思いますが、そのイエス様と出会う前に、星がとまった、その星の下にイエス様がいらっしゃるということがわかったとき、そのときに喜びにあふれたと書いてあります。

 それは今日、私たちが聖書を読むということと似ていると思うのですね。私たちはイエス様と出会うということを文字通りの意味で経験することはありません。時代が違う、いろいろなことが違っている。けれども、その中で私たちは聖書を読むときに、聖書の言葉が星の役割を果たしてくれる、ということを知ることができるのです。

 

 この言葉の下に、イエス様がいらっしゃる。この言葉がピタッと止まった所、つまり、私を導いて、ピタッとここだと聖書の言葉が言ってくれる、そこにイエス様がおられる。私を救って下さる神様の御心がそこにあるのだと。そのことを私たちは知ることができるのであります。

 東の国から三人の博士たちがやってきました。という、クリスマスのページェント、降誕劇というものを以前、私が幼稚園の園長をしていたときに、可愛い園児たちが演じてくれるのを毎年見ていました。その中で、子どもたちが言うのです。「大きな星が出たよ。何の星だろう。調べてみよう」と言って、子どもたちが調べて、「あれは、救い主がお生まれになったことを知らせる星だ」と言って旅に出るのでありました。

 その博士たちが三人と言っていたのですが、三人なんていうことは聖書には書いてありません。それは、黄金、乳香、没薬という三つの贈り物を学者たちが届けたので、その三つを一つずつ持って学者たちが来た。そういう物語が出来てきたのです。

 そういうことも含めて、聖書の物語やクリスマスの物語というものは、聖書そのものには基づいていなかったり、いろんな脚色が入っていたり、いろんなことをしています。しかし、だからと言って、子どもたちの楽しいクリスマス・ページェントが違っている、ここは現実と違う、こは……と言っていたら、どうなるでしょうか。楽しいクリスマスが台無しになってしまいます。

 

 私たちに必要なことは、細かいことを調べ上げて、それが事実かどうかを確かめることではありません。そうではなくて、聖書の中に記されている星というものが、どんな働きをしてくれるかを知ることです。その星の止まった所の下に、イエス様がおられる、そこに向かって人々が歩んで行った、そうした人々の願い、思い、そして信仰。そうしたものが聖書には記されています。

 現代の私たちも、全く同じく、そのような信仰を持つことができるのです。東の国の三人の博士たちは、贈り物を届けるために、星を見てずっと長い道を歩んできました。そして本当に、その星が止まる、つまり自分たちが出会う方と出会う、そういう経験をいたしました。私たちもまた、一人ひとり、そのことができるのであります。

 お祈りをいたします。
 天の神様、新しい年が始まりました。世界は動乱の中にあり、私たちの生きる日本の国も大変な困難の中にあります。そして一人ひとりの人生が、本当にまるで暗闇のような世界の中に踏み出していくような、そんな思いがあるときもあります。しかし、どのような時にあっても、星が導いて下さること、足下に明かりがあり、夜空に星があり、私たちは進んでいくことができると信じます。どうか一人ひとりに神様の招き、導きをお与え下さい。そして、世界にまことの平和をお与え下さい。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

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「実行よりも大切なこと」 
 2023年1月15日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  ガラテヤの信徒への手紙 3章 7〜14節 (新共同訳)

 

 だから、信仰によって生きる人々こそ、
 アブラハムの子であるとわきまえなさい。

 

 聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、

 「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」
   という福音をアブラハムに予告しました。

 

 それで、信仰によって生きる人々は、

 信仰の人アブラハムと共に祝福されています。

 

 律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。

 「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、

  律法に呪われている」と書いてあるからです。

 

 律法によってはだれも神の御前で義とされないことは明らかです。

 なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。

 

 律法は、信仰をよりどころとしていません。

 「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。

 

 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、

 わたしたちを律法の呪いから贖(あがな)い出してくださいました。

 「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。

 

 それは、アブラハムに与えられた祝福が、

 キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、

 また、わたしたちが、

 約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。
   

 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
   改行などの文章配置を説教者が変えています。
   新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 新年2023年に入り、今までは12月はアドベント(待降節)の期間でしたので、クリスマスに向けた聖書の箇所を読み、また新年に際しても、そこから続いた聖書箇所を読んでおりました。

 本日から、昨年にずっと続けていた聖書の選び方、すなわち福音書使徒パウロの手紙、旧約聖書、その三箇所から毎週順番に選んで読んでいく形に戻ります。本日の箇所はガラテヤの信徒への手紙3章7〜14節であります。

 今日の箇所は3章の1節から始まっている流れの中にあります。3章1節にはこうあります。「ああ、ものわかりの悪いガラテヤの人たち。誰があなたがたを惑わしたのか。」こういう叱る言葉で始まっています。

 ガラテヤというのは当時の地中海沿岸の町の名前なのでありますが、そのガラテヤという地域にあった教会、その教会にいる信徒の人たちに対してパウロが手紙を書き送った、その一部なのでありますけれども、当時このガラテヤの教会の中では一つの問題が起こっていました。それは、こういうことでした。

 ガラテヤの教会の人たちは、主イエス・キリストの福音を聞いて、いろんな律法による縛りというものから解放された、つまりいろんな決まり事を守ることによって救われるという、それまでの宗教の信仰から解放されたはずでした。

 それまでの宗教の決まり事を守ることではなくて、心で神様を信じるその信仰によってのみ救われるという信仰を、イエス・キリストの新しい福音を聞いて信じたのです。

 ところが、その教会の人たちが、あとになって、教会に再び入ってきたといいますか、影響を与えてきた考え方、それはイエス・キリストの福音を聞いて救われても、やはり旧約聖書の律法を守らなくてはならないという、「律法主義」の考え方が後になって教会の中でまた影響を持ってきたのですね。

 なぜそのようになったのか、という具体的なことはよくわかりませんが、教会というところにいろんな人たちが集う中で、旧約聖書の律法を守ることを大事に思っている人たちが来て、そしてその影響が教会の中で広まってきたようなのであります。

 律法を守るということは、人間の生活や道徳、また社会的な契約、そういうものをしっかりと守っていく、つまり生活においては大切なことでありますけれども、しかし、その「律法を守らなくては救われない」という考え方は、使徒パウロから見たときには全く間違っていました。

 というのは、神様に救われるということは、ただ信仰によるのであって、決して人間の行いによってではない、そのことがパウロが深く確信していることだったからであります。

 そしてパウロは、ガラテヤの教会の人たちが、また古い律法主義に戻ろうとしている様子にあきれ果てて、叱っている、それがこのガラテヤの信徒への手紙3章であります。その1節から始まる所の続きが7節以降、今日の聖書箇所であります。

 今日の箇所では次のように言われています。「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」

 ここでは「信仰によって生きる人々」と、さらっと書いてありますけれども、それは何を示すかというと、「律法を守って」生きる人々ではなくて、「信仰によって」生きる人々、つまり、律法を守っていなくても、その人が神様を信じる信仰というものを持っているならば、その人は旧約聖書に登場するアブラハムの子である、というのです。

それは旧約聖書の信仰にしっかりとつながっている人、神に救われた人であるということを言おうとしているのです。

 ここには、当時の人たちの考え方として、イスラエル民族の人たちは最初から神様によって救われている選ばれた民であるとして、それ以外の異邦人、つまり外国人は最初から救われていないけれども、旧約聖書の律法を守ることによって神の救いに入れられる、という考え方があったわけです。

 しかしパウロがここで言っているのは、そうではないのです。どの人も「信仰によって生きる」、それは「行いによって」ではなく、神様に対する「信仰によって」生きる、それが元々の旧約聖書の信仰、神様の御心であるということをパウロはここで言っているのです。

 だから、「信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」と言っているのは、信仰によって生きるならば、イスラエル人と外国人、異邦人の区別はない。世界のどの人も、どの民族、どの国に属していようと、どんな過去の経歴があったとしても、それと関係ないということです。

 いまお一人の神様を共に信じる、その信仰を持つときに、その人は旧約聖書の信仰に沿って、その中にしっかりつながって生きている人である、そのことをわきまえなさい、と言っているのです。

 ここでは、一人の人間の、その所属である民族であったり、国籍であったり、過去の経歴であったり、家族関係であったり、そうしたものによって、その人が救われるか救われないかが決まる、というような旧来の宗教的な考え方を、パウロイエス・キリストの福音によって打ち砕いているのです。

 そのような古い考え方はイエス・キリストの福音によって、もはや過去のものになった、そうしたパウロの深い考え方がここから伝わってくるのです。

 

 そして8節。「聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました」とあります。旧約聖書の創世記の言葉がここで引用されています。

 

 そして9節。「それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。」そして次のこうあります。「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、律法に呪われている』と書いてあるからです。」ここでは旧約聖書申命記の言葉が引用されています。

 パウロはここで、「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています」ときつい言い方をしています。

 それは旧約聖書に「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、律法に呪われている」と書かれているからであり、そしてどんな人も律法を完全に守ることはできない、だからどんな人も律法の実行に頼るなら、その人は呪われている、と言っています。

 11節以降はこうあります。「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。『律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる』のです。」

 ここでは旧約聖書の言葉を引用しながら、信仰によって生きるのであれば、その人は神様から祝福を受ける、しかし律法に頼る人は、自分が頼っている律法そのものがその人を裁くのだということをパウロは言っているのです。

 生身の人間は律法を完全に守ることなどできない。にもかかわらず、その律法を守ることによって救われるのだと信じるならば、その自分の信じている律法そのものが自分を裁いて、その人が呪われたものとなるということです。

 自縄自縛(じじょう・じばく)という言葉がありますが、自分が信じている宗教そのものによって自分が呪われたものとなる、祝福されないものとなる、そうした人間のつらい現実、ということをパウロはここで言っているのですね。

 そしてそのあとの13節です。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖(あがな)い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」

 ここで言われている「キリストは、わたしたちのために呪いとなって……」という言葉は、読んで居いてちょっと私たちをぎょっとさせて、何か怖い感じがするかもしれません。

 ここでパウロが言っているのは、キリストが十字架にはりつけにされて、そこで死なれたという、この本当に悲しい、つらい苦しい出来事のイエス・キリストの十字架の死というもの、それは人の目から見たら、呪いとしか見えないことであった、ということを言っているのですね。

 人の目から見たときには、イエス・キリストの死ということは、無実の人が捕らえられて、そしてローマ帝国の最も重い刑罰である十字架刑に処せられた。なんと恐ろしいことか。まさにこれは、「呪い」としか言いようがない出来事だったわけであります。

 「『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」というのは、旧約聖書の律法の引用です。そう書かれているように、イエス・キリストの十字架の死は、呪われたことだったのです。

 しかしパウロはこう言います。「それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。」とあります。

 イエス・キリストの十字架の死、それはイエス様の弟子たちにとって受け入れがたい、耐えがたい痛み、苦しみでありました。なぜこんなことが、と思う、信じられない出来事でありました。しかし、イエス様は十字架の死の三日の後によみがえられて、一人ひとりと出会って下さった、その復活ということが福音書には記されています。

 そのことによって、最初は呪いでしかなかった、悲しいことでしかなかった、イエス・キリストの十字架の死ということが、それは実は私たち人間一人ひとりの罪をイエス様が身代わりになって背負って下さったことだと言うのです。

 そしてその身代わりの罪を背負って死なれることによって、私たちの罪はもう終わったのだと言うのです。イエス様が私たちに変わって死んで下さることによって、私たちの罪は帳消しにされて、もう終わったのです。

 つまり、イエス・キリスト、神の独り子、イエス・キリストを犠牲の存在とすることによって、神様は、本当は罪ある私たちの罪を清めて下さったと福音書は示しています。そして使徒パウロイエス・キリストの福音に出会って、まさにそのことを信じて、今日の聖書箇所においては様々な旧約聖書の箇所を引用しながら語っているのです。

 律法を守ることによっては人は救われない。そうではなくて、神様が私たちに与えて下さった信仰、キリストを信じる、心で信じることです。行いでそれを証しするということではなくて、ただ信仰によって誰でも救われる。

 民族・国籍・性別・年齢・どんなことをしてきたか、そうでなかったか、そんなことと全く関係なしに、神の愛によって救われるのです。性別も年齢も、どんな仕事をしてるかも、家族関係も血筋も、どこに住んでいるか、地域・国、そんなこともすべてもう関係がない。

 それが、使徒パウロが主イエス・キリストから受け取った福音でありました。イエス・キリストを主と信じるときに、私たちはこの現実世界を生きながら、同時に、もう一つ、新しい神の国というものに包まれながら、その神の国の中を生きていきます。

 イエス・キリストの福音、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)とイエス様が公の宣教の一番始めに言われたこと、まさにそこから始まった宣教を、使徒パウロは受け継いで語っているのであります。

 パウロは、十字架で死なれる前のイエス様に直接出会ったことはありませんでした。言わば生前のイエス様とは一度も出会ったことがないのです。イエス様が復活され天に挙げられた後に、聖霊、神様の聖い霊、聖霊の働きを通して、その福音をパウロは受け取ったのであります。

 そこからパウロ使徒として伝道者となりました。他の使徒たちと違う所は、イエス様と直接出会ったことがないことです。ペトロたち12人の弟子たちは使徒と呼ばれていました。イエス様から直接教えを受けていたからです。

 しかし、そうではなかったパウロもまた、使徒と呼ばれるようになりました。パウロ目はイエス様に直接お会いしていない。しかし聖霊を通してイエス様と出会い、その言葉を聞き、伝道者となった。そのパウロの思いが、今日の聖書箇所にはあふれています。

 一読しただけでは、今日の箇所は旧約聖書の言葉がカギカッコに入れられて色々と引用されており、わかりにくいかもしれません。けれども、ガラテヤの信徒への手紙の全体の文脈の中でいきますと、今日の箇所はこの手紙のなかで最も大事な所と言ってもいいかもしれません。

 神様に対する信仰というのは決して、律法の実行によって救われるという信仰であってはならないのです。なぜならば、そう信じてしまうならば、人間は自らの努力で神の救いを得るために、競争するからです。

 そして、その自分たちがどんなふうに努力したかということを、お互いに論評し、区別を付け、差を付け、そして「この人は救われない」「あの人は救われる」といって点数を付けて人を評価していくのです。

 すると結局、その宗教の物差しによって人間を評価するという形になり、結局は差別・抑圧を生み出していくのであります。それでは人間は救われないのです。行いによってではなく、ただ信仰のみによって救われる。その信仰が、キリスト教の信仰であり、特にプロテスタント教会である私たちの教会も、そのことを受け継いでいるのであります。

 今日の箇所は、ガラテヤの教会の人たちの中に、律法主義に立ち戻ろうとしている人たちが出てきた、その律法主義の影響を踏まえて使徒パウロが叱っている、そして叱るだけではなく、本当の信仰とは何かということを旧約聖書を通して順々に教えている所です。

 なぜ旧約聖書を引用しているかというと、おそらく、ガラテヤの教会に集まっている人たちは、旧約聖書の信仰から離れることを恐れていたのですね。イエス様を信じたことは良かったけれども、旧約聖書から離れてしまうことはよくない、という思いがあって、旧約聖書の信仰を大事にしようという思いがあって、そのときにやっぱり、旧約聖書に記された、この律法をしっかり守るという方向に、また心が戻っていく。

 それは、ある意味で人間の感情としては、自然なことだったのかもしれませんね。最初はイエス・キリストの十字架と復活の福音の説教を聞いて、律法主義から解放されて自由と解放を味わったはずなのです。

 けれども段々と時間が経つと、イエス・キリストを信じる信仰というものが当たり前になってきて、律法からの自由も解放も当然だというようになってきて、そして生活がルーズになったり緊張感がなくなってきたときに、やっぱり律法は大事ですよ、という人が出てきて、「そうだ、そうだ」ということになったのです。

 すると律法、つまり生活を律するために文字で書かれた言葉、それはお互いを縛るというと変ですが、お互いの生活はこうであるべきだ、とお互いを規定していくためには、律法というものは大変に便利なものであったわけであります。

 そして、そうして「律法主義」に戻っていったほうが、ある意味で生きやすいところがあるのですね。もう決まっていることを守っていたらいいわけですから。決まっていることを守っていったら救われる、そしてその決まっていることを守れない人がいたら、「ああ、ダメだ。あの人は救われない」といって差別して放り出していく。

 そうしたほうが、人間の集団としての教会はうまくいくといいますか、成り立っていくのですね。けれども、そこにパウロの手紙がやってくるのです。

 ガラテヤの教会の皆さん、それではいれませんよ。自分たちの努力で神の救いが得られるなんて思っちゃいけませんよ。お互いに競い合って、お互いに裁きあって、律法を実行することによって救われる、そうしたことは人間の集団としてはやりやすいだろう。でも、それじゃダメなんですよ。

 パウロは自らの経験によって、今日の箇所を語っています。かつて熱心な律法学者だったパウ目は、ある日突然に目が見えなくなります。今までは律法を守ることによって救われると信じていたのに、目が見えなくなると律法を守ることができません。

 そのとき初めて、パウロは、自分の信じていた信仰って何なのだろう、神って何だろうと、パウロの心に暗闇がやってきた。その中でイエス・キリストの言葉が聞こえてきた。そのことを、使徒言行録やパウロ自身の手紙の中でパウロ自身が語っているのです。律法主義に戻ってはいけない。

 今日の聖書箇所はそのような箇所であります。この箇所を皆さんは、どのように読まれるでありましょうか。

 この箇所を読みながら私が思いましたことは、こうしてイエス様の十字架の死によって私たち一人ひとりの罪が清められて新しい命が与えられた、それはイエス・キリストの復活にあずかる、その復活の新しい命というものが私たちには与えられている、その喜びを持ってこれからも生きていきたいなあ、ということです。

 それと同時に、その喜びをもってこれからも生きる、というときに、ではその自分のする行いというものはどういう意味を持つのだろうか、と私は考えました。

 今日の箇所で繰り返し言われているように、「律法の実行によって救われるのではない」、ということははっきりしています。では、一方で、その「行い」ということは、しなくてよいことであるのか、というと、そうではないはずです。

 パウロが書いたたくさんの手紙においては、コリントの信徒への手紙というものがあります。

 そこにはコリントの町の教会の人たちが、自由と解放のイエス・キリストの福音、その喜びにひたっていたのでありますけれども、その中で何が起こったていたかというと、聖餐式をするときに、先に来た人たちはパンとぶどう酒を腹一杯食べて酔っ払っており、あとから来た貧しい人たちは食べるものがない。そんなおかしなことが起こっていました。

 

 それは、つまり、世の中の有り様というものが教会に持ち込まれて、みんながルーズになってしまっている。そして片一方では酔っ払って腹一杯になっている人がいて、その一方では食べるものがない人たちがいる。そんな世の中の縮図のような教会になってはいけない。パウロはそのようなコリント教会の人たちを叱っていました。

 そして、今日のガラテヤの教会の人たちには、律法主義に戻ることを叱っています。まあ、私は「叱って」と言っていますが、もしパウロが聞くなら、その「叱る」ということではないと言われるかもしれません。パウロは何も叱りたいわけではなくて、教会の人たちがおかしな方向に傾いていくことが悲しかったのかなあ、と思うのですね。

 世の中の差別や抑圧というものを、そのまま教会の中に持ち込んだり、あるいは宗教の悪い面である律法主義というものを、教会の中でまたはやらせたりする、そういうことによって、いつの間にか、イエス・キリストと出会った喜びというものが、どこかに行ってしまう。そのことがパウロは悲しかったのではないかと、私は思います。

 そうやって考えてくると、では、救われた者が、イエス・キリストによって救われた者が、どんな生き方をしたらよいかといえば、それは、イエス・キリストから離れない生き方を行っていく、ということが大事なのだということがわかります。

 私たちは、何か行いによって徳を積むことによって、自分の何かの点数を上げて神様に救われるのではありません。イエス・キリストから離れたくないから、イエス・キリストを知って、イエス・キリストがなされたことを聖書から教えられて、「じゃあ、私はどうしよう」と考えて生きていく。それが、私たちの「行い」ということになります。

 イエス・キリストに「ならって」生きる、ということであります。けれども、ここで注意しておきたいことは、イエス・キリストにならって生きるということは、イエス・キリストを模範とするということ、と言っていいのですが、私自身があまりそういうことを言葉として言わないのです。

 

 その理由は、そうやって「イエス・キリストを模範として」とか「イエス・キリストにならって」ということを言うと、「私はとても、そんなことはできません」というふうにみんな思うからです。

 みんな、「イエス・キリストにならって」というと、何か聖人君子のようになって、たとえば貧しい人の所に行って、こんないいことをしました、こんな正義のことをしました、人の犠牲になって、というような、何と言ったらいいのでしょうか、何かすごいことをする、イエス・キリストとかそういう人にならうことをしないといけない、と言われると、「とてもできませんわ」とみんな言うのです。

 「イエス・キリストにならって」とか「イエス・キリストを模範として」と言うときに、それは何か、あたかもイエス・キリストが1番で、そして私たちがロボットのようになって、何かイエス・キリストのまねをする、そういうことを言っている訳ではないのです。

 そうではなくて、一人ひとり自分で自分の生き方を考えたらいいのです。それは、イエス様のまねをするということではなくて、「私が、イエス様から離れたくないから、私はこういう生きたかをする」、それがどんな生き方であるか、ということはみんな一人ひとり、ご自身で考えていただいたらいいのです。

 皆さんどうされますか。イエス・キリストと離れないために。毎週礼拝に行こう。これは本当にその通りですね。礼拝に出られない日曜日は聖書を読もう。そうしたことも一つですね。また、自分だけではなくて他者のためにも祈ろう。それも一つです。そしてまた、何かの社会的な活動であったり、あるいは自分の家族の中で何かをしよう。

 なぜ、そうするかといえば、それをすることで私はイエス様を思い起こせるから。あるいは、イエス・キリストと出会ったことの記念として、私はこういうことをしたい、とか、あるいは、私はイエス様からこういう、素晴らしいことをしていただいたから、私も人に対して、そのイエスからしていただいたことを、人にちょっとでもしたい。そういうことで構わないのです。

 そういうことをすることによって、イエス・キリストから離れないために、自分がする行いというものを、自分のオリジナルとして考えることができます。皆さんが、どのようなことをなされるか、そのことを神様は楽しみに待っておられます。

 お祈りをいたします。
 天の神様、日々、私たちがいろんなことを考え、思い悩み、また社会で起きる出来事や世界で起こっている出来事の、その暗さ、重さ、大変さに押しつぶされそうな気持ちになるときもあります。そんな中でいつも私たちと共にいて下さる神様、その神様が私たちに与えてくださった友である、主イエス・キリストを心から感謝いたします。「あなたがたを友と呼ぶ」と言って下ったイエス様に感謝し、そのイエス様から離れないために、一人ひとり、その行いをすることができますように。そのとき、いつも神様が共にいて励まして下さい。間違った方向に行こうとしているなら引き返し、そして勇気が出ないならば勇気を出すことができますように。いつも自分だけではなく、隣り人がいることを覚えて感謝して、共に歩むことができますように導いて下さい。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。

 

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「走ってきた兄、和解へ」  
 2023年1月22日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  創世記 33章 1〜11節 (新共同訳)

 

 ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。

 ヤコブは子供たちをそれぞれ、レアとラケルと二人の側女(そばめ)とに分け、

 側女とその子供たちを前に、レアとその子供たちをその後に、
 ラケルとヨセフを最後に置いた。

 ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。

 エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。

 やがて、エサウは顔を上げ、女たちや子供たちを見回して尋ねた。
 「一緒にいるこの人々は誰なのか。」

 「あなたの僕であるわたしに、神が恵んでくださった子供たちです。」
 ヤコブが答えると、側女たちが子供たちと共に進み出てひれ伏し、
 次に、レアが子供たちと共に進み出てひれ伏し、
 最後に、ヨセフとラケルが進み出てひれ伏した。

 エサウは尋ねた。
 「今、わたしが出会ったあの多くの家畜は何のつもりか。」

 ヤコブが、「御主人様の好意を得るためです」と答えると、

 エサウは言った。
 「弟よ、わたしのところには何でも十分ある。
  お前のものはお前が持っていなさい。」

 ヤコブは言った。
 「いいえ。もしご好意をいただけるのであれば、
  どうぞ贈り物をお受け取りください。

  兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。

  このわたしを温かく迎えてくださったのですから。

  どうか、持参しました贈り物をお納めください。

  神がわたしに恵みをお与えになったので、わたしは何でも持っていますから。」

 ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。




 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
  改行などの文章配置を説教者が変えています。
  新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

 

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 (以下、礼拝説教)  

 

 毎週の礼拝で、福音書使徒パウロの手紙、旧約聖書、その3箇所から選んで毎週順番に読んでいく、という形に新年に入って先週から戻しています。今日の箇所は旧約聖書の創世記33章1〜11節であります。

 ここには「エサウとの再会」という小見出しが付けられています。こうした小見出しは新共同訳聖書が作られるときに、読む人の便宜のために付けられたものであって、元々の聖書にはありません。今日の箇所は、エサウヤコブという双子の兄弟、そしてそのお父さんであるイサク、その妻であるリベカ、そうした家族たちのとても長い物語の一部分であります。

 

 旧約聖書に登場するイスラエルの古代の人たちの中で、非常に重要な人物はアブラハムという名前の人です。この人がイスラエルという民族の元々の一人であった。民族の父としてアブラハムという名前が記録されています。

 そして、アブラハムの子どもがイサク、そしてその子どもがヤコブ。この三代がイスラエルの一番始まりのときの部族の族長であった。リーダーであり、父親としての役目を果たしていた。

 アブラハム、イサク、ヤコブと続く三代があり、ヤコブの子どものヨセフの時代に、飢饉になり食べる物がなくなってエジプトに移り住み、そのあとの時代が過ぎて、そこから脱出する出エジプト記、というように旧約聖書の物語は雄大な形で続いていきます。

 今日の聖書箇所は、その長い長い歴史の一部分であります。エサウヤコブというのは、双子の兄弟でありました。父親はイサクです。このエサウヤコブは、別れていました。なぜならば、父親イサクの持つ権利というものを元々は、長男のエサウが引き継ぐはずだったのが、いろんな人間の思惑が働いてヤコブがそれを奪い取るような形で自分のものにしてしまった。

 そこには、イサクの妻リベカの計略があったと書かれています。本当なら父親の相続人であるエサウが受けるべき父親の祝福というものを、計略によって奪い取ってしまったという話が創世記には記録されています。

 そのことによって兄エサウは非常に怒り、ヤコブを殺そうといたします。そのことを知ってヤコブは家を脱出します。そして脱出した後、大変に長い年月をかけてよその土地に行き、そこで出会ったラバンという主人のもとで働いて、苦労して働いて、結婚してたくさんの子どもが与えられ、その地で生活していた。

 そのさなかに神様がヤコブに対して、あなたの生まれ故郷に帰りなさい、ということを命じたのです。その言葉を聞いてヤコブは故郷に戻ることにしました。しかし故郷には兄エサウがいます。どんなふうに顔を合わせたらいいのか、悩むヤコブの姿が創世記には書かれています。

 エサウから離れたヤコブの逃亡生活、それは順調なものではなく、大変苦労に満ちたものであったことが、創世記にはずっと記されています。そして、その苦労した生活を続けて、やっと安定した生活が与えられた、というときに、元の所に帰れと神様がおっしゃる。それはどういうことでありましょうか。

 何々のために、ということは神様は説明なさらず、あなたは故郷に帰るべきである、帰りなさい、と神様は示されたのであります。そうして、ヤコブは大変悩みながら、事前に偵察を送ったり、兄エサウの様子をうかがったりしながら、帰ったきたのです。それが今日の聖書箇所です。

 1節から見て行きます。
 「ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。ヤコブは子供たちをそれぞれ、レアとラケルと二人の側女(そばめ)とに分け、側女とその子供たちを前に、レアとその子供たちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた」とあります。

 そして、「ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した」とあります。七という数字は完全ということを意味しています。完全にお詫びしたということです。地にひれ伏して。ここにヤコブの気持ちがこめられています。

 

エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。やがて、エサウは顔を上げ、女たちや子供たちを見回して尋ねた。『一緒にいるこの人々は誰なのか。』『あなたの僕であるわたしに、神が恵んでくださった子供たちです。』」

 このような会話を交わしていますから、エサウは弟ヤコブがどんな生活をしていたか、全く知らなかったのであります。ヤコブエサウのもとから逃亡し、その土地に行き、その土地で出会った主人からひどい扱いを受けならがも働き続け、そしてたくさんの家族を与えられていました。ヤコブはそのことを報告したのです。

 そのあと、「ヤコブが答えると、側女たちが子供たちと共に進み出てひれ伏し、次に、レアが子供たちと共に進み出てひれ伏し、最後に、ヨセフとラケルが進み出てひれ伏した」とあります。家族全員がエサウの前でひれ伏したというのです。あなたに従います、という意思を家族全員で表したのです。

 「エサウは尋ねた。『今、わたしが出会ったあの多くの家畜は何のつもりか。』ヤコブが、『御主人様の好意を得るためです』と答えると、エサウは言った。『弟よ、わたしのところには何でも十分ある。お前のものはお前が持っていなさい。』ヤコブは言った。『いいえ。もしご好意をいただけるのであれば、どうぞ贈り物をお受け取りください。兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを温かく迎えてくださったのですから。どうか、持参しました贈り物をお納めください。神がわたしに恵みをお与えになったので、わたしは何でも持っていますから。」ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。」

 

 こうしてヤコブは自分の家族を全員紹介し、そしてたくさんの贈り物である多くの家畜を連れてきて、それを兄に献げたのであります。ここでヤコブはこう言っています。「兄上のお顔は私には神のみ顔のように見えます。この私を温かく迎えてくださったのですから。」

 このようにしてヤコブは、兄に対して最大限の敬意を表しています。元々、エサウヤコブの双子の兄弟が分かれ分かれになる理由というのは、ヤコブの側の問題だったと考えられています。双子の兄弟の父であるイサクが歳を取って目が見えなくなってきた。その状態に乗じる形で、イサクの妻であるリベカが一計を案じたのであります。

 目が見えないイサクの前にヤコブを行かせて、そのヤコブエサウであるかのように振る舞わせて、美味しい料理を作って食べさせて、そうしてイサクをだまして、イサクが本当はエサウに与えるべき長男への祝福、つまり父親の持つ権威の全権委任、相続ということを、目が見えなくなっているイサクをだます形で奪い取ったのです。

 その物語を思い起こすときに、それはリベカが考えた計略であってヤコブが考えたのではない、ということもいえるのですけれども、しかし実際にそれを実行したのはヤコブであり、そのように偽りのこをして父親の祝福を奪い取った、ということが消えるわけではないでしょう。

 そうしたことを思い起こすとき、何十年も経ったあとに出会ったエサウヤコブの双子の兄弟、その関係の中でヤコブは徹底して頭を下げ、持っている財産を兄に献げて、この好意を受け取ってほしい、この贈り物を受け取ってほしい、そう願っているのであります。

 すべての家族を紹介し、みんなで頭を垂れてひれ伏して、神様から与えられた恵みをたくさん、ここでは家畜という形で兄に差し上げようとしている。それがヤコブの姿でありました。そして、このヤコブの謝罪と言ったらいいのでしょうか、この姿をエサウは受け入れます。そのあと、エサウヤコブが一緒にいる姿が、創世記に書かれています。


 こうして元々は一緒に住んでいたイサクの家族が、人間的な思惑によってバラバラになってしまった、その何十年か後の再会というものが、旧約聖書には記されているわけであります。

 この話を読んでいて少し気になるのは、母親のリベカはどうなったのかということです。母親のリベカはもう登場しません。この物語の中には現れません。注解書を見ると、リベカはこの再会の以前にもう死んでいたのであろうと書いてありました。そういうことなのだろうと思います。

 

 元々、一計を案じてエサウヤコブの双子のうち、ヤコブのほうに目をかけて、ヤコブがイサクの長子としての権利をエサウから奪い取るような計略をしたのはリベカでありましたが、そのリベカはもうこの世にいない。ということでありました。

 もうリベカは世にいなくなっていたとはいえ、あのときヤコブが小さな子どもではなかったのですから、自らの意思もあってそうした計略で父親の祝福を奪い取った、そのことに罪というのはどうなったのか、ということも思います。今日の聖書箇所で、エサウヤコブにそのことを問うていません。

 

 この聖書箇所を読みながら、私は思い起こしたことがあります。それは新約聖書ルカによる福音書の中にあります「放蕩息子」のたとえという、イエス様の言葉であります。ルカによる福音書に記された放蕩息子のたとえ。これは、イエス様が語られたたとえ話であります。

 ある家庭において、父親がいて二人の息子がいた。そして、その次男のほうが父親の財産を生きている間に分けてほしいと言って、その財産をせしめて、そして町に行ってその財産を使い果たしてしまう。そして落ちぶれる所まで落ちぶれて、もう食べるものもなくなり、行くところがなくなってきて、お父さんの所にとトボトボと帰って来ると言う話です。

 

 そのときに、その息子は大変悩みつつ帰ってきてます。「あなたの雇い人の一人にしてください」と言うことを心に決めていました。その息子が帰ってくるとき、まだその息子の姿が遠くにしか見えないときに、父親はその息子を見つけて走り寄ったと書いてあります。そして父親がその息子を抱き締めて、放蕩息子は家に帰ることができたのです。

 

 そうした放蕩息子の話を、私は思い浮かべていました。なぜ、今日の聖書箇所の話とはだいぶ違いがある放蕩息子の話を思い出していたのかというと、今日の聖書箇所の33章4節に「エサウは走ってきて」という言葉を見たときに、走ってきて、そして、迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた、と書いてあるこのときに、エサウが走ってきた、お兄さんの側から走ってきた、そのことが放蕩息子を迎えた父親が走り寄った、そのことと重なったのであります。

 

 もちろん、このエサウヤコブの話と、放蕩息子の話はずいぶん違っています。放蕩息子の話はひどい話です。まだ父親が生きている間に、あなたが死んだら私がもらえる財産を今のうちに下さい、と言ってそれをせしめて、町に行って遊び尽くして、全部すっからかんになって、食べるものがなくなって、豚の世話をするようになって、豚のえさでも食べたいと思っても、誰も食べ物をくれなかった。お金がなくなったら、もう誰も自分には関わってくれない。

 もうそこまで落ちぶれてしまってから、「ああ、もう自分はお父さんの息子と呼ばれる資格はない、雇い人の一人にしてもらおう、といって帰って来た。その話は、エサウヤコブの話とはちょっと違うと思います。しかし、どうでしょうか。色々考えていくと、だんだんちょっと、似たような者がある気がしてきました。

 ヤコブは母リベカが言うままに、その計略で父親イサクをだまして、その長子、長男の権利を奪い取ります。聖書の中では「祝福」を奪い取った、そういう表現になっていますけども、本来ながら兄上が受けるべき祝福を奪い取った。ずるいやり方で父の財産をせしめていった。

 そして放蕩息子のほうは自分の意思で父のもとを離れ、家族のことを離れて、町に暮らしてしまうのですけれども、いやあ、もしかしたら、ヤコブとあの放蕩息子は似たようなものだったかもしれないなあ、ということを思い起こしました。

 

 そうやって考えると放蕩息子の話も、ちょっと何か、読み方が変わってくる気がするのですね。あのどうしようもない放蕩息子と思っていましたけれども、実は放蕩息子一人の判断ではなくて、どこかに黒幕がいたのかもしれない。

 あるいは放蕩息子だって、最初から遊んで暮らしたいと思っていたわけではなくて、最初は父親から財産をもらって、町に行って何か商売をして堅実に仕事しようと思っていたのかもしれない。それが町に出るといろんな誘惑を受けて、仕事もしないうちにあんな風になってしまった、そんなことだったのだろうか、そんなふうに考えてみました。

 もちろん、放蕩息子とヤコブの二つの話は違っています。ヤコブはひどい主人のもとで働いて結婚して、そして家族が与えられ、財産ができ、そのような生活をしていきます。そのヤコブと放蕩息子は全然違っています。

 けれども、この家族の関係の中で何かがあって、何かの力が働いて別れていったということは同じですし、そして離れていった後、ずっと時間が経った後に、もう一度、あのふるさとに行きたい、もう一度あの家族のもとに行きたい、と思って出会う、その理由は二つの話で違っています。

 ヤコブのほうは、神様から命じられてエサウの所に戻ってくるのです。放蕩息子は自分が食べるものがなくなって、父親の所に行くのです。それは違っていると言えば違う。理由は違う。けれども、やっている行動は同じではありませんか。

 ヤコブにとっても、母親のリベカの計略が悪かったんだといえば、そうなのですけれど、もうリベカも死んでしまった。そうなると、一番最初にどんなことがあったか、何が原因でエサウヤコブはバラバラに生きるようになったのか、なぜヤコブエサウの前から逃亡しなければいけなくなったのか、というきっかけはもちろん忘れてはいないでしょう。

 けれども、しかしそのことによって、過去のそのことをどう解決するかということの以前に、まず神様があなたはエサウともう一度会いなさいと神様が言った、そこからエサウとの出会いになってくるわけであります。

 過去にあった、あの問題を、あれは何が原因だったのか、どうしたら良い解決になるのかと考えることは、もちろん一般の裁判とか、国と国の問題とか、いろんな問題に関して言えば、確かにそれは大事なことであります。けれども一方で聖書が指し示しているのは、歴史の中で神様が何をして下さるのかということなのですね。

 人間が何をしなければいけないかということは、もちろん、人間の法律とか人間の歴史観、人間のいろんな関係の中でとことん考えなくてはなりません。しかし、そうした人間的な思惑をずっと考えていけば、そこに確かな解決が生まれるということではなくて、まず神様があなたはエサウの所に戻りなさいと言われました。

 その理由が何であるかを示されていませんが、神様がそう言われたという所で、ヤコブエサウの所に会いに来たのですね。それが今日の聖書箇所の話であります。そして、こうして帰ってきたときに、エサウは走ってきてヤコブを迎えて抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いたとあります。

 共に泣いた。片一方だけが泣くのでなくて、共に泣いた。このときエサウが走ってきたのは、いま、この二人、エサウヤコブの二人の兄弟が出会ったときに、エサウは自ら走り出たのです。ヤコブがきちんと謝ったら許してやろう、ということではなくて、まず出会うんだ、しかも、この私の側から走っていくんだ。それは、エサウにとって何か計算してとった行動ではなくて、思わずそうした行動だったと思われます。

 その、思わずとった行動によってヤコブもまた共に涙するのです。ヤコブエサウと出会う前にいろんなことを考えて、すごく悩みました。偵察を送ったり、たくさんの家畜を連れてそれで何とか兄をなだめようとか、いろんなことを考えていました。ヤコブは賢い人です。けれども、ヤコブがそんな賢い人であることよりも、それとは関係なくエサウは走ってきてヤコブを抱き締めました。

 

 放蕩息子の話だって、それ同じようなものがあると思うのですね。あの放蕩息子も結構賢いと思います。財産の生前分与。そして、町に行って最初から遊び尽くして財産を全部すってしまう、そんなことを最初から考えていたわけではありません。適当に遊んで、仕事もしっかりして、独立して生きていくんだと、心が燃えていたのではないでしょうか。けれども失敗して、何もなくなってしまいました。

 そして、どうしようもなくなったときに、父親の所に帰って雇い人の一人にしてもらったら、私はまだ食っていくことはできるのではないかと思い、都会では信用をなくしてしまって誰も雇ってくれない自分を、父親のもとで一人の雇い人といして雇ってもらうために、帰って行った放蕩息子も結構賢い人であります。

 しかし、父親に会ったらこういうふうに言おう、と計算してやってくる放蕩息子を遠くから見つけたときに、お父さんは走って行って抱き締めるのです。そして何も聞かずに、一番良い服を出してくれ、今日は一番良い牛をほふって食べよう、私の息子は死んでいたのに生き返ったからだ、そんなことまで言い出すのです。

 放蕩息子は目を白黒させたでしょう。お父さん、僕は死んでいないよ、生きているよ……。しかし、父親にとっては、死んでいた息子が生き返ったのと同じことでありました。

 

 今日の聖書箇所ではどうでしょうか。エサウにとってヤコブは、死んだものと同然だったのであります。自分が受けるべき祝福を計略によって奪い取って行ったヤコブ。もう会うこともない。どこで何をしているかわからない。もう死んだと同じだった、そのヤコブが帰ってきたのです。

 本当ならエサウの復讐が怖いはずでしょう。エサウだってそれはわかっていたと思います。けれども、ヤコブが帰ってきたというときに、それは帰ってきたヤコブと何か交渉して、過去のことをどうするかという計算をするのでなく、「走り寄って走ってきてヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。」

 ここには、ヤコブエサウの再会というものが、人間の思惑によることでは無くて、神様の導きによることだった、ということが、今日の聖書箇所の一番の背景にあるものだと私は思います。

 エサウヤコブの真っ二つに切れてしまった関係、もう取り返しの付かない関係、心の傷を抱えたエサウ、そして逃亡するヤコブ、その二人がもう一度出会うのは、人間的な思惑ではなく、ただ神様の御心がそうであったから、ということなのであります。

 

 放蕩息子の話も同じです。こうして考えていくと、旧約聖書の話と新約聖書の話は、はるかに時代が隔たっていても、その間につながりを見出すことができるのですね。全然違う話なんだけれども、つながっている所がある。そのことを私たちが知るとき、聖書は豊かなものであって、時空を超えて聖書の物語の中で、物語同士の間で何かの対話がなされているかのような不思議な思いになることがあります。

 そして放蕩息子の話がはイエス様が話されたたとえ話であったように、今日のエサウヤコブはの再会の話もまた、ここにはイエス様が登場しないのでありますけれども、いや、ここにイエス様がおられるのではないか。エサウにもヤコブにもイエス様が共にいて下さったのではないか。それは神様の御心を伝えて下さる、目に見えない存在としてのイエス様が、エサウにもヤコブにも共にいたのではないか、と思うのです。

 そして私たちは、今日の聖書箇所からさらに大きな学びをすることができます。それは、こうしてエサウヤコブが出会うこと、それはいま私たち一人ひとりが神様と出会うということ、そのことを今日の箇所から学ぶことができるのです。私たちの一人ひとりが神様の前で罪を犯して、神様の御心にかなわない生き方をいしてきた、その罪を負って生きています。

 しかし、そんな私たちを神様は招いて下さっているのです。その招きに応える私たち一人ひとりが、どんな人間だったとしても、どんなに、もはや神様の御顔を仰いだりすることができないような人間、そんなふうに思えたとしても、しかしそれでも神様は、招いていて下さる。そのことを今日の箇所から知るのであります。

 お祈りをいたします。
 天の神様、私たち一人ひとりが自分自身の生き方を持っており、そしてその生き方がときとして他者と衝突し、場合によっては家族や大切な人との間ですら衝突が起こり、大変なこともあります。また、世界を見るときに、国と国が、地域と地域が、宗教と宗教が、民族と民族が、ぶつりかりあい、対立しあい、本当に悲しい出来事が日々起こっています。そのような神様ご自身が、独り子イエス様を私たちに下さり、その御子を犠牲にすることによって私たちの罪をゆるし、世界のまことの平和を賜って下さることを、聖書から教えられています。私たち一人一人、それぞれの場にあって、何らかの犠牲を払いながら生きています。その中にあって、決して許されない罪人であったとしても、ただ神様の招きによって神様を信じて、神様の愛に包まれてゆるされて生きることができますように。そして、そのことが神様との和解となり、人と人との和解となりますように、心より願います。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお献げいたします。
 アーメン。