京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

イースター(復活日)礼拝と洗礼式(2012)



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 からっぼのカゴ。
 さて、何が入っていたでしょう?

 命を象徴するものとしての卵。
 卵をゆでて、きれいにラップして飾ったものを、
 みんなに配るのが、イースターの習慣。
 配り終えたあと、カゴは空っぽに。

 空っぽのカゴの中に卵を探すことはない。

 今日は、教会の暦で、イースター(復活日)の日。
 イエス・キリストのご復活の物語を通して、
 私たちは、神様から恵みをいただく。
 日々を生きる力となるように祈りつつ…。

 「あの方はここにはおられない、復活なさったのだ。」
         (ルカによる福音書 24章 1~12節)



 
 先週日曜日の夕刻、礼拝堂に、つぼみで生けていたユリ。
 その内の一つのつぼみが今日開いて、花が咲いた。
 
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   どのユリも、同じようには開かない。
 
 その花にとっての「とき」が来たときに、咲く。





 2012年 4月8日(日) 
 京北教会 イースター(復活日)聖日礼拝

 聖書 ルカによる福音書 24章1~12節
 説教 「たわごと、その中に」

 讃美歌21 211「朝風静かに吹きて」
       430「扉の外に」
       575「球根の中には」
       81「主の食卓を囲み」

  洗礼式(1名)
  聖餐式

 出席者数 34名

 礼拝後  受洗者歓迎のお茶会

 この日のために、ある方が、自宅でリンゴケーキを焼いてくださった。
 礼拝に来たかったけれども、足腰の調子のために、医師から外出を控えるよう指示されたために、来ることを断念されて、ケーキに思いをこめてくださった。ありがとうございました。リンゴが爽やかで、とてもきれいな味のケーキでした。それ以外にも、お菓子の差し入れをいただき、誠にありがとうございました。みんなでいただきました。
  
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この日は、遠方からの方、久しぶりの方、病後の静養期の中で久しぶりに来ることのできた方、初めて教会の礼拝に来られたご家族、等々の、みんなでお茶をしました。
 洗礼を受けられた方への歓迎と励ましの言葉、ご本人からのご挨拶、ゲストの方からのお話、などなど、あっという間に時間が過ぎました。最後に、教会から受洗者にプレゼントをお渡しして、二人の方にお祈りをしていただいて、お茶会をお開きにしました。
 今日礼拝に来られた皆様、一緒にお茶をしました皆様、感謝です。

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  お茶会の最後に、プレゼントと共に、花束をお渡しした。
 
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 今日は 良い日 でした!

 神様が共にいらっしゃるならば
 いつも 良い日 であるのかもしれないけれども
 良いとは思えない日も 実際には
 いろいろあったりして ムズムズと
 自分をうらんだり 誰かをうらんだり
 神と呼ばれている何かの存在をうらんだりも
 生身の人間であるゆえに 
 たくさんたくさん 
 してしまうのだけれども

 今日は イースター
 
 感謝あるのみ。



 
 下鴨散歩の記  

 2012年 4月4日(水) 教会から自転車で10分ほどのところ。

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 何の花でしょう?

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 旧約聖書の1955年版口語訳では「あめんどう」と訳されている木の花。
 そのころは日本では知られていない植物だったので、そう訳された。


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 アーモンド!

 それは半世紀前には「あめんどう」と訳されていた。
 アーモンド・チョコレートの発売は、その後だったのかな?
 

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 青空をバックに、美しく咲いていました。

 場所は、下鴨本通北大路通りの交差点から、北上して、
 道路東側の「ゆう薬局」のカドを疎水にそって東へ曲がり、
 桜並木を見ながら、ず───っと東へ行き、
 その道が高野川に突き当たる少し手前の、
 ある駐車場の中に植えられています。
 アーモンドという名を記した、木の札が付けられています。

 駐車場の所有者の方、また、
 木のお世話をしておられる方に感謝です。
 説明書きが無ければ、多くの人にとっては、
 アーモンドとは、わからないかもしれません。

 桜の花に似た、美しい春の花。
 春が来たことを知らせる自然の音信が、
 私たちのすぐそばに来ている。
 イエスの時代も、私たちの時代も、
 そのことは変わらない。





 2012年 4月8日(日)京北教会 
 イースター(復活日)聖日礼拝 説教

 聖書 ルカによる福音書 24章1~12節

 「…婦人たちは、これらのことを使徒たちに話したが、
  使徒たちは、これらの話が たわごとのように思えたので、
  婦人たちを信じなかった。…」

 説教題 「たわごと、その中に」


 今日の聖書箇所に記されていることは、
 イエスが十字架で死なれた三日の後に、
 香料をなきがらに塗るために墓に行くと、
 墓が空っぽだったということです。
 そして、「あの方は、ここにはおられない、
 復活なさったのだ」という、言葉を、
 女性たちは聴いたのです。
 
 もう変わるはずのない人生の最大の節目、
 死というものの存在を確証するものが、
 そこには無かった。
 代わりに、そこには、復活という言葉があった。
 
 聖書の言葉は、しばしば、このような物語を通して、
 私たちを不思議な思いにさせます。
 当然そこにあるはずのものがない、
 ということによって、
 私たちの心を、一瞬真っ白にしてしまいます。

 それは、当然そこにあるはずの、悲しみの根源が、
 見つからなくなってしまうということです。
 …悲しみの根源は、どこへ行った?

 
 東日本大震災の被害は甚大であり、復興の道はいまだ険しく、
 その目処もついていないと報道されています。
 数え切れない人の涙が流され、今も流され続けていると思うと、
 遠方にいる私たちはなにも言えなくなります。
 震災の現実を前にして、
 どこに神がいるのかと、
 私たちは意気消沈します。

 けれども、私たちはそこで、
 現在起こり続けている不幸から、
 決して、目をそらしてはいけないのと同じほど、
 現在起こり続けている幸福からも、
 目をそらしてはいけないのです。

 震災の中で九死に一生を得た方々がいます。
 何もかも失った中で、それでも、
 生き続けようとしている人たちがおられます。

 あるはずの悲しみを越えて、家族の絆を深め、
 亡くなられた方たちへの哀悼の思いを強くし、
 そうして次の世代へと、
 人間が生きることの不幸と幸福、
 その両方を、余すことなく、
 語り継ごうとしている人たちがいます。

 その人たちの中に、幸福があることを、
 決して否定してはならないのです。
 
 
 
 イエス・キリストが十字架で死なれたとき、
 そこには幸福は一つも無く、不幸しかありませんでした。

 だから、イエスは神から見捨てられた人だと、
 群衆は思ったのです。

 神様、それは幸福をくださる方なのだから、
 不幸しかないところには、
 神がいるはずがないのだと思うのは、
 人の心の自然な流れです。

 ところが、聖書の物語は、そのような…
 私たちの心の自然な流れに竿さして、
 流れをとめるかのようにして、
 私たちの心の中に、一瞬の空白を作り出します。

 イエスの死の三日の後に墓に行った女性たちが、
 からっぽの墓に出会ったときのようにです。
 
 そして、その一瞬の空白の中で、
 神の言葉が「在る」のです。

 あの方はここにはおられない、復活なされたのだ、と。
 
 聖書においては、
 神の御心が人の心に差し込んだときに、
 何が起こるかということが記されています。
 
 心に、一瞬の空白が生まれます。
 その空白に、神の言葉が届きます。
 その言葉の響きが、人の生き方を変えます。

 それゆえに、その人は一生懸命に、
 神様が自分に何をしてくださったのかを人に語ります。
 ところが…

 いくら人に言っても、それは聞く人たちからは、
 「たわごと」にしか聞こえません。
 今日の聖書の物語に登場するように、
 女性達が一生懸命に語った言葉が、
 使徒たちにとっては、
 「たわごとのように思われたので」と、
 記されているがごとく…。

 たわごと。
 それは馬鹿馬鹿しい言葉、ふざけた言葉。
 正しさを証明することのできない言葉。
 たわごとは「戯言」と書きます。
 たわごとにつきあっている暇はありません。

 にもかかわらず、愛はしばしば「たわごと」の形をとるのです。

 神は愛であって、知識ではありません
 
 聖書も愛であって、知識ではありません。

 聖書の「たわごと」が、私たちの心に、一瞬の空白を作ります。
 
 その空白においてでしか、知ることのできない愛情があるのです。

 いつか、自分の悲しみの根源を探しても、
 どこにも見つからないというときがやってきます。
 自分の悲しみが、いつか、からっぼになっていることに気づきます。
 神によってあなたの心が死から復活へと変えられたときであります。
 


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