京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

8月5日(日)のこと

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   教会庭の東端に咲く、むくげ(木槿、無窮花)。
 
 毎年咲くが、場所が目立たず、外を向いて咲くので、
 ほとんど人の目に触れていないのではないだろうか。

 教会の隣のコインパーキング場の中からは見えます。




 聖書 ルカによる福音書 9章 46~56節
 説教 「平和をいただく夏」
 讃美歌21   425「こすずめもくじらも」
       482「わが主イエスいとうるわし」
       483「わが主イエスよ、ひたすら」
 
 出席者数 23名

 礼拝後 ・軽食
     ・第一回バザー委員会

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 今日はハヤシライスとサラダ。しっかり栄養とらせていただきました。
 暑い中、おいしい昼食をご用意いただき、ありがとうございました。



 今日は、教会の遠方在住の方や療養中の方々などに、
 暑中見舞いのハガキをみんなで書きました。

 枚数が多いので来週も引き続き書きます。
 下の写真は暑中見舞いの手作りカードに用いた写真。
 教会庭のアジサイ

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 カードの印刷、皆様のサイン、どうもありがとうございました。



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昼食の後に、第一回バザー委員会を開きました。

 今年の教会バザーは10月28日(日)正午~2時。
 出品(食品、手芸品、物品)や、役割分担などを話し合いました。

 やはりバザーは手がかかるので、
 楽にできるわけではありません。

 けれども、「さあ、今年もやろう」と、
 お互いに声をかけあって準備を始めます。

 いろいろな方が教会を訪れる機会となることを願って。



 下の写真は昨年のバザーでの焼きそば作り。
 小雨の日で、テントを張った中では煙がこもり、
 もうもうたる煙の中で、たくさん焼いていただきました。感謝です。

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 この大きな鉄板で焼く、おいしい焼きそばを、
 楽しみにして、バザーに来られる方がたくさんおられます。

 今年も、どうぞ皆様いらしてください。

 今年のバザーは、10月28日(日)正午~2時からです。
 よろしければ、10時30分からの礼拝にもどうぞ。
 そして、さらによろしければ、バザーをお手伝いください!




 その他、教会の近況…

 8月6~11日にかけて、
 教会の集会室トイレの改修工事をいたします。

 さっそく始まりました。

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 暑い中、業者の方々、ご苦労様、お疲れ様です。
 ありがとうございます。




 

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 教会庭の、無窮花(むくげ)の右側には、
 夏ミカンの実が、まだ小さいながらも、
 少しずつ大きくなってきています。




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 むくげとは、どのような花かを知るために、以下、引用します。
 
 
  京北教会創立75周年記念 教会史 
 「京のある教会の歩み ──京南・京北教会史──」
              (土肥昭夫 著 京北教会 発行 1984年)

  本文冒頭の「本書を読む人のために」の中から、
  以下、引用。(ページⅸの9行目途中から)

 「その意味では、京南・京北教会は、多少の例外はあるが、信徒たちの働きが重要な役割を果たすことになった。助教会から自給教会になるにしたがって、この傾向はますます強くなっていった。
 ところで、その信徒たちの働きであるが、講義所時代より戦時中までずっとこの教会のために尽力した松浦勇太郎のような人もあったが、やはりさまざまな状況や事情の変化にともなって、その交替が起こっている。木槿(むくげ)という木がある。真夏から秋にかけて、薄紅色の花が咲く。一つの花がしぼむと、他の花がかわって咲き、それがずっと続く。朝鮮の人たちは、この花をこよなく愛し、『無窮花』と書き、その滅びない生命に朝鮮民族の歴史をみ、その将来を確信した。京南・京北教会の足どりを見ても、その事を思わずにはいられない。伝道者、牧師の交替に加えて、信徒たちも転居・死亡、その他の理由で教会を去っていく。しかし、それで教会の生命は枯渇しない。必ず、誰かがあらわれ、その後をうけて、ふんばっていく。京南・京北教会はそういった人たちによってささえられ、今日におよんでいる。そのあとをたどることによって、『無窮花』にも似た教会の生命のしたたかさを明らかにすることも、本書の重要な課題であった。」

 以上は、長く同志社大学神学部教授を務められて、
 2008年に御逝去なされた土肥昭夫先生の1984年の文章です。
 京北教会に礼拝出席され、ときに礼拝説教を担当してくださった方です。
 葬儀も京北教会で行われました。


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 京北教会の、京南教会時代以前からの歩みを記すものとして、
 教会が土肥先生に執筆を委託して完成した、
 創立75周年記念史『京のある教会の歩み』(非売品)は、
 はるか昔に頒布終了しており、現在は入手できません。

 しかし、この『京のある教会の歩み』は、近年になって、
 誤字・誤記の訂正をパートナーの土肥淳子さんがなされたうえで、
 土肥昭夫先生(2008年御逝去)の著書として新しく纏められて、
 出版された『各個教会史をどう書くか──資料収集から叙述まで』
 (2010 教文館) の中に、土肥先生の教会史執筆の「実例」として、
 完全な形で収録されていますので、
 今も新しく購入して読むことができるのです。 

 土肥先生の文章中に、むくげについて書いてあったことを思い出し、
 ここに引用させていただきました。
 かつての教会史作成、また新規の出版に携われた、
 全ての皆様に、感謝申しあげます。
 ありがとうございました。
 



 
 ──本日の週報の「宣教のことば」欄より──



 8月の第1日曜は、日本キリスト教団の暦では、

 「平和聖日」と制定されています。



 教会の立場から戦争の問題を考えるとき、どうしても、

 人の心の荒廃という問題を考えざるをえません。

 いかに正しい目的を持った戦争であっても、

 人の心を荒廃させていくのではないでしょうか。


 そこに、国際政治や法の問題とは別に、

 教会には教会として扱うべき問題があるように思えます。


 イエスの弟子たちは、自分たちの中で、

 誰が一番偉いかを議論しました。

 それは、誰が最も正しく生きているか、

 という問いでもあったでしょう。


 しかし、その問いは弟子たちの心を荒廃させていたようです。



 誰が一番正しいか──。

 聖書が教えているのは、

 「正しい人はいない、一人もいない」(ローマの信徒への手紙3:10)

 ──ということです。



 神の前では誰も正しくはない。

 ただ神からの「法外」なプレゼントとして、

 人が、ゆえなく義とされて、

 神と人とが、また人と人とが、

 共に生きる道が備えられているのです。  



 神が人にとって「法外」な方であるゆえに、

 神は人をお救いくださっているのです。


 この救いを土台として平和を望みましょう。







イメージ 9                          (教会庭のサルスベリ)


ふー、暑い。


みなさま、時節柄、どうぞご自愛ください。
くれぐれもご無理はなさらずに…。


一歩ずつ、前に行きましょう。



「行きなさい。私はあなたがたを遣わす。」