京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

6月21日(日)のこと

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             <きょうほく・きょうかい>

「虹の架かる教会」京北教会ブログ

2015.6.21

 「6月21()のこと

 
本日の記事は、

この下の、数枚の写真の後にありますので、

ずっと下方にスクロールしてご覧下さい。
 

 
 以下は、過去(2010)のブログを読むときに便利な方法
 (パソコンで見る場合のみです。スマートフォンでは表示されません)
 
 ブログの右の欄の「ここ2ヶ月のブログ」という文字を、
 クリックすると最近の約2ヶ月分のブログが出てきます。
 
 右欄の中にある、「教会の四季や日常の歩み」「説教の断片など」
 「クリスマスシーズン」「京都教区の諸教会などへの訪問記」、
 などの各項目の文字をクリックすると、過去のブログを、
 それらのテーマ別に分けて読むことができます。
 
 右欄の、項目の最上段の、緑の字の「すべて表示」を、
 クリックすると、今までの全てのブログを順番に読むことができます。
 
 上記の仕方で開いたときに、ブログ欄外の上のほうに、
 赤く小さい字で「リスト」とあります。この文字をクリックすると、
 記事の一覧表が出ます。
 
 右欄のカレンダーの、年と月の表示の左右の三角印をクリックすると、
 年月を移動させて検索することができます。カレンダーの中で赤文字の
 日付けがブログ作成の日で、これをクリックするとその日のブログが、
 表示されます。
 
 

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日本キリスト教団 京北(きょうほく)教会
 
京都市 左京区 下鴨 神殿町 17-3
 
京都市地下鉄「北山」駅を下車、徒歩約7
 
 
京北教会のホームページを、
 
ブログとは別に作っていますので、
 
よろしければ、どうぞご覧下さい!
 
 
ホームページのアドレス
 
 
 


 
 
 

 
 
 
 
本日のブログはここからです。
 
「6月21日()のこと
 








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教会の門柱の表札が綺麗にされて、

離れたところからでも名が読めるようになりました。


銅板の古い表札を、

特殊加工で文字を磨き、

周囲を黒くしました。


ご近所のOさんが申し出られて、

この作業をしてくださいました。

感謝いたします。ありがとうございました。


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改修工事に関連して、

教会のあちこちが綺麗になるのは、

うれしいことですね。








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 2015年 6月21日(日) 京北教会 聖日礼拝


 聖書 コリントの信徒への手紙1 5章 4〜8節
 
 説教 「泥の中で」

 讃美歌21 361「この世はみな」

       458「信仰こそ旅路を」

       483「わが主イェスよ」



 礼拝出席者数 27名



 礼拝後 ・軽食

     ・教会修養会(軽食後〜2時)20名参加


     修養会のテーマは、

    「死と葬儀について学び、感謝をもって備える」。


     牧師の話を聞いて、語り合いのときを持ちました。

     聖書の話と、実際の葬儀に関する準備、心構えなど。

     人それぞれにいろんな思いや経験がある、

     人の死と葬儀というテーマについて、

     あらためて考えてみる機会になったのではと思います。

    
     修養会といっても、何か特別なことではなく、

     要は、牧師の話を聞いて、みんなで語り合った、

     ということです。

     こんな時間を持てることを、幸いに思います。

     なかなか、普段はこんな話はしにくいですから。



     
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週報掲載 <宣教のことば>




 「いつも新しい練り粉のままでいられるように、

  古いパン種を取り除きなさい。

  現に、あなたがたは、パン種の入っていない者なのです。」


            コリントの信徒への手紙1 5章7節




 これは、パン種(酵母)と練り粉(パンの小麦粉)にたとえて、

 横柄な信仰に基づく悪い生活のあり方を、

 自分たちの間から取り除くように教えている箇所です。

 悪は、パン種のように、小さくても全体に影響を、

 大きく与えるものだからです。


 しかし、わたしたちの日常生活や人間関係の間から、

 悪を排除することは、とても難しいことです。


 なぜなら、悪を排除することが、

 もしも、悪を行う人間を排除することなのであれば、

 悪しき人間には、教会の救いは届かないのか?

 教会は人を排除するところなのか?

 そういう自問自答が生まれてくるからです。

 
 誰も、「聖書に書いてあるから」といって、

 単純に正義を振り回すわけにはいかないでしょう。


 使徒パウロはここで、悪しき人を排除する理由を、

 「それは主の日に彼の霊が救われるためです。」(5節)

 そう語っています。


 その、悪しき人が神様によって救われるために、

 教会としては、その人から距離を置く、

 それができる教会になることを勧めています。


 単なる「潔癖(けっぺき)」ではなく、

 人の救いのために、

 熟考すること──。


 教会はそうありたいです。


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