京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

7月12日(日)のこと

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              <きょうほく・きょうかい>

「虹の架かる教会」京北教会ブログ

2015.7.12

 「7月12()のこと

 
本日の記事は、

この下の、数枚の写真の後にありますので、

ずっと下方にスクロールしてご覧下さい。
 

 
 以下は、過去(2010)のブログを読むときに便利な方法
 (パソコンで見る場合のみです。スマートフォンでは表示されません)
 
 ブログの右の欄の「ここ2ヶ月のブログ」という文字を、
 クリックすると最近の約2ヶ月分のブログが出てきます。
 
 右欄の中にある、「教会の四季や日常の歩み」「説教の断片など」
 「クリスマスシーズン」「京都教区の諸教会などへの訪問記」、
 などの各項目の文字をクリックすると、過去のブログを、
 それらのテーマ別に分けて読むことができます。
 
 右欄の、項目の最上段の、緑の字の「すべて表示」を、
 クリックすると、今までの全てのブログを順番に読むことができます。
 
 上記の仕方で開いたときに、ブログ欄外の上のほうに、
 赤く小さい字で「リスト」とあります。この文字をクリックすると、
 記事の一覧表が出ます。
 
 右欄のカレンダーの、年と月の表示の左右の三角印をクリックすると、
 年月を移動させて検索することができます。カレンダーの中で赤文字の
 日付けがブログ作成の日で、これをクリックするとその日のブログが、
 表示されます。
 
 

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日本キリスト教団 京北(きょうほく)教会
 
京都市 左京区 下鴨 神殿町 17-3
 
京都市地下鉄「北山」駅を下車、徒歩約7
 
 
京北教会のホームページを、
 
ブログとは別に作っていますので、
 
よろしければ、どうぞご覧下さい!
 
 
ホームページのアドレス
 
 
 


 
 
 

 
 
 
 
本日のブログはここからです。
 
「7月12日()のこと
 








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ふと庭に出ると、夏ミカンの樹に、

小さな実がなっていました。

いつのまに?


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いまから実をつけて、秋にはだいだい色になります。

来年の1月末の収穫まで、ならせておきます。


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さんさんと陽が照るなかで、ぐんぐん育っているようです。



それにしても、気候が一気に暑くなりましたね!






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暑さのなかで、アジサイの季節も終わります。

いままで咲いてくれてありがとう──

ふと、そう思いました。




自然の移り変わりを見ていると、

先のものが、あとのものに、

季節を表す役目を、

バトンタッチしているようにも思えます。



精一杯のことをして、

あとは自然のなかに帰っていくかのようです。



人間もきっと、そういう面があるでしょう。










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  2015年 7月12日(日) 京北教会 聖日礼拝


 聖書 コリントの信徒への手紙1 7章 17〜24節
 
 説教 「キリストにある人々」

 讃美歌21 208「来る朝ごとに」

       57「ガリラヤの風かおる丘で」

       120「主はわがかいぬし」



 礼拝出席者数 27名
 
   今日は初めての方がお一人来られました。
 
   歓迎です。またいらしてください。



 礼拝後 ・お茶と祈りのとき


  先週に天に召されたOさんのこと、 
  
  入院中の方々のこと、などなど、

  個人消息や教会の今後のことなど、

  祈りの課題を挙げて、3人の有志の方々に、

  祈っていただきました。


  おさなごをかかえたお母様にも、

  祈っていただきました。

  周囲の助力を得て。


  みんなで祈るひとときを、これからも大事にしたいです。








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白い花はアフリカハマユウ

紫の花はアガパンサス


活けていただき感謝です。







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 週報掲載 <宣教のことば>




 「あなたがたは身代金を払って買い取られたのです

人の奴隷となってはいけません。」


            コリントの信徒への手紙1 7章 23節



 

 ここで、「身代金」という言葉で表現されているのは、

 主イエス・キリストの命のことです。

 キリストが人の罪を背負って十字架で死なれたことが、

 人の罪の贖い(あがない)であると示す、

 たとえの言葉です。


 あがないとは、

 そのものではない何か別のものと引き替えに、

 そのものを得るということです。


 ここでは、人が自分自身ではなく、

 キリストの命によって救われて、

 自分自身を正しく得るということを指しています。


 そして、

 そのキリストへの信仰のゆえに救われて、

 あらゆる罪から解放されて自由になったのだから、

 人に所有されて、

 人を主とする生き方であってはならないのです。


 それは、

 キリストの命を通して示される、

 神の愛によって生きることから離れ、

 ふたたび自分を見失ってしまうことだからです。


 そうであってはなりません。


 だから、信仰は、

 自分自身の尊厳を取り戻す闘いとも言えます。

 神の愛によって、自らの尊厳が取り戻されるための、

 一人ひとりの闘いです。












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庭に咲く白い花。





何気なく教会の庭の写真を撮っても、

どうしてだか南国の景色のように見えたりします。


いつのまにか、暑い夏がやってきました。



みなさま、ご健康に注意してお過ごしください。

まずは水分補給をしっかりと。